第二百八十四弾「 神殺し ―覚醒の序章―」の続きです

 

 

# 神殺し ―覚醒の序章―

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## 第三章 ―独房の男―

 トノパ第三警察署の尋問室は、狭かった。

 四方を石造りの壁に囲まれ、
窓ひとつない部屋の中央に、
鉄製のテーブルと椅子が向かい合わせに置かれていた。
天井から吊るされた魔力灯が青白い光を落とし、
影を鋭く刻んでいた。

 フレデリックはその椅子に、行儀よく座っていた。

 向かいに座った警察官
――バンクスと名札にあった――は、
三十代半ばの、四角い顎を持つ男だった。
目つきは鋭く、腕を組んで、
いかにも職業的な威圧感を醸し出していた。

「もう一度聞く」バンクスは言った。

「お前は何の権利があって、
あの二人に暴力を振るった」

「権利の話をするなら」フレデリックは答えた。

「俺の食料品を壊された。被害者だ」

「店内で暴れていた人間に
一方的に暴力を振るったのは事実だろう」

「止めた。店が壊れていた。
止める人間が誰もいなかった。
だから俺が止めた。それだけの話だ」

「法律上、それは私刑に当たる可能性がある」

「可能性がある、というのは、
そうではない可能性もある、ということだ」

 バンクスの眉間に皺が寄った。

「屁理屈を言うな」

「事実を言っている」

 フレデリックの声は穏やかだった。
怒っているわけでも、焦っているわけでも、
媚びているわけでもなかった。
ただ淡々と、問いに答えているだけだった。
それがバンクスには却って引っかかった。
こういう手合いは取り調べの経験上、
二種類に分類される。
本当に何も考えていない者か、
あるいは底の知れない者か。

「名前は」

「フレデリック」

「苗字は」

「マクミラン」

 バンクスは手元の書類に書き込みながら、
目だけを上げた。

「職業は」

「特になし」

「旅人か」

「そんなところだ」

「住所は」

「今は宿に泊まっている。
三丁目の『眠れる猫亭』だ」

「身分証明書は」

 フレデリックは懐を探った。
薄い革の手帳を取り出してテーブルに置いた。
バンクスはそれを手に取り、開き、しばらく眺めた。
形式上は問題のない、旅人の身分証だった。
発行地は王都から遠く離れた西の港町になっていた。

 バンクスは手帳を閉じてテーブルに戻した。

「近衛部隊の選抜試験に来たのか」

「違う。たまたま通りかかっただけだ」

「たまたま通りかかって、あの二人を」
バンクスは言葉を切った。
「制圧した、と」

「止めた、と言っている」

「言葉遊びだ」

「言葉は正確に使うべきだと思っている」

 また沈黙。

 バンクスは腕を組み直し、
じっとフレデリックを見た。
この若者は何者だ。
あの二人——ドルガとブレイズは、
どちらも今年の試験への参加者として
署内でも名前が出ていた実力者だ。
その二人を、目撃証言によれば数秒で片付けた。
しかも一見したところ、何ら特別な武装もなく。

 バンクスには判断がつかなかった。

「しばらく署内で待機してもらう」

 フレデリックは頷いた。

「弁償の話はどうなる」

「被害の届け出は受け付ける。
それとこれとは別の話だ」

「分かった」

 フレデリックはそれ以上何も言わなかった。

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 独房は尋問室よりさらに狭かったが、
フレデリックは気にしなかった。
数千年生きていれば、
これより遥かに不快な場所で
夜を明かした経験が無数にある。
藁の匂いのする粗末な寝台に腰を下ろし、
壁に背を預けて目を閉じた。

 腹が減った、と思った。

 肉まんの最後の一口は飲み込んだが、
それだけでは夕食にはほど遠い。
じゃがいもも、干し肉も、卵も、全滅した。
パンも泥まみれだった。

 夕食が遠のいた原因を作った二人は
今頃どうしているだろうか、とフレデリックは考えた。
あの二人なら、少し眠れば回復するだろう。
多少は頑丈に出来ていた。

 独房の外から、署内の雑多な音が聞こえてきた。
書類を捌く音。
誰かの怒鳴り声。
電話の呼び出し音。
今夜もトノパのどこかでトラブルが起きているのだろう。

試験が終わるまではこの状態が続くに違いなかった。

 フレデリックはまた目を閉じた。

 待つことには慣れている。
数千年という時間は、
待つことへの耐性を否応なく育てた。

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## 第四章 ―元軍人の訪問―

 トノパ第三警察署の受付窓口に、
一人の男が現れたのは夜も深まってからのことだった。

 身長は六尺に届くかという大柄で、肩幅が広く
、首が太く、どこから見ても只者ではない体格だった。
しかし顔には年齢相応の皺と疲労が刻まれており、
眼差しには荒くれ者のそれとは明らかに異なる、
静かで篤実な光があった。
歳は五十を少し超えたあたりだろうか。

 ガルドだった。

 「赤熊亭」の主人にして元軍人。
妻を署に残してきたことが少し気になったが、
あのまま家に帰ることは到底できなかった。
せっかく騒動を収めてくれた若者が
不当に連行されていく。
その光景が、頭から離れなかった。

 軍にいた頃から、
ガルドは不正義に対して
黙っていられない性分だった。

 そしてそれは、
五十を過ぎた今も変わっていなかった。

 受付の若い警官に声をかけ、
今夜の騒動に関係する人物として名前を告げ、
話を聞いてもらえる人間を呼んでほしいと伝えた。
待つこと十分。
廊下の向こうから足音が近づいてきた。

 ガルドは何気なくその方向を見た。

 そして目を細めた。

 背は高くないが、歩き方が違った。
一歩一歩に無駄がなく、重心が安定していて、
周囲を自然に把握しながら移動している。
訓練を積んだ者特有の、あの歩き方。

 顔が見えた。

 三十前後の女性だった。
癖のある黒髪を後ろで束ね、
スーツの上に制服のコートを羽織っていた。
目は大きく、印象は凛としていた。
胸のバッジが刑事であることを示している。

 ガルドは一瞬固まり、それから破顔した。

「……ミレーヌか?」

 女性は足を止めた。
ガルドを見て、目を見開いた。

「……ガルドさん?」

 次の瞬間には、二人の間に笑い声があった。

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 ミレーヌ・クロスフォード。

 ガルドが軍に在籍していた晩年、
新兵として入隊してきた女性だった。
当時から腕が立ち、頭が切れ、何より根性があった。
ガルドが指導した新兵の中で、
間違いなく五指に入る逸材だった。
軍を退役する際、
ガルドは彼女の行く末を
ひそかに楽しみにしていたのだが、
まさかトノパ第三警察署で再会するとは
思っていなかった。

 二人は署の廊下の端に移動し、
立ったまま言葉を交わした。

「いつ除隊したんだ」ガルドが尋ねた。

「六年前です。近衛部隊に入って、三年勤めて、
それから警察に転じました」
ミレーヌは答えた。

「ガルドさんは?店をやっているって
噂で聞いていましたが」

「ああ、裏通りで居酒屋をやってる。
妻と二人でな」ガルドは苦笑いした。

「今夜、
その店がひどいことになってしまったんだが」

「それが今夜の件に関係するんですか?」

「関係どころか、本題だ」

 ガルドは腕を組み直し、
今夜の出来事を順を追って話した。
試験目当ての荒くれ者たちが店で暴れ始めたこと。
警察への通報が間に合わず、
誰も止められる者がいなかったこと。
そこへ一人の若者が通りかかり、
飛んできたテーブルの破片で
食料品を台無しにされたこと。
そして――。

「その若者が店に入って、
数秒で二人を外に放り出した」

 ミレーヌの眉がわずかに上がった。

「数秒で?」

「俺も見ていた。店の外から。本当に数秒だった。
二人がほぼ同時に空を飛んで、地面に叩きつけられた。
若者が出てきたときには、もうそれだけで終わっていた」

 ミレーヌは静かに考えていた。

「その若者が、今ここに?」

「警察が来た時、
二人を掴み上げて弁償を要求していたところを
連行された。
見ていた野次馬たちはざわついていたが、
警官は構わず連れて行ったそうだ」
ガルドは苦い表情をした。

「俺はすぐ後を追ってここに来た。
その若者を助けてやりたい。
身元引受人にでもなれるなら、そうしたい」

 ミレーヌはしばらく黙っていた。

「暴れていた二人というのは、
名前は分かりますか」

「ドルガと、ブレイズと名乗っていたと、
うちの常連が言っていた」

 ミレーヌの目が、かすかに反応した。

 ガルドはその表情を見た。

「心当たりがあるか?」

「……少し、確認したいことがあります」
ミレーヌは言った。

「ガルドさん、少し待っていてもらえますか。
その若者に話を聞いてきます」

「頼む」

 ガルドは頷いた。

 ミレーヌは廊下を歩き始めた。
その足取りには、
先ほどとは少し違う色が混じっていた。

 職業的な興味と、それを超えた何か。

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## 第五章 ―独房の対話―

 独房の前に立ったミレーヌは、
鉄格子越しに中を見た。

 青白い灯りの下、
寝台に腰を下ろして壁に背を預けている若者がいた。
目は閉じていたが、
眠っているわけではないことは分かった。
気配が、眠っている者のそれとは違った。
外の足音を聞いて、すでに意識を向けていた。

 訓練された者の気配だ、とミレーヌは思った。

 しかしそれだけでは説明がつかないものが、
この若者にはあった。
どこか、深さが違った。
何年、何十年訓練を積んでも、
そう簡単には身につかないような。

「フレデリック・マクミランさん?」

 若者は目を開けた。
薄い琥珀色の目が、ミレーヌを見た。

「そうだ」

「刑事のミレーヌ・クロスフォードです。
少し話を聞かせてもらえますか」

 フレデリックは立ち上がった。
鉄格子に近づいてミレーヌと向き合った。

「構わない。
ただ、さっきの警官と同じ話をするなら
時間の無駄だと思うが」

「同じ話はしません」ミレーヌは言った。

「今夜の件の経緯は、
信頼できる目撃者から聞きました。
正直に言えば、
あなたを釈放する方向で動くつもりでいます」

 フレデリックはかすかに目を細めた。

「信頼できる目撃者とは」

「ガルドという人物です。
あなたが助けた店の主人で、
今も署の外で待っています」

 フレデリックはしばらく何も言わなかった。

 それから静かに言った。

「……余計な気を遣わせた」

「あの方はそうは思っていないようですよ」
ミレーヌはわずかに微笑んだ。

「当然のことをしたまでだ、と言いそうな人です」

「そうかもしれない」

「いくつか聞かせてください」
ミレーヌは姿勢を戻した。

「今夜の件の状況確認です」

「どうぞ」

 ミレーヌは事実確認を手短に行った。
フレデリックは簡潔に答えた。
話の内容はガルドから聞いたものと完全に一致していた。

余計な誇張も、言い訳もなかった。
ただ起きたことを起きた通りに述べる、
それだけだった。

「近衛部隊の選抜試験に参加するために
トノパに来たのですか?」

「いや」フレデリックは首を横に振った。

「旅の途中で偶然寄っただけだ」

 ミレーヌは表情を変えずに続けた。

「冒険者ですか。それとも軍人、格闘家?」

「そういう仕事はしていない」

「では、何をして旅をしているんですか」

 フレデリックは少し考えてから答えた。

「あちこち見て回っている。それだけだ」

「それで生計は?」

「何とかなっている」

 ミレーヌは一拍置いた。

「あなたは非常に強い。それは間違いない。
では、何故そんなに強いんですか。
どこで、誰に習ったんですか」

 フレデリックは少しの間、答えなかった。

 それから言った。

「生まれつきだろう。
誰かに習った記憶は……もう、あまりない」

「あまり、ない?」

「昔のことは、忘れることも多い」

 ミレーヌはそれを聞いて、
何かを考える表情をした。
問いを変えた。

「今夜暴れていた二人の名前、ドルガとブレイズ。
聞いたことはありますか」

「ない。今日初めて見た」

「そうですか」

 ミレーヌは内心で何かを整理していた。

 ドルガとブレイズ。その二つの名前は、
この時期のトノパを知る軍関係者の間では知られていた。

毎年、試験の前になると始まるあの賭け
——正式には存在しないが、実質的に黙認されている、
今年の近衛部隊合格者予想——の有力候補として、
その名前は上位に挙がっていた。

 ミレーヌ自身は参加していなかった。
ガルドの薫陶を受けて育ったせいか、
勝ち負けを金銭で弄ぶような行為は、
どうにも性に合わなかった。
ただ話題としては耳に入っていた。
今年の本命はドルガかブレイズか、などという声を。

 その二人を、数秒で無力化した。

 武器もなく。
特別な装備もなく。
肉まんを飲み込んでから店に入り、
数秒後に二人を外へ放り出した。

 ミレーヌは鉄格子の向こうの若者を改めて見た。

 背は自分とさほど変わらない。
体格も、特別に恵まれているわけではない。
どこをどう見ても、
ドルガのような圧倒的な体躯はなかった。
それでいて、あの二人を制圧した。

 これが技術だけで説明できるものだろうか。

 ミレーヌの中で、何かが疼いた。

 それは刑事としての職業的感覚ではなく、
かつて近衛部隊で剣を握っていた頃の
自分が反応している感覚だった。

「ひとつ、お願いがあるのですが」

「聞こう」

「私と、手合わせをしてもらえませんか」
ミレーヌは真っすぐにフレデリックを見た。

「素手で、構いません。
ただ、あなたがどれほどの人間なのか確認したい」

 フレデリックは目を細めた。

「俺を尋問しに来た刑事が、
手合わせを申し込んでいるのか」

「今は刑事ですが、もとは近衛部隊にいました。
腕には自信があります」ミレーヌは言った。

「それに正直に言えば、
職務上の関心というよりも、純粋な興味です」

 フレデリックは少し考えた。

「怪我をしても知らない」

「それは同意の上です」

「……気が進まない」

「釈放に協力します」ミレーヌは言った。

「ガルドさんが身元引受人を申し出ています。
私が後押しすれば、手続きは早くなる。
反対に、私が何もしなければ、
今夜ここで夜を明かすことになります」

 フレデリックは表情を変えなかった。

 少しの間、本当に少しの間だけ、
何かを考えるように目を伏せた。

 それから言った。

「……釈放の後でいい。ここでやるつもりか」

「署の中に訓練場があります。今夜は空いています」

「身元引受人の話を先に済ませてから、でいい」

「分かりました」ミレーヌは頷いた。

「では少し待っていてください。手続きを進めます」

 ミレーヌが踵を返しかけたとき、
フレデリックが静かに言った。

「ひとつ聞いていいか」

「どうぞ」

「あの二人——ドルガとブレイズ。
あの名前を聞いて、お前は表情が変わった。
何か知っているのか」

 ミレーヌは立ち止まった。
振り返り、しばらくフレデリックを見た。

 それから答えた。

「今年の近衛部隊選抜試験の、
有力候補として名前が挙がっていた人物です。
非公式の話ですが」

「なるほど」フレデリックは少し間を置いた。

「だから俺に興味を持った」

「それが全てではありませんが、否定もしません」

 ミレーヌは今度こそ廊下を歩き始めた。

 その背中に、フレデリックの声が追いかけてきた。

「もし俺が試験に落ちるレベルだったら、
どうするつもりだった」

 ミレーヌは歩きながら、振り返らずに答えた。

「それはないと分かっていたので、
考えていませんでした」

 廊下に、短い静寂があった。

 それからフレデリックの、
かすかな笑い声のようなものが聞こえた。
数千年ぶりに聞く自分自身の笑い声に、
フレデリック本人が一番驚いていたが、
それを知る者はここにはいなかった。

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 ガルドが署の外の階段に腰を下ろして待っていると、
しばらくしてミレーヌが出てきた。

「手続きを進めます」ミレーヌは言った。

「身元引受人、正式にお願いできますか」

「もちろんだ」ガルドは立ち上がった。

「あの若者はどんな人間だった」

 ミレーヌは少し考えてから答えた。

「正直なところ、よく分かりません」

「よく分からない?」

「底が見えないんです」
ミレーヌは空を見上げた。

「強いのは確かです。
ドルガとブレイズを相手にしたのが信じられないほど。
でもそれ以上に、
何か……深いところが見えない気がして」

 ガルドは黙って聞いていた。

「ガルドさん、
あの若者と話したとき、何か感じましたか」

 ガルドは少し考えた。

「感じた、というか」彼は言葉を選んだ。

「こういう言い方は変かもしれないが……
あの若者の目は、若者の目じゃない気がした」

「目、ですか」

「軍にいた頃、たくさんの人間を見てきた。
若い兵士も、百戦錬磨の古兵も。
あの若者の目は、
何十年も戦い続けてきた古兵に近かった。
それでいて、肉まんを食いながら歩いていたんだが」

 ガルドは苦笑した。

 ミレーヌも、かすかに笑った。

「面白い人ですね」

「ああ」ガルドは頷いた。

「だから、ほっておけなかった」

 夜空に、星が出ていた。

 トノパの裏通りのどこかで、
まだ怒鳴り声がしていた。
試験の熱は冷めていなかった。
街はまだ眠れないでいた。

 しかし、少なくともこの警察署の一角では、
静かな夜が進んでいた。

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**(第五章・了)**
 

フレデリック・D・マクミランの

新たなお話を作ってみました

 

 

 

# 神殺し ―覚醒の序章―

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## プロローグ ―伝説の残滓―

 太古の時代、この世界は神々の玩具であった。

 天空に座す者、大地に宿る者、海淵に眠る者
――数多の神々が人類の頭上に君臨し、
その生死を気まぐれに弄んでいた。
人は生まれながらに神の奴隷であり、
祈ることと服従することしか許されていなかった。
それが世界の理であり、疑う者は誰もいなかった。

 誰も、いなかった。

 ただ一人を除いて。

 フレデリック・D・マクミラン。

 彼は人の子として生まれた。
神の血も引かず、運命の加護も持たず、
ただ人としての肉体と意志だけを持って
生まれてきた男であった。
しかし彼は諦めなかった。
屈しなかった。
神々が人に課した理不尽に対して、
ただひとり拳を握り、立ち上がり続けた。

 幾多の戦い。
幾多の敗北。
幾多の死線。

 そのすべてを越えた先に、彼は神々と対峙した。

 結末は――多くの者の予想に反し、
完膚なきまでの神々の敗北であった。

 打ち砕かれた神々は地に伏し、
フレデリックの足元で誓いを立てた。
二度と人類に刃を向けぬと。
二度と彼に逆らわぬと。
そして彼を、神々の主として認めると。

 それから数千年が経った。

 今やフレデリック・D・マクミランは
伝説の名となった。
神殺し、という畏怖と敬意の混じった呼び名で
語り継がれ、しかし誰もその名を実在の人物とは
思っていなかった。
賢者の口から語られる神話の英雄。
子供たちが眠る前に聞かされるおとぎ話の主人公。
絵物語の中で勇ましく剣を振るう、
どこにも存在しない虚構の男。

 そういうことになっていた。

 だが彼は生きていた。

 数千年前と変わらぬ、若い姿のままで。

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## 第一章 ―荒れる街、トノパ―

 ルパート王国の首都トノパは、
その季節、かつてないほどの熱気に包まれていた。

 近衛部隊選抜試験。

 王国の精鋭中の精鋭を選び抜く
その試験の参加資格は、ただひとつ――強さのみ。
身分は問わない。
家柄も問わない。
出身地も、年齢も、前歴さえも問わない。
ただ強ければよい。その一点だけが求められた。

 そのたった一つの条件が、
この街に魔物を呼び込んだ。

 国内の四方八方から、
腕に覚えのある者たちがトノパへと押し寄せた。
正規の訓練を積んだ者ばかりではなく、
辺境で野盗を生業としていた者、
地方の闘技場で荒稼ぎをしていた者、
名もなき山中で獣と戦いながら生きてきた者。
そういった、
文明の作法というものをかけらも持ち合わせていない
荒くれ者たちが、試験への野心と腕力だけを携えて
首都に集結していた。

 当然、街は荒れた。

 目抜き通りでは初日から乱闘が起き、
市場では値段の交渉が殴り合いへと発展し、
宿屋では夜ごと怒鳴り声と破壊音が響いた。
王都の警察は増員を要請したが、
それでも到底追いつかなかった。
数が多すぎた。
そして何より、荒くれ者たちの一人ひとりが、
並みの警官など歯牙にもかけないほどの実力者だった。

 だから、街の人々は耐えるしかなかった。
試験が終わるまでの辛抱だと、奥歯を噛んで。

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 首都の中心部から少し外れた裏通り。
石畳が少し欠け、
看板の灯りがほんのりと揺れるその一角に、
「赤熊亭」という居酒屋があった。

 表通りの煌びやかな酒場とは違い、
この店には気取ったところが何もなかった。
天井は低く、木製のテーブルと椅子は
年季が入って黒光りしており、料理の値段は安く、
酒の種類は多くなかった。
しかしそれでいい、
とこの界隈の住人たちは思っていた。
一日の疲れを流すのに、豪華な内装など必要ない。
安い酒と、温かい飯と、
顔見知りの隣人がいれば十分だった。

 店主のガルドは五十がらみの大柄な男で、
かつては兵士として王国に仕えた経歴を持っていたが、
今は妻と二人でこの店を切り盛りしていた。
気さくで面倒見がよく、
常連客たちからの信頼も厚かった。

 だがその夜、「赤熊亭」は地獄に変わっていた。

 発端はささいなことだった。

 片方は北の山岳地帯から来た男、ドルガといった。
身長は六尺を超え、首の太さは常人の腿ほどもある、
熊のような体躯の男だった。
もう片方は東の海沿いの港町から来た男で、
ブレイズと名乗っていた。
こちらは細身だが、目つきが蛇のように鋭く、
腰に二本の短剣を差していた。

 二人はたまたま隣り合って酒を飲んでいた。
そして些細な言葉の行き違いが、煽り合いになり、
煽り合いが怒鳴り声になり、怒鳴り声が拳になった。

 それだけのことだった。
しかしその「それだけのこと」が、
店内を瞬く間に修羅場へと変えた。

 最初の一撃でドルガがブレイズの顔面を殴りつけた。
ブレイズは吹き飛びながら隣のテーブルに激突し、
そのテーブルごと常連客たちを薙ぎ倒した。
悲鳴と怒号が交錯する。
立ち上がったブレイズは上着を脱ぎ捨てると、
両手の短剣を抜き放った。
刃が灯りを受けてきらりと光る。

「ぶっ殺してやる!」

 ブレイズの叫びと同時に、戦いは次の段階に移った。

 短剣が空気を裂く。
ドルガは信じがたい反射神経でそれを躱し、
酒瓶を掴んでブレイズの側頭部へと叩きつけた。
酒瓶は砕け、アンバー色の液体が飛び散り、
破片が宙を舞った。
ブレイズはそれでも倒れず、逆に笑いながら反撃する。

 店内の客たちは悲鳴をあげて出口へと殺到した。
椅子が倒れ、テーブルが引っくり返り、
食器が床で砕け散る。
逃げ遅れた客が二人の間に巻き込まれ、
壁に叩きつけられて動かなくなった。

「やめろ!やめてくれ!」

 ガルドが怒鳴ったが、二人には聞こえていないのか、
あるいは聞こえていても止まる気などないのか、
戦いはむしろ激化していった。
ドルガが棚を掴んで引き倒した。
酒瓶が十数本、轟音と共に床に落ち砕け散る。
そのうちの一本がガルドの妻の足元に転がり込み、
彼女は悲鳴を上げて厨房へと逃げ込んだ。

 ブレイズが再び短剣を振るう。
今度はドルガの腕を浅く切り裂いた。
血が滲む。
ドルガは咆哮し、テーブルを持ち上げて
ブレイズに向かって投げた。
ブレイズは身を捻ってそれを避けたが、
テーブルは壁に激突し、壁の板がべこりと凹んだ。
続いてドルガは椅子を掴むと、
今度は横に薙ぎ払うように振り回した。
ガルドは間一髪で身を屈めて躱したが、
椅子は背後の棚に直撃し、
ガルド自慢のコレクションの酒瓶が
轟音とともに全滅した。

「俺の酒が……」

 ガルドの声に、怒りと絶望が滲んだ。
しかし止められない。
この二人を相手に、武器もなく
素手で割って入れる人間など、そうそういなかった。

 気がつけば店内には、戦う二人と、
逃げ遅れて隅で縮こまっている数人の客と、
ガルドしかいなかった。
床には砕けた椅子の残骸と、割れた食器の破片と、
散乱した酒瓶の欠片と、
どこから飛んできたのか分からない
料理の残骸が散らばっていた。

 ガルドはすでに警察へ通報していた。
だが警官は来なかった。
今夜も街の各所でトラブルが起きているのだろう。
それは分かっていた。
しかし、来ない間にも店はどんどん壊れていく。

 もはやこれは自分の店ではない。
そんな気さえした。

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 いつの間にか、店の外には人だかりができていた。

 裏通りの住人たち、仕事帰りの商人、
呼び止められた行商人、野次馬目当ての若者たち。
「赤熊亭」の開け放たれた扉と
割れた窓から聞こえてくる怒号と
破壊音に引き寄せられ、
十人、二十人、三十人と、
気がつけば通りが人で埋まっていた。

 だが誰も中には入らなかった。

 入れなかった、というのが正確だった。
ちらりと店内を覗いた者たちは、
戦っている二人の体格と、
すでに廃墟のようになっている店内の有様を見て、
例外なく顔を青ざめさせた。
ひそひそと囁き合う声が重なる。

「誰か止めろよ……」

「お前が行けよ」

「嫌だよ死ぬだろあんな奴ら相手に」

「警察は?」

「呼んだって聞いたけど、まだ来ないらしい」

「またかよ。ったく……」

 野次馬たちは輪を作って眺めるだけだった。
できることが何もなかった。
時折、店の中から破壊音が響くたびに、
輪の中からため息と呻き声が漏れた。
ガルドがどれだけいい男だったか、
「赤熊亭」がどれだけこの界隈の人間に愛されていたか、

そういう話が小声で交わされた。
しかし誰も動かなかった。

 そのとき。

 店の中から、何かが飛んできた。

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## 第二章 ―通りがかりの男―

 フレデリック・D・マクミランは、
肉まんを食べながら歩いていた。

 片手には食料品の入った布袋。
玉ねぎ、じゃがいも、ニンジン、干し肉、卵が数個。
それからパンが一斤。
今夜の夕食と、明日の朝食の材料だった。
もう片方の手には肉まんで、
これは夕食前の小腹を満たすための、
いわば前菜だった。

 こんがりと焼けた皮の中に、
豚肉と香辛料の詰まった具材。
一口齧るたびに肉汁が滲み出てくる。
値段の割によくできていた。
露店の親父はなかなかの腕前だ、
とフレデリックは思いながら、
数千年来変わることのない
素朴な喜びを噛みしめていた。

 人ごみを抜けて裏通りへ差し掛かったとき、
彼はその人だかりに気がついた。

 三十人以上が道を塞いでいる。
みな一方向を向いて何かを見ている。
店の中からは轟音と怒号が漏れていた。
ガラスが割れる音。
何かが壁に激突する音。
そして時折聞こえる、くぐもった呻き声。

 フレデリックは人ごみの端で立ち止まり、
状況を把握した。

 一秒もかからなかった。

 まあ、巻き込まれなければそれでいいか、
と彼は思いながら人だかりの外縁を回って
通り過ぎようとした。

 そのとき。

 「赤熊亭」の割れた窓から、
テーブルが飛んできた。

 正確にはテーブルの脚が折れた破片だったが、
重量と速度は十分すぎるほどだった。
野次馬たちが悲鳴を上げて散り散りになる中、
それはフレデリックの持っていた布袋に直撃した。

 鈍い衝撃音。

 布袋が宙を舞い、中身が路上に散乱した。
玉ねぎが転がる。じゃがいもが
石畳に叩きつけられて砕ける。
卵は言うまでもなかった。
全滅した。
干し肉は水たまりの中に落ちた。
パンは泥の上に着地した。

 フレデリックは落ちてきた布袋を見下ろし、
路上に散らばった食料品を見渡した。

 そして肉まんの最後の一口を、口の中に頬張った。

 もぐ、と咀嚼する。ゆっくりと。丁寧に。

 ごくり、と飲み込んだ。

 空になった手が、ゆっくりと拳を作った。

 野次馬たちが、その背中を固唾を飲んで見守る中、
フレデリックは「赤熊亭」の扉をくぐった。

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 店内は予想通りの有様だった。

 いや、予想より少しひどかった。

 床一面に散乱するガラスの破片と木材の残骸。
引き倒された棚。
砕けたテーブルと椅子。
壁には拳や椅子が直撃したと思しき凹みが
いくつもあった。
隅の方では常連客らしき男が
壁にもたれて気を失っていた。
カウンターの奥では初老の男が、
放心したように立ち尽くしていた。

 そしてその中心で、二人の大男が向き合っていた。

 体の大きい方が先にフレデリックに気がついた。

「あ?何だお前。見物か?
さっさと失せろ、次は外まで投げ飛ばしてやるぞ」

 ドルガだった。
額から血が流れていたが、
目は猛獣のように爛々と輝いていた。

 フレデリックは答えなかった。
ただ店内を一度、ぐるりと見渡した。

 散乱した食器。
砕けた酒瓶。
破壊された家具。
そしてカウンターの奥で立ち尽くす店主の、
諦めと悔しさが混じり合ったような表情。

 フレデリックは一歩、前に踏み出した。

 ブレイズが短剣を構えながら、冷たく笑った。

「死にたいのか、お前」

 数秒後のことを、誰も正確には見ていなかった。

 外で待っていた野次馬たちが見たのは、
「赤熊亭」の扉が勢いよく開き、
中から二つの大きな影が飛び出してきた光景だった。

 ドルガとブレイズは、放物線を描いて宙を舞い、
石畳の上に叩きつけられた。
ドルガは地面にめり込むような勢いで背中から落ち、
ブレイズは転がって電柱に激突した。
二人とも、一瞬何が起きたか分からない
という表情で呆けていたが、
やがてそれぞれ力なく脱力し、白目を向いた。

 野次馬たちの間に、静寂が広がった。

 扉からフレデリックが出てきた。

 肉まんはもうない。手ぶらだった。

 彼は路上に転がる二人を見下ろし、

それから自分の食料品が散乱している場所まで歩いた。

砕けたじゃがいも。

割れた卵。

泥のついたパン。

水に浸かった干し肉。

 フレデリックは溜め息をついた。

 それから、
半ば気絶して倒れているドルガの首根っこを掴んで
引き起こし、同様にブレイズも片手で掴み上げた。
両腕に一人ずつ、
まるで荷物でも持ち上げるような所作で、
二人の大男を宙に吊り下げた。

 そして路上に散乱した食料品を、
二人の目の前に突き出すように指さした。

「弁償しろ」

 静かな声だった。
怒鳴ってもなく、脅しているわけでもなく、
ただ当然のことを当然のように言う、
そういう声だった。

「卵は全部割れた。じゃがいもも砕けた。
パンは泥で食えない。干し肉は水に浸かった。
全部、お前たちが余計なものを飛ばしてきたせいだ。
弁償しろ」

 ドルガはもうろうとした目でフレデリックを見た。
自分より一回りは小柄なはずのこの男に、
なぜ自分がこうも容易く持ち上げられているのか、
酸欠の頭では理解できなかった。
ブレイズも似たようなものだった。
短剣はいつの間にか手の中になく、
どこへ消えたのかも分からなかった。

 野次馬たちは完全に沈黙していた。

 三十人以上いたはずの人ごみが、
しんと静まり返っていた。
誰もが目を丸くして、
路上に吊り下げられた二人の大男と、
それを片腕ずつで軽々と保持している若者を、
信じられないものを見るような目で眺めていた。

 老人が一人、隣の女に囁いた。

「……今、何が起きた?」

 女は首を横に振るしかなかった。

---

 そこへ、ようやく警察が来た。

 パトカーが二台、
サイレンを鳴らしながら路地に入ってきた。
降り立った警官たちは現場を見渡し、
一瞬何が何だか分からないという顔をした。

 路上に転がる二人の大男。

 その傍らに立つ、
両腕に一人ずつ吊り下げている若者。

 散乱した食料品。

 唖然としている野次馬の群れ。

 先頭の警官は状況の整理を試みた。
破壊された居酒屋。
傷を負った被害者。
複数の関係者。

 そして
今まさに二人の男を掴み上げている不審な若者。

「おい、そこのお前!止まれ!」

 警官はフレデリックに向かって怒鳴った。

 フレデリックは振り返った。

「俺か?」

「そうだ!手を上げろ!」

 フレデリックは首を傾げた。

「手を上げたら、こいつらを落とすことになるが」

「うるさい!今すぐ解放して、手を上げろ!」

 フレデリックは二人を静かに地面に下ろした。
ドルガとブレイズはぐったりと倒れ込んだ。
フレデリックが手を上げると、
警官二人がすぐに近寄って腕を掴み、
手錠をかけた。

「ちょっと待て」

 フレデリックは抵抗するわけでもなく、
しかし静かに言った。

「捕まえる相手が違う。そいつら二人が店を壊した。
俺は止めただけだ。それに――」

 彼は散らばった食料品を顎でしゃくった。

「俺の飯も弁償させてくれ。まだ話が終わっていない」

「うるさい、署で話を聞く!」

 警官はフレデリックの腕を引っ張った。
フレデリックは連行されながら、
もう一度だけ振り返り、
路上に散らばった食料品を見た。
玉ねぎだけは奇跡的に無事だった。
転がって水たまりの縁で止まっていた。

 野次馬たちの中から、誰かが声を上げた。

「おい、捕まえるのそっちじゃないだろ!」

 別の声が続いた。

「そうだそうだ!止めたのその人だぞ!」

「暴れてたのはそっちの二人だ!」

 ざわめきが広がった。
しかし警官たちはその声を完全に無視した。
ドルガとブレイズにも職務質問をするという形は
取りながら、パトカーの後部座席に
フレデリックを押し込んだ。

 ドアが閉まる直前、
フレデリックはガラス越しに野次馬たちを見た。
口々に抗議している。
どの顔にも、明らかな憤りがあった。

 フレデリックは小さく息を吐いた。

 数千年生きていると、
こういう理不尽にもすっかり慣れてしまう。

 慣れてしまうのは、
あまり良いことではないのかもしれないと、
彼はぼんやりと思った。

 パトカーはサイレンを鳴らしながら、
夜のトノパへと走り出した。

---

 残されたのは、野次馬たちと、
廃墟のような「赤熊亭」と、
玉ねぎ一個だった。

 店主のガルドは扉口に立ち、
走り去るパトカーの赤いランプを眺めていた。

 隣に来た妻が、黙って彼の手を握った。

 ガルドはしばらくそうしていたが、
やがて大きく息を吸い込んで言った。

「……あの若者、名前も聞けなかったな」

 妻は頷いた。

「でも、助けに来てくれた」

「ああ」

 ガルドは頷いた。
そして倒れた棚を一瞥し、
割れた酒瓶の残骸を見渡し、
それから空を仰いだ。

「明日から修繕だ。手伝ってくれるか」

「もちろん」

 夫婦は肩を並べて、壊れた店の中へと戻っていった。

---

 *――この夜、一人の若者が捕まった。*

 *誰も知らなかった。*

 *その若者が、
数千年前に神々を打ち倒した男であることを。*

 *そして、彼がトノパに来たことに、
あるいは深い理由があることを。*

 *伝説は、静かに動き始めていた。*

---

**(第一章・了)**
 

これまで逃げ癖のある人を何十人も見てきました

話を聞くと大抵 大元の原因は親の教育でした

一度 逃げ癖が付くと改善するのは非常に困難です

人は歳を取れば取る程に経験則を重視するからで

この経験則の根幹に親の教育があるからです

子供は良くも悪くも

一生親の影響に縛られて生きていくしかなのでしょうね

 

 

# 遺伝子という言い訳

---

## 一

「人の全ては遺伝子で決まるんだよ」

雨田 凌(あめた りょう)は、
缶コーヒーを口に運びながら、そう言い捨てた。
三十四歳。無職になって七ヶ月になる。

俺は返す言葉を一瞬探したが、あえて黙った。
凌とはもう十年来の付き合いだ。
彼がこの言葉を使うとき、それは諦めの宣言であり、
同時に自己弁護の幕開けでもあることを、
俺はよく知っている。

今回は転職活動の話だった。
履歴書を一社に送ったきり、面接の練習もせず、
「どうせ受からない」と先に決めてしまっていた。

「遺伝子でさ、能力って決まってるわけじゃん。
俺の親見ればわかるよ。
二人ともたいしたことないし、
俺もそういう家系なんだよ」

彼の声には、怒りでも悲しみでもなく、
妙な平静さがあった。
まるで天気の話をするように。
その平静さの方が、俺にはずっと痛かった。

---

## 二

凌の生家を、俺は一度だけ訪れたことがある。
高校一年の秋のことだ。

家に入った瞬間、空気が違った。

リビングのテレビは常につけっぱなしで、
誰も見ていない。
テーブルの上には昨日のままらしい食器が重なっていた。

凌の父親は競馬新聞を広げたまま俺たちを一瞥し、
何も言わなかった。
母親はキッチンで何かを炒めていたが、
こちらを振り向きさえしなかった。

「上がっていいよ」と凌は慣れた様子で言い、
俺を自分の部屋へ連れて行った。

彼の部屋は、家の雰囲気とは別世界のように、
整然としていた。
本棚に文庫本が並んでいた。野球のトロフィーがあった。

壁には手書きの英単語リストが貼ってあった。
当時の凌には、
まだ何かを手繰り寄せようとする力があった。

しかし俺が最も覚えているのは、夕食時の光景だ。

四人でテーブルを囲んだが、会話はなかった。
父親はテレビを見ながら酒を飲み、
母親は自分の皿だけに目を落としていた。
凌が「今日、数学のテストで学年二位だった」
と言った。

父親はチャンネルを変えた。

母親は「へえ」と言って立ち上がり、
流しへ向かった。

凌は何事もなかったように箸を動かし続けた。
その横顔の、感情の抜け落ちた静けさを、
俺は今でも忘れられない。

称賛されなかった子供は、努力の意味を見失う。
正確に言えば、努力と結果のあいだにある
「喜び」という回路が、徐々に切断されていく。
脳は報酬のないことを
繰り返さないように設計されている。
親の無関心は、子供の挑戦心に対する、
もっとも静かな、もっとも深い毒だ。

---

## 三

凌の父親は、
いわゆる「叱責型」の人間でもあった。

ただし、叱るときにも一貫性はなかった。
機嫌のいい日には何をしても怒らず、
機嫌の悪い日には些細なことで怒鳴った。
凌はやがて「結果を出すこと」ではなく
「父親の機嫌を読むこと」
にエネルギーを注ぐようになった。

これは動物行動学でいう「不規則強化」に近い。
予測不能な報酬と罰が与えられる環境では、
生き物は行動の基準を失い、
ただ環境の変化に怯えるだけになる。
カジノのスロットマシンが
人を依存させるのも同じ原理だ。

凌が身につけたのは、
挑戦して失敗するリスクを取るより、
最初から諦めて傷つかない方が安全だ、
という生存戦略だった。

それは確かに、
あの家では正しい戦略だったかもしれない。

問題は、彼がその戦略を
大人になっても更新しなかったことだ。
いや、正確には、更新する機会が与えられなかった、
と言うべきかもしれない。

---

## 四

「逃げることが悪いとは思わないんだよね」

凌は三十歳のとき、
最初の会社を辞めた理由をそう語った。
「上司が合わなかった」
「会社の方針がおかしかった」
「あんな環境じゃ誰だってやれない」。
言葉はすらすらと出てきた。

不思議なのは、彼の言葉が間違っていないことだ。
上司は確かにパワハラ気質だったし、
会社の体制にも問題はあった。
しかし同じ環境で五年、十年と続けた同僚もいた。
凌と彼らの違いはなんだったのか。

逃げるという選択が、経験則として蓄積されると、
それは次の場面で最初に引き出されるカードになる。

一度目の逃走は「判断」だ。
二度目は「選択肢のひとつ」になる。
三度目以降は、もう「習慣」だ。
習慣は意識より先に動く。
困難を感じた瞬間、
脳は過去の成功体験を参照する。
そして「あのとき逃げてうまくいった」
という記憶が、自動的に出口を指し示す。

しかも、逃げた後には必ず「正当化」が伴う。
これが厄介だ。
人間は自分の行動を後から合理化する生き物だ。
「あの職場が悪かった」
「あの人が悪かった」
「あの状況が特殊だった」。
逃げるたびに、外部に原因を配置していく。
その作業を繰り返すうち、
彼の世界地図には「自分の内側に原因がある」
という領域が、どんどん縮小していった。

---

## 五

人は歳を重ねるほど、
経験則という名の鎧を厚くしていく。

子供が自転車に乗れるのは、
失敗を恐れないからではない。
失敗の意味を、まだ充分に知らないからだ。
転んでも、それが「恥ずかしいこと」
だと刷り込まれる前に、もう一度ペダルを踏む。

五歳の子供は、初めて会った人に平気で話しかける。
三十歳の人間が同じことをするには、
相当な勇気が要る。
その差は能力の差ではなく、
「断られた経験」
「無視された経験」
「恥をかいた経験」の厚みの差だ。

経験則は本来、生きるための知恵だ。
熱いものに触れた経験があるから、次は手を引く。
それは合理的な学習だ。
しかし問題は、その経験則が
「一般化」されすぎるときに起きる。

一度プレゼンで失敗した人間が
「自分は人前で話すのが苦手だ」と結論づける。
一度起業に失敗した人間が
「ビジネスは才能のある人間にしかできない」と学ぶ。
その瞬間、経験は知恵を超えて、牢獄になる。

医学の世界でも同じことが起きた。
長らく「胃潰瘍はストレスが原因だ」
という経験則が支配していた。
それは何十年もの臨床経験に基づく、
正しそうな答えだった。
しかしバリー・マーシャルという若い医師は、
ピロリ菌という細菌の関与を疑い、
自分でそれを飲んで証明してみせた。
医学界の大多数の「経験則」は間違っていた。

経験の少ない者が新しい地図を描く。
経験の豊富な者は、古い地図を守ろうとする。
それが人間の、避けがたい傾向だ。

---

## 六

凌と俺は、
ファミレスのテーブルを挟んで向かい合っていた。

俺は説明しようとした。
育ちの話を、経験則の話を、逃げ癖の話を。
丁寧に、感情的にならないよう、
言葉を選びながら。

凌は聞いていた。
うなずくこともあった。
「まあ、そういう考え方もあるよね」とも言った。

しかし俺には途中からわかっていた。

言葉は彼の表面を滑っていく。
届いていない、という意味ではない。
彼の頭には入っている。
ただ、それが彼の中心部に届く前に、
何かが受け取りを拒否している。

人の基幹にある経験則は、
議論で書き換えられるものではない。
それは論理の問題ではなく、身体の問題だからだ。
恐怖は理屈で消えない。
幼少期に形成された「世界への構え方」は、
神経回路として刻まれている。
言葉は神経を直接書き換えない。

「でもさ」と凌は言った。
「俺みたいな親から生まれたら、そりゃこうなるよ。
遺伝子もあるし、育ちもあるし。
俺のせいじゃないじゃん」

俺は「そうだな」と言おうとして、止まった。

彼は半分、正しかった。
彼のせいではない部分は確かにある。
親を選べない子供に育ちの責任を問うことはできない。

しかし彼は三十四歳だ。

---

## 七

子供は親を選べない。

これほど残酷な真実を、俺は他に知らない。

生まれる家庭を、生まれる時代を、
生まれる国を、生まれる身体さえも、誰も選ばない。
にもかかわらず、その全てが、
その後の人生の土台になる。

「親も子どもと一緒に成長する」
という言葉がある。
育児書にも書いてあるし、
経験談として語られることも多い。
微笑ましい言葉として流通している。

しかし俺はずっと、
この言葉の裏側が気になっていた。

親が成長の途上にある間、子供はどうなるのか。
親が試行錯誤している間、
子供は何を受け取っているのか。
親の失敗は、子供の内側に刻まれ、
子供の神経回路になり、
子供の「世界への構え方」になる。

親が成長しきったとき、子供はもう大人だ。

間に合わない成長が、子供の一生を形作る。
それを「一緒に成長する美談」と呼ぶのは、
被害を受けた側からではなく、
与えた側からの言葉だ。

凌の父親も、
あるいは自分なりに葛藤していたかもしれない。
自分の育てられ方に縛られ、
どうすればいいかわからなかったかもしれない。
しかしその葛藤は、凌の傷を癒さない。

---

## 八

「じゃあ俺はどうすればよかったんだよ」

凌は珍しく、少し声を荒げた。

俺は答えられなかった。

どうすればよかったか、ではなく、
どうすればよいか、という問いなら、
まだ答えがあるかもしれない。
しかしそれも、俺が外から差し出せるものではない。
変化は、内側から始まらなければ根付かない。
そして内側からの変化は、
基幹にある経験則が揺らがない限り、起きない。

基幹を揺らすのは、論理ではない。
圧倒的な体験か、あるいは長い時間をかけた、
信頼できる他者との関係性だ。
どちらも、ファミレスのテーブルで
俺が渡せるものではなかった。

「わかった」と俺は言った。

「今日はもういい」

凌は少しほっとしたように、
缶コーヒーの最後の一口を飲んだ。

「でもさ」と彼は言った。

「お前が説明してくれたこと、
なんとなくわかる気はするんだよ。
親の影響とか、逃げ癖とか。
ただ、わかっても変わらないんだよな。
不思議だろ」

不思議ではなかった。
それがまさに、経験則の力だと俺は思った。

「知っている」と「できる」は、
全く別の場所にある。

---

## 九

帰り道、俺は一人で考えた。

もし子供の養育を、
訓練を受けた専門の養育者が担うようになったとしたら。感情的な未熟さや、連鎖する貧困や、
世代を超えて受け渡されるトラウマを、
プロの知識と技術で遮断できたとしたら。

子供は親の所有物ではない。
にもかかわらず、世界中のほぼ全ての社会が、
子供の精神形成を「たまたま生んだ大人」に委ねている。

免許もなく、試験もなく、ときに愛情さえもなく。

それは今もなお、最も無監督な人生の実験だ。

凌が遺伝子のせいにするとき、彼は間違っていない。
ただ、彼が言うべき言葉は「遺伝子」ではなく
「環境」であり、「環境」の正体は「人」であり、
その「人」は彼が選ばなかった「親」だ。

責任の所在は明確だが、責任を取れる人間はもういない。

父親は五年前に他界した。
母親は施設にいる。

凌は、自分を作った人間のいない世界で、
その人間たちが作った自分を生きている。

---

## 十

「人の全ては遺伝子で決まるんだよ」

彼がこの言葉を使うとき、俺はもう反論しない。

なぜなら、この言葉こそが、彼の育ちの産物だからだ。
決定論を信じることで、彼は傷つかずに済む。
何かを始めなくていい理由が、
宇宙の法則として与えられる。

そしてその言葉を、
今日も誰かの子供が、どこかの家庭で学んでいる。

親から。

選べなかった、その親から。

---

*了*

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> 子供は親を選べない。  
> しかし社会は、子供に何を与えるかを、選ぶことができる。
 

当初は日本などの問題として

あらすじを作ったのですが

差別的とか言われ何度も作り直し

結局 架空の国の話で作るしか

手がありませんでした

差別を言い訳にした迫害はどこにでもありますね

 

 

 

# 星の静寂、血の代償
## ―コロンバス浄化作戦―

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# 第一部 傾く星

## 第一章 黄金の歴史を持つ星

 コロンバスの夜空には、
常に二つの月が浮かんでいる。

 大きな月をラーナ、小さな月をセルと呼ぶ。
古来よりコロンバス人はこの二つの月を
「王冠の宝石」と称し、
夜空を見上げるたびに先祖への敬意と、
この星への誇りを胸に刻んできた。

 コロンバスの歴史は長い。

 建国から数えて三千二百年。
王家ヴァルデン家は一度たりとも断絶することなく、
その血脈を現在まで繋いできた。
現国王エドワルド十二世もまた、
深い藍色の礼服を纏い、
首都ヴァルデンシアの王宮「蒼天宮」から、
この星を見守り続けていた。

 しかし、コロンバスの統治体制は
決して専制的なものではなかった。
三千年以上前に制定された「コロンバス憲章」により、
国王は国家の象徴と定められ、
政治的権限は民主的に選出された議員と
首相に委ねられていた。
王は君臨すれど統治せず
――それがコロンバスの根幹を成す精神だった。

 この星の民は、代々勤勉であることを美徳とした。

 他者に迷惑をかけることを極度に恥じる文化。
約束を守ることを命よりも重んじる気風。
労働を通じて自己を高め、
社会に貢献することを人生の本義とする価値観。
これらが三千年の歳月をかけて醸成された結果、
コロンバスの犯罪率は銀河系の惑星国家の中でも
最低水準を誇っていた。

 玄関に鍵をかけない家庭も珍しくなかった。
 財布を落とせば、必ず手元に戻ってきた。
 夜中に女性が一人で歩いても、
誰も怖い思いをしなかった。

 それが、コロンバスという星のかつての姿だった。

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## 第二章 開かれた門

 変化の兆しは、今から十二年前に始まった。

 コロンバス連邦議会において、
左翼政党「コロンバス進歩連合(KPR)」が
第二党に躍進したのだ。
KPRは「多様性こそが星の活力」
「閉鎖的な移民政策は差別だ」という
スローガンを掲げ、
特に若い有権者の支持を集めた。

 当時の移民審査制度は確かに厳格だった。

 語学試験、職業資格審査、財産証明、犯罪歴照会、
そして五年間の仮住民期間。
これらを全てクリアして初めて、
コロンバスの永住権が与えられた。
審査を担当する「移民統合局」の職員たちは、
一件一件の申請を丁寧に、
そして慎重に精査していた。

 KPRはこの制度を
「時代遅れの排外主義」と糾弾した。

「なぜ、苦しい星から逃れてきた人々に、
これほどの壁を設けるのか。
コロンバスには彼らを受け入れる豊かさがある。
人道的責任を果たすべき時だ」

 議会での演説は熱を帯び、
主要メディアもKPRの主張を大々的に取り上げた。
コロンバスの主要紙「ヴァルデン・タイムズ」は
連日、移民申請を却下された家族の悲劇を
一面で報じ、世論は徐々に動いていった。

 当時の与党
「コロンバス国民党(KNT)」内部でも意見が割れた。

 旧来の保守派は移民審査の維持を主張したが、
党内の若手議員を中心に「時代の変化に対応すべき」
という声が強まった。
結局、KNTは党内をまとめきれず、
KPRの主張に部分的に妥協する形で
「移民審査改革法」が可決された。

 審査基準の大幅緩和。
 仮住民期間の短縮。
 一部項目の審査免除。

 門は、開かれた。

---

## 第三章 変わりゆく街

 最初の数年は、変化はそれほど目立たなかった。

 しかし六年が経過する頃、
首都ヴァルデンシアの風景は明らかに変わっていた。

 西区の「プラッツァ通り」はかつて、
手入れの行き届いた並木道と
カフェが立ち並ぶ閑静な商店街だった。
今では看板の半分が見知らぬ言語で書かれ、
深夜になると若い男たちが
路上に屯するようになっていた。

 ヴァルデンシア北部のルーカス地区では、
住民の七割が移民に入れ替わっていた。
元からの住民たちは次第に郊外へと移り住み、
地区には空き家が増えた。
移民たちはその空き家を共同で借り受け、
時に十数人が一つの家屋に詰め込まれて生活した。

 問題は、少しずつ、
しかし確実に積み重なっていった。

 最初は軽微な窃盗だった。
次に、路上での暴行事件。
そして強盗、傷害、性犯罪。

 コロンバス保安局(KSB)の統計は
冷徹な現実を示していた。

 移民審査改革法施行から五年後、
コロンバス全体の犯罪発生件数は
施行前の三・七倍に達していた。
被疑者の国籍別内訳では、
クラルド共和国出身者とセナ連邦出身者が、
全体の六十二パーセントを占めていた。

 クラルド人とセナ人。

 この二つの民族グループは、
コロンバスに流入した移民の中でも
特に大きなコミュニティを形成していた。
全員が犯罪に関わっていたわけではない。
懸命に働き、コロンバスの社会に
溶け込もうとしていた善良な移民も多くいた。
しかし統計は、隠しようのない傾向を示していた。

 ヴァルデンシア東部のタネル地区に住む主婦、
マーシャ・リンドは言った。

「昼間でも一人で外を歩けなくなりました。
この街で生まれ育って四十年、
こんな日が来るとは思いもしませんでした」

 彼女の言葉は、
多くのコロンバス市民の共通した感情を代弁していた。

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## 第四章 腐った司法

 しかし問題は、犯罪の増加だけではなかった。

 より深刻だったのは、司法と行政の機能不全だった。

 コロンバスでは数十年前から、
大学の人文社会系学部を中心に
左翼思想が浸透していた。
「構造的差別の是正」
「マイノリティへの配慮」
「文化相対主義」
――これらの概念が教育界を席巻し、
その教育を受けた世代が今や官僚・司法
・教育行政の中枢を占めるようになっていた。

 検察の上層部はKPRの支持者で固められていた。
 裁判官の多くは
「コロンバス進歩的法律家協会」のメンバーだった。
 移民統合局の幹部は、
移民擁護団体と深い繋がりを持っていた。

 結果として、
移民による犯罪の多くが不起訴処分となった。

 起訴されたとしても、
執行猶予付きの軽い判決が続いた。
被害者のコロンバス人が怒りの声を上げると、
メディアは「差別的感情による偏見」と報じた。
KPR系の議員たちは
「移民への不当な迫害」と非難した。

 最も悪名高い事件は
「タネル地区集団暴行事件」だった。

 クラルド人の若者グループが
コロンバス人の女性三名を集団暴行したこの事件で、
逮捕された八名全員が不起訴処分となった。
担当検察官が「文化的背景の相違による誤解の可能性」
を理由に挙げた際、
コロンバス市民の怒りは頂点に達した。

 しかし、怒りは怒りのままで終わった。

 デモは行われた。
請願書は提出された。
野党議員が議会で声を荒げた。
しかし何も変わらなかった。
KPRとその支持者たちが司法・行政
・メディアの重要なポストを押さえていた以上、
制度の内側からの是正は
事実上不可能な状況になっていた。

 コロンバス市民は気づきつつあった。

 自分たちの星が、静かに、
しかし確実に、
別の何かへと変わっていっていることに。

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# 第二部 クラルドの憂悩

## 第五章 同盟国の苦悩

 クラルド共和国の首都カルデンには、
外交問題評議会の緊急会議を告げる
赤いランプが灯っていた。

 会議室に集まった顔ぶれは重かった。

 エイドリアン・ヴォルク外務大臣。
セルゲイ・ハルナ国防大臣。
マリナ・クレスト情報局長官。
そしてヤコフ・ダルネン首相。
テーブルの中央には、
コロンバスからもたらされた
最新の犯罪統計レポートが置かれていた。

「数字が全てを物語っている」

 ヴォルク外務大臣が静かに口を開いた。
六十代の痩身の男で、
外交官としての長いキャリアが刻まれた
深い皺が額にある。

「コロンバスにおけるクラルド人の犯罪関与率は、
今年に入って更に上昇している。
しかも被疑者の多くは、我が国で犯罪歴を持つ者、
あるいはクラルドを追われた者だ。
彼らはコロンバスの緩和された審査を利用して入国した」

 重苦しい沈黙が室内を満たした。

「コロンバスとの友好条約は
我が国にとって戦略的に極めて重要だ」
とハルナ国防大臣が言った。

「資源輸入ルートの三十八パーセントが
コロンバス経由だ。軍事協定も存在する。
コロンバスの民心がクラルド人に対する憎悪で
満たされるようなことになれば、
その影響は計り知れない」

「もう既になりつつあります」

 発言したのは情報局長官のクレストだった。
四十代の女性で、
短く刈り込んだ黒髪と鋭い眼光が印象的だった。

「コロンバスの市民感情調査の最新データです。
クラルド人に対する否定的感情を持つ
コロンバス市民の割合は、
三年前の十八パーセントから
現在では五十四パーセントに上昇しています。
このままでは、
外交関係そのものが危機に瀕します」

 ダルネン首相は腕を組み、天井を見上げた。

 六十一歳のヤコフ・ダルネンは、
クラルド共和国建国以来
最も長く首相を務めた政治家だった。
冷静沈着な判断と、
時に非情とも言える決断力で知られた男だ。

「コロンバス政府の見解は?」

「それが問題です」とヴォルクが言った。

「コロンバスのグレゴリー首相は、
KPRとの連立政権を維持するために
移民政策の転換ができない状況です。
しかし内心では、現状に強い危機感を持っています。
彼の側近から非公式なルートで接触がありました」

「非公式な接触」

 首相の目が細くなった。

「どの程度の権限を持つ人間からの接触だ?」

 ヴォルクは書類を一枚取り出した。

「コロンバス保安局長官、アーサー・マクレガー。
グレゴリー首相の信頼が最も厚い人物です。
彼は――コロンバス政府として
公式に要請することは政治的に不可能だが、
クラルド共和国が独自の判断で
行動することを妨げる意思はないと示唆しました」

 再び沈黙が落ちた。

 誰もが、その言葉の真意を理解していた。

---

## 第六章 二国間の密約

 接触から二週間後、
クラルド共和国とコロンバスの間で、
極めて秘密裏な交渉が始まった。

 場所はコロンバスと接する中立宙域に停泊した、
クラルド共和国の民間輸送船の船内だった。
船籍は別の惑星国家となっており、
追跡は不可能だった。

 クラルド側からは、ヴォルク外務大臣と
情報局長官クレスト、
そして特殊作戦軍司令官のアンドレイ
・ヴァシリエフ少将が出席した。
コロンバス側からは、保安局長官マクレガーと、
首相府の法律顧問であるニール・ボウマンが同席した。

 会議は六時間に及んだ。

「明確にしておきたい」
とマクレガーはテーブルを挟んで
向かい側に座るヴォルクを見つめた。

「コロンバス政府は、
この協議の存在を公式に認めることはできない。
仮に情報が漏れた場合、
我々は関知しないという立場をとる」

「承知しています」とヴォルクは静かに答えた。

「しかしその場合、クラルドも同様の立場をとります。
これは両国政府ではなく、
両国民の安全を守るために行動する者たちの合意です」

 マクレガーは短く頷いた。

「作戦の範囲を確認させてください」
とボウマン法律顧問が口を開いた。
細面の神経質そうな男で、
書類を丁寧にめくりながら言った。

「対象はコロンバス国内で犯罪行為に関与した
クラルド国籍者のみ、という理解でよいですか」

「それが大原則です」
とクレスト情報局長官が答えた。

「コロンバスで真面目に生活している
クラルド人市民は対象外です。
我々が対象とするのは、
コロンバスの法が機能不全に陥っているために、
本来は逮捕・起訴・収監されているべき人間たちです」

「具体的な数は?」

「現時点で特定済みの主要標的が百十七名。
その周辺の組織構成員を含めると
三百名から四百名の規模になると見積もっています」

 ボウマンは数字をノートに書き留めながら、
視線を上げた。

「処理の方法については」
と彼は慎重に言葉を選んだ。

「コロンバス側は関知しない、ということですか」

 ヴォルクとクレストが視線を交わした。

「コロンバス側の協力が必要な部分があります」
とヴォルクが言った。

「標的の居所、行動パターン、
コロンバス保安局が持っている情報の共有です。
作戦そのものの実施は我々が行います。
コロンバス側には、作戦期間中、
当該地域の保安局員の配置を
一時的に調整していただく必要があります」

「調整、ですか」

「動かしていただく必要がある地点と
時間帯のリストをお渡しします。
理由は特定の施設の改修工事とでも
何とでも言い訳が立つ内容にします」

 マクレガーは長い沈黙の後に言った。

「グレゴリー首相は、
この会議の詳細を知っているのか」
と彼はヴォルクに問いかけた。

「私はそれを尋ねる立場にありません」
とヴォルクは答えた。

「同様に、あなたが首相に何を報告し、
何を報告しないかは、あなたの判断です」

 部屋に長い沈黙が満ちた。

 舷窓の外に広がる宇宙の闇を見つめていた
マクレガーが、ゆっくりと口を開いた。

「作戦終了後のクラルド軍の扱いは?」

 ヴォルクは準備していた書類を取り出した。

「作戦終了後、主力部隊はクラルドに帰還します。
しかし、コロンバス国内の一か所に
小規模な駐屯地の設置を要請したい。
将来的な安全保障協力の拠点として、
また今回のような事態の再発抑止として」

「駐屯地の規模は?」

「百名以下の要員。
コロンバスの国内法上は、
友好国軍事連絡事務所という形が適切かと思われます」

 マクレガーはボウマンと短く視線を交わした。

「……了解しました。
条件についての詳細協議を続けましょう」

 こうして、歴史に残ることのない密約が、
静かに成立した。

---

## 第七章 準備

 クラルド特殊作戦軍第七独立大隊。

 通称「灰色狼」。

 アンドレイ・ヴァシリエフ少将の
直轄部隊であるこの大隊は、
クラルド共和国の特殊作戦軍の中でも
最も秘匿性の高い部隊だった。
正式な編成表には存在せず、
予算は情報局の特別会計から捻出される。
隊員は全員、少なくとも一つの民間人としての
職業的バックグラウンドを持ち、
その素性を隠す技術を訓練されていた。

 大隊長はカーロフ・ディミトリ中佐、
四十二歳。

 彫の深い顔に、白髪交じりの短い黒髪。
右頬に薄い刀傷がある。
十七年前のある惑星での作戦で負ったものだが、
カーロフ本人はその話を一切しなかった。
部下たちは彼のことを「老狼」と呼んだ。
彼は笑って否定しないが、
自らその呼び名を使うことも決してなかった。

 作戦準備には四か月を要した。

 コロンバス保安局から秘密裏に提供された
情報をもとに、クレスト情報局長官の
分析チームが標的リストを作成した。
三百八十一名。全員のIDナンバー、
顔写真、居住地、行動パターン、
所属する犯罪組織の構造が記録されていた。

 カーロフは本部の作戦室で、
何週間もかけてその三百八十一の顔写真を眺めた。

「人を殺すのに慣れてはいけない」
と彼は若い部下に言ったことがある。

「慣れた瞬間に、俺たちは自分たちが
裁いている相手と同じ存在になる」

 しかし彼は同時に知っていた。
躊躇が人を殺すことも。

 隊員百二十名が、四つの民間輸送船に分乗して
コロンバスに入った。
入国はそれぞれ異なる日時、異なる港から。
職業は商人、技術者、観光客として申告した。
全員、クラルド共和国の正規国籍を持つ
民間人として審査を通過した。

 武器と装備は別ルートで搬入された。

 コロンバスの港湾局で働く
コロンバス保安局の協力者が、
特定のコンテナの検査をスルーさせた。
誰も気づかなかった。

 ヴァルデンシア市内に四つの拠点が設置された。
いずれも普通の賃貸物件だ。
ある拠点は電気工事会社の倉庫として。
ある拠点は輸入雑貨店として。
それぞれが独立して機能し、
相互の情報は最小限に制限された。

 コールサイン「コールドナイト」。
作戦開始日時は、
密約から三か月後の深夜零時と決定された。

---

# 第三部 灰色の夜

## 第八章 コールドナイト開始

 夜が、ヴァルデンシアの街を飲み込んだ。

 ラーナとセルが重なる珍しい晩だった。
二つの月の光が混ざり合い、
街に薄青い影を落としていた。
その光の下を、普通の服を着た男女が、
普通の歩調で、それぞれの目的地へと向かっていた。

 カーロフは拠点の一つである輸入雑貨店の
奥の部屋に座り、小型通信機の前で
全チームからの準備完了の報告を待っていた。

 チームA。
標的:ヴァルデンシア西区に潜伏する
クラルド人犯罪組織「ヴォルカン」の幹部六名。

 チームB。
標的:タネル地区を縄張りとする
窃盗・強盗グループのリーダー及び主要メンバー。

 チームC。
標的:麻薬密売組織「ブルーロード」のコロンバス支部。

 チームD。
標的:複数の性犯罪で逮捕されたが
全員不起訴となった集団の追跡・確保。

 二十三時五十分。

「全チーム、準備完了」とオペレーターの
ヴェーラ・ソロヴァが告げた。
二十八歳の女性で、情報局のエリート分析官だった。

「保安局側の配置調整、確認済み。
対象区域の巡回は予定通り
迂回ルートに変更されています」

「了解」とカーロフは言った。

「全チームへ。コールドナイト、開始する」

 零時ちょうど。

 ヴァルデンシアの夜は、表向きは静かだった。

---

 西区の雑居ビル四階。

 チームAのリーダー、
コヴァル曹長が仲間三名とともに
非常階段を上っていた。
ゴム底の靴が金属の段を踏む音を完全に消した。
各員の動きに無駄がない。
十年以上の実戦経験が、彼らの体に染み込んでいた。

 ターゲットのアパートの前で立ち止まる。

 事前情報では、
室内に三名。武装あり。
麻薬の影響下にある可能性。

 コヴァルは隣の隊員に視線を送った。
相手が小さく頷く。

 ドアが、音もなく開いた。
後で気づいた者によれば、
鍵は玄関前で既に無効化されていた。

 室内に三秒。

 作戦記録には「対象全員を制圧、確保」
と記されていた。
正確には「確保」ではなかった。
しかしその詳細は、記録には残らない。

---

 タネル地区の廃倉庫。

 コロンバス人の女性への集団暴行で
逮捕されながら不起訴となった八名のうち、
七名がここに集まっていた。
彼らは仲間の一人から
「うまい話がある」と呼び集められていた。

 その「仲間」は、実はチームDの隊員だった。

 倉庫に入った七名は、
まず電灯が落ちたことに気づいた。
次の瞬間、複数の閃光が彼らの目を奪い、
その後のことは分からなかった。

 夜明けまでに、七名全員が処理された。

---

 作戦は三夜に分けて実施された。

 一夜目にヴァルデンシア中心部の主要標的を。
二夜目に郊外の組織拠点を。
三夜目に移動した者、隠れた者の追跡と終結を。

 三夜の間、コロンバス保安局は何も見ていなかった。

 あるいは、見ていたとしても、何も報告しなかった。

---

## 第九章 残されたもの

 作戦終了の翌朝、
ヴァルデンシアの街で複数の「発見」が相次いだ。

 西区の廃墟で遺体。
 タネル地区の倉庫で遺体。
 北部のアパートで複数の遺体。

 コロンバス保安局が現場検証を行ったが、
手掛かりは極めて少なかった。
使用された武器は回収されていた。
現場には指紋も、毛髪も、
ほとんど残っていなかった。

 生き残った者、
あるいは直接的な標的ではなかった
周辺の人物たちは、恐怖の色を隠せなかった。

「何も見ていない。何も知らない」

 それが、生き延びたクラルド人犯罪組織の
末端構成員たちの、例外なく一致した証言だった。
彼らは震えていた。声ではなく、体の芯から。

 カーロフは作戦終了の二日後、
ヴァルデンシアの南の港から
クラルドへの輸送船に乗った。

 出国審査官に書類を渡しながら、
彼は窓の外に広がる港の風景を眺めた。
荷物を運ぶ労働者たち。
コーヒーカップを手に談笑する市民たち。
普通の、日常の光景。

「この光景を守るために来た」
と彼は心の中で自分に言った。

「俺たちは怪物ではない」

 しかし翌朝、鏡の中の自分の目を見たとき、
その問いえの答えは、彼の中にはなかった。

---

# 第四部 静かなる余波

## 第十章 変化した空気

 作戦から一か月が経った。

 コロンバスの犯罪統計に、
静かな変化が現れ始めた。

 ヴァルデンシアにおけるクラルド人による
犯罪発生件数が、前月比で七十三パーセント減少した。
他の地域でも同様の傾向が見られた。

 コロンバス保安局は記者会見で
「継続的な取り締まり強化の成果」と説明した。
メディアはその説明を特に疑うこともなく報じた。

 しかし街の人間には、
何かが変わったことが分かった。

 タネル地区のマーシャ・リンドは、
久しぶりに夕暮れ時に一人で買い物に出かけた。
プラッツァ通りを歩きながら、
彼女は自分が知らず知らずのうちに
緊張していたことに気づいた。
そして、その緊張がなくなっていることにも。

 理由は分からなかった。分かろうとも思わなかった。

「ただ、少し怖くなくなった」
と彼女は隣人に言った。

---

 コロンバス保安局長官マクレガーは、
クラルド共和国のヴォルク外務大臣に
暗号通信を送った。

「作戦の効果を確認した。
約束通り、駐屯地設置のための手続きを進める」

 ヴァルデンシア郊外の小さな丘の上に、
かつてコロンバス陸軍の通信施設として
使われていた古い建物があった。
フェンスが修復され、外壁が塗り替えられた。
「クラルド共和国軍事連絡事務所」
という小さなプレートが玄関に設置された。

 九十一名の要員が、そこに駐屯した。

 全員が作戦に参加した「灰色狼」の隊員だった。

 カーロフ中佐は帰国したが、
隊の日常業務を見ることになったのは
副長のアンナ・ベレゾワ少佐だった。
三十五歳の女性士官で、
作戦中は情報分析の責任者を務めた。

 彼女の毎日の仕事は、
表向きには両国間の軍事技術交流の調整だった。
実際には、コロンバス国内の犯罪情報を
継続的に収集・分析し、
再発の兆候があれば本国に報告することだった。

 ある朝、駐屯地の窓から街を眺めながら、
ベレゾワは一枚の報告書を書いた。

「コロンバスのクラルド人コミュニティの
空気が変わった。
善良な移民たちは、この国で真剣に
根を張ろうとし始めている。
自分たちの同胞が犯した罪が、
自分たちに向けられた眼差しをどれほど歪めていたか、
彼らもまた感じていたのだと思う。
先月、地元の清掃活動にクラルド人の
自治組織が初めて参加した。
小さなことかもしれない。
しかし、私はこれを記録しておきたいと思った」

 彼女はその一節を読み直し、
それから報告書に含めることを少し迷い、
結局残した。

---

## 終章 二つの月の下で

 コロンバス国王エドワルド十二世は、
蒼天宮の執務室の窓から夜空を見上げた。

 ラーナとセルが、
それぞれの軌道を静かに巡っている。

 国王は象徴だ。
政治には口を出せない。
秘密の交渉も、夜の作戦も、彼の耳には届いていない。
あるいは、届いていても、知らないふりをしている。
それが王の立場というものだ。

 しかし彼は知っていた。

 この星の何かが変わろうとしていることを。
静かに、表からは見えない形で。

 王は窓を閉めた。
寝室へ向かう前に、廊下に飾られた
歴代国王の肖像画の前で足を止めた。
三千年分の顔。全員が、この星を守ろうとした。
方法は様々だったが、
その思いは同じだったはずだ。

 守るとは何か。

 綺麗な手だけが守る手ではないかもしれない。

 しかし綺麗でない手が守ったものを、
綺麗な手で磨いていくことが、
自分たちの仕事なのかもしれない。

 エドワルド十二世は静かに歩き続けた。

 廊下の先で、コロンバスの夜が続いていた。

---

*了*

 

第百十一弾「帰還者の復讐譚」の続きです

 

 

仮面ヒーローのこれまでのお話は以下になります

第二十八弾「仮面の向こう側」

第二十九弾「仮面の向こう側」

 

 

 

第五章 始末された男

翌朝、塔矢はテレビのニュース速報に目を留めた。

「東京湾で男性の遺体が発見されました。
身元は龍誠会幹部の矢沢竜也氏と確認されています。
警視庁は事件と自殺の両面で捜査を…」

塔矢はリモコンを置いた。

「始末されたか」

昨夜、矢沢から情報を引き出した後、
彼の記憶を消去して放置しただけだ。
殺してはいない。
むしろ、復讐のメッセージとして生かしておいたのだ。
それなのに今日は遺体となって発見された。
つまり、裏にいる者たちが矢沢を口封じしたということだ。

「脅しには屈しないという事か」

塔矢の口元に冷たい笑みが浮かぶ。
ならば、こちらも手を緩める必要はない。
次のターゲットを黒沢剛三に定めた。
矢沢が死んだのなら、
同じヤクザが死んだ方が都合が良いだろう。
彼らの内部抗争に見せかけることもできる。
塔矢は立ち上がり、
書斎の壁に貼られた地図とメモを見つめた。

黒沢剛三。
関東最大の暴力団、龍誠会の会長。五十八歳。
表の顔は不動産会社の社長。
裏では薬物取引、違法賭博、人身売買に関与している。

「さて、どうやって接触するか」

塔矢は調査を開始した。

第六章 会長の日常

黒沢剛三の行動パターンを掴むため、
塔矢は一週間を費やした。
まず、彼が所有する不動産会社「黒沢興業」の
ビルを監視した。
隠蔽魔法で姿を消し、
ビルの向かいにある雑居ビルの屋上から観察する。
魔法で強化された視力は、双眼鏡など不要だった。
ガラス越しに会長室の様子まで見通せる。

黒沢は毎朝九時にベンツで到着する。
運転手と護衛が二人。
ビルに入る前に、必ず周囲を警戒する
護衛の動きを観察した。
プロだ。

会長室での会議。
来客。
電話での指示。
昼食は社内で取ることが多い。
外出する時は、必ず護衛が四人以上同行する。

夕方六時頃、
黒沢は港区にある高級マンションに帰宅する。
このマンションの最上階、ペントハウスが彼の自宅だ。
エントランスには常に警備員が二人。
マンション周辺にも龍誠会の構成員が見張っている。

塔矢は探知魔法を使い、
マンション内部の構造を把握した。
エレベーターは最上階に直通。
ペントハウスの入り口には指紋認証と暗証番号。
中には常時、護衛が三人待機している。

「流石に中堅幹部の矢沢と違う」

黒沢は常に周りを固めていた。
関東最大の暴力団、龍誠会の会長は伊達じゃない。
一人になるのは風呂とトイレと寝る時だけだった。
それでも、部屋の外には24時間護衛がいる。
矢沢の件もあって、警戒を更に強めているのだろう。

塔矢は別のアプローチを考えた。
黒沢の週末の行動を調べる。
土曜日の夜、彼は六本木の会員制クラブに通っていた。
日曜日の午前中はゴルフ。
午後は愛人のマンションに向かう。
愛人は二十代の女性で、
恵比寿のタワーマンションに住んでいる。
黒沢はそこで数時間を過ごし、夕方に自宅に戻る。

「愛人宅か…」

だが、そこにも護衛は同行する。
マンションの駐車場で待機しているが、
異変があればすぐに駆けつけるだろう。

塔矢は更に調査を続けた。

黒沢が月に一度、訪れる場所がある。
千葉県の山中にある別荘だ。
龍誠会の幹部会議がそこで行われる。
塔矢は夜、その別荘に潜入した。
隠蔽魔法で姿を消し、敷地内を探索する。
別荘は広大な敷地に建てられた三階建ての洋館。
周囲には高い塀と監視カメラ。
正門には警備員が常駐している。
だが、塔矢の魔法には無意味だった。
彼は壁を飛び越え、監視カメラの死角を縫って
館内に侵入する。
探知魔法で内部を走査すると、
地下に巨大な空間があることが分かった。
地下への階段を降りる。
そこは改装された会議室になっていた。
長いテーブルと椅子。
壁には龍誠会の紋章が掛けられている。

塔矢は部屋の隅に小型の盗聴器を仕掛けた。
魔法で作った特殊な装置で、
通常の探知機では見つからない。

「次の会議は…」

壁のカレンダーを確認する。
三日後だ。

塔矢は別荘を後にした。

第七章 予想外の遭遇

調査三日目の夜。
塔矢は黒沢興業のビル周辺を監視していた。
その時、予想外の人物を見かけた。

「兄貴…?」

桐生隼人。塔矢の兄だ。

二十七歳の隼人は、黒いジャケットを着て、
ビルの前に停まった車から降りた。
彼は何かを観察するように、
ビルの入り口を見つめている。
塔矢は驚きを隠せなかった。

隼人は子供の頃から機械いじりが好きで、
大学では機械工学を専攻し、大学院まで進学した。
学生時代は全国ドローンレース選手権で三連覇を果たし、
プロライセンスも取得している。
そのまま技術者の道を進むと思っていた。
だが、大学院在学中に事件が起きた。

幼馴染の親友、
谷村雄介がコンビニでアルバイト中、
刃物を持った男に刺殺されたのだ。
犯人は逮捕されたが、隼人は激しいショックを受けた。
そして、二度とこのような悲劇を起こさないため、
警察学校に入学した。

警察官になった隼人は、
新設された警視庁ドローン特捜班に配属された。
彼の技術力を買われたのだろう。
両親が殺されたのは、隼人が警察官になって一年後だった。
隼人の無念も大きかったはずだ。
葬儀の後、彼は一言も喋らなかった。
ただ、拳を強く握りしめていた。

だが、この段階で龍誠会に接触しているのはおかしい。
隼人の仕事は捜査の支援だ。
ドローンを使った監視や証拠収集。
直接、容疑者と関わることは少ないはずだ。
その上、ドローンの監視が付いたら、
塔矢の行動も制限される。
隠蔽魔法で見つかることはないとしても、
何事にも絶対はない。

塔矢は隼人を尾行することにした。
隼人は黒沢興業のビルを一周し、
周辺の路地を確認している。
まるで何かを探しているようだ。

三十分後、
隼人は車に戻った。
だが、帰宅せずに別の場所に向かう。
港区の倉庫街。
隼人は倉庫の一つの前で車を停めた。
彼は車から降り、倉庫の中に入る。
塔矢も後を追った。
倉庫の中は薄暗い。
隼人は奥に進み、何かを設置し始めた。
塔矢が近づくと、それは小型のドローンだった。
カメラと赤外線センサーが搭載されている。

「監視用か」

隼人は慎重にドローンを調整している。
その表情は真剣だ。

「兄貴は何を追っているんだ?」

塔矢は音を立てずに倉庫を出た。

翌日、塔矢は警視庁のデータベースにハッキングした。
解析魔法と電子機器操作の魔法を組み合わせれば、
セキュリティなど無いに等しい。
隼人の捜査記録を閲覧する。
そこには、谷村雄介の事件に関する膨大な資料があった。
谷村雄介はコンビニで刺殺されたとされているが、
隼人は独自に調査を続けていた。
犯人とされた男の背後関係。金の流れ。
そして、龍誠会との繋がり。

「雄介の死にも、龍誠会が関わっていたのか」

塔矢は記録を読み進める。
隼人の調査によれば、谷村雄介は偶然、
龍誠会の薬物取引の現場を目撃していた。
それを口封じするため、
龍誠会が刺客を送ったという仮説だ。
だが、証拠は不十分で、正式な捜査には至っていない。
隼人は自分の力で真相を暴こうとしている。

「親友と両親が殺された。
どちらにも龍誠会が関与している…」

塔矢は拳を握った。
これほどまでに因縁が深いとは。

そして、更にその過程で、塔矢は妙なものを見つけた。
隼人の捜査記録に添付された監視映像。
そこには、白いマスクに
黒い戦闘服を着た人物が映っていた。
龍誠会の構成員を襲撃している場面だ。
その人物は不思議な能力を使っていた。
壁を駆け上がり、人間離れした速度で動く。
そして、構成員たちを一瞬で無力化した。

「能力者…?」

塔矢は映像を何度も再生した。
隼人はこの人物も追っていた。
記録には「仮面ヒーロー」という
コードネームが付けられている。
巷でそう呼ばれているらしい。
仮面ヒーローも龍誠会に恨みがあるのか、
龍誠会絡みの事件を追っているようだった。
塔矢のやるべき事が一気に増えた。

黒沢剛三の暗殺。
隼人の行動の監視。
そして、仮面ヒーローの正体の解明。

塔矢は書斎に戻り、壁一面に広げた資料を見つめた。
人物相関図、行動パターン、
監視映像のスクリーンショット。

「何から手を付けていこうか…」

塔矢は資料を精査しながら、
次の一手を思案していた。
復讐の道は、予想以上に複雑になりつつあった。

続く
 

またヒーローものが作りたくなって

以前 作ったゴーレム使いと忍者と

ドローン使いのお話の続きを作りました

ただAIの都合で

内容が以前のお話と重複している部分があります

 

今回の主役ポジションの

藤林半治のこれまでのお話は以下にあります

第七十四弾「獅子頭の影」

第八十六弾「影と土の対話」

 

今回から諸事情で(これ以降に作ったお話の

主役の名前をAIに依存していたら

蒼太と蓮だらけになった為)

村瀬蒼太から村瀬鋼大(こうた)に改名しました

彼のこれまでのお話は以下にあります

第六十四弾「ゴーレムメイカー」

第八十二弾「影と石の約束」

第八十三弾「見えない傷跡」

第八十四弾「三つ星(トライスター)」

 

 

 

 

第六章 三人目の仲間
任務が無事に終わり、半治は里から一時的に解放された。
だが、心の中にはある種の焦燥感が芽生えていた。
それは鋼大との出会いがきっかけだった。

鋼大のゴーレム操作技術は驚異的だった。
複数のゴーレムを同時に制御し、
それぞれに異なる命令を与え、
まるで一つの有機体のように連携させる。
土、石、木、金属。素材ごとの特性を理解し、
状況に応じて最適なゴーレムを瞬時に生み出す。

そして、もう一人。
水野健人。鋼大が半治に紹介した、彼の幼馴染だった。

「半治、紹介するよ。俺の一番の友達、健人」

画面越しに現れた少年は、明るい笑顔を浮かべていた。
車椅子に座り、複数のモニターに囲まれた部屋から、
リモートで高校の授業を受けているという。

「初めまして、藤林さん。鋼大からいろいろ聞いてます」

「水野…健人か。よろしく」

「健人でいいですよ。あ、これ見てください」

健人が操作すると、窓の外に小型ドローンが五機現れた。
それらは見事な編隊を組み、複雑な動きを披露した。

「すごい…同時に五機も」

「これでも控えめです。本気出せば十機はいけますよ」

健人は屈託なく笑った。
だが、その笑顔の奥に、半治は強い意志を感じた。

「健人は二年前の交通事故で
下半身が不自由になったんだ」

鋼大が静かに説明した。

「でも、健人はそこで諦めなかった。
ドローン技術を独学で学んで、
今じゃプロ顔負けの腕前だ」

「鋼大、褒めすぎ。
でも…動けない分、
見る目は鋭くなったかもしれません」

健人のドローンは単なる監視装置ではなかった。
赤外線カメラ、音声収集装置、GPSトラッキング。
彼は複数のドローンを駆使して、
広範囲の情報を同時に収集・分析できた。

「俺たち、幼稚園からの付き合いなんだ」
鋼大が懐かしそうに言った。

「最初に話しかけてくれたのが健人でさ。
『ねえ、君も漫画好き?』って」

「そこから意気投合したんです。
小説も漫画もアニメも、趣味が全部一緒で」

健人が笑顔で続けた。

「お互い、唯一の友達だったんですよね。
他の子とは話が合わなくて」

半治は二人の絆の深さを感じた。
長年の友情。それは信頼という名の強固な基盤だった。
鋼大のゴーレムと健人のドローン。
そして、自分の忍術。
だが、半治は気づいていた。自分の技術の限界に。

影遁は確かに強力だ。
一対一の状況、暗殺任務においては
無類の効果を発揮する。
先祖の獅子頭の半左衛門のように、
長距離の跳躍、壁を駆け上る技、
水面を走る術も習得している。
だが、それだけでは不十分だった。

直接対峙した時に使えるのは、
短剣術と投擲技術くらいだ。
そもそも忍者は諜報活動や工作活動が主で、
直接戦闘することは多くなかった。
緊急時にやむを得ず戦い、
それも逃げるための戦いであって、
相手を倒すための戦いではなかった。
いかに見つからずに任務を達成し、成果を持ち帰るか。
それが忍びの本質だった。

だが、今は違う。
三人の中で直接戦うことができるのは、
鋼大のゴーレムと自分だけだ。健人は後方支援に徹する。
そうなると、自分の実力では心許ない。
鋼大も健人も、自分の能力を磨き続けている。
ならば、自分も。

「ゴールデンウィーク、伊賀に戻る」

半治は二人に告げた。
「修行してくる」

第七章 帰郷
ゴールデンウィーク初日。
半治は伊賀の里に戻っていた。
新緑に包まれた山間の集落。
ここには今も、
忍びの技術を継承する者たちが暮らしていた。

「半治、よく戻った」

出迎えたのは、里の重鎮の一人、楠木老師だった。
七十を超える老人だが、
その眼光は鋭く、背筋は真っ直ぐに伸びていた。

「老師、ご無沙汰しております」

「東京での任務、見事だったと聞いている。
だが、お前の目は満足していない。何を求めている?」

「直接戦闘の技術を。仲間を守るための、力を」

楠木老師は深く頷いた。

「ならば、教えよう。伊賀流の奥義を」


一日目:火薬の技

訓練は夜明けとともに始まった。
「まずは爆発物の取り扱いだ」
老師が示したのは、様々な大きさの包みだった。

「これは焔硝(えんしょう)。
火薬の一種だ。忍びは昔から、火薬を扱ってきた」

「城攻めの時の爆破工作などですか」

「それもある。
だが、我々が使うのは、もっと繊細な技術だ」

老師は小さな陶器の玉を取り出した。

「これは震天雷(しんてんらい)。
投擲すると大音響と閃光を発する。
敵の視覚と聴覚を一時的に奪う」

半治は慎重に手に取った。
見た目は素朴な陶器だが、
中には火薬と金属粉が詰められている。

「導火線の長さで爆発のタイミングを調整する。
短すぎれば自分が巻き込まれ、
長すぎれば敵に回避される」

老師は庭の的に向かって震天雷を投げた。
三秒後、耳をつんざく爆音と眩い閃光が走った。

「これを複数、連続で投げる。
敵は方向感覚を失う。
その隙に、逃げるか、攻撃するか」

半治は一日中、震天雷の投擲を繰り返した。
距離、角度、タイミング。
導火線の長さを変えながら、
様々なパターンを習得した。

午前中は基本的な投擲練習。
十メートルの距離から、正確に的の近くに着地させる。
爆発の衝撃波で的を倒す訓練だった。

「投げる角度が重要だ。
高く投げれば滞空時間が長くなり、
導火線の計算がしやすい。
だが、敵に回避する時間も与えてしまう」

老師の指導は細かかった。

「低く投げれば速いが、
地面に当たって跳ね返る可能性がある。
転がった先で爆発すれば、
予想外の場所を攻撃できるが、制御は難しくなる」

半治は何度も失敗した。
導火線が短すぎて投げた直後に爆発したり、
長すぎて敵役の老師に余裕で回避されたり。
だが、午後には徐々にコツを掴んできた。

「いい。その調子だ。次は連続投擲だ」

老師は半治に三つの震天雷を渡した。

「これを間隔を空けて投げる
。一つ目が爆発した瞬間、敵は目と耳を塞ぐ。
その隙に二つ目を投げる。
そして三つ目で止めを刺す」

半治は実践した。
一つ目の爆発。眩い光と轟音。
二つ目を投擲。さらに混乱を加速させる。
三つ目は老師の足元に正確に着地し、爆発した。

「完璧だ」
老師は満足そうに頷いた。

夕方には、小型の煙幕弾も加わった。

「煙幕は視界を奪うだけではない。
風向きを読み、敵の退路を塞ぐように展開する」

老師は風向きを確認してから煙幕弾を投げた。
煙は風に乗って広がり、
まるで壁のように敵の視界を遮った。

「煙の中では、音が頼りになる。
だから、震天雷と組み合わせると効果的だ。
まず煙幕で視界を奪い、次に震天雷で聴覚も奪う。
五感を封じられた敵は、無力だ」

半治は煙幕弾の扱いを学んだ。
投擲角度、風向き計算、タイミング。
全てが重要だった。

「お前の影遁は一対一では無敵だ。
だが、複数の敵に囲まれた時、
煙幕と閃光弾があれば状況を変えられる」

老師の言葉が、半治の心に深く刻まれた。

夜は座学だった。

「火薬の配合比率、保管方法、湿気対策。
これらを知らなければ、
火薬は凶器ではなく災厄になる」

半治は真剣にメモを取った。
火薬は諸刃の剣。
正しく扱えば強力な武器だが、間違えば自分を傷つける。

二日目:投擲の極意

二日目は、投擲技術の向上に費やされた。

「お前の手裏剣は速い。だが、速さだけでは不十分だ」

老師の前には、三種類の手裏剣が並べられていた。

「これは棒手裏剣。直線的な飛行で、貫通力が高い」

細長い鉄の棒。
シンプルだが、その重量感は
武器としての実用性を物語っていた。

「これは車剣(しゃけん)。
回転しながら飛び、複数の敵を攻撃できる」

四方に刃を持つ、十字型の手裏剣だった。

「そしてこれが、伊賀流秘伝の風車(かざぐるま)」

最後に示されたのは、
八方に刃を持つ、花のような形状の手裏剣だった。

「この風車は、空気抵抗を利用して軌道を変える。
曲線を描いて飛び、障害物の裏にいる敵も攻撃できる」

老師は風車を投げた。
手裏剣は弧を描き、
木の幹の裏側にあった的に命中した。

「どうやって…」

「手首の返しだ。
投げる瞬間に、僅かな回転を加える。
風車の刃が風を捉え、軌道が曲がる」

半治は風車を手に取った。
重さ、バランス、刃の角度。
全てが計算されている。

「まず、基本の投げ方を覚えろ」

老師は実演した。
腕を引き、腰を回転させ、
全身のバネを使って投擲する。
風車は真っ直ぐ飛び、的の中心に命中した。

「次に、手首の返しを加える。
投げる瞬間、手首を内側に捻る。ほんの僅かでいい」

老師が投げた風車は、緩やかな曲線を描いて飛んだ。
半治は何度も挑戦した。
最初は真っ直ぐ飛ぶだけだった風車が、
十回、二十回と投げるうちに、
次第に僅かな曲線を描くようになった。

「いい。その調子だ。
曲げる角度は、手首の返し方で調整する。
強く返せば急カーブ、弱く返せば緩やかなカーブだ」

午前中は曲線投擲の基礎訓練。
午後には、実戦を想定した訓練が始まった。

「障害物の裏にいる敵を攻撃しろ」

老師が指示した場所には、
大きな木があり、その裏に的が隠されていた。
半治は風車を投げた。
手裏剣は木の右側を回り込み、裏側の的に…外れた。

「軌道の予測が甘い。
風車がどこを通過するか、頭の中で描け」

何度も繰り返すうちに、半治は感覚を掴んでいった。
風の強さ、手首の返し、投擲角度。
これらの要素が組み合わさって、完璧な曲線を生み出す。
三十回目の挑戦で、ついに的に命中した。

「やった!」

「まだ喜ぶな。次は距離を伸ばす」

的は十メートル、
二十メートル、
三十メートルと遠ざかった。

「遠投では、手裏剣の回転数が重要だ。
回転が足りなければ失速し、多すぎれば制御を失う」

老師は正確無比に、
三十メートル先の的の中心を射抜いた。

「腕だけで投げるな。
全身を使え。腰の回転、肩の動き、手首のスナップ。
全てが連動して、初めて威力が生まれる」

半治は老師の動きを観察した。
投げる前の構え、体重移動、腕の振り方。
全てが流れるように繋がっている。
それを真似て投げると、

風車は今までで最も遠くまで飛び、的に命中した。

「素晴らしい。体で覚えたな」

夕方には、動く的への投擲訓練も加わった。

「実戦では、敵は静止していない。
動く標的に当てる技術が必要だ」

老師の弟子たちが、様々な速度で走り回った。
半治は彼らの動きを読み、手裏剣を放った。
最初は外れてばかりだったが、
次第に命中率が上がっていった。
敵の動きを予測し、着地点に投げる。
未来の位置を射抜く技術。

「動く標的には、二つの方法がある。
一つは、相手の進行方向を予測して先回りする。
もう一つは、相手の動きを制限して、
投げやすい位置に誘導する」

老師は実演した。
走る弟子に向かって、わざと足元に手裏剣を投げる。
弟子は避けるために動きを変える。
その変化した先に、二発目の手裏剣が待っていた。

「攻撃は、相手を操る手段でもある」

半治は深く頷いた。

二日目の夜も座学だった。

「手裏剣の種類、それぞれの特性、使い分けの理論。
これらを理解して初めて、真の投擲術を使いこなせる」

老師は様々な手裏剣を並べた。
「棒手裏剣は貫通力が高いが、軌道修正ができない。
車剣は広範囲を攻撃できるが、威力は分散する。
風車は軌道を曲げられるが、扱いが難しい」

「一長一短なんですね」

「そうだ。だからこそ、状況に応じて使い分ける。
それが投擲の極意だ」

三日目:携帯式小型弓矢

三日目の朝、
老師が示したのは、見たことのない武器だった。

「これは仕込み弓。折り畳み式の小型弓矢だ」

長さ三十センチほどの棒状の物体。
だが、老師がそれを展開すると、立派な弓に変形した。

「持ち運びに便利で、威力は通常の弓に劣らない。
矢は毒を塗ることもできる」

老師は弓の構造を説明した。

「中心部が関節になっていて、折り畳める。
展開すると、内部のバネが固定する。
簡単には壊れない」

半治は仕込み弓を手に取った。軽いが、頑丈だ。

「弓の引き方から教わろう」

老師は基本の姿勢を示した。
足を肩幅に開き、弓を構え、弦を引く。

「小型とはいえ、弦を引く力は相当なものだ。
腕の力だけでは足りない。背中の筋肉を使え」

半治は弦を引いた。想像以上に重い。
だが、老師の言う通り背中を意識すると、
スムーズに引けた。

「いい。次は矢を番える」

矢は通常のものより短く、軽かった。
だが、鏃は鋭く、致命的な威力を持っていた。

「狙いを定めろ。呼吸を整え、心を静める」

半治は矢を番え、的を狙った。
呼吸を整え、心を静める。
放たれた矢は、的の中心からわずかに外れた。

「焦るな。弓は心を映す。
お前の心が乱れれば、矢も乱れる」

老師の言葉通り、
落ち着いて放った矢は、見事に中心を射抜いた。

「素晴らしい。次は連射だ」

老師は素早く矢を番え、連続で三本放った。
全て的の中心近くに命中した。

「仕込み弓の利点は、コンパクトさだけではない。
連射性能も高い。
矢を腰の矢筒から素早く取り出し、番え、射る。
この一連の動作を流れるように行う」

半治は練習した。
最初はぎこちなかったが、
次第にスムーズになっていった。
午後には、屋外に移動し、
風のある環境で射撃訓練を行った。

「風を読め。
風向き、風速を計算し、狙いを調整する」

老師は風に揺れる木の葉を見て、風向きを判断した。

「風が右から吹いている。
ならば、的の左側を狙え。
矢は風に押されて、中心に向かう」

半治は風を読みながら射った。
最初は外れたが、徐々に感覚を掴んでいった。

「風は敵でもあり、味方でもある。
利用すれば、矢は思わぬ軌道を描く」

午後の後半には、移動しながらの射撃訓練も加わった。

「走りながら、跳びながら、壁を登りながら。
どんな状況でも正確に射る」

老師は走りながら矢を放った。
完璧に的に命中した。

半治も挑戦した。
走りながら弓を引くのは難しい。
体が揺れ、狙いが定まらない。

「体の揺れを計算しろ。
足が地面から離れる瞬間、体は最も安定する。
その瞬間に射る」

老師のアドバイスを受け、
半治は跳躍の頂点で矢を放った。
見事に命中した。

「跳びながら射る時も同じだ。
最高点で、一瞬だけ体が静止する。
その瞬間を逃すな」

壁を登りながらの射撃は、さらに難しかった。
片手で壁を掴み、もう片手で弓を引く。
バランスを取るのが至難の業だった。
だが、半治の身体能力がそれを可能にした。
壁に足をかけ、体を固定し、その状態で弓を引く。

「半左衛門の血筋だな。その身体能力、素晴らしい」

老師は感心した。

夜の座学では、矢の種類と用途を学んだ。

「通常の矢、火矢、毒矢、音矢。
それぞれに用途がある」

老師は様々な矢を並べた。

「火矢は先端に火薬を仕込み、着弾時に炎を上げる。
建物への放火や、敵の注意を引くのに使う」

「毒矢は鏃に毒を塗る。
致命傷を与えなくても、毒で敵を無力化できる」

「音矢は先端に笛が付いていて、飛行中に音を出す。
敵の注意を引いたり、仲間に合図を送ったりする」

半治は全ての矢の特性を覚えた。

四日目:針の芸術

四日目、老師が取り出したのは、
様々な種類の針だった。

「忍びの武器の中で、最も繊細なのが針だ」

テーブルの上には、
長さも太さも異なる針が並んでいた。

「これは吹き矢針。筒を使って吹き飛ばす」

細く鋭利な針。
先端には溝が刻まれ、毒を塗りやすくなっていた。

「射程は短いが、音がしない。暗殺に最適だ」

老師は筒に針を込め、息を吹き込んだ。
針は静かに飛び、十メートル先の的に命中した。

「肺活量と、息の吹き出し方が重要だ。
一気に吹けば威力が増すが、制御が難しくなる。
ゆっくり吹けば制御しやすいが、威力が落ちる」

半治は筒を受け取り、針を込めた。
深く息を吸い、一気に吹き出す。
針は飛んだが、的には届かなかった。

「息の吹き出し方が弱い。
腹筋を使え。腹から息を絞り出すイメージだ」

何度も練習するうちに、
半治は次第にコツを掴んでいった。
十回目の挑戦で、ついに的に命中した。

「いい。次は精度を上げろ」

午前中は吹き矢針の訓練。
午後には、投げ針の訓練が始まった。

「これは投げ針。釘のような形状をしている」

老師が示したのは、頭部に重心がある、
バランスの取れた針だった。

「これは手裏剣よりも小型で、隠し持ちやすい。
急所を狙えば、十分に無力化できる」

投げ方は手裏剣と似ているが、
より繊細な技術が必要だった。

「針は軽くて風の影響を受けやすい。
だからこそ、正確な投擲が求められる」

老師は針を投げた。
完璧に的の中心に命中した。
半治も投げたが、針は的の手前で落ちた。

「力が足りない。だが、力任せに投げても駄目だ。
針は繊細な武器。優しく、しかし確実に投げる」

老師の言葉は矛盾しているようで、的を射ていた。
力と繊細さの両立。それが針の投擲の極意だった。
何度も練習するうちに、半治は感覚を掴んでいった。
針は確かに軽い。
だが、正しく投げれば、十分な威力を持って飛ぶ。

午後の後半には、仕込み針の技術も学んだ。

「服の裾、袖、襟。様々な場所に針を仕込む。
敵に組み付かれた時、瞬時に引き抜いて反撃する」

老師は実演した。
組手の最中、不意に袖から針を引き抜き、
相手の急所に当てる動き。
一瞬の隙を突く、まさに忍びの技だった。

「仕込む場所が重要だ。
咄嗟に取り出せる位置、
しかし敵に気づかれない位置」

半治は自分の服に針を仕込む練習をした。
袖口、襟、腰帯。様々な場所を試した。

「動いた時に落ちないよう、しっかり固定しろ。
だが、取り出す時は一瞬で引き抜けるように」

何度も試行錯誤するうちに、最適な位置を見つけた。

夕方には、糸付き針の訓練が始まった。

「これは最も難易度の高い針の技だ」

老師が示したのは、細い糸が結ばれた針だった。

「これを投げて敵の服に引っ掛ける。
糸を引けば、敵の動きを制限できる。
あるいは、糸を使って罠を張ることもできる」

老師は糸付き針を投げた。
針は木の幹に刺さり、糸がピンと張った。

「糸の長さ、張り方によって、様々な使い方ができる」

老師は複数の糸付き針を投げ、木々の間に糸の網を張った。

「これが罠だ。
敵がこの糸に引っかかれば、動きが止まる。
その隙に攻撃するか、逃げるか」

半治は糸付き針の投擲を練習した。
狙った場所に針を刺し、糸を操る。
単純だが、奥深い技術だった。

「糸は細いが強い。だが、刃物で切られれば無力だ。
だからこそ、相手に気づかれないように張る」

夜の座学では、毒の知識を学んだ。

「針に塗る毒は、
致死性のものと、麻痺性のものがある」

老師は様々な毒の小瓶を並べた。

「致死性の毒は、敵を確実に殺す。
だが、使用には慎重さが必要だ」

「麻痺性の毒は、敵を一時的に無力化する。
殺さずに済む場合もある」

半治は全ての毒の特性、解毒方法、保管方法を学んだ。

五日目:総合訓練

最終日は、これまで学んだ全ての技術を
組み合わせた実戦訓練だった。

「今から、お前は五人の追っ手に追われる。
全員を無力化するか、逃げ切るか。
制限時間は十分だ」

森の中に放たれた半治は、
すぐに追っ手の気配を察知した。

まず震天雷を投げる。爆音と閃光が森を包んだ。
その隙に影遁で移動する。

「一つ目、使用」

追っ手の一人が近づいてきた。
半治は木の影から仕込み弓を展開し、矢を放った。
追っ手の肩に命中し、彼は動きを止めた。

「一人、無力化」

煙幕弾を投げ、視界を奪う。
その中から風車手裏剣を投擲する。
曲線を描いた手裏剣が、
木の裏にいた追っ手に命中した。

「二人、無力化」

三人目が迫ってきた。
至近距離だ。半治は吹き矢針を使った。
音もなく針が飛び、追っ手の首筋に命中した。

「三人、無力化」

残りは二人。
だが、彼らは連携して攻撃してきた。
半治は跳躍し、木の枝に飛び移った。
そこから投げ針を連射する。
一人は避けたが、もう一人は足に針を受けて転倒した。

「四人、無力化」

最後の一人。
この相手は老練で、簡単には近づかせてくれない。
半治は糸付き針を投げた。針は相手の服に引っ掛かった。
糸を引くと、相手のバランスが崩れた。
その隙に、最後の風車手裏剣を放つ。
見事に命中。

「五人、制圧完了」

老師が現れて満足そうに頷いた。

「見事だ、半治。お前は確かに成長した」

「ありがとうございます、老師」

「だが、忘れるな。技術は道具に過ぎない。
大切なのは、それを何のために使うかだ」

老師は半治の肩に手を置いた。

「お前には仲間がいる。
その仲間を守るために、技を磨いた。
それは正しい。これからも、その心を忘れるな」

「はい」
半治は深く頷いた。

第八章 再会と披露

ゴールデンウィークが明けた最初の放課後。
半治、鋼大、健人の三人は、いつもの場所に集まった。
学校から少し離れた廃工場。
ここは健人が管理する、彼らの秘密基地だった。

「おかえり、半治!」

健人のドローンが半治の周りを飛び回った。

「ただいま。二人とも、元気そうだな」

「半治こそ。なんか、雰囲気変わった?」
鋼大が不思議そうに半治を見た。

「修行の成果かな。お前たちも、何かやったんだろ?」

鋼大と健人は顔を見合わせて笑った。

「実は…俺もゴーレムの新しい技を開発したんだ」

「僕もドローンのアップグレードをしました」

半治は嬉しくなった。

「じゃあ、披露大会をしよう。
それぞれが習得した技を見せ合うんだ」

「いいね!じゃあ、順番に」

三人は廃工場の広い空間に移動した。

「俺から行くよ」

鋼大が手を掲げると、
地面から大小様々なゴーレムが出現した。
土、石、木、金属。そして、新たに加わったのは。

「ガラスのゴーレム!」

透明に輝くゴーレムが、月光を反射して美しく輝いた。

「ガラスは脆いけど、
光を屈折させて相手の目を眩ませることができる。
それに、破片を飛ばして攻撃もできる」

さらに、鋼大は複数のゴーレムを融合させた。
石のゴーレムと金属のゴーレムが合体し、
より強固な複合型ゴーレムが誕生した。

「すごい…制御が複雑だろうに」

「訓練したからね。次は健人の番だ」

健人のドローンが飛来した。
だが、以前とは明らかに違った。

「これは新型ドローン『ファルコン』。
カメラの解像度が上がり、夜間でも鮮明に撮影できます」

ドローンは暗闇の中を飛び回り、
赤外線カメラで周囲を映し出した。

「それに、こっちは『ハミングバード』。
超小型で、屋内潜入に特化しています」

親指ほどのサイズのドローンが、半治の肩に止まった。

「これなら、建物の中も自由に偵察できる」

「すごいな、健人。
で、何台まで同時に操れるようになった?」

健人は自信満々に答えた。

「十五台です。
それぞれに異なる命令を出して、
連携させることもできます」

「十五台…」
半治は驚嘆した。
人間の認識能力の限界を超えている。

「じゃあ、半治の番だね」

半治は頷いた。

「まずは、これを」

半治は震天雷を取り出し、空中に投げた。
三秒後、眩い閃光と爆音が響いた。

「うわっ、すごい音!」

「これは震天雷。敵の視覚と聴覚を奪う」

次に、煙幕弾を投げた。
廃工場の一角が煙に包まれた。

「煙幕の中から、これだ」

半治は仕込み弓を展開し、矢を放った。
矢は正確に的を射抜いた。

「弓まで!」

「そして、これが風車手裏剣」

半治は手裏剣を投げた。
手裏剣は弧を描き、柱の裏側にあった缶に命中した。

「曲がった!?」

鋼大と健人は驚きの声を上げた。

「最後は、糸付き針だ」

半治は針を投げ、天井の梁に引っ掛けた。
糸を使って、素早く高所に移動した。

「すごい…半治、完全に忍者じゃん」

「当たり前だ。俺は本物の忍びだからな」

三人は笑い合った。

そして、半治は真剣な表情になった。

「二人とも。俺たち、もっと強くなれる。
それぞれの能力を組み合わせれば、この街を守れる」

鋼大と健人も頷いた。

「そうだね。俺たちは…」

「三人で一つのチームだ」

健人が提案した。
「チーム名、考えようよ」

鋼大が即答した。
「三つ星(トライスター)はどう?
俺たち三人、それぞれが輝く星みたいに」

半治は微笑んだ。

「いい名前だ。三つ星。
俺たちは、この街の守護者になる」

三人は手を重ねた。
異なる能力を持つ三人。
忍者、ゴーレム使い、ドローンマスター。
三つ星の誕生だった。
そして、彼らの本当の戦いが、

今、始まろうとしていた。

続く

 

第二百七十七弾「凪の目」の続きです

 

 

 

# 凪の目

## 第二章 商店街の風景

放課後の帰り道は、
一郎にとって一日の中で最も好きな時間だった。

学校から自宅まで、徒歩で二十分ほど。
その道の途中に古い商店街があり、
商店街の端に「ベーカリー田村」という
小さなパン屋があった。
ショーウィンドウに
こんがりと焼けたパンが並ぶその店は、
一郎が週に三度は立ち寄る場所だった。
店主の田村老人は無口で、一郎も無口だったので、
二人の間には余計な言葉が一切なく、
それが一郎には心地よかった。

商店街に入る手前に、ゲームセンターがあった。

古びたビルの一階を占めるその店の前には、
制服を着崩した若者たちが毎日のように溜まっていた。
煙草の煙が入口付近に漂い、
道行く人は自然と道の反対側を歩いた。
商店街の店主たちは長年、
この光景に頭を悩ませていたが、
警察に訴えても「現行犯でなければ」
「証拠がなければ」という言葉が返ってくるばかりで、
何も変わらなかった。

一郎はその前を、毎回まっすぐ通り抜けた。

視線を向けることもなく、
足を緩めることもなく、ただ歩いた。
不良たちも最初は声をかけようとしたが、
一郎の様子があまりにも普通すぎて、
何かを言う機会を見つけられなかった。
挑発に乗らない相手をからかうのは、
空振りを続けるようなものだ。
やがて彼らは一郎を視界に入れなくなった。

それが日常だった。

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## 第三章 よろけた午後

五月の末、
夕方の商店街に人が疎らになった頃のことだった。

一郎がゲームセンターの前を通りかかった時、
小さな声が聞こえた。

「あの、すみません、私は本当に……」

七十代と思しき小柄な老婦人が、
ゲームセンターの入口付近で三人の若者に囲まれていた。
老婦人の手提げ袋が地面に落ち、中身が散らばっていた。

「わざとじゃないとか関係ないんだよ。
ぶつかっただろ?
こっちは痛いんだけど。慰謝料払えよ」

若者の一人が腕を押さえながら言った。
老婦人は震える手を胸の前で合わせ、
困惑した表情でうつむいていた。

「そんな、私には……」

「いくら持ってんの?財布出してよ」

一郎は立ち止まった。

特別な感情はなかった。
ただ、事実として老婦人が困っていて、
それを一郎が見た。
それだけのことだった。

「大丈夫ですか」

一郎は老婦人の隣にしゃがみ、
散らばった荷物を拾い始めた。

「あ?なんだお前」

若者の一人が一郎を見下ろした。

一郎は老婦人の財布と手帳を拾い、袋に入れた。
ポーチ、絆創膏の小箱、鍵。
一つひとつを丁寧に拾って袋に戻した。

「聞こえてんの?お前も巻き込まれたいわけ?」

一郎は老婦人に袋を手渡し、立ち上がろうとした。

その瞬間、後頭部に衝撃が来た。

若者の一人が一郎の頭を殴っていた。
続けて脇腹に蹴りが入った。
一郎は体勢を崩しながらも、
老婦人の腕をとっさに掴んで支えた。
老婦人が転倒しないことを確認してから、
一郎はゆっくりと立ち上がった。

頬に痛みがあった。口の中に鉄の味がした。

しかし一郎は反撃しなかった。

老婦人の肩を支え、「こちらへ」と静かに言った。
若者たちの怒声が背後から飛んできたが、
一郎は振り返らなかった。
老婦人を商店街の中、
ベーカリー田村の前まで連れて行き、
田村老人に事情を伝えた。

田村老人は無言で電話を取り、救急に連絡した。
老婦人に軽い怪我があったからだ。

一郎は自分の口元を手の甲で拭い、
パンを一つ買って帰った。

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## 第四章 塞がれた窓口

翌日の放課後、一郎は最寄りの警察署を訪れた。

窓口の警察官は四十代の男で、
一郎の話を聞きながら書類に何かを書いていた。
途中から明らかに書くのをやめた。

「昨日、ゲームセンター前で暴行を受けました。
被害届を出したいんですが」

「うーん」

警察官はしばらく間を置いた。

「まあ、怪我の程度が軽いし、
加害者の特定もできてないしね」

「顔は見ています。特徴も覚えています」

「でも証拠がないでしょう」

「目撃者はいます」

「……まあ、とりあえず一度持ち帰らせてもらって」

「受け付けてもらえないということですか」

「そういうわけじゃないけど」

「では、受け付けてもらえるということですか」

警察官は答えなかった。

一郎はしばらく待った。返答はなかった。

「わかりました」

一郎は立ち上がり、警察署を出た。
空は曇っていた。

---

## 第五章 三日後の夕暮れ

三日が経った。

空は晴れていた。
放課後の光が商店街の石畳に斜めに落ちていた。
一郎はいつも通りゲームセンターの前を
通り抜けようとした。

「おい、待てよ」

低い声だった。

一郎は立ち止まった。
振り返ると、六人の若者が半円を作って
一郎を囲んでいた。
三日前の三人に、新しい顔が加わっていた。
全員が一郎より体格が良く、
全員が一郎を見下ろしていた。

「先日は老婆がお世話になったな」

先頭に立つ男——リーダー格らしい、
額に傷のある男が言った。

「老婆一人で来るならともかく、
お前みたいな奴がしゃしゃり出てくるとは思わなかった。
今日はお前だけだな」

一郎は周囲を確認した。
商店街の通行人は既に気配を察して遠ざかっていた。
商店の何軒かのシャッターが、
一郎の目の前でゆっくりと下りた。

六人。

一郎は鞄を地面に置いた。

「かかれ」

それが合図だった。

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最初の一人が右ストレートを繰り出した。
身長百八十センチ近い、体重もある男だった。

一郎はそれをわずかに首を傾けて外し、踏み込んだ。
相手の肘の内側に手をかけ、体重を乗せて押した。
それだけで男の体は前のめりに崩れ、
アスファルトに顔から突っ込んだ。

次の男が背後から羽交い締めにしようとした。
一郎は締められる前に、両腕を下から外側に開いた。
その動作は力ではなく角度で相手の力を無効にした。
男のバランスが崩れた瞬間、
一郎の踵が男の膝裏に入った。
男は膝から崩れた。

三人目が右回し蹴りを放った。
高く上がった足だった。

一郎はその太腿の外側に手を添えた。
蹴りのベクトルを、ほんのわずかに変えた。
男は自分の蹴りの勢いで半回転し、
背中からアスファルトに落ちた。
息が詰まった音がした。

ここまで、五秒もかかっていなかった。

残る三人がほぼ同時に動いた。

左から来た男の拳を、一郎は右手の平で受けた。
受けながら一歩入り込み、男の胸に肩を当てた。
体重移動で男は吹き飛んだ。
右から来た男の腕を掴み、引いた。
相手の前のめりになる力を使い、
地面に向かって誘導した。
男は自分から転んだように見えた。

最後の一人——額に傷のあるリーダーが、
迷いを捨てて突進した。

一郎は動かなかった。

正確には、ギリギリまで動かなかった。
男の拳が届く一瞬前に、一郎は半歩横にずれた。
通り過ぎた男の背中を、一郎は軽く押した。
男は数歩よろけ、壁に手をついて止まった。
振り返った瞬間、一郎の手が男の首の後ろに触れた。

精密な、ただそれだけの動作だった。

男はゆっくりと崩れ落ちた。

六人全員がアスファルトの上にいた。
うめき声があちこちから聞こえた。
立ち上がれる者はいなかった。

時間にして、三十秒足らずだった。

一郎は息が乱れていなかった。

---

ゲームセンターの自動ドアが開いた。

中にいた十数人が出てきた。
倒れている仲間を見て、一瞬止まった。
次に一郎を見た。

「やれ」

誰かが言った。

十数人が一斉に動いた。

一郎は後退しなかった。

最初の三人が横一列で来た。
一郎は中央の男の腕を取り、左の男に向かって投げた。
二人がもつれて倒れた。
右の男の踏み込みを利用して、体重ごと前に転がした。

後ろから来た二人。
一郎は振り返りながら低く沈み、
二人の足の間を縫うように体を入れた。
二人は空振りしながらぶつかった。

波が来るように、次々と向かってくる。

一郎は最小の動きで対応した。
力で跳ね返すのではなく、相手の力の向きを変えた。
突進は方向を変えられ、打撃は角度を外された。
投げられた男がまた来ようとして、
すでに倒れている仲間に足を取られて転んだ。

静寂が訪れたのは、二分後だった。

ゲームセンターの前に、
十数人が思い思いの体勢で倒れていた。
ひどい怪我をしている者はいなかった。
だが、誰も立ち上がれなかった。

一郎は立っていた。

制服に乱れはほとんどなかった。
左の袖口が少し汚れていた。

一郎は鞄を拾い上げ、肩にかけた。

---

## 第六章 問答無用

騒ぎを聞いた誰かが通報したのだろう。
サイレンの音が近づき、
二台のパトカーが商店街の入口に停車した。

警察官四人が駆けてきて、現場を見た。

アスファルトに倒れた十数人と、立っている一人。

警察官たちは一郎を見た。

「お前か、やったのは」

一郎は答えようとした。

「いいから来い」

警察官の一人が一郎の腕を掴んだ。

「待ってください、仕掛けたのは向こうですよ!」

声が上がった。
いつの間にか商店街の人々が周囲に集まっていた。
シャッターを下ろした店主も出てきていた。
通行人も立ち止まっていた。

「この子は悪くない!不良に囲まれたんだ!」

「一方的に殴りかかったのはあっちです!」

「警察は何を見てるんですか!」

抗議の声は次々と上がったが、
警察官は一郎の腕を離さなかった。

「現場の確認はこちらで行います。
邪魔しないでください」

「邪魔じゃない、証言してるんです!」

「来い」

一郎はパトカーに乗せられた。
後部座席から見た商店街の人々の顔が、
夕暮れの光の中にあった。

一郎は何も言わなかった。

---

## 第七章 尋問室の蛍光灯

警察署の尋問室は蛍光灯の光が白く、空気が乾いていた。

担当の刑事は二人だった。
一人は四十代後半、もう一人は三十代前半。

「名前」

「横山一郎」

「学校は」

「○○高校一年です」

「今日、ゲームセンター前で何をした」

「身を守りました」

「十何人をか?」

「向かってきた人数に対応しました」

「武器は使ったか」

「使っていません」

「格闘技の経験は」

一郎は少し間を置いた。

「特にありません」

刑事二人が顔を見合わせた。

「特に、というのは?」

「特にありません」

「十数人を倒して、
格闘技の経験がないとは言えないだろう」

「そう思われるなら、
そう思っていただいて構いません」

「ふざけてるのか」

「ふざけていません」

年配の刑事が立ち上がり、テーブルに手をついた。

「お前は傷害罪で逮捕されてるんだぞ。わかってるか」

一郎は刑事の目を見た。
怯えのない、静かな目だった。

「向こうから仕掛けてきました」

「それを判断するのはお前じゃない」

「わかりました。
では三日前、私が提出しようとした被害届が
受理されなかった件について、
理由を教えてもらえますか」

刑事は黙った。

「被害届が受理されていれば、
今日の件は起きていなかったかもしれません」

「……それとこれとは別の話だ」

「そうですか」

一郎は椅子の背もたれに体を預け、
天井の蛍光灯を見上げた。

---

## 第八章 外の声

警察署の外が騒がしくなったのは、
一郎が連行されてから一時間後だった。

最初は十人ほどだった。
商店街の店主たち、通行人、その場にいた人々。
それがいつの間にか
三十人、五十人と膨れ上がっていた。

「横山くんを釈放しろ!」

「不当逮捕だ!」

「証人が何人いると思ってるんだ!」

署の入口に詰めていた警察官が
困惑した表情を見せていた。

ベーカリー田村の田村老人が、
皺だらけの顔で腕を組んで立っていた。
普段は無口な老人だが、この日は違った。

「あの子が何をしたというんだ。
先日も老婆を助けて殴られた。
その被害届すら受け付けなかった。
そして今日また不良どもに囲まれて身を守ったら逮捕か。
警察というのはそういうものか」

老人の隣に、顔なじみの豆腐屋、
花屋、文房具店の主人たちが並んでいた。

「私たちは何年も訴えてきた。
ゲームセンター前の連中のことを。
毎月のように署に話を持って行った。
その都度、対処しますと言われた。
何も変わらなかった。
その結果が今日だ」

群衆の中から拍手が起きた。

---

## 第九章 L'sコーポレーション

警察署の正面に、黒塗りの車が静かに停まった。

スーツを着た男が一人降りた。
三十代半ばと見える、細身の人物だった。
眼鏡をかけ、書類鞄を持っていた。
群衆の中を静かにかき分け、署の入口に向かった。

「L'sコーポレーション法律事務所の水島と申します。
横山一郎さんの件で参りました」

受付の警察官の顔色が変わった。

L'sコーポレーション。
その名前は法曹界ではよく知られていた。
企業法務だけでなく、
一般市民の権利侵害案件を扱うことでも知られ、
いくつかの行政訴訟で勝訴実績を持つ事務所だった。

「お時間をいただけますか。
いくつかお伝えしたいことがあります」

水島弁護士は穏やかな口調で言った。

署長室に通されたのは、それから五分後だった。

---

水島弁護士は書類鞄から紙を取り出し、机の上に並べた。

「まず確認させてください。
今から三日前、横山一郎氏が
こちらの署に被害届の提出に来た記録はございますか」

署長と担当の警察官が顔を見合わせた。

「記録の有無についてはお答えできません」

「そうですか。では申し上げます。
被害届の不受理は警察法に抵触する可能性があります。
不受理の理由が不当であった場合、
国家賠償請求の対象になり得ます」

「……」

「次に、本日の件です。
目撃者の証言によれば、
横山氏は複数名に先に攻撃を仕掛けられており、
正当防衛が成立する可能性が高い。
それを確認しないまま身柄を拘束することは、
不当逮捕として問題になり得ます」

水島弁護士は眼鏡の位置を直した。

「さらに申し上げると、
商店街の不良行為に関して
この署への申し立てが過去三年で二十七件あったことを、
当事務所は把握しております。
それに対して実質的な対処が取られた記録はない。
この懈怠についても、
当事務所は正式な形で問題提起する準備が整っています」

署長室の空気が変わった。

「本日中に横山氏を釈放されることを強くお勧めします。
それ以上の長期拘束は、状況をより複雑にするだけです」

---

## 第十章 釈放

一郎が尋問室から出てきたのは、
水島弁護士が来てから三十分後だった。

「横山さん、水島と申します。外へどうぞ」

一郎は水島弁護士を見た。

「なぜあなたが」

「それはまた後で。今は外に出ましょう」

警察署の正面ドアを出た瞬間、群衆から声が上がった。

田村老人が人垣の中から出てきて、一郎の顔を見た。
怪我はないか、と目で確認するように。
一郎は小さく頷いた。
老人は短く息を吐いた。

一郎は群衆を見渡した。

商店街の人々。通行人。
そしてスマートフォンを向けている
若者たちの姿もあった。
この騒ぎはすでにネットに流れていた。

「ありがとうございます」

一郎は言った。

大きな声ではなかった。
しかし静かな夜の空気の中で、その言葉は届いた。

---

## 第十一章 なぜ横山一郎だったのか

水島弁護士が警察署に現れた夜、
一郎は尋問室で同じ疑問を抱えていた。
釈放後、商店街の人々が引き上げ、
田村老人に礼を言って別れた後、
一郎は水島弁護士と二人になった。

「なぜ私のところに来たんですか」
一郎は訊いた。
水島弁護士は少し間を置いてから答えた。

「商店街の被害届不受理の件は、
以前から私どもで把握していました。
今回、あなたが被害届を出しに来たことも把握していた。
そして今日の一件も」

「監視していたということですか」

「情報収集、と言っていただけますか。
私どもは各地の公権力の機能不全について
継続的に調査しています。
あの警察署はかねてからマークしていた案件でした」

一郎は水島弁護士の目を見た。
水島弁護士も一郎の目を見た。
そして少し意外そうな顔をした。
——この少年の目は、普通だ。
怯えていない。
感謝で媚びてもいない。
かといって疑いで歪んでもいない。
ただ、普通に見ている。
水島弁護士はこれまで多くの依頼人と向き合ってきた。
警察に不当に扱われた人間は、
例外なく目に何かを宿していた。
怒り、傷つき、疲弊、あるいは虚脱。
それが人間の自然な反応だと思っていた。

「もう一つ、訊いてもいいですか」
一郎が言った。

「どうぞ」

「L'sコーポレーションは、
なぜそういうことをしているんですか。
商売にならないでしょう」

水島弁護士はわずかに笑った。

「社会が安定していなければ、ビジネスも成立しない。
それが創業者の考えでした。
法が機能しない場所では、商売も人も育たない。
だから私どもは法が機能するように働く。
それが結果的に、グループ全体の基盤になる」

「合理的ですね」

「そう思います」

「でも」と一郎は言った。

「それだけじゃないでしょう」

水島弁護士は答えなかった。

夜の商店街に風が吹いた。
ベーカリー田村のシャッターが、風に微かに鳴った。

「今日はありがとうございました」

一郎は鞄を肩にかけ、歩き始めた。
水島弁護士はその背中を見送った。
普通の歩き方だった。
特別な足取りでも、
英雄のような堂々とした歩みでもなかった。
ただ、まっすぐに歩いていた。
水島弁護士は小さく息を吐き、
スマートフォンを取り出した。
短いメッセージを打ち、送信した。
送信先は東京・丸の内のオフィスだった。
メッセージにはこう書いてあった。

——会わせたい人物がいます。


## エピローグ それでも朝は来る

この件は翌日、
いくつかのニュースサイトに取り上げられた。

老婆を助けた高校生が暴行を受け
被害届を受け付けてもらえず、
後日正当防衛で不当逮捕された。
商店街住民の長年の訴えが
無視され続けていた事実も明るみに出た。
コメント欄は怒りと共感で埋まった。

警察署は一週間後、改善計画の提出を求められた。

田中蓮の骨折事件以来、
一郎に声をかける者が減った高校の教室で、
月曜日の朝が始まった。

一郎はいつも通り窓際の席に座り、文庫本を開いた。

昨日と同じページだった。
あの騒ぎの間、本を読む時間がなかった。

窓の外に朝の光が伸びていた。

一郎はページをめくった。

---

## 後記として

怠慢な警察署は、日本全国に存在する。

市民の訴えが窓口で止まり、被害届が受け付けられず、
何年も同じ場所で同じ被害が繰り返される。
その間にどれだけの人が泣き寝入りをしてきたか、
数えることは難しい。

制度が変わるには時間がかかる。
意識が変わるにはさらに時間がかかる。

その間にも、朝は来る。

商店街には今日も人が歩き、
ベーカリー田村にはパンが焼け、
窓際の席では一人の少年が本を読んでいる。

世界は少しずつしか変わらない。
それでも、変わらないよりはいい。

そう信じる人間が一人でもいる限り、
何かは動き続ける。

---
 

財務省の分割と省庁の改革

これが出来なかったら

若者は日本を出た方がいいと思います

人は上げる事には貪欲ですが

下げる事はなかなか出来ません

今の財務省が存続したら

税金は今後も上がり続けるでしょう

蓄えが出来ない今の若者は

日本に残り続けたら

あっという間に人生が詰みます

 

 

 

# 霞が関の秋
### ――マジョリティの逆襲――

---

## 第一章 売国の春

桜が散る頃、
田所誠一は書類の山に埋もれながら、
また一つため息をついた。

経済産業省の廊下を歩けば、
スーツ姿の外国人コンサルタントが
我が物顔で闊歩している。
アメリカの投資ファンド、ドイツの技術商社、
中国系のシンクタンク。
彼らは皆、丁寧に頭を下げる
日本の官僚たちに案内されながら、
この国の宝を値踏みしていた。

「また半導体の特許、売るんですか」

田所は上司の村瀬局長に小声で問いかけた。

村瀬は眼鏡のブリッジを押し上げ、薄く笑った。

「売るんじゃない。技術協力だ。
グローバルな連携が今の時代には不可欠なんだよ、
田所くん」

その「技術協力」の対価は、
民間企業が試算した適正価格の十分の一以下だった。
五十年かけて日本の研究者たちが積み上げてきた
半導体製造の核心技術が、
昼食代にもならないような金額で海を渡っていく。
そして翌年には、その技術を使った製品が
「日本製より優秀で安い」
と国内市場に逆流してくるのだ。

一方で、その年の確定申告を終えた田所の妻、
由美子は台所で黙ってため息をついていた。

「ねえ、去年より手取り減ってるよね。
給料上がったのに」

所得税、住民税、社会保険料、消費税。
可処分所得はじわじわと削られ続けている。
子供の教育費は上がり、
電気代は上がり、
食料品は上がる。

しかし政府の公式発表では
「家計の実質賃金は改善傾向」だった。

「どこの家計の話だろうね」

由美子はそう呟いて、
夕飯のスーパーのチラシを眺めた。

---

同じ頃、
大阪の中小企業経営者・橋本浩二は、
取引先の技術者から信じがたい話を聞かされていた。

「うちの会社が二十年かけて開発した精密加工の技術、
ご存知ですか。それが今、中国のメーカーに
丸ごと使われてるんですよ。
特許を国が買い上げて、
それを『産業振興』名目で向こうに渡したらしくて」

「それ、補償は」

「雀の涙です。
そもそも当時は『国策に協力した』って感じで、
断れる空気じゃなかった。
今考えれば完全に騙された」

橋本は帰りの新幹線の中で缶ビールを一本開け、
窓の外の暗闇を見つめた。
自分たちの税金で養われた官僚が、
自分たちの技術を外国に渡す。
そして自分たちはより重い税を払わされる。

これは一体、何のための国家なのか。

---

## 第二章 十四人の秋

十月の第二土曜日、
財務省の向かい側の歩道に、十四人の人間が集まった。

手書きのプラカード。
マスクをした中年の男女。
定年後らしき老人。
大学生らしき若者が数人。
スーツ姿のサラリーマンが一人、
昼休みの時間を使って来たようだった。

「財務省の解体を求めます」

声を上げたのは、
元高校教師の西村清子、六十二歳だった。
息子が勤めていた町工場が潰れ、
孫の奨学金の返済を手伝いながら、
年金の目減りに耐えている。
彼女が怒りをSNSに書いたところ、
見知らぬ人から「一緒にやりませんか」
とメッセージが届いた。

通り過ぎる人たちは横目で見て、足を止めなかった。

警察官が二人、
遠巻きに様子を見ていたが、何事もなく解散となった。

翌週も、その翌週も、人数はあまり変わらなかった。
二十人になった週もあれば、
雨で十人を割った週もあった。

ニュースにはならなかった。

しかし動画は、静かに広がっていた。

---

SNSの中で、
誰かが書いた一文が少しずつシェアされていた。

*「声の大きい少数派が何十年も政治を動かしてきた。
僕たちは黙って見ていた。
でも黙っていることは賛成じゃない」*

いいね、の数が日に日に増えた。
コメント欄に「わかる」「私も行きたい」
「仕事があるから行けないけど応援してる」
という声が積み重なった。

一ヶ月が過ぎた。

---

## 第三章 百から千へ

十一月の第一土曜日、
財務省前に集まった人数は、百三十七人だった。

前の週が四十二人だったから、
三倍以上に膨れ上がったことになる。
西村清子はその数を見て、思わず涙をこらえた。

「みんな、来てくれた」

老若男女が入り混じっていた。
子連れの母親。車椅子の老人。学ランを着た高校生。
エプロン姿のまま駆けつけたらしい主婦。
「有給使いました」
と書いたプラカードを持つサラリーマン。

プラカードに書かれた文字もさまざまだった。

*「孫に借金を残すな」*
*「技術を売るな、魂を売るな」*
*「税金は国民のためにある」*
*「私たちは黙らない」*

二週間後、その数は五百を超えた。

警察は増員した。機動隊の車両が周辺に待機した。
しかしデモの参加者たちは整然としていた。
怒鳴らない。
走らない。
壊さない。
ただ、立っている。
声を上げている。

その静かな怒りが、かえって見る者の胸を打った。

---

転機は、一本の動画だった。

七十歳の元製造業技術者、加藤義雄が、
財務省に向かってゆっくり語りかける映像だった。

「私は四十年間、この国のために働いてきました。
夜中も休日もなく、世界に通用する技術を作った。
その技術が今、外国の会社で使われています。
私の息子の会社は仕事を失いました。
孫は奨学金を背負って就職しました」

老人の声は震えていた。
しかし目は、真っ直ぐに前を向いていた。

「おかしいと思いませんか。誰かが間違っている。
その誰かに、向き合ってほしいんです」

動画の再生数は三日で一千万を超えた。

---

## 第四章 波濤

十二月。

霞が関の交差点は、
平日の昼間でも人でごった返すようになっていた。

一万人を超えたのはいつだったか、
もう誰も正確には覚えていない。
気がつけば、財務省の周りだけでなく、
国会議事堂の周辺まで人の波が広がっていた。

組織はなかった。指導者もいなかった。

SNSで「行く」と書いた人が行き、
「休めない」と書いた人が
「代わりに行って」とコメントした。
会社員が昼休みに三十分立ち寄り、
学生が授業の合間に顔を出し、
主婦が買い物袋を持ったまま輪に加わった。

それは運動ではなく、感情の総量だった。

長年、積み上がってきた怒りと悲しみと、
「これでいいわけがない」という確信が、
臨界点を超えたのだ。

十万人を超えた日、
警視庁は解散命令を出そうとした。

しかし現場の警察官たちは、
群衆を見渡して沈黙した。

老人がいる。
子供がいる。
スーツ姿の会社員がいる。
僧侶がいる。
医師らしき白衣の人間がいる。
歩行器を使いながら立っている老婆がいる。

暴力はどこにもなかった。

「これ、強制排除したら……どうなるんだ」

機動隊の隊長が呟いた言葉に、誰も答えなかった。

---

政府の緊急会議室は、張り詰めた空気に満ちていた。

「一体どこから人が来ているんだ」

内閣官房長官の声には、隠しきれない動揺があった。

「全国から、です」

担当の官僚が資料を差し出した。

「新幹線の予約が週末ごとに跳ね上がっています。
東京圏だけでなく、大阪、名古屋、福岡からも。
ツアーを組んで来ている人もいます。
有給休暇の申請が増えているという企業からの報告も」

「扇動者は特定できていないのか」

「……いません。本当に、いないんです」

それが最も恐ろしかった。

切れる首謀者がいない。
交渉できるリーダーがいない。
逮捕して鎮静化する核心部がない。
怒りは霧のように、あるいは水のように、
あらゆる隙間から染み込んでいた。

---

## 第五章 百万の声

年が明けた。

一月の第三土曜日、
東京都心部の交通はほぼ完全に麻痺した。

地下鉄の霞ヶ関駅は入場規制がかかり、
国会議事堂前駅は終日閉鎖された。
タクシーは近づけず、バスはルートを変更した。

航空写真で見ると、
千代田区全体が黒く染まっているように見えた。

人だった。

百万人を超える人間が、この小さな区画に集結していた。

ボランティアグループが自然発生的に組織され、
水や食料、使い捨てカイロが配られた。
医療ボランティアが巡回し、倒れた人を介抱した。
ゴミは参加者自身が持ち帰り、
トイレは近隣のコンビニや商業施設が協力して開放した。

誰が決めたわけでもなかった。

「自分たちの街を汚さない」という暗黙の了解が、
百万人の間で共有されていた。

外国のメディアが一斉に報じた。

*「日本で史上最大の抗議運動。しかし暴力は皆無」*
*「怒れる静寂
――日本の『サイレントマジョリティ』が動いた」*
*「民主主義の教科書になるかもしれない光景」*

---

財務省の建物の中、
次官の黒川哲郎は窓の外を見られなかった。

見たくなかった、というのが正確かもしれない。

彼はキャリア官僚として三十年以上、
この国の財政を「管理」してきた。
予算の配分、税制の設計、政策の立案。
政治家は来ては去るが、自分たちは残る。
自分たちこそが国家の継続性を支えているのだと、
本気でそう思っていた。

しかし今、窓の下には何十万もの人間がいる。

(私が間違っていたのか)

その問いに、彼は正直に向き合えなかった。

代わりに、コーヒーを一口飲んで、
「民意の誘導が上手くいっていない」
という報告書を開いた。

---

## 第六章 兵糧攻め

二月に入ると、状況は新たな段階へと移行した。

霞ヶ関周辺の交通網が恒常的に麻痺し始めたのだ。

省庁に出勤できない官僚が続出した。
国会議員の中にも、議事堂に辿り着けない者が現れた。
テレワークに切り替えようにも、
物理的な会議や決裁が必要な業務は止まる。

「建物の中から出られない」
という報告が増えてきたのはその頃からだった。

群衆が建物を取り囲んでいるわけではない。
しかし周辺の道路は文字通り人で埋まっており、
車は動けず、徒歩でも群衆をかき分けなければならない。
非常事態宣言の発令も検討されたが、
「何の非常事態か」
という問いに誰も答えられなかった。

感染症でもない。災害でもない。

国民が、そこに立っているだけだった。

ボランティアの食料配布は拡大し、
全国の農家や飲食店が物資を送り始めた。
「デモ応援米」「応援おにぎり」がSNSで話題になった。
北海道の農協が野菜を送り、
九州の漁師が加工品を段ボールで送った。

一方で、財務省と各省庁へのデリバリーは
「自然に」届かなくなっていた。

古典的な兵糧攻めが、誰の命令もなく、
市民の総意として実行されていた。

---

国会の特別委員会では、議員たちが紛糾していた。

「これは民主主義の逸脱だ。
選挙で選ばれた我々が、
街頭の圧力に屈してはならない」

そう主張する議員の声は、空虚に響いた。

「選挙で選ばれた我々が、
この三十年間、何をしてきたんですか」

若手議員の一人が立ち上がった。

「技術は売られた。税は上がった。
官僚は誰にも監視されなかった。
有権者は声を上げ続けてきたのに、我々は聞かなかった。
外にいる人たちは、選挙では届かなかったから、
体で来ているんです」

委員会室が静まり返った。

---

## 第七章 陥落

春の気配が漂い始めた三月の末。

デモが始まってから、ほぼ半年が経っていた。

参加者の総数は、週末のピーク時に一千万を超えていた。
東京だけでなく、大阪、名古屋、福岡、札幌、仙台、
全国の県庁所在地でも同様のデモが続いていた。

政府はあらゆる手段を試みた。

有識者会議の設置を発表した。デモは収まらなかった。
「改革検討チーム」の立ち上げを表明した。
デモは収まらなかった。
首相が記者会見で「国民の声を重く受け止める」
と述べた。デモは収まらなかった。

彼らが求めているのは、言葉ではなかった。

*財務省の分割。
全省庁の抜本的改革。
官僚制度の全面的見直し。
独立した官僚監視機構の設立。*

この四点が、デモの参加者たちが
共有していた最低限の要求だった。

それが約束されない限り、誰も動かなかった。

---

首相の塚原一郎は、官邸の執務室で一人座っていた。

窓の外は人の海だった。
もう遠くの音が近くに聞こえる気がするほど、
人が満ちていた。

電話が鳴った。財務次官の黒川からだった。

「総理……もう、限界です」

黒川の声は、初めて聞く類の疲れ方をしていた。

「うちの若い職員が泣いているんです。
自分たちは国のために働いているつもりだったのに、
なぜこうなったんだと。
……私には、答えられませんでした」

塚原は長い沈黙の後、口を開いた。

「黒川さん、あなたは間違っていたと思いますか」

また沈黙が続いた。

「……思います」

黒川の声は、かすれていた。

「国民のためにやっていたはずが、
いつの間にか、制度のためにやっていた。
自分たちの判断が正しいと信じることが、
いつの間にか驕りになっていた。
外の人たちは……怒る権利があります」

塚原は受話器を置き、窓の外を見た。

百万の、いや、それ以上の人間が、そこにいた。

怒っていた。しかし暴れていなかった。

壊していなかった。しかし退かなかった。

それが最も重かった。

---

翌朝、臨時の記者会見が開かれた。

塚原首相は、一枚の紙を持って演台に立った。

「国民の皆さんに、深くお詫び申し上げます」

頭を下げた角度は、深かった。

「長きにわたり、皆さんの声に、
私たちは十分に耳を傾けてこなかった。
政治と行政が、国民のために機能していたか。
その問いに、
今、正直に向き合わなければなりません」

そして彼は、四つの約束を読み上げた。

財務省の分割。
省庁の抜本的改革。
官僚制度の全面的見直し。
独立した官僚監視機構の設立。

「これは約束です。
法律として、国会で成立させます。
監視機構の設立は今年度中に。
皆さんの目で、見ていてください」

会見場は静まり返っていた。

外の群衆に、映像がリアルタイムで流れた。

誰かが泣いていた。
誰かが隣の人と手を握っていた。
誰かが空を見上げていた。

西村清子は、膝の上でプラカードを抱えたまま、
声もなく涙を流した。

半年前、十四人で立っていた場所で。

---

デモの解散は、静かに始まった。

号令もなかった。指示もなかった。

首相の言葉が終わった後、人々は自然に動き始めた。
ゴミを拾いながら。
お互いに「お疲れさまでした」と言いながら。
見知らぬ人と握手しながら。

霞ヶ関の道路が、半年ぶりに空き始めた。

---

## エピローグ 夏の終わり

その年の夏、
財務省は解体され、歳入庁と予算管理庁に分割された。
官僚の人事と行動を監視する独立機関、
「行政監視委員会」が発足した。
委員には民間人と有識者が選ばれ、
官僚出身者は三分の一以下に制限された。

黒川哲郎は三月に辞表を提出し、受理された。
後に彼は、小さな地方紙のインタビューに答えて
こう語っている。

「私は国家のために働いていると信じていた。
しかし国家と国民は違うものではない。
私が見失っていたのは、そこだったと思う」

彼の後に続いた上級官僚は多かった。
「改革後の省庁には自分たちの居場所はない」
と判断した者が大半だったが、
中には静かに「責任をとる」と言った者もいた。

---

西村清子は、秋になって再び財務省の前を通った。

今度はプラカードを持っていなかった。

新しい庁舎の看板を見上げて、ただ立っていた。

隣に、孫の沙耶がいた。

「おばあちゃん、
あのデモ、本当にここから始まったの」

「そうよ。十四人で、ここに立ったの」

「すごいね」

西村は空を見上げた。

すごくはない、と思った。
遅すぎたくらいだ、と思った。

でも、遅くても、やらないよりはよかった。

「沙耶」と彼女は言った。

「おかしいと思ったら、黙らなくていいのよ。
多数派が黙ったら、
声の大きい少数派に全部決められてしまうから」

沙耶は少し考えてから、頷いた。

「うん。おばあちゃんが教えてくれた」

二人は肩を並べて、歩き始めた。

霞ヶ関の空は、高く澄んでいた。

---

*マジョリティは、殴られ続けるサンドバッグではない。*
*それを、この国はようやく思い出した。*
*そしてその記憶は、次の世代に引き継がれていく。*

---

**了**
 

誰にも何にも迎合せずに

自分の道だけを貫く人

周りから見れば異質で近寄りがたい

変わった人だけど

そういう人が人間的には

一番強かったりしますよね

 

 

# 凪の目

## 第一章 孤独という名の平和

四月。桜の花びらが風に散る季節に、
横山一郎は高校の門をくぐった。

特別なことは何もなかった。
制服は着崩さず、髪型にも気を使わず、
ただそこにある物体のように

一郎は教室の隅の席に座った。

身長は百七十センチに届かないくらい。
体つきは細くも太くもなく、
顔立ちは整ってもいなければ醜くもない。
街を歩いても誰も振り返らない、
そういう種類の人間だった。

入学から数日が経つと、クラスの輪郭が見え始めた。
グループができ、友人ができ、
笑い声が教室を満たしていった。
一郎にはその輪郭の外側に、
最初から最後まで座り続けるつもりがあった。
いや、つもりというより、
それが自然なことだった。

友人がいないことを一郎は気にしなかった。

正確に言えば、気にするという感覚そのものが
一郎の中に薄かった。
彼には彼の世界があり、
その世界は他人の視線を必要としなかった。
授業中は窓の外を流れる雲を眺め、
休み時間は文庫本を読み、
昼食は購買で買ったパンを自分の机で黙々と食べた。
教室の喧騒は一郎にとって、
川のせせらぎのようなものだった。
聞こえているが、気にならない。

そんな一郎を最初に面白がったのは、
一組の陽キャグループだった。

---

## 第二章 言葉という名の石

「おい横山、また一人飯か?ぼっちって楽しい?」

田中蓮——クラスで最も声が大きく、
最も笑いを取ることに熱心な男だった。
バスケ部で体格もよく、女子にも人気がある。
彼が誰かを標的にすれば、周囲は笑った。
笑わなければ次の標的になるかもしれないから。

一郎はパンを口に運びながら、
文庫本から目を上げなかった。

「無視かよ。陰キャって本当に使えねえな」

笑い声。誰かが「マジウケる」と言った。

翌日も、また翌日も、それは続いた。

「横山、お前って友達いないの?かわいそ~」

「話しかけても反応しないんだけど、
もしかして耳聞こえてない?」

「お前みたいなやつって生きてて楽しいの?」

言葉は日々形を変えた。
最初は軽い揶揄だったものが、次第に毒を持ち始めた。
田中の仲間——佐藤と中村——も加わり、
三人が輪を作って一郎の机を囲むことが
放課後の日課になっていった。

「なあ、なんか一言くらい言えよ。
怒れよ。泣けよ。何か反応しろよ」

一郎は本を読んでいた。

「お前さ、本当に気持ち悪いな。
人間じゃないみたいだ」

一郎は本のページをめくった。

クラスの大半の生徒はその光景を横目で見ながら、
自分たちの話を続けた。
加担するほど意地悪でも、
止めるほど勇気があるわけでもない。
教室の空気はそうして毎日、同じ形で流れていった。

窓から見える空は青かった。
一郎はそれを、本のページの隙間から時々確認した。
それだけで、彼には十分だった。

---

## 第三章 触れてはならないもの

五月の終わり、
蒸し暑さが教室に忍び込み始めた頃のことだった。

放課後、ほとんどの生徒が帰るか部活に向かい、
教室には数人が残るだけになっていた。
一郎は帰り支度をしていた。
鞄に文庫本を入れ、筆箱を仕舞い、
椅子を引いて立ち上がろうとした、
その瞬間だった。

「おい」

田中の声は、いつもより低かった。

一郎は振り返らなかった。ただ鞄を持ち上げた。

「無視してんじゃねえよ」

足音が近づいた。数人の気配。
残っていた生徒たちが息を呑むのが、
空気の変化でわかった。

「生意気なんだよ!」

田中の右拳が一郎の顔に向かって飛んだ。

教室にいた生徒たちは思った。
——喧嘩になる。

だが次の瞬間、誰もが見たものは、
拳が一郎の顔に届く前に、
一郎の左手がそれを——払った、という光景だった。

激しい動きではなかった。
力みもなかった。
まるで飛んできた虫を避けるような、
ごく自然な動作だった。

しかし。

「——っ!?」

田中が短い悲鳴を上げた。
右腕を左手で抱え、床にゆっくりと崩れ落ちた。
顔が青ざめ、脂汗が額を伝った。
何かを言おうとしたが声にならず、
ただ低い呻き声を発しながら
床に膝をついてうずくまった。

一郎は田中を一瞥した。

感情のない、ただの確認のような目だった。

それから一郎は鞄を肩にかけ、
何事もなかったように教室を出て行った。
足音は廊下に消え、階段を下りる音がして、
やがて何も聞こえなくなった。

教室には沈黙が残った。

誰も、何が起きたのかを正確に説明できなかった。

---

## 第四章 折れた腕と変わらない朝

翌朝、田中蓮は学校に来なかった。

代わりに、噂が来た。

田中の右腕は骨折していた。

この情報は昼前にはクラス全体に広まり、
午後には学年全体に届いた。
問題は、誰もが見ていたにもかかわらず、
一郎が田中の腕を折るような動作を、
誰一人として目撃していないという事実だった。

「払い除けただけだよな?」

「うん、俺もそう見えた」

「じゃあなんで骨折するんだよ」

「田中の勢いが強すぎて自分で折ったんじゃないか?」

「でも……」

議論は結論を出せないまま続いた。

一郎は翌朝、いつも通り登校した。
いつも通り窓際の席に座り、
いつも通り文庫本を取り出した。
昨日と何も変わらない表情で、
昨日と同じ速度でページをめくった。

クラスメイトたちは一郎を見た。
そして一郎から視線を逸らした。

昨日まで毎日のように飛んでいた揶揄の言葉が、
その日は一度も聞こえなかった。

---

## 第五章 強者の目

その話が学年を超えるまで、一週間かからなかった。

二年三組の黒沢雄也がやってきたのは、
田中の骨折から十日後の昼休みだった。

黒沢雄也という名前は、この高校では一種の記号だった。
喧嘩が強い。中学の頃から有名で、
入学してから三ヶ月足らずの間に
学校内外でその名が知られるようになっていた。
身長百八十二センチ、体重七十五キロ。
肩幅が広く、腕が太く、
歩くだけで廊下の空気が変わるような人間だった。

黒沢が一年A組の教室のドアを開けた瞬間、
室内の温度が下がった気がした。
何人かが席を立ち、端に寄った。
誰かが小声で「黒沢だ」と言い、
それだけで教室全体が緊張した。

黒沢の視線が一郎を見つけた。

一郎は文庫本を読んでいた。

「横山一郎か」

「そうです」

一郎は本から目を上げて黒沢を見た。
立ちもせず、かといって無礼でもなく、
ただ普通に答えた。

黒沢は一郎の前に椅子を引いて、逆向きに座った。
周囲のクラスメイトたちは固唾を呑んで二人を見守った。

「手、見せろ」

一郎は黙って右手を差し出した。

黒沢はその手を取った。
ひっくり返し、甲を見て、掌を見て、
指の一本一本を確認した。
タコもなく、傷もなく、ごく普通の手だった。
武道をやっている人間の手ではなかった。

「腕」

黒沢は一郎の前腕を両手で触った。
筋肉の質を確かめるように、ゆっくりと。
細くはないが、特別太くもない。
鍛えているようには見えなかった。

「肩」

黒沢の手が一郎の肩に触れた。
揉むように、押すように。

「身体全体、普通だな」

黒沢は独り言のように言った。

「よく言われます」

一郎は答えた。

黒沢はしばらく黙って一郎を観察した。
外見だけ見れば、どこにでもいる普通の高校生だった。
服装に特徴はなく、姿勢は悪くも良くもなく、
存在感が薄い。
廊下ですれ違っても振り返らない、
そういう種類の人間に見えた。

しかし。

黒沢が一郎の目を見た時、何かが違った。

怯えがなかった。

それだけではない。
恐怖もなかった。
威嚇もなかった。
虚勢もなかった。
力を誇示しようとする気配も、
逆に萎縮する気配も、何もなかった。
黒沢雄也という存在を前にして、
一郎の目はただ——普通だった。

曇りのない、静かな目だった。

黒沢はこれまでの喧嘩を思い返した。
十数回、いや二十回を超える経験の中で、
相手の目は必ず何かを語っていた。
怒り、恐怖、虚勢、プライド、狂気
——形は違っても、必ず何かがあった。
人間が他の人間と対峙する時、目は正直だった。

だが一郎の目には何もなかった。

正確に言えば——いつも通りだった。

それが黒沢には、初めて感じる種類の異質さだった。
怖くて平静を装っているのではない。
強がっているのでもない。
本当に、ただ普通でいるのだ。
今この瞬間も、昨日も、明日も、おそらく変わらない。

黒沢は立ち上がった。

椅子を元の場所に戻し、鞄を持った。

「わかった」

それだけ言った。

説明も、宣言も、警告もなかった。
黒沢雄也はただ教室を出て行った。
廊下を歩く足音が遠ざかり、消えた。

教室には沈黙が残った。

一郎は文庫本に目を戻した。

---

## エピローグ 凪の目

その日を境に、何かが変わった。

一郎に面と向かって暴言を吐く者は、目に見えて減った。
完全になくなったわけではない。
廊下の端で小声で陰口を言う者はまだいた。
しかし、机を囲んで嘲笑する日課は自然と消えていった。

何が変わったのかを、
クラスメイトたちは言葉にできなかった。
田中が骨折したこと。
黒沢が来て、何もせずに帰ったこと。
それだけが事実として残っていた。

一郎は相変わらず窓際の席で文庫本を読んだ。
昼食は購買のパンだった。
誰とも群れず、誰かに寄りかからず、
ただそこにいた。

変わったものが一つあるとすれば、
教室に流れる空気だった。

川の流れの中に、動かない岩が一つあるような感覚。
水はその岩を避けて流れていく。
岩は何も主張しない。
ただそこにある。
それでも水は、その岩を中心に形を変えた。

一郎は気づいていたかもしれない。
あるいは気づいていなかったかもしれない。

どちらでもよかった。

窓の外には、初夏の空が広がっていた。
雲が流れ、光が揺れ、風が木の葉を揺らしていた。

一郎はページをめくった。

---
 

前回は暗い話だったので

今回は明るい異世界転生ファンタジー

にしてみました

 

 

 

# 春の迷い子

## 第一章 桜と蕎麦と、春の終わり

 大井妃咲の春は、あっけなかった。

 十八年間育った福岡を離れ、
東京の大学に合格した喜びはまだ胸の中で輝いていた。
引っ越しの段ボール箱をようやく片付け終えた夕方、
空腹を覚えた彼女は、近所のコンビニへと向かった。

 棚の前で少し迷って、選んだのはざるそばと、
春の期間限定デザート
——桜の花びらを模したゼリーの上に、
うっすらピンク色の練乳クリームが載っている、
見るからに可愛らしい一品だった。
パッケージの隅に小さく「数量限定・春のみ」
と書かれているのを確認して、
思わずにやけてしまった。

 夕暮れの空は茜色で、
帰り道の歩道には植えたばかりの
若い桜の木が並んでいた。
来週には花が開くかもしれない。
入学式に桜が咲いていたら完璧だな、
と思いながら横断歩道を渡り始めたのが、
妃咲にとって最後の記憶だった。

 信号は青だった。

 それは間違いない。

 なのに。

―――

 気がつくと、妃咲は草の上に立っていた。

 コンビニの袋は、もうなかった。

 緑の丘が緩やかに広がり、
遠くには石造りの大きな壁に囲まれた街が見えた。
街の向こうには山があり、空の色はくっきりとした青で、
見たこともない種類の鳥が悠然と輪を描いていた。

 東京じゃない。

 日本でもない。

 地球でも、ない?

 妃咲はゆっくりと周囲を見渡した。
風が草を揺らしている。
木々が葉擦れの音を立てている。
虫が鳴いている。
五感に届く情報はどれもリアルなのに、
自分がどこにいるのかがまったくわからない。

 ——そうだ。

 高校二年生のとき、
アニメ好きの友人・千鶴に
無理やり貸し付けられた漫画があった。
主人公が異世界に転生して、チートな能力で無双するやつ。
ふだんはそういうジャンルをあまり読まない妃咲だったが、

暇つぶしに読み始めたら意外と続きが気になって、
気づけば全巻読み終わっていた。

 あの漫画に出てきた街に、似ている。

 すごく、似ている。

 ――という事はここは異世界? 
死んで異世界転生したって事?

 頭の中で漫画の知識が次々に展開される。
異世界の街の外は危険区域。
魔獣が跳梁跋扈していて、
冒険者たちがギルドで依頼を受けて倒しに行く。
Fランクからのスタートで、
スキルを身につけて、強くなって……

 待って。
今の私、街の外にいる。

 魔獣に、襲われる!

 その恐怖が腹の底から突き上げてきた瞬間、
茂みが大きく揺れた。

 現れたのは虎に似た巨大な獣だった。
しかし虎ではない。
体の模様は渦巻き状で、尾の先が炎のように揺れている。
眼は赤く光り、牙は白い閃光のようだった。
漫画で見た「炎虎(えんこ)」に近い見た目だ。
Cランク相当の、中堅の魔獣。
一人で倒せる冒険者はまだ少ない、
と作中で説明されていた。

 妃咲は目を瞑った。

 食べられる。きっと、食べられる。

 身体が竦んで動けない。叫び声さえ出ない。

 でも——何も、起きない。

 恐る恐る、片目だけ開けた。

 魔獣は妃咲のすぐ目の前を歩いていた。
まるで妃咲など存在しないかのように。
鼻をひくひくさせているが、
妃咲の方を向こうともしない。

 ……見えてない?

 妃咲はそっと右手を伸ばした。

 指先が炎虎の脇腹に触れる——はずだった。

 しかし指はそのまま、魔獣の身体を通り抜けた。

 まるで空気を掻くように。

 妃咲の手が魔獣の中に沈んでいくのを、
妃咲自身がぽかんと見ていた。
熱さも、毛の感触も、何もなかった。

 炎虎は相変わらず妃咲に気づかないまま、
悠然と丘を下って姿を消した。

 しばらくして我に返った妃咲は、
近くにあった大木に近づいた。
幹を触ろうとする。
やはり、手がめり込む。

 ゆっくりと深呼吸して、今度は思い切って走った。
大木に向かって、全速力で。

 ごとんっ、という音ひとつなく、
妃咲の身体は木を通り抜けた。

 振り返ると、木はそこにある。
自分は木の向こう側にいる。

 頭の中で、何かがゆっくりと繋がっていく。

 ……え?

 私って異世界転移したけど、幽霊のままなの?!

―――

## 第二章 透明な存在

 妃咲は丘の上に座り込んだ。

 正確には、
「座り込もうとしたら地面にめり込みそうになって、
慌てて意識を集中させたら辛うじて地面の上に留まれた」
のだが、そんな細かい話は後回しにした。

 とにかく、状況を整理しなければならない。

 一、自分は信号無視のトラックに撥ねられて死んだ。
これはもう間違いない。

 二、気がついたら異世界にいた。

 三、しかし、何も触れない。何にも触れられない。
魔獣にも木にも地面にも。

 四、逆に言えば、魔獣には見えていないし、
近づいても食べられない。

 つまり、自分は——異世界転生した幽霊。

「……なにそれ」

 声に出してみたら、ちょっとだけ気持ちが楽になった。
声は出るらしい。

「なんで幽霊のままなの。転生したんじゃないの。
異世界に来たんじゃないの」

 誰も答えてくれない。草が風に揺れるだけだ。

 妃咲はため息をついて、空を仰いだ。
空は相変わらず美しく青かった。
雲がゆっくり流れている。
あの世の神様か何かが、
「いやー間違えてごめんね、
でも魔獣には食べられないようにしといたから」
とでも言いたいのだろうか。

 ……それにしても、なぜ異世界に来たのだろう。

 妃咲はぼんやりと考えた。

 死んだとき、何を思っていたか。

 東京での一人暮らし。
大学の授業。サークルに入ってみようかなとか、
バイトはどこにしようかなとか。
そういう、これから始まるはずだった生活への未練。
それと——コンビニの袋の中にあった、
春の期間限定デザート。

 桜のゼリーに、ピンクのクリーム。

 食べたかったなあ。

 馬鹿みたいだと自分でも思うけれど、
本当に食べたかった。
あれを楽しみに帰り道を歩いていたのに。

「未練って、そういうことなのか」

 妃咲は独り言を言った。

 漫画でも読んだことがある。
幽霊になるのは未練があるから、と。
ならば自分の未練は、
一人暮らしと大学生活と、あの春のデザート
——そのどれかということになる。

 あるいは全部。

「でも、異世界に来た理由は……」

 それはわからなかった。
ただ、こうして草の上に座って
(正確には浮いて)いると、
なんとなく、ここに来てしまったことに、
怒りよりも不思議な納得感があった。

 さて、どうする。

 妃咲は立ち上がって(浮き上がって)、
遠くに見える街の方を見た。

 壁に囲まれた街。
あそこには人が住んでいる。
冒険者がいる。
ギルドがある。
魔法があるかもしれない。
異世界の食べ物がある。

 触れないけれど、見ることはできる。
聞くこともできる。
歩くこともできる
(厳密には地面を踏んでいないのだが、
見た目には歩いているように見えるらしい)。

 やることは決まった。

 とりあえず——あの街に行こう。

 何も触れなくたって、
透明人間みたいな存在だって、
ここが異世界なのは間違いない。

 情報を集めるのが先決だ。

 妃咲は丘を下りながら、もう一度空を見上げた。

 東京の空よりも、少しだけ色が濃い。
でも、綺麗だと思った。

 死んだのに、透明な幽霊のくせに、
それでも「綺麗だ」と感じる自分に気づいて、
妃咲は苦笑した。

「私って意外と、しぶといな」

 その言葉は誰にも聞こえず、風に溶けた。

 街までの道には、名前も知らない白い花が咲いていた。

 踏んでも踏み荒らせない足で、
妃咲は花の中を歩き続けた。

―――

## 第三章 壁の街・アルセイア

 街の名前は「アルセイア」というらしかった。

 門の前に立て看板があり、
そこに「アルセイア自由都市」と書かれていた
——もちろん日本語ではなく、見たこともない文字で。
なのになぜか読めた。
これも転移の恩恵なのかもしれない。
転移した幽霊というミスマッチな存在に付与された、
ちょっとだけ便利な能力。

 門番の兵士たちは、妃咲に気づかなかった。

 当たり前だ。妃咲は幽霊なのだから。

 妃咲は堂々と、壁をすり抜けて街の中に入った。

 石畳の道。
露店が並んでいる。
馬車が走っている。
子どもが走り回って、親に叱られている。
お肉を焼く匂いが漂ってくる——匂いは感じる。
なんとも不思議な身体だと思った。
匂いがわかるのに、物が触れない。

 市場の端で、
焼き鳥に似た何かを売っている屋台があった。

 妃咲はそこで立ち止まった。

 肉の焦げた香ばしい匂い。
スパイスのような、知らない香り。
それがなんとも美味しそうで
——食欲を感じている自分に驚いた。
幽霊でも食欲はあるのか。食べられないのに。

「……つらい」

 小さく呟いた。

「何がつらいんだ、嬢ちゃん」

 いきなり声をかけられて、
妃咲は飛び上がった(文字通り、少し浮いた)。

 振り返ると、屋台の主人
——五十がらみの大柄な男が、こちらを見ていた。

「え、私に話しかけてる?」

「他に誰がいる」

 男は首をひねった。

 見える。
この人には、自分が見える。

 妃咲は自分を指さした。
「私のことが……見えますか」

「見えるも何も、嬢ちゃんが突然目の前に現れたんだが。
さっきまでそこに誰もいなかったのに」

 男の目には戸惑いの色があった。
壁をすり抜けて入ってきたのを
見ていたわけではなさそうだが、
急に現れた人物に驚いているらしい。

 妃咲はどう説明すればいいかわからなかったが、
とりあえず頭を下げた。

「すみません、驚かせて。私、旅人なんです。
ちょっと……迷子になってしまって」

「迷子? こんな子どもが一人で?」

 子どもと言われたのは少し心外だったが、
まあ十八歳だし仕方ない。

「一人です。色々あって。
あの、この街のことを教えてもらえますか。
宿とか、ギルドとか」

「ギルド? 冒険者になるつもりか?」

「いえ、まあ、色々調べたくて」

 男は少し考えてから、
焼いたばかりの串を一本、妃咲に差し出した。

「食うか? 口は合わんかもしれんが」

 妃咲は一瞬固まった。

 手を伸ばす。串に触れようとする。

 指が、串をすり抜けた。

 男の目が大きく見開いた。

 しまった、と思ったが、もう遅い。

 沈黙が流れた。

 妃咲はゆっくりと顔を上げて、男を見た。
男は串を持ったまま固まっている。

「……驚かせてすみません」

「……嬢ちゃん、まさか」

「はい」

「……お前さん、生きてるのか?」

 妃咲は少し考えてから、答えた。

「……それが、よくわからないんです」

―――

 屋台の男——名前はゴードンといった
——は、存外に話のわかる人物だった。

 怪しむよりも先に、妃咲のことを
「珍しい存在」として受け入れてくれた。
曰く、この世界には霊的な存在が
稀にいることは知られており、
それを「幻人(まぼろしびと)」と呼ぶらしい。

「幻人は普通、見えない。
見える人間は霊眼の持ち主くらいだ。
俺は若い頃に呪いを受けてな、
副作用でそういう目になった」

「じゃあ私は……幻人みたいなものなんですか」

「見た目は普通の娘だが、物を触れないんだろう。
ほぼそれだな」

 ゴードンは串を炭火で炙りながら、
落ち着いた声で続けた。

「幻人がどこから来るかは諸説ある。
成仏しきれなかった魂とか、
遠い地から魂だけ飛んできた者とか。
お前さんはどっちだ?」

「……遠い地、から、だと思います。
すごく、遠い」

 ゴードンは短く「そうか」と言っただけで、
それ以上は聞かなかった。

 妃咲は木の椅子に腰かけようとして、
半分めり込みかけながら、なんとか座面の上に留まった。
意識を集中すれば、ある程度は固体に接触できるらしい。
触れることはできないが、乗ることは——かろうじて。

「ゴードンさん、ひとつ聞いていいですか」

「なんだ」

「幽霊って、成仏できるんですか。この世界でも」

 ゴードンはしばらく沈黙してから、
火を見つめたまま言った。

「未練が消えれば、消えるらしい。
霊格が上がれば戻れることもあるとも聞く。
どちらにせよ、俺には詳しくわからん。
神殿の司祭に聞いた方がいいだろう」

 未練が消えれば。

 妃咲はその言葉を、胸の中でゆっくり転がした。

 東京での一人暮らし。
大学の青春。
春の期間限定デザート。

 そんな未練を、異世界で、幽霊のままで
——どうやって消せというのだろう。

「……難しそうですね」

「お前さん、案外冷静だな」

「冷静じゃないです。内心めちゃくちゃです」

 妃咲は正直に言った。
そして、焼けた肉の匂いを吸い込みながら、
ため息をついた。

「でも、ここにいる間は——何かしたいんです。
ただ浮いてるだけじゃなくて」

 ゴードンは初めて、少し笑った。

「それがわかってるなら、なんとかなるかもしれん」

 街の喧騒が、遠くから聞こえてくる。

 馬車の音。子どもの笑い声。商人の呼び込み。

 妃咲には触れられない世界が、
それでも五感の全部で流れ込んでくる。

 触れなくても、いる。存在している。

 春の期間限定デザートは食べられなかったけれど

——まだ、ここにいる。

 それはきっと、何かを意味しているはずだった。

―――

(続く)