第三百二十六弾「異能の転生者」

第三百二十七弾「異能の転生者 その2」

第三百二十八弾「異能の転生者 その3」

第三百二十九弾「異能の転生者 その4」

第三百三十弾「異能の転生者 その5」

第三百三十一弾「異能の転生者 その6」

第三百三十ニ弾「異能の転生者 その7」

第三百三十三弾「異能の転生者 その8」

第三百三十四弾「異能の転生者 その9」

第三百三十五弾「異能の転生者 その10」

第三百三十六弾「異能の転生者 その11」

第三百三十七弾「異能の転生者 その12」

第三百三十八弾「異能の転生者 その13」

の続きです

 

 

# 異能の転生者

## 第三十八章 限界の向こう

### 一

アクア・ヴォルフィードは、これまでの人生において、
自分が理解できないものに出会ったことがなかった。

それは傲慢さではなかった。
事実として、そうだった。

幼い頃から魔法の才能があった。
グレイの元で学び、
理解が追いつかないと感じた瞬間は何度もあったが、
それは時間をかければ必ず解決した。
水天になってからは、この世界の魔法において、
自分が理解できない現象はほぼ存在しなくなっていた。

しかし今、目の前に広がっているものを、
アクアは理解できなかった。

夜空だった。

正確には、夜空だったもの、だった。

頭上を覆う星空が、消えていた。
代わりに何があるかといえば、光だった。
無数の光の矢が、夜の大気を埋め尽くしていた。
一本や二本ではなかった。
数百、数千——アクアの視界の全てが、
白い光の穂先で満たされていた。

それぞれが動いていなかった。

静止していた。
しかし静止しているのに、
その先端が示している方向は全て、
アクアに向かっていた。
どの角度を見ても、光の矢の穂先があった。
上から、横から、斜めから、下から
——包囲という言葉では足りなかった。
存在する全ての方向から、光がアクアを指していた。

アクアは自分の五十の術式を見た。

展開したままだった。
しかし今この状況において、その五十という数字が、
何の意味も持たないことを、アクアは感じ取っていた。

魔力「至高」の評価を受けた者が、
この世界に何人いるか。
アクアは知っていた。
記録に残っている限りでは、
歴代を通じて百人に満たない。
その頂点にある自分が、
今この瞬間に確信していることがあった。

この光の矢の一本一本が、
自分の全魔力による防御を貫通する。

どうすれば確信できるのか、と問われても、
アクアには説明できなかった。
しかし確信だった。
才能ある者が極限まで鍛えた直感が、
疑いようのない事実として告げていた。

あれは魔法ではない。

魔法であれば、出力の上限が存在する。
どれほど優れた魔法使いも、
魔力という資源の制約の中でしか動けない。
しかしあの光の矢には、上限が感じられなかった。
一本を放つコストが、
どれほどのものかを測ろうとしたが、測れなかった。
測る物差しが、アクアの中に存在しなかった。

魔力量が「至高」のアクアが、
一番よくわかっていた。

魔力「至高」を持つ自分でさえ、
あれだけの数の光の矢を同時に維持することは不可能だ。

不可能どころか、想像すら難しい。
なぜなら、あれだけの数を維持するために
必要なエネルギーの量が、
この世界の魔力という概念で換算できる範囲を
超えているからだ。

ではあれは何か。

答えが出なかった。

---

### 二

「先輩ということで、
邪魔をしなければ手を下しません。
どうしますか」

ルークの声は穏やかだった。

怒っていなかった。
興奮していなかった。
これだけのことをしながら、
声の温度が変わっていなかった。
それがまた、アクアの中に奇妙な感覚を作った。

どうにか言葉を絞り出した。

「王城を襲撃する理由を、聞かせてもらえますか」

時間稼ぎだった。

これだけの騒ぎになっている。
既に伝令が各地に飛んでいるはずだ。
他の天が感知していれば、駆けつける可能性がある。
この少年がどれほど強くても、
現役の天が複数集まれば——

次の瞬間、世界が止まった。

正確には、止まったと感じた。

何が起きたかを、アクアは理解しようとした。
理解できなかった。
感覚として、何かが変わった。
空気の流れが止まった。
中庭の噴水から吹き出していた水が、
空中で固まった。
さっきまで夜風に揺れていた旗が、
布の形のまま静止した。
空を横切っていた鳥が、
翼を広げたまま空中に固定されていた。

崩れ落ちかけていた瓦礫が、
落下の途中で止まっていた。

煙が、形を保ったまま動かなかった。

炎が、燃えるのをやめていた。

「時間稼ぎができないように、時を止めました」

ルークの声が聞こえた。

「今、この世界で動いているのは、僕とあなただけです」

アクアはルークを見た。

言葉の意味は理解した。
しかし意味を理解することと、
それが何であるかを理解することは、
全く別の話だった。

時を止めた。

時間が、止まっている。

この世界において、時間は絶対だった。
魔法で操作できるものの中に、
時間は含まれていなかった。
時間操作の理論は古くから研究されてきたが、
現代の魔法技術では不可能とされていた。
天の称号を持つ者たちの中でも、
時間に干渉できる者は存在しなかった。

それが止まっていた。

噴水の水が空中で固まっていた。
鳥が空中で固定されていた。
炎が燃えるのをやめていた。

アクアは自分の手を見た。
自分は動いていた。呼吸もできていた。

「あなたは」
アクアは言った。
声が、わずかに変わっていた。

「何者なんですか」

頭の中で、一つの言葉が浮かんだ。
しかしアクアはそれを口にしなかった。

神、という言葉だった。

あまりにも陳腐だった。
あまりにも安易だった。
目の前の現実に対して、その言葉は小さすぎた。
しかし他に言葉が見つからなかった。

ルークはアクアを見た。

「僕が何者だろうが、どうでもいいことです」

アクアの思考が読まれていた。また、だった。

「問題は、下らないプライドによって
人が殺されたということです」

アクアは一瞬、目を閉じた。

王族の誰かが、やってはいけないことをした。
その尻拭いが、今自分に回ってきている
——そういう構図が見えた。
天になってから、似たような状況を何度か経験してきた。

王族が引き起こした問題を、天が解決する。
あるいは揉み消す。
それは天という立場が持つ、
表には出ない仕事の一つだった。

毎回、嫌な気分になった。

しかしやらなければならなかった。
天でいることのメリットは、
この世界において
王族に次ぐ地位に相当するほど大きかった。
そのメリットを享受している以上、
デメリットも受け入れるしかなかった。
それがどれほど理不尽であっても。

しかし今は、そのデメリットの規模が、
今までとは違った。

目の前にいるのは、時間を止められる存在だった。

天であることのメリットと、
自分の命を天秤にかけなければならない状況が、
今ここにあった。

今更、辞めるから許してくれとは言えないだろう。

アクアはそう思った。

しかしこれ以上戦い続けることが、
何をもたらすかも、今のアクアには見えていた。

人生の転機は、前もって予告せずに来るものだ。

アクアは長杖を、ゆっくりと下ろした。

展開していた五十の術式を、一つずつ解いていった。
解くたびに、空気の緊張が少しずつ薄れた。
最後の術式が消えた時、アクアは両手を上げた。

「降参します」

声は静かだった。震えていなかった。

「これ以上、あなたには手を出しません」

天になってから初めての言葉だった。
この言葉を言う日が来るとは、思っていなかった。
しかし言葉は出た。
思ったより自然に出た。

それが何を意味するのかを、アクアは少し考えた。

自分はずっと、勝ち続けてきた。
グレイの元で学んでいた時も、天になってからも。
負けを知らなかった。
それが誇りだった。

しかし今この瞬間に感じているのは、
その誇りが傷ついたという感覚ではなかった。

別の何かだった。

言語化できなかった。
しかし確かにそこにあった。

時が止まった世界の中で、
アクアは目の前の少年を見た。

この存在は、自分がこれまで知っていた
世界の外側から来ている。
そういう確信があった。

止まった噴水の水が、空中で光を反射していた。
固定された炎が、形を保ったまま輝いていた。

静止した世界の中に、
アクアとルークだけが動いていた。
 

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## 第三十六章 王城

### 一

王城の主門は、
王国の権威を体現するような造りだった。

高さ十メートルを超える鉄と石の複合構造。
王家の紋章が両扉の中央に金で刻まれていた。
昼間であれば、その威容に圧倒される者も多いだろう。
夜の闇の中でも、松明の光に照らされたその門は、
近づく者に王国の力を無言で示していた。

門番が四名、左右に二名ずつ立っていた。

夜番の彼らは、静かな夜の続きを予想していた。

光の矢が現れたのは、突然だった。

音もなく、予兆もなく、
数十本の光の矢が夜の空気を裂いた。
門番たちの足元を、耳元を、肩の横を、
髪の毛一本の差で掠めた。
当たらなかった。
しかし、当たらないことが、
かえって恐怖を増幅させた。

狙えば当たる。しかし当てていない。

その事実が意味することを、
門番たちの本能が理解した。

「離れろ!」

一人が叫んだ。
四人が主門から飛び退いた。
石畳の上を転がるように距離を取った。

次の瞬間、単一の巨大な光の矢が、夜空を裂いた。

先ほどの数十本とは、規模が違った。
太さが人間の胴体ほどある光の柱だった。
それが音速を遥かに超えた速度で主門に向かった。

接触した瞬間、主門は存在しなくなった。

爆発ではなかった。
衝撃波もなかった。
鉄も石も、王家の紋章も、全てが一瞬で霧散した。
高さ十メートルの巨大な門が、跡形もなく消えた。
門があった場所に、ただ夜の空気だけが残った。

城内から声が上がった。

足音が増えた。

騎士たちが走ってきた。
数十人が、開いた穴に向かって殺到してきた。
松明を持つ者、剣を抜いた者、
魔法の準備をしている者
——それぞれが戦闘態勢を取りながら、
主門があった場所に集まった。

ルークは彼らを見た。

この騎士たちを傷つける必要はなかった。
命令に従って動いているだけだ。
フリーダの父を死に追いやった連鎖とは、
直接の関係がない。

ルークは空間操作を展開した。

騎士たちを囲む空間が、切り取られた。
数十人の騎士たちと、
彼らが立っている地面の一部が、
そのまま別の場所に移動した。
王都の郊外、人気のない草原だった。

城内から城外へ、一瞬だった。

騎士たちは自分たちが突然、
草原の上に立っていることに気づいた。
混乱の声が上がった。
しかし彼らが状況を把握する頃には、
ルークは既に次に動いていた。

---

### 二

王城の四隅に、見張りのための円塔が立っていた。

それぞれが高さ三十メートルを超える
石造りの構造物だった。
内部に螺旋階段があり、最上部に見張り台がある。
王城の防衛において、重要な役割を担っていた。

四つの塔が、同時に消えた。

音はなかった。

ただ、あった場所に、何もなくなった。
石材を構成する分子の結合が解かれ、
それぞれの原子が大気に散った。
三十メートルの塔が、霧のように消えた。

城内から、また叫び声が上がった。

次に城壁が消えた。

王城を囲む三重の防御城壁だった。
最も外側の壁から順番に、内側へ向かって、
三つの壁が連続して消えた。
一つ目が消えてから次が消えるまで、
一秒もかからなかった。

三重の防壁が全て消えた後、
王城の本体が剥き出しになった。

これまで城壁に守られていた建物が、
夜の空気の中にそのまま立っていた。
塔が消え、壁が消え、
主門が消えた王城は、
巨大な石造りの建物だけになっていた。

王城が、みるみる丸裸にされていく。

それを見ていた者たちの間に、
新しい種類の恐怖が広まっていた。
魔法への恐怖ではなかった。
この世界の人間が知っている魔法の範疇を、
既に超えていた。では何への恐怖か。

理解できないものへの恐怖だった。

---

## 第三十七章 無効化

### 一

城内から、魔法使いたちが出てきた。

王城に常駐する宮廷魔法士たちだった。
王国の中でも選ばれた者たちで、
それぞれが相応の実力を持っていた。
夜間の緊急事態に対応するための訓練を受けており、
混乱した状況でも術式を構成できる練度があった。

先頭に立った者が、
火魔法の大規模術式を展開し始めた。

術式の構成が始まった瞬間、それは止まった。

術者は感じた。
魔力が、術式の形を取ろうとした瞬間に、
その形が崩れる感覚を。水を器に注ごうとしたら、
器に底がなかったような感覚だった。

もう一度試みた。

また崩れた。

隣にいた別の魔法士が土魔法を試みた。
同じだった。
術式が形になる前に、
何かが介入して、構造を解いていた。

一人また一人と、魔法を試みて、失敗した。

何が起きているかを理解しようとした。
術式のどこに問題があるのか。
魔力の供給に問題があるのか。
結界との干渉か。
しかしどれも、当てはまらなかった。
術式が構成される以前の段階で、
何かが介入していた。

ルークがグレイとの研究で理解したことの一つが、
これだった。

魔法は術式という構造を介して機能する。
術式は魔力を特定のパターンで
組み上げることで生まれる。
そのパターンが完成する前の、
最初の段階に介入すれば、
術式は永遠に完成しない。

魔力そのものを消すわけではない。
術式の構成を、完成する前にキャンセルする。

それを、ルークは同時並行で行っていた。

一人の魔法士が術式を試みる時間は、
速い者で〇・一秒ほどだった。
ルークはその〇・一秒の中の最初の段階、
術式の核となる部分が形成される
〇・〇〇〇一秒の瞬間に介入していた。

一秒間で、
一万人近くの魔法をキャンセルできる計算だった。

目の前にいる宮廷魔法士の数は、
多く見積もっても百人に満たなかった。

魔法士たちは自分たちの状況を理解し始めた。
魔法が使えない。
どれほど試みても、術式が完成しない。
剣を持つ者は剣を構えた。
しかし目の前には、姿が見えなかった。

何もない空間から、攻撃が来ていた。

何もない空間が、城壁を消した。

戦いようがなかった。

魔法士たちの間に、
戦意とは別の何かが広まり始めていた。

---

### 三

ルークは王城の中を進んだ。

隠蔽を維持したまま、廊下を歩いた。
内部の構造は、遠隔探査で既に把握していた。
第一王子の居室は東棟の最上階にあった。

廊下は混乱していた。
走り回る騎士、状況を把握しようとする文官、
叫び声と足音が交錯していた。
ルークはその全てをすり抜けた。
誰も気づかなかった。

東棟に向かう廊下の角を曲がった時、力が来た。

魔法攻撃だった。

ルークのバリアがそれを受けた。
しかし今夜受けた攻撃の中で、明確に質が違った。
他の宮廷魔法士たちの攻撃は、
バリアに触れる前にキャンセルされていた。
しかしこれは、キャンセルが間に合わなかった。

術式の構成速度が、他の者とは桁が違った。

ルークは攻撃が来た方向を見た。

廊下の向こうに、一人の女性が立っていた。

背が高かった。
自身の身長の倍はあろうかという長杖を、
右手一本で持っていた。
杖の先端に、水属性の魔力が静かに渦を巻いていた。
渦は小さかったが、密度が高かった。

衣装は宮廷魔法士のものではなかった。

青を基調とした外套だった。
その外套に、細かな紋様が刻まれていた。
王国の紋章ではない。
別の、より古い権威を示す紋様だった。

顔は、整っていた。

非常に整っていた。
造形としては完璧に近かった。
切れ長の目、高い鼻梁、水のように静かな目元。
しかしその完璧さが、ルークには何かを感じさせた。

整いすぎていた。
人間の持つ不完全さが、その顔にはなかった。

「もしかして、アクア・ヴォルフィード先輩ですか」

ルークは隠蔽を解いた。

廊下に、ルークの姿が現れた。

女性——アクアは、ルークを見た。
年齢を確認した。
学院の制服を確認した。
それから、
この少年が今夜やったことを思い合わせた。

「先輩、という言い方をするということは」
アクアは言った。
声は水のように透き通っていた。
よく通る高音だった。

「あなたもグレイ教授の教え子ですか」

「そうです」

「グレイ教授が」
アクアは少し間を置いた。

「あなたを教え子にした」

繰り返したのは、確認のためだった。
その前提が成立するかどうかを、アクアは測っていた。
グレイが誰かを教え子にする時の基準を、
アクアは知っていた。
自分自身がその基準を通過してきた。
だからこそ、目の前の少年が
その基準をどう通過したのかが、理解できなかった。

「そうです。ただ」
ルークはアクアを見た。

「あなたとは気が合いそうに思えませんね」

アクアは表情を変えなかった。
「なぜ」

「何せ僕は、魔力量『微量』ですから」

廊下に、沈黙があった。

アクアはルークを見た。
それから周囲を見た。
消えた城壁。
消えた塔。
郊外に転移された騎士たち。
魔法をキャンセルされた宮廷魔法士たち。
それらを行った存在が、
魔力量「微量」と言っている。

頭の中で反射的に言葉が動いた。

ハッタリだ。
グレイ教授がそんな魔力量の者を
教え子にするわけがない。
それに、これだけのことができる者が
魔力「微量」などということが——

「グレイ教授は変わったんですよ」

ルークが言った。

アクアは止まった。

自分の思考に、外から答えが返ってきた。
口に出していなかった。
頭の中だけで動いた言葉に、この少年が答えた。

思考を読まれた。

その理解が来た瞬間、
アクアの中で何かが切り替わった。

この少年は、自分が今まで相対してきた
どの存在とも違う。
その認識が、感情ではなく事実として確定した。

「もう、あなたの知っているグレイ教授とは別人です」
ルークは続けた。

「僕との研究で、彼は変わりました。
魔力量が全てではないということを、
今のグレイ教授は知っています」

アクアは長杖を持ち直した。

感情的な反応ではなかった。
この状況で取れる最善の行動として、戦闘を選択した。
水天の称号を持つ者として、
ここで退くことは選択肢にない。
王城で何が起きているかを把握し、
対処する責任がある。

多重起動を始めた。

一つ、二つ、五つ、十——術式が積み重なっていった。
アクアの多重起動は、
この時代の魔法使いの中で最も高水準にあった。
通常の魔法使いが同時に維持できる術式の数が
五から十であるのに対して、
アクアは安定した状態で
五十の術式を同時に展開できた。

五十の術式が、廊下の空気を変えた。

水属性の魔力が、複数の形を取って渦巻いた。
それぞれが独立した攻撃として機能しながら、
互いに補完し合う構造になっていた。
アクアが在学中にグレイから学んだ、
複合的な魔法運用の真髄だった。

ルークはその五十の術式を見た。

構成の精巧さを確認した。
速度を確認した。
それぞれの術式が持つ出力を確認した。

アクア・ヴォルフィードが
現役最年少で水天になった理由が、
この展開に全て詰まっていた。
術式の速度、密度、相互補完の設計
——全てが、
この時代の魔法使いの頂点に位置していた。

ルークはそれを認めた。

この世界の魔法使いとして、
アクアは到達できる最高点に近い場所にいた。

しかし。

五十という数字は、
ルークの基準で換算すると十桁以上、少なかった。
 

 

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## 第三十三章 審判

### 一

真夜中の王都は静かだった。

石畳の通りに人影はなく、
建物の窓に灯る明かりも少なかった。
風が低く吹いて、街路樹の葉を揺らした。
どこかで夜番の衛兵が歩く足音がして、
それが遠ざかっていった。

その静寂の中に、ルークは立っていた。

ダーウェント子爵家の正門の前だった。

誰にも見えなかった。
隠蔽は完全だった。
光を屈折させ、音を吸収し、
存在を示すあらゆる情報を遮断していた。
衛兵が三メートル先を歩いても、
気づかなかった。
気づけるはずがなかった。

ルークは屋敷を見た。

三階建ての石造りの建物だった。
子爵家として相応の規模だった。
正門から続くアプローチに手入れされた植木が並び、
屋敷の外壁に松明が等間隔に灯されていた。
警備の騎士が二名、正門の左右に立っていた。

ルークは正門に向かって歩いた。

騎士たちは気づかなかった。

扉に触れた。
触れた部分から、分子の配列を一時的に組み替えた。
固体が、ルークの体に対してだけ、その性質を失った。
扉をすり抜けた。

屋敷の内部に入った瞬間、ルークは意識を広げた。

家全体の構造を把握した。
壁の厚さ、部屋の配置、人間の位置
——全てが、ルークの認識の中に地図として描かれた。
使用人が七名。
警備の者が屋内に四名。
家族は三名
——子爵、子爵夫人、そしてホバート。

それから、ルークは家全体を封じた。

次元境界を、屋敷全体を包む形で展開した。
外側の世界と、この屋敷の内側を、完全に切り離した。
扉は開かなくなった。
窓は外に繋がらなくなった。
どれほどの力で叩いても、
壁は外部に振動を伝えなくなった。

音が、屋敷の外に漏れることは、もうなかった。

この家の中で何が起きても、外の世界には届かない。

ルークはその静寂を確認した。

それから、ホバートの自室に向けて意識を向けた。
遠隔探査が、部屋の詳細を映し出した。
ベッドに横たわっているホバートの姿。
眠っていた。
規則的な呼吸をしていた。

今夜の恐怖を、まだ知らない顔で。

---

### 二

瞬間移動は音を立てなかった。

一瞬前まで廊下にいたルークが、
次の瞬間にはホバートの自室の中央に立っていた。
空間の移動に、過程は存在しなかった。

ホバートが目を開けた。

寝返りを打とうとした瞬間に、
視界にルークが入った。

反応は、一瞬遅れて来た。

脳が状況を処理するより先に、体が動こうとした。
ベッドから飛び起きようとした。
叫ぼうとした。

声は出なかった。

ルークが部屋を無音空間にしていた。
空気の振動が、音として伝播することを止めていた。
どれほど声帯を震わせても、音にならなかった。

ホバートは口を開けたまま、
声にならない何かを出し続けた。

目が大きく開いていた。
白目の部分が増えていた。
ルークを見ていた。
なぜここにいるのかを理解しようとして、
理解できないでいた。

ルークはホバートを見た。

この少年が何をしたか。
フリーダを囲んで虐めていた。
父親に嘘をついてラングバルト家を陥れた。
グレイへの噂を広め、学院内に混乱を作った。
そして最終的に、
その嘘がラングバルト男爵の死に繋がった。

直接手を下したわけではない。

しかし、その連鎖の最初の石を置いたのは、
この少年だった。

ルークは右手をわずかに動かした。

音は出なかった。

ホバートの両腕と両脚が、肩と股関節から切り離された。

ベッドの上に、四つの衝撃が伝わった。
ホバートの顔が、苦痛の形に変わった。
全身の筋肉が硬直した。
口が開いたまま固まった。
声にならない絶叫が、無音の部屋に満ちた。

ルークはそれを見ていた。

感情的な満足はなかった。
これは罰ではなかった。
情報を得るための手順の一つでもあった。
しかし同時に、結果への対処だった。
降りかかった炎の、その源に対する返答だった。

ホバートの意識が残っていることを確認した。

それから、首を切断した。

一瞬だった。
苦しむ時間はなかった。
ホバートの頭が、ルークの手の中に収まった。
体はベッドの上に残った。
断面から血は出ていなかった。
ルークが処理していた。

ルークはホバートの頭を持って、部屋を出た。

---

## 第三十四章 子爵

### 一

ダーウェント子爵の寝室は、屋敷の最奥にあった。

厚い扉だった。
内側から鍵がかかっていた。
しかしルークにとって、
それは扉がないことと同じだった。

瞬間移動で、部屋の中に現れた。

子爵は眠っていた。

五十代の男だった。
顔に権威の跡があった。
長年、人の上に立ってきた者の顔だった。
眠っている今は、その権威が薄れて、
ただの中年男の顔になっていた。

ルークが現れた気配に、子爵が目を開いた。

天井を見ていた視線が、横に動いた。
部屋の中央に立つルークを捉えた。

反応はホバートと同じだった。

飛び起きようとした。
叫ぼうとした。
声は出なかった。
体が動こうとしたが、
ルークが重力操作で子爵をベッドに縫い付けていた。
起き上がることができなかった。

目だけが動いていた。

恐怖で、視点が定まらなかった。

ルークを見て、部屋の扉を見て、

また窓を見た。逃げ道を探していた。

やはり親子だな、とルークは思った。

パニックに陥った時の反応が、ホバートと同じだった。
叫ぼうとして、逃げようとして、
それが全てできないと理解した時に固まる。
同じ血が、同じ反応を作っていた。

ルークは手の中にあるものを、
子爵に向かって投げた。

ホバートの頭だった。

子爵の両手が、反射的に動いた。
受け取った。
自分の両手に収まったものが何であるかを、
指先の感触と視覚が同時に伝えた。

理解した瞬間の子爵の顔を、ルークは観察した。

人間が極限の恐怖に達した時、表情は単純になる。
複雑な感情が消えて、ただ一つの感情だけが残る。

子爵の顔には、恐怖だけがあった。

思念通話を開いた。

声を使わず、意識と意識を直接繋ぐ。
この世界に存在しない技術だった。
相手の頭の中に、言葉が直接届く。

『それがあなたたちの、
自分本位な行動の結果です』

子爵の体が、ベッドの上で震えた。
頭の中に声が響いたことへの驚愕と、
手の中にあるものへの恐怖が、
同時に子爵を揺さぶっていた。

『あなたも同じようになりたいですか』

子爵は首を振った。
横に、激しく、何度も。

ルークは一呼吸置いた。

『ラングバルト男爵を暗殺させたのは誰ですか』

子爵の動きが止まった。

首を振ることも、頷くことも、しなかった。
ただ、固まった。

ルークはその変化を読んだ。

恐怖よりも強い何かが、子爵の中にあった。
それが口を閉じさせていた。
この問いに答えることへの恐れが、
目の前の恐怖を上回っていた。
それほどの存在が、背後にいるということだった。

子爵は口を開かなかった。

ルークは右手をわずかに動かした。

子爵の左脚が、膝から切り離された。

子爵の口が開いた。
声は出なかった。
しかし体全体が、苦痛の形に曲がった。

『答えるまでこれを続けます』
ルークは思念通話で言った。

『答えますか。それともこの世から退場しますか』

子爵は歯を食いしばっていた。

言えない、という意志が、その顔に出ていた。
この問いに答えることが、
自分の死より怖い何かに繋がっていることを、
子爵は知っていた。
だから言えなかった。
言えば、別の方向から死が来る。
そういう計算が、極限の恐怖の中でも動いていた。

しかし、思考は別だった。

口は閉じることができる。
しかし頭の中の言葉は、止めることができない。
恐怖に晒された人間の思考は、抑制を失う。

子爵の頭の中で、言葉が動いていた。

第一王子の命令だ。
第一王子に逆らえば、自分の家が終わる。
だから言えない。言えるはずがない。
しかしなぜこの少年は
——なぜここまで知っている
——何者なのだ——

ルークはその思考の流れを、静かに読んだ。

『第一王子の命令ですか』

子爵の目が、大きく開いた。

口を開いていなかった。
何も言っていなかった。
それなのに、目の前の少年は知っていた。
なぜ——どうやって——

その困惑が、答えの代わりになった。

ルークは子爵の脚を元に戻した。
骨と肉が繋がる感覚を、
子爵は茫然とした顔で感じていた。
痛みが引いていくことへの安堵と、
自分の体が戻ったことへの混乱が、
同時に子爵の顔に出た。

ルークはホバートの元に戻った。

切り離した四肢を、元通りに繋いだ。
頭を、首の上に戻した。
骨と肉と神経が、正確に組み直された。
外傷が消えた。

ホバートの目が、戻ってきた。

意識が戻る瞬間の顔があった。
混乱、それから記憶が戻る感覚、
それからまた恐怖。

ルークはホバートを見た。

この少年には、
今夜のことを覚えていてもらう必要があった。
忘れさせることは簡単だった。
しかし、忘れれば同じことを繰り返す。
この恐怖が記憶に残ることで、初めて意味を持つ。

ルークは何もしなかった。

ただ、今夜の記憶を、消さなかった。
それだけだった。

ホバートの顔に、恐怖が張り付いたまま残っていた。

ルークは子爵の寝室に戻った。
子爵も同じ状態だった。
手の中にあったものが消えていた。
脚が戻っていた。
しかし顔には、今夜経験したことが刻まれていた。

それで十分だった。

次元境界を解いた。

屋敷が、外の世界と繋がった。
夜の空気が、どこかから入ってくる感覚があった。

ルークは屋敷を出た。

---

## 第三十五章 王城へ

### 一

王都の夜空に、星が出ていた。

ルークは屋敷の外に立って、少しだけ空を見た。

第一王子。

ダーウェント子爵が言えないほどの存在。
ラングバルト男爵の暗殺を命じた者。
レイスナー第二王子との因縁がある中で、
今度は第一王子が関わっていた。

王国の権力の中枢が、この問題の根にあった。

ルークはそれを確認した上で、判断した。

根を断たなければ終わらない。
ダーウェント子爵を脅かしても、
その上に第一王子がいる限り、別の手が来る。
別の者を使って、別の方法で、
フリーダを狙い続けるだろう。

ならば、第一王子に直接向かう必要があった。

王城の方向を見た。

王都の中心部に、夜の闇の中でも城の輪郭が見えた。
高い塔が、星空を背景にして立っていた。

王城への侵入は、学院への侵入より複雑だった。
警備の数が違う。魔法による結界が重なっている。
不審者を感知するための術式が
各所に張り巡らされている。

しかしルークにとって、
それは難易度の問題ではなかった。

ルークは隠蔽を完全にしたまま、
王都の夜の中を歩き始めた。

石畳を踏む音もなかった。影も落とさなかった。

ただ、王城に向かって、静かに動いていた。
 

第三百二十六弾「異能の転生者」

第三百二十七弾「異能の転生者 その2」

第三百二十八弾「異能の転生者 その3」

第三百二十九弾「異能の転生者 その4」

第三百三十弾「異能の転生者 その5」

第三百三十一弾「異能の転生者 その6」

第三百三十ニ弾「異能の転生者 その7」

第三百三十三弾「異能の転生者 その8」

第三百三十四弾「異能の転生者 その9」

第三百三十五弾「異能の転生者 その10」

の続きです

 

 

# 異能の転生者

## 第三十章 甘さ

### 一

ルークは自分を呪った。

珍しいことだった。
前世において、フレデリック・マクミランが
自分の判断を悔いたことはほとんどなかった。
悔いる必要がなかった。
全てを見通せる力があれば、
後悔の余地は生まれない。

しかし今は違った。

見通せなかった。
この世界の貴族社会の論理を、
まだ十分に理解していなかった。
ダーウェント子爵が補助金という手段で
学院に圧力をかけ、それが政治的に解決された
——その先に、直接的な暴力という選択肢があることを、
ルークは計算に入れていなかった。

政治的な解決が、かえって火に油を注いだ。

子爵の立場から見れば、
派閥を使って自分の抗議を封じられたことになる。
面子を潰された。
その怒りがラングバルト男爵家に向かった。
ラングバルト家がグレイブヤード家の
派閥に属していると誤解した上で。

完全なとばっちりだった。

しかしその「とばっちり」を生んだ連鎖の中に、
自分の判断が含まれていた。
トールに相談したことは正しかった。
しかし、その解決方法が引き起こす可能性のある
反応まで、考えが及んでいなかった。

この世界の貴族社会において、
派閥を使った圧力は日常的な手段だった。
それに対する報復もまた、日常的な範囲に含まれる。
ルークはその「日常」をまだ肌で理解していなかった。

知識としては知っていた。
しかし、知識と実感は違う。

ルークは窓の外を見た。
学院の庭が見えた。
何も変わらない景色だった。

変わったのは、
一人の父親が死んだという事実だけだった。

---

### 二

トールの怒りは、手紙の文面に滲んでいた。

普段のトールの手紙は、
感情を抑制した簡潔な文章だった。
しかし今回は違った。
言葉は選ばれていたが、
その選ばれた言葉の間に、
押さえきれない何かが見えた。

「ダーウェントがあそこまでやるとは思わなかった。
私の読みが甘かった。申し訳ない」

謝罪から始まっていた。

トールが謝罪の言葉を手紙に書くことは、
ほとんどなかった。
それだけで、この件がトールにとって
どれほどの衝撃だったかがわかった。

続きには、事態の分析が書かれていた。

ダーウェント子爵家がラングバルト男爵家を
我々の派閥と誤認した可能性が高い。
実際にはラングバルト家はどの派閥にも
属していない弱小貴族だったが、
今回の件でグレイブヤード家と
繋がっていると見られた可能性がある。

その分析の後に、一段落があった。

「ルーク、これは私が招いたことでもある。
派閥を使って解決したことが、
この結果を引き寄せた一因だ。
この世界ではそれが当たり前の手段だとしても、
私はその当たり前に乗った。
責任の一端は私にある」

ルークは手紙を読みながら、
兄の誠実さを確認していた。

言い訳をしない。
自分の判断の結果を、正直に受け取る。
それがトールという人間だった。

しかし、ルークの中にあるのは
兄への怒りではなかった。

自分への苛立ちだった。

トールに相談すると決めた時点で、
解決の手段はトールに委ねていた。
その手段が引き起こす可能性を、
もっと考えるべきだった。
この世界の政治がどのように動くか、
その連鎖を追うべきだった。

追えなかった。

まだ、この世界を生きる時間が短すぎた。

---

## 第三十一章 グレイの論理

### 一

ルークはグレイに話した。

その日の放課後、
研究室に入ったルークは、状況を順序立てて説明した。
ラングバルト男爵が暗殺されたこと。
おそらくダーウェント子爵家が背後にあること。
フリーダが今後も危険にさらされる可能性があること。

グレイは聞いていた。

話が終わると、しばらく沈黙があった。

それからグレイは言った。
「フリーダが実験に
来られなくなるかもしれないということか」

ルークは少し間を置いた。

「そうなる可能性があります」

グレイは眉間に手を当てた。
「困ったな」

その言葉の意味するところは、明確だった。
ラングバルト男爵が亡くなったことへの
哀悼ではなかった。
フリーダが研究に参加できなくなることへの
懸念だった。

ルークはそれを見て、
そうだろうな、と思った。

怒りはなかった。
グレイという人間がそういう人間であることは、
最初からわかっていた。
魔法の発展以外に、
この男の関心を本質的に占めるものはない。
人の死に対する感情が薄いわけではない。
ただ、優先順位の構造が、
一般的な人間とは根本的に違う。

それはある意味、純粋さだった。

「対処を考えます」
ルークは言った。

「頼む」
グレイはすぐに答えた。

「フリーダの安全が確保されれば、研究は続けられる。
私は研究の方を考える」

役割分担が、会話の中で自然に決まった。

ルークはそれで構わなかった。
グレイが政治的な問題に介入すれば、
状況はさらに複雑になる可能性があった。
この男の得意な領域と、不得意な領域は明確だった。

---

## 第三十二章 道中

### 一

翌日の放課後、ルークはフリーダに声をかけた。

「ラングバルト家に戻るか」

フリーダは少し驚いた顔をした。
「どうして」

「一人で帰すわけにはいかない」

フリーダは何かを言おうとした。
断ろうとしていた。
遠慮と、それから別の何か
——自分の問題に他人を巻き込むことへの躊躇いが、
顔に出ていた。

「フリーダ」
ルークは言った。

「断る理由を考えている時間があるなら、
準備をした方がいい」

フリーダは少し間を置いて、頷いた。

二人は学院を出た。

王都の街を歩きながら、
ルークはフリーダの様子を横目で確認していた。
表情は硬かった。
父親を失った悲しみと、家の今後への不安と、
それを表に出さないようにしている抑制が、
複雑に混ざり合っていた。

言葉をかけるべきかどうかを考えた。

前世においても、今生においても、
ルークは他者の感情的な痛みに対して、
何を言えばいいかを考えることがあった。
考えて、たいていは黙った。
言葉が適切でないと判断した時は、
沈黙の方が誠実だと思っていた。

今は黙って歩いた。

ラングバルト家の屋敷は、王都の外縁部にあった。
学院から歩いて三十分ほどの距離だった。

街の中心部を抜けて、
建物が少なくなり始めた頃だった。

ルークの感知が、動いた。

それは意識的な行為ではなかった。
ルークの超能力は、
常に周囲の情報を処理し続けていた。
脅威の可能性があるものに対して、
自動的に反応する。

反応した。

複数の気配だった。

建物の影に二人。
路地の奥に三人。
屋根の上に一人。
それぞれが、互いに連携した位置取りをしていた。
素人ではなかった。
訓練を受けた者たちの配置だった。

ルークはフリーダの歩調に合わせたまま、
表情を変えなかった。

七人。

囲みの構造を確認した。
前後左右と上から——逃げ道を全て塞いだ配置だった。
ターゲットはおそらくフリーダだった。
しかし同行者であるルークも、
排除の対象に含まれているだろう。

動くタイミングを測っていた。
もう少し人通りが減ってから
——おそらく次の角を曲がったところで、
動くはずだった。

ルークは次の角を曲がる前に、立ち止まった。

「フリーダ、目を閉じていてください」

フリーダがルークを見た。
「え?」

「三秒でいい」

フリーダは何かを察したように、目を閉じた。

ルークは意識を広げた。

七つの気配を、同時に把握した。
それぞれの位置、構造、物質としての在り方
——全てが、ルークの認識の中に収まった。

力を放った。

音はなかった。

光もなかった。

ただ、七つの気配が消えた。

分子の結合を、それぞれの対象において解いた。
存在を構成する最小の単位に戻した。
跡形もなかった。
苦しむ時間もなかった。
一瞬だった。

「開けていいです」

フリーダが目を開いた。
周囲を見回した。
何も変わっていなかった。
人通りのない路地。
建物の影。
屋根。

「何かあったんですか」フリーダは言った。

「気持ち悪い虫がいたんですがもう消えました」
ルークは答えた。

歩き始めた。
フリーダが隣に並んだ。

嘘ではなかった。
今は、もう何もなかった。

---

### 二

ラングバルト家の屋敷に着いた。

こぢんまりとした屋敷だった。
男爵家として最低限の体裁を保っているが、
華やかさとは縁遠い造りだった。
長年、質素に暮らしてきた家の空気がそこにあった。

屋敷に入ると、使用人が数名いた。
全員の顔に、疲弊と悲しみが出ていた。

フリーダは使用人たちに短く声をかけながら、
奥に向かった。

ルークは玄関ホールで待った。

一人になった時、先ほどの出来事を整理した。

七人の暗殺者。
ここまで直接的な手段を使う。
ダーウェント子爵家が本気であることは明確だった。
政治的な圧力が封じられた時、
この種の手段に移行することを、
子爵は躊躇わなかった。

政治的な解決は、もう機能しない。

その判断が、ルークの中で固まった。

トールが再び動いたとしても、
子爵は次の手を打つだろう。
より直接的な手を。
より隠密な手を。
ラングバルト家の使用人が
暗殺者を雇われるかもしれない。
フリーダが学院の外で一人になった瞬間を
狙われるかもしれない。

構造の問題だった。

子爵がフリーダを脅威と認識し、
排除しようとしている限り、
周囲を固めるだけでは終わらない。
根を断たなければ、何度でも芽が出る。

降りかかる炎は、消し飛ばす。

ルークはその言葉を、改めて自分の中で確認した。

手心を加えることは、相手を増長させる。
悪意を持つ者を見逃すことは、
その悪意が次に向かう誰かへの贈り物になる。
それはルークが前世から持ち続けてきた原則だった。

今回は、その原則が単純に適用できる状況だった。

フリーダを危険にさらしている根源がある。

その根源に対処する。それだけのことだった。

やり方を考えた。

派手にする必要はなかった。
証拠を残す必要もなかった。
ただ、問題の根源が、
問題を起こせない状態にすればいい。

フリーダが戻ってきた。

「少し待たせてしまいました」

「構いません」
ルークはフリーダを見た。

「一つ確認させてください。
ラングバルト家の今後について、
フリーダはどう考えていますか」

フリーダは少し間を置いた。

「父が亡くなって、家を継ぐのは私です。
ただ——」
声が小さくなった。

「男爵家を維持するだけの力が、
今の私にはあるかどうか」

「維持したいと思っていますか」

「はい」
フリーダは答えた。
迷いがなかった。

「父が守ってきた家です。使用人もいます。
領地の人たちもいます。
私が諦めることは、できません」

ルークはその答えを聞いた。

「わかりました」

それだけ言った。

フリーダは少し不思議そうな顔をした。
「わかった、とは?」

「対処します」

「何を——」

「今はまだ言えません。
ただ、フリーダが学院に通い続けられるように、
ラングバルト家が続けられるように、対処します」

フリーダはルークを見た。

その目に、複数の感情があった。
感謝と、心配と、それから何か別のもの。

「危ないことは、しないでください」
フリーダは言った。

ルークは少し考えた。

「危なくはありません」

それは嘘ではなかった。
ルークにとって、これから行うことに危険はなかった。
危険が生じ得る状況が、存在しなかった。

しかしその答えがフリーダを安心させたかどうかは、
別の話だった。

屋敷を出た時、
夕方の光が王都を橙色に染めていた。

ルークは空を見た。

炎は、消し飛ばす。

それだけのことだった。
 

第三百二十六弾「異能の転生者」

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の続きです

 

 

 

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## 第二十四章 波紋

### 一

ホバート・ダーウェントは、
父親の執務室の扉を勢いよく開けた。

ダーウェント子爵は書類に目を通していた。
息子が許可なく入ってきたことに眉をひそめたが、
ホバートの顔を見て、何かあったと判断した。

「どうした」

「やられました」
ホバートは言った。

「学院で、魔力なしのグレイブヤードの三男と、
Cクラスの女に」

子爵は書類を置いた。
「詳しく話せ」

ホバートは話した。
しかし、その内容は出来事の事実とは
大きく異なっていた。

自分がフリーダを囲んでいたことは、
話の中に存在しなかった。
ルークが突然現れて自分を威圧したことは、
理不尽な暴力として語られた。
フリーダについては、
突き飛ばされて怪我をしたと言った。
怪我は嘘だった。
しかし言葉には迷いがなかった。
自分の記憶の中で、既にそうなっていたからだ。

子爵は息子の話を聞いた。

全てを信じたわけではなかった。
長年ホバートを見てきた父親として、
話の端々に誇張があることは感じていた。
しかし、グレイブヤード家の三男
という名前を聞いた時、別の感情が動いた。

グレイブヤード伯爵家。

ダーウェント子爵家とは、
いくつかの利権において競合関係にあった。
直接的な対立ではないが、友好的でもない。
その家の三男が息子に恥をかかせた
——それを放置すれば、
ダーウェント家の面子に関わる。

「ラングバルト男爵家と学院に抗議する」
子爵は言った。

「学院には補助金の件も合わせて伝える」

ホバートの顔に、満足の色が浮かんだ。

子爵は書類を引き寄せながら、内側で計算していた。
抗議の内容はともかく、
この機会を使って学院への影響力を
強めることができる。
それは悪くない。
息子の件は口実として十分だった。

---

### 二

ホバートが学院に戻った翌日から、
噂が広まり始めた。

グレイ教授が魔力「微量」の新入生を
特別扱いしている、という内容だった。

噂の広め方は巧妙だった。
ホバートは直接言いふらすことはしなかった。
取り巻きたちを使い、
取り巻きたちはまた別の者に話した。
話が伝わるたびに、少しずつ尾ひれがついた。
特別扱いが、えこひいきになり、
えこひいきが、他の生徒への不当な差別になった。

グレイ教授の個人指導を受けたい生徒は、
学院内に多かった。

水天アクアを育てた指導者。
新しい技術を次々と生み出す大魔法使い。
その教えを直接受けることができれば、
どれほどの成長ができるか
——そういう期待を持つ生徒が、
この学院には相当数いた。

その期待が、噂と結びついた。

自分たちが機会を求めているのに、
魔力「微量」の生徒が独占している。
それは不公平だ——という感情は、
事実の正確さとは無関係に広まった。
感情は論理より速く伝播する。

学院の事務棟に、
生徒たちからの抗議が届き始めた。

最初は数件だった。
それが十件になり、二十件になった。
保護者からの書簡も届いた。
子供が不当に機会を奪われている
と訴える内容だった。

同時にダーウェント子爵からの抗議文が
学院長の手元に届いた。

内容はラングバルト家の生徒による暴力行為の訴えと、
学院の管理体制への疑問だった。
末尾に、補助金の見直しを検討する
という一文があった。
柔らかい表現だったが、意味は明確だった。

学院長は頭を抱えた。

---

## 第二十五章 学院の論理

### 一

グレイは学院長室に呼ばれた。

部屋には学院長と、理事会の代表者が二名いた。
グレイが着席するのを待って、学院長が口を開いた。

「グレイ教授、
いくつか確認させてほしいことがある」

学院長の声は穏やかだった。
しかし穏やかさの底に、硬いものがあった。

「ルーク・グレイブヤードという生徒に対して、
個人的な指導を行っているという話が出ている。
事実か」

「事実だ」
グレイは即座に答えた。

学院長は少し間を置いた。
否定することを期待していたのかもしれなかった。

「その生徒の魔力評価は微量と聞いている。
なぜその生徒を選んだのか」

「優秀だからだ」

「魔力が微量の生徒が、優秀だと?」

「魔力量と優秀さは別の話だ」
グレイは言った。
声に迷いはなかった。

「ルーク・グレイブヤードは、
私が今まで見てきた生徒の中でも、
別格の能力を持っている。
魔力量の評価がどうであれ、
その事実は変わらない」

理事の一人が口を開いた。
「しかし教授、この学院の評価基準は——」

「評価基準が間違っているということだ」

室内が静まった。

グレイは続けた。
「魔力量だけで生徒の可能性を測ることは、
正確ではない。
私はルーク・グレイブヤードとの研究を通じて、
それを確信した。
この学院がその基準を絶対視し続けるならば、
見逃している才能がある」

学院長は手を組んだ。
「グレイ教授、あなたの研究への情熱は理解している。
しかし現実的な問題がある。
ダーウェント子爵からの抗議、生徒たちの不満、
保護者からの声——これらを無視することはできない」

「無視すればいい」

「教授——」

「研究の成果は、そういった雑音より価値がある」
グレイは立ち上がった。

「私は優秀な生徒を重用しているだけだ。
それのどこが問題なのか、説明してほしい」

学院長は、グレイを見た。

長い付き合いだった。
グレイが頑固であることは知っていた。
しかし、この主張の内容が問題だった。
魔力量を否定する。
この学院の存在根拠そのものへの疑義だった。

理事の一人が、学院長に耳打ちした。
内容はグレイには聞こえなかったが、
その後の学院長の表情で、おおよそ想像がついた。

会議が終わった後、
廊下でグレイとすれ違った若い教師が、
グレイを見て、それから目を逸らした。

学院内で、別の噂が生まれ始めていた。

グレイ教授の判断力が、
年齢とともに衰えているのではないか、
という噂だった。

---

## 第二十六章 撤退

### 一

ルークはその状況を、複数の経路から把握していた。

学院内の空気の変化。
グレイの表情の微妙な硬さ。
フリーダが廊下を歩く時に
周囲から向けられる視線の質。
それぞれの断片が、全体像を作っていた。

このままでは、グレイとフリーダの立場が悪くなる。

自分一人が問題であれば、
ルークは対処の方法をいくつか持っていた。
しかし今は自分だけではなかった。
グレイへの「認知症」という噂は、
大魔法使いとしての彼のキャリアを
傷つける可能性があった。
フリーダに対しては、
家ごと問題に巻き込まれる危険があった。

ルークは放課後、グレイの研究室を訪ねた。

「研究を、しばらく止めましょう」

グレイは顔を上げた。
「何?」

「今の状況では、続けることがグレイ教授と
フリーダへの負担になります。
嵐が過ぎるまで、
表向きは通常の授業に戻す方が賢明です」

グレイは机に両手をついた。
「研究を止めるだと。
今、最も重要な段階にあるのに——」

「止めるのではありません。
表向きを変えるだけです」

グレイは立ち上がった。
部屋を歩き回った。
それから窓の外を見た。
しばらく黙っていた。

「ルーク君」
グレイはようやく口を開いた。

「私は研究を政治的な理由で止めたことが、
これまで一度もない」

「知っています」

「それが私の誇りでもある」

「知っています」
ルークは繰り返した。

「だから今回が初めてになります。
ただし、一時的なことです。
状況が落ち着けば再開できる。
今止めなければ、
再開できなくなる可能性があります」

グレイは長い沈黙の後、椅子に座り直した。

「わかった」
と言った。
声に不満があった。
隠していなかった。

「ただし、完全には止めない。
記録だけは続ける。
フリーダの観察記録も、私の理論の整理も」

「それは構いません」

グレイはまだ納得していない顔だった。
しかし了承した。
それがグレイという人間の理性だった。
感情と理性が衝突した時、
最終的には理性が勝つ。

問題はフリーダだった。

ルークは次にフリーダに会った時、状況を説明した。
フリーダは聞きながら、表情が変わっていった。

「家が、問題に」
フリーダは言った。
声が小さかった。

「ダーウェント子爵の抗議が
ラングバルト男爵家に向いています。
このままでは」

「わかりました」
フリーダは言った。

諦めではなかった。
しかし、この種の問題が自分の家の規模では
対処できないことを、既に知っている者の声だった。
男爵家と子爵家では、
正面からぶつかれば結果は見えている。
それをフリーダは、
おそらく生まれた時から知っていた。

ルークはフリーダの顔を見た。

これを解決する方法を、自分は持っていない。
この世界の政治的な構造を、
まだ十分には理解していない。
力はある。
しかしこの種の問題に力を使えば、
別の問題が生まれる。

一人の顔が浮かんだ。

---

## 第二十七章 兄

### 一

トールへの手紙は、その夜のうちに書いた。

状況を整理して、簡潔に伝えた。
学院内で起きていること、
ダーウェント子爵の動き、
フリーダの家が巻き込まれている経緯
——事実だけを書いた。
感情的な言葉は入れなかった。
ただ、最後に一行だけ加えた。

「兄の知恵を借りたい」

使者を立てて送り出した後、
ルークは少し考えた。

トールに頼ることへの抵抗は、特になかった。
この種の問題は、
この世界の政治的な構造の中で動いている。
その構造を知り、
その中に人脈を持つ者に相談することは、
合理的な判断だった。

しかしそれとは別に、
トールを信頼しているという事実がそこにあった。

ルークは自分の兄弟の中で、信頼できる人間が
トールだけだということを知っていた。
ゴールは論外だった。
しかしトールは違った。
複雑な動機を持ちながらも、
その行動の根底に、ルークへの本物の好意があった。

---

### 二

返事は三日で来た。

グレイブヤード領からの距離を考えれば、
異例の速さだった。

手紙の内容は短かった。

「任せろ。
ただし詳細は後で話す。今は動くな」

それだけだった。

ルークは手紙を読んで、
トールの行動の速さを確認した。
相談を受けた瞬間に、
既に動き始めていたのだろう。

---

トールがルークの手紙を受け取った時、
最初に感じたのは喜びだった。

ルークから頼ってきた。

それは単純なことのようで、
トールにとっては重大な意味を持っていた。
あの弟が、自分に相談を求めた。
自分の力が必要だと判断した。

トールはルークがどういう存在であるかを、
ぼんやりとではあるが感じ取っていた。
正確には理解できていなかった。
しかし、自分にはどうにもできない
何かを持っているということは、
幼い頃から知っていた。

その弟が、自分を必要とした。

トールは机に向かって、
手元にある情報を整理した。

ダーウェント子爵。
敵対派閥に属している。
補助金という手段で学院に圧力をかけている。
息子のホバートが学院内で
どういう行動を取ってきたかについては、
いくつかの情報が既に手元にあった。
トールは常に、様々な家の情報を収集していた。
それが彼の政治的な生存戦略だった。

ホバートが学院内で日常的に
魔力評価の低い生徒を虐めていたという情報は、
複数の経路から確認できた。

これは使える、とトールは判断した。

次に、グレイ・サンダーズの研究成果
という情報だった。
ルークの手紙には詳細が書かれていなかったが、
新しい魔法の開発という事実だけは伝わっていた。

トールが所属する派閥の重鎮、
公爵家は魔法研究機関を抱えていた。
新しい魔法の情報は、
その機関にとって価値がある。
グレイの研究成果を情報提供することで、
公爵家に恩を売ることができる。

二つの手を同時に使う。

ホバートの行為の記録で、
ダーウェント子爵の抗議の正当性を崩す。
グレイの研究成果の提供で、
公爵家経由の圧力を学院に向ける。

どちらも単独では弱いかもしれないが、
組み合わせれば十分だった。

トールは動いた。

---

一週間後、
学院長の元に、公爵家の執事から書簡が届いた。

内容は簡潔だった。
グレイ・サンダーズ教授の研究に対する
公爵家の関心と、その研究環境の保全を望む旨が、
上品な言葉で書かれていた。

同時に、
ダーウェント子爵への別の圧力が働いた。

ホバートの行為の記録が、子爵の耳に届いた。
息子が日常的に魔力評価の低い生徒たちを
虐めていたという事実。
それが記録として存在し、
しかるべき場所に提出可能な状態にあるという事実。

子爵は抗議を取り下げた。

学院は、この問題を不問とした。

---

## 第二十八章 感謝

### 一

問題が解決したという知らせは、
間接的な形でルークに届いた。

学院の空気が変わった。
ダーウェント子爵からの圧力が消えたことで、
学院上層部の動きが止まった。
グレイへの聴取も、それ以上進まなくなった。
フリーダへの周囲の視線も、
少しずつ元に戻っていった。

詳細はわからなかった。
しかし、トールが動いたということは確かだった。

ルークはトールに手紙を書いた。

今度は長かった。

状況が解決したことへの確認。
詳細は聞いていないが、
トールが動いてくれたことへの感謝。
そして、最後に一段落を加えた。

「兄上に何かあれば、自分が全力で助ける。
どんなことでも」

送り出してから、
ルークはその言葉が十分かどうかを考えた。

自分が言える最大のことを言った、という確認があった。

この世界でルークにできることの規模を、
トールは知らない。
しかし、言葉の意味は伝わるだろう。

---

### 二

グレイブヤード領の執務室で、
トールは手紙を読んだ。

一度読んだ。
それからもう一度読んだ。

「兄上に何かあれば、自分が全力で助ける」

トールは手紙を机に置いた。

窓の外を見た。
領地の景色が広がっていた。
遠くに山が見えた。
空は晴れていた。

感情を表に出すことを、トールは普段しなかった。
それは幼い頃から培った習慣だった。
グレイブヤード家の後継者として、
感情を見せることのコストを早くから学んでいた。

しかし今は、一人だった。

手紙をもう一度手に取った。

あの弟が書いた言葉だった。
宇宙の果てまで見渡せる
何かを持っているかもしれない弟が、
自分に向かって「全力で助ける」と書いた。

その言葉がどれほどの重さを持つか、
ルークはおそらく気づいていない。
気づいていないから、
あの弟らしい率直さで書けたのだろう。

トールは静かに笑った。

一人の時だけ見せる、力の抜けた笑い方だった。

「全力か」

呟いた。
その言葉の意味を、トールなりに想像した。

想像しきれなかった。
しかしそれで構わなかった。

弟が自分を信頼している。
それだけで十分だった。

---

## 第二十九章 凶報

### 一

問題が落ち着いて、十日が過ぎた頃だった。

フリーダが学院に来なかった。

最初の一日は、体調不良かもしれないと思った。
二日目も来なかった。
ルークは事務棟に確認した。
欠席の届けは出ていた。
理由は記載されていなかった。

三日目の朝、
フリーダが学院に来た。

廊下で見かけた時、
ルークはすぐに気づいた。

顔が違った。

二日前まであった、
研究がうまくいっている時の落ち着きが、消えていた。
代わりにあったのは、強ばりだった。
感情を表に出さないように、
全力で抑えているような顔だった。

ルークはフリーダに近づいた。

「二日間、来なかったけど何かあった?」

フリーダはルークを見た。
一瞬、何かを言おうとした。
しかし言葉が出なかった。

「フリーダ?」

フリーダは一度、目を伏せた。
それから顔を上げた。

「父が——」声が途切れた。
もう一度試みた。

「父が、亡くなりました」

ルークは静止した。

「昨日、知らせが来ました。暗殺だと」

廊下の音が、遠くなった気がした。

ラングバルト男爵が、暗殺された。

その言葉が、
ルークの中でゆっくりと意味を持ち始めた。
同時に、別の思考が動き始めた。

暗殺。

今この時期に。
ダーウェント子爵の抗議が取り下げられた直後に。

偶然ではない可能性が、静かに、
しかし確実に、ルークの中で形を作り始めていた。
 

第三百二十六弾「異能の転生者」

第三百二十七弾「異能の転生者 その2」

第三百二十八弾「異能の転生者 その3」

第三百二十九弾「異能の転生者 その4」

第三百三十弾「異能の転生者 その5」

第三百三十一弾「異能の転生者 その6」

第三百三十ニ弾「異能の転生者 その7」

第三百三十三弾「異能の転生者 その8」

の続きです

 

 

# 異能の転生者

## 第二十一章 逆恨み

### 一

ホバートは歩きながら、拳を握っていた。

校舎の角を曲がり、渡り廊下を抜け、
Bクラスの教室に向かう道を歩きながら、
その拳は緩まなかった。
顔が赤かった。
怒りで赤いのか、屈辱で赤いのか、
本人にも区別がつかなかった。

頭の中を占めているのは、ルークのことだった。

あの目だった。

ルークがこちらを見た時の目。
怒っていなかった。
怒鳴っていなかった。
特別なことは何もしていなかった。
ただ見ていた。
それだけなのに、体が動かなかった。
声が出なかった。
足が勝手に後退した。

その事実が、何より許せなかった。

自分はダーウェント子爵家の嫡男だ。
この学院でも上位の家格を持つ。
魔法は四系統使える。
同世代の中では魔力量も高い。
そういう自分が、魔力「微量」の、
伯爵家とはいえ三男坊に、
一言も言い返せずに退いた。

取り巻きたちが横にいた。
それが余計に屈辱だった。
見られていた。
全員に見られながら、逃げた。

フリーダのことは、もう頭になかった。

あの場で何をしていたか、なぜ囲んでいたか、
そういう記憶は既にどこかに消えていた。
都合の悪い記憶を処理することに、
ホバートは長年慣れていた。
自分が何かをした記憶は薄れ、
自分が何かをされた記憶は鮮明になる。
それがホバートという人間の記憶の仕組みだった。

今の彼の記憶の中では、
ルークが突然現れて自分を威圧した、
という出来事だけが残っていた。

許せなかった。

「父上に言う」

独り言のように呟いた。
取り巻きの一人が聞いて、
「それがよろしいかと」と即座に応じた。

ダーウェント子爵。
王都でも一定の影響力を持つ貴族だった。
学院の理事会にも顔が利く。
息子が不当な扱いを受けたと訴えれば、
動いてくれるはずだ。

グレイブヤード伯爵家の三男坊など、
父上が動けばどうにでもなる。

ホバートはそう確信しながら、廊下を歩き続けた。
自分がフリーダを囲んでいたという事実は、
もう完全に消えていた。
逆恨みに自覚はなかった。
彼の中では、自分が被害者だった。

取り巻きたちは何も言わなかった。

言えるはずがなかった。
ホバートの記憶の書き換えに、
異議を唱えることのコストを、
彼らはよく知っていた。

---

## 第二十二章 合流

### 一

グレイの研究室の扉を開けた時、
グレイは机に向かっていた。

複数の紙が広げられていた。
術式の設計図のようなものと、
数式のような記号が交互に並んでいた。
ルークが入ってきた音に気づいて顔を上げた。

「来たか」
グレイは言った。
それからルークの隣にいるフリーダを見た。

「その子は?」

「フリーダ・ラングバルト。Cクラスの生徒です」

グレイの表情が、わずかに動いた。
期待していたものと違った、という顔だった。
ホバートの名前がリストにあることを
ルークも知っていたはずだ。
なぜホバートを連れてこなかったのか、
という疑問が顔に出ていた。

「ホバートではないのか」

「ホバートは別の用事をしていたので」

その言い方の意味をグレイは追求しなかった。
しかし何かを察した顔をした。

「では、なぜこの子を」

ルークはフリーダを見た。
フリーダはグレイを見ていた。
大魔法使いと直接向き合うことへの緊張が、
その表情に出ていた。

「使える魔法の系統を教えてください」
ルークはフリーダに言った。

フリーダは一度だけ息を吸った。
「六系統、全部です」

グレイが固まった。

一秒の沈黙があった。

それからグレイは立ち上がった。
椅子が後ろに引っかかって音を立てた。
机を回った。
フリーダの前まで来た。
フリーダが少し後退りした。

「全系統?木、火、土、水、白、黒、全てか」

「はい」
フリーダの声が少し小さくなった。

「ただ、魔力量が低くて——」

「魔力量は関係ない!」

グレイの声が研究室に響いた。

その後に続いたのは、言葉というより感嘆の息だった。
グレイは両手で顔を覆った。
それから天井を仰いだ。
それからまたフリーダを見た。
目が、かつてルークが
一度も見たことのない種類の輝きを帯びていた。

「六系統全て——それがどれほど稀なことか
——全系統を持つ者が魔力量を上げられれば
——理論上、どの属性の複合魔法も——」

グレイは一人で呟きながら、
研究室の中を歩き回り始めた。

フリーダはその様子を見て、
静かにルークの方に寄ってきた。

「あの方、大丈夫ですか」
と小声で聞いた。

引いていた。
明らかに引いていた。

ルークは、自分の中から笑いが出てくるのを感じた。

久しぶりだった。
声を出して笑うことが。
この転生の生において、
腹の底から可笑しいと思ったことは、
ほとんどなかった。

しかし今は、笑っていた。

「大丈夫です。あの人の普通です」

フリーダはルークが笑っているのを見て、
少し驚いた顔をした。
それから、つられるように、小さく笑った。

グレイがようやく落ち着いた。

「失礼した」
と彼は言った。
声を整えながら。

「私はグレイ・サンダーズ。
この学院で魔法理論と実技を担当している。
君と一緒に研究をさせてもらいたい」

フリーダは少し間を置いてから、頷いた。

---

## 第二十三章 研究

### 一

その日から、放課後の時間が変わった。

グレイの研究室、あるいは校庭の一角
——三人が集まって、研究を進める時間が始まった。

グレイは最初から全力だった。

フリーダが六系統全てを持つと確認した翌日には、
既に実験の計画を三十項目用意していた。
各系統の出力測定、系統間の干渉実験、
複合魔法の試みと失敗の記録、魔力の流れ方の観察
——体系的で、準備が細かかった。

フリーダは最初、そのペースに戸惑っていた。

引っ込み思案だった。
自分から意見を言うことが少なかった。
グレイが質問を向けると、答えるまでに間があった。
その間は、考えているのではなく、
答えていいかどうかを測っているように見えた。

それを見てルークは思った。

この学院で、低位の評価を受けながら
Cクラスに置かれてきた。
自分の能力を示すたびに、
しかしそれは魔力量が低いという理由で
価値を認められなかった。
そういう経験が積み重なれば、
自分の意見を出すことへの躊躇いが生まれる。

グレイはフリーダのペースを理解すると、
質問の仕方を変えた。

答えを求める質問より、試してみることを求めた。

「この魔法を放ってみてくれ」

「この系統の力をどう感じるか教えてくれ」

——フリーダが言葉にしなくていい形で、
情報を引き出していく。
グレイの指導者としての側面が、
ここでも出ていた。

ルークはその様子を観察しながら、
フリーダを注意深く見ていた。

超能力の発現を探っていた。

フリーダが魔法を放つ時、その力の流れ方を観察した。
魔法特有の術式を介した動き方の中に、
別の何かが混じっていないか。
グレイの新しい障壁が誕生した背景に、
ルークとの対話があったように、
フリーダの中にも何か別の原理が
潜んでいるかもしれないという仮説を、
ルークは持っていた。

最初の一週間、変化はなかった。

フリーダの六系統の魔法は
それぞれ確かに機能していたが、出力が揃って低かった。

どの系統も、同世代の生徒たちの
下位に位置する出力しか出なかった。
複合魔法の試みは、系統の切り替えの際に
干渉が起きて、うまく統合できなかった。

グレイは落胆しなかった。

「魔力量が足りない。基礎から上げよう」

そう言って、魔力量増加の訓練を追加した。

---

### 二

グレイが開発した魔力量増加の訓練法は、
一般に知られているものとは異なっていた。

通常の訓練は、魔力を使い切ることで
器を広げようとする。
限界まで消費して、回復させて、また消費する。
その繰り返しで、少しずつ容量が増えるとされていた。
しかし増え方は緩やかで、
多くの者は生涯で評価が変わることはなかった。

グレイの方法は違った。

魔力を使い切るのではなく、
魔力の流れ方そのものを変えることに着目していた。
体内における魔力の循環経路を、
意識的に拡張する訓練だった。
川の流れを広げるように、
魔力が通る道を少しずつ太くしていく。
消費と回復のサイクルではなく、
構造そのものを変える。

アクアがこの訓練で二ランク上昇したのは、
彼女がその方法に特別な適性を持っていたからだった。
全員に同じ効果が出るわけではない。
グレイはそれを知っていた。

フリーダへの適用は、最初は慎重に行った。

三日目に、変化が出た。

測定値が上がっていた。
わずかだったが、確かに上がっていた。
グレイは数値を見て、計測をやり直した。
同じ結果だった。

「上昇率が高い」
グレイはルークに言った。

「他の生徒への適用と比べて、明らかに高い。
フリーダ、この訓練をしている時、
体の中でどういう感覚があるか」

フリーダは少し考えた。

「水路が広がっていく感じ、です。
ただ、一本ではなくて
——六本が同時に広がっていく感覚があります」

グレイとルークは目を見合わせた。

六系統全てを持つことで、
魔力の循環経路が六つ存在する。
その全てが同時に拡張されていれば、
上昇率が他より高いことの説明がつく。

訓練は続いた。

一週間、二週間。
フリーダの魔力量は着実に上がっていった。
他の生徒では数ヶ月かかる上昇を、
フリーダは数週間で達成した。

一ヶ月が過ぎた頃、測定値が切り替わった。

低位から、標準へ。

グレイは数値を確認して、静かに目を閉じた。
この変化がどれほど稀なことか、誰より知っていた。
魔力量が一ランク上がること自体、
ほとんどの者には一生起きない。

「複合魔法を試してみよう」
グレイは言った。

フリーダが頷いた。

校庭に出た。
グレイが指示する組み合わせを、フリーダが試みた。
最初は失敗していた系統の切り替えが、
魔力量の向上によって、少しずつ安定し始めた。
火と水の複合。
土と木の複合。
それぞれが干渉を起こさずに
共存する瞬間が、出てきた。

その瞬間、フリーダの顔が変わった。

うまくいった、という実感が、表情に出た。
抑えようとして、抑えきれなかった。
それからフリーダは振り返った。

ルークを見た。

ルークが見ていた。

フリーダは二歩、三歩と駆けて、
そのままルークに抱きついた。

ルークは固まった。

それは予測していない動作だった。
フリーダが引っ込み思案であることを知っていたから、
なおさら予測していなかった。
フリーダの喜びが、
普段の慎重さを超えた瞬間だった。

ルークの頬が、また熱くなった。

その瞬間、別の音がした。

何かが弾かれる音だった。

二人が同時に音の方向を見た。

グレイが、数メートル後方に吹き飛んでいた。
地面に手をついて、体を支えていた。
その顔に、困惑と驚愕が同時に浮かんでいた。

「今、何が——」

グレイは自分が飛ばされた方向から、フリーダを見た。
フリーダはルークに抱きついたまま、
目を丸くしてグレイを見ていた。

ルークはグレイが飛ばされた瞬間に、
何が起きたかを既に把握していた。

バリアだった。

フリーダから発生したバリアが、グレイを弾き飛ばした。

魔法障壁ではなかった。
グレイが開発した新しい障壁でもなかった。
ルークが持っているものと、
同じ原理の何かが、フリーダの内側から出てきた。

「フリーダ」ルークは言った。

「今、自分で何をしたか、わかりますか」

フリーダはルークから離れた。
頬が赤かった。それから、自分の手を見た。

「わかりません。何かを、したんですか?」

グレイが立ち上がって近づいてきた。

「もう一度やってみてくれ。
私が近づく。同じことが起きるか確認したい」

フリーダは頷いた。

グレイがゆっくりと近づいた。
今度は観察しながら。

三歩目で、何かが起きた。

グレイの体に、外側から圧力がかかった。
前に進めなくなった。
押し返されているわけではなかった。
ただ、それ以上近づくことができなかった。

「これは」
グレイは立ち止まったまま言った。

「魔法ではない」

「はい」
ルークは言った。

グレイはフリーダを見た。

「意識してやっているか」

「いいえ」
フリーダは首を振った。

「全く」

グレイはその場に立ったまま、
しばらく何も言わなかった。
頭の中で何かが急速に動いているのが、
外から見てもわかった。

それからグレイは、一つずつ実験を試みた。

フリーダに様々な刺激を与えた。
驚かせた。
急に大きな音を立てた。
後ろから近づいた。
悪意を込めた魔法を小さく放った。

結果は一貫していた。

フリーダに何らかの脅威が向かう瞬間、
あるいはフリーダ自身が強い感情を持った瞬間に、
あの力が出た。
バリアが、フリーダの周囲に現れた。

ルークはその全てを、注意深く観察していた。

フリーダのバリアは、ルークのものより遥かに弱かった。

グレイを弾き飛ばせたのは、
グレイが無防備だったからだ。
本格的な攻撃には耐えられないだろう。
しかし、原理は同じだった。

同じ原理が、別の人間から出ていた。

この世界に、超能力を持つ者がいた。

ルークはその事実を確認した瞬間、
自分でも予想していなかった感情が来た。
驚きだった。
純粋な驚きだった。
前世も含めて、これほど驚いたことが、
ルークにはあまりなかった。

「ルーク君」
グレイの声がした。

振り向くと、グレイが目を赤くしていた。

泣いていた。

大魔法使いが、校庭の真ん中で、
声を殺して泣いていた。

「これは——これは、魔法の新しい地平だ。
魔法と、別の力が、同じ人間の中に共存している。
これが本当なら——魔法の可能性は、
私が考えていたものより、遥かに広い——」

声が途切れた。

ルークはグレイを見た。

この男がここまで感情を露わにするのを、初めて見た。
一週間の検証の後でも、新しい障壁が完成した時でも、
グレイは喜びを抑制していた。しかし今は違った。

フリーダがルークを見た。
少し困った顔をしていた。

「あの方、本当に大丈夫ですか」

ルークは少し考えた。

「大丈夫です。あの人の、特別な普通です」

フリーダは少し間を置いてから、小さく笑った。

校庭に、夕方の光が伸びていた。
 

第三百二十六弾「異能の転生者」

第三百二十七弾「異能の転生者 その2」

第三百二十八弾「異能の転生者 その3」

第三百二十九弾「異能の転生者 その4」

第三百三十弾「異能の転生者 その5」

第三百三十一弾「異能の転生者 その6」

第三百三十ニ弾「異能の転生者 その7」

の続きです

 

 

# 異能の転生者

## 第十九章 探索

### 一

グレイは満足していなかった。

新しい障壁、誘導弾——それらは確かな成果だった。
しかし彼の目標は、成果を出すことではなかった。
成果を土台にして、さらに先へ行くことだった。

問題は、自分一人では限界があるということだった。

グレイが使える魔法は火、土、水の三系統だった。
それぞれにおいて、現役の魔法使いの中でも
最上位の練度を持っている。
しかし三系統という幅は、
今グレイが目指している方向においては
制約になりつつあった。

ルークとの話し合いで開発した新技術は、
原理として成立した。
しかし原理を様々な系統の魔法に適用することで、
初めてその可能性の全体像が見えてくる。
火属性での誘導弾と、木属性での誘導弾では、
軌道の特性が根本的に異なる可能性がある。
土属性の層状障壁と、白魔法の層状障壁では、
対応できる攻撃の種類が変わるかもしれない。

つまり、自分以外の誰かが必要だった。

今までのグレイならば、
その「誰か」を選ぶ基準は明確だった。
魔力量だ。
どれだけ大きな魔力を持っているか。
それが全てだった。

しかし今は違った。

魔力量を基準から外した。

その決断は、ルークとの模擬戦から来ていた。
微量の魔力しか持たない者が、
大魔法使いである自分を圧倒した。
魔力量と実際の能力の間に、
これほどの乖離が存在し得るという事実は、
グレイの評価軸を根底から書き換えた。

では何を基準にするか。

グレイは考えた。
使える魔法の種類。成長の余地。
そして、新しい発想を受け入れられる柔軟性。

学院の記録を引き出した。
入学試験の評価だけでなく、各生徒の適性記録、
魔法系統の適合データ、過去の模擬戦の記録
——入手できる全ての情報を集めて、机の上に広げた。

一人ずつ、丁寧に見ていった。

魔力量の列は意図的に視界に入れないようにした。
それは今回の評価には関係ない。
使える系統の数、各系統での精度の評価、
成長曲線の傾き——そちらに集中した。

リストを絞り込んでいくと、いくつかの名前が残った。

その中で最初に目が止まったのが、
Bクラスにいる一人の生徒だった。

ホバート・ダーウェント。

木、火、土、水の四系統が使える。
四系統というのは珍しかった。
通常、複数系統を扱える魔法使いは
二系統か三系統が限界で、
四系統に適性を持つ者は百人に一人もいない。
魔力量の評価は上位で、精度の評価も悪くなかった。

可能性はある、とグレイは判断した。
リストに加えた。

しかし、その名前の横に小さく書き添えた。
要観察、と。

記録の数字だけでは見えないものがある。
人間としての質は、実際に会わなければわからない。
グレイはその点について、以前より慎重になっていた。

---

### 二

ルークも、学院の中を観察していた。

グレイへの協力という目的があった。
様々な系統の魔法を使える生徒を探すという課題を、
ルークも意識していた。
しかし同時に、もう一つの可能性を、
ルークは心の隅に置いていた。

超能力を持つ者が、いるかもしれない。

可能性は低かった。
前世においても、超能力者は極めて稀な存在だった。
この異世界においては、
そもそも超能力という概念が存在しない。
しかし、概念が存在しないことと、
能力を持つ者がいないこととは別の話だ。

魔法と誤認されているだけで、
実は超能力を持っている者がいるかもしれない。

あるいは、魔力とは異なる何かを持っていながら、
それを自覚していない者が。

ルークは授業の合間に廊下を歩く時、
校庭に出る時、カフェで食事をする時、
周囲をさりげなく観察していた。
特別な感知を使うわけではなかった。
ただ、人間を注意深く見る。
それだけのことだった。

学院には多様な生徒がいた。

魔力の評価が高い者、低い者。
貴族出身者、平民出身者。自信に溢れた者、
おどおどした者。様々な人間が、
この場所に集まっていた。

ルークはその多様さを、興味深く眺めていた。

前世において、人間を観察することは
ルークの数少ない楽しみの一つだった。
宇宙の果てまで見渡せる存在にとって、
人間の小さな感情と行動の複雑さは、
それ自体が一種の不思議だった。
なぜこれほど小さな生き物が、
これほど複雑な社会を作るのか。
なぜこれほど多くの感情を持つのか。

今生でも、その興味は変わっていなかった。

---

## 第二十章 遭遇

### 一

その日の午後、
ルークは本館から中庭に出る廊下を歩いていた。

次の授業まで時間があった。
図書館に向かうつもりだった。

校舎の角を曲がった時、視界の端に何かが入った。

校舎の陰だった。
本館の外壁と、渡り廊下の壁が作る、
人目につきにくい隙間のような場所。
そこに、人が集まっていた。

五人か、六人か。輪になっていた。

輪の中心に、誰かがいた。

ルークは足を止めなかった。
歩調も変えなかった。
しかし視線だけを、その方向に向けた。

この学院では珍しくない光景だった。

魔力量の評価が低い生徒、
あるいは出身が平民の生徒が、
魔力評価の高い貴族出身の生徒たちに囲まれる。
声を荒げるわけではない。
直接的な暴力が振るわれるわけでもない。
ただ、じわじわと追い詰める。
言葉で、視線で、その場の空気で。

この学院が魔力量を価値の基準としている以上、
その基準で上位にいる者たちが
下位の者を見下す構造は、必然的に生まれる。
学院の上層部はそれを黙認していた。
あるいは、意図的に見て見ぬふりをしていた。

ルークはそれを変えようとは思っていなかった。

構造の問題は、一人が介入したところで変わらない。
変えようとすれば、変えるための力と
時間と意志が必要で、
今のルークにその動機はなかった。

通り過ぎようとした。

その時、輪の隙間から、
中にいる人物の顔が一瞬だけ見えた。

ルークの足が止まった。

知らない顔だった。
見たことがなかった。
だから釘付けになった理由は、
既知の何かを思い出したからではなかった。

ただ。

顔が良かった。

ルークの基準において、という話だが
——端正というより、柔らかい印象の顔だった。
目元に落ち着きがあり、
しかし今は困惑と緊張が混じっていた。
髪は薄い茶色で、乱れていた。
おそらく囲まれた時に乱れたのだろう。

ルークは自分の中で何かが決まるのを感じた。

理屈ではなかった。
論理的な判断でもなかった。
前世も含めて、
ルークが経験したことのない種類の決断だった。

その輪に近づいていた。

---

### 二

輪の中心にいる人物が、
女性だということは近づいてわかった。

地面に座り込んでいた。
囲んでいる者たちの一人が、何かを言っていた。
声に嘲りがあった。
内容は、魔力評価が低いことへの侮辱だった。
この学院でよく使われる種類の言葉だった。

囲んでいる者たちの中心にいる男を、
ルークは確認した。

見覚えがあった。
記憶を辿ると、グレイのリストに載っていた
名前と顔が一致した。
ホバート・ダーウェント。Bクラス。
木、火、土、水の四系統使い。

最初に顔を見た時から、
何か気に食わないものを感じていた。

それはルークの偏見だった。
自覚していた。
顔の印象で人を判断することは正確ではない。
しかし偏見であると自覚しながら、
その印象が拭えないこともある。
いかにも、という顔だった。
自分の優位を疑ったことのない人間の顔。
他者を見下すことを当然と思っている人間の顔。

ゴールに少し似ていた。
それが原因かもしれなかった。

「ホバート」

ルークは声をかけた。

輪が崩れた。
全員が振り返った。

ホバートはルークを見た。
一秒、二秒、誰であるかを確認する時間があった。
それからホバートの表情が変わった。

軽蔑だった。

しかしその軽蔑の底に、別のものがあった。
Aクラスとの差への不満だった。
入学試験の総合第一位がAクラスに入り、
自分はBクラスだという事実。
その不満が、ルークを見た瞬間に出口を見つけた。

「なんだ、Aクラスの魔力なし君か」
ホバートは言った。
取り巻きたちが追従するように笑った。

「魔力もないのに第一位とか、
試験がおかしいんじゃないか。
あんな試験に意味があるとは思えないね」

ルークは何も言わなかった。

ホバートはそれを怯みと取ったのか、一歩前に出た。
「ここは関係ない奴が来る場所じゃない。
さっさと失せろ」

取り巻きたちが動いた。
ルークを囲む形に広がり始めた。

ルークはその動きを視界の端で確認しながら、
ホバートを見ていた。

この男に対して何をすべきかを考えた。

傷つける必要はない。
そこまでの理由がない。
しかし、このまま引き下がることも、
ルークの性質には合わなかった。
降りかかる炎は払う。
手加減はするが、手を引くことはしない。

ルークは息を一つ吐いた。

それから、威圧を放った。

声もなく、動作もなく、
ただ、ルークの内側にある何かが外側に滲み出た。

それは魔法ではなかった。
しかし、この世界の者には魔法との区別がつかない。
ルークの存在そのものが発する圧力だった。
前世において、惑星を砕き、次元を越えてきた何かが、
ごく薄く、表面に出てきただけだった。

ルークが本気を出したわけでは全くなかった。

それでも。

ホバートの顔から血の気が引いた。

取り巻きたちの動きが止まった。
足が、勝手に後ろに下がった。
後退しようとしているのに、
体が命令を聞かないような動き方だった。

ホバートは口を開こうとした。
しかし声が出なかった。

目が、ルークを見ていた。

何を見ているのか、
ホバートには説明できなかっただろう。
魔法使いとしての格の差でも、体格の差でも、
人数の差でもなかった。
ルークが立っているというそれだけの事実が、
この場の全ての優位を消していた。

十秒あったか、なかったか。

ホバートが最初に動いた。
くるりと向きを変えて、足早に歩き始めた。
取り巻きたちが慌てて続いた。
誰も言葉を残さなかった。
足音が遠ざかり、やがて聞こえなくなった。

ルークは彼らが消えた方向を一度だけ見た。

それから、地面に座り込んでいる人物に向き直った。

手を差し伸べた。

---

### 三

女性はルークを見上げた。

さっきまで困惑と緊張で強ばっていた顔が、
少しずつ解けていくのがわかった。
差し伸べられた手を、一瞬だけ見た。
それから、その手を取った。

立ち上がった時、ルークは初めて全体を見た。

背が高かった。
ルークと同じくらいか、わずかに低いくらいだった。
女性としては長身だった。
体型はふくよかで、それが彼女の柔らかい顔の印象と、
どこか合っていた。
髪は乱れていたが、
本来は丁寧に整えられていたことがわかった。

「ありがとう」と彼女は言った。

声は落ち着いていた。
さっきまでの状況を考えれば、
思ったより落ち着いていた。
動揺が収まるのが早い人間だということが、
その声からわかった。

ルークは自分の頬が少し熱くなっているのを感じた。

それは久しぶりの感覚だった。
あるいは、初めての感覚だったかもしれない。
前世においても、今生においても、
顔が熱くなるという経験を
ルークはほとんど持っていなかった。

「自分はルーク・グレイブヤード。
グレイブヤード伯爵家の三男です」

名乗りながら、
こういう時に伯爵家の家名が便利だということを思った。

平時ならば家格を持ち出すことに意味を感じないが、
今この瞬間に限っては、
自分がどういう人間であるかを
手短に示せる言葉として機能する。

女性はルークを見た。

それから、真っ直ぐに答えた。

「ありがとう。私はフリーダ・ラングバルト。
ラングバルト男爵家の長女です」

フリーダ・ラングバルト。

ルークはその名を聞いた瞬間、記憶に刻んだ。
意識的にではなかった。
気がつけば、刻んでいた。
絶対に忘れないと、
心の深いところで何かが決めていた。

「怪我は?」

「ないです。ありがとう、助かりました」
フリーダは少し髪を整えながら言った。

「ルーク・グレイブヤード
——Aクラスの、入学試験トップの方ですか」

「そうです」

「噂は聞いていました」
フリーダは言った。
声に、噂に対する評価が混じっていなかった。
事実として確認している声だった。

「まさか直接お会いするとは思いませんでしたが」

ルークはフリーダを見た。

囲まれていたということは、
この学院で何らかの形で目をつけられている
ということだ。
魔力評価が低いのか、出身が問題なのか、
あるいは別の理由か。

「ラングバルト家は男爵家と言っていましたが、
学院では何クラスですか」

「Cクラスです」
フリーダは少し間を置いてから続けた。

「魔力評価は低位です。
低位でここに来ること自体が珍しいらしく
——それで、ああいうことになりがちで」

低位。

ルークは、自分が微量の評価を受けていることを思った。

低位はそれより上だが、
Aクラスのほとんどが卓越以上の評価を
受けている中では、確かに浮いた存在になる。

「使える魔法の系統は?」
ルークは聞いた。

フリーダは少し不思議そうな顔をした。
魔力評価の低い者に、
通常聞く質問ではなかったからかもしれない。

「六系統、全部です」

ルークは一瞬、止まった。

「全系統ですか」

「はい。ただ、どれも出力が弱くて
——魔力量が少ないので、大きな魔法は使えなくて」
フリーダはどこか慣れた様子で言った。
それを何度も説明してきた人間の言い方だった。

「だから低位の評価で、Cクラスです」

ルークはフリーダを見た。

六系統全て。

木、火、土、水、白、黒
——天の称号がそれぞれの系統の頂点に存在する、
六つの魔法系統を全て使える者が、ここにいた。
魔力量が低いという理由だけで、
Cクラスに置かれていた。

グレイが探していたものが、ここにあった。

ルークの頬はまだ少し熱かった。
しかしその熱とは別のところで、
明確な思考が動き始めていた。

フリーダ・ラングバルトという人物が、
この先どういう意味を持つことになるか。

その問いが、静かに形を作り始めていた。
 

第三百二十六弾「異能の転生者」

第三百二十七弾「異能の転生者 その2」

第三百二十八弾「異能の転生者 その3」

第三百二十九弾「異能の転生者 その4」

第三百三十弾「異能の転生者 その5」

第三百三十一弾「異能の転生者 その6」

の続きです

 

 

# 異能の転生者

## 第十五章 探究

### 一

話し合いは、最初から順調だったわけではなかった。

初日、グレイはルークに単刀直入に聞いた。

「君の力は魔法か」

ルークは少し考えてから答えた。

「魔法ではありません」

「では何か」

「説明が難しい」

グレイは眉をひそめた。
しかしすぐに気を取り直した。

「では、君の力がどのように機能しているか、
説明できる範囲で教えてほしい」

それが出発点だった。

ルークは言葉を選んだ。
この世界に存在しない概念を、
この世界の言葉で説明することの難しさがあった。
超能力という言葉はない。
次元という概念も、一般的ではない。
エネルギーという表現は使えるが、
その意味するところが魔力と混同される可能性があった。

「魔法は外部から魔力を集めて、
術式という形に変換して放つ、
という理解で合っていますか」

「基本的にはそうだ」

「自分の力は、外部から集めるものではありません。
自分の内側にある何かが、
直接、世界に作用する感覚です。
魔力という媒介を必要としない」

グレイは黙って聞いていた。

「魔法が言語だとすれば、
自分の力は意図そのものが直接届く感じです。
言葉に変換する手順がない」

グレイはしばらく沈黙した。
それから手帳を取り出して、何かを書き始めた。

その日の話し合いは三時間続いた。

---

二日目は、グレイが質問を持ってきた。

「昨日の話を整理して考えた。
君の力は術式を介さないということは、
魔法における最大の制約
——術式の構築時間と魔力変換のロス
——が存在しないということか」

「そうです」

「ならば純粋な出力効率は、
魔法の比ではないということになる」
グレイは手帳を開いた。

「一方で、魔法には術式があるからこそ、
力の性質を細かく制御できるという利点がある。
君の力は、その制御をどのように行っているか」

ルークは考えた。
前世において、力の制御は呼吸と同じくらい自然だった。

意識的に考えたことがなかった。
しかし今、グレイに説明するために、
その過程を言語化しようとした。

「イメージです。
こうなってほしいという意図が、
そのまま力の形を決めます」

「術式の代わりに意図が機能している」
グレイは書きながら言った。

「では逆に言えば、意図が曖昧であれば、
力も曖昧になるということか」

ルークは一瞬止まった。

考えたことがなかった問いだった。
自分の意図が曖昧になることが、前世ではなかった。
だから検証したことがなかった。

「理論上は、そうかもしれません」

「興味深い」
グレイは顔を上げた。
目に光があった。
研究者の目だった。

「魔法は術式が明確であれば、
術者の精神状態に関わらずある程度
安定した出力を保てる。
君の力は逆に、精神状態が直接出力に
影響する可能性がある」

その指摘は、ルークにとって新しい視点だった。

---

三日目以降、話し合いの密度が上がっていった。

グレイは毎日、前日の内容を整理した上で
新しい問いを持ってきた。
その準備の丁寧さが、この男の本質を示していた。
聞いたことを咀嚼し、体系の中に位置づけ、
そこから次の問いを導き出す。
大魔法使いと呼ばれるまでに至った頭の動き方が、
話し合いの構造に表れていた。

ルークの側にも、得るものがあった。

魔法の理論を深く知ることで、
自分の力との対照が鮮明になっていった。
魔法が持つ構造の精緻さが見えてきた。
術式という形式が、
力の性質をどれほど細かく規定できるか。
属性の組み合わせによって生まれる相乗効果の論理。
魔力の流れ方のパターンと、それを制御する技術の体系。

これまでルークは、この世界の魔法を
「自分の力より遥かに小さいもの」
として大まかに把握していた。
しかし深く知るほど、
その内側にある精緻さが見えてきた。
小さくても、精巧だった。
精巧さには、学べるものがある。

話し合いは毎日、昼食の時間から始まり、
午後の授業が終わった後も続いた。
カフェから始まり、
グレイの研究室に場所を移すこともあった。

周囲の目は変わっていった。

最初は驚きと困惑だった。
グレイが新入生と毎日話し合っている。
しかも内容は、明らかに対等な議論だった。
その光景が、学院内の見方を少しずつ変えていった。

---

## 第十六章 新しい障壁

### 一

一週間後の朝、
グレイは研究室でルークを待っていた。

机の上に、メモが広げられていた。
数式のような記号と、図形が組み合わさった何かが、
複数枚に渡って描かれていた。

グレイは落ち着かない様子だった。
座って立って、また座った。

ルークが入ってきた。

「昨夜、完成した」
グレイはそれだけ言った。

「何が」

「新しい魔法障壁だ」

グレイは立ち上がり、部屋の中央に立った。
それからゆっくりと、魔力を展開し始めた。

従来の魔法障壁は、魔力を面として展開する。
薄い膜のようなものを術者の周囲に張り、
外部からの魔法攻撃を受け止めるか弾くかする。
構造はシンプルだが、
物理的な攻撃への対応が弱いという欠点があった。
魔法は弾けても、石を投げれば突き抜ける、
という問題だった。

グレイが展開したものは、形が違った。

面ではなく、層だった。

複数の薄い層が、
互いの間に微細な間隔を置いて重なっていた。
各層が異なる属性の魔力で構成されており、
外部から加わる力の性質に応じて、
異なる層が対応する構造になっていた。
魔法攻撃は魔法に対応した層が受け止め、
物理的な衝撃は別の層が分散させる。

「試してみてくれ」
グレイは言った。

ルークは頷いた。

まず軽い魔法攻撃を放った。
グレイの障壁に当たった。
層が光を帯びて、力を吸収した。
突き破らなかった。

次に、物理的な力を直接当てた。
障壁の表面に、圧力を加える形で。

層が変形した。
しかし突き破らなかった。
力を分散させながら、各層が順番に受け止めた。

ルークは出力を少し上げた。

障壁が揺れた。
しかし、維持された。

「なるほど」
とルークは言った。

「物理攻撃に対する耐性は、バリアには遠く及ばない。
しかし従来の魔法障壁よりも、明確に向上している」
グレイは言った。
声に抑制された興奮があった。

「さらに、消費魔力を計測したところ、
従来比で一割の削減になった」

「どうやって削減したんですか」

「層と層の間の間隔を利用した。
各層が独立して機能することで、
全体を一枚の膜として維持するよりも、
局所的な対応が効率的になる。
攻撃を受けた箇所の層だけが対応し、
他の層は待機状態を保てる」

ルークはその説明を聞きながら、設計の発想を辿った。

魔法の術式という制約の中で、
これだけの改善を一週間で実現した。
ルークとの話し合いから得た情報を素材にして、
自分の技術体系の中で再構築した。
それがグレイのやり方だった。

「実戦で使えますか」

「確認したい」

二人は校庭に移った。

模擬戦の形を取った。
ただし今回は、一週間前とは性質が違った。
グレイを追い詰めるためではなく、
新しい障壁の性能を検証するためだった。

ルークは様々な角度から、様々な性質の攻撃を試みた。
魔法系の攻撃、物理的な圧力、複合的なもの。
グレイは障壁を維持しながら、
各攻撃に対する反応を確認した。
崩れる限界を探り、維持できる範囲を把握した。

三十分の検証が終わった時、グレイは額の汗を拭いた。

「実戦で使える」
グレイは言った。
断言だった。

「完璧ではない。限界はある。
しかし従来の障壁では対応できなかった状況に、
これは対応できる」

ルークは頷いた。

一週間で、これを作った。

その事実が、ルークの中で一つの評価として固まった。

---

## 第十七章 誘導弾

### 一

さらに二週間が過ぎた。

グレイは相変わらず毎日話し合いを求めてきた。
ルークとの対話から何かを引き出し、
自分の研究室に持ち帰り、
翌日には新しい問いと成果を持ってくる。
そのサイクルが、乱れることなく続いていた。

この男は、本当に研究が好きなのだとルークは思った。

新しい障壁の開発以降、
グレイの関心はルークの攻撃方法に移っていた。
特に、あの光の矢の誘導性に興味を持っていた。

「あの矢は、どのように軌道を制御しているか」

「意図で動かしています。
こう動いてほしいという思考が、
そのまま矢の軌道になる」

「では複数を同時に動かす場合、
それぞれに別の意図を向けているのか」

「同時に、です。
複数の流れを並行して意識している感じです」

グレイはそれを聞いて、長い時間をかけて考えた。
翌日、また来た。

「魔法において、
複数の術式を同時に維持することは可能だ。
しかし通常、それぞれの術式は固定された動きをする。
軌道を動的に変化させながら、
複数を同時に制御するとなると、
術者の集中力の分散が問題になる」

「魔法では難しいですか」

「難しい。しかし」
グレイは手帳を開いた。

「もし術式の中に、
一定の条件で自律的に軌道を修正する機構を
組み込めれば、術者が全てを意識しなくても、
ある程度の誘導性を持たせられるかもしれない」

その発想を、ルークは興味深く聞いた。

「条件反射的な術式ということですか」

「そうだ。
例えば、対象との距離が一定以下になれば軌道を変える、

という条件を術式に埋め込む。
術者は大まかな方向を決めるだけで、
細部は術式が自律的に処理する」

それは、ルークが意図で行っていることを、
術式という形式で代替しようとする試みだった。
完全な再現は難しい。
しかし近似させることができれば、
魔法使いの戦闘能力は根本から変わる。

グレイはそこから更に一週間、研究を続けた。

---

そして三週間目の終わりに、
グレイはまたルークを研究室に呼んだ。

「できた」

今度は声が違った。
一週間前よりも、抑えきれない何かが滲んでいた。

「見せてください」

校庭に出た。
グレイは魔力を集中させた。

三つの光点が、グレイの周囲に現れた。
球形だった。
各球の内側に、複雑な術式が刻み込まれているのを
ルークは感じ取った。
通常の魔法弾とは構造が違った。
単純に魔力を圧縮して放つのではなく、
内部に制御機構が組み込まれていた。

グレイが放った。

三つの球が飛び出した。
最初は直線的だった。
しかし途中で、それぞれが独立した軌道を取り始めた。
一つが横に曲がり、
一つが上から回り込み、
一つが低い軌道を維持した。

標的に向かって、三方向から同時に収束した。

ルークはバリアでそれを受けた。
三つが同時に当たった。

「当たりました」
とルークは言った。

「誘導の精度はまだ粗い」
グレイは言った。
しかし声に満足があった。

「対象が静止していれば十分だが、
激しく動く相手には追いきれない場面がある。
術式の修正が必要だ。
しかし原理は証明できた」

「数は増やせますか」

「計算はできている。
術式の構造を維持できる魔力量があれば、
理論上は増やせる。
今の私の魔力では三つが限界だが、
魔力効率をさらに改善すれば、
五つ、あるいは七つまでは現実的な範囲だ」

ルークはその球を見ていた。

自分が放った光の矢を参考にして、
一人でこれを作り上げた。
魔法という制約の中で、
超能力の特性を近似させようとした。
完全な再現ではない。
しかし、その発想の経路が、
ルークには興味深かった。

問題を分解して、
部分ごとに近似解を見つけて、組み合わせる。

それがグレイのやり方だった。

---

## 第十八章 驚き

### 一

ルークはグレイという人物を、
最初とは全く違う目で見ていた。

探究心が尽きない。

それが最も正確な評価だった。
一つの答えを出せば、そこから三つの問いが生まれる。
三つの問いのそれぞれに向き合い、答えを出しながら、
また新しい問いを見つける。
そのサイクルが、
この男の中で止まることなく回り続けていた。

しかもアプローチが毎回違った。

新しい障壁は、層状構造という発想から生まれた。
誘導弾は、自律的な条件術式という発想から生まれた。
どちらも、ルークとの話し合いを素材にしながら、
グレイ独自の論理で再構築されたものだった。
ルークが示したものをそのまま真似るのではなく、
その原理の一部を抽出して、
魔法という別の言語で書き直す。

それは単純な模倣ではなかった。
翻訳だった。

そのアプローチをルークは思いもしなかった。

自分が持っている力を、
別の体系で近似させようとする発想。
ルークにはその発想がなかった。
自分の力は自分の力として完結していた。
それを他の何かに置き換えようとする必要性を、
感じたことがなかった。

グレイは違った。
制約の中にいるから、
制約の中での最善を考え続けていた。
制約があるからこそ、発想が研ぎ澄まされていた。

これが、優秀な生徒を育て続けられた理由か、
とルークは思った。

教えることと、一緒に考えることは違う。
グレイは正解を教える人間ではなかった。
問いを持ってくる人間だった。
生徒一人一人に対して、
その生徒の特性から問いを引き出し、
その問いに向き合わせることで成長を促す。
アクアが短期間で水天になったのも、
グレイが彼女の特性から
最適な問いを見つけ続けたからではないか。

その推測が、今は確信に変わっていた。

そしてルークは、もう一つのことに気づいていた。

自分自身についてだった。

グレイのアプローチを見ていて、
ルークは初めて考え始めていた。
自分の能力を、
改善できるかもしれないということを。

前世において、
フレデリック・マクミランは
その力を進化させようとしたことがなかった。
その必要性がなかった。
惑星を砕き、次元を越え、
宇宙の構造に触れることができる力は、
改善の余地を考える動機を生まなかった。
既に限界がないのだから、
限界を超えようとする必要がない。

しかしグレイは、
制約の中で限界を超えようとしていた。

その姿勢が、ルークの中で何かを動かした。

自分の能力の種類は豊富だ。
強度は人間の域をはるかに超えている。
しかし、その力の精度はどうか。
出力の細かさはどうか。
同時に扱える対象の数は、
本当に最大限に引き出されているか。

考えたことがなかった問いが、
次々と浮かんできた。

制約がないことが、
逆に探究を止めていたのかもしれない。

その認識は、ルークにとって初めてのものだった。
転生してからこの方、
何かを「初めて」感じることは少なかった。
驚くことはあっても、
それは外部の事象に対するものだった。
自分の内側から何かが動くという感覚は、
ほとんどなかった。

しかし今は、確かに何かが動いていた。

自分の能力を、
より精緻に、より豊かに展開できるかもしれない。
その可能性が、実感として感じられた。

小さな感情だった。

しかし確かなものだった。

転生してから、
これほど嬉しいと思ったのは初めてだった。

学院に来る前、
ルークはここで学べるものがあるとすれば、
魔法の技術ではないかもしれないと思っていた。
文化や人間関係の理解の方が
有益かもしれないと考えていた。

しかし実際に得たものは、
予想していなかった種類のものだった。

グレイ・サンダーズという人間と出会ったことで、
ルークは自分自身の能力を探究するという、
前世も含めて一度も持ったことのない視点を得た。

それがこの学院に来た最初の収穫だった。

ルークはそれを、静かに、
しかし確かに、嬉しいと思った。
 

第三百二十六弾「異能の転生者」

第三百二十七弾「異能の転生者 その2」

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第三百三十弾「異能の転生者 その5」

の続きです

 

 

 

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## 第十三章 検証

### 一

グレイ・サンダーズは、
敗北を引きずる男ではなかった。

それは強がりではなく、
彼が長年かけて身につけた思考の習慣だった。
起きた事実は変えられない。
変えられないものに感情を注ぎ込むことは、
資源の無駄だ。
ならば、その事実から何を引き出せるかを
考える方が建設的だ
——そういう考え方が、グレイの中に根付いていた。

だから、学院を休んだのはショックのためではなかった。

検証のためだった。

自室の書斎に籠もり、
グレイはあの模擬戦を最初から最後まで、
一つ一つの動作に分解して記憶から取り出した。
何を試みて、何が起きたか。
どの攻撃がどのように止められたか。
相手の動き方の特徴は何だったか。

まず最初の問いを立てた。

今の自分の能力で、勝てたか。

答えを出すのに、一日かかった。

結論は、否だった。

感情を排して検証した結果がそれだった。
あの模擬戦でグレイが使えた手段は、
全て使い切っていた。
攻撃の角度、魔法の属性、槍との連携、出力の増減
——考えられるパターンは全て試みた。
そのどれもが通用しなかった。

では、何か新しい技術を身につければ勝てるか。

これが二日目の問いだった。

グレイは自分が習得していない魔法の技術を洗い出した。

理論上は存在するが実用化されていない術式、
他国の魔法使いが使う特殊な系統、
古い文献に記録された失われた技法
——それらを一つずつ検討した。

仮にそれらを習得したとして、
あの障壁を突破できるか。

答えは、おそらく否、だった。

問題は技術の種類ではなかった。
あの障壁が魔法に対して示した反応を思い出すと、
属性や術式の違いが本質的な差を生むとは思えなかった。

どんな魔法を当てても、
同じように消えるだろうという予測が立った。

では、あの力は魔法ではないのか。

三日目に、グレイはその仮定を立てた。

魔法ではない、と仮定する。
ならば何か。
グレイの知識の中に、
魔法以外の力という概念は存在しなかった。
この世界において、超自然的な力は魔法だけだ
という認識が、グレイの中では自明のことだった。
しかし、その前提自体を疑う必要があるかもしれない。

もしあの力が魔法でないとすれば、
魔法で対抗することは可能か。

グレイは考え続けた。

四日目、五日目と、検証は続いた。
書斎の机の上に、メモが積み重なっていった。
魔法理論の文献を引き出し、対照しながら考えた。
睡眠は取っていたが、食事は不規則になっていた。

そして六日目の朝、グレイは一つの結論に達した。

自分一人では、答えが出ない。

それは敗北宣言ではなかった。
論理的な帰結だった。
あの力の正体を知らない状態で、
その力に対抗する方法を考えることは、
前提が欠けた問いに答えようとすることだ。
どれだけ考えても、推測の域を出ない。

ならば、最も効率的な方法は何か。

答えは明快だった。

直接、本人に聞く。

グレイはメモを整理しながら、
その結論の正しさを確認した。
プライドの問題ではなかった。
効率の問題だった。
自分が一週間かけて辿り着けなかった答えに、
本人との対話が数時間で近づける可能性がある。

ならば、躊躇する理由はない。

七日目の朝、グレイは学院に向かった。

---

### 二

学院の廊下を歩いた時、
最初に気づいたのは視線だった。

いつもと違った。

グレイが廊下を歩けば、生徒たちは道を開ける。
教師たちは会釈をする。
それは彼の地位と実績に対する、
当然の反応として長年続いてきたものだった。

しかし今日は、何かが違った。

視線が、どこか腫れ物に触るような質を帯びていた。
道は開く。
しかし開き方が、心なしか早かった。
会釈をする教師の目が、微妙に泳いでいた。
廊下の向こうから来た若い教師が、
グレイを見た瞬間に別の方向に曲がった。

グレイは不思議に思った。

一週間休んだことへの反応にしては、奇妙だった。
休養は珍しくない。
特別なことではない。
なぜこれほど周囲の空気が変わっているのか。

職員室に入った時、会話が途切れた。

複数の教師たちが、一斉にグレイを見た。
それから、それぞれが何かをするふりをして、
視線を逸らした。
誰かが「お戻りでしたか」と言った。
声が少し高かった。

「ああ」とグレイは答えた。

「少し調べることがあった」

それ以上を説明する気はなかった。
しかし周囲の反応が、
グレイの中に小さな疑問を植えつけた。

箝口令が敷かれていることは知らなかった。

学院の上層部が何を決定したか、
グレイは把握していなかった。
休んでいる間に学院内で何が動いたか、
今の段階では情報がなかった。
ただ、この空気が何かを意味していることは、
長年の経験から感じ取れた。

後で確認すればいい、とグレイは思った。

今は、目的を果たすことが先だった。

---

## 第十四章 カフェ

### 一

昼になった。

グレイはルークがどこにいるかを、
学院の事務から確認した。
午後の授業が始まる前の昼食の時間、
Aクラスの生徒の多くは学院内のカフェを使うという。

カフェは本館の一階にあった。

石造りのアーチ天井の下に、
木製のテーブルが並んでいる。
窓から中庭が見えた。
昼の時間帯は生徒たちで賑わう場所だった。

グレイが入った瞬間、空気が変わった。

会話が止まった。
動きが止まった。
複数の視線が、一斉にグレイに向いた。
それから、グレイが何者であるかを確認した視線が、
次の動きを探し始めた。

グレイはそれを無視して、室内を見渡した。

端の席に、一人で食事をしている生徒がいた。

ルークだった。

窓際の隅のテーブルに、一人で座っていた。
食事の内容は簡素だった。
皿の上のものを静かに口に運んでいた。
周囲の騒ぎにも、グレイが入ってきたことにも、
気づいていない様子だった。
あるいは気づいていて、
関与しないと決めているのか。

グレイはルークのテーブルに向かって歩いた。

周囲の生徒たちの視線が、グレイの動く方向を追った。
グレイがルークのテーブルに近づくにつれ、
その視線が徐々に緊張を帯びていった。

グレイはルークの向かいの椅子を引いて、座った。

カフェの中が、一瞬、完全に静止した。

それから、誰かが短い悲鳴に近い声を上げた。
小さな騒動が起きた。
隣のテーブルの生徒が立ち上がり、
出口に向かって走り始めた。
廊下に出た足音が遠ざかっていく。
報告に行ったのだろう、誰かに。

残った生徒たちは、動けなかった。
見ていた。

ルークが顔を上げた。

向かいに誰かがいることに気づいた瞬間、
わずかに目が大きくなった。
それがルークの「少し驚いた」という反応だった。
それ以上は変わらなかった。

グレイを見た。グレイが自分を見ていた。

「君と話し合いたい」

グレイは言った。
前置きなしだった。

ルークはグレイを見たまま、少し間を置いた。
それから口を開いた。

「あなたは自分には魔力が無い事で、
魔法使いとして見下していたのでは?」

声は穏やかだった。
しかし言葉の端に、かすかな質感があった。
皮肉と呼ぶには薄すぎる。
しかし完全に中立でもない。
事実の確認と、それに対する感情の痕跡が
混ざったような言い方だった。

グレイは、その言葉をそのまま受け取った。

否定しなかった。
言い訳もしなかった。

「そうだ」と言った。

「私はそう思っていた。
魔力量が能力の全てだと信じていた。
だから君を、その基準で判断した」

ルークは何も言わなかった。
続きを待っていた。

「私の考え方は、君との模擬戦で崩れた」
グレイは続けた。

「一週間、自室で検証した。
今の自分の能力で君に勝てたか。
新しい技術を身につければ勝てるか。
君の力が魔法とは異なると仮定して、
魔法で対抗できるか。それぞれを考え続けた」

「結論は?」

「自分一人では答えが出ない。
ならば直接、君に聞くのが最も効率的
だという結論になった」

ルークは少し黙った。

グレイという人物を、改めて見ていた。
最初の授業で感じたことと、
今感じることが、微妙に違っていた。

「ならばより高みを目指すために、
君に協力してもらう方が得策だと考えを変えた」
グレイは真っ直ぐにルークを見て言った。

「以前の私の言動を不快に思っていたならば、
謝罪しよう」

そう言って、グレイは頭を下げた。

カフェの中に、また新たな悲鳴が上がった。
複数の声だった。
立ち上がる音がした。
壁際に押し退く音がした。
グレイ・サンダーズが頭を下げた
——その事実が、見ていた者たちには
信じがたい光景として映ったのだろう。

ルークはそのざわめきを聞きながら、
グレイの下げた頭を見ていた。

ある意味、純粋な人だな、とルークは思った。

最初の授業で感じた傲慢さは、確かに不快だった。
しかしそれは、
グレイが長年かけて積み上げた信念から来ていた。
信念に基づいた傲慢さは、少なくとも根がある。
根のない傲慢さよりも、向き合い方がわかる。

そして今、その信念が覆された時、
この男は一週間かけて検証し、論理的な結論を出し、
こうして頭を下げに来た。
感情に流されていなかった。
プライドで目を曇らせていなかった。

噂で聞いていたグレイ・サンダーズの像
——偏見に満ちた、自分の基準以外を認めない教師
——とは、少し違うものが見えてきた。

完全に違うとは言えなかった。
陰の部分がある人物であることは変わらない。
しかし少なくとも、事実の前では動ける人間だった。

ルークは息を一つ吐いた。

「そこまで言われるならば、協力します」

グレイが頭を上げた。
その目に、安堵と、それから何か別のものがあった。
先を見ようとしている目だった。

「一つだけ聞かせてください」
ルークは続けた。

「一週間の検証で、どこまで辿り着けましたか」

グレイは少し目を細めた。
それから、静かに答え始めた。

「あの障壁が魔法障壁でないことは確信している。
魔法であれば、
あれだけの魔力を叩き込めば崩れるはずだ。
しかし崩れなかった。
属性を変えても、出力を変えても、
組み合わせを変えても、何も変わらなかった」

「続けてください」

「魔法とは別の原理で動いているとすれば、
魔法で対抗することは根本的に難しいかもしれない。
しかし、もし何らかの形で
その原理に近づくことができれば
——魔法の可能性はまだ広がる余地があるはずだ。
その可能性を確かめたい」

ルークはグレイの言葉を聞きながら、
内側で評価していた。

一週間で、そこまで辿り着いた。
前提を疑うことができた。
可能性の方向を見つけた。
感情を排して考え続けた。

大魔法使いと呼ばれるだけのことはある、
とルークは思った。

「一つだけ今日の段階で言えることがあります」

「聞かせてほしい」

ルークは少し考えてから言った。

「あなたの方向性は、間違っていない」

グレイの表情が、わずかに動いた。

カフェの中では、まだざわめきが続いていた。
遠くから足音が近づいてくる気配があった。
報告を受けた誰かが来るのだろう。

しかしルークとグレイは、その音に構わなかった。

二人の間に、何かが始まっていた。
 

第三百二十六弾「異能の転生者」

第三百二十七弾「異能の転生者 その2」

第三百二十八弾「異能の転生者 その3」

第三百二十九弾「異能の転生者 その4」

の続きです

 

 

# 異能の転生者

## 第十一章 決着

### 一

グレイ・サンダーズは、限界を知らない男だった。

少なくとも、これまでの人生においては。

魔法師団の上位魔法士たちと渡り合い、
複数の国の強者と交えた経験を持ち、
現役の天に近いとさえ評価された時期がある。
その長いキャリアの中で、
手詰まりという感覚を味わったことは、
ほとんどなかった。

しかし今、その感覚が、
疑いようのない現実として目の前にあった。

魔力が減っていた。

これだけの攻撃を続ければ当然だった。
しかし問題は量だけではなかった。
手段が尽きていた。
攻撃の角度を変えた。
魔法の属性を変えた。
槍との連携のパターンを変えた。
速度を上げ、出力を上げ、数を増やした。
試せることは全て試した。

だがどれも届かなかった。

一方でルークは、変わっていなかった。

表情が変わらなかった。
呼吸が乱れていなかった。
動きに重さが加わっていなかった。
グレイが全力で攻め続けた時間と、
ルークが消耗した量が、全く釣り合っていなかった。
いや、釣り合っていないどころか、
ルークには消耗という概念が存在しないかのようだった。

グレイの脳裏に、断片的な思考が流れた。

あの障壁を突破できれば。
隙間を突ければ。
速度で上回れれば
——しかしどれも、続く言葉を持てなかった。
突破できない。
隙間がない。
速度が足りない。
それが事実だった。

槍を構え直そうとした。
腕が重かった。

魔力の消耗が、体に出始めていた。
長年鍛えた体でも、これだけの魔力を
短時間に使い続ければ、
体の芯から力が抜けていく感覚が来る。
それを知っていたから、
グレイはこれまでの戦闘で消耗戦を避けてきた。
相手を早期に圧倒することで、
自分の消耗を最小化してきた。

今日は、その逆が起きていた。

相手の消耗がゼロで、自分だけが消耗していく。

グレイは息を整えようとした。
しかしルークが動いた。

---

### 二

ルークはそろそろ終わりにしようと思った。

これ以上続けることに意味はなかった。
グレイが手詰まりであることは、
数分前から明らかだった。
彼の攻撃のパターンが繰り返しになり始めた瞬間に、
ルークはそれを確認していた。
新しい手が出てこない。
出しようがない。

問題は、どう終わらせるかだった。

相手を傷つけることは、
今は適切ではないとルークは判断していた。
グレイは確かに最初から手加減をしなかった。
それはルークへの悪意でもあり、
自分の目で確かめようとする意志でもあった。
どちらの側面も否定できなかった。
しかし、この場で教師を傷つければ、話が複雑になる。
複雑になることをルークは好まなかった。

傷つけずに、しかし明確に。

それが条件だった。

ルークは視線を校庭の端に向けた。
レンジの先に、先ほど貫通した的の残骸があった。
あの時に使った光の矢。
あれを、複数同時に。

意識を集中した。

光の矢が、空中に現れた。
一本ではなかった。
数十本が、ルークを中心として宙に浮かんだ。
それぞれが指ほどの太さで、
内側から白い光を発していた。

グレイがそれを見た。

目が大きくなった。
数十本の光の矢が同時に存在している。
それだけでも常識を外れていたが、
問題はその配置だった。
全方位だった。
ルークを中心として、
あらゆる角度に向かって浮かんでいる。
上から下から、左右から、斜めから
——グレイを包囲するような配置が、
一瞬で完成していた。

グレイは動こうとした。
どこかに抜け道があるはずだと、
体が反射的に探した。

矢が動いた。

一斉にではなかった。
順番に、しかし連続的に。
まるで意思を持っているかのように、
グレイの動きを読んで軌道を変えた。
逃げようとする方向に、先回りして矢が向かった。
攻撃しようとすれば、その手元に矢が迫った。

グレイの体が、防御に徹した。
魔法障壁を展開しようとした。
しかし残った魔力では、
完全な障壁を張ることが難しかった。

矢は当たらなかった。

ただ、グレイの動ける範囲を、着実に狭めていった。
左に動けば右から矢が来て動けなくなる。
右に動けば今度は左が閉じる。
後退しようとすれば背後から。

追い込んでいるのではなかった。
包囲していた。

グレイは気づいた。
この矢は自分に当てるつもりがない。
しかし、どこにも行けない。

その理解が来た瞬間、矢が一点に集中した。

グレイの持つ槍だった。

数十本の矢が、それぞれ異なる角度から、
槍の各部位に向かって同時に収束した。

衝撃音があった。

金属が砕ける音だった。

グレイの手の中で、槍が四散した。
根元から、中ほどで、穂先の手前で、
それぞれが別々の場所で折れ、
砕け、弾け飛んだ。
金属の破片が地面に落ちた。

グレイの両手が空になった。

それと同時に、四方からバリアの壁が現れた。

グレイを囲む四面の壁。
透明だった。
しかし確かにそこにあった。
グレイが手を伸ばすと、見えない壁に触れた。
押しても動かなかった。
魔法を叩きつけても、揺れもしなかった。
上も、下も、同様だった。

グレイは完全に身動きが取れなかった。

沈黙があった。

長い沈黙だった。

グレイは自分の両手を見た。
空の両手を。
それから囲む四面の壁を見た。
それからルークを見た。

ルークは立っていた。
変わらない表情で。
変わらない呼吸で。

グレイは目を閉じた。

一秒あったか、なかったか。

「……参った」

声は低かった。
かすれていた。
しかしはっきりと聞こえた。

バリアの壁が消えた。

---

### 三

一瞬の静寂があった。

それから、歓声が上がった。

Aクラスの生徒たちは、
いつの間にか自分たちの模擬戦を止めて、
この戦闘を見ていた。
互いのペアを忘れていた。
見入っていた。
そして今、その感情が音になって出てきた。

驚きと興奮と困惑が混ざり合った声だった。
純粋な喝采とは違った。
何かとてつもないものを目撃してしまった
という戸惑いが、歓声の底に流れていた。

グレイ・サンダーズが負けた。

この学院において、それは起きてはならないことだった。

教師と生徒の力関係は、この場の秩序の前提だった。
その前提が、今日、崩れた。
しかも相手は、魔力「微量」の新入生だった。

生徒たちはルークを見た。

ルークは特に何もしていなかった。
ただ立っていた。
グレイが降参を告げた瞬間から、
表情は変わっていなかった。
勝利を誇る様子がなかった。
安堵している様子もなかった。
ただ、終わったという事実を
確認しているような顔だった。

グレイは地面を見ていた。

周囲の音が、
彼の耳に届いているかどうかわからなかった。
生徒たちの歓声が、
何か遠い場所の音のように聞こえていた。

ルークはグレイを見た。

この男が今どういう状態にあるか、
ルークには見えていた。
体の消耗だけではなかった。
もっと根本的な何かが、グレイの内側で折れていた。
長年信じてきたものが、
今日の結果によって
根底から揺るがされた人間の顔をしていた。

それについて、ルークは何も言わなかった。

言うべき言葉を持っていなかった、
というより、言うべき言葉がないと判断していた。
グレイが向き合うべきことは、
ルークが言葉にできるものではなかった。

---

## 第十二章 箝口令

### 一

その日の夜のうちに、学院の上層部が動いた。

グレイ・サンダーズが新入生に敗北した。
その事実は、Aクラスの生徒十二名と、
その場にいた数名の教官が目撃していた。
口伝えで広まるには十分な人数だった。

学院長が緊急の会議を開いた。

結論は速かった。

箝口令を敷く。
関係者全員に対して、
今日の出来事を外部に一切漏らさないよう命じる。
違反した場合の処分も明示した。
教師に対しては職の問題。
生徒に対しては、評価への影響を示唆した。
明言はしなかったが、意図は明確だった。

生徒たちは翌朝、担任から個別に呼ばれた。
今日見たことは話さないように、と言われた。
理由の説明はなかった。
ただ、命令として告げられた。

Aクラスの生徒たちは、それぞれの反応を示した。

従順に頷く者、内心で疑問を持ちながら黙る者、
理不尽を感じながらも逆らえない者——様々だった。
しかし全員が、少なくとも表向きは箝口令に従った。
この学院に反抗することのコストを、
彼らはよく理解していた。

グレイは翌日から学院に来なかった。

公式な説明はなかった。
体調不良、とだけ事務的に伝えられた。
いつ戻るかも告げられなかった。

---

### 二

グレイが休んでいる間、
Aクラスの授業は座学中心に切り替わった。

代理の教師が来た。
年配の女性教師で、魔法理論の専門家だった。
彼女はグレイとの対戦について一切触れなかった。
最初の授業の冒頭で
「グレイ教授は体調を崩されています。
回復するまでの間、私が担当します」
とだけ言い、すぐに授業に入った。

座学の内容は、魔法理論の基礎から始まった。

魔法の系統分類、各系統の特性と相互関係、
魔力の構造と流れ方——体系的な内容だった。
ルークはそれを聞きながら、
この世界の魔法理論の全体像を改めて整理していた。

理論として興味深い部分はあった。

この世界の魔力は、ルークの超能力とは
根本的に異なる原理で動いていた。
しかし、いくつかの点で類似した構造も見えた。
エネルギーの集中と放出のパターン、
方向性の制御方法、
複数の力を同時に扱う際の干渉の問題
——表面的な形は違っても、
根底にある原理には共通するものがあった。

ルークは授業を聞きながら、
そういった考察を静かに進めていた。

Aクラスの他の生徒たちは、
どこか落ち着かない様子だった。

グレイが休んでいる理由について、
公式な説明がないことへの不安があった。
あの対戦を見た後で、
何も言われないままグレイが消えた。
その事実が、様々な推測を生んでいた。

ルークにはさっぱり解らなかった。

あの対戦の後、
グレイが受けたダメージについては把握していた。
体の消耗と、精神的な衝撃。
どちらも、数日の休養で回復するものだと
ルークは見ていた。
物理的には問題なかった。

ではなぜ、まだ来ないのか。

ルークにはその答えが見えなかった。
グレイという人間が、今どういう状態にあるのか。
敗北という経験が、
彼の内側でどのように処理されているのか。
それはルークが理解しにくい領域だった。

誇りを、信念を、
積み上げてきたものを、否定されること。

その痛みの質が、ルークには実感として掴みにくかった。

前世のフレデリック・マクミランは、
自分の力が否定された経験を持っていなかった。
否定できる者がいなかったから。

だからグレイが感じているものの深さが、
正確にはわからなかった。

ただ、相当のものだろうとは思っていた。

---

### 三

グレイが休んでいることについて、
学院内の噂は静かに、しかし確実に広まっていた。

箝口令は完全ではなかった。

十数人が目撃した出来事を完全に封じることは、
現実的には難しかった。
言葉に出さなくても、表情に出る。
態度に滲む。
誰かの耳に届いた断片が、
別の誰かの断片と合わさって、輪郭を持ち始める。

魔力「微量」の新入生に、グレイ教授が負けたらしい。

その噂が、他のクラスの生徒たちの間に流れ始めた。
信じる者は少なかった。
信じたくない者の方が多かった。
しかし否定する材料も、誰も持っていなかった。

グレイの休みは一週間を過ぎた。

その理由について、様々な憶測が生まれた。
病気、過労、家の事情
——しかしAクラスの者たちが口を閉じている事実が、
何かを示唆しているように見えた。

あの新入生に敗れたことが、
よほどのショックだったのではないか。

その解釈が、最も広まった解釈だった。

ルークはその噂を、廊下を歩く時に断片的に耳にした。
自分についての話を他人の口から聞くのは、
奇妙な感覚だった。
話されている内容の事実関係は正確だったが、
そこに込められた感情の読み方が、
ルークの内側にある理解とずれていた。

グレイが受けた衝撃の核心は、
敗北そのものではないとルークは思っていた。

魔力が全てだという信念。
その信念の上に立った世界観。
それが今日の一つの出来事によって成立しなくなった。
人間にとって、世界の見方が崩れることは、
単に戦闘に負けることよりはるかに大きな出来事だ。

それに向き合う時間が、
グレイには必要なのかもしれなかった。

授業が終わった午後、
ルークは学院の図書館に向かった。

この学院の蔵書は相当なものだった。
魔法理論の古典から、各国の歴史書、
天の記録、魔法生物の生態まで
——ルークが興味を持てる素材は十分にあった。

グレイが戻るまでの間、学べることを学んでおく。

それがルークにとっての、今できることだった。