「実体経済主義」資本主義も社会主義も結局は少数が多数を支配するための隠れみのだったんじゃないの? | 結局、愚痴のはきだめ

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非公開ブログを目指していたけど…挫折。


こういう一見バカバカしい立論ってのは、たぶん経済の専門家先生は逆立ちしてもできない(というよりそんな恥かしい暴論は専門家の矜持にかけて絶対ぶつことはできないってことでしょうけどね…)はずなので、

あえてど素人である僕がそういうことをやることの必然性はあるかと思いました。

9割9分9厘「初見の印象どおり、いくら吟味しても観るべきところのない、バカバカしいだけの内容だった」ということになるオチがつくのだろうことは想定の上で、

あえてトリックスター的なやくわりをこの記事では(勝手に)買って出て思考の拡散を実演してみたいと思ったってわけです。

トリックスターとは場をかき乱すキャラクターのことらしく、そのキャラが自力・単独でなにか正解とか最終結論とかを直接出すわけではないようなのですが、

場の停滞に揺さぶりをかける感じで、やや暴力的ながらも、事の進展を促す効果をもつ「触媒」みたいなものらしいです。

下手の鉄砲かずうちゃあたる、とかいうことわざがあるようですが、僕の今日の記事も「社会で暴発する多数の弾のうちの下手の一発」になれれば、まぁ「数の母数の一部」になるはずなわけで、

停滞しているようにしかおもえない日本の経済むけての政策論での「集合知のアプローチ」における「大群のうちのザコ一匹」にでもなれたらというつもりでいこうと思うわけです。

僕みたいな無謀で果敢な素人がなした立論のどれかが、なにかしらの議論の進展のための材料として「ヒット(あたる)」ことになればそれでわるいともいえないことじゃないか、と予め自己弁護したいと思います。

ひとつではヒットにもならないかもしれないけど、他のだれかの立論との合わせ技で有効を勝ち得るかもしれない。

まぁ、そんな「個々人のやっていることはゆるいけども、束になれば…ね!」とういような分散的な知の営みを念頭におくのも、あながち時代をよみ間違えてはいないようにも思います。

そういうところを狙うつもりで、ド素人の拡散思考をやるというのが今回の記事の目論見ですので、そのへんのところをあらかじめご理解いただいたうえで読んでもらえればと思います。


---【本題】-----------------------------

資本主義と社会主義というのが80年代くらいまでの政治体制における二大思想だったようです。

80年代の後半あたりから、ソ連のくもゆきがあやしくなってきて、90年代にはいってしばらくして結局は崩壊してしまうことになって以降は、

「(政治経済的な)歴史の展開はすでに終わった。あとは資本主義が永遠に続くはずだ」とかいう「歴史の終わり論」みたいなものさえ脚光を浴びるという時代にはいり

「もはや資本主義しかない」という空気はそれ以降、先進諸国の基本線になってきたといってよさそうです。

でも、ソ連崩壊以降、ますます「金こそが世界の回転の中心」といわんばかりの金権支配の増長が、ぼくら庶民を経済的にじりじりと抑圧していくという流れにおかれるにつけ、

いち庶民としての僕はそういう生活者としての実感をふまえると「資本主義って自由主義ヅラしているけど、現実やってることは、そうでもなくないか?」というマルクス先生の時代以来の疑念が僕のなかで再燃してきたんですよね。

とはいえ、冷戦やソ連崩壊後ますますあきらかになった社会主義の庶民抑圧の事実や、また日本での社会主義者・共産主義者の一部が起こした一部の過激な暴力・破壊行為などの過去の事実をふまえると、

時代経験的に現代人としての僕は「資本主義を消去法でけすので、残った肢である社会主義を選びます」というふうなおもいきった判断もできなかったわけですよ。

そういう「なんだかなぁ」という宙ぶらりんの状態にいるような感じがしていたのが長く続いたのですが、最近ふと思ったのは

「そもそも“資本主義か社会主義者か”という二択ないし二項対立に問題を限定することに必然性はあるのか?僕らはこの問題設定にフレーミングされることで何か大事なとこを見落としたまま思考をミスリードされてきたんじゃないか?」

ってなところであったわけです。

なにしろ現代を生きる一庶民の僕の目には「資本主義的な観念に基づいた企業の動きや、政府の施策が、むしろ実体経済の活力・活性を助けるどころか、むしろ実体経済を不当に毀損したりしているようにしか思えない」というような事柄がいくつも生じているように思えて仕方がなくなってきたんですよね。

つまり、いってみれば「資本至上主義VS実体経済主義」というような、これまで教科書で教わったパラダイムでは「ナンセンスだ」として一顧だにされないだろう別の構図が僕のなかで浮かび上がってきたわけです。

さすがにこれでは字面的にもナンセンス臭がプンプンしすぎてきびしいところがあるので、説明のためにも「資本至上主義」というものを思い切ってここでは「金融(金めぐり)至上主義」といいかえさせてください。

もちろん経済学的には「資本」というのは「お金そのものとうよりは生産手段・生産設備のことである」というのは僕も読んだことがあります。

なので経済学的にいえばこの言い換えは「きべんにちかい」と一蹴されかねないものだろうとも思うわけです。

ですが、強引ではありますが、今回の僕の立論の説明の便宜上、とりあえずこの僕の「強引な言い換え」にのってもらいたいわけです、なにしろ僕の思考はそういうふうに流れたので、

それをそのまま表現しないと僕の今回の立論をまともにお伝えできそうもない…。

あるていどの数の方には「なるほど最初は詭弁だとおもったけど、その立論はたしかに現実の経済現象に接地しているなぁ」と理解してもらえるのではという期待も僕にはあるってことでもあります。

えー、ともかく僕はそこで現下の資本主義というものに対抗するものとして「実体経済主義」という言葉を着想したわけですが、

その意図をより簡単にいえば次のようなことです。

「金のめぐりというものは本来、実体経済の健全さや成長に貢献することにその存在意義があるはずだ。それはただの観念的なべき論というより、もしその関係が逆転してしまっていて“金のめぐりこそが実体経済に優越し、それが実体経済のあり方を指図する”とかいう倒錯した状態になっているのであれば、そんなシステムは、それによって不利益を被る多数の人民による反対票によって廃されるべき運命のものでしかない。そのような、背理法的なプロセスを経てでも結局は、否定されることになるしかないはずのものである。」

さらにこのことを短くフレーズ的にいいかえると

「金のめぐりは、あくまで実体経済の部下でなければならず。決して実体経済のボス(上司)であってはならないはずだ」

みたいなことであるわけです。

そして、現実に今の世界でネオリベラリズムのやっていることを僕は「金めぐり至上主義の実践」だとしか思えません。

彼らネオリベラリスト達は自分のことを「資本主義の一派」と自己理解しているのかは知りませんが、まぁ社会主義ではないことは明らかだろうということこからすると、さっきの伝統的な二項対立にのっとって消去法でいえば「ネオリベラリズムは資本主義の一派」と把握したところで、多くの人にとって異論はない把握かと思います。

というわけで、少なくとも現在の政治経済思想の現実のプレゼンスという意味で圧倒的なものをもっているネオリベラリズムを「資本至上主義の現在における代表」とみなすのであれば、

僕がそれへのアンチテーゼ(対抗する考え)としてもちだしたいのが僕の造語であろうところの「実体経済主義」であるわけです。

そこでの発想というのは、さっきの内容をちょっと変えて繰り返すだけにはなりますが次のようなものです。

「お金のめぐりなどというものは、実体経済という主役にとっての黒子であるべきだし、そうでしかありえなくない?なのに、なんで黒子の方が主役の首根っこ捕まえて、いいように抑圧までしているの?これって立派な倒錯じゃない?」

僕らは「金融というものの驕り高ぶり加減」とそれによりもたらされている事実上の「人類(≠世界庶民)へ広く発揮される不条理な支配力」というものにもうちょっと意識をむけないといけないと思うわけです。

僕はそういう向きの警戒感をこそ叫びたいわけです。

ところでそういう向きの警戒感というものを、より実践的に、それを日本経済にあてはめてみると、たとえば次のような主張に帰着しうるかと思います。

〇 「このままでは日本国債への市場の信任があやうくなるから」とかいう“ゴリゴリの金融至上主義的な発想”を叫ぶ前に「日本の実体経済の潜在生産余力はいかほどか?また、それを最大限発揮させたり、将来的に伸ばすためのタネをどうまいていくか?」のほうを懸命に考えるべきだ。

 また、今のシステムのままではどうしても「海外投資家を中心とした日本国債への信任の毀損が、実際に日本の財政危機と経済危機をもたらす」という公算が高いというのであれば、それこそそういう「意味不明に金融に対して脆弱な現下のシステム」こそ喫緊の改革課題とすべきだ。

 なんなら、トランプさんみたいに「自国の実体経済のためなら、保護主義要素も上等、IMFとのいくぶんかのケンカも上等」というくらいの気合いをもって「金融に決して主導権をにぎらせはしないシステム」というものを実現していくような方策の検討をすべきだ。

 生産活動のために外国からの資金がどうしても必要な金欠の国ならまだしも、日本人の個人資産の溜め込み総額は世界トップランクらしいじゃないか。なら、金融的に事実上鎖国となっても他の国はいざしらず、日本ならそれがために破綻することもないという余地だってありそうじゃないか?

 なのに、なにを外国資本の顔色をうかがってビビッているんだ?なにかへんな奴に変な思想でもって洗脳でもされたのか?



〇 「金融を悪者のようにして叩くことは、お前の老後の生活の首を絞めることになるぞ?金融の多くの部分を各種の年金のための基金が占めていることをお前は知らんのか?」とかいう向きの主張にたいしては、

 「ん?そもそもなんで年金という金融サービスを利用することで老後資金をまかなうべきということになってるわけ?それこそ既存の資本主義の標準セットメニュー施策を無批判に受け入れたから老後の生活の資金は年金給付で賄うのが基本だ、ってなってるだけじゃないの?国の財政出動でそれをまかなうってのはありえないって勝手に思いこんでいるだけじゃないの?

 立派な論理みたいに言い張ってるけど、それって結論から出発して結論にもどっているだけの循環論法みたいなもんじゃないの?

 “国の責任では国民の老後の最低限の面倒を見ることはしません、資本主義とはそういうものなので老後資金確保のために金融システムを介さないといけないということについては、仕方のないことだとあきらめてください”とかまず決めちゃったからこそ年金という金融的サービス(ないしシステム)を利用せざるをえないという庶民の適応行為がひきだされているだけじゃないの?

 中国での僕と同じ階級である中国庶民の人達が「上に政策あれば下に対策あり」っていうようなこととそれは根本的には同じことなんじゃないの?

 たとえば、年金という掛け金ありきの金融サービスではなくて、一定以上の年齢に達したことによってあとは無条件にそれらの国民にベーシックな消費のための資金を国から毎月振り込むって施策をしたら、それは本当に資本主義にまっこうから反するというわけ?
 
 もし、それが資本主義という定義に反するといえるとしても実際にどうそれがどう社会を悪くするというの?そこを考えもしないで、既存の資本主義のデフォルトメニューを無批判に受け入れて、循環論法的な思考をしているだけのくせに“だから年金のためにも金融システムの存続が必要なんだ”とか正当化根拠のように主張するっていったいどういう次元の知的怠慢なの?」

ってな感じに僕は思うわけです。

ちなみに、以上の説明はどっちかというと「資本至上主義≒ネオリベ」に対抗するという構えのうえでの説明でしたが、

そういう思想的な仮想敵を横目で意識することなく、自律的・自足的に「実体経済主義」というものを表現させてもらうのであれば、たとえばこんなかんじだと思います。

「より多くの人が、のびのびと自分の能力を発揮して生産活動にいそしみ、またより多くの人が自分の選好のままにのびのびと財・サービスの消費を享受する」

みたいな感じです。

逆から言えば、僕は社会がそういう理想状態を目指すことを、今の「金回り至上主義」が「立派に妨害しているように思えてならない」ということであるわけです。

ところで、僕はとりあえずその「実体経済主義」というものを運営ないし擁護しうる有力な候補として「国家」を念頭においています。

ただし、まだ理論的にいって「なぜ国家単位である必要があるのか?グローバルではだめなのか?」という問いに僕はまともにこたえる用意がありません。

とりあえず言えるのは、現下のネオリベラリズムは金権グローバリズムの思想的バックボーンとなっているようで、両思想・実践はグルになって各国の実体経済に妨害とかの迷惑行為を働いていると僕には見えるということであるわけです。

「未来永劫、国家のみが実体経済をまともに守護しうるのだ」ということではないかもしれないけど、少なくても現在においてまともに実体経済を擁護しうるのは国家くらいだろうとしか思えないという現下の現実的な状況判断を込めた上での判断であるわけです。

未来には「実体経済をまともに擁護しうるグローバリズム(国境越境的な大きなシステム))」というのもないとはいえないかもしれないので、そのへんの理論的な検討はなおされるべきだし、されていいとは思います。

あくまで「国家は手段だ」というつもりでしかないので、僕のことをへんに曲解して「タコっすはどうやら国粋主義者らしい」とか誤解しないでもらいたいです。


えー、誰かにアピールしうるものか響くものかは、わからないなぁとか思いつつ書いてみたのですが、

少なくても「今の僕」にはアピールする内容なので、僕という一匹のホモ・サピエンスにおいてのバイオロギング(経験記録?)的なものとして、個人的な意義はあるかなって、くらいのところです。

もしかしたら、将来の僕が「あの記事は赤っ恥な無知丸出しの内容だった」とか顔から火を噴くいきおいで反省しているかもしれませんが、

まぁ、そうなったらそのとき目いっぱい恥かしがるしかないでしょうwww

いまから将来の恥を心配して縮こまっているだけよりは、まぁのびのび考えている方が生き方として得な気もしますしね。

では。