# 外の街

 最初にどこの国が撃ったのか、
もう誰にも分からなかった。

 発射の警報が世界中で同時に鳴り響いたとき、
それが報復なのか先制なのか、
誤報から始まった連鎖なのかを検証できる者は、
すでに指揮系統のどこにも残っていなかった。
空が白く光り、その光が消えたあとに残ったのは、
焼けた大地と、黒い雨と、
数字の上でしか実感できない死者の群れだった。
地球は滅亡した。
そう記録する者さえ、
あの日を境にほとんどいなくなった。

 だが、人類のすべてが滅んだわけではなかった。

 山を穿った地下シェルターの奥で、
あるいは海の底に沈めた都市の殻の中で、
運良く、あるいは運悪く生き残った人々がいた。
彼らは暗い天井の下で、種を蒔く方法を探した。
水を循環させる方法を探した。
腐った空気を濾す方法を、凍える夜を越す方法を、
死んだ者を悼みながら生きていく方法を、
ひとつひとつ手探りで見つけていった。

 地表は、表も裏も放射能に汚染されていた。
防護服なしで外に出れば、
数時間で体の内側から崩れていく。
除染の研究は各地のシェルターで続けられていたが、
何十年が過ぎても、確かな成果は一度も届かなかった。

 それでも人は、生き延びた。

 配給の列は秩序を取り戻し、
子どもたちは地下の学校に通い、
人工の灯りの下で誰かが誰かに恋をした。
海底都市の窓の外には、濁った闇しかなかったが、
人々はそれを「夜」と呼んで眠りについた。
普通の暮らしは、確かに戻ってきたのだ。

 ただし、閉ざされた空間は、
少しずつ人の心を削っていった。

 壁の位置は変わらない。
天井の高さも変わらない。
どれほど広く造られた居住区でも、
歩き続ければいつか必ず、同じ壁に突き当たる。
空を見上げたことのない子どもが増え、
空を見上げたいと願いながら死んでいく老人が増えた。
鬱屈は目に見えない澱となって各地に溜まり、
小さな諍いが、静かな絶望が、ときには自ら命を絶つ者が、
シェルターの片隅に積もっていった。

 そんな時代に、ひとつの企業が、
一台のロボットを発表した。

 リモートロボット。

 地表に立つ機械の目と耳が捉えた映像と音を、
地下にいる人間のVRゴーグルへ、遅延なく送り届ける。
使用者は、ゴーグルを装着した瞬間に、
まるで自分自身が「外」に立っているような
感覚に包まれる。
頬に風は感じない。
けれど視界は確かに広がり、足音は確かに響き、
遠くには本物の空が見える。

 かつて、遠い昔の世界に、
ストリートビューと呼ばれるものがあった。
画面の中で道をなぞり、行ったことのない街を眺める、
あの仕組みの
――果てしなく進化した姿だと言えば、近いだろうか。

 人々は、こぞって「外」へ出た。

 肉体は地下に置いたまま、
意識だけが、崩れかけたビルの谷間を歩いた。
錆びた観覧車の下で立ち尽くした。
空を仰いで、泣いた。長い間ため込んできた鬱憤は、
ロボットの足跡とともに地表へ吐き出され、
人々の顔には、久しく失われていた血色が戻った。

 やがて「外」にロボットが溢れるようになると、
それを迎える場所が必要になった。

 最初のうちは、残された廃墟がそのまま使われた。
崩れた商店街。
ひび割れた遊園地。
割れた硝子の水族館。
だが、人間の飽きは早い。
同じ廃墟を何度も歩けば、
いつか瓦礫は風景ではなく、ただの瓦礫になる。

 そこへ企業が目をつけた。

 彼らは「外」に施設を建てた。
新しい通り、新しい建物、新しい娯楽。
入場にも滞在にも料金がかかる。
地下から送られてくる金は、
地表に降り積もる灰よりも速く、
企業の懐に積み上がっていった。

 批判する声は、確かにあった。
人類が滅びかけた土地を、金儲けの舞台にするのか。
死者の眠る大地を、遊び場にするのか。
だがその声は、長い閉塞に喘いでいた人々の渇きの前で、
あまりにも脆かった。
娯楽に飢えた欲望は、倫理という堤防を軽々と押し流し、
批判は、いつの間にか誰の耳にも届かなくなっていた。

 施設は増え、通りは繋がり、
やがて「外」には、
誰ひとり生身の人間がいない街が出来上がった。

 数年が過ぎ、それが日常になったころ、
街はかつての世界と同じ顔を見せ始めた。

 昼には、色鮮やかな看板が並び、
ロボットたちがショーウィンドウの前で足を止め、
カフェのテラスでは、誰も飲めない珈琲が並んだ。
夜には、ネオンが濡れた路面に滲み、
音楽が裏路地まで漏れ出した。

 表の華やかさがあれば、裏には必ず影が生まれる。

 ロボットだから、壊れても死なないから、
現実の体は安全な場所にあるのだから
――そんな理屈が、人の中の暗い部分を静かに解き放った。

理由もなく殴る。
囲んで壊す。
誰かが壊される様を、見世物にする。
やがてそれに金が賭けられるようになり、
地下の闇の奥では、血の通わない暴力が、
血の通った金へと換算されるようになった。

 むろん、警察組織も存在した。
巡回するロボットが通りを見張り、
監視網が街の隅々まで張り巡らされていた。
それでも、地下に潜った違法行為のすべてを
暴き出すことは、できなかった。
光の下で整えられた街の、
その足元には、いつも見えない吹き溜まりがあった。

 ◇

 羽賀瑞希の名前は、女の子のようだと言われた。

 たったそれだけの理由で、彼のリモートロボットは、
「外」に出るたびに誰かの標的になった。

 路地の入口で行く手を塞がれる。
すれ違いざまに肩をぶつけられる。
笑い声が背後から追いかけてくる。
ロボットの頭部に取り付けたカメラ越しに、
瑞希はそのたびに、胸の奥が冷たくなるのを感じた。

 幸い、彼の家は裕福だった。

 瑞希のロボットは、最新鋭の高性能機だった。
脚部の駆動系は他の機体より一回り速く、
関節は滑らかに動き、バランス制御も群を抜いていた。
だから、囲まれても、追われても、
ほとんどの場合、
彼は殴られる前に逃げ切ることができた。

 暴力を受けることは、少なかった。

 けれど、それは「何もされていない」
ということとは違った。
「外」に出るたび、瑞希は何かから逃げていた。
誰かの視線から、誰かの嘲笑から、誰かの伸ばす手から。
街を楽しむ余裕などなく、行き先を決めるのはいつも、
「どこが安全か」だけだった。

 だから、普段は地下の自室にこもった。

 リモートでの学校の授業が終われば、
映画を観た。
アニメを観た。
画面の向こうには、
誰も瑞希の名前を笑わない世界があった。
何度も観た作品を、また最初から再生し、
好きな台詞を口の中でなぞった。

 けれど、それだけでは、気が滅入った。

 天井の低い部屋で、同じ壁を見つめ続けていると、
息が詰まってくる。
身体は動かさなくても、心のほうが先に、重くなっていく。

そんな夜には、瑞希はごくたまに、ゴーグルを手に取った。

 逃げ回るだけだと分かっていても、
それでも「外」の空が見たかったから。

 ◇

「今度、『外』で会わないか?」

 その一文が、アニメのコミュニティサイトの
メッセージ欄に浮かんだとき、
瑞希は、画面を見つめたまま、指を止めた。

 送り主は、このサイトで知り合った友人だった。

 好きな作品が同じで、好きな場面が同じで、
語り出せば止まらないところまで同じで
――気がつけば、何年も、
毎晩のように言葉を交わしてきた相手だった。
顔も、声も、本当の名前の響きさえ知らない。
けれど瑞希にとっては、間違いなく、
親友と呼べる唯一の存在だった。

 最初に浮かんだのは、断る言葉だった。

 外は怖い。
会えば、自分のロボットが、
また誰かに笑われるかもしれない。
名前を知られたら、友人までが、
あの連中と同じ顔をするかもしれない。
失う可能性のあるものなら、
最初から手を伸ばさなければいい。
そう考える癖が、
いつの間にか、骨の髄まで染み込んでいた。

 けれど。

 画面の中の言葉を、瑞希は何度も、読み返した。

 この人と、何年も話してきた。
つまらない冗談も、くだらない論争も、
誰にも言えなかった弱音も、この人にだけは話せた。
その相手が、会いたいと言っている。

 ――自分も、会いたい。

 断り辛かった。
それ以上に、会いたいという気持ちが、
胸の底から静かに、
けれど確かに、せり上がってきていた。

 瑞希は、キーボードに指を置いた。

『いいよ』

 たった三文字を送信するまでに、
何分かかっただろう。

 日時と場所が決まった。
返信のたびに、約束は少しずつ形を持っていった。
その夜、瑞希はなかなか眠れなかった。

 そして、当日。

 瑞希は、ゴーグルを装着した。
視界が暗転し、わずかなノイズのあとで、
地表の光が、網膜いっぱいに広がった。
ロボットの指先が動く。
関節が静かに軋む。「外」の空気を
知らないはずの身体が、確かに一歩、前へ出る。

 期待と、不安が、同時にあった。

 どちらかを選べないまま、どちらも抱えたまま、
瑞希の胸の奥は、ざわざわと波立っていた。

 約束の場所へと、彼のロボットは、歩き出した。

 ――この一歩が、
何を連れてくるのかも知らないままに。

 

# 第一章 深海の翼

 砂は、乾いた骨の色をしていた。

 中東の高空で火を噴いたF-15Eの残骸は、
遠く稜線の向こうに黒煙の柱を立てている。
その麓のどこかで、一人の男が、
ひび割れた岩の窪みに身を押し込み、
自分の呼吸の音を殺していた。
無線機は沈黙している。
予備バッテリーの残量表示は、赤い点がひとつ、
まるで瀕死の心拍のように瞬いていた。

 米空軍からその報せが入ったのは、
現地時刻で午前二時を回った頃だった。

 報せは簡潔だった。
簡潔であることが、この種の報せの慈悲であり、
同時に残酷さでもあった。
撃墜、脱出確認、位置、推定。
余計な修飾語は一語もない。

 受信したのは、エイキュー警備保障の作戦室だった。
壁一面の戦術ディスプレイが青白い光で室内を満たし、
その光の中で、作戦指揮官ヴィクター・ローレンスは、
報告を最後まで聞かなかった。

「出せ」

 それだけだった。

 彼の声に迷いがないのは、
迷いを持たない人間だからではない。
迷う時間が、救出対象の生存確率を一秒ごとに
削っていくことを知っている人間だからだった。

    *

 太平洋の深みに、
全長約二百五十メートルの影が潜んでいた。

 L'sフリゲート01。
潜水艦という言葉では、その巨躯を言い表すには足りない。
海中に横たわる鉄の大聖堂とでも呼ぶべきその艦は、
音もなく、波もなく、
ただ静かに、与えられた任務の海域へ滑っていた。

 やがて艦体が浮上する。
海面が盛り上がり、黒い海水が滝のように
装甲の上を流れ落ちた。
大型カーゴベイの扉が、
重い呼吸のような振動とともに左右へ開く。

 その闇の奥から、それはゆっくりと浮かび上がった。

 L'sクラフト01。

 全長約二十五メートルのVTOL多目的機。
だが、これを航空機と呼ぶには、目が拒絶反応を起こす。
翼らしい翼はなく、流線型の機首もない。
強いて言えば、「空飛ぶ潰れた立方体」だった。
人間の美意識が積み上げてきた「飛ぶもの」の形を、
設計者は最初から相手にしていなかったのだろう。
その異形は、空力ではなく、
もっと別の何かの理屈で宙に在った。

 貨物室を持ち、輸送任務をこなす。
だが同時に、攻撃兵装も抱えている。
空中戦も、地上への打撃も可能。
そして何より、この機体には
高度な不可視ステルス機能が備わっていた。
レーダーも、赤外線も、肉眼さえも、
この機体の存在を捉えることは難しい。
極秘任務、隠密作戦。
そのような影の仕事において、
これほど重宝される機体は他にない。

 ただし。

 それは、完全なオーバーテクノロジーだった。
現代科学の領域を、軽く、あまりにも軽く越えている。
どの国の研究所の、どの教授に見せても、
彼らは首を振るだろう。
「これは我々の知る物理ではない」と。

    *

 カーゴベイの中は、静かだった。

 隊員たちは、すでにパワーアシストスーツを
装着していた。
L's製。
黒に近い濃灰色のその装甲は、身体にぴたりと貼り付き、
動くたびに微かな駆動音を立てた。
このスーツにも不可視ステルス機能が組み込まれており、
高い攻撃力と防御力を持つ。
そして飛行が可能だった。
降下作戦に、これ以上の装備はない。

 櫻井薫は、バイザーの内側で、
自分の鼓動を数えていた。

 入社して一年。
元陸上自衛隊第一空挺団。
空挺降下課程を修了し、レンジャー資格を持つ。
肩書きだけを並べれば、
新人と呼ぶには不釣り合いな経歴だった。
だが、この場所では、その経歴は何の鎧にもならなかった。

ここでの彼は、紛れもなく新人だった。

 訓練は、積んだ。
過酷という言葉が薄く聞こえるほどに。
太平洋の島で、何度も飛び、何度も落ち、
何度もこのスーツの癖を身体に叩き込んだ。
だが、訓練は訓練だった。
弾丸が撃ち込まれない空と、敵が待つ空は、
同じ空でも別の場所だ。

 喉が乾いていた。
唾を飲み込むと、乾いた紙を飲むような感覚がした。

「緊張してるか」

 低い声が、通信を通じて耳に届いた。

 ジョン・リース。

 元米国海軍特殊作戦部隊SEALsの中隊指揮官。
階級は最上級上等兵曹。
そして、公式の記録の中では、
すでに死んだ男だった。

 中東での人質救出任務。
彼はそこで重傷を負った。
仲間を逃がし、自分は戻れなかった。
そして軍は、彼を遺体未回収の戦死として処理した。
星条旗に包まれる棺もない、名前だけが刻まれた墓標。
その下には、骨も灰もない。

 だが、ジョンは生きていた。

 長年の特殊作戦で酷使した身体は、
脳に損傷の疑いを抱えるほど摩耗していた。
それが、L'sコーポレーションの治療で完治した。
理由も仕組みも、彼自身にはわからない。
ただ、頭の中の霧が晴れ、手の震えが消え、
夜の闇が再び「ただの闇」に戻った。
彼はそれ以来、この会社の傘下、
エイキュー警備保障で働いている。

 薫は、短く答えた。

「……はい。正直、しています」

 嘘をつかなかった。
ジョンの前で嘘をつくことが、
一番無意味だと、この一年で学んでいた。

「それでいい」

 ジョンの声には、笑みも皮肉もなかった。
ただ事実を肯定する響きだけがあった。

「緊張を恐れるな。
恐れを失った人間は、仲間を殺す。
恐れたまま動ける人間が、生き残る」

 隣で、巨躯の男が低く喉を鳴らした。
マレコフ。ロシア系アメリカ人。
ジョンの副官であり、
長年、彼の右腕として戦場を共にしてきた男だ。
表情の少ない顔に、古い傷跡が走っている。

「新人の面倒は、私が見る。
お前は前を見ていろ、ジョン」

「頼む」

 二人の間に交わされたのは、それだけだった。
だが薫は、その短いやり取りの底に、
何年分もの死線を見た気がした。
言葉の少なさは、信頼の深さの裏返しなのだと。

 この任務に薫を加えたのは、ジョンだった。
経験を積ませるために。
教官が、教え子の背を、実戦の風の中に押し出す。
それは優しさではなく、もっと厳しい種類の信頼だった。

    *

 機体が、海面を離れた。

 L'sクラフト01は、ほとんど音を立てなかった。
ただ、床下から伝わる微かな振動だけが、
巨大な何かが動いていることを教えている。
重力制御装置が、この質量を、
理不尽なほど滑らかに空中へ押し上げていた。

 高度は、極限まで低い。

 スレスレ、という言葉が、そのまま現実になっていた。
眼下を、砂丘が、岩肌が、干上がった河床が、
高速のフィルムのように流れていく。
地表の凹凸が、手が届くほどの距離で、
機体の腹の下を過ぎていった。
その低さが、逆に敵のレーダーの死角になる。
不可視の機体が、地形の襞に沿って、闇を縫う。

 救難者の位置は、見失われることはなかった。

 L'sコーポレーションの衛星が、上空から。
ドローンが、周辺の空域から。
重なり合う目が、砂漠に潜む一人の男を、
決して逃さず捉え続けている。
彼がどれほど身を縮めても、
どれほど息を殺しても、見えていた。

 やがて、オペレーターの声が、
ジョンの耳に滑り込んだ。

「敵側の部隊も接近しています」

 ジョンの顔色は、変わらなかった。

「距離は」

「救難者との距離、こちらより近い可能性があります」

 一瞬の沈黙。
だが、その沈黙は、迷いのためではない。
頭の中で、数式が解かれていく時間だった。

「小型ドローン、二機。射出しろ。先行させる」

 クラフトの側面から、二つの小さな影が放たれた。
掌ほどの機体が、闇を裂いて加速する。
あっという間に、視界から消えた。

「続けて、レールガン。敵部隊の進行方向だ。
当てるな、止めろ」

 その指示が下った刹那、
機体の底が、見えない拳のように震えた。

 砲声は、ほとんどなかった。
代わりに、空気が一度、引き裂かれるような音がした。
遠く、砂の向こうで、閃光が連続して上がる。
弾丸が、敵部隊の進行方向の地面に、次々と着弾した。
土が噴き上がり、砂の壁が立つ。
それは威嚇であり、同時に、通行不能の宣告だった。

 敵部隊は、止まるしかなかった。
直撃ではない。
だが、「次は当たる」という無言の意志が、
そこにあった。

 同時に、カーゴベイが開いた。

 夜風が、轟音とともに雪崩れ込んでくる。

 最初の隊員が、虚空へ身を投げた。
次の隊員が、その後を追う。
一人、また一人。
ジョンの背が、マレコフの背が、闇の中に溶けていく。

 薫の番が来た。

 足元の床が、もうなかった。
その向こうは、ただの黒だった。
星の光も、地面の輪郭も、まだ遠い。

 彼は、息を吸った。

 そして、飛んだ。

    *

 落ちる、のではなかった。

 スーツが、薫の意志を読み取った。
重力制御装置が、落下を飛翔へと書き換える。
肺に満ちた恐怖が、ほんの一瞬、風に洗われた。
彼は、飛んでいた。
人間が、翼も持たず、
自分の身体ひとつで、夜の空を滑っていた。

 緊張は、消えていなかった。
心臓は、まだ喉元で暴れている。
だが、不思議なことに、手は震えなかった。
あれほど訓練した動作が、身体の方が先に覚えていた。
操作を間違えないように。
ただ、それだけを自分に言い聞かせて。

 バイザーの右側に、小さな光点が灯っている。

 救難者の位置。

 その点が、少しずつ、少しずつ、近づいてくる。
自分が進んでいる。正しい方向へ。
その事実が、視覚的に、疑いようもなく見て取れた。

 あの点の向こうに、人間が一人いる。

 名前も、顔も知らない。
だが、その男の命が、あの小さな光に宿っている。
自分が方向を誤れば、あの光は消える。
その単純な重みが、薫の指先を、
慎重に、確実に動かした。

 一方、ジョンは、その全体を見ていた。

 彼のバイザーには、薫のそれに加え、
先行した小型ドローンが送る映像が、
リアルタイムで流れていた。
救難者の顔が見える。
汚れ、乾いた唇、血の滲んだ頬。
恐怖を押し殺した、生きている人間の目。

「こちらジョン。救難者を目視。
全員、動きを止めるな。
左翼二名は高度を下げろ。右はそのまま」

 指示は、低く、短く、正確だった。
迷いのない声は、混乱の海を渡る灯台のように、
隊員たちの耳に届いた。

 ドローンが、救難者の位置に到達した。

 岩陰で、男が顔を上げる。
自分の頭上に浮かぶ、小さな機械を見た。
何が起きているのか、理解できていない顔だった。

 その瞬間、ドローンが、見えない壁を展開した。

 重力障壁。

 L's製の装備の多くには、
重力制御装置が搭載されている。
移動に使えるそれは、防御にも、攻撃にも転用できた。
フリゲートにも、クラフトにも、
そして隊員たちのスーツにも、同じ理が宿っている。
男の周囲の空気が、ぐにゃりと歪み、砂が弾かれた。
もし今、遠くから銃弾が飛んできても、
その壁は、紙のように無傷で受け止めるだろう。

 男は、自分を包む透明な何かを見つめていた。

 そこへ、隊員たちが降り立った。

    *

 先頭の隊員が、膝をつく。
保護カプセルが展開される。

「聞こえるか。
米軍は君を見捨てていない。もう大丈夫だ」

 英語が、短く、静かに降りた。

 男は、何か言おうとして、言葉にならなかった。
唇が震え、目から、涙とも砂ともつかないものが流れた。
隊員たちは、その震える身体を、壊れ物を扱うように、
しかし素早く、カプセルへと収めた。

 作業は、数十秒で終わった。

「撤退する。急げ」

 ジョンの声が、全員を動かす。

 薫は、ジョンと並んで、殿についた。

 最後尾。
それは、追ってくる敵を、最後に迎え撃つ位置。
部隊の背中を守る、一番危険な場所だった。
そこにジョンが自分を置いた理由を、薫は問わなかった。
問う必要がなかった。
信じて、背中を預けているのだと、わかっていたからだ。

 振り返る。

 闇の向こう、遠く、
敵部隊の影が揺れているのが見えた。
足は止まっている。
クラフトの援護射撃が、彼らの前進を縫い止めていた。

 撃たれなかった。

 敵の銃弾は、ほとんど飛んでこなかった。
支援攻撃が、あまりにも完璧に、
見えない屋根のように、撤退する隊員たちを覆っていた。

 薫は、スーツの内側で、
全身が汗に濡れていることにようやく気づいた。

「全員、乗れ」

 ジョンの声。

 頭上に、不可視の巨影が降りてくる。
カーゴベイが口を開け、
隊員たちが、次々とその闇へ飛び込んでいく。
保護カプセルを抱えた隊員が、先に収容された。

 最後に、ジョンと薫が、並んで機内へ滑り込んだ。

 扉が閉まる。

 重い、静かな音。
そのあと、薫の耳に、自分の荒い呼吸だけが残った。

    *

 米軍基地は、夜明け前の薄青い光に沈んでいた。

 滑走路の端。
見張りに立っていた兵士たちは、
突然、頭上の闇が歪んだのを見た。
何もなかった空間が、水面に石を落としたように揺らぎ、
そこから、巨大な「何か」が、ゆっくりと降りてくる。

 音は、ほとんどなかった。
それが、かえって恐ろしかった。

 潰れた立方体。
見たこともない形の機体が、静かに地面へ着地する。

「……UFOか?」

 誰かが、呟いた。

 別の兵士が、息を呑んだまま、答えなかった。
いや、答えられなかった。
目の前の光景は、彼らの知る世界の語彙を、
はみ出していた。

 その動揺を、ジョンは見ていた。
見ていて、何も言わなかった。

 カーゴベイから降りた彼は、一直線に歩いた。
基地の救護班が、担架を押して駆けてくる。
ジョンは、保護カプセルから運び出された男を、
そっと彼らに引き渡した。

「頼む」

 それだけだった。

 救護班の一人が、何かを問いかけようとした。
この機体は何だ、あなたたちは何者だ。
だがジョンは、すでに背を向けていた。
好奇の目も、畏怖の視線も、
彼にとっては風と同じだった。
そこに意味はない。
命が、渡された。それが、すべてだった。

 隊員たちが、再びクラフトに戻る。

 ハッチが閉じる。機体が、音もなく浮き上がる。

 見上げる兵士たちの目の前で、
その巨影は、夜明けの空に溶けるように消えた。
ステルスが働いたのだ。
最初から何もなかったかのように、
ただ、風だけが滑走路を撫でていた。

    *

 機内で、薫はシートに身を預けていた。

 スーツのバイザーを上げる。
額から汗が一筋、頬を伝って落ちた。

 向かいに、ジョンが座っている。
何も言わず、遠くを見ていた。
かつて「死んだ」とされた男。
名前だけが墓に刻まれた男。
その横顔は、疲れているようにも、
満ち足りているようにも見えた。

「……リースさん」

 薫が、声をかけた。

 ジョンが、視線だけを向ける。

「俺は……ちゃんと、動けていましたか」

 わずかな沈黙。
マレコフが、閉じていた目を片方だけ開き、
薄く唇の端を動かした。

 ジョンは、答えた。

「お前は、方向を間違えなかった。それで十分だ」

 その言葉が、ひどく重く、薫の胸に落ちた。

 窓の外では、夜が終わろうとしていた。
この世界の、どこかの空の下で、
一人の男が、家族のもとへ帰る。
その事実のために、自分は飛んだのだと、
薫は思った。

 あの人は、こういう世界で生きてきたのだ。

 そして、これからは、自分も。

    以降 続く

 

# 第一章 虎鮫、港を離れる

 宇宙港の係留アームが外れる音は、
船体を伝って骨に響く。
低く、鈍く、どこか名残惜しげな金属の呻きだった。

 ジョージ・リチャードソンは操縦席の後ろ、
船長席に深く身を沈めたまま、
その振動が足の裏から抜けていくのを待った。
三年前なら、この震えに胃の底がひやりとしたものだ。
今は何も感じない。
感じなくなったことが、
傭兵になって三年という時間の
正体なのかもしれなかった。

 艦橋の正面スクリーンには、
巨大な港のシルエットが遠ざかっていく。
無数の航行灯が瞬き、
貨物船と連絡艇が蟻のように行き交っている。
その光の群れのひとつひとつに、
誰かの生活と誰かの借金と誰かの嘘が
乗っているのだと思うと、
元探偵の頭は勝手に勘定を始めてしまう。
職業病というやつは、
職業を捨てても体から出ていってくれない。

「微速前進。港の外縁帯を抜けたら停止してくれ」

「了解」

 返事は短い。
操縦席のアルヴェルト・D・ドライゼは振り向きもせず、
節くれ立った指先を操縦桿に添えているだけだった。
だが宇宙船「タイガーシャーク」は、
まるでその指の体温を読み取るかのように、
滑らかに港の影から身をほどいていく。

 全長およそ二百五十メートル。
艦種で言えば駆逐艦に過ぎない船体の内側に、
巡洋艦級の主機関が一基、
フリゲート艦級の副機関が四基、押し込まれている。
副機関は可動式で、船体の向きとは無関係に
推力の方向を変えられる。
だから、この船は速いくせに、猫のように曲がる。

 その有り余る出力が、武装にも流れ込んでいた。
船首寄りに二門の四百五十ミリ熱線砲。
本来なら戦艦の主砲に据えられる口径だ。
船体各所には可動式の粒子ビーム砲塔が四基、
近接防御用のスプレービームポッドが四基。
ミサイルは一発も積んでいない。
ジョージが積まないのではなく、
傭兵という稼業が積ませないのだった。
補給のたびに弾薬代で財布が薄くなる商売は、
辺境では長続きしない。
撃てば撃つほど金が減る武器より、
動力炉さえ回っていれば撃てる武器のほうが、
自営業者には誠実だった。

 その代償が、カーゴスペースの皆無である。

 輸送を兼業する傭兵は多い。
護衛の合間に荷を積めば、
空荷で帰るよりずっと実入りがいい。
だがそれには四百メートル級以上の船体が要る。
戦艦と同じ大きさの図体でも、
貨物区画を確保した途端、
武装は軽巡洋艦程度まで痩せ細る。
「タイガーシャーク」はその逆だった。
駆逐艦の殻に重巡洋艦の牙を詰め込んだ、
荷物を運ぶことを最初から諦めた船。

 だから、ジョージはこの船が好きだった。
何かを諦めた船は、潔い顔をしている。

    *

 外縁帯を抜けた宇宙空間は、
暗く、静かで、驚くほど何もなかった。

 アルヴェルトが船を止める。
慣性を殺すスラスターの短い噴射が、
艦橋の床にごくかすかな揺れを残して消えた。
正面スクリーンの隅に、
護衛対象の出港予定時刻が淡い数字で浮かんでいる。
まだ四十分ある。

 出発前の慌ただしさが、
ようやく背中から剥がれ落ちていく。

 自動調理器用のフードカートリッジを買い足し、
飲料水のタンクを満たした。
乗員は三人しかいないから、
二週間分といっても知れている。
人数を増やしたがらないのはジョージ自身の性分で、
それを誰も咎めなかったし、
咎められたところで彼は意見を変えなかっただろう。
他人が増えれば、気を遣う回数が増える。
気を遣う回数が増えれば、
本当に気を張らねばならない瞬間に使う分が減る。

 幸い、
この艦橋には気を遣わずに済む人間しかいなかった。

 アルヴェルトは口下手だ。
話せないのではなく、
話すことに価値を見出していないタイプで、
必要な報告だけを短い言葉で投げてよこす。
かつて四百メートル級貨物船「モービルベイ」の
船長だった男が営業の下手さゆえに借金を積み上げ、
船を手放したと聞いたとき、
ジョージは「そりゃそうだろう」と心の底から納得した。
この男に愛想笑いで契約を取れというのは、
ナイフにパンを焼けというようなものだ。
だが操縦桿を握らせれば、話は別だった。
あの指は、船体の呼吸を読む。

 そしてラーナ・ラブロフスキー。

 航法席の彼女は、いつものように背筋を伸ばしたまま、
複数の航路図を視線だけで切り替えていた。
表情は変わらない。
彼女は必要なことしか話さない。
だが必要なことは、決して言い漏らさない。

 行く当てもなく彷徨っていたところを拾った、
というのが、ジョージが人に話すときの言い方だった。
実際には、拾ったというより、
拾わされたのかもしれない、と最近は思う。
彼女の頭脳は通常の人工知能を上回り、
戦闘技術もまた並の傭兵では歯が立たない。
「ラーナが仲間になって、俺は得をした」と、
ジョージは何度も口にしてきた。
その度に彼女は「そうですか」とだけ答える。
それ以上は何も言わない。
だが、その「そうですか」の温度が
少しずつ上がってきていることに気づいているのは、
たぶん自分だけだと、ジョージは思っていた。

    *

 傭兵になって、もうすぐ三年になる。

 私立探偵だった頃の仕事が、ある連中の目に留まった。
何を嗅ぎ回ったのか、
今となっては細部を思い出したくもない。
ただ確かなのは、探偵という看板を掲げ続ければ、
誰かに首を絞められかねなかったということだ。
だから看板を下ろし、傭兵ギルドに名前を登録し、
重い武器を堂々と携えて辺境へ出た。
敵が多すぎる人間は、
敵を撃てる側へ回るのが一番安全だった。

 三年。

 その間に溜め込んだ貯金は、
ついに四百メートル級の武装貨物船を
買える額に迫っていた。
月間の海賊船撃沈数は常にギルドの最上位。
護衛依頼は選び放題。
それがジョージたち三人の実力に支払われた対価であり、
同時に、休む暇がまったくないという副作用でもあった。

 輸送業を兼業できる船に乗り換えれば、
傭兵稼業のほうは絞れる。
日数を減らし、体を休め、
あの頃の自分が欲しがっていた
「普通の時間」を少しだけ取り戻せる。
そのために、今が踏ん張りどころだった。

 今回の依頼は、豪華客船の護衛である。
全行程二週間。
短ければ三、四日、
長ければ一か月を超える仕事もあるこの世界では、
長くも短くもない。
他に二組の傭兵チームが参加する、
多重護衛の布陣だった。

 出港前の挨拶回りで、
ジョージはその二人の船長と短く言葉を交わしてきた。
握手の強さ、目の動かし方、
船の整備状況を語るときの声の調子。
探偵の目は、礼儀正しい会話の裏で、
相手の質を量っている。

 悪い連中ではなさそうだった。

少なくとも、今のところは。

    *

 艦橋の沈黙のなかで、
ジョージは正面スクリーンに映る港を眺めていた。
出港待ちの豪華客船が、
巨大な光の塊となって係留区画に浮かんでいる。
まるで宝石箱のようだ、と思い、
すぐに、宝石箱は海賊にとって
獲物の別名でもあると思い直した。

 護衛対象の船名が、航行データの端に表示されている。

 〈クイーン・デルタ〉

 気づけば、独り言がこぼれていた。

「クイーン・デルタって
どういう意味があるんだろうな……」

 誰かに問うつもりはなかった。
目の前の景色に、ふと浮かんだだけの疑問だった。

 だが、操縦席から答えが返ってきた。

「大昔に不貞を犯し、
それがバレると思って旦那を毒殺して
処刑された女王の名前だな」

 アルヴェルトの声は平板だった。
感情を込めずに事実を並べるときの、
あの癖のある抑揚だ。

 ジョージは、口を半分開けたまま固まった。

「……豪華客船に付ける名前か、それ」

 嫌な気分が、胃のあたりにじわりと広がる。
縁起を担ぐ性質ではないが、二週間もの間、
守る対象の名が毒殺と処刑の記憶を
背負っているというのは、
あまり気持ちのいい話ではなかった。

「不吉な名前だなぁ……」

 溜め息混じりにこぼすと、
アルヴェルトは操縦桿から手を離さないまま、
淡々と付け足した。

「ただ、政治手腕は高く、
民衆には人気があったらしい」

 ジョージは返す言葉を探して、見つけられなかった。

 夫を殺した女が、国を巧みに治め、民に愛された。
その二つの事実が、同じ一人の人間のなかに
矛盾なく同居している。
善と悪が一枚の紙の表と裏に
印刷されているような話だった。

 複雑な気持ちが、胸の底に静かに沈んでいく。

 ふと視線を横に流すと、
航法席のラーナは相変わらず航路図に
目を落としたままだった。
だがその口元が、ほんの一瞬だけ、
何か言いたげに動いて、
そして閉じたように見えた。

 気のせいかもしれない。

 気のせいであってほしい、とジョージは思った。
出港まで、あと三十分。
「タイガーシャーク」は、
宇宙の暗がりのなかで、静かに待っている。

        (続く)
 

第百七十六弾「方舟の継承者」

第百七十七弾「方舟の継承者 第二部 小人たちの戦争」

第三百八十九弾「 方舟の継承者 第二部 小人たちの戦争その2」

第三百九十弾「 方舟の継承者 第二部 小人たちの戦争その3」

第三百九十一弾「 方舟の継承者 第二部 小人たちの戦争その4」

第三百九十ニ弾「 方舟の継承者 第二部 小人たちの戦争その5」

の続きです

 

 

# 方舟の継承者

## 第二部 小人たちの戦争

### 第十五章 恩返し

二週間、ロバートは約束を守った。

観測者たちが拾い続ける通信記録の中で、
工藤邸の監視終了に関わる手続きは、
教科書通りに進んだ。
ロバートはラングレーに向けて報告書を送った。
工藤家と未確認飛行物体との関係性は薄く、
家族は有効な情報を保有していない。
あれ以来、目撃情報は皆無。
未確認飛行物体が工藤家に再接触する可能性は
極めて低い——。

淡々とした文体だった。

感情の一切が削ぎ落とされた、
官僚的な報告書。
しかしその行間に、一郎には見えた。
ロバートが意図的に何かを書かないことの、
緻密な意志が。

ケビン・ライトが少し首を傾げたのは、
観測者が拾ってきた映像でわかった。
赤坂のコーヒーショップで報告書を受け取ったケビンが、
最後のページを読み終えて一拍置いた、
あの間。
何かを言いかけて飲み込んだ、あの顎の動き。

しかしケビンは気にしないことにした。

それも観測者が教えてくれた。
次の案件の資料が既に彼の机に積まれていた。
終わった任務の些末な疑問に割く時間を、
ケビンは持っていなかった。

全ての撤収が完了してさらに一週間。

ロバートは帰国しなかった。

「休暇届を提出しました。日本に残ります」
という通知だけが本国に送られ、
それ以上の説明はなかった。
副部長クラスの局員が
現地に一人で残留するのは異例だったが、
長年の勤続実績がある人間の個人的な休暇に、
上が口を挟む理由はなかった。

ロバートは港区のホテルに移った。

公用から私用へ。組織から個人へ。

一郎はその動きを見ながら、
ロバートが待っていることを理解していた。

---

使者を送ったのは、それから三日後の午後だった。

不定形ロボットの一体が、二十代の日本人女性の姿を取り、
ホテルのエレベーターを上った。
フロントで名前を告げ、
内線でロバートの部屋に繋いでもらう。

「お客様がいらしています。田中と申します」

受話器の向こうでロバートが一瞬止まった。

「わかった、上げてくれ」

ドアが開いたとき、ロバートは既にコートを着ていた。
女性の顔を見て、それが普通の人間でないことを
直感したかどうかはわからない。
しかし彼は何も言わなかった。
状況を察した顔で、ただ頷いた。

「外に出ましょう」
女性は日本語で言った。

「ええ、ぜひ」
ロバートは英語で答えた。

---

浅草では、雷門の前で観光客の波に紛れた。

ロバートは仲見世通りを歩きながら、
ごく自然に観光客を演じた。
土産物を手に取り、屋台の食べ物を眺め、
五重塔を見上げた。
隣の女性との会話は、表面的には
何の変哲もない東京観光のそれだった。
しかし観測者たちは、ロバートが
絶えず周囲を確認していることを捉えていた。

視線の動き。
歩くペースの微妙な変化。
人混みの中で背後を確認する際の、首の角度。

三十年のキャリアが染み付いた、本能的な警戒だった。

お台場に移動した午後、
東京湾の光景を背景に二人は並んで歩いた。
この間、観測者たちは周辺の人間を
百人単位で精査し続けた。
尾行なし。
通信傍受なし。
ロバートは本当に一人で来ていた。

ビルの中のトイレに入ったロバートが
個室の鍵を閉めた瞬間、転送が実行された。

---

転送というのは、気持ちのいいものではない。

一郎自身は体験したことがないが、
ブレインの説明によれば、
対象の物質構造を空間座標ごと再配置するプロセスは、
人間の平衡感覚に対して相当な負荷をかけるという。
慣れた者にとっては数秒の不快感で済むが、
初体験では酩酊に近い症状が出ることが多い。

ロバートは個室の床に手をついていた。

四方が真っ白な部屋だった。
壁も床も天井も、均質な白。
光源が見えないのに明るい。
音が違う。
空気が違う。
そして何より、揺れていない。
個室の木の扉があったはずの場所に、何もない。

ロバートは立ち上がろうとして、
膝がうまく動かないことに気づいた。
壁に手をついて体を支え、深呼吸を繰り返した。

そこへ、壁の一面が静かに開いた。

一郎が入ってきた。

「会うのは二度目ですね」

あの夜の路地とは違う顔だった。
変装していない、本来の顔。
一郎は白い部屋の中央に立ち、ロバートを見ていた。
落ち着いた目だった。
十七歳とは思えない、
どこか距離のある静けさを持った目。

「ここはどこだ」
ロバートは言った。

「私はどうやってここに来たんだ」

狼狽えていた。
それを隠す余裕が、今のロバートにはなかった。

「ここはノアの方舟の中です」
一郎は答えた。

「SF映画でよくある転送で、あなたを移送しました」

ロバートは一郎を見た。

その目に浮かんだのは、混乱と、驚愕と
——そして何か別のものだった。
三十年間、証明しようとしてきたものが、
今自分の目の前にある。
その衝撃が混乱を押しのけようとしていた。

「ノアの方舟……ここは海の上なのか?」
ロバートは周囲を見渡した。

「全く揺れていないが」

「海の上じゃない」
一郎は言った。

「空中だ」

「——空中」

「そうです。
高度な隠蔽装置で、世界のどの国にも探知されない。
保有する戦力は、地球上のどの国家も
一瞬で滅亡できるレベル。そして」
一郎は続けた。

「全ての国家の情報機関にスパイを送り込んでいる。
絶対にバレない。
だから、あなたの情報を事前に取得できた」

ロバートの顔から血の気が引いていった。

「全世界の重要人物の本人と親族全てに、
二十四時間体制でスパイが張り付いている」

その言葉の意味を、
ロバートはCIAの副部長として即座に計算した。
全世界の重要人物。
本人と親族全て。
二十四時間。
それが何を意味するか
——世界中の権力者が、知らないうちに
人質に取られているのと同義だ。
そのような力を持つ存在が、
今この空間に自分を連れてきた。

「警戒する必要はない」
一郎は言った。

「我々は地球上の国家に対して何もするつもりはない。
こちらに手を出さない限りは」

ロバートは答えなかった。

「それより」
一郎は言った。

「そもそも、あなたにこんな話をするために
ここへ連れてきたわけではないんです。
あなたが私の頼みを聞いてくれた。
その恩返しをすることが、今日の目的です」

一郎は歩き出した。
「ついてきてください」

---

廊下に出ると、マリアが待っていた。

白を基調とした服。
肩まで届く黒髪。
ロバートは一瞬、彼女を見て目を細めた。
ホテルに迎えに来た女性とは別の顔だった。
しかし何かが似ている
——そう感じたかどうかは、
ロバートの表情からは読み取れなかった。

三人は歩いた。

廊下の広さに、ロバートが気づいた。
天井が高い。
照明に光源が見えない。
空調の音がしない。
足音が吸収される床材。
これは船の中ではない
——ロバートは建物の規模を歩きながら本能的に測っていた。

空港でもない。
要塞でもない。
自分が知っているどんな建造物とも、質が違う。

リニア式の輸送通路を使い、目的の区画に到着するまで、
ロバートは何も言わなかった。

言葉が追いつかないのだと、一郎には見えた。

---

扉が開いた。

その瞬間、ロバートの体が動いた。

意識より先に足が進んだ。
三十年間が、全身を動かした。

部屋の中央に、それはあった。

アカシアの木に金を施した、見覚えのある形。
蓋の上の二体のケルビム像。
向かい合う翼の先が触れ合い、その間に空間を作っている。

くすんだ黄金の表面。蓋の端の小さな欠け。

ロバートは四方から見た。
正面から、横から、斜めから。
しゃがんで下から角度を確かめ、
立ち上がって上から見た。
指先を伸ばしかけて、触れる直前で止めた。

誰も何も言わなかった。

しばらく経ってから、ロバートは静かに直立した。

目が赤くなっていた。
泣いてはいない。
しかし泣くことをかろうじて堪えている人間の目だった。

「これが」
ロバートは言った。

「本物か」

「本物ですが、本物ではない」
一郎は答えた。

「ノアがモーセにコピーさせた聖櫃です。
本物には遠く及ばない性能ですが、
当時の人類にとっては過ぎた力だった。
本物の聖櫃は莫大なエネルギーを生み出す動力装置です。
これはその複製。そして今は壊れている」

「動力装置」
ロバートは繰り返した。

「これが」

「モーセの奇跡と呼ばれるものの大半は、
このアークのエネルギーによるものです。
海が割れたのも、天からマナが降ったのも、
技術の応用に過ぎない」

ロバートはもう一度、箱を見た。

数千年分の時間の重さが刻み込まれた傷と、くすみ。
その奥に、かつては莫大なエネルギーが
眠っていたという事実。
フランクが語ってくれた夜から三十年。
タニスで発見されたものが偽物だったと知ってから三十年。

自分だけが信じ続けた三十年の果てに、
今、その本物の複製が目の前にある。

「ノアは」
ロバートはゆっくりと言った。

「我々が伝説で知っているノアとは、別人なのか」

「方舟が造られたのは約三千年前ではなく、
約七万年前です」
一郎は答えた。

「それからずっと、世界を見守ってきた。
僕は二代目なので、先代とは違います。
ノアの持つ技術は、映画やフィクションで
語られるどんな想像をも上回るものです」

七万年。

ロバートは壁に手をついた。

膝が笑っていた。
三十年でも長いと思っていたのに、七万年という数字が頭に入ってこない。
人類の文明が始まるより前から、この船は空を飛んでいた。

エジプト文明も、ギリシャ文明も、ローマ帝国も、
その上空を、この船が通り過ぎていた。
十字軍が聖地を目指して進軍した空の上を。
モンゴル帝国が大陸を席巻した空の上を。
二度の世界大戦の硝煙が漂った空の上を。

誰にも見えずに。

誰にも気づかれずに。

「なぜ」
ロバートはようやく言った。

「なぜ何もしなかったんだ。
これほどの力があって、
なぜ人類の歴史に介入しなかった」

一郎は少し間を置いた。

「介入したことが、一度ある。
それが、この部屋の話です」

一郎は聖櫃を見た。
「ノアはモーセを信頼した。
その判断は間違っていなかった。
しかしモーセが死んだ後のことを、考えていなかった。
力は、使った後のことまで含めて考えなければならない
——ノアはそれをこの経験で学んだ。
だからこそ、以降は何もしなかった」

ロバートはしばらく黙っていた。

部屋の静寂の中で、黄金の箱が微かな光を反射していた。
ケルビム像の翼が、何千年も向かい合ったまま、動かない。

「私に」
ロバートはゆっくりと言った。

「これを見せた理由は何だ。
後で記憶を消すなら、
私が何を知っても関係ないはずだ。
それでも、わざわざここに連れてきた理由がある」

一郎はロバートを見た。

この男は、やはり鋭い。

「言ったでしょう。恩返しです」

「それだけか?」

一郎は少し考えた。正直に答えることにした。

「あなたのことが、嫌いじゃないからだと思います」

ロバートは一瞬、目を見開いた。
そして静かに、笑った。

笑うと、三十年分の疲れが顔に出た。
五十四歳の男の、本当の顔が出た。

「三十年間、誰にも信じてもらえなかった」
ロバートは言った。

「妻にも。同僚にも。上司にも。
ただの妄執だと言われ続けた」

「知っています」

「それが」
ロバートは聖櫃を見た。

「本物だった」

「本物でした」

しばらく、誰も何も言わなかった。

マリアが部屋の入り口に立って、二人を見ていた。
その表情は穏やかで、何も語らなかった。

「記憶を消された後」
ロバートは言った。

「私はどうなる」

「何も変わらない。
ただ、今日ここで見たことが、頭から消える。
あなたはホテルに戻り、明日以降、自分の人生を続ける。

ARKBIRDの案件は既に終了している。それだけです」

「三十年分の答えが消える」

「そうです」
一郎は静かに言った。

「それでも、今夜ここに来る前と、来た後では、
あなた自身の中で何かが変わっているはずです。
記憶が消えても、その何かは消えないかもしれない」

ロバートは長い息を吐いた。

それから、もう一度だけ、聖櫃を見た。

四方から、もう一度だけ。
指先で空気をなぞるように、触れずに形を確かめた。
蓋の端の欠けを、一番長く見ていた。
その欠けの中に、三千年以上の時間が詰まっている
という事実を、目に焼き付けるように。

「わかった」
ロバートは言った。

「消してくれ」

---

転送でロバートをホテルの個室に戻した後、
一郎はガルーダの背に乗って夜の東京の上空に出た。

眼下に街の光が広がっている。
ロバートが今夜戻っていくホテルの明かりも、
どこかにある。

「ロバートの様子は?」

「現在、ホテルの部屋に戻っています」
マリアの声が耳に届いた。

「転送酔いが残っているようで、
ベッドに腰掛けています。
通信端末には触れていません」

「記憶は消えているか」

「転送時に処理済みです。
今日の午後以降の記憶は存在しません。
本人は観光の途中で気分が悪くなり、
ホテルに早めに戻ったと認識しています」

一郎は東京の夜景を見ていた。

ロバートは今頃、
自分がなぜ急に気分が悪くなったのかと思っているだろう。

あるいは何も思っていないかもしれない。
ただ疲れた体でベッドに座り、
窓の外の夜景を見ているかもしれない。

記憶は消えた。

しかし一郎には、
ロバートが聖櫃の前で三十年分の答えを受け取った
瞬間の顔が、まだ残っていた。
泣かなかった。
笑った。
疲れた顔で、それでも確かに満足した顔で。

正しかった、という顔だった。

「ロバートがただの情熱的な人物なら
いいんだけど」

一郎はまたそう呟いた。
今度も、マリアに聞こえているかどうかは
わからなかった。

ガルーダが高度を上げた。

雲が近づく。
その先に、方舟がある。
七万三千年の時間が、静かに待っている。

一郎は目を閉じた。

ロバートの記憶は消えた。
しかしロバートという人間が、CIA副部長という立場で、
これからどう動くのか。
それはまだ、何も終わっていない話の続きだった。

方舟は今夜も、
誰の目にも映らない冬の空を飛んでいた。

---

*(第二部・第十五章 了 ――続く)*

 

第百七十六弾「方舟の継承者」

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## 第二部 小人たちの戦争

### 第十四章 接触

ロバート・デニスは、その夜、独断で歩くことにした。

大使館を出る際、運転手が公用車を正面に回していた。
ロバートはそれを手で制して、
「今夜は歩く」とだけ言った。
警護担当のケビンが眉を上げたが、
ロバートは気にしなかった。

ホテルまで二十分ほどの距離だ。
冬の東京の夜は冷えるが、耐えられない寒さではない。
コートの前を合わせ、ロバートは大使館の正門を出た。

なぜ歩くのか。

自分でも完全には説明できなかった。

ただ、今夜は歩くべきだという確信があった。
三十年分の直感が、そう言っていた。
何かが動いている。
空気が違う。それを言語化できないが、
長年この仕事をしていると、
そういう感覚が研ぎ澄まされる。
証拠はない。
論理的な根拠もない。
ただ、今夜この道を歩かなければ、何かを取り逃がす。

それだけだった。

ロバートは街灯の光の中を歩いた。

住宅街の静かな夜道だ。
遠くでタクシーが通り過ぎる音がする。
コンビニの光が角に見える。
東京の夜は、ワシントンとも、カイロとも、
テヘランとも違う独特の静けさがある。
ロバートはこの街が、悪くないと思っていた。

歩き始めて五分が経った頃だった。

「副部長」

声が聞こえた。

ロバートは足を止めた。

振り返ると、街灯の光の届かない位置に、
誰かが立っていた。
背丈からすると若い。
コートのポケットに手を入れて、
特に身構えた様子もなく、ただそこに立っている。

ロバートは相手を観察した。

十代後半か、二十代前半か。
顔は見えにくいが、脅威の気配はない。
少なくとも表面的には。
しかし「副部長」と呼んだということは、
自分の身元を知っている。
それだけで十分に異常だった。

「一人じゃないんだろ?」
ロバートは英語で言った。

「私に何が訊きたい」

相手は少し間を置いた。

「訊くことは無い」

流暢な英語だった。
翻訳された言葉ではなく、
生きた言語として使っている感触がある。

「今追っている案件から、手を引くだけでいい」

ロバートは内心で何かが弾けるのを感じた。

表情には出さなかった。
三十年の訓練が、表情筋を制御した。
しかし胸の内側で、確かに何かが鳴った。

手を引け。

この案件を。

ARKBIRDを知っている者が、夜道で待ち伏せている。

「代償は?」
ロバートは落ち着いた声で言った。

「君の知りたい秘密を教える」
相手は言った。

「信じるか信じないかは、君次第だが」

ロバートは相手の顔を改めて見ようとした。
街灯の角度が悪い。
顔の輪郭は見えるが、細部が闇に溶けている。
それが意図的なものかどうかも判断できなかった。

「その証拠は?」

ロバートの声が、わずかに変わった。
それは隠せなかった。
三十年間、この問いを誰かにぶつける日が来るとは
思っていなかった。
思っていなかったが、いつもどこかで待ち続けていた。

相手が動いた。

コートのポケットから何かを取り出し、
ロバートに向かって差し出した。

ロバートは手のひらを広げて受け取った。

黒い。

それが最初の認識だった。
一センチにも満たない断片で、羽根の形をしている。
羽根というより、羽根の一部だ。
表面に細かい構造があり、
見る角度によって光の反射が変わる。

ロバートの指先が、震えた。

これは——。

素材の感触が、ネバダの地下施設の写真の中で見た
分析レポートと、頭の中で重なった。
1936年のタニスで採取されたサンプル。
その分析レポートと統計的に一致すると結論づけられた、
未確認飛行物体の落とし物の素材。
そして今、自分の手のひらにあるこの断片の質感が、
三十年前に読んだその報告書の記述と、
寸分違わず重なっている。

「これは……」

言葉が続かなかった。

ロバートは人差し指の腹で、その断片をそっと撫でた。
金属ではない。
かといって有機物でもない。
そのどちらでもあるような、そのどちらでもないような。
常温なのに体温より少し高く感じる。
表面の微細な構造が、
指先の神経に奇妙な感触を送ってくる。

「本体を見せる用意もある」

相手の声が、静かに続いた。

「ただし、見せた後に記憶を消させてもらうが」

ロバートは顔を上げた。

消す、と言った。記憶を。

普通ならそこで警戒が跳ね上がるはずだった。
しかしロバートの胸に浮かんだのは、警戒ではなかった。

「それでいい」

自分でも驚いた。即答だった。

三十年間追い続けてきたものを、ついに見られる。
たとえその後に記憶が消されるとしても
——見ることができる。
その事実だけで、十分だった。

「後は、君の行動を見てから判断する」

相手はそう言った。
何かを確認するような、品定めするような間があって、
それから続けた。

「そうそう。君の監視チームは全員、
眠らせて記憶を消させてもらったから。
後で回収しておいて下さい」

ロバートは一瞬、言葉を失った。

監視チームが。

全員。

「——」

何かを言おうとしたが、言葉より先に視界が変わった。

相手がいた場所に、霧が立ちこめた。
霧というより、空気そのものが淡く白んだような。
そしてその白みが薄れると、そこには誰もいなかった。

街灯の光が照らす夜道。
コートの裾を揺らす冬の風。自分の白い息。

それだけが残った。

ロバートは手のひらの断片を見た。

消えていない。
確かにある。
夜の光の中で、その表面がわずかに輝いている。

幻覚ではなかった。

ロバートは深く息を吸った。
何年も前から、どこかで覚悟していたはずだった。
しかし実際にその瞬間が来ると、
どんな覚悟も追いつかないことがわかった。
膝が震えていた。
ベテランのCIA副部長が、冬の東京の夜道で、
一人、膝を震わせていた。

監視チームの回収に向かわなければならない。

しかしロバートはしばらく、その場から動けなかった。

手のひらの上の小さな断片を、ただ見つめていた。

---

上空で、ガルーダの背に乗った一郎は
地上を見下ろしていた。

ロバートの姿が豆粒ほどの大きさになっている。
その場に立ち尽くしたまま、動かない。
手のひらに視線を落として、何かを確かめるように。

「どうだったと思う、マリア」

「わかりません」
マリアの声が耳に届いた。

「ただ、動揺は本物でした。
観測者の計測では、会話中の心拍数が
通常の一・七倍まで上昇していました。
経験豊富な諜報員がそこまで反応するのは、
予想外の情報に接触したか、強い感情が生じたか、
そのどちらかです」

「俺には両方に見えた」

一郎は視線を前方に戻した。
東京の夜景が広がっている。
光の海だ。
この光のひとつひとつに人間がいて、
それぞれの夜を生きている。

接触は思ったよりうまくいった。
いや、うまくいったのかどうか、まだわからない。
ロバートが手を引くかどうか、
約束したわけでも、確約を得たわけでもない。
一郎が渡したのはガルーダの羽根の断片と、
「秘密を教える」という言葉だけだ。

「ロバートの通信状況は?」

「現在、大使館に緊急連絡を入れています。
監視チームの安否確認を最優先で要請しているようです。
具体的な内容は——」
マリアが少し間を置いた。

「今のところ、監視チームの回収指示と、
緊急事態の報告にとどまっています。
一郎様との接触については、まだ上に報告していません」

「報告しないのか」

「少なくとも今この瞬間は」

一郎はそれを咀嚼した。

ロバートは即座に報告しなかった。
三十年間追い続けてきた何かと接触したという事実を、
今すぐ組織に共有しなかった。それはなぜか。

信じてもらえないと思ったからか。

確認を取りたいからか。

それとも、この秘密をもう少しだけ、
自分だけのものにしておきたいからか。

「ロバートがただの情熱的な人物ならいいんだけど……」

ガルーダの背の上で、一郎はそう呟いた。
風がその言葉をすぐに散らした。
マリアに聞こえていたかどうかは、わからなかった。

夜風の中で、一郎は考えていた。

ロバート・デニスという人間を、今夜初めて生で見た。
資料の中の顔写真でも、観測者が拾ってきた音声でもなく、

夜道に立つ実物を。
五十四歳の男の、震える手のひらを見た。

嫌いではない、という最初の印象は変わらなかった。

しかしだからこそ、扱いが難しい。

純粋な悪意を持つ相手なら、対処は単純だ。
しかし三十年間の夢を追い続けてきた、
誠実な執念を持つ人間は
——その誠実さごと、
こちらの手に余る何かになりかねない。

ノアとモーセの話が、頭の隅で静かに響いていた。

モーセも誠実だった。
ノアはその誠実さを信じた。
しかしモーセが死んだ後のことを、考えていなかった。

ロバートが誠実であることは、安全を意味しない。

むしろ——。

「マリア」

「はい」

「ロバートの報告書の書き方、これまでの案件処理の傾向、
全部もう一度洗い直してくれ。
観測者が集めたデータを全部使っていい。
ロバートという人間が、情報を得た後にどう動くのか、
パターンを出してほしい」

「了解しました」

「それと」
一郎は少し間を置いた。

「工藤家の監視状況も確認してくれ」

「工藤家についての変化は今のところありません。
監視要員が眠っていますので、
当面は接触リスクが下がっています」

眠っている監視要員たちが、
どれほど経って回収されるか。
回収された後、彼らの記憶がないことを
ロバートがどう処理するか。
それがロバートの次の手を決める。

ガルーダは高度を上げた。
東京の光が小さくなる。
雲が近づく。
その先に、七万三千年の歴史を持つ方舟が、
誰にも見えない空で待っていた。

一郎は手のひらを見た。

ロバートに渡したガルーダの羽根の断片と同じものが、
もう一枚、コートのポケットに入っていた。
渡す前に、万が一のために取っておいたものだ。
その断片を指先で触れながら、一郎は考え続けていた。

今夜の接触は、始まりに過ぎない。

ロバートが手を引くかどうか、まだわからない。
引かなかったとき、どうするか。
引いたとして、本当に引いているかどうか、
どう確認するか。
約束を守る人間かどうか、何を見れば判断できるか。

答えはまだ、どこにもなかった。

方舟が近づいてくる気配を、一郎は感じた。

次元バリアの境界線を越える、あの静電気に似た感触。

一郎は目を閉じた。

東京の夜が、遠くなっていく。

---

ロバートはその夜、ホテルに戻ってから、
報告書を書かなかった。

机の前に座り、手のひらの上の断片を眺めながら、
ただ時間が過ぎるのを感じていた。

監視チームは全員、
近隣の路地や車の中で眠った状態で発見された。
外傷はなく、バイタルは正常。
ただし、記憶がなかった。
最後に覚えているのは、
それぞれが持ち場についていた瞬間までで、
その後の数時間が丸ごと消えていた。

医療的な異常は何もない。

ただ、記憶がない。

ロバートはそれをケビンに報告させ、
事後処理を一任した。

そして一人になってから、断片を見ていた。

あの少年は言った。
本体を見せる用意がある、と。
記憶は消されるが、見られる、と。

三十年間夢見てきたことが、
今夜、声で告げられた。

ロバートは指先で断片を撫でた。

信じるか信じないかは、君次第だ
——という言葉も、頭の中で繰り返した。

三十年間、
誰にも信じてもらえなかった。
フランクが教えてくれたあの夜から、
ずっと一人で信じ続けてきた。

今夜初めて、向こう側から、声がかかった。

ロバートは断片を、
大切にコートの内ポケットにしまった。

報告書は、明日書く。

今夜は——。

窓の外の東京の夜景を見ながら、
ロバート・デニスは、生まれて初めて、
自分が正しかったと確信した。

---

*(第二部・第十四章 了 ――続く)*
 

第百七十六弾「方舟の継承者」

第百七十七弾「方舟の継承者 第二部 小人たちの戦争」

第三百八十九弾「 方舟の継承者 第二部 小人たちの戦争その2」

第三百九十弾「 方舟の継承者 第二部 小人たちの戦争その3」

の続きです

 

# 方舟の継承者

## 第二部 小人たちの戦争

### 第十三章 地上へ

「ロバートに会ってみたいな」

言葉にしてから、自分でも少し驚いた。

漠然と考えていたことが、口をついて出た。
司令室のスクリーンにはロバート・デニスの
人物ファイルが開いたままで、
五十四歳の男の顔写真がこちらを見ている。
深く刻まれた目元の皺と、口元の固さ。
三十年間、誰にも話せなかった
確信を抱えて生きてきた顔だ。

マリアが一郎を見た。
「危険では?」

「ある程度のリスクは覚悟している」
一郎は言った。

「リスクなく何かを得るのは難しいしね」

「根拠は?」

「直感」

マリアは少し間を置いた。
その沈黙は、否定ではなかった。
一郎の意思が固いことを確かめるための、
静かな時間だった。

三秒ほどで、マリアの表情が切り替わった。

反論から、実行へ。

「ブレイン」
マリアは言った。

「最適な護衛構成を算出してください。
条件は——一郎様の存在を相手に悟らせない、
万が一の際に即時対応可能、
かつ撤退経路を常時確保すること」

「了解しました。三つの護衛要素を提案します」

ブレインの声が司令室に響いた。
スクリーンの片隅に、構成図が展開されていく。

「第一に、小人型観測者を百体。
一郎様を中心に半径五十メートル以内を常時カバーし、
周辺人物の動向、電磁波、通信傍受を
リアルタイムで処理します。
第二に、不定形ロボットを三体。
マリア様と同じくナノマシン集合体ですが、
今回は戦闘特化型のプログラムを適用します。
人間、動物、構造物、いずれの形状にも即時変化可能で、
接触制圧から電磁パルス放出まで対応します。
第三に、ガルーダを一体。
ステルス状態で上空待機させ、
いざという時にステルスを解除して地上の視線を集め、
相手の注意を一郎様から引き離す陽動として機能させます」

一郎は構成図を眺めた。

百体の観測者。
三体の戦闘型ナノマシン。
上空のガルーダ。
それだけの戦力が見えない状態で自分に付き添う。
地上の人間には、
一人の少年が歩いているようにしか見えない。

「ガルーダが姿を現したら」
一郎は言った。

「目撃情報がまたSNSに上がるんじゃないか」

「その可能性はあります。
ただ、一郎様の身の安全が脅かされる局面では、
多少の目撃情報より対処を優先すべきです」

「まあ、そうだな」

「それと」
マリアが立ち上がり、一郎の前に来た。
その手に、二つのものがあった。

細い腕輪と、幅広のベルトだ。
どちらも黒く、表面に細かい凹凸がある。
材質は金属のようでもあり、
柔らかい素材のようでもあった。

「いざという時のお守りだと思って下さい」

一郎は腕輪をまず手に取った。
軽い。指先で押すと、
金属ではなく弾力のある感触がある。

「何が入ってる?」

「後でわかります」
マリアは微かに微笑んだ。

「今は付けておいて下さい」

一郎は腕輪を左手首に付け、ベルトを腰に通した。
違和感はなかった。
着けていることを忘れるほど軽い。

「出発はいつにします?」
ブレインが訊いた。

一郎はスクリーンの
ロバート・デニスの顔写真を最後に見た。

「今夜」

---

格納庫ブロックAは、方舟の内部でも
一郎が最も好きな場所のひとつになっていた。

天井が高い。
照明が均等で、影が薄い。
そして何より、ガルーダがいる。

三十六機のガルーダが格納されたこの空間は、
静かなときでも生きているような気配があった。
機体のひとつひとつが、
整備用の足場に囲まれながら待機している。
一郎が入ってくると、
一番手前の一番機が黄金色の目をゆっくりと開いた。

「久しぶり」

一郎はガルーダの翼の根元に手を触れた。
あの夜、工藤邸の庭に降りてきたときと同じ、
柔らかく温かい感触。
ロボットであることを頭でわかっていても、
この感触は毎回、生き物のそれとしか思えなかった。

「一郎様」
ブレインの声が格納庫に響いた。

「出発前に確認事項があります。
今回の地上行動において、
一郎様の本来の顔での行動は推奨しません。
工藤邸周辺には現在もCIAの監視要員が展開しており、
前田一郎の人物照会が行われている可能性があります」

一郎はその指摘を聞きながら、ガルーダの翼に乗った。

「変装の手段は?」

「マリアが対応します」

格納庫の天井が静かに開いていく。
夜空が見える。雲が少なく、星が出ていた。
ガルーダが翼を広げ、音もなく上昇を始める。

地上に向かいながら、
一郎は久しぶりに見る夜の地球の光を眺めた。

---

降下するにつれて、空気が変わった。

方舟の内部は常に完璧に調整されているから、
外の空気の変化が逆にリアルに感じられる。
冬の夜の冷たさ、湿度、かすかな排気の匂い。
それが肌に触れた瞬間、
一郎は自分が確かに地上に戻ってきたと感じた。

ガルーダは人気のない公園の一角に降りた。
東京の住宅街の端に位置する小さな公園で、
夜の十時を過ぎた時刻には人がいない。
ガルーダは着地と同時にステルスを展開し、
視覚的に消えた。
感触はあるが、見えない。
一郎は翼から降り立ち、冬の夜の空気を一息吸った。

久しぶりの地上だった。

頭上に空がある、本物の、果てのない空が。
方舟の内部からスクリーン越しに見るのとは違う。
足の下に土がある。
風が頬を撫でる。
遠くで犬が吠えている。
コンビニの光が見える。
当たり前の夜の住宅街が、そこにあった。

一郎はしばらくその感触の中に立っていた。

懐かしかった。

方舟に乗ってから、
一郎は一度も地上への郷愁を声に出したことがなかった。
出す必要を感じなかった、というより、
そんなことを考える隙間がなかった。
睡眠学習があり、目覚めがあり、
ブレインとの対話があり、
ロバート・デニスの件があり
——気づけば三ヶ月以上、地面を踏んでいなかった。

当たり前だと思っていたものを、
失ってから初めてその重さを知る。

一郎はそのことを、七歳のときに学んでいた。

「——」

ふと、気がついた。

一郎は自分の顔を触った。

素顔だ。

工藤邸の方向まで歩こうとしていたが、
CIAの監視要員が展開している区域に、
前田一郎の顔で近づくのはまずい。
今さらのように気づいて、一郎は立ち止まった。
三ヶ月分の判断力と方舟の知識が頭に入っているくせに、
一番基本的なことを見落としていた。

「ご主人様」

マリアからの通信が耳に届いた。
その声のトーンに、笑いが混じっているように聞こえた。
気のせいかもしれないが、一郎にはそう聞こえた。

「先ほど渡した腕輪を、顔に近づけてみて下さい」

一郎は左手首の腕輪を持ち上げ、顔の前に近づけた。

瞬間、頭の中に映像が流れ込んできた。

顔だった。

様々な顔のパターンが、高速で展開されていく。
年齢も、輪郭も、目鼻立ちもバラバラな、無数の顔。
データベースから生成されたものだろうか。
一郎は思わず目を細めた。

「これは?」

「その腕輪とベルトはナノマシンの集合体です。
一郎様が今、顔を変えたいと思った
——その意図を読み取って、選択肢を表示しました。
選んでいただければ、その顔に変装できます」

「意図を読み取る?」

「腕輪に内蔵された微細なセンサーが、
皮膚の電気信号と脳波の表層パターンを読んでいます。
思考を盗み読みするものではありません。
意図の方向性を大まかに把握する程度です」

一郎は展開された顔のパターンの中を、視線で走査した。
端正な顔、平凡な顔、老けた顔、若い顔。
一郎が選んだのは、特徴のない顔だった。

目が普通。鼻が普通。輪郭が普通。
街を歩いていても、誰も振り返らない顔。
二度見されない顔。
信号待ちで隣に立たれても記憶に残らない顔。

その顔を、意識の中で選んだ。

腕輪が温かくなった。

何かが顔に触れる感触があった。
痛みはない。
むしろ微かに心地よい、
体温に近い温もりが顎から額へと広がって、
すっと消えた。

一郎は公園の隅のカーブミラーに近づいて、
自分の顔を見た。

知らない顔がそこにあった。

間違いなく自分の体で、自分の服を着ている。
しかしミラーの中の顔は、前田一郎ではなかった。
先ほど選んだ、どこにでもいる普通の少年の顔だ。
一郎は顔に手を当てた。
触れた手に伝わる感触は、いつもの自分の顔と変わらない。

しかしミラーには別の顔が映っている。

「便利なものだな」

声も少し変わっていた。
自分の声よりわずかに低い。

「ベルトも同様の機能を持ちますが、
こちらは体型と声の微調整を担います。
今は背丈に合わせた基本設定が入っています」

「ありがとう、マリア」

「お気をつけて、ご主人様」

一郎は公園を出た。

住宅街の夜道を歩き出す。
街灯が等間隔に並び、その光の輪の中を一郎は歩いていく。

一人で歩いているように見えた。
しかしその周囲の空気の中に、見えないものが満ちていた。

百体の観測者が、
一郎の半径五十メートルをカバーしながら動いている。
すれ違う人間の呼吸数を計測し、視線の方向を追い、
通話の電波を傍受し続けている。
三体の戦闘型ナノマシンは、
人間の目には見えない形状のまま、
一郎の左右と背後に位置している。
上空には、ステルス展開したガルーダが
音もなく旋回していた。
その黄金色の目が、地上のすべてを見下ろしている。

どれだけ見渡しても、誰にも見えない。

前田一郎はただ一人、冬の夜の住宅街を歩いていた。

知らない顔で。

七万三千年の歴史を背負って。

工藤邸の方向に向かって、一歩ずつ。

---

*(第二部・第十三章 了 ――続く)*

 

 

第百七十六弾「方舟の継承者」

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## 第二部 小人たちの戦争

### 第十二章 ARKBIRD

ロバート・デニスが初めてその話を聞いたのは、
CIA本部ラングレーに入局して三ヶ月が経った、
秋の夜のことだった。

教えてくれたのは先輩局員のフランク・コリンズ
——当時すでに六十代後半で、
引退まで数年と言われていた古株だった。
二人でカフェテリアに残り、
他に人がいなくなったことを確かめてから、
フランクはコーヒーカップを両手で包むようにして、
声を落とした。

「お前、歴史上の案件で何が一番面白いと思う?」

「ベイ・オブ・ピッグス侵攻か
マンゴスティン作戦あたりですかね」
ロバートは答えた。

彼も当時はまだ教科書的な優等生だった。

フランクは鼻で笑った。

「そういうのは表の教科書に載ってる話だ。
俺が言ってるのは、本当の意味で面白い案件だ」

「たとえば?」

「1936年」
フランクは言った。

「ナチスドイツと米陸軍情報部が、
エジプトで争奪戦を演じた」

ロバートは黙って続きを待った。

「お前、The Lost Arkって知ってるか」

「映画なら」

「映画の元ネタだよ。
ハリウッドが面白おかしく作った話だが、
元になった実際の案件がある。
1936年にエジプトのタニスで、
ドイツの考古学チームが発掘作業を行っていた。
その目的は表向き歴史的遺物の調査だったが、
実際はヒトラーが個人的に命じた
別の何かを探すための作業だった。
CIA工作員だった俺の父達は

それをいち早く察知して先に手を打った。
現地エージェントを使って発掘物を横取りし、
本国に持ち帰った。
ドイツが何を探していたかわかるか」

「聖櫃、ですか」

フランクは頷いた。
「アーク・オブ・ザ・コヴェナント。
旧約聖書に記された、神との契約の箱だ。
そしてうちの連中はそれを、実際に見つけた」

ロバートはその瞬間、笑いそうになったが、
フランクの目が真剣なのを見て飲み込んだ。

「その箱はネバダ州の地下施設に保管された。
アメリカ政府の最高機密として。ただ」
フランクはコーヒーを一口飲んだ。

「後から問題が出た。
専門家を入れて詳しく調べた結果、
それが偽物だったと判明した。
本物に非常によく似た、しかし別の何かだった。
本物はどこにもない。今も」

「その案件の記録は?」

「三重ロックの金庫の中だ。
お前が今持ってる認証レベルじゃ開けられない」

ロバートは二十六歳だった。

その夜から、彼は変わった。

---

三十年近い時間をかけて、ロバートは認証レベルを上げた。

キャリアを積み、語学を磨き、
中東とアジアの地政学に精通し、
局内の評価を着実に積み上げた。
その動機の核に、あの夜フランクから聞いた話があった。
一度も人に話さなかった。
話せばキャリアに傷がつくと本能的にわかっていたから。
しかし忘れたことは一度もなかった。

五年前、
ようやく該当する記録にアクセスできる認証を得た。

記録を読んだ。

フランクの話は正確だった。
1936年、タニスの発掘現場。
ドイツの考古学チームを出し抜いた
米陸軍情報部のエージェントたち。
ネバダの地下施設に運び込まれた黄金の箱。
そして——後に行われた詳細な科学的分析の結果報告。

その報告書の結論部分を、ロバートは今も暗記している。

*当該遺物は、聖書の記述と外観的に高い一致を示す。
素材はアカシア材に金箔を施したものであり、
推定年代は紀元前十世紀から十一世紀に相当する。
ただし内部構造の精密分析において、
既知のいかなる古代技術とも一致しない
加工痕が複数確認された。
これは当該遺物が、オリジナルの精巧な
複製である可能性を示唆する。
オリジナルの所在は不明。
本案件は未解決のまま凍結する。*

複製。

オリジナルは別にある。

そのオリジナルが、
どこかに存在しているという可能性を、
ロバートは三十年間抱き続けてきた。
そして半年前、東京支局から上がってき
一枚の不鮮明な画像が、彼の手元に届いた。
日本のSNSから拾い上げられた投稿に添付されていた写真。

住宅街の夜空に写り込んだ、巨大な翼の影。
AIによる画像分析の結果が示したのは
——有機的構造を持ちながら、
金属または複合素材製の可能性がある、
既知のいかなる生物にも該当しない飛翔体、
という結論だった。

さらに翌日、その翼の落とし物が発見された。

地元の住民が庭先で見つけた、黒い羽根のような欠片。
一センチにも満たない断片だったが、
近隣の大学の材料工学の教授がSNSに分析結果を投稿した。

それをCIAの分析部門が拾い上げ、
独自に詳細分析を行った結果が、
ロバートの机に上がってきた。

分析結果は、一行の結論で終わっていた。

*当該素材の加工技術は、
1936年のタニス案件で採取されたサンプルの加工痕と、
統計的に有意な一致を示す。*

ロバートはその報告書を読んだとき、
三十年分の直感が一点に収束する感覚を覚えた。

これだ。

これが、あの話の続きだ。

---

駐日米国大使館の一室は、窓がなかった。

防音処理が施された壁。
フロア全体を電磁シールドで覆う設備。
外部ネットワークとは物理的に遮断された、
自己完結した作戦室。
ロバートは本国から持ってきた書類鞄をテーブルに置き、
ケビン・ライトの向かいに座った。

ケビンは三十九歳で、東京に来て六年になる局員だった。
日本語が堪能で、現地のネットワークを
丁寧に構築してきた、実務能力の高い男だ。
しかし今回の案件については、
その意義をどこまで理解しているか、
ロバートには測りかねていた。

「工藤邸の調査報告は?」

ケビンは迷わず手元の紙束を差し出した。
十数枚。
ロバートは受け取りながら、
その仕草の淀みのなさを確認した。
きちんと準備している。

「現在も二十四時間体制で監視し、
情報収集を継続しています」

ロバートは報告書に目を走らせた。
工藤優樹、五十二歳、外科医。
妻の亜佑美、四十八歳、専業主婦。
娘の遥、十八歳、受験生。
そして空白——前田一郎、十七歳。失踪。
戸籍上は工藤家の親戚として登録されており、
七歳のときに両親を失って引き取られた経緯がある。

「ターゲット——前田一郎の失踪当夜、
工藤家の人間は何をしていた?」

「医師の工藤優樹と妻の亜佑美は庭に出ていました。
庭に出た理由は不明。
娘の遥は自室にいたと推定されます。
翌朝、警察への届け出はなし。
行方不明として捜索願を出した形跡もなし。
一郎が自発的に家を出たと認識している可能性が高い」

「工藤家は知っているかもしれない」

「その可能性はあります。
ただ、接触して直接聞き出すことは——」

「しない」
ロバートは即座に言った。

「接触は最後の手段だ。今は監視と情報収集に徹する。
工藤家の人間が外で誰かと接触したとき、その相手も追え」

「了解しています」

「誰にもバレていないだろうね」
ロバートは念を押した。
それは習慣的な確認であると同時に、
この案件においては特別な意味を持つ問いだった。

ケビンは表情を変えなかった。
「別働隊に監視チームを監視させていますが、
今のところ不審な人物は見つかっていません」

自信のある答えだった。

ロバートは頷いた。

しかしその瞬間、ロバートの背中で何かが動いた。

感覚ではない。
錯覚でもない。実際に何かがそこにあった。
ジャケットの背中の縫い目の裏側、
肩甲骨のやや下の位置に、
体長一・五センチの人型ロボットが張り付いて、
この部屋の音のすべてを拾い、
リアルタイムで七万三千年前から
飛び続ける方舟に送信していた。

ケビンの背中にも、同じものがいた。

二人はそれを知らない。
知る術がない。
窓のない部屋の電磁シールドも、
別働隊による監視者への監視も、
観測者たちの前では意味をなさなかった。
観測者は金属ではなく有機的複合素材で
作られているため電磁センサーに反応しない。
体温は周囲の温度に合わせて
自動調節されるため赤外線カメラにも映らない。
重さは〇・〇三グラム。
人間の皮膚感覚では感知できない。

ロバートとケビンの会話は、言葉が発せられた瞬間から、
すでに方舟の情報処理区画に記録されていた。

「どんな些細な情報でもいいから、
全て報告するよう厳命しておけ」
ロバートは言った。

「一郎が庭を出た夜に誰かが空を見上げたなら、
その人間が何を見たのかも知りたい。
近隣住民の中に、あの夜のことを話している者がいれば、
その内容も全部だ」

「現地の協力者に徹底させます」

「それからSNSの監視も継続してくれ。
あの投稿をしたユーザーの特定は?」

「済んでいます。
東京都在住の三十代の男性で、
現在も同住所に居住確認済みです。
本人は投稿後に特に動きはなく、
閲覧数が伸びなかったことに
落胆したような投稿をしています」

「接触は?」

「まだです。タイミングを見計らっています」

ロバートは報告書の最後のページを読み終えて、
紙束をテーブルに置いた。

三十年。

三十年かけてここまで来た。
入局したての若者にフランクが話してくれた夜から、
認証レベルを上げるために費やした歳月から、
アジア担当副部長の椅子まで昇り詰めた時間から、
今日という日まで。
その全部が、今この作戦室に集約されている。

「ケビン、一つ確認したい」
ロバートは言った。

「お前はこの案件を、どう見ている」

ケビンは少し間を置いた。
「正直に言いますか?」

「そのために聞いている」

「未確認物体の目撃情報と素材分析の一致は、
確かに説明がつかない。
ただ、それが聖書の聖櫃と結びつくという話は
——本国のアナリストの大半が懐疑的です。私も」
ケビンは率直に言った。

「素材の分析一致は、異なる起源を持つ素材が
偶然に類似した加工痕を持ったという可能性も
排除できない。
ラボの分析ミスかもしれない。
前田一郎が特異な能力を持つという推測も、
根拠が薄い」

「だとしたら?」

「一人の高校生の失踪案件で、
副部長がわざわざ来日する理由がありません」

ロバートは少し笑った。
若い頃の自分もそう言っただろう、と思った。
証拠を見てから動く。
証明できないものは追わない。
それがCIAの基本だ。

しかし三十年で学んだことがある。

証拠が揃ってから動く者は、常に後手に回る。

「お前の懐疑論は正しい」
ロバートは言った。

「合理的に考えれば、これは分析ミスかもしれない。
一件の失踪案件かもしれない。ただ——」
彼はテーブルの上の紙束を指先で軽く叩いた。

「俺が三十年この仕事をしてきて学んだのは、
説明がつかないものを説明がつかないまま
放置した案件が、後に取り返しのつかないことになる
ということだ。
説明がつかないものには、説明がつかない理由がある」

ケビンは答えなかった。否定もしなかった。

「作戦を続けてくれ」
ロバートは立ち上がった。

「些細なことでも全部上げろ。俺はここにいる。
何かあればいつでも叩き起こしていい」

「了解しました」

ロバートは作戦室を出た。
廊下を歩きながら、コートの衿を立てた。

この大使館の建物の中を、今この瞬間、
どれほどの情報が流れているか。
CIA局員が動き、外交官が動き、
現地スタッフが動いている。
そのすべての音を、壁の隙間に張り付いた
体長一・五センチの何かが拾い続けていることを、
ロバートは知らない。

---

方舟の司令室で、
前田一郎はその日のリアルタイム記録を聞いていた。

ロバート・デニスとケビン・ライトの会話が、
ブレインによって翻訳されて流れる。
一郎はそれを、食後のお茶を片手に、
背もたれに深く体を預けて聞いていた。

「ブレイン」
聞き終えて、一郎は言った。

「このロバート・デニスという人物の経歴、
詳しく出してくれ」

スクリーンに人物ファイルが展開された。
生年月日、出身、学歴、入局以来のキャリア。
表向きの情報だけでも、その輪郭は鮮明だった。

「1936年のタニス案件を三十年間追いかけてきた」
一郎は言った。

「それだけのために、副部長まで出世した」

「そのように推定されます」

一郎は少し黙った。

嫌いではない、と思った。

自分の信念のために三十年間動き続けた人間というのは、
たとえ自分の障害になったとしても、
単純に嫌いにはなれない。
あの会話の中のロバート・デニスには、
本物の執念があった。
証明できないものを追い続けることの孤独と、
それでも追い続けることの意志が、
ケビン・ライトとのやり取りの行間に透けて見えた。

「タニスで回収されたのは」
一郎は確認した。

「アークの複製だったんだな」

「はい。ノア様がモーセに作らせたものの、
さらに後代に作られた模倣品です。
複製の複製というべきもので、
本来のアークとは素材も構造も大きく異なります。
ただ外観は精巧に模されており、
当時の技術では真贋の判別が困難でした」

「1936年の分析サンプルと、
ガルーダの落とし物が素材的に一致した」

「分析担当者が気づいた点は鋭いと言えます。
どちらもノア様が開発した素材系統に属しているため、
化学的な特徴に共通点があります。
ただし直接的な証拠にはなりません。
ロバート・デニスがその繋がりに気づいたとしても、
それが方舟の存在を示すという論理的な跳躍には、
いくつかの欠落があります」

「本国のアナリストが懐疑的な理由もそこだな」

「はい。ケビン・ライトの分析は冷静で正確です。
現状ではロバート・デニスの直感と執念だけが、
この調査を支えています」

一郎はお茶を一口飲んだ。

「その直感と執念が、一番やっかいなんだよな」

「そうです」
マリアが隣で言った。

「証拠のない確信を持つ人間は、
証拠が揃った後より前の段階の方が、
行動が読みにくい」

一郎はマリアを見た。
「どういうこと?」

「証拠がある状態で動く人間は、証拠に従って動きます。
だから次の手が予測できる。
しかし確信だけで動く人間は、
証拠の有無に関わらず自分の信念に従って動く。
時に論理を超えた行動をとることがあります」

「俺みたいなもんか」

「そうかもしれません」
マリアは静かに言った。

「だからこそ危険だとも言えます」

一郎は少し笑って、スクリーンのロバートの顔写真を見た。

五十四歳。グレーの髪、深い目の皺、口元の固さ。
三十年間、誰にも話さずに
一つのことを追い続けてきた顔だ。

「工藤家の監視が続いている以上」
一郎は言った。

「いつかは何かしら動かないといけない。
でも今はまだ見ておく。
ロバート・デニスという人間を、もう少し知りたい」

「了解しました」

「どんな些細なことでも全部上げると言った。
それを逆手に取る方法がそのうち見えてくるかもしれない」

部屋に沈黙が落ちた。

スクリーンには工藤邸の映像が映っていた。
冬の夜の、当たり前の光が窓から漏れている。
亜佑美が夕食の片付けをしている影が動いている。
遥の部屋の窓は明かりがついていた。
受験勉強だろう。

観測者たちは今この瞬間も、
大使館の廊下を歩くロバートの背中に張り付いている。
彼が何を考え、どこに向かい、誰と話し、
何を命じるかを、すべて記録し続けている。

ロバートは知らない。

三十年追い続けてきた謎の核心に、
自分がこれほど近い場所にいることを。
そしてその謎の側が、
とっくに自分を見つめていることを。

前田一郎は十七歳だった。

五十四歳のロバート・デニスを、
方舟の司令室から静かに見ていた。

---

*(第二部・第十二章 了 ――続く)*

 

 

第百七十六弾「方舟の継承者」

第百七十七弾「方舟の継承者 第二部 小人たちの戦争」

の続きです

 

# 方舟の継承者

## 第二部 小人たちの戦争

### 第十一章 失われた聖櫃

それは、思っていたよりずっと小さかった。

前田一郎は、
その箱の前に立って、しばらく動けなかった。

博物館の展示品のように、
方舟の一区画に設けられた部屋の中央に、
それは置かれていた。
台座はなかった。
床に直接、ただそこにある。
照明は部屋の四隅から均等に当てられていて、
影ができないように計算されているようだった。
しかしどれほど均等に光を当てても、
その箱の周囲にはどこか、
光が届かない領域があるように感じられた。
闇ではない。
光でもない。
ただ、普通の空間とは質の違う何かが、
その箱を取り囲んでいた。

アカシアの木でできている。
表面は金で覆われていた。
長さは一郎の目測で一メートル強、
高さと幅はその半分ほど。
蓋の上には二体の像が向き合うように立っていた。
翼を広げた人型の像
——ケルビムと呼ばれる天使の像だと、
睡眠学習で得た知識が自動的に補足した。
向かい合う二体の翼の先が触れ合い、
その間に空間を作っている。

黄金の表面は、数千年の時間をまとっていた。

くすんでいる。
傷もある。
蓋の端に、小さな欠けがある。
それが、この箱が実際に存在したものであること、
どこかの神話の中の話ではなく、
確かに誰かの手で作られ、誰かの手で運ばれ、
戦場をくぐり、砂漠を越え、神殿に安置され、
そして消えたものであることを、生々しく証明していた。

「本物だ」

一郎は声に出してから
それが当たり前のことだと気づいたが、
当たり前だとわかっていても
言わずにはいられなかった。

「はい」
マリアが隣に立って答えた。

「本物です」

---

この部屋に来たのは、
ブレインからの案内があったためだった。

CIAの動向を把握し、工藤家周辺の監視状況を確認した後、

一郎は方舟の各区画を把握する巡回を日課にしていた。
七・三キロメートルの巨体の中には、
睡眠学習で頭に入っているとはいえ、
実際に目で見ていない場所がまだ無数にある。
知識と実感は別物だ。
ブレインに案内を頼むと、
今日は特別に見ておくべき場所があると言った。

その「特別な場所」が、この部屋だった。

「ブレインが言っていた
『ノア様が閲覧を制限した七度の対処記録』
の一つと関係があります」
マリアが静かに言った。

「この部屋を見ていただいてから、
その記録の一部をご覧いただこうと
ブレインが判断しました」

「なぜ今日?」

「一郎様がノアという人物をどう見ているかが、
今後の判断に影響すると思われたからです」

一郎はその答えの意味を少し考えてから、
マリアに説明を促した。

マリアは箱の前に静かに立ち、
その黄金の表面を見ながら話し始めた。

「この箱は、ソロモンの秘宝、あるいは聖櫃
——失われたアーク、と呼ばれてきたものです」

「知ってる」
一郎は言った。

「旧約聖書に出てくる。
十戒が刻まれた石板を入れた箱だろう」

「教典の記述としては正しいです。
ただ、本来の用途は別にあります」
マリアは一郎を見た。

「これは元々、この方舟
——ノアの方舟の動力源として開発されたものです」

一郎は一瞬、言葉を失った。

「動力源?」

「はい。方舟の主機関として設計された、
エネルギー変換装置です。
この箱の内部には、現代の科学では
再現不可能な構造が組み込まれており、
真空エネルギーを直接電力に変換する機能を
持っていました。
稼働時の出力は、現在の方舟が搭載している
主エネルギープラント三基を合算した値の、
およそ三十倍に相当します」

三十倍。

一郎は今の方舟のエネルギー生産量を頭の中で計算した。
その数字に三十を掛けた結果が出てきたとき、
それが何を意味するのかを理解するのに、
しばらくかかった。
それだけのエネルギーを持つ箱が、
今、自分の目の前に、床に直接置かれている。
動かない状態で。

「モーセは」
マリアは続けた。

「ノア様の存在を、直接ではありませんが
間接的に知っていました。
精確に言えば、方舟の痕跡を知っていた。
その知識を元に、ノア様にある依頼をしました」

「依頼?」

「エジプトに囚われたイスラエルの民を
解放するための力を貸してほしいと。
ノア様はモーセという人物の志と誠実さを見て、
この動力源の——複製を作ることを許可しました」

「複製」

「不完全な複製です」
マリアは箱を見た。

「ノア様は設計図を一部だけ開示し、
細工師のベツァルエルに製作させました。
意図的に出力を制限し、
完全な再現ができないよう設計を省いた形で。
それでも、当時の人類にとっては想像を絶する力でした」

一郎は黄金の表面の傷を見た。
蓋の端の欠けを見た。
数千年分の時間の重さが、その傷の中にある。

「モーセの奇跡というのは」

「そのほぼすべてが、
複製のアークのエネルギーによるものです。
海が割れたのも、水が岩から湧いたのも、
天からマナが降ったのも
——アークが大気中の水分や微粒子をエネルギーで
操作した結果です。
当時の人々の目には奇跡と映ったでしょう。
しかしノア様の技術から見れば、
出力を絞った動力装置の、
初歩的な応用に過ぎませんでした」

「それを」
一郎は言った。

「ノアは見ていたのか」

「見ていました。
当初は、モーセという人物ならば
アークを正しく使うと信じていました。
実際、モーセ自身は節度を持ってアークを扱いました。
しかし問題はモーセの死後でした」

マリアは少し間を置いた。

「モーセの後継者たちは、
アークを戦争の道具として使いました。
エリコの城壁を崩したのは
アークの超音波出力によるものです。
ペリシテ人との戦いで敵に鼠疫をもたらしたのは
アークの電磁波照射によるものです。
アークに触れた者が即死したという記述は、
絶縁処理を知らない人間が動力装置に
素手で触れた際の感電死です。
ノア様はその経緯を、
距離を置いて観察し続けていました」

一郎は箱を見た。

黄金の天使像が向かい合っている。
翼の先が触れ合っている。
その下に、何千年もの間
「神の力」として崇められてきた
エネルギー装置が眠っている。

「ソロモン王の時代に」
一郎は言った。

「エルサレム神殿に安置されてからは、
使われなくなったと聞いた」

「ソロモン王はアークを戦争に使うことをしませんでした。

神殿の至聖所に収め、年に一度、
大祭司だけが近づくことを許した。
ノア様はその扱いを見て、しばらくは静観していました。
しかしソロモン王の死後、
王国が分裂し、周辺諸国との戦いが激化する中で、
アークが再び戦争利用される可能性が高まった」

「それで回収した」

「紀元前586年、
新バビロニア王国がエルサレムを破壊する直前に、
ノア様は小人型ユニットを使って
アークを神殿から持ち出しました。
バビロニア軍がエルサレム神殿に踏み込んだとき、
アークはすでにここにありました」

一郎はその情景を頭の中で想像した。

炎に包まれるエルサレム。
崩れ落ちる神殿の柱。
その混乱の中で、誰の目にも見えない小さな存在たちが、
黄金の箱を静かに運び出している。
地上では歴史が動き、人々が泣き、神殿が燃え、
そして誰も知らないところで、
ある老人の判断がひとつ執行されていた。

「ノアは」
一郎はゆっくりと言った。

「それをどう思っていたんだろう」

「記録が残っています」

ブレインの声が部屋に響いた。

「ノア様は回収後の記録にこう記しています。
——『私の判断は間違っていた。
モーセは信頼に足る人物だったが、
私が過小評価していたのは、
モーセという個人ではなく人間という種の
時間的な連続性だった。
優れた個人に力を預けても、その個人は死ぬ。
死んだ後に力が何をするかを、私は考えていなかった。
これは私の失敗だ』」

部屋が静かになった。

一郎は、その言葉を何度か頭の中で繰り返した。

*これは私の失敗だ。*

何万年も生き、方舟を持ち、
人類の歴史を俯瞰し続けたノアが、そう書いた。
言い訳をしなかった。
環境のせいにしなかった。
モーセの後継者たちのせいにしなかった。
「私の失敗だ」と書いた。

一郎はこれまで、ノアという人物に対して、
どこか神話の中の完全な存在というイメージを持っていた。

何万年も生きて、すべてを見通して、
常に正しい判断をしてきた存在。
方舟という超技術を持ち、
小人を世界中に放って情報を集め、
七度の接触をいずれも切り抜けてきた存在。

でも、そうではなかった。

ノアは間違えていた。
信頼した相手の誠実さを見抜く目はあったが、
その先を——その人が死んだ後の世界を——見誤った。
そして見誤ったことを、
何万年の歳月を経た今も記録として残していた。

その人間らしさが、一郎の胸に染み込んできた。

「修理はしないのか」
一郎は箱を見たまま言った。

「動力源として使えれば、方舟の出力が上がるんだろう」

「修理はしません」
マリアが答えた。

「ノア様の指示です。
壊れた状態のまま、戒めとしてここに置いておくと」

「戒め」

「ノア様自身への戒めだったと思います。
そして継承者への戒めでもあります。
力があれば使いたくなる。
使うことを誰かに頼まれれば、応えたくなる。
相手が誠実であれば、なおさら。
しかし力は、使った後のことまで含めて
考えなければならない。
この箱は、そのことを忘れないための装置として、
ここに置かれています」

一郎はしばらく、何も言わなかった。

黄金の箱は、黙って佇んでいた。
蓋の上のケルビム像が向かい合って翼を広げたまま、
何万年もそうしてきたように、
これからも何万年もそうし続けるように、
静止していた。

映画の中でインディ・ジョーンズ
が命懸けで追い求めたものが、今自分の目の前にある。
あの映画を見たとき、一郎は画面の中の黄金の箱を
架空のものとして見ていた。
歴史の謎をドラマチックに仕立てた、
フィクションの小道具として。
それが今、本物として、
傷とくすみとともに、確かにそこにある。

架空だと思っていたものの実物を見るというのは、
奇妙な感覚だった。
世界の輪郭が少しずれるような、
自分が立っている地面の材質が変わるような。

「ノアは」
一郎はゆっくりと言った。

「失敗した後、何をした?」

「アークを回収した後、
ノア様は長い期間、方舟から
何も行わない時期がありました。
記録によれば数百年。
その後、小人型ユニットの設計を根本から見直し、
目撃された際の対処プロトコルを整備し直しました。
失敗を、次の行動の基準に組み込んだのです」

一郎は頷いた。

失敗は誰にでもある。
何万年生きたノアにも、ある。
問題はその後だ。
終わりにするか、糧にするか。
ノアは糧にした。
数百年かかっても、立て直した。

自分はどうだろう。

まだ何も始まっていないに等しい。
CIAが動き始め、工藤家が監視され、
自分は方舟の中で状況を眺めている段階だ。
これから先、必ず判断を誤ることがある。
ノアでさえ誤ったのだから、
十七歳の自分が誤らないはずがない。

そのとき、一人で考えていたら、きっとまた誤る。

一郎はマリアを見た。
マリアは静かに一郎を見ていた。
その顔には表情というものがあるのかないのか、
人間のように豊かな感情の揺れは見えない。
しかし、何かがそこにあった。
注意深さ、あるいは誠実さとでもいうべき何かが。

ブレインがいる。
マリアがいる。
ガルーダがいる。
クラーケンがいる。
そして地上には、工藤家の三人がいる。

一人じゃない。

一人で正しくあろうとするより、
間違えたときに指摘してくれる誰かを大事にする方が、
ずっと賢い。
ノアの失敗が教えているのはそういうことでもあると、
一郎は思った。
モーセを一人の人間として信頼したが、
その周囲を、その後を、誰かと一緒に考えなかった。

「マリア」
一郎は言った。

「はい」

「俺がおかしな判断をしそうになったら、止めてくれ」

マリアは少し間を置いた。
その間が、いつもより少し長かった。

「……承りました」

「ブレインも」

「了解しました、一郎様」
ブレインの声に、
いつもの機械的な均質さとは微妙に異なる
何かが混じっていた気がした。

「その言葉を、記録に残してよろしいですか」

「ああ」
一郎は言った。

「残しておいてくれ。将来の俺が読み返せるように」

スクリーンに工藤家の映像が映っていないこの部屋で、
一郎は黄金の箱を最後にもう一度見た。
動かない。
輝かない。
力を失ったまま、戒めとして佇んでいる。

これを作らせたノアも、間違えた。

だからこそこれが、教えてくれる。

一郎は部屋を出た。
廊下を歩きながら、マリアが隣に並んだ。
二人の足音が方舟の内壁に反響して、
静かに消えていった。

その先に、CIAがある。
工藤家への監視がある。
まだ解決すべき何かが、地上で動き続けている。

前田一郎は歩いた。

七万三千年の歴史の上を、
十七歳の足で、一歩ずつ。

---

*(第二部・第十一章 了 ――続く)*

 

第三百七十九弾「水を統べる者」

第三百八十六弾「 水を統べる者 その2」

第三百八十七弾「 水を統べる者 その3」

の続きです

 

第四章 潰れた蛙
一 高重力の檻

ドルゲという男の実力は、
決して見せかけだけのものではなかった。
B級という肩書は伊達ではなく、
純粋な肉体の力比べにおいてであれば、
この街で彼に勝てる者は
数えるほどしかいなかっただろう。

だがそれは、あくまで「人と人との力比べ」
に限った話だった。
真に格上の魔法使い
――とりわけ、国に名を連ねるような
トップクラスの術者に対しては、
ドルゲの拳など、最初から届く道理がなかった。
それを誰よりも理解していたのは、
他ならぬドルゲ自身だった。

だからこそ、彼はこれまで、
力ではなく狡知で魔法使いを狩ってきた。
詠唱の合間に生まれるわずかな隙を突く。
あるいは、視覚で捉えることさえ困難な不規則な動きで
間合いを詰め、詠唱そのものを封じる。
荒事に長けた冒険者らしい、
実戦の中で磨き上げられた戦法だった。
今回も、ドルゲはその戦法をもって、
目の前の魔力無しの小僧を叩き潰すつもりでいた。

号令とともに、ドルゲの巨躯が地を蹴った。

だが、その一歩目すら、完遂されることはなかった。

「――っ、ぐ、あ……!?」

まるで見えない山を、
丸ごと背負わされたかのような衝撃が、
ドルゲの全身を襲った。
膝が、次いで両腕が、耐えきれず地面に叩きつけられる。
立とうとしても、指一本を持ち上げることすら叶わない。

高重力――その場に踏み込んだ瞬間、
ルークが不可視の力場でドルゲの体そのものを
地面に縫い付けていた。
詠唱もなく、予備動作すらなく。
ただ、彼がそう望んだという、それだけの理由で。

「ぐ、う……ぬぅっ……!」

ドルゲは歯を食いしばり、
渾身の力で立ち上がろうと藻掻いた。
だが、まるで意味がなかった。
まるで巨大な掌に押し潰される虫けらのように、
彼はただ地面にへばりつき、
無様に手足をばたつかせるほかなかった。
その様は、車に轢かれて潰れた蛙にどこか似ていた。

ルークはその光景を、
格闘場の中央から静かに見下ろしていた。
表情に、勝ち誇った色は微塵もなかった。
ただ淡々と、事務的にすら見える口調で問いかける。

「まだ、やりますか?」

その一言が、静まり返った格闘場に、
やけに大きく響いた。

観客席を埋め尽くしていた冒険者たちは、
誰一人として声を発することができなかった。
呼吸すら忘れたかのように、
彼らはその光景を凝視し続けていた。
あまりにも一瞬の出来事だった。
剣戟の音も、魔法の詠唱も、爆発も、何もない。
ただ、地に伏したドルゲの姿だけが、そこにあった。

ようやく、我に返った者たちの口から、
堰を切ったように疑問が溢れ出した。

「魔力無しが……何で、魔法を使えるんだ?」

「あれは、魔法なのか? 
あんな魔法は見た事がないぞ……」

「詠唱すら、なかったよな……?」

誰もが、目の前で起きた現象を理解できずにいた。
彼らの中にある「魔法」という概念そのものが、
根底から揺さぶられていた。
困惑と、そこはかとない畏怖が、
観客席全体に静かに広がっていく。

二 ブルー・サンダーズの正体

その混乱の只中へ、
ギルドマスターのブルーが悠然と歩み出た。

「静まれ!」

野太い一喝が、格闘場に響き渡った。
ざわめきが、水を打ったように止む。

「これは、最近王都では『異能』と呼ばれている
――魔法とは別の能力だ。
すでに王都では、魔法の強さに魔力量は無関係だ
という事が、常識になりつつある。
お前達も、早急に間違った考えを正すことだな」

その言葉には、単なる説明以上の重みがあった。
まるで、王都の最新事情を、
誰よりも詳しく知っているかのような口ぶり。
冒険者たちは戸惑いながらも、
それ以上異を唱える者はいなかった。
ブルーは軽く手を叩くと、
「これで見世物は終わりだ、散った散った」
とばかりに集まった群衆を解散させていった。

人だかりが引いていくのを確認すると、
ブルーはルークの元へと歩み寄った。

「この街の冒険者ギルドのギルドマスター、
ブルー・サンダーズだ」

差し出された大きな手を、ルークは軽く握り返す。
その名を耳にした瞬間、ルークの脳裏に、
ある人物の顔がふと浮かび上がった。

その微かな表情の変化を、ブルーは見逃さなかった。
ニヤリと、口の端を吊り上げる。

「グレイは、俺の兄貴でな」

グレイ・サンダーズ。
王立魔法学院の教授であり、
水属性魔法の最高位「水天」の称号を持つ
アクアを育て上げたことで名高い、魔法研究の権威だった。

かつて王立魔法学院において、
グレイはルークと最初こそ敵対する立場にあったが、
あっという間に完膚なきまでに敗北を喫した。
だがその敗北を、彼は屈辱としてではなく、
探求の対象として受け止めた。
ルークの異能に強い興味を抱いたグレイは、
その原理を独自に応用し、
新たな魔法体系の礎を築き上げるに至ったのだ。
今や彼は、魔法研究の第一人者として、
王国でその名を知らぬ者はいない。

「王都の出来事に、やけに詳しいわけですね」

ルークが静かにそう返すと、ブルーは肩を竦めて笑った。

「ギルマスは、ルークさんの事を知っていたんですか!? 
それなら、最初からそう教えて下さいよ~!」

事の成り行きを固唾を呑んで見守っていた受付嬢が、
頬を膨らませてブルーに詰め寄った。

「いやなぁ、俺だって、まさか世界最強の男が、
こんな辺鄙な田舎町に流れてくるとは
思ってもみなかったんだよ」

ブルーは、冗談めかした調子でそう答えた。
だが――それは、あながち冗談などではなかった。

公にこそなっていないが、ブルーは知っていた。
目の前のこの、どこにでもいそうな
平凡な顔立ちの青年が、
かつて魔法使いの頂点「天」を打ち倒し、
たった一人で山脈をまるごと消し去り、
いくつもの国を滅ぼしたことがあるという、
恐るべき事実を。

それを知るからこそ、ブルーの飄々とした笑顔の奥には、
隠しきれない警戒と、微かな怖れが滲んでいた。
人当たりの良い笑みの裏で、
ブルーは油断なくルークの一挙手一投足を見定めていた。

だが、そんなブルーの内心を知る由もない受付嬢は、
まだ何も気づいていなかった。
目の前で朗らかに笑うこの平凡な青年が、
世界の在り方すら容易く変えてしまえるほどの
存在だなどとは、想像すらしていなかった。


第五章 もう一人のルーク
一 滅びの中の生誕

ルーク・グライフェン。

その名を持つ以前、彼は別の世界で、
桐島蓮という名を持っていた。
だがその記憶も、その生も、
今のルークにとっては、
遠い夢の欠片のようなものでしかなかった。

彼が生まれ落ちたのは、とある商家だった。
まだ物心すらつかぬ一歳の頃、
父の事業は思いがけぬ拡大を遂げ、
一家は王都への移住を決めた。
荷馬車に揺られながらの長い旅路
――だが、その道中、
一家は魔族の襲撃という悲劇に見舞われた。

炎が上がり、悲鳴が上がり、
そして静寂が訪れた時、
そこに立っていたのはルーク、ただ一人だった。
両親も、使用人たちも、
誰一人として生き残ってはいなかった。

その焼け跡に、偶然通りかかった一人の男がいた。

アルベルト・グライフェン。
国の中でも知らぬ者などいないと言われる、
最強クラスの高名な魔法使いだった。
彼は瓦礫の中に、泣きもせず
ただ座り込んでいる赤子を見つけた。
そして、その赤子から溢れ出す気配に、
思わず息を呑んだ。

(この魔力量は……何だ)

まだ言葉すら発せぬ一歳の赤子が、
たった今目にしたばかりの、
国が誇る最強格の魔法使いをして戦慄せしめるほどの、
底知れない魔力を纏っていたのだ。
アルベルトは迷わず、その赤子を抱き上げた。


二 天賦と鍛錬の日々

アルベルトに引き取られたルークは、
常人ではおよそ考えられない速度で、
魔法という道を駆け上がっていった。

三歳にして、魔法理論の基礎を完全に理解した。
四歳で、初めての魔法を発動させた。
だがこの頃はまだ、その膨大すぎる魔力を制御しきれず、
暴発じみた事故を幾度となく引き起こしていた。
アルベルトが根気強く付き添い、
六歳になる頃には、
ようやく制御の基礎を習得するに至った。

それからのルークは、まさに貪欲だった。

炎、水、風、土、雷、氷、光、闇
――属性魔法の全八種。
付与魔法、結界魔法、回復魔法、空間魔法。
さらには、遠距離からの一撃必殺を狙う狙撃術式、
中距離で敵の動きを制圧する制圧術式、
近距離での攻防に特化した防御術式。
アルベルトが生涯をかけて世界中から収集し、
あるいは自ら開発してきた魔法の全て
――その集大成を、
ルークはただひたすらに吸収し続けた。

そして十歳の時、ルークはついに、
育ての親であり師であるアルベルトの魔法の域を超えた。
アルベルトはその日、複雑な感情を抱えながらも、
心からの喜びをもってその事実を受け入れた。
育て上げた者が、育てた者を超える
――それこそが、師にとって最大の誉れであることを、
彼は知っていたからだ。

十五歳になる頃には、遠距離、中距離、近距離
――そのいずれにおいても、
攻撃と防御の全てを完璧に極めるに至っていた。
もはやこの世界に、
彼に教えられることは何一つ残されていなかった。

ある日、
ルークは静かにアルベルトの元を辞し、
一人、旅立った。



三 外れ依頼を選ぶ理由

ルークが行き着いたのは、
王都から遠く離れた、とある辺境の街だった。
彼はそこの冒険者ギルドに登録すると、
意外なことに、誰も見向きもしないような、
いわゆる「外れ依頼」ばかりを、
積極的にこなしていった。

彼の実力をもってすれば、
どれほど高額な報酬を提示された危険な依頼であろうと、
涼しい顔でこなせたことだろう。
だが、ルークはあえてそれをしなかった。

辺境の街というものの脆さを、ルークはよく理解していた。

ひとたび大きな異変が起これば、
頼みの綱である近隣の騎士団の到着には、
どうしたって時間がかかる。
それまでの間、街を守れるのは、
他でもない現地の冒険者たちなのだ。

(俺が高報酬依頼を全部かっさらったら、
この街を守る奴らが育たなくなる)

もしルークが高報酬の依頼を独占してしまえば、
経験を積むべき冒険者たちの成長の機会そのものを、
奪ってしまうことになる。
だからこそルークは、
誰にも顧みられないような地味な依頼
――薬草採取、害獣駆除、井戸の見回りといった、
報酬の安い仕事ばかりを、淡々とこなし続けていた。
それが、この街に対して自分にできる、
最も誠実な関わり方だと考えていたのだ。

もっとも、ルークにはもう一つ、
街に住まない理由があった。

眠っている間、体内に溢れかえった魔力が制御を離れ、
光の柱となって夜空を貫いてしまうという、
奇妙な体質があったのだ。
もし街中でこれが起きれば、大変な騒ぎになりかねない。
そのため、ルークは街には居を構えず、
近隣に広がる大森林の奥深くで、一人静かに暮らしていた。

夜な夜な森の奥から立ち昇る光の柱は、
いつしか近隣の街々で、
ちょっとした名物として語り草になっていた。



四 同じ名の噂

そんなある朝のことだった。

いつものように目を覚まし、身支度を整えたルークは、
森を抜けて冒険者ギルドへと顔を出した。
すると、待合の一角で、
数人の冒険者たちが声を弾ませて
何やら話し込んでいるのが耳に入った。

「聞いたか? 隣町の冒険者ギルドの新人が、
えらい話題になってるらしいぞ」

「因縁を付けてきた巨漢のB級冒険者を、
瞬殺したって話だ」

「なんでも、ルークとかいう名前らしいんだが……
『異能』とかいう、妙な能力を使うらしいぞ」

その言葉を耳にした瞬間、
ルークの表情に、わずかな驚きの色が浮かんだ。

自分と、同じ名前。
しかも、自分が持たない「異能」という、
聞き慣れぬ力を使うという。
魔法のあらゆる分野を極め尽くしたはずの自分にとって、
それは久方ぶりに感じる、
純粋な好奇心をくすぐる響きだった。

ルークはすぐさま受付へと向かい、
今日にかぎって「外れ依頼」が
一件も出ていないことを確認すると、
どこか浮き立つような足取りで、
隣町への道を歩き始めた。

(同じ名前の、異能使いか。
……これは、会ってみないとな)

まだ見ぬ「もう一人のルーク」との邂逅を思い、
その胸の内には、隠しきれない高揚が広がっていた。

(以降、続く)

 

第三百七十九弾「水を統べる者」

第三百八十六弾「 水を統べる者 その2」

の続きです

 

第三章 魔力無しの新人
一 冒険者ギルドの嘲笑

辺境の街エルダの冒険者ギルドは、
昼下がりにしては珍しく人いきれで満ちていた。
依頼を終えて戻ってきた者、
酒精の匂いを漂わせながら管を巻く者、
壁に張り出された討伐依頼の紙片を睨みつける者
――そうした喧騒の只中に、
一人の青年が受付台の前に立っていた。

歳の頃は十七、八といったところか。
旅装はまだ真新しく、革の胸当ても擦り傷ひとつない。
受付嬢が羊皮紙に記された鑑定結果に目を落とし、
それから困惑気味に青年の顔を見上げた。

「あの……ルーク様。
こちら、魔力測定の結果なのですが……」

「ああ、知ってる。ゼロだろう?」

ルークと名乗った青年は、気負う様子もなく、
あっさりとそう言ってのけた。
むしろ、その反応の軽さこそが、
周囲の空気を凍りつかせた。

「はっ、聞いたか今の」

近くの卓で酒を呷っていた冒険者の一人が、
耳ざとくその言葉を拾い上げた。
あっという間に、
その情報はギルド内に波紋のように広がっていく。

「魔力無しで冒険者になるのかよ」

「そんなんじゃ迷宮であっという間に死んじまうぞ」

「魔力無しで冒険者になるとか、過ぎた夢を見るなよ」

野次と嘲笑が、次々とルークに浴びせられた。
誰もが、それを当然の反応だと思っていた。
この世界において、魔力とは戦う力そのものであり、
剣士でさえ身体強化のために僅かなりとも魔力を用いる。

魔力が皆無であるということは、
すなわち、迷宮という死地において
まるきり丸腰であることに等しかった。

受付嬢は困り果てた顔で、
周囲の冒険者たちをなだめようとしたが、
その声はざわめきに掻き消されてしまう。

その喧騒の片隅――壁際の卓に陣取っていた
一組の冒険者パーティだけが、
異様な目つきでルークを見つめていた。
彼らは王都から流れてきたパーティだった。
旅の道中で、彼らはある噂を耳にしていたのだ。

――とある伯爵家の三男。
生まれついて魔力量は微々たるものでしか
なかったにもかかわらず、
王国が誇る魔法使いの最高位「天」の称号を持つ者すら
遥かに凌ぐ力を示したという。
その報せを受けた王国は、
国家魔法師団と国家騎士団の双方に対し、
いかなる理由があろうと彼と敵対してはならぬという、
異例の王命を発したという。
彼の存在ひとつによって、
「魔力の総量こそが強さに直結する」という、
この世界の魔法における常識そのものが、
根底から覆されたのだと。

しかし、ここは王都から遥か離れた辺境の片田舎。
そんな最新の情報が届くはずもなく、
たとえ届いたところで、
これを本気で信じる者など、ほとんどいなかった。

「――俺が、冒険者にふさわしいか試してやるよ」

野次の輪の中から、一人の男が悠然と前へ進み出た。
周囲を見下ろすほどの体躯、
鎧の上からでも分かる隆々とした筋肉
。B級冒険者、ドルゲ。
この街ではA級冒険者が数えるほどしか
在籍していないこともあり、ドルゲは事実上、
この地における最上位の実力者として、
常日頃から幅を利かせていた。

「ルークさんは、
冒険者登録をしたばかりの新人なんですよ!」

受付嬢が慌てて割って入った。
だがルークは、その言葉に構うことなく、
むしろ自らドルゲの正面へと足を進めた。

並び立つと、体格差は歴然だった。
ドルゲの背は、ルークの優に頭ふたつ分は高い。
まるで大人と子供のような対比。
それでもルークの態度には、
微塵の怯えも浮かんでいなかった。

「格闘場でいいかな?」

あまりにも平然としたその一言に、
ドルゲの顔から、みるみる血の気が引き
――否、真逆だった。
屈辱と怒りで、赤黒く染まっていった。

「……明日の朝日を拝めると思うなよ」

低く、地を這うような声でドルゲが唸った。
ギルド内の喧騒が、一瞬にして静まり返った。
誰もが、これから起こることを予感していた。
新人潰し。
この街では、決して珍しい話ではなかった。

二 ギルドマスターの含み笑い

一報はあっという間に街中を駆け巡り、
格闘場には昼間だというのに、
鈴なりの人だかりができていた。
噂を聞きつけた冒険者たちが我先にと詰めかけ、
観客席はすでに埋め尽くされようとしている。
受付嬢もまた、
落ち着かない様子でその場に立ち会っていた。

そこへ、ギルドマスターのブルーが姿を現した。
がっしりとした体躯に、
幾多の修羅場をくぐり抜けてきたことを物語る古傷。
かつては名の知れたA級冒険者であったと聞く。

「何があったんだ?」

ブルーが受付嬢に問う。

「ブルーさん……。
B級のドルゲさんが、新人のルークさんが
魔力無しだと知って、模擬戦を申し込んだんです。
あれは、ただの嫌がらせです。新人潰しですよ」

受付嬢の声には、
隠しきれない苛立ちと不安が滲んでいた。

だが、話を聞いたブルーの反応は、
彼女の予想とはまるで違うものだった。

「魔力無しのルーク? ……そりゃ、見ものだな」

口の端をわずかに吊り上げ、
心底愉快そうにそう漏らしたのだ。

「な、何言ってるんですか! 
新人のルークさんが潰されたら、
またうちの冒険者ギルドが悪い噂されちゃいますよ~!」

受付嬢は半ば涙目になりながら、ブルーに詰め寄った。
この街の冒険者ギルドは、
ただでさえ新人いじめの噂が絶えない。
今回もまた同じ轍を踏めば、
ますます評判は地に落ちるだろう。
彼女の懸念は、決して的外れなものではなかった。

しかし、ブルーはどこ吹く風といった調子で、
悠然と告げた。

「おいおい、新人の心配をしてるのか? 
そりゃ、見当違いってもんだ」

ブルーの視線が、格闘場の中央
――静かに佇むルークの姿へと向けられた。
その目には、単なる好奇心以上の、
何か確信めいた色が宿っていた。

「今は――ドルゲの心配をすべきだぜ」

その言葉の意味を、受付嬢は到底掴みかねた。
頭の中は、疑問符でいっぱいになった。
まさか、あの巨躯のB級冒険者が、
魔力無しの新人相手に
何らかの不覚を取るとでもいうのだろうか。
そんな馬鹿げた想像は、
彼女の常識には一切存在しなかった。

だが、ブルーの視線の先で、ルークは静かに
――あまりにも静かに、両手をだらりと下げたまま、
格闘場の中央に立っていた。
まるでこれから起こることの結末を、
すでに知り尽くしているかのように。

(以降、続く)