Wotans Auge -135ページ目

ドイツ的徹底性

独逸と言えば

しばしば「独逸的徹底性」ということが

話題になる。

 

ところで子供の頃

独逸ってすごいなって思ったことがある。

それは実は全然よくないい事なのだが

だが、日本人にはいないよな~っていう事件であった。

 

俺が小学4年生の頃って

仮面ライダーが

TV化された頃だ。

 

日本中のこどもたちが感化され

みな自転車に乗って

仮面ライダーごっこをしたものだ。

 

高速で自転車を漕ぎながら

ジャンプして友達をキックしたりした。

 

赤いマフラーを買ってきて

首に巻いたり

公園でみな友達がショッカーになり

「イ~」と叫びながら

仮面ライダー役に襲い掛かった。

 

河原の石段を自転車で降りていったり

友達と殴ったり蹴ったりして遊ぶのが

日本の子供の日常であった。

 

だが、大怪我をしたとかいう

話は聞いたことがなかった。

 

ところがわが世界に冠たる独逸。

独逸ではちょっと違っていた。

 

同じ様に仮面ライダーは

放映され

みな子供たちは

仮面ライダーや怪人に

なりきり遊んでいた。

 

ここまでは日本と全く同じだ。

ところが、勇気のあるゲルマン人は

簡単にはアドレナリンが

放出しないのだろう。

高い塀に攀じ登り

ライダーキックをした子がいた。

 

この子どもは落ちた時の

打ち所が悪く

亡くなってしまった。

日本から遠く離れたかの独逸では

仮面ライダーごっこで

死者まで出てしまったのだ。

 

子供心に凄いとも思ったが

怖いことだとも思った。

それがテレビで報じられた頃から

それがきっかけかわからないが

周りの子どもで

仮面ライダーごっこをする子はいなくなっていた。

 

子どもの遊びも徹底的に行なう。

これが独逸的徹底性の極端な例の一つに違いない。

 

日本人の底力

日本人が明治時代に急速に発展し、

欧米の植民地にもならず

多少の外交的に不利な条約を結ばされたにもかかわらず

独立国という形態を保つ事の出来た理由は

江戸時代にある。

 

江戸時代の討幕派に属する人たちは

諸外国の情勢について

非常によく通じていた。

 

蘭学がそのキーワードである。

蘭学事始という

杉田玄白の著は

非常に読みやすく

楽しい本だが

この中に和蘭語をいかに

日本語に翻訳したか

その奮闘ぶりが

描かれている。

 

福澤諭吉をはじめとする

和蘭語学習者達は

日本の未来を本当に案じて

日本の文化維新を

真剣に考えてきていた。

 

解體新書を杉田らは

翻訳したが

これが有名な和蘭の解剖学書ターヘル・アナトミアである。

ところが、このターヘル・アナトミアは

和蘭の本ではなく

原点は独逸語で書かれたものであった。

杉田らが使用したテキストは

和蘭語に翻訳された独逸語が原点の解剖書だったのだ。

 

医学が明治時代に独逸から

その多くを取り入れることになった

背景にはそんなものもあった。

 

蘭学はもちろん医学だけではなく

軍事・政治など国家にとって重要な

学問を考究するために利用された。

 

そんな下敷きがあって

明治時代の大発展に繋がったのである。

そして、ひとつ大きな問題がある。

森鴎外だったと思うのだが、

日本人がやたらと

西洋語を学んでは

大成しなかったのをみて

彼らが漢文に通じていなかったという点に気づいた。

 

漢文と言うのは古い中国語ではあるが

やはり日本語的に解釈されたものである。

漢文を漢文としてではなく

日本語として学んだと言うところが

非常に大きなポイントかもしれない。

 

日本語を知らないものが外国語を学んでも

躓いてしまう。

急がば回れと言うが

まずは漢語から学ぶというのが

達人への道ではないだろうか。

当時の人たちの翻訳は

英語にしろ独逸語にしろ仏蘭西語にしろ

非常に漢語的な表現、非常に豊かな語彙に支えられている。

だからこそ、日本語として、美しい翻訳が成立しているのだ。

 

 

森歐外

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明治時代に独逸に留学した人物と言うのは

結構多い。

多くは官僚だがその官僚の中でも

私たちにもっとも親しみやすいのが

森鴎外である。

森鴎外は陸軍軍医総監陸軍省医務局長であった。

医学博士であり、文学博士でもある。

そして、一番よく知られた姿が

小説家だ。

彼の小説は今では教科書から消えてしまった。

文章も漢文調であったので

読みにくいのかもしれない。

だが、彼の文章は江戸時代と昭和あるいは平成をつなぐことの

出来る名文家でもある。

だから、現代国語の教科書から

森鴎外を省いてしまうと言うのは

非常に乱暴な話である。

当時の文豪では夏目漱石も

留学しているが彼は

英吉利であった。

英吉利留学と独逸留学とでは

自ずからその受けた影響と言うものは

異なってくる。

独逸という非常に堅い印象のお国柄は

やはり文体にも現れてきてしまう。

森鴎外のごつごつとしたまた、凝縮したような

表現は独逸留学の賜物であろう。

一方で夏目の文体は非常にスマートである。

だから、すっかり米国化した日本人にとって

夏目の文体の方が

現代的に見える。

私自身は夏目より森の方が圧倒的に好きである。

彼の広大な漢文の知識が散りばめられた

文体は非常に緊張に満ちた

簡潔に書かれた、例えば論文などに見られる

ドイツ語の文体と何か通ずるものがある。

この彼の文章を読むときに

何故か頭にα波が出現してくれるような

感覚がとても心地よい。

これと同じものをやはり私はドイツ語の文章を読むときにも

感じるのだ。

これこそが明治文学である!と思えるのは

森鴎外である。

文明開花があって、

西洋の影響が色濃いが

それでも、日本伝統文学を

決して見失う事のない

彼の文学は三島由紀夫と

一本の糸で結ばれている。

昔の人々は非常に独逸の影響を受けたものだが

今の人たちは米国ばかりだ。

これは日本が学ぶ心を忘れてしまった証拠だろう。

留学先はみな一様に米国ばかりだし

ファッションも音楽も生活様式もみな

同じ方向性を示している。

個性と言うものを全く感じない。

学問の中心が米国であることは

ある程度妥当であると思うし

また、優秀な頭脳が世界中から

米国に集まってきている事は事実だ。

だが、それ以外の

余裕と言うものが全く日本から消失してしまっている。

戦後日本が大発展したのは

ある人は支那、ある人は朝鮮、ある人は蒙古、

ある人は仏蘭西、ある人は米国、ある人は独逸等等

明治から敗戦までに色々な方面の知識を吸収してきたから

それがうまく開花したのであろうと思うのだが、

米国一辺倒の今は

土台が失われてしまっているような気がする。

米国一辺倒だから、独逸に学ぼうとか

仏蘭西に学ぼうとかそういう日本の発展に繋がるような

学士がもっと増えて欲しいと思う。

そうすることによって

50年後、100年後日本が発展するのだが…

非常につまらない人たちばかりの時代である。

wagnerのユダヤ人嫌い

ヒトラーがユダヤ人抹殺を

我が闘争の中で述べていたが

彼がもっとも優れた作曲家として

その著の中で力説したのが

Wagnerであった。

 

R・Wagnerのオペラは

イスラエルではご法度であるが

戦後何回か

彼の曲の前奏曲が演奏された事はある。

 

ユダヤ人の中では

今でも彼を忌み嫌う人が少なくない。

 

そんな中で

サー・ゲオルグ・ショルティは

シカゴ管弦楽団を率いて

戦後初めてニーベルングの指環の

スタジオ録音での全曲盤をLONDON DECCAで発表している。

かのショルティはユダヤ人である。

だから、非常にびっくりさせられた人は多いと思う。

 

彼の全曲盤は定番中の定番で

私も何度も聴いているが

当時発売されていたレコードの中では

格段と音質がよく、また、

ライト・モチーフ集がおまけとしてついていたので

これでWagnerの作品に親しんだ人は非常に多いと思う。

 

彼が何故Wanerにこだわった理由はよくわからない。

だが、Wagnerがユダヤ人を嫌っていた事は事実である。

 

Wagnerの曾孫にGottfriedと言う人がいる。

この人の著作にはRichardの

反ユダヤ思想に対する批判が

延々と述べられている。

Giacomo MeyerbeerというWagnerに大きな影響を与えた

作曲家がいたが彼もまたユダヤ人であり、

音楽におけるユダヤ人性という書の中で彼を批判している。

一説にはGiacomo Meyerbeer=クリングゾルというのもある。

クリングゾルはいわずと知れたParsifalの悪役(魔法使い)である。

 

Eduard Hanslick=ベックメッサー説もある。

Eduard Hanslickはニュルンベルクのマイスタージンガーで

騎士でマイスタージンガーになろうとする若者を

陥れ、自分がエーファの夫になろうと画策する男だ。

結局大恥をかかされ

滑稽に敗退するのだがその描き方は

ベニスの商人のシャイロックを髣髴とさせる。

 

Hanslickは評論家で

Wagnerを痛烈に批判した男である。

だからWagnerがベックメッサーを

揶揄するのもわからないではない。

 

Wagnerがユダヤ人嫌いになったのは

ジャーナリスト・債権者に包囲されたからであり、

ジャーナリストにしろ債権者にしろユダヤ人であったからだ。

 

しかしながら、昔からよく言われているのが

Wagnerにユダヤ人の血が流れているから

その近親憎悪によるものであるというものだ。

同様にヒトラーもユダヤ人の血が流れているからだと

言う説がある。

 

だが、仮にそうだったとしても

ドイツには沢山の反ユダヤ主義者がいたわけだし

彼らが全員ユダヤ人の血が流れていたせいだといえるような

根拠はないし、恐らくほとんどの場合は

流れていないだろう。

 

一方でユダヤ人の血が流れている人は

世の中に沢山いるわけで

その人たちがみな反ユダヤ主義者であるだろうか。

そんな事もあるまい。

どうも血の話になると一見科学的な話のような

錯覚を覚えてしまうが

あまりに単純に全て血のせいにしてしまうというのは

それ自体人間性が全て血で決定してしまう事を

自ら暴露しているように思える。

 

反ヒトラーの中にはそんな風にヒトラーを

ユダヤ人の血が流れているから

憎悪のためにユダヤ人を滅ぼそうとしたと

考える人がいるのだが、

そんなに血が全てを決定してしまうのであるならば

それは彼らがもっとも嫌う血による人間性を

認めていると言えるだろう。

 

この他にヒトラー狂人説なんてのも

ある。狂人であるならば

あれだけの支持を得ることは不可能であろうし

また、願望をあれだけ達成するなんてことはもっと不可能だっただろう。

 

批判するのであれば

もう少し科学的な根拠を挙げてほしいものだ。

 

 

健康大国・科学技術のドイツという神話

健康関係の広告
例えば体臭が消えるとか
○○が大きくなるとか
身長が高くなるとか
この手の健康食品の
よくあるキャッチコピーが
日本初上陸ってやつ。

だが、これって
海外で本当に売れているの???って思って
ネットで探しても見つからないというのが
よくある。
そんなのは超怪しい。
その効果もかなり胡散臭いなって思う。

ひどいものなんかは
製造国日本と書いてあり、
しかも、輸入の貿易商の名前も書かれてなければ
海外のライセンスを持つ会社の名前も書かれていない。

結構多いのが
ドイツ

キャッチコピーにドイツで開発とか
特許とか謳われてるのがあるけど
独逸のサイトにもどこにもないというのが
よくあるのだ。

だから、サプリで
○○○を大きくするなんて
ありえないんだろうなって
やはり思うんだよね~

ドイツ語音楽

一時期クラシックばかり聞いていた時代がある。

とりわけドイツ音楽は心にもっとも染み渡る相性がいい音楽だ。

 

あるいはオーストリアの音楽も比較的好きなものが多い。

ドイツ語文化圏の音楽は相性がいいと思う。

 

J・シュトラウスのワルツや喜劇「こうもり」は

何度聞いても飽きない。

 

ベートーベンとモーツァルトは古すぎて

あまり好きではない。

特にモーツァルトは

少し退屈な感じがする。

 

だが、ブルックナーとかヴァグナー、R・シュトラウスの音楽は

丁度いい刺激だ。

これは適度に不協和音が使われているからだろうと思う。

今の音楽は不協和音が現代音楽にしろロックにしろ

当たり前のように使用されているが

当時の音楽にしてみたら

活気的なものだったと思う。

それだけに古典的な音階で私たちは「極楽」という死の世界の安心感を覚え

不協和音で「生」を感じることが出来るのだと思う。

 

ドイツ音楽でもブラームスと言うのは

全く退屈で眠くなってしまう。

聞き続けるには結構忍耐力が要求される。

音楽の事はよくわからないが

おそらく何かがヴァグナーを頂点とする

音楽とは違う世界のものなのだろう。

ブラームスはあまりに非ドイツ的な印象を与えられてしまう。

何故彼がドイツ楽派と呼ばれるのかよくわからない。

 

ショーペンハウエルが

音楽は人間の生の苦しみから救済してくれると述べたが

それも音楽によるだろうなと思わされる。

現代音楽を聴いて救済されるには

あまりに自分は苦悩から遠くに住んでいるように思われる。

むしろ聞き続ける事によって

逆に苦悩を呼び起こしてしまうのではと疑いたくなる。

ブラームスにしても

現実を飛び出す事はできない。

それだったら、ショスタコビッチやマーラー、ストラビンスキー、プロコフィエフの方が

まだ救済されうると思う。

生の世界ではなく、何も感じることの出来ない

それがドイツ楽派の音楽なのだが

私は変わり者なのだろうか。

鄙びた文献のような音楽がブラームスで

ブルックナーやヴァグナーというのは

1000年先の音楽なのだ。

我々は彼らの音楽を聴くことで

1000年先の世界を垣間見る事ができるのだ。

 

死と言うもの

私は葬儀も含め

人の死に接して

一度も泣いた事はない。

自分の母が亡くなったときすら

ほとんど無反応であった。

 

死が怖いものというのも

子供の頃に抱いた程度で

自分の死についても

あまりピンと来ない。

 

同世代の人たち以降に

生まれた人間が

ほとんど死を軽いものとみていると

言われていてもそれは

不思議な感じがしない。

 

死と言うのは

少なくとも生まれる前の状態と

同じものだ。

生まれる前が怖くないのと同じように

死んだ後も怖くない。

 

動物は死ぬまでは恐怖心を抱くが

死んだ後の事を憂える事はない。

 

人間のみが死んだ後の事を

恐れるのだ。

 

人間が死を恐れるのは

失うことを怖れていることも

原因のひとつに数えられると思う。

 

様々な宗教が死後の世界を描いているが

これは死んだ後が

生前の裁きと刑が科せられると

脅すためだ。

そうすることで

信者を増やしているのだ。

 

ショーペンハウエルなどは

その考えの典型的な哲学者だと思う。

 

娘に祖母の死を語るときに

死ぬのは生まれる前の世界に行くんだよと話した。

全くよく理解してくれた。

 

さて、皆さんはどうだろう?

Wodan教に入信するかね???

 

 

君たちの結婚式ではどんな曲をかけたのかな???

その昔雑誌などに

ローエングリーンの白鳥の銀像が

売られていた。白鳥はご利益があるらしい。

 

ローエングリーンは中世の伝説の騎士である。

 

ヴァーグナーは

まだオペラとこの作品を呼んでいた。

 

ヴァグナーのオペラでも

ニュルンベルクのマイスタージンガー以降は

Musikdrama楽劇と

呼ばれている。

 

このローエングリーンとマイスタージンガーと

ニーベルングの指環、そしてパルジファルは

非常にドイツ的である。

国家社会主義ドイツ労働者党は

これらの作品の前奏曲を好んでオーケストラに

演奏させたし、映画のBGMにも使用している。

 

ローエングリーンの第Ⅲ幕への前奏曲は

ドイツ軍が進軍をし続けている時のイメージにピッタリである。

多くの人たちがこの前奏曲を聞いた事があるだろうが

曲名を知らないでいると思う。

 

テレビ漫画の鉄腕アトムの第一話でアトムが

初めてこの世に生を受けた時のシーンでの

BGMがやはりローエングリーンだった。

ここでは第Ⅰ幕の前奏曲だ。

 

この他に結婚式でよくかかる

結婚行進曲も

ローエングリーンの第Ⅲ幕への前奏曲に引き続いて

かかる音楽だ。

 

非常に有名な曲が多いわりには

あまり物語を知らない人が多い。

ローエングリーンはCDにすると4枚だから、

3時間半位でオペラとしては手頃である。

もっと知られていてもいいのにと思うのだが・・・

 

ところで、この作品

ローエングリーンは

エルザと結婚するが

名を聞いてはいけないと

エルザに約束させる。

 

ところがそそのかす

悪い女がいて

ついにエルザはローエングリーンの正体を聞いてしまう。

 

その禁を破ったために

ローエングリーンは白鳥に乗って去っていき

エルザは死んでしまう

 

そんな悲劇なのだが、

この二人の婚礼の合唱が

現代の結婚式でも定番なのは

不思議である。

なんだかあの婚礼の合唱→破滅という図式なのだから

本来ならば不吉なんではと思うのだが。

 

同様にヴェルディの椿姫でも

乾杯の歌ってのがある

これも結婚式の定番曲だが

やはり主人公のヴィオレッタは

恋人アルフレートの目の前で

結核により死んでしまっている

 

結婚式の定番は2曲とも

不吉じゃないか。

 

というわけで、私の中では

この2曲はオペラ好きではあるけれど

自分の結婚の際には一切かけなかった。

 

さて、君たちの結婚式ではどんな曲をかけるのかな???

かけたのかな????

差別

ドイツでは

ネオナチが

いまだにトルコ人や

有色人種に対して

人種差別をしているが

この差別ってのは

人類が存在する限りなくならないのでは?と

思う。

 

私の友人でドイツから

ノルウェーに嫁に行った人がいる。

臨床検査のバイトをしていたが

やがてノルウェー男性と知り合い

結婚することになった。

 

この人がノルウェーに行った頃

いつも泣きの入った手紙を貰った。

今から20年くらい前のことだ。

 

夫はノルウェー人で

恐らく新婚生活を

楽しみにして彼女は

ノルウェーに渡ったのだろう。

だが、現実はあまりに悲惨だった。

 

まずノルウェー語がうまく話せない。

このためにノルウェーの青少年たちから

何でお前はノルウェー語が話せない!!

ドイツ人だからだ!!と罵られ

ある時は一斉にまわりから無視をされ

甘い生活どころか

針のむしろのような

生活を体験した。

さらには夫が

肺を患い、

肺の移植手術を受けた。

 

そんなところに追い討ちで

今度は彼女自身が

脳腫瘍だ。

 

あまりに悲惨すぎて

気の毒だったが

脳の手術を受け、

療養生活を余儀なくされた。

 

こうなってしまうと

どうにも生きるのも厭になってしまうのが常だが

なんと彼女は学校に行った。

ノルウェー語の学校。

そして、ウェブデザインの学校。

 

ウェブデザインのほうは

非常にうまく行き

2000年頃ホームページを立ち上げた。

非常に美しいホームページだった。

 

凄いなと思った。

よく手紙には

サラサラと流れるような曲線の

非常に凝ったイラストが

描かれていたが

その才能を活かす事が出来たのだ。

 

それからは非常に自信が出来たのだろう。

生き方もかなり強くなり

愚痴もこぼさなくなった。

 

差別ってのは

された方にしてみると

かなりの精神的な打撃を

受けるが

彼女は丁度冬の麦のように

踏みつけられても

立派な実を作り上げたのだ。

 

さて、私もいつかそんな風になれるかな…

ひとつ年上の女性だったが

大した人だなって思う。

 

そういえば

デンマークの方では

北と南とでは

北の人が

南を不潔だと

考えていると言うのを

何かで読んだことがある。

ノルウェー人にとって

ドイツ人というのはもしかすると

非常に不潔な民族に見えたのかもしれない。

 

差別はそもそもが自民族の防衛のために

本能的に行なうことが多い。

例えば体臭や口臭などから

自分たちと相手を見分け

区別・差別する。

 

それは感染症から民族を守るために

行なう本能である。

 

現代においては

かなり衛生面で

先進国に関しては

境界がなくなってきている。

 

だが、大昔は違うと思う。

ペストでも性病でもあっという間に

感染していった。

そして多くの人たちが

あっという間に亡くなってしまった。

恐らく現代の差別はその名残ではないかと思う。

 

ヒトラーの我が闘争を読んでいると

ユダヤ人の事を

ペストと擬えたり

非常に不潔な民族として

彼が認識していたということが

わかる。

 

経済的な危機感

 

精神的な不安

 

本能に基づく衛生観念

 

それらから現在の差別は発生している。

結局最後には貧困が

差別を引き起こしている事が

自明になる時代がくるだろう。

関口存男 冠詞 復刻

ドイツ語の世界では

久しぶりの名著の復刊がある。

これは福田総理が辞任することよりも

びっくりの大事件だ。

ドイツ語の神様と呼ばれた関口存男先生の
長い間絶版であった「冠詞」が
ついに復刻だ。

意味形態論を展開し
単なる冠詞の参考書ではなく
ドイツ語の「大文法書」という性格の冠詞論が
復刻される事になった。

今までにもっていなかった人々には
朗報である。
何しろ事あるごとに様々な論文に
この書の引用文が掲載されていても
実際にこの「冠詞」を読むことの出来る人は
ごく限られているからだ。

実は数年前に
私宛にメールで
「冠詞」を1冊15万円で購入したいという
申し出が全く知らない人から届いた。
私はこの本は絶版後
苦労して出版社より新刊の状態で
編集者より売ってもらったことがあったので、
絶対に手離したくないしまた手離せないと思っていた。

一方で例えば某インターネット書店などでは
30万円近くの値がつけられて
販売されている。
それが復刻されれば
1冊5万円台で購入できるのであるから
本当にお手軽な価格である。

関口先生に対する毀誉褒貶があるが
多くの非難については
この長らく絶版であったために
彼の最大の著作を読んだこともないような
人による可能性が高いと思われるので、
手軽な価格になれば
誰もが読むことが出来
彼に対する誤解も解消するのではないだろうかと
期待される。

この復刻を大歓迎したい。

ドイツ語が最近元気がないが

こういう刺激的な書物が出版されれば

ドイツ語にまた活気が出てくるのではないだろうか。

冠詞 復刻版 第1巻 定冠詞篇/関口 存男
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冠詞 復刻版 第2巻 不定冠詞篇/関口 存男
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冠詞 復刻版 第3巻 無冠詞篇/関口 存男
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