# 黄金の幻影

## 第一章 英雄の帰還

「あれは!」

トロイア軍の兵士が叫んだ。

戦場に、黄金の輝きが現れた。

黄金の鎧。
黄金の兜。
二頭の神馬が引く馬車。

そして、その後ろには——ミュルミドンの軍団。

「アキレウスだ!」

「アキレウスが戻ってきた!」

恐怖が、トロイア軍に広がった。

あの不死身の戦士。
神々の鎧を纏い、神馬を駆る英雄。
彼の前では、どんな勇者も無力だった。

「退け!退却だ!」

誰かが叫んだ。

それは、統率された撤退ではなかった。
恐怖に駆られた、敗走だった。

トロイア軍が、潮が引くように城壁へと後退していく。

「待て!落ち着け!」

ヘクトルが叫んだ。
だが、兵士たちの耳には届かない。

アキレウス——その名前だけで、彼らは震え上がった。

## 第二章 反撃の開始

「今だ!」

オデュッセウスが叫んだ。
傷を押して、彼は立ち上がった。

「攻勢に出ろ!トロイア軍を押し返せ!」

ギリシャ連合軍が、雄叫びを上げた。

つい先ほどまで、船に追い詰められていた彼らが、
今度は追う側になった。

大アイアスが、その巨体を揺らしながら前進する。

「兄者!」

弟のテウクロスが、弓を引き絞った。
矢が、逃げるトロイア兵の背中に突き刺さる。

「行くぞ!」

メネラオスも、傷を無視して剣を振るった。
十年間待ち続けた復讐の念が、彼を駆り立てる。

「父上!」

ネストルの息子、
アンティロコスとトラシュメデスが叫んだ。

二人の若き戦士は、長老の息子として、
そして一人の戦士として、勇敢に戦った。

「よくやっている!」

ネストルが、息子たちの奮闘を見守った。

戦場の流れが、完全に逆転していた。

## 第三章 追撃

パトロクロスは、馬車を走らせた。

クサントスとバリオスが、風のように駆ける。
この二頭の神馬は、
本来の主人ではないことを知っているのだろうか。
だが、彼らは忠実に、パトロクロスの命令に従った。

「逃がすな!」

ミュルミドンが、一糸乱れぬ隊形で追撃する。

エウドロス、メネスティオス、ペイサンドロス
——三人の指揮官が、それぞれの部隊を率いて、
トロイア軍を追い詰めた。

「アキレウス様!」

ある兵士が叫んだ。
パトロクロスは答えない。
いや、答えられない。
声で、正体がバレる。

だが、鎧と兜が、完璧な変装を提供していた。

トロイア軍は、城壁へ、城壁へと逃げていく。

そして——

ヘクトルでさえ、
この猛攻の前に退却を余儀なくされた。

「くっ……」

トロイア最強の戦士が、歯噛みする。
だが、アキレウス
——いや、アキレウスだと思われる戦士
——の前では、数的不利が大きすぎた。

「総大将!城内へ!」

部下たちが、ヘクトルを守りながら後退する。

パトロクロスは、勝利の高揚に酔っていた。

アキレウスの忠告が、頭をかすめた。

「防衛に徹しろ。決して、攻め込んではならない」

だが——

目の前で逃げるトロイア軍。
手の中にある勝利。

「もう少しだけ……」

パトロクロスは、追撃を続けた。

## 第四章 サルペドンの勇気

城壁の手前。

一人の男が、馬車の前に立ちはだかった。

「ここまでだ、アキレウス!」

サルペドン。
リュキア軍を率いる指揮官。
そして——ゼウスとエウロパの息子。
半神半人の英雄。

彼の隣には、副官グラウコスが立っている。

「サルペドン様!相手はアキレウスです!」

「知っている」
サルペドンが微笑んだ。

「だが、逃げるわけにはいかない」

彼は槍を構えた。

「私は、リュキア軍の誇りを背負っている。
そして——」

彼の目が、真剣になった。

「友を見捨てて逃げるなど、できぬ!」

パトロクロスは、馬車を止めた。

この男——サルペドン——からは、
他の兵士とは違う何かを感じる。

「どけ」
パトロクロスが言った。

「断る」

二人が激突した。

サルペドンの槍が、パトロクロスの盾を打つ。
だが、アキレウスの装備は、神々が作ったもの。
容易くは破れない。

パトロクロスの槍が、反撃する。

サルペドンが躱す。
だが——

二度目の攻撃は、躱せなかった。

槍が、サルペドンの胸を貫いた。

「サルペドン様!」

グラウコスが叫んだ。

サルペドンが、膝をついた。

「グラウコス……」
彼が血を吐きながら言った。

「私の……遺体を……守れ……」

「はい!」

サルペドンが倒れた。

## 第五章 遺体の争奪

「サルペドンの遺体だ!」

トロイア軍が叫んだ。

「奪還しろ!」

ヘクトルが命令を下す。

一方、ギリシャ軍も——

「あの鎧を剥げ!半神の装備だぞ!」

両軍が、サルペドンの遺体を巡って激突した。

槍と剣が交錯する。
盾が打ち合わされる。
血が飛び散る。

パトロクロスとミュルミドンが、遺体を守る
——いや、奪う——ために戦った。

グラウコスとリュキア軍が、
必死に遺体を取り戻そうとする。

だが、数と勢いで、ギリシャ軍が勝った。

「やった!」

ギリシャの兵士たちが、サルペドンの鎧を剥ぎ取った。

美しい鎧。
半神にふさわしい、神々の技が込められた装備。

「戦利品だ!」

彼らは歓声を上げた。

## 第六章 父の悲しみ

オリュンポス。

ゼウスは、玉座から戦場を見下ろしていた。

その目には、涙が浮かんでいた。

「サルペドン……」

彼の息子。愛する息子が、戦場に倒れている。

鎧を剥がれ、辱められようとしている。

ゼウスの妻ヘラが、冷たく言った。

「息子を失うのは、あなただけではありませんよ」

「分かっている……」

ゼウスは、他の神々を見た。
多くの神々が、人間との間に子供を作っている。
その子供たちが、この戦争で死んでいく。

だが——

「せめて、遺体だけは……」

ゼウスは、アポロンを呼んだ。

「行け。サルペドンの遺体を回収しろ。
そして、リュキアに送り届けよ」

「御意」

アポロンが戦場に降り立った。

光が、サルペドンの遺体を包んだ。

「何だ!」

ギリシャの兵士たちが驚く。

光が消えた時、遺体は消えていた。

## 第七章 英雄の葬送

リュキア。

サルペドンの遺体が、故郷に戻ってきた。

アポロンの力により、遺体は清められ、
傷一つない姿に戻っていた。

「王子様……」

リュキアの民が、泣いた。

「サルペドン様……」

盛大な葬儀が執り行われた。

薪が積まれ、遺体が安置され、火が灯された。

炎が、英雄を天に送る。

「あなたは、勇敢でした」

老臣が語った。

「あなたは、友を見捨てませんでした」

民が泣いた。

「あなたは、真の英雄でした」

煙が、空高く昇っていく。

そして、サルペドンの魂は、
父ゼウスのもとへと帰っていった。

## エピローグ

戦場。

パトロクロスは、勝利の高揚に酔っていた。

「勝った!俺たちが勝った!」

ミュルミドンが歓声を上げる。

だが、城壁の上から、誰かが彼を見下ろしていた。

ヘクトル。

そして——アポロン。

「あれは、アキレウスではない」

ヘクトルが呟いた。

「気づいたか」
アポロンが囁いた。

「あれは、ただの人間だ」

「ならば……」

ヘクトルの目が、光った。

「殺せる」

運命の歯車が、最後の一回転を始めようとしていた。

**——勝利の高揚は、しばしば死の前触れである。
そして、約束を破った者には、代償が待っている——**

(終)

 

# 代理の戦士

## 第一章 船上の籠城

夜明けと共に、トロイア軍の雄叫びが響いた。

「押せ!船まで追い詰めろ!」

ヘクトルの声が戦場を震わせる。

ギリシャ連合軍は、
もはや船の周辺まで追い詰められていた。
かつて誇らしげに並んでいた陣地は、
今や焼け焦げた廃墟と化している。

「盾を!盾を固めろ!」

オデュッセウスが叫ぶ。
だが、彼の腕には包帯が巻かれていた。
昨日の戦闘で負った傷だ。

ディオメデスも、足を引きずっている。

そして総大将アガメムノンは、
肩の傷が悪化し、満足に剣を振るえない。

「このままでは……」

大アイアスが、巨大な盾を構えながら呟いた。

「持ちこたえるしかない!」

船という最後の砦。
ここが破られれば、全軍の壊滅だ。

## 第二章 二人の巨人

「ヘクトル!」

大アイアスの声が、戦場に響いた。

「戦え!」

トロイア軍総大将が、振り返った。

「アイアスか。良かろう!」

二人の巨人が、戦場の中央で対峙した。

ヘクトルは、トロイア最強の戦士。
その剣技は、神々すら認めるほど。

大アイアスは、ギリシャ最強の四将の一人。
その巨体と怪力は、誰もが恐れるもの。

剣と剣が激突する。

火花が散る。

だが——

大アイアスの力が、いつもより強い。

「何?」
ヘクトルが驚いた。

実は、海の底から、ポセイドンが手を貸していた。
ギリシャ軍の劣勢を見かねた海神が、
密かに力を与えているのだ。

「押せ!」

大アイアスの剣が、ヘクトルの胸当てを砕いた。

ヘクトルが倒れる。血が流れる。

「総大将!」

トロイア軍が悲鳴を上げた。

## 第三章 神々の介入

オリュンポス。

玉座に座るゼウスが、戦場を見下ろしていた。

「ポセイドン……」

彼は虹の女神イリスを呼んだ。

「行け。ポセイドンに、手を引くように伝えよ」

イリスが七色の光となって降下し、
海中のポセイドンの前に現れた。

「ゼウス様のご命令です。
戦争への介入を止めよ、と」

ポセイドンは舌打ちした。

「兄は、いつもトロイアの味方だ……」

だが、神々の王の命令には逆らえない。
彼は手を引いた。

次に、ゼウスはアポロンを呼んだ。

「ヘクトルを治療せよ」

「御意」

アポロンが戦場に降り立った。
光の神の手が、ヘクトルの傷に触れる。

すると、みるみるうちに傷が塞がっていく。

「これは……」
ヘクトルが驚愕した。

「立て、英雄」
アポロンが囁いた。

「まだ、お前の戦いは終わっていない」

ヘクトルが立ち上がった。

その姿を見て、トロイア軍が歓声を上げる。

「総大将が復活した!」

「神の奇跡だ!」

そして、戦いは再び激化した。

## 第四章 弓矢の雨

「近接戦は危険だ」

パリスは、前日の屈辱を思い出していた。
メネラオスに追い詰められ、
母アフロディテに救われた恥辱。

「ならば、遠くから射る」

彼は弓の名手だった。
その腕前は、師パンダロスにも引けを取らない。

パリスは高台に陣取り、次々と矢を放った。

そして、一本の矢が——

「ぐあっ!」

マカオンが倒れた。

「軍医長!」

兵士たちが駆け寄る。
だが、マカオンの肩には矢が深々と刺さっていた。

「誰か!誰か助けを!」

その時、一台の馬車が突進してきた。

御者は、白髪の老人——ネストル。

「乗せろ!」

彼は自ら馬車を降り、マカオンを抱え上げた。

「長老、危険です!」

「構わん!軍医を失えば、軍全体が崩壊する!」

ネストルの馬車が、
矢の雨をかいくぐって後方へと走った。

## 第五章 船外の目撃者

アキレウスの船。

彼は、甲板で寝そべっていた。
戦場の音は聞こえるが、関係ない。
もう、自分の戦いではない。

だが、ふと視線を向けた時——

馬車が、負傷者を乗せて走っていくのが見えた。

「あれは……」

アキレウスが立ち上がった。

「パトロクロス!」

彼の親友が現れた。

「何だ?」

「あの馬車に乗っていた負傷者が誰か、
確認してきてくれ」

「分かった」

パトロクロスは、素早く船を降りた。

## 第六章 長老の説得

ネストルの船。

マカオンは横たわり、
弟のポダレイリオスが治療にあたっていた。

「兄者……大丈夫か……」

「ああ……だが、しばらく戦えん……」

そこへ、パトロクロスが駆け込んできた。

「負傷者は!」

「マカオンだ」
ネストルが答えた。

「軍医長が倒れた。これは、由々しき事態だぞ」

「報告します」
パトロクロスが去ろうとすると——

「待て」

ネストルが、彼の腕を掴んだ。

「パトロクロス。戦場を見たか?」

「……はい」

「アガメムノン、オデュッセウス、ディオメデス、
そしてマカオン。主要な指揮官が、皆負傷している」

ネストルの目が、真剣だった。

「船も、何艘か焼かれた。このままでは、全滅だ」

「ですが、私は——」

「アキレウスを説得してくれ」
ネストルが頭を下げた。

「頼む。お前は、あの男の唯一の友ではないか」

パトロクロスは、言葉に詰まった。

「……やってみます」

## 第七章 黄金の鎧

アキレウスの船に戻ったパトロクロスは、報告した。

「マカオンが負傷しました。そして——」

彼は、戦場の惨状を語った。

アガメムノン、オデュッセウス、
ディオメデス、マカオン。
皆、負傷している。
船も焼かれている。

アキレウスは、黙って聞いていた。

「……そうか」

長い沈黙。

そして、アキレウスが立ち上がった。

「パトロクロス」

「何だ?」

「お前が行け」

「え?」

アキレウスは、自分の黄金の鎧を取り出した。

「これを着ろ。俺の馬車を使え。
ミュルミドンを率いることを許す」

パトロクロスの目が見開かれた。

「本当か!」

「ああ」アキレウスは頷いた。「だが——」

彼は、親友の肩を掴んだ。

「いいか。防衛に徹しろ。
決して、攻め込んではならない」

「分かっている」

「トロイアの城壁まで追いかけたりするな。
船を守ることだけを考えろ」

「分かった」

「約束だぞ、パトロクロス」

アキレウスの目が、真剣だった。

「お前は、俺の唯一の友だ。失いたくない」

「心配するな」
パトロクロスが笑った。

「すぐに戻ってくる」

彼は黄金の鎧を身に着けた。

兜を被ると、まるで——

アキレウスそのものに見えた。

「ミュルミドン!」パトロクロスが叫んだ。

蟻の子孫たちが、整列した。

「出陣する!」

馬車に乗り込む。
二頭の神馬——クサントスとバリオス——が、
久しぶりの出陣に興奮している。

「行け!」

馬車が走り出した。

アキレウスは、それを見送った。

「……頼むぞ、パトロクロス」

彼の胸に、初めて不安がよぎった。

だが、もう遅い。

黄金の鎧を纏った戦士は、戦場へと向かっていた。

そして、運命の歯車が——

また一つ、回った。

**——親友への信頼。それは美しい。
だが、戦場では、どんな約束も、容易く破られる——**

(終)

 

# 怒れる英雄

## 第一章 十年目の疫病

十年。

トロイア戦争は、予言通り九年を過ぎ、
ついに十年目を迎えていた。

ギリシャ連合軍の陣営は、疲弊していた。
長引く戦争、尽きかけた物資、
そして何より——終わりの見えない戦い。

「また村を襲撃するのか」
オデュッセウスが呟いた。

「他に方法があるか?」
アガメムノンが言い返した。

「トロイアは落ちん。

ならば、周辺から奪うしかない」

近隣の村への襲撃。
それは、もはや日常となっていた。

そして、その日の襲撃で、
一人の若い女性が捕虜となった。

クリュセイス。

彼女は美しかった。
だが、その美しさよりも、彼女の立場が問題だった。

「私の父は、アポロン神殿の司祭クリュセスです」

彼女は誇り高く言った。

「どうか、父のもとに返してください」

だが、アガメムノンは笑った。

「美しい女だ。

気に入った。お前は、私のものになる」

## 第二章 神の怒り

数日後、老人が陣営にやってきた。

クリュセス。アポロン神殿の司祭。

彼は震える手で、黄金と貴重な品々を差し出した。

「どうか……娘を返してください」

「帰れ」

アガメムノンが冷たく言った。

「お願いします!この通りです!」

老人が地に額をつける。
だが、アガメムノンは動じなかった。

「二度と顔を見せるな。さもなくば、命はないぞ」

クリュセスは、絶望の表情で去っていった。

そして——

その夜、彼はアポロンの神殿で祈った。

「神よ!どうか、娘を救い給え!」

アポロンは、忠実な司祭の祈りを聞き入れた。

翌朝。

「また一人倒れた!」

「疫病だ!」

「医者を!マカオンを呼べ!」

陣営中に、疫病が広がった。

兵士たちが次々と倒れていく。
高熱、激しい咳、そして死。

マカオンとポダレイリオスが必死に治療にあたったが、
神の呪いには太刀打ちできない。

「これは……」
カルカスが震える声で言った。

「アポロンの怒りです」

## 第三章 会議の決裂

「会議を開く!」

アガメムノンの命令で、
主要な指揮官たちが集まった。

「カルカス」
アガメムノンが言った。

「この疫病の原因を言え」

予言者は躊躇した。
だが、アキレウスが立ち上がった。

「恐れるな、カルカス。真実を語れ。私が守る」

カルカスは深呼吸すると、告げた。

「クリュセイスを、父のもとに返さねばなりません」

沈黙。

そして、アガメムノンが激昂した。

「ふざけるな!私の戦利品を返せというのか!」

「軍全体が滅びますぞ!」
ネストルが諫めた。

「では、代わりを寄こせ!」
アガメムノンが叫んだ。

「私だけが損をするのは、不公平だ!」

彼の目が、アキレウスに向いた。

「お前の捕虜、プリセイスを寄こせ」

場が凍りついた。

プリセイス。
アキレウスが襲撃で捕らえた女性。
彼女は美しく、そして何より、
アキレウスは彼女を心から愛していた。

「何だと?」
アキレウスの声が低く響いた。

「聞こえなかったか?プリセイスを、私に渡せ」

アキレウスの手が、剣の柄に伸びた。

「総大将……あなたは、越えてはならぬ一線を越えた」

「何?」

「俺は、あんたのために戦ってきた。
ヘレネを奪われたのは、メネラオスだ。
俺には関係ない。
それでも、誓いを守るために、ここまで戦った」

アキレウスの目が、炎のように燃えた。

「なのに、俺の戦利品を奪う?」

「総大将の命令だ!」

「従うものか!」

オデュッセウスが割って入った。

「二人とも、落ち着いてください!
今、内輪揉めをしている場合では——」

「黙れ、オデュッセウス!」
アキレウスが叫んだ。

「分かった。プリセイスは渡す。だが——」

彼は、冷たく宣言した。

「俺は、もう戦わない」

## 第四章 英雄の撤退

アキレウスは、自分の船に戻った。

パトロクロスが後を追う。

「アキレウス……」

「パトロクロス」
アキレウスが振り返った。

「お前は、俺についてくるか?それとも——」

「何を言っている」
パトロクロスが微笑んだ。

「お前と共にいる。それが、俺の決めたことだ」

ミュルミドンの兵士たちも、整然と船に戻っていく。

エウドロス、メネスティオス、ペイサンドロス
——三人の指揮官が、アキレウスの前に膝をついた。

「我々は、あなたと共に」

「ありがとう」
アキレウスが言った。

育ての親、ポイニクスが現れた。

「アキレウス……本当に戦わないつもりか?」

「ああ」

「だが、お前なしでは——」

「知ったことか」
アキレウスは吐き捨てた。

「アガメムノンが選んだことだ」

船の上で、アキレウスは海を見つめた。

プリセイスが連れ去られていくのを、
遠くから見ていた。

彼女も、こちらを見ていた。
涙を流しながら。

「すまない……」
アキレウスが囁いた。

## 第五章 トロイアの攻勢

トロイアの城壁で、
ヘクトルは報告を聞いていた。

「アキレウスが戦線を離れた?」

「はい」
斥候が答えた。

「アガメムノンとの不和のようです」

ヘクトルの目が光った。

「好機だ。全軍、出撃する!」

トロイア軍が城門を開き、平原に展開した。

その先頭には、ヘクトルが立っていた。

「行くぞ!ギリシャ軍を海に押し返せ!」

両軍が激突した。

メネラオスとパリスが、一騎打ちとなった。

「貴様!」
メネラオスが叫んだ。

「ヘレネを返せ!」

「嫌だね!」
パリスが弓を構えた。

だが、近接戦ではメネラオスの方が上だった。

剣が、パリスを追い詰める。

「終わりだ!」

メネラオスの剣が振り下ろされる——

その瞬間、眩い光。

美の女神アフロディテが現れ、
息子パリスを包み込んだ。

「な、何!」

光が消えた時、パリスの姿はなかった。

「卑怯な!」
メネラオスが叫んだ。

だが、神の介入を誰が止められよう。

勢いづいたギリシャ軍が、トロイア軍を押し始めた。

その時——

「アガメムノン!」

弓矢が飛んできた。

それは完璧な射撃だった。
アガメムノンの肩に突き刺さる。

「総大将!」

混乱が広がる。

射手は、ゼレイアのパンダロス王子。
だが、その背後には、女神ヘラの影があった。
彼女は、トロイアを憎むあまり、
卑怯な手段も厭わなかった。

「ヘクトルが来るぞ!」

トロイア軍総大将が、自ら突撃してきた。

「押し返せ!ギリシャを海に!」

ヘクトルの武勇は凄まじかった。
彼の前で、ギリシャの兵士たちが次々と倒れていく。

「退け!退却だ!」

ギリシャ軍が、船の陣地まで押し戻された。

## 第六章 交渉の使者

その夜、ギリシャ軍の天幕で緊急会議が開かれた。

「このままでは、全滅だ」
大アイアスが言った。

「ヘクトルを止められるのは……」
ディオメデスが言葉を濁した。

「アキレウスしかいない」
オデュッセウスが言い切った。

全員が、アガメムノンを見た。

総大将は、肩の傷を包帯で巻いていた。
その顔には、屈辱と後悔が混じっていた。

「……分かった」
彼は重々しく言った。

「プリセイスを返す。そして、賠償金も払おう」

「誰が交渉に行く?」
ネストルが問うた。

「私が行こう」
オデュッセウスが立ち上がった。

「私も」
大アイアスが続いた。

「では、私も」
ポイニクスが言った。

「あの子の育ての親として」

三人が、アキレウスの船に向かった。

アキレウスは、竪琴を弾いていた。

戦争の歌ではない。
故郷の歌、平和の歌。

「アキレウス」
オデュッセウスが声をかけた。

「来たか」
アキレウスは竪琴を置いた。

「話は分かっている。プリセイスを返す、
賠償金を払う、そういうことだろう?」

「そうだ」

「断る」

「アキレウス!」
ポイニクスが叫んだ。

「軍が滅びるぞ!お前の仲間たちが死ぬのだ!」

「仲間?」
アキレウスが嘲笑した。

「アガメムノンが、俺を仲間と思っていたか?
違うだろう。道具だ。都合のいい戦力だ」

「だが——」

「もういい」
アキレウスが立ち上がった。

「俺は、ギリシャに帰る。明日の朝、出発する」

「待て!」大アイアスが掴みかかった。

だが、アキレウスは動じない。

「離せ、アイアス。お前は好きだ。
だから、手を出したくない」

オデュッセウスは、深い溜息をついた。

「……分かった。
だが、せめて考え直してくれ。明日まで」

「答えは変わらない」

三人が去った後、パトロクロスが現れた。

「本当に帰るのか?」

「ああ」

「だが……」
パトロクロスは躊躇した。

「お前がいなければ、みんな死ぬぞ」

アキレウスは答えなかった。

ただ、遠くの戦場を見つめていた。

そこでは、今も仲間たちが戦っている。

だが、彼の心は——

まだ、怒りに燃えていた。

**——誇り高き英雄の怒り。
それは、戦争の流れを変え、
やがて、取り返しのつかない悲劇を生む——**

(終)

 

# 九年の予兆

## 第一章 蛇の啓示

ボイオティアのアウリス港。

ギリシャ連合軍の全軍が集結したその日、
盛大な祈りの儀式が執り行われていた。

「神々よ!」
アガメムノンが声高に叫んだ。

「我らに勝利を!トロイアに正義の鉄槌を!」

数万の兵士たちが、一斉に歓声を上げた。
生贄の牛が捧げられ、その血が祭壇を染める。
香が焚かれ、葡萄酒が注がれる。

オデュッセウスは、儀式を冷静に見守っていた。
だが、心の中では不安が渦巻いていた。
これだけの軍勢を動かし、維持し、

そして戦わせる——

その時だった。

「あれは!」

誰かが叫んだ。

祭壇の脇から、一匹の青い蛇が現れた。

それは美しかった。
鱗が陽光を受けて、まるで宝石のように輝いている。
だが、その美しさには、どこか不吉なものが宿っていた。

蛇はゆっくりと、近くの木に向かって進んだ。

木の上には、鳥の巣がある。

「雛が……」

巣の中には、八匹の雛がいた。
まだ羽も生えそろっていない、か弱い命。

蛇は木を登り始めた。

親鳥が必死に羽ばたき、雛を守ろうとする。
だが、蛇は止まらない。

そして——

一匹、また一匹と、雛が蛇に飲み込まれていく。

兵士たちが息を呑んだ。

八匹すべての雛が、蛇の腹に消えた。

親鳥が悲痛な声で鳴く。
だが、蛇はその親鳥をも——

飲み込んだ。

「なんと……」

その瞬間、蛇の身体が変化し始めた。

青い鱗が、灰色に変わる。
動きが止まる。そして、完全に——

石化した。

まるで最初から石像だったかのように、
青い蛇は木の枝に巻きついたまま、動かなくなった。

沈黙。

誰も、言葉を発しない。

予言者カルカスが、ゆっくりと前に進み出た。

「これは……」
彼の声が震えた。

「ゼウスからの啓示です」

「どういう意味だ?」
アガメムノンが問うた。

カルカスは深呼吸すると、告げた。

「八匹の雛と、一羽の親鳥。
合わせて九つの命。
そして、蛇は石と化した」

彼は群衆を見回した。

「この戦争は、九年間続きます。
そして十年目に、終わる」

ざわめきが広がった。

「九年だと?」

「そんなに長く?」

「家族に会えないのか、それほど?」

オデュッセウスは、静かに目を閉じた。
予言通りだ。
二十年は戻れない。
九年の戦争、そして帰路に十年以上——

「静まれ!」
アガメムノンが叫んだ。

「九年で済むなら、短いものだ!我々は必ず勝つ!」

だが、兵士たちの動揺は、簡単には収まらなかった。

## 第二章 白い鹿の血

数日後。

アガメムノンは、出港前の最後の狩りを楽しんでいた。

「良い獲物はいないか」

彼は配下の者たちと共に、森の中を進んだ。

そして、見つけた。

白い鹿。

それは息を呑むほど美しかった。
純白の毛並み、優雅な身のこなし。
まるで夢の中の生き物のように。

「見事だ……」

アガメムノンは、弓を構えた。

「総大将、あれは——」
配下の一人が何か言いかけた。

だが、もう遅い。

矢が放たれた。

完璧な射撃。矢は白い鹿の心臓を貫いた。

鹿が倒れる。白い毛が、赤く染まっていく。

「やった!」
アガメムノンが叫んだ。

だが、その時。

空気が変わった。

森全体が、怒りに震えているような感覚。

「総大将……あれは、アルテミス様の鹿でした」

配下の者が、青ざめて言った。

「何?」

「月の女神が、
御自分の馬車を引かせるために遊ばせていた、
聖なる鹿……」

アガメムノンの顔から、血の気が引いた。

## 第三章 女神の怒り

その夜から、災厄が始まった。

まず、疫病。

兵士たちが次々と倒れていく。
高熱、嘔吐、そして死。

「また三人死んだ!」

「医者を!マカオンを呼べ!」

だが、医術でも防げない病。

それは神の呪いだった。

そして、風。

向かい風が吹き荒れ、海は荒れ狂った。

「これでは出港できん!」

船長たちが悲鳴を上げる。

「いつまで待てばいいんだ?」

「このままでは、軍が崩壊する!」

アガメムノンは、カルカスを呼んだ。

「どうすればいい?」

カルカスは、長い沈黙の後、答えた。

「罪を犯した者の、娘を——」

彼の声は震えていた。

「生贄に捧げなければ、
アルテミスの怒りは収まりません」

「娘だと?」

「はい……イピゲネイア様を」

アガメムノンは立ち上がった。

「ふざけるな!娘を殺せというのか!」

「他に方法はありません」
カルカスは頭を垂れた。

「このままでは、全軍が滅びます」

## 第四章 偽りの婚礼

オデュッセウスは、アガメムノンの天幕で、
信じられないものを見ていた。

総大将が、泣いていた。

「娘を……イピゲネイアを殺さねばならぬのか」

「他に方法はないのですか?」
オデュッセウスが問うた。

「ない」
アガメムノンは顔を上げた。
その目は、死んだ魚のようだった。

「だが、方法は考えた」

彼は、オデュッセウスを見た。

「アキレウスと結婚させると言って、呼び寄せる」

「総大将!」

「他に、娘を連れてくる方法があるか?
婚礼と言えば、喜んで来る」

オデュッセウスは言葉を失った。

数週間後。

イピゲネイアは、
喜びに満ちた顔で、アウリスに到着した。

「父上!」

彼女は美しかった。
若く、純粋で、幸せに輝いていた。

「アキレウス様と結婚できるなんて!」

アガメムノンは、娘を抱きしめた。

「すまぬ……」

彼は、誰にも聞こえないほど小さく呟いた。

「許せ、イピゲネイア……」

祭壇。

イピゲネイアが、
何が起こっているのか理解した時には、
もう遅かった。

「父上!これは!」

「許せ!」
アガメムノンが叫んだ。

「だが、これしか方法がないのだ!」

神官が刃を掲げる。

イピゲネイアは泣き叫んだ。

「嫌!嫌です!助けて!」

刃が振り下ろされる——

その瞬間。

眩い光。

そして、祭壇の上には、白い鹿が横たわっていた。

イピゲネイアの姿は、消えていた。

「これは……」

カルカスが頭を垂れた。

「アルテミス様が、憐れんでくださった。
娘御は、タウリスの神殿で、
巫女として生きることでしょう」

風が止んだ。

海が凪いだ。

疫病が、去った。

だが、アガメムノンの心に開いた傷は、
決して癒えることはなかった。

## 第五章 最後の交渉

ギリシャ連合軍は、ついに出港した。

そして、トロイアの手前にあるテネドス島に到着した。

「まだ、交渉の余地はある」
オデュッセウスが言った。

「そうだな」
アガメムノンが頷いた。

「メネラオス、お前が行け。
オデュッセウスも同行しろ」

二人の使節が、トロイアの城門に向かった。

城内では、王族たちが集まっていた。

「ギリシャの使節だと?」
パリスが嘲笑った。

「何の用だ?」

「ヘレネを返せと言うつもりだろう」
デイポポスが言った。

だが、老臣アンテノルが立ち上がった。

「使節には、礼を尽くすべきです」

「なぜだ?」パリスが睨んだ。

「それが、王族の務めだからです」

メネラオスとオデュッセウスが、
謁見の間に通された。

「ヘレネを返していただきたい」
メネラオスが言った。
その声は、怒りで震えていた。

「断る」
パリスが即答した。

「これは客人の妻を奪うという、重大な罪です!」
オデュッセウスが訴えた。

だが、トロイアの王族たちは聞く耳を持たなかった。

ヘレネの美貌に、彼らは取り憑かれていた。

「殺してしまえ」
誰かが囁いた。

「そうだ、使節など——」

「やめよ!」

アンテノルが叫んだ。

「使節を殺すなど、神々への冒涜だ!」

彼は自らメネラオスとオデュッセウスを、
丁重に城門まで送った。

「すまない」
アンテノルが囁いた。

「だが、もう止められぬ」

オデュッセウスは頷いた。

「あなたの礼節は、忘れません」

## 第六章 戦争の始まり

ギリシャ連合軍が、トロイアの沿岸に上陸した。

最初に降り立ったのは、アキレウスだった。

「来たぞ、トロイア!」

彼の雄叫びが、戦場に響き渡った。

海岸に陣地が構築される。

千以上の船が並び、数万の兵士が展開する。

だが、オデュッセウスは気づいていた。

「足りない」

「何が?」
ディオメデスが問うた。

「兵力です。
トロイアを完全に包囲するには、兵が足りない」

「では、どうする?」

オデュッセウスは、地図を広げた。

「周辺の村々を襲撃します。
物資を奪い、街道を破壊し、トロイアを孤立させる」

そして、戦争が始まった。

だが、それは誰もが予想したような、
短期決戦ではなかった。

九年。

予言の通り、長い、長い戦いが始まろうとしていた。

**——一人の女のために始まった戦争は、
数え切れない命を奪い、英雄たちの運命を狂わせる。
だが、まだ誰も知らない。
この戦争が、どのような結末を迎えるのかを——**

(終)

 

# 集結する英雄たち

## 第一章 二年の準備

アウリスの港は、
かつてない規模の軍勢で埋め尽くされていた。

二年。

ギリシャ連合軍が完全に編成されるまでに、
それだけの月日を要した。

港には千隻を超える船が並び、
その数は今も増え続けている。
各地から集まる兵士たち。
武器を磨く音、

馬のいななき、

指揮官たちの怒号。
すべてが混然一体となって、
巨大な戦争の機械を形作っていた。

総大将の天幕で、
ミュケナイ王アガメムノンは地図を見つめていた。

「ようやく、ここまで来たか」

彼の隣には、
副将に任命されたイタケ王が立っている。

最強の四将の一人オデュッセウス。
その知略は、すでにギリシャ中に知れ渡っていた。

「総大将」
オデュッセウスが静かに言った。

「問題は、これからです。
これだけの軍勢をまとめ、トロイアまで運び、
そして戦わせる。容易なことではありません」

「だから貴様を副将にしたのだ」
アガメムノンが不敵に笑った。

天幕の外から、若々しい声が聞こえてくる。

「それは俺の艦隊だ!勝手に配置を変えるな!」

アキレウスだ。
プティア王子にして、艦隊司令官。
そして、最強の四将の中でも、最も恐れられる戦士。

「若いな」
アガメムノンが呟いた。

「ですが、彼なしにこの戦争は勝てません」
オデュッセウスが応じた。

「カルカスの予言を忘れてはいません」

## 第二章 四将と勇者たち

港の一角に、特別な区画があった。

そこには、四つの軍団が陣取っている。
ギリシャ連合軍最強の四将が率いる、精鋭中の精鋭。

**第一軍団——アキレウス隊**

黄金の鎧を纏った若き英雄の周りには、
異様な雰囲気の兵士たちが整列していた。
ミュルミドン人。元は蟻だった者たちの子孫。

「エウドロス、メネスティオス、ペイサンドロス」

アキレウスが三人の指揮官を呼ぶ。
彼らはミュルミドンの中でも特に優秀な戦士たちだ。

「配置は理解したな?」

「はっ!」

三人の返事は、機械のように正確だった。

アキレウスの隣には、一人の青年が立っている。
パトロクロス。
幼馴染にして親友。
アキレウスの副官を務める彼は、
アキレウスほどではないが、優れた戦士だった。

「お前たちは、俺が死んだらパトロクロスに従え」
アキレウスが言った。

「縁起でもないことを言うな」
パトロクロスが苦笑した。

少し離れた場所に、老人が立っていた。
ドロプス王ポイニクス。
アキレウスの育ての親。
彼は複雑な表情で、かつての教え子を見つめていた。

「立派になったな、アキレウス」

だが、その目には悲しみが宿っていた。
この戦争で、教え子は死ぬかもしれない。

**第二軍団——オデュッセウス隊**

イタケの兵士たちは、他の軍団ほど派手ではなかった。
だが、その統率は完璧だった。

オデュッセウスの指揮のもと、
彼らは無駄な動きを一切しない。
まるで一つの生き物のように動く。

**第三軍団——ディオメデス隊**

アカイア軍を率いるディオメデスは、
アルゴ船の英雄の一人だった。
その隣には、同じくアルゴ船の英雄
ステネロスが立っている。

「久しぶりの大仕事だな」
ステネロスが笑った。

「ああ」
ディオメデスが頷いた。

「だが、今度の敵は怪物ではない。人間だ」

**第四軍団——大アイアス隊**

サラミス王子、大アイアス。
巨漢の彼は、まるで城壁のようにそびえ立っていた。
その隣には、弟のテウクロスがいる。
弓と近接戦の名手である彼は、
兄とは対照的に細身だった。

「兄者、準備は整いました」

「うむ」
大アイアスが頷いた。

その声は、地を震わすようだった。

## 第三章 諸国の英雄たち

四将以外にも、
各地から名だたる英雄たちが集まっていた。

スパルタ王メネラオスは、妻を奪われた男として、
誰よりも戦意に燃えていた。

「必ず、ヘレネを取り戻す」

彼の目には、炎が宿っていた。

ピュロス王ネストルは、軍の最長老として、
若い戦士たちに助言を与えていた。
その息子アンティロコスとトラシュメデスも、
優れた戦士として知られている。

「戦争は、勇気だけでは勝てぬ」
ネストルが語る。

「知恵が必要だ。そして、何より——」

彼は空を見上げた。

「運がな」

ロクリス王、小アイアスは、
大アイアスと区別するためにそう呼ばれていた。
だが、その実力は本物だ。

オルコメノスからは、二人の王が参加していた。
アスカラポスとイアルメノス。
珍しく国王が二人いる国だ。

ボイオティア軍からは、五人の指揮官が来ていた。
ペネレオス、アルケシラオス、
その兄弟プロトエノル、レイトス、クロニオス。
彼らの軍は、数では劣るが、団結力に優れていた。

コース島からは、
ヘラクレスの孫アンティポスと
その兄弟ペイディッポスが。

クレタ王子イドメネウス、
レムノス王エウネオス、
ペライ王子エウメロス——

名を挙げればきりがない。

だが、特に注目を集めている者たちがいた。

**軍医長マカオンとポダレイリオス兄弟**

トリッケー軍の指揮官でもある彼らは、
医術の天才だった。マカオンは外科、
ポダレイリオスは内科を専門とする。

「戦場では、我々の腕が試される」
マカオンが言った。

「多くの命を救わねばならん」
ポダレイリオスが頷いた。

**木馬の建造者エペイオス**

キュクラデス諸島軍を率いる彼は、
拳闘家としても知られていたが、
何より優れた工匠だった。

「いつか、俺の技術が、
この戦争を終わらせるかもしれんな」

彼は、まだ誰も知らない
「木馬」の構想を、心の中で温めていた。

**弓の名手ピロクテテス**

オリゾン軍を率いる彼は、ヘラクレスから直接、
弓を受け継いだ勇者だった。
だが、運命の悪戯により、
彼はまもなく戦場を離れることになる。

そして——

**三人の乙女**

デロス島から来た彼女たちは、兵站を担当していた。

一人は何でも葡萄酒に変えられる。
一人は何でも穀物に変えられる。
一人は何でもオリーブに変えられる。

魔法の力を持つ彼女たちがいる限り、
ギリシャ軍の補給は尽きない。

「神々の加護か」
オデュッセウスが呟いた。

「だが、敵にも神々がついている」

## 第四章 トロイアの城壁

一方、トロイア。

難攻不落と言われる城壁の上で、
一人の男が海を見つめていた。

ヘクトル。
プリアモス王の息子にして、トロイア軍総大将。

「来るか、ギリシャ軍」

彼の隣には、弟のデイポポスが立っている。

「兄上、準備は整っています」

「うむ」

ヘクトルの目は、哀しげだった。

この戦争は、弟パリスが引き起こした。
メネラオスの妻ヘレネを奪ったことから、
すべてが始まった。

だが、始まってしまった以上、戦うしかない。

トロイアには、多くの英雄がいた。

**実力No.2のアイネイアス**

プリアモスの従兄弟の息子。
母は美の女神アフロディテ。
妻はプリアモスの娘クレウサ。
彼の実力は、ヘクトルに次ぐと言われていた。

**双子の預言者ヘレノスと巫女カサンドラ**

ヘレノスは未来を見通し、
カサンドラは呪われた預言者として、
誰にも信じられない真実を語り続ける。

**多くの王子たち**

パムモン、ポリテス、アンティポス、
ヒッポノオス、トロイトス——

プリアモスには、五十人の息子がいた。
正妻ヘカベの子供たちだけでも、十数人。
他の妻や妾の子供を含めれば、その数は膨大だった。

リュカオン、ポリュドロス、ゴルギュティオン——

そして、神官ラオコーン。
彼は後に、恐るべき預言をすることになる。

**老臣たち**

プリアモスの兄弟である
クリュティオス、ヒケタオン、ラムポス。

そして老臣パントオスとその息子たち
——ヒュペレノル、プリュダマス、エウポルポス。

**アンテノル一族**

特に注目すべきは、老臣アンテノルと
その多くの息子たちだった。

アゲノル、ポリュボス、ラオドコス、
優れた戦術家アルケロコス、
トラキア軍指揮官アカマス、グラウコス、
ヘリカオン、コオン、
トラキア軍指揮官イピダマス——

そして妾の子ペダイオス。

「アンテノル殿の一族だけで、一軍団を作れるな」
デイポポスが苦笑した。

「彼らは皆、優秀だ」
ヘクトルが認めた。

「特にアルケロコスとイピダマスは」

## 第五章 援軍の到来

だが、トロイアの真の強みは、援軍にあった。

**ゼレイア王子パンダロス**

弓の名手。
彼の矢は、決して外れないと言われていた。

**アマゾンの女王ペンテシレイア**

女戦士たちを率いる彼女の到来は、
トロイア軍の士気を大いに高めた。

**エチオピアのメムノン王子**

その武勇は、アキレウスに匹敵すると噂されていた。

**ミューシアとケテイアの指揮官エウリュピュロス**

ヘラクレスの孫。
その血統は、彼に超人的な力を与えていた。

**プリュギア王子アシオス**

ヘカベの兄弟。
親戚としての義理を果たすために参戦した。

**パフラゴニア王ピュライメネス**

**パイオニア王ピュライクメス**

そしてその将軍アステロパイオス。
パイオニア軍最強の戦士。

**トラキア王レソス**

その軍勢は、白い馬に乗り、
まるで雪のようだと言われた。

**リュキア軍指揮官サルペドン**

ゼウスとエウロパの息子。
半神半人の彼は、不死に近い存在だった。

そしてその副官グラウコス。

**カベソス軍指揮官オトリュオネウス**

**イムブリオス**

プリアモスの妾の娘の夫。

「これだけの援軍があれば」
デイポポスが言った。

だが、ヘクトルは首を振った。

「数ではない。
ギリシャ軍には、四将がいる。特に——」

彼は遠くを見た。

「アキレウスが」

## 第六章 予言者の警告

その夜、
両軍のキャンプで、それぞれの預言者が同じ夢を見た。

ギリシャ側のカルカス。
トロイア側のヘレノス。

彼らは見た。

炎に包まれるトロイア。
城壁を越えて侵入する巨大な木馬。
そして、数え切れない死体。

「長い戦いになる」カルカスが呟いた。

「多くの英雄が死ぬ」ヘレノスが呟いた。

二人の預言者は、知っていた。

この戦争が、神話となって語り継がれることを。

そして、ここに集まった英雄たちの名が、
永遠に記憶されることを。

だが、それは——

栄光と共に、悲劇でもあることを。

## エピローグ

夜明け。

アウリスの港から、最初の船団が出航した。

千隻を超える船。
数万の兵士。
数え切れない英雄たち。

彼らは、トロイアへと向かう。

「始まったな」
アガメムノンが呟いた。

「ええ」
オデュッセウスが頷いた。

「十年の戦いが」

「十年?」

「カルカスの予言です。この戦争は、十年続くと」

アガメムノンは笑った。

「十年か。長いな。だが——」

彼は、水平線を見据えた。

「必ず勝つ」

船は進む。

そして、歴史上最も有名な戦争
——トロイア戦争が、今、幕を開けようとしていた。

**——千隻の船を動かした一人の女。
その美貌が、英雄たちの運命を決める——**

(終)

 

# 黄金の息子

## 第一章 海の女神の恐れ

エーゲ海の波間に、一つの宮殿が浮かんでいた。
いや、浮かんでいるように見えた。
海の女神テティスの住まいは、
海と陸の境界に存在する。

「行かせるわけにはいかない」

テティスは、
息子アキレウスの寝顔を見つめながら呟いた。

彼女は美しかった。
かつて、神々の王ゼウスすら、
海の王ポセイドンすら、彼女に求愛した。
だが彼女は拒んだ。
神々の妻になることを。

そして選んだのは、人間の男。
アルゴ船の英雄の一人、プティア王ペレウス。

「あなたほどの男はいなかった」
テティスは微笑んだ。

「神々でさえ、あなたほど美しくはなかった」

ペレウスのイケメンぶりは伝説的だった。
だが、テティスが彼を選んだのは、容貌だけではない。
その誠実さ、勇敢さ、
そして何より、
彼女を一人の女性として愛してくれたからだ。

二人の間に生まれたアキレウスは、
両親の美貌を受け継いでいた。
金髪、碧眼、薄い唇。
引き締まった身体は、まだ少年のものだが、
すでに戦士としての素質を見せていた。

だが、予言があった。

「この子が戦争に行けば、生きては戻れない」

テティスは決意した。
あらゆる手段を尽くして、息子を守ると。

## 第二章 不死の身体

真夜中。
テティスは幼いアキレウスを抱いて、
冥界への入口に立っていた。

「母上、ここは?」

「心配しなくていいの。
あなたを守るために、必要なことよ」

彼女の前には、黒々とした川が流れていた。
ステュクス川。
黄泉の国を流れる、神々すら誓いを立てるこの川。

テティスは深呼吸すると、
アキレウスの踵を掴み、川の中へと浸した。

「うわあっ!冷たい!」

「我慢して。すぐに終わるから」

川の水が、アキレウスの身体に染み込んでいく。
皮膚が、筋肉が、骨が、
まるで金属のように変質していく。

だが、テティスが掴んでいた踵だけは、
川の水に触れなかった。

引き上げると、アキレウスの身体は、
不思議な光沢を帯びていた。

「試してごらんなさい」テティスは小刀を渡した。

アキレウスは恐る恐る、
自分の腕に刃を当てた。
だが、皮膚は傷つかない。
まるで最高級の鎧を纏っているかのように。

「母上!これは!」

「鎧よりも強固な身体。これで、あなたは守られる」

テティスは微笑んだ。
だが、その微笑みには、一抹の不安が混じっていた。
踵。
あの部分だけは、普通の人間のまま。

まあ、踵を狙われることなど、あるまい。

## 第三章 王女たちの中で

数年後。スキュロス島。

リュコメデス王の宮殿には、
美しい王女たちが集っていた。
そして、その中に一人、
異様に美しい「王女」がいた。

「ピュラ様、今日のお召し物もお似合いですわ」

侍女が声をかける。ピュラ
——本名アキレウス——は、ぎこちなく微笑んだ。

女装。母テティスが考えた、
究極の隠蔽策。
戦争の徴募から逃れるため、
美しい王女たちの中に息子を紛れ込ませたのだ。

そして、それが可能だったのは、
アキレウスが尋常でない美貌の持ち主だったからだ。

「ピュラ姉様、一緒に織物をしませんか?」

末娘のデイダメイアが声をかけてきた。
彼女は特に美しく、優しい性格で、
アキレウスは密かに心惹かれていた。

いや、密かではなかった。

夜、二人は密会を重ねた。そして——

「アキレウス様」
デイダメイアが囁いた。
誰もいない場所では、彼女は彼の本当の名を呼んだ。

「私、身籠もったかもしれません」

アキレウスは彼女を抱きしめた。

「心配するな。必ず、お前を守る。子供も」

だが、その誓いを果たす時間は、
残されていなかった。

## 第四章 剣を取る手

ある日の午後、宮殿の中庭に行商人が訪れた。

「美しい王女方!
遠い国から、素晴らしい品々を持ってまいりました!」

初老の商人
——変装したオデュッセウス——が、声高に叫んだ。
その隣には、若い助手——ディオメデス——がいる。

「まあ、素敵!」

王女たちが集まってくる。
アキレウスも、仕方なく加わった。

絹の織物、エジプトの香水、ペルシャの宝石。
様々な品が並べられていく。

王女たちは歓声を上げて、品物を手に取った。

そして、最後に置かれたもの。

一振りの剣。

それは美しかった。
鍛え抜かれた刃、精緻な装飾。
だが、女性の装飾品の中では、明らかに異質だった。

アキレウスの手が、無意識に伸びた。

剣の柄を握る。
その瞬間、身体に電流が走ったような感覚。
これだ。これこそが、自分の持つべきもの。

「見つけたぞ、アキレウス」

オデュッセウスの声が、冷たく響いた。

王女たちが悲鳴を上げる。
アキレウスは、ハッとして剣を手放そうとしたが、
もう遅い。

「待ってください!」
デイダメイアが叫んだ。

「この方は、ただの——」

「王女が剣を取る?」
オデュッセウスが冷笑した。

「それも、宝石や香水を差し置いて、真っ先に?」

アキレウスは観念した。
女装用のヴェールを外すと、金色の髪が現れた。

「見事だ、オデュッセウス」
アキレウスは認めた。

「だが、誤解するな」

彼は剣を高く掲げた。

「俺は、逃げていたわけじゃない。
母が心配するから、ここにいただけだ。本当は——」

アキレウスの目が、戦士の目に変わった。

「戦いたかった。
トロイアで、英雄として名を馳せたかった!」

## 第五章 黄金の鎧

出発の前夜。テティスが息子の前に現れた。

「母上……」

「責めないわ」
テティスは悲しげに微笑んだ。

「あなたは、父の血も引いている。戦士の血を」

彼女は、大きな箱を取り出した。

「炎と鍛冶の神ヘファイストに、
特別に作ってもらったの。開けてごらんなさい」

アキレウスが箱を開けると、眩い光が溢れた。

黄金の鎧。

胸当て、篭手、脛当て、兜。
すべてが黄金に輝き、だが装飾だけではない。
その一つ一つに、神の力が込められている。

「まるで……」
アキレウスが呟いた。

「黄金の聖闘士みたいだ」

「何?」

「いや、何でもない」

アキレウスは鎧を身に着けた。
完璧な fit 感。まるで自分の皮膚のように。

「それと」
テティスが続けた。

「あなたの部下となる者たちを連れてきたわ。
ミュルミドン人よ」

宮殿の外から、
整列した兵士たちの気配が伝わってくる。

「ミュルミドン人?」

「あなたの祖父、アイアコスの民。
元は蟻だった者たち」

テティスは説明した。
かつて、ゼウスが河の神アソポスの娘
アイギナを誘拐し、無人島に住まわせた。
そこで生まれたアイアコスは孤独だった。
だからゼウスは、島の蟻を人間に変えた。
それがミュルミドン人。

「蟻?」

「侮るな。彼らは屈強で、力強く、何よりタフ。
疲れを知らず、命令に忠実。
あなたの父ペレウスがプティアに連れてきた
彼らの子孫が、今、あなたの部下になる」

アキレウスは窓から外を見た。
月明かりの下、整然と並ぶ兵士たち。
その目には、鋼のような意志が宿っている。

「行くのね」
テティスが囁いた。

「ああ」

「生きて帰ると、約束できる?」

アキレウスは、答えなかった。
答えられなかった。

代わりに、彼は母を抱きしめた。

「俺は、英雄になる。
トロイアで、誰もが語り継ぐような、偉大な英雄に」

テティスは泣いた。
息子の肩に顔を埋めて、声を殺して泣いた。

なぜなら彼女は知っていたから。

英雄とは、悲劇と共にあることを。

そして、栄光とは、
しばしば死と引き換えであることを。

## エピローグ

スキュロス島では、
デイダメイアが月を見上げていた。

彼女の腹部は、まだ目立たないが、
確かに新しい命を宿している。

「アキレウス様……」

風が、彼女の髪を撫でた。
まるで、遠くへ去った愛しい人の手のように。

そして彼女は知らなかった。

自分の腹の中で育つ子供——ネオプトレモス——が、
いつか父の仇を討つために、
同じトロイアの地に立つことを。

運命の歯車は、回り始めていた。

黄金の息子、アキレウスを乗せて。

**——神々の予言は、必ず成就する。
だが、英雄は、それでも戦場へ向かう。
なぜなら、それが英雄だから——**

(終)

 

# 求婚者の誓い

## 第一章 狂気の演技

エーゲ海に面したイタケの宮殿に、一隻の船が着いた。
舳先には、ナフプリオの紋章が翻っている。

「パラメデス様のお成りだ」

見張りの声に、宮殿内が慌ただしくなった。
だが、オデュッセウスは動じなかった。
いや、動じないふりをしていた。

彼は妻ペネロペに優しく微笑みかけた。
赤子のテレマコスを抱いた彼女の顔には、
不安の影が落ちている。

「大丈夫だ。計画通りにいく」

オデュッセウスは言ったが、
ペネロペの不安は消えなかった。
彼女の父イカリオスは、
ヘレネの父テュンダレオスの兄弟である。
つまりペネロペとヘレネは従姉妹同士。
かつてオデュッセウスはヘレネに求婚したが、
選ばれたのはメネラオスだった。
その代わりに、
彼は従姉妹であるペネロペと結ばれた。

運命とは皮肉なものだ。
あの時、自分が提案した「求婚者の誓い」が、
今、自分の首を絞めようとしている。

「ヘレネ様がトロイアの王子パリスに奪われた以上、
あの誓いは発動されます」
ペネロペが囁いた。

「あなたも、戦争に行かなければ……」

「行かない」

オデュッセウスは断言した。

「予言を忘れたわけではないだろう?
もし戦争に行けば、二十年は戻れない。
そして帰ってきた時は、
ボロボロの状態だと言われた。
お前と、この子を、
そんなに長く待たせるわけにはいかない」

彼は海岸へと向かった。
そこには、牛と馬を繋いだ奇妙な鋤があった。

## 第二章 天才の洞察

パラメデスが浜辺に降り立った時、
目に飛び込んできたのは異様な光景だった。

イタケの王オデュッセウスが、
牛と馬という全く異なる動物を一つの鋤に繋ぎ、
畑を耕している。
しかも、畑に蒔いているのは麦ではなく、塩だ。

「オデュッセウス王!」
パラメデスが呼びかけた。

オデュッセウスは振り返らず、
虚ろな目で塩を撒き続けた。

「ははは、塩だ、塩を蒔けば……
何が育つ?何も育たぬ!ははは!」

狂人の演技。パラメデスの鋭い目がそれを見抜いた。

この男は、文字を発明し、計量の基準を作り、
サイコロを考案した天才だ。
戦略家としての能力は、
オデュッセウス自身と並び称されるほど。
そんな男を、拙い演技で欺けるはずがない。

「王よ」パラメデスは静かに言った。

「狂気とは便利なものですな。
それを装えば、誓いから逃れられると?」

「塩!塩!塩を蒔け!」
オデュッセウスは叫び続けた。

パラメデスは踵を返し、宮殿へと向かった。
そして、乳母の腕から、幼いテレマコスを受け取った。

「何をなさる!」
ペネロペが叫んだ。

パラメデスは無言で、赤子を抱いて畑へと戻った。
そして、オデュッセウスが耕す畑の真ん中、
鋤の進む道の上に、テレマコスを置いた。

「塩を!塩を蒔……」

オデュッセウスの声が止まった。

鋤が赤子に近づく。
牛と馬が進む。あと少しで——

「やめろ!」

オデュッセウスが叫び、鋤の手綱を引いた。
動物たちが止まる。
彼は転がるように走り寄り、息子を抱き上げた。

「正気に戻られたようですな」
パラメデスが冷たく言った。

オデュッセウスは、
激しい憎悪の眼差しでパラメデスを見た。
だが、もう逃げ道はない。
自分の息子への愛情が、狂気の演技の嘘を暴いた。

「……トロイア遠征に参加しよう」
オデュッセウスは低く呟いた。

「だが、パラメデス。この恨み、忘れぬぞ」

「恨まれるのは慣れております」
パラメデスは平然と答えた。

「あなたの知略は、この戦争に不可欠なのです」

## 第三章 説得の連鎖

オデュッセウスが遠征への参加を承諾すると、
事態は急速に動き出した。

彼は自らの足で、かつての求婚者たちを訪ね歩いた。
心の中では、二十年という予言の言葉が
重くのしかかっていたが、表には出さなかった。

「私も行くのだ。お前だけが逃れられると思うな」

この言葉は、幸せな生活を送っていた
元求婚者たちに、重くのしかかった。

最初は渋っていた者たちも、
オデュッセウスの弁舌と、
何より彼自身が行くという事実に、
次々と陥落していった。

「オデュッセウスほどの知略家が行くのなら……」

「あの慎重な男が参加を決めたのだから、
勝算があるのだろう」

「誓いは誓いだ。破れば、名誉が……」

こうして、かつてヘレネに求婚した者たちが、
一人、また一人と、遠征への参加を表明していった。

だが、まだ決定的に重要な人物が欠けていた。

## 第四章 預言者の言葉

アウリスの港に、
ギリシャ連合軍の船が集まり始めた頃、
一人の男が総大将アガメムノンの天幕を訪れた。

預言者カルカス。

「お前は、トロイア出身だったな」
アガメムノンが言った。

「はい」カルカスは頷いた。

「私はトロイアの滅亡を予見しました。
そして、パリス王子の行為——妻ある客人から、
その妻を奪うという恥ずべき行為に、
反感を抱きました。
だからこそ、祖国を出て、この地に来たのです」

「で、予言とは?」

「この遠征には、絶対に欠かせぬ人物がいます」
カルカスの目が、遠くを見た。

「ペレウスとテティスの息子、アキレウス。
彼なくして、トロイアは落ちません」

「アキレウスか……」
アガメムノンが呟いた。

「あの若武者を、どうやって?」

その時、天幕の入口が開いた。

「その件なら、私にお任せを」

オデュッセウスだった。
彼の顔には、かつての狂気の演技の面影はない。
そこにあるのは、冷徹な戦略家の表情だった。

「アキレウスの母テティスは、
息子を戦争に行かせたくないはずです。
恐らく、何か策を講じているでしょう。
ですが……」

オデュッセウスは不敵に笑った。

「策には、策で対抗するまでです」

彼の心の奥底では、パラメデスへの恨みが、
静かに燃えていた。いつか、必ず、この借りは返す。

だが今は、戦争だ。

二十年。その予言が現実になるかどうかは、
これから始まる戦いにかかっている。

オデュッセウスは、遠くトロイアの方角を見据えた。
そこには、彼の運命が、ギリシャ全軍の運命が、
そして一人の女、ヘレネをめぐる、
神々と人間の壮大な物語が、待ち受けていた。

**——求婚者の誓いは、
こうして果たされようとしていた。
だが、誰も知らなかった。
この戦争が、どれほど多くの英雄たちの
運命を狂わせることになるのかを——**

(終)

 

# 黄金の林檎

## 第五章 — スパルタの客人

**スパルタの王宮は、
トロイアの使節を盛大に歓迎した。**

メネラオス王自らが港で出迎え、パリスの手を取った。

「ようこそ、トロイアの王子殿。我が国へ」

「光栄です、メネラオス王」

パリスは微笑んだ。
彼は礼儀正しく、教養があり、
外交官として申し分なかった。
だがその心の奥では、ただ一つのことだけを考えていた。

**ヘレネ。**

そして彼は、彼女と出会った。

---

**初めて見た瞬間、パリスは息をするのを忘れた。**

ヘレネは、伝説よりも美しかった。

蜂蜜色の髪、エーゲ海のように深い青い瞳、
大理石の彫像のように完璧な顔立ち
――だがそれ以上に、
彼女には何か神秘的な輝きがあった。
神の血を引く者だけが持つ、人間を超えた美しさ。

「トロイアの王子様」

ヘレネが優雅に頭を下げる。

「ようこそ、スパルタへ」

「……は、はい」

パリスは言葉に詰まった。
竪琴を奏で、詩を詠む文化人が、
まるで少年のように赤面していた。

ヘレネは微笑んだが、その目は少し悲しげだった。

彼女は知っていた
――この視線を。欲望と執着と、
所有したいという飢え。
幼い頃から、何度も向けられてきた視線。

**また始まる。**

彼女は心の中で溜息をついた。

---

**九日間、宴が続いた。**

スパルタは豊かな国だった。
ワインが流れ、羊が焼かれ、竪琴が奏でられた。
メネラオス王は寛大な主人で、
パリスたちを心から歓待した。

パリスは毎夜、ヘレネの姿を目で追った。

彼女が笑えば、心臓が高鳴った。

彼女が話せば、他の全ての音が消えた。

彼女が去れば、世界が色を失った。

**恋だった――いや、狂気だった。**

アフロディテの魔法が、既に効き始めていた。

---

**そして十日目、運命が動いた。**

「王よ、急報です!」

伝令が駆け込んできた。メネラオス王の顔が曇る。

「何事だ?」

「あなたの祖父、
カトレウス様がクレタで崩御されました」

静寂が広がった。

メネラオス王は深く息を吐いた。
「……そうか」

祖父の死――それは悲しみであると同時に、
王族としての義務でもあった。
葬儀に参列しなければならない。

「すぐに出発する」

メネラオス王が立ち上がった。
「ヘクトル、お前も来い。イドメネウスにも連絡を」

かくして、スパルタの王族のほとんどが、
クレタへ向けて出発した。

**王宮に残ったのは、王妃ヘレネだけだった。**

---

「申し訳ありません、パリス王子」

ヘレネが謝罪する。
「夫が不在の中、充分なおもてなしができず……」

「いえ」

パリスが微笑む。
「あなたがいてくれるだけで、充分です」

ヘレネの目が、一瞬だけ警戒の色を帯びた。

だがパリスは紳士的に振る舞った。
詩を朗読し、竪琴を奏で、
トロイアの文化について語った。
ヘレネは徐々に心を開き、笑顔を見せるようになった。

**そして十一日目――**

「では、これで失礼します」

パリスが別れを告げた。
「素晴らしい滞在でした。
メネラオス王によろしくお伝えください」

「ええ」

ヘレネが微笑む。
「お気をつけて」

パリスは頭を下げ、船に乗り込んだ。

船は港を離れ、水平線の向こうへと消えていった。

ヘレネは安堵の息をついた。**無事に終わった。**

---

**だが、夜半――**

船が戻ってきた。

静かに。音もなく。

パリスが王宮に忍び込んだ。

そして彼は、ヘレネの寝室に入った。

「……パリス様?」

驚くヘレネ。
だがパリスの目は、もはや理性を失っていた。

**アフロディテの魔法が完成していた。**

「来てください」

パリスが囁く。
その声は甘く、蠱惑的で、抗えない力を帯びていた。

「私と一緒に、トロイアへ」

「で、でも……私には夫が……」

「あなたは私のものです」

パリスがヘレネの手を取る。
「女神が約束したのです。
あなたは私と結ばれる運命なのです」

ヘレネの心が揺れた。

彼女は愛されたかった
――本当に、心から愛されたかった。

メネラオスは優しい夫だった。
だが彼は、ヘレネを**妻**として愛しているのか、
それとも**美しい所有物**として愛しているのか、
ヘレネにはわからなかった。

そしてパリスは、
狂おしいほどの情熱で彼女を見つめていた。

**これが愛なのだろうか?**

いや――これは呪いだった。

アフロディテの呪い。
美貌の呪い。
運命の呪い。

だがヘレネは、もはや抗えなかった。

「……わかりました」

彼女は囁いた。

かくしてヘレネは、パリスと共に船に乗った。

**誘惑されたのか、誘拐されたのか
――それは誰にもわからない。**

---

船は夜の海を進んだ。

だが突然、空が暗くなった。

雷鳴が轟き、波が荒れ狂う。

「嵐だ!」

船員たちが叫ぶ。

これは**ヘラの怒り**だった。

母神ヘラは、パリスを許さなかった。
黄金の林檎の審判で自分を選ばなかった男。
そしてスパルタの王妃を奪った男。

「沈め!」

ヘラが叫ぶ。
「この不義の船を!」

船は木の葉のように揺れ、帆が裂け、舵が折れた。

だがその時――

「お待ちなさい、ヘラ様」

美の女神アフロディテが現れた。

「彼は私の庇護下にあります」

「黙れ、アフロディテ!」

「黙りません」

二人の女神が睨み合う。

そして最終的に、嵐は弱まった
――完全には消えなかったが、
船を沈めるほどではなくなった。

船はアフロディテゆかりの**キプロス島**に避難し、
そこで嵐をやり過ごした。

そして無事に
――いや、「無事」という言葉が
適切かはわからないが
――トロイアに辿り着いた。

---

**「兄上が……ヘレネを連れて帰ってきた!」**

トロイアの街に噂が広がった。

人々は港に殺到した。絶世の美女を一目見ようと。

そしてヘレネが姿を現すと――

「おお……!」

男も女も、老いも若きも、息を呑んだ。

伝説は嘘ではなかった。
この女は、本当に**世界一美しかった。**

「ヘレネ様、万歳!」

「トロイアに栄光を!」

民衆は歓声を上げた。

だがただ一人――

「ああ……ああ……!」

**カサンドラが泣き崩れていた。**

「終わりだ……トロイアは終わりだ……!」

彼女には見えていた。

炎に包まれる街。
血に染まる城壁。
泣き叫ぶ民。そして木馬の影――

だが誰も彼女の言葉を聞かなかった。

トロイアの王族たちも、
ヘレネの美貌に魅了されていた。

プリアモス王でさえ、目を奪われた。

「……なんと美しい」

老王が呟く。
「これほどの女性ならば、
戦争になっても仕方ないかもしれんな」

**悲劇は、こうして始まった。**

---

## 幕間 — 怒れる王

**一方、メネラオスは旅先で知らせを受けた。**

「何だと!?」

メネラオス王が叫ぶ。

「妻が……
ヘレネが、トロイアの王子に誘拐された!?」

伝令は震えながら頷いた。

メネラオスの顔が真っ赤になり、次に真っ青になった。

「許さん……パリスめ……!」

彼は即座にスパルタへ戻った。
そして兄
――**ミュケナイ王アガメムノン**に助けを求めた。

アガメムノンは、ギリシャで最も力のある王だった。
ミュケナイ(ミケーネ)は青銅器文明の中心地であり、
彼はその頂点に立つ男だった。

**関係ないけど、マジンガーZの敵がミケーネ帝国で、
ミケーネ人の末裔とか言ってましたね。**

「落ち着け、メネラオス」

アガメムノンが冷静に言う。

「いきなり戦争を始めるのは得策ではない。
まずは交渉だ。使者を送ろう」

かくして、ギリシャの使者がトロイアへ向かった。

---

**使者はわずか三日でトロイアに到着した。**

これはパリス一行の帰国前だった
――つまり、ヘレネはまだトロイアに着いていなかった。

使者はプリアモス王に謁見した。

「トロイア王よ、
我々はスパルタ王メネラオスの名において、
ヘレネの返還を求めます」

「……ヘレネ?」

プリアモス王が首を傾げる。
「誰だ、それは?」

「スパルタの王妃です。
あなたの息子パリスが誘拐したと聞いております」

「馬鹿な」

プリアモス王が笑った。

「我が息子はまだ帰国していない。
それに、**たかが女一人のために
使者を送るとは情けない**」

使者の顔が強張った。

「……では、返還の意思はないと?」

「返すも何も、まだ来ていないではないか。帰れ」

プリアモス王が手を振る。

使者は追い返された。

---

**だが数日後、
パリスがヘレネを連れて帰ってきた。**

プリアモス王は驚愕した
――が、ヘレネの美しさに魅了され、
もはや返す気はなくなっていた。

そして知らせを受けたアガメムノン王は――

「**何だと!?**」

激怒した。

「交渉を蹴った!? しかもヘレネを返さない!?」

「はい……」

「許さん!」

アガメムノンが拳で机を叩く。

「ただちにトロイア遠征の準備だ! 
ギリシャ全軍を動員する!」

かくして、戦争が始まることになった。

---

**ちなみに、
プリアモス王は決して酷い王ではなかった。**

むしろ彼は、荒れ果てたトロイアを再建した名君だった。

妻が多く、子供が多いのも
――正妻ヘカベとの間に十九人、
最初の妻アリスベとの間にアイサコス、
そして妾たちとの間に合わせて**五十人の息子と
十二人の娘**
――それは放蕩ではなく、
国の繁栄のためだったのかもしれない。

なぜならトロイアは、わずか一年前に
ようやく再建されたばかりだったのだから。

---

**その荒廃を招いたのは、プリアモスの父
――先王ラオメドンだった。**

ラオメドンはとんでもない男だった。

海神ポセイドンに借金をしておきながら、
返済をぶっちぎった。

怒ったポセイドンは海の怪物を送り、
トロイア沿岸を壊滅させた。

ラオメドンは娘ヘシオネを生贄に差し出すことで、
怪物を鎮めようとした。

だがその時、たまたま通りかかったのが
英雄**ヘラクレス**だった。

「怪物を倒してやろう」

ヘラクレスが言った。

「だが報酬として、
トロイアの国宝である**二頭の神馬**をもらう」

ラオメドンは約束した。

ヘラクレスは海の怪物を見事に倒した
――が、ラオメドンは約束を反故にした。

激怒したヘラクレスは、ヘシオネを奪い、
さらに軍勢を率いてトロイアを攻めた。

**暴行と略奪と強姦がまかり通った。**

トロイアは灰燼に帰した。

そして荒れ果てたトロイアを、
一年かけて再建したのがプリアモス王だった。

---

**ちなみに、奪われたヘシオネは、
ヘラクレスの友人でサラミス王テラモンの妻になった。**

そう――パリスが「叔母ヘシオネに会いに行く」
と言っていたのは、このヘシオネのことだった。

すべては繋がっていた。

過去の因縁が、現在の戦争を生んでいた。

そしてこれから始まる戦いは
――**十年に及ぶ地獄**となる。


## 第六章 — 求婚者の誓い

(続く)

 

# 黄金の林檎

## 第四章 — 失われた王子

イーダ山の牧場で、パリスは怒りに震えていた。

「牛が……盗まれた?」

「ええ、若旦那」

老いた羊飼いが答える。
「トロイアの街で競技大会が開かれるとかで、
賞品にするために
役人が勝手に連れて行ってしまいました」

パリスの顔が紅潮した。

彼は温厚な性格だったが、不正には我慢ならなかった。
ケイロンの下で学んだ
――かもしれない――教養は、
正義と公正の価値を教えていた。

「行ってくる」

「若旦那!」

「自分の牛だ。取り戻してくる」

パリスは竪琴を置き、杖を手に取った。
イーダ山からトロイアまで、約百キロメートル。
徒歩で数日の旅だった。

彼は知らなかった
――この旅が、
運命の歯車を回す最初の一歩になることを。

---

**トロイア。**

エーゲ海を見下ろす難攻不落の城塞都市。
高い城壁、堅牢な門、そびえ立つ塔
――この街は、アジアとヨーロッパを繋ぐ
交易の要衝だった。

街は競技大会で賑わっていた。

レスリング、槍投げ、円盤投げ、戦車競走
――勇壮な競技に、観客は歓声を上げる。
そして優勝者には、
立派な牡牛が賞品として与えられる。

**パリスの牛だった。**

「……あれは俺の牛だ」

パリスは競技場の入口で呟いた。

「飛び入り参加は可能か?」

「ああ、構わんぞ」と門番。

「だが素人が出ても恥をかくだけだぞ」

パリスは黙って競技場に入った。

---

**彼は全ての競技で勝った。**

レスリングでは、
体格で勝る戦士たちを技で投げ飛ばした。

槍投げでは、誰よりも遠くに槍を飛ばした。

円盤投げでは、石のように重い円盤を軽々と投げた。

戦車競走では、荒れ狂う馬を見事に御した。

観客は驚愕し、やがて歓声が沸き起こった。

「あの羊飼いは何者だ!」

「見たことのない男だが、まるで英雄のようだ!」

そして最後の競技が終わった時、審判が告げた。

「優勝者――羊飼いのパリス!」

パリスは賞品の牡牛の手綱を取った。
自分の牛だ。
ようやく取り戻した。

だがその時――

「待て」

低く、威圧的な声が響いた。

人々が道を開けると、一人の男が歩み出た。
背が高く、筋骨隆々とし、
青銅の鎧が陽光を反射している。
トロイア随一の戦士――**王子ヘクトル**だった。

「飛び入りの羊飼いが優勝だと?」

ヘクトルの目が、怒りに燃えていた。
「納得できん。俺と一対一で戦え。
それで真の勝者を決めよう」

場が静まり返った。

ヘクトルは、トロイアで最も尊敬される王子だった。
勇敢で、誠実で、民から愛されていた。
だが同時に、プライドが高く、
敗北を認めない男でもあった。

パリスは溜息をついた。

「……戦いたくない」

「臆したか、羊飼い」

「そうじゃない」

パリスが静かに言う。
「あなたと戦う理由がない。
俺はただ、自分の牛を取り戻しに来ただけだ」

「黙れ!」

ヘクトルが剣を抜いた。
「卑怯者め――」

「ヘクトル」

突然、老いた声が響いた。

全員が振り返ると、そこに一人の老人が立っていた。
白髪、長い髭、だが背筋は伸びている。
トロイアの王――**プリアモス**だった。

そして王の隣には、一人の老従者がいた。
従者は震える手でパリスを指差していた。

「陛下……あの若者は……」

「何だ?」

「**王子アレクサンドロスです**」

静寂。

それは、雷鳴のような静寂だった。

「……何だと?」

プリアモス王の顔が蒼白になった。

アレクサンドロス
――それは、パリスの本名だった。

二十年前、王妃ヘカベが夢を見た。
「この子は松明を手に、トロイアを燃やす」
――予言者たちはそう告げた。
プリアモス王は苦渋の決断をした。
生まれたばかりの息子を、
家臣に命じて殺させようとした。

だが家臣は、赤ん坊を殺せなかった。
哀れに思い、イーダ山に捨てた。

その赤ん坊が、羊飼いに拾われて育てられた。

それがパリスだった。

「……息子よ」

プリアモス王が歩み寄る。
目には涙が浮かんでいた。

「本当に、お前なのか?」

パリスは困惑していた。
何が起きているのかわからない。

だが従者が語る
――彼の身体にある印、
捨てられた時に身に着けていた品々、
そして何より、
その顔立ちがプリアモス王に瓜二つであること。

すべてが一致した。

「お帰り、我が息子よ!」

プリアモス王がパリスを抱きしめた。

王妃ヘカベも駆け寄り、兄弟たちも集まった。
ヘクトルでさえ、剣を収めて弟を抱きしめた。

**トロイアの王子が、帰還したのだ。**

祝宴が開かれた。
音楽が奏でられ、ワインが注がれた。
人々は失われた王子の帰還を祝った。

**だがただ一人、浮かない顔をしている者がいた。**

王女**カサンドラ**だった。

---

彼女は美しかった。
黒い髪、深い瞳、
だがその目には常に悲しみが宿っていた。

カサンドラは太陽神アポロンの巫女だった。
そして預言者でもあった
――彼女の予言は必ず当たる。

だが誰も、彼女の予言を信じなかった。

それはアポロンの呪いだった。

---

**かつて、アポロンはカサンドラに恋をした。**

太陽神は全力で愛を注いだ。
贈り物を贈り、甘い言葉を囁き、
そして預言の力を授けた。
「この力を受け取れば、お前は未来を見通せる。
そして俺の妻になるのだ」

だがカサンドラは、不安だった。

神の愛は重すぎた。
束縛されるのが怖かった。
そして彼女は、アポロンの求婚を拒絶した。

アポロンは激怒した。

**「ならば呪ってやる――お前の予言は必ず当たるが、
誰もそれを信じないだろう!」**

かくしてカサンドラは、
真実を語っても信じてもらえない苦しみを背負った。

---

**いやいや、アポロンって太陽神のクセして、
物凄く承認欲求の強いみみっちい男ですねぇ……**

太陽のようにドーンとしていればいいのに、
フラれた途端に呪いをかけるとは。
神としての器が小さすぎる。

---

そしてカサンドラは、今も予言していた。

「兄上……」

彼女がパリスに近づく。

「あなたがトロイアに戻れば、この街は滅びます」

「カサンドラ、またか」

ヘクトルが苦笑する。
「弟が帰ってきたんだ。喜べよ」

「喜べません」

カサンドラの目に涙が浮かぶ。
「私には見えるのです。
炎に包まれる街、血に染まる城壁、泣き叫ぶ民……
すべてはこの人から始まる!」

「……姉上」

パリスが戸惑いながら言う。
「俺は何も――」

「行くのでしょう? スパルタに」

カサンドラが鋭く問う。

パリスの顔が強張った。

「……ああ。
サラミスに嫁いだヘルシオネ叔母に会いに行く。
ついでに、スパルタで外交もしてこようと思っている」

「嘘です」

カサンドラが断言する。

「あなたの目的は**ヘレネ**。
スパルタの王妃を奪うつもりなのでしょう!」

「そんな……!」

周囲がざわめいた。

だがプリアモス王は笑った。

「カサンドラ、お前の預言はいつも大げさだ。
パリスがそんなことをするわけがない」

「そうだ」とヘクトルも。

「弟を信じろ」

誰も信じなかった。

カサンドラは唇を噛んだ。
**また、誰も信じてくれない。**

---

**そしてもう一人、
パリスを止めようとした女がいた。**

泉の女神**オエノネ**
――パリスの妻だった。

パリスが新造船に乗り込もうとした時、
彼女が駆けつけた。

「待って!」

「オエノネ……」

「行かないで」

彼女の目には涙が溢れていた。
「私にも見えるの。
あなたがヘレネを選んだら、あなたは死ぬ。
トロイアも滅びる」

「……」

「お願い。ここに残って。
私と一緒に、イーダ山で暮らしましょう」

だがパリスは、彼女の手を振り払った。

「俺は……王子なんだ」

「パリス!」

「スパルタに行く。これは運命だ」

船が出航した。

オエノネは岸辺に立ち尽くし、泣き続けた。

---

**トロイアは、二人の預言者の言葉を聞いていれば、
滅びを回避できたかもしれない。**

だが誰も信じなかった。

カサンドラの予言は、アポロンの呪いで無視された。

オエノネの予言は、捨てられた妻の嫉妬だと思われた。

そしてパリスは、約九百キロメートルの旅に出た。

トロイアからスパルタまで
――エーゲ海を越え、
ギリシャ本土を南下する長い旅。

途中、サラミス島に立ち寄り、
ヘルシオネ叔母に挨拶をした。
サラミスはサロニコス湾の島で、
スパルタまではさらに約二百キロメートル。

**グーグルマップで見てみると、
移動距離が結構えげつない。**

古代の船で九百キロメートル
――嵐に遭えば命を落とし、
海賊に襲われれば略奪される危険な航海だった。

だがパリスは、恐れなかった。

美の女神アフロディテが約束したのだ
――「世界一の美女をあなたのものに」と。

そして彼は、ヘレネに会うために進んだ。

運命に導かれるように。

破滅へと向かうように。


## 第五章 — スパルタの客人

(続く)
 

# 黄金の林檎

## 第三章 — 美しすぎた女

**ヘレネ。**

その名を口にするだけで、男たちは息を呑んだ。

スパルタの王妃にして、ギリシャ全土で最も美しい女。
いや、**世界で最も美しい女**と讃えられた。

彼女の美貌は、わずか十二歳の時点で
既に伝説となっていた。
「その美しさに千艘の船が惹かれる」
――詩人たちはそう謳った。
まだ少女だというのに、その顔を一目見ただけで、
王も英雄も理性を失った。

美しすぎる、というのは呪いに等しい。

ヘレネはそれを、幼い頃から知っていた。

---

彼女の出自からして、尋常ではなかった。

母はスパルタの王妃レダ。
だが父は――**大神ゼウス**だった。

あの日、レダが川辺を歩いていると、
一羽の白鳥が現れた。
美しく、優雅で、どこか悲しげな瞳をした白鳥。
レダは思わず抱きしめた
――その瞬間、白鳥は彼女を抱いた。

白鳥の正体はゼウス。
またしても、妻ヘラの目を盗んでの情事だった。

かくしてレダは卵を産んだ。
その卵から生まれたのが、
双子姉弟のヘレネとポリュデウケス
――ポリュデウケスは後に**双子座**となる一人です。

因みに双子座でポリュデウケスの兄になる
カストルはレダとスパルタ王テュンダレオスの息子で
こちらもクリュタイムネストラとの双子姉弟でした

もう一つの説では、
父はゼウスだが母は罰の女神ネメシスだという。
ネメシスはゼウスの求愛から逃れようと
ガチョウに化けたが、
ゼウスは白鳥となって彼女を追い、力ずくで襲った。
生まれた卵は羊飼いを経由してレダに渡され、
レダが育てた――と。

どちらにせよ、
ヘレネの血には**神の力**が流れていた。

そしてその力は、**美しさ**となって現れた。

---

**十二歳のヘレネに、最初の災厄が訪れた。**

英雄テセウスが彼女を誘拐したのだ。

アテナイの王にして、
ミノタウロスを倒した伝説の英雄。
だが彼もまた、ヘレネの美しさの前では、
ただの欲望に駆られた男に過ぎなかった。
テセウスは幼いヘレネを攫い、隠れ家に閉じ込めた。

だが彼女の兄たち
――カストルとポリュデウケスが
軍を率いて救出に向かい、ヘレネは取り戻された。

**美しいということは、
常に奪われる側に立つということだった。**

---

やがてヘレネは成長し、その美貌はさらに磨かれた。

当然のように、求婚者が殺到した。

**ミュケナイの王子メネラオス**――誠実で勇敢な王子。

**イタケ王オデュッセウス**――知略に優れた策士。

**クレタ王イドメネウス**――海の覇者。

**ピュロスの王子アンティロコス**――
俊足の優れた戦士。

**パトロクロス**――英雄ペレウスの弟子で
同門のアキレウスの親友。

**ピロクテテス**――家宝ヘラクレスの弓の使い手。

**アガペノル**――アルカディアの王子。

**大アイアス**――サラミスの王子で巨体の豪傑。

**小アイアス**――ロクリスの王子で素早き戦士。

**アルクマイオン**――呪われた英雄。

そして他にも、名も無き王子や貴族たち
――総計**四十五名**が、ヘレネを妻にと望んだ。

全員が、国王か王子か英雄だった。

---

スパルタの王宮は、緊張に包まれた。

求婚者たちは互いを睨み合い、
剣に手をかける者さえいた。
このままでは、ヘレネを巡って内戦が起きかねない。

「これは……まずいな」

養父であるスパルタ王テュンダレオスは頭を抱えた。
誰を選んでも、他の求婚者たちが黙っていまい。

その時、声を上げたのは**オデュッセウス**だった。

「王よ、私に考えがあります」

イタケの王は狡猾な笑みを浮かべた。
彼は知っていた
――自分がヘレネに選ばれる可能性は低いと。
ならば、この状況を利用して別の利益を得ればいい。

「**求婚者条約**を結びましょう」

「条約?」

「左様」

オデュッセウスが告げる。

「ここにいる全員で誓約を交わすのです
――『ヘレネとその夫になった者が
窮地に陥った時には、
求婚者全員が駆け付けて支援する』と」

静寂が広がった。

求婚者たちは顔を見合わせた。
だが、誰も反対しなかった。
自分が選ばれるかもしれない。
その時、他の全員が味方になる
――それは魅力的な保険だった。

「……賛成だ」

メネラオスが最初に頷いた。

「私も」

「俺もだ」

次々と、求婚者たちが同意した。

かくして**求婚者条約**が結ばれた。

この条約こそが、
後にギリシャ連合軍がトロイアに侵攻する
原因の一つとなる
――だが、この時は誰も気づいていなかった。

---

**そしてヘレネは、メネラオスを選んだ。**

なぜ彼を選んだのか。

愛ゆえか。
安定ゆえか。
それとも、養父テュンダレオスの意向か。

理由は誰にもわからない。
ヘレネ自身も、後に語ることはなかった。

ともあれ、婚礼は盛大に執り行われた。
求婚者たちは歯ぎしりしながらも、
条約に従って祝福の言葉を述べた。

スパルタの王宮に、幸せな日々が訪れた
――ように見えた。

メネラオスは優しい夫だった。
ヘレネは美しい妻だった。
二人の間には娘も生まれた。

**取り敢えず、幸せな結婚生活がスタートした。**

だがその幸せは、あまりにも脆かった。

なぜなら――遠く離れたイダ山で、
羊飼いの青年が黄金の林檎を手にしていたのだから。

美の女神アフロディテが、
約束を果たすために動き始めていたのだから。

そして**パリス**が、ヘレネを求めて
スパルタに向かっていたのだから。

---

**運命の歯車が、回り始めていた。**

千艘の船を動かす美女。

四十五人の英雄を虜にした女。

神の血を引く、呪われた美貌。

ヘレネは知らなかった。

自分の美しさが、これほどまでの破滅を招くとは。

自分という存在が、世界を戦火に包むとは。

彼女はただ、静かにスパルタの王宮で暮らしていた
――嵐が来るまで。


## 第四章 — 訪問者

(続く)