胃に膨満感があって気持ちが悪いときには、ゲップをするとすっきりすることがある。
炭酸飲料の助けをかりるのもひとつだけど、ともかくゲップしてしまえば、あるていどスッキリ感を得られるのは僕にとっては経験則上「定石」なんですよね。
僕は慢性的に自律神経がくるっている人間なので、消化器系はとにかく「不調であることがむしろ平常」であることなわけで、
そうである以上やっぱり「ときどきゲップするのは大事」という観念をもつことにもなるわけです。
えー、ゲップなどという御聞き苦しい話題をしょっぱなからかましてしまいすみません。
ただ、僕が今日の記事でいいたいのはゲップそのものではなく「文章を書く」ということについてなんですね。
人生やら社会やらについてなにか「消化しきれない・おいそれとは受け止め切れれない痛みないし違和」を感じるとき、
僕という一匹のお猿は「文章」という名の「ある種のゲップ」を出したくなるわけです。
ともかく、僕はそういう性質をもつにいたった生き物であるようなんです。
ただ、僕は僕が知る限り「とくだんの特長(強み)をもたない平凡な人間」なので、たぶんですが、多くの人もそうなんじゃないかと勘繰るところではあります。
誰しも「文章を書く」ということにいったん慣れてしまえば、まるで「ゲップ習慣」みたいして、きっと「やめられなくなる類の挙動・営みなんだろう」と僕は勘ぐるわけです。
まー、そのへんはデータをもとのしたまともな立証はできそうもないので「だと思う」程度の話しかできないわけですがね…。
ともかく、少なくても僕にとっては正直なところ「文章」とは「ゲップみたいなもの」であるわけです。
ただ、そういうふうなことを持ち出すと今度は、ある種の社会通念とぶつかることになるわけです。
それとはつまり「文章を書く人間へのそこはかとない尊敬の念」という社会観念です。
こういうことをこのタイミングで持ち出すと、きっと次のようなツッコミを浴びせられるんだと思います。
「おいおい、タコっすよ。自分は特別な人間ではないだとか、しおらしいことを言ったかと思ったら、その舌の根も乾かぬうちに“文章を書く人間への尊敬という社会通念”だと?なんだその急旋回の“手前味噌”は?お前の人格は分裂でもしてんのか?」
ってなことですね。
まー、そう結論を急がずに、ちょっと我慢して話しの続きにおつきあいください。
僕は以下で詳しく「文章を書く人間一般への条件反射的な、なんとなくの尊敬」という社会通念に「ケチをつける」立論を展開しますんで、その矛盾にみえるような物言いについて、ちゃんとオチはちつけるつもりなんですからね。
ところで、なぜ僕がここで「文章を書く人への社会通念としての尊敬の念」ということを持ち出したかということの一つの理由としては、
なにをかくそう、この僕がそいういう観念においての「長い間にわたる洗脳下にあった」と思っているからです。
思い返してみると、僕の「文章に対する尊敬」ないし「活字にたいするえもいわれぬ憧れ」というものは、常人の比ではなかったと思います。
すでにそこから僕は脱しているので「三つ子の魂、百まで」とまで言っちゃうとしたら、それは誇張になりますが、僕は少なくてもまるっと成人期くらいまでを通して「本と格闘する」ということを「当然に価値のあることだ」と信じて疑わず、
そのとおりに「人生の時間の多くを本を読むことに費やす」ということを実践してきてしまいました。
とくに修士課程の学生だったころは、ほとんど「家にいる時間よりも図書館にいる時間の方が断然長い」という生活を続けていて、
「図書館にすんでいる」といってもいいくらいの生活をすらしていました。
しかし、今になってみたら、文章なんてものは「ゲップとかそういう類のもの」としか思えないってことになっちゃんたんですよね。
間違っても「おおむね推定尊敬すべきもの」とかいうたぐいのものではない。
どんな時代の人間だって、人間である以上、みんな生きることにおいて「なにかしら懸命にあがいて」いたはずなわけで、
そういう営みないし挙動というのは「消化をうまくできない胃腸の不調」にあがいてときにゲップをかます僕の有様とまったくもって「相似形≒規模やら質が違えど構造は同じ」であるわけです。
ではなんでそんな「生きる上でのあがきとしての営み≒言葉を吐く」がしばしば「尊敬の対象」にすら祀り上げられてしまうのか?
それはやっぱり「つきつめた分業社会」という現代社会の深くに巣食う病根からくるものなんじゃないですか?
(※もちろん、社会を広く指導していたのが宗教だったような時代においては、聖典などと呼ばれる一種の文章が、現代社会の比ではないくらいの崇敬を集めていたことはその通りだと思われます。また、さらに古代に遡れば、呪詛の一つの手段としての「刻まれた文字≒文章」というものがグラマー(魔法の術。転じて文法)の語源ともなっていることもそのとおりでしょう。だから、ここでの比較は僕は「古代アテネ」などの古代民主主義を比較対象にしているというのが正直なところです。なにしろ現代社会とあえて比較する意義があるのと思われる過去の社会といえば、僕のなかでは「古代アテネの民主主主義社会」とか「江戸時代」とか「原始狩猟採集社会」くらいしか思いつかないというところがあるわけです。という考え方のもとでの話なので、かならずしも「過去のそれぞれの社会」の平均値ないし中央値などを念頭において言っているわけではないことはお断りさせてもらいます。)
「モチはモチ屋」とかいう感じで「認知的な構築物は、文章を書ける人間に」というふうなふうに社会が「専門分化こそ絶対的正義である」みたいなふうにできあがっていて、
そこ(認知産業)に参入しようとする人にもそういうプレッシャーがかかることで「尊敬の対象」というものが円環的に強化されてきたんじゃないですか?
つまり「読む価値のある文章」を作ることこそ「執筆業をなす人間の存在価値」というふうなことが分業社会という構造において当然にプレッシャーとして醸し出されてしまう結果、
「文章を書ける人間はなんとなく一種の専門職として尊敬されてしかるべき」というふうな社会通念が業界の外と内の両方の共犯行為の結果として成立してしまった。
みたいな?
でも、やっぱり個人的に文章を書いてて思うのは「文章なんてもともとはゲップみたいなもんじゃないのか?」ってことなんですよね。
それ(ゲップ)を「みんなが受けとめられるように上品に、または利用価値があるようなものとして吐きましょう」なんてプレッシャーをかけられたら、そりゃあ
「ぎこちないゲップ」になりますよね?
なんかへんに「力(りき)んだゲップ」になりますよね?
そういう「しんどさ」を加えられてだすゲップだからこそ、
さも大層なことかのように「作品を産む苦しみ」とかなんとか大げさな理由を持ち出しては「著作権保護」とかの法理論を大いにぶんまわすようなことになっちゃってるんじゃないですか?
そうじゃなくて、著作なんて「ただのゲップだろ?」というふうにしていったん腑に落としさえすれば
「著作権なんて資本主義特有の所有精神・商売精神が生んだだけの虚妄な権利意識だ」ってことがはっきりすると思うんですよね。
(※とはいえ、ここで僕が著作権といっているのは主にビジネスの側面(≒財産権)に限定してのものであって、講学上の著作者人格権というパートの全部までをも否定しようというものではないことはご理解ください。)
なにせ、おしもおされもせぬ頭抜けた世界的ベストセラーといえば「聖書」なわけですが
(※勉強不足でクルアーンと新約聖書のどっちがベストセラーなのか僕には分かりません。ただし、そのどっちかが世界一のベストセラーであることは世界宗教のシェアをざっと知るだけでも明らかだと思われます。)
それは著作権などという近代以降の観念を完全に裏切るかのように「価値ある自分以外の口から出た言葉を記しました(≒伝聞)」というような体裁であるわけですね。
つまりそれら世界的ベストセラー本は「知的な構築」をしたその当人(イエス様・ムハンマド様の声を通して表現されたアッラー)の手になる著作ですらないわけです。
そこでは著作者は自覚的に「私どもはイエス様の言葉(またはムハンマド様の口を介したアッラーの言葉)や事績を伝えるだけの黒子」という体裁をすらとっているわけです。
著作権なんて観念を吹き込まれた日には、当の聖書の執筆者たちは
「そんな邪悪な思想を私に吹き込もうとは!?さてはお前は悪魔の手先だな?そんな禍々しい誘惑に私の心がよろめくことはない!!悪魔の手先よ消え去れ!!」とか言って強く反発すらすることでしょうね。
ね?世界的ベストセラーですらこうなんですから、いかに現代の著作権なる観念が「ビジネスありき、極端な形の社会分業ありきの歪んだ観念」であることが理解できるってもんじゃないですか?
〇 「いいたいから言う」
〇 「吐き出したいから出す」
〇 「伝えたいから記す(対同時代人さらには対未来人)」
というようなことが「言葉の元来」のところであるはずで、それ以外は全部「そのときどきのへんてな時代精神が付け加えた欺瞞的要素」というしかないんじゃないでしょうか?
ゲップというたとえ以外の言い換えをするのであれば、言葉やら文章とかいうものは「生きているという懸命の営み」に必然的に生じる「認知的な汗」というふうにいってもいいはずで、
おそらく、もとからそういうものでしかない。
そんなものが無理やり「商品」に仕立て上げられて「有用であるべき」とか「高尚であるべき」とかそんなヘンテコなプレッシャーにされされることになってしまって「ぎこちなくしんどい営み」になったり、
さらにきわめつけは「著作権(財産権)なんて概念」までうみだしては「他人のゲップや発汗を阻害するようなしがらみとすらなる」なんてことになったら
そんな観念こそ「社会的な害悪」じゃないですか?
人間が本来持っている言葉を吐く欲求への「手枷(かせ)足枷(かせ)」になってるんじゃあないですかね?
もちろん、哲学史フリークの僕のような「説得力を高めるゲーム」に関心の強い人間は、
個人的にそういう「説得力の高い立論≒文章」ばかりを好んで渉猟するという振る舞いにでるのは自由の範疇であるし、
そういうふうな「個々人の価値観に基づく、文章それぞれについての個人的で内心的なヒエラルキーの設定」というものを否定するつもりは僕にはありません。
そこについてはつまり端的にいって「たでくう虫も好き好き」ってな次元のことであって、
「どんな種類のゲップ(文章ないし書籍)」を好んで漁るかは、その人個人の自由の範疇というべきことです。
しかし、そこにあたかも社会共通の観念(社会通念)かのようにしていいくるめたものとしての「高尚」だの「効用≒ユーティリティ」だの「著作権」だの変なことを主張しだすとすれば、
それというのは、まずもって「無粋≒知的な意味で貧乏性的ないし奴隷根性的」であるし、時に膨大な数の第三者たちを抑圧するような「社会的害悪」ですらある。
もちろん、「その人間のメインの活動としての金儲けができない奴は食えずに死んでも同情する価値はない」というような圧力がかかっている現下の「独特の狂った観念がはびこる社会」においては、
執筆活動を真剣にやる以上それを「マネタイズしないといけない≒金儲けとして成立っせないといけない」という条件を事実上、課されてしまっているのはそのとおりなので、
今のそういう狂った環境が温存されたままにもかかわらず「ともかく著作権なんてインチキは即刻破壊してしまえ」なんて乱暴で無慈悲なことを言うつもりも僕にはまったくありません。
「まずはお前の人生の時間の大半を消費して、金もうけに励め。お前が本当に自由にやりたいことは、金儲けの後に、ほんのわずかにのこされた余暇時間ににやることだけしか許されない。」
というような「社会全体を覆う狂った命令」に従わざるを得ない現代人にとっては「自分の活動をマネタイズする」というのは事実上、死活問題となってくるわけで、
真剣にライフワークとして執筆をしたい人がその人災的環境においての「避難ボート」ないし「シェルター」よろしく著作権にすがることはいたしかたのないことでしょう。
ですが、それはあくまで「稼がない奴は死ね」という現代特有の狂った環境があって初めて正当化されるだけの「緊急避難的な道具使用」なのであって、
「もともと文章ってのはそんな性質のものであるはずはないよね?」という基本線を僕は譲る気はないということです。
その人災が過ぎ去れば、またその戦乱状態が過ぎ去って太平の社会が戻れば当然にその自衛としての武器(著作権)の「武装解除が要求される類」の「道具」であるはずです。
というわけで、その「文章のもともとの性質」というところをうっかり忘れないようにするためにも僕は
「文章なんて元来ゲップみたいなものでしょ?」
という素直な観念を僕らは忘却するべきではないと思うわけです。
いちおうオチというかタイトルに示した話題についての結論はつけられたかと思うので、今日の記事はこのへんで。