第三百五十三弾「器用貧乏の男」の続きです
弓桁の一件があってから、
五郎が営業部の中で完全に孤立する
ということはなくなった。
だが、それは決して「歓迎された」
ということを意味するものではなかった。
あの一件を評価する声は、確かに存在した。
だがそれは、部署内でもごく少数の人間に限られていた。
下請けの工場や協力会社に対して、
普段から対等な立場で接している数人
――彼らは、五郎が工場側の担当者と
交渉する様子を見て、素直に「大したものだ」
と感心していた。
工場を単なる駒として、頭を下げさせるべき
下位の存在としか見ていない人間には、
決して真似のできないやり方だったからだ。
だが、そうした少数派とは反対に、
多くの本社社員にとって、
五郎のあの振る舞いは評価に値するものというより、
むしろ「時代遅れの田舎臭さ」の象徴として映っていた。
「支社と本社じゃ、そもそもやり方が違うんだよな」
「わざわざ電話一本で済む話を、あんなに丁寧に、
しかも自分から工場に頭下げてまとめるとか、
暇なんだね」
「本社は本社のスピード感があるんだから、
支社時代のやり方を持ち込まれてもね……」
直接五郎に向けられる言葉ではなかったが、
フロアの空気の端々から、
そうした声が漏れ聞こえてくることがあった。
目立ちたがりの田舎者。効率を知らない旧世代。
彼らの目には、五郎のあの行動は、
そういうレッテルの下にしか収まらないものだった。
皮肉なことに、五郎自身、
本社と支社でやり方が違うということを、
誰よりも痛感していた。
だからこそ、二十歳も年下の井上晴人に頭を下げて、
一から仕事のやり方を教わっているのだ。
五郎にしてみれば、それは当然のことであり、
恥じることでも何でもなかった。
新しい環境に来たのだから、
そこのやり方に合わせて学び直す。
ただそれだけの話だった。
そして何より、五郎自身は、
あの弓桁とのやり取りを、
大した出来事だとは全く思っていなかった。
工場の話を聞き、要点を整理し、
営業側にわかる言葉に翻訳して伝える。
それだけのことだ。
特別な知識でも、特別な才能でもない。
ただ、支社時代に人手が足りず、
工場の手伝いに駆り出されたことが人より多かったから、
たまたま人より少しだけ、
工場の事情に詳しいというだけのことだ。
誰にでもできることを、たまたま自分がやっただけ。
五郎はそう信じて疑わなかった。
むしろ五郎の中には、
密かな引け目のようなものすらあった。
本社に来て、五郎が目にしてきた社員たちは、
皆それぞれに秀でた何かを持っていた。
ある者は圧倒的な交渉力で大口の契約を
次々と取ってくる。
ある者は複雑な製品仕様を瞬時に理解し、
技術的な質問にも澱みなく答える。
ある者は数字の分析に長け、
市場動向を的確に読み解いてみせる。
それぞれが、その道の「特別な人間」だった。
その中に混じって、
自分にはこれといった尖った武器が何もない。
営業もそこそこ、事務もそこそこ、
工場の勝手もそこそこわかる。
だがそのどれ一つとして、胸を張って
「これが自分の強みだ」と言えるものではない。
五郎の自己評価の中で、自分はあくまで
「本社の特別な人々」の水準には遠く及ばない、
平凡な支社上がりの人間でしかなかった。
だからこそ、弓桁からの称賛にも、
心のどこかで「そんな大したことじゃないのに」
という戸惑いが、常について回っていたのだった。
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本社に来て二週間ほどが経ったある日の午後、
五郎は営業フロアの隅で、
新入社員の杉原が電話口で
頭を下げ続けているのを見かけた。
「本当に申し訳ございません……
はい、はい、重々承知しております……」
もう十分近く、
その姿勢を崩さずに謝罪の言葉を繰り返している。
額には汗が滲み、受話器を握る手が微かに震えていた。
何かただならぬことが起きているのは、
その様子だけで容易に見て取れた。
五郎は自分のデスクから、
そっと杉原の方へ近づいていった。
「杉原くん、大丈夫か。何があった」
電話を切った杉原は、蒼白な顔で振り返った。
「あ、野中さん……。
実は、先月客先から聞き取ってまとめた要望書に、
不備があったみたいで。
設計が終わった段階で、
寸法の記載に食い違いがあることが発覚して……。
今、設計課の方に平謝りしてたんですが」
「設計課の担当者と、電話で?」
「はい。もう十分くらい謝ってるんですけど、
なかなか納得してもらえなくて」
五郎はしばらく考えてから、杉原に静かに言った。
「杉原くん、悪いけど、
その電話、俺に代わってもらえるか」
戸惑う杉原から受話器を受け取ると、
五郎は設計課の担当者に対して
丁寧に謝罪の言葉を述べ、
そして続けてこう言った。
「このたびはご迷惑をおかけして
誠に申し訳ございません。
詳細について、こちらから直接お伺いして
経緯をご説明させていただければと思います。
今からそちらに向かいますので、
少々お時間いただけますでしょうか」
電話を切ると、五郎は杉原に向き直った。
「行くぞ、設計課に」
「え、でも、電話でもう謝ったんですけど……」
「同じビルの中にいるんだから、
まずは電話じゃなくて、直接会いに行かないと。
こちらの意向は、電話だけじゃ伝わらないよ」
杉原は釈然としない顔をしていた。
電話で用が足りるなら、
わざわざ足を運ぶ必要はないのではないか
――そう思っている顔だった。
だが五郎にとって、
それは若い世代の多くが見落としがちな、
しかし決定的に重要な部分だった。
電話越しの言葉は、どうしても平板になる。
表情も、頭を下げる仕草も、相手には伝わらない。
だが直接顔を合わせ、頭を下げる姿を目にした相手は、
そこで初めて、言葉の裏にある誠意の重みを感じ取る。
人間の感情というのは、
そういう物理的な距離の近さによって、
驚くほど大きく揺れ動くものなのだ。
それは、飲み会というものに対する
若い世代の忌避感にも通じる話だと、五郎は思っていた。
今の若手社員の多くは、
業務時間外の付き合いを無駄なものと見做し、
極力避けようとする。
その気持ちも、五郎にはよくわかった。
だが、いざという時、
困った時に手を差し伸べてもらえるかどうかは、
そうした普段からの人間関係の積み重ねに
大きく左右される。
友人であれば、頼まれずとも助けたいと思う。
だが、特に関わりのない相手であれば、
助ける必要性を感じない人間の方が多い。
そしてそれは、自分に何かしらの負担や
マイナスが伴う場合であればあるほど、
より顕著になる。
五郎自身、新入社員だった頃は、
他部署や下請けの人間たちが開く飲み会に、
よく顔を出していた。
当時は誘われるがままに参加していただけだったが、
後になって、そうした席で築いた関係性に
何度も助けられることになった。
無理を聞いてもらえたのも、
融通を利かせてもらえたのも、
あの飲み会の席で交わした、
たわいもない会話の積み重ねがあったからこそだった。
それに気づいてからは、五郎は自ら進んで、
そうした場に参加するようになっていったのだった。
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設計課のフロアに足を踏み入れると、
五郎は杉原を伴ったまま、大きな声で頭を下げた。
「失礼します、営業部です。
この度は設計課の方々に御迷惑をおかけしまして、
誠にすみませんでした。
担当の杉原と共に、謝罪に伺いました」
その声に気づいて、何人かの社員が顔を上げ、
突然現れた二人を見た。
中の一人が、意外そうな表情を浮かべて声を上げた。
「あれ? 五郎ちゃんじゃないか」
その男は椅子から立ち上がり、
五郎の方へと歩み寄ってきた。
五郎は頭を上げてその顔を見て、目を丸くした。
「もしかして……秋山さん?」
秋山と呼ばれたその男は、五郎の肩を軽く叩いた。
「いつの間に本社に栄転したんだよ。教えてくれよ〜」
朗らかに笑う秋山に、
五郎も思わず頭をかいて苦笑いした。
隣では、事情の飲み込めない杉原が、
ぽかんとした顔で二人のやり取りを見つめている。
それに気づいた五郎が、杉原に向かって説明した。
「秋山さんは、
俺が支社時代にお世話になった設計士さんでね。
たまに一緒に飲んだこともあるんだよ」
秋山は、懐かしむように腕を組んで杉原に言った。
「当時、五郎はいつも無理難題を押し付けるんだけどな、
その度に手土産持って飲みに誘われてよ。
こっちも仕方なく付き合ってやってたんだよ」
そして秋山の視線が、杉原の方へと向いた。
「お前さんが、今回やらかした新人だろ?
でもまぁ、五郎に学べば、今後は成長するだろうな。
今回は、多めに見てやるよ」
「そんな簡単に済ませていいんですか?」
五郎が慌てて口を挟むと、
秋山は鷹揚に笑って答えた。
「課長指示で、どうにかするよ」
その一言に、五郎の顔から驚きの色が消えなかった。
「秋山さん……本社設計課の課長だったんですか?」
「もうすぐ定年退職だけどな」
秋山はそう言って、屈託なく笑ってみせた。
(以降、続く)