第三百七十九弾「水を統べる者」の続きです

 

第二章 二つの戦場
一 水と毒と

森の匂いが、どこかおかしかった。

レンは足を止めた。
旅の道すがら、鼻先を掠めたそれは、
土や草木の匂いに混じった、
もっと生々しいもの――血の匂いだった。
しかも尋常な量ではない。
長年、各地を渡り歩いてきたレンの感覚が、
その異様さを瞬時に告げていた。

木々の合間を抜けると、視界が開けた。
そこに広がっていたのは、地獄だった。

鎧をまとった騎士たちが、
原型を留めぬほどに引き裂かれ、四方に散らばっていた。

千切れた腕、転がる兜、真っ赤に染まった地面。
もはや何人がここにいたのかさえ、
正確に数えることはできなかった。
強烈な血の臭気が、むせ返るほどに立ち込めている。

その惨状の中心に、悪魔がいた。

黒く艶めいた鱗のような肌、
背中から伸びる二対の翼、
額から突き出た捩れた角。
全身から立ち上る陽炎のような魔力の圧が、
周囲の空気を歪ませていた。
悪魔はゆっくりと血に濡れた爪を舐め、
面白くもなさそうに周囲を見渡していた。

(……間に合わなかったか)

レンは奥歯を噛んだ。
だが、瓦礫の陰でかすかに呻き声が聞こえた。
まだ息のある者がいる。
生存者だ。
ならば、話は決まっていた。

レンは静かに、しかし迷いのない足取りで前へ出た。

悪魔がその気配に気づき、億劫そうに視線を寄越した。
人間一人。
取るに足らぬ、とその目が語っていた。

「首を突っ込んでも良い事はないぞ」

低く、地の底から響くような声で悪魔が言った。
唇の端が、愉悦にゆがんで吊り上がる。

「流石にこの状況を見過ごす事は出来ませんね」

レンの声は、驚くほど平静だった。
恐怖の色は一切見当たらない。
それが悪魔の癇に障ったのか、
あるいは単なる余興のつもりだったのか
――言葉が終わるか終わらないかのうちに、
悪魔の口から灼熱の炎が奔流となって放たれた。

轟音とともに大気が焼け焦げる。
だが、その炎がレンに届くことはなかった。
レンの周囲に瞬時に展開された水の膜が、
炎を包み込み、白い蒸気とともに
霧散させてしまったのだ。

「ほう。水魔法使いか」

悪魔の目に、初めてわずかな興味の色が浮かんだ。

「水魔法は最強だと思っているんでね」

レンは淡々と答えた。
その口調には、驕りも気負いもなかった。
ただ、事実を述べているだけだ
という静かな確信があった。

離れた場所で、瓦礫に半ば埋もれながら
この光景を見ていた騎士団の生き残りたちが、
息を呑んで顔を見合わせていた。

「な、なんだあの男は……。
うちの団長でさえ、一瞬でやられたんだぞ、
あの悪魔に……」

震える声で誰かが呟く。
彼らの目に映る光景は、
もはや理解の範疇を超えていた。

悪魔が本格的に動き出した。
両手から次々と繰り出される無数の火槍
――ファイアランス。
一撃一撃が城壁すら穿つほどの
威力を秘めた業火の槍が、雨あられと降り注ぐ。
その連射速度、魔力の奔流には、
寸分の隙も感じられなかった。
悪魔自身、自分のこの猛攻を防ぎきれる者など
いるはずがないと確信していた。

しかし。

ファイアランスがレンに届くことは、
ただの一度もなかった。
放たれる端から、
まるで最初から存在しなかったかのように、
悉く水蒸気となって消え失せていく。
しかも、その消滅までの時間は、
放たれるごとに、目に見えて短くなっていった。

三度目には、着弾の半瞬前に。

五度目には、槍の穂先が悪魔の指先を離れると同時に。

そして、十度目
――悪魔が魔法を発動させたその瞬間、
まだ炎の形すら成す前に、それは掻き消えた。

騎士たちには、もはや何が起きているのかを
目で追うことすらできなかった。
二人の間で繰り広げられているのは、
常人の知覚を遥かに超えた速度の攻防だった。

「お前は……本当に、人間か……?」

悪魔の声から、初めて余裕が消えた。
それほどまでに、レンの魔力量と、
魔法発動の速度は常軌を逸していた。

そして、そのわずかな動揺が生まれた刹那
――悪魔は、自分の体に起きている異変に、
ようやく気づいた。

喉の奥から、何かがせり上がってくる感覚。
次の瞬間、悪魔は大量の血を吐き出していた。
黒く粘つく血が、地面にどす黒い染みを広げていく。
悪魔は膝から崩れ落ち、全身を痙攣させながら、
かろうじて声を絞り出した。

「な、何を……した……」

レンはゆっくりと、悪魔に歩み寄った。
その足取りに、焦りも高揚も見えなかった。

「空気中の水分を、毒に変えました」

静かな声だった。
まるで井戸の水質を説明するかのような、
あまりにも平坦な口調で。

「あなたが呼吸する度に、あなたの肺に、体内に
――もう随分前から、毒は充満しています」

悪魔は信じられないという表情を浮かべた。
だが、もはやそれを言葉にする力すら、
残されていなかった。

「こんな事も出来ますよ」

レンがそう告げたのと同時に
――ぶちり、という鈍く湿った音とともに、
悪魔の右腕が内側から弾け飛んだ。
血肉が四方に飛び散る。
悪魔の喉から、声にならない絶叫が漏れた。

「体内に入った水分を、
膨張させて破裂させることが出来ます」

続けて、左足が。
そして右足が、同じように内側から弾けた。

悪魔はもう、声を上げることさえできなかった。
ただ痙攣する体で、地面に横たわるしかなかった。

レンはその様子を、
感情の読めない目で見下ろしていた。
憎しみでも、快楽でもない。
ただ、なすべきことを、なした
――それだけの静けさが、そこにはあった。

「生きたまま、国に差し出しましょう」

レンがそう呟くと、悪魔の体はゆらりと輪郭を失い、
見えない空間の裂け目へと吸い込まれるように
消えていった。
亜空間への収容。
悪魔の断末魔すら、そこには残らなかった。

戦場に、静寂が戻った。

騎士団の生き残りたちは、ただ呆然と、
その一部始終を見つめることしかできなかった。
誰かが安堵からか、堪えきれずに嗚咽を漏らした。
レンは彼らのもとへ静かに歩み寄り、
傷の具合を確かめ始めた。
その姿は、先ほどまで悪魔を
無感情に打ち倒していた男と、
同一人物とは思えぬほど穏やかだった。



二 スライムの迷宮

同じ頃。

そこから山を二つ越えた先に横たわる迷宮の奥深くで、
一人の冒険者が、
押し寄せるゴブリンの軍勢と対峙していた。

「生きているか! 
僕はフラン、
冒険者ギルドの依頼で君達を助けに来た!」

狭く湿った迷宮の通路に、フランの声が反響した。
数日前に行方を絶った冒険者パーティの捜索依頼
――その現場に踏み込んだ
フランの目に飛び込んできたのは、
無数のゴブリンに取り囲まれ、
蹂躙されつつあるパーティの姿だった。

叫んだが、返事はなかった。
焦燥が胸をよぎる。
だが、フランには焦りを
行動の乱れに変えるつもりはなかった。

フランは短く息を吐くと、
懐から取り出した数匹のスライムを宙へと放った。
その一匹が瞬時に姿を変える
――鋭い翼と鉤爪を持つ鷹の形へと。
スライム・ホーク。
フランはこのスライムを介して、
視覚と感覚を共有することができた。
狭い迷宮の中でも、
これがあれば死角なく生存者を探すことができる。

「探せ」

短い指示とともに、スライム・ホークが羽ばたき、
暗い通路の奥へと飛び去っていった。

それとほぼ同時に、フランの周囲に控えていた
数十匹のスライムたちが、一斉に躍動を始めた。

赤く煮えたぎるようなフレイム・スライムが、
口から火の矢――ファイアローを連続で撃ち出す。
青緑色に光るアシッド・スライムが、
体表から強酸を噴射し、
ゴブリンの皮膚を音を立てて溶かしていく。
白く輝くスノウ・スライムが放つ
アイシクル・ランスが、
次々とゴブリンの胴体を貫いていく。
青白い光を纏うエレクトリック・スライムが、
電撃の網でゴブリンの群れを一瞬で痺れさせる。
その他にも、色も形も異なる無数のスライムたちが、
それぞれの特性を活かした攻撃で、
迷宮の通路を埋め尽くしていく。

そして、フラン自身もまた、戦いの中心にいた。

全身を覆う漆黒のスライム・アーマーは、
どんな刃をも柔軟に受け流し、
なおかつ鋼をも凌ぐ強度を誇っていた。
腰に佩いたスライム・ソードは、
フランの意志一つで刃渡りを自在に伸縮させ、
密集するゴブリンの群れを一薙ぎで切り伏せていく。
さらに、アーマーの各所からは
任意のタイミングでスライム・ソードの刃が飛び出し、
背後や側面から迫るゴブリンをも
容赦なく斬り捨てていった。
死角というものが、フランには存在しなかった。

戦いは、瞬く間に決着した。

通路を埋め尽くしていたゴブリンの群れは、
あっという間にただの死体の山へと変わり果てていた。
鼻を突く血と体液の臭気が、
狭い迷宮内に充満する。
フランはゴブリンの死骸を踏み越えながら、
奥へと進んでいった。

視界の端――正確には、
フランと感覚を共有するスライム・ホークの視界の中に、

冒険者パーティの一人の姿が映った。

「見つけた……」

フランは呟き、足を速めた。

そこに横たわっていたのは、一人の女性格闘家だった。
防具はおろか、衣服の一枚すら残されておらず、
両足は不自然な角度に折れ曲がっていた。
かろうじて意識を保っているのか、
浅い呼吸を繰り返しながら、
虚ろな目を天井に向けている。

一目で理解できた。
逃げられないよう足を折り、
生かしたまま留め置かれていた
――子を成すための道具として。

フランの胸の奥で、何かが冷たく沈んだ。
だが、その感情を表情に出すことはしなかった。
今、この場で必要なのは、
怒りではなく、迅速な対応だった。

フランは静かにスライムの一匹を、担架のような形
――歩く寝台へと変形させると、
彼女の体をそっとその上に横たえた。
そして、もう一匹のスライムで
彼女の体全体を薄く覆った。
これで、これ以上、誰の目に晒されることもない。

残る三人のパーティメンバーは、
もはや助けを呼ぶことすら叶わなかった。
冷たくなった彼らの遺体を、フランは丁寧に、
収納用のスライムの中へと納めていった。
せめて、その体だけでも故郷へ届けてやりたかった。

「あまり、すっきりする解決にはならなかったなぁ……」

誰に言うでもなく、フランは小さく呟いた。
今さら悔やんだところで、
どうにもならないことは分かっている。
だが、それでも――もう少し早く、
この依頼を受けていれば。
そんな詮無い考えが、頭の片隅を掠めて消えていった。

フランは重い足取りで、
ゴブリンの死骸が散乱する迷宮を後にし、
街へと続く道を歩き始めた。

(第二章・了)
 

 

第三百八十四弾「 新しい世界」の続きです

 

 

第十四章 人質
 ミュルミドンを放って一週間が経った頃、
本部から上がってきた解析結果は、
薫たちの想像を超えるものだった。

 備品の持ち出しに関わっていた社員は、複数人。
だが、その誰もが自らの意志で
動いていたわけではなかった。

「家族を、人質に取られてる」

 田中は報告書を読み上げながら、
珍しく眉間に深い皺を刻んでいた。
子供を送り迎えする際の映像。
配偶者が一人で買い物に出る時間帯の記録。
脅迫の手口は、あまりにも周到だった。
狙われた社員たちは皆、
抵抗する術を持たなかったのだ。

「誠和は、L'sの傘下だ。
それを知った上で狙ってきた
――そう考えるのが妥当だろうな」

 田中の声には、怒りとも諦めともつかない、
抑えた響きがあった。
薫は、拳を握りしめずにはいられなかった。
ホワイトボードの一件を「実害はない」
と笑っていた自分の甘さを、
今更のように突きつけられた気分だった。

 ミュルミドンたちは、即座に標的を切り替えた。
備品盗難の手引きをしていた社員たちを追跡し、
その自宅に忍び込み、監視を開始する。
三センチの小さな機体が、壁の隙間から、
換気口の奥から、家族の無事を、
そして脅迫者たちの動きを、静かに記録し続けた。

 だが、監視対象が増えるほどに、
投入していたミュルミドンの数は
目に見えて足りなくなっていった。

「流石に、相手の規模が大きすぎるな」

 田中が端末を睨みながら呟いた。

「本部に応援を出してもらおう」

第十五章 公園の老人
 誠和コーポレーションのビルから歩いて
数分の場所に、小さな公園があった。
噴水も遊具も色褪せた、地味な公園だ。

 その公園のベンチに、
一人の老人が頻繁に腰掛けるようになったのは、
ちょうどその頃からだった。

 薄汚れたコートを着込み、
何かをぶつぶつと呟き続ける老人。
時折、大きく手を振り回すこともあった。
通りかかる主婦や学生たちは、
目を合わせないよう足早に通り過ぎていく。
あの人、大丈夫かしら
――そんな囁きが、
公園の片隅で交わされることもあった。

 老人の肩に、時折、小さな虫のようなものが止まった。それに気づいた者は少なかったが、気づいた者も、
蠅か何かだろうと気にも留めなかった。

 その正体を知る者は、
この街に、ほんの一握りしかいなかった。

 あれは、蠅そのものを模した超小型のドローンだった。

そしてその内部に搭乗しているのは、
他でもない――ミュルミドンだった。

 老人は、エイキュー警備保障から
この任務のために派遣された、
専任のオペレーターだった。
同時に一万体を超えるミュルミドンを操り、
その全ての視覚情報、聴覚情報を並列に処理する。
傍目には独り言にしか聞こえない
ぶつぶつとした呟きは、実のところ、
頭の中を駆け巡る膨大な情報量を、
無意識のうちに口に出さずにはいられない、
いわば「処理の副産物」だった。

 老人の唇は、絶え間なく動き続けていた。
その一言一言の奥で、街中に展開された
一万を超える視点から流れ込む情報が、
瞬時に選別され、優先順位を付けられ、
本部へと送信されていく。
誰にも気づかれることのない場所で、
この街の裏側は、確かに守られていた。

第十六章 武闘会
「本部から情報が来た」

 詰所に戻った田中が、端末の画面を薫たちに向けた。

「社員を脅していたのは、関東最大の暴力団組織
――『武闘会』の生き残りだ」

 その名前には、薫も聞き覚えがあった。
数年前、警察の大規模な摘発によって
事実上の壊滅状態に追い込まれた、かつての巨大組織。
その残党が、まだこんな形で暗躍していたとは。

「なら、俺の出番だな」

 詰所の入口から、聞き慣れない声がした。

 振り返った薫の目に映ったのは、
体格の良い、若い男だった。
鍛え上げられた肩幅と、
どこか飄々とした表情のアンバランスさが、
妙に印象に残る。

「坂本蓮。本部から追加要員として来た」

 自己紹介もそこそこに、
坂本は当然のように話を進めていく。
薫は反射的に一歩前へ出た。

「俺も行きます」

「お前はダメだ」

 田中の声は、
静かだったが有無を言わせぬ強さがあった。

「お前の任務は、
あくまで誠和コーポレーションの警備だ。
持ち場を離れるべきじゃない」

 悔しさを飲み込む薫の耳に、
続けて田中が発した一言が飛び込んできた。

「それに――半年前、あの『武闘会』を
事実上壊滅に追い込んだのは、この坂本蓮だ」

 薫は絶句した。
関東最大と謳われた組織を、
たった一人で。にわかには信じがたい話だった。

「発端は、高校で受けたイジメらしいぞ」

 田中が付け加えたその一言に、薫は言葉を失った。
高校でのイジメが理由で、
暴力団最大組織を壊滅に追い込む
――規模も動機も、あまりに釣り合っていない。

(どれだけ、なんだよ……)

 呆れと戦慄の入り混じった感情で
坂本を見つめた薫は、そこでようやく、
ある事実に気づいた。
彼の顔立ち、その若々しさ。

「……年下、なのか」

 思わず漏れた呟きに、坂本は悪びれもせず、
にっと笑ってみせた。

「そうだけど、何か問題あるか?」

 薫は、答えることができなかった。
自分より若い男が、たった一人で
関東最大の暴力団を壊滅させ、
しかもそれを当然のように語ってのける。
この会社に足を踏み入れてから、
薫は幾度となく「規格外」という言葉の意味を
思い知らされてきたが、
この日また一つ、
その理解の深さを更新することになった。

(以降 続く)

 

新しい世界

第一章 スカウト
 面接室の空気は、想像していたよりも乾いていた。

 櫻井薫は革張りの椅子に浅く腰掛け、
対面に座る女の目を見返していた。
神崎愛。
名刺にはそう刷られていた。
L'sコーポレーション日本支社人事部
シニアリクルーター。
肩書きの長さの割に、纏っている雰囲気は
驚くほど静かだった。
声を荒げるでもなく、圧をかけるでもない。
ただ淡々と、薫の経歴を諳んじていく。

「陸上自衛隊第一空挺団、習志野。
空挺降下課程修了、レンジャー資格保有。
三年前、演習中の事故を契機に退役
――というのが公式の記録ですね」

 薫は答えなかった。
答える必要がないほど、彼女の言葉は正確だった。
正確すぎた。

「ご経歴は、私どもの方でも
把握させていただいております。
ご気分を害されたなら申し訳ありません」

 神崎は薄く笑った。
悪意の色は見えない。
だが薫の背筋を、冷たいものがすっと這い上がった。
この女は、俺が誰にも話していないはずの
細部まで知っている。
演習中の「事故」の、本当の中身まで。

 それでも薫は、椅子から立ち上がらなかった。

 三ヶ月、仕事を探して、履歴書を何十枚と書いて、
そのたびに「即戦力を求めています」
という言葉の裏で断られ続けた。
三十二歳、独身、貯金は底を突きかけている。
プライドを選ぶ余裕など、もうどこにもなかった。

「――で、御社は何を?」

「警備保障業です。国内では、ですが」

「海外では?」

 神崎の目の色が、わずかに変わった。
楽しんでいるようにも見えた。

「海外では、
少し違う呼び方をされることもあります」

 それ以上は語らなかった。
薫もそれ以上は訊かなかった。
訊いても答えないことは、彼女の間の取り方で分かった。

 その日のうちに、
薫はエイキュー警備保障への入社を決めた。

第二章 噂
 エイキュー警備保障――通称AQ。
日本国内では、官公庁や大手企業の常駐警備、
イベント警護を主に請け負う、
いたって「普通」の会社だった。
制服も、装備も、他の同業他社と大差ない。

 だが薫は、現役時代に一度だけ、
この社名を耳にしたことがあった。

 海外派遣中、米軍の特殊部隊上がりだという
連絡将校が、雑談の中でぽつりと漏らした言葉だ。

「AQ? ああ、噂には聞くよ。
うちの部隊を辞めた奴らが何人か流れてる。
装備は……まあ、俺たちが支給される
三世代先を行ってるって話だ」

 冗談だと思って笑い飛ばした。あの頃は。

 実績だけが、伝説のように語られていた。
誰も詳細を知らない。
誰も検証したことがない。
ただ「AQが動けば片付く」という、根拠のない、
しかし妙に説得力のある噂だけが、
業界の片隅で息をしていた。

 入社してひと月も経たないうちに、
薫はその噂の輪郭に、初めて指先で触れることになる。

第三章 ジョン・リース
「今日からお前たちを鍛える。名前はジョン・リース」

 体育館じみた訓練施設に集められた
新人十二名を前に、白髪交じりの男は日本語で、
短く、そう名乗った。
訛りはあったが、発音は明瞭だった。

 元米国海軍特殊作戦部隊SEALs、中隊指揮官。
経歴を耳打ちされた瞬間、
周囲の空気がぴりりと張り詰めるのが分かった。

 サーキットトレーニングと聞いて、
薫は正直、高を括っていた。
習志野で叩き込まれた基礎体力がある。
国内の訓練など、消化試合のようなものだろう、と。

 その驕りは、開始十五分で叩き潰された。

 休む間もなく連続する負荷。
心拍数を落とさせない、意図的に組まれたインターバル。

リースは怒鳴らなかった。
ただ、時計を見ながら、静かに数字だけを告げた。

「あと四十秒」

「あと三十秒。落ちてる。上げろ」

 その平坦な声が、逆に恐ろしかった。
感情を乗せない声は、言い訳を許さない。

 訓練を終え、床に膝をついた薫の肩に、
リースの手が置かれた。

「お前、空挺団か」

「……はい」

「悪くない。だが、これはまだ入り口だ」

 その一言に、
薫は妙な高揚を覚えた自分に気づき、少し戸惑った。

第四章 島
 三ヶ月が経った、ある朝。

「明日、出発だ。荷物は最小限に」

 告げられたのはそれだけだった。
行き先も、期間も、詳細は一切明かされない。

 空港からチャーター機に乗り換え、
さらに小型機を二度乗り継いだ頃には、
薫のスマートフォンはとうに圏外の表示を出していた。
眼下に広がるのは、地図に載っているのかも怪しい、
太平洋に浮かぶ小さな島だった。

 滑走路に降り立った瞬間、薫は思わず息を呑んだ。

 密林に半ば埋もれるように、
しかし明らかに近代的な施設群が広がっていた。
ヘリポート、射撃場、そして正体の知れない、
迷彩ネットに覆われた巨大な格納庫らしきもの。

「ここは?」

 案内に立った現地スタッフに尋ねると、
彼は事もなげに答えた。

「L'sコーポレーション所有の島です。
ここにいるのは、全員関係者ですよ」

 全員関係者。
つまり、この島そのものが、
外の世界から完全に切り離された、
L'sの箱庭だということだ。

 薫は、自分が思っていたよりも
ずっと深い場所に足を踏み入れてしまったことを、
ようやく実感し始めていた。

第五章 前期訓練
 島での日々は、時間の感覚を狂わせた。

 夜明け前の行軍に始まり、射撃、格闘、水中訓練、
そして――空挺降下。

 久しぶりの降下だった。
だが勝手は違った。
HALO、高高度降下低開傘。
HAHO、高高度降下高開傘。
習志野では聞いたことはあっても、
実際に叩き込まれたことのない領域だった。

 酸素マスクを付け、機外に身を投げ出す瞬間の、
あの内臓が浮き上がるような感覚。
眼下に広がる漆黒の海と、豆粒ほどの島影。
恐怖はあった。
だが同時に、薫の中で何かが確かに疼いていた。

 前期訓練の終盤、
十二名いた同期のうち、四名が姿を消した。
理由を訊ねる者はいなかった。
誰もが、自分がその四人の側に回らないことだけを、
必死に願っていた。

 薫は、残った。

第六章 チップ
「後期に入る前に、これを受けてもらう」

 医務室じみた一室で、白衣の男が差し出したのは、
注射器と、小さなインプラント型のデバイスだった。

「情報漏洩防止用の生体チップです。
皮下に埋め込みます」

 薫は思わず腕を引いた。

「そこまでする理由を、聞かせてもらえますか」

「理由は、後期訓練を受けていただければ、
嫌でもお分かりになります」

 男の口調に、脅しの色はなかった。
むしろ淡々としすぎていて、それが不気味だった。

 結局、薫は腕を差し出した。
チクリとした痛みの後、
左の前腕の内側に、小さな違和感だけが残った。

 その意味を、薫は三日後に思い知ることになる。

第七章 未知の兵器
 後期訓練の初日、
格納庫の扉が開いた瞬間、薫は自分の目を疑った。

 ずらりと並んだそれらは、
薫の知るどの制式装備とも似ていなかった。
銃器のようでいて、銃器ではない何か。
外骨格めいたフレーム。
ヘルメットのバイザーには、
見たこともない量の情報が投影されていた。

「まるで……」

「SFの撮影セットみたいだろう」

 振り返ると、リースが薄く笑っていた。

「その感覚は正しい。だが、これは映画じゃない。
お前たちが今日から手足のように扱う、本物の道具だ」

 最初の数日は、失敗の連続だった。
フレームの重心が掴めず転倒し、
照準補助のインターフェースに振り回され、
狙った的の遥か手前を撃ち抜いた。
仲間内から失笑が漏れることもあった。

 だが人体というのは、恐ろしく適応する生き物だった。

一週間、二週間と経つうちに、薫の身体は少しずつ、
その異質な重さと、異質な光を、受け入れ始めていた。

 訓練は、地獄のようにきつかった。
それは間違いない。
だが薫は、疲労困憊の身体の奥で、
奇妙な高揚感が消えないことに気づいていた。
子供の頃、テレビの中の特撮ヒーローに憧れた、
あの純粋な興奮。
それに驚くほどよく似た感情が、
この年になって、
こんな形で自分の中に戻ってくるとは思わなかった。

第八章 誓い
 後期訓練最終日。
夕陽が格納庫の鉄骨を赤く染める中、
リースは整列した訓練生
――残ったのは、わずか六名だった
――の前に立った。

 いつもの平坦な声ではなかった。
低く、しかし確かな重みを持った声だった。

「この訓練を終えたお前たちは、これから先、
ただの警備員では済まされない仕事に
就くこともあるだろう。
工作員のような真似を、
求められる日も来るかもしれない」

 薫は、拳を握りしめた。

「だが、私が保証する。
お前たちは、どんな困難な状況に直面しても、
必ずそれを乗り越え、任務をやり遂げられる」

 言葉そのものは、単純だった。
だが薫の胸の奥に、その一言一言が、
確かな重量を持って沈み込んでいくのが分かった。

 三ヶ月前、
面接室で神崎愛の視線に晒されていた自分と、
今この場に立つ自分とは、もはや別人だった。
何が変わったのか、正確には言葉にできない。
ただ一つ、確かなことがあった。

 自分は、遥かに遠い場所まで来てしまった。
そして、もう後戻りする道は、
どこにも残されていない。

第九章 誠和コーポレーション
 島から本土に戻って最初に薫の手元に届いた辞令は、
拍子抜けするほど平凡なものだった。

「配属先、誠和コーポレーション支社ビル。常駐警備」

 あの未知の兵器群を、
あの重力すら狂わされるような降下訓練を経て
辿り着いた先が、ただのオフィスビルの
警備だという事実に、薫は正直、戸惑いを隠せなかった。

だが辞令を渡した人事担当は、
それ以上の説明をくれなかった。
「まずは現場に慣れることです」
――そう言われれば、頷くしかなかった。

 誠和コーポレーションは、
L'sコーポレーングループの一角を占める企業だった。
表向きは何の変哲もない、中堅の総合商社。
だが、L's系列という言葉の重みを、
薫はもう痛いほど理解していた。
島で見たあの光景の裏に、
この「普通のビル」がどう繋がっているのか。
それを知る術は、今の薫にはまだない。

 初出勤の朝、
警備員詰所で薫を迎えたのは、
二人の人間と、十数体の機械だった。

「田中誠だ。よろしく」

 差し出された手は、分厚く、節くれ立っていた。
歳の頃は五十過ぎ。
いかにも「現場叩き上げのベテラン」といった風貌で、
笑うと目尻に深い皺が寄る。
第一印象は、どこにでもいそうな、
人の好さそうな中年男だった。

「山崎雛子です」

 もう一人、同期として紹介された女は、
薫よりいくつか年下に見えた。
姿勢がいい。無駄のない立ち方だった。
だが薫の記憶にある限り、
あの島の顔ぶれの中に、彼女の姿はなかった。

(別ルートの採用か……)

 訊ねようとして、やめた。
訊いたところで、答えが返ってくるとは思えなかった。
この会社では、疑問を飲み込む癖を覚えるほうが
早く馴染めるのだと、薫はすでに理解し始めていた。

 詰所の隅、
壁際に整然と並んでいるのは、
人の背丈ほどもある警備ロボットだった。
夜間はこれが十数体、館内を自律巡回する。
人間の警備員はあくまで、その補完だという。

「変わった機械が多い職場だろう」

 田中がそう言って笑った。
薫は曖昧に頷くしかなかった。

第十章 中庭の清掃員
 巡回のたびに、薫は必ず中庭を通った。
決まったルートというわけではなかったが、
いつの間にか足がそちらに向くようになっていた。

 理由は単純だった。
そこにいる清掃員の老人が、
会うたびに深々と頭を下げて挨拶をしてくれるからだ。

「ご苦労様です」

 枯れ木のような、しかしよく通る声だった。
皺の刻まれた顔に浮かぶ笑みは、
どこか達観したような穏やかさを湛えていた。
中庭の植え込みを丁寧に手入れするその姿を見るたび、

薫の中の張り詰めたものが、わずかに緩んだ。

 薫は知らなかった。
誰も、この会社で働く社員のほとんどが、
知らなかった。

 この老人こそが、
誠和コーポレーション代表取締役会長、
三原蒼介その人であることを。

 三原は滅多に表舞台に姿を現さなかった。
写真の一枚もまともに出回っていない。
ゆえに、彼がこうして清掃員の作業着に身を包み、
モップを片手にビル内を歩き回っていても、
誰一人としてその正体に気づく者はいなかった。

(現場の空気は、現場に立たねば分からぬ)

 それが三原の信条だった。
社員一人一人の顔つき、交わされる何気ない会話、
廊下の空気の澱み
――報告書には決して上がってこない、
生きた情報。
それを自らの足と目で拾い集めることを、
三原は何十年と続けていた。

 薫が中庭で見せる、少し照れたような、
それでいて律儀な会釈。
三原はその一つ一つを、静かに記憶に刻んでいた。

第十一章 戻ってくる備品
 異変は、ごく些細な形で表面化した。

 備品が消える。
数日後、必ず戻ってくる。
ホワイトボード、応接室の置き時計、給湯室のポット
――失われた物品はいずれも、
何事もなかったかのように元の場所に収まっていた。

「盗まれてないなら、別にいいんじゃないですか」

 昼の休憩時間、山崎がそう言うのを、
周囲の何人かも頷いた。
実害はない。
盗難届を出す必要もない。
ビル管理の日常に紛れ込んだ、ちょっとした怪現象
――大多数は、そう片付けようとしていた。
薫自身も、正直なところ同じ意見だった。

 だが田中だけは、違った。

「戻ってくる、ってところが引っかかる」

 休憩室の隅で、田中は湯呑みを片手に、
誰へともなく呟いた。

「盗む理由がなくて、それでも一度は持ち出される。
持ち出された物には、何かされてる可能性がある
――そう考えるのが筋じゃないか」

 その一言に、周囲は苦笑した。
考えすぎですよ、田中さん。
そんな声が飛んだ。
田中は反論しなかった。
ただ、翌日には戻ってきたばかりの
ホワイトボードを一枚、誰にも告げずに回収し、
エイキュー警備保障の本部に送っていた。

 数日後、返ってきた回答は「異常なし」。
それで一件落着
――誰もがそう思った、その日の終業後だった。

「薫、ちょっと付き合ってくれ」

 田中に呼び止められた薫は、
そのまま彼の自宅へと足を運ぶことになった。

第十二章 盗聴器
 田中の自宅は、ビルから電車で三十分ほどの、
ごく平凡な住宅街にあった。
玄関先で薫を迎え入れると、
田中はリビングのカーテンを閉め、声を落とした。

「本部からの回答、あれは嘘だ」

「……え?」

「異常なし、なんて出てない。
俺個人のルートで、もう一度別の班に調べさせた。
結果――ホワイトボードの枠の中に、
盗聴器とカメラが仕込まれてた」

 薫は言葉を失った。
自分も、戻ってきたホワイトボードを目にしていた。
手に取って、隅々まで眺めもした。
だが、異常らしきものは何ひとつ見つけられなかった。

「俺も見ました。何も、違いなんて……」

「気付かなくて当然だ」

 田中の声に、薫を責める響きはなかった。

「国家情報機関レベルの装備だぞ。
普通に目視しただけで見破れたら、
そもそも情報機関なんて商売として成り立たない」

 その言葉が、薫の胸のどこかに小さく突き刺さった。
自分はまだ、この世界の「普通」の水準すら、
正確に測れていない。

 田中は机の引き出しを開け、
何かを取り出すと、薫の目の前にそっと置いた。

 体長三センチ。
精巧に作り込まれた、人型の小さな機械だった。
金属とも樹脂ともつかない外殻が、
リビングの照明を鈍く反射している。
薫はそれを見て、思わず身を乗り出した。

第十三章 ミュルミドン
「これは……」

「ミュルミドン。
監視用の小型人型ドローンだ」

 田中は、掌の上でそれを軽く転がしながら、
淡々と説明を始めた。

「背中の羽根、見えるか? 折りたたみ式だ。
展開すれば長距離の滑空ができる。
各種センサーで映像と音声を記録して、
リアルタイムでこちらに電送してくる。
それだけじゃない――小型のレーザーを積んでて、
簡単な工作作業もこなせる」

 薫は言葉もなく、その小さな機体を見つめていた。
三センチという大きさが信じられないほどの機能が、
そこには詰め込まれているという。

「これを、百体――ビル内に放って、犯人を捜す。
本部で決まったことだ」

「百体もですか」

「多すぎると思うか? 
だが、あのビルの広さと、
相手の技術レベルを考えれば、
これくらいの物量で網を張らないと逃げられる」

 田中は言葉を切り、まっすぐに薫を見た。

「会社支給のスマホに、
ミュルミドンからの情報が随時送られてくる。
見逃すな」

「……はい」

 答えながら、薫の胸の内では、
恐怖よりも別の感情が膨らみ始めていた。
三センチの機体一つに、
国家機関級の技術が惜しげもなく注ぎ込まれている。
それを百体単位で、たかがオフィスビルの
備品盗難という些事に投入する。
この会社の技術力と、
その底が知れない層の厚さを、
薫は今、また一つ思い知らされていた。

 興奮に似た感情を、薫は自分でも持て余していた。
恐ろしい世界に足を踏み入れたはずなのに、
その恐ろしさの輪郭を知るたびに、
なぜか心のどこかが逆に静かに昂ぶっていく。

(以降 続く)

第三百八十弾「 掌打」

第三百八十一弾「 掌打 ―― 第二章 遠き一撃」

第三百八十ニ弾「 掌打 ―― 第三章 名刺」

の続きです

 

# 掌打 ―― 第四章 家族

 有澤麗華という少女が、生まれてこの方、
家族に愛された記憶は一度もなかった。

 物心ついた頃にはもう、その序列は決まっていた。
両親――父・正義と母・精華――が向ける眼差しは、
常に妹の優華にだけ注がれていた。
麗華は、そこに存在しないも同然だった。
誠実であること。
真面目であること。
優しくあること。
努力を惜しまないこと。
麗華が積み重ねてきたそれらの美徳は、
この家の中では何の価値も持たなかった。
学校の成績は常に上位で、友人も多かった。
だが、そうした「よそでの評価」が
家に持ち帰られることは一度もなかった。
持ち帰ったところで、
誰も見ようとしなかったからだ。

 父はギャンブルに溺れ、母は浮気と浪費を繰り返した。

稼いだ金は右から左へと消えていき、
家計は常に火の車で、返しきれない借金が
雪だるま式に膨らんでいた。
それでも両親は、優華の我儘だけは決して拒まなかった。

ブランドの服、最新のスマートフォン、
欲しいと言えば何でも与えられた。
その一方で、麗華に与えられるものは、
何もなかった。

 甘やかされ続けた優華は、
当然のようにねじ曲がって育った。
我儘で、自分勝手で、横暴で、
他人の痛みというものを想像する力
そのものが欠落していた。
努力という言葉の意味を知らず、
楽をすることばかりを考え、
そのためなら誰にでも媚を売った。
学校では体を使って上級生や教師に取り入り、
次第に彼女に意見できる人間が誰もいなくなっていった。

その代わりに、優華の標的として選ばれたのが、
姉の麗華だった。

 いじめは、じわじわと、
しかし確実に麗華の日常を侵食していった。

 長く伸ばしていた黒髪は、ある日ペンキをかけられ、
切り落とすしかなくなった。
今では肩にも届かない、不揃いなショートヘアだ。
制服の下の肌は、いつも青黒い痣で埋まっていた。
殴られ、蹴られ、物を投げつけられる。
それが日常になると、痛みへの感覚さえ麻痺していく。
家に帰れば、そこにも安らぎはなかった。
両親からの暴言と、時には手も出る折檻。
優華からの理不尽な命令。
それでも麗華は、そこで生きていくしかなかった。
学費と生活費を自分で稼ぐために、
アルバイトを三つ掛け持ちしながら。

 その日も、麗華は自分の部屋で横になっていた。

 昨夜、階段の上から突き落とされたのだ。
優華の機嫌を損ねたという、それだけの理由で。
受け身を取る間もなく体が階段を転がり落ち、
右足に鈍い衝撃が走った。
立ち上がろうとした瞬間、足首から膝にかけて、
燃えるような激痛が突き抜けた。
骨が折れている。
素人目にも分かるほど、明らかな異変だった。

 それでも、病院には連れて行ってもらえなかった。

「そんなの放っておけばいいでしょ」

 母の精華は、
麗華の足など一瞥もせずにそう言い捨てた。

 朝になり、優華が部屋のドアを乱暴に開けた。

「ちょっと、買い物行ってきてよ。
お菓子とジュース買ってきて」

「……足が、痛くて」

「は? 知らないし。あんたが自分で勝手に転んだんでしょ」

 抗弁する気力も残っていなかった。
麗華は財布だけを掴み、部屋着のまま、
折れた足を引きずるようにして家を出た。
一歩踏み出すたびに、
視界が白く点滅するほどの痛みが走る。
それでも、優華の命令を無視すれば、
もっと恐ろしいことになる。
それだけは経験で知っていた。

 近所のコンビニまでの、
普段なら五分の道のりに、
その日は二十分近くかかった。

 ◆

 その夜、五郎はレジに立っていた。

 自動ドアの開く音に顔を上げた瞬間、
五郎の中で何かが凍りついた。

 入ってきたのは、若い女性だった。
だが、その姿は明らかに異常だった。
着ているものは薄汚れた部屋着で、
あちこちが擦り切れている。
右足を庇うように、体をくの字に折り曲げながら、
壁に手をついて一歩ずつ進んでいる。
短く切り揃えられた髪の隙間から見える顔は、
脂汗にまみれ、唇の色を失っていた。

「――大丈夫ですか!」

 五郎はレジを飛び出していた。
考えるより先に、体が動いていた。

 声をかけたのとほぼ同時に、
女性の体がぐらりと傾いだ。
膝から力が抜け、崩れ落ちる寸前だった。
五郎は間一髪でその体を支え、床にゆっくりと横たえた。

触れた腕の細さに、五郎は言葉を失った。
骨が浮くほど痩せている。
それに――服の袖からわずかに覗く肌に、
消えかけた痣と、
新しい痣が幾重にも重なっているのが見えた。

「すみません……ご迷惑、を……」

 女性は震える声で謝罪の言葉を紡ごうとしていた。
この状況で、なぜ謝るのか。
五郎には理解できなかった。

「喋らなくていいです。今、救急車呼びますから」

 五郎はポケットからスマートフォンを取り出した。
その拍子に、一枚のカードが床に滑り落ちた。

 **L'sコーポレーション 人事部 金澤桜子**

 あの名刺だった。
財布に入れたつもりが、
いつの間にかポケットに移っていたらしい。
落ちたそれを見た瞬間、五郎の指が動いた。
一一九番ではなく、名刺に刷られた番号を押していた。

「……あの、金澤さん。石川です。
すみません、急で……目の前で女性が倒れて、
酷い怪我をしていて。助けてもらえませんか」

 電話の向こうで、金澤桜子は一瞬の沈黙の後、
落ち着いた声で状況を尋ね、指示を出した。
救急車はすでに呼んだか。
分かりました、こちらでも把握します。
今から向かいます。
搬送先が決まったら教えてください。

 その声の確かさに、五郎は少しだけ安堵した。

 救急車が到着するまでの間、
五郎は店長に事情を説明し、
病院までの同乗の許可をもらった。
幸い、今夜はもう一人シフトに入っていた。
五郎は救急隊員に女性を託し、
自分もストレッチャーの傍らに乗り込んだ。

 サイレンの音の中、女性は薄く目を開けて五郎を見た。

「どうして……知らない人なのに」

「知らない人でも、目の前で倒れそうなら助けます。
それだけです」

 女性は、それ以上何も言わなかった。
ただ、その目に微かな涙が浮かんでいるのを、
五郎は見て見ぬふりをした。

 ◆

 病院に到着すると、
すでに金澤桜子がロビーで待っていた。

 夜だというのに、
彼女の身なりには一分の乱れもなかった。
スーツ姿のまま、五郎の姿を認めると、
まっすぐに歩み寄ってきた。

「石川さん。よく連絡をくださいました」

「あの……いきなりすみません。
他に頼れる人が思いつかなくて」

 五郎は麗華が処置室へ運ばれていくのを
見送りながら、経緯を話した。
コンビニに現れた時の姿。
足の状態。
体中の痣。
そして、名刺が落ちたこと。

「……もし、これで俺の評価が下がるなら、
それでもいいです。放っておけなかったので」

 五郎は、そう付け加えた。
スカウトの話を保留にしたまま、
勝手に名刺の番号を使った。
常識で考えれば、
褒められた行動ではないかもしれない。
だが後悔はしていなかった。

 金澤桜子は、その言葉に僅かに目を細めた。

「評価が下がる、ですか。
石川さん、それは違います」

 彼女の声には、迷いがなかった。

「今、そんなことを気にする必要はありません。
あなたは正しい判断をされました」

 そう言うと、金澤桜子はどこかへ電話をかけ始めた。
短いやり取りの中で、彼女は麗華の氏名、住所、
そして家族構成までもを、
驚くほど短時間で調べ上げてしまった。
五郎にはその手段も、
その速さの意味も分からなかった。
ただ、この女性が「ただの人事担当」ではない
ということだけは、はっきりと理解した。

 やがて金澤桜子は、
麗華の家族に連絡を取ったことを五郎に告げた。

「もうすぐ、ご家族がいらっしゃいます」

 その言葉に、五郎は素直に安堵した。
家族が来れば、麗華はきっと守られる。
そう思っていた。

 だが、その予想は――あまりにも、甘かった。

 ◆

 一時間ほどして、
処置室の外の待合スペースに、
三人の人物が駆け込んできた。

 中年の男女と、麗華と歳の近そうな若い女。
父の正義、母の精華、妹の優華だと、
五郎はすぐに察した。

 しかし、その三人の表情に、
娘を、姉を案じる色は一切なかった。

「はあ? 骨折? 何やってんのよ、あの子は」

 母の精華が、開口一番に吐き捨てた声だった。

「こっちは忙しいのに、わざわざ病院まで来させて。
迷惑にもほどがあるでしょ」

 父の正義も、苛立たしげに舌打ちをした。

「治療費、いくらかかるんだ。
まったく、金食い虫が」

 優華は優華で、退屈そうにスマートフォンを
いじりながら、五郎の方を一瞥もせず呟いた。

「あたし、買い物もまともにできないとか、
使えなすぎ」

 五郎は、自分の耳を疑った。

 目の前の光景が、理解できなかった。
娘が骨を折って運ばれてきたというのに、
この三人の口から出てくるのは、心配の言葉ではなく、
苛立ちと非難だけだった。
まるで、故障した家電の修理を
面倒がっているような態度だった。

 ――この人達は、本当に家族なのか?

 その疑問が、五郎の中でぐるぐると渦を巻いた。

 これまで五郎の中にあった「家族」の像は、
漠然としたものだった。
祖父との静かな暮らし。
厳しくはあったが、確かに自分を見てくれていた背中。
世間で言われる「家族」というものは、
多少の差はあれど、
基本的には互いを案じ合うものだと、
無意識に思い込んでいた。

 だが、それは思い込みに過ぎなかったのだと、
五郎は今、目の前の光景で思い知らされていた。

 ――そういえば、
統計上、殺人事件で最も多いのは親族間の犯行だと、
何かで読んだことがある。

 家族とは、最も近くにいる分だけ、
最も刃を向けやすい相手にもなり得る。
だが、優しい両親の下で育った人間は、
その事実を実感として理解できない。
ドラマや物語の中で、
両親というものは必ず子を案じる存在として描かれる。
それが当たり前だと思い込んで、
大人になっていく。

 だが、現実はそうではない。
世界には、実の親に虐げられ、見捨てられ、
時には命を奪われる子供が、想像を絶するほど存在する。

麗華の家族は、まさにその一例に過ぎなかった。
ただ、それが自分の目の前で起きるまで、
五郎はその事実を、
他人事の知識としてしか知らなかったのだ。

 やがて、松葉杖をついた麗華が、
看護師に付き添われて処置室から出てきた。
ギプスで固定された右足を庇いながら、
ぎこちない足取りでこちらへ向かってくる。

 その姿を見るなり、正義が声を荒らげた。

「お前、何で病院なんか来てんだよ! 
こっちに迷惑かけて!」

「わざわざ病院まで来させて、時間を無駄にさせて」

 精華も続けて非難の声を浴びせる。

「ただの捻挫でしょ、大袈裟なのよ」

 優華までもが、白けた顔でそう吐き捨てた。

「買い物、結局行けてないんだけど。
使えなさすぎでしょ」

 麗華は俯いたまま、何も言い返さなかった。
ただ、慣れた仕草で体を小さく縮めていた。
反論すれば、後でもっと酷い目に遭う。
その学習が、彼女の体に染みついているのが、
傍から見ていても分かった。

 五郎の中で、何かが音を立てて軋んだ。

 気づけば、麗華と家族の間に、
体を滑り込ませていた。

「――彼女、足を骨折してるんです。
捻挫じゃありません」

 努めて冷静な声を出したつもりだった。
だが、内側で渦巻くものは、決して静かではなかった。

「あぁ? 何だお前」

 正義が五郎を睨みつけた。

「関係ない奴が口出すんじゃねえよ。
家族のことだ、引っ込んでろ」

「家族の、こと……」

 五郎はその言葉を、口の中で反芻した。
目の前で娘を罵倒し、その怪我を「大袈裟」
と切り捨てる人間が、家族という言葉を
使う資格があるのか。
喉元まで出かかった言葉を、
五郎はかろうじて飲み込んだ。
ここで自分が激昂したところで、
麗華の状況が良くなるわけではない。

「石川さん」

 そこに、静かな声が割り込んだ。
金澤桜子だった。

 彼女は正義たちの前に進み出ると、
手にしていたタブレット端末に視線を落としながら、
淡々と告げた。

「有澤麗華さんの身体には、今回の骨折以外にも、
複数の陳旧性の外傷が確認されています。
栄養状態も、標準を大きく下回っています。
麗華さんはまだ在学中の未成年です。
これは、警察と、学校を通じての児童相談所
――どちらにも連絡が必要なレベルかと思われます」

 その瞬間、正義と精華の顔色が、目に見えて変わった。

「な、なんだよそれ。大袈裟だろ、そんなの」

「そうよ、ちょっと躾で叩いたことは
あるかもしれないけど、
それくらいどこの家庭でも……」

 言い訳を重ねる二人の声は、
どんどん早口になり、どんどん軽くなっていった。
優華だけは、面倒事から距離を置くように、
興味なさそうな顔で視線を逸らしていた。

「あたし関係ないし」

 金澤桜子は、その反応の一つひとつを、
感情のない目で見つめていた。
そして、静かに――しかし、はっきりと告げた。

「今夜、麗華さんはホテルでお休みいただきます。
ご家族の皆様は、一旦お引き取りください」

 その声は、決して大きくはなかった。
怒鳴ってもいなければ、脅してもいない。
だがその一言が発せられた瞬間、
待合スペースの温度そのものが、
数度下がったような錯覚を、
その場にいた誰もが覚えた。

 金澤桜子の表情は、笑顔ですらなかった。
ただ、凪いだ水面のように、
何の感情も映していなかった。
その静けさが、正義たちの体を、芯から凍りつかせた。

「……わ、分かりました」

 あれほど威勢のよかった正義が、
蚊の鳴くような声でそう答えた。
精華も、頷くことしかできなかった。
優華だけが不服そうに口を尖らせていたが、
それ以上の反発はしなかった。

 三人は、逃げるようにその場を後にした。

 五郎は、その一部始終を、言葉もなく見つめていた。
あの権力的で理不尽な家族が、
金澤桜子のたった一言でこうも簡単に萎縮する。
それがどういう理屈で起きているのか、
五郎には分からなかった。
ただ、この人はやはり、ただの人事担当ではない
――その確信だけが、じわりと胸に広がっていった。

 我に返った五郎は、慌てて頭を下げた。

「あの……本当に、ありがとうございました」

「いいえ」

 金澤桜子は、いつもの穏やかな笑顔に戻っていた。
先ほどまでの冷たさが嘘のようだった。

「知らせてくださって、ありがとうございます」

 その言葉に、五郎は小さく頷いた。
だが、胸の中には、感謝とは別の感情が、
静かに渦巻いていた。

 自分には、あの右手がある。
触れれば骨を砕き、
振り下ろせば遠く離れた人間さえ打ち倒す、
得体の知れない力。
だがその力は、今夜、麗華を救う役には
一切立たなかった。
倒れた彼女を支えることはできても、
彼女が抱える理不尽そのものを打ち砕く力は、
五郎の手の中にはなかった。

 殴っても、壊しても、意味がない相手がいる。

 五郎は、自分の右手を、静かに握りしめた。

 病院の窓の外、
夜はまだ深く、明ける気配はなかった。
 

 

第三百八十弾「 掌打」

第三百八十一弾「 掌打 ―― 第二章 遠き一撃」

の続きです

 

 

# 掌打 ―― 第三章 名刺

 警察署での時間は、五郎が身構えていたよりも
ずっと短かった。

 取調室というほど物々しい部屋ではなかった。
事情聴取用の小部屋に通され、机を挟んで座り、
同じことを二度、三度と繰り返し訊かれただけだ。
何時に出勤したか。
ワンオペになった経緯は。
犯人が入店した時刻は。
かごに何を入れていたか。
どのように逃走したか。
追いかけてから、どうなったか。

 五郎は、そのすべてに同じ答えを返した。

 走っていた。
急に崩れるように倒れた。
転んだのだと思った。

 嘘をつき通している、
という緊張は不思議なほどなかった。
何度訊かれても答えが変わらないのは、
五郎が本当にそれ以上のことを説明できないからだ。
自分の見た通りを述べている。
ただ、見た通りのことと、実際に起きたことの間に、
誰にも説明できない断絶があるだけだった。

 午前六時過ぎ、
病院に搬送された男の意識が戻ったという連絡が入った。

 男の供述は、五郎にとって幸運なものだった。
店から商品を持ち去ったこと、
必死に逃げていたこと、
途中で何が起きたのか自分でも分からないこと。
そして――追ってきた店員とは、
一度も接触していないこと。
争ってもいない。
触れられてもいない。
背後に人の気配すら感じなかった、と。

 現場の防犯カメラの映像も、それを裏づけていた。
五郎が店を出た時点で、
犯人との距離はすでに絶望的に開いていた。
人間の走力で追いつける距離ではない。
国道沿いの店舗のカメラにも、
走る男の姿と、はるか後方にぽつんと立っている
五郎の姿が映っているはずだった。
物理的に、五郎には何もできなかった。

 だから、これは事故だ。

 そう結論づけられかけた、その時だった。

「――納得いかねえんだよな」

 部屋に入ってきたのは、痩せた中年の刑事だった。
よれたスーツに、無精髭。
目だけが異様に鋭い。
名札には「田中」とあった。

 田中は五郎の正面に座ると、
椅子の背もたれに体重を預け、
値踏みするような視線を投げてきた。

「石川五郎くん、だっけ。君さ、走るの速い方?」

「……普通です」

「普通か。で、その普通の君が追いかけたら、
相手が勝手にすっ転んで、腕と足が折れた」

「そう見えました」

「見えました、ね」

 田中はペンの尻で机を小刻みに叩いた。

「俺さ、二十年この仕事やってるんだけどね。
人間がただ転んで、右腕と左足が同時に、
それも粉砕に近い形で折れる現場ってのを、
見たことがないんだ。
交通事故ならある。
高所からの転落ならある。
でも平坦な歩道で、自分の足で走ってて、
転んだだけで?」

「……分かりません」

「分からない、か。
君、さっきからそればっかりだな」

 田中の声が、少しずつ低くなっていった。

「昨日の夜、公園で若いのが三人、
腕をやられてるんだよ。
同じ管内でね。
そっちも骨が内側から潰れたみたいな折れ方をしてる。
医者が首をひねってた。
で、その公園ってのが、
君のアパートとコンビニのちょうど間にあるんだな」

 五郎は黙っていた。

 喉の奥が、ひやりとした。
この刑事は、もう点と点を繋ぎ始めている。
根拠は何もない。
だが、勘だけで正しい方向を向いている。

「何か言うことは?」

「……公園は、通り道なので」

「通り道、ね。じゃあ昨日の夜、通ったのか?」

「覚えていません」

「覚えてない」

 田中が身を乗り出した。机が軋む音がした。

「なあ、君さ。何をやった?」

「何も――」

「隠すなよ。
正当防衛なら正当防衛でいいんだ。
事情があるなら聞く。
でもな、こういうのは最初に嘘をつくと、
後で取り返しがつかなくなる。
今なら――」

「田中さん」

 ドアが開き、別の刑事が入ってきた。
四十がらみの、落ち着いた口調の男だった。

「もういいでしょう。
被害者の供述も、防犯カメラも出ています」

「まだ聞いてる途中だ」

「聞くも何も、この子は何もしてないんですよ。
三百メートル離れてるんだ。
念じたら人が倒れるとでも言うんですか」

 部屋の空気が、一瞬だけ止まった。

 念じたら人が倒れる。

 その言葉を、冗談として口にした刑事も、
鼻を鳴らした田中も、
それが事実だとは夢にも思っていない。
ただ五郎ひとりが、膝の上に置いた自分の右手を、
静かに見下ろしていた。

「……ちっ」

 田中は舌打ちをして立ち上がった。

 その後、年配の刑事が五郎に深々と頭を下げた。
長時間にわたって拘束したこと、
不快な思いをさせたことを、丁寧に詫びた。
もう一人の若い刑事も、恐縮した様子で何度も謝った。
むしろ通報して犯人を捕まえるきっかけを作ってくれた
協力者なのだ、と。

 田中だけは、部屋を出る間際に、
仕方なさそうに首を折るような会釈をしただけだった。

 だが、その一瞬。

 五郎と目が合った時の、あの視線。

 ――俺は納得していない。

 言葉にはされなかったが、
それははっきりと伝わってきた。

 五郎は署を出て、白み始めた空の下を歩きながら、
その視線のことを少しだけ考えた。
厄介だな、と思った。
だがそれ以上の感情は湧かなかった。
疲れていたし、眠かった。
アパートに帰り着くと、
五郎は服も着替えずに布団に倒れ込み、
昼過ぎまで泥のように眠った。

 ◆

 翌日の夕方。

 五郎がいつも通りコンビニの裏口から入ると、
店長が妙に慌ただしく駆け寄ってきた。

「石川くん! 来た来た、ちょうどよかった」

「……何かありましたか」

「お客さんだよ、君に。女性のお客さん」

 店長の顔が、普段より三割ほど明るい。
にやけているのを
必死で押し殺しているような表情だった。

「いやあ、すごい綺麗な人でね。
もうね、うちの店の雰囲気が変わっちゃったよ。
バックヤード空けとくから、ゆっくりお話ししなさい」

「……はあ」

 五郎は警戒した。

 女性の知り合いなどいない。
そして、昨日の今日だ。
警察の関係者か、あるいは犯人の身内か。
どちらにせよ、面倒な話に決まっている。
五郎は身構えながら、店内を覗いた。

 雑誌棚の前に、一人の女性が立っていた。

 店長の表現は、大袈裟ではなかった。

 濃紺のパンツスーツを着た、背筋の伸びた立ち姿。
長い髪を後ろで一つにまとめ、化粧は薄いのに、
顔立ちの造作が異様に整っている。
歳は二十代後半だろうか。
周囲の蛍光灯の光さえ、
彼女の周りだけ少し柔らかくなっているように見えた。
コンビニの雑誌棚という背景の中で、
その存在だけが明らかに場違いだった。

 女性は五郎に気づくと、まっすぐに歩み寄ってきた。

「石川五郎さんですね」

 澄んだ、聞き取りやすい声だった。

「……はい」

「お仕事前に申し訳ありません。
少しだけ、お時間をいただけますか」

 バックヤードに入ると、女性は丁寧に一礼し、
名刺入れから一枚を取り出して、両手で差し出した。

 五郎はそれを受け取り
――そして、視線を落としたまま固まった。

 **L'sコーポレーション 人事部 金澤桜子**

 L'sコーポレーション。

 その名前を知らない人間は、この国にはいないだろう。

世界的な巨大企業。エネルギー、食品、精密機器、
金融、物流、医薬品。あらゆる分野に手を伸ばし、
あらゆる分野で頂点に近い位置にいる。
今、五郎が立っているこのバックヤードの棚にも、
L's系列の製品が山積みになっている。
冷蔵ケースに並ぶ飲料の半分近くがそうだ。
レジ横の菓子も、店の照明機器も、POSシステムでさえ。

 そして、その企業には奇妙な噂がある。

 ――L'sは学歴で人を採らない。

 採用試験というものが存在しない。
エントリーシートも、面接会場もない。
東大を出ようが、海外の名門大学院を修めようが、
応募する窓口すらない。
あの会社に入る方法はただ一つ、
直接スカウトされることだけだ。
だがそのスカウトが、いつ、どこで、
誰の、何を見て行われているのか。
それを知る者はいないとされていた。

 どれほどの人間が
「いつか声がかかるのではないか」と夢想し、
そして生涯声がかからないまま終わるか。
都市伝説のような、
しかし確かに存在する採用制度だった。

 五郎は名刺から顔を上げ、目の前の女性を見た。

 何かの間違いだ、と思った。

 自分は高卒のフリーターだ。
資格もない。
特技もない。
学生時代の成績は中の下で、部活にも入っていなかった。

人と話すのも得意ではない。
この世界で最も「スカウトされる要素がない人間」
を選ぶコンテストがあれば、
そこそこいい線までいく自信がある。

 何かの営業だろうか。
あるいは、
系列のコンビニ本部からの連絡か何かで――

「あなたを、我が社に迎え入れたい
という件でお伺いしました」

 金澤桜子は、五郎の内心を読み取ったかのように、
静かに、しかしはっきりと言った。

 その顔には、柔らかな笑みが浮かんでいた。
冗談を言っている顔ではなかった。
かといって、何かを売り込もうと必死な顔でもない。
ただ、当然の事実を告げるような、
揺るぎのない表情だった。

 五郎の頭の中が、真っ白になった。

 いや、正確には白ではない。
頭蓋骨の内側が、
たった一つの言葉でびっしりと埋め尽くされていた。

 **何で?**

 何で。何で。何で。何で。

 その言葉が幾重にも折り重なり、
他のすべての思考を押しのけていく。
声を出そうとしたが、喉が動かなかった。
目の前の女性の顔も、手の中の名刺も、
視界には映っているのに、意味として入ってこない。
ただ立ち尽くしたまま、五郎は口を半開きにしていた。

 どれほどの時間、そうしていただろうか。

 金澤桜子は、その様子を責める様子もなく、
むしろ予想の範囲内という顔で眺めていた。
そして、ゆっくりと口を開いた。

「今は、お話が上手く進みそうになさそうですので」

 彼女は視線を落とし、
名刺を持つ五郎の手を一瞥した。

「ご都合のよろしい日に、お電話ください。
いつでも構いません。お待ちしております」

 そう言って、金澤桜子は深々と頭を下げた。

 それは、営業の型通りの礼ではなかった。
腰から折った、長く、丁寧な一礼だった。
五郎が返事をすることも、
頭を上げるよう促すこともできないまま、
彼女は身を起こし、
静かにバックヤードを出て行った。

 自動ドアが開いて閉じる電子音が、
遠くで聞こえた。

 五郎は、名刺を持ったまま立っていた。

 紙の感触だけが、やけに生々しかった。
厚く、しっかりとした上質な紙。
押された社名のロゴが、
指先にわずかな凹凸を伝えてくる。
これは現実にある物体だ。幻覚ではない。

 なのに、意味が分からない。

 バックヤードのドアが勢いよく開いて、
店長が飛び込んできた。

「石川くん! あの女性、知り合い? 
ねえ、何の用件だったの? まさか彼女とか?
 いやいや、いくらなんでもそれはないか、
あ、ごめん失礼なこと言った。
でもさ、あんな綺麗な人が――」

 店長の声が、水の中で聞いているように遠かった。

 言葉が一つも届いていない。
鼓膜は振動しているのに、
それが意味を結ばないまま流れていく。
五郎はただ、手の中の白い紙片を見つめていた。

 なぜ、自分なのか。

 その問いの先に、
たった一つだけ、思い当たることがあった。

 ――この右手のことを。

 誰かが、知っている。

 背中に、じわりと冷たいものが伝った。

 バックヤードの蛍光灯が、
ジジ、と小さく鳴いた。
 

第三百八十弾「 掌打」の続きです

 

 

# 掌打 ―― 第二章 遠き一撃

 翌朝、五郎はいつも通りの時刻に目を覚ました。

 カーテンの隙間から差し込む光の角度も、
枕元の目覚まし時計が鳴る音も、
昨日と何ひとつ変わらない。
冷蔵庫から昨日の残りの惣菜パンを取り出し、
立ったまま口に押し込む。
歯を磨き、眼鏡をかけ、
皺の寄ったシャツに袖を通す。

 昨夜、
公園で三人の男を叩きのめしたという事実は、
五郎の中で不思議なほど重さを持っていなかった。
夢を見たとか、映画を観たとか、
その程度の記憶の手触りしかない。
あのホームレスの男が何度も頭を下げていた光景も、
思い出そうとすれば思い出せるが、
わざわざ思い出す理由がなかった。

 五郎にとって、
あれは「終わったこと」だった。

 助けを求められたわけでもない。
感謝が欲しかったわけでもない。
ただ目の前で理不尽なことが起きていたから、
体が勝手に動いた。
それだけのことに、
意味づけをする習慣が五郎にはなかった。
だから日常は、何事もなかったかのように続いていく。
起きて、
支度をして、
コンビニで働いて、
帰って、
寝る。
その円環の中に、
昨夜の出来事が入り込む余地はなかった。

 その日の夕方、
出勤のためにコンビニの駐車場を横切ると、
隅の方に見慣れた顔ぶれがたむろしていた。
近所の高校の制服を着崩した連中だ。
夜になるとよくここに集まっては、大声で笑ったり、
アイスの棒を地面に投げ捨てたりしている。

「――マジで骨イッてたらしいぜ」

「三人ともって、ありえなくね?」

「相手、何人いたんだよ」

 断片的な言葉が、五郎の耳をかすめた。

 昨夜のあの三人のことだろうか、と一瞬だけ思った。
だが、それ以上の興味は湧かなかった。
連中の話し声は風に紛れて途切れがちで、
聞き取ろうとすればできたかもしれないが、
聞き取ろうという気がそもそも起きない。
五郎は彼らの横を通り過ぎ、裏口から店内に入った。
ロッカーで制服に着替えながら、
その会話のことはもう頭から消えていた。

 今日は深夜勤務だった。帰るのは明朝になる。

 二十二時の交代の時、
店長が申し訳なさそうな顔でやってきた。

「石川くん、悪いんだけど……今日の深夜、
佐藤くんが急に休みになっちゃって」

「そうですか」

「ワンオペになるけど、大丈夫かな。
何かあったらすぐ電話して」

「大丈夫だと思います」

 五郎は淡々と頷いた。
実際、深夜帯の客足は知れている。
零時を回ればほとんど人は来ない。
品出しと清掃を淡々とこなしていれば、朝はやってくる。

一人の方が気楽でさえあった。
誰かと会話をする必要がないからだ。

 深夜零時。
店内には五郎の他に誰もいなくなった。

 外の国道を、時折トラックが
低い唸りを上げて通り過ぎていく。
店内BGMの合間に、冷蔵ケースのコンプレッサーが
規則的な音を立てている。
五郎は雑誌棚の前で膝をつき、
翌朝分の並べ替えをしていた。
手は動いているが、頭の中は空っぽだった。
この時間の五郎は、ほとんど何も考えていない。

 午前一時、酔ったサラリーマンが一人。
午前二時、タクシー運転手が缶コーヒーを二本。
それだけだった。

 そして、午前三時。

 自動ドアが開く電子音が鳴り、五郎は顔を上げた。

 入ってきたのは、黒いパーカーを着た人物だった。
フードを目深に被り、その下に黒いマスク。
顔はほとんど見えない。
体型からして若い男のようだったが、
確信は持てなかった。

「いらっしゃいませ」

 五郎の挨拶に返事はなかった。
もっとも、深夜の客が挨拶を返さないのは
珍しいことではない。

 男は入口すぐの買い物かごを一つ取ると、
店の奥へ向かった。
五郎はレジに戻り、タバコの棚の在庫確認を再開した。
防犯カメラのモニターが、
カウンターの端で青白く光っている。
そこに映る男の動きに、五郎はぼんやりと目をやった。

 妙だった。

 男はかごに商品を、次から次へと放り込んでいた。
カップ麺、菓子パン、レトルト食品、飲み物。
値段も見ず、選ぶ素振りもなく、
棚から手当たり次第に掴んでは落としていく。
かごはみるみるうちに山盛りになった。

 深夜三時に、一人で、これだけの量を。

 何かおかしい、
と五郎の頭の隅で警報のようなものが鳴った。
だがその瞬間、自動ドアがまた開いた。

「いらっしゃいませ」

 入ってきたのは中年の男性客で、
迷わずレジへ直行してきた。
手には電子タバコのカートリッジ。

「これ、お願い」

「はい」

 五郎はバーコードをスキャンし、袋を用意する。
年齢確認のボタンを客に押してもらい、会計を済ませる。

ほんの三十秒ほどのやり取りだった。

 その三十秒の間に、それは起きた。

 視界の端を、黒い影が走り抜けた。

 顔を上げた時には、
パーカーの男はすでに自動ドアを抜けていた。
両手で抱えているのは――山盛りの商品が入った、
買い物かごそのものだった。

「あっ――」

 五郎の口から、間の抜けた声が漏れた。

 中年の客が「え、今の」と振り返る。
五郎はカウンターの下からカラーボールを掴み取ると、
レジを飛び出して外に走った。
訓練で一度だけ投げ方を習ったことがある。
だが実際に投げるのは初めてだった。

 駐車場を抜け、歩道に出る。

 男はすでに、はるか先を走っていた。

 深夜の国道は見通しがいい。
街灯の連なる歩道を、
黒いパーカーの背中が猛烈な速度で遠ざかっていく。
かごを抱えたまま、あの走り方は異常だった。
もう百メートル以上は離れている。
カラーボールの射程など、とうに超えていた。

 追いつけない。

 五郎はカラーボールを握ったまま、
その背中を見つめた。
距離はさらに開いていく。
二百メートル。三百メートル。
街灯の光の輪を、次々と潜り抜けていく小さな影。

 どうしてそうしたのか、
五郎自身にもよく分からなかった。

 考えた末の行動ではない。
作戦でもない。
ただ、逃げていく背中を見ているうちに、
右手が自然に持ち上がっていた。
頭上まで真っ直ぐに。
掌を刃のように立てて。

 そして――振り下ろした。

 勢いよく、しかしごく単純に。

 傍から見れば、それはただの動作だった。
腕を上げて、下ろす。
それだけだ。
もし誰かが見ていたとしても、
苛立ちをぶつけるように手を振り下ろした青年、
としか思わなかっただろう。
空を切る音すらしなかった。
風も起きなかった。
何も飛ばなかった。

 だが、三百メートル先で。

 黒いパーカーの影が、走行中の姿勢のまま、
糸の切れた操り人形のように崩れ落ちた。

 抱えていたかごが宙を舞い、
アスファルトに叩きつけられる。
菓子パンが、カップ麺が、ペットボトルが、
けたたましい音を立てて歩道に散乱した。
男の体はその中に投げ出され、
二度ほど跳ねて、動かなくなった。

 五郎は、
振り下ろした姿勢のまま立ち尽くしていた。

 喉の奥が、乾いていた。

 自分の右手をゆっくりと下ろし、その掌を見下ろす。
何の変哲もない、いつもの手だ。
何かを握った感触も、
衝撃が走った実感も、まるでない。

 なのに、三百メートル先の人間が倒れている。

 ――届いた。

 その事実だけが、静かに、しかし重く、
五郎の内側に落ちてきた。
これまでは触れた相手が壊れるだけだった。
触れなければ何も起きない。
そういうものだと思っていた。
だが今、五郎は初めて知った。
この力は、距離を無視する。

 しばらくして、五郎は歩き出した。

 走らなかった。
走る理由がなかった。
倒れた男が起き上がる様子はない。
五郎は普段の歩幅で、深夜の国道を数分かけて歩き、
散乱した商品の中に倒れている
男のところまで辿り着いた。

 男は気を失っていた。

 フードが脱げ、マスクがずれて、
若い男の顔が半分だけ覗いていた。
二十歳そこそこだろうか。
五郎とそう変わらない年頃に見えた。
血の気の失せた顔で、口を半開きにしたまま、
微かに呼吸をしている。
右腕が不自然な方向に折れ曲がり、左足も、
膝から下があり得ない角度を向いていた。

 五郎はその光景を、
しばらく黙って見下ろしていた。

 それから、ゆっくりと膝をつき、
投げ出されていた買い物かごを拾い上げた。
散らばった商品を一つずつ拾い、かごに戻していく。
潰れた菓子パン。転がったペットボトル。
破れたカップ麺の蓋。
五郎は淡々と、レジで商品を袋詰めする時と
同じ手つきで、それらを集めた。

 すべて拾い終えると、
ポケットから携帯電話を取り出し、番号を押した。

「……あの、コンビニで万引きがあって。
犯人が倒れてます。場所は――」

 自分の声が、思ったよりも落ち着いていることに、
五郎は少しだけ驚いた。

 ◆

 サイレンの音が、深夜の国道を切り裂いた。

 最初にパトカーが、その少し後に救急車が到着した。
赤色灯が回転し、静まり返っていた道路を
毒々しく染めていく。
制服警官が二人、五郎に事情を聞き始め、
救急隊員が倒れた男に駆け寄った。

「意識レベル、JCS二桁。
右前腕と左下腿、変形を認めます」

 隊員の一人が手早く男の体を検分し、
無線に向かって状況を伝えていく。
もう一人が振り返り、警察官に告げた。

「多分、足と腕の骨が折れてます。
病院に搬送します」

 男はストレッチャーに載せられ、固定された。
まだ意識は戻っていない。
救急車の扉が閉まり、再びサイレンを鳴らして
走り去っていく。
残された道路には、赤色灯の光と、
割れたガラス片のように散らばった空気だけがあった。

「では、もう一度確認させてください」

 年配の警察官が手帳を開き、五郎に向き直った。

「犯人はかごごと商品を持って逃走。
あなたは追いかけた。
それで、その先で犯人が倒れた、と」

「はい」

「どのように倒れたか、見ていましたか」

 五郎は少しだけ間を置いた。

「……走っていて、急に崩れるみたいに。
転んだんだと思います」

「転んだ」

「はい。そう見えました」

 警察官はペンを止め、五郎の顔をじっと見た。
その視線には、明確な疑いというより、
噛み合わない何かに引っかかっている、
という色があった。

「転んだだけで、腕と足の両方が折れますかね」

「……分かりません。
かごを抱えていたので、
手が出なかったんじゃないでしょうか」

「なるほど」

 警察官はそう言って手帳に何かを書き込んだが、
納得した様子ではなかった。
五郎とその男が倒れていた地点との距離は、
目測でも相当にある。
若い男が、何の障害物もない平坦な歩道で、
自分から転倒して両手足を骨折する。
理屈としては成立しないわけではない。
だが、自然でもない。

 五郎は黙っていた。

 嘘をついている、という感覚は薄かった。
実際、五郎自身にも何が起きたのか説明できないのだ。
手を振り下ろしたら、三百メートル先の人間が倒れた。
そんなことを口にすれば、疑われるどころか、
頭がおかしいと思われるだけだ。
だから、自分に見えた通りのことを言った。
「転んだと思った」。
それは、嘘ではなかった。

 そのうち、店長が息を切らしながら駆けつけてきた。
パジャマの上にジャンパーを羽織っただけの格好だった。

「石川くん! 大丈夫だったか!」

「はい。すみません、店を空けてしまって」

「そんなことはいいんだ。怪我は?」

「ないです」

 店長は心底ほっとした顔をして、
それからパトカーと、
散らばった商品の残骸を見回した。
五郎は手短に経緯を説明し、
最後に付け加えた。

「これから警察署で調書を取るそうなので、
店の方、お願いできますか」

「ああ、もちろんだ。行っておいで」

 五郎は制服の上着を脱いで店長に渡し、
パトカーの後部座席に乗り込んだ。
ドアが閉まる音が、やけに重く響いた。

 窓の外を、夜明け前の街が流れていく。
まだ暗い。
コンビニの看板だけが、点々と光って見えた。

 警察官は何も話しかけてこなかった。
だが、助手席の男がバックミラー越しに、
時折こちらを見ているのが分かった。

 ――疑われている。

 五郎は膝の上で右手を握り、そっと開いた。
骨ばった、何の変哲もない掌。
これが何をしたのかを知っているのは、
この世界で自分だけだ。

 窓ガラスに映る自分の顔は、いつも通り冴えない、
眼鏡をかけた若者のものだった。
その顔が、少しだけ強張っているように見えた。

 パトカーは、夜明け前の道を静かに走り続けた。

 

 

# 掌打

 夜の九時を過ぎると、コンビニの蛍光灯は
妙に白々しく感じられる。
石川五郎はレジの奥でおにぎりの棚を整えながら、
ガラス越しに滲む街灯の光をぼんやりと眺めていた。
二十歳。
高校を出てからもう二年が経つ。
眼鏡の奥の目は特に何かを見ているわけでもなく、
ただ習慣的に瞬きを繰り返しているだけだった。

 静岡の祖父の家を出て東京に来たのは、
他に行く場所がなかったからだ。
両親は五郎がまだ物心つく前に事故で死んだ。
記憶にあるのは祖父の背中と、
縁側から見える茶畑の緑だけだ。
祖父は寡黙な人で、五郎に多くを語らなかった。
ただ、五郎が何か失敗するたびに
「気にするな、次だ」とだけ言った。
その言葉だけが、五郎の中に染み付いている。

 高校を出て上京した当初は新聞配達をしていた。
朝の三時に起きて、まだ誰も歩いていない道を
バイクで走る。
寮生活は窮屈だったが、金は貯まった。
半年でアパートを借りられるだけの貯金ができると、
五郎は迷わず新聞屋を辞めて一人暮らしを始めた。
今のコンビニのバイトは、
時間の融通が利くというだけの理由で選んだ。
特別な夢も目標もない。
ただ、誰にも縛られずに、
自分のペースで生きていければそれでよかった。

 友達と呼べる人間はいない。
彼女もいない。
休みの日は部屋でゲームをするか、漫画を読むか、
あるいは何もせずに天井を眺めているだけだ。
そんな五郎の生活に波風が立つことは、
めったになかった。

 ただ、一つだけ。五郎には、
自分でもよく分からない「何か」があった。

 見た目は典型的な陰キャオタクそのものだ。
度の強い眼鏡、猫背気味の姿勢、
話しかけられてもうまく目を合わせられない。
だから絡まれることは多かった。
学生時代からそうだった。
廊下ですれ違いざまに肩をぶつけられ、
因縁をつけられる。
コンビニで働くようになってからも、
酔った客に絡まれることが何度もあった。

 そのたびに、五郎の右手が動いた。

 特に力を込めるわけではない。
腕を大きく振りかぶるわけでもない。
傍から見れば、ちょっとした手刀
――時代劇のワンシーンで見かけるような、
軽い仕草にしか映らない。
だが、それが相手の体に触れた瞬間、
何かが決定的に壊れる。

 最初にそれが起きたのは中学二年の時だった。
同級生に胸ぐらを掴まれ、
反射的に手を振り払っただけのつもりだった。
相手は「腕が動かない」と青ざめた顔で呟き、
その日のうちに病院に運ばれた。
診断は複雑骨折。
医者は「まるで内部から圧し折られたような骨折だ」
と首をひねっていたという。
五郎自身も、自分が何をしたのか分からなかった。
ただ手を振っただけだ。
それなのに、骨が折れる。
肉が裂ける。
時には――一度だけ、自転車にぶつけた時に、
フレームの金属が内側からひしゃげるように
切断されたこともあった。

 力ではない。
速さでもない。
見た目にはただの「軽い一撃」なのに、
当たったものの内部だけが確実に破壊される。
まるで、衝撃だけが皮膚を素通りして、
中身にだけ届いているかのようだった。

 五郎はその力を誰にも説明したことがない。
説明のしようがなかったからだ。
祖父にも話さなかった。
話したところで、何が変わるわけでもない。
ただ、絡んできた相手が一瞬で戦意を失い、
青い顔で逃げていく。
それだけのことが、これまで何度も繰り返されてきた。
五郎はそのたびに、
静かにその場を立ち去るだけだった。

 その夜も、いつもと同じはずだった。

 閉店作業を終え、シャッターを下ろし、
五郎は夜道を歩いていた。
アパートまでの近道は、
小さな公園を突っ切るルートだ。
街灯もまばらで、昼間は子供たちの声で
賑わうその場所も、夜には人影一つない。
いや――今夜は違った。

 公園の隅、錆びたベンチの近くで、
複数の人影が動いていた。

 最初は誰かがふざけているのかと思った。
だが、近づくにつれて、それが違うと分かった。
若い男が三人、地面に蹲る誰かを取り囲み、
代わる代わる足を振り下ろしていた。
蹲っているのは、
薄汚れた毛布を纏った初老の男だった。
ホームレスだと、五郎はすぐに理解した。

「おら、金あんだろ、隠すんじゃねえよ!」

 チンピラの一人が怒鳴る声が、静かな公園に響いた。
殴られている男は、もう声を上げる力も
残っていないのか、ただ体を丸めて
衝撃に耐えているだけだった。
あまりにも一方的だった。
三対一で、しかも抵抗する術のない老人を、
若い男たちが嬉々として痛めつけている。

 五郎の中で、何かが小さく音を立てた。

 普段の五郎なら、
見て見ぬふりをして通り過ぎていたかもしれない。
関わり合いになりたくない、というのが本音だった。
厄介事は嫌いだ。
平穏な日常が一番いい。
そう思って生きてきたはずだった。

 だが、足が勝手に動いていた。

「――やめろよ」

 自分でも驚くほど、それは掠れた小さな声だった。
決して勇ましいものではない。
だが、三人の視線が一斉に五郎に向いた瞬間、
公園の空気が変わった。

「あぁ? 何だテメェ」

 一番体格のいい男が、五郎を上から下まで眺め回した。

眼鏡をかけた、どこにでもいそうな冴えない青年。
ガタイもよくない、喧嘩慣れしている様子も微塵もない。

舐められるのは当然だった。

「関係ねえなら消えろよ、オタクくん」

 嘲笑うような声とともに、
一人が五郎に向かって踏み込んできた。
振りかぶられた拳が、五郎の顔面を狙って迫る。

 五郎は、それを避けようともしなかった。
ただ、右手を軽く持ち上げ
――掌の側面を、
相手の伸びてきた腕にそっと当てた。

 ドッ、という鈍い音がした。

 殴りかかってきた男の動きが、
途中でぴたりと止まった。
伸ばした腕が、奇妙な角度に曲がっている。
骨が、肉の中で完全に折れていた。
男は自分の腕を見下ろし、
何が起きたのか理解できないまま、
口を開けたまま固まっていた。
悲鳴すら、一拍遅れてようやく漏れた。

「て、テメェ何しやがっ――」

 二人目が反射的に殴りかかってくる。
五郎はほとんど動かなかった。
振り上げられた拳の軌道に、
無造作に手刀を滑り込ませただけだった。
掌が相手の前腕に触れる。
それだけで十分だった。

 パキン、と枝が折れるような音。
男は声にならない悲鳴を上げてその場に崩れ落ちた。
腕の中で、何かが完全に潰れた感触があった。
折れたなどという生易しいものではない。
骨そのものが、内側から圧し折られていた。

 三人目は、もう戦う気力を失っていた。
仲間が二人、目の前で一瞬にして戦闘不能になった。
それも、目に見えるような力業ではなく、
軽く手が触れただけで。
理解の範疇を超えた恐怖が、男の足を凍りつかせていた。

「な、なんだよ、お前……」

 震える声で後退る男に、五郎はゆっくりと近づいた。
特に怒りを表に出しているわけでもない。
ただ淡々と、機械的に距離を詰めていく。
その無感情さが、かえって恐怖を煽った。

「ひっ……!」

 男は踵を返し、脱兎のごとく公園から逃げ出した。
仲間の二人を置き去りにしたまま、夜の闇に消えていく。

残された二人は地面に蹲り、
折れた腕を抱えて呻き続けていた。
その呻き声にも、五郎はもう興味を示さなかった。

 五郎は蹲ったままのホームレスの男に近づき、
その手を取った。
骨ばった、冷たい手だった。

「立てますか」

 男は驚いたように顔を上げた。
殴られた頬が赤く腫れ、
口の端が切れて血が滲んでいる。
だが目には、まだ確かな光が残っていた。

「あ、ああ……すまない、すまないね……」

 五郎は男を支えながら、公園の出口へと歩いた。
呻き声を上げる二人のチンピラを背に、
足早にその場を離れる。
誰かが騒ぎを聞きつけて通報するかもしれない。
面倒事に巻き込まれるのは御免だった。

 公園から少し離れた街灯の下まで来ると、
五郎はようやく足を止めた。

「この辺で大丈夫ですか」

「ああ……本当に、助かったよ。ありがとう」

 男は何度も頭を下げた。
皺だらけの顔に、
涙とも安堵ともつかない表情が浮かんでいる。
五郎はその様子を、どこか他人事のように眺めていた。
自分が何か特別なことをしたという実感は薄い。
ただ、目の前で理不尽なことが起きていたから、
体が勝手に動いただけだ。

「気を付けてください。
ああいう連中、また来るかもしれないんで」

 それだけ言うと、五郎は踵を返した。
ホームレスの男は、
五郎の背中が夜の闇に溶けて見えなくなるまで、
深々と頭を下げ続けていた。
ありがとう、ありがとう、と呟く声が、
静かな夜の中にいつまでも残っていた。

 五郎はアパートへの道を歩きながら、
自分の右手をぼんやりと見下ろした。
何の変哲もない、ただの掌だ。
骨ばっていて、少し節くれ立っている。
これのどこに、あんな力が眠っているのか、
五郎自身にも見当がつかなかった。

 ただ、一つだけ確かなことがあった。

 この力は、望んで手に入れたものではない。
だが、今夜のように、
誰かを助けるために使えるのなら
――それも悪くないのかもしれない。

 五郎は小さく息を吐くと、
いつもと変わらぬ足取りで、夜道を歩き続けた。
彼がまだ知らないところで、
この夜の出来事が、静かに、
しかし確実に、何かの歯車を回し始めていた。

 

# 水を統べる者

## 序章 五つの王冠

魔法という現象がこの世に生まれ落ちてから
幾千年が経つのか、もはや誰も正確には知らない。
ただ確かなことが一つだけあった。
歴史のある時代、人々は五人の魔法使いを畏れ、
そして崇めた。
彼らは王と呼ばれた。王朝の王ではない。
血脈でもなく、玉座でもない。
ただその力の総量において、
彼らは神に匹敵すると謳われたのだ。

「水魔王」――理想郷と讃えられた
水の都アクアリスを、たった一人の魔法で
創り上げたと伝わる伝説の水使い。
荒れ果てた不毛の大地に、彼は水路を引き、
湖を呼び、緑を蘇らせたという。

「スライム王」――無数のスライムを
意のままに操ったというテイマー。
彼の軍勢は数えることさえ不可能で、
大地を覆い尽くしたとも、海を割ったとも語られる。

「異能王」――魔力ではない、
この世の理から外れた異能の力を持つとされた賢者。
人々は彼が何をしたのかを正確には語れなかった。
ただ、彼の名を口にする時、
老人たちの声はわずかに震えた。

「無限王」――尽きることのない
魔力を持つと言われた魔法使い。
彼の力に限界はなく、
故に彼自身にも自分の力の底が見えなかったという。

「絶対王」――国家すらも一人で覆したとされる、
絶対的な力の体現者。
彼が一度怒りを見せれば、
城が一夜にして消え失せたとも言い伝えられている。

だが奇妙なことに、彼らの本当の名前は、
誰一人として後世に伝わらなかった。
功績だけが、寓話のような形で、
口伝えに語り継がれていった。
それゆえに多くの人々は、
これを単なる作り話だと思っていた。
おとぎ話。
子供を寝かしつけるための、少しばかり大げさな物語。

誰も、まさかその「王」の血が、
いまもこの世界のどこかに、
静かに流れ続けているなどとは、
想像もしていなかった。

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## 第一章 乾いた村

土埃の匂いがした。

レンは背負った道具袋の紐を肩に食い込ませながら、
緩やかな坂道を上っていた。
荷の中身は鶴嘴、細い測量用の杖、
そして革の水筒がいくつか。
旅暮らしの水道工事屋にとって、
それだけが全財産と言ってよかった。

村の名はヴェリオン。
地図にも載らないような、小さな農村だった。
レンがこの村を訪れたのは偶然ではなく、
噂を頼りにしてのことだった。
「水に困っている村がある」
――旅の道すがら、行商人からそう聞いたのだ。
水源を治すこと、井戸を掘ること、
それがレンの生業だった。
魔法使いとして名乗るほどのことでもない、
ただの便利屋。
現代であれば「水道工事屋」とでも呼ばれただろう、
そんな存在だった。

村に足を踏み入れた瞬間、レンは違和感を覚えた。

畑の土が、乾いてひび割れている。
本来なら青々と稲穂が揺れているはずの時期に、
田は茶色く、力なく萎れていた。
井戸端に集まった村人たちの顔には、
覇気というものがまるでなかった。
子供たちでさえ、走り回ることもせず、
日陰にうずくまって荒い息をついている。

「すみません、旅の者です。
少し休ませていただけないでしょうか」

レンが声をかけると、
井戸端にいた老婆がゆっくりと顔を上げた。
皺だらけの顔に浮かんだ表情は、
警戒よりも先に、疲労だった。

「旅の方かい……。
すまないが、この村にはろくなもてなしもできやしない。

水すらまともに出やしないんだ」

その一言に、レンの胸の奥が微かに疼いた。
水に苦しむ人々を見ると、放っておけない性分だった。
それは職業的な使命感というよりも、
もっと個人的な
――説明のつかない衝動に近いものだった。

村長の家に案内され、事情を聞いた。
話はこうだった。

村の水源――山の麓に湧く清水は、
古くからこの村の命綱だった。
しかし半年ほど前、隣国の商人が
突如としてその水源一帯を
城壁で囲い込んでしまったのだという。
国境線の曖昧な土地であったことを良いことに、
商人は私兵まで雇い入れ、
なし崩し的に水源を占領した。

「国からは交渉人が来ておるのですが……」

村長は深いため息をついた。
白髪の交じった髭を撫でながら、
疲れた目でレンを見た。

「隣国はこちらの国を守る義理などありませんからな。
商人一人の横暴のために、国同士の交渉となると、
これがまた遅々として進まない。
もう何ヶ月もこの調子です。
畑は枯れ、蓄えも底をつきかけている。
このままでは冬を越せる村人が、
半分もおらぬでしょう」

その夜、レンは村はずれの空き家を借りて休んだ。
だが眠りは浅かった。
目を閉じるたびに、乾いた田畑と、
うずくまる子供たちの姿が瞼の裏に浮かんだ。

翌朝、
レンは自分の目で確かめるべく、水源へと向かった。

山の麓に近づくにつれ、異様な光景が視界に入ってきた。

木々を薙ぎ倒して造られたとおぼしき、
無骨で巨大な城壁。
石材ではなく、急ごしらえの木組みと
土壁を組み合わせた、明らかに軍事目的ではない
――ただ「入らせない」ことだけを目的とした壁だった。

壁の向こうから、微かに水の流れる音が聞こえる。
すぐそこにあるのに、届かない。

レンは拳を握りしめた。

(……これは、ひどいな)

商人の私兵らしき男たちが壁の上から見下ろし、
槍の穂先を光らせながらレンを睨みつけていた。
これ以上近づけば、どうなるかは明白だった。
レンは静かに踵を返した。

---

## 第二章 地の底の水脈

村に戻ったレンは、しばらく黙り込んでいた。
村長の家の縁側に腰掛け、乾いた地面を見つめながら、
頭の中で幾つもの可能性を巡らせていた。

交渉が終わるのを待つ。
それが最も穏当な道だ。
だが、村人たちにその「待つ」時間が
残されているとは、とても思えなかった。
子供の一人が、今朝もぐったりとした様子で
母親に抱えられていくのをレンは見ていた。

レンは立ち上がると、村長にある提案をした。

「この村の近く、
山の麓の別の場所を掘らせてもらえませんか」

村長は怪訪な顔をした。

「掘る、とは……井戸を、ということですかな。
しかし、この辺りの地面は硬い岩盤ばかりで、
何度も試みては失敗しておる。
それに、水脈があるとも思えぬのです」

「やってみないと分かりません。
少し、時間をいただけますか」

その日の午後、レンは山の麓、
村からさほど遠くない場所に立った。
地面に杖の先を軽く突き立て、目を閉じる。

これはレンにとって、
単なる勘や経験に基づく作業ではなかった。
レン自身、自分でも詳しくは説明できないのだが、
地中を流れる水の気配というものを、
肌で感じ取ることができた。
まるで大地そのものが血管を持っているかのように、
水脈の流れが、意識の中に
淡い光の筋となって浮かび上がってくるのだ。

(……ある。かなり深いが、確かにある)

レンは静かに息を吐き出した。
そして両手を地面にかざした。

魔力が体の奥から指先へと流れ出していくのが分かった。

レンの魔力は、水と非常に強い親和性を持っていた。
それは単なる「得意分野」
という言葉では片付けられないほどの、
圧倒的な親和だった。

地面がわずかに震えた。

土くれが独りでに崩れ、
渦を巻くようにして地中へと沈み込んでいく。
まるで巨大な見えない手が、
地面に穴を穿っているかのようだった。
村人たちが遠巻きに、
恐る恐るその光景を見守っていた。
誰かが息を呑む音が聞こえた。

穴はみるみるうちに深さを増していった。
十メートル、二十メートル、三十メートル
――常識で考えれば、これほどの深さを人力で、
しかもわずか数分で掘り進めることなど不可能だ。
だがレンの魔法は、土を掘るという行為そのものを、
水の流れに導かれるようにして成し遂げていた。

そして、ある瞬間。

地の底から、こぽりという小さな音が響いた。

次の瞬間、透明な水が勢いよく噴き上がった。
陽光を受けて水飛沫がきらきらと輝き、
乾いた大地に降り注ぐ。
村人たちの間から、どよめきが起こった。

「水だ……水が出たぞ!」

誰かが叫んだ。
子供たちが歓声を上げて駆け寄ってくる。
老婆が両手で口元を覆い、
涙を流しているのが見えた。

レンは荒く息をつきながら、額の汗を拭った。
これほどの規模の水脈を呼び寄せるのは、
さすがに体力を消耗する。
だがそれ以上に、村人たちの表情が
――半年ぶりに見せたであろう、
心からの笑顔が、レンの胸を満たしていた。

その日のうちに、
レンは井戸の周囲を丁寧に石で組み上げ、
手押しポンプを取り付けた。
さらに数日をかけて、
井戸から畑までの水路も掘り進めた。
木製の樋を組み、勾配を計算し、
村の畑一枚一枚に水が行き渡るよう配置していく。

一週間もすると、乾いていた田畑に、
少しずつだが緑が戻り始めた。
子供たちは元気を取り戻し、
井戸の周りで水を掛け合って笑いながら
遊ぶようになった。
村長はレンの手を両手で握りしめ、
何度も何度も頭を下げた。

「あなたは……この村の恩人だ。
なんとお礼を申し上げればよいか」

「礼はいりません。
困っている人がいたから、助けただけです」

レンはそう言って、微かに笑った。
それ以上の言葉を、レンは持ち合わせていなかった。

---

## 第三章 夜の影

村の様子が上向くにつれて、
それまで法外な値段で食料を売りつけていた
隣国の商人は、明らかに苛立ちを見せ始めた。
水源を独占していたことで甘い汁を吸っていた
商人にとって、村が自立の道を見つけたことは、
都合の悪い話だったのだ。

商人は幾度か村を訪れ、村長に対して
「井戸を埋めろ」と高圧的に要求した。
村長はもちろん拒否した。
すると商人の態度は、
次第に不穏なものへと変わっていった。

ある夜のことだった。

レンは井戸の近くの物置小屋に寝泊まりしていたのだが、

深夜、不自然な物音で目を覚ました。
息を潜めて耳を澄ますと、
複数の足音が井戸に近づいてくるのが分かった。
月明かりに照らされたその輪郭は、
村人のものではなかった。
手には鶴嘴や鉄槌を持った、見覚えのない男たち
――商人が雇った破壊工作の一団だった。

「さっさと壊しちまえ。
この井戸さえなくなりゃ、また元通りだ」

男の一人が低い声でそう言い、
鶴嘴を大きく振りかぶった瞬間。

「――それは、やめてもらえますか」

静かな声が、夜闇に響いた。

男たちが振り返ると、物置小屋の陰から、
レンがゆっくりと歩み出てきていた。
表情に怒りはなく、ただ静かな、
しかしどこか有無を言わさぬ気配を纏っていた。

「な、なんだお前……」

男たちが身構える。
だが次の瞬間、彼らの足元で異変が起きた。
地面に張っていたわずかな夜露が、
まるで意思を持つかのように集まり始め、
瞬く間に男たちの足首を氷の輪となって拘束したのだ。

「うわあっ!」

男たちは悲鳴を上げてもがいたが、
氷はびくともしなかった。
レンは彼らに歩み寄ると、静かに、
しかし有無を言わせぬ声で告げた。

「二度とこの村に近づかないでください。
今回は、それだけで済ませます」

翌朝、
村人たちは井戸の周りに凍りついたまま蹲る
男たちを発見し、驚愕した。
レンはすでに氷を解いており、
男たちを解放していたが、
その光景を見た村人たちは、
改めてレンの持つ力の底知れなさを
実感することになった。

だが、事態はそこで終わらなかった。

数日後、
隣国は「商人保護」を名目に、
正規の軍隊を村へと派遣するという知らせが届いた。
村を治める国も慌てて対抗の軍を差し向けたが、
距離的に見て、援軍が間に合わないことは
誰の目にも明らかだった。

村長は青ざめた顔でレンの元を訪れた。

「レン殿……
このままでは、村が、村人たちが……」

村人たちの間に、抗いようのない絶望が広がっていった。

老いも若きも、井戸端に集まり、
震える声で祈るように空を見上げていた。
子供を抱きしめる母親、
剣にもならぬ農具を握りしめる男たち。
逃げ場などどこにもなかった。

レンはその光景を、黙って見つめていた。

(……ここまでか)

胸の奥で、何かが静かに燃え始めるのを感じた。
それは怒りとも呼べたし、あるいは、もっと単純な
――守りたいという、
ただそれだけの感情だったのかもしれない。

---

## 第四章 氷結の軍勢

隣国の軍勢が村の外れに姿を現したのは、
雲一つない、奇妙なほど晴れ渡った日の午後だった。

整然と隊列を組んだ兵士たちが、
槍と盾を構えて村へと迫ってくる。
その数、優に千を超えていた。
土煙が地平線を覆い、
大地が震えるほどの足音が響き渡る。
村人たちは家の中に身を隠すことしかできず、
恐怖に震える子供たちの声が、
あちこちから漏れ聞こえていた。

村の入り口に、ただ一人の人影が立っていた。

レンだった。

道具袋を降ろし、ただの水道工事屋の格好のまま、
レンは軍勢の前に立ちはだかっていた。
その姿はあまりにも小さく、あまりにも頼りなく見えた。

兵士たちの誰もが、それを嘲笑うように眺めていた。

「たった一人で何ができるというのだ」

先頭の指揮官が馬上から見下ろし、鼻で笑った。

「かかれ!」

号令とともに、兵士たちが一斉に槍を構え、
雄叫びを上げながら突撃してきた。
地響きのような足音。
振り上げられる無数の武器。
誰の目にも、
これから起こるのは一方的な蹂躙だと映っていた。

だが、次の瞬間――世界が凍りついた。

レンが静かに両手を広げた瞬間、
大気中の水分という水分が、
目に見えぬ速さで凝縮を始めた。
空気が軋むような音を立て、
周囲の温度が急激に低下していく。
兵士たちの吐く息が瞬く間に白く凍りつき、
視界を覆う霧となった。

「な、なんだこれは……!」

先頭を走っていた兵士の足が、地面ごと凍りついた。
次の兵士も、その次の兵士も。
まるで見えない波が地を這うように、
次々と兵士たちの足元から氷が這い上がっていく。

「ば、化け物だ……!」

誰かが叫んだ。
だがその声すらも、凍える空気の中に消えていった。

レンの表情に、これといった感情は浮かんでいなかった。

ただ静かに、まるで水路を一本引くのと
変わらぬ淡々とした所作で、両手を掲げ続けていた。
指先から放たれる冷気は、
瞬く間に軍勢全体を包み込んでいく。

巨大な氷の柱が、地面から次々と突き上がった。
その中に、逃げ惑う兵士たちの姿が
次々と閉じ込められていく。
悲鳴すら凍りつき、音を失った戦場に、
ただピキ、ピキ、と氷が軋む音だけが響いていた。

指揮官が馬から転げ落ち、震える声で叫んだ。

「た、退けえっ! 退――」

その言葉すら、最後まで紡がれることはなかった。
氷柱が砕け散る音とともに、
指揮官の姿もまた、白い結晶の中へと消えていった。

数分後。

そこに広がっていたのは、
地獄絵図とも言うべき光景だった。
千を超える兵士たちが、
氷像と化して大地に林立していた。
やがて――レンが静かに指先を下ろすと、
氷柱は音を立てて次々と砕け散り、
粉雪のように舞い散っていった。
そこに、生存者は一人もいなかった。

戦場に、静寂が戻った。

村人たちは家の陰から、
恐る恐るその光景を見つめていた。
誰もが言葉を失っていた。
恐怖でも、安堵でもない、
もっと得体の知れない感情が、
彼らの胸を締め付けていた。

隣国から逃げ延びた数少ない斥候の一人が、
震える声で王都へと報告を送ったという。

「悪魔だ……あれは、人ではない。悪魔だ」

その一方で、
村人たちの口からは、別の言葉が漏れていた。

「救世主様だ……」

「私たちを、救ってくださった……」

村人たちがレンの元に駆け寄り、次々と跪き、
涙ながらに感謝の言葉を口にした。
だがレンの表情は、晴れやかなものではなかった。
むしろ、どこか痛みを堪えるような、
複雑な色を浮かべていた。

「……やめてください」

レンは静かに、しかしはっきりとした声で言った。

「私は、ただ皆さんの水源を守りたかっただけです。
それ以上でも、それ以下でもありません。
必要以上に、私を持ち上げないでください」

村人たちはその言葉に戸惑いながらも、
レンの真剣な眼差しに、それ以上何も言えなくなった。

---

## 終章 旅立ち

数日後。

村はすでに落ち着きを取り戻していた。
隣国の商人は軍の全滅という報せを受け、
蒼白な顔で城壁を放棄し、
逃げるように姿を消したという。
水源は正式に村の管理下に戻り、
遠からず国からの使者が
正式な取り決めのために訪れるだろうという話だった。

村の広場には、レンを見送るために、
ほぼ全ての村人が集まっていた。
村長が代表して、深々と頭を下げた。

「レン殿。
この御恩は、決して忘れません。
どうかこの村に、
いつまでもいてはいただけませぬか」

レンは道具袋を背負い直しながら、
静かに首を横に振った。

「ありがとうございます。
でも、私にはまだ、行かなければならない場所が
たくさんあるんです。
水に困っている人たちが、
この世界にはまだたくさんいますから」

「せめて、お名前だけでも……
何か、あなたを称える言葉を
残させてはいただけませぬか」

レンは一瞬、遠くの空を見上げた。
その目には、何か遠い記憶を辿るような、
微かな翳りが差していた。

「……いりません。ただの水道工事屋が、
少し腕を振るっただけです。
それ以上の意味を、持たせないでください」

そう言い残すと、レンは村人たちに小さく一礼し、
踵を返した。背中に浴びせられる感謝の声、
すすり泣く声、子供たちが名残惜しそうに
追いかけてくる足音
――それら全てを背中に受けながら、
レンは坂道を下り、街道へと歩みを進めていった。

道の途中、レンはふと足を止め、
自分の手のひらを見つめた。
先日、千の兵士を氷に閉じ込めた、この手を。

(……俺のこの力は、いったい何なんだろうな)

物心ついた時には、
すでにこの力はレンの中にあった。
誰に教わったわけでもなく、
まるで生まれながらに知っていたかのように、
水を操ることができた。
時折、自分でも制御しきれないほどの
奔流を感じることがある。
今日のように、誰かを守るためであればまだいい。
だが、もしこの力が、守るためではなく――。

レンは小さく頭を振り、その考えを振り払った。
今はただ、
目の前の一歩を踏み出すことだけを考えればいい。

遠く、旅の道の先には、
また新たな村や町が待っているはずだった。
水に困る人々がいる限り、
レンの旅は終わらない。

そして遥か歴史の彼方、
誰にも名を知られぬまま消えていった
五人の王たちのうちの一人が、
かつて同じようにこの道を
――名もなき水路工事屋として、
歩んでいたのだということを、
レンはまだ知らない。

(第一章・了)
 

第三百七十七弾「灰の国境――日本再生クーデター」の続きです

 



# 灰の国境――第二部

## 名もなき戦争

### 第一章 クーデターではなかった日

榊原直人は、自分の名前が「排除対象者リスト」
に載ってから、一度も安心して眠れなくなった。

しかし、彼を逮捕する者は現れなかった。

部屋の前に武装した人間が立つこともなかった。

端末は監視されているかもしれない。

電話は盗聴されているかもしれない。

そう思いながらも、直人は翌朝、
いつものようにコーヒーを淹れた。

そして机に座った。

あの日、日本で何が起きたのか。

直人はもう一度、最初から調べ直すことにした。

これまで彼は、ある一つの前提を疑っていなかった。

――日本国再生評議会が国家を襲撃した。

政府を武力で制圧した。

既存の支配者を排除した。

だから、これはクーデターだった。

世界中がそう報じた。

新聞も。

テレビも。

海外メディアも。

国際機関も。

そして、直人自身も。

誰もが疑わなかった。

なぜなら、
それが最も分かりやすい説明だったからだ。

しかし。

調べ始めて半年が過ぎた頃、
直人は一つの違和感に気づいた。

あまりにも、出来すぎている。

クーデター当日、
日本国再生評議会は複数の地点を同時に制圧していた。

中央省庁。

自治体。

通信施設。

報道機関。

政治家の居所。

だが、それだけではなかった。

直人が古い通信記録を集め、当時の民間警備会社、
港湾関係者、退役した自衛関係者、
そして失踪した公務員の家族まで訪ね歩いた結果。

もう一つの戦闘が存在していたことが分かった。

報道されなかった戦闘。

記録から消された戦闘。

そして、日本国再生評議会ですら、
長い間その存在を公表しなかった戦闘。

日本各地で。

同じ日。

同じ時間帯に。

正体不明の武装集団が動いていた。

最初、直人は再生評議会の別働隊だと思った。

だが違った。

彼らは再生評議会の施設を攻撃していた。

物流拠点。

通信中継施設。

民間企業の研究所。

そして、
評議会が確保しようとしていた政府関連施設。

つまり。

あの日、
日本では一方的な国家転覆など起きていなかった。

戦争が起きていた。

---

### 第二章 誰も知らなかった敵

直人がその結論に到達するまで、一年近くかかった。

証拠は断片的だった。

ある場所では、監視カメラの映像だけが残っていた。

ある場所では、銃撃の痕跡だけが残っていた。

ある場所では、死者がいたにもかかわらず、
公式の死亡記録が存在しなかった。

直人は一人の老人に会った。

老人は、クーデター当時、ある地方の港で働いていた。

「軍じゃなかった」

老人は言った。

「少なくとも、日本の軍じゃない」

「何を見たんですか」

「人間を見た」

老人は苦笑した。

「それだけだよ」

「武装していた?」

「していた」

「どこの国の人間だったか分かりますか」

老人はしばらく黙った。

「分からない」

それが一番恐ろしかった。

国籍を示すものは何もなかった。

だが、彼らは明らかに訓練されていた。

統率されていた。

そして、日本国内の重要施設について、
異常なほど詳しかった。

直人はさらに調べた。

すると、一つの仮説が浮かび上がった。

隣国の武装組織。

そして。

その組織に協力する日本国内の反国家武装グループ。

彼らは、既存の日本政府を攻撃する準備をしていた。

目的は何だったのか。

政府中枢の混乱。

通信網の麻痺。

金融市場への攻撃。

報道機関の掌握。

そして。

日本国内に混乱を作り出すこと。

その混乱の中で、誰かが
「政府はもう機能していない」と宣言する。

誰かが「国民を守るための新しい組織が必要だ」
と言い出す。

そして、日本という国は、
自分たちの意思とは関係なく別の方向へ動かされる。

それは、古典的な侵略ではなかった。

国境を越えて軍隊が攻めてくる戦争ではない。

国民自身に、国を壊させる。

社会そのものを、内部から分裂させる。

直人は、その構図を理解した時。

背中に冷たい汗が流れるのを感じた。

もし、これが事実なら。

日本国再生評議会は。

国家を襲った側ではない。

襲撃を受けるはずだった日本を、
先に動かした側だった可能性がある。

---

### 第三章 クーデターという言葉

直人は古い新聞記事を読み返した。

「軍事クーデター」

「民主主義の崩壊」

「武装勢力による国家転覆」

「ファシズムの復活」

見慣れた言葉が並んでいた。

そして。

その言葉は、あまりにも早かった。

まだ何が起きているのか誰も分かっていない段階で。

「クーデター」という言葉だけが、
既に世界中へ流れていた。

誰が最初に言ったのか。

直人は調べた。

一つの海外通信社。

そこから国内のテレビ局。

新聞社。

海外メディア。

国際機関。

言葉は連鎖した。

「クーデター」

一度そう呼ばれると、
それ以外の可能性を考える者はいなくなる。

武装した組織が政府を制圧した。

ならばクーデターだ。

あまりにも簡単だった。

直人は、自分自身の記者時代を思い出した。

速報がある。

時間がない。

他社も報じている。

政府発表はない。

現場は混乱している。

そんな時、人間は最も理解しやすい言葉を選ぶ。

そして。

一度使われた言葉は、
その後の事実の見方まで決めてしまう。

直人はペンを置いた。

「俺も同じだった」

誰に聞かせるでもなく、呟いた。

自分は疑っていた。

既存の権力を疑っていた。

政府を疑っていた。

企業を疑っていた。

しかし。

自分が信じている情報源については、
どこまで疑っていただろう。

「権力を監視する」

それが記者の仕事だと思っていた。

だが。

報道する側もまた、巨大な権力になり得る。

そのことを、
自分はどれほど真剣に考えていただろうか。

---

### 第四章 沈黙していた人々

直人は元同業者を訪ね始めた。

かつての新聞記者。

テレビ局のディレクター。

編集者。

海外特派員。

退職したプロデューサー。

最初、ほとんどの人間は口を閉ざした。

「今さら何を調べるんだ」

「危ないぞ」

「昔のことだ」

「俺たちには関係ない」

しかし。

何人目かの元記者が、直人に言った。

「お前、本当に書くのか」

「書きます」

「全部?」

「証明できることだけです」

男は笑った。

「昔のお前なら、そう言わなかった」

直人は答えられなかった。

男はしばらく窓の外を見ていた。

「俺たちは知っていたんだ」

直人は顔を上げた。

「何をです」

「会社の方針が、おかしいことくらい」

部屋の空気が変わった。

男は続けた。

「全部じゃない」

「誰かが外国の工作員だったとか、
そんな話じゃない」

「ただ、妙な力関係があった」

スポンサー。

海外企業。

政治団体。

外国の関係者。

大学。

研究機関。

広告代理店。

「記事にするなと言われる話があった」

「逆に、何度も取り上げろと言われる話もあった」

「理由を聞いても、
上からの判断だと言われるだけだ」

直人は尋ねた。

「なぜ辞めなかった」

男は静かに笑った。

「家族がいた」

その答えに。

直人は何も言えなくなった。

次の人物も。

その次の人物も。

同じようなことを言った。

誰も英雄ではなかった。

誰も完璧な抵抗者ではなかった。

ただ。

会社の中で。

組織の中で。

自分にはどうすることもできない現実を見ながら。

「これはおかしい」

と思い続けていた人間がいた。

声を上げられなかった人間がいた。

声を上げれば仕事を失う人間がいた。

家族を守るために沈黙した人間がいた。

そして。

沈黙した自分自身を、何年も許せずにいた人間がいた。

直人は理解した。

歴史とは。

正義の英雄だけで作られるものではない。

表舞台に立てなかった。

何も変えられなかった。

それでも間違っていると感じ続けた。

そんな無数の人間の後悔もまた、歴史の中に存在する。

---

### 第五章 陰謀論という便利な言葉

調査を進めるほど、
直人は一つの言葉に違和感を持つようになった。

陰謀論。

便利な言葉だった。

あまりにも便利だった。

証拠のない妄想。

荒唐無稽な主張。

根拠のない敵意。

確かに、そのようなものは存在する。

だが。

「陰謀論」という言葉を使えば、
調査そのものを終わらせることもできる。

なぜそんなことをする必要があるのか。

誰が利益を得るのか。

その行為にはどんな経緯があったのか。

証拠は存在するのか。

反証は可能なのか。

そこまで調べる前に。

「陰謀論だ」

と言って終わらせる。

直人は思った。

それは、
昔の自分が最も嫌っていた態度ではなかったか。

もちろん。

疑えば何でも真実になるわけではない。

疑念は証拠ではない。

不信感も事実ではない。

だが。

「あり得ない」

という言葉もまた、証拠ではない。

直人は、自分の原稿に一文を書いた。

**『疑うことと信じることは、対立する行為ではない。
どちらも、考えることをやめた瞬間に危険になる。』**

それを書いた時。

部屋のチャイムが鳴った。

直人は時計を見た。

午後十一時四十分。

来客を待っていた時間ではない。

---

### 第六章 東雲玲奈

ドアを開けると。

東雲玲奈が立っていた。

以前と同じ黒い服。

以前と同じ、静かな表情。

しかし。

以前とは違うものが、彼女の顔にはあった。

疲労だった。

ほんの少し。

目の奥に。

何年も眠っていない人間のような影があった。

「お久しぶりです、榊原さん」

「どうやって入った」

「まだ入っていません」

玲奈はそう言った。

直人は少し笑った。

「そういう意味じゃない」

「分かっています」

彼女は一礼した。

「入っても?」

直人は黙って扉を開けた。

玲奈は部屋に入り、机の上に積まれた資料を見た。

「随分と集めましたね」

「一年かかった」

「ええ」

玲奈は静かに言った。

「知っています」

直人は彼女を睨んだ。

「監視していたのか」

「あなたを守っていました」

「誰から」

「多くの人間からです」

その答えに。

直人はそれ以上聞かなかった。

玲奈は机の上の原稿を見た。

「あなたが悪ではないかと思っていた
我々に対する印象は、少しは変わりましたか?」

直人はすぐには答えなかった。

窓の外を見る。

かつて。

日本国再生評議会は悪だった。

そう思っていた。

武装して国家を制圧した。

官僚を処刑した。

政治体制を変えた。

自由を制限した。

そういう組織を、悪と思わない理由はなかった。

しかし。

今回の調査で分かったことがある。

自分が見ていた世界は。

事実だけでできていなかった。

報道。

映像。

解説。

評論。

誰かの言葉。

誰かの編集。

そのすべてが積み重なって。

いつの間にか、自分の中に
一つの「真実」が出来上がっていた。

少し疑っても。

「まあ、大筋では間違っていないだろう」

と思っていた。

それが。

最も危険だった。

「変わった」

直人は言った。

玲奈は黙って聞いていた。

「でも、正義だとはまだ言えない」

玲奈は、少しだけ笑った。

「それで構いません」

「俺は、あなたたちが何をしたかを調べた」

「ええ」

「そして、何を防いだのかも調べた」

「ええ」

「でも」

直人は彼女を見る。

「それでも、あなたたちが
これから何をするかまでは分からない」

玲奈は、ゆっくりと頷いた。

「その通りです」

そして。

少し間を置いて言った。

「だからこそ、あなたのような人間が必要なのです」

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### 第七章 悪人の仕事

玲奈は窓際へ歩いた。

「平和を維持するには」

彼女は言った。

「誰かが、悪人と言われても
地道に苦労していかなければならないことがあります」

直人は黙っていた。

「善悪は常に表裏一体です」

玲奈は続けた。

「正しいことを守るために、
誰かが汚れ仕事をしなければならない時もあります」

「誰かを守るために、誰かを止めなければならない」

「自由を守るために、
自由を悪用する人間を止めなければならない」

「平和を守るために、戦う準備をしなければならない」

直人は言った。

「その理屈は危険だ」

「ええ」

玲奈は即答した。

「非常に危険です」

その答えに、直人は一瞬言葉を失った。

「だから」

玲奈は振り返った。

「誰かが、その危険性を
監視し続けなければならないのです」

直人は、元記者として。

初めて、自分の仕事について考え直した。

権力を疑う。

それだけでは足りない。

自分が信じる正義も疑う。

自分が嫌う相手の言葉も確認する。

そして。

誰かを悪と決める前に。

「なぜ、その人間はそうしたのか」

「何を恐れていたのか」

「誰が利益を得たのか」

「他に方法はなかったのか」

そこまで追わなければならない。

それでも。

すべてを理解できるとは限らない。

「安易に悪だと思っても」

玲奈は言った。

「その裏に何があるのかを考えなければ、
本当のことは分かりません」

「そして逆に」

直人が言った。

「安易に正義だと思っても同じだ」

玲奈は微笑んだ。

「ええ」

その瞬間。

直人は初めて、彼女を恐ろしいと思った。

そして。

同時に、少しだけ安心した。

彼女が、
自分たちを完全な正義だと思っていないことに。

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### 第八章 発行者

「あなたの記事は」

玲奈が言った。

「日本国再生評議会の責任で発行します」

直人は眉をひそめた。

「検閲は」

「しません」

「都合の悪い部分も?」

「一切、訂正しません」

「評議会に不利な部分も?」

「もちろんです」

直人は彼女を見た。

「なぜだ」

玲奈は答えた。

「我々を悪だと思うか」

「正義だと思うか」

「それは個人の自由です」

彼女の声は静かだった。

「多くの国民の平和を継続するためには、
我々が悪だと思われようが、正義だと思われようが、
関係ありません」

「我々への評価が目的ではないからです」

直人は尋ねた。

「目的は」

玲奈は答えた。

「平和の継続です」

部屋が静かになった。

直人はその言葉を聞きながら。

彼らの覚悟の一端を見た気がした。

だが。

同時に。

別の疑問も浮かんでいた。

平和のためなら。

どこまで許されるのか。

その答えを。

日本国再生評議会自身が決めていいのか。

L'sコーポレーションは。

本当に日本を守るために動いたのか。

それとも。

日本という国を守ることが、
自分たちの利益になるから動いたのか。

直人は、その疑問を口にしなかった。

まだ証拠がなかった。

だから。

記者として書かなかった。

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### 終章 第三の答え

数か月後。

榊原直人の記事は発行された。

訂正はなかった。

削除もなかった。

そこには、日本国再生評議会が
行ったことも書かれていた。

救った命。

防いだ攻撃。

そして。

評議会自身が犯した過ちも。

記事は社会を二つに分けなかった。

三つに分けた。

評議会を正義だと信じる者。

評議会を悪だと信じる者。

そして。

どちらとも決めることを拒否する者。

直人は、その第三の人間たちが現れたことを、
少しだけ嬉しく思った。

正義と悪。

敵と味方。

白と黒。

世界を単純に分けることは簡単だ。

だが。

考えることを続けるためには。

その間に立たなければならない。

記事が発行された夜。

直人の端末に、新しいメッセージが届いた。

差出人不明。

本文は短かった。

**『あなたは一つ目の戦争を理解した』**

直人は画面を見つめた。

そして。

次の文章を読んだ。

**『だが、まだ二つ目の戦争が始まっていることを、
あなたは知らない』**

添付ファイルが一つ。

直人は開いた。

そこには。

世界地図。

日本。

隣国。

そして。

L'sコーポレーションの拠点を示す無数の印。

しかし。

それらの中心には。

直人が一度も聞いたことのない組織の名前があった。

**《オルタナティブ》**

画面の下には、一行だけ書かれていた。

**『日本国再生評議会は、日本を救った。
だからこそ、次は彼らを止めなければならない。』**

直人は椅子から立ち上がった。

窓の外を見る。

東京は静かだった。

平和だった。

少なくとも。

今日までは。

そして直人は思った。

歴史には。

正義と悪が戦う戦争だけではない。

悪を倒した者が。

いつか新しい悪になることを防ぐための戦争がある。

その戦争には。

味方もいない。

敵もいない。

あるのは。

真実を知ろうとする者と。

真実を、自分に都合のいい形に変えようとする者だけだ。

榊原直人は端末を閉じた。

そして、机の上に置かれた古い取材ノートを開いた。

最初のページには。

記者になったばかりの頃の自分の文字が残っていた。

**「誰かの言葉を信じる前に、自分で確かめる。」**

直人は、その文字を見つめた。

そして。

静かに、新しい取材を始めた。


 



# 灰の国境――日本再生クーデター

## 第一章 午前五時十七分

日本が終わった、
と最初に思った人間は、
おそらく誰一人としていなかった。

午前五時十七分。

東京はまだ夜の底に沈んでいた。

国会議事堂の周囲を走る車は少なく、
霞が関の官庁街には夜勤を終えた職員と、
始発を待つ清掃員くらいしかいない時間だった。

その静寂を破ったのは、爆発音ではなかった。

通信が消えた。

警察庁の一部回線が沈黙し、
中央省庁の専用ネットワークが同時に遮断された。
続いてテレビ局の送出システムが停止し、
政府広報の公式サイトが次々とアクセス不能になった。

誰かがサイバー攻撃を仕掛けている。

そう判断した者は多かった。

だが、それは間違いだった。

午前五時二十三分。

黒い車列が霞が関へ入った。

ナンバープレートのない車両。

国籍も所属も示さない装甲車。

そして、その後ろを走る、見慣れない武装部隊。

警察は対応した。

特殊部隊も出動した。

しかし、戦いと呼ぶにはあまりにも一方的だった。

警察の装備は、市街地での犯罪者制圧を想定している。

相手は国家そのものを制圧するために準備されていた。

警察無線には怒号が飛び交った。

「応援を!」

「どこの部隊だ!」

「識別不能!」

「政府は何を――」

その通信も途中で途切れた。

同じ時刻、日本各地で同時に異変が起きていた。

一部の中央省庁。

外国大使館。

巨大企業の本社。

経済団体。

大学。

テレビ局。

全国紙の本社。

地方自治体。

そして、数人の政治家の私邸。

襲撃された政治家には共通点があった。

与党か野党か。

保守か革新か。

そんな分類ではなかった。

誰もが知っている。

誰もがテレビで顔を見たことがある。

何十年も日本の政治の中心に居座り続けた者たちだった。

午前七時。

全ての主要テレビ局が、同じ映像を放送した。

黒い背景。

中央に、日本列島の輪郭。

そして、白い文字。

**「日本国再生評議会」**

続いて、一人の男が映った。

年齢は五十代にも六十代にも見えた。

軍服ではない。

政治家のようなスーツでもない。

ただ、黒いジャケットを着ていた。

男は静かに言った。

「本日、日本国の統治機構は停止した」

全国が息を呑んだ。

「我々は国家を破壊するために
立ち上がったのではない」

男は続けた。

「国家を、国民の手に戻すために立ち上がった」

その言葉を聞いた瞬間、多くの人間が激怒した。

そして同時に、多くの人間が拍手した。

それが、日本という国の本当の終わりの始まりだった。

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## 第二章 処刑台

最初の公開処刑が行われた時、日本中が震えた。

広場に並べられた人間たちは、元高級官僚だった。

誰もが知っている顔ではなかった。

しかし、彼らの名前を検索すれば、
日本社会のあらゆる政策に関与してきた
人物であることが分かった。

税制。

社会保障。

規制。

補助金。

天下り。

企業との癒着。

政治家との取引。

評議会は膨大な資料を公開した。

録音。

内部文書。

銀行口座。

会議記録。

密室で交わされた会話。

「国民は忘れる」

「選挙まで持たせればいい」

「どうせ責任は政治家に行く」

「次のポストを確保しておけ」

国民は画面を見た。

そして、長年抱いていた疑念が、
疑念ではなくなっていくのを感じた。

だが。

その後に行われたことは、
疑念を晴らすための裁判ではなかった。

処刑だった。

一部の国民は叫んだ。

これは革命ではない。

ただの暴力だ。

裁判を受ける権利がある。

罪を憎むことと、法を捨てることは違う。

しかし、その声は次第に小さくなっていった。

理由は単純だった。

新しい支配者は強かった。

圧倒的に。

そして、古い支配者を憎んでいた人々の数も、
圧倒的に多かった。

「今さら人権か」

「俺たちが苦しんでいた時、お前たちは何をしていた」

「真面目に働く人間を馬鹿にしてきたのは誰だ」

怒りは正義を飲み込み、
正義は復讐と区別がつかなくなっていった。

その時、日本社会は初めて気づいた。

民主主義は、多数決だけでは守れない。

そして自由は、自分が不自由になった時ではなく、
嫌いな人間の自由を守れるかどうかで試される。

だが、そのことを口にする者は少なかった。

あまりにも遅すぎたからだ。

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## 第三章 L'sコーポレーション

世界は、日本で起きた出来事をクーデターと呼んだ。

テロだという国もあった。

軍事反乱だという国もあった。

国連では緊急会合が開かれた。

非難決議。

経済制裁。

国際社会からの孤立。

それらの言葉が、日本のテレビ画面を埋め尽くした。

しかし、日本国再生評議会は沈黙しなかった。

むしろ、世界中に向けて反撃した。

国連に参加する各国の腐敗。

人権を掲げながら他国で行われてきた秘密工作。

武器取引。

資源の搾取。

政治家への資金提供。

政権転覆への関与。

評議会は、
証拠だと称する情報を世界へ公開していった。

本物もあった。

偽物も混じっているという者もいた。

だが問題は、世界の人々が、
どちらを信じればいいのか
分からなくなったことだった。

そして、
その背後に一つの企業の名前が浮かび上がった。

L'sコーポレーション。

世界最大級の多国籍企業。

金融。

エネルギー。

物流。

AI。

通信。

医療。

宇宙開発。

食料。

かつて「国家より巨大になった企業」
と呼ばれた企業だった。

L'sが関与している。

その噂は、やがて確信へ変わった。

日本国内の通信インフラが停止しなかった理由。

金融市場が完全崩壊しなかった理由。

海外からの経済制裁が十分な効果を発揮しなかった理由。

そして、正体不明の部隊が
国家権力を短時間で制圧できた理由。

すべての答えの後ろに、L'sの影があった。

だが、L'sコーポレーションは
公式には何も認めなかった。

ただ一度だけ、最高経営責任者が声明を発表した。

「我々は国家を支配しない」

その言葉は世界中で笑われた。

なぜなら。

誰もが理解していたからだ。

**国家を支配する必要のない企業こそ、
本当に強い。**

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## 第四章 粛清される思想

クーデターから一年。

日本は変わった。

街は静かになった。

犯罪率は下がった。

違法行為への処罰は厳しくなった。

公共の場で他人を脅かす行為は、
徹底的に排除された。

行政機関の職員には新しい制度が導入された。

政策によって国民生活に重大な損害を与えた場合。

不正な利益を得た場合。

特定の企業や団体の利益のために
職権を利用した場合。

以前なら辞任で済んでいた。

今は違った。

職を失う。

財産を調査される。

一定期間、公職から永久に排除される。

天下りは禁止された。

不透明な随意契約も消えた。

企業による過度な下請け搾取も規制された。

長年「仕方がない」とされていた
小さな犯罪も、徹底的に取り締まられた。

社会は、驚くほど秩序だった。

真面目に働く人間。

税金を納める人間。

約束を守る人間。

他人に迷惑をかけない人間。

そういう人々が、初めて報われる社会が始まった。

少なくとも、多くの国民はそう感じていた。

だが。

教育だけは、明らかに変わりすぎていた。

学校から特定の思想が消えた。

共産主義は徹底的に否定された。

革命思想。

国家解体思想。

暴力による体制転覆を肯定する思想。

それらは教育現場から排除された。

最初、多くの人々は賛成した。

しかし、次第に奇妙なことが起き始めた。

ある大学教授が授業を停止された。

理由は、「国家の政策に対する過度な批判」。

ある作家の作品が発売禁止になった。

理由は、「社会秩序を破壊する可能性」。

ある学生が逮捕された。

理由は、政府を批判する文章を
匿名で公開したことだった。

「これは違う」

そう言った者がいた。

だが、周囲は答えた。

「別に真面目に生きていれば問題ない」

「犯罪者を守る必要があるのか」

「自由を履き違えるな」

そして、その言葉を聞いた者は黙った。

かつて自分たちが嫌っていた権力者たちも、
同じことを言っていたことを思い出したからだ。

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## 第五章 最も危険な男

主人公、榊原直人は元新聞記者だった。

クーデター以前、彼は権力を批判していた。

官僚を批判した。

政治家を批判した。

大企業を批判した。

そして、クーデターが起きた時。

彼は心の奥で思った。

――ようやく終わる。

腐った連中が。

自分たちだけを守るシステムが。

国民を見下してきた連中が。

終わるのだ。

しかし一年後。

榊原は、かつて自分が勤めていた
新聞社の跡地に立っていた。

建物は存在しない。

更地だった。

新聞社は「国民への虚偽情報を長年にわたり発信した」
として解体されていた。

その判断に、榊原は今でも反論できなかった。

確かに偏向はあった。

隠蔽もあった。

権力との癒着もあった。

だが。

だからといって、新聞社そのものを消していいのか。

「答えは出ています」

背後から声がした。

振り返ると、一人の女が立っていた。

黒いコート。

無表情。

榊原は彼女を知っていた。

日本国再生評議会、情報監察局。

東雲玲奈。

「何の答えです」

「あなたが今、考えていることです」

榊原は笑った。

「読心術でも使うんですか」

「必要ありません」

玲奈は言った。

「あなたは、今の日本を恐れている」

榊原は答えなかった。

「そして同時に」

彼女は続けた。

「昔の日本には戻りたくない」

その通りだった。

腐敗した政治家。

責任を取らない官僚。

国民より組織を守る企業。

努力が報われず、真面目な人間ほど損をする社会。

榊原は、そんな日本を肯定できなかった。

しかし。

今の日本も、肯定できなくなり始めていた。

「二つの選択肢しかないと思わされる時が、
一番危険なんですよ」

榊原は言った。

「腐敗か、独裁か」

玲奈は初めて笑った。

「だから、あなたはまだ生きているんです」

その言葉を聞いた瞬間。

榊原の背筋を、冷たいものが走った。

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## 第六章 本来の日本

クーデターから三年後。

日本は世界で最も安全な国の一つになっていた。

経済は回復した。

失業率は下がった。

出生率もわずかに上昇した。

企業の不正は減った。

官僚の天下りは消えた。

政治家の資産は公開された。

公共事業は監視されるようになった。

多くの人々が言った。

「昔より、ずっと良くなった」

それは事実だった。

誰にも否定できない。

しかし、もう一つの事実もあった。

政府を批判する人間は減った。

いや。

減ったのではない。

発言しなくなった。

誰も、自分が次の「国民の敵」
にされることを望まなかった。

ある日、榊原は一枚の内部資料を手に入れた。

L'sコーポレーションと日本国再生評議会。

その関係を示す資料だった。

クーデター当日。

日本各地で動いた部隊。

その兵站。

通信。

資金。

すべてが、L'sの関連企業に繋がっていた。

榊原は理解した。

日本を変えたのは革命家ではない。

政治家でもない。

軍人でもない。

**企業だった。**

そして、その企業は、
日本を救ったのかもしれない。

しかし同時に。

日本という国家を、
誰にも見えない形で所有したのかもしれなかった。

榊原は原稿を書き始めた。

タイトルは決めていなかった。

だが、最初の一文だけは決まっていた。

**「我々は、腐敗した日本を破壊することには成功した。

しかし、破壊したあと、
誰が新しい日本を所有するのかを考えていなかった。」**

その夜。

彼の部屋の窓から、東京の街が見えた。

静かだった。

あまりにも静かだった。

かつて、この国には怒号があった。

抗議があった。

混乱があった。

不満があった。

今はない。

榊原は窓を開けた。

遠くで、子供たちの笑い声が聞こえた。

平和だった。

少なくとも、表面上は。

彼は思った。

もしかしたら、これでいいのかもしれない。

人々が安全に暮らせるなら。

真面目な人間が報われるなら。

多少の自由が失われても。

しかし、その瞬間。

榊原の端末に、一通のメッセージが届いた。

差出人は不明。

そこには、たった一文だけが書かれていた。

**「次に排除されるべき
『日本を貶める者』のリストを送ります。」**

添付ファイルを開く。

そこには。

政治家。

企業経営者。

大学教授。

作家。

活動家。

そして。

最後のページに、榊原直人の名前があった。

窓の外では、東京が静かに眠っていた。

秩序だった。

安全な国。

真面目な人間が報われる国。

誰もが望んだはずの、新しい日本。

榊原は画面を閉じた。

そして初めて理解した。

国家が本当に壊れるのは、街が燃える時ではない。

誰もが、

「自分だけは大丈夫だ」

と信じ始めた時なのだ。

静かな東京の夜。

遠くでサイレンが鳴った。

誰かが連れて行かれた。

だが、もう誰も窓を開けなかった。

そして日本は、今日も平和だった。

誰もが、そう信じていた。