# 九年の予兆

## 第一章 蛇の啓示

ボイオティアのアウリス港。

ギリシャ連合軍の全軍が集結したその日、
盛大な祈りの儀式が執り行われていた。

「神々よ!」
アガメムノンが声高に叫んだ。

「我らに勝利を!トロイアに正義の鉄槌を!」

数万の兵士たちが、一斉に歓声を上げた。
生贄の牛が捧げられ、その血が祭壇を染める。
香が焚かれ、葡萄酒が注がれる。

オデュッセウスは、儀式を冷静に見守っていた。
だが、心の中では不安が渦巻いていた。
これだけの軍勢を動かし、維持し、

そして戦わせる——

その時だった。

「あれは!」

誰かが叫んだ。

祭壇の脇から、一匹の青い蛇が現れた。

それは美しかった。
鱗が陽光を受けて、まるで宝石のように輝いている。
だが、その美しさには、どこか不吉なものが宿っていた。

蛇はゆっくりと、近くの木に向かって進んだ。

木の上には、鳥の巣がある。

「雛が……」

巣の中には、八匹の雛がいた。
まだ羽も生えそろっていない、か弱い命。

蛇は木を登り始めた。

親鳥が必死に羽ばたき、雛を守ろうとする。
だが、蛇は止まらない。

そして——

一匹、また一匹と、雛が蛇に飲み込まれていく。

兵士たちが息を呑んだ。

八匹すべての雛が、蛇の腹に消えた。

親鳥が悲痛な声で鳴く。
だが、蛇はその親鳥をも——

飲み込んだ。

「なんと……」

その瞬間、蛇の身体が変化し始めた。

青い鱗が、灰色に変わる。
動きが止まる。そして、完全に——

石化した。

まるで最初から石像だったかのように、
青い蛇は木の枝に巻きついたまま、動かなくなった。

沈黙。

誰も、言葉を発しない。

予言者カルカスが、ゆっくりと前に進み出た。

「これは……」
彼の声が震えた。

「ゼウスからの啓示です」

「どういう意味だ?」
アガメムノンが問うた。

カルカスは深呼吸すると、告げた。

「八匹の雛と、一羽の親鳥。
合わせて九つの命。
そして、蛇は石と化した」

彼は群衆を見回した。

「この戦争は、九年間続きます。
そして十年目に、終わる」

ざわめきが広がった。

「九年だと?」

「そんなに長く?」

「家族に会えないのか、それほど?」

オデュッセウスは、静かに目を閉じた。
予言通りだ。
二十年は戻れない。
九年の戦争、そして帰路に十年以上——

「静まれ!」
アガメムノンが叫んだ。

「九年で済むなら、短いものだ!我々は必ず勝つ!」

だが、兵士たちの動揺は、簡単には収まらなかった。

## 第二章 白い鹿の血

数日後。

アガメムノンは、出港前の最後の狩りを楽しんでいた。

「良い獲物はいないか」

彼は配下の者たちと共に、森の中を進んだ。

そして、見つけた。

白い鹿。

それは息を呑むほど美しかった。
純白の毛並み、優雅な身のこなし。
まるで夢の中の生き物のように。

「見事だ……」

アガメムノンは、弓を構えた。

「総大将、あれは——」
配下の一人が何か言いかけた。

だが、もう遅い。

矢が放たれた。

完璧な射撃。矢は白い鹿の心臓を貫いた。

鹿が倒れる。白い毛が、赤く染まっていく。

「やった!」
アガメムノンが叫んだ。

だが、その時。

空気が変わった。

森全体が、怒りに震えているような感覚。

「総大将……あれは、アルテミス様の鹿でした」

配下の者が、青ざめて言った。

「何?」

「月の女神が、
御自分の馬車を引かせるために遊ばせていた、
聖なる鹿……」

アガメムノンの顔から、血の気が引いた。

## 第三章 女神の怒り

その夜から、災厄が始まった。

まず、疫病。

兵士たちが次々と倒れていく。
高熱、嘔吐、そして死。

「また三人死んだ!」

「医者を!マカオンを呼べ!」

だが、医術でも防げない病。

それは神の呪いだった。

そして、風。

向かい風が吹き荒れ、海は荒れ狂った。

「これでは出港できん!」

船長たちが悲鳴を上げる。

「いつまで待てばいいんだ?」

「このままでは、軍が崩壊する!」

アガメムノンは、カルカスを呼んだ。

「どうすればいい?」

カルカスは、長い沈黙の後、答えた。

「罪を犯した者の、娘を——」

彼の声は震えていた。

「生贄に捧げなければ、
アルテミスの怒りは収まりません」

「娘だと?」

「はい……イピゲネイア様を」

アガメムノンは立ち上がった。

「ふざけるな!娘を殺せというのか!」

「他に方法はありません」
カルカスは頭を垂れた。

「このままでは、全軍が滅びます」

## 第四章 偽りの婚礼

オデュッセウスは、アガメムノンの天幕で、
信じられないものを見ていた。

総大将が、泣いていた。

「娘を……イピゲネイアを殺さねばならぬのか」

「他に方法はないのですか?」
オデュッセウスが問うた。

「ない」
アガメムノンは顔を上げた。
その目は、死んだ魚のようだった。

「だが、方法は考えた」

彼は、オデュッセウスを見た。

「アキレウスと結婚させると言って、呼び寄せる」

「総大将!」

「他に、娘を連れてくる方法があるか?
婚礼と言えば、喜んで来る」

オデュッセウスは言葉を失った。

数週間後。

イピゲネイアは、
喜びに満ちた顔で、アウリスに到着した。

「父上!」

彼女は美しかった。
若く、純粋で、幸せに輝いていた。

「アキレウス様と結婚できるなんて!」

アガメムノンは、娘を抱きしめた。

「すまぬ……」

彼は、誰にも聞こえないほど小さく呟いた。

「許せ、イピゲネイア……」

祭壇。

イピゲネイアが、
何が起こっているのか理解した時には、
もう遅かった。

「父上!これは!」

「許せ!」
アガメムノンが叫んだ。

「だが、これしか方法がないのだ!」

神官が刃を掲げる。

イピゲネイアは泣き叫んだ。

「嫌!嫌です!助けて!」

刃が振り下ろされる——

その瞬間。

眩い光。

そして、祭壇の上には、白い鹿が横たわっていた。

イピゲネイアの姿は、消えていた。

「これは……」

カルカスが頭を垂れた。

「アルテミス様が、憐れんでくださった。
娘御は、タウリスの神殿で、
巫女として生きることでしょう」

風が止んだ。

海が凪いだ。

疫病が、去った。

だが、アガメムノンの心に開いた傷は、
決して癒えることはなかった。

## 第五章 最後の交渉

ギリシャ連合軍は、ついに出港した。

そして、トロイアの手前にあるテネドス島に到着した。

「まだ、交渉の余地はある」
オデュッセウスが言った。

「そうだな」
アガメムノンが頷いた。

「メネラオス、お前が行け。
オデュッセウスも同行しろ」

二人の使節が、トロイアの城門に向かった。

城内では、王族たちが集まっていた。

「ギリシャの使節だと?」
パリスが嘲笑った。

「何の用だ?」

「ヘレネを返せと言うつもりだろう」
デイポポスが言った。

だが、老臣アンテノルが立ち上がった。

「使節には、礼を尽くすべきです」

「なぜだ?」パリスが睨んだ。

「それが、王族の務めだからです」

メネラオスとオデュッセウスが、
謁見の間に通された。

「ヘレネを返していただきたい」
メネラオスが言った。
その声は、怒りで震えていた。

「断る」
パリスが即答した。

「これは客人の妻を奪うという、重大な罪です!」
オデュッセウスが訴えた。

だが、トロイアの王族たちは聞く耳を持たなかった。

ヘレネの美貌に、彼らは取り憑かれていた。

「殺してしまえ」
誰かが囁いた。

「そうだ、使節など——」

「やめよ!」

アンテノルが叫んだ。

「使節を殺すなど、神々への冒涜だ!」

彼は自らメネラオスとオデュッセウスを、
丁重に城門まで送った。

「すまない」
アンテノルが囁いた。

「だが、もう止められぬ」

オデュッセウスは頷いた。

「あなたの礼節は、忘れません」

## 第六章 戦争の始まり

ギリシャ連合軍が、トロイアの沿岸に上陸した。

最初に降り立ったのは、アキレウスだった。

「来たぞ、トロイア!」

彼の雄叫びが、戦場に響き渡った。

海岸に陣地が構築される。

千以上の船が並び、数万の兵士が展開する。

だが、オデュッセウスは気づいていた。

「足りない」

「何が?」
ディオメデスが問うた。

「兵力です。
トロイアを完全に包囲するには、兵が足りない」

「では、どうする?」

オデュッセウスは、地図を広げた。

「周辺の村々を襲撃します。
物資を奪い、街道を破壊し、トロイアを孤立させる」

そして、戦争が始まった。

だが、それは誰もが予想したような、
短期決戦ではなかった。

九年。

予言の通り、長い、長い戦いが始まろうとしていた。

**——一人の女のために始まった戦争は、
数え切れない命を奪い、英雄たちの運命を狂わせる。
だが、まだ誰も知らない。
この戦争が、どのような結末を迎えるのかを——**

(終)