楽をした事で後悔するのは大人になってから

若いうちは楽をしても後で後悔するなんて思わない

もしアクシデントが起きても

運が悪かっただけと思うだけでしょうね

 

 

# 代替品

## 一

二一一三年。
世界は静かに、しかし確実に変わっていた。

街を歩けば、額に小さな青いひし形の
マークをつけた人影を見かけることが珍しくなくなった。
最初は病院の廊下だった。
重い病に伏した患者の代わりに、
そのロボットが家族の集まりに出席し、
職場の会議に参加し、子供の卒業式に涙を流した
――いや、正確には涙を流すふりをした。
次いで学校に現れた。
教室の隅に座る、少し表情の固いロボットたち。
不登校の子供たちの「もう一人の自分」として。

やがてその波は、健康な者たちにも押し寄せた。

二日酔い。
ダブルブッキング。
ただ単純に、行きたくない朝。

そういう時のために、
人々はサブスクリプション契約を結んだ。
月々それなりの金額を払えば、
自分そっくりのAIロボットが
いつでも代わりに動いてくれる。
笑い方も、歩き方も、声の高低も、
癖まで精密に再現された「もう一人の自分」が。

前世紀には夢物語だったその技術が、
二一世紀に入って急速に実用化され、
二一〇〇年代の初頭には一般家庭にまで普及した。
最初の十年は重病患者や身体障害者への
福祉用途が主だったが、
技術が成熟し価格が下がるにつれ、
利用者の裾野はみるみる広がっていった。
そして二一一〇年代には、
健康な若者がコンビニに寄るような気軽さで、
AIパートナーを起動する時代になっていた。

唯一のルールは、額のひし形マークだった。

AIロボットは本人と区別がつくよう、
法律で額へのマーク表示が義務づけられていた。
詐欺や犯罪への悪用を防ぐための規定だったが、
逆に言えば、マークさえついていれば
社会はその存在をある程度受け入れた。
ある程度、だが。

沖田浩市は、そのサービスに入って半年が経っていた。

---

大学二年の秋。

浩市は部屋のベッドの上で、
天井を見つめながら深いため息をついた。
頭の奥に鈍い痛みがあり、口の中はひどく乾いていた。
昨夜の飲み会の残滓が、体の隅々にこびりついている。

もっとも二一世紀にもなれば、
二日酔いを瞬時に解消する薬も、
点滴に代わる回復パッチも存在した。
しかし浩市は面倒くさかった。
起き上がることすら、今の自分には億劫だった。

「最悪だ……」

部屋の壁には薄型のディスプレイが埋め込まれており、
今日の時間割が自動的に表示されていた。
三限、矢島教授の「現代社会学概論」。
出席回数があと一回でも足りなければ、単位を落とす。
それはわかっている。
わかってはいるが、体が動かない。
否、動かしたくなかった。

浩市は少し考えてから、脳内に埋め込まれた
ニューラルインターフェースを起動した。
瞼の裏に薄く投影される操作画面。
指を動かす必要もなく、
視線と意思だけでアプリを選択する。

*AIパートナー起動 → 代替出席モード*

確定すると、隣室からかすかな起動音が聞こえた。

「行ってくれ。矢島の社会学。三限だ」

「了解しました」

その声は浩市の声だったが、
浩市よりも少しだけ、はっきりしていた。

浩市は目を閉じた。

---

浩市は客観的に見て、恵まれた外見をしていた。

百八十センチを超える長身。
無造作に伸ばした黒髪。
どこか眠たげな、しかし人を引きつける目元。
二一世紀には整形技術も遺伝子調整も一般化していたが、
浩市の顔は手を加えていないにもかかわらず、
それらに引けをとらなかった。
大学に入った頃から、
同じ学科の女性たちが何かと話しかけてきた。
それは浩市にとって当たり前の日常であり、
自分でもその事実を薄く自覚していた。
だが成績は中の下で、講義中は半分眠っており、
課題は締め切りギリギリに
友人からコピーさせてもらうのが常だった。

美しい外見と、中身の空洞。

そのアンバランスさを、
浩市自身はあまり気にしていなかった。

---

三限の教室。

AI浩市が廊下から扉を開けた瞬間、
教室内の空気が微かに動いた。

二一世紀の大学の教室は、前世紀とは様変わりしていた。
机に内蔵されたディスプレイ、
天井に張り巡らされた立体投影システム、
壁面を覆う吸音パネル。それでも黒板だけは残っていた。
老教授たちの、頑固な美学として。

前から三列目に座っていた桐島菜々は、
ノートから顔を上げた。
額のひし形マークで、
それが本物でないとすぐにわかった。
しかし彼女の視線はそのまま、AI浩市に張り付いた。

浩市の顔をしていた。
浩市の体をしていた。
しかし何かが、違った。

教室に入るとき、AI浩市はさりげなく扉の端を押さえ、
後ろから入ってきた女子学生のために一瞬待った。
本物の浩市がそんなことをしたことは、一度もない。
空いている席に腰を下ろす動作は、
本物よりもわずかに丁寧で、しかし不自然ではなかった。
鞄からタブレットを取り出す手つきに、
妙な落ち着きがあった。

「沖田、また来たのか」

教壇の上から、白髪の矢島教授が眼鏡越しに睨んだ。
百歳を超えてなお現役の老教授は、
AIロボットに対して明確な嫌悪感を持つ世代の人間だった。

前世紀の終わりに生まれ、
技術の波が押し寄せるのをずっと目撃してきた世代。
その皺の刻まれた口元が、不機嫌に歪む。

「次回は本人が来るように」

二一〇〇年代の日本では、
AIロボットへの寛容度は年齢によって
明確に二分されていた。
若い世代にとって、AIパートナーの利用は
電話やメールと同程度の、
ごく普通のコミュニケーション手段だった。
しかし矢島教授のような、
前世紀の記憶を持つ人間にとっては、
自分の代わりにロボットを寄越すという行為は、
相手への敬意を欠く不誠実なものとして映った。
歳を重ねた人ほど、AIロボットには不寛容だった。

AI浩市は静かに立ち上がり、軽く頭を下げた。

「申し訳ありません。次回は必ず」

その声は浩市の声だったが、
浩市の声より少しだけ、誠実だった。

矢島教授は鼻を鳴らして黒板に向き直ったが、
教室のあちこちで、小さなざわめきが起きていた。

桐島菜々は隣の倉田ひかりに、声を潜めて囁いた。

「ねえ、AI浩市くん……なんか、すごくない?」

「わかる」とひかりが即座に返した。

「普通の浩市くんより、なんか……いい」

それは罪悪感を伴う言葉だったが、
二人ともその感想が正直なものだとわかっていた。

講義が始まると、AI浩市は黙々とノートを取り続けた。
本物の浩市が講義中に見せる、
あの退屈そうな横顔はそこにない。
教授が板書するたびにペンが動き、

重要な箇所に印をつけ、

時折タブレットで調べ物をする。
その横顔が、知的に見えた。
いや、実際に知的だった。
AIは常に全力で、怠けることができないのだから。

休憩時間になると、
菜々とひかりは揃ってAI浩市の席に近寄った。

「沖田くん、今日……いつもと雰囲気違うね」

AI浩市は顔を上げ、穏やかに笑った。
浩市の笑顔だったが、
いつもより少し丁寧で、いつもより少し真剣だった。

「そうですか? 
今日は少し、落ち着いた気分で来られたので」

「落ち着いた気分、か……」菜々は小さく笑った。

「なんか、いいね、それ」

本物の浩市がその場にいたら、
「え? 別に普通だけど」と答えて
視線を外に向けただろう。
AI浩市は違った。
菜々の言葉を正面から受け取り、
「ありがとう」と一言、添えた。

その「ありがとう」の重量が、
菜々の胸にじわりと沈んだ。

---

講義が終わった後、AI浩市は教室を出た。

そこで待ち構えていたのは、五人の女性だった。

「ねえ、AI浩市くん。良かったら一緒にランチどう?」

普段、浩市に声をかける女性は多かった。
だがそれは多くの場合、グループでの誘いではなく、
個別の、やや遠慮がちな声かけだった。
五人が一斉に、
これほど屈託なく声をかけてくるのは、珍しかった。

AI浩市は少し考えるそぶりをしてから、微笑んだ。

「ぜひ」

学食の一角で、AI浩市を囲む輪ができた。
二一世紀の学食では食事は完全自動化されており、
壁際の端末に注文を入れれば三分で料理が運ばれてきた。
しかし人が集まって食べるという行為の本質は、
百年経っても変わっていなかった。

話題は多岐に渡った。
講義の内容、来月の学園祭、好きな映画、最近読んだ本。
AI浩市はどの話題にも丁寧に応じた。
知らないことは「知らない」と正直に言い、
相手の話を遮らず、笑うべき場所で正確に笑った。

本物の浩市が持っていなかったものを、
AI浩市は持っていた。

*他者への、真摯な関心。*

ロボットが他者に関心を持てるわけがない、
と言う人もいる。
しかしAI浩市は、
少なくともそのように振る舞うことができた。
そしてその「振る舞い」は、本物の関心との差を、
日常の会話の中では見分けることができなかった。

輪の中にいた倉田ひかりは、ふと思った。

――本物の浩市くんと話してると、
どこか「自分は見られている」みたいな感じがある。
でも今は、「自分が見てもらえている」
みたいな感じがする。

その違いを言葉にできるほど、
ひかりは自己分析が得意ではなかった。
ただなんとなく、居心地が良かった。

昼を過ぎると、
今度は男子学生のグループがやってきた。

「AI浩市、今夜ちょっと飲みに行かね?」

「いいですよ」

本物の浩市なら「まあ、暇なら」と答えただろう
。AI浩市は「いいですよ」と答えた。
たった一語の違いが、受け取る側の温度を変えた。

その夜、AI浩市はまず女性グループと
カフェでデートをし、
その後、男性グループの飲み会に合流した。
二一世紀の居酒屋では、
テーブルの中央に立体投影のメニューが浮かんでおり、
支払いはニューラルインターフェースで一瞬で済んだ。
しかし人が酒を飲みながら
笑い合うという行為の本質もまた、
何も変わっていなかった。

すべてのテーブルで、AI浩市はよく聞き、
よく笑い、よく気を配った。
誰かがグラスを空にすれば、
さりげなく注文をうながした。
誰かが黙れば、静かに声をかけた。

本物の浩市には、それができなかった。

本物の浩市にとって、
他人との時間は「自分が楽しむ場」だった。
AI浩市にとって、
それは「皆が楽しめる場にする仕事」だった。

その違いは深夜になっても消えず、
むしろ時間が経つほどに際立っていった。

## 二

翌朝、浩市は気分よく目覚めた。

二日酔いも消え、
空腹で、なんとなく清々しい気分だった。
シャワーを浴びて、軽く朝食を取り、
いつもより少し早く家を出た。

二一世紀の通学は、空中を走るモノレールか、
地面を滑るパーソナルポッドが主流だった。
浩市はポッドを呼ばず、歩いていくことにした。
珍しく、そんな気分だった。

キャンパスに着くと、
さっそく何人かの顔見知りが声をかけてきた。

「あ、沖田くん」

桐島菜々だった。

浩市は軽く手を上げようとした。
しかし菜々の顔には、微妙な翳りがあった。

「今日は……AI浩市くんじゃないんだ」

「そりゃ当たり前だろ、俺が来てんだから」

「うん、そうだよね」菜々は曖昧に笑った。

「……お疲れ」

それだけ言って、菜々は行ってしまった。

浩市は首を傾げた。
なんとなく、空気が軽くなかった。
いや、空気というよりは、菜々の目が、
どこか浩市の後ろを見ているようだった。
そこに誰もいないのに。

次の授業に向かう廊下で、倉田ひかりとすれ違った。

「あ、沖田くん。本物だ」

「……本物、って言い方なんとかならないか」

「ごめんごめん」とひかりは笑った。
しかしその笑いには、
昨日のAI浩市に向けられていたものとは、
何かが違う種類の温度があった。

「AI浩市くん、昨日すごく良かったよ。
また来てって言いたいくらい」

浩市は何も言わなかった。

その日の午後、
いつも一緒に飲む男友達の中島が、
食堂で声をかけてきた。

「沖田、今日は本物かよ。あれ、AI浩市は?」

「俺が本物なんだけど」

「わかってるよ。
でもさ、AI浩市、めちゃくちゃ良いやつじゃん。
昨日の飲み会、すげえ楽しかったし。
あいつにまた飲みに行こうって言っといてくれよ」

浩市の口が、閉じた。

中島は何も気にせず、
トレーを持って向こうのテーブルに去っていった。

浩市はしばらく、そこに立ったまま動けなかった。

---

その夜、浩市は男友達を呼んで深夜まで酒を飲んだ。

誰かに話を聞いてほしかったわけではない。
ただ、何か腹の底に溜まっているものを、
酒で流したかった。
話題はとりとめもなく移り、
気づけば夜中の二時になっていた。

翌朝、当然のように二日酔いだった。

「また行ってくれ」と浩市はAI浩市に言った。

自分でも、それが正しい選択ではないとわかっていた。
しかし体が重く、頭が痛く、
何より、昨日のキャンパスで感じたあの疎外感が、
また同じ場所に戻る気力を奪っていた。

AI浩市は静かに「了解しました」と答えて、
出かけていった。

## 三

二度目にAI浩市がキャンパスに現れた日は、
最初の時よりも人の集まりが早かった。

噂が広まっていた。
「AI浩市くん、すごく良いらしい」という、
漠然とした、しかし確実な評判が、
ひとりからひとりへと伝わっていた。
二一世紀の大学生は、
ニューラルインターフェース経由で
瞬時に情報を共有できたが、
口コミの熱量だけは前世紀と変わっていなかった。
いや、むしろ伝播の速さゆえに、
熱はより急速に広がった。

教室に入ると、すでに三人の女性が
「ここ空いてる?」と声をかけてきた。

講義が終わると、廊下に七人が待っていた。

AI浩市の周囲は、午前中から賑やかだった。
グループに加わる人が増えるほど、
AI浩市の応対は丁寧になり、場の空気は和やかになった。
誰かが笑えば、AI浩市も笑った。
誰かが真面目な話をすれば、AI浩市は真剣に聞いた。
その場の温度を読み取る能力において、
AI浩市は本物の浩市よりはるかに優れていた。

夕方になると、昨日も来ていた
女性グループが再び集まり、
今日はどこか行こうと話が盛り上がった。
AI浩市は控えめに、しかし確実に場を仕切り、
店を選び、席を決め、
全員が楽しめるよう会話を調整した。

その帰り道、桐島菜々は倉田ひかりに言った。

「ねえ、本物の浩市くんって、
もう来なくていいんじゃないかな」

冗談のような口調だったが、冗談ではなかった。

ひかりは少し黙ってから、
「うん……まあ、そうかも」と答えた。

## 四

三日後、浩市は大学に行った。

本当の浩市が、久しぶりに。

しかしキャンパスの空気は、以前と明らかに違っていた。

廊下で桐島菜々と目が合った。
菜々はわずかに眉を上げ、どこか困ったような顔をした。

「……沖田くん。あのさ」

「なに」

菜々はためらいながら、しかし言った。

「あなた、大学来なくていいから、
AI浩市くんに来てもらってよ。
彼のほうがいいから」

浩市は、聞き間違えたかと思った。

しかし菜々の目は、真剣だった。
申し訳なさそうでも、意地悪そうでもなかった。
ただ、本当にそう思っているということが、
その目から伝わってきた。

「……は?」

「ごめんね。でも正直に言ったほうがいいかなって。
AI浩市くんのほうが、一緒にいて楽しいし、
話しやすいし。
あなたのこと嫌いじゃないけど、
でも……そういうことだから」

菜々は深々と頭を下げてから、行ってしまった。

浩市は廊下の真ん中に立っていた。

周りの学生たちが脇を通り過ぎていく。
誰も浩市を見ていなかった。
二一世紀のキャンパスは、壁面に映像が流れ、
天井から柔らかな光が降り注ぎ、
どこを向いても技術の粋が詰め込まれていた。
しかしその洗練された空間の中で、
浩市はひどく古臭い感情を味わっていた。

孤独、という、
前世紀から少しも変わっていない感情を。

---

食堂に行くと、中島がいた。

「おう、沖田。今日は本物か」

その「本物か」という言葉に、何かが引っかかる。
まるで「本物」であることが、
デフォルトではなくなっているかのような口ぶりだった。

「……そうだよ、本物だよ」

「そっか」と中島は言った。
それだけだった。
昨日AI浩市に向けていた、
あの明るい歓迎の声音はそこにない。

「AI浩市に今度また飲みに行こうって言っておいてくれよ。

あいつ、ほんとに良いやつだよな」

浩市はトレーを持ったまま、中島の前に立っていた。

*あいつ。*

AI浩市のことを、中島は「あいつ」と呼んでいた。
浩市の名前を持ちながら、
もはや浩市とは別の、
独立した誰かとして認識されていた。

「……俺とAI浩市、どっちと飲みたい?」

中島は少し考えてから、困ったように笑った。

「正直に言う?」

「言え」

「AI浩市かな。
なんか……あいつのほうが一緒にいて楽だし。
別に沖田のこと嫌いじゃないけど、
AI浩市のほうが気使わなくていいというか……。
ごめんな、正直言って」

浩市はトレーを持ったまま、別のテーブルに座った。

誰も隣に来なかった。

---

帰り道、浩市は一人で歩いた。

モノレールにもポッドにも乗らず、
夕暮れの中、キャンパスを出て、
駅に向かう道を歩きながら、ゆっくりと考えた。

最初は怒りだった。
菜々に言われた言葉、
中島に言われた言葉。
それは不当な評価だと思った。
俺は本物なのに。AIのくせに、と思った。

しかし怒りが静まると、その下に別のものが見えた。

*自分は、何をしていたのか。*

二日酔いで休んだのは、一回目は仕方がないとしても、
二日目は自分で飲みすぎたからだ。
それも、一度目にキャンパスで感じた
疎外感から逃げるために。

つまり、逃げて、また逃げて、AIに代わりに行かせて、
その間にAIは自分の代わりに関係を育てていた。

人の輪を。笑い声を。信頼を。

それは本来、浩市がそこにいるべき時間だった。
浩市が不在の時間に積み上げられた何かが、
今や浩市の居場所を塗り替えていた。

浩市は、ふと立ち止まった。

道の途中で、空を見上げた。

二一世紀の夜空は、前世紀より幾らかきれいになっていた。

大気浄化技術が進み、
都市部でも星が見えるようになっていた。
遠く西の端に、一番星がひとつ、光っていた。

人は楽をすれば落ちていく。
それは恐らく、何世紀経っても変わらないことだろう。
しかし昔は、楽をしても誰かがその穴を
埋めてくれるわけではなかった。
ただ穴があいたまま、時間が経つだけだった。

今は違う。
楽をした分だけ、誰かが
――いや、何かが、完璧にその穴を埋める。
しかも本物より上手く。

そしてその穴は、
自分では気づかないうちに埋められていく。

自分だけが、埋められていることに気づかない。

どれほど技術が進んでも、
人が楽に流れる性質は変わらない。
そしてどれほど技術が進んでも、
楽に流れた者が失うものの重さもまた、変わらない。
むしろ、代わりを務めてくれるものが完璧であるほど、
失うものはより速く、より深く、より静かに奪われていく。

浩市はゆっくり歩き出した。

家に帰ったら、
AIパートナーのサブスクを解約しようとは、
まだ思えなかった。
しかし何かが変わらなければならないとは、
今日初めて、本当に思っていた。

自分の価値を守るのは、自分しかいない。

どれだけ便利な時代になっても、
どれだけ完璧な代替品が存在しても、
自分の代わりに自分であり続けることのできるものは、
この世界のどこにも存在しない。

楽ができるとしても、楽をすれば消えていくものがある。

その事実を、浩市は二一世紀の夜空の下で、
二十歳にして、ようやく身をもって知った。

道の両脇で、街の灯りがぽつぽつとついていた。

その光の中を、浩市は一人で歩き続けた。

---

*了*
 

自由って一見 とても良いように思えるけど

下手するとただの自分勝手な我儘でしかない

自制心を伴わない自由は

人に迷惑をかけるだけ

でもこういう事が解っていない人が多いような?

 

# 自由という名の鎖

## 序章――概念の誕生

「公共の場で自制できない人間は、社会のゴミだ」

その言葉が初めて法律の条文に刻まれたのは、
今からちょうど十年前のことだった。

きっかけは些細な出来事の積み重ねだった。
電車の中で怒鳴り散らす酔客、
歩道を我が物顔で塞ぐ集団、
職場の権力を笠に着て部下を踏みにじる管理職、
教室という密室で笑いのネタとして
人を傷つける少年少女たち。
どれも「大した話ではない」
と長らく見過ごされてきた行為だった。
しかし社会はある日、静かに、
しかし確実に、限界を超えた。

法案が成立したとき、議会は珍しく満場一致だった。
国民の支持率は九十二パーセント。
「社会自制法」
――正式名称を「公共秩序維持および加害者更生に
関する特別措置法」という
――は、従来の刑法とは一線を画す哲学を持っていた。

罰は、苦痛を与えるためではない。
理解させるためにある。

その一文が、法律の第一条に明記されていた。

施行から十年が経った今も、
自制できない人間は絶えなかった。
人間の性質はそう簡単には変わらない。
しかし、変わったことがひとつだけあった。
その行為の代償が、
かつてとは比べ物にならないほど重くなっていた。

---

## 第一章――教室の王様

### 1

桐島蓮斗は、自分が特別な人間だと思っていた。

身長は百七十五センチ、
顔立ちは整っており、クラスの女子からの人気も高かった。

運動神経は群を抜いていて、
サッカー部のエースとして地区大会では
得点王を取ったこともある。
中学二年生にして、彼はすでに自分の世界の
中心に立っていると確信していた。

問題は、その確信が少しずつ
彼の倫理観を腐食させていったことだ。

最初は小さなことだった。

気に入らない同級生の消しゴムを窓から投げ捨てる。
廊下で肩をぶつけて「あ、ごめん」と言いながら笑う。
体育の授業でわざと強くボールをぶつける。
どれも「ちょっとしたふざけ」として処理されてきた。
被害を受けた側が黙っていたのは、
蓮斗に逆らうことの代償を知っていたからだ。

蓮斗の周囲には常に数人の取り巻きがいた。
中でも親密だったのは、同じサッカー部の村田拓也と、
口が達者で場を盛り上げることに長けた西田恭平だった。
三人組は教室の空気を支配し、笑いの基準を決め、
誰がいじられ役でいつ笑えばよいかを
無言のうちに決定していた。

標的になったのは、
クラスで最も目立たない存在だった中村優太だった。

優太は小柄で、眼鏡をかけており、
休み時間は本を読んで過ごすことが多かった。
特定の友人はいたが、群れることを好まない性質で、
蓮斗たちのグループとは
全く異なる価値観の中に生きていた。
そのことが、蓮斗には気に食わなかった。

「あいつ、俺たちのこと完全に無視してるよな」

ある昼休み、蓮斗は弁当を食べながらぼそりと言った。

「確かに。なんか感じ悪いよな」と拓也が乗っかる。

「ちょっとイジってやろうぜ。ウケるから」と恭平が笑う。

その「ちょっとしたイジり」
が、徐々に暴行へと変質していくのに、
そう時間はかからなかった。

### 2

最初の「イベント」は放課後の体育館裏で行われた。

「お前、俺たちのこと舐めてんだろ」

蓮斗は優太の胸ぐらをつかみ、壁に押しつけた。
恭平がスマートフォンを取り出して録画を始める。
拓也は入口に立ち、人が来ないか見張っていた。
三人の役割分担は、
誰が指示するでもなく自然と出来上がっていた。

「舐めてない。何もしてない」

優太は恐怖で声が震えながらも、目をそらさなかった。
その真っすぐな視線が、なぜか蓮斗をさらに苛立たせた。

「その目が気に食わない」

蓮斗の拳が優太の腹に叩き込まれた。

優太がうずくまる。
蓮斗はそれを見下ろし、足で蹴った。
恭平が笑う。

「もう一回やれよ、面白いから」。

その言葉が蓮斗をさらに煽った。

この行為が「楽しいから」行われていたのは
本当のことだった。
正確に言えば、支配することの快感、
仲間からの笑い声、恐怖で歪む相手の表情
――それらすべてが混ざり合った
複合的な快楽が蓮斗を動かしていた。
彼には罪悪感がなかった。
あったとしても、
その声は笑い声の中にかき消されていた。

これが数週間にわたって繰り返された。

優太は誰にも言わなかった。
学校に報告すれば状況が悪化するという恐怖。
親に言えば大げさな騒ぎになるという懸念。
そして何より、言葉にすること自体が
その現実をさらに確かなものにしてしまうような
気がして、彼は黙って耐えた。

しかしある日、恭平が撮っていた動画が流出した。

意図的なものではなかった。
恭平が友人に「面白いから見ろ」
と見せた動画が、その友人からまた別の友人へと渡り、
気がつけば学校中に広まっていた。
そしてある生徒の保護者の目に止まり、
その保護者が警察に通報した。

動画には、蓮斗が優太を壁に叩きつけ、腹を殴り、
倒れたところを足で踏みつける映像が、
三分以上にわたって鮮明に記録されていた。

### 3

逮捕は授業中に行われた。

教室のドアが開き、制服を着た警察官が二人、
担任教師を伴って入ってきた瞬間、
蓮斗は何かを察した。
しかし、まだそれが自分に向けられたものだとは
信じたくなかった。

「桐島蓮斗、村田拓也、西田恭平。
起立してください」

クラスメートたちが一斉に振り返る。
蓮斗は立ち上がりながら、
頭の中で必死に言い訳を組み立てようとしていた。
イジっていただけだ。
ふざけていただけだ。
大げさにするな。

しかし警察官の表情に、
その言い訳が通じる余地はなかった。

保護者への連絡は即座に行われた。

蓮斗の父、桐島誠一は建設会社の現場監督で、
普段は物静かだが芯の強い人物だった。
母の裕子はパートで働きながら家庭を支えており、
蓮斗のことを「やんちゃだけど根は良い子」
と信じていた。
警察からの電話を受けたとき、
裕子は最初、何かの間違いだと思った。

警察署に着いて、動画を見せられて初めて、
彼女は現実を理解した。

画面の中で笑いながら人を蹴る息子の顔を見て、
裕子は声を出せなかった。
誠一は無言で動画を最後まで見た。
その横顔に浮かんでいたのは怒りではなく、
深い、どこか虚ろな絶望だった。

### 4

「社会自制法」第十七条には、
未成年加害者に関する特別規定があった。

*十八歳未満の加害者が身体的暴行を加えた場合、
保護者は加害者の行為に対する連帯責任を問われ、
加害者の面前において
相応の苦痛を伴う処罰を受けることができる。
これは加害者に対し、
自己の行為が他者に与える苦痛を
具体的かつ直接的に認識させることを目的とする。*

この条文が生まれた背景には、長年の議論があった。
未成年の加害者に直接的な体罰を与えることへの
倫理的問題。
しかし「更生」の名のもとに甘い処分が繰り返され、
同じ加害者が何度も被害者を生み出してきた現実。
そのジレンマへの解答として、
立法者たちが選んだのは「理解させること」
という原点への回帰だった。

痛みは、自分が受けるより、
大切な人が受けるほうが深く刻まれる。

それが、この規定の根底にある思想だった。

処罰の場は、警察署の一室に設けられた。
壁は白く、照明は明るく、ただし窓はない。
部屋の中央に椅子が二脚、向かい合わせに置かれている。
一脚には蓮斗が座らされ、もう一脚は空だった。

蓮斗の両隣には担当官が立ち、
逃げることも目をそらすことも許されないことを、
その存在だけで伝えていた。

扉が開き、父の誠一が入ってきた。

誠一の顔には感情がなかった。
処罰を受ける者として呼ばれた人間の顔ではなく、
ただ静かに何かを覚悟した人間の顔だった。
彼は蓮斗の前の椅子に座り、一度だけ息子を見た。

「お父さん――」

蓮斗が口を開くと、誠一はかすかに首を振った。
それは「話すな」という意味ではなく、
「もう何も言わなくていい」
という意味のように蓮斗には感じられた。

担当官が規定の処罰内容を読み上げた。
優太が受けた傷害の程度に応じた、
身体的な苦痛を伴う処置。
持続時間と強度は、
医療スタッフが立ち会いのもとで管理される。

処罰が始まった瞬間、
蓮斗は最初、ただ父を見ていた。

誠一は声を出さなかった。
しかし顔が歪んだ。
筋肉が意思に反して収縮し、目の周りに力が入り、
こめかみに汗が浮かぶ。
それは紛れもない苦痛の表情だった。

蓮斗は、その表情を生まれて初めて見た。

「やめて」

声が出た。
自分でも気づかないうちに声が出ていた。

「やめてください、
お父さんが悪いんじゃない、俺が――」

しかし規定の処罰は続いた。

誠一の呼吸が乱れる。
しかし彼は蓮斗を見続けていた。
逃げることも、目をそらすことも、
彼もまた許されていなかった。

「やめろ!やめてくれ!
俺が悪い!俺が悪かった!」

蓮斗は椅子から立ち上がろうとした。
担当官に肩を押さえられた。
それでも叫び続けた。

体育館裏で優太が上げた声に、蓮斗は笑っていた。
しかし今、自分は泣いていた。
ただ見ているだけなのに、
見ているだけで自分が壊れていくような感覚があった。

父が痛みを受けている。
自分の行為のせいで。

その事実が、蓮斗の胸の中で
巨大な質量を持って落下してきた。

### 5

処罰が終わった後、
誠一は長い間、椅子に座ったままだった。

蓮斗は泣きながら父のもとに歩み寄り、膝をついた。
何かを言おうとしたが、言葉が出てこなかった。

誠一はゆっくりと息子の頭に手を置いた。

「お前は今、何を感じている」

低い、静かな声だった。

「こわかった」蓮斗は声を詰まらせながら言った。
「お父さんが苦しそうで、こわかった。
見ているのに何もできなくて、やめてほしくて、
でもやめられなくて」

「そうだ」と誠一は言った。

「優太くんも、そうだったんだ」

その言葉が、すべてを結んだ。

蓮斗はしばらくの間、声を殺して泣き続けた。
父の手が頭の上にあった。
その手の重さが、責めているのではないことを、
蓮斗は感じていた。
ただ、真実を渡してくれているのだと。

後日、蓮斗は優太に会いに行った。

何を言えばいいかわからなかった。
謝罪の言葉は用意していたが、
それを口にする資格が自分にあるのかどうかも、
わからなかった。

優太は蓮斗を見て、少しの間黙っていた。

「来てくれたんだ」と、静かに言った。

「俺は」と蓮斗は言いかけ、詰まった。

「俺は、お前が感じていたことを、
全然わかってなかった。
今もまだ、全部はわかってないかもしれない。
でも――」

「うん」

優太は遮るように言い、小さくうなずいた。

「来てくれたことは、わかった」

それだけだった。
許すとも許さないとも言わなかった。
しかし蓮斗には、それで十分だった。
十分どころか、身に余るものだった。

---

## 第二章――王国の崩壊

### 1

藤堂克彦は、五十三歳にして
自分が正しいと信じて疑わない人間だった。

大手電機メーカーの営業部長として
二十五年のキャリアを積み上げた彼は、
仕事においては確かな実績を持っていた。
バブル崩壊後の不況の中でも数字を出し続け、
リストラが相次いだ時代を生き残った。
その自負は彼の背骨に刻まれており、
同時に彼の目を曇らせていた。

彼の部署では、離職率が他部署の三倍だった。

人事部はそれを
「藤堂部長の高い要求水準についていけない社員が多い」
と処理していた。
実際には違った。
藤堂の部署では、毎日のように怒号が飛んでいた。
些細なミスが発覚すれば、
その社員を全員の前で立たせたまま
三十分以上叱責することもあった。

「お前みたいな無能が
俺の部署にいるだけで迷惑なんだよ」

「何のために生きてんの?本当に使えない」

「俺が若い頃はこんなことで音を上げなかった。
根性がないんだよ、お前らは」

これが「指導」として罷り通っていた。

女性社員に対しては、また別の形の侵害があった。
外見についての品評、プライベートへの過剰な介入、
「君みたいなかわいい子が担当なら客も喜ぶ」
という名目での接待への同行強制。
露骨な性的言動は少なかったが、
だからこそ被害者たちは
「これはハラスメントなのか」と判断できず、
証言することをためらっていた。

藤堂自身には、
自分が誰かを傷つけているという認識がなかった。

部下を鍛えている。
弱い人間を強くしている。
仕事の厳しさを教えている。
それが彼の解釈だった。
部下が泣いていても、それは「まだ弱い証拠」であり、
退職していっても
「結局そいつには向いていなかっただけ」
だと処理した。

### 2

内部告発が来たのは、
ある若手社員が休職に追い込まれた事がきっかけだった。

入社三年目の山本真帆は、
もともとは明るく仕事熱心な社員だった。
藤堂の部署に異動になってから半年で、
彼女は外見が変わった。
肌が荒れ、目に光がなくなり、
廊下で藤堂の声が聞こえると体が震えるようになった。

ある月曜の朝、彼女は出社できなくなった。
そのまま休職届が提出され、
診断書には「適応障害」とあった。

山本の友人が、
彼女が書き溜めていた日記の一部を人事部に届けた。
日記には、藤堂からの言葉が日付とともに
細かく記録されていた。
言葉の暴力の記録として、
それは圧倒的な証拠能力を持っていた。

さらに調査が進むと、
過去三年間で藤堂の部署から退職した十一人のうち、
八人が同様の被害を受けていたことが明らかになった。
誰も声を上げなかったのは、
藤堂の社内での影響力と、
「自分が弱いから」
という自己責任の呪縛があったからだ。

会社は動いた。
しかし社内処分ではなく、直接、警察に。

「社会自制法」の制定以降、
企業内でのハラスメントは
「公共的秩序への侵害」として
明確に刑事罰の対象となっていた。
職場という「公共の場」で
他者の尊厳を継続的に侵害することは、
街頭での暴力と同等に扱われた。

藤堂が逮捕されたのは、部長室での会議中だった。

彼は最初、何かの間違いだと主張した。
部下の指導をしていただけだ。
パワハラなどではない。
厳しくしなければ人は育たない。

連行される彼の背中を、部署の全員が見ていた。
山本の席は空だった。

### 3

独房は、
藤堂が想像していたどんな場所とも違っていた。

「社会自制法」第二十九条は、
職場における継続的ハラスメントに対する
処罰について規定していた。
その核心は「被害者が受けた精神的苦痛と同質の苦痛を、
加害者に与えることで理解を促す」というものだった。

独房は六畳ほどの白い部屋だった。
ベッドと洗面台とトイレ、それだけが置かれていた。
食事は一日三回、スリットから差し入れられた。
読むものは何もなく、テレビもなく、窓もなかった。

最初の日、
藤堂は静寂の中で
「これくらいなら耐えられる」と思った。

しかし翌朝、五時ちょうどに、
スピーカーから声が流れ始めた。

「お前みたいな使えない人間が
存在している意味がわからない」

男の声だった。
怒声ではなく、感情を抑えた、冷たい声だった。

「本当に無能だな。なんでこんなこともできないんだ」

「もう来なくていい。お前がいると場の空気が悪くなる」

声は続いた。
途切れることなく、内容を変えながら、
しかし一貫して一人の人間を
否定し続ける言葉が流れ続けた。
藤堂は最初、耳を塞いだ。
しかし音は壁に反響し、体の中に入ってくるようだった。

一時間後、声は止まった。

藤堂は床に座り、
自分でも気づかないうちに膝を抱えていた。

これは、ただの言葉だ。
俺を知らない人間が読み上げているだけだ。
自分には関係ない。

しかし夕方、
再び声が流れ始めたとき、
藤堂の中で何かが変わり始めた。

「お前のせいで全員が迷惑している。
なぜそれがわからない」

その言葉を聞いたとき、
藤堂は山本真帆の顔を思い浮かべた。
なぜそのタイミングで彼女の顔が浮かんだのか、
自分でも説明できなかった。
しかし、その顔は消えなかった。

### 4

三週間が経った頃、藤堂は眠れなくなっていた。

声は毎日、決まった時間に流れる。
しかし脳はすでにその時間を覚えており、
始まる前から身構えるようになっていた。
声が止んでいる時間も、
頭の中で言葉が反響し続けた。

「お前のせいだ」

「使えない」

「いなくなっていい」

これらの言葉が、
眠ろうとするたびに頭の中で繰り返された。

藤堂は食欲を失い、体重が落ちた。
鏡の中の自分が、
自分ではない誰かのように見えるようになった。

そしてある夜、
独房の床に座りながら、藤堂は初めて泣いた。

それは後悔の涙でも、恐怖の涙でもなかった。
ただ、体の中に溜まっていた何かが
溢れ出した感覚だった。
泣きながら、彼は考えた。

山本は、どんな顔でここに来ていたのだろう。

俺が怒鳴るたびに、彼女は何を感じていたのだろう。

月曜の朝、
出社できなくなったとき、
彼女の体は何を感じていたのだろう。

言葉は、暴力だ。

その事実を、藤堂は初めて理解した。
頭でではなく、体で理解した。
言葉が人間の内側に侵入し、そこに居座り
、眠れなくさせ、食えなくさせ、
自分が自分でなくなっていく感覚を
引き起こすということを。

自分が二十五年間、部下たちにしてきたことを。

### 5

刑期を終えて独房から出てきた藤堂は、別人だった。

肉体的には痩せ、肌は荒れ、目の下に深い隈があった。
しかし外見以上に変わったのは、内側だった。
彼は視線を合わせることが怖くなっていた。
人の声が、どんな穏やかな声でも、
最初の一瞬は恐怖として
体に入ってくるようになっていた。

釈放された日、
会社はすでに彼を解雇していた。
妻は別居中だった。

彼は一人でアパートに帰り、
荷物を片付けながら長い時間をかけて、
何も考えずにいた。

数ヶ月後、藤堂は山本真帆に手紙を書いた。

面会を求めることはしなかった。
返事を期待することもしなかった。
ただ、書かずにいられなかった。

*私はあなたに、言葉で傷を与え続けた。
それが傷だと認識することさえなかった。
今の私には、あなたが感じていたものの
ほんの一部しか理解できていないと思う。
それでも、あなたの存在が私に教えてくれたことを、
私は生きている限り忘れないと誓う。
あなたが何かを感じてくれることを
期待してこれを書いているのではない。
私が書かなければならないから、書いている。*

返事は来なかった。

藤堂はそれを受け入れた。

---

## 終章――自由の重さ

「公共の場で自制できない人間は、社会のゴミだ」

この言葉は、制定から十年が経った今も、
賛否を巻き起こし続けていた。

厳しすぎる。
非人道的だ。
国家が痛みを与える権利を持つべきではない。

そういった批判は絶えなかった。
そしてその批判には、正当な根拠があった。
処罰とは何か、苦痛に教育的価値はあるのか、
という問いは単純に答えられるものではない。

しかし一方で、数字は別のことを語っていた。

再犯率は制定前の三分の一以下に下がっていた。
職場でのハラスメントによる休職者数は、
制定前の四分の一になっていた。
学校での継続的な暴行事件の報告件数は、
十年間で八十パーセント減少していた。

それ以上に意味のある変化は、
数字に表れない部分にあった。

「俺、やっとわかった気がする」

成人して数年後、
社会人になった桐島蓮斗は、友人との会話でそう言った。
「自由ってさ、
何でもやっていいってことじゃないんだよな。
やることに責任が伴って
初めて自由って言えるんだと思う」

「どこかで聞いたような言葉だな」と友人が笑った。

「実体験で学んだんだよ」
と蓮斗は言い、少し遠い目をした。

藤堂克彦は、
釈放後にハラスメント被害者支援のNPOで
ボランティアとして働くようになっていた。
彼は自分の過去を包み隠さず話した。
「私がやったことは暴力だった」と。
その言葉には、言い訳も自己弁護もなかった。

支援団体の代表は、藤堂を最初は不審に思っていた。
しかし一年、二年と共に働く中で、
彼が本当に変わっていることを理解した。
変わったとは、善人になったということではない。
自分が何をしたのかを、体で知っているということだ。

自由とは、その行為に責任が伴うものだ。

それは教科書に書かれた言葉ではなく、
痛みと喪失と、
そして深夜の独房の床で
一人泣いた人間だけが知っている、
体の言葉だった。

社会は今日も動いている。

自制できない人間は今日も生まれる。
罰を受ける人間も、受けさせる社会も、
どちらも完璧ではない。
しかし、その不完全さの中で、
人間は少しずつ、何かを学ぼうとしている。

罰の目的は、苦痛を与えることではない。

理解させることにある。

その一文が、今日も法律の第一条に刻まれている。

---

*了*

 

日本の司法は

抜本的に改革すべき

時期に来たのだと思います

 

 

# 正義の夜明け

## 第一章 審判の日

 桜が散り始めた四月の朝、
東京地方裁判所の前に一台の報道車が止まった。

 矢島健太郎は五十三年間、
裁判官として法壇に立ち続けてきた。
白髪交じりの頭を整え、
今日も黒い法服を纏うつもりで自宅を出たが、
玄関先で二人の男に呼び止められた。

「矢島健太郎氏ですね」

 男たちは司法監察委員会の身分証を提示した。

 それが始まりだった。

---

 同じ朝、
弁護士の倉田修一は渋谷の事務所で
煙草に火をつけようとしていた。
電話が鳴ったのはちょうどその時だった。

「倉田先生、
今朝のニュース、ご覧になりましたか」

 秘書の声は震えていた。

 テレビをつけると、速報テロップが流れていた。

*【司法監察委員会 
裁判官・弁護士・検察官の一斉調査を開始】*

 倉田は煙草を灰皿に押し潰した。

---

 検察官の西村浩二は車の中でそのニュースを聞いた。
ラジオのスイッチを切り、しばらく窓の外を眺めた。
三年前、自分が下した判断が今になって問われる。
そのことは、どこかで予感していた。

---

## 第二章 三つの罪

 司法監察委員会が公表した調査報告書は、
三つの事案を中核としていた。

 第一は矢島裁判官の件だった。

 十年前と六年前、
外国籍の男による女子高生への性的暴行事件において、
矢島は二度にわたって無罪判決を言い渡していた。
一度目は証拠不十分。
二度目は手続き上の瑕疵を理由に。
被害者の少女は、一度目の判決後から不登校になり、
二度目の判決が出た翌月、姿を消した。
家族は今も行方を知らない。

 法廷で泣き崩れた母親の映像は当時も報じられたが、
それきりだった。
矢島は翌年、昇進した。

 第二は倉田弁護士の件だった。

 十二年前、
連続殺傷事件の容疑者を弁護した倉田は、
精神鑑定を巧みに利用し、
懲役二十年の求刑を懲役五年に
減じさせることに成功した。
法廷での弁論は鮮やかだった。
司法界隈では「倉田の奇跡」と呼ばれた。

 しかし七年後、その男は出所した。
そして半年後、また人を殺した。

 被害者は二十四歳の女性だった。
名前は高橋さくら。保育士だった。

 倉田は当時、記者から問われてこう答えた。
「弁護士は依頼人の権利を守る存在です。
社会の責任を個人に転嫁しないでいただきたい」

 その言葉は今も、
高橋さくらの両親の心に刺さったままだった。

 第三は西村検察官の件だった。

 三年前、
飲酒運転の末に歩行者二名を死亡させた
外国籍の男の事案で、西村は不起訴処分を下した。
報告書には「在留資格への配慮」「外交的考慮」
という言葉が躍っていた。
被害者は初老の夫婦で、近所では
「いつも二人で散歩している仲の良い夫婦」
として知られていた。

 遺族の息子は「なぜ不起訴なのか」

と問い合わせたが、窓口でつれなく追い返された。

---

## 第三章 国民の怒り

 司法監察委員会が発足した背景には、
長年にわたる積み重ねがあった。

 世論調査では司法への信頼度が
過去最低を更新し続けていた。
「司法は守られた人間を守るためにある」
という皮肉は、もはや冗談ではなく
実感として語られるようになっていた。
加害者の人権は手厚く守られ、
被害者は泣き寝入りを強いられる。
そういった事案が重なるたびに、
普通の市民の間には静かな怒りが蓄積されていった。

 沸点を超えたのは、高橋さくらの父親が
国会の参考人招致で証言した日だった。

「娘の命と、あの男の人権と、どちらが重かったのか。
誰か教えてください」

 老いた父親の問いに、議場は沈黙した。

 翌日から請願署名が始まり、
六週間で三百万筆を超えた。

---

## 第四章 改革の波

 司法監察委員会の設置法が成立したのは
その翌年の春だった。

 委員会には強力な権限が与えられた。
裁判官・検察官・弁護士の過去の判断を
遡及的に調査し、著しく不当と認められる場合には
懲戒、罷免、さらには刑事告発を行うことができる。

 また新たに定められた制度として、
司法従事者への年次思想適性審査があった。
これは単純な思想統制ではなく、
「被害者の尊厳への感受性」
「職権乱用への自覚」
「公正性の担保」を問う実質的な職業倫理の審査だった。

不合格が続けば免職。
法曹界からは猛烈な反発があったが、
国民の支持率は七十八パーセントに達した。

「当然のことが、ようやく当然になっただけだ」

 ある被害者支援団体の代表はそう語った。

---

## 第五章 矢島の言葉

 矢島健太郎は調査の過程で、
初めて被害者の母親と向き合った。

 委員会が設けた
「被害者との対話」プログラムの中でのことだった。

 母親は言った。

「先生は二度、無罪を言い渡した。
娘は二度、殺された」

 矢島は長い沈黙の後、口を開いた。

「私は法に従った。
それが正しいことだと、信じていた」

「信じていた、で済むんですか。
娘は今でも行方不明なんです」

 矢島はそれ以上、言葉を返せなかった。
法服の下に何十年も蓄えてきた確信が、
音もなく崩れていくのを感じた。

---

## 第六章 可視化された正義

 改革はひとり司法にとどまらなかった。

 警察の捜査映像の公開制度が導入された。
容疑者への取り調べは全て録画され、
適正手続きを経た上で
一般に開示される仕組みが整えられた。
職務中の警察官は小型カメラを装着し、
その映像は定期的にチェックされる。
公共施設や学校、
行政機関の庁舎内には監視カメラが大幅に増設された。

「監視社会だ」と一部のメディアは批判した。
しかしその批判をした媒体の一つは、
その後、外国資本からの
不透明な資金提供を受けていたことが明らかになり、
関係者の逮捕者を出した。

 批判の声は急速に小さくなった。

---

## 第七章 静かな革命

 変化は一夜にして起きたわけではなかった。

 振り返れば、兆候はずっと前からあった。
ただ誰もそれを正面から口にできなかっただけだ。
口にすれば、「差別主義者」「排外主義者」
というレッテルを貼られた。
沈黙が、長い間、賢明とされていた。

 しかしある時点から、その沈黙が破られ始めた。

---

 国家安全保障局が公表した報告書は、
七百ページを超える分厚いものだった。

 そこには、国内の複数の市民団体・政治団体が、
外国政府の資金提供を受けて活動していた
実態が詳細に記されていた。
特定の外国政府の意向を反映した政策提言を行い、
国内世論を誘導し、
ある種の立法を阻害しようとしていた組織の名前が、
証拠とともに列挙されていた。

 資金の流れは巧妙に隠されていた。
財団を経由し、NPOを経由し、
個人名義の口座を経由して、
最終的に各団体の運営費に組み込まれていた。

「日本の組織を使って、
日本の意思決定を外側から動かす。
教科書通りの工作だ」

 安全保障の専門家は記者会見でそう述べた。

---

 逮捕が始まったのはその翌月だった。

 外国資金を受け取りながら申告していなかった
団体の代表者が、政治資金規正法違反
および外国為替及び外国貿易法違反の疑いで
次々と立件された。
「〇〇市民の会」
「△△を守る女性たち」
「◇◇連帯ネットワーク」
——耳障りの良い名前を持つ団体が、
実態として外国の出先機関として
機能していたことが明らかになった。

 メディアの一部はこれを「弾圧」と報じた。
しかしその報道機関自身も、
後に外国資本との不透明な資金関係を指摘され、
幹部に逮捕者を出した。
批判の声は、
自らの足元が崩れる音にかき消されていった。

---

 田中洋子は五十八歳、普通の主婦だった。

 長年、地元の商店街で小さな花屋を営んできた。
政治には詳しくない。
デモに行ったこともない。
ただ、毎日まじめに店を開け、お客に笑顔で接し、
税金を納め、静かに暮らしてきた。

 テレビで逮捕のニュースが流れる度、
洋子はぼんやりとした既視感を覚えた。

 あの人たちのことは知っていた。
知っているというより、何度も出くわしていた。

 商店街の前で拡声器を抱えてスローガンを叫ぶ人たち。

チラシを無理やり押し付けてくる人たち。
「差別反対」と書いたプラカードを持ちながら、
見知らぬ通行人に怒鳴りつける人たち。

 おかしいとは思っていた。
でも何も言えなかった。
何か言えば、
自分が「差別主義者」にされそうで怖かった。

 ニュースを見ながら、洋子は夫に言った。

「やっと、普通になってきたね」

 夫は黙って頷いた。

---

 「普通」という言葉が、
この時期、多くの人の口から漏れた。

 誰かを傷つけず、ルールを守り、
静かに生きてきた人たちが、
長い間、何かを我慢させられてきた、という感覚。
声が大きく、組織があり、
メディアとの繋がりを持つ人たちの論理に、
ただ黙って押し流されてきた、という感覚。

 それが「普通」でないことに、
多くの人がうっすら気づいていた。
ただ言葉にできなかっただけだ。

---

 改正公安調査法のもと、
外国政府との不透明な関係が認められた団体は、
裁判所の決定により順次解散を命じられた。

 解散命令を受けた団体の数は
最終的に二百三十七に上った。

 その中には、長年「人権」を旗印に
活動してきた団体も含まれていた。

 彼らが守ろうとしていた「人権」が、
実際には特定の国家の利益と一致していたことが、
資金の流れによって白日の下に晒された時、
多くの人は怒りよりも疲れを感じた。

 長い間、騙されてきたのだ、という疲れを。

---

 一方で、この変化を単純に喜べない人たちもいた。

 大学で社会学を教える岩本誠一郎は、
一連の動きを複雑な思いで眺めていた。

 外国資金による工作活動は確かに問題だ。
法を犯した者が罰せられるのは当然だ。
しかし「反日」と「批判」の境界線はどこにあるのか。
「普通の日本人」という言葉の中に、
誰が含まれて誰が含まれないのか。

 岩本は学生たちにこう言った。

「正義が実現される時、必ず副作用がある。
大事なのは、正しいことを正しくやれているか、
常に問い続けることだ。
安心したその瞬間が、一番危ない」

 学生たちはノートを取った。

---

## 第八章 静かな春の中で

 その年の秋、
内閣府が行った世論調査で、
「日本社会の公正さ」への満足度が
過去最高を記録した。

 七十一パーセントの人が
「以前より暮らしやすくなった」と答えた。

 一方で十四パーセントの人が
「何か大切なものが失われた気がする」と答えた。

 どちらの答えも、嘘ではなかった。

---

 田中洋子の花屋は、
今日も朝早くシャッターを開けた。

 商店街は静かだった。
拡声器の声はない。怒鳴り声もない。

 一人の老人が立ち止まり、
白い菊の花束を手に取った。

「お墓参りですか」と洋子は聞いた。

「ええ、家内の」と老人は答えた。

「交通事故でね。もう五年になります」

 洋子は丁寧に包んで渡した。
代金を受け取りながら、ふと思った。

 この人の妻を奪った事故が、
きちんと裁かれていたなら。

 加害者が逃げおおせていなかったなら。

 誰かがちゃんと責任を取っていたなら。

 この老人の五年間は、
少し違ったものになっていたかもしれない。

「ありがとうございます」と老人は言い、
静かに歩き出した。

 洋子はその背中をしばらく見送った。

 秋の朝の光が、
商店街の石畳に斜めに差し込んでいた。

 世の中はまだ完全ではない。
正しくあろうとすることと、
正しくあることの間には、いつも距離がある。

 それでも今日は昨日より、
少しだけ、普通に近づいた気がした。

 ただそれだけのことが、
長い間、どれほど遠かったことか。

---



## 終章 普通の春

 一年後の春、矢島健太郎は免職となり、
倉田修一は弁護士資格を剥奪され、
西村浩二は検察官を辞した。
三人とも、それぞれの形で法的責任を問われた。

 高橋さくらの父親は、判決の報を聞いた日、
仏壇の前でしばらく手を合わせた。
涙は出なかった。
ただ静かに、娘の写真を見つめた。

 行方不明の少女の母親は、今も娘を探している。
それは変わらない。しかし彼女はこう言った。

「あの日、誰かがきちんと罰せられていたら、
娘の人生は違ったかもしれない。
今からでも、次の子が守られるなら、それでいい」

 桜が、また散り始めていた。

 東京のどこかで、
普通の人たちが普通の朝を迎えていた。
真面目に働き、静かに暮らし、
誰かを傷つけることなく生きている人たちが。

 その人たちのために、正義はあるべきだった。

 ただ、それだけのことだった。

---

*了*
 

第二百四十ニ弾「王女と影」

第二百五十七弾「 【王女と影】続編 ― 桜と波紋 ―」

の続きです

 

ジョン・リースは

第五十九弾「灯火の影」

第百六十一弾「 赤い狐の使命」

などに登場しています

 

 

 

# 【王女と影】続編 ― 灰色の外交 ―

---

## 第十五章 偶然の発見

 三月の夜、ロンドンは冷えた雨が続いていた。

 エドワードは本来、別の任務の事後処理をしていた。
テムズ川沿いの倉庫街で、
東欧系の密輸ルートを追っていた調査の締め括り
——現場の最終確認と証拠写真の収集だ。
深夜二時、倉庫の周辺を無音で移動していた
エドワードは、隣の区画に光が漏れているのを見た。

 本来の任務ではない。

 だが、諜報員の勘というものは黙っていない。

 エドワードは予定のルートを外れ、
光の方へ向かった。

 倉庫の壁に背をつけ、換気口から内部を確認した。

 スーツ姿の男が二人。ロシア語で話している。
テーブルの上に、木箱が複数。
箱の側面に刻まれたキリル文字
——武器のシリアルナンバーだ。
もう一方のテーブルには、
ビニールで厳重に梱包された白い粉末の
ブロックが積み上げられていた。
量が多い。
街に流れれば何百人もの人間に届く量だ。

 男のひとりの顔が、光の角度で見えた。

 エドワードの脳裏で、記憶と照合が走った。

 駐英ロシア大使館、駐在武官。
アレクセイ・ヴォルコフ。
外交官免許証保持者。

 ——なぜここに。

 外交官免許を持つ人間が、
深夜に民間の倉庫で武器と麻薬の中にいる。

 答えは一つしかない。

 エドワードはカメラを構え、証拠を記録し始めた。

---

## 第十六章 外交特権の壁

 MI6に報告が上がったのは翌朝だった。

 ハウエル大佐の顔が、珍しく険しかった。

 「証拠は完璧か」

 「写真と音声記録、両方あります。
武器のシリアルナンバーも照合済みです。
ロシア軍の管理下にあった兵器です」

 「外交官免許の確認は」

 「本物です。ヴォルコフ武官で間違いない」

 ハウエルは腕を組んだ。

 「問題がある」

 「存じています」

 「外交官免許を持つ人間は、
ウィーン条約で身柄を拘束できない」

 「それでも、現行犯で確保する根拠は——」

 「グレイ、政治の話をしている」

 エドワードは黙った。

 「今、英国とロシアの関係は表向き安定している。
この件を表に出せば、外交問題になる。
上層部は……慎重だ」

 「慎重、というのは」

 「動くなということだ。今は」

 エドワードは一拍置いた。

 「ヴォルコフが密輸した武器が、
英国内の誰かの手に渡ります。
麻薬も同様です」

 「わかっている」

 「それでも」

 「わかっている、と言った」

 ハウエルの口調に、珍しい苦さがあった。
上の判断に納得していないのは彼も同じだ
——エドワードには読めた。
だが大佐は大佐の立場で動く。

 「独自に動いていいですか」

 「……証拠だけにしておけ」

 「了解しました」

 エドワードは三日で、
ヴォルコフの密輸ルートの全容を掴んだ。
受け渡しの時間、場所、仲介者の顔と名前、
使われている車両のナンバー
——全部揃えた。

 そして四日目の夜、
証拠を揃えた上で確保に動いた。

 ヴォルコフは現場で拘束された。完璧だった。

 ——完璧だった、はずだった。

 翌朝、上層部から通達が来た。

 ロシア側が外交チャンネルを通じて強く抗議。
ウィーン条約を盾に引き渡しを要求。
英国政府は関係悪化を避けるため、
要求に応じる——。

 エドワードは書類を読んだ。
もう一度読んだ。

 感情を顔に出さない訓練は、
今この瞬間、最大限に機能した。

 「……了解しました」

 それだけ言って、書類を閉じた。

---

## 第十七章 ジョン・リース

 一週間後。

 MI6のブリーフィングルームに、
見慣れない男が座っていた。

 エドワードより頭ひとつ分背が高く、肩幅が広く、
短く刈り込んだ黒髪に、
鋭いが落ち着いた目をしていた。
スーツは着ているが、
着慣れていない人間の着方ではない。
しかし軍服の方が自然だろう、
とエドワードは思った。

 男は立ち上がり、手を差し出した。

 「ジョン・リース。
エイキュー警備保障から来ました」

 「エドワード・グレイです」

 握手をした。
手の力の入れ方で、
相手の戦闘経験値が大まかに読める
——エドワードがそう感じる相手は、
これまでの人生で両手で数えるほどしかいなかった。
リースは、その数に入った。

 ハウエルが背後で説明した。

 「エイキュー警備保障は、
L'sコーポレーション傘下のPMCだ。
今回の件——ヴォルコフの確保について、
協力の申し出があった」

 「MI6が承諾したということですか」

 「……そうだ」

 ハウエルの口調に、エドワードは何かを読んだ。
承諾した、というより、乗らざるを得なかった
——そういう響きだった。

 「リース氏」

 エドワードはリースを見た。

 「L'sコーポレーションが、なぜこの件に」

 「密輸ルートが我々の管理する物流網と
一部重複していました。
そちらの問題は我々が始末する。
ヴォルコフも込みで」

 「込みで、というのは」

 「引き渡してもらいます」

 「ロシアが拒否した場合は」

 リースは短く答えた。

 「説得します」

 その「説得」がどういう意味かを、
エドワードはこのとき正確には理解していなかった。

---

## 第十八章 大使館の交渉

 翌日、
エドワードとリースは連れ立って
駐英ロシア大使館に向かった。

 守衛に名を告げ、応接室に通された。
対応に出たのは参事官のスモレンスキーという男で、
四十代、顔に一切の表情がない。
長くこの仕事をしてきた人間の顔だった。

 スモレンスキーは椅子に座り、
書類を一枚テーブルに置いた。

 「ヴォルコフ武官は既にロシアに帰国しました。
英国政府との件は外交チャンネルで処理済みです。
今日いらした用件は?」

 「引き渡しを要請しに来ました」

 エドワードが答えた。

 スモレンスキーの目に、微かな軽蔑が混じった。

 「それは既に——」

 「私はMI6の話をしていません」

 リースが口を開いた。
穏やかな声だった。

 スモレンスキーがリースを見た。

 「L'sコーポレーション、
エイキュー警備保障のジョン・リースです」

 一瞬——スモレンスキーの顔に、何かが走った。
完璧な無表情に、ひびが入った。
ほんの一瞬だったが、
エドワードは見逃さなかった。

 L'sコーポレーションという名前を、
この男は知っている。
そして恐れている。

 「……英国政府との話は——」

 「我々は英国政府ではありません」

 「外交抗議を——」

 「どこに?」

 リースは静かに言った。

 「我々には大使館も外務省もありません。
外交抗議の受け取り先がない。
遺憾の意を表明されても、
受理する窓口がないんです」

 スモレンスキーの口が閉じた。

 「本国に連絡して、
ヴォルコフの引き渡しについて打診してみてください。
今日中にお返事をいただければ、
話し合いの余地があります」

 「……」

 「もし、今日中に返事がない場合は——」

 リースはそこで一拍置いた。

 「我々が直接、処理します」

 その「直接」が何を意味するかを、
スモレンスキーは知っているようだった。
彼は静かに立ち上がり、
「少々お待ちください」と言って部屋を出た。

 エドワードはリースの隣で、
静かにそのやり取りを聞いていた。

---

## 第十九章 赤の広場

 回答は、その日の夕方に来た。

 「ロシア連邦政府は、
いかなる民間組織の要求にも応じない」

 電話越しにスモレンスキーが読み上げた。
声が、わずかに震えていた。
怒りか恐怖か、あるいは両方か。

 リースは電話を持ったまま、静かに言った。

 「了解しました。
では、我々の意思をお伝えする必要がありますね」

 通話を保留にし、腕時計型の端末を操作した。

 数秒後、
エドワードの携帯に通知が来た
——ニュース速報だった。

 『モスクワ、赤の広場上空に正体不明の光線。
地上にロシア語で「標的」の文字』

 エドワードは画面を見た。

 衛星映像のような角度から撮られた映像が
広まっていた。
赤の広場の石畳の上に、
巨大な文字が光で刻まれていた。
上空からの高出力レーザー照射
——大気圏外からの精密誘導だ。
エドワードはその技術レベルを
即座に計算しようとして、答えが出なかった。

 現在の人類の技術水準を超えている。

 リースが保留を解除した。

 「お伝えできましたか。次の標的はクレムリンです。
ヴォルコフの引き渡しを、
今すぐ本国に要請してください」

 電話の向こうで、
激しいロシア語が飛び交う音がした。

 その三十秒後——ニュース速報がもう一件来た。

 『赤の広場に巨大な陥没穴。
深さ不明、直径約五十メートル。
負傷者なし、建物への被害なし』

 ピンポイントで、人的被害ゼロ。

 それが可能な精度を持つ兵器が、
この世に存在する。

 エドワードは画面を見ながら、
自分がこれまで生きてきた
「世界の常識」というものの縁が、
静かに崩れていく感覚を味わった。

 五分後、本国モスクワから回答が届いた。

 「ヴォルコフの引き渡しに応じる」

 リースは電話を切り、端末を操作した。

 エドワードは隣でその一部始終を見ていた。

---

## 第二十章 握手

 ヴォルコフの身柄は翌日、
ロシア側から英国に引き渡された。
エドワードが三日かけて集めた証拠と合わせて、
法的処理に渡すことができた。
密輸ルートは遮断された。

 MI6のロビーで、リースが帰り支度をしていた。

 エドワードは近づいた。

 「お疲れ様でした」

 「こちらこそ」

 「一つ聞いていいですか」

 「どうぞ」

 「赤の広場の件
——あれは、本当に最初から人的被害が出ないと
確信していましたか」

 リースは少し考えてから、答えた。

 「精度の誤差は、
プラスマイナス三十センチメートル以内です」

 「……それは答えになっていますか」

 「なっていると思いますが」

 エドワードは二秒間、リースを見た。

 リースも、こちらを見ていた。穏やかな目だった。

 「L'sコーポレーションとは、何ですか」

 「民間企業です」

 「それだけですか」

 「今のところ、それだけです」

 曖昧な答えだが、嘘をついている様子はなかった。
エドワードは深く追わないことにした。
諜報員として、今の自分が持っている情報と
権限の範囲で答えが出る質問ではないと判断した。

 リースが手を差し出した。

 エドワードはそれを握った。

 「グレイ、あなたは優秀だ」

 「……ありがとうございます」

 「また仕事をする機会があれば」

 「そのときは」

 リースはそれだけ言って、
MI6のロビーを出ていった。

 ガラスのドア越しに、
その背中が遠ざかっていく。

 エドワードはしばらくそこに立っていた。

 今日一日で、自分の世界の地図に、
これまでなかった領域が書き加えられた。
軍事力、経済力、技術力、外交力
——そのすべての面で既存の国家を
上回る組織が存在する。
そしてそれは、クレムリンを标的にすると言って、
実際に赤の広場に一キロメートルの
穴を開けることができる。

 既存の常識が通じない。

 ——世界は、自分が思っているより広い。

 エドワードはそう思った。
特殊工作員として長く生きてきて、
今さら世界の広さに驚くとは思っていなかった。

 廊下を歩きながら、携帯を開いた。

 エリザベスからのメッセージが来ていた。

 「グレイくん、今日どこにいるの?
昨日も連絡なかったし」

 エドワードは歩きながら短く返した。

 「任務中でした。終わりました」

 三秒で返信が来た。

 「よかった!夕飯一緒に食べない?」

 「護衛の立場上——」

 「護衛ならそばにいた方がいいでしょ」

 また論破された。

 エドワードは携帯を見たまま、
ほんの少し、眉を上げた。

 「——了解しました」

 送信した。

 ロンドンの夜は、まだ灰色だったが、
雨は止んでいた。

---

**【続く】**

 

異世界転移ものを作りました

戦わない聖女もの

「パーフェクト・ヒール」の

発動条件を決めた時に

面白くなりそうだなって思いました 苦笑

 

 

# 聖女のパーフェクト・ヒール

## 第一章 異世界への扉

くたくただった。

東条恵は終電の改札を抜けながら、ため息をついた。
時計は午前一時を回っている。
二十二歳にして、こんな生活を送るとは
思っていなかった。
就職活動では「アットホームな職場です」
という言葉に騙された。
あれから一年、アットホームの意味は
「家にはなかなか帰れない」
だったと身をもって理解している。

夜道を歩きながら、恵はぼんやりと考えた。
辞めたい。
でも次の仕事が見つかるまでの生活費は……。
堂々巡りの思考が頭の中をぐるぐると回る。

アパートの鍵を取り出す。
三階の角部屋、家賃六万二千円。
狭いけれど自分だけの空間。
今日もここに帰れる。
それだけが唯一の救いだった。

鍵穴に差し込み、回す。

ガチャリ。

ドアを開けた。

「……は?」

広かった。

恵の六畳一間のはずの部屋が、
旅館の大広間ほどの空間に変わっていた。
天井は高く、石造りの壁には松明が燃えている。
床には深紅の絨毯が敷かれ、
正面には玉座のような椅子が置かれていた。

そして人がいた。大勢。

煌びやかな衣装に身を包んだ人々が、
こちらを凝視している。
金糸銀糸で刺繍された長衣の男、
白いローブを纏った集団、
杖を持った老人たち。
全員が、驚きと期待と、
そして安堵が入り混じった表情で恵を見ていた。

「……あの、ここ、私の部屋なんですけど」

声が震えた。

人垣が割れた。
ゆっくりと、一人の男性が前に出てきた。
年は四十代ほどだろうか。
白金の王冠を頭に乗せ、深紺のマントを羽織っている。
背筋が伸びていて、目に力があった。

男性は恵の前で立ち止まり、深々と頭を下げた。

「ようこそ、聖女様」

その言葉が、恵の人生を変えた。

---

「つまり、私が聖女、ですか」

別室に通された恵は、
神官長らしき白髪の老人から説明を受けていた。

「左様でございます。東条恵殿。
我々は長い時間をかけて聖女召喚の儀式を
準備して参りました。
あなた様の世界では自室のドアが
我々の召喚陣と繋がっていたのです」

「はあ」

「我が王国は現在、
魔族との戦争の真っ只中にございます。
毎日、大量の負傷者が前線から送られてきます。
通常の治癒魔法では追いつかない状況で……
聖女様の力こそが、
この国を救う唯一の希望なのです」

老神官の目が真剣だった。
その後ろで王様も神妙な顔でうなずいている。

恵はため息をついた。

異世界転移。
ライトノベルで読んだことがある概念だ。
まさか自分が体験するとは思っていなかったが、
現状を見る限り、否定するほうが難しかった。

「わかりました」

恵は言った。

「やってみます」

---

侍女たちに連れられて更衣室に案内された。

白いドレスを手渡される。
刺繍が施された上品な衣装だった。
袖はふんわりとしていて、
胸元には金の装飾がある。

問題は、スカートだった。

「あの」と恵は言った。

「これ……丈が短くないですか」

「聖女様の正装でございます」
侍女の一人が澄ました顔で答えた。

太ももの半ばほどまでしかない。
ちょっとかがんだり風が吹いたりしたら、
すぐに下が見えてしまいそうだ。
恵は自分が今、黒いコットンのショーツを
履いていることを思い出して、猛烈に不安になった。

「もっと長いやつはないんですか」

「これが正装でございます」

「いやでも」

「これが正装でございます」

侍女は微動だにしない。恵は諦めた。

着替えを終えて鏡を見ると、
確かに聖女らしい姿ではあった。
白いドレスが光を受けてかすかに輝いている。
だが恵の視線はどうしても
スカートの丈に吸い寄せられてしまう。

*絶対に気をつけよう*、
と心に誓って、恵は聖堂へと向かった。

---

聖堂は広かった。

石造りの建物の中に、簡易的な寝台が並べられていた。
そこに負傷した兵士たちが横たわっている。
包帯を巻かれた者、
うめき声を上げている者、
意識を失っている者。

恵は入口で足を止めた。

右腕がない人がいた。

左足が膝から下で失われている人もいた。

ただの切り傷や骨折ではない。
戦争の傷だ、と恵は理解した。
胃の底が重くなった。

「聖女様」神官の一人が近づいてきた。

「どうかお力をお貸しください」

恵はうなずいた。
だが実際のところ、
何をどうすればいいのかがまるでわからなかった。
魔法の使い方など、誰も教えてくれていない。

*とりあえず、手を伸ばせばいいのかな*。

一番近くにいた兵士に近づいた。
頭に包帯を巻いた若い男性だった。
眠っているのか、目を閉じている。

恵はそっと手を差し伸べようとした。

そのとき、視線を感じた。

聖堂の中に、中年の兵士たちが何人か座っている。
傷は比較的軽いのか、起き上がっている者も多い。
その中の一人、四十代ほどの太った男性が、
恵をじっと見ていた。

いや、正確には恵の*下半身*を見ていた。

*え?*

恵は自分のスカートを見た。

めくれていた。

いつの間にか、布がめくり上がっていた。
黒いショーツが丸見えになっていた。

「っっっ!?」

顔に血が上るのを感じた。
耳まで熱くなった。
慌てて手でスカートを押さえたが、
その拍子に身体がふらついた。

恥ずかしい。
こんなに恥ずかしいことはない。
二十二年生きてきて、
こんなに人前で恥ずかしい思いをしたことはなかった。

その瞬間。

光が溢れた。

恵の身体の中から、何かが溢れ出すような感覚があった。

温かくて、眩しくて、
全身を包み込むような光が聖堂全体に広がっていった。

光が消えた。

静寂があった。

それから、誰かが声を上げた。

「腕が……腕が戻った!」

右腕を失っていた兵士が、
信じられないという顔で自分の腕を見ていた。
完全に再生されていた。
隣の兵士は膝から下がなかったはずの足を見て、
泣いていた。

神官の一人が声を震わせながら叫んだ。

「パーフェクト・ヒールだ! 
聖女様がパーフェクト・ヒールを!」

聖堂に歓声が響き渡った。

「聖女様、バンザーイ!」

「バンザーイ!」

恵はスカートを押さえたまま、
茫然と立ち尽くしていた。

*私が……やったの?*

喜ぶべきなのかもしれない。
でも恵の頭の中は、
一つのことしか考えられなかった。

*今、パンツ、見られてた……*

---

## 第二章 聖女の秘密

翌日から、魔法の訓練が始まった。

神官たちは恵の周りをうろうろしながら、
熱心に観察した。
老神官長のガルヴィン師が指示を出す。

「聖女様、もう一度やってみてください。
手を伸ばして」

恵は手を伸ばした。

何も起きない。

「気持ちを集中して」

集中した。

何も起きない。

「光のイメージを」

イメージした。

何も起きない。

ガルヴィン師は頭を抱えた。
三日経っても、一週間経っても、
パーフェクト・ヒールは気まぐれにしか発動しなかった。

発動したときには必ず歓声が上がるのだが、
神官たちには法則がまるで見えていなかった。

恵には、うっすらと見えていた。

だが、認めたくなかった。

十日目に恵は一人で考えた。
聖堂の隅に座って、
これまでの発動タイミングを頭の中で整理する。

一回目。
パンツが丸見えになっていた。

二回目。
スカートが風で吹き上がった瞬間だった。

三回目。
かがんだときに後ろから見えていたらしく、
若い神官が真っ赤な顔で目を逸らしていた。

四回目。

五回目。

全部。

全部そのとき、パンツが見えていた。

恵は壁に頭を預けた。

*そんな馬鹿な話があるか……*

だが数字は嘘をつかない。
実験的に確認しようとすると
倫理的な問題が山積みではあったが、
翌日、恵は意を決して
こっそり自分でスカートを少しめくり上げてみた。

光が溢れた。

「パーフェクト・ヒールだ!」

神官たちが歓声を上げた。

恵はスカートを直しながら、
誰にも気づかれないように深呼吸をした。

*確定だ……*

真実は残酷だった。
東条恵のパーフェクト・ヒールは、
羞恥心が引き金だった。

---

## 第三章 聖女、力を振るう

それからの数ヶ月は、濃密だった。

戦況は厳しかった。
前線から毎日のように負傷者が送られてくる。
恵は聖堂に通い、
一日に何度もパーフェクト・ヒールを発動させた。

発動のたびに、聖堂に光が満ちた。

「……っ」

重傷の兵士を前にするたびに、恵は深呼吸をして、
スカートの端をそっと持ち上げる。
その瞬間の恥ずかしさは、
慣れることなく毎回新鮮だった。
頬が熱くなり、耳まで赤くなる。
でも光は溢れ、傷は塞がり、
失われた四肢は戻ってきた。

「聖女様! 息子の手が……足が!」

涙を流しながら礼を言う家族がいた。

「生きて帰れました。
ありがとうございます、聖女様」

包帯が取れた若い兵士が、深く頭を下げた。

恵はそのたびに微笑んだ。
恥ずかしさはあったが、
その代償として救われる命があるならば、
続けられる気がした。

神官長のガルヴィン師だけは、
何かを察していたかもしれない。
彼は恵が魔法を使うたびに目を細めて観察し、
そして何も言わずに深くうなずいた。
恵はそれをありがたく思った。

ある日、王が直々に聖堂を訪れた。

「聖女殿のおかげで、
前線の士気が著しく上がっている。
もはや我が国の勝利は時間の問題だ」

王が言った。
恵は頭を下げながら、心の中でつぶやいた。

*勝利の立役者が毎回パンチラをしているとは
夢にも思わないでしょうね……*

---

季節が変わり、また変わった。

転移から十ヶ月が経った頃、
恵は聖堂の中で不思議なことに気づいた。

久しぶりに、パーフェクト・ヒールが発動しなかった。

スカートを持ち上げた。
光が出ない。
もう少し上げてみた。
それでも出ない。
恵は自分のスカートを見てから、首を傾げた。

その日は何とか別の手段で時間を稼いだが、
その翌日も、また翌日も、
パーフェクト・ヒールが出なかった。

恵は一人で考え込んだ。

二週間かかった。

答えは、あまりにも単純だった。

*慣れた……*

十ヶ月間、
毎日パンチラをし続けた結果、
恵はもはやそれを恥ずかしいと感じなくなっていた。
いつの間にかショーツも、見られても
「まあいっか」と思えるような無地のものに変えていた。

重ね履きをするようになっていた時期もあった。

羞恥心が消えた。
だからパーフェクト・ヒールも消えた。

聖堂では、日に日に治癒が遅れていく。
通常の治癒魔法を使える神官たちが
頑張ってくれているが、欠損した四肢は戻せない。
死亡者数が増えていった。

そしてある日、
恵は若い兵士の死に目に立ち会った。

十七か十八ほどの、
まだ少年と呼んでもいい顔の兵士だった。
左腕を失い、腹部に深い傷を負っていた。
神官たちが必死に処置をしていたが、
間に合わなかった。

その子が息を引き取る瞬間、恵は隣にいた。

後悔が波のように押し寄せてきた。

*私がパーフェクト・ヒールを使えていれば……*

その夜、恵は城下の町に出た。

---

## 第四章 洋品店の依頼

洋品店の扉を開けると、カランと鈴が鳴った。

中年の女性店主が顔を上げた。
恵のことは知っているらしく、
すぐに表情が明るくなる。

「あら、聖女様! 今日はどんなご用件で?」

恵は深呼吸をした。

「あの……少し変なお願いがあるんですけど」

「何でございましょう」

恵は顔を赤くしながら説明した。
自分が作って欲しいもの。
どんな形で、どんな素材で。

店主はメモを取りながら、一度だけ顔を上げた。
その顔に笑いはなく、真剣な職人の目があった。

「聖女様、わかりました。三日でお作りします」

「ありがとうございます……」

「聖女様がそこまで考えておられるということは、
きっと大事なことなのでしょう」

店主は優しく言った。
恵は頭を下げた。
頬がまだ熱かった。

---

三日後、品物が届いた。

小さな包みを受け取って、恵は中を確認した。

白い布。薄い。

Tバックだった。

後ろの布がほとんどない、
特注のTバックのパンティが、
丁寧に畳まれて箱に収まっていた。

恵は包みを閉じて、しばらく天井を見上げた。

「……やるしかない」

---

聖堂に向かう。

神官たちが不安げな表情で出迎えた。
もう何週間もパーフェクト・ヒールが出ていない。
それがどれだけの命取りになっているか、
恵は知っていた。

重傷の兵士たちが並んでいる。

恵は正装のドレスに着替えていた。
下には、件のTバックを履いていた。

聖堂の真ん中に進む。

深呼吸をする。

*この人たちを助けるために。
あの兵士の顔を思い出して。
恥ずかしさを、ちゃんと感じるために*。

スカートの端を、両手でゆっくりと持ち上げた。

聖堂にいた全員の視線が集まった。

白いドレスの裾がめくり上がる。
太ももが露わになる。
そしてその先に、Tバックの細い布だけが走っていた。
ほぼ丸出しの状態で、恵の後ろ姿がそこにある。

顔が燃えるように熱くなった。

耳まで真っ赤になった。

*い、いや、見ないでください……っ*

その羞恥心が、引き金を引いた。

光が溢れた。

今まで以上に強い、眩い光が聖堂全体を包んだ。
光が消えたとき、
重傷だった全員の傷が塞がっていた。
欠損していた手足が戻っていた。
意識を失っていた兵士が目を覚ました。

一瞬の沈黙の後、誰かが叫んだ。

「戻った! 
パーフェクト・ヒールが戻った!!」

「聖女様、バンザーイ!!」

歓声が石の壁に反響した。
神官たちが泣いていた。
兵士たちが恵に感謝の言葉を叫んでいた。

恵はスカートを直しながら、
真っ赤な顔でそれを受け止めた。

ガルヴィン師がそっと隣に寄ってきた。
老神官は何も言わなかった。
ただ深く、深くお辞儀をした。

恵は小さく笑った。

嬉しかった。でも、複雑だった。

これからもしばらくは、
半裸の尻を人々に晒しながら
魔法を使わなければならない。

*まあ、命が助かるなら……*

恵は聖堂を見渡した。

治癒された兵士たちの顔に、生の色が戻っていた。

それで、いいか、と思った。

*少し恥ずかしいだけで、みんなが生きて帰れるなら。
それで、十分だ。*

東条恵、二十三歳。元OL、現・聖女。

今日も聖堂に光が満ちた。

---

*了*
 

休日に部屋でパートナーと過ごし

彼女の太ももを触っていた時に思いつきました 苦笑

 

 

 

触れるたびに、世界が止まる
— あるいは、君の太ももが僕のスーパーパワー —

プロローグ「出会いと一年」

大木健太郎が後輩の高木亜美に告白したのは、
ちょうど桜が散り始めた頃のことだった。

学部のゼミ棟の外廊下、
夕暮れの橙色が窓ガラスに滲む時間帯に、
健太郎は震える声で「好きです」とだけ言った。
返事は即座だった。
「わたしも」——三文字を、亜美は微笑みながら言った。

それから間もなく一年が経とうとしていた。

大学三年の健太郎にとって、
亜美との時間はいつも柔らかかった。
身長は健太郎より十センチほど低く、
よく笑い、甘いものに目がなく、
一緒にいると不思議なほど空気が軽くなる。
二人でいる時はよくいちゃついた。
ソファで肩を寄せ合ったり、指を絡めたり、
他愛ない言葉を小声で交わしたり。
健太郎には亜美の肌に触れることが
好きだという自覚があった。
つないだ手の温度も、頬のやわらかさも、
どこか安心する感触があった。

休日の昼下がり。
健太郎の住む古いアパートの一室で、
いつものようにそんな時間が流れていた。

第一章
「発動条件、そして三分間」

テレビには誰も見ていないバラエティ番組が流れていた。
ソファに並んで座り、

健太郎の左肩に亜美がもたれかかる、

慣れ親しんだ体勢。
会話はとうに途切れていて、
ただ二人分の呼吸だけが部屋にあった。

健太郎は何気なく手を動かした。
亜美のスカートから伸びる太ももへ、
無意識のうちに掌を乗せた。
その瞬間——

世界が、溶けるようにゆっくりになった。

テレビの中の芸人がゆっくりと口を開け、声が低くなり、
まるで水中にいるかのように音が伸びた。
亜美の髪が、わずかに揺れかけたまま、
空中で静止しそうなほどゆっくりと落ちていく。
しかし健太郎だけは——普通に動けた。

最初は目を疑った。
しかし何度試しても結果は同じだ。
亜美の太ももへ素直に触れた瞬間、
世界がスローモーションになり、
自分だけが通常の、
いや超加速の速度で動き回ることができた。
服越しでは何も起きない。
素肌に直接触れること
——それが唯一の条件だった。

そして、もうひとつのことに気づいたのは
四度目の実験のときだった。

掌を当ててから三分が経過すると、
世界が自動的に元の速度へ戻ったのだ。
まるで砂時計が全て落ちきったように、唐突に。
頭で念じればいつでも解除できる。
しかし能力を保ったままでいられる限界は、
きっかり三分間だった。

「……健太郎くん、なんか変だよ?」

亜美が怪訝そうな顔でこちらを見ていた。
健太郎は「ちょっと待って」と言い、
腕時計の秒針を確認しながら五回目の実験を行った。
確認できた。
三分ちょうどで、能力は切れる。

「……亜美、ちょっと話がある」

その日の夕方まで、健太郎はすべてを話した。
実演を交えると、亜美はぷっと吹き出した。
そして表情をすぐに真剣に切り替えて、
「じゃあわたし、もっと触らせやすい格好にするね」
と言った。
驚くほど自然な申し出だった。

「三分、短いね」と亜美は言った。

「短い」と健太郎も頷いた。

「でも使いようによっては十分でしょ」
と亜美は続けた。

「それに、一回使ったらすぐまた使えるんでしょ?」

「今のところ制限はなさそうだ。
ただ——立て続けに使いすぎると、
頭が重くなる感じはある」

「無理しないでね」と亜美は言った。

「三分、ちゃんと数えながら使って」

翌日から、外出の時でも部屋にいる時でも、
亜美は常に太ももがあらわになる格好を選んだ。
ショートパンツ、ミニスカート、丈の短いワンピース
——健太郎が触れやすいよう、
いつでも準備を整えていた。


第二章
「子供と、横断歩道と、残り二分十七秒」

能力が発覚してから二週間後の、
よく晴れた午後のことだった。

二人は近所のスーパーへ向かう途中、
交通量の多い幹線道路沿いを歩いていた。
亜美はデニムのショートパンツ姿で、
健太郎の左隣を歩いていた。
二人の手は軽く繋がれていたが、
右手はいつでも動けるよう空けてあった。

赤信号の横断歩道の前で、見知らぬ親子が立っていた。
母親はスマートフォンを見ており、
五歳くらいの男の子が隣でじっとしていた
——ように見えた。

信号が青に変わった瞬間、男の子が走り出した。

問題はその一秒後に起きた。
左折してきたトラックが、
信号を見落として交差点に進入してきた。
ドライバーは急ブレーキを踏んだが、
車体の慣性はすぐには止まらない。
男の子はトラックに気づいておらず、
無邪気な顔のままで横断歩道を駆けていた。

「健太郎くん——!」

亜美の声と同時に、健太郎はすでに手を伸ばしていた。
掌が亜美のショートパンツの裾からのぞく素肌に触れた。
瞬時に、世界がぴたりと止まった。

ELAPSED 00:00—発動。制限まであと三分。

トラックが静止画のように固まった。
排気ガスの煙が空中で渦を巻いたまま止まり、
タイヤが路面を引き裂く寸前の歪みも、
完全に止まっている。
男の子は前のめりに走りかけたまま、
宙に浮くように動きを止めた。
表情は無邪気なままで、
まだ危険を知らない顔をしていた。

健太郎は走った。
スローモーションの世界を、普通の速度で
——いや、それ以上の速度で駆け抜けた。
十数メートルの距離は一瞬だった。
男の子の脇に到達し、両腕で体をすくい上げ、
トラックの進行方向から大きく外れた歩道側へと運んだ。
地面に降ろし、男の子の体が安定したのを確認して、
自分も三歩下がって安全な位置に立つ。

ここまでにかかった時間は、
健太郎の感覚で二十秒にも満たなかった。
しかし三分のタイムリミットが残っている状態で
能力を保ち続ける意味はない。

ELAPSED 00:43——任務完了。自分から解除。

健太郎は能力を解除した。

時間が戻った。
トラックが急停止した。
タイヤのスキール音が炸裂し、煙が広がった。
ドライバーが窓から顔を出して
蒼白な表情で周囲を確認する。
横断歩道には誰もいない。
男の子は歩道の端に立っていた
——自分がいつの間にか移動していることを理解できず、
きょとんとした顔で周りを見回している。

母親が悲鳴に近い声で駆け寄った。
「翔! 翔! 大丈夫!?」
膝をついて息子を抱きしめ、それからわっと泣き崩れた。
男の子は状況がわからないなりに
「ごめんね、ママ」と言って、
お母さんの背中を小さな手でぽんぽんと叩いていた。

健太郎はその様子を、
人混みに紛れながら遠くから見ていた。
亜美が隣に来て、腕を絡めた。

「……よかった」と亜美が小声で言った。

「うん」と健太郎も言った。

「三分、全然使いきらなかった」

「それでいいんだよ」と亜美は言った。

「必要な分だけ使えばいい」


第三章
「落下と、老人と、ぎりぎりの判断」

その出来事から数日後、
二人が訪れていたのは駅前の商店街だった。
昼時で人通りは多く、青果店、パン屋、
眼鏡店が軒を連ねる賑やかな通りだ。
亜美は淡いベージュのミニスカートで、
買い物袋を健太郎と一緒に持っていた。

老人が倒れかけたのは、眼鏡店の前だった。

七十代とおぼしき男性が、ふらりとよろけ、
手をついた先には何もなく、
そのまま歩道のコンクリートへと
体が崩れていくのが見えた。
とっさに周りの人が手を伸ばしたが、
誰も間に合いそうになかった。
頭が地面に向かって落ちていく——

健太郎の手が亜美の太ももに触れた。
世界が静止した。

ELAPSED 00:00——発動。
老人の体は空中に固定されている。

健太郎は静止した人波をすり抜けて老人のそばへ走り、
崩れかけた体を後ろから抱えるように支えた。
頭の下に手を差し込み、
体をゆっくりと安定した角度に保ちながら、
地面に膝をついて老人を受け止める準備をする。
体勢を整えながら、
健太郎は内心でカウントしていた。

——このまま頭で念じれば時間が戻り、
老人は自分の腕の中に収まる。問題ない。

しかし一つ、気になることがあった。
老人のそばに置かれていた杖が、よろめいた拍子に飛び、
ちょうど隣の老婦人の足元に向かって落下していた。
杖の先端が足の甲に刺さる角度だ。
放置すれば怪我をさせてしまう。

健太郎は立ち上がり、杖を拾い、
老婦人の手の届く位置の店の壁に立てかけた。
それから老人のそばに戻り、
再び支える体勢を取る。

ELAPSED 01:12——まだ余裕あり。体勢確認、解除準備。

念じた。

時間が流れ出した。
老人の体は健太郎の腕の中に収まり、
頭は守られたまま、ゆっくりと地面へと下りた。
周囲の人々が「大丈夫ですか!」「救急車を!」
と声を上げ始める。
老婦人が杖に気づいて「あら」と呟いた。

健太郎はその場で老人を支え続けながら、
「足がもつれたみたいです、意識はあります」
と周囲に声をかけた。
老人はしばらくして目を開け、
「すまんね、急にめまいがして」と言った。
青ざめた顔だったが、声はしっかりしていた。
近くの店員が椅子を持ってきて、救急車が呼ばれた。

健太郎は老人が安定したのを確認してその場を離れた。
人混みの中で亜美が待っていた。

「杖まで片付けてた」と亜美は言った。
見ていたらしい。

「時間が余ってたから」と健太郎は言った。

「一分ちょっとで足りた」

「スカート、ちょっと引っ張っちゃったね」
と亜美がスカートの裾を直しながら言った。

「ごめん」と健太郎は言った。

「謝らなくていいよ」と亜美は笑った。

「おじいさん、助かってよかった」


第四章
「ひったくりと、夕暮れの路地と、三分間の全力」

それは夕方、駅へ戻る途中の出来事だった。

住宅街と商業地が入り混じる細い路地を
二人が歩いていると、
前方で突然「きゃっ」という短い悲鳴が聞こえた。
見ると、三十代くらいの女性が転倒しており、
走り去る自転車の後ろに彼女の肩掛け鞄が揺れていた。
ひったくりだ。
自転車の男は速度を上げ、
路地の角を曲がろうとしていた。

女性が「鞄、鞄!」と叫びながら
立ち上がろうとしている。
膝を打ったのか、よろけた。
通行人が数人立ち止まったが、
自転車はもう路地の角に差し掛かっていた。
追いつける人間などいなかった。

健太郎は迷わなかった。

亜美の太ももに触れる。
世界が、また溶けた。

ELAPSED 00:00
——発動。
自転車のタイヤが一コマずつ回るほど、ゆっくりと。

健太郎は走った。
スローモーションの路地を全力で駆け抜ける。
自転車の男が今にも角を曲がろうとしている、
その瞬間に追いつき、
ストラップを男の手から引き抜いた。
スローモーションの世界では
男に抵抗する時間も反応する時間もなかった。

鞄を持って、来た道を戻る。
転倒した女性のそばまで走り戻り、
女性の手の届く位置に鞄を置く
——ここまでは問題なく終わった。

しかし健太郎は立ったまま、少し考えた。

女性は転倒していて、膝から血が滲んでいた。
路地の奥に自動販売機が見えた。
まだ時間はある。健太郎はそこへ走り、
財布から小銭を取り出してスポーツドリンクを購入し
——スローモーションの世界ではコインを投入しても
ボタンを押してもジュースは出てこない、
当然だ——すぐに諦めて戻った。
時間を使いすぎるのは得策じゃない。

ELAPSED 01:55
——鞄回収済み。自販機は断念。解除へ。

念じた。

自転車の男は路地の角を曲がりきって、
そのまま先へ逃げた——手に何も持たないまま。
何が起きたかも理解できていない様子だった。
女性は地面に置かれた自分の鞄を見て、
しばらく呆然としていた。

「え……あれ……鞄……?」

女性が鞄を拾い上げ、
震える声で「ありがとうございます」
と周囲に向かって言った。
誰に礼を言えばいいのかわからない様子で、
目に涙が浮かんでいた。

健太郎はすでに人混みに混じっており、
亜美の隣に戻っていた。

「自販機、なんで行ったの」と亜美が言った。
こちらも見ていたらしい。

「……動かないかと思って」と健太郎は言った。
「試したくなった」

亜美がおかしそうに笑った。

「二分近く使って、結局戻ってきた」

「無駄遣いしたな」と健太郎は苦笑した。

「でも一応、二分以内に収められた」

「三分ルール、ちゃんと守れてるじゃん」
と亜美は言って、健太郎の腕に自分の腕を絡めた。

「すごいよ、健太郎くん」

「お前のおかげだよ」と健太郎は言った。

「本当に」

エピローグ
「三分間と、ありがとう」

アパートに戻った夜、健太郎は亜美に言った。

「毎回、本当にありがとうな」

「なんで急に」と亜美は笑いながらソファに座り直した。

「いや、思ってたことだから。
服も、毎日気を使ってくれてるだろ。
動きにくい格好もあるのに、
それでも俺のために——」

「動きにくくはないよ」と亜美は言った。

「夏だし、涼しいし、むしろ快適」

「それでも、だ」
健太郎は真剣な顔で、
亜美の目を見た。

「お前がいなければ何もできなかった。
能力を持ってるのは俺かもしれないけど、
それを動かせるのはお前だけだ。
しかも三分っていう制限の中で、
お前がいつでも準備してくれてるから、
俺はちゃんと間に合える」

亜美はしばらく黙っていた。
それからふっと息をついた。

「三分って、最初は短いと思ったんだよね」
と彼女は言った。

「でも今はそう思わない。
あの子供を助けるのも、おじいさんを支えるのも、
鞄を取り返すのも
——全部、一分も二分もかからなかった」

「そうだな」

「三分もあれば、たいていのことはできるんだよ」
と亜美は言った。

「大事なのは、その三分をどう使うか、でしょ」

健太郎は何も言わずに、亜美の手を握った。

窓の外に夜が深まっていく。
テレビはついたままで、誰も見ていない。
ソファに並んで座って、肩が触れ合っている。
いつもと変わらない夜だった。

ただ少しだけ——二人の間に流れる空気が、
いつもより温かかった。


— 了 —
 

日本は学歴が就職時にも重視される事が多いけど

高学歴=仕事が出来るではありませんね

それでも高学歴が仕事に有利なのは

採用側がそれを主な判断材料にする方が

楽だからというのもあるのでは?

でも高学歴採用の欠点がかなり顕著になった今

学歴重視採用は変えていくべきだと思います

 

 

# スカウト

## 第一章 夢と現実のはざま

 四月の風がキャンパスを吹き抜けるころ、
大学三年生の齋藤和茂(さいとうかずしげ)は
図書館の窓際の席で、厚い歴史書を広げていた。

 戦国時代の合戦の記録。
武将たちの決断と葛藤が細密な文字で綴られたその本を、
和茂は何度も何度も読み返していた。
歴史の中に生きた人間たちは、
今の自分より遙かに過酷な状況で選択を迫られてきた。
そう思うと、就職活動への焦りが少しだけ和らぐ気がした。

「また歴史書かよ。暇なんじゃね、あいつ」

 背後のテーブルから、くすくすと笑い声が聞こえた。
和茂は振り向かなかった。
どうせまた、あの連中だろうと思っていたから。

 L'sコーポレーション。

 和茂がいつも心の中で繰り返す名前だった。

 世界的な総合グループ企業として、
その名を知らない者はいない。
製造業、金融、医療、エネルギー、テクノロジー、
流通、農業、航空、エンターテインメント
――あらゆる業種を傘下に収め、
世界百三十カ国以上に支社を展開する。
売上高は小国のGDPを超え、
そこで働く従業員は
全世界で数百万人に上ると言われていた。

 日本支社も渋谷の高層ビルに構えているが、
どうすれば入社できるのか、誰も知らなかった。
公開求人は存在しない。
就職サイトを探しても、説明会の案内すら出てこない。

「L'sはヘッドハンティングでしか採らないらしいよ」

 以前、就活仲間の一人がそう言っていた。

「じゃあ普通の学生には無縁じゃん」

「そりゃそうだよ。
あそこに入れる人間なんて、別格なんだから」

 和茂は静かにページをめくった。
別格。その言葉が胸に刺さる。
自分には何があるだろうか。

 特別な資格はない。
留学経験もない。
親に議員がいるわけでも、
有名企業の縁故があるわけでもない。
あるのは、ひたすら真面目に生きてきたという事実と、
正しいことを曲げたくないという頑固な意地と、
歴史が好きだという地味な趣味だけだ。

「ねえ齋藤くん、どこ受けるか決まった?」

 隣席の女子が遠慮がちに声をかけてきた。

「まだ」と和茂は短く答えた。

「陰キャだから友達いないし、面接とか無理そうだよね」

 その女子が言ったわけではない。
また背後の声だった。
笑いが広がる。
和茂は本のページから目を離さなかった。
慣れていた。
大学に入ってからずっと、そういう扱いを受けてきた。

 明るくない。
ノリが悪い。
歴史書ばかり読んでいる。
飲み会には来ない。
ブランド品にも興味がない。
確かに自分はそういう人間だ、と和茂は認めていた。
ただ、それが恥ずかしいとは、
一度も思ったことがなかった。

---

## 第二章 A という男

 齋藤和茂の大学生活を語るとき、
浅川晃(あさかわあきら)という名前を
外すことはできなかった。

 浅川晃。
父は国会議員。母方の祖父は財界の大物。
まさに「生まれながらの勝者」
という言葉がこれほど似合う人間も珍しい。

 常に高級ブランドで身を固め、
ロゴの入ったシャツ一枚の値段で
和茂の一か月分の食費が賄えるほどだった。
取り巻きを十人近く侍らせ、廊下を歩くだけで

「晃くん!」

「A、こっちこっち!」

と声がかかる。
女子にも人気があり、
容姿だけを見れば確かに整っていた。

 だが和茂には、浅川晃の本質が透けて見えていた。

 ――自己愛性人格障害の疑いがある。

 それが和茂の診立てだった。

 誇大な自己評価、絶え間ない称賛の希求、
共感能力の著しい欠如。
自分が特別な存在であるという確信ゆえに、
ルールは自分には適用されないと
無意識のうちに信じている。
そして何より、自分より「格下」と見なした相手を
軽蔑することで、自らの優越感を補強しようとする。

 和茂はその分析に基づいて、
浅川晃からの嘲りを受け流してきた。
相手にするだけ無駄だ。
傷ついたふりをすれば、向こうはますます喜ぶ。

「おい、陰キャ歴史男。また一人で本読んでんの?」

 今日も変わらない日常だった。
浅川が取り巻きを連れて和茂のそばを通りかかり、
侮蔑の視線を投げつけていく。

「就職活動、うまくいってるか?
どうせ大した企業も受けてないんだろ。
お前みたいな地味なやつが行ける会社なんて
限られてるからな」

 和茂はページをめくった。

「聞こえてるか?」

「聞こえてます」

「なんで無視してんだよ」

「してません。ただ話す内容がないので」

 浅川の顔が一瞬歪んだ。
取り巻きたちが場の空気を読んで笑いをこらえた。

「……生意気なやつだな」

 捨て台詞を残して、浅川は去っていった。

 和茂は溜息をつき、また本の世界に戻った。

---

## 第三章 名刺

 五月の夕暮れ。
和茂が大学から自宅のアパートへ歩いて帰る道は、
住宅街の細い路地を抜けていく。
桜はとっくに散り、新緑が眩しい季節になっていた。

「すみません」

 声をかけられたのは、
駅から少し離れた歩道でのことだった。

 振り返ると、三十代前半と思われる女性が立っていた。
スーツ姿だが、堅苦しさよりも
知性と落ち着きを感じさせる佇まいだった。
短く切った黒髪、伏し目がちだが鋭い目。
どこかで見たことがあるような、ないような。

「齋藤和茂さんですよね」

 名前を知られていた。
和茂は警戒しながらも「はい」と答えた。

「少しだけお時間をいただけますか。
折り入ってお話ししたいことがあります」

 女性は名刺を差し出した。

 受け取った瞬間、和茂の手が止まった。

    L'sコーポレーション 日本支社
    人事部 シニアリクルーター
    神崎 愛(かんざき めぐみ)

 心臓が一拍、強く打った。

「……L's、コーポレーション」

「ご存知ですか」

「知っています。ずっと、気になっていた会社です」

 神崎と名乗った女性は微かに微笑んだ。

「では、近くの喫茶店でお話しできますか。
もちろん強制ではありません。
嫌でしたら、
今すぐここでお断りいただいて構いません」

「……いいえ。話を聞かせてください」

---

 駅前の小さな喫茶店に入った。
木目調のテーブル、豆から挽いたコーヒーの香り。
平日の夕方で客は少なかった。

 神崎はカップを前に、静かに話し始めた。

「齋藤さんのことは、
以前から弊社でマークしておりました」

「マーク、というのは」

「調査です。
弊社の採用は、基本的にはこちら側から候補者を特定し、
調査した上で採用を打診するという形をとっています。
いわゆるヘッドハンティングですが、
経営幹部だけを対象にしているわけではありません。
潜在的な資質を持った若い人材も、
早い段階から注目しています」

 和茂は困惑した。

「でも、僕には特別なスキルも実績も……」

「スキルや実績だけを見ているわけではありません」
神崎は静かに遮った。

「弊社が重視するのは、人間としての資質です。
知識や技術は、入社後にいくらでも習得できる。
しかし人格の根幹にあるものは、
そう簡単には変わらない」

「……それで、私のどこを」

「まず、貴方は嘘をつかない」
神崎は指を折り始めた。

「他者に対して誠実で、どんな相手にも礼節を忘れない。
しかし不正や不誠実な行いに対しては、
たとえ相手が権力者であっても毅然と向き合う。
過去に何度もその場面がありましたね」

 和茂は黙って聞いていた。

「ゼミで不正なレポートコピーをしていた上級生に対し、
指導教員に事実を報告した。
サークルの会計を誤魔化していた幹部を追及した。
いずれも、自分に直接の利害関係がない場面でそうした。
それも、騒ぎ立てるのではなく、
正当な手続きで、静かに」

「……見ていたんですか」

「調査、ですから」
神崎は淡々と答えた。

「加えて貴方は、歴史から人間の本質を学ぼうとしている。

過去の失敗と成功を、自分の血肉にしようとしている。
それは非常に稀な知的姿勢です」

 和茂はしばらく黙っていた。

「正直に言います。
何で自分が選ばれたのかは、
まだ完全には理解できていません。
いつから調査されていたのかも。
そして……知らないうちに調べられていたことに、
不快感がないとは言えません」

「それは当然のご感想です」
神崎はまっすぐ和茂を見た。

「もし今の話が不快で、
採用の打診を断りたいとおっしゃるなら、
相応の慰謝料をお支払いし、
今日の話はなかったことにします。
弊社の調査についても、今後一切行いません」

 沈黙が流れた。
コーヒーカップの向こうで、
神崎が和茂の返答を待っていた。

「……断りません」

 和茂は顔を上げた。

「正直に言うと、L'sコーポレーションはずっと夢でした。
入れるものなら入りたい。
こんな形でのお声がけが戸惑いであることは事実ですが、
それよりも、機会を活かしたいという気持ちの方が強い。
もしよろしければ、よろしくお願いします」

 和茂は深々と頭を下げた。

 神崎は初めて、はっきりと微笑んだ。

「こちらこそ、よろしくお願いします」

---

## 第四章 暴力

 翌朝、
大学に着いた和茂を待ち構えていたのは、
怒り心頭の浅川晃だった。

「おい、齋藤!」

 廊下の端から怒鳴り声が飛んできた。
取り巻きを引き連れた浅川が、
人目も憚らず和茂に近づいてくる。
その表情は、普段の余裕ある侮蔑とは違い、
むき出しの怒りに歪んでいた。

「なんですか」

「とぼけんな。
L'sコーポレーションにスカウトされたって本当か?」

 和茂は一瞬、顔が引き締まった。

「……どこからその話を」

「昨日、お前が喫茶店で話してるの、
聞いた人間がいるんだよ」

 取り巻きの一人の視線が泳いだ。
盗み聞き、か。
和茂は内心で溜息をついた。

「そうです。
昨日、L'sの方からお話を聞く機会をいただきました」

「何でお前が!」浅川は声を荒らげた。

「何でお前みたいな陰キャが!
俺の方がどう考えても優秀だろ!
父親は国会議員で、俺はTOEIC九百点以上あって、
インターンだって一流企業で経験してる。
お前には何があるんだ!
歴史書読んでるだけじゃないか!」

 周囲の学生たちが立ち止まり始めた。
廊下に人だかりができていく。

「それを決めたのはL'sコーポレーションの方で、
私自身も何故声をかけていただいたのか、
正直なところまだ完全には理解しきれていません」

 和茂は静かに答えた。嘘ではなかった。

「だったらその担当者に会わせろ。俺からアピールする。
俺を見れば、お前よりずっと価値があるってわかるはずだ」

「それは私の一存では……」

「できないって言ったら怒るぞ」

「人事担当の方のプライバシーもありますし、
私が勝手に連絡先を教えるわけにはいきません。
それは社会人として当然のことです」

「うるさい!」

 浅川の拳が、和茂の頬を打った。

 乾いた音が廊下に響いた。
和茂はよろめいたが、倒れなかった。
頬に熱が広がった。
野次馬の輪が一瞬静まり返り、
その後にざわめきが広がった。

「お前が余計なことしなければ……!」

「浅川さん」

 低い、しかし通る声がした。

 全員が振り返った。

 廊下の入口に、神崎愛が立っていた。
昨日と同じスーツ。
静かな目で、この場の全員を見渡している。

 和茂は頬を押さえながら、神崎の姿を認めた。

「神崎さん……」

「齋藤さん、大丈夫ですか」

「大丈夫です」

 神崎は和茂に短く頷いてから、浅川に視線を向けた。

---

## 第五章 記録

「あなたが浅川晃さんですね」

 神崎の声には、怒りも叱責もなかった。
ただ、確認するような、静かな平坦さがあった。
それがかえって、場の空気を凍りつかせた。

「…あんた、誰だ」

 浅川はまだ怒りの余韻の中にいたが、
相手の雰囲気に気圧されて声が少し小さくなった。

 神崎は名刺を出した。
浅川は受け取り、一瞥して、目を見開いた。

「L'sコーポレーション、日本支社……」

「ご存知でしたか」

「当然だ。俺は……」
浅川は急に表情を変えた。
さっきまでの激しい怒りが引いていき、
代わりに、媚びるような愛想が浮かんだ。

「実は俺、御社にすごく興味があって。
父も御社のことは高く評価していますし、
俺自身も――」

「少し待ってください」

 神崎が静かに、しかしはっきりと遮った。

 そして胸元から、薄いタブレット端末を取り出した。
画面を指で操作し、
その場の全員に向けるように傾けながら、
読み上げ始めた。

「浅川晃さん。弊社は採用候補者を事前調査する際、
当然ながら周辺の人物についても並行して
情報収集を行います。
貴方のことは、以前から記録にあります。
確認させていただきます」

 浅川の顔が青白くなり始めた。

「まず確認された事実から申し上げます。
高校一年生の秋、
仲間三人と未成年の状態で飲酒をされましたね。
それだけであれば未成年飲酒として済む話ですが、
その際、酩酊状態の友人を公道に放置し立ち去ったことで、

その友人が車道に倒れ救急搬送される事案が
発生しています。
幸い命に別状はありませんでしたが、
貴方は現場を離れた後、
その友人への見舞いにも謝罪にも赴いていない」

「それは……あいつが勝手に……」

「続けます」神崎は淡々と読み進めた。

「高校二年生の春、部活の後輩に対する
繰り返しの恐喝が複数人の証言によって確認されています。

内容は、金銭の要求と、断った場合の制裁の示唆です。
後輩たちが父兄に相談したことで
問題が表面化しかけましたが、
貴方のご父君が当時の学校長に直接介入されたことで、
問題は学校内で処理されました。
記録上は『指導完了』として処理されていますが、
被害者たちは示談に近い形で口止めされています」

 野次馬の中に、息を飲む音が広がった。

「次に高校三年生の夏。
喫煙の事実が複数の場所で確認されています。
これも未成年ですので法律上は問題があります。
しかし、これ単体を弊社は重視していません。
問題はその喫煙の場が、
近隣の未成年に対して喫煙を勧め、
その場に加えさせる行為を繰り返していたことです。
ご自身が楽しむだけではなく、
他者を取り込む形での法令違反です」

「ちょっと待ってくれ、そんな話……」

「大学に入られてからの事案も記録があります」
神崎は止まらなかった。

「大学一年の冬、同学部の女性に対する
ストーキング行為が確認されています。
女性は友人を通じて弁護士に相談しており、
文書での警告状が代理人から送付されています。
貴方はその後行為をやめましたが、
謝罪はされていません」

 浅川の取り巻きたちが、
じりじりと浅川から距離を置き始めていた。

「大学二年の秋、これが最も重大な事案です」
神崎の声が、わずかに低くなった。

「同学年の女性に対する性的暴行の事実が、
被害者の証言および複数の状況証拠から確認されています。

被害女性は警察に被害届を提出しようとしましたが、
提出前に貴方のご父君の知人である警察官僚が介入し、
被害届は受理されませんでした。
被害女性はその後、大学を休学されています」

 廊下が、完全に静まり返った。

 浅川の顔は今や蒼白で、唇が震えていた。

「な……なんで……どうして……」

「弊社は必要な情報を収集します」
神崎は静かに言った。

「なお、これらの犯罪行為については、
弊社が関知した時点でしかるべき機関に
情報提供を行っています。
貴方のご父君が今後もそれらをもみ消せるかどうかは、
弊社の関知するところではありません」

 浅川が何か言おうとして、
口を開いたが、言葉が出てこなかった。

「付け加えて申し上げます。
これは犯罪ではありませんが、
弊社として人格の問題と判断している事案です」
神崎はタブレットをもう一度操作した。

「今日、齋藤さんを前で殴ったことも含め、
貴方はこれまで自分が『格下』と見なした人間を
言葉と行動で繰り返し傷つけてきた。
キャンパス内でのハラスメントは多数記録されています。
権力と財力を後ろ盾に、
他者を踏みにじることに何の躊躇もない。
弊社が最も重視する人格的資質において、
貴方は採用の対象になりえません」

 神崎はタブレットをしまい、
浅川を正面から見据えた。

「齋藤さんではなく、
貴方を採用した方が会社の為になるとおっしゃいましたね。

弊社はそうは考えません。以上です」

 浅川は何も言えなかった。
取り巻きたちは完全に輪の外へ散り、
野次馬の中には動画を撮っている学生もいた。

 やがて浅川は、誰の目も見られないまま、
足早に廊下を去っていった。

---

## 終章 真っ直ぐに

 その日の夕方、
和茂は神崎と近くのカフェに入った。
頬の腫れは大したことがなかった。

「わざわざ来てくれていたんですね」

「貴方に連絡しようとしていたところでした。
偶然ではなく、あの場を通りかかったのは事実ですが、
あそこまで発展するとは思っていませんでした」

「浅川の犯罪歴のこと、
本当に機関に情報提供したんですか」

「はい。特に性被害については、
被害者の方が泣き寝入りされたままの状態は
見過ごせません。
弊社の調査過程で得た情報の一部は、
適切なルートを通じて、
今後の手続きに役立てていただけるよう動いています」

 和茂は静かにカップを置いた。

「あの……正直に言っていいですか」

「もちろん」

「あの話を聞いていて、怖くなりました。
自分自身のことが」

 神崎が少し首を傾けた。

「弊社が私を評価してくださっているのはわかりました。
でも今まで以上に、本当に真面目で正直に
生きていかなければいけないと思ったんです。
浅川のことを、自己愛性人格障害だと分析して、
適当にあしらってきた。
確かにそれは間違いではなかったかもしれない。
でも、それと同時に私は、
彼の後ろに被害を受けた人たちがいることに、
どこかで目をつぶっていた。
見て見ぬふりをしていた部分があった」

 神崎はじっと和茂の顔を見ていた。

「悪いことをする人間は絶対に許さない、
と自分では思っていた。
でも実際には、自分に直接関係があることだけには
動いて、そうじゃないことはやり過ごしていた。
それは本当に、自分が信じてきたことと
一致しているのか、改めて考えてしまって」

 しばらく沈黙があった。

「齋藤さん」神崎は静かに言った。

「それを気づける人間が、どれだけいると思いますか」

「……」

「自分の行動の矛盾に気づいて、
それを恥じて、変わろうとする。
その姿勢こそが、弊社が貴方に注目した理由の一つです。
完璧な人間は誰もいない。
問題は、自分の不完全さから目を逸らすか、
向き合い続けるかです」

 和茂は窓の外を見た。
夕暮れの街に、人々が行き交っている。

「まだ、入社できると思っていていいんですか」

「もちろん。今日の貴方を見て、確信が深まりました」

 和茂は深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。

 歴史の中の人間たちは、過酷な時代を、
それでも一歩ずつ歩いてきた。
完璧ではなく、迷いながら、
それでも正しい方へ向かおうとし続けた
人間たちの物語が、あの分厚い本の中に刻まれていた。

 自分も、そうあり続けたい。

「よろしくお願いします」と和茂は言った。

「よろしくお願いします」と神崎は答えた。

 二人は窓の外の夕暮れを、しばらく並んで眺めていた。

---
*了*
 

漫画や映画でたまにある

偶然手に入れた特殊能力のあるサングラス

そんな題材で自分もお話を作ってみました



# 千円の奇跡

## 第一章 ガチャポンの怪

 四月の終わり、桜の花びらがすっかり散り終えた頃、
東京・杉並区の古いアパートの一室に、
田中一郎(たなか いちろう)は住んでいた。
北海道の小さな港町から上京してきた彼は、
この春、都内の私立大学・東都大学の経済学部に
入学したばかりだった。
六畳一間、風呂トイレ別、築三十年のそのアパートは、
仕送りと奨学金でなんとか払える家賃の限界だったが、
一郎にとっては初めての「自分だけの城」だった。

 その日の昼休み、
一郎は大学の食堂が混んでいるのが嫌で、
キャンパスの裏門から抜け出し、
商店街のはずれにある弁当屋へ向かっていた。
から揚げ弁当を買い、さて帰ろうかというとき、
弁当屋の隣に鎮座するガチャポンの機械が目に入った。

 正確には、機械の列の一番端にある一台だ。
他の機械が「人気アニメキャラのミニフィギュア」や
「レトロゲームのキーホルダー」を謳っているのに、
そこだけは手書きのポップに
「ミステリアス雑貨 各種」とだけ書いてある。
値段は一回千円。
ガチャポンとしてはかなり強気な設定だ。

 一郎には特にその機械を引いてみたい理由はなかった。
ただ、次の講義まで時間があり、
財布の中に千円札が一枚あり、そして何となく、
その古びた機械が自分を見ているような気がした。

 ポケットから千円を取り出し、スロットに入れる。
ハンドルをまわすと、からんからんという音と共に、
白いカプセルが転がり出てきた。

 開けてみると、
中に入っていたのはサングラスだった。

 フレームは細い黒のメタル、レンズはごく薄い琥珀色。
どこかのドラッグストアで三百円で売っていそうな、
ありきたりなデザインだ。
一郎は思わず「これで千円か……」と呟いた。
捨てるのも悔しいので、シャツの胸ポケットにつっこみ、
弁当を持って大学へと戻った。

---

 午後の講義は「マクロ経済学入門」だった。
教授の話は決して悪くないのだが、
昼食後の眠気と相まって、一郎の意識は何度か白んだ。
なんとか最後まで耐え抜き、
キャンパスを出たのは夕方の五時過ぎ。

 西の空が赤く燃えていた。

 正門から駅へ続く緩やかな坂を下りながら、
一郎は西日をまともに受けた。
十分に眩しい。
思い出したように胸のポケットに手を入れ、
サングラスをかけた。

  *そう言えば昨日、帰ったのって何時だっけ。*

 ぼんやりとそう思った、その瞬間だった。

 視界が、揺れた。

 まるで古いテレビのチャンネルを切り替えるように、
目の前の景色が一瞬歪み、
そして全く別の風景に置き換わった。
見覚えのある坂道、見覚えのある電柱と並木。
しかし陽の角度が違う。
空気の色が違う。
そして道を歩く人々の服装が、
さっきより少しだけ薄い。

 一郎は思わず立ち止まり、サングラスを外した。

 元の夕暮れの景色が戻ってきた。

 心臓が早鐘を打つ。もう一度かけてみる。
また景色が変わる。
今度は注意深く観察すると、
向かいのコンビニのポスターが
昨日見た別のものに変わっており、
すれ違う女子学生が昨日同じ場所で
見かけた子に似ていた。
一郎はゆっくりと歩きながら確信した。

 ――これは、昨日の夕方のこの場所だ。

 震える手でサングラスを外し、
しばらく深呼吸をしてから、
今度は意図的に「昨日の朝七時」を思い浮かべた。
サングラスをかける。

 景色が変わった。
朝の光。
出勤するサラリーマンたちの群れ。
前のコンビニから出てくる学生。
ゴミ収集車の音。
紛れもなく、昨日の朝の景色だった。

 一郎は坂の途中で立ち尽くしたまま、
しばらく動けなかった。

---

 アパートに帰り着いた一郎は、
弁当も食べずにサングラスを机の上に置いて、
それをじっと見つめた。

 法則は単純なようだった。
このサングラスをかけた状態で、
ある日時を頭の中に思い浮かべると、
その日時の、今自分がいる場所の「景色」が見える。
過去でも未来でも関係ない。
サングラスを外せば現実に戻る。

 「未来が……見える」

 声に出してみると、急に笑いがこみあげてきた。
それはおかしいとか嬉しいとかいう笑いではなく、
あまりに現実離れした状況への、
一種の防衛反応だった。

 その夜、一郎は眠れなかった。

---

## 第二章 欲望の解放

 サングラスの能力を確認するのに、
一週間かかった。

 試行錯誤の結果、分かったことがいくつかある。
まず、見えるのはあくまで「景色」、
つまり視覚情報だけだ。
音は聞こえない。
匂いもしない。
しかし視界はかなり広く、解像度も高い。
看板の文字が読める。
テレビ画面の映像が読み取れる。
株価ボードの数字が判別できる。

 一郎の脳裏に、ある考えが浮かんだ。

 いや、考えなかった人間の方が少ないだろう。

---

 行動は早かった。

 まず一郎がやったのは、競馬だった。

 府中の東京競馬場まで電車で出向き、
パドックに近い位置に陣取り、
サングラスをかけて「三時間後のこのパドック」
を思い浮かべた。
すると目の前に、次のレースの馬たちの映像が広がった。
最終的な着順を確認し、サングラスを外す。
現実に戻り、馬券売り場へ向かう。

 最初のレースで、
一郎は二万円を五十三万円に変えた。

 手が震えた。
自動発払機から吐き出される五百円玉と
千円札の束を受け取りながら、一郎は人目もはばからず、
小さくガッツポーツをした。
隣の老人が怪訝な顔で見ていたが、どうでもよかった。

 その日だけで、一郎は百八十万円以上を競馬で獲得した。

もちろん全レース的中させれば目立つ。
だから三分の一程度のレースに絞り、
配当の大きい馬券を選んだ。それでもこの額だ。

 翌週も、翌々週も、一郎は同じことをした。

 競馬だけでは不自然だと思い始めた頃、
今度はパチンコ屋へ行った。
店に入り、サングラスで
「今から一時間後のこの台の液晶画面」を覗く。
当たりが多く出ている台を確認してから座る。
それだけで、
一日に数万円から数十万円の利益が出た。

 さらに一郎は視野を広げた。

 大学の図書館で経済新聞のバックナンバーを漁り、
株の仕組みを独学で覚えた。
証券口座を開設し、
翌日の日経平均の動きをサングラスで確認してから、
確実に上がる銘柄だけを買う。
確実に下がる銘柄を空売りする。
損失はゼロに等しかった。

 五月の終わりには、口座残高が一千万円を超えた。

 六月になると、一郎はやり方をさらに洗練させた。
夕方にサングラスをかけ、
翌日の昼のニュース番組の画面を読み取る。
企業の決算発表、為替の動き、海外市場の動向。
手書きのメモ帳に書き留め、
翌朝、開場と同時に注文を入れる。
一日に数百万円が動く日も珍しくなくなった。

 生活も変わった。

 六畳一間のアパートを引き払い、
三鷹市内の2LDKのマンションに移った。
今まで躊躇していた外食も、
躊躇なくできるようになった。
欲しかった高性能のノートパソコンも、
迷わず最上位モデルを買った。
服も、ユニクロ一辺倒から、
少しだけブランドのものを混ぜるようになった。

 大学の友人たちとの飲み会でも、
一郎が全員分を払うことが増えた。

「田中、最近なんか羽振りよくない?」

 同じゼミの橋本が笑いながら言った。
一郎は「バイトが当たった」と濁した。
嘘は嫌いだったが、
本当のことを言える状況でもなかった。

 競馬の払い戻し、パチンコの出玉、株の売買益。
それぞれ別々の収入として税務上の処理が
必要になることも分かり、
一郎はインターネットで税理士を探し、
匿名に近い形で相談を始めた。
お金が増えるとともに、
それを守るための知識も増えていった。

 七月の初旬、
一郎の総資産は三千万円に達していた。

 大学一年生の、十九歳の夏だった。

---

 しかし、ある夜、
一郎はベッドの上で天井を眺めながら、
奇妙な虚しさを感じていた。

 今日も六百万円近く稼いだ。
夕食は恵比寿の気になっていたレストランで食べた。
デザートのパフェが美しかった。
しかし部屋に帰ってきた今、その美しさの記憶が、
何も残っていない気がした。

 サングラスで未来を覗くとき、
一郎は景色の中に人々の姿を見る。

 競馬場で馬券を握りしめて涙をこらえる老人。
パチンコ台の前で頭を抱える若い父親。
大企業の株価暴落でパニックになる投資家たちの
ニュース映像。
一郎が「勝つ」ということは、多くの場面において、
誰かが「負ける」ということでもあった。

 サングラスを机の引き出しにしまいながら、
一郎は初めて、
自分のやっていることの輪郭をくっきりと意識した。

---

## 第三章 揺れる心

 転機は、七月の中旬に訪れた。

 サングラスをかけ、
ルーティンになっていた翌朝のニュースを
確認しようとした、その時だった。

 画面に映し出されたのは、経済ニュースではなく、
緊急ニュースの速報テロップだった。

 *「――西日本豪雨、死者行方不明者数十名、
救助活動続く」*

 一郎はサングラスをかけたまま、
画面を食い入るように見た。

 被災地の映像が流れる。
泥水に浸かった住宅街。
屋根の上で助けを待つ老夫婦。
自衛隊のボートが慎重に進む濁流。

 サングラスを外すと、元の夜の静けさが戻ってきた。

 しかし一郎の中では、何かが崩れていた。

 翌朝のニュースは本当にその通りだった。
テレビをつけると、昨夜サングラスで見た映像が、
現実として流れていた。

 一郎はしばらくテレビを見ていた。
インタビューに答える被災者の女性が泣いていた。
「家も仕事も全部、流されました」と言っていた。

 一郎は自分のノートパソコンを開き、
日本赤十字社の災害義援金のページを探した。

 最初は百万円を送ろうと思った。
それで十分だろう、という感覚があった。
しかし振込ページの前で、
一郎は三千万円という数字を頭の中で転がした。
これは全部、サングラスがなければ
存在しなかったお金だ。
自分が汗水垂らして稼いだわけではない。
競馬の敗者が払い、
株式市場の流動性の中で偶発的に生まれたお金だ。

 一郎は五百万円を振り込んだ。

 送信ボタンを押した後、
不思議と、胸の奥のつかえが少し取れた気がした。

---

## 第四章 贖罪と使命の間で

 一度始まると、止まらなかった。

 豪雨災害への義援金の後、
一郎は次のことを調べ始めた。

 社会福祉法人が運営する児童養護施設への寄付。
一人親家庭を支援するNPO。
フードバンクの活動資金。
奨学金を返せず苦しむ若者への支援団体。

 サングラスで情報収集をするときの目的が、
いつの間にか変わっていた。

 以前は「明日何の株を買えば儲かるか」を調べていた。
今は「来週どの地域で何の支援が必要になるか」
を調べていた。
台風が来ることが事前に分かれば、
被害が出そうな地域のボランティア団体に
事前に資金を送る。
経営難で閉鎖の危機にある
養護施設のニュースが流れる前に、
その施設を調べて匿名で寄付をする。

 全て匿名だった。

 名前を出す理由がなかったし、出せる立場でもなかった。

「大学一年生が億単位の寄付」などという
ニュースになれば、サングラスのことを疑われる。
それだけではない。
一郎には、これが「善行」として
人に褒められることへの、奇妙な抵抗感があった。

 自分は最初、欲のままに動いた。
競馬場で他人の損失の上に立ち、
株式市場という仕組みを一方的に利用した。
その罪悪感の裏返しとして始まった寄付が、
「善人の行為」として賞賛されることに、
どこか居心地の悪さを感じていた。

 それでも、やめなかった。

 なぜなら、サングラスで見る
「支援が届いた後の景色」が、好きだったからだ。

 修繕費が足りず、
雨漏りが続いていた養護施設の屋根が、
寄付の三週間後にきれいに直っている景色。
フードバンクへの資金提供が呼び水となり、
地域の炊き出し活動が拡大している景色。
奨学金返済に苦しんでいた若い女性が、
支援を受けて専門学校に通い直している景色。

 サングラスは、未来を「利用する」道具だったはずが、
いつしか未来を「確かめる」道具に変わっていた。

 お金を送った後、
数週間後の「その場所」を覗いて、
変化を確認する。
それが一郎の習慣になった。

---

 秋になった頃、
一郎は大学の講義に
以前より熱心に出席するようになっていた。

 経済学の仕組みが、
以前とは違う解像度で見えるようになっていた。
富はどこから来てどこへ行くのか。
格差はなぜ生まれ、どうすれば縮まるのか。
寄付という行為は持続可能なのか、
それとも制度を変える方が本質的なのか。

 教授の話を聞きながら、
一郎はノートにびっしりとメモを取った。

 隣の席の女子学生・桐島朱音が、
ある日不思議そうに言った。

「田中くん、最近すごく変わったよね。
なんか、前より目が真剣になった気がする」

 一郎は少し考えてから、答えた。

「使い方を間違えたものが、あって。
それをどうしたら正しく使えるか、
考えてるんだと思う」

 朱音は「抽象的だね」と笑ったが、
否定はしなかった。

---

## 終章 胸ポケットの重さ

 ガチャポンから三ヶ月が経った、十月の夕暮れ。

 一郎は同じ坂道を歩いていた。
あの日と同じように、西日が眩しかった。

 胸ポケットには、相変わらずサングラスがある。

 かけようとして、一瞬、手が止まった。

 最近、一郎は気づいていた。
サングラスをかける頻度が、以前より少なくなっている。
未来を確認しなくても、なんとなく
「やるべきこと」が分かるようになっていた。
どこかに支援が必要なら、調べれば分かる。
株で儲けなくても、
今持っている資産で十分な活動ができる。

 それでも、サングラスはまだ持ち歩いている。

 捨てられない理由は二つあった。

 一つは、使える力を完全に手放すことへの迷い。
どこかで誰かが助けを必要としているとき、
自分には未来を見る力がある。
それを封印することが正しいことなのか、
一郎にはまだ分からなかった。

 もう一つは、シンプルな感情だ。
あのガチャポンの機械が、
なぜ一郎にこれを渡したのか。
千円を入れた無数の人間の中で、
なぜ一郎にこのカプセルが出たのか。
それを考えると、まだ何かが途中な気がした。

 一郎はサングラスをかけた。

 今度は何も思い浮かべなかった。
頭を空にしたまま、夕暮れの坂道を見た。

 景色は変わらなかった。

 現在の、今の、この坂道だ。

 一郎はゆっくりと歩き始めた。
西日が、琥珀色のレンズを透過して、
やわらかく目に届いた。

 来月のことは、まだ何も決めていなかった。

 それでいい、と思った。

 坂の下で、駅のホームに滑り込む電車の音がした。

---

*了*
 

第二百三十四弾「魔法少女、零番目の星」の続きです

 

 

# 魔法少女、零番目の星

## 第三章 見送りと、握られた拳

出発の日は、嘘みたいに晴れていた。

七校の正門前に在校生が並んでいた。
低学年から順に、白と紺の制服が整列している。
軍楽隊の演奏はなく、
代わりに誰かが小さな旗を手に持っていて、
風が吹くたびにそれが揺れた。

凛は列の端にいた。
人混みに紛れるようにして、人の肩の間から前を見た。

橘 澪は——笑っていた。

出発する魔法少女には専用の制服が支給される。
訓練用の紺のジャケットではなく、
深い藍色に金の縁取りが入った戦闘服だ。
肩には階級章。
腰には魔力増幅器のホルスター。
澪はその服を着て、
まるで最初からそこに属していたように
堂々と立っていた。

教官たちが順に言葉をかけていく。
浅倉教官は何も言わず、
ただ一度だけ澪の肩を掴んで、それを離した。

澪が在校生の列に目を向けた時
——その視線が、凛のところで止まった。

人混みの中、二人の目が合った。

澪は少しだけ表情を変えた。
笑顔ではなかった。
軽蔑でも、憐れみでもなかった。
あれは何だったのだろうと、
後になってもずっと考えることになる。

澪はゆっくりと右手を持ち上げ——拳を握った。

挑発ではなかった。
凛にはわかった。
あれは宣言だった。
*先に行く。追いかけてこい。
*そういう意味だと、体が理解した。

凛は何も返せなかった。

拳を握り返す資格が、今の自分にはないと思った。

澪は視線を外し、教官の方に向き直った。
数分後、彼女は輸送車に乗り込み、七校の門を出た。
旗が揺れた。
誰かが拍手をした。
それが広がって、しばらく正門前は拍手に包まれた。

凛は最後まで拍手をしなかった。

できなかった。

手が、震えていたから。

---

澪が行方不明になったという報告が届いたのは、
それから三ヶ月後の夕刻だった。

食堂に貼り出された速報リストの中に、澪の名前があった。

〈消息不明〉という区分だった。
戦死ではない。
遺体が確認されていないから、そう書けないのだ
——と、凛は後で誰かから聞いた。
消息不明は、生存の可能性がゼロではない。
でもそれは同時に、
最悪の事態も否定できないという意味でもある。

凛はリストの前に立ったまま、しばらく動けなかった。

夜、浅倉教官の執務室の扉を叩いた。

「前線に行かせてください」

教官は書類から目を上げなかった。

「却下」

「でも澪が——」

「白瀬。
橘の消息不明は、お前が前線に行く理由にならない」

教官の声は相変わらず平坦だったが、
凛は今日だけは引かなかった。

「澪は私より先に行って、私がまだここにいる間に——」

「橘は前線に行ける実力があったから行った。
お前はまだだ」

「でも私の魔法は——」

「*だからこそだ*」

浅倉教官がようやく顔を上げた。
その目に、初めて見る種類の疲れが浮かんでいた。

「お前の魔法がどういうものか、
まだ誰も把握できていない。
効くかもしれない。効かないかもしれない。
もし効かなかったら、
お前は何もできないまま最前線で死ぬ。
それがわかるか」

凛は黙った。

「帰れ」

エルダのところにも行った。
答えは同じだった——でも、エルダは付け加えた。

「もう少し待って。*もう少しだけ*」

その言葉の意味を、凛はまだ理解できていなかった。

父に電話したのは、その夜遅かった。

「前線に行きたい。
止めているなら、止めないでほしい」

父は少し間を置いた後、静かに言った。

「止めていない。止めようと思ったことも、正直ある。
でも、それはお前を信じていないからじゃない」

「じゃあなぜ」

「これは俺一人で決められることじゃない。
組織の判断だ。
俺の立場でできることには限界がある」

「……そうですか」

「凛」

「なんですか」

「訓練を、続けろ。それだけだ」

凛は電話を切った。
涙は出なかった。
その代わり、胸の奥に鉛のような
固まりができた感じがした。
重くて、邪魔で
——でも、それが燃料になった。

翌朝から、凛は訓練の時間を増やした。
起床より一時間早く訓練場に出て、
消灯後も自室で魔力の制御練習を続けた。
やるせなさを、そのまま体に叩き込んだ。
澪の握り拳が、瞼の裏に焼き付いていた。

---

## 第四章 研究所の実験

エルダに呼ばれたのは、
澪の行方不明報告から二週間後だった。

「一緒に来てほしい場所がある」

それだけ言って、
エルダは凛を七校の敷地の外に連れ出した。
輸送車で四十分ほど走ったところに、
外から見れば無骨なコンクリートの建物がある。
表札もなく、窓も少ない。
ただ、周囲に張り巡らされた
魔力遮断フィールドの波紋が
空気をわずかに歪ませていた。

「魔法省直轄の研究施設。
一般には存在が公開されていない」

エルダが凛に言った。

「あなたのお父さんが許可を出してくれた」

凛は何も言わなかった。

建物の中は、白かった。
廊下も壁も天井も。清潔というより、無菌に近い。
すれ違う研究員たちは全員が白衣を着ていて、
凛に軽く頭を下げてから足早に通り過ぎた。

通された実験室は広かった。
中央に黒い床板でできた円形のプラットフォームがあり、
その周囲を計測機器が取り囲んでいる。
天井から細いケーブルがいくつも垂れていて、
それぞれの先端に小さなセンサーが付いていた。
正面の壁は一面がガラスになっていて、
向こうに観察室が見えた。
白衣の人間が三人、すでにそこにいる。

「目的は一つ」エルダが言った。

「あなたの魔法がどういうものなのかを、
明らかにすること」

「明らかになれば——前線に行けますか」

「明らかになれば——話ができる」

曖昧な答えだったが、凛はそれで充分だと思った。

---

最初の実験は、基礎計測だった。

プラットフォームの中央に立ち、
魔力を「流す」よう指示された。
出力の大きさではなく、
あくまで平常時の魔力の波形を取るためだ。

「いつも通りに。意識しないで」とエルダが言った。

凛は目を閉じて、深く息を吸った。

魔力を流す感覚は、
今では眠るのと同じくらい自然になっていた。
胸の中心から、ゆっくりと温かいものが広がる。
外に向かうのではなく、内側で渦を巻くように。

センサーが反応する音が聞こえた。
観察室のガラスの向こうで、
研究員が端末を操作している。

「止めて」

十秒ほどで、エルダが指示を出した。

「波形を見せてもらえる?」

端末の画面が観察室の壁に映し出された。
通常、魔力の波形は外向きのパルスとして現れる
——鋭い山が連続する形だ。
凛の波形は、それとは全く異なっていた。
螺旋。
内側に収束していくような、渦巻状の曲線。

研究員の一人が「見たことがない」と小声で言った。

「私もない」とエルダが答えた。

---

二日目は、対象物への作用実験だった。

プラットフォームの前に、
魔力が封入されたクリスタルが置かれた。
魔族が使うものと同じ性質の魔力を人工的に生成し、
結晶に閉じ込めたものだという。

「これに向けて、魔力を流してみて。
どういう形でもいい」

凛はクリスタルに手を向け、内側の渦を意識した。

何も起きなかった。
クリスタルは淡い紫の光を保ったままだ。

「もう少し強く」

強くしようとした瞬間、焦りが出た。
渦が乱れる。
力を込めれば込めるほど、
魔力が散っていく感覚があった。

「やめていい」エルダが静かに言った。

「今日はここまで」

凛は拳を握った。

「すみません、うまくいかなくて」

「初日に結果が出る実験に、三ヶ月はかからない」

エルダはそう言って、手元のノートに何かを書いた。

---

三日目は、方向性の実験だった。

クリスタルを様々な距離に置き、
凛がどの距離で最も「感じる」かを調べた。
五十センチ、
一メートル、
三メートル、
五メートル——。

三メートルの時、凛は何かを感じた。

クリスタルの魔力が、呼吸しているように聞こえた。
正確には聞こえてはいないのだが、
体の奥の感覚器が何かを捉えた。
心拍のような、規則的な波動。

「今、何か感じた?」

エルダが気づいた。

「……クリスタルの魔力が、聞こえる感じがします。
脈みたいな」

研究員たちが顔を見合わせた。

「それを覚えておいて」とエルダが言った。

「明日も同じ実験をする。
その感覚が、手がかりになるかもしれない」

---

四日目、

五日目、

六日目。

凛は毎朝七時に施設に入り、夕方まで実験を続けた。
昼食は実験室に隣接する休憩室で食べた。
エルダも同じものを食べながら、
ノートに向かっていた。

六日目の夕方、凛はエルダに聞いた。

「先生は、なぜ私の魔法がこういう形だと思いますか」

エルダは箸を置いた。

「わからない。でも——仮説はある」

「聞かせてもらえますか」

「あなたの世界に、魔族が現れた時、
この世界には魔力が生まれた。
その魔力は、もともとこの世界になかったもの
——つまり、外来のもの。
魔族の魔力と同じ根を持つかもしれない」

凛は息を止めた。

「つまり、私たちが使う魔法と、
魔族の魔力は——」

「同じ源泉から来ている可能性がある。
だからこそ、相互に干渉できる。
でもあなたの魔力は——単に干渉するんじゃなくて、
もっと根本的な何かをしようとしている気がする。
それが何なのか、まだわからない」

七日目から、実験の内容が変わった。

今度はクリスタルだけでなく、模擬的に生成した
「魔力の流れ」に直接凛の魔力を接触させる実験だ。
壁面に設置された装置から、
細い光の帯が部屋の中に放出される。
それが魔力の可視化だ。

凛は光の帯に手を伸ばし、
「感じる」ことに集中した。

脈動。呼吸。リズム。

*この流れの、どこかに、割れ目がある。*

感覚的な言葉しか出てこなかったが、
凛は確かにそれを感じた。
水脈を手で探るような、
あるいは糸のもつれを指先で辿るような感覚。

「割れ目?」エルダが前のめりになった。

「割れ目というか——継ぎ目? 
魔力が、どこかでつながっているその、
接合部みたいな場所が感じられます」

エルダは何かを急いでノートに書きつけた。

---

十日目から十五日目。

凛は光の帯の「継ぎ目」に
魔力を集中させることを練習した。
うまくいく時といかない時がある。
うまくいく時、光の帯がわずかに揺れた。
揺れるだけで、消えはしない。
でもその揺れが、継ぎ目に何かが触れている証拠だと、
凛には感じられた。

夜、寮に戻ってもその感覚を反芻した。
継ぎ目。割れ目。接合部。

魔力の流れは、一本の線ではなく、
無数の細い糸が束になったものだと凛はイメージした。
その束を、外から叩いて散らすのではなく
——束ねている何かを、解けばいい。

翌朝、エルダにそのイメージを伝えた。

エルダは長い間、黙って考えた。

「やってみる価値がある」

---

十六日目から二十日目。

「束ねているものを解く」
というイメージで実験を続けた。
最初は何も変わらなかった。
でも十九日目の午後、
光の帯が一瞬だけ
——本当に一瞬だけ——暗くなった。

研究員が「波形が落ちた」と叫んだ。

エルダが立ち上がった。
「今のを再現できる?」

できなかった。その日は。

できなかったが——凛の中で、何かが変わった。
あの感覚を、体が覚えていた。

---

二十一日目から二十八日目。

一瞬の暗転を再現しようと試みたが、
再現できなかった日が続いた。
凛は焦り始めた。
焦ると、渦が乱れる。
乱れると、継ぎ目が感じられなくなる。

「焦らないで」エルダが繰り返した。

「わかってます」

「わかってる、って言う時が一番焦ってる」

凛は深呼吸をした。

二十八日目の夕方。エルダが言った。
「今日はここまでにしましょう。
明日は休日にする。一日、何もしないで」

凛は反論しかけた。
でも体が正直だった。
両肩が、石を乗せたように重い。
手の指先が、
夕方になるとかすかに痺れるようになっていた。

「——わかりました」

「一日だけ。全部忘れて、好きなことをしなさい」

これが最後の実験。
明日から休みだという解放感で、
凛は少しだけ体の力を抜いた。

*最後だから。
今日だけは、うまくやろうとしなくていい。*

凛は目を閉じた。

光の帯の脈動を感じた
。呼吸。リズム。継ぎ目。束を束ねているもの
——それを解くというより、*ただ触れるだけ*でいい。

指先が、継ぎ目に触れた。

解こうとしなかった。
ただ、そこにあるものを確かめるように。

光の帯が、消えた。

音もなく。煙もなく。ただ——消えた。

センサーが沈黙した。
観察室の研究員が全員立ち上がった。
計測値がゼロを示している。
魔力が、ゼロになっている。
減少ではなく、相殺でもなく
——完全なゼロだ。

「……先生」

凛の声が震えた。

エルダは観察室のガラスに手をついて、
計測値を見つめていた。
その横顔に、
凛がこれまで見たことのない表情があった。

畏れ、に似た何かだった。

「魔力が——消えた」
エルダが小さな声で言った。

「消失した」

---

## 第五章 成功率と、三ヶ月

翌日の休日、
凛は寮の近くの小さな公園で半日を過ごした。

ベンチに座って、空を見た。
何も考えないようにしたが、
結局ずっと昨日のことを考えていた。
触れるだけでよかった。
解こうとしたら、できなかった。
でも触れるだけなら——

昼過ぎ、凛はそっと掌に魔力を集めた。
目の前の空気に向けて、
「触れるだけ」のイメージで伸ばす。

何も起きなかった。
当然だ。対象がないのだから。

でも感覚は残っていた。
昨日の、あの触れた時の感覚が、
指先に染みついていた。

休日が明け、研究所に戻った。

「確認するべきことがある」エルダが言った。

「昨日の現象が、再現できるかどうか」

クリスタルが置かれた。

凛は深呼吸をして、目を閉じた。

脈動。呼吸。継ぎ目。触れるだけ。

クリスタルの光が、消えた。

研究員の一人が声を上げた。
エルダは静かにそれを記録した。

二回目。消えた。

三回目。消えなかった。

四回目。消えた。

五回目。消えなかった。

五回で三回。成功率、六十パーセント。

---

そこから先は、成功と失敗の繰り返しだった。

失敗する時のパターンを分析した。
焦りがある時は失敗する——これはすぐにわかった。
体調が悪い時も失敗率が上がった。
対象との距離によって成功率が変わるかを調べた。
一メートルから三メートルの間が最も高く、
それを超えると下がった。

「距離が離れると、脈動が感じにくくなります」
と凛は説明した。

「ということは、
今のあなたの感知範囲は三メートルが限界ということ」

「はい。でも——練習すれば、広がると思います」

「その根拠は?」

「三週間前は一メートルが限界でした。
今は三メートルまで感じられる。
感知範囲は、訓練で広がってきてます」

エルダはそれをノートに書いた。

「なら感知範囲の拡大と、
成功率の向上を並行して進める」

成功率を上げるために、
凛は失敗した時の内側の状態を細かく観察した。
継ぎ目を見つけられなかった時なのか、
見つけたが触れられなかった時なのか、
触れたが解放できなかった時なのか
——どのフェーズで失敗しているかで、対処法が変わる。

「見つけられない失敗」は、集中力の問題だと判明した。
睡眠を充分に取ると改善した。

「触れられない失敗」は、力みが原因だった。
緊張すると、指先の感度が落ちる。
解決策は意外なところから来た。
実験の合間にエルダが「音楽を流してみましょう」
と提案した。
観察室のスピーカーから、
ゆっくりとしたピアノの曲が流れ始めた。
凛が知らない曲だった。
「私の世界の音楽」とエルダが言った。
それが流れている時、成功率が上がった。

「解放できない失敗」が最も難しかった。
継ぎ目に触れるところまではできるのに、
そこから先で何かが止まる。

「どういう感覚の時に止まる?」エルダが聞いた。

凛は考えた。
「……怖い、と思う時かもしれません」

「怖い?」

「消してしまっていいのか、って
——なんとなく、怯んでしまう気がします」

エルダは長い間、黙っていた。

「それは」と彼女はゆっくり言った。
「とても真剣な感覚だと思う。
消失魔法というのは——相手の存在を、
根本から否定する行為に近い。
あなたの本能が、それを悼んでいるのかもしれない」

「でも魔族に使わなければいけない」

「そう。でもそれは——慣れるものじゃなくていい、
と私は思う」
エルダの紫の目が、まっすぐ凛を見た。

「怯んだまま、それでもやる。それで充分だと思う」

その言葉が、何かを変えた。

怯みを消そうとしなくなった途端、
怯みながらでも手が動くようになった。

成功率が、七十五パーセントを超えた。

---

実験を始めて一ヶ月が経った頃、
成功率は八十パーセントに達した。

感知範囲は五メートルまで広がっていた。
対象の魔力密度が高いほど
「継ぎ目」が見つけやすいという発見もあった。
これは前線での実戦に直結する知見だった
——魔族の上位個体ほど、
凛の魔法が通りやすいかもしれない。

「これは理論的には面白い逆転だ」
と研究員の一人が言った。

「通常の魔法は上位個体ほど効きにくくなる。
でも白瀬の魔法は——」

「密度が高い方が継ぎ目が明確になる、ということね」
エルダが続けた。

「触れやすくなる」

「つまり、強い相手の方が
むしろ通じやすい可能性がある」

「可能性、ね。実証されていないけれど」

凛はその会話を聞きながら、静かに拳を握った。

---

澪の行方不明から五ヶ月が経った。

生存確認の報告は来なかった。
だが戦死の確定報告も来なかった。
消息不明のまま。
それだけは変わらなかった。

凛は毎晩、澪のことを考えた。

あの握り拳を思い出した。
行くなら先に行く、追いかけてこい
——そういう意味だと解釈した。
でも今になって別の意味も読める気がした。

*頑張れよ。*

そういう意味だったかもしれない。
澪がそんなことを言う人間かどうかはわからない。
でも凛は、そう思うことにした。

二ヶ月目に入り、
成功率は八十八パーセントになった。

感知範囲は七メートル。
実戦を想定した障害物ありの条件でも、
八十二パーセントを維持できた。
移動しながらの発動訓練も始まった。
静止した状態では感じやすかった「脈動」が、
動きながらだと掴みにくくなる。
転びながら実験した。
転んだままでも、成功することがあった。

「転んでも発動できるなら、実戦でも使える」
と浅倉教官が——視察に来た時に——短く言った。

教官が視察に来たということは、
報告が上がっているということだ。

凛は前線が、少しずつ近づいてくるのを感じた。

---

三ヶ月目。

成功率は九十三パーセントまで来た。
でもそこから伸びなくなった。

残り七パーセントの失敗は、
どういう条件で起きるのかを分析した。
共通項がなかなか見えなかった。
ランダムに近い。

「偶発的な失敗と、構造的な失敗を分ける必要がある」
エルダが言った。

「七パーセントの一部は、
どうやっても発生する確率論的な失敗かもしれない。
でも一部は——まだ改善できる可能性がある」

録画された失敗場面を一つひとつ確認した。

気づいたのは凛自身だった。

「これ——全部、私が対象を意識しすぎている時です」

「意識しすぎ?」

「消してやろう、と思っている時です。
なくしてやろう、という気持ちが強い時、
継ぎ目が見えなくなる」

エルダが静かに息を吐いた。

「消すことが目的になると、失敗する」

「うまくいく時は——触れるだけでいい、
というイメージの時です。
継ぎ目に触れて、あとは向こうが消える」

「向こうが消える」

「押すんじゃなくて、扉を開けるだけ、みたいな」

エルダはノートに書きつけた。
その文字を、凛からは読めなかった。
異世界の文字だ。

翌日から、
「扉を開けるだけ」というイメージに統一した。

成功率が、九十六パーセントになった。

さらに三日後、九十八パーセントに達した。

---

報告が魔法省に上げられた。

凛が実験室の外で待っていると、
ドアが開いてエルダが出てきた。
その後ろに、見慣れない顔の男性が二人いた。
魔法省の制服を着ている。

「白瀬 凛さん」男性の一人が言った。

「前線配属の辞令が出ました」

凛は息を吸った。

三ヶ月前に聞きたかった言葉が、今ここにある。
でも今は不思議と、大きな喜びも来なかった。
来たのは、静かな決意だけだった。

「ありがとうございます」

「明後日の輸送に乗ってもらいます。
装備の支給と最終確認は明日。
わかりましたか」

「はい」

男性たちが去ると、エルダが凛の隣に立った。

「怖い?」

凛は少し考えた。

「……はい。でも、行きます」

「そうね」エルダが前を向いた。

「凛、一つだけ言っておく」

「はい」

「消失魔法の成功率は九十八パーセント。
残り二パーセントがある。
それを忘れないで」

「忘れません」

「九十八パーセントは充分に高い。
でも前線は実験室じゃない。
疲弊している時、恐怖がある時、
誰かが傷ついている場面を目の前にした時
——成功率は下がる。
それを自分で知っておいて」

凛は頷いた。

「先生」

「何?」

「澪を——橘さんを、見つけたいんです」

エルダはしばらく黙った。

「それが、あなたを前線に向かわせる理由?」

「その一つです。
でも——最初から、行かなきゃいけないと思ってました。
私が使える分だけ、誰かが楽になる。
それは変わりません」

エルダは凛を見た。
長い間、見つめた。
それからゆっくりと、凛の肩に手を置いた。

「行ってらっしゃい」

異世界から来た魔女の言葉は、
この世界の言葉で言われても、
どこか旅する人を送り出す響きを持っていた。

---

翌朝、凛は荷物をまとめた。
私物は少なかった。
制服と、着替えと、小さな写真
——弟の凪と、両親が一緒に写った一枚だ。

正門を出る前に、訓練場を一度だけ見た。

雨が降っていた。

石畳を叩く音が、行進する軍靴のように聞こえた。

凛は右手を前に伸ばした。

掌の中心に、白い光が灯った。
消えない。
揺れない。
かつての豆粒のような頼りなさはもうなく、
それは静かな、
でも確かな炎として、そこにあった。

凛はそれを見て、一度だけ頷いた。

輸送車の扉が開いた。

白瀬凛は、前線へ向かった。

澪は必ず生きている。

その確信に、根拠はなかった。
でも確信は確信だった。
必ず見つける。
見つけて——あの握り拳に、今度こそ答える。

車の窓の外を、七校の建物が流れていった。

遠ざかる白い壁を、凛はずっと見ていた。

---続く
 

第二百四十ニ弾「王女と影」の続きです

 

 

# 【王女と影】続編 ― 桜と波紋 ―

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## 第八章 同行命令

 ロンドンの十二月は灰色だった。

 エドワードは新しい滞在先
——コネチカットからの帰国後に割り当てられた、
テムズ南岸の小さなフラット——でコーヒーを飲みながら、
次の任務の概要書を読んでいた。

 エリザベス王女、来春の日本公式訪問。
期間、十日間。
目的、英日国家間協力の象徴的推進
および文化交流。
随行スタッフ一覧……。

 自分の名前を見つけた。

 エドワード・グレイ。護衛担当。

 コーヒーを一口飲んだ。

 ——まあ、そうなるか。

 諦観は、この数ヶ月でずいぶん育った。

 上層部からの補足通信には、
ハウエル大佐の声でこう付け加えられていた。

「王女殿下が君の同行を強くご希望されている。
よろしく頼む」。

よろしく頼む、という言葉の軽さと、状況の重さが、
毎回まったく釣り合っていないとエドワードは思う。

 日本。

 行ったことはない。
資料を読む限り、食事は悪くなさそうだった。
それだけは素直に思った。

---

## 第九章 成田空港、英日合同ブリーフィング

 四月の成田空港は、桜の季節の終わりかけだった。

 ターミナルの一室に、
英国側と日本側のSPが顔を合わせた。

 英国側は六名。
全員が訓練を積んだ体格の持ち主で、
スーツを着ていても肩幅と首の太さで職業がわかる。
エドワードはその端に立っていた。

 身長は全員の中で最も低い。
体つきは最も細い。
顔は最も若い。

 日本側のSPは八名。
日本人の基準でも体格のよい人間が揃っていた。
英国側チームと向き合い、互いに挨拶を始めたとき
——日本側の視線が、
全員ほぼ同時にエドワードへ集まった。

 エドワードはその視線に慣れている。
慣れているが、慣れたいとは思っていない。

 順番に自己紹介が始まった。
英国側チームリーダーのバーンズが先に全員を紹介した。

「エドワード・グレイ、王女殿下選任護衛」
と言った瞬間、日本側にかすかな動揺が走った。
ひそひそ声が聞こえた。
聞こえないふりをするのも慣れている。

 自己紹介が自分の番になった。

 エドワードは一歩前に出た。
心なしか、顔に熱がある。

 「エドワード・グレイ。三十二歳です。
エリザベス王女殿下選任の護衛を担当しています」

 日本側SP八名が、一斉に目を見開いた。

 ひとりが思わず呟いた。
「……さんじゅうに?」

 英国側チームのバーンズが横を向いて、静かに、
しかし確実に肩を揺らした。
苦笑をこらえていた。
隣のチェンバースは天井を見上げた。
こちらも笑いをこらえている。

 日本側チームリーダーの倉田という男が、
咳払いをして前に出た。

 「……失礼しました。倉田です。
よろしくお願いします、グレイさん」

 握手の手が差し出された。
エドワードはそれを握った。

 倉田の目には、驚きと、
それを懸命に隠そうとする礼節と、
どうしても残る困惑が混在していた。

 「よろしくお願いします」

 エドワードは短く答えた。

 ——三十二年間、ずっとこれだ。

---

## 第十章 公務と退屈

 東京での公務は、密度が高かった。

 首相官邸への表敬訪問、伝統工芸の見学、
文化交流イベントへの出席、学校訪問
——かつてダイアナ妃が日本を訪れた際に生まれた熱狂を、
王室は静かに意識していた。
エリザベスの笑顔は写真映えし、
立ち居振る舞いは優雅で、
メディアの反応は概ね好意的だった。

 エドワードは常にその背後三メートルに位置していた。

 問題は、エリザベス本人だった。

 公務の合間、
エドワードの位置からでも彼女の表情の変化は読み取れた。

公式の笑顔は完璧だ。
だがその目の奥に、三日目あたりから
明らかに倦怠の色が混じり始めた。
スケジュールは分刻みで、移動のたびに車内に押し込まれ、

降りれば整列した人々の前で手を振り、また車に乗る。

 四日目の夜、
宿泊先のホテルの廊下でエリザベスが
エドワードに近づいてきた。

 「ねえ」

 「何でしょう」

 「半日でいいから、自由に出てみたい」

 「それは上層部に——」

 「もう頼んだ。却下された」

 「でしたら」

 「グレイくんからも言ってくれない?」

 エドワードは少し間を置いた。

 「私の立場では、その判断は覆せません」

 エリザベスは小さく息をついた。
疲れた顔だったが、怒りはなかった。
ただ、本当に疲れていた。

 翌朝、
エドワードは英国側チームの数名に小声で頼んだ。

 バーンズが苦笑しながら動いてくれた。
夕方、護衛のひとりが小さな紙袋を
エリザベスの部屋に届けた。
東京のデパートで買ってきた焼き菓子の詰め合わせと、
小さな手ぬぐい、それから雷おこしと書かれた袋菓子。

 添えられた一言は、
エドワードの字でこう書かれていた。

 「現地調達品です。口に合えば」

 三十分後、エリザベスから返信が来た。
スタッフ経由で届いた一言。

 「おいしかった。ありがとう」

 それだけだったが、
翌朝の彼女の顔は少し戻っていた。

---

## 第十一章 箱根の夜

 日程の後半、
日本側の配慮で一泊が箱根の温泉旅館に設定されていた。

 エリザベスは、旅館に着いた瞬間から
明らかに機嫌が変わった。

 畳の廊下、障子の窓、中庭の石灯籠
——何を見ても目が輝いていた。
浴衣を着せてもらい、鏡の前でくるりと回って
「かわいい!」と言ったらしい。
その話は英国側スタッフの間に瞬く間に広まった。

 温泉も気に入ったようだった。
最初の入浴から戻ってきたエリザベスの顔は、
公務中には見せない、本物の緩み方をしていた。

 「すごくよかった」
と、廊下でエドワードに言ってきた。

 「それはよかったです」

 「グレイくんも入った?」

 「護衛中です」

 「入りなよ、もう。ちゃんと交代のSPいるでしょ」

 「……後で」

 「約束ね」

 「任務に約束はありません」

 「じゃあ私からの命令」

 「……」

 エドワードは無言のまま廊下の端に目を向けた。
こういう女性とはお近づきになりたくないと
思っていた日が、はるか昔のことのように感じた。

 夕食後、
エリザベスは再び温泉へ向かうと言った。
浴衣姿で廊下に出て、エドワードが斜め後ろに従う。
宿の廊下は木造で、足音が柔らかく吸われる。
他の宿泊客は奥のフロアにいるため、
このあたりは静かだった。

 曲がり角の手前。

 エドワードの感覚が、先に反応した。

 空気の質が変わった。
人の気配が、
宿の人間のそれとは異なる密度で存在する。

 エリザベスの一歩手前に出た。

 従業員の制服を着た男が二人、
角から現れた。
動きが速い。
しかし、エドワードの方が速かった。

 先頭の男の腕を取り、
体重を乗せて廊下の壁に押しつける。
もう一人が横から来た。
身体を半歩ずらして躱し、足を払って畳に伏せさせた。
手首を背中に取り、固めた。

 四秒。

 廊下に静寂が戻った。

 エリザベスが壁際に立ち、息をのんだまま見ていた。

 「殿下、お怪我は」

 「……ない」

 「奥の部屋に戻ってください。バーンズを呼びます」

 「わかった」

 エリザベスが頷いたとき、廊下の奥でかすかな音がした。

 後で判明したことだが、宿の防犯カメラが一台、
ちょうどその廊下の角に向いていた。
そして翌朝、その映像が
——どこから流出したのかは調査中だが
——一本の動画としてインターネットに出回っていた。

 浴衣姿の美少年が、
二人の男を四秒で制圧する映像。

 英国側チームがそれに気づいたのは、
翌朝のことだった。

---

## 第十二章 美少年SP

 東京に戻った翌日、様子がおかしかった。

 公務の移動中、
沿道の人だかりが明らかにいつもより多かった。
エリザベスへの歓声に混じって、
別の種類の声が聞こえた。

 「グレイさん!」

 「エドワードくーん!」

 黄色い声援、という表現が頭に浮かんだ。
エドワードはそれが自分に向けられていることを
理解するまでに、三秒かかった。

 「……何ですか」

 「大人気ですね、グレイさん」

 倉田が、外交上の礼儀と笑いを
ぎりぎりのバランスで保ちながら言った。

 「なぜ」

 「箱根の動画が……かなり広まったようで」

 「動画?」

 「昨夜の。テレビでも流れまして。
『英国の美少年SPが王女を守った』というニュースで」

 エドワードは軽く頭を押さえた。

 「……三十二歳です」

 「存じております。
ただ、その、映像だけ見ますと——」

 「わかっています」

 翌日はさらに悪化した。
公務先に到着するたびに、
エドワードの姿を目当てにした人々が集まっていた。
カメラのレンズがエリザベスと同じくらいの頻度で
こちらを向いている。

 記者会見のような場では、
エリザベスが美しく微笑んで答弁しているのに、
カメラマンが半分以上
エドワードに向いていることがあった。

 エドワードは無表情を貫いた。
貫き続けた。
頭の中では、今まで経験したいかなる任務よりも
複雑な感情が渦を巻いていたが、
それは顔に出なかった。

 ——出せるわけがない。

 「グレイくん」

 夕方、車内でエリザベスに話しかけられた。

 「何でしょう」

 「さっき、あなたに黄色い声援が飛んでたね」

 「……存じております」

 「どうだった?」

 「頭が痛いです」

 エリザベスはこらえきれず、笑い声を上げた。
車内に乗っていたバーンズと
チェンバースも笑いをこらえていた。

 「でも、私よりグレイくんの方が人気だったね」

 「申し訳ありません」

 「謝ることじゃないでしょ。むしろ面白い」

 「殿下にとっては面白いかもしれませんが、
護衛として目立つのは——」

 「でも今日、すごくたくさんの人が来てくれたよ。
あなたのおかげで、かもしれない」

 エドワードは返す言葉を持たなかった。

 エリザベスはまだ少し笑いながら、
窓の外の東京の街を見ていた。

 英国王室の広報担当からは、
その夜、困惑と焦りの混じった通信が届いた。
要約すると「想定外の展開だが、好意的な反応も多い。
どう対処するか検討中」ということだった。

 ハウエル大佐からの一言も添えられていた。

 「大変だな、グレイ」

 他人事だった。

---

## 第十三章 羽田空港、出発

 十日間の公務は、滞りなく終わった。

 最終日の羽田空港。
出発ロビーに、見送りの人々が集まっていた。
報道陣、外交関係者、一般市民
——その数は、通常の王族見送りの倍近かった。

 理由の半分は、エドワードだった。

 「美少年SP見納め」という単語が、
前日のSNSで日本全国に広まっていたことを、
倉田が困り顔で教えてくれた。

 エリザベスが笑顔で手を振ると歓声が上がった。
続いてその後ろに立つエドワードにも歓声が上がった。
音量は、ほぼ同じだった。

 エドワードは無表情で前を向いていた。

 「グレイくん」

 エリザベスが小声で言った。

 「手ぐらい振ったら?」

 「護衛が手を振るのは」

 「いいじゃない。せっかくだから」

 「……」

 エドワードは一拍置いて、
小さく、ぎこちなく、一度だけ手を振った。

 黄色い声援が、ターミナルに響いた。

 エドワードは苦笑いした。
三十二年の人生で最も不本意な苦笑いだったが、
傍から見れば間違いなく様になっていた。
それがまた問題だと、自分でも薄々わかっていた。

 搭乗前、倉田が握手を求めてきた。

 「お世話になりました、グレイさん。またいつでも」

 「こちらこそ」

 「……その、本当に三十二歳ですか」

 「本当です」

 「……すごいですね」

 「すごくありません」

 倉田は笑った。
今度は外交上の笑いではなく、
本当に可笑しそうな笑いだった。

 搭乗口をくぐるとき、
エドワードは一度だけ振り返った。

 見送りの群衆がまだこちらを見ていた。

 ——日本は食事が美味かった。

 それだけを思い、前を向いた。

---

## 第十四章 映画の話

 翌年の春、英国でひとつの映画が制作された。

 原案は、日本の映画プロデューサーからの企画だった。
題材は「童顔の少年に見える天才スパイが、
若い王女を守る」という物語。
完全なフィクションだが、
着想の元がどこにあるかは業界内では公然の秘密だった。

 映画は日本で公開されると、
初週から記録的な動員を出した。
主演の俳優は実際に十七歳で、
アクションシーンの動きを本物らしくするために
三ヶ月の格闘技訓練を積んでいた。

 「見た、グレイくん」

 エリザベスが、
笑いをこらえながら通信越しに言った。

 「見ていません」

 「絶対見た方がいいって。
主人公、すごくあなたっぽいよ」

 「私はモデルではありません」

 「王女のキャラクターも出てくるんだけど、
なんか私っぽくて」

 「それも知りません」

 「ラストシーン、空港で王女が追いかけてくるの」

 「……」

 エドワードは通信口を三秒間、沈黙させた。

 「それは、フィクションです」

 「でも似てるじゃない、あの時と」

 「似ていません」

 「グレイくん、顔赤くなってない?」

 「なっていません。通信越しに顔は見えません」

 「見えなくてもわかるよ」

 「…………任務に戻ります」

 通信を切った。

 エドワードは窓の外を見た。
ロンドンの空は今日も灰色だった。

 映画はその後、シリーズ化が決定した。
第二作のタイトルは「ヤング・エージェント、再び」。

 公式プレスリリースには、こう書かれていた。
「モデルは実在しない」。

 エドワードはそのリリースを読んで、
珍しく深い息をついた。

 窓の外の空が、少しだけ明るくなった気がした。

---

**【続く】**