スライムを従える少年の冒険を作ってみました

 


# スライム使いの少年

## 第一章 森の家

村はずれの森の奥に、一軒の家があった。

村人たちはその家を「よそ者の家」と呼んだ。
家の主であるガレットは、遠い東の地から流れ着いた
冒険者で、この村に根を張ろうとしたとき、
村の長老たちに「余所者を歓迎する習わしはない」
とはっきり告げられた。
それでもガレットは村を離れなかった。
村の近くの森に土地を見つけ、自分の手で丸太を切り、
石を積み、小さいながらも温かな家を建てた。
彼の傍らには常に妻のマドレーヌがいた。

マドレーヌは薬草の扱いに長けた女だった。
森の恵みを熟知していて、薬草の場所を知り、
季節ごとに何を摘めばいいかを心得ていた。
ガレットが魔物の討伐で稼いだ金と、
マドレーヌが薬草を売って得た金で、
二人は慎ましく、
しかし十分に幸せな暮らしを営んでいた。

そして六年前、その家に新しい命が生まれた。

少年の名はフラン。

フランが初めて歩いた日のことを、
ガレットはよく話してくれた。

「お前はな、俺の方じゃなくて、
庭に向かって歩いていったんだ。
最初の一歩が庭へ向かうなんて、
変わった奴だと思ったよ」

そしてガレットはいつも笑い飛ばす。
だがその話には続きがあった。

庭に向かって歩いたフランの前に、
透明な小さな塊が現れた。
プルプルと揺れて、
フランを見上げるように動いていた。
スライムだった。
森の中に棲む最弱の魔物。
冒険者の卵が最初に相手にする、あのスライムだ。

普通なら子供が近づけば危ない。
だがそのスライムはフランの足元に寄り添い、
まるで子犬が初めて主人に出会ったときのように、
嬉しそうに揺れていた。

マドレーヌは悲鳴を上げてフランを抱き上げようとした。
ガレットは腰の剣に手をかけた。

しかし。

フランはスライムに向かって手を伸ばし、
そのぷよぷよした体に触れ、声を上げて笑った。

その日から、庭にスライムが集まるようになった。

---

フランが三歳になる頃には、
庭は常時十匹以上のスライムで賑わっていた。
透明なもの、青いもの、緑のもの、泥のように茶色いもの。
森の中から次々と集まってくるスライムたちは、
フランの言葉に従い、フランの側を離れなかった。

「あの子は一体何なんだろう」
とマドレーヌはガレットに言った。

「さあな」
とガレットは答えた。

「俺には分からん。でも良いじゃないか。
スライムに好かれる子供なんて、
世界中を探してもそうはいないだろう」

スライムは魔力に反応して形を変える性質がある。
フランはいつしか、
スライムに簡単な形を取らせることを覚えた。
平らにさせる。丸くさせる。長く伸ばす。
最初は単純な形だったが、五歳になる頃には、
スライムを完全な球体に整えたり、
薄く広げて布のようにしたりと、
その変化の幅は驚くほど広がっていた。

マドレーヌはスライムが薬草採りの
手伝いをするようになったことに気づいた。
フランが「あっち」と指差すと、
スライムが先に進んで道を確かめる。
そしてフランが「採って」と言うと、
スライムは草の根元に体を滑り込ませ、
丁寧に引き抜いてフランに渡すのだった。

「この子、スライムと話してるのかしら」

「話してるというより……感じてるんじゃないか。
スライムが見てるものを、あの子も感じてる」

ガレットの言葉は正しかった。
フランはスライムと感覚を共有していた。
スライムが触れるものをフランは感じ、
スライムが感じる温度や湿度や気配を
フランは受け取っていた。
それは生まれた時から自然にそうなっていたことで、
フラン自身は特別なことだとは思っていなかった。
ただ、スライムと一緒にいると、
世界がとても広く感じた。
それだけのことだった。

---

あの日が来るまで、三人の暮らしは幸せだった。

フランが六歳の春、
森の奥から異様な気配が漂い始めた。

それはオーガ・キングと呼ばれる魔物だった。
通常のオーガよりも一回り大きく、皮膚は岩のように硬く、
その咆哮だけで木の葉が散る。
そんな魔物が、なぜこんな辺境の村の近くに現れたのか、
誰にも分からなかった。

村の狩人たちは七人。
ガレットを加えて八人で討伐隊が組まれた。

フランは家の前でガレットを見送った。

父は大剣を背負い、革の鎧に身を包んでいた。
出発の前に、ガレットはフランの前に膝をついた。

「フラン、父ちゃんはちょっと行ってくる」

「魔物を倒しに?」

「ああ」

「強い魔物?」

ガレットは一瞬黙った。
それからフランの頭を大きな手でくしゃりと撫でた。

「父ちゃんは強いから大丈夫だ。マドレーヌ、頼む」

「気をつけて」

母の声は穏やかだった。
だがフランは、母の手が自分の肩を
いつもより強く握っていることに気づいていた。

討伐隊が森に入って三時間が経った頃、
村人たちの間に動揺が走った。
狩人の一人が駆け戻ってきたのだ。
続いて二人、三人と戻ってくる。
顔は青ざめ、武器を捨てた者もいた。

「逃げろ! 化け物だ、あんなの人間には無理だ!」

七人の狩人全員が逃げ帰っていた。

ガレットは一人、森に残されていた。

マドレーヌはフランの手を引いて村の外れまで走った。
森の入り口から轟音が聞こえた。
地面が揺れた。
木々が揺れた。
そして長い沈黙の後、すべての音が止まった。

ガレットは帰ってこなかった。

翌朝、
村人たちが恐る恐る森に入ると、
オーガ・キングは倒されていた。
その傍らに、ガレットが倒れていた。

フランはその光景を見ていない。
マドレーヌが見せなかった。
だが全てを理解した。
六歳でも、それくらいのことは分かった。

父は勝ったけれど、死んだ。
一人だったから。

---

それから二年間、
マドレーヌはフランを育てるために働いた。

薬草を採り、煎じ、村で売る。
夏も冬も、雨の日も、森に入った。
体が小さくなっていくのをフランは感じた。
顔色が悪くなっていくのも分かった。
だが「大丈夫よ」と母は笑った。
「母ちゃんは丈夫だから」と言った。

スライムたちが薬草採りを手伝った。
フランも一緒に森に入った。
だが毎日のように続く重労働は、
マドレーヌの体をじわじわと削り取っていた。

フランが八歳になった秋、マドレーヌは床に伏した。

熱が続いた。
咳が止まらなくなった。

「フラン、ちゃんとご飯食べなさいよ」

「うん。母ちゃんもちゃんと食べて」

「そうね……食べるわね……」

マドレーヌは食べなかった。
食べられなかった。

枯れ葉が舞い散る十月の朝、
マドレーヌは静かに息を引き取った。

フランはそのとき、母の手を握っていた。

最後にマドレーヌはフランの名前を一度だけ呼んだ。
それからもう何も言わなかった。

フランは長い間、母の手を握り続けた。
スライムたちが静かにフランの周りに集まって、
プルプルと揺れていた。
まるで泣いているみたいに。

---

その夜、
一匹のスライムがマドレーヌの姿に変わった。

形は完全ではなかった。
少しぼんやりとして、色も曖昧だった。
でもマドレーヌの輪郭は確かにそこにあった。

フランはそのスライムを見て、長い時間黙っていた。

それから言った。

「……ありがとう」

スライムはプルプルと揺れた。

フランは泣かなかった。
もう泣かないと決めていた。
父が死んだとき泣いた。
母が死んだとき泣いた。もう十分泣いた。
これからは、泣く代わりにやるべきことをやろうと、
八歳のフランは決めた。

その日からフランは本当に一人になった。

ただし、スライムたちがいた。

## 第二章 一人でも生きていける

八歳から十二歳の四年間で、
フランのスライム使いとしての力は
驚異的な発展を遂げた。

もともと持っていた感覚共有の能力が、
訓練によって格段に鋭くなった。
一匹のスライムと感覚をつなぐだけでなく、
複数のスライムと同時につながり、
その全ての視点を頭の中で一枚の地図のよう
に統合できるようになった。
十匹のスライムを森の各所に配置すれば、
家から半径一キロ以内の動きが全て把握できる。
魔物が近づけば気配でわかる。
人間が来れば足音でわかる。

攻撃にも変化があった。

スライムを薄く広げて刃のように鋭くする。
それを高速で打ち出せば、
スライム・ブレードとでも呼ぶべき斬撃になる。
スライムを固く圧縮して弾丸のように飛ばせば、
遠距離からでも魔物を打ち抜ける。
スライムを大量に集めて鎧のように全身に張り付ければ、
剣や爪では傷つかない防御膜が出来上がる。
スライムは本来軟体で、刃を通さない性質がある。
固めれば岩より硬く、緩めれば衝撃を吸収する。
これを自在に操れるフランの防具は、
どんな金属鎧より優秀だった。

九歳の頃、
フランはスライムを別の生き物に変えることを試みた。

最初は失敗続きだった。
鳥の形にしても、羽ばたく動きができない。
魚の形にしても、水を泳ぐための動きが再現できない。
だがフランは諦めなかった。
スライム自体に感覚共有で語りかけ、
どんな動きをすべきかを
イメージとして伝えることを繰り返した。

三ヶ月後、スライムが初めて空を飛んだ。

鷹に似た形をしたスライムが、
羽ばたいて木の上まで上昇した。
フランはその目から空の景色を見た。
森が小さく見えた。
家の赤い屋根が見えた。
遠くに村の煙が見えた。

フランは笑った。
久しぶりに、声を上げて笑った。

十歳の終わりには、
スライム鷹が一時間飛び続けられるようになった。
フランはその目を通して村を観察した。
人々が畑仕事をしている。
子供たちが走り回っている。
市場で物を売り買いしている。

フランが知らない日常がそこにあった。

羨ましいとは思わなかった。
ただ、遠いと思った。

---

十一歳の夏に、フランは初めて大きな魔物と戦った。

オーク。
成人男性より大きく、粗雑だが力は強い。
一般の冒険者なら三人がかりで挑むような相手だ。
それが一匹、
感覚共有網を突き破って家の近くまで来た。

フランは落ち着いていた。

まずスライム鷹を上空に飛ばし、
オークの位置を正確に把握した。
次にスライムの鎧を全身に纏った。
それから右腕に大量のスライムを集め、
圧縮して鋭化させ、
一メートル以上の長さの剣を形成した。
スライムを使った武器は金属ではないため音がない。

オークが木々の間から姿を現した瞬間、フランは動いた。

右から回り込んで死角に入る。
オークが振り向いた瞬間にスライム剣を
首の側面に叩きつける。
スライムの刃は肉を断った。

オークは倒れた。

フランは少し息を切らしながら、
倒れた魔物を見下ろした。

「……強かった」

スライムたちがフランの足元に集まって揺れた。

「ありがとう、みんな」

フランにとって、スライムは家族だった。
兄弟のようでもあり、親友のようでもあった。
母の姿のスライムはいつもフランの隣にいて、
時々頭をなでるように体を伸ばしてきた。
その感覚は完全に母の手ではなかったけれど、
フランには十分だった。

---

十二歳の春、
フランはふとした考えに取り付かれた。

*父は冒険者だった。*

父の大剣は今も家の壁に飾ってある。
父のことを直接語ってくれる人は、もう誰もいない。
だがマドレーヌが話してくれた記憶の中に、
ガレットの姿がある。
魔物を倒すことを仕事にして、
その報酬で家族を養った男。
強くて、優しくて、最後まで逃げなかった男。

*自分も冒険者になれるだろうか。*

冒険者になれば、依頼を受けて報酬が貰える。
薬草採りだけに頼らなくても生きていける。
それに、自分の力を使える場所があるということが、
なんとなくフランには大切に思えた。

スライム鷹を飛ばして村を観察していると、
冒険者らしい装備の男女が何人か
村に立ち寄っていくのが見えることがあった。
剣を持ち、鎧を着て、自信ありげに歩いている。

「俺も、あんな風になれるかな」

母の姿のスライムが揺れた。

「そうだな。行ってみるか」

## 第三章 村へ

その日の朝、フランは支度をした。

着ていくものはいつもの麻の服だ。
ただし、薄くしたスライムを全身に密着させてある。
見た目には普通の布に見えるが、
外部からの衝撃を分散し、刃をある程度受け流す。
この「スライム肌着」を纏うフランの防御力は、
生半可な鉄の鎧を超えている。

持ち物は、母が使っていた薬草の入った革袋と、

父の形見の短剣一本。

父の大剣は大きすぎてまだ扱えない。

今は壁に飾ったままにしておく。

スライムは三十二匹を連れていく。
小さなスライムは服の下に隠れ、
大きいものは周囲を散らばって感覚共有の網を張る。
鷹型が一匹上空を飛んでいる。

「母ちゃん、行ってくる」

母の姿のスライムが揺れた。
その形はいつの間にか精巧になっていて、
マドレーヌが微笑む表情に見えた。

フランは一度だけそのスライムを抱きしめ、
それから離れた。

「留守番してて」

スライムはプルプルと揺れた。

---

森を抜けて村の入り口に立ったのは、昼過ぎだった。

村は小さかった。

スライム鷹の目で何度も見ていたから
知っているつもりだったが、実際に足を踏み入れると、
その小ささが肌でわかった。
通りは一本。
店が数軒。
家が三十軒あるかないか。
村の中心に小さな広場があり、
そこで老人が日向ぼっこをしていた。

フランは息を吸った。
人間の匂いがした。
炊事の煙の匂い、家畜の匂い、
人が集まっている場所独特の、
ごちゃごちゃとした匂い。

誰かがフランに気づいた。

「おい、あの子……森の方から来たな」

「ああ、そうだな。よそ者か?」

「いや待て、あの子……
もしかして、ガレットの息子じゃないか?」

囁き声が聞こえた。
感覚共有のせいで、スライムが拾う音がフランの耳に届く。
村人たちの視線が集まっていた。
好奇心と、少しの警戒心と、
後ろめたさが混ざったような目をしていた。

フランは気にしなかった。目的は一つだ。

通りを歩いて、
一番近くにいた農夫らしき男に声をかけた。

「すみません」

男は少し驚いた顔をした。

「……なんだ?」

「冒険者になるには、どうすればいいですか」

男は目を丸くした。
それからじっとフランを見た。

「冒険者? お前が?」

「はい」

「何歳だ」

「十二です」

男はしばらく黙った。
それから「ここには冒険者ギルドはない」と言った。
「ギルドに登録するには、街まで行かないとな」

「街、ですか」

「ああ。ここから東に三日ほど歩いたところに、
ランズベルという街がある。
そこにギルドがあるから、そこで登録できる」

フランは頷いた。

「ありがとうございます」

「……お前、本当にガレットの息子か?」

フランは男の目を見た。

「そうです」

男は何か言おうとして、口を閉じた。
その表情に罪悪感の色が浮かんだのを、
フランは見逃さなかった。
あのとき逃げた狩人の一人だろうか。
あるいはその身内か。

「気をつけていけよ」
と男は言った。

「街道は今、魔物が増えている」

「大丈夫です」

フランは踵を返した。

---

帰り道、フランは振り返って村を見た。

小さな村だった。
父が馴染もうとして、馴染めなかった村。
マドレーヌが薬草を売りに来ていた村。
誰もフランを歓迎しなかった村。
でも誰もフランを傷つけなかった村。

不思議と憎しみはなかった。

人間は弱い、とフランは思った。
怖いものから逃げる。
知らないものを遠ざける。
それは自分だってそうかもしれない。
父はそれでも逃げなかった。
それが父の凄さだったのかもしれない。

「行こう」

スライムたちが足元でプルプルと揺れた。

フランは家に戻り、荷物をまとめた。

大きな麻袋に食料と薬草と水袋を詰めた。
父の大剣は……少し迷って、持っていくことにした。
まだ上手く使えない。
でも父の剣を持っていきたかった。
スライムを使って背負えば、重さは問題ない。

最後に母の姿のスライムの前に立った。

「ついてきてくれるか?」

スライムが揺れた。

「そうか。じゃあ一緒に行こう」

スライムが形を変えた。
マドレーヌの姿ではなく、小さな球体になって、
フランの胸ポケットに収まった。
そこから見える景色をスライムは感じ取り、
フランはそのスライムが感じる安心感を受け取った。

翌朝、フランは旅立った。

三十二匹のスライムを連れて。
父の大剣を背負って。
空にはスライム鷹が飛んでいた。

東への街道は、朝の光の中に伸びていた。

フランは一度も振り返らなかった。

---

森の家は静かになった。

でも庭のあちこちにスライムの跡が残っていた。
プルプルと揺れた痕跡が草の上にあった。

そしてフランが旅立った方向に、
小さな足跡が続いていた。

それはやがて街道に合流して、
東へ、東へと延びていた。

最弱の魔物と呼ばれる存在を友として、
両親から受け継いだものを胸に抱いて、
十二歳の少年は世界へ踏み出した。

その旅の先に何があるかは、
まだ誰にも分からない。

ただ一つ確かなことは、
どんな強敵が現れても、
フランは逃げないということだった。

父がそうだったように。

*――第一章 完――*

 

近年 ドローンによるスウォーム攻撃が

大国の軍隊に大きな打撃を与えていて

中小国でも大国の軍隊と対等に戦える

なんて思惑が出てしまい

中小国の独裁国家がこうなると

戦争の拡散が懸念されます

そういう事の起こらない世界にするには?

そんな考えから出来たお話です

 

 

# 見えない盾

## 第一章 会議室の空中

テルアビブ郊外、イスラエル国防省の別館。
窓のない灰色の会議室に、
星章をいくつも胸に並べた将校たちが無言で着席していた。

上座に座るのはベン=アリ少将。
六十がらみの、日焼けした岩のような男だ。
彼の両隣には情報部と兵器調達部の高官が控えており、
全員が同じ表情をしていた――懐疑と、
それを悟られまいとする努力が混在した、
軍人特有の顔だ。

「お時間をいただきありがとうございます」

日本語訛りの英語でそう言ったのは、
黒いスーツを着た三十代の男だった。
名刺には
〈L'sコーポレーション 海外事業部 橘 凌〉とある。
痩身で眼鏡をかけており、
どこかの大学院生と言われても違和感がない。

彼がケースから取り出したものを見て、
将校の何人かが思わず顔を見合わせた。

それはロープだった。

直径二センチほど、長さ一メートル程度の、
つや消しのグレーをしたロープ状の物体だ。
断面は円形で、
表面には細かい繊維のような構造が見て取れる。
彼はそれをテーブルの上に
ゆるやかなS字を描くように置いた。
まるで気の抜けた飾り紐のようにも見える。

「これが弊社のプレゼンテーション用ディスプレイです。
電源を入れます」

橘がタブレット端末を操作すると、
ロープの表面がわずかに青白く光った。
次の瞬間、空中に映像が浮かんだ。

将校の一人が思わず立ち上がった。

テーブルの上に寝そべった一本のロープから、
大型液晶ディスプレイと見紛うほど
鮮明な映像が空中に展開されていた。
ホログラムのような光の散乱はなく、
砂漠の稜線を映したその映像は、
岩の質感まで伝わるほどに精細で、
まるで空間そのものに切り取り窓が開いたようだった。

「驚かれましたか」
橘は淡々と言った。

「ただのプレゼン機材ですので、
これは本題ではありません」

ベン=アリ少将が顎に手を当てたまま動かない。
彼の視線はロープと
その上空の映像の間を何度も往復していた。

---

## 第二章 見えない天井

「探知シールドについてご説明します」

橘が画面を切り替えると、
上空から俯瞰した地形図が浮かんだ。

「先ほどのディスプレイは、
ロープ状の本体に内包された素子が
特定の周波数帯の場を空間に展開しています。
探知シールドはこれと同一の原理で造られています。
形状もロープ状のケーブルを地面に敷設する形で
設置できますが、出力が桁違いに大きい。
展開できる探知域は高度一〇〇〇メートルまで、
水平方向には設置するケーブルの長さと
本数に応じて自由に拡張可能です」

「ロープを地面に置くだけで、
高度一〇〇〇メートルの探知域が張られると言うのか」
情報部のコーエン准将が口を開いた。
声に棘がある。
「どういう原理だ。電波か? 赤外線か?」

「どちらでもありません。
詳細は機密ですが、場の歪みを検出する方式です。
ケーブルから展開された場の中に物体が入り込むと、
その歪みを瞬時に検出します。
電波吸収材もステルス塗料も、
物体の存在そのものは消せない。
質量があれば必ず検知されます」

コーエン准将の目が細くなった。

「ステルス機でも?」

「例えF-35であっても、B-2であっても、関係ありません。

シールドを通過した瞬間、座標、速度、サイズ、
すべての情報がリアルタイムで出力されます」

会議室に沈黙が落ちた。
将校たちは互いに視線を交わさなかった。
それは動揺を隠すための訓練された反応だった。

コーエン准将がテーブルの上のロープに目を落とした。
S字に曲がったまま静かに横たわっている
それを見ながら、彼は何かを考えるように口を閉じた。
あの地味な一本のロープと同じ原理が、
一〇〇〇メートルの不可視の壁を作る。
頭では理解しようとしているが、どこかが追いつかない。

橘はその沈黙をものともせず、指を滑らせた。

---

## 第三章 オートスナイパー

次に映し出されたのは、
砂漠に設置された対空砲の映像だった。

全体的なシルエットはガトリング砲に似ているが、
砲身は一本だ。
台座に固定され、センサーユニットと思われる
球状の装置が上部に鎮座している。
無骨ではあるが、
どこか生物的な印象を受ける機体だった。

「対空砲『オートスナイパー』です」

橘が口にした名前を、
ベン=アリ少将は心の中で繰り返した。

「超高速弾を精密射撃で発射します。
有効射程は約一五キロメートル、
熟練狙撃兵に匹敵する弾道精度を持ち、
一基あたり二秒間で約三目標の撃墜が可能です」

「一五キロ?」

兵器調達部のシャピロ大佐が初めて口を開いた。

「通常の対空機関砲は三から四キロだぞ。
それの四倍近いというのか」

「三・七五倍ですね、正確には」
橘は訂正した。

「原理的には短射程のレールガンに
近い加速機構を使用していますが、
使用弾薬は一二・七ミリ機関砲弾の弾頭部分が
そのまま流用できます。
既存の弾薬インフラを変える必要はありません」

シャピロ大佐が思わず身を乗り出した。
レールガンという言葉が脳裏で警戒信号を点灯させたが、
既存弾薬が使えるという言葉がそれを打ち消した。

「砲身の寿命は?」

「約五〇〇〇発で交換が必要です。
通常の一二・七ミリ機関砲と同程度のサイクルです」

「メンテナンスは?」

「砲身交換以外は、メンテナンスフリーです」

大佐の手が止まった。

「……本体が、か?」

「はい。内部機構の検証を繰り返した結果、
故障率はほぼゼロです。
本体への人的な整備作業は一切不要です」

少将が初めて前のめりになった。

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## 第四章 動画が語るもの

「実際の映像をご覧ください」

ロープから展開された空中映像に、動画が広がった。

砂漠の上空に、無数の小さな黒点が現れた。
徘徊型ドローンのスウォームだ。
ざっと目測で五〇〇機は超えている。
蜂の群れのように密集し、
一定の間隔を保ちながら目標へ向かっていた。

静寂の中、単発の射撃音が響いた。
一機落ちた。

また鳴った。また落ちた。

やがて射撃音はリズムを持ち始め、
ドローンは次々と空から消えていった。
まるで誰かが画面の上の黒点を指で弾いているようだった。

機械的で、冷静で、完璧な撃墜だった。

「この映像では、約五キロメートル先に敷設した
探知シールドのケーブルからの情報を受け、
オートスナイパーが迎撃を行っています。
この距離で、一基あたり約一分間で
約九〇機の撃墜が可能です。
一二基を配備すれば、一分間で一〇〇〇機以上の
同時対処が実現します」

ベン=アリ少将は映像から目を離さなかった。

スウォーム攻撃。
近年それは悪夢だった。
安価な民生ドローンを改造した自爆機が
数百機単位で押し寄せてくる。
アイアンドームのミサイルは一発あたりのコストが
五〇〇〇万円を超える。
スウォームを防ぐためだけに
一発一万円のドローンに対して
高価なミサイルを撃ち続けることは、
経済戦争における敗北を意味していた。

「迫撃砲弾、榴弾、ロケット弾への対処は可能か」

少将が静かに聞いた。
声に感情がなかった。
それは少将が本気になったときの声だと、
同席した部下たちは知っていた。

「可能です。
弾道解析の速度については、
ご要望があれば別途データをご提供します」

アイアンドームの代替。
その言葉が少将の頭の中で静かに点滅した。
コストは、比較するまでもない。
一二・七ミリ弾の単価は一発あたり数十円から数百円だ。

少将はもう一度、テーブルの上のロープに目を落とした。

地味で、曲がっていて、
何の変哲もないように見えるそれが、
今この瞬間も空中に精細な映像を映し出している。
あれと同じものを地面に敷けば、
一〇〇〇メートルの盾が生まれる。

---

## 第五章 契約

「砲身はやはり、御社からの購入が前提ですね?」

少将は試すような目で橘を見た。

橘は少し微笑んだ。
軍人でも政治家でもない、静かな微笑みだった。

「そうです。
砲身は消耗品として継続的にご購入いただきます。
ただしそれ以外のコスト、整備員の人件費、
本体の修繕費、それらは一切発生しません」

少将は天井を見た。
見えない天井、見えない盾を想像した。
一〇〇〇メートルの高さまで張られた、
どんなステルス機も通さない見えない壁。
それを作るのが、地面に這わせた
一本のロープだというのが、
まだどこかで信じられない気がした。
だがこの会議室の空中に浮かぶ映像は、
その信じられなさが
的外れであることを証明し続けていた。

「探知シールドとオートスナイパー、
それぞれ一万セットを注文したい」

少将は橘の目を見て言った。
「追加購入の可能性も、高い」

橘は頷いた。
書類をテーブルに滑らせた。

「ありがとうございます。
纏め買い分の価格調整については、
この書類をご確認ください」

会議が終わり、将校たちが退出した後、
シャピロ大佐だけが立ち止まって
テーブルの上のロープを見た。

「持っても構いませんか」

「どうぞ」

大佐はロープを手に取った。
思ったより軽い。
表面は滑らかで、しかしどこか有機的な感触がある。
曲げても折っても、ただのロープにしか見えない。

彼はそれをそっとテーブルに戻し、
何も言わずに部屋を出た。

---

## エピローグ 加速する普及

その後、L'sコーポレーションとの契約は
NATOの複数加盟国に伝わった。

英国、フランス、ポーランド、バルト三国。
問い合わせは止まらなかった。
探知シールドのケーブルは国境沿いの地面に静かに敷かれ、

オートスナイパーはその背後に控えた。
見えない天井が、
西側諸国の地図の上に次々と広がっていった。

現地の兵士たちは最初、配備作業の簡単さに拍子抜けした。

重機も要らない。専門の技術者も要らない。
ケーブルを所定のルートに沿って地面に置き、
端末で起動確認をするだけだ。

橘凌は次の会議のためにワルシャワへ向かう機内で、
薄いノートパソコンを開いていた。
画面には次のプレゼン資料が表示されている。

タイトルは一行だけだった。

**「第三世代探知シールド――衛星軌道対応版」**

彼はシートの肘掛けにロープを一本、無造作に置いた。
機内の薄暗い照明の中で、
それはただの荷物紐にしか見えなかった。

彼は静かにコーヒーを飲んだ。
機体は雲の上を飛んでいた。

---

*了*
 

最初は普通の恋愛話を作っていたのですが

途中からなんかありふれてて嫌だな

って思って方向転換しちゃいました

 

 

 

# 図書室の魔女と、しゃっくりの魔法使い

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## 第一章 貸出カード

放課後の図書室は、いつも静かだった。

時計の秒針が刻む音と、
ページをめくる乾いた音だけが漂う、
その場所が、二年三組の水瀬(みなせ)ことは にとって、

学校でただひとつ息のできる場所だった。

司書の先生からは
「ことはちゃんは当番以外でも来てくれるから助かるわ」
とよく言われた。
べつに誰かの役に立ちたいわけではなかった。
ただここにいると、
クラスで感じるあの息苦しさがなかった。
自分が目立たないことも、眼鏡が古くさいことも、
誰とも輪になれないことも、
棚に整然と並んだ背表紙たちは何も言わなかった。

その日も閉館の十五分前から、
ことはは返却カウンターで当番をしていた。

「……もうそろそろかな」

蛍光灯の下で利用者名簿を確認していると、
扉がさっと開いた。

「まだ大丈夫ですか? これ、今日が返却期限で」

声と同時に差し出された本を、ことはは受け取った。

そして固まった。

タイトルを確認するまでもなく、
その本には見覚えがあった。
暗緑色の布張りの表紙。
金の箔押しで刻まれた外国語のタイトル。
国内で翻訳版の出ていないその海外小説は、
学校の図書室にはほとんど借り手がなく、
貸出カードに並ぶ名前はたった三つしかなかった。

司書補佐の先生の名前。
水瀬ことは。
そして——

ことはは顔を上げないようにしながら、
棚からカードを抜いた。

三つ目の名前は、確かに読んだ覚えがある。

*神崎陽向(かんざきひなた)*

知らない人間は、おそらくこの学校にいない。
三年生、サッカー部キャプテン。
全国大会常連校のエースで、しかも性格がいい。
後輩の面倒見がよくて、同級生には頼られて、
先生にも信頼されている。
廊下を歩けば女子が振り返り、
男子でさえ自然と目で追う。

ことはにとって彼は「別次元の人」だった。

見かけたことはある。
でもそれだけだ。
同じ空間に存在することはあっても、交わる線分ではない。
そう思っていた。

「…………はい、確認できました。
ありがとうございました」

なるべく顔を見ないようにして、
ことははスタンプを押した。

「助かりました。ありがとうございます」

爽やかな声と、爽やかな足音が遠ざかっていく。

ことはは一人になってから、
ようやくカードをもう一度見た。

*神崎陽向*

その名前を、静かにしまった。

---

翌日、
ことはは当番ではなかったが、午後の図書室に来ていた。

理由は、昨日の本だった。

棚に戻す前に、ことはは少しだけ迷って、
自分でその本を借りることにした。
以前一度読んだことがある。
でも、あの人も同じ本を読んでいた。
それだけのことが、
何故か小さなとげのように引っかかっていた。

窓際の席で本を開いていると、横から声がした。

「あ……その本、僕も読んだことあるよ」

ことはは心臓が止まるかと思った。

見上げると、神崎陽向が立っていた。

制服のネクタイを少し緩めて、
サッカー部の練習帰りなのか頬にわずかに血色がある。
こんなに至近距離で見たのははじめてで、
ことはの顔は耳まで赤くなった。

「も……もしかして、また本を借りに来ましたか」

我ながら精一杯の言葉だった。

神崎は少し目を細めて、
ことはの手元の貸出カードを見た。

「もしかして……君が、この本の最初の名前の人?」

ことはが小さく頷くと、
神崎は少し嬉しそうな顔をした。

「そうか。僕が借りる本はいつも君が先に借りてたから、
気になってたんだよね。 会えてよかった」

その言葉が、ことはの耳の奥でゆっくりと広がった。

*気になっていた。*

自分の名前が、あの人の視界にあったという事実が、
信じられなかった。
嬉しいというより、恥ずかしかった。
顔がいっそう赤くなって、
ことははなんとか「……そうですか」
とだけ言うのが限界だった。

それからだった。

図書室で神崎と顔を合わせることが増えた。
ことはが窓際で本を読んでいると神崎が来て、
棚の前でばったり遭うこともあった。
彼は必ず声をかけてきた。
読んでいる本のこと、作家のこと、
翻訳と原著の違いのこと。
話題はいつも本で、神崎は聞き上手だった。

ことはは慣れなかった。

何度会っても、声をかけられるたびに喉が緊張して、
返事が上ずった。
それでも神崎は特に気にした様子もなく、
静かに話を続けてくれた。

——あの人は、本当に本が好きなんだ。

ことはがそう確信した頃、
放課後の廊下で名前を呼ばれた。

振り返ると、三人の女子が立っていた。
いずれもことはより背が高く、
制服の着こなしが洗練されていた。
笑顔だったが、目が笑っていなかった。

「ちょっと来て」

---

## 第二章 呼び出し

連れていかれたのは、校舎裏の非常階段の踊り場だった。

「あなた、神崎先輩とよく話してるよね」

一番前に立った女子が言った。
ことははその子のことを知っていた。
三年生の取り巻きで、
神崎と同じクラスだという話を聞いたことがある。

「馴れ馴れしくしないでもらえる? 先輩がかわいそう」

「図書委員だからって調子乗らないでほしいんだけど」

「先輩だってお世辞で話してあげてるだけに
決まってるじゃん」

言葉は次々と積み重なった。
ことはは黙って聞いていた。
反論する言葉も、感情もなかった。
ただ、ここを早く終わらせたかった。

「……すみません。気をつけます」

それだけ言って頭を下げた。

帰り道、ことはは誰とも話さなかった。

*彼に迷惑をかけたくない。*

それだけを考えていた。

翌日から、それははじまった。

登校するとロッカーに落書きがあった。
机に「キモい」と書かれていた。
体育の時間に体操服を隠された。
廊下を歩いていると囲まれて、
小さな声でいろいろなことを言われた。

クラスメイトは誰も何も言わなかった。

ことははそれを責める気にもなれなかった。
もし誰かが助けようとすれば、
次はその子が標的になる。
それがわかっているから、
みんな見ないふりをしているのだ。
これは自分の問題だ、と思った。

それでも図書室では、
ことははいつも通りに神崎と話した。

彼に知らせても何の解決にもならない。
彼を困らせたくなかった。

ただ、その態度が彼女たちには
腹立たしかったらしかった。

「反省してないじゃん」

「調子乗ったままじゃん」

ある放課後、いつもより多い人数に囲まれた。

最初は言葉だけだった。でもその日は、違った。

最初の一発は、腕に当たった。

次は背中だった。

ことはは壁際に追い詰められ、
防ぐことも逃げることもできなくなった。
足に力が入らなくなり、その場にしゃがみこんだ。

頭上から腕が振り下ろされようとした、その瞬間だった。

——ひっく。

静寂の中に、間の抜けた音が響いた。

「え……」

殴ろうとしていた女子が、
きょとんとした顔で自分の口を押さえた。

——ひっく。ひっく。

止まらなかった。むしろ激しくなった。

「大丈夫?」

「ちょっと、どうしたの?」

周りの注意が一気にそちらに向いた。
ことはのことなど、誰も見ていなかった。

呆然としていることはの手を、誰かが掴んだ。

---

## 第三章 眼鏡の男子

「今のうちに逃げよう」

引っ張られるままに走った。

廊下の角を二つ曲がり、
人気のない渡り廊下に出たところで、手が離れた。

「急に掴んでごめん。怖かったでしょ」

振り返ると、眼鏡の男子生徒がいた。

ことはと同じくらいの背丈で、地味な色のカーディガン。
制服の着こなしに気を遣っている様子はなく、
髪も特に整えていない。
目立たない、
という言葉がそのまま人になったような印象だった。

クラスはたぶん隣か、そのあたりだと思う。
でも名前は知らなかった。

「……助けてくれてありがとう」

ことはが言うと、彼はわずかに目を伏せた。

それからの数日は、奇妙だった。

ことはに近づこうとする人間は、
必ずしゃっくりに見舞われた。
廊下で囲もうとした三人が、
示し合わせたようにそろって発症した。
教室で因縁をつけようとした女子は
授業中にしゃっくりが止まらなくなって
保健室に連れていかれた。

「水瀬って、もしかして……呪ってる?」

そんな声が聞こえるようになった。

野次馬がわざわざ図書室を覗きに来るようになった。
「図書室の魔女」という二つ名がいつの間にかついた。
ことはは呆れるより先に疲れた。
呪いなんて知らない。
しゃっくりの発生源も自分ではない。
でも何も言わなかった。

放課後、
例の眼鏡の男子から折り畳んだメモが渡された。

*話がしたいです。
放課後、駅前の喫茶店〈ハコニワ〉で待っています。
——橘賢人(たちばなけんと)*

---

木製の扉を押すと、コーヒーの香りがした。

橘賢人は奥の窓際の席にいた。
ことはが向かいに座るなり、
彼は立ち上がって頭を下げた。

「謝らせてください」

ことははメニューも見ていなかった。

「どうして謝るんですか」

橘は座り直して、ゆっくりと言った。

「あのしゃっくりは……僕がやっていました」

沈黙。

「他人にしゃっくりをさせて、
任意の時間だけ続けさせることができるんです。
おかしいですよね。
役に立つとは言えない能力で」

ことはは思わず少し笑ってしまった。

「……確かに」

橘はわずかに表情を緩めてから、
また真剣な顔に戻った。

「君が神崎先輩のせいで
虐めを受けていることは知っていました。
君が先輩をかばっているのも。
でも、今回の件を最初から仕組んでいたのは
——先輩本人なんです」

ことはは、言葉の意味をしばらく処理できなかった。

「……え?」

「以前にも同じことがありました」

橘の声は静かだった。

「先輩と親しくなった女子が、
取り巻きに虐められて
——最終的に学校に来られなくなった。
その子は今も不登校のままです」

橘は窓の外を少し見た。

「その子は、僕の幼馴染でした」

その横顔の、かすかな痛みを、ことはは見ていた。

「……神崎先輩は、自分から女子に近づいて、
特別扱いしているように見せる。
そうすると必ず取り巻きが動く。
先輩本人は何もしていない。
でも結果として、近づいた女子がひどい目に遭う」

「どうして……そんなことを」

橘は首を振った。
「理由はわかりません。
でも、わかれば止められたかもしれない。
あのとき、僕は何もできなかった」

コーヒーカップの縁を見つめながら、彼は言った。

「神社で、彼女がもとの笑顔に戻れるように
って祈りました。
能力が出たのは、その後です。
最初は使い方もわからなかったけれど
——また同じことが繰り返されているのを見て、
今度は止めたいと思ったんです」

窓の外を路面電車が通り過ぎていった。

ことははしばらく何も言えなかった。
あの爽やかな笑顔が、脳裏に浮かんでは消えた。
貸出カードの三番目の名前。
「会えてよかった」という言葉。
あれは全部——

「……ありがとう」

ようやく出てきた言葉は、それだけだった。

橘は目を丸くした。

「怒らないんですか」

「怒ってる」ことはは言った。

「でも今は、ちゃんと教えてくれたあなたに、
まずお礼を言いたかった」

橘は少しの間、困ったような顔をしていた。
それからぽつりと言った。

「……君は、変わってますね」

「よく言われます」

橘がかすかに笑った。
眼鏡の奥の目が、少し細くなった。

それが、
橘賢人がはじめてことはの前で見せた笑顔だった。

---

## 終章 図書室の住人たち

翌週から、ことはへの虐めはぱたりと止んだ。

「図書室の魔女」の噂はしばらく残ったが、
実害がなければ噂は噂で終わる。
神崎陽向が次に近づいた女子は、
事前に橘から警告を受け、上手く距離を置いた。
それ以上のことは、ことはには知らされなかった。

放課後の図書室に、新しい顔ぶれが一人増えた。

地味なカーディガンの、眼鏡をかけた男子が、
窓際のことはの斜め向かいに座るようになった。

最初は何も話さなかった。
お互いに本を読んでいた。

ある日、
ことはが橘の読んでいる本の背表紙を盗み見て、
小さな声で言った。

「それ、私も読んだことあります」

橘は顔を上げた。

「……どうでした?」

「三章の途中で一度閉じました」
ことはは正直に言った。

「でも最後まで読んでよかったと思った」

橘はしばらく考えてから、本に栞を挟んだ。

「三章の、どこで閉じましたか」

それから二人は、閉館の時間まで話していた。

蛍光灯の白い光の下で、
棚に並んだ背表紙たちが静かに聞いていた。

時計の秒針が、いつもと変わらない音を刻んでいた。

図書室は、静かだった。

ただ、
前とは少しだけ違った種類の静けさだった。

---

*了*
 

第百七十九弾「路地奥の灯り」から続いているお話です

 

他にも

第百八十弾「路地奥の灯り ― 遼の章 ―」

第百八十一弾「路地奥の灯り ― 真希の章 ―」があります



### 『路地奥の灯り ― 見えるもの ―』

 その日の夕方、真希はパソコンの前で固まっていた。

「……やっちゃった」

 小さな入力ミス。

 大事にはならなかった。修正もすぐに済んだ。

 それでも、胸の奥がざわつく。

 ――また、同じことを繰り返すんじゃないか。

 ブラック企業にいた頃の記憶が、嫌でも蘇る。

 

 遼は、少し離れた場所からその様子を見ていた。

 すぐに声をかけることもできたが、
 あえて少しだけ待つ。

 落ち着く時間を奪わないためだ。

 

「……大丈夫ですか」

 タイミングを見て、静かに声をかける。

 

「うん……大したことじゃないんだけど」

 真希は無理に笑った。

 

 遼は、画面をちらりと見た。

 そして、ふと違和感に気づく。

 

「……もしかして」

「?」

「目、悪いですか」

 

 真希は少し驚いた顔をした。

 

「え、分かんない。気にしたことない」

「文字、見づらそうにしてたので」

 

 言われてみれば。

 画面に顔を近づける癖はあった。

 

「一回、測ってみません?」

 

 軽い提案だった。

 責めるでもなく、問題を切り分けるような言い方。

 

「……うん、行ってみようかな」

 

 

 翌日。

 二人は近所の低価格な眼鏡店に入った。

 

 店内は明るく、整然としていた。

 真希は少しだけ緊張していたが、遼は淡々と手続きを進める。

 

「こちらで視力測りますねー」

 

 機械を覗き込む。

 レンズが入れ替わるたびに、世界の見え方が変わる。

 

「……え、なにこれ」

 

 思わず声が漏れた。

 

「どうしました?」

 

「めっちゃ見える……」

 

 自分でも驚くほど、輪郭がはっきりする。

 

 結果は、はっきりしていた。

 両目ともに軽度の近視。

 

「そりゃミスも出ますね」

 遼は苦笑した。

 

「今までよく気づかなかったね、私……」

 

 そこからは、フレーム選びだった。

 

「これどうかな」

「少し丸すぎるかもです」

「じゃあこれは?」

「似合ってます」

 

 並んで鏡を覗く。

 自然と距離が近くなる。

 

 真希は、少し楽しくなっていた。

 こういう時間を、誰かと過ごすのは久しぶりだった。

 

 

 数十分後。

 出来上がった眼鏡を受け取る。

 

 それをかけた瞬間――

 

 遼は、言葉を失った。

 

(……やばい)

 

 似合いすぎている。

 知的で、少し大人っぽくて、それでいて柔らかい。

 今まで見ていた真希と、同じなのに違う。

 

 視線が逸らせない。

 

 

「どう?」

 

 真希が振り向く。

 

「……あ、えっと」

 

 遼の顔が一気に赤くなる。

 

「すごく……似合ってます」

 

 それが精一杯だった。

 

 

 会計のとき。

 

「これ、就職祝いってことで」

 

 遼がさらっと言った。

 

「え、いいよ!自分で払うよ」

「いや、まだしてなかったので」

 

 押し切る形で支払いを済ませる。

 

 真希は何度も頭を下げた。

 

「ほんとにありがとう、遼」

 

 

 帰り道。

 

 遼は内心、完全にパニックだった。

 

(落ち着け、落ち着け……)

 横にいるだけで意識してしまう。

 眼鏡越しにふと目が合うたび、心臓が跳ねる。

 

 平静を装うのに必死だった。

 

 

 家に着いた瞬間、遼は一度キッチンに逃げた。

 

(なんだあれ……反則だろ……)

 

 顔が熱い。

 落ち着くまで数分かかった。

 

 

 そのとき。

 

 背中に、柔らかい感触。

 

「……遼」

 

 真希が後ろから抱きついていた。

 

「今日は本当にありがとう」

 

 遼の体が固まる。

 

「視力が悪いなんて、言われるまで気にしてなかったよ」

 

 そこで、ようやく異変に気づく。

 

「……遼?」

 

 顔を覗き込む。

 

 真っ赤だった。

 

「どうしたの?熱でもあるの?」

 

「い、いや……その……」

 

 視線が泳ぐ。

 

「真希の……眼鏡姿が……可愛くて……」

 

 しどろもどろだった。

 

 

 真希は、一瞬きょとんとしたあと――

 

 ふっと、笑った。

 

(ああ、この人……)

 

 取り繕えない。

 嘘がつけない。

 思ったことが、そのまま顔に出る。

 

 

(この人なら――)

 

 心の中で、静かに決意が固まる。

 

(ちゃんと一緒に生きていけるかもしれない)

 

 

 遼は、まだ気づいていない。

 

 この瞬間が、二人の関係を大きく動かしたことに。

 

 路地奥の家の灯りは、少しだけ色を変え始めていた。
 

 

第百八十四弾「 足がつる程度のこと」の続きです

 

 

# 足がつる程度のこと ― 続章 ―

---

## 第五章 使う理由と、使わない理由

本を読み過ぎて夜更かしをしてしまったせいで
朝の目覚めが遅れ、
いつもより一本後の電車に乗る事になった。
だから蓮は眠い目をこすりながら、
乗り慣れていない時間帯のホームへの階段を上っていた。

後ろから轟音のような足音が来たのは、
階段の中ほどにさしかかったときだった。

振り返る間もなく、背中に衝撃が来た。

蓮の身体が前に飛んだ。
左足が空を踏んだ。
階段の手すりに辛うじて指が引っかかり、
体重がそこに集中して肩が痛んだが、落ちなかった。

「っ……」

上から見下ろすと、スーツ姿の三十代くらいの男が、
蓮を押しのけた勢いのまま階段を駆け上がっていった。
謝りもしない。
振り返りもしない。
革靴の音だけが響いて、男はそのままホームに消えた。

蓮は息を整えながら手すりを握り直した。
肩が痛い。
手が痺れている。

階段を上りきってホームに出ると、男はまだ走っていた。
ホームにいた人々が驚いて避けていた。
老人が杖を取り落としそうになり、
学生が鞄を吹き飛ばされた。

そして——ホームの端近くで、
赤ん坊を抱いた女性に男がぶつかった。

女性の身体が回転して、膝をついた。
赤ん坊の泣き声が、ホームに鋭く響き渡った。

周囲の人間が一瞬固まり、
そして我に返って女性に駆け寄った。
赤ん坊は——泣いている。
泣いているということは、息をしている。
無事だ。
女性も、顔を歪めながらも赤ん坊をしっかり抱いていた。

男は電車のドアに手を伸ばしていた。
閉まりかけのドアを、強引にこじ開けようとしていた。

蓮は男を見た。

足よ、つれ。

男の右足が止まった。
「うわっ」という声と共に、
男はホームの床に倒れ込んだ。
電車のドアが静かに閉まった。

男は足を押さえながら悪態をついた。
「なんで今! くそっ、なんで今つるんだ!」

舌打ち。
怒号。
周囲への剥き出しの八つ当たり。
電車が走り去る音にかき消されながら、
男の罵声だけがホームに残った。

蓮は男を見ながら、思った。

反省している?

していない。
一ミリも。

足よ、もう片方もつれ。

男は今度こそホームで転げ回った。
「いっっ……! なんで両足! なんで!」

周囲でクスクスという笑いが起きた。
「自業自得じゃん」と吐き捨てる女子高生の声がした。
誰も助けに行かなかった。
赤ちゃんを抱いた女性に駆け寄っていた人々は、
チラリとそちらを見て、また女性の方へ向き直った。
優先順位が正しかった。

蓮は男から視線を切った。

行いを反省しない相手には何度使っても意味がないことは、
分かっている。
でも。

使わないよりはましだ。

少なくとも今日この瞬間、
あの男はあの電車には乗れなかった。
それだけでいい。

---

駅を出て学校への道を歩きながら、
蓮は少し自分の中を点検した。

最近、能力を使う回数が増えている。

詩乃と友人になってから、
しばらくの間は不思議と使わずにいられた。
世界との摩擦が減ったような、
自分の中の棘が少しなめらかになったような
感覚があった。
あの夏。

でも秋になり、冬が来て、
また日常が積み重なっていくうちに、
使う機会は戻ってきた。

駅の階段を走り下りる人、
歩きスマホで人の流れを塞ぐ人、
電車の中で音を垂れ流す人、
横断歩道を渡り切った歩行者に向かって
ぶつかりそうに走り抜けていく自転車——

悪意のある人間ばかりではない。
ただ無頓着な人間の方が、むしろ多い。

蓮は使う基準を自分なりに決めていた。

誰かが実際に傷つきそうなとき。
あるいはすでに傷ついたとき。
それだけだ。
むやみに使うつもりはなかった。
でも世界は予想以上に、
その基準を頻繁に超えてきた。

そして、もう一つ気をつけていること
——倒れた相手が、周囲の人間を巻き込まないこと。

今朝の駅で、それをやや読み違えた。

男がホームで転げ回ったとき、
周囲の人間に当たらなかったのはただの運だった。
もう少し人が密集していたら、
転倒の余波で誰かが怪我をしていたかもしれない。

蓮はそれを考えながら、少しだけ気分が重くなった。

---

学校の正門を抜けて昇降口の手前にさしかかったとき、
蓮はその光景を見た。

クラスメイトの男子
——確か中西という、蓮と同じく
クラスの端にいるタイプの人間——が、
隣のクラスの羽田に腕を掴まれていた。

羽田。

その名前を蓮は何度か、意識の片隅に刻んでいた。

成績優秀、部活動でも実績があり、教師受けがいい。
保護者もPTAで顔が利くらしい。
学校の中では絵に描いたような優等生で通っている。

でも教師の視野の外では別の顔があった。

標的を決めたら長く、陰湿に、証拠を残さない方法でやる。

直接手を出すのは最初の一度だけで、
あとは心理的に締め上げる。
教師に訴えられないように、
周囲の人間も共犯にして口を塞ぐ。

蓮はこれまでに何度か、
羽田が中西に何かをしている場面を目撃していた。
そのたびに能力を使った。
羽田は「なんか最近やたら足がつるな」
とぼやいているらしい。
でも原因に気づく様子はない。

そして今日も——

足よ、つれ。

羽田が短く声を上げて膝をついた。
中西が驚いて羽田を見下ろした。
羽田は舌打ちをしながら足首を押さえ、
「……先行ってろ」と吐き捨てた。

中西はそのまま昇降口へ向かった。
羽田を振り返らなかった。

蓮は何事もなかったように昇降口に向かおうとした。

そのとき、横から走ってきた人間が——

「わっ!」

衝撃とともに誰かが前に転んだ。
羽田がうずくまっていた位置に
人が突っ込んでしまったのだ。

蓮は反射的にしゃがんで肩を貸した。

「大丈夫ですか」

「あー……ごめん、
急に転んでる人がいると思わなくて止まれなくて!」

顔を上げると、陸上部のジャージを着た女子生徒だった。
クラスメイトだ。
確か長距離をやっている。
走ってくる足音が聞こえなかったのは、
蓮が完全に羽田に集中していたせいだった。

膝に血が滲んでいた。

「大丈夫?」蓮は思わず言った。
予期しない衝突だった。

「人が多い場所で走ると、こういうことになるから」

言ってから、説教みたいに聞こえたかと思ったが、
彼女は「そうだね~、完全に私が悪い!」
と笑いながら立ち上がった。

「保健室、行った方がいいと思います。
擦り傷、消毒した方がいい」

「そうする。ありがとね」

彼女は手を振って昇降口の方へ歩いていった。
走らずに。

蓮はその背中を見送って、深く息を吐いた。

軽い怪我でよかった。

でもよかった、じゃないのだ。

あそこに羽田がいなければ。
羽田がうずくまっていなければ。
彼女は転ばなかった。

羽田を足をつらせたのは蓮だ。
そして蓮は羽田の転倒が周囲に被害を与えないか、
確認が甘かった。

自分が使った能力が、関係のない人間を傷つけた。

それは——初めてのことだった。

---

## 第六章 能力の重さ

昼休みの図書室。

詩乃がいつもの席に座って本を開いていたが、
蓮が座った瞬間に顔を上げた。

「なんか顔色悪い」

「そうですか」

「うん。眠い感じじゃなくて、考えすぎた感じ」

蓮は鞄から弁当を取り出しながら言った。
「……今日、少し失敗した」

詩乃は本を閉じた。

蓮は、朝の駅での出来事と、
昇降口での出来事を順番に話した。
能力を使った理由も、その結果も、
陸上部の女子が転んだことも。

詩乃は黙って聞いていた。

「……能力を使った結果、関係ない人が怪我をした、
ということ?」

「直接は違います。
羽田が転んでいた場所に、たまたまぶつかっただけです。
でも羽田を転ばせたのは僕なので」

詩乃はしばらく考えてから言った。
「蓮は悪くないと思う」

「そうは言い切れないです」

「じゃあ、
羽田が中西に何かしているのを放っておいたら?」

「……中西が傷つきます」

「能力を使ったことで、中西は助かって、
陸上部の子は軽い擦り傷を負った。
能力を使わなかったら、中西はまた削られていった。
どっちが正解か、私には分からない」

蓮は卵焼きを一口食べた。味がよくわからなかった。

「でも」と詩乃は続けた。

「蓮が悩んでいる理由は分かる。
自分の行動の結果を、
ちゃんと引き受けようとしているから」

「引き受けているんじゃなくて、
引き受けきれていないから悩んでいるんです」

「それが引き受けようとしている、
ってことじゃないの」

蓮は何も言えなかった。

窓の外で風が木の枝を揺らした。
光が棚の背表紙の上を流れた。
いつもと同じ景色だった。

「一つだけ聞いていい?」詩乃が言った。

「何ですか」

「蓮はその能力を、これからも使うつもり?」

蓮はしばらく考えた。

「……使うと思います。
使わずにいられる場面と、そうでない場面がある。
今朝の駅みたいに、赤ちゃんを抱いた人が倒れたら
——もう考える前に使っています」

「それでいいんじゃないかな」

「でも今日みたいな失敗が」

「また気をつければいい。
使い続けながら、精度を上げていけばいい」

詩乃は少し間を置いて言った。

「蓮の能力って、正義の味方には全然向かないけど、
でも日常の中でこっそり誰かを守るのには向いてる。
向いてるものを、向いてる使い方で使えばいいと思う」

蓮は詩乃を見た。
詩乃は真顔だった。
冗談で言っているわけではないことは分かった。

「……あなたは、僕の能力を肯定しすぎです」

「肯定しているんじゃなくて、
君を信頼しているだけだよ」

今度こそ蓮は黙った。

少し、耳が熱くなった。

弁当の卵焼きが、さっきより美味しく感じた。

---

その日の放課後、
蓮は昇降口を出たところで陸上部の彼女
——垣内 ひなた、という名前を
今日初めてちゃんと認識した
——に呼び止められた。

「あ、朝の人! 
保健室行ってきたよ、ちゃんと消毒した」

「それはよかったです」

「擦り傷くらいで
保健室行くの恥ずかしいかと思ったけど、
先生がいい人でよかった。
ちゃんと膝洗ってくれた」

「それは何よりです」

垣内は少し笑ってから
「今日転んだの、あそこで転がってた
羽田のせいだと思ってたんだけど」と言った。

蓮の胃が一瞬縮んだ。

「でも羽田のやつ、いつも人のせいにする感じ嫌いだし、
自分が走ってたのも悪いし。
いいや、って感じ」

「……そうですか」

「うん。それより」垣内は蓮を見た。

「あなたって桐島くんだよね。確か同じクラスの」

「そうです」

「本読んでる人、って印象しかなかったけど、
今朝けっこう冷静に助けてくれたよね。
保健室行けって言ってくれたのも。
ありがとう」

「別にたいしたことは」

「たいしたことあるよ。
転んでパニックしてるとき、
冷静に次の行動を言ってくれる人って助かるから」

それだけ言うと、
垣内は「またね」と手を振って走り去った。
今度は人の少ない方向に向かって。

蓮はその背中を見送った。

自分の能力が、彼女を転ばせた。
そして自分の言葉が、彼女を保健室へ向かわせた。
プラスとマイナスが、
今日のところはどうにか釣り合っている気がした。

完璧ではない。

でも——足がつる程度の能力には、
足がつる程度の責任を持てばいい。

それくらいのことなら、できるかもしれない。

蓮はそう思いながら、夕暮れの中を歩き出した。

鞄の中でスケッチブックが揺れた。
今夜は何を描こうか、と考えながら。

---

*続く*

 

 

第二百十弾「鋼鉄の夢、永遠の想い その14」の続きです

 

 

第二十一章 魔導師の原罪 ―後編―

村の維持は難しく、
村人は皆、町に移住することになった。
ダミアンは絶望したものの、
他の村人と共に町に移住した。

だが――
町での村人の生活は、非常に苦しかった。
まともな仕事に就けなかった。
フリーの冒険者になる者も多かったが、
魔物退治で命を落とす者が多かった。
それ以外は、建設土木作業や清掃など、
町の人がやりたがらないような仕事しか回ってこなかった。
ダミアンは、両親の残したお金を少しずつ生活費に当てた。

だが――
町の荒くれ者に奪われた。
信じていた村人にも裏切られた。
徐々に、お金は減っていった。
それにより両親が望んだ進学は出来なくなった。
同時に、村人を含む他人に対する信頼度も減った。
結果――
ダミアンは、誰も信じられなくなった。

それと比例するように、
ダミアンの魔力はどんどん向上していった。

怒り。
絶望。
憎しみ。
それらが、力になった。

前世での恨み。
この世界での悲しみ。
それら全てが、魔力として蓄積されていき
ダミアンは冒険者として、名声をどんどん上げた。
魔物を倒し、依頼をこなし、報酬を得た。
だが、心は空虚だった。

「誰も、信じない」
ダミアンは誓った。

「もう、誰も」

周囲から勇者と言われるようになった頃――
村の奥地に、災害級の巨大な魔物が出現した。
流石に冒険者や警察では対処が出来ずに
王国軍が派遣された。
だが、それでも魔物に太刀打ちできなかった。
そこに、王国の虎の子であるガーディアンが投入された。
ダミアンは、ガーディアンを初めて見た。
巨大な人型の兵器。
魔法と科学の融合。
そのガーディアンは非常に強かった。
だが、魔物と互角で、退治し切れなかった。

「……やってやる」

ダミアンは前線に出た。
そして、魔法を放った。
超高位魔法。
複数同時展開。
圧倒的な火力。
魔物は、消滅した。

これにより、ダミアンは国王に招聘され

報奨された後に王国の魔導師団に入ることになった。

「ダミアン・マクシミリアン。
お前の力を、この国のために使ってほしい」
国王は言った。

「……わかりました」
ダミアンは頷いた。

だが――
そこで、ダミアンは階級差別に晒された。
魔導師団の多くは、貴族出身だった。
彼らは、平民出身のダミアンを見下していた。

「所詮、田舎者か」

「魔力だけは強いが、品がない」

「我々と同じだと思うなよ」

陰口。
嘲笑。
露骨な差別。

ダミアンの強大な魔力は、仲間と敵を作った。
仲間になったのは、同じく平民出身の魔導師たち。
敵になったのは、主に貴族たち。
彼らは元々、平民を見下していた。

そして――
ダミアンを慕ってくれた仲間が、理不尽に左遷された。

「なぜだ!」

ダミアンは上官に詰め寄った。

「彼は優秀だ! なぜ辺境に飛ばす!」

「命令だ。従え」

「……!」

その後も、次々と仲間が消えていった。
あらぬ罪で捕らえられ、処刑された者もいた。

「やめろ! 彼は無実だ!」
ダミアンは叫んだ。

だが、誰も聞く耳を持たなかった。

ダミアンの中で、何かが切れた。

「もう、いい」
彼は呟いた。

「もう、たくさんだ」

その夜――
ダミアンは魔導師団の本部に乗り込んだ。

「ダミアン! 何をする気だ!」

「お前たちを、許さない」

ダミアンの魔法が、炸裂した。

火。
水。
土。
風。

木。

白。

黒。
全ての属性が、同時に展開された。

魔導師団は、抵抗した。
だが――
ダミアン一人の魔力が、全てを上回った。
魔導師団は、全滅した。

ダミアンは逃亡し、王国軍が彼を追った。

だが――
ダミアンの魔法は、
既に一国の軍隊で止められるものではなかった。
数千の兵士が、ダミアン一人に敗れた。
ガーディアン部隊も投入された。
だが、ダミアンは全てを破壊した。

「もう、止まらない」
ダミアンは言った。

「誰も、俺を止められない」

それにより、複数の国家による連合軍が編成された。
ダミアンを討伐するために。

だが――
それでも、太刀打ちできなかった。
ダミアンの魔力は、もはや人間の域を超えていた。

「化け物だ……」
兵士たちは呟いた。

「あれは、人間じゃない……」

ダミアンは、最終的に生まれた村の奥地の
大森林に建っていた古城を見つけた。
廃墟となった、古の城。
彼はそれを再建した。
魔法で。
一人で。
そして、そこに住んだ。

「ここが、俺の城だ」
ダミアンは宣言した。

「誰も、立ち入らせない」

王国は、その地域を不可侵地区として指定した。
以降、ダミアンに手を出す国家は無くなった。

世界最強の魔導師。
孤高の存在。
誰にも愛されず、誰も愛さず。
ただ、一人で生きる。
それが、ダミアン・マクシミリアンだった。

そして――
孤独な城で、ダミアンは考え続けた。

「力を得ても、何も救えなかった」

両親。
先生。
仲間。
全てを失った。

「ならば……」

ダミアンは決意した。

「永遠に生きよう」

「永遠に力を保とう」

「そうすれば、二度と失わない」

それが――
転生実験の始まりだった。

――続く――
 

第二百九弾「鋼鉄の夢、永遠の想い その13」の続きです

 

第二十章 魔導師の原罪 ―前編―


遥か昔、別の世界
大友大輝は、ブラック企業に勤める社畜だった。
両親は駆け落ちして結婚したものの極貧で、
子供を作る気は無かった。
だが油断から大輝が生まれた。
父親は自分のことを棚に上げ、母親を責めた。
だが父親がギャンブル三昧で、
自分の都合で職を転々としていることが大元の原因だった。
かといって母親がまともなのかと言えば、
そうではなかった。
毎夜、夜遊びして男漁りをしていた。
当然のように、大輝は育児放棄され
虐待もされた。

結局、児童相談所に通報され、
大輝は児童養護施設に入り育った。
高校を卒業して養護施設を退所し、就職した。
だが、入ってみたらブラック企業だった。
それにより大輝の精神は、どんどん疲弊していった。
遂には、世の中全てを恨むようになった。

社会が。
政府が。
自治体が。
学校が。
施設が。
先生が。
会社が。
同僚が。
友人が。
幸せな家庭や人々が……
憎い。
全て、憎い。

大輝は過労による心臓疾患により、
深夜に会社のデスクで亡くなった。
享年二十四歳。
誰にも看取られることなく、独り。

だが――
彼の意志は強く、魂は消えずに彷徨った。
そして、別の次元の別の世界で生まれた赤ん坊に宿った。

そこは、フォークストン王国の地方にある貧しい村だった。
その頃のフォークストン王国は、まだ貧しい小国だった。
その後、魔導師を中心とした
世界最高の学術大国になるなんて、誰も予想できなかった。
ただ、魔導師は多くいた。
科学よりも魔法が生活の中心であり、
高い魔法適性があれば都会に出て出世できた。


マクシミリアン家の長男。
ダミアンと名付けられた大輝は、
高い魔法適性を持って生まれた。
両親共に魔法適性は低く、家は貧乏農家だった。
それ故に、魔法適性の高いダミアンは両親から重宝された。
ダミアンの魔法により、
マクシミリアン家の畑の収穫量は増えた。
それにより収入も増加した。
両親は生活レベルを過度には上げず、
ダミアンが都会に進学するための資金を貯めた。

「ダミアン、お前は頭がいい。
都会に出て、立派な魔導師になるんだ」
父親は優しく言った。

「私たちの自慢の息子よ」
母親は微笑んだ。

ダミアンは、前世と違って幸せだった。
愛されている。
必要とされている。
それが、嬉しかった。

村では、近所のお姉さんが

子供達に勉強や生活の為の魔法を教えてくれていた。
お姉さんは一度都会に出たものの、
いろいろあったらしく村に戻ってきた。
教える人がいなく廃校になっていた
村の学校を再開して、先生になった。
優しい美人先生で、子供達からはとても慕われていた。
ダミアンにとっても、憧れの片想いの相手だった。

「ダミアン君、今日も頑張ったわね」
先生は微笑んだ。

「はい、先生」
ダミアンは照れながら答えた。

「あなたなら、きっと素晴らしい魔導師になれるわ」

「……ありがとうございます」

ダミアンは、先生の優しさに心が温かくなった。
前世では、誰も自分を認めてくれなかった。
でも、この世界では違う。
両親も、先生も、みんなが自分を認めてくれる。

「この世界で、やり直せる」
ダミアンはそう思っていた。

だが――
ある日。
村が、魔物を率いた大規模な野盗に襲撃された。
村の冒険者が対応したが、太刀打ちできる数ではなかった。
ダミアンも対抗しようと思った。
だが――

「ダミアン! 逃げるんだ!」
父親が叫んだ。

「父さん!」

「いいから! これを持って、町に助けを呼びに行くんだ!」

父親は、貯めていた大金をダミアンに渡した。

「でも……!」

「あなたは生きるのよ! 私たちの希望なんだから!」
母親も泣きながら言った。

両親は、密かにダミアンを村から逃がした。
ダミアンは走った。
涙を流しながら、必死に走った。

その時――

「きゃああああ!」
悲鳴が聞こえた。

ダミアンは振り返った。
村の広場。
そこに、先生がいた。
野盗に囲まれ、服を引き裂かれ、泣き叫んでいた。

「やめて! やめてえええ!」
先生の叫び声。

ダミアンは立ち止まった。
助けなければ。
でも――
両親の想い。
彼らの希望。

「ごめんなさい……ごめんなさい……!」

ダミアンは泣きながら、その場から逃げた。
先生の叫び声が、遠ざかっていく。
ダミアンは走り続けた。

町の警察に駆け込み、村の惨状を伝えた。
大規模な機動隊が派遣された。
だが――
機動隊が村に着いた時には、全てが終わっていた。
家々は焼かれ、人々は殺され、村は廃墟となっていた。
警察は捜査の結果、盗賊のアジトを発見して強襲した。
人質になっていた人々を救出した。
ダミアンの両親は、遺体で発見された。
先生は、精神崩壊した状態で発見された。
記憶喪失となっていた。

ダミアンは、先生の病室を訪ねた。

「先生……」

だが、先生は虚ろな目で窓の外を見ているだけだった。
ダミアンのことも、認識していなかった。

「先生……ごめんなさい……」
ダミアンは泣いた。

自分が助けていれば。
自分が戦っていれば。
でも、逃げた。
両親の想いを優先して、逃げた。

「ごめんなさい……ごめんなさい……!」

――続く――

 

続きは今日中に載せる予定です

 

第二百八弾「鋼鉄の夢、永遠の想い その12」の続きです

 

 

第十九章 封印されし魔王

アンは自室で、鏡を見ていた。
疲れた顔。
涙の跡。

そして――
その時、アンの表情が一変した。
眼が赤くなった。
禍々しいオーラが、体から放たれる。
一瞬で、周囲の空気が重くなった。

「まだ暴れ足りない……」

アンの口から、声が漏れた。
だが、それはアンの声ではなかった。
低く、歪んだ、邪悪な声。

「もっともっと暴れたい。もっともっと蹂躙したい」

鏡の中のアンが、歪んで笑っている。

「縋るような叫び声……諦めた絶望が聞きたい」

その声は、
まるで深淵の地獄の底から聞こえてくるような声だった。
アンは自分の頭を抱えた。

「やめて……やめて……!」

だが、声は止まらない。

「殺せ。壊せ。全てを灰にしろ」

「やめて!」
アンは叫んだ。

瞬間――
赤い眼が、元に戻った。
オーラが、消えた。
アンは床に崩れ落ちた。

「また……また、あれが……」

彼女は震えていた。

昔――
神聖ラングバルト帝国郊外のキノー地方に、
Dと呼ばれる魔王が住み着いた。
それを討伐するため、

神聖ラングバルト帝国は軍を派遣したが

全く太刀打ち出来なかった

その後に神聖ラングバルト帝国の第三皇子
デイモス・ラングバルトが立ち上がった。
その時の協力者がいた。
デイモスの親友で、
帝国最強剣士と名高いアルヴェルト・ドライゼ。
世界最強の魔導師として頂点に君臨し続けている
ダミアン・マクシミリアンの弟子で、
フォークストン王国の王子で千の術を持つと言われる
技巧派の魔導師、フランクリン・リーフ。
元々ダミアンに対抗するために生み出された
人造魔導師だったが、ダミアンに圧倒され虜になり
弟子になったマリア・マルゴー・マクミラン。通称「3M」。
そして――
帝国貴族の長男だったが家督相続をせずに冒険者となり、
その勇猛果敢な戦い方から
「鬼神」の二つ名で呼ばれていた
ブラッドウィン・マクドミラ。

 

それぞれ皆 個々にこの討伐に参加した目的があった。

 

デイモスはこの手柄を持って次期皇帝の座を簒奪する事。

アルヴェルトは親友であるデイモスへの協力。

フランクリンとマリアは師ダミアンの代理。

ブラッドウィンは名声を上げる為。


それでも困難を承知でDの討伐に向かった彼らは

五人の英雄と呼ばれた。

だが――
討伐は、失敗した。
Dは、あまりにも強かった。
魔王の力は、想像を絶していた。
五人は、別の方法を選んだ。
Dを倒すことはできない。
ならば――封印する。
Dの精神を5つに分けて、5人の体内に封印する。
それが、唯一の方法だった。

「やるしかない……!」
デイモスが叫んだ。

「これで、世界を救える!」

五人は、禁呪を発動させた。
Dの精神が、引き裂かれる。
そして――
五人の体内に、それぞれ封印された。
討伐は、成功した。


だが――
これは全てダミアン・マクシミリアンの計画だった。

自身のクローンである魔王Dの精神を取り込ませる事で

その人物の魔力と身体能力を強化させて、それを利用する

それを使って・・・。

だが、これには1つ欠陥があった。

ダミアンの狂気も受け継いでしまうのだ。

デイモス・ラングバルトは、その後、狂王となって
侵攻を繰り返し、無意味な戦争を引き起こした。
結果的に、神聖ラングバルト帝国を弱体化させた。
それもあって、今ではシュトゥットガルト公国と
同レベルまで軍事力が低下していた。
マリア・マルゴー・マクミランは、
ダミアンの実験で死亡した。
フランクリン・リーフは、

師ダミアンと好意のあったマリアを失い、
国に戻り王位に就いた。
だが、神聖ラングバルト帝国の侵攻で戦死し、国が滅んだ。
アルヴェルトとブラッドウィンは、まともと思われた。
だが――
今回のシュトゥットガルト公国の大侵攻が起きた。
ブラッドウィンの中の、Dの精神が目覚めたのだ。

そして、アン。
ブラッドウィンの養女であるアンも、
元々はDに対抗して人工的に造られた人造生命体だった。
そのベースに使われたのは――
ダミアン・マクシミリアンの遺伝子。
すなわち、大元はDと同じなのだ。
アンの持つダミアンの遺伝子と、
ブラッドウィンが体内に封印したDの精神が呼応している。
その影響で、アンは突然信じられないくらいに
凶暴になることが頻繁にあった。
『クレオパトラ』での戦闘。
あの鬼神のような戦い方。
あれは、アンの意志だけではなかった。
ダミアンの狂気が、彼女を支配していたのだ。

その夜。
カイン・マクドミラは、自室で通信端末を操作していた。

「どうにかして、フレデリック兄さんに伝えないと……」
彼は呟いた。

アンの秘密。
Dによる精神汚染。
それを、フレデリックに伝えなければ。
このままでは、姉が――

「送信開始……」

カインは、暗号化された通信を送ろうとした。
だが――
『通信が遮断されました』
機械音声が告げた。

「何!?」

カインは驚いた。
『妨害電波を検知。送信不可能』

「くそっ!」

カインは何度も試した。
だが、全て遮断される。

この手の技術を得意とする

カインが失敗するはずが無い。
誰かが、意図的に妨害をしている。

「誰が……」

その時――
扉が開いた。

「カイン」

ブラッドウィンが立っていた。

「父上……」

「お前、何をしている?」

ブラッドウィンの目は、赤く光っていた。
カインは息を呑んだ。

「い、いえ……何も……」

「嘘をつくな」

ブラッドウィンが一歩、近づいた。

「お前、アンの秘密を
フレデリックに伝えようとしただろう」

「……!」

「させるわけにはいかん」
ブラッドウィンの声が、歪んだ。

「アンは、我が最強の駒。
その秘密を知られるわけにはいかん」

カインは後ずさった。

「父上……あなたも、Dに……!」

「Dではない」

ブラッドウィンは笑った。
邪悪な笑み。

「我々は一つになったのだ。
偉大なるダミアン様の一部として・・・」

「そんな……」

「お前は、大人しくしていろ。さもなくば――」
ブラッドウィンは脅すように言った。

「アンを……排除する!」

カインは凍りついた。
姉を守るためには、従うしかない。

「……わかりました」
カインは俯いた。

ブラッドウィンは満足そうに頷き、部屋を出て行った。

一人残されたカイン。
彼は拳を握りしめた。

「フレデリック兄さん……すみません」
彼は呟いた。

「僕には、何もできない……」

情報は、遮断された。
フレデリックは、アンの秘密を知らないまま、
戦うことになる。
報われない想い。
届かない真実。


全ては、ダミアンの呪いだった。

――続く――

 

 

第二百七弾「鋼鉄の夢、永遠の想い その11」の続きです

 

 

第十八章 公王の野望

シュトゥットガルト公国首都ババロン。
王城の玉座の間。
玉座には、一人の男が座っていた。
ブラッドウィン・マクドミラ。
シュトゥットガルト公国公王。
鋭い目つき。
傷だらけの顔。
荒々しい風貌。
元々は有名な宇宙海賊だった男だ。
没落しつつあったシュトゥットガルト公国を乗っ取り、
公王の座に就いた。
そこから配下の宇宙海賊を元に、
強力な軍事国家を作り上げた。
今では神聖ラングバルト帝国と
互角で張り合うレベルに急成長している。

だが――
その代償として、国民は疲弊していた。
他国を侵略して搾取することで、
どうにか国を維持している。
この綱渡りのような状態は、
何か切っ掛けがあれば簡単に破滅してもおかしくなかった。

ブラッドウィンの前には、二人の人物が立っていた。
一人は、赤い髪を結い上げた美しい女性。
王女アン・シャーリィ・マクドミラ。
もう一人は、黒い髪の若い男性。
王子カイン・マクドミラ。
その他にも、多くの重臣がいた。

今日の議題は、次の侵略目標を決めることだった。

「既に周辺の小国は、あらかた侵略している」
ブラッドウィンが言った。

「次に攻めるとしたら……ルパート王国が最有力だ」
重臣たちが頷いた。

カルタゴ帝国とは戦争状態にあるが、拮抗状態にある。
戦力を集中させ過ぎると、各地の穴が大きくなってしまう。

「ただでさえ、王城を奇襲されたばかりだ」
ブラッドウィンの声に、苛立ちが混じった。

「アンの活躍で、どうにか退けたが……
アンと『クレオパトラ』がいなかったら、
どうなっていたことか」

アンは何も言わなかった。
ただ、静かに立っているだけ。

「それに比べて……」

ブラッドウィンは、カインに視線を向けた。

「カイン。お前の状況はどうなっている」

カイン・マクドミラ。
王子でありながら、戦場には出ない男。
彼はアンと同じく、王立工科学院に通っていた。
フレデリックやジョナサンの後輩で
フレデリックを慕っていた。
当時は、アンとフレデリックがくっつき、
自分がフレデリックの義弟になるのを楽しみにしていた。
それが、こんな状況に変わった。
カインは、かなり不貞腐れていた。

「ババロンの防衛システムを見直して、刷新しています」
カインは淡々と答えた。

「王城周辺の防衛を、特に強固にしています」

彼は非常に優秀な技術者だった。
そして――マシンチャイルド。
コンピュータとリンクし、自由に操作可能な存在。
更に、生まれつき霊力や魔力の影響を受けない
特殊な体質を持っていた。
周囲約2〜3メートルの球形状に、その効果範囲を持つ。
その中の自分と周囲の人間を、
全ての力から保護することが可能だった。

だが――
射撃や格闘などの戦闘は苦手。
その為に、自身でプログラムした小型のアサルトビット
――自律型無人戦闘攻撃機――を最低でも2機、
常に自身の周囲に浮遊させていた。
今も、カインの左右に、小さな機械が浮いている。

「ふん。防衛ばかりだな」
ブラッドウィンは不満そうに言った。

「攻撃こそが最大の防御だ。それがわからんのか」

「……はい」
カインは俯いた。

長い会議が続いた。
ルパート王国への侵攻計画。
戦力の配置。
補給線の確保。
様々なことが話し合われた。

だが――
ブラッドウィンは、突然立ち上がった。

「待て」

重臣たちが、動きを止めた。

「私は決めた」
ブラッドウィンの声が、玉座の間に響いた。

「プレスコット共和国への侵攻を行う」

瞬間――
場が凍りついた。
予想外の国名。
重臣たちは、動揺を隠せなかった。

「陛下! プレスコット共和国は……!」
一人の重臣が声を上げた。

「これまで侵略してきた小国とは、比べ物になりません!」

「カルタゴ帝国程ではないが、軍事力が高い!」

「経済力では、カルタゴ帝国を上回っています!」

重臣たちが、次々と反対の声を上げた。

だが――
ブラッドウィンは動じなかった。

「カルタゴ帝国方面軍は縮小して
プレスコット共和国侵攻軍に加える」

「陛下!」

「決定だ」
ブラッドウィンの声は、冷たかった。

「異論は認めん」

重臣たちは、黙り込んだ。
ブラッドウィンは、本気だった。
もしプレスコット共和国が落ちたら――
勢力図が、大きく変わる。
シュトゥットガルト公国は、更なる大国になる。
だが、失敗すれば――
国が、滅びる。

会議が終わった後。
アンは、一人で廊下を歩いていた。

「姉上」

背後から声がかかった。
振り向くと、カインが立っていた。

「カイン……」

「プレスコット共和国への侵攻……本気ですか、父上は」

「ええ。本気よ」
アンは疲れた顔で答えた。

「でも、無謀です。プレスコット共和国は……」

「わかっている」
アンは首を振った。

「でも、父上の決定は絶対。私たちに、選択肢はないわ」

「……そうですか」
カインは俯いた。

「姉上……あの時、王城を奇襲した白いガーディアン」

「……」

「あれは、フレデリック兄さんですよね」

アンは何も言わなかった。
ただ、静かに歩き続けた。

「姉上は……兄さんと戦って、どう思いましたか」

「……私は、ただ任務を遂行しただけ」
アンの声は、震えていた。

「それ以上でも、それ以下でもないわ」

「嘘だ」
カインが言った。

「姉上は、泣いていたじゃないですか。コクピットで」

アンは立ち止まった。

「……カイン」

「僕には、わかります。姉上は、兄さんを……」

「黙りなさい!」
アンが叫んだ。

カインは、驚いて黙った。

「……ごめんなさい」

アンは深く息を吐いた。

「でも、もう過去のことなの。
フレデリックは敵。私は、公国の王女。それだけよ」

「……はい」
カインは、それ以上何も言わなかった。

アンは再び歩き出した。
その背中は、どこか寂しげだった。

その夜。
アンは自室で、一人窓の外を見ていた。
星空。
美しい、星々。

「フレデリック……」
彼女は呟いた。

「なぜ、あなたは来たの……」

涙が、頬を伝った。

「なぜ……」

彼女の手には、小さなデータチップがあった。
フレデリックが渡した、設計データ。
それを、ずっと握りしめていた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
アンは、声を殺して泣いた。
報われない想い。
届かない声。
二人は、敵同士だった。

――続く――

 

「鋼鉄の夢、永遠の想い その10」の続きです

 

第十七章 再起への道


フォークストン王国、地下格納庫。
フレデリックは、ボロボロになった
『ブランシュ』を見上げていた。

左腕は千切れかけている。
装甲は至る所が破損している。
武装は、ほとんどが失われている。

「次は、最初から一緒に行く」
ジョナサンがそう言った。

「ジョナサン……」

「お前一人に、あんな化け物と
戦わせるわけにはいかない」

ジョナサンは真剣な顔をしていた。

「ありがとう」
フレデリックは深く頭を下げた。

そして――
気持ちの問題を払拭するかのように、修理を始めた。

キーボードを叩く。
コマンドが流れる。
損傷箇所の診断。
エネルギー伝達ラインの再構築。
装甲の交換。
フレデリックは昼夜を問わず、作業に没頭した。

一週間後――

『ブランシュ』は、元の姿を取り戻した。
白い装甲。
青い差し色。
シンプルで機能美に溢れた機体。
だが、まだ終わりではない。

「ゲーリー、データを頼む」
フレデリックは通信を開いた。

『了解。送信する』
ゲーリーの声が返ってきた。

『紅男爵』と『コブラ』が収集したデータ。
それが、フレデリックの端末に転送された。
膨大な量のデータ。

『クレオパトラ』の動き。
攻撃パターン。
防御の展開タイミング。
エネルギー出力の変化。
そして――

「これは……」

フレデリックは、あるデータに目を留めた。
動作のタイムラグ。
微細な、だが確実に存在する遅延。

「やはり……機体と有機AI『イリス』の相性が、
あまりよくないのか」
フレデリックは呟いた。

『クレオパトラ』は、
フレデリックの設計データからのコピー。
完璧には再現できていない部分がある。
特に、エネルギー伝達ラインは職人技に依存している。
そのズレが、『イリス』との同調に影響を与えているのだ。

「天才であるアンが育てた有機AIでも、ダメなのか……」

フレデリックは、そこに希望を見出した。
完璧に見える『クレオパトラ』にも、弱点がある。
それは、ハードとソフトの不一致。

「ならば……」
フレデリックは決意を固めた。

「『ブランシュ』を、高機動型にする」

『ブランシュ』のコクピットで、
フレデリックは『イリス』に告げた。

「ブランシュ、これが最後の戦いになるかもしれない」

「わかっています、フレデリック」
『イリス』の声が、静かに響いた。

「でも、今回のデータで、試す根拠ができた」

「『クレオパトラ』のタイムラグ……ですね」

「ああ。あの一瞬を突く。
そのために、機動性を極限まで高める」

フレデリックはキーボードに向かった。

「これから、数ヶ月かかる。付き合ってくれるか?」

「もちろんです」

それから――
フレデリックは『ブランシュ』の基礎を、
できる限り徹底的に強化した。

フレーム構造の見直し。
関節部の強化。
エネルギー伝達ラインの最適化。
『MOTOR』の出力調整。
数ヶ月かけて、一つ一つ丁寧に作り上げていく。

「これで、特化機体に劣るものの、
かなりマシになったはずだ」
フレデリックは満足そうに頷いた。

次は、装甲。
重装甲では、高機動は不可能。
装甲を、かなり軽装甲に変更する。
重量を、大幅に軽減する。
防御力は犠牲になる。
だが、速度を得る。

「デザインが決まったら……」

フレデリックは、先のデータから作った
『クレオパトラ』のシミュレーションモデルを起動させた。

「戦闘シミュレーションをして、問題点を叩き出す」

仮想戦場。
『ブランシュ』と『クレオパトラ』が対峙する。
戦闘開始。
『ブランシュ』が高速で動く。
だが、装甲が薄すぎて、一撃で致命傷を負う。

『シミュレーション終了。敗北』

「装甲デザインを変える」

フレデリックは修正を加えた。
重要部位だけ、装甲を厚くする。
他は、極限まで薄くする。
再びシミュレーション。
今度は、機動性が足りない。
『クレオパトラ』のタイムラグを突けない。

『シミュレーション終了。敗北』

「もう一度」
フレデリックは、何度も何度も繰り返した。
装甲デザインを変える。
シミュレーションを行う。
問題点を見つける。
修正する。
また、シミュレーションを行う。

半年が過ぎた。
フレデリックは、ついに対『クレオパトラ』用の
装甲デザインを完成させた。
白い装甲。
だが、以前とは明らかに異なる。
流線型のフォルム。
薄く、軽く、それでいて強靭。
重要部位――コクピット、『MOTOR』、関節部
――だけが厚い装甲で守られている。
他は、極限まで削ぎ落とされている。

「美しい……」
ジョナサンが呟いた。

「これが、お前の最後の賭けか」

「ああ」
フレデリックは頷いた。

「でも、これでも勝てはしないだろう」

「わかってる」

「それでも?」

「それでも……ここから突破口を見つけ出したい!」
フレデリックは強い決意を込めて言った。

『クレオパトラ』には、まだ勝てない。
だが、データは取れる。
弱点は、見えてきている。
次こそ――
次こそ、アンに届く。
そう信じて。

格納庫の中央に、
新しい『ブランシュ』が立っていた。
白く、美しく、それでいて鋭い。
まるで、研ぎ澄まされた刃のような機体。

「行くぞ、ブランシュ」
フレデリックは呟いた。

「はい。共に」
『イリス』が答えた。

二度目の戦い。
それが、いよいよ始まろうとしていた。

――続く――