「民主主義-1.0」~民主主義の危機なのではなくて、なんちゃって民主主義が危機ってだけじゃない? | 結局、愚痴のはきだめ

結局、愚痴のはきだめ

非公開ブログを目指していたけど…挫折。


タイトル上でパラダイムシフトをぶち上げるかのような、ずいぶんな大風呂敷を広げてしまいましたが、お察しの通り、僕ていどの青二才にそんな大きなテーマを説得的に論じることなど到底できやしませんww

なので「いつかはちゃんと書こうと思ってるテーマ」というような「書く予定の記事」みたいな感じで、テーマのとっかかり程度のところだけを今日は書いてみたいと思うわけです。

できれば、ぼくより頭のいい人が可及的速やかに、そういう向きのテーマで立派な立論をこさえてくれたらとか思うわけです。

すでにそういう考えにたどりついている頭脳明晰な人がいるとして「あなたのその考えにはきっとちゃんと暗数ならがも大量の潜在的な同調者がいます。なので、あきらめずに書いてください。」というささやかな応援シグナルにでもなれればこの記事を書いた甲斐があるってなものなわけです。

まぁ、このブログなんて、ネットの底辺の片隅のブログでしかないので、広い大海原の波に小瓶に詰めたメッセージを託す、みたいな無謀な挙動なのだろう、とは思いますけどね。

前置きはこのへんにして、本題の着想の概要について以下説明していきます。

----【本題】----------------------------------


えー、近頃「民主主義の危機」みたいなイメージを引き合いに出す議論がマスメディアを中心にして結構見受けられるように思います。

けど、僕の考えでは、近代民主主義は「そもそもまだまともに始まってもいない」と思うわけです。

 

きくところによると僕がタイトルであやかった映画「ゴジラ-1.0」には、ゼロにもどす(もとにもどす)というレベルの復興すらままならないところでの「どでか生物襲来という国難」みたいなイメージが込められているようです。

 

また僕がここで「民主主義」に「-1.0」という言葉をくっつけた意図は「民主主義という名前に値するような及第点にすらまだ達していない」という「及第点以下」という切り出しであったわけです。

 

映画の字面タイトルからすると、この記事のそういう向きの内容との対応関係(アナロジー)はあまりきれいに整っていないわけですが、以上のタイトルにこめられたらしい「復興という視点での補助線」を踏まえれば、

 

つまり、タイトルでも映画でも主役を張っているキャラであるゴジラではなく、その物語の舞台ないし背景における焦点であるところの「復興というポイント」から表現しなおせば「復興-1.0」という内容だろうとも言いうるわけで、

 

そういうような理解の補助線をくわえるならば、僕がこの最新のゴジラ映画になぞらえて「民主主義-1.0。その心は今だに民主主義未満」というふうに表現していることを、素直に受けとってもらえるんじゃあないかと思います。

 

けっして言葉尻をとって「ゴジラ作品として-1.0、及第点未満」なんてことを言おうとしていないことはご理解ください。

 

まぁ、米アカデミーという権威から賞を獲得したという歴史的快挙をなしとげた、もはや「おしもおされもせぬゴジラ作品」について、僕みたいな無名のブロガーが大それたケチ付けるようなことを言おうとしているなんて誤解をする人もそうはいないとは思いますけどね。

 

えー、ゴジラの話に寄り道しすぎたようです。話を民主主義という本筋のところに戻します。


マスメディアの人達やら、アカデミズムの人達(ざっくりいって社会の認知空間のエリート層)は、自分たちがこそが民主主義システムの「中枢」を占めてきたのだ、というような自負もあったり、またそれにくっついた社会的地位という既得権もあったりという“ご都合”から

「既存の民主主義の危機≒社会そのものの危機」みたいなこ短絡をして、その危機を僕ら庶民に向けて絶叫しちゃうという動機づけがあるはずなわけですが、

(※ 僕が思うに、そもそも民主主義の情報・言論空間に「固定されたような中枢≒言論空間を牛耳るマスメディア」といったものが見出されるという現実については「そんな固定的な中枢があるなんてことこそ民主主義という看板にもとるようなアコギなあり様なんじゃあないのけ?」としか思えません。近代民主主義の二大源流の一つだと思われるイギリスは民主主義と一口にいっても政治学的にはよく「議会主権」とすら称されるような内実であったらしいので、厳密にいえばいみじくもルソー先生が指摘したように「庶民は選挙のときだけの一瞬だけの主権者」みたいなことだったみたいなわけですよ。そこをしてそもそも近代民主主義とか称しているものは「民主主義の名に値するものといっていいのか」という問いすら立派におこりうるものだとすら思うわけです。とはいえ、だからといって、僕は当たり前に何千万人規模の国民を有することになっている現代の諸国家においてルソー先生が重要視したらしい「直接民主主義」が可能なのかまでは、たとえインターネットが普及した現代とはいえ、まだ半信半疑なので、ルソー先生のイギリス議会主権に対するそのツッコミを額面通り受け入れるつもりもないのです。でもそういう人口ボリュームという事情のために「間接民主主義≒議会制民主主義」を採ることは、なお現代でも避けることはかなわないとしても、さすがに「情報発信がきわめて寡占的な状況」という言論空間における非分権的≒非民主的な状況は「さすがにその言論状況は正当化されえないだろう。民主主義を標ぼうする限り、そこはさすがに是正されないとおかしいはずだ」としか思えないというところであるわけです。)



僕ら庶民(非エリート)にとってはそんな「現下のなんちゃって民主主義なんてものの維持存続」にシビアな利益なんて本当は全くといっていいほどないはずなんですよね。

もちろん、エリート(≠庶民)層であるマスメディアやらアカデミズムに属する人達は「今の既存の“民主主義”が崩壊すると、それはただちに社会全体のディストピアを帰結するのだ」みたいなナラティブ(≒物語)を持ち出すわけですが、

本当は彼ら「少数のエリートの既得権においての危機でしかないもの」を、大げさに「社会大・世界大の危機」かのような大きなイメージに投影をして、それをもとに僕ら庶民に向けて、洗脳工作を善意ないし悪意でしかけてきているとしか思えない。

おそらく、今だに多くの同胞庶民が、エリートが叫ぶそういうナラティブにからめとられてしまって「民主主義という地平においてのめくらまし状態」にとめおかれてしまっている。

より噛み砕いていえば、マスメディアやらアカデミズム(=エリート層)が騒ぎ立てている「民主主義の危機」とか「分断の時代」とかいうイメージの内実とは、ありていにいえばつまり

「このまま“なんちゃって民主主義”を擁護しづづけたいエリート層以上の既得権集団」VS「インチキ民主主義のめくらましからすでに脱しえていて、今こそ本当の民主主義を始めようともがいている目覚めちゃった庶民たち」

というような構図でしかなんじゃないか?

これというのは、僕らの社会は今や「民主主義の危機」にさしかかっているどころか、

むしろ「長年のまやかし的に続いてきインチキ民主主義」を脱して、目覚めた庶民たちがなんとか「ガチの民主主義」に手をかけようという「ダイナミズムの最中」にあるってな見立てであるともいえそうです。

ただし、ちょっとここで僕のここまでの論調について注釈を加えさせてもらいたいのですが、僕が「ガチの民主主義」とか「本当の民主主義」みたいな言葉を用いているからといって、

それらの「本来的民主主義」なるものが実現すれば、ただちに何の工夫もいらずに「バラ色の社会を帰結する」なんてことは僕も全然思ってはいませんからね。

たしかに、今の「エリートがあまりに腐敗しまくって機能不全の色合いを濃くしていく社会」という傾向性を僕は全くいいことだとは思っていないので、

そういう「極まった社会腐敗」に対抗するためにも「ガチの民主主義の醸成」というものを「拮抗的にぶつけていきたい」と志向する人間であるわけです。

極論すれば「ただのタイミングの問題・循環論上の問題意識」とすら相対化しえるかもしれない。

ともかく、僕は状況判断的にそう言っているという部が濃厚にあるわけであって、決して民主主義の原理主義的なポジショニングにおいてそういっているわけではない。

僕は民主主義原理主義者というわけでもない。

この僕の姿勢ないし呼吸の塩梅というものを、経済政策になぞらえていえば、不景気には「積極財政」であるべきで、好景気には「緊縮財政」であるべきなわけで、

一概に固定的・永続的に「大きな政府がいいのだ」とか「小さな政府がいいのだ」とかいうのが「ミスリードがすぎる雑な問題設定」でしかないように、

「とにかく、民主主義の純度が高ければ高いほどいいのだ」とかいうのもまた、かなり雑な思考だろうと僕には思われるわけです。

濃度の濃い民主主義はかなりの高確率で「危険な独裁者」を生んでしまったというのは、近代以降の歴史の事実であるわけで、

僕は近代民主主義の盛り返し(ないし初めての成立)というものを今の状況においては熱をこめて支持しているわけですが、だからといって勢い余って民主主義の弱点である「独裁者を産みやすい傾向という弱点を無視してかまわない」とかまでは全然思わない。

もし「独裁を産むことが目に見えている」という未来予測が説得的に理解されうるということになれば、

その際は、僕は、この記事の論調についての「あえての手のひら返し」という急旋回をやって「既存の情報・言論寡占のエセ民主主義という毒」をうけいれてでも「ガチ民主主義という危険」を押しとどめる側にすらまわる用意すらあるつもりです。

ただ、とはいえ僕は「インターネット上の言論」という、このタイミングでやっと文化として成熟しつつある新たな言論空間に、民主主義との関わりで、これまでにない画期的な働きというものを期待しているところなわけです。

自由で分散的なインターネット言論がそれなりに機能しさえすれば「これまでの濃い民主主義が犯してきた独裁者の成立」という危険をかなり回避した形での高度な民主主義を実現できるのではないかと思っているわけです。

なにしろ過去の独裁制の国家において、当初は独裁の開始を支持していたひとも、きっと遅かれ早かれ「ああ、あのとき独裁への流れを阻止すべきだった」とか「あそこまでの独裁は許容すべきではなかった」とかいう後悔をしていたに違いないと思うわけで、

そういう危機回避をインターネットという「まやかしではないガチの集合知が成立しうる基盤となりうる分散的空間」は実現できるんじゃなかと思うわけです。

 

少なくても「集合知」と「マスメディアによる言論空間の寡占」というものは、見るからに「水と油」であろう、としか思えないわけです。

 

集合知がまともに始まることで、民主主義がまともに始まる、というイメージを僕は持っているわけです。

おおげさにいえば

「近代民主主義が安定的なものとして完成するためには、インターネットの誕生とインターネット利用における庶民がなす言論活動という文化的成熟を待たなければなかった」

ということが未来の教科書に書かれることを夢想するくらいに、インターネットというのが民主主義というシステムの完成にとって「最後に残された必須の部品≒ミッシングピース」として把握されるべきものだったのではないかと僕は今から勘繰っているわけです。

従来のインチキ民主主義(≒情報における寡占という汚染要素を抱え込んだ、よどんだまやかし的な民主主義)において重要な地位を占めてきた人達は、その立ち位置からいって「ガチの民主主義にとって利益相反のポジションにいる」ことはもはや「筋論からいって明白」だとしか思えません。

なので、彼ら既存の言論空間エリート層から発せられる「民主主義の危機」なる触れ込みで切りだされる議論は、僕ら庶民は基本的にいって「眉に唾して疑って」触れるくらいでちょうどいい。

もちろん、大きな枠組み的にみれば、利益相反的な位置にいる人であっても、真摯な思考をする人がいないとも限らないし、本当に経過すべき「トロヤの木馬」の落とし穴を見抜いたラオコーン的な賢者がそこに紛れていないとも限らない。

なので、たとえ既存のエリート層というおおまかにいって「ガチの民主主義にとって利益相反といえる層の人達」からの発信であっても、

最終的・窮極的には「あくまで議論は是々非々であるべきで、党派的な思考べったりで、簡単に無視したり、切り捨てたりするべきではない」という地味な結論にならざるをえないわけですが、

とはいえ、まず今の彼ら言論空間を牛耳ってきたエリート層が「ガチ民主主義を不都合に思うポジションある利益相反的な人達」という認識をちゃんと心に留めることがこの「エリート大腐敗期」かつ「政治の大変動期」という重要局面におかれている僕ら世界庶民にとって極めて重要な姿勢(警戒姿勢)であると思うわけです。

これ(民主主義というトピックに関わって既存言論エリートを疑ってかかる姿勢)は僕にいわせればもはや「合理的なバイアス」とすらいいえるものです。

今の時代に生きる僕ら庶民にとって「あえて普及されるべき先入観」といっていいものだろうと思うわけです。

そこまで言い切っていいと僕が思う理由は、以上に詳しく述べたとおりなのでここでは繰り返しません。
よければ画面を上スクロールして、しかるべき箇所をもういっかい読んでみてください。

えー、というわけで「民主主義の危機とか言っている人」は、たいてい「あっち側の既得権者エリート層」であったりするので、庶民(≠エリート)である僕はそういう物言いを基本的に疑ってかかるようにしています。

もちろん、さっきもいったように彼ら既得権エリートのうちにも、僕らにとってラオコーンというべきまともな警告をはっしている人が紛れていないとも限らないわけなので、

便宜的に「既存エリートはガチ民主主義にとっての利益相反者」というふうに定式化はさせてもらったものの、それをしかくしめんに適用して、党派的・ポジション的な区別のみで議論の是非を完全に割り切っていいものでもないわけですが、

それでもなおそのバイアスは、スクリーニング的なものとしてはそれなりにちゃんと合理的で機能的な「バイアス≒先入観」だとしか僕には思えないわけです。

はい、というわけで、もっぱら金欠だという理由のため話題の「ゴジラ-1.0」をまだ観られてもいない僕なわけですがwww

特徴的でアイキャッチなタイトルを冠したその人気の映画にあやかりつつ、僕のちかごろの持論であるところの「近代民主主義はまだ始まってもいない。近代民主主義の名に値する及第点のものは近代の歴史上まだ生まれてもいない。」という認識について、ざっくりとした説明をさせていただきました。

もしも「そうそう。俺も(私も)そういうようなことを考えていたんだよ!!」と思う方がもしいらしたならば、

きっと僕みたいな半端者より、ずっと精緻な議論を組み立てる知力を備えてらっしゃると思うので、それを書籍としてまとめて是非それを世に問うてほしいなぁと、他力本願的には思ったりします。

そういう本が刊行されたとしたら、ゴジラ-1.0を観るのを我慢してでも、購入して読んでみたいと思っているくらいです。

今日の記事はこのへんで、ではまた。