第三百五十三弾「器用貧乏の男」の続きです

 

 

 弓桁の一件があってから、
五郎が営業部の中で完全に孤立する
ということはなくなった。
だが、それは決して「歓迎された」
ということを意味するものではなかった。

 あの一件を評価する声は、確かに存在した。
だがそれは、部署内でもごく少数の人間に限られていた。

下請けの工場や協力会社に対して、
普段から対等な立場で接している数人
――彼らは、五郎が工場側の担当者と
交渉する様子を見て、素直に「大したものだ」
と感心していた。
工場を単なる駒として、頭を下げさせるべき
下位の存在としか見ていない人間には、
決して真似のできないやり方だったからだ。

 だが、そうした少数派とは反対に、
多くの本社社員にとって、
五郎のあの振る舞いは評価に値するものというより、
むしろ「時代遅れの田舎臭さ」の象徴として映っていた。

「支社と本社じゃ、そもそもやり方が違うんだよな」

「わざわざ電話一本で済む話を、あんなに丁寧に、
しかも自分から工場に頭下げてまとめるとか、
暇なんだね」

「本社は本社のスピード感があるんだから、
支社時代のやり方を持ち込まれてもね……」

 直接五郎に向けられる言葉ではなかったが、
フロアの空気の端々から、
そうした声が漏れ聞こえてくることがあった。
目立ちたがりの田舎者。効率を知らない旧世代。
彼らの目には、五郎のあの行動は、
そういうレッテルの下にしか収まらないものだった。

 皮肉なことに、五郎自身、
本社と支社でやり方が違うということを、
誰よりも痛感していた。
だからこそ、二十歳も年下の井上晴人に頭を下げて、
一から仕事のやり方を教わっているのだ。
五郎にしてみれば、それは当然のことであり、
恥じることでも何でもなかった。
新しい環境に来たのだから、
そこのやり方に合わせて学び直す。
ただそれだけの話だった。

 そして何より、五郎自身は、
あの弓桁とのやり取りを、
大した出来事だとは全く思っていなかった。

 工場の話を聞き、要点を整理し、
営業側にわかる言葉に翻訳して伝える。
それだけのことだ。
特別な知識でも、特別な才能でもない。
ただ、支社時代に人手が足りず、
工場の手伝いに駆り出されたことが人より多かったから、

たまたま人より少しだけ、
工場の事情に詳しいというだけのことだ。
誰にでもできることを、たまたま自分がやっただけ。
五郎はそう信じて疑わなかった。

 むしろ五郎の中には、
密かな引け目のようなものすらあった。
本社に来て、五郎が目にしてきた社員たちは、
皆それぞれに秀でた何かを持っていた。
ある者は圧倒的な交渉力で大口の契約を
次々と取ってくる。
ある者は複雑な製品仕様を瞬時に理解し、
技術的な質問にも澱みなく答える。
ある者は数字の分析に長け、
市場動向を的確に読み解いてみせる。
それぞれが、その道の「特別な人間」だった。

 その中に混じって、
自分にはこれといった尖った武器が何もない。
営業もそこそこ、事務もそこそこ、
工場の勝手もそこそこわかる。
だがそのどれ一つとして、胸を張って
「これが自分の強みだ」と言えるものではない。
五郎の自己評価の中で、自分はあくまで
「本社の特別な人々」の水準には遠く及ばない、
平凡な支社上がりの人間でしかなかった。
だからこそ、弓桁からの称賛にも、
心のどこかで「そんな大したことじゃないのに」
という戸惑いが、常について回っていたのだった。

---

 本社に来て二週間ほどが経ったある日の午後、
五郎は営業フロアの隅で、
新入社員の杉原が電話口で
頭を下げ続けているのを見かけた。

「本当に申し訳ございません……
はい、はい、重々承知しております……」

 もう十分近く、
その姿勢を崩さずに謝罪の言葉を繰り返している。
額には汗が滲み、受話器を握る手が微かに震えていた。
何かただならぬことが起きているのは、
その様子だけで容易に見て取れた。

 五郎は自分のデスクから、
そっと杉原の方へ近づいていった。

「杉原くん、大丈夫か。何があった」

 電話を切った杉原は、蒼白な顔で振り返った。

「あ、野中さん……。
実は、先月客先から聞き取ってまとめた要望書に、
不備があったみたいで。
設計が終わった段階で、
寸法の記載に食い違いがあることが発覚して……。
今、設計課の方に平謝りしてたんですが」

「設計課の担当者と、電話で?」

「はい。もう十分くらい謝ってるんですけど、
なかなか納得してもらえなくて」

 五郎はしばらく考えてから、杉原に静かに言った。

「杉原くん、悪いけど、
その電話、俺に代わってもらえるか」

 戸惑う杉原から受話器を受け取ると、
五郎は設計課の担当者に対して
丁寧に謝罪の言葉を述べ、
そして続けてこう言った。

「このたびはご迷惑をおかけして
誠に申し訳ございません。
詳細について、こちらから直接お伺いして
経緯をご説明させていただければと思います。
今からそちらに向かいますので、
少々お時間いただけますでしょうか」

 電話を切ると、五郎は杉原に向き直った。

「行くぞ、設計課に」

「え、でも、電話でもう謝ったんですけど……」

「同じビルの中にいるんだから、
まずは電話じゃなくて、直接会いに行かないと。
こちらの意向は、電話だけじゃ伝わらないよ」

 杉原は釈然としない顔をしていた。
電話で用が足りるなら、
わざわざ足を運ぶ必要はないのではないか
――そう思っている顔だった。
だが五郎にとって、
それは若い世代の多くが見落としがちな、
しかし決定的に重要な部分だった。

 電話越しの言葉は、どうしても平板になる。
表情も、頭を下げる仕草も、相手には伝わらない。
だが直接顔を合わせ、頭を下げる姿を目にした相手は、
そこで初めて、言葉の裏にある誠意の重みを感じ取る。
人間の感情というのは、
そういう物理的な距離の近さによって、
驚くほど大きく揺れ動くものなのだ。

 それは、飲み会というものに対する
若い世代の忌避感にも通じる話だと、五郎は思っていた。

今の若手社員の多くは、
業務時間外の付き合いを無駄なものと見做し、
極力避けようとする。
その気持ちも、五郎にはよくわかった。
だが、いざという時、
困った時に手を差し伸べてもらえるかどうかは、
そうした普段からの人間関係の積み重ねに
大きく左右される。
友人であれば、頼まれずとも助けたいと思う。
だが、特に関わりのない相手であれば、
助ける必要性を感じない人間の方が多い。
そしてそれは、自分に何かしらの負担や
マイナスが伴う場合であればあるほど、
より顕著になる。

 五郎自身、新入社員だった頃は、
他部署や下請けの人間たちが開く飲み会に、
よく顔を出していた。
当時は誘われるがままに参加していただけだったが、
後になって、そうした席で築いた関係性に
何度も助けられることになった。
無理を聞いてもらえたのも、
融通を利かせてもらえたのも、
あの飲み会の席で交わした、
たわいもない会話の積み重ねがあったからこそだった。
それに気づいてからは、五郎は自ら進んで、
そうした場に参加するようになっていったのだった。

---

 設計課のフロアに足を踏み入れると、
五郎は杉原を伴ったまま、大きな声で頭を下げた。

「失礼します、営業部です。
この度は設計課の方々に御迷惑をおかけしまして、
誠にすみませんでした。
担当の杉原と共に、謝罪に伺いました」

 その声に気づいて、何人かの社員が顔を上げ、
突然現れた二人を見た。
中の一人が、意外そうな表情を浮かべて声を上げた。

「あれ? 五郎ちゃんじゃないか」

 その男は椅子から立ち上がり、
五郎の方へと歩み寄ってきた。
五郎は頭を上げてその顔を見て、目を丸くした。

「もしかして……秋山さん?」

 秋山と呼ばれたその男は、五郎の肩を軽く叩いた。

「いつの間に本社に栄転したんだよ。教えてくれよ〜」

 朗らかに笑う秋山に、
五郎も思わず頭をかいて苦笑いした。
隣では、事情の飲み込めない杉原が、
ぽかんとした顔で二人のやり取りを見つめている。
それに気づいた五郎が、杉原に向かって説明した。

「秋山さんは、
俺が支社時代にお世話になった設計士さんでね。
たまに一緒に飲んだこともあるんだよ」

 秋山は、懐かしむように腕を組んで杉原に言った。

「当時、五郎はいつも無理難題を押し付けるんだけどな、

その度に手土産持って飲みに誘われてよ。
こっちも仕方なく付き合ってやってたんだよ」

 そして秋山の視線が、杉原の方へと向いた。

「お前さんが、今回やらかした新人だろ? 
でもまぁ、五郎に学べば、今後は成長するだろうな。
今回は、多めに見てやるよ」

「そんな簡単に済ませていいんですか?」

 五郎が慌てて口を挟むと、
秋山は鷹揚に笑って答えた。

「課長指示で、どうにかするよ」

 その一言に、五郎の顔から驚きの色が消えなかった。

「秋山さん……本社設計課の課長だったんですか?」

「もうすぐ定年退職だけどな」

 秋山はそう言って、屈託なく笑ってみせた。

(以降、続く)
 

# 器用貧乏の男

 東京本社の営業部フロアは、
五郎がこれまで勤めてきた地方支社のそれとは
何もかもが違っていた。
天井が高く、窓の外には他の高層ビルが林立し、
床には埃ひとつ落ちていない。
そして何より、
そこに集まった社員たちの視線が違っていた。

「本日付で、地方支社から異動して参りました
野中五郎です。至らぬ点も多いかと思いますが、
何卒よろしくお願いいたします」

 五郎は深く頭を下げた。
頭を下げている間だけは、
あの視線から逃れられる気がした。
だが顔を上げれば、また同じ空気が待っている。

 拍手はまばらだった。
義理で叩かれる拍手というものが、
これほど乾いた音を立てるものだとは
五郎は知らなかった。
前列に座る若い社員の何人かは、
露骨に眉をひそめてスマートフォンの画面に
視線を落とし、後列では小さな囁き声が交わされていた。

聞き取れずとも、その内容は容易に想像がついた。

 ――何であんな歳のおっさんが、
しかも地方支社から。

 ――どうせ会長の縁故だろう。

 ――使えないから左遷ならぬ
「左遷の逆」ってやつじゃないの。

 実際、五郎自身がそう思っていたのだから、
彼らを責める気にはなれなかった。
五十五歳、地方支社一筋三十年。
年功序列でようやく部長の椅子に座れたが、
それも本社から見れば「支社止まりの部長」でしかない。
リストラの対象にこそなれ、
本社への栄転など五郎の人生設計の
どこにも存在しなかった選択肢だった。

 小田桜子――かつて支社時代に
五郎の下で働いていた、あの生真面目な後輩が、
今や会長秘書筆頭になっているという話は
風の噂で聞いていた。
だが、まさか彼女がこの人事に関わっているとは、
五郎はこの時点ではまだ知らなかった。
ただ、辞令を受け取った日から
「なぜ自分が」という疑問だけが、
頭の中でずっと渦を巻いていた。

 挨拶が終わると、部長の田渕という男が
形式的に五郎を紹介し、
あとは各自の仕事に戻るよう促した。
誰も五郎に近づいてこようとはしなかった。
まるで彼が透明な壁の向こうにいる
人間であるかのように、
社員たちは五郎の周りだけを避けて動いていた。

 五郎は用意されたデスクに座り、
パソコンの電源を入れる真似だけをしながら、
内心では今すぐこの場から消えてしまいたい
と思っていた。
三十年の会社員生活で培った経験も、地方での実績も、
この部屋では何の意味もなさない。
むしろ「浮いている」という事実だけが、
五郎の存在を際立たせていた。

 昼休みになっても、誰も彼を食事に誘わなかった。
五郎は仕方なく一人で近くの定食屋に入り、
味のよくわからない生姜焼きを黙々と口に運んだ。

「こんな思いをするために、東京に来たのか……」

 誰に聞かせるでもなく、五郎はそう呟いた。

---

 そんな五郎に唯一、
まともに声をかけてきたのが井上晴人だった。
三十五歳、営業部では中堅どころの社員で、
年齢は五郎より二十歳近く下になる。

「野中さん、システムの使い方、
まだ慣れてないですよね。
よかったら教えましょうか」

 昼休み明け、晴人は特に気負う様子もなく、
五郎のデスクの脇に椅子を持ってきて座った。
周囲の視線を気にする素振りもない。
五郎はその屈託のなさに、
少しだけ救われる思いがした。

「ああ、助かるよ。
正直、本社のやり方はさっぱりでね」

「地方支社って、結構やり方違うんですよね。
うちの会社、本社と支社で
使ってるシステムが微妙に違うから」

 晴人は手際よく、受発注システムの操作方法や、
社内稟議の通し方、営業日報のフォーマットなどを
一つひとつ説明してくれた。
五郎はメモを取りながら、必死にそれを頭に叩き込んだ。

三十年間積み上げてきた経験があっても、
こういう事務的な手続きの違いばかりは、
ゼロから覚え直すしかない。

「野中さん、覚えるの早いですね。
もっと年配の人だと、
こういうのに苦手意識持つ人多いのに」

「まあ、これでも一応、支社では部長やってたからね。
新しいことを覚えるのは嫌いじゃないんだ」

 そんな会話を交わしていた矢先、
フロアの向こうで唸り声のようなものが聞こえた。
声の主は弓桁総一郎、
営業部の中でも一際目立つ存在の中堅社員だった。
三十歳前後、恰幅がよく声も大きい。
契約件数はいつも部内トップクラスで、
上司からの覚えもめでたい、
いわば営業部のエースだ。

「……いや、だからその
『歩留まりの関係で納期を再調整したい』
っていうのが、具体的にどういうことなのか
教えてほしいんですけど」

 弓桁は電話を片手に、明らかに苛立った様子で
パソコンの画面を睨みつけていた。
工場の担当者と電話でやり取りをしているらしい。

「え、いや、その、公差がどうとか言われても……
とりあえず、一旦切りますね。折り返します」

 電話を切った弓桁は、大きなため息をつくと、
頭を抱えてデスクに突っ伏した。

「くそ、何言ってるか全然わかんねえ……」

 晴人が小声で五郎に耳打ちする。

「弓桁さん、営業成績は部内トップなんですけど、
工場側の技術的な話になると急にダメになるんですよ。
専門用語出されると、もう思考停止しちゃって」

「歩留まりとか公差とか言われてたね」

「そうなんです。
今回、工場の生産ラインの都合で納期が
ずれ込みそうだって話らしいんですけど、
工場側の説明が専門的すぎて、
弓桁さん、何をどう客に説明していいか
わからないみたいで」

 五郎はしばらく黙って弓桁の様子を眺めていた。
デスクに突っ伏したまま動かない背中には、
焦りと苛立ちがそのまま滲み出ていた。
契約を取ることには長けていても、
その後工場との調整で躓く。
それは決して弓桁の能力が低いからではなく、
単に営業と製造という、畑の違う知識の間に
橋がかかっていないだけのことだった。

 五郎は自然と、
弓桁のデスクの方へ足を向けていた。

「弓桁くん、といったかな。
よかったら、その話、聞かせてもらえるかい」

 弓桁は突然声をかけられて驚いたように顔を上げた。
今朝の挨拶で見た「あの浮いた新参者」が、
なぜ自分に話しかけてくるのか、
その顔には戸惑いが浮かんでいた。

「あ……野中さん、でしたっけ。
いや、大丈夫です、自分で何とかしますんで」

 やんわりとした拒絶だった。
無理もない。
今朝方冷たい視線を送っていた側の人間が、
まさかこの中堅社員だったかもしれないのだ。
だが五郎は気にする様子もなく、
机の上に広げられた資料に目をやった。

「歩留まりの話をしてたみたいだけど、
工場のラインでロスが出てるってことなら、
公差の見直しと納期は切り離せない話になる。
客先にどう説明するかも変わってくると思うんだが」

 その一言で、弓桁の表情が変わった。

「……え、今の電話、聞こえてました?」

「いや、聞こえたというより、
まあ、大体の予想がついただけだよ。
よかったら、工場の担当者、
もう一度呼び出してもらえるかい。
一緒に話を聞かせてもらえたら」

 半信半疑ながらも、弓桁は工場に再度電話をかけ、
五郎に受話器を渡した。

「もしもし、野中と申します。
先ほど弓桁が伺っていた
歩留まりの件なんですが……」

 五郎はそこから、工場側の担当者と
淀みなく会話を始めた。
金型の摩耗による公差のズレ、
それに伴う不良率の上昇、
ライン調整にかかる時間、
代替ラインの空き状況
――専門用語が飛び交う中でも、
五郎は一つも聞き返すことなく、的確な質問を返し、
要点を整理していく。
弓桁はその様子を、
口を半開きにしたまま見つめていた。

 十五分ほどのやり取りの後、
五郎は電話を切ると、弓桁の方に向き直った。

「大体話が見えたよ。
要するに、今使ってる金型が摩耗してきていて、
このまま生産を続けると不良品が増える。
だから一旦金型を交換したいんだが、
交換作業に三日かかる。
今のスケジュールのまま行くと、
その三日がまるまる納期に上乗せされる形になる、
ということらしい」

「はあ……」

「ただ、工場側は、二号ラインが来週なら
空くらしいから、そっちを使えば
金型交換の間も生産を止めずに済むと言っている。
ただしその場合、二号ラインの段取り替えに
丸一日かかるから、結局納期は当初より
二日遅れになる。
逆に一号ラインのまま強行すれば、
不良率が上がる分、追加の検品工程が必要になって、
これも結局二日から三日は遅れる計算になる」

 五郎は淡々と、しかし丁寧に説明を続けた。

「つまり、どちらにしても二日から
三日の遅れは避けられない。
だったら、品質を落とさずに済む二号ラインでの
生産の方が、客先への説明としても
筋が通ると思うんだが、どうだろう」

 弓桁はしばらく呆然としていたが、
やがて我に返ったように何度も頷いた。

「……そうですね。それでいきましょう。
いや、それしかないです。
すみません、俺、恥ずかしながら、
金型の交換がどうとか、
ライン云々の話が全然頭に入ってこなくて」

「専門が違うんだから、仕方ないよ。
営業は営業で、客先との関係を作ることに
全力を注ぐべきだ。
工場の細かい話まで全部理解しろというのは、
そもそも無理な話なんだ」

 五郎はそう言うと、弓桁の了承を得た上で、
改めて工場側に連絡を入れ、
二号ラインでの生産切り替えと、
それに伴う正式な納期を取り決めた。
話がまとまった時には、
弓桁の表情からすっかり険しさが消えていた。

「野中さん……ありがとうございます、本当に。
これ、客先に連絡できないまま今日一日、
ずっとどうしようって悩んでたんです」

 弓桁は両手で五郎の右手を包み込むように握った。
その握力の強さに、五郎は少し面食らったほどだった。

「いやいや、そんな大したことじゃないよ」

 五郎は照れくさそうに頭をかいた。

「地方支社だと人が少ないから、
納期が近付くと工場の仕事を出向いて
手伝う事もあったから、
工場の仕事も結構、知っているんだよね」

 その言葉に、
傍で見ていた晴人が驚いたように口を挟んだ。

「え、営業なのに
工場の現場作業までやってたんですか?」

「まあ、人手が足りない時はね。
営業も事務も工場も、
猫の手も借りたいくらい忙しい時期があるんだよ、
支社は」

 軽く笑ってそう答える五郎だったが、
実際のところ、彼が語った内容は、
工場の作業工程そのものを深く理解していなければ
到底出てこないものだった。
金型の摩耗の兆候、ライン切り替えにかかる
正確な所要時間、検品工程の負荷
――それらを瞬時に結びつけ、
営業側にも工場側にも納得できる着地点を見つけ出す。
それは付け焼き刃の知識では
到底できることではなかった。

「いや、そこまでわかってるのが凄いですよ。
俺、正直、野中さんのこと、
今朝までは失礼ながら
『なんで今更こんな人が本社に』
とか思ってましたけど……」

「はは、それは仕方ないよ。
実際、俺もそう思ってるくらいだから」

 五郎は自嘲気味に笑ってみせたが、
弓桁の言葉には嘘のない称賛が込められていた。

「だからと言って、
工場の作業が完璧に出来るわけじゃないから、
大した事は無いよ。ただの器用貧乏なだけだよ」

 五郎は謙遜するように、そう付け加えた。

 器用貧乏。
この言葉を、五郎自身も何度も自分に対して使ってきた。

何をやらせてもそこそこできる。
だが、これといって突出した専門性があるわけではない。

営業もできる、事務もできる、現場作業も一通りわかる。

それは裏を返せば、「これが自分の強みだ」
と胸を張って言えるものが何一つない、
ということでもあった。

 器用貧乏という言葉には、多分に自虐と、
そして周囲からの軽い蔑みが含まれている。
「何でもできるが、何にもなれない人間」
――そういうニュアンスで使われることが多い。
五郎自身、この三十年間、
幾度となくその言葉を自分自身に投げかけてきた。
ある一つの分野を極め、
名人と呼ばれるような人間に対する、
密かな劣等感すらあった。

 だが、本当にそうなのだろうか。

 営業の言葉と、工場の言葉。
契約を取る力と、ものを作る現場の理屈。
その両方を理解し、間に立って翻訳できる人間は、
決して多くない。
一つの分野を極めることも尊いが、
複数の分野をつなぎ、橋を架けることもまた、
それとは違う種類の、
しかし同じくらい重要な技能なのだ。

 ただ、その価値は、
会社という組織の中では驚くほど正当に評価されない。
縁の下の力持ちというやつは、
縁の下にいる限り、誰の目にも留まらない。
派手な成果を上げるわけでもなく、
目立った実績として数字に残るわけでもない。
ただ、その人間がいなくなった時に初めて、
周囲は「あの人がいたから、うまく回っていたのだ」
と気づく。
それがこの手の能力の宿命だった。

---

 その夜、本社ビルを出た小田桜子は、
会長室のある最上階から、
営業部のフロアを見下ろすようにして、
ひとり小さく息をついた。

 弓桁と野中の間に立ち、
工場との調整をまとめる五郎の姿は、
フロアの防犯カメラの映像として、
桜子の手元のタブレットにも映し出されていた。
彼女は今日一日、
それとなくその映像を確認していたのだ。

 ――やっぱり、野中さんだ。

 桜子がかつて地方支社で五郎の下で働いていた頃から、

ずっと感じていたことがあった。
この人は、決して目立つタイプではない。
派手な実績を打ち立てるわけでもない。
だが、部署の中でどこか歯車が噛み合わなくなった時、
気づけばいつも、五郎がその隙間に静かに入り込み、
物事をスムーズに回してしまう。

 本社に来て、桜子は痛感していた。
本社の人間は皆、それぞれの分野において優秀だった。
営業は営業のプロフェッショナルであり、
開発は開発の、経理は経理のエキスパートだった。
だが、その専門性が高ければ高いほど、
部署と部署の間には見えない壁ができていく。
営業は工場の言葉を知らず、
工場は営業の事情を知らない。
開発は現場を知らず、
現場は開発の意図を汲み取れない。

 そうした壁の隙間で、どれほど多くの案件が滞り、
どれほど多くの機会が失われてきたことか。
桜子はその非効率さを、
秘書として会長の傍らで日々の会議や
報告書を通して痛いほど見てきた。

 誰か、
その壁と壁の間をつなげられる人間はいないか。

 そう考えた時、
桜子の頭に真っ先に浮かんだのが、
かつての上司、野中五郎の顔だった。

 彼女は会長に直談判した。
「地方支社に、埋もれている人材がいます」と。
会長は最初、五十五歳の支社部長を
本社に呼ぶことに難色を示した。
年齢も、これまでの実績も、
決して華々しいものではない。
だが桜子は食い下がった。

「派手な実績は何もありません。
ですが、野中さんは、
誰も繋げられなかったものを繋げられる人です。
今のうちの会社に、
一番欠けているものだと思います」

 最終的に、会長はその進言を受け入れ、
異例の人事異動が決定した。

 だが、桜子は五郎本人には、
この経緯を一切伝えていなかった。
伝えれば、五郎は必要以上に恐縮し、
あるいは
「自分にそんな大層な役目が務まるわけがない」
と固辞しかねない。
それに何より、五郎自身が己の価値に気づかぬまま、
自然体で本社という場に馴染んでいく過程を、
桜子はどこかで見てみたいと思っていた。

 今日一日、
五郎がどれほど冷たい視線に晒されていたかも、
桜子は知っていた。
それでも、彼が誰かに背を向けることなく、
目の前で困っている人間に
静かに手を差し伸べる姿を見て、
桜子は確信を深めていた。

 ――大丈夫。この人なら、きっと。

 タブレットの画面の中で、弓桁に両手で手を握られ、
照れくさそうに頭をかいている五郎の姿を見ながら、
桜子は久しぶりに、
心の底からの安堵の笑みを浮かべていた。

(以降、続く)
 

第三百五十一弾「浮かぶ街、視られる街」の続きです



 大学の敷地に入ると、
リオの右足がわずかに軋むような感覚を伝えてきた。
実際には軋んでなどいない。
それは彼の脳が「懐かしさ」として処理する、
ある種の記憶の再生に過ぎなかった。

 十年前――リオがまだ十二歳だった夏の夕方。

 あの日、彼は妹と手を繋いで歩道を歩いていた。
ロボットタクシーしか走らないはずの通りに、
一台の車が異音を立てて
突っ込んできたのはその時だった。
後にわかったことだが、
その車の運転手は違法改造によって
自動運転システムを強制的にキャンセルし、
AIの介入を完全に遮断していた。
都市の交通網は本来、
そんな暴走を許すようには設計されていない。
だが「絶対」という言葉は、
悪意という穴の前ではいつも脆い。

 運転手は正気を失ったように加速し、
歩道を突き進んだ。
リオは咄嗟に妹を突き飛ばした。
その一瞬の判断が妹の命を救い、リオの右半身を奪った。

同じ現場には、身重の女性もいた。
彼女とその夫、そしてもう一人の通行人が命を落とした。

三人が死傷したその事故は、
この時代においては「事件」と呼ぶにふさわしいほど
稀有な出来事だった。
街中で人が車に轢かれるということ自体が、
もはや歴史の教科書に載るような
異常事態になっていたのだ。

 容疑者は逮捕からひと月と経たずに死刑判決を受け、
控訴の機会すら実質的に与えられぬまま刑が執行された。

当時、これを「性急すぎる」と批判する声も
一部にはあった。
だが、被害者遺族の慟哭と、
二度と同じ悲劇を生まないという
社会全体の意思の前では、
その批判の声はあまりにも小さく、
あまりにも軽かった。

 リオの右腕と右足は、
あの日を境に「本物」ではなくなった。
だが今、彼がその事実を意識することはほとんどない。
装着された外骨格フレームは、
彼の脳が発する電気信号をリアルタイムで読み取り、
寸分のタイムラグもなく関節を駆動させる。
指を握ろうと思えば指が握られ、
歩こうと思えば足が前に出る。
かつての「義肢」という言葉が持っていた
不自由さのイメージは、
この時代にはもう当てはまらない。
それは失われた肉体の代替物ではなく、
リオの意思をそのまま実現する、
もう一つの体だった。

 ――痛みだけは、再現されない。

 技術は多くを取り戻してくれた。
だが取り戻せなかったものもある。
リオはそれを、
誰にも言わずに胸の奥にしまっていた。

 *

 講義棟の中庭で、
リオはいつものベンチに彼女の姿を見つけた。

「リオ?」

 彼が近づく前に、彼女
――リタ・クローデルの方が先に彼の名を呼んだ。
彼女の視線はまっすぐにリオの方を向いていたが、
その瞳が実際に光を捉えているわけではない。
リタは生まれつき、
視神経そのものが機能していなかった。
網膜は健常でも、
そこで受け取った光の情報を脳へ届ける経路が、
生まれつき欠損していたのだ。

 だが今、リタは確かにリオの顔を「見て」いた。

 彼女のスマートグラスが捉えた映像情報は、
専用のプロセッサによって電気信号へと変換される。
その信号は、ナノマシンによって修復
・再構築された視神経の経路を通り、
脳の視覚野へと届けられる。
脳はそれを「見えている」情報として認識する。
生まれてから一度も光を知らなかったはずのリタが、
今は木々の緑を、空の青さを、
そしてリオの表情の微妙な変化までも認識できていた。

 もしこの時代にスマートグラスと
ナノマシン医療がなければ、
リタは一生、光のない世界で生きていただろう。
杖を頼りに、音と匂いだけを頼りに、
この浮遊都市の複雑な空間を
一人で歩き回ることさえ困難だったに違いない。
今の彼女は、リオと同じ速度で歩き、
同じ景色を見て、同じように笑うことができる。

 科学技術は、全ての人を救うわけではない。

 それは事実だった。
生まれつきの障害の種類によっては、
いまだ有効な治療法が存在しないものも多い。
だが、だからといって
「全員を救えないなら、意味がない」
と切り捨てるのは、
あまりに乱暴な理屈だとリオは思っていた。
リタは救われた。
それは紛れもない事実であり、
その事実の重みを、
誰にも否定させたくはなかった。

 実際、リオの周囲にも
「そんな技術に頼るのは不自然だ」
「一部の人間しか恩恵を受けられない技術に
税金を投じるのは不公平だ」
と口にする者は少なくなかった。
だがそういう人間に限って、
自分自身がその技術の恩恵を受ける立場になった途端、
手のひらを返したように利用を望む。
リオはそれを何度も目にしてきた。

 一つの案に完璧な解決を求め、
少しでも穴が見つかれば全てを廃案にしようとする。
そうしているうちに、
救えたはずの命が、救えたはずの人生が、
静かに失われていく。
二重、三重に案を重ね、
穴を塞ぎながら前進するしかないのに、
多くの人間はそれを面倒だと感じ、
いつか現れる「完璧な答え」をただ待ち続けようとする。

その間に積み重なる犠牲には、目を向けようとしない。

 人類は、本当に愚かだ。

 だがせめて、
自分たちが愚かであると自覚している人間は、
まだ救いがある。
厄介なのは、自分たちを「優秀な種族」
だと錯覚している者たちだった。
その錯覚こそが、
目の前で苦しむ人間を見捨てる正当化に使われ、
結果としてより多くの犠牲を生み出している。
リオはそのことに、
この十年で嫌というほど気づかされていた。

「何、ぼーっとして」

 リタの声に、リオは我に返った。
彼女はいつものように、
少しだけいたずらっぽく微笑んでいる。

「いや……何でもない。行こうか」

 リオは右手を差し出した。
装具越しに伝わる彼女の体温は、
機械の指先を通してさえ、
確かに「本物」だった。

(つづく)

 

 

 

 

# 第一章 浮かぶ街、視られる街

 二五一二年、六月。
 霧雨の残る朝の空に、
無数の車体がまるで見えない糸に
吊られているかのように滑らかに移動していく。
都心部の高度制限は地上五メートル
――衝突を避けるための最低限の逃げ場しか
与えられていないその空間を、
ロボットタクシーの群れが
息をするように行き交っていた。

 リオ・カザマは後部座席で窓に頬杖をつき、
その光景をぼんやりと眺めていた。
彼が乗る車体――G-UNITを搭載した流線型のポッド
――は、彼が指一本触れることもなく
AIによって完璧に制御されている。
加速も減速も、車線変更も、
まるで熟練の運転手が百人がかりで
計算し尽くしたかのように滑らかで、
リオの体には重力の変化すら
ほとんど伝わってこなかった。

「経路変更、二分の遅延が発生します」

 車内AIの声が告げると同時に、
進行方向のホログラムに迂回ルートが表示された。
前方で緊急車両が上昇待機をしているらしい。
リオはその様子を目で追った。
緊急時でさえ、上下に五メートル逃げるだけ
――それがこの都市の空の掟だった。
かつて二一世紀の人類が夢見た「空飛ぶ車」は、
G-UNITという重力制御装置によって確かに実現した。
ナノマテリアルで精製されたメインコアは、
電気を通すだけで浮遊と推進を同時にこなし、
乗用車が消費する電力は旧世代の電気自動車の
百分の一にも満たない。
だが、その恩恵を受けた都市は同時に、
空という最後の自由さえも厳密に区切ることを選んだ。

 人間が自らの意思でハンドルを握れるのは、
都市を遠く離れたクローズドサーキットだけだ。
そこでは高高度飛行も、急加速も、意のままに許される。

だがそれは特権であり、日常ではない。
ほとんどの市民は自動車を所有する意味を見出せず、
リオもまた例外ではなかった。
渋滞という言葉は、彼の世代にとっては
もはや歴史の教科書の中の単語でしかない。
事故のニュースも、彼が物心ついてから
ほとんど聞いた覚えがなかった。
自由に運転するという行為そのものが、
いつしか「趣味」という棚に
静かに収められていたのだ。

 ――便利だ。
安全だ。
それは間違いない。

 だがリオの腕には、
常に小さな違和感がまとわりついていた。
彼の手首で微かな光を灯すスマートバンドと、
耳元に骨伝導で語りかけるスマートグラス。
それらは彼のIDであり、財布であり、免許証であり、
そして彼のDNAと分かちがたく結びついた
「彼自身の証明」でもあった。
盗まれても意味がない。
持ち主のDNA情報と同期していない限り、
バンドもグラスもただの金属とガラスに過ぎない。

 便利だ。
だが、便利すぎる。

 リオの目に映る通りの景色――信号待ちの歩行者、
ベンチに座る老人、子どもを連れた母親
――彼ら一人一人が身につけているスマートグラスは、
警察の要請があれば映像を送信する。
つまりこの街を歩く誰もが、知らぬ間に
「移動する監視カメラ」になっているということだ。

 犯罪は激減した。
検挙率は九割を超えた。
誰もがそれを「正しいこと」だと教えられて育った。

 だが、リオの父はかつて検察官だった。

 彼はふと、三年前のことを思い出す。
父が仕事を失った日のことを。

 司法に携わる者は毎年、
思想試験と呼ばれる審査を受けなければならない。
中立性を保っているか、特定の思想に偏っていないか
――国家が定めた基準によって判定される、
いわば「精神の健康診断」だ。
父はその試験に、二年連続で「要注意」の判定を受けた。

理由は明かされなかった。
ただ、判定結果が出た翌日には、
父のオフィスの権限は凍結され、
法服を着ることは二度と許されなくなった。

 この制度が導入された当初、多くの弁護士や裁判官、
検察官が職を追われた。
人権派と呼ばれた弁護士たちは声を上げたが、
その声はやがて「犯罪幇助の可能性がある」
という一言で封じられていった。
実際に弁護士資格を剥奪された者も少なくない。
マスコミはこぞってこれを「思想統制だ」
「新しい形の粛清だ」と書き立てたが、
世論はそれを支持しなかった。
犯罪被害者たちの権利が
ようやく守られるようになったこの時代に、
加害者の側に立ち続けた者たちへの視線は、
日を追うごとに冷たくなっていったのだ。

 思想試験は司法関係者にとどまらず、
やがて教育関係者、
そして警察関係者にまで拡大された。
特に教育現場では、試験に耐えられず
教壇を去る者が後を絶たなかった。
かつて「聖職」と呼ばれた教師という仕事は、
いつしか「常に思想を測られる仕事」
へと姿を変えていた。

 リオの父は、それでも国を恨まなかった。
「正しいことをしていたつもりだった。
だが、正しさというのは時代によって形を変える。
俺はただ、時代の形に合わなかっただけだ」

 父はそう言って、静かに笑った。
その笑顔がどこか諦めを含んでいたことを、
リオは今でも覚えている。

 車が停止する。
目的地――M工科大学の正門前だった。
リオは降車する前に、ふと窓の外の空を見上げた。
灰色の雲の切れ間から、朝の光が僅かに差し込んでいる。
その光の中を、規則正しく整列した車列が
音もなく滑っていく。

 美しい。
そして、あまりにも整然としすぎている。

 リオはスマートグラスを軽く指で押し上げ、
車を降りた。

(つづく)
 

第三百二十六弾「異能の転生者」

第三百二十七弾「異能の転生者 その2」

第三百二十八弾「異能の転生者 その3」

第三百二十九弾「異能の転生者 その4」

第三百三十弾「異能の転生者 その5」

第三百三十一弾「異能の転生者 その6」

第三百三十ニ弾「異能の転生者 その7」

第三百三十三弾「異能の転生者 その8」

第三百三十四弾「異能の転生者 その9」

第三百三十五弾「異能の転生者 その10」

第三百三十六弾「異能の転生者 その11」

第三百三十七弾「異能の転生者 その12」

第三百三十八弾「異能の転生者 その13」

第三百三十九弾「異能の転生者 その14」

第三百四十弾「異能の転生者 その15」

第三百四十一弾「異能の転生者 その16」

第三百四十ニ弾「異能の転生者 その17」

第三百四十三弾「異能の転生者 その18」

第三百四十四弾「異能の転生者 その19」

第三百四十五弾「異能の転生者 その20」

第三百四十六弾「異能の転生者 その21」

第三百四十七弾「異能の転生者 その22」

第三百四十八弾「異能の転生者 その23」

第三百四十九弾「異能の転生者 その24」

の続きです

 

 

 

# 異能の転生者

## 第六十二章 二度目の国葬

### 一

土天ダン・グラファイトの国葬は、
ラングバルト侯爵の国葬から
三ヶ月も経たない時期に執り行われた。

同じ大聖堂だった。
同じ石造りの天井に、
同じ色ガラスの窓から光が差し込んでいた。
しかし空気は違った。

ラングバルト侯爵の国葬は、
政治的な意味合いが大きかった。
王国が誠意を示すための儀式という側面があった。

しかし今回は違った。

ダンを知る者たちが、本当の意味で悼んでいた。

騎士団の者たちが、正装で並んでいた。
その顔に、悲しみがあった。
上官への礼儀としての悲しみではなく、
この人を失ったという実感からくる悲しみだった。
ダンが長年、どのように騎士団を率いてきたかが、
その顔の一つ一つに現れていた。

民衆も集まっていた。

騎士団長の国葬だから来た者もいただろう。
しかし中には、
ダンに個人的に助けられた経験を持つ者もいた。
地方の紛争に騎士団が介入した時、
ダンが直接動いて救われた村がある。
その者たちが、わざわざ王都まで来ていた。

エリスとジノが、喪主として前に立っていた。

エリスは落ち着いていた。
泣いていなかった。
しかしその落ち着きが、
どれほどの力を要しているかは、
傍で見ていればわかった。

ジノは真っ直ぐ前を向いていた。

泣いていなかった。
泣くまいとしているのが、その顔に出ていた。
父親のような騎士になると言った少年が、
父親の国葬で泣くまいとしていた。

ルークは参列者の中にいた。

前回、ラングバルト侯爵の国葬には出席しなかった。
気まずかったからだ、とルークは自分に説明していた。
しかし今回は違った。
出席しないという選択肢が、ルークの中になかった。

思うところが多かった。

それだけではなかった。

ダンに対して、ルークは負い目があった。
最後まで真実を伝えられなかった。
火天ライナスが背後にいることを、
もっと早く察知すべきだった。
木天ジレルの毒を、もっと早く解析すべきだった。

全てにおいて、もっとできることがあった。

その後悔を抱えながら、
ルークはダンの国葬に立っていた。

式典が進んだ。

国王が言葉を述べた。
騎士団の幹部が言葉を述べた。
各地から送られた書簡が読み上げられた。

ジノが前に出た。

子供が喪主の言葉を述べることは、異例だった。
しかしエリスがそれを望んだのか、
あるいはジノ自身が望んだのか、
ジノは大聖堂の中央に立った。

「父は、弱い者の味方でした」

声が、大聖堂に響いた。

子供の声だった。
しかし揺れていなかった。

「強い力を持ちながら、
その力を自分のために使いませんでした。
いつも、守るために使っていました。
僕はそれを、ずっと見てきました」

ルークはジノを見ていた。

「父のような騎士に、僕はなります」

最後の言葉だった。

声が、少しだけ揺れた。
しかしそれだけだった。

大聖堂の中に、静かな拍手が広がっていった。

ルークは拍手をしながら、ジノの後ろ姿を見ていた。

あの子は、本当になるだろう、とルークは思った。
ダンの息子だから、というだけではなかった。
あの目を持つ子供は、言ったことをやり遂げる。

---

## 第六十三章 新しい風

### 一

国葬から数日後、
グレイの研究室に新しい顔が加わった。

アイーダ・ランドルフだった。

ルークが声をかけていた。
理由は単純だった。
ライナスが長期離脱した今、
火天の空白を埋められる可能性がある人物として、
アイーダ以上の候補がルークには見えなかった。

火、水、黒の三系統に風魔法の特別な適性。
魔力量は卓越。
そして、物事を正確に見る目
——ライナスが持っていなかった
最も重要な資質を、アイーダは持っていた。

グレイは最初、少し渋い顔をした。

「研究の場に、
部外者を入れることには慎重でいたいが」

「アイーダは入学試験の総合第二位です。
グレイ教授が認めない生徒ではないはずです」

グレイは少し考えて、承諾した。

しかしグレイの承諾がどういうものかを、
アイーダは最初の日に思い知ることになった。

---

校庭に出た最初の瞬間から、
アイーダは違和感を覚えた。

グレイの通常の授業は知っていた。
Aクラスの授業は、
他のクラスとは比べものにならない水準だった。
しかしこれは、その授業とも違った。

通常の授業には、段階があった。
基礎から応用へ、
理論から実践へ、という順序があった。

しかしグレイがフリーダに向ける指導には、
その段階がなかった。

最初から、高度だった。

「六系統の同時起動。前回より出力を二割増やせ」

グレイがそう言った時、アイーダは耳を疑った。
六系統を同時に、しかも前回より二割増し。
それがどれほどの難度かを、
アイーダは魔法使いとして即座に理解した。

理解した上で、到底できないと思った。

しかしフリーダはそれを、実行していた。

六つの色が、フリーダの周囲に同時に現れた。
それぞれが干渉せずに共鳴していた。
複合の出力が、確かに以前より高かった。

アイーダは自分でも試みた。

火、水、黒の三系統の同時起動から始めた。
通常であれば、それだけでも相当の集中力を要する。
しかし今日のグレイの要求水準には、
はるかに届かなかった。

三十分が経った時点で、
アイーダの魔力は半分以下になっていた。

一時間が経った時点で、アイーダは限界を感じていた。

「少し、見学させてください」

アイーダはグレイに言った。

グレイは頷いた。
批判も、励ましもなかった。
ただ、当然だという顔をしていた。

アイーダは端に下がって、フリーダを見た。

フリーダはまだ続けていた。

疲れているのはわかった。
額に汗があった。
しかし止まっていなかった。
グレイの次の指示を聞いて、
また別の複合魔法を試みていた。

アイーダは、入学試験の時のことを思い出した。

あの時のフリーダは、Cクラスの低位評価の生徒だった。

アイーダより遥かに下の位置にいた。
ルークがいなければ、二人の実力差は天と地ほどあった。

それが今は、逆転していた。

圧倒的に、逆転していたのだ。

今のフリーダと戦えば、
アイーダは手も足も出ないだろう。
その差は、入学時の差より
さらに大きいかもしれなかった。

こんなに早く、こんなに大きく——。

アイーダは自分の手を見た。

悔しい、という感情があった。
しかしそれよりも大きい何かがあった。

もっと上に行きたい、という感情だった。

この場所に来てよかった、とアイーダは思った。
自分の限界を、正確に見せてくれる場所だった。

フリーダの側にも、変化があった。

一人で指導を受けていた時より、表情に余裕があった。
アイーダという同年代の存在が、
同じ場所で努力していることが、
フリーダの中に何かをもたらしていた。

競う相手ではなかった。
しかし、向き合う相手がいることが、
フリーダの集中を高めていた。

一人で限界に向かい続けることと、
誰かと共に向かっていくことは、
同じ行為でも質が違った。
フリーダにとって、
アイーダの存在は予想外の形で
良い影響をもたらしていた。

---

## 第六十四章 空白

### 一

王国は、静かに揺れていた。

土天ダンの戦死。
木天ジレルの死亡。
火天ライナスの長期離脱。
そして水天アクアの精神的な不調。

六名いた天のうち、機能しているのは
白天ハインリヒと
黒天ヴィルヘルムの二名だけになった。

この事実が持つ意味を、
王国内の者たちは各自の立場で受け取っていた。

騎士団は、
天の空白が防衛力に与える影響を試算していた。
他国との力関係が、
どの程度変化するかを分析していた。

貴族たちは、
この状況をどう利用するかを考えていた。

そして魔法協会は、動いていた。

新たな天候補の選定が、協会内部で始まっていた。
空白を埋めることは急務だった。
天の数が減れば、魔法協会の影響力も比例して下がる。
それは協会にとって容認できない事態だった。

協会がピックアップした候補の中に、
二つの名前があった。

一つは、エドワード・タイン。

七十歳を超えた高齢の魔法士だった。
先代の木天を務めた経験を持つ。
現在は引退状態にあったが、
その実力は今も衰えていないと言われていた。
木天ジレルの後継として、最も手堅い選択だった。

協会にとって御しやすい人物でもあった。
高齢で保守的な思想を持ち、
協会の方針に従順だった。

しかしルークには、この名前に別の記憶があった。

エドワード・タイン。

自分が五歳の時、魔力鑑定を行った人物の一人だった。
微量の評価を告げた三人のうちの一人。
あの時の彼の顔を、ルークは今も覚えていた。

もう一つの名前は、トール・グレイブヤードだった。

ルークは、その名前を報告書で見た瞬間に、
少し目を細めた。

兄だった。

火、土、白の三系統が使える。
魔力量は至高の評価を受けている。
学業成績は常に首席クラス。
政治的な洞察力においても、
同年代の中で群を抜いている。

先代の火天を務めた
ドナルド・グレイブヤード伯爵の息子という血筋も、
その評価を支えていた。

能力だけを見れば、妥当な選択だった。

しかしルークは、兄が天になることの意味を、
政治的な観点から考えた。

トールは現在、特定の派閥に深く関わっていた。
天になれば、その立場が変わる。
天は王室にも教会にも魔法協会にも属さない、
独立した存在という建前がある。
その建前の下に置かれれば、
トールの政治的な動きに
制約が生まれる可能性があった。

魔法協会がトールを候補に挙げた理由が、
その点にあるとすれば——。

ルークは考えを止めた。

今すぐ結論を出す問題ではなかった。

---

### 二

グレイが動いた。

グレイ・サンダーズが公的な場で発言することは、
普段は少なかった。
しかし今回は違った。

王室側が、
天候補の選定において魔法協会の意向に
難色を示している
——その情報を得たグレイは、
タイミングを計っていた。

魔法協会が主導する選定は、
魔力量と系統の純粋さを基準にしていた。
それは従来の天の選び方だった。
一系統を極めた者が天になる
という原則に沿った選定だった。

しかしグレイは、
その原則そのものに異議を持っていた。

ルークとの研究で、グレイは知っていた。
魔法の可能性は、一系統の極みに留まらない。
複数系統の組み合わせ、魔法と別の力の共存
——それらが拓く領域は、
従来の天の基準を
根本から書き換える可能性を持っていた。

フリーダがその証明だった。

そしてアイーダも、まだ発展途上だが、
複数系統を扱える可能性を持っていた。

グレイは王室側の窓口に、書簡を送った。

内容は明快だった。

フリーダ・ラングバルトと
アイーダ・ランドルフを、天候補として推薦する。

その理由として、
グレイは三ヶ月間の研究記録を添付した。
フリーダの魔力量の推移、六系統の出力の変化、
複合魔法の達成記録
——全てが数値として記録されていた。

書簡を受け取った王室側の担当者は、
内容を読んで目を丸くした。

それから、国王のもとに走った。

グレイの書簡は、
魔法協会の選定に対する公式な異議申し立てだった。
しかしそれ以上に、
この王国の天の在り方そのものへの、
静かな挑戦だった。
 

第三百二十六弾「異能の転生者」

第三百二十七弾「異能の転生者 その2」

第三百二十八弾「異能の転生者 その3」

第三百二十九弾「異能の転生者 その4」

第三百三十弾「異能の転生者 その5」

第三百三十一弾「異能の転生者 その6」

第三百三十ニ弾「異能の転生者 その7」

第三百三十三弾「異能の転生者 その8」

第三百三十四弾「異能の転生者 その9」

第三百三十五弾「異能の転生者 その10」

第三百三十六弾「異能の転生者 その11」

第三百三十七弾「異能の転生者 その12」

第三百三十八弾「異能の転生者 その13」

第三百三十九弾「異能の転生者 その14」

第三百四十弾「異能の転生者 その15」

第三百四十一弾「異能の転生者 その16」

第三百四十ニ弾「異能の転生者 その17」

第三百四十三弾「異能の転生者 その18」

第三百四十四弾「異能の転生者 その19」

第三百四十五弾「異能の転生者 その20」

第三百四十六弾「異能の転生者 その21」

第三百四十七弾「異能の転生者 その22」

第三百四十八弾「異能の転生者 その23」

の続きです

 

 

 

# 異能の転生者

## 第六十章 報告

### 一

王城の正門は、以前と変わらない姿で立っていた。

あの夜、ルークが吹き飛ばした門だった。
ルークが帰り際に元通りにした門だった。
石と鉄の複合構造に、王家の紋章が金で刻まれていた。

ルークはその前に立って、
少しの間だけ、その門を見た。

あの夜と今日では、全てが違った。

あの夜は怒りがあった。
明確な目的があった。
向かうべき相手が見えていた。
しかし今日は違った。
今日のルークは、報告をしに来ていた。
本来はダンがするはずだったことを、
代わりにしに来ていた。

正式な訪問だった。

事前に使者を送り、時刻を調整し、礼装を整えた。
ルークにとって、それは慣れないことだった。
しかしダンの名代として来るのだから、
それが最低限の礼儀だった。

門をくぐった。

廊下を歩いた。

案内の者が先を歩いていた。
その背中を追いながら、
ルークは今日言うべきことを頭の中で整理していた。

感情的になってはいけない。
事実を、正確に、順序立てて伝える。
それだけだった。

---

通された部屋は、広かった。

王城の中でも中枢に近い場所にある謁見室だった。
天井が高く、両側に柱が並んでいた。
窓から入る午後の光が、石の床に長い影を作っていた。

国王グルーベンハーゲン・ブラウンシュヴァイク
・ヴォルフェンビュッテルが、正面に座っていた。

齢を重ねた顔だった。
しかし目に力があった。
長年、この国の頂点に立ち続けてきた人間の目だった。

その隣に、白天ハインリヒがいた。

獅子公の異名を持つ男だった。
国王の弟。天の中でも最強と言われる。
あの夜、ルークを見た瞬間に
自分の首が飛ぶイメージを見たと言った男だった。
今日はルークに対する警戒があるのだろう、
その立ち位置は国王のすぐ傍だった。

レイスナー第二王子もいた。

ルークと視線が合った瞬間、レイスナーは小さく頷いた。

この場にいることへの意味を、
二人はそれぞれの立場で理解していた。

黒天ヴィルヘルム第一王子の姿は、なかった。

ルークはそれを確認して、内側で一つのことを確認した。

今日この場にヴィルヘルムがいないことが、
何を意味するか。
偶然ではないと、ルークは判断していた。

「ルーク・グレイブヤード、報告を」

国王が言った。

ルークは前に出た。

「大型魔獣ヒュドラ、ブラックバイパー、
ワイバーンの群れは全て討伐完了しました」

声を整えて言った。
感情を出さないように。事実だけを伝えるように。

「ただし、その中で火天ライナスと
木天ジレルによる襲撃がありました。
火天ライナスは戦闘の結果、重傷を負い
現在は生存しています。
木天ジレルは戦闘の結果、死亡しました。
遺体は回収できませんでした」

部屋の空気が、変わった。

国王の顔が、固まった。

ハインリヒの目が、細くなった。

「そして」
ルークは続けた。

「木天ジレルの奇襲により、
土天ダン・グラファイトが戦死しました。
ダンの遺体は持ち帰っています。
戦死した騎士三名の遺体も、同様に回収しています」

沈黙があった。

長い沈黙だった。

天同士の争い。
それはこの王国において、あってはならないことだった。

最高戦力である天が互いに戦えば、
その被害は計り知れない。
国そのものが揺らぐ。
そして外部の国々が、その隙を狙う。

そういう最悪の事態が、実際に起きた。

しかも、二名の天が失われた。

木天ジレルと土天ダン。
六名しかいない天の中から、一度に二名が消えた。
戦力の喪失だけではなかった。
天という存在が持つ抑止力、他国への示威効果
——それが大きく損なわれた。

国王は、項垂れる寸前の顔をしていた。

---

### 二

「どうして火天ライナスだけ生き残ったのかね」

ハインリヒが口を開いた。

声は穏やかだった。
しかし問いの鋭さは隠れていなかった。

ルークはハインリヒを見た。

「彼はまだ改心の余地があると判断しました」

ルークは答えた。

「ただし」
続けた。

「天とするには、精神が幼稚すぎます。
能力だけで判断せずに、
そういう点をもっと重要視すべきだと思います」

言葉に、無意識の威圧が混じっていた。

後から気づいたが、止めなかった。
言うべきことを言っていた。
撤回する理由がなかった。

部屋にいた者たちが、一斉に気圧された。

国王も、ハインリヒも、レイスナーも
——全員が、ルークの言葉の重さに押された。
物理的な力ではなかった。
しかし、その言葉を否定できる立場にいる者が、
この部屋にはいなかった。

ルークは少し間を置いてから、続けた。

「土天ダンが木天ジレルに殺害されたことは、
彼の腹に刺さった木を調べればわかると思います。
木天ジレル特有の毒が検出されるでしょう」

声が、わずかに変わった。

悔しさが、にじんでいた。
抑えていたが、完全には抑えられなかった。

「それが——」

ルークは一度、言葉を切った。

「それが、ダンを助けられなかった理由です」

ただの傷ならば、治せた。
ルークの超能力は、肉
体の損傷を修復することができた。
しかし木天ジレルは、
攻撃する木の中に毒を仕込んでいた。

単純な毒ではなかった。

複数の成分を独自に配合した、解析困難な毒だった。
解析を妨げる罠が幾重にも仕掛けられていた。
その構造を解読するだけで、相当の時間が必要だった。
しかし毒は即効性だった。
体内に入った瞬間から、数秒で全身を駆け巡った。

解析が終わる前に、毒が致死量に達していた。

どれほどの力を持っていても、
解析できないものは対処できなかった。
ルークはそれを、ダンが絶命するまでの
短い時間の中で理解していた。

理解しながら、何もできなかった。

国王が、ゆっくりと頭を垂れた。

長年、この国のために働いてきた男が死んだ。
しかもそれが、天同士の政治的な争いに
巻き込まれた結果として。
その事実の重さが、国王の肩にのしかかっていた。

---

## 第六十一章 遺族

### 一

「戦死した騎士の遺体はどうすればいいでしょうか」

ルークは尋ねた。

国王に代わって、ハインリヒが答えた。

「火天ライナスは魔法協会に搬送する。
治癒魔法士が集まっているから、そちらで治療を受ける。

土天ダンと騎士たちの遺体は、地下の安置室に」

それから一拍置いて、続けた。

「土天ダンは後日、国葬を執り行う」

ルークは頷いた。

おおむね、妥当だった。

ただ一点だけ、引っかかるものがあった。

火天ライナスを魔法協会に搬送する。

魔法協会がどういう組織であるかを、
ルークは既に把握していた。
王国の三大勢力の一つ。
天の認定権を持ち、魔法の評価基準を独占する。
その組織が、
今回の件で天を二名失ったことをどう受け取るか。

ライナスを引き取ることで、
何かを隠蔽しようとする可能性があった。

しかしルークがそれに口を出せる立場には、
今はなかった。

ルークは何も言わなかった。

---

### 二

王城の地下に、遺体安置室があった。

石造りの静かな部屋だった。
外の音が届かなかった。
温度が低く保たれていた。
いくつかの台の上に、遺体が安置されていた。

ルークはダンの傍に立った。

亜空間から取り出した時のままだった。
時間を止めていたから、変化がなかった。
眠っているように見えた。

しかし眠っていなかった。

ルークは何を言うべきかを考えた。

言葉が見つからなかった。

ダンが最後に言ったことは、まだルークの中にあった。
消えていなかった。
消えるとも思えなかった。
しかし今、その言葉に何かを返す言葉が、
ルークの中にはなかった。

ただ、傍にいた。

しばらくの時間が経った。

扉が開いた。

人が入ってきた。

女性と、子供だった。

女性は三十代と思しき年齢だった。
落ち着いた顔立ちの人だった。
しかし今は、その顔が強ばっていた。
目が赤かった。
既に一度、泣いていた顔だった。

子供は少年だった。
十歳前後に見えた。
母親の後ろについて入ってきたが、
その目も赤かった。

二人はダンの遺体に近づいた。

女性がダンの顔を見た。
一秒、二秒——それからダンに抱きついた。
声が出なかった。
肩が震えていた。

少年は母親の隣に立って、ダンの手を握った。

握った瞬間に、少年の目から涙が溢れた。
声を殺して泣いていた。
我慢しようとしていた。
しかし我慢しきれなかった。

ルークはその光景を見た。

部屋の端に下がろうとした。
この二人の時間に、
自分がいるべきではないと思った。

しかし女性が気づいた。

涙をハンカチで拭いて、ルークのところに来た。
目は赤かった。
しかし足取りはしっかりしていた。

「私はダンの妻、エリスです。
あの子は息子のジノです」

声が少し掠れていたが、はっきりしていた。

「すみません、見覚えがないのですが
——夫の同僚の方ですか」

ルークはエリスを見た。

この人に、何を言えるか。

正確な事実は言えなかった。
天同士の争いは極秘扱いになっていた。
火天ライナスの名前も、木天ジレルの名前も、
この場では出せなかった。

しかし嘘だけはつきたくなかった。

「いえ」
ルークは言った。

「今回の一件で、ダンさんに誘っていただいて
共に戦いました」

「そうでしたか」
エリスは頷いた。

「大型魔獣の群れだったと聞きました。
かなり多かったのですか」

「はい」

ルークは答えた。

これは嘘ではなかった。
魔獣は確かに多かった。
しかし本当の原因については——

「ヒュドラやブラックバイパーや
ワイバーンが非常に多くいて、
非常に不利な戦いでした」

そこまでは言えた。

「だけど彼は決して諦めずに」

ルークは続けた。

エリスの顔を、見られなかった。俯いた。

「みんなを必死に守って、守り抜いたんです。
非常に立派でした」

嘘ではなかった。

ダンは最後まで、部下たちを守ろうとしていた。
土壁を構築し続けて、魔獣の攻撃から騎士たちを守った。

その事実は変わらなかった。

しかしその言葉を言いながら、
ルークは自分の声が信用できなかった。

本当のことを言えていない。
言えない理由がある。
しかしその理由が、ダンの死に繋がっていた。

エリスは何も言わなかった。

しばらくして、少年の声が聞こえた。

「僕はお父さんのような立派な騎士になります」

ジノがルークを見上げて言った。

目から涙が溢れていた。
しかし声は、決意の形をしていた。
泣きながら、
それでも前を向こうとしている目だった。

ルークはジノを見た。

この子が言う言葉の重さを、ルークは理解していた。
父親を亡くした直後に、
父親のようになると言える強さが
どこから来るのかを。

「ダンの息子なのだから、絶対になれるよ」

ルークは言った。

「応援してるから」

笑った。

しかしその笑いは、ぎこちなかった。
自分でもわかっていた。
笑い方を、ルークは知っていた。
しかし今、自然に笑える状態ではなかった。

ジノはそれでも、ルークの言葉を受け取った。

また涙が溢れたが、頷いた。

エリスがジノの肩に手を置いた。

三人の間に、しばらくの沈黙があった。

安置室の外から、かすかに人の気配があった。
遺族のために場所を用意しようとしている
者たちの気配だった。

ルークは頭を下げた。

「失礼します」

そう言って、安置室を出た。

扉が閉まった。

廊下に出た瞬間、ルークは石の壁に背を預けた。

天井を見た。

石造りの天井が、灯りに照らされていた。

ジノの顔が、頭から離れなかった。
泣きながら、それでも前を向いていた目が。

ルークは少しの間、その場に立っていた。

それから、歩き始めた。

王城の廊下を、一人で歩いた。
 

 

第三百二十六弾「異能の転生者」

第三百二十七弾「異能の転生者 その2」

第三百二十八弾「異能の転生者 その3」

第三百二十九弾「異能の転生者 その4」

第三百三十弾「異能の転生者 その5」

第三百三十一弾「異能の転生者 その6」

第三百三十ニ弾「異能の転生者 その7」

第三百三十三弾「異能の転生者 その8」

第三百三十四弾「異能の転生者 その9」

第三百三十五弾「異能の転生者 その10」

第三百三十六弾「異能の転生者 その11」

第三百三十七弾「異能の転生者 その12」

第三百三十八弾「異能の転生者 その13」

第三百三十九弾「異能の転生者 その14」

第三百四十弾「異能の転生者 その15」

第三百四十一弾「異能の転生者 その16」

第三百四十ニ弾「異能の転生者 その17」

第三百四十三弾「異能の転生者 その18」

第三百四十四弾「異能の転生者 その19」

第三百四十五弾「異能の転生者 その20」

第三百四十六弾「異能の転生者 その21」

第三百四十七弾「異能の転生者 その22」

の続きです

 

 

 

# 異能の転生者

## 第五十八章 最期

### 一

ルークはダンに駆け寄った。

地面に倒れていた。
木の幹がまだ体を貫いていた。
ルークはそれを慎重に取り除いた。
傷口を塞いだ。
しかし内側の損傷は深かった。
貫通した木が、内臓の複数を傷つけていた。

ダンの呼吸は、かすかだった。

しかし目は開いていた。ルークを見ていた。

「やった奴は、わかったのか」

ダンの声は、しかし小さかった。
血が混じっていた。

「木天ジレルだった。
でも、もう倒した。心配いらない」

ダンは少しの間、天を見た。

「あぁ」
と言った。

「やはり天同士で争うことになっちまったか」

残念だった。
怒りではなかった。
ただ、残念だった。
長年、この国を守るために立ち続けてきた人間の、
純粋な残念さだった。

「天同士が争えば、
確実に力なき者たちが巻き込まれていく」

ダンはゆっくりと両手を動かした。
ルークの腕を掴んだ。

握力はまだあった。
騎士団長として鍛えてきた体の、
最後の力が、その手に残っていた。

「ルーク、お願いだ。弱者を守ってくれ」

声が、懇願の形を取っていた。

しかしその懇願には、弱さがなかった。
頼む相手を信頼しているからこそ出てくる言葉だった。
この少年ならば、と思っているからこそ、
最後の力を使って言葉にしていた。

「俺は地位も権力もどうでもよかった」

ダンは続けた。視線がルークに向いたままだった。

「ただ、そういう争いに巻き込まれる
弱者を助けたいから、騎士団長になった。
天になった。それだけだった」

ルークはダンの手を、両手で受け止めた。

「だからラングバルト男爵の件を知った時は、
非常に無念だった」

ダンの声が、少し掠れた。しかし言葉を続けた。

「だがあの時、ルークが怒ってくれているのを見て、
とても嬉しかったんだ」

ルークは何も言えなかった。

「俺以外にも、強者でありながら
弱者のために動いてくれる人間がいると、そう思えた。
それがどれほど嬉しかったか——」

ダンの目が、少し細くなった。
遠くを見るような目だった。

「勝手な押しつけで悪いが」

また、ルークを見た。

「どうか弱者を守ってくれ」

その言葉が終わった後、ダンの体から力が抜けた。

握っていた手が、緩んだ。

緩んだのではなかった。力が、なくなった。

ルークはダンの体を、そのまま抱えていた。

ダンの目は、半分開いたままだった。
その目に、最後まで意識があったことが見えた。
言いたいことを、全て言えた顔だった。

土天ダン・グラファイトは、
ルークの腕の中で絶命した。

---

### 二

ルークは動かなかった。

どのくらいの時間が経ったか、わからなかった。

泣いていなかった。
涙が出なかった。
感情が大きすぎると、
涙という出口を見つけられなくなることがある。
ルークの中にある喪失感は、
涙という形に収まらなかった。

これからもっと良い関係が築けていた。

ルークはそう思った。

馬車の中での会話が蘇った。
携帯食料を温めた時に目を細めて喜んだ顔。
フリーダのことを心配して
「しまい込みすぎると出てこなくなる」
と静かに語った言葉。
「本当に魔獣だったか」と聞いて、
答えを得られないまま
それ以上を聞かなかった誠実さ。

もしかしたら、
親友と呼べる存在になっていたかもしれなかった。

この世界に来てから、
ルークにはそう呼べる相手がいなかった。
グレイとは研究者同士の関係があった。
フリーダには別の感情があった。
トールは兄だった。
しかしダンとの間には、
別の種類の繋がりが生まれ始めていた。

同じ方向を向いている者同士の繋がりだった。

力のない者たちを守りたいという、
その一点において、
二人は完全に同じ場所に立っていた。

それを、自分の甘さで失った。

ルークは自分の判断の失敗を、
もう一度、正確に確認した。

感情的に曖昧にせず、
どこで何を間違えたかを、冷静に把握した。
それはルークにとっての弔い方だった。
同じ失敗を繰り返さないことが、
ダンへの誠実さだと判断していた。

---

復讐は何も生まない、という言葉がある。

ルークはその言葉を知っていた。
前世においても、今生においても、
そういう考え方が存在することを知っていた。

しかし、その言葉を言える人間は、
復讐したいという場所まで
落とされたことがない人間だとルークは思っていた。

精神が抉られてマイナスになった状態から、
ゼロに近づくための行為が復讐だった。

マイナスにされたことがない人間には、
その必要性が理解できない。
理解できないから、綺麗な言葉で否定できる。

しかしルークが今感じているのは、
感情的な衝動だけではなかった。

より根本的な判断があった。

罪には、手痛い罰を与えなければならない。

それは感情の問題ではなく、構造の問題だった。

罪を犯した者は、その行為によって、
次の罪へのハードルが下がる。
一度越えた壁は、次に越える時の高さを失う。
時間が経つほど、その抑制は緩んでいく。
放置すれば、より重い罪が、より容易に繰り返される。

ジレルは今回の件で終わりではなかった。
ライナスも、ヴィルヘルムも、
背後で糸を引いていた者も——全員が、
今回の一件に何らかの形で関与していた。

ジレルはルークが仕留めた。

残りは、これから対処する。

今回の件に関わった者全てを、
ルークは虐殺するつもりだった。

それが冷たい判断であることは、
ルーク自身が知っていた。
しかし冷たさと正しさは、別の概念だった。
新たな犠牲者を出さないために、
取り除くべきものを取り除く。
それはダンが言った「弱者を守る」
ということの、もう一つの側面だった。

ダンは弱者を守ることを願った。

ルークはその願いを受け取った。

守り方が、ダンのやり方と
完全には一致しないかもしれなかった。
しかしルークにできる形で、ダンの言葉に応える。

それが、ルークにできる弔いだった。

---

## 第五十九章 帰還

### 一

ルークは立ち上がった。

ダンの遺体を、亜空間に収納した。

時間を止めた。
ダンの体の時間を、現在の瞬間で固定した。
王都に戻るまでの間、
ダンの体は今この瞬間のままで保たれる。

それがルークに、今できることだった。

騎士たちを集めた。

全員が、放心した状態だった。
次元破壊砲の光を見て、
その後で森と山脈が消えた光景を見て、
何が起きているかを理解できないまま
立ち尽くしていた。

ルークは一人ずつ、傷の状態を確認した。

軽傷者は超能力で即座に癒した。
重傷者には時間をかけた。
内臓の損傷、骨折、熱傷
——それぞれの傷の性質に応じて、
最適な処置を施した。

騎士たちは、ルークが何をしているかを
半分も理解できていなかった。
しかし痛みが消えていくことは、体が理解していた。

戦死者が三名いた。

魔獣の攻撃で命を落とした者が二名。
ライナスの火炎を直撃した者が一名。

ルークはその三名の遺体も、
ダンと同じように亜空間に収納した。
時間を止めて、状態を保った。

家族のところに、きちんと帰す。

それはダンが言葉にしなかったことだったが、
ダンならそう望むだろうとルークは思った。

---

馬車は王都に向かって動き始めた。

来た時と同じ道を、戻っていった。
しかし空気は全く違った。

騎士たちは無言だった。

馬車の中でルークは一人だった。
向かいの席は空だった。

ルークはその空席を見なかった。

窓の外を見ていた。

日が傾いていた。
来た時は朝だったのに、今は夕方になっていた。
一日が、ひどく長く感じた。

ダンの最後の言葉が、ルークの中で繰り返されていた。

勝手な押しつけで悪いが、どうか弱者を守ってくれ。

押しつけではなかった。

ルークは、そう思っていた。

押しつけというのは、
相手が望まないことを強制することだ。
しかしルークはダンの言葉を聞いた時、
拒否したいとは思わなかった。
それは元から、
ルークが持っていた方向性と同じだったからだ。

だから押しつけではなかった。

ただ、確認だった。

お前が向かっている方向は正しい、
という確認だった。

馬車が揺れた。

ルークは窓の外を見続けた。

王都の明かりが、遠くに見えてきた。
 

第三百二十六弾「異能の転生者」

第三百二十七弾「異能の転生者 その2」

第三百二十八弾「異能の転生者 その3」

第三百二十九弾「異能の転生者 その4」

第三百三十弾「異能の転生者 その5」

第三百三十一弾「異能の転生者 その6」

第三百三十ニ弾「異能の転生者 その7」

第三百三十三弾「異能の転生者 その8」

第三百三十四弾「異能の転生者 その9」

第三百三十五弾「異能の転生者 その10」

第三百三十六弾「異能の転生者 その11」

第三百三十七弾「異能の転生者 その12」

第三百三十八弾「異能の転生者 その13」

第三百三十九弾「異能の転生者 その14」

第三百四十弾「異能の転生者 その15」

第三百四十一弾「異能の転生者 その16」

第三百四十ニ弾「異能の転生者 その17」

第三百四十三弾「異能の転生者 その18」

第三百四十四弾「異能の転生者 その19」

第三百四十五弾「異能の転生者 その20」

第三百四十六弾「異能の転生者 その21」

の続きです

 

 

 

# 異能の転生者

## 第五十五章 後悔

### 一

ルークは自分を呪った。

ダンの体を貫く木を見た瞬間、ルークの頭の中で、
過去の判断の全てが高速で巻き戻された。

火天ライナスが現れた時点で、気づくべきだった。

ライナスは単独ではないはずだった。
王城での夜、ヴィルヘルムとジレルと
ライナスが同じ方向を向いていることは、
既に確認していた。
三者が絡んでいる可能性を、ルークは知っていた。

知っていながら、索敵範囲を広げなかった。

ライナスを倒した時に、尋問すべきだった。
あの黒焦げの状態でも、思念通話は使えた。
ダーウェント子爵の時と同じように、
頭の中を読めばよかった。
なぜそれをしなかったのか。

ライナスを仕留めることで、満足していたからだ。

フリーダの時と同じだった。

ラングバルト男爵が暗殺された時、
ルークはダーウェント子爵家への対処で満足して、
その背後にある連鎖を断ち切ることを怠った。
結果としてフリーダの父が命を落とした。

あの時も、同じ失敗をした。

そして今また、同じ失敗を繰り返した。

もう二度と油断しないと決めていた。
あの夜、フリーダが父の訃報を告げた時の顔を見て、
ルークは心の中で誓っていた。
しかし誓いは、この瞬間に意味を失っていた。

誓いが破れた理由は、油断ではなかった。

油断よりもっと根本的な問題だった。

ルークはこの世界に来てから、
力の行使については完璧に近かった。
しかし、人間の悪意がどのように連鎖するか
という判断において、まだ甘さがあった。
前世において、フレデリック・マクミランは
他者の悪意に晒されたことがほとんどなかった。
誰も彼に悪意を向けることができなかったからだ。
だから、悪意の連鎖を追う経験を、
ルークは持っていなかった。

その経験不足が、今日の結果を生んだ。

ダンの口から血が落ちる音が、ルークの耳に届いた。

ルークは顔を上げた。

---

## 第五十六章 次元破壊砲

### 一

遠くに、ジレルがいた。

索敵がその位置を正確に示していた。
木々の奥、かなりの距離があった。
しかしその顔の表情まで、ルークには見えていた。

嘲笑っていた。

ダンが倒れた光景を見て、満足した顔で嘲笑っていた。

ルークはその表情を、一秒見た。

一秒で十分だった。

項垂れていた顔が上がった。

ルークはゆっくりと右手を上げた。
急がなかった。
急ぐ必要がなかった。
人差し指を伸ばした。
遥か遠方にいるジレルを、正確に指した。

照準は完璧だった。

距離は関係なかった。
どれほど遠くにいても、どれほど隠れていても、
ルークの認識の中では、
ジレルの位置は一点として固定されていた。

「次元破壊砲」

声は静かだった。

怒鳴っていなかった。
感情的な叫びもなかった。
ただ、静かに、その言葉を言った。

次の瞬間、世界が白くなった。

光だった。

光という概念が持つ全ての波長が、
一点から解き放たれたような光だった。
目を閉じても網膜を焼くような輝きが、
全方位に広がった。

騎士たちは何も見えなくなった。

目を塞いでも、光は瞼を透過した。
視界が完全に白く塗り潰された。
音も、消えた。
光があまりにも強烈だったため、
他の感覚が一時的に機能を停止した。

光が収まった。

ゆっくりと、視界が戻ってきた。

騎士たちは目を開けた。

ルークが指を向けていた方向を、全員が確認した。

森が、なかった。

木々が、なかった。
地面が、なかった。

ルークが指を指していた方向に存在していた
全てのものが、消えていた。
森の終わりから始まっていたはずの山脈も、なかった。
その向こうに続いていたはずの地形も、なかった。

ただ、空があった。

地平線の向こうまで、何もない空間が広がっていた。
地面すら存在しない、ぽっかりと空いた空間だった。
空間そのものが、消えていた。

騎士たちは声を出せなかった。

何を見ているのかを、
理解する言語を持っていなかった。

---

次元破壊砲。

それはルークが使える攻撃の中で、
最大の威力を持つものだった。

空間を消す。
物質を消すのではなかった。
空間そのものを、指定した範囲において消滅させた。
物質も、エネルギーも、
空間を構成する全ての要素が、存在しなくなった。

その効果は、空間の概念を超えていた。

別の次元にいる標的も、消せた。

別の時間軸にいる標的も、消せた。
過去にいる標的も、未来にいる標的も、
ルークが認識し、指定した瞬間に、
その空間ごと消える。
時間軸と次元の壁は、
この攻撃の前では意味を持たなかった。

次元断層があっても関係なかった。
次元そのものを消すのだから、
断層は防壁にならなかった。

防ぐ方法は、理論上一つだけあった。

本体を複数、同時に異なる時間軸と
次元に存在させること。
一つの本体が消えても、別の本体が残る。
しかしそれが可能な存在は、
この宇宙においても、ほとんどいなかった。

ルークは、それができた。

しかしこの世界に、そのような存在はいないだろう、
とルークは判断していた。

だから、次元破壊砲を使った。

確実に仕留めるために。

ダンを失った痛みが、どれほどのものかは、
ルーク自身にもまだ正確には測れていなかった。
しかしジレルの嘲笑を見た瞬間に、
ルークの中で何かが決まった。

中途半端はない。

この攻撃を選んだのは、怒りからだけではなかった。

これ以上、取り返しのつかないことが起きる前に、
根を断つ。それがルークの判断だった。

木天ジレルは、もうどこにも存在しなかった。

---

### 二

光が完全に収まった後、戦場には静寂があった。

焦げた匂いが残っていた。
倒れたヒュドラの残骸が、あちこちに転がっていた。
上空には、もうワイバーンの影もなかった。

そして、森があった場所には、空間だけが残っていた。

騎士たちは誰も動かなかった。
声を出せなかった。
何を見たのかを、言語化できなかった。

ルークはゆっくりと手を下ろした。

それからダンのところに向かった。

---

## 第五十七章 光

### 一

フリーダは空を見ていた。

校庭での訓練の最中だった。
グレイが新しい複合魔法の術式を説明していた。
フリーダはそれを聞きながら、
必要な部分を頭の中で整理していた。

その時、空が光った。

北の空だった。

突然、空の色が変わった。
昼間の青空が、一瞬にして白に塗り替えられた。
目を細めなければならないほどの輝きが、
北の方角から広がってきた。

フリーダは手で目を遮りながら、空を見た。

何か、嫌なことが起きていなければいい。

その思いが、理由なく来た。

ルークのことが頭に浮かんだ。
今日、ルークは土天ダンと一緒に出かけていた。
国境の方向——北の方角に。

光が、北から来ていた。

フリーダの胸の中に、冷たいものが走った。
説明のつかない不安だった。
根拠はなかった。
しかし消えなかった。

「グレイ教授」フリーダは言った。

返事がなかった。

横を見ると、グレイが空を見ていた。

目が輝いていた。

ノートを取り出していた。
何かを書き始めていた。
あの光の現象を、既に研究対象として捉えていた。
口の中で、何かを呟いていた。

「この光の質から推定される出力が
——空間の消失を伴う場合の理論的な——」

フリーダはグレイを見た。

それから空を見た。

光は消えていた。
北の空は、元の青に戻っていた。
しかし何かが変わった感覚が、
フリーダの中に残っていた。

ルーク。

彼の名前が、また頭に浮かんだ。

無事でいてほしい、
という言葉が、フリーダの中に自然に出てきた。
 

第三百二十六弾「異能の転生者」

第三百二十七弾「異能の転生者 その2」

第三百二十八弾「異能の転生者 その3」

第三百二十九弾「異能の転生者 その4」

第三百三十弾「異能の転生者 その5」

第三百三十一弾「異能の転生者 その6」

第三百三十ニ弾「異能の転生者 その7」

第三百三十三弾「異能の転生者 その8」

第三百三十四弾「異能の転生者 その9」

第三百三十五弾「異能の転生者 その10」

第三百三十六弾「異能の転生者 その11」

第三百三十七弾「異能の転生者 その12」

第三百三十八弾「異能の転生者 その13」

第三百三十九弾「異能の転生者 その14」

第三百四十弾「異能の転生者 その15」

第三百四十一弾「異能の転生者 その16」

第三百四十ニ弾「異能の転生者 その17」

第三百四十三弾「異能の転生者 その18」

第三百四十四弾「異能の転生者 その19」

第三百四十五弾「異能の転生者 その20」

の続きです

 

 

# 異能の転生者

## 第五十三章 土天

### 一

土天ダン・グラファイトの戦い方は、
見ていて惚れ惚れするものだった。

ルークがライナスの対処に向かっている間、
ダンは一人で戦場を制御し続けていた。

土壁が、部下たちの周囲に絶え間なく構築されていた。
魔獣の火炎が着弾するたびに、新しい壁が前に出た。
崩れた壁の残骸は、
即座に次の壁の素材として回収された。
防御と再生が、途切れることなく続いていた。

しかしダンは守るだけではなかった。

両手が、それぞれ別の動きをしていた。
右手で防御を維持しながら、左手が攻撃を行っていた。

左手の指先から、何かが放たれていた。

見えなかった。速すぎた。

しかし効果は明確だった。
上空のワイバーンが、次々と翼に穴を開けられていた。
穴は小さかった。
しかし急所を的確に貫いていた。
羽根の構造を支える骨が折れ、
翼が機能しなくなった個体から順番に、
地面に落ちていった。

中には、頭部を貫かれたまま
垂直落下する個体もあった。

ルークは索敵で、
ダンが何を放っているかを確認した。

高硬度の鉱石だった。

地面から、特定の成分だけを抽出していた。
通常の土や岩ではなく、
地中深くに存在する高密度の金属鉱石を引き出して、
それを成形していた。
直径四十ミリほどの紡錘形
——空気抵抗を最小化する形状だった。

それが、秒速二千メートルで放たれていた。

一発ではなかった。
毎分千百発だった。

単純な連射ではなかった。
それぞれの弾が、それぞれの標的に向かっていた。
複数のワイバーンを同時に狙い、
それぞれの軌道を独立して制御しながら、
命中させていた。

これが土天の本領だった。

大地と繋がることで、
大地に含まれる全ての物質を素材として使える。
それを超高速で成形し、精密に制御して放つ。
防御と攻撃を同時に、最大効率で展開する。

ワイバーンの群れが、急速に数を減らしていった。

---

しかしヒュドラは違った。

ヒュドラの鱗は、通常の攻撃を弾く硬度を持っていた。
紡錘形の土弾が当たっても、表面で止まった。
貫通しなかった。

ダンはすぐに対応を変えた。

口径は同じ四十ミリのまま、形状を槍状に切り替えた。
先端を極限まで細く、鋭く成形した。
さらに、放出する瞬間に高速回転を加えた。
回転によって、着弾時の貫通力が増す。
ドリルの原理だった。

それが秒速二千メートルでヒュドラの鱗に命中した。

今度は止まらなかった。

回転する槍状の土弾が、鱗に食い込んでいった。
鱗と鱗の境目を探して、そこに先端を差し込み、
回転しながら深く入っていった。

ヒュドラが初めて、悲鳴に近い声を上げた。

しかしヒュドラは怯まなかった。
複数の頭が、それぞれ別の方向に火炎を放ち続けた。
ダンの土壁がそれを受けた。
土壁が崩れた。
新しい壁が立ち上がった。

攻防が続いていた。

ダンの表情に、初めて疲労の色が出てきた。

防御を維持しながら、攻撃を続けながら、
素材を回収しながら
——全てを同時に行うことの消耗が、
少しずつ積み重なっていた。

それでも手を止めなかった。

部下たちが後方で手当てを続けていた。
その者たちを守ることを、
ダンは最後まで優先していた。

---

## 第五十四章 連携

### 一

ルークが木々の中から戻ってきた時、
戦場の様子は変わっていなかった。

ヒュドラはまだ生きていた。
ダンの攻撃で傷つき、動きは鈍くなっていたが、
完全には止まっていなかった。
ワイバーンは全滅していた。
ブラックバイパーは、
ダンが展開した土の罠に絡め取られて
動けなくなっていた。

残る問題は、ヒュドラだった。

ルークはダンの攻撃を観察しながら、
何が足りないかを即座に判断した。

ヒュドラの最大の特性は、再生能力だった。
頭を切断しても、時間が経てば再生する。
それがヒュドラという魔獣を、
通常の攻撃で仕留めることを困難にしていた。

切断された後に、再生を防ぐ処置が必要だった。

「首を切り落としてください」
ルークはダンに言った。

ダンは一瞬、ルークを見た。
意図を理解するのに、一秒もかからなかった。

「わかった」

ダンの左手が動いた。

土弾の形状が、また変わった。
今度は薄く、広く、湾曲した形だった。
いわゆるブーメラン型だ。
それが高速で回転しながら、
ヒュドラの首の付け根に向かった。

金属鉱石で形成された刃が、
高速回転しながらヒュドラの首に当たった。

一体目の頭が落ちた。

すぐに次が放たれた。
二体目、三体目——ダンのブーメラン型土弾が、
次々とヒュドラの首を切断していった。

切断された首が地面に落ちるのと同時に、
ルークが動いた。

プラズマ流を細く絞った。
直径を十センチ以下に圧縮した高温のプラズマが、
切断面に向かった。

焼いた。

数億度の熱が、切断面を一瞬で焼き固めた。
再生のための細胞が、残らず消えた。
あの温度では、どんな生命活動も維持できなかった。

ヒュドラの体が、動きを止めた。

一体。また一体。

ダンが切り、ルークが焼く。

連携は、会話なしで成立していた。
ダンがどのタイミングで切るかを、
ルークは索敵で先読みしていた。
切断と焼灼の間に、時間的な隙がなかった。

最後のヒュドラの首が落ちた。

プラズマ流がそれを焼いた。

戦場が、静かになった。

---

### 二

後方から、声が上がった。

騎士たちの歓声だった。

傷ついた者も、手当てを受けながら声を上げていた。
ヒュドラとワイバーンが全滅した。
信じられない速さで、
しかし確実に、脅威が排除された。

ダンは息を吐いた。

肩の力が、少し抜けた。
長時間の集中と魔力の消費が、じわりと体に出てきた。
しかしその顔には、満足があった。
部下たちが生き延びた。
それが何より、ダンにとっての結果だった。

ルークを見た。

「いい連携だった」

「ダンさんの攻撃の精度があってこそです」

「お世辞は要らないと言っただろう」
ダンは苦笑いした。

「しかし、本当に助かった。
ヒュドラの再生を止める方法を
即座に提案してくれたのは、お前だ」

二人の顔が、ほんの少し綻んでいた。

激しい戦闘の後の、短い弛緩だった。

しかしそれは、一瞬だった。

---

ダンの顔が、歪んだ。

突然だった。

声が出なかった。
ダンは口を開いたが、言葉が来なかった。

ルークが驚いて視線を向けた。

ダンの腹部から、何かが突き出ていた。

太さが腕ほどもある木の幹が、
ダンの体を背後から貫通していた。
先端が、腹の正面に出ていた。
木の先端は尖っていた。
まるで槍のように研ぎ澄まされた木の穂先が、
ダンの体を貫いていた。

ダンが口から血を吐いた。

赤い血が、石混じりの地面に落ちた。

ダンの両足が、震えた。
しかし倒れなかった。
体を貫く木が、ダンを支えていた。

ルークは即座に周囲を索敵した。

誰もいなかった。
目視できる範囲に、人間の姿はなかった。

索敵を広げた。

いた。

遠かった。
しかし確かにいた。
木々の奥に、人間の気配があった。
じっとしていた。こちらを見ていた。

索敵でその顔を捉えた瞬間、ルークは認識した。

木天ジレル。

老婆だった。
王城であの夜、激怒しながら現れた老婆だった。
孫のことで冷静さを失っていた者だった。

ジレルはこちらを見ていた。

距離があった。しかし表情は読み取れた。

嘲笑っていた。

ダンが貫かれた光景を見て、嘲笑っていた。

ルークはその表情を見た。

一瞬だった。

ルークの中で、何かが変わった瞬間だった。
 

第三百二十六弾「異能の転生者」

第三百二十七弾「異能の転生者 その2」

第三百二十八弾「異能の転生者 その3」

第三百二十九弾「異能の転生者 その4」

第三百三十弾「異能の転生者 その5」

第三百三十一弾「異能の転生者 その6」

第三百三十ニ弾「異能の転生者 その7」

第三百三十三弾「異能の転生者 その8」

第三百三十四弾「異能の転生者 その9」

第三百三十五弾「異能の転生者 その10」

第三百三十六弾「異能の転生者 その11」

第三百三十七弾「異能の転生者 その12」

第三百三十八弾「異能の転生者 その13」

第三百三十九弾「異能の転生者 その14」

第三百四十弾「異能の転生者 その15」

第三百四十一弾「異能の転生者 その16」

第三百四十ニ弾「異能の転生者 その17」

第三百四十三弾「異能の転生者 その18」

第三百四十四弾「異能の転生者 その19」

の続きです

 

 

# 異能の転生者

## 第五十章 国境

### 一

最初に聞こえたのは、地鳴りだった。

地面から来るのではなかった。空から来ていた。

馬車の窓から外を見たルークは、上空を確認した。
夕暮れに差し掛かった空に、複数の影が飛んでいた。
翼を広げた大型の影が、幾つも幾つも重なっていた。

ワイバーンだった。

一体や二体ではなかった。
群れだった。
翼を広げた体長が、それぞれ十メートルを超えている。
その群れが、夕空を埋め尽くすように飛んでいた。

「あれだけじゃないな」
ダンが窓から外を見ながら言った。

視線を地上に向けると、
森の縁から別の影が動いていた。

ヒュドラだった。
複数の頭を持つ巨大な爬虫類型の魔獣で、
その全長は二十メートルを超えていた。
それが数体、森の縁を這うように移動していた。
その横に、より細身の黒い体をした魔獣も見えた。
ブラックバイパーだった。
蛇型の魔獣で、単体の攻撃力はヒュドラに劣るが、
速度と毒の強さは
全ての魔獣の中でも上位に位置していた。

「まるで大型魔獣の巣だなぁ」

ダンが呆れたように呟いた。
声に動揺はなかった。
しかしその言葉の端に、
この規模は想定外だったという認識が滲んでいた。

---

ヒュドラの一体が、馬車に気づいた。

複数の頭の一つが、こちらを向いた。
頭の大きさだけで馬車より大きかった。
その口腔内に、赤い光が集まり始めた。

「来るぞ」
ダンが言った。

火炎が放たれた。

太い炎の柱が、馬車に向かって伸びてきた。
馬車の周囲の地面に着弾した。
爆発的な熱と衝撃が、馬車を揺らした。
馬が恐慌状態になり、制御が難しくなった。

御者が必死に手綱を引いていた。

ダンが馬車から半身を乗り出した。
両手を地面に向けた。
石畳ではなく、土の道だった。
ダンの魔力が地面に染み込み、土が応えた。

土の壁が、馬車の周囲に次々と立ち上がった。

ヒュドラの二撃目、三撃目が来た。
土壁に当たった。
壁が崩れながら、しかし熱を遮断した。
崩れた壁の残骸が、
また地面から新たな壁として再構成された。

ダンの魔法は、守備において際立っていた。

攻撃の一手一手に対して、最小限の土壁で対応し、
素材を再利用しながら次の防御を構築する。
その連続性と効率が、
長年積み上げてきた土天の技術だった。

しかし。

後方から、別の火炎が来た。

方向が違った。

ヒュドラがいる位置からではなかった。
斜め後方、木々の中からだった。

ルークはそれを感じた瞬間に、おかしいと判断した。

ヒュドラの攻撃は正面から来ていた。
しかし今の火炎は、全く別の角度から来ていた。
そして、その精度が違った。
ヒュドラの火炎はある程度広範囲に拡散していた。
しかし今来た火炎は、収束していた。
狙っていた。

後方の騎士の一隊に、それが直撃した。

騎士たちの叫び声が上がった。

ダンが振り向いた。
物凄い形相だった。
天としての本能が、状況の異常を即座に察知していた。
しかしダンの目は前方のヒュドラに向いていた。
土壁の構築を中断すれば、
正面からの攻撃が通ってしまう。

ダンは、別方向からの攻撃に気づいていなかった。

---

## 第五十一章 正体

### 一

「外に出ます」

ルークはダンにそれだけ言って、馬車の扉を開けた。

降りた瞬間、
土壁と魔獣の火炎が交錯する戦場の中に立った。
しかしルークの周囲は、バリアが全てを遮断していた。
熱も、衝撃も、飛んでくる石礫も、
ルークには届かなかった。

索敵を広げた。

周囲の全てを、ルークの認識が網羅した。
正面のヒュドラ群。
上空のワイバーン。
ブラックバイパーの動き。
そして——木々の中に潜む、一つの気配。

人間だった。

魔獣ではなかった。

火炎を放っていた。
しかしその火炎は、魔獣のものではなかった。
魔法だった。
この状況に乗じて、騎士たちを狙っていた。

ルークは索敵を続けながら、
その気配に向かって移動し始めた。

ダンに知られるわけにはいかなかった。

もし正体がルークの推測通りであれば、
ダンにとって、それは王国の根幹に関わる情報になる。
それを今この場で、戦闘の最中に明かすことは、
ダンの判断を歪める可能性があった。

ルークはダンから離れながら、
騎士たちの方向への攻撃を静かに遮断した。
木々の中から来る火炎が、
騎士たちに届く前に、ことごとく消えた。

騎士たちには何も見えなかった。
火炎が途中で消えた理由が、わからなかった。
しかしルークが守っていることも、
理解できなかった。

ルークは木々の中に入った。

視界が悪くなった。
しかしルークには関係なかった。
索敵は視界に依存していなかった。

気配が近づいた。

木々の間に、人影が見えた。

赤い髪だった。

炎を、手から絶え間なく放っていた。
その炎の温度と密度が、
普通の魔法使いのものではなかった。
非常に高い出力だった。

ルークは声をかけた。

「そこまで僕を恨んでいるのか。火天ライナス」

ライナスが振り返った。

目が合った。

ライナスの目に、怒りがあった。
純粋な怒りだった。
計算がなかった。
戦略がなかった。
ただ、この目の前にいる相手への怒りだけがあった。

「お前のような魔力なしが、
俺様をコケにしてくれたことが大きな罪なんだよ!」

声が、木々の間に響いた。

ルークはライナスを見た。

この男のプライドが何を引き起こすかを、
ルークは今目の当たりにしていた。
王城での屈辱が、
こうして無関係の騎士たちへの攻撃という形で出てきた。

後方の騎士たちが直撃を受けた。
その者たちが、
ライナスへの怒りと何の関係があるというのか。

怒りの感情を持つことそのものは、
人間として当然のことだ。
しかし、その怒りをどこに向けるかは、
別の問題だった。

プライドが重要だという言葉がある。
自分を大切にすることは確かに必要なことだ。
しかし、そのプライドを守るために、
関係のない者たちが傷つく。
その被害を無視して、
プライドを語ることに何の意味があるのか。

ルークはダンを思った。

同じ天でも、ダンは全く違う方向に動いていた。
自分のプライドではなく、部下のために動いていた。

もう少し、ダンを見習うことができていれば
——ライナスの在り方を見ながら、
ルークはそう思った。

「俺は火天なんだぞ。
お前のような奴に負けるわけがない」

ライナスが両手を上げた。

炎が集まり始めた。
先ほどまでとは規模が違った。
全力を出す気だった。

木々の間に、熱が満ちていた。
葉が焦げ始めた。
空気が揺らいだ。

ライナスが放った。

プラズマ化した炎だった。
通常の火炎とは別物だった。
温度が桁違いだった。
二千度に達する炎が、圧縮されて飛んできた。
これだけの温度の火炎を放てる魔法使いは、
世界を探してもほとんどいない。

フリーダが今の段階で出せる火魔法の温度が、
千度を超えるかどうかだった。
それと比較しても、ライナスの出力は異次元だった。
火魔法においては、ライナスは本物の頂点にいた。

それが、ライナスの唯一の確信だった。

火魔法で負けたことがない。
それだけは、疑う余地がなかった。

だからルークは、火を使うことにした。

火魔法への絶対的な自信を持つ人間のプライドを、
最も確実に崩す方法は、
その同じ土俵で上回ることだった。

ルークは右手を前に出した。

超能力が、熱の概念に作用した。

核融合に近い原理で、ルークは熱を生成した。
炎という形ではなかった。
温度という概念そのものを、ルークは操作していた。
魔法の術式を必要としなかった。
ただ、意図が、物理現象として現れた。

数億度に迫るプラズマ流が、ルークの前に現れた。

それは炎の色ではなかった。
白だった。
白を超えた、青白い光だった。
太陽の表面温度が約六千度だ。
ルークが生成したものは、それを五桁上回っていた。

ライナスの顔が、変わった。

最初は理解できていなかった。

火天として生まれてから、
炎に対して熱いと感じたことが一度もなかった。
炎は自分のものだった。
どんな炎も、自分の魔法と同じ属性だった。
熱は感じなかった。

しかし今、感じていた。

熱かった。

その感覚が何であるかを、
ライナスは最初、理解できなかった。
生まれて初めての感覚だったからだ。
認識が、感覚に追いつくまでに時間がかかった。

これが熱さか。

そう理解した瞬間に、恐怖が来た。

ライナスが放った炎が、
ルークのプラズマ流に触れた瞬間に消えた。
消えたのではなく、飲み込まれた。
より大きな熱の中に、ライナスの炎が溶けていった。

ライナスは炎を増した。

飲み込まれた。

また増した。

また飲み込まれた。

プラズマ流は、ゆっくりと広がっていた。
ライナスの周囲を、徐々に囲んでいった。
上から、横から、後ろから
——ライナスが逃げようとする方向に、
先回りして現れた。

気づいた時には、四方を囲まれていた。

ライナスはまだ炎を出し続けていた。
しかしその炎は、
周囲のプラズマ流に即座に吸収された。
抵抗することに意味がなくなっていた。
魔力を消費するだけで、何も変わらなかった。

「俺は火天なんだぞ」
ライナスが叫んだ。

「火魔法は一番上手く使えるんだぞ。
これまで火魔法で負けたことなんてないんだぞ」

しかしその声は、プラズマ流の壁の外には出なかった。

ルークだけに聞こえていた。

ライナスの顔に、恐怖が出ていた。
それでも叫び続けていた。
叫ぶことをやめれば、この現実を受け入れることになる。

それが、ライナスには耐えられなかった。

ルークはライナスの叫びを聞きながら、
プラズマ流の温度を調整していた。

殺さない範囲で、しかし全てを奪う温度に。

---

## 第五十二章 焦げた地

### 一

静寂が来た。

プラズマ流が収まった後、
木々の間には焦げた匂いだけが残っていた。
立ち木は炭になっていた。
地面は黒く焼き固められていた。
かつて草があった場所が、全て焦土になっていた。

ルークは顔の周囲にバリアを張って
焦げた匂いを遮断した。

地面を見た。

ライナスが倒れていた。

全身が黒焦げだった。
衣服は消えていた。
皮膚は熱によって変色していた。
しかし呼吸はあった。
かすかだったが、確かにあった。

目が開いていた。

焦点が定まっていなかった。
しかし何かを言おうとしていた。
声は出ていなかった。
喉が熱によってやられていた。
しかし口が動いていた。

まだ諦めていなかった。

それを見て、ルークは少し考えた。

殺すことは、簡単だった。
しかしここで殺す必要があるかどうかを、
ルークは考えた。

ライナスが今日したことは、許されないことだった。
魔獣の被害に乗じて、無関係の騎士たちを攻撃した。
その動機は、ルークへの個人的な恨みだった。
それは明確な罪だった。

しかし。

この男の妹の顔が、ルークの記憶に浮かんだ。

アイーダ・ランドルフ。

入学試験総合第二位。
冷静な判断力を持つ人間だった。
兄の限界を正直に認めながら、
それを兄への侮辱としてではなく、
事実として受け止めていた。

あの妹が、この兄を見てきた。

凄いと思っていた、と言っていた。
本当に、そう思っていた。

そういう人間が身近にいたにもかかわらず、
ライナスはこうなった。
しかし、まだやり直せる可能性がゼロだとは、
ルークには断言できなかった。

ルークは地面に倒れたライナスを一瞥した。

「火天の座は、別の者に譲った方がいい」

聞こえているかどうかは、わからなかった。

しかし、言葉を残した。

生かした。それがルークの結論だった。

---

### 二

ルークは木々の中から出た。

魔獣の戦闘は、ダンが処理していた。

土天の力が、国境付近の地形を変えていた。
岩盤が隆起し、土の柱が魔獣の動きを制限し、
ワイバーンの着地点を封じていた。
ヒュドラは土の罠に絡め取られ、
身動きが取れなくなっていた。

ダンの戦い方は、攻撃よりも制御に優れていた。

相手を倒すのではなく、相手の動きを完全に封じる。
その思想が、
大地を自在に操る土天の力と完全に合っていた。

「戻ったか」
ダンがルークを見た。

「何かあったか。木々の方から火炎が来なくなったが」

「処理しました」

「処理、か」
ダンは少し間を置いた。

「魔獣か」

「ええ」

ルークは嘘をついた。

ダンは少し顎を撫でた。
しかしそれ以上を聞かなかった。

「こちらはもう少しかかる。
ヒュドラを完全に無力化するまで」

「手伝います」

ルークはワイバーンの群れに目を向けた。

上空で旋回していた群れが、ルークを感知したのか、
一斉に急降下してきた。
ルークは右手を一度だけ動かした。

空中で、ワイバーンたちが静止した。

そのまま、郊外の草原に、ゆっくりと降ろされた。
着地した後、ワイバーンたちは動かなかった。
意識はあった。
しかし、動けなかった。
重力が、それぞれの体に局所的にかかっていた。

ダンが、それを見ていた。

「俺がやっていることと、全く違う方法だな」

感想だった。
批判ではなかった。
純粋な観察だった。

「ダンさんのやり方の方が、
相手を制御する精度が高いと思います」

「お世辞はいい」
ダンは言ったが、声が少し柔らかかった。

ヒュドラが最後の抵抗として火炎を放った。
ダンの土壁が受け止めた。
それを最後に、
ヒュドラは土の拘束の中で動かなくなった。

周囲が静かになった。

焦げた匂いが、風に運ばれて来た。

ダンはその匂いを嗅いで、
木々の方を見た。ルークを見た。

「本当に魔獣だったか」

ルークは答えなかった。

ダンはそれ以上を聞かなかった。

しかしダンの目は、何かを確認していた。
嘘をついているとわかっていながら、
追求しない理由をダンなりに判断していた。

二人は騎士たちの元に戻った。

直撃を受けた者たちの手当てをしながら、
ルークはその傷を超能力で癒していった。

ダンはそれを見て、黙っていた。

夕暮れが、焦土の上に伸びていた。