の続きです
# 異能の転生者
## 第三十八章 限界の向こう
### 一
アクア・ヴォルフィードは、これまでの人生において、
自分が理解できないものに出会ったことがなかった。
それは傲慢さではなかった。
事実として、そうだった。
幼い頃から魔法の才能があった。
グレイの元で学び、
理解が追いつかないと感じた瞬間は何度もあったが、
それは時間をかければ必ず解決した。
水天になってからは、この世界の魔法において、
自分が理解できない現象はほぼ存在しなくなっていた。
しかし今、目の前に広がっているものを、
アクアは理解できなかった。
夜空だった。
正確には、夜空だったもの、だった。
頭上を覆う星空が、消えていた。
代わりに何があるかといえば、光だった。
無数の光の矢が、夜の大気を埋め尽くしていた。
一本や二本ではなかった。
数百、数千——アクアの視界の全てが、
白い光の穂先で満たされていた。
それぞれが動いていなかった。
静止していた。
しかし静止しているのに、
その先端が示している方向は全て、
アクアに向かっていた。
どの角度を見ても、光の矢の穂先があった。
上から、横から、斜めから、下から
——包囲という言葉では足りなかった。
存在する全ての方向から、光がアクアを指していた。
アクアは自分の五十の術式を見た。
展開したままだった。
しかし今この状況において、その五十という数字が、
何の意味も持たないことを、アクアは感じ取っていた。
魔力「至高」の評価を受けた者が、
この世界に何人いるか。
アクアは知っていた。
記録に残っている限りでは、
歴代を通じて百人に満たない。
その頂点にある自分が、
今この瞬間に確信していることがあった。
この光の矢の一本一本が、
自分の全魔力による防御を貫通する。
どうすれば確信できるのか、と問われても、
アクアには説明できなかった。
しかし確信だった。
才能ある者が極限まで鍛えた直感が、
疑いようのない事実として告げていた。
あれは魔法ではない。
魔法であれば、出力の上限が存在する。
どれほど優れた魔法使いも、
魔力という資源の制約の中でしか動けない。
しかしあの光の矢には、上限が感じられなかった。
一本を放つコストが、
どれほどのものかを測ろうとしたが、測れなかった。
測る物差しが、アクアの中に存在しなかった。
魔力量が「至高」のアクアが、
一番よくわかっていた。
魔力「至高」を持つ自分でさえ、
あれだけの数の光の矢を同時に維持することは不可能だ。
不可能どころか、想像すら難しい。
なぜなら、あれだけの数を維持するために
必要なエネルギーの量が、
この世界の魔力という概念で換算できる範囲を
超えているからだ。
ではあれは何か。
答えが出なかった。
---
### 二
「先輩ということで、
邪魔をしなければ手を下しません。
どうしますか」
ルークの声は穏やかだった。
怒っていなかった。
興奮していなかった。
これだけのことをしながら、
声の温度が変わっていなかった。
それがまた、アクアの中に奇妙な感覚を作った。
どうにか言葉を絞り出した。
「王城を襲撃する理由を、聞かせてもらえますか」
時間稼ぎだった。
これだけの騒ぎになっている。
既に伝令が各地に飛んでいるはずだ。
他の天が感知していれば、駆けつける可能性がある。
この少年がどれほど強くても、
現役の天が複数集まれば——
次の瞬間、世界が止まった。
正確には、止まったと感じた。
何が起きたかを、アクアは理解しようとした。
理解できなかった。
感覚として、何かが変わった。
空気の流れが止まった。
中庭の噴水から吹き出していた水が、
空中で固まった。
さっきまで夜風に揺れていた旗が、
布の形のまま静止した。
空を横切っていた鳥が、
翼を広げたまま空中に固定されていた。
崩れ落ちかけていた瓦礫が、
落下の途中で止まっていた。
煙が、形を保ったまま動かなかった。
炎が、燃えるのをやめていた。
「時間稼ぎができないように、時を止めました」
ルークの声が聞こえた。
「今、この世界で動いているのは、僕とあなただけです」
アクアはルークを見た。
言葉の意味は理解した。
しかし意味を理解することと、
それが何であるかを理解することは、
全く別の話だった。
時を止めた。
時間が、止まっている。
この世界において、時間は絶対だった。
魔法で操作できるものの中に、
時間は含まれていなかった。
時間操作の理論は古くから研究されてきたが、
現代の魔法技術では不可能とされていた。
天の称号を持つ者たちの中でも、
時間に干渉できる者は存在しなかった。
それが止まっていた。
噴水の水が空中で固まっていた。
鳥が空中で固定されていた。
炎が燃えるのをやめていた。
アクアは自分の手を見た。
自分は動いていた。呼吸もできていた。
「あなたは」
アクアは言った。
声が、わずかに変わっていた。
「何者なんですか」
頭の中で、一つの言葉が浮かんだ。
しかしアクアはそれを口にしなかった。
神、という言葉だった。
あまりにも陳腐だった。
あまりにも安易だった。
目の前の現実に対して、その言葉は小さすぎた。
しかし他に言葉が見つからなかった。
ルークはアクアを見た。
「僕が何者だろうが、どうでもいいことです」
アクアの思考が読まれていた。また、だった。
「問題は、下らないプライドによって
人が殺されたということです」
アクアは一瞬、目を閉じた。
王族の誰かが、やってはいけないことをした。
その尻拭いが、今自分に回ってきている
——そういう構図が見えた。
天になってから、似たような状況を何度か経験してきた。
王族が引き起こした問題を、天が解決する。
あるいは揉み消す。
それは天という立場が持つ、
表には出ない仕事の一つだった。
毎回、嫌な気分になった。
しかしやらなければならなかった。
天でいることのメリットは、
この世界において
王族に次ぐ地位に相当するほど大きかった。
そのメリットを享受している以上、
デメリットも受け入れるしかなかった。
それがどれほど理不尽であっても。
しかし今は、そのデメリットの規模が、
今までとは違った。
目の前にいるのは、時間を止められる存在だった。
天であることのメリットと、
自分の命を天秤にかけなければならない状況が、
今ここにあった。
今更、辞めるから許してくれとは言えないだろう。
アクアはそう思った。
しかしこれ以上戦い続けることが、
何をもたらすかも、今のアクアには見えていた。
人生の転機は、前もって予告せずに来るものだ。
アクアは長杖を、ゆっくりと下ろした。
展開していた五十の術式を、一つずつ解いていった。
解くたびに、空気の緊張が少しずつ薄れた。
最後の術式が消えた時、アクアは両手を上げた。
「降参します」
声は静かだった。震えていなかった。
「これ以上、あなたには手を出しません」
天になってから初めての言葉だった。
この言葉を言う日が来るとは、思っていなかった。
しかし言葉は出た。
思ったより自然に出た。
それが何を意味するのかを、アクアは少し考えた。
自分はずっと、勝ち続けてきた。
グレイの元で学んでいた時も、天になってからも。
負けを知らなかった。
それが誇りだった。
しかし今この瞬間に感じているのは、
その誇りが傷ついたという感覚ではなかった。
別の何かだった。
言語化できなかった。
しかし確かにそこにあった。
時が止まった世界の中で、
アクアは目の前の少年を見た。
この存在は、自分がこれまで知っていた
世界の外側から来ている。
そういう確信があった。
止まった噴水の水が、空中で光を反射していた。
固定された炎が、形を保ったまま輝いていた。
静止した世界の中に、
アクアとルークだけが動いていた。