僕なりの「じぇねしす(世界発生譚)」~2024暫定版、固定は未定~ | 結局、愚痴のはきだめ

結局、愚痴のはきだめ

非公開ブログを目指していたけど…挫折。



そこには、形はなく、もやっとした闇だけがあった。

もやっとしていてつかみどころが全然ないのだけど、

ともかくそれは

「完全に充足したワンネス」(※1)ではあった。



しかし、あるとき、主(※2)は次のように言われた。

「痛みあれ」。



もやっとしたワンネスのうちから

「痛み」がもろもろの

「形・かたち」を切り出しはじめた。



ちなみに「光」とは別に特別なものではなく

ましてやすばらしいものでもなんでもなく(※3)

「痛み」というワンネスに向けられた

数ある切り出しのメスにうちの

最後発の道具ないし方法論・戦術であった(※4)。



最後発とは最新ということでもあり、

「最新かつ最災難な責苦の道具」ですらあったといえる。




主は「痛み」を産んでその存在意義を満たしえたので

あえてその手で直接「光」を産むなんてことはしなかった。

主はそれを直接産む機能を持ち合わせていないかった。



光とは「痛み」がその存在意義を満たすおつとめの過程で

生み出しただけの一要素だった。



ともかく「痛み」は

より複雑に「形・かたち」を産むべく

いろんな暴力的な手段・道具を編み出した。



そして、ギリシャの神話のあのお話のように

最期には「希望」を編み出した…。




とか「ゆるふわでエモい」ことも言いたいところだけど、

そうは問屋がおろさない。



「痛み」には「形・かたち」を産み続ける

という存在意義の内に充足しているので

それは「痛み」にとって「全くの管轄外の事柄」であった。

“アウトオブ眼中”だった。




というわけで「希望」とは

客体である「形・かたち」のうちの

「意識なるめいわくな最新の責苦」を

あてがわれた存在であるところの

ホモ・サピエンスが

自らの存在のなぐさめのために

妄想において編み出したものでしかなかった。




もしくは「痛み」を被りつづける客体が

痛みを被ることを最小化しようと動く傾向性

の「意識のおける反映・表現」でしかなかった。



そのようにしてついに「ワンネス」は

地質時代区分でいうところの更新世の後半あたりには

自分を表象し存在確認してくれる「他者」というべものを得ることになった。

つまり「世界」という形が「人間の意識の表」という場においてはじめて成立した。



しかし「ワンネス」はそれ(認識してくれる他者)を望んでいたのか?

いや、たぶん「ワンネス」とは「痛み」とは無縁の

完璧な自己充足なものであり、

そうである以上「ワンネス」には

「望む」という機能は付いてもいない。

ワンネスはそもそも「動詞」を従える主語の位置にはおさまりえない。




なので、さっき説明した「希望≒虚妄」と同じく

ワンネスにとって「望み」などという機能は

ただの「ナンセンス」でしかありえなかった。




「不足」が一ミリもないならばそこに「希望」は成立しえないが、

ワンネスはそもそも完全自己充足の有様のことなので

ワンネスが何かを望むということこそ

概念矛盾でしかないからね…。



というわけで、世間・世界とは虚仮(むなしい)ものであり、

未来永劫そうありつづけるしかないものであった。



えー、以上の

「ずっと昔からの当たり前のこと」を踏まえておけば、

へたに希望の炎を燃やすのもバカバカしいから

無駄な争いをする元気(蛮勇)がすり減るよね?



安定的な世界平和とはたぶんこういう「妄想ではなく事実の方に接地した、ウツ的ともいいうるような認識」からしか生まれない。


カント先生は「物自体は知りえない」という「ウツ認識」までたどりついたのはよかったけど、

そのあとなにを血迷ったか「私は理性の崇高さを信頼する」とかいう乗りを出してきて、ロマンチックな理論を別にこさえてしまった。(≒実践理性批判)

まぁ、時代的にいって、内面的にも社会的にも既存宗教とガチンコのケンカをする気にはなれなかったんだろうね。

後の時代の常識で過去の人を裁くのは「現代左派のトレードマークの悪ノリ」だと思うので、他山の石として自戒しておこう。



ともかく

みんながそれなりのレベルの「真実というウツ要素」を

共有しえたら、世界はそのぶん平和に近づく…

たぶん、ね。



めでたし、めでたし。




------(注釈)-----------------------


(※1):充足したワンネス

「充足したワンネス」だけが存在の名に値して、あとは虚妄という言いかえもできるかと思います。ただし、僕は一人のただの凡夫として、不変・普遍の存在であれば「ありがたい」とかおもう筋合いも別段感じないので、ワンネスがそのように破格の実在であると表現できるからとかいって「ワンネスこそ素晴らしい」とかも全然思えません。ただ生にまつわる責苦をなんとか回避したいだけです。人間だものぉ~(≒実存主義)。

 また「充足したワンネス」という認識は、たぶん古代インドのウパニシャッド哲学の「梵我一如」とも通底しているところだと思います。

 けどここでウパニシャッド哲学は「我(アートマン)」の実在と「凡(世界)」の実在をともに前提しているわけですが、この僕の記事では「我は痛みが生み出した幻想」で「世界も我という幻想が表象するまぼろし」という理解となるので「一如」という「ケンカしないでいい」という結論は同一ながらも、

その理屈が結構違うといえば違います。

ただ「ケンカすべきものではない」という点では共通しているので、結構近しい認識だとは思います。

僕は素人なので、専門家の先生に「おい、こりゃ!!でたらめいうな!」と怒られそうだとは思いますが、このウパニシャッド哲学における認識枠組みと僕の記事の認識枠組みの差異というのは、そのまままるっと「お釈迦様のてになる思索」に対応していると思われます。


(※2):主

 僕の考えではこの「主」というものはいいかえれば「遺伝子」です。まぁ、僕の考えというよりはドーキンス先生の提唱された「生物=遺伝子にとっての使い捨ての乗り物」という思索のただの受け売りですけどね。

 ちなみに、この記事本文では「客体」という言葉もしれっとつかっていますが、それはそのドーキンス先生の手になる命題にそった用語法であり、つまるところ「生物個体=遺伝子様というご主人にとっての客体」というようなニュアンスをこめているわけです。

 ところで、この「生物とは遺伝子の使い捨ての乗り物」というのは、視座は違うとはいえどこかしら「肉体は悪魔のもの」という観念をもつらしい「マニ教」と似通ったところがあるようです。

 もちろん、僕はドーキンス先生がマニ教に影響されてその理論をつくったのだろうとか、ヘンテコなことを言おうというつもりはありません。

 そして、僕もこの記事で「マニ教の言っていることが正しい」とか主張しているわけでももちろんありません。

 なにしろマニ教のその世界把握の構図を正しいとするならば「正なる神」もまた観念しないといけないはずなのですが、僕の上記のジェネシスにはそういうような役者は必要ないどころか、両立もしないからです。



(※3):光とはすばらしいものでもなんでもなく…

 これについてはロックバンドBUCK-TICKの櫻井さんが「細い線」という僕が心酔してやまない名曲において見事な表現の妙なるコンボをお決めになられています。

 バンド名と曲名でググったらすぐ歌詞がでてくると思うので、要チェックやで!!


(※4):数ある切り出しのメスにうちの最後発のものだった。

 地学的ないし生物史的な脈略でいえばそれは「エディアカラ期」のことです。目という器官が編み出されたことで、生物の進化は急加速されたといわれているそうです。さっきから説明しているように「生物は遺伝子様の使い捨ての乗り物」であるわけなので、このように生物進化が盛り上がるという契機とはつまり「生物個体へのご主人さまの虐待が苛烈を極める」という契機でもあったわけですね。「光こそが闇である」という真理はその「光の認識≒目の誕生」という故事にも裏書されたものといえそうです。


脚注も、以上でおわりです。