Wotans Auge -136ページ目

比較言語学

高校生の頃

安本美典さんの書いた

日本語の起源という本を読んだ。

 

私は当時英語が大嫌いだったし

国語も嫌いだった。

だが、タモリさんが4ヶ国語麻雀をテレビでやっていた頃

彼のネタとしてのロシア語・中国語・ベトナム語・ドイツ語・英語・そしてハナモゲラ語を

聞いた時、言語って面白いのかもしれないと

単純に思ってしまい、

そして、安本さんの本を買ったのだ。

 

この中で

初めて比較言語学って言葉を知った。

日本語は中国語や韓国語の影響を沢山受けている。

だが、基本語彙を用いて統計的に処理すると

意外にも中国語や韓国語との接点が見られないことに

気づかされた。

 

英語やドイツ語・オランダ語・

フランス語・北欧語・インド語・ギリシア語などは

全てインド・ヨーロッパ祖語というものに

辿りつく。

基本語彙を調べてみると

多くの単語がルーツを同じとしている。

音韻同士の対応などもきちんと存在しているのだ。

あれだけ広い範囲にも関わらず

言葉の祖先は一緒なのだ。

 

一方朝鮮半島と日本は近いし

例えばモンゴル語・朝鮮語・フィン語・トルコ語などとは

語順も同じで関連がありそうだが

少なくとも日本語と共通の祖語はこれらの言語は持っていないようなのだ。

まだ、仮説でウラル・アルタイ語族という考えがあるようだが

日本語はそこからあぶれている。

中国語はインド・ヨーロッパ語族でもなければウラル・アルタイ語族でもないが

日本語と全く異なる言語大系であることは一目瞭然だ。

 

だから、世界中の人たちは日本語を学ぶのは大変なのだ。

一方で日本人が外国語を学ぶのも大変だ。

そういう意味でドイツ語は日本語とよく似た語順で

かつ発音も日本語に存在する音で十分通じる。

そして、ドイツ語と英語とが非常に近い関係である事を

考えると圧倒的に多い英語学習者にとって

第二外国語として選択するのにもっとも適応しいのは

まさしくドイツ語なのだ。

書籍もドイツ語に翻訳されている点数は世界で最も多い。

世界の論文・書物はほとんどドイツ語に翻訳されているのだ。

学問の中心はアメリカでもあるが一方でまたドイツでもあると

はっきり言っていいだろう。

日本人はもっとドイツ語を身近にするようにしないと

世界の進歩からはどんどん遅れをとってしまうだろう。

 

ディスコブーム

私が高校生の頃

すなわち30年くらい前は

サタデーナイトフィーバーという洋画が

大ヒットした。

高校生や大学生は

ディスコにみんな行った物だ。

今カラオケ屋に行くと

薄いカクテルなどが

出るが

同じようにディスコも

アルコールが飲めた。

これは飲み放題だったと思うが、

非常に薄かったと思う。

水で薄めてあったと思う。

ソフトドリンクもやはり

水で思いっきり薄めていた。

室内は暑く

汗びっしょりになったが

この薄いジュースなどが

非常にさっぱりしていて

おいしかった。

この当時様々な曲が

ヒットしたが

実際にはっきり覚えているのは

ジンギスカーンだけだ。

英語の歌ばかりが

耳に入ってくるから

このジンギスカーンは非常に新鮮な響きだった。

その後ジンギスカーンは

めざせモスクワなんて曲もヒットしたが

やはり同世代の人たちが

カラオケで懐かしいと思うのは

ジンギスカーンのようだ。

8年前にホームステイを招いた時

そのドイツ人がドイツに帰るというので

カラオケにドイツ人たちが

我々を招待してくれた。

この時20歳位の若者ばかりだったが

まだ生まれる前のヒット曲なのにこの曲はみんな知っていた。

やはりかないインパクトが彼らにとってもあったのだろうな。

ドイツ語文化圏は

R・シュトラウスやR・ヴァグナー、フンパーディンクなど

偉大な作曲たちを輩出してきたが

21世紀の今もっと新しい、もっと懐かしいもっと心に染み渡る曲が

現われて欲しいと心の底から思う。

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LOS ANGELS

私が読んだドイツ語の参考書だったと思うが、

ドイツ人というのは

英語の発音をすると

Los Angelsはロス・アンゲルスと

言う人が結構いると書かれていた。

 

なんだか非常に親近感をその記事を読んだ時に

覚えた。

私は英語の発音というのは

ほとんどわからず

大抵ローマ字読みで読んでしまうからだ。

 

ところで、もう8年くらい前だと思うが

ロサンジェルスに旅行に行ったとき

英語でロスアンゲルスとホテルで言ってみた。

 

すると、

 

通じた!

 

だが、誰も私のことを


ドイツ人とは思わなかったようだ。



 


謎だ!

 

近所のかわいい子…ひとつの伝説

こどもの頃の

思い出すとちょっとだけ

胸がキュンとなることがある。

 

私は八王子市長沼町の都営住宅に住んでいた。

私の住む家の前には公園があり

その反対側に凄くかわいい子がいた。

 

まだ自分は小学校に上がる前だったが

その子が特別にかわいいと言う

そういう気持ちを持っていて

喋ってみたいなっていう

想いがあった。

だが、家が40mくらい離れており

その子の友達とも仲良くなかったため

結局一回も口を聞いた事がなかった。

 

メメちゃんという名前だったと思うが

もしかすると間違っているかもしれない。

とにかくそのかわいさは

自分の家の周りには抜き出る子はいなかった。

おふくろなどは俺の初恋を

3軒隣の女の子だと思っていたようだが

自分はそうは思っていなかった。

 

このメメちゃんは

髪の毛が金髪だった。

正確に言うと

栗色のようだったのだと思う。

だが、金髪だと思っていた。

 

聞いたところによると

ドイツ人と日本人のクォーターだったらしい。

ただなんと言っても

子供同士の噂だったので、

もしかすると全くのデマかもしれない。

自分と接点がなかったから

真相は何もわからないのだ。

だが、目もパッチリとし

色は白く

誰がなんと言おうと彼女はドイツ人なのだ。

 

で、ないと自分の中でのドイツ好きのルーツを

またもやチーズ好きのクラウスのように失ってしまうだろうから。

 

そう、本人がドイツ人でないといっても

ドイツ人なのだ。

 

ただ、私の記憶が間違えでなければ

都営住宅に

ドイツ人の苗字は一人もいなかった。

そこがちょっと不思議なのだが…

 

さまよえるオランダ人

さまよえるオランダ人は
リヒャルト・ヴァグナーの
オペラの中では比較的初期のものに属す。
ヴァグナーは今の時代に生まれていたら
間違いなくオタクだろうと思う。

伝説や神話を耽溺する
オタクは日本に非常に多い。
北欧神話を好きな
オタクってのは
多くがロキやフレイヤを愛し、オーディンに対しては
あまり多くを語らない。

ヴァグナーも同じように
ローゲ(ロキ)に対しては深い思い入れがあるように思う。
一方でヴォータン(オーディン)に対しては
だらしない権力者、傲慢、悪人、詐欺師のように
どうにもならない神として描いている。

さまよえるオランダ人は
ゲルマン神話とは関係ないが
やはりヨーロッパに伝わる
伝説を基に作品を作った。

何といっても
幻想的な作品だ。
さまよえるオランダ人は何故
世界中を彷徨うになったのか。

神を侮蔑したからだ。

永遠に死ぬことなく
彷徨うばかりだ。

そんな設定は少なくとも
日本の神話や伝説には
存在しないのだろうが
この死ぬ事が出来ないという
考えがキリスト教に基づくのだろう。

キリスト教での純潔が
ゼンタというオランダ人を自分の死をもって
救済する女の子が象徴している。
これはゲルマン神話の考え方ではない。
キリスト教なのだ。

ヴァグナーはキリスト教的な
価値観の作品というのはあまり書いていない。
むしろ異教とキリスト教を混交させたような
ものがヴァグナー作品なのではと思う。

パルジファルが一体何を言いたいのか。
はっきりこうだといえる人がいるのだろうか。
ショーペンハウエル的なところ。
異教徒的なところ。
キリスト教的なところ。
この宗教の混交がヴァグナーを
近づきがたく、また、不気味な存在にしてしまうのだ。

ヴァグナー作品の前奏曲や序曲が好きな人は多いが
一方でその作品の内容を知っている人は
その何分の1なんだろうと言うくらいの少ない割合だ。
ヴァルキューレの騎行がCMや映画に使われていて
好きな人が多いにもかかわらず
楽劇ヴァルキューレを見たことがある人が
一体どのくらいいるのだろう。
モーツァルトのように頻繁に
あちらこちらで上演されるものでもない。

上演時間も半端ではないし
ヴァルキューレは単独作品でもあるが
結局ニーベルングの指環4部作の単なる1作品なのだ。

ヴァグナーの作品の特殊性は
宗教的・選民的・排他的・民族主義的・人種主義的・
反ユダヤ的と際立ったものが多すぎ、マニアックなのだ。
ヴァグナーがオタクといっても
違和感はない。
その偏執狂的な嗜好は
同じ偏執狂にとってひとつのカリスマなのだ。
私にとってもヴァグナーはかなり憧憬の世界の住民だ。
自分もゲルマン人であればもっと彼の作品を愛せるのにと
つくづく思う。

孤高の人ではなかったが
ニーチェのようなかなり精神性の近い
哲学者すらも彼から離れていったように
極めて特殊な人間であった。
(ニーチェもやはり孤高の人だろうが…)

オランダ人のように
呪われ
ヴァグナーは精神の旅をする天才であった。

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曜日と神々の話

今日は雷神ドンナーの日だ。
鎚を振り回しゴロゴロ埼玉県全土で大暴れしている。

木曜はドンナーの日。サーズデーと英語では呼ぶ。ドイツ語はドンナースターク。
金曜はフライアの日。フライデーと英語では呼ぶ。ドイツ語はフライターク。
フレイは豊穣の神だ。

火曜はチュールの日。闘いの神だ。チューズデーと英語では呼ぶ。ドイツ語はディーンスターク。

ゲルマンの神の名前は
英語では水曜日にもついている。わがウォーダンから名前をとりウェンズデー。
じゃあ、ドイツ語で水曜は何と言うのかって?
週の真ん中だからミットヴォッホMittwochに決まってるでしょう!!!

しかし、何故英語で土曜はサターンとギリシア神話から取ったのでしょうね。




ドイツのケーキ

20年位前の事だ。
ドイツ在住のギリシア人と
文通をしていた事がある。
ちょうどクリスマスのシーズンだった。

いつものように
航空便が届いたのだが
実は小包だった。

開けてみると
アルミホイルに包まれた
非常に大きな手づくりケーキだ。
いくら冬だとはいえ
こんなもの食べられるの???って
思った。
送付してから2週間くらい経っていたのだ。

ドイツケーキなんて食べた事ないから
結構動揺したが
手紙が同梱だった。
読んでみると日が経っていても
食べられると言うのだ。
そうか~
じゃあ、食べてみよう。

勇気を奮って
食べてみた。
少し表面が堅いのだが、
非常に舌触りがよく優しい気持ちになれる味だった。
30cm位の長さのそのケーキの周りは
砂糖が沢山まぶしてある。
学校給食のアゲパンてのがあったが
それの馬鹿でかいものと言うイメージだ。
しかし、全くしつこくなかった。
食べやすくとても美味しいのだ。
そのケーキの名前は
Stollenというものだった。

生まれて初めて食べた
ドイツケーキは
実はギリシア人女性の手づくりだった。
ビミョ~です。

正書法改正

私がドイツ語を初めて学んだのが
今から28年前だが当時の教育は
当然現代の正書法と異なる。
正書法は残念ながら知らない。

今一番メールをやり取りしている人の
メールは名詞の大文字がない。
だが、改訂正書法は逆に大文字の徹底だそうだ。
正直今回の改正(1997年)はあまりに細かいことが多すぎ
全く対応しないでいた。

覚えられない理由のひとつは読んでいる本が
旧正書法で書かれているものばかりだから
新正書法を学ぶ理由があまりないのだ。
だが、メールのやり取りをするのだから
本当は失礼のないように
ちゃんと学ぶべきなのかもしれない。

私の他の旧正書法で学んだ人たちは
今までどうして来たのだろう。
もし学んでいる人がいたらぜひ教えて欲しいなと思う。

あ~勘違い

小学生の頃凄く好きな童話があった。
クラウスって男の子は
非常にチーズが好きで
いつも家族の分まで食べてしまいよく怒られていた。
しかし、ある日膨大な数のチーズに押し潰されそうになり
もうダメだ!って思ったときに目が覚め、それからは人の
チーズまでとって食べないようにしたっていう
夢落ちの童話だ。

詳細はよく覚えていないのだが
この作品独逸の物語だと思っていた。
家にその本があり
何度も何度も読み返したのだが・・・

この童話自分の中では
非常に懐かしくもあり何の心配もなく暮らしていた頃の
いい思い出であった。

今でもその本を見つけることができれば
ぜひ読み返してみたいのだが、
不幸にしてその本のタイトルを覚えていない。

この作品がドイツ作品で自分の原点のひとつだと
思っていた。

ところが、最近ひとつの事件が起こった。

独逸の友人が久しぶりに我が家に来るという事で
部屋の大掃除をしたところ、
弟の作文が見つかった。

この作文にこの作品の事が書いてあった。
弟はうちにあった本ではなく、
学級文庫でこの作品を読んでいた。
弟は7歳年下だから、もしかすると
私の持っていた本はその弟が
読んだ時点では紛失してしまっていたのだろう。

とにかく弟が全く同じ本を
家ではなく、学校で読んでいたということが
ひとつの驚きである。
彼は私と同じくらい本を読まない子供だったのだ。

作文を読んでみると物語のあらすじが書かれていた。
ところが一箇所だけ私の記憶とは全く異なる点があったのだ。

それはなんと


ドイツの物語ではなく
オランダの物語だと
書かれていたのだ!!!!

ガーン

いつの日か
真相を確かめるべく
その本を読み返してみたいのだが
恐らく弟があたっているだろうと思う。

同じゲルマン人の書いた話ではあるが
こんな記憶違いってあるだろうか。
かなりのショックであった。
自分にとってノスタルジックな気分に
なれたこの作品がオランダの物語であるという事は
ひとつのアイデンティティが崩壊したような打撃である。
ぜひこの作品を読んだ事のある人に
真相を教えてもらいたいと思う。

ところでこの弟
偶然にも同じ作品を読んでいたが
大学も仏教系でかつ哲学科。
このパターンは私と全く同じ。
私はカント哲学から興味をもって
哲学科に入学したが
弟は卒論にカントを選んでいた。

聴く音楽も私と同じ
インディーズ、パンクばかりであった。
唯一大きな違いは女性の趣味が
かなり異なるという点のみであった・・・

ドイツ病

今から22年くらい前
とことんドイツ病だったと思う。
テレビでも本でも
新聞でも独逸のドの字が目に入れば
何でも見たり読んだりしていた。
衛星放送が始まってすぐだったと思うが
毎日ZDFのニュースを録画しては
繰り返し見ていた。

新宿紀伊国屋に行けば
何時間でもドイツ語の原書の売り場にいて
疲れるまで買う本を渉猟していた。

当時はわりと時間があったので、
ニーチェやワグナーをはじめ
ドイツロマン派や現代小説を買っては読んでいた。
一方でニーベルンゲン伝説に惹かれ
エッダやサガを読み漁った。
特にエッダは特に何度も読み返している。
レクラム文庫にドイツ語訳があったので、
手頃なサイズでどこかに行く時も
携行していた。
挙句の果てに
興味は北欧神話にまで至り
一時はデンマーク語に凝った事もあったのだが、
ちょっとデンマーク語は勉強しづらい語学だったので、
ABCから接続法まで学んだところで
ドロップアウトした。
デンマークやノルウェーにはゲルマンの神々の伝説が
あちこちに見られる。
更にはアイスランドに至れば
かなり古い文献も見ることも可能であった。
そのために北欧語も勉強しようなどと
欲張ったのだが、いくら時間があっても
新しい言葉を全くの独学で学ぶには
ちょっと足りなかった。
そういうことに気づくまでにいつも時間がかかってしまうことが
私の短所だと思う。
しかも、同じ間違いを何度もやっている。
フランス語も接続法までは独学で学んだが
その次への一歩がどうしても進もうと思えなかった。
接続法が終わるとそのあとの大変さがドイツ語を通じて
身に沁みていてわかっているからだ。

韓国語も今から25年位前にNHKで講座が始まったので、
勉強し、韓国に知り合いが何人か出来
文通を何年間かは行なったが
やはり途中でやめている。
文法は大体理解でき、
辞書の引き方も覚え、
作文も韓国の中学生位だなんて
勉強し始めて1ヶ月で褒められ
調子に乗ったが
結局語学は継続していなければ
ならず、継続するにはどうしても時間が必要になってしまうのだ。
韓国語を継続することは結局なかった。

継続するにはどうしても
動機が必要だと思う。
いくらその言語が面白くても
続けるためには時間が必要で
その時間を捻出するだけの価値と
その言語とが等価であるかということに関わっている。

そうして、例えば自分にとって
ドイツに対して抱いている興味を満たすための時間を
惜しんで他の言語の勉強をする時間があるか、天秤にかけると
他の言語の勉強ってのは大して価値がないのだ。

他の言語や文化を否定しているのではなく
あまりにドイツに興味が強すぎて
時間を失ってしまってきたのだ。

じゃあ、一体独逸のどこがいいの?って聞かれると
回答にはかなり困ってしまう。
民族性は好きではあるが
絶対ではない。
文化が好きかと言えばそれも違うような気がする。
もっと本能的に好きなのだ。
理屈とかではなく何か本能に訴えかけるものが
ドイツにはある。
しかし、それが何か本当にわからないので
人からみたらドイツオタクっぽいと思う。
けれど、正確に言えばオタクでもない。
なぜなら、ドイツの事なんて
ほとんど何も知らないのだ。
まるで恋人のような存在がドイツだ。

だが、強いて言えば
これは全く自分の恥部でもあるのだが
告白しておこう。

哲学を学びたくて
大学の哲学科に進学した。
ところが、入学してすぐにこれはやばいと思った。
哲学書は日本語なのにほとんどわけがわからなかったのだ。
高校の倫理学で哲学者の事を学んで
哲学を選んでしまった。
ところが、それまでに読書なんてやった事がほとんどなかったのだ。
だから、教科書に使用された書物は理解困難だった。
高校時代読んだ小説は
舞姫、うたかたの記、ヰタ・セクスアリス、羅生門これだけだ。
頁数にしたら一体何ページだろう。
これしか読んだ事のない人間は大学なんて行ってはいけないのだ。
大学1年の5月ごろ気づいた。
夏期休暇の宿題で哲学のレポートを書いたが
これは中学生でも書ける内容であり、
かつ、日本語として体をなしていなかった。
まず日本語を学びなさいと
講師に言われた。
原稿用紙は赤ペンでギッシリ修正が入っていたが
句読点の使い方のような小学生でも知っている
文章の書き方がわかっていなかった
のだ。
かなり重症である。

結局大学に入ったはいいけれど物凄い劣等感に苛まされた

まともな成績

これはドイツ語のみであった。
どういうわけかドイツ語のテストはいつもよかった。
学級の中でも1位だったのだ。
日本語も碌に書けないくせに
ドイツ語はよかった。

自分は知的障害者ではないかと
かなり本気で思っていたのだが、
このドイツ語に救われたのかもしれない。
とにかく、アイデンティティは「ドイツ語」に求めていた。
自分が莫迦ではない科目。
自分が優越感に浸れる唯一の科目。
これがドイツ好きにしてしまった原因ではないかと思う。

高校時代世界史は赤点スレスレだったが
ドイツを好きになってしまい、曲がりなりにも自分が
研究テーマにしようと思える哲学に出会えたとき
少なくともドイツ史は全く心地よいものになり、
脳みそは砂が水を吸い込むようにドイツ史を吸収してくれた。
人間の脳というのは興味がないことは
全く赤ん坊のように何も認識しないが
興味を抱くと
今まで頭に全く入らなかったことでも
素直に入ってくれる。
そんなことを大学の頃感じた。
哲学書も自分がテーマとするものの周辺に存在するものも
次第に読めるようになり、卒論は約140枚書けた。
この時の4年間というのはがり勉をしたわけでもないのに
普通の大学生位の脳みそにはなれた(と思う)。
---留年もしなければひとつの単位を落す事も一切なかったから---

そんなわけである意味大学生活上どん底状態から
少しずつ自分に自信を与えてくれたのが
ドイツ語なのだ。

そんなドイツ語を偏愛し、ドイツ病にかかってしまうのも
全く原因不明というわけではなく、むしろ単純な動機から
ドイツ病に感染したのであった。