前回は暗い話だったので

今回は明るい異世界転生ファンタジー

にしてみました

 

 

 

# 春の迷い子

## 第一章 桜と蕎麦と、春の終わり

 大井妃咲の春は、あっけなかった。

 十八年間育った福岡を離れ、
東京の大学に合格した喜びはまだ胸の中で輝いていた。
引っ越しの段ボール箱をようやく片付け終えた夕方、
空腹を覚えた彼女は、近所のコンビニへと向かった。

 棚の前で少し迷って、選んだのはざるそばと、
春の期間限定デザート
——桜の花びらを模したゼリーの上に、
うっすらピンク色の練乳クリームが載っている、
見るからに可愛らしい一品だった。
パッケージの隅に小さく「数量限定・春のみ」
と書かれているのを確認して、
思わずにやけてしまった。

 夕暮れの空は茜色で、
帰り道の歩道には植えたばかりの
若い桜の木が並んでいた。
来週には花が開くかもしれない。
入学式に桜が咲いていたら完璧だな、
と思いながら横断歩道を渡り始めたのが、
妃咲にとって最後の記憶だった。

 信号は青だった。

 それは間違いない。

 なのに。

―――

 気がつくと、妃咲は草の上に立っていた。

 コンビニの袋は、もうなかった。

 緑の丘が緩やかに広がり、
遠くには石造りの大きな壁に囲まれた街が見えた。
街の向こうには山があり、空の色はくっきりとした青で、
見たこともない種類の鳥が悠然と輪を描いていた。

 東京じゃない。

 日本でもない。

 地球でも、ない?

 妃咲はゆっくりと周囲を見渡した。
風が草を揺らしている。
木々が葉擦れの音を立てている。
虫が鳴いている。
五感に届く情報はどれもリアルなのに、
自分がどこにいるのかがまったくわからない。

 ——そうだ。

 高校二年生のとき、
アニメ好きの友人・千鶴に
無理やり貸し付けられた漫画があった。
主人公が異世界に転生して、チートな能力で無双するやつ。
ふだんはそういうジャンルをあまり読まない妃咲だったが、

暇つぶしに読み始めたら意外と続きが気になって、
気づけば全巻読み終わっていた。

 あの漫画に出てきた街に、似ている。

 すごく、似ている。

 ――という事はここは異世界? 
死んで異世界転生したって事?

 頭の中で漫画の知識が次々に展開される。
異世界の街の外は危険区域。
魔獣が跳梁跋扈していて、
冒険者たちがギルドで依頼を受けて倒しに行く。
Fランクからのスタートで、
スキルを身につけて、強くなって……

 待って。
今の私、街の外にいる。

 魔獣に、襲われる!

 その恐怖が腹の底から突き上げてきた瞬間、
茂みが大きく揺れた。

 現れたのは虎に似た巨大な獣だった。
しかし虎ではない。
体の模様は渦巻き状で、尾の先が炎のように揺れている。
眼は赤く光り、牙は白い閃光のようだった。
漫画で見た「炎虎(えんこ)」に近い見た目だ。
Cランク相当の、中堅の魔獣。
一人で倒せる冒険者はまだ少ない、
と作中で説明されていた。

 妃咲は目を瞑った。

 食べられる。きっと、食べられる。

 身体が竦んで動けない。叫び声さえ出ない。

 でも——何も、起きない。

 恐る恐る、片目だけ開けた。

 魔獣は妃咲のすぐ目の前を歩いていた。
まるで妃咲など存在しないかのように。
鼻をひくひくさせているが、
妃咲の方を向こうともしない。

 ……見えてない?

 妃咲はそっと右手を伸ばした。

 指先が炎虎の脇腹に触れる——はずだった。

 しかし指はそのまま、魔獣の身体を通り抜けた。

 まるで空気を掻くように。

 妃咲の手が魔獣の中に沈んでいくのを、
妃咲自身がぽかんと見ていた。
熱さも、毛の感触も、何もなかった。

 炎虎は相変わらず妃咲に気づかないまま、
悠然と丘を下って姿を消した。

 しばらくして我に返った妃咲は、
近くにあった大木に近づいた。
幹を触ろうとする。
やはり、手がめり込む。

 ゆっくりと深呼吸して、今度は思い切って走った。
大木に向かって、全速力で。

 ごとんっ、という音ひとつなく、
妃咲の身体は木を通り抜けた。

 振り返ると、木はそこにある。
自分は木の向こう側にいる。

 頭の中で、何かがゆっくりと繋がっていく。

 ……え?

 私って異世界転移したけど、幽霊のままなの?!

―――

## 第二章 透明な存在

 妃咲は丘の上に座り込んだ。

 正確には、
「座り込もうとしたら地面にめり込みそうになって、
慌てて意識を集中させたら辛うじて地面の上に留まれた」
のだが、そんな細かい話は後回しにした。

 とにかく、状況を整理しなければならない。

 一、自分は信号無視のトラックに撥ねられて死んだ。
これはもう間違いない。

 二、気がついたら異世界にいた。

 三、しかし、何も触れない。何にも触れられない。
魔獣にも木にも地面にも。

 四、逆に言えば、魔獣には見えていないし、
近づいても食べられない。

 つまり、自分は——異世界転生した幽霊。

「……なにそれ」

 声に出してみたら、ちょっとだけ気持ちが楽になった。
声は出るらしい。

「なんで幽霊のままなの。転生したんじゃないの。
異世界に来たんじゃないの」

 誰も答えてくれない。草が風に揺れるだけだ。

 妃咲はため息をついて、空を仰いだ。
空は相変わらず美しく青かった。
雲がゆっくり流れている。
あの世の神様か何かが、
「いやー間違えてごめんね、
でも魔獣には食べられないようにしといたから」
とでも言いたいのだろうか。

 ……それにしても、なぜ異世界に来たのだろう。

 妃咲はぼんやりと考えた。

 死んだとき、何を思っていたか。

 東京での一人暮らし。
大学の授業。サークルに入ってみようかなとか、
バイトはどこにしようかなとか。
そういう、これから始まるはずだった生活への未練。
それと——コンビニの袋の中にあった、
春の期間限定デザート。

 桜のゼリーに、ピンクのクリーム。

 食べたかったなあ。

 馬鹿みたいだと自分でも思うけれど、
本当に食べたかった。
あれを楽しみに帰り道を歩いていたのに。

「未練って、そういうことなのか」

 妃咲は独り言を言った。

 漫画でも読んだことがある。
幽霊になるのは未練があるから、と。
ならば自分の未練は、
一人暮らしと大学生活と、あの春のデザート
——そのどれかということになる。

 あるいは全部。

「でも、異世界に来た理由は……」

 それはわからなかった。
ただ、こうして草の上に座って
(正確には浮いて)いると、
なんとなく、ここに来てしまったことに、
怒りよりも不思議な納得感があった。

 さて、どうする。

 妃咲は立ち上がって(浮き上がって)、
遠くに見える街の方を見た。

 壁に囲まれた街。
あそこには人が住んでいる。
冒険者がいる。
ギルドがある。
魔法があるかもしれない。
異世界の食べ物がある。

 触れないけれど、見ることはできる。
聞くこともできる。
歩くこともできる
(厳密には地面を踏んでいないのだが、
見た目には歩いているように見えるらしい)。

 やることは決まった。

 とりあえず——あの街に行こう。

 何も触れなくたって、
透明人間みたいな存在だって、
ここが異世界なのは間違いない。

 情報を集めるのが先決だ。

 妃咲は丘を下りながら、もう一度空を見上げた。

 東京の空よりも、少しだけ色が濃い。
でも、綺麗だと思った。

 死んだのに、透明な幽霊のくせに、
それでも「綺麗だ」と感じる自分に気づいて、
妃咲は苦笑した。

「私って意外と、しぶといな」

 その言葉は誰にも聞こえず、風に溶けた。

 街までの道には、名前も知らない白い花が咲いていた。

 踏んでも踏み荒らせない足で、
妃咲は花の中を歩き続けた。

―――

## 第三章 壁の街・アルセイア

 街の名前は「アルセイア」というらしかった。

 門の前に立て看板があり、
そこに「アルセイア自由都市」と書かれていた
——もちろん日本語ではなく、見たこともない文字で。
なのになぜか読めた。
これも転移の恩恵なのかもしれない。
転移した幽霊というミスマッチな存在に付与された、
ちょっとだけ便利な能力。

 門番の兵士たちは、妃咲に気づかなかった。

 当たり前だ。妃咲は幽霊なのだから。

 妃咲は堂々と、壁をすり抜けて街の中に入った。

 石畳の道。
露店が並んでいる。
馬車が走っている。
子どもが走り回って、親に叱られている。
お肉を焼く匂いが漂ってくる——匂いは感じる。
なんとも不思議な身体だと思った。
匂いがわかるのに、物が触れない。

 市場の端で、
焼き鳥に似た何かを売っている屋台があった。

 妃咲はそこで立ち止まった。

 肉の焦げた香ばしい匂い。
スパイスのような、知らない香り。
それがなんとも美味しそうで
——食欲を感じている自分に驚いた。
幽霊でも食欲はあるのか。食べられないのに。

「……つらい」

 小さく呟いた。

「何がつらいんだ、嬢ちゃん」

 いきなり声をかけられて、
妃咲は飛び上がった(文字通り、少し浮いた)。

 振り返ると、屋台の主人
——五十がらみの大柄な男が、こちらを見ていた。

「え、私に話しかけてる?」

「他に誰がいる」

 男は首をひねった。

 見える。
この人には、自分が見える。

 妃咲は自分を指さした。
「私のことが……見えますか」

「見えるも何も、嬢ちゃんが突然目の前に現れたんだが。
さっきまでそこに誰もいなかったのに」

 男の目には戸惑いの色があった。
壁をすり抜けて入ってきたのを
見ていたわけではなさそうだが、
急に現れた人物に驚いているらしい。

 妃咲はどう説明すればいいかわからなかったが、
とりあえず頭を下げた。

「すみません、驚かせて。私、旅人なんです。
ちょっと……迷子になってしまって」

「迷子? こんな子どもが一人で?」

 子どもと言われたのは少し心外だったが、
まあ十八歳だし仕方ない。

「一人です。色々あって。
あの、この街のことを教えてもらえますか。
宿とか、ギルドとか」

「ギルド? 冒険者になるつもりか?」

「いえ、まあ、色々調べたくて」

 男は少し考えてから、
焼いたばかりの串を一本、妃咲に差し出した。

「食うか? 口は合わんかもしれんが」

 妃咲は一瞬固まった。

 手を伸ばす。串に触れようとする。

 指が、串をすり抜けた。

 男の目が大きく見開いた。

 しまった、と思ったが、もう遅い。

 沈黙が流れた。

 妃咲はゆっくりと顔を上げて、男を見た。
男は串を持ったまま固まっている。

「……驚かせてすみません」

「……嬢ちゃん、まさか」

「はい」

「……お前さん、生きてるのか?」

 妃咲は少し考えてから、答えた。

「……それが、よくわからないんです」

―――

 屋台の男——名前はゴードンといった
——は、存外に話のわかる人物だった。

 怪しむよりも先に、妃咲のことを
「珍しい存在」として受け入れてくれた。
曰く、この世界には霊的な存在が
稀にいることは知られており、
それを「幻人(まぼろしびと)」と呼ぶらしい。

「幻人は普通、見えない。
見える人間は霊眼の持ち主くらいだ。
俺は若い頃に呪いを受けてな、
副作用でそういう目になった」

「じゃあ私は……幻人みたいなものなんですか」

「見た目は普通の娘だが、物を触れないんだろう。
ほぼそれだな」

 ゴードンは串を炭火で炙りながら、
落ち着いた声で続けた。

「幻人がどこから来るかは諸説ある。
成仏しきれなかった魂とか、
遠い地から魂だけ飛んできた者とか。
お前さんはどっちだ?」

「……遠い地、から、だと思います。
すごく、遠い」

 ゴードンは短く「そうか」と言っただけで、
それ以上は聞かなかった。

 妃咲は木の椅子に腰かけようとして、
半分めり込みかけながら、なんとか座面の上に留まった。
意識を集中すれば、ある程度は固体に接触できるらしい。
触れることはできないが、乗ることは——かろうじて。

「ゴードンさん、ひとつ聞いていいですか」

「なんだ」

「幽霊って、成仏できるんですか。この世界でも」

 ゴードンはしばらく沈黙してから、
火を見つめたまま言った。

「未練が消えれば、消えるらしい。
霊格が上がれば戻れることもあるとも聞く。
どちらにせよ、俺には詳しくわからん。
神殿の司祭に聞いた方がいいだろう」

 未練が消えれば。

 妃咲はその言葉を、胸の中でゆっくり転がした。

 東京での一人暮らし。
大学の青春。
春の期間限定デザート。

 そんな未練を、異世界で、幽霊のままで
——どうやって消せというのだろう。

「……難しそうですね」

「お前さん、案外冷静だな」

「冷静じゃないです。内心めちゃくちゃです」

 妃咲は正直に言った。
そして、焼けた肉の匂いを吸い込みながら、
ため息をついた。

「でも、ここにいる間は——何かしたいんです。
ただ浮いてるだけじゃなくて」

 ゴードンは初めて、少し笑った。

「それがわかってるなら、なんとかなるかもしれん」

 街の喧騒が、遠くから聞こえてくる。

 馬車の音。子どもの笑い声。商人の呼び込み。

 妃咲には触れられない世界が、
それでも五感の全部で流れ込んでくる。

 触れなくても、いる。存在している。

 春の期間限定デザートは食べられなかったけれど

——まだ、ここにいる。

 それはきっと、何かを意味しているはずだった。

―――

(続く)

 

今の社会を見ていると

いつもこういうお話を考えちゃいます

 

 

#  冤魂 ―正義の絞首―

## 第一章 省という男

本田省という男は、
この世界にとって都合の良すぎる人間だった。

正直に生き、まっすぐに働き、
それでも報われることはなかった。
両親が逝ったのは省が七歳の冬だった。
交通事故だった。
雪の降る夜、帰らぬ二人を待ち続けた省の記憶は、
そのまま凍りついて心の底に沈んだ。

引き取られた叔母夫婦の家は、表向きは普通の家庭だった。

近所の人々には愛想よく振る舞い、
民生委員には「かわいそうな子を育てている」
と同情を買っていた。
だが玄関の扉が閉まれば、そこは別の世界だった。

熱した菜箸。
タバコの火。
食事を与えない日が続くこともあった。
叔母はことあるごとに言った。
「お前の両親は馬鹿だから死んだんだ。
その血を引くお前も馬鹿だ」と。

省は泣かなかった。泣くことをどこかで諦めていた。

代わりに、省は体を鍛えた。
夜明け前に起き、近くの公園で腕立てをし、
懸垂をし、走った。
体が強くなれば、いつか、なにかが変わると信じていた。
あるいは、信じることで正気を保っていた。

高校を卒業した春の朝、省は叔母の家を出た。
荷物はリュックサック一つ。
振り返らなかった。
振り返る価値がそこにはなかった。

工場の仕事は単調だったが、省には合っていた。
黙々とやるべきことをやる。
文句を言わない。
それが省のやり方だった。
だが人間社会というのは、
黙って耐える者をいつまでも放っておかない。

「おい、省。お前、また俺より先に休憩に入ったな」

先輩の桐島は目つきの悪い男で、
省を見るたびになにかしら因縁をつけた。
昼の弁当に機械油を垂らされたこともあった。
ロッカーの中身を荒らされたこともあった。
同僚たちは見て見ぬふりをした。
それが一番楽な生き方だと、みんな知っていたから。

省の腕力は、桐島など問題にならないほど強かった。
本気を出せば、あの男の腕の一本や二本、
へし折ることは難しくなかった。
だが省は手を出さなかった。

――ここを失ったら、俺にはなにもない。

薄い壁の安アパート。
インスタントラーメンと米だけの食事。
それでも省には、毎日帰るべき場所だった。
それで十分だと、省は自分に言い聞かせた。

いつか必ず報いを受けさせる。
その思いだけを胸に、省は今日も工場へ向かった。

---

## 第二章 青信号

十一月の夜は早く暗くなる。

工場を出た省は、いつものように徒歩で帰路についた。
交差点の信号が青になった。
省は横断歩道を渡り始めた。

エンジン音が聞こえた。

次の瞬間、世界が真っ暗になった。

衝撃も痛みも、一瞬だけだった。
省の意識は、それ以上続かなかった。

---

省が次に気づいたとき、
自分は自分の体の上に立っていた。

アスファルトに横たわる体。
散らばった荷物。
野次馬の輪。
遠くで救急車のサイレンが鳴っていた。

奇妙な感覚だった。
寒くも痛くもなかった。
体が軽く、まるで水の中に浮いているようだった。

省は自分が死んだことを理解した。

横断歩道から数十メートル先に、車が止まっていた。
黒塗りのドイツ製高級車。
フロントガラスが砕けていた。

運転席から出てきたのは、
浅黒い肌をした四十代ほどの男だった。
日本語で電話をしていた。
うまく聞き取れなかったが、
「難民」という言葉だけは聞こえた。

省は男の顔を見た。
表情には恐怖もなく、後悔もなかった。
ただ面倒くさそうな、そういう顔をしていた。

---

## 第三章 不起訴

三ヶ月後。

地方検察庁の会議室に、省の霊は漂っていた。

壁に沿って椅子が並び、
そこに座る人間たちが書類を回していた。
高橋という姓の検察官が、
眼鏡の奥に鋭い目を光らせながら書類を捲っていた。

省を轢いた男の名前はアリ・カリミと名乗っていた。
イラン出身と言っていたが、
本当の素性は誰も確認できていなかった。
難民申請中ということで、
特別な配慮が求められていた。
少なくとも高橋検察官はそう判断した。

「被疑者の在留資格の問題もあり、
また証拠の収集状況を鑑みて……」

高橋は淡々と述べた。

不起訴。

その言葉が会議室に落ちたとき、
省の中でなにかが音を立てて切れた。

青信号だった。
俺は青信号を渡っていた。
それなのに、なぜ。

怒りというよりも、それは絶望の色をしていた。
被害者であっても、死ねばそれで終わりか。
加害者は裁かれることなく今日も生きているのか。

省の意識が、熱を帯びた。

気づいたとき、省の手は高橋検察官の首にあった。

指が、実体を持っていた。

高橋は急に立ち上がり、首に両手を持っていった。
「な、なに……っ」と声を上げようとしたが、
声にならなかった。
会議室の全員が凍りついた。
誰の手も触れていない。
なのに高橋の首には、見えない力が巻き付いていた。

もがき、椅子を蹴り、床に倒れた。

それでも省の手は離れなかった。

しばらくして、高橋検察官は動かなくなった。

会議室は、しんと静まり返った。

---

## 第四章 探索

省はアリ・カリミを探した。

一ヶ月かかった。

男は難民支援団体の庇護のもと、
都内のマンションに住んでいた。
難民と言いながら、部屋には現金の束と
ブランド物の鞄が積まれていた。
夜になると繁華街に出て、
路地裏でよからぬことをしていた。

省がその男を見つけた夜、
細い路地に若い女性が連れ込まれていた。

声を殺して泣いていた。

アリは笑っていた。

省の中で、炎が燃え上がった。
叔母に虐められた夜も、桐島に嫌がらせをされた日も、
横断歩道で撥ねられた瞬間も、
不起訴の言葉を聞いた時の絶望も、
全てが一つになって燃えた。

省の両手が、アリの首に巻き付いた。

男は急に立ち上がり、女から離れた。
苦しみながら、見えない何かと格闘していた。
その隙に、女性は走って逃げた。

省は彼女の背中を見送った。

それから、腕に力を込めた。

アリ・カリミは、路地の暗闇の中で動かなくなった。

省は、長い時間そこに立っていた。

怒りは収まらなかった。

---

## 第五章 連鎖

それから三ヶ月で、
不起訴になっていた外国人が絞殺される事件が
三十件を超えた。

被害者には一つの共通点があった。
罪を犯しながら、社会のシステムの隙間をすり抜けて
裁かれなかった者たち。
難民を装いながら詐欺や強盗を繰り返していた者、
性犯罪を起こしながら示談で逃げ延びた者、
弱者を踏み台にして利益を享受してきた者。

警視庁は特別捜査本部を設置した。

捜査員たちは監視カメラを洗い、聞き込みを重ね、

法医学的証拠を求めた。

だが犯人は見つからなかった。

見えない手に首を絞められるという事件に、

捜査の手が及ぶはずもなかった。

テレビのコメンテーターたちは様々なことを言った。
「見えない殺人鬼」
「霊的犯罪の可能性」
「社会への復讐」。
だが誰も本当のことはわからなかった。

そして七月。

---

## 第六章 会見

左翼活動家の集団が平和運動と称して高校生を動員し、
幹線道路に繰り出し米軍人とその家族に抗議していた。
交通を遮断し、汚い言葉でスローガンを叫んだ。
その混乱の中で、引率されていた高校生の一人が
トラックに撥ねられて死んだ。

翌日、活動家たちは記者会見を開いた。

カメラの前で代表格の男が言った。
「我々に責任はない。
悪いのは、この社会の構造であり、
米軍の存在であり……」

生放送だった。

代表の男が突然、言葉を止めた。
両手が首へ伸びた。
目が見開いた。

カメラが捉え続けた。

男はテーブルから転げ落ち、床でのたうちまわった。
そして糸の切れた人形のように、静止した。

隣に座っていた女性活動家が悲鳴を上げようとした瞬間、
彼女もまた同じように首を押さえた。

会見に出席していた五人が、次々と倒れた。

日本中が、その映像を見た。

---

## 第七章 世界へ

省の怒りは、もはや日本だけに向いていなかった。

霊体は境界を知らない。省は世界を漂った。

英国のロンドンで、宗教的過激思想のもとに
市民を脅迫していた男が死んだ。
スウェーデンで、性犯罪を繰り返しながら
難民認定を盾に司法から逃れ続けていた男が死んだ。
アメリカで、人種的正義を掲げながら
無実の市民を暴行し
店舗で略奪を繰り返していた者たちが死んだ。

グローバリストと呼ばれる者たちの中にも、
省の手が届いた。
国際会議の壇上で、自分たちの利権のために
世界の食糧政策を歪め続けてきた人物が倒れた。
ヴィーガン活動を名目に農家を脅迫し、
生活を破壊し続けてきた過激派団体の幹部が死んだ。

彼らに共通するものは、
イデオロギーでも宗教でも国籍でもなかった。

自分の正しさを疑わず、他者の痛みを顧みず、
自分勝手な欲望を「正義」と言い換えて
社会に押し付けてきた人間たちだった。

一年後、
世界中で絞殺された人間の数は五十万人を超えた。

---

## 第八章 静寂

不思議なことが起きた。

過激な主張をする声が、徐々に小さくなっていった。

かつては声高に差別的スローガンを叫んでいた者たちが、
静かになった。
自分の利益のために他者を犠牲にすることを
当然と思っていた人間たちが、
少しずつ周囲を気にするようになった。
変わったのは法律でも制度でもなかった。
人々の内側にある、恐れと、それに続く省察だった。

歴史的に見れば、
人は大きな抑止力がなければ
欲望を制御できない生き物だった。
かつては神への恐れがその役割を担い、
次に法律が担い、
そして今、見えない手がその役割を担った。

それが正しいことかどうか、省には判らなかった。

自分がしてきたことが正義かどうかも、わからなかった。

ただ、青信号を渡っていただけの男が、
叔母に殴られながら耐えていた子供が、
桐島に嫌がらせをされながら我慢していた工場労働者が、
この世界に何かを残したことだけは確かだった。

---

## 終章 省

ある冬の夜明け、省は公園にいた。

幼い頃、夜明け前に走っていた公園に似ていた。
霜が降りた地面。白い息が消えていく空。

省はベンチに座り、空を見上げた。

怒りは、すでにどこかへ消えていた。

怒りを燃やし続けるには、人間でなければならない。
感情は、生者の特権だ。
省はいつの間にか、怒りよりも
静けさの方が大きくなっていることに気づいた。

この世界は理不尽だ。
それはこれからも変わらないだろう。

だが人間というものは、恐れを知ることで、
少しだけ立ち止まることができる。
少しだけ、他者のことを考えることができる。
その「少し」が積み重なれば、
世界は変わるかもしれない。
変わらないかもしれない。

省には、もうわからなかった。

夜明けの光が、公園の木々の間から差し込んできた。

省の輪郭が、その光の中に溶けていくようだった。

最後に省が思ったのは、両親のことだった。
雪の夜、帰らなかった父と母のこと。

彼らの元へ行けるだろうか、と。

光は、広がり続けた。

---

*了*

 

 

第二百三十七弾「 秘密のきみと、僕だけの世界」

第二百七十三弾「秘密のきみと、僕だけの世界 ―続章―」

の続きです

 

 

 

# 秘密のきみと、僕だけの世界 ―最終章―

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## 第十三章 穴の開いた日々

莉央が旅立ってから、颯太の部屋はやけに広く感じた。

洗面台から莉央のハンドクリームを捨てたのは、
一ヶ月後だった。
捨てられなかったのではない。
捨てるのを忘れていた——そういうことにした。

スマートフォンを確認する癖は、なかなか抜けなかった。
帰宅して鍵を閉めて、コートを脱いで、
それからスマートフォンを手に取る。
莉央からの通知を探す。
何もない。
わかってる。
それでも探してしまう。

*もう忘れよう。*

何度そう思っただろう。

大学四年生になって就職活動が始まると、
考える暇がなくなった。
エントリーシートを書いて、スーツを着て、
見知らぬビルの会議室でぎこちなく笑って。
そのうちに内定が一つ決まった。

何の因果か、藤宮グループ傘下の食品会社だった。

颯太は苦笑しながら内定通知書を眺めた。
縁というのは不思議なものだと思った。

---

## 第十四章 営業マン西村颯太

社会人一年目は、颯太の想像をはるかに超えていた。

担当はスーパーへの食品営業。
毎朝サンプルを詰めたカバンを持って、
あちこちの店舗を回る。
バイヤーと交渉して、棚のスペースを確保して、
売り上げデータを分析して
——体力も、コミュニケーション力も、
学生時代の颯太には
欠けていたものばかりが求められた。

最初の一年、颯太は何度も心が折れかけた。

先輩の営業マンは颯太の倍以上の速さで話して、
倍以上の契約を取ってきた。

「西村、お前の説明は長い」

「顔が硬い、もっと笑え」

「バイヤーさんの話、ちゃんと聞いてるか?」

——毎日のようにダメ出しをされた。

でも颯太はこの会社を辞めなかった。

なんとなく、辞めたくなかった。
藤宮グループという名前が社名のどこかに入っているから
——そんな理由ではないと颯太は思おうとしていたが、
完全には否定できなかった。

三年が経つ頃には、颯太は変わっていた。

先輩のダメ出しに笑って返せるようになっていた。
バイヤーとの雑談が苦にならなくなっていた。
数字の読み方が身につき、提案に説得力が出てきた。

アニメやアイドルが好きな陰キャオタクだった自分が、
スーパーのバイヤーと世間話をしながら
棚の交渉をしている
——鏡の前でネクタイを締めながら、
颯太はたまに可笑しくなった。

---

## 第十五章 二人目の彼女

その後輩は、
入社二年目に颯太の部署に配属されてきた。

明るくて、よく気がついて、先輩社員の受けもいい。
颯太は最初、普通に仕事上の先輩として接していた。

だから告白された時は、驚いた。

「西村さんのこと、ずっと見てました。
付き合ってください」

ランチの帰り道、
人通りの少ない社内の通路で、真剣な顔で言われた。
颯太は三秒ほど固まった。

*また、向こうから来た。*

学生時代の記憶が一瞬よぎった。
颯太は小さく苦笑して、
それから「こちらこそ、よろしくお願いします」
と頭を下げた。
後輩は「お願いしますじゃないですよ!」と笑った。

付き合い始めると、颯太はすぐに困った。

デートの仕方がわからなかった。

莉央との関係は「普通の交際」ではなかった。
映画を観て、ご飯を食べて、手を繋いで歩く
——そういう当たり前のことを、
颯太はまともにやったことがなかった。

初めてのデートで映画を選ぶのに三日かかった。

「ホラーはどうかな、いやアクションか、
でも彼女の好みがわからない」

——結局、無難なラブコメを選んだ。
当日、映画館のシートに並んで座って、
颯太は腕をどこに置けばいいかずっと迷っていた。

「西村さん、緊張してますか?」

「してない」

「肘置き使ってないですよ」

颯太は素直にアームレストに肘を置いた。
彼女がそっと手を重ねてきた。
颯太は正面を向いたまま、
じわじわと耳が赤くなっていった。

食事のデートも、最初はぎこちなかった。

颯太はメニューを開いて
彼女に渡すのを忘れて自分だけ読み込んでいたり、
会話が途切れると沈黙を何とかしようと
必死になって余計なことを言ったり。
彼女はそのたびにくすくす笑った。
怒らずに笑ってくれる人だった。

何度か重ねるうちに、少しずつ慣れてきた。
彼女の好きな食べ物、苦手なもの、
映画のジャンル、週末の過ごし方
——そういうものが颯太の中に積み重なっていった。

「西村さんって、最初すごくぎこちなかったですよね」
二年目のある夜、彼女が言った。

「今もぎこちないだろ」

「今は可愛いぎこちなさです」

颯太は苦笑した。

「褒めてるのかそれ」

「褒めてます」

彼女は明るくて、素直で、
颯太には過ぎた人だと思っていた。

---

## 第十六章 プロポーズと、その後

付き合って二年が経った頃、
颯太はプロポーズを決めた。

下調べは念入りにした。
指輪の選び方、渡し方、言葉の作り方。
いくつかのサイトを読んで、
片膝をついて渡すのが定番だと知った。
给料の三ヶ月分のリングを
ジュエリーショップで購入して、颯太は練習した。
鏡の前で、一人で。何度も。

当日、颯太はレストランの個室を予約して、
食事が終わった頃合いを見て椅子を引いた。
片膝をついて、小箱を両手で差し出した。

「一緒に生きてほしい。結婚してください」

彼女は目を丸くして、それから吹き出した。

「やり方、古くないですか?」

颯太も苦笑した。
「……調べたらこうって書いてあって」

「可愛い」彼女はまだ笑っていた。

「もう立っていいですよ」

颯太が立ち上がると、
彼女は涙目で笑いながら「はい、喜んで」と言った。

結婚生活は穏やかだった。

颯太は家事を分担した。
料理は苦手だったが覚えた。
妻の仕事が忙しい時は颯太が多く担った。
大きな喧嘩はほとんどなかった。
でも——颯太にはうまく言えない何かが、
ずっと心の底に澱のように溜まっていた気がしていた。

五年目の秋、颯太は見てしまった。

営業回りの途中で立ち寄ったカフェの窓越しに、
妻が知らない男と向かい合って座っていた。
その距離感が、颯太には十分だった。

*ああ、そういうことか。*

颯太は何も言わなかった。
妻が話してくれるのを待った。
一週間、二週間、一ヶ月
——妻は何も言わなかった。
笑って夕食を作って、
何もなかったように颯太の隣で眠った。

一年後、颯太は探偵に依頼した。
揃えた証拠を、ある夜テーブルの上に置いた。

妻は最初、泣いて謝った。
次の日には
「颯太が構ってくれないから」
「一緒にいても楽しくないから」と言い始めた。

颯太は黙って聞いていた。

自分なりにやってきたつもりだった。
妻の好みに合わせて、休日の計画を立てて、
家事を分担して。それでも足りなかったというなら、
自分には何かが欠けているのだろう、と思った。
怒りより先に、静かな失望が来た。

「子供もいないし、慰謝料もいらない。別れよう」

颯太は淡々と言った。

また、部屋が静かになった。

---

## 第十七章 それぞれの十数年

離婚してから、颯太は仕事だけになった。

意識してそうしたのか、
無意識にそうなったのか、
自分でもわからなかった。
ただ、動いていれば考えずに済んだ。
朝早く出て、夜遅く帰る。
数字を追って、提案書を書いて、部下を育てる。
いつの間にか課長になり、部長になった。

来年で四十歳。

颯太は帰宅途中のデパートの前で立ち止まって、
ショーウィンドウに映った自分を見た。
スーツの似合う、
どこにでもいる中年男性がそこにいた。

*椅子でも買うか。*

なんとなくそう思って、颯太はデパートに入った。

デザイン家具の展示会、
という案内板を目で追いながら、フロアを歩いた。
洗練されたデザインの家具が並んでいる。
颯太は実用的な椅子を探しながら、
ぼんやりとフロアを見回した。

人だかりの中心で、
一人の女性がてきぱきとスタッフに指示を出していた。

白いシャツに黒のパンツ。
髪をすっきりまとめて、その場を自然に仕切っている。
颯太は、その人の立ち姿をなんとなく目で追った。

*綺麗な人だな。*

その女性がふと顔を上げた。

颯太の方を見た。

驚いた顔をした。

そのまま颯太の方へ歩いてきた。
颯太は何か不味いことをしたかと思いながら、
立ち止まった。

「颯太!」

その声を聞いた瞬間、颯太の時間が止まった。

声には聞き覚えがあった。
でも頭がすぐに追いつかなかった。
目の前の女性を、颯太はまじまじと見た。

三十代後半。目元に少しだけ年齢の重みが加わっていたが、

その白い肌と大きな瞳は——颯太の記憶の中にある。

「……もしかして、莉央?」

女性は笑った。

「十何年ぶりなのに、『もしかして』なの」

---

## 第十八章 喫茶店の一時間

仕事が終わったら会いましょう、
と連絡先を交換して別れた。

颯太はデパートの近くの喫茶店に入り、
窓際の席で紅茶を頼んだ。
カップを両手で包みながら、
今起きたことを整理しようとした。

*莉央がいた。あの展示会に。*

まさか、という気持ちと、
どこかで予感していたような気持ちが混ざっていた。
縁とは不思議なものだと、また思った。

一時間ほどして、店のドアが開いた。

莉央が入ってきた。
颯太に気づいて、小さく手を挙げた。

向かいの席に座って、コーヒーを頼んで、
それから二人は少しの間笑い合った。
何から話せばいいかわからないような、
懐かしいような、不思議な間があった。

「元気だったの?」莉央が先に聞いた。

「まあ、なんとか。莉央は?」

「私も、なんとか」

お互いに苦笑した。

それから少しずつ、話した。

莉央のパリ留学、デザインの勉強、
自分の才能の限界を知った時のこと。
外資系企業に入ってバイヤーになったこと、
外国人と結婚して、うまくいかなくて離婚したこと。
仕事も行き詰まった時に
日本の家具メーカーに引き抜かれて帰国したこと。

「デザインを作る才能はなかったけど」
莉央はコーヒーカップを持ちながら言った。

「選ぶ目は悪くなかった。
だから今があるのかもしれない」

「十分すごいよ」颯太は言った。

「自分で道を切り開いてきたじゃないか」

莉央は少し照れたように視線を逸らした。

「颯太は?」

颯太も話した。
食品会社の営業に入ったこと、
最初の三年間が死ぬほど大変だったこと、
部長になったこと。
結婚して、五年で離婚したこと。

「お互い、苦労したね」莉央が言った。

「そうだね」颯太も笑った。

窓の外に、夜の街の灯りが広がっていた。
コーヒーカップが空になっていた。
颯太はしばらくテーブルの木目を見ていた。

*言うなら、今しかない。*

十数年前、颯太は莉央を見送る時に何も言えなかった。
笑って送り出した。
それでよかったと思っていた。
でも——

「莉央」

颯太は顔を上げた。

「うん?」

「これからも、会ってくれないか」

莉央の目が、少しだけ揺れた。
それから、困ったような、
でも嬉しそうな顔で口を開いた。

「セフレとして?」

颯太は苦笑した。
その言葉には、もう怯まなかった。

「結婚を前提としたお付き合いで、お願いします」

颯太はテーブルの上に手を伸ばした。

莉央は少しの間、颯太の手を見ていた。

「相変わらず真面目だね」

莉央の手が、颯太の手の上に重なった。

颯太は胸の中で静かに息をついた。

*やっと。自分から言えた。*

その思いは声には出さなかった。
ただ、莉央に向かって、颯太は満面の笑顔を返した。

窓の外の街の灯りが、
二人の顔をやわらかく照らしていた。

---

## エピローグ 棚の端の、あのメモ

その夜、颯太は一人でマンションに帰った。

部屋の電気をつけて、スーツのジャケットを脱いで
——それからふと、本棚の端を見た。

古い棚の、一番奥の隅。

そこには小さく折りたたまれた紙が、
ずっと置いてある。

颯太は手を伸ばして、それを取り出した。

もう何年も触っていなかったのに、捨てられなかった。
引っ越しのたびに、一緒に運んでいた。

広げると、見慣れた字が見えた。

『また来る』

颯太はしばらくそのメモを見ていた。

それから、静かに折りたたんで——今度は、捨てた。

もう必要ない。

彼女は本当に、また来たのだから。

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**―了―**


「あとがき」

最初は2人が最後に会っても

交際しない方向にしようと思っていたのですが

あらすじを作っているうちに

この2人は一緒になって欲しいなぁ・・・

と思い交際する事に変えました

何かそうした方がいいかなぁ~

って思っちゃったんですよね 苦笑

 

第二百三十七弾「 秘密のきみと、僕だけの世界」の続きです

 

 

 

# 秘密のきみと、僕だけの世界 ―続章―

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## 第七章 終わりの予感

颯太は数えていた。

莉央が卒業するまで、あと何ヶ月か。
カレンダーを見るたびに、
その数字が一つずつ減っていくことを、
颯太は心のどこかでずっと意識していた。

藤宮莉央は大手食品グループの令嬢だ。
卒業すれば家の会社に入り、
やがて親が選んだ相手と婚約する。
それが彼女の「普通の未来」のはずだった。
颯太のような人間が、
その先に続く道に立っていられる場所はない。

わかってる、とっくに。

だから颯太は莉央の顔を見るたびに笑って、
何も言わなかった。

男子学生からのやっかみは相変わらず続いていた。

「なんであんな地味な奴が」

「どうせ遊ばれてるだけだろ」

——廊下の端でそんな声が聞こえても、
颯太は気にしないふりをした。
莉央が卒業してしまえば、そういう噂も自然と消える。

「やっぱり遊びだったんだ」で終わる。
それでいい。

ただ一つだけ、
颯太が予想していなかったことがあった。

莉央が来る回数が、増えていた。

以前は週に二、三回だったのが、
今は四、五回になっていた。
平日の夜遅くに来ることも増えたし、
朝まで泊まっていくことも珍しくなくなった。
颯太の部屋に莉央の歯ブラシが置いてある。
洗面台の隅に、彼女のハンドクリームがある。

それだけではない。

激しさが、変わっていた。

以前の莉央は、どこかクールな距離感を保っていた。
でも最近は、颯太にしがみつくような瞬間がある。
まるで何かを確かめるように、
あるいは何かから逃げるように
——颯太にはその意味がうまく掴めなかった。

*何かが変わろうとしているのかもしれない。
でも俺には、何も聞けない。*

---

## 第八章 全裸の相談

ある夜、長い時間が過ぎた。

颯太はベッドの上で天井を見ていた。
隣に莉央がいる。
二人ともぐったりしていた。
部屋の電気は消えていて、
窓から街の灯りだけが薄く差し込んでいる。

しばらく、どちらも何も言わなかった。

それが颯太には心地よかった。
こういう沈黙に、二人はすでに慣れている。

「ねえ」

莉央が天井に向かって言った。

「うん」

「私たちって、いつもこれだけよね」

颯太は莉央のほうを見た。

「これだけって」

「セックスだけ」莉央は少し笑った。

「ちゃんとしたデート、したことないじゃない」

颯太は考えた。
確かに、その通りだった。
映画も、食事も、どこかに出かけたことも——何もない。
莉央はいつも颯太の部屋に来て、そして帰っていく。

「……まあ、そうだね」

「今度の週末、泊まりで行かない?」

颯太は少し間を置いた。

「旅行、ってこと?」

「そう。二人で。どこかに」

*卒業前に、ちゃんと一度だけ。*

颯太はそう直感したが、言葉にはしなかった。

「行こう」颯太は言った。

「どこがいいかな」

「箱根とかどうかしら。温泉もあるし」

「いいね」

二人はベッドの上でスマートフォンを取り出して、
あれこれ調べ始めた。
旅館か、ホテルか。
電車で行くか、バスか。
露天風呂付きの部屋が空いている、
温泉街まで歩けるところがいい、
夕食はフルコースがいい
——話しているうちに、
声が弾んでいくのを颯太は感じた。

莉央が「ここ、どう? 露天風呂が部屋についてるって」
とスマートフォンの画面を見せてきた。
颯太が「いいじゃん、予約しよう」と言って、
二人で顔を見合わせた。

「決まったね」

「決まった」

嬉しさのまま、颯太は莉央の肩を引き寄せた。
莉央も颯太の胸に額を当てた。
しばらくそのままでいて
——それからふと、颯太は気がついた。

「……俺たち、ずっと全裸で旅行の話してた」

莉央が吹き出した。
颯太も笑った。

二人の笑い声が、小さな部屋の中に広がって、
すぐに静かになった。

---

## 第九章 新宿発、君と行く

当日の朝、
颯太は三十分前から新宿駅の改札前にいた。

落ち着け、と自分に言い聞かせながら、
スマートフォンを意味もなく何度も確認した。
旅行カバン一つ、財布の確認は三回した。
女性と一泊旅行に行くのは生まれて初めてだった。
準備の仕方すらよくわからなくて、
昨夜はほとんど眠れなかった。

待っている間、颯太は行き交う人の波を眺めた。
カップルが多かった。
隣に誰かがいることが当たり前の人たちが、
あちこちにいた。

*俺もそっち側にいる。今日は。*

まだ実感がなかった。

「颯太!」

声がした。

人の流れの向こうから、
莉央が手を振りながら小走りでやってくるのが見えた。

颯太は思わず息を止めた。

莉央はシンプルなベージュのコートに、
淡いピンクのマフラーを巻いていた。
髪は少しだけ巻いてある。
荷物を抱えて小走りで来るその姿は、
いつもキャンパスで見る「藤宮莉央」でも、
颯太の部屋に来る莉央でもなかった。

ただ、颯太のところへ来るために走っている、
一人の女の子だった。

「待った?」
莉央が息を弾ませながら颯太の前に立った。

「全然。ちょうど今来たとこ」

嘘だった。
でも莉央は「そう」と笑って、颯太の隣に並んだ。

ロマンスカーのシートに並んで座ると、
颯太はようやく実感が来た。
窓の外を流れていく景色、
莉央の肩が時々自分の肩に触れる感覚、
コーヒーとパンを買って二人で分けながら食べた味
——すべてが、颯太の知らない時間だった。

「あなたって、外でこんなに緊張するんだね」
莉央がくすくす笑った。

「緊張してない」

「耳が赤いよ」

颯太は窓の外を向いた。

「寒いから」

「車内なのに?」

莉央がまた笑った。
颯太は笑われながら、でも悪くないと思っていた。

---

## 第十章 箱根の一日

箱根は晴れていた。

まず向かったのは大涌谷だ。
ロープウェイで上がると、眼下に広がる山の景色と、
噴気孔から立ち上る白い煙が視界に広がった。
空気に硫黄の匂いが混じっている。

「すごい」
莉央が手すりに手をかけながら、
眼下を見下ろした。

「なんか、世界の果てみたい」

「大げさだよ」

「でも綺麗じゃない」

颯太も隣で同じ景色を見た。
確かに綺麗だった。
でも颯太の目は、
景色よりも莉央の横顔に引き寄せられた。
風に髪が揺れて、
彼女は気にせず景色を見続けている。

名物の黒たまごを二つ買って、二人で並んで食べた。

「一個食べると七年寿命が延びるらしいよ」
と颯太が言うと、
「じゃあ二個で十四年ね」と莉央が返した。

「そんなにいる?」

「いるに決まってるでしょ」

——何気ない言葉のやりとりが、
颯太の胸の中にしまわれていった。

芦ノ湖では遊覧船に乗った。
湖面は穏やかで、遠くに富士山が見えた。
雲一つなく、山頂まではっきりと見える。

「富士山って、こんな綺麗なんだね」
莉央が言った。

「いつも写真でしか見てなかった」

「俺も初めてちゃんと見た」

「そうなの?」

「関東育ちなのに、意外と機会がなくて」

「なんか、損してたね」

「今日見たからよかった」

莉央が颯太のほうを向いた。
颯太も莉央を見た。

莉央は少し笑って、颯太の腕に自分の腕を絡めた。
颯太は何も言わずにそのままにした。
船が湖面を進む音と、風の音だけが聞こえていた。

箱根神社に寄って、商店街をぶらぶら歩いた。
莉央が小さな陶器の店を覗いたり、
颯太がアニメの聖地っぽい看板に反応したり
——完全に噛み合っていないのに、
なぜかそれが心地よかった。

夕方近く、
疲れた二人はカフェに入って熱いコーヒーを飲んだ。
莉央は窓の外の山を眺めながら言った。

「今日って、普通だね」

「普通?」

「なんか、すごく普通のカップルみたいだなって」
莉央はコーヒーカップを両手で包んだ。

「ただ旅行してるだけ。それが、なんか、よかった」

颯太は答えなかった。

ただ、うん、と小さく言った。

---

## 第十一章 露天の告白

ホテルの部屋は、
颯太が奮発して予約した甲斐があった。

和洋折衷の広い客室に、
バルコニーに続く露天風呂がついていた。
夜の山の空気が冷たく澄んでいて、
湯気が白く立ち上っている。
夕食のフルコースはテーブルに
料理が次々と運ばれてきて、
颯太はどのタイミングで
どのフォークを使えばいいのか少し迷ったが、
莉央が黙って隣のフォークを示してくれたので助かった。

「慣れてるね、こういうの」
颯太が言うと、莉央は少し複雑そうに笑った。

「嫌になるくらいね」と言った。

食後、
少しワインを飲んでから、莉央が言った。

「せっかく露天風呂があるんだから、
一緒に入らない?」

颯太の顔に熱が上がった。

「そ、そうだね」

なぜか今更そういうことで赤くなっている自分が
可笑しかったが、どうしても赤くなった。

莉央が先に入った。
颯太が少し後から出ると、
石造りの湯船に莉央の後ろ姿が見えた。

夜の山の空気の中、
湯気の向こうに、白い肩と首の線が浮かんでいる。

颯太は思わず立ち止まった。

何度も見てきたはずの姿なのに、今夜は違って見えた。
温泉の湯に温められた肌が、
夜の空気の中でほのかに白く光っているようだった。

「綺麗だ」

颯太は声に出ていると気づいた時には、
もう言ってしまっていた。

莉央が振り返った。
少し意外そうな顔をして、それから笑った。

「なによ、改まって」

「……いや、なんか、そう思って」

「あなた、たまに急に素直になるわよね」
莉央はくすくす笑った。

「可愛いじゃない」

「可愛いは余計」

颯太は湯船に入りながら、莉央の隣に腰を下ろした。
お湯が温かい。
冷たい夜の空気と、熱い湯の境界に身を置いていると、
頭がゆっくりとほぐれていく気がした。

「あ~、気持ちいい」颯太は思わずこぼした。

莉央がちらりと颯太を見た。

「セックスより?」

「それとこれは別だよ~」
颯太は赤くなりながら笑った。

莉央も笑った。
二人の笑い声が、夜の山に溶けた。

しばらく、沈黙があった。

遠くで虫の声がした。
月が出ていて、湯面に光が揺れていた。

「颯太」

莉央の声が、少し変わった。

「うん」

「卒業したら、留学する」

颯太は莉央のほうを見た。
莉央は湯面を見つめていた。

「デザインの勉強をしたくて。
ちゃんとした学校で学びたい。
パリに行こうと思ってる」

颯太は黙って聞いていた。

「留学の準備で、これから忙しくなる。
多分……もうほとんど、会えなくなると思う」

莉央の声は静かだった。
でも颯太には、
その静かさの中に何かが張り詰めているのがわかった。

莉央は少し俯いた。
湯面に視線を落として、唇を一度だけ結んだ。

颯太の胸の中で、何かが静かに沈んでいった。

わかっていた。
いつかこういう日が来ると、ずっとわかっていた。
でも、こんなに穏やかに言葉にされると、
準備していたはずなのに、
上手く呼吸ができなくなった。

颯太は少しの間だけ夜空を見上げた。

*悲しい顔は、見せない。*

それだけを決めて、颯太は莉央のほうを向いた。

「おめでとう」颯太は笑った。

「よかったね、夢に向かえるじゃん。
何もできないけど、応援するよ」

莉央が颯太を見た。
颯太の笑顔の裏にあるものに気づいているのが、
その目でわかった。
でも莉央は何も言わなかった。

「ありがとう」莉央は静かに言った。

「がんばるね」

夜の空気が冷たかった。
お湯が温かかった。

その温度の差の中で、颯太は莉央の隣にいた。
それだけで、十分だと思おうとした。

---

## 第十二章 最後の夜

莉央の言った通りだった。

それ以来、二人が会う機会は急に減った。
莉央からのメッセージは来るが、
「忙しくてごめん」という一言が続いた。
颯太は「大丈夫、頑張って」と返した。

桜が咲いて、散った。

莉央の卒業式の日、
颯太はキャンパスの端から遠くに袴姿の莉央を
一瞬だけ見た。
莉央は友人たちに囲まれて笑っていた。
颯太とは目が合わなかった。

それでよかった、と颯太は思った。

その夜、莉央から一件だけメッセージが来た。

『来月、日本を出ます。一度だけ会えませんか』

颯太はしばらくスマートフォンを見つめた。

『もちろん』と打った。

---

最後に莉央が颯太の部屋に来た夜、
二人はほとんど何も話さなかった。

言葉よりも先に、お互いの体が動いていた。
その夜の莉央は、颯太の名前を何度も呼んだ。
颯太はその声を、
心の奥の、誰にも見せない棚の一番奥にしまった。

明け方、莉央が帰り支度をした。
颯太は玄関まで送った。

ドアの前で、莉央は振り返った。

「颯太」

「うん」

「ありがとう」

何に対してのありがとう、とは聞かなかった。
颯太もただ頷いた。

莉央は少しだけ颯太の胸に額を当てて、
それからドアを開けた。

廊下に出て、一度だけ振り返って、
小さく手を振った。

颯太も手を振った。

エレベーターのドアが閉まった。

颯太は部屋に戻って、ドアを閉めた。

静かだった。
洗面台に莉央のハンドクリームが残っていた。
颯太はそれを手に取って、
しばらくそのまま立っていた。

*よかった。ちゃんと笑って送れた。*

そう思いながら、颯太は壁のアニメのポスターを眺めた。
積みゲーの山を見た。
棚のフィギュアを見た。

全部、変わらずそこにあった。

颯太は床に座って、膝を抱えた。

誰もいない部屋の中で、
颯太はしばらくそのままでいた。

---

*次章、最終章へ*
 

今日中に最終章を載せる予定です

 

第二百七十弾「春を待つホーム」の続きです

 

 

# 春を待つホーム 続編

## 五 六畳の残像

 五月七日の朝、卓は目を覚まして天井を見た。

 静かだった。

 当たり前だ。
朱琴も春華ちゃんも、昨日の夕方に帰っていった。
ワンルームに自分ひとり。
それはゴールデンウィーク前と
何も変わらないはずだった。

 なのに、部屋がひどく広く感じた。

 ベッドの横に畳んだ毛布が置いてある。
春華ちゃんが使っていたものだ。
朱琴に「ちゃんと畳んどいてね」と言ったら、
春華ちゃんが「私がやります」とすっと動いて、
几帳面に四つ折りにしていた。
その毛布がまだそこにある。

 卓はしばらくそれを見てから、
起き上がってコンビニへ行き、
紅茶の缶を買って帰った。

 プルタブを引く。一口飲む。

 ——甘くない。いつも通りの味だ。

 あの日だけが特別だったのだと、卓は思った。

---

 五月の後半から六月にかけて、
卓は大学とアパートの往復を続けた。
講義に出て、ノートを取り、
食堂でひとりで飯を食い、帰る。
友人はあいかわらず一人もできなかった。
サークルの新歓はとっくに終わっていた。

 このままでは、と思った。
いや、べつにこのままでもいいか
という気持ちもあった。
だが仕送りだけの生活は、
ゴールデンウィークに母から多めに
振り込んでもらった分が消えていくにつれて、
じわじわと心もとなくなってきた。
外食を控え、スーパーの閉店間際の
値引き弁当を買うようになった。

 バイトを、しなければ。

 コミュ障にとって面接というのは、試験より怖い。
相手の目を見ながら、想定外の質問に言葉で答えながら、
なおかつ愛想よくしなければならない。
卓は求人サイトを三日眺めてから、
近所のスーパーに応募した。
品出しと書いてあったから。
できるだけ喋らなくていい仕事を選んだ。

 面接は案の定、ひどかった。
「志望動機は?」に対して「近いので」
と答えてしまい、店長に苦笑された。
「接客は大丈夫ですか?」には
「……がんばります」と言うのが精一杯だった。
それでも採用の電話がかかってきた時は、
思わずスマホを握りしめた。

---

 仕事は品出しと陳列がメインだった。
バックヤードで段ボールを開け、
商品を台車に乗せ、売り場に並べる
。黙々とできる作業だった。卓には合っていた。

 レジも一応教えてもらったが、
要領の悪さがすぐに露呈した。
袋に商品を詰めながらお客さんの顔を見て、
値段を確認して、釣り銭を渡しながら
「ありがとうございました」と言う
——それを同時にやるのがどうしても上手くいかなかった。
後ろに列ができると頭が真っ白になった。
二週間で「金元くんは品出し専任で」と言われ、
それが正直ありがたかった。

 バイトを始めて一ヶ月が過ぎたころ、
やっと体が動くようになってきた。
どの棚にどの商品が入るかを覚えた。
発注のタイミングも少しわかってきた。
お客さんに「○○どこですか?」
と聞かれた時だけはまだ緊張したが、
「三番通路の奥です」と言えるくらいにはなっていた。

---

## 六 夏のバイト仲間

 七月に入ると、新しいバイトが数人入ってきた。

 制服に着替えて出てきた顔ぶれを見て、
卓はすぐに「あ、同じ高校の子たちだ」とわかった。
打ち解けた雰囲気が最初からあって、
休憩室でもずっと一緒にいた。
後で横耳に入ってきた話では、
夏休みに泊まりで海へ行く軍資金を稼ぐために
揃って応募したらしかった。

 ——高校生だけで海に泊まりで行くのか。

 卓は商品を陳列しながら、少しだけそのことを考えた。
京都の田舎ではそういうことはなかった。
いや、そもそも卓には行く友達がいなかったから
比べようもないが、なんとなく
「東京は自由なんだなあ」と思った。
ぼんやりとした感慨だった。

 その中に、ひとり目立つ子がいた。

 背が高くて、ポニーテールで、声がよく通る。
名札に「櫻井」と書いてあった。
仕事を教えてもらっている最中から、
パートのおばちゃんたちに
「わかりました!」
「これはどうするんですか?」
と次々に質問を飛ばしていて、
バックヤードが少し賑やかになっていた。

 その子が品出し中の卓の横に来たのは、
入ってから三日目のことだった。

「先輩、金元さんですよね? 
私、櫻井明紗って言います。
よろしくお願いします!」

 振り向いたら、予想より近い距離に顔があった。
卓は反射的に半歩引いた。

「あ、はい。金元です。よろしく」

「大学生ですか?」

「そう、一年」

「どこの大学ですか?」

「……○○大学」

「へえ! 頭いいじゃないですか」

「そんなことは」

「一人暮らしですか?」

「うん」

「いいなあ。自由で」

 矢継ぎ早に質問が来るので、
卓は台車を押しながら答えるのに精一杯だった。
明紗ちゃんは卓が短く返すたびに
「へえ」「そうなんですか」と間を埋めてくれるので、
会話が途切れなかった。
卓のような人間にとって、
それはある意味で助かることだったが、
ある意味で息継ぎができない感じでもあった。

 翌日も明紗ちゃんは話しかけてきた。

「金元さんってこのへん詳しいですか? 
おいしいご飯屋さん知ってます?」

「詳しくはないけど、駅前のラーメン屋は安い」

「ラーメン! 行ってみます。
一人でよく食べるんですか?」

「まあ」

「友達とは?」

 一瞬、間が空いた。

「……一人の方が気楽なんで」

 明紗ちゃんは「そうなんですか」と言ったが、
さして気にした様子もなく
「私は一人でご飯食べるの苦手です、寂しくて」
とあっさり話を続けた。
卓は「そういう人もいるんだな」と思いながら、
牛乳パックを棚に並べた。

 その日の仕事終わり、
更衣室から出てきた卓に、また明紗ちゃんが
「お疲れ様です!」と手を振ってきた。
他のバイト仲間と一緒だったのに、
わざわざ卓に声をかけてくれた。
悪気は一ミリもないとわかっていたが、
卓の耳は少しだけ熱くなった。

 ——春華ちゃん以外で、
こんな風に話しかけてくる女の子は
初めてかもしれない。

 そう思ってから、
なんとなく罪悪感のようなものを覚えて、
卓はさっさと帰路を歩いた。

---

 高校生の三人は仕事覚えが恐ろしく早かった。

 明紗ちゃんと、もう一人の山﨑ほまれちゃん、
岡村愛生ちゃんの三人は、
パートのおばちゃんに手取り足取り教えてもらいながら、
一週間足らずでレジを回せるようになっていた。
卓がレジで四苦八苦していたのが嘘みたいだった。

 ほまれちゃんは落ち着いた子で、動きに無駄がなかった。

愛生ちゃんはほまれちゃんと明紗ちゃんの間で
いつもにこにこしていた。
三人でいると、それぞれの役割がはっきりしていて、
見ていてなんとなく「仲が良いんだな」とわかった。

---

## 七 夜の公園と、狭い部屋

 六月の末のことだった。

 その日、
バックヤードで段ボールを潰していた卓は、
休憩室の方からくぐもった声が
聞こえていることに気がついた。
のぞくつもりはなかったが、
通路を通る拍子に、半開きのドアから中が見えた。

 明紗ちゃんと愛生ちゃんが、
ほまれちゃんの前にしゃがんでいた。
ほまれちゃんは下を向いていた。
暗い顔、というより、
全体が沈んでいるような様子だった。

 卓はそのまま通り過ぎた。

 仕事終わりに休憩室で着替えを済ませ、
従業員口から外へ出ると、
三人がまとまって立っていた。
普段ならすぐに「お疲れ様でした!」
と声が上がるのに、その夜はしんとしていた。
ほまれちゃんがまだ下を向いていた。

 卓は会釈をして脇を通り過ぎようとした。

「金元さん、ちょっといいですか」

 明紗ちゃんの声だった。

 卓は立ち止まった。
振り向くと、明紗ちゃんが少し真剣な顔をしていた。

「あの、変なお願いなんですけど」

 話を聞くと、要するにこういうことだった。
ほまれちゃんの親が、夏休みの旅行に反対している。
「高校生だけで泊まりに行くなんて」
と頭ごなしに言われて、
ほまれちゃんが怒って家に帰りたくないと言い出した。
だから三人で今夜は外にいようと決めた。

「公園で過ごそうかなって」

 卓は三人の顔を見て、それから空を見た。

 ——店長が先週言っていた。
このあたり、最近不審者が出るから
帰り道は気をつけるように、と。

「それは……ちょっと危ないんじゃない」

「でも行くとこないんで」と明紗ちゃんが言った。
意思は固かった。
ほまれちゃんも愛生ちゃんも、
公園で野宿する覚悟で来ている顔をしていた。

 卓は額に手を当てた。

 自分には関係ない話だ。
バイト仲間ではあるが、特別仲がいいわけでもない。
それに自分のアパートはワンルームで六畳しかない。

 だが、公園で女子高生三人が夜を明かす姿を想像したら、

それはそれで寝られない気がした。

「……うちに来るか。狭いけど」

 三人がぱっと顔を上げた。

「いいんですか?」と明紗ちゃんが言った。

「公園よりはマシだろ」

 ほまれちゃんが初めて顔を上げた。
「ありがとうございます」と小さく言った。

 結局、愛生ちゃんは「私はやっぱり帰る」と言い、
明紗ちゃんとほまれちゃんの二人が
卓のアパートへついてきた。

---

 六畳のワンルームに三人でいると、
ゴールデンウィークの時と同じように部屋が手狭だった。
ただあの時とは違って、卓は妙に落ち着かなかった。

 スーパーで買った弁当を三人で食べた。
特に話が弾むわけでもなく、
テレビをつけてバラエティを流しながら、
なんとなく過ごした。
ほまれちゃんは少し元気になって、
明紗ちゃんと小声で話をしていた。

 押し入れからゴールデンウィークに使った
簡易ベッドを出した。
朱琴と春華ちゃんが使ったやつだ。
空気を入れて膨らませると、
部屋の半分近くを占領した。

「これ便利ですね」と明紗ちゃんが言った。

「ゴールデンウィークに妹が来た時に使ったやつ」

「妹さんいるんですね。今度連れてきてくださいよ」

 卓は「まあ」とだけ答えた。

 ——春華ちゃんも一緒に来るかもしれない。
そう思ったら、
なぜかこの状況がいっそう居心地悪く感じた。

 消灯して、二人が簡易ベッドで横になった。
卓は自分のベッドで天井を見た。

 ——これ、浮気とかにはならないよなぁ。

 そう思ってから、自分でおかしいと思った。
付き合ってもいないのに何の浮気だ。
春華ちゃんに「待っててください」と言われて、
「わかった」とも答えていない。
ただ呆然と見送っただけだ。

 それでも、
「気になるような人もいませんよね?」
と念を押してきた春華ちゃんの声を思い出すと、
胸がざわざわした。

 卓はそのままいつの間にか眠った。

---

 夜中に目が覚めた。
トイレへ行くために起き上がって、
台所の前を通ると、電気がついていた。

 明紗ちゃんが、コップに水を注いで飲んでいた。

「あ、起こしましたか?」

「いや」

「喉渇いてしまって」

 卓はトイレから戻って、流し台の前に立った。
明紗ちゃんはコップをシンクに置いて、
卓の方を向いた。

「急なお願いだったのに、
泊めてくれてありがとうね」

「公園の方が危ないかなと思って」

「それだけですか?」

「……まあ、うん」

 明紗ちゃんはくすっと笑った。
「優しいんですね、金元さん」

 その笑顔が、電気の下で思ったより近くにあった。
卓は自分の頬が熱くなるのを感じた。
暗いからわからないといいが、とそれだけを考えた。

「……そういうんじゃないけど」
と卓はしどろもどろに返した。

 明紗ちゃんはしばらく卓の顔を見てから、
少しいたずらっぽい目になった。

「卓さんって、彼女いないですよね」

「いないよ」

「そっか」と明紗ちゃんはつぶやいた。
それから、少し間を置いて、
「卓さんなら付き合ってもいいかも?」と言った。

 卓は一瞬、脳の処理が止まった。

「……え」

「冗談ですよ~」
明紗ちゃんはすぐに笑った。

「本気にしました?」

「し、してないけど」

「顔赤くなってるじゃないですか」

「暗いからわからないだろ」

「ふふ」

 明紗ちゃんはそれだけ言って、
「おやすみなさい」と簡易ベッドへ戻っていった。
卓は流し台の前に一人残されて、
しばらく動けなかった。

---

 朝になった。

 明紗ちゃんもほまれちゃんも、
それぞれ家に電話して帰ることにしたらしかった。
ほまれちゃんは「今日また話し合ってみます」
と言っていた。
顔色が昨夜よりずっとよかった。

「ありがとうございました」
とほまれちゃんが深々と頭を下げた。

「大したことしてないから」

「それでも助かりました」

 二人を玄関先まで見送った。
ほまれちゃんが先に階段を下りていく。
明紗ちゃんが最後に振り返った。

 卓の方へ一歩近づいて、声を落とした。

「昨日のこと、少しは考えてもいいですよ」

「……は」

「冗談かどうかは、卓さんが決めてください」

 明紗ちゃんはにっと笑って、
それから手を振りながら階段を下りていった。
ポニーテールが揺れながら遠くなる。

 卓はアパートの廊下に一人残されて、
壁に寄りかかった。

 ——なんなんだ、あの子は。

 呆然と立ち尽くしていたその時、
ポケットの中でスマホが震えた。

 見たら、知らない番号だった。
でも、すぐにわかった。
登録していなかっただけで、
下四桁に見覚えがあった。
春華ちゃんの実家の番号だ。

 慌てて出た。

「もしもし、卓さん? 春華です。
電話しても大丈夫でした?」

 マスクをしたまま走ったような感じで、
心臓がどくんと跳ねた。

「大丈夫だよ」と卓は言った。
声がかすかに上擦った。

「急に電話してごめんなさい。
卓さんの番号、朱琴ちゃんに聞いてもええかって思って、
でも朱琴ちゃんが先に教えてくれて」

「そっか。どうしたの」

「どうしたっていうわけじゃないんですけど、
なんか話したくなってしもて」

 春華ちゃんの声は相変わらず柔らかくて、
京都弁のイントネーションが電話越しでも丸く聞こえた。
ゴールデンウィーク以来だった。
二ヶ月ぶりだった。

 二人で他愛もないことを話した。
春華ちゃんの学校のこと、夏休みの話、受験の話。
卓は大学のこと、バイトを始めたこと。
春華ちゃんは「スーパーのバイトですか、えらいなあ」
と言った。
それだけで、また耳が熱くなった。

 電話の最後に、春華ちゃんが言った。

「まだ彼女作ってないですよね?」

「いないよ」

 少し間があった。

「気になるような人も、いませんよね?」

 一瞬、明紗ちゃんの顔が浮かんだ。
「卓さんなら付き合ってもいいかも」という声が。

「いないよ」と卓は答えた。

 一拍置いてから、
「よかった」と春華ちゃんが言った。
ほっとしたような、
少しだけ安心したような声だった。

「じゃあ、また電話してもいいですか?」

「うん、いつでも」

「ありがとうございます。
卓さん、体に気をつけてくださいね」

 電話が切れた。

 卓は廊下でしばらくスマホを握ったまま立っていた。

 明紗ちゃんのことは、これ以上何かになることはない。
そう自分に言い聞かせた。
言い聞かせながら、
でも嘘をついたような罪悪感が少しだけ残った。
それを振り払うように、
卓はスマホをポケットにしまって、
急いで部屋に戻った。

 着替えて、鍵を持って、外へ出る。

 紅茶の缶をコンビニで買いながら、卓は思った。

 ——春華ちゃんの声を聞いたら、落ち着いた。

 それはたぶん、答えの一つだった。

 七月の朝の日差しが、
アスファルトに白く照りつけていた。

---

*続く*
 

第百十四弾「黒い男」の続きです

 

 



その夜、俺は決心した。

「変身」

黒い姿になる。
クローゼットから服を引っ張り出す。
五年間着ていなかった、普通の服。
ジーンズ、パーカー、スニーカー。
黒い身体の上に重ねていく。

鏡を見る。
確かに不審者っぽい。
でも、全身真っ黒の怪物よりは、はるかにマシだ。
帽子を深く被る。
マスクをつける。
これなら、深夜なら、なんとか。

手が震えた。
玄関のドアノブに手をかける。
五年間、このドアの向こうに出たのは、
救急車で運ばれた時と、病院への通院の時だけだった。
ドアを開けた。
廊下の冷たい空気が頬を撫でた。
いや、マスクの上からでも分かる。
外の空気だ。
部屋の中で循環している澱んだ空気とは違う。
生きている空気。

一歩、踏み出す。
自分の足で。
自分の意志で。
階段を降りる。
一段、また一段。
手すりを握る必要はない。
黒い身体は完璧にバランスを取ってくれる。

アパートの外に出た。
夜空が見えた。
星は見えない。
東京の空は明るすぎる。
でも、それでもいい。
外だ。
五年ぶりの、外だ。

歩き出す。
アスファルトを踏みしめる感覚。
硬い。でも、確かにそこにある。
靴底を通して伝わる地面の感触。
車椅子では絶対に感じられない感覚。

街灯の下を通る。
自分の影が伸びる。
影を持っている。
影を作れる。
当たり前のことが、こんなにも嬉しい。

コンビニの前を通る。
中には店員と客が数人。誰も俺を見ない。
ただの通行人。
不審者かもしれないけど、少なくとも怪物じゃない。

深夜の住宅街は静かだった。
たまに車が通る。犬の遠吠えが聞こえる。
自動販売機の明かりが、ぽつんと光っている。

公園があった。
小さな公園。ブランコと滑り台と砂場。
街灯に照らされて、影を落としている。
ベンチに座った。
風が吹いた。
木々が揺れる。
葉擦れの音。
この音を、五年間、窓越しにしか聞いていなかった。

深呼吸する。
マスク越しでも分かる。
草の匂い。
土の匂い。
生きている匂い。

涙が出た。
嬉しかった。
ただ、外にいる。
それだけのことが、こんなにも嬉しかった。

しばらくベンチに座っていた。
時間の感覚がなくなる。
でも、それでいい。
急ぐ必要はない。
ここにいる。
それだけでいい。

立ち上がる。
また歩き出す。

川沿いの道に出た。
小さな川。
コンクリートで固められた護岸。
水の流れる音がする。
街灯の明かりが水面に反射している。
揺れている。
キラキラと。

ふと、自分の手を見た。
黒い。
手袋をしていないから、黒い手が見える。
でも、待てよ。
街灯の光を浴びているのに、全く反射していない。
手袋みたいに、布みたいに、光を反射するはずなのに。
この黒さは、光を吸い込んでいる。

影だ。
濃密な影。
光を飲み込む漆黒。

川面を見る。
自分の姿が映っている。パーカーを着た人影。
でも、よく見ると、帽子の下から見える顔の部分が、
異様に暗い。
周りの闇よりも濃い。

もしかして。
夜なら。この闇に紛れれば。
服を着なくても、バレないんじゃないか。
頭をよぎる考え。
でも、すぐに首を振った。
無理だ。
いくら夜でも、全裸で歩いているようなものだ。
誰かに見られたら。
警察に捕まったら。

今日はやめておこう。
川沿いの道を引き返す。来た道を戻る。
公園、コンビニ、街灯。
アパートに戻る。
階段を上る。
部屋のドアを開ける。

「ただいま」

誰もいない部屋に、呟く。
ゴミをまとめて、玄関先に出しておいた。
明日は収集日だ。
五年間、健太に頼んでいたゴミ出し。
自分でできた。

「解除」

黒い身体が元に戻る。
力が抜ける。
床に座り込む。
でも、胸の中には、温かいものが残っていた。



それから、週に二、三回、夜の街を歩くようになった。
決まって深夜。
日付が変わってから。
人通りの少ない時間帯。

最初は近所だけだった。
アパートの周り。
公園。
コンビニ。川沿い。

でも、だんだん行動範囲が広がっていった。
隣の駅まで歩いた。
大きな公園まで行った。
二十四時間営業のスーパーにも入った。
変身している間は疲れない。
何時間歩いても、息が切れることはない。
筋肉痛にもならない。

夜の街には、夜の顔があった。
深夜のファミレスで、一人で勉強している学生。
終電を逃して途方に暮れているサラリーマン。
夜勤明けのナース。
ホームレスの老人。

みんな、それぞれの理由で、夜にいる。
俺もその一人だ。
ある夜、また川沿いを歩いていた時、
向こうから誰か来た。
若い男。酔っ払っているのか、ふらふらしている。
すれ違う。

「おう」

男が声をかけてきた。
俺は会釈だけして通り過ぎようとした。

「なあ、ちょっと」

腕を掴まれた。

「財布、見せてくんない?」

酒臭い息。
目が据わっている。

「……離してください」

低い声で言った。
変身している時は、声も少し変わる。

「いいじゃんか、ちょっとだけ」

力を込めて引っ張ろうとする男。
でも、俺の腕は動かなかった。
硬度を上げていた。
無意識に。鋼鉄のように。

「あれ?」

男が不思議そうな顔をする。
俺は腕を引いた。
男の手を振りほどく。

「痛っ!」

男が手首を押さえる。

「……失礼します」

早足で立ち去る。
後ろから文句を言う声が聞こえたけど、追ってこなかった。
心臓がバクバクしていた。
危なかった。
でも、この力が俺を守ってくれた。

この力。
ただ歩くためだけじゃない。
護身にも使える。
いや、もっと。
もしかしたら。
頭の中で、何かが芽生え始めていた。
でも、まだ形にならない。
とりあえず、今日はもう帰ろう。

アパートに戻る。
ゴミを出す。部屋に入る。
解除。
ベッドに横になる。
天井を見る。
五年間見続けてきた天井。
でも、今は違う。
外の世界を知っている。
歩ける世界を知っている。
明日は何をしよう。
いや、明日の夜は、どこへ行こう。
そんなことを考えながら、眠りについた。

(続く)
 

ゴールデンウィークにちなんだ

お話を作ってみました

 



# 春を待つホーム

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## 一 友達のいないゴールデンウィーク

 桜はとっくに散っていた。

 四月の末、
キャンパスのあちこちで

「GW何する?」
という声が弾けるように飛び交っていた。
金元卓はその声を、人混みの少し外側から聞いていた。
壁際のベンチに座り、紅茶の缶を両手で包みながら、
まるで異国語を聞くように。

 大学に入学して約一ヶ月。
卓が覚えた顔といえば、

同じ講義棟で何度かすれ違う男子学生と、
出席を取る教授の顔くらいのものだった。
友人はいない。
サークルにも入れなかった。
新歓の時期、勇気を出して
ビラを受け取ろうとしたことが二度あったが、
どちらも「どうぞ!」と差し出す笑顔に気圧されて、
会釈だけして通り過ぎてしまった。

 コミュ障、というのは生まれつきの体質みたいなもので、

卓はそれをとっくに諦めていた。
京都の片田舎で育った十八年間は
なんとかやり過ごしてきた。
だが東京は違う。
人の密度が違う。
笑い声の音量が違う。
みんなが既に誰かと繋がっていて、
その網の目から卓だけが溢れ落ちているような感覚が、
じわじわと胸の底に沈んでいった。

 ゴールデンウィーク。
せっかく上京したのだから、
上野でも行こうか。浅草でも歩いてみようか。
ひとりで。

 途方に暮れながらアパートに帰ってきたその夜、
スマホが震えた。
「お母さん」の文字。

「もしもし、卓? 元気にしてる?」

「うん、まあ」

「ご飯ちゃんと食べてる? 洗濯は?」

「食べてる。してる。ちゃんとやってるよ」

 母は少し間を置いてから、本題を切り出した。
妹の朱琴がゴールデンウィークに
友達と東京へ行来たがっている。
お兄ちゃんがいるから安心だって言って聞かないのよ。
友達は牧野さんちの春華ちゃんで、
ほら、朱琴と小学校からの仲良しの。
家に泊めて面倒を見てやってくれないかしら。

「部屋せまいし、男の一人暮らしだけど?」

「ホテル取れなかったみたいでね。
それとね、お小遣いいつもより多めに振り込むから。
東京案内してやって。ね?」

 卓は缶チューハイを一口飲んでから、
「わかった」と答えた。
どうせ予定はない。
それに、お金は正直助かる。
そんな打算がなかったといえば嘘になる。

 電話を切ってから、
「牧野春華」という名前を頭の中で
もう一度繰り返した。
顔も思い出せない、
朱琴の小学校からの友達。

 どうせ妹みたいな感じだろうと、
卓はそう思って眠りについた。

---

## 二 白いワンピース

 当日の昼前、卓は渋々駅へ向かった。
五月の陽射しはもう夏の匂いがして、
Tシャツ一枚でも額に汗が滲んだ。

 改札の外から到着ホームを見上げていると、
階段の上から朱琴の顔が現れた。
紺色のトートバッグを肩にかけて、
スニーカーで軽やかに降りてくる。
手を振ると、朱琴も大げさに振り返してきた。

 その隣に、白いワンピースの女の子がいた。

 卓は一瞬、
自分でも気づかないほど静かに、息を止めた。

 おかっぱに切りそろえられた艶やかな黒髪。
人混みの中にいるのに、
なぜかその子の周りだけ風が通っているように見えた。
白いワンピースは肩口に小さな刺繍があって、
清楚という言葉がそのまま形になったような印象だった。
背は朱琴よりも低くて、年齢より幼く見える。
少しはにかんだように下を向いていたが、
卓と目が合った瞬間、ふわっと顔を上げて笑った。

「お兄ちゃん、久しぶり! 遊びに来たよ」

 朱琴が隣の子を手のひらで示した。

「友達の、牧野春華ちゃん。
春華ちゃん、うちのお兄ちゃんの卓」

「牧野春華です。お邪魔します」

 京都弁だった。
イントネーションが柔らかくて、
名前を名乗るその短い言葉だけで、
どこか遠くの川辺を思い出すような響きがあった。

「あ、えっと、金元卓です。よろしく」

 自分の声が上擦っていないか、
耳や頬が赤くなっていないか、
卓は内心ひどく焦りながら、とにかく前を歩き出した。

 駅から徒歩十分のワンルームのアパートは、
二人分の荷物を置くと途端に手狭になった。
ベッドとデスクと小さな冷蔵庫。

「ここでいいのか?それとももう一度ホテル探すか?
ゴールデンウィークやから空いてるかどうかわからんけど」

「ここでいい! お金もったいないし」
と朱琴がすかさず言った。

「……春華ちゃんはええの?」

 春華は部屋をぐるりと見渡して、
「広うはないけど、きれいにしてはりますね」と言った。
褒められているのかどうかよくわからなかったが、
なぜか卓は少し嬉しかった。

 荷物を置いたあと、三人はすぐに出かけることになった。

二人の目的はコンサートだった。
地下鉄を乗り継いでライブ会場の最寄駅で降りると、
同じ方向へ歩くファンの群れが波のように続いていた。

「お兄ちゃんはコンサート来んの?」

「チケット持ってないし」

「じゃあ近くで待っててくれる? 二時間くらい」

「喫茶店でも入っとく」

「ありがとうございます」と春華が頭を下げた。
人混みの中でもその白いワンピースはよく目立った。
二人が会場の入り口へ吸い込まれていくのを見届けて、
卓は踵を返した。

---

 会場そばの喫茶店は、
コンサートを待つ保護者らしき人間が何人かいて、
どこか間が抜けた空気が漂っていた。
卓は奥の角の席に座り、メニューを開いた。

 コーヒーが苦手だった。
昔から、あの苦みだけはどうしても
慣れることができなかった。
「ホットのアールグレイを」と店員に告げると、
隣のテーブルのおじさんが
ブラックコーヒーをぐいっと飲み干すのが目に入って、
なんとなく気まずくなった。

 アイスティーが来た。
スマホでサブスクのアニメを再生する。
音楽は流れてくる。
絵も動いている。
なのに、内容がまるで頭に入ってこない。

 代わりに浮かんでくるのは、白いワンピースだった。
あの笑顔。
「牧野春華です」と言った時の、
柔らかいイントネーション。
電車の中で朱琴と小声で何かを話していた横顔。
スマホの画面を覗き込む時に少し前のめりになる仕草。

 ——なにやってんだ俺。

 卓はアイスティーのグラスに額を当てて冷やした。
赤面している自覚があった。
こんなことは生まれて初めてだった。
誰かのことを考えるだけで耳まで熱くなるなんて、
十八年間一度もなかった。

 こんなに気が早くてどうする。
妹の友達だぞ。
しかも妹と同い年の高校生だぞ。

 わかっている。
わかっているが、アイスティーを一口すするたびに、
また春華の声が耳の奥でくり返された。

 二時間は長かった。
そして短かった。

---

## 三 五月の東京

 翌日から、三人の時間が始まった。

 最初に向かったのは浅草だった。

 仲見世の人混みを春華は珍しそうに見渡していた。
「京都にもお寺さんはいっぱいあるけど、
こういう賑やかさはちょっと違いますね」と言いながら、
草餅の串を両手で持ってかぶりついた。
頬に餅粉がついているのを朱琴が笑って指摘し、
春華は「え、どこ!」と慌てて頬を押さえた。
卓はその一部始終を見ながら、
目をどこに置いたらいいかわからずに、
雷門の提灯を見上げた。

 浅草寺でおみくじを引いた。
朱琴は末吉で「つまんな」と言い、
卓は中吉だった。

「春華ちゃんは?」

 春華は折りたたんだ紙をゆっくり開いて、
しばらく眺めてから、「大吉」とぽつりと言った。

「えーずるい! もっかい引いてくる!」
と朱琴が走っていく。

 おみくじを結びながら、春華が横目で卓を見た。
「卓さんの中吉、なんて書いてありましたか?」

「えっと……『待ち人 遅れて来たる』やって」

 春華はそれを聞いてくすくすと笑った。
卓は何がおかしかったのかわからないまま、
また頬が熱くなった。

 浅草を歩いていると、甘味処の前を通りかかった。
店先の黒板に「コーヒー・紅茶・抹茶ラテ」と書いてある。

「ちょっと休憩せーへん?」と春華が言った。

 四人がけのテーブルに三人で座った。
朱琴がメニューを取ってコーヒーフロートを頼み、
春華はカフェラテを選んだ。
卓はダージリンのホットを注文した。

「卓さん、コーヒーは?」
と春華が不思議そうに聞いた。

「苦手で」

「あ、私もやったんですよ、中学の頃まで」

「今は飲めんの?」

「無理に練習しました」
春華は少し笑って、

「でも紅茶の方が好きです、今でも」

 それだけの会話だった。
でも卓は何となく、
春華と同じものが自分にはある気がして、
それがどういうわけか嬉しかった。

---

 二日目はお台場へ行った。

 五月の海は青く澄んで、
レインボーブリッジが陽光に白く光っていた。
ガンダムの像の前で朱琴が
「絶対写真撮る」と言い張って、
三人でシャッターを押し合った。
卓は自分から「一緒に撮ろう」とは言えなかったが、
朱琴が「お兄ちゃんも入って」と引っ張るので、
結局三人並んで撮ることになった。

 フレームの中で、春華が卓のすぐ隣に立った。
何気ない並び方だったが、
肩が触れそうなくらいの距離だった。
卓は少し身体を強ばらせながら、
カメラに向かって笑った。

 夕方、
潮風が吹いてきたころ、春華が少し寒そうに腕を抱えた。
朱琴が「コンビニでなんか買ってくる!」と離れていき、
自然と二人きりになった。

「東京って、海あるんですね」と春華が言った。

「まあそりゃあ、湾やけど」

「なんか、遠うに来たなあって感じがします」

 レインボーブリッジの向こうに橙色の空が広がっていた。

春華は欄干に両肘をついて、その景色をじっと見ていた。
横顔が夕陽に染まって、
白いワンピースのかわりに
今日着ていたクリーム色のブラウスが風に揺れた。

 ——綺麗だ、と卓は思った。
声には出なかった。
出せなかった。

「卓さんも、最初は遠うに来たって思いましたか?」

「……思った。
今でも、なんかここ自分の場所じゃない感じがたまにある」

 春華は卓の顔を見た。
不思議な目だった。
値踏みするでも、同情するでもなく、
ただ静かに受け取るような目。

「そうなんですね」と彼女はゆっくり言った。

「でも卓さん、ちゃんとここで暮らしてはる。
それってすごいことやと私は思います」

 それだけだった。
それだけなのに、十八年間で誰かに言われた言葉の中で、
一番胸に刺さった。

 朱琴がポカリとじゃがりこを抱えて戻ってくるまで、
卓と春華はレインボーブリッジを無言で眺めていた。

---

 三日目は原宿、渋谷。

 竹下通りは人の波が渦を巻いていて、
朱琴は目を輝かせながら全ての店をのぞこうとした。
春華は朱琴に引き回されながらも笑っていた。
卓は二人の後ろをついて歩くだけだったが、
ふとした拍子に春華と目が合うことが何度かあって、
そのたびに春華は目を細めて笑った。

 アイスクリームを買って食べた。
春華のチョコレートがふいに傾いて
コーンから落ちそうになり、
卓が反射的に手を出して受け止めた。

「あ」

「……ほら」

 卓はコーンを春華に返した。
指にチョコレートがついた。
春華は一瞬きょとんとしてから、
「すみません、ありがとうございます」と言って、
またくすくすと笑った。
朱琴はそのやり取りを見て、黙って二人を交互に見た。

---

 四日目は新宿御苑だった。

 ゴールデンウィークの公園はどこも人が多かったが、
芝生に腰を下ろすと不思議と落ち着いた。
三人でコンビニで買ってきたサンドイッチと
おにぎりを広げた。
朱琴はペットボトルのカフェラテ、
春華はほうじ茶、
卓はいつもの紅茶のペットボトルだった。

「卓さんって、ほんまにいつも紅茶なんですね」
と春華が言った。

「コーヒー飲めへんから」

「何回か試したんですか?」

「試したけど、喉が受け付けへん感じで」

 春華はほうじ茶を一口飲んでから、
「実は私も昨日カフェラテ飲んで後悔しました」
とこっそり言った。

「カフェラテって聞こえはいいけど、
結局コーヒー入っとるから」

 卓は思わず噴き出した。

「なんで頼んだん」

「なんとなく背伸びしたくて」
春華は少し恥ずかしそうに笑った。

「やっぱりお茶が一番です」

 朱琴がそれを聞いて
「二人ともコーヒー飲めないんやったら言ってよ、
昨日スタバ寄らんでよかった」とぼやいた。

 昼食のあと朱琴がうとうとして芝生に横になった。
卓と春華は並んで座り、しばらく何も言わなかった。

「卓さんって、大学で友達できましたか?」

 唐突な質問だった。
卓は少し間を置いて「まだ」と答えた。

「そうですか」

「コミュ障やから」

「コミュ障って感じ、しないですけど」

「朱琴がいるからやろ。
ひとりやったらこんな喋られへん」

 春華はふむ、というような顔で芝生を見ていた。

「私もそういうとこあります。
朱琴ちゃんとおる時は喋れるけど、
ひとりやったらへたくそで。
だから、わかります」

「春華ちゃんが?」と卓は思わず言った。

「そんな風に見えへん」

「そうですか?」春華は少し嬉しそうに笑った。

「そう言ってもらえると、ちょっと楽になります」

 風が吹いてきた。
春華の黒いおかっぱ髪が揺れた。
卓はそれを見ないようにしながら、見ていた。

 朱琴が寝息を立てはじめた。

---

 五日目は東京タワーへ上がった。

 展望台の窓から東京の街が広がっていた。
春華は鼻先を窓ガラスにくっつけんばかりにして、
指さしながら
「あれが渋谷ですか?」
「あっちが浅草?」と聞いてきた。
卓は後ろから一緒に窓の外を見ながら答えた。

「来年、もし東京来たら、一人でも迷わへんやろか」

「練習したら大丈夫やろ」

「……そうですよね」

 春華はそう言って、また窓の向こうを眺めた。
「来年」という言葉が、
小さなとげのように卓の胸に引っかかった。

 その夜、
卓は夜景の写真をスマホで見返しながら、
三人でいた時間を思い出した。
こんなに声を出して笑った
ゴールデンウィークは初めてだった。
こんなに誰かのことを一日中考えたのも、
初めてだった。

---

## 四 最終日

 五月六日の朝は、曇っていた。

 三人でアパートの狭いテーブルを囲んで、
コンビニで買ってきた朝食を広げた。
朱琴はカフェラテ、
春華はほうじ茶のペットボトル、
卓は紅茶の缶だった。

 春華がそれを見て、小さく笑った。

「卓さん、今日も紅茶やね」

「いつもそうやから」

「なんか、ずっとそうなんやろなって思います。
東京来ても、ずっと」

 どういう意味かよくわからなかったが、
春華が少し遠くを見るような目をして言ったので、
卓はそれ以上聞けなかった。
朱琴はスマホを見ながら黙々と食べていた。

 荷物をまとめる時、
部屋が急に広くなったように感じた。

 駅までの道を三人で歩いた。
昨日まであれほど賑やかだった街が、
連休明けを前に少し静まり返っていた。
春華は卓の少し後ろを歩いていた。
信号で止まった時、ふと隣に来て、
「楽しかったです、今回」とだけ言った。

「こっちこそ。おかげで良いGWになった」

 それが精一杯の言葉だった。

 ホームへの階段を上がりながら、
卓は何かもっと気の利いたことを言いたいと思った。
だが何も出てこなかった。
コミュ障とはそういうものだった。

 電車が来た。

 朱琴が「お兄ちゃん、いろいろありがとう。
また来てもいい?」と振り返り、
卓が「いつでも」と答えた。
朱琴はそれだけ確認すると
満足したように先に乗り込んだ。

 春華は扉の前で立ち止まった。

 卓は何か言おうとした。
「気をつけて」か、「また」か、
それとも何か別の言葉か。

 ——その時だった。

 春華が、小さな一歩を踏み出した。
卓の耳元に、顔を寄せてきた。

 おかっぱの黒髪が頬のそばをかすめた。
春華の声が、
静かな吐息のように耳の中に落ちてきた。

「来年、絶対に大学受験に合格して上京するから……
それまで彼女作らないで待ってて下さい」

 卓は固まった。

 息の仕方を忘れた。
何かを言おうとしたが、喉が動かなかった。

 春華は離れた。
卓の顔を見上げて、人懐こい、
あの無邪気な笑顔を一つだけ置いていった。
それから振り返ることなく電車に乗り込み、
朱琴の隣に立った。

 扉が閉まった。

 窓の向こうで、朱琴が何か春華に言っている。
春華はこちらを見ようとしない。
ただ前を向いて、少しだけ笑っていた。

 電車が動き出した。

 遠くなる。小さくなる。
やがてレールの先へ消えていく。

---

 卓はホームに、ひとり残された。

 人が通り過ぎた。
アナウンスが流れた。
どこかで子どもが泣いていた。

 全部が遠かった。

 耳の奥に、まだ春華の声が残っていた。
柔らかいイントネーション。
吐息の温度。
「待ってて下さい」という一言。

 卓は手のひらで顔を覆って、
それからゆっくり下ろした。

 空を見た。
曇り空だった。
だが不思議と暗くなかった。

 ——来年。

 一年後、
この駅に、春華が来る。
受験を突破して、東京へ来る。そう言った。

 卓はポケットに手を突っ込んで、階段を下りはじめた。
心臓がまだうるさかった。
足元がまだ少しふわついていた。

 帰り道、コンビニに寄って、紅茶の缶を一本買った。
プルタブを引いて一口飲む。

 苦くない。いつも通りの味だった。

 だがなぜか今日は、少しだけ甘く感じた。

 卓は歩きながら、初めて思った。

 一年後が、楽しみだ。

 生まれて初めて、待ち遠しい一年後があった。

---

*了*
 

第二百四十ニ弾「王女と影」

第二百五十七弾「 【王女と影】続編 ― 桜と波紋 ―」

第二百六十三弾「 【王女と影】続編 ― 灰色の外交 ―」

第二百六十八弾「 【王女と影】外伝 ― アイルランドの雨 ―」

の続きです

 

 

# 【王女と影】外伝2 ― 灰色の裏切り ―

---

## 序章 二つのチーム

 その任務が始まったのは、
エドワードがMI6に移籍して三年目の秋だった。

 ハウエル大佐に呼ばれたのは夕方だった。
窓の外にテムズ川が見える執務室で、
大佐はいつも通りの薄い笑みを口元に貼りつけたまま、
簡潔に状況を説明した。

 「南米系の麻薬密売組織が
ロンドンに流通網を構築しつつある。
末端の売人を数名確保したが、
上流の組織構造が見えていない。
ルートを遡って組織の全容を掴む。
それが今回の任務だ」

 「了解しました」

 「ひとつ付け加えておく」

 ハウエルは窓の外に目を向けた。

 「上層部は私と、別の大佐に同じ任務を与えている。
どちらかを次の司令官にするための、実質的な選抜だ」

 エドワードは黙って聞いた。

 「お前は私のチームとして動く。
だが組織内に競合チームが存在することは、
常に念頭に置いておけ」

 「その別の大佐というのは」

 「スタンフォード大佐だ。
有能な男だが、やり方が違う」

 それだけ言って、
ハウエルは書類をエドワードに渡した。

 エドワードは受け取りながら、
ハウエルの言い方の端に、珍しい何かを感じた。
警戒——いや、もう少し濃い何かだった。

 その意味を、
エドワードはこのとき完全には理解していなかった。

---

## 第一章 連絡員

 現場に入って一週間で、
エドワードはチームの連絡員と顔を合わせた。

 ダニエル・フォスターという男だった。
三十代前半で、温厚そうな顔をしており、
仕事は丁寧で、報告書の精度は高かった。

 エドワードは最初、特に気にしなかった。

 連絡員は情報の中継役だ。
現場のエドワードとハウエル大佐を
つなぐ役割を担っている。
指示は大佐から連絡員を通じて届き、
エドワードの報告は連絡員を通じて大佐に上がる。

 最初の二週間は、問題がなかった。

 三週間目の木曜日、最初の違和感が来た。

---

 「監視対象のAが、今夜十時に北埠頭の倉庫に入る。
接触のチャンスだ」

 フォスターからそう告げられた。
エドワードは北埠頭に向かい、
指定の倉庫を外から確認した。

 ——おかしい。

 倉庫の周囲に、人の気配があった。
自然な配置ではない。
倉庫の陰に、少なくとも二名が潜んでいる。
監視対象のAが来るのを待つ態勢ではな
く——入ってくる者を待つ態勢だ。

 エドワードは倉庫に入らなかった。

 引き返し、別ルートで現場を離れた。

 フォスターへの報告では「対象は現れなかった」
と告げ、違和感については黙っていた。

 翌朝、
ハウエル大佐に直接、非公式のルートで連絡を入れた。

 「昨夜の指示について、確認をしたい案件があります」

 大佐は短く返した。

 「直接来い」

---

 執務室で顔を合わせ、
エドワードは昨夜の状況を報告した。

 ハウエルは聞きながら、
表情が少しずつ変わっていった。
笑みが消え、目が細くなった。

 「私がフォスターに伝えた指示では、
今夜の監視はAの行動確認のみだ。
接触の指示は出していない」

 「……そうですか」

 「指示が変わって届いた、ということだ」

 ふたりは少し沈黙した。

 「連絡員に手が入っている可能性があります」

 「その可能性を視野に入れて動け。
ただし、フォスターには気づかれるな」

 「了解しました」

 「そしてグレイ」

 ハウエルの目が、真直ぐにエドワードを見た。

 「昨夜の件、引き返して正解だった。
だが次は必ず来る。その次も来る。
相手がどこまでやるか、見極めろ」

 エドワードは頷いた。

 その「次」が、これほど連続して、
そして巧妙に来るとは
——このときはまだ、完全には想定していなかった。

---

## 第二章 罠の連鎖

 四週間目、二度目が来た。

 「監視対象のBが単独で移動している。
尾行して接触ルートを確認せよ」

 フォスターからの指示だった。

 エドワードはBを尾行した。
繁華街を抜け、路地に入り、
古い集合住宅の前で止まった。
Bが建物に入る。

 エドワードが建物の入り口に近づいたとき、
上から声が来た。

 「動くな」

 屋上から銃口が向いていた。
左の路地の奥からも人影が出た。
建物の中からも足音が近づいてくる。

 三方を囲まれた。

 エドワードは一秒で状況を計算した。

 正面の男は屋上で不安定な体勢だ。
左の路地の男は距離がある。
建物内の足音は一名。

 後ろに走った。

 屋上から一発。
エドワードの右耳をかすめた。
路地の男が追ってくる。
エドワードは角を曲がり、次の角をまた曲がり、
三つ目の路地で待った。

 追ってきた男がその路地に入ったとき、
エドワードは壁から出て一撃で無力化した。
建物内から出てきた男も、
次の角で同じように処理した。

 屋上の男は逃げた。

 エドワードは息を整えながら、自分の右耳に触れた。
焼けるような痛みがあった。
わずかに血が出ていた。

 今夜の指示が正しければ、こうはなっていない。

 また変えられた。

---

 ハウエルへの報告は再び、非公式ルートで行った。

 大佐は今度は顔色を変えなかった。
表情が完全に平坦になった。
それは怒りを内側に押し込んだときの大佐の顔だと、
エドワードは知り始めていた。

 「指示を変えている人間の特定を急ぐ。
フォスターへの監視を強化する」

 「大佐、
フォスターは自分の意思で動いているのでしょうか。
それとも上から指示を受けているのか」

 ハウエルは少し考えた。

 「後者だと思っている。だが確証がない」

 「指示を出している人間の目星は」

 大佐は答えなかった。その沈黙が、答えだった。

 ——目星がある。だが言えない。

 エドワードはそれ以上は聞かなかった。

---

 五週間目、三度目が来た。

 今度は指示の変更が巧妙だった。
目的地は同じで、到着時間だけが三十分ずれていた。

 その三十分の差で、
現場には既に敵の人間が五名展開していた。

 エドワードは接近した瞬間に気配で気づき、引き返した。

だが尾行がついていた。
二名が後ろから追ってきた。

 エドワードは追手を二名とも無力化したが、
右肩に打撲を負った。
壁に強く叩きつけられたためだった。

 翌朝、肩を抑えながらハウエルへ報告した。

 大佐は報告を聞いた後、初めて静かに言った。

 「グレイ、注意しろ。次は死ぬかもしれない」

 「わかっています」

 「わかっていても言う。
この件は私が必ず始末をつける。
お前は任務を続けろ。
ただし——」

 「フォスターからの指示は、全て疑ってかかります」

 「そうしろ」

 ハウエルの目に、珍しい感情があった。

 謝罪に近い何か——だとエドワードは思った。
大佐が直接謝罪をする人間ではないことは知っていた。
だからこそ、その目の色は、珍しかった。

---

 六週間目。

 フォスターへの監視から、接触相手の特定が進んでいた。

フォスターはある人物から定期的に指示を受け取っていた。

 その人物がマクレガー大尉だと判明したのは、
七週間目の朝だった。

 マクレガー。

 エドワードはその名前を聞いたとき、
一拍だけ間を置いた。

 アイルランドの一件での降格処分。

 ——そういうことか。

 感情は引き出しにしまった。

 だが任務は、まだ続いていた。

---

## 第三章 罠

 七週間目の水曜日、フォスターから指示が来た。

 「組織の補給拠点のひとつが特定された。
東区の廃工場。
単独潜入で内部の構造を確認せよ」

 エドワードはその指示を受け取り、内側で検討した。

 フォスターからの指示は疑ってかかる
——ハウエル大佐との約束だ。
だが今回は、指示の内容が珍しく具体的だった。
廃工場の住所、内部の見取り図の断片、
警備の交代時刻まで添付されている。

 情報量が多すぎる。

 それ自体が、エドワードの警戒を呼んだ。

 しかし、ハウエルへの直接確認が取れなかった。
大佐は今日、上層部との会議で終日拘束されている。

 エドワードは三十分考えた。

 ——行くか、行かないか。

 行かなければ、本物の拠点情報を逃すかもしれない。
行けば、罠かもしれない。

 問題は、今回の情報の一部が
——別ルートで確認した実際の組織の動向と、
整合している点があったことだった。
完全な嘘ではない。
だとすれば、行かない選択の代償も大きい。

 エドワードは行くことにした。

 ただし、見取り図の通りには動かない。
自分で侵入ルートを決める。

 それでも、足りなかった。

---

 廃工場は、静かだった。

 静かすぎた。

 エドワードは外周を確認し、屋根伝いに接近した。
天窓から内部を見た。

 人影はなかった。

 ——本当に空か。

 降下しようとした瞬間、下から声が来た。

「そこまでだ」

 英語だった。

 天窓の下、工場の内部に、
十名以上の人間が展開していた。
エドワードが降りてくるのを待っていた。
見取り図には記載されていなかった角度からも、
人影が現れた。

 エドワードは屋根の上で一瞬判断した。

 後ろに下がろうとした。
だが屋根の上にも、すでに二名が上がっていた。

 挟まれた。

 正面の男が射撃した。
エドワードの足に命中した。
膝から崩れ、屋根の上でバランスを失い
——そのまま天窓から落下した。

 衝撃。意識が揺れた。

 次に気づいたとき、
両手を拘束されて工場の床に伏せていた。

---

## 第四章 人質

 連行されたのは、
廃工場から車で一時間ほどの場所にある民家だった。

 足の傷は貫通していたが、急所は外れていた。
処置はされなかった。
痛みをこらえながら、
エドワードは椅子に縛り付けられた。

 しばらくして、組織の男が現れた。

 南米系のアクセントで、英語を話した。
背が高く、顔に古い傷跡がある。

 「グレイ。MI6の諜報員だな」

 エドワードは答えなかった。

 「答えなくていい。知っている」

 男はテーブルの上にタブレットを置いた。
画面に、映像が映っていた。

 エドワードの目が、そこで初めて、
表情に変わりそうになった。

 映像の中に、ふたりの老人と若い女性がいた。
部屋の隅で、縛られて座っていた。

 父。母。妹。

 「グレイの家族だ。現在、我々の管理下にある」

 「……」

 「顔色が変わったな。
いいことだ。感情がある人間の方が、交渉は早い」

 男は椅子を引いてエドワードの前に座った。

 「条件は単純だ。
お前の所属する基地に、押収された
我々の商品が保管されている。
それを我々に返せ。それだけだ」

 「……押収品は基地の管理下にある
。私が持ち出せるものではない」

 「お前は賢い人間だと聞いた。方法を考えろ。
時間は二十四時間だ」

 男は立ち上がった。

 「時間を過ぎれば、家族は一人ずつ消える。
まず母親から、次に父親、最後に妹だ。
順番は、お前が選んでもいい」

 エドワードは黙っていた。

 男が出ていった。

 エドワードは静かに、拘束を確認した。
縄の素材、結び目の位置、監視の人数、出口の方角
——全部計算した。

 感情は引き出しにしまった。

 ——方法を考える。

---

## 第五章 基地への帰還

 拘束を解いたのは一時間後だった。

 縄は丁寧に結ばれていたが、結び目の位置が甘かった。
時間をかけて、足の痛みをこらえながら、
手首の角度を変えて少しずつ緩めた。

 監視の男がひとり、廊下側にいた。

 エドワードは立ち上がり、扉の蝶番の位置を確認した。
外開きだ。

 廊下の男の足音を聞きながら、
タイミングを計った。

 扉が開いたとき、男の首に腕を回して落とした。
物音は出なかった。外に出て、周囲を確認した。
民家の裏手、車が一台。鍵はついていた。

 足を引きずりながら車に乗り込み、走らせた。

---

 基地に着いたのは深夜だった。

 衛兵に止められた。

 「グレイ工作員、緊急帰還です。
大佐への報告が必要です。
それと医療班を——」

 「医療は後でいい。まず確認したいことがある」

 足の血が滲んでいた。
衛兵の顔が険しくなった。

 「工作員、その足では——」

 「後でいいと言った」

 押し切って基地に入った。

---

 倉庫棟は基地の東端にある。

 押収品の管理は厳格で、担当者の認証と上官の許可、
二段階の確認が必要だ。
エドワードの権限では、単独で持ち出すことはできない。

 それは知っている。

 だから別の方法を考えていた。

 倉庫棟の管理担当は今夜、ベケット軍曹だ。
エドワードは彼と面識がある。
訓練課程で同じ班だった時期があった。

 倉庫棟の外でベケットを呼び出した。

 「グレイ、その足——」

 「時間がない。ベケット、少し話を聞いてくれ」

 「状況報告を先に——」

 「頼む」

 ベケットは少し間を置いて、
「三分だけだ」と言った。

 エドワードは話した。全部ではない。
家族が拘束されていること、取引の条件、
そして自分が考えていることを。

 ベケットは黙って聞いた。

 「……倉庫に入るには、上官の許可がいる」

 「知っている」

 「俺の権限では、書類なしに通すことはできない」

 「わかっている」

 「……だが」

 ベケットは少し目を伏せた。

 「お前がそこにいる理由で、
倉庫内の確認作業をする場合は、
俺の同行のもとで入ることができる。
それは規則の範囲内だ」

 「……ありがとう」

 「感謝は後でいい。ただし——」

 ベケットはエドワードをまっすぐに見た。

 「俺は何も知らない。それだけだ」

 「わかった」

---

 倉庫の中は薄暗く、天井が高かった。

 棚が整然と並び、押収品が番号順に管理されている。
麻薬は奥のエリアだ。

 エドワードとベケットが奥へ向かったとき、
扉が開いた。

 「そこまでだ」

 ハウエル大佐の声だった。

 扉の外に、武装した要員が複数いた。
大佐は部屋の入り口に立ち、エドワードを見ていた。

 「グレイ、説明しろ」

 「大佐、聞いてください——」

 「ここに来た理由を」

 「家族が人質に取られています」

 ハウエルの顔が一瞬だけ動いた。

 「話は聞く。
だが今この場で押収品に手をつけることは——」

 「大佐」

 エドワードは大佐の言葉を遮った。

 三十二年の人生で、
上官の言葉を遮ったのは初めてだった。

 「時間がありません」

---

## 第六章 人質

 ハウエルが近づいてきた。

 要員たちが後ろに控えている。
包囲されている。

 エドワードは足の痛みをこらえながら、
距離を計っていた。

 「グレイ、お前の状況は理解した。
だが手続きを踏まなければ——」

 「手続きに、何時間かかりますか」

 「……」

 「時間は二十四時間です。
そのうちすでに数時間が経過している。
手続きが終わる頃には——」

 「わかっている」

 「ならば」

 エドワードは動いた。

 大佐との距離を一歩で詰め、右腕を大佐の首に回し、
左手でハウエルの腰のホルスターから拳銃を抜いた。

 要員たちが一斉に銃を向けた。

 「グレイ!」

 「申し訳ありません、大佐。怪我はさせません」

 ハウエルは静かだった。抵抗しなかった。

 「……お前は今、
取り返しのつかないことをしているとわかっているか」

 「わかっています」

 「それでもやるか」

 「やります」

 エドワードはハウエルを前に立てながら、
ゆっくりと倉庫の奥へ向かった。
要員たちは動けない。

 麻薬の保管エリアに着いた。
パッケージを確認し、台車に積んだ。

 「大佐、車の鍵をください」

 「……」

 「お願いします」

 ハウエルは沈黙した後、鍵を取り出した。

 「これで家族が助かる保証はないぞ」

 「わかっています」

 「それでも」

 「それでも、やれることをやります」

 ハウエルは静かに息を吐いた。

---

## 第七章 発信器

 車は大佐が運転した。

 エドワードは助手席で、
荷台の荷物を確認しながら、静かに言った。

 「大佐、盗聴器が仕掛けられている可能性があります。
この車に」

 ハウエルは表情を変えなかった。

 「どこだ」

 「わかりません。
ただ、向こうはこちらの基地の情報を詳しく知っています。

内通者がいる」

 「……知っている」

 「マクレガー大尉です」

 ハウエルのハンドルを握る手が、
わずかに白くなった。

 「確証があるのか」

 「フォスターへの接触を追った結果です」

 しばらく、エンジン音だけがあった。

 「大佐。私の家族が人質に取られていることは
——マクレガーを通じて、組織に伝わったはずです。
彼らは基地の保管場所まで知っていた」

 ハウエルは答えなかった。

 「申し訳ありません。こうするしかなかった」

 「謝るな」

 ハウエルの声は、平坦だった。

 「お前がやったことは、規則上は重大な違反だ。
処分は免れない。だが——」

 それ以上は言わなかった。

 郊外の交差点で、車が止まった。

 「ここで降りる」

 ハウエルがドアを開けた。
降りる前に、車体の下側に手を伸ばした。
磁石式の小型発信器を取り出し、エドワードに見せた。

 「これが車についている。位置は常に把握できる」

 「……大佐、それは」

 「お前も知っておけ」

 ハウエルはエドワードの目を見た。

 「グレイ。お前の家族は、私が動く」

 「……」

 「信じろ」

 エドワードは一秒だけ、ハウエルの目を見た。

 「……はい」

 ハウエルは車を降り、扉を閉めた。

 エドワードはハンドルを握り、車を走らせた。

---

## 第八章 港の夜

 コンテナ置き場に着いたのは深夜二時だった。

 霧が出ていた。

 港の外れ、積み重なった巨大なコンテナの間に、
組織の男たちが待っていた。
先ほど民家にいた、傷跡のある男が前に出てきた。

 「持ってきたか」

 「持ってきた」

 「確認させる」

 男の部下が荷台を開け、パッケージを確認した。

 「問題ない」

 「では取引完了だ。約束通り、家族は——」

 そのとき、サーチライトが一斉に灯った。

 「動くな!武器を置け!」

 拡声器の声が港に響いた。
コンテナの上に、武装した人影が現れた。
四方から要員が詰めてくる。

 組織の男たちが銃を抜いた。

 銃撃が始まった。

---

 エドワードは車から降り、コンテナの陰に身を寄せた。

 足の痛みが走った。構わずに走った。
組織の男が二名、こちらへ向かってくる。
エドワードは一人目の腕を取り、
体ごと二人目に向けて押し込んだ。
ふたりが絡んで倒れた。

 港の奥では激しい銃撃が続いていた。

 ハウエルの部隊は精鋭だった。
組織の男たちは数が多かったが、訓練の質が違った。
制圧は早かった。

 十五分で、銃声が止んだ。

 コンテナに背をもたせかけながら、
エドワードはハウエルを探した。

 霧の中から、大佐が歩いてきた。

 「大佐」

 「グレイ」

 「家族は——」

 ハウエルの顔が、答えだった。

 エドワードは、その顔を見た瞬間に理解した。

 大佐は何も言わなかった。言えなかった。

 「……いつですか」

 「今夜、早い時間に」

 「間に合わなかった」

 「……ああ」

 間に合わなかった。

 エドワードは霧の中で、それだけを繰り返した。
声には出なかった。

 足の傷が痛んだ。痛みが遠かった。

---

## 第九章 裏切り者

 基地に戻ったのは夜明け近くだった。

 エドワードは医療班に連れて行かれ、足の処置を受けた。

手術は短かった。
終わってベッドに横になっていたとき、
廊下が騒がしくなった。

 ドアが開き、ハウエルの要員のひとりが顔を出した。

 「工作員、見ていただきたいものがあります」

 医療棟の廊下の先に、
マクレガー大尉が両腕を要員に抑えられて立っていた。

 マクレガーはエドワードを見た。

 怒りではなかった。嘲笑だった。

 「よお、グレイ」

 エドワードは何も言わなかった。

 「任務失敗か。家族も死んだしな」

 要員のひとりが「大尉、発言を——」と言いかけた。

 「俺が命令を出したんだよ」

 マクレガーの声が、廊下に響いた。

 「グレイの家族を殺せって。
組織に指示を出したのは俺だ。
アイルランドの件の礼だ、グレイ。
どうだ、少しはすっとしたか?」

 廊下に、一秒の静寂があった。

 エドワードは動いた。

 松葉杖を壁に立てかけ、一歩で距離を詰め、
右の拳をマクレガーの頬に叩き込んだ。

 骨が軋む音がした。

 マクレガーが床に倒れ、そのまま動かなくなった。

 エドワードは倒れた男を見下ろした。

 拳が痛かった。

 それ以上は、何もしなかった。

---

## 終章 後味

 その後の経緯は早かった。

 マクレガー大尉の内通は、
通信記録と資金の流れから完全に証明された。
さらに捜査を遡ると、
マクレガーに指示を出していた人間が明らかになった。

 スタンフォード大佐だった。

 次の司令官の座を確実にするために、
競合するハウエルのチームを内側から妨害し、
その過程で敵の組織と通じ、情報を売っていた。

 スタンフォードもマクレガーも、連行された。

それによりハウエル大佐が司令官の座に就いた。

---

 エドワードは病室のベッドで、その知らせを聞いた。

 感想は、なかった。

 正確には——感想を持つ余力がなかった。

 任務は成功だ。組織は壊滅した。
内通者は逮捕された。
大佐は正当な地位を得た。

 ただ、家族は戻らない。

 引き出しにしまおうとした。
鍵をかけようとした。

 今夜は、鍵がうまくかからなかった。

---

 翌日、ハウエル大佐が病室に来た。

 椅子を引いてベッドの横に座り、
少しの間、何も言わなかった。

 「処分については、上層部と調整する。
今回の件の経緯は、私が説明する」

 「……ありがとうございます」

 「感謝はいい」

 また沈黙があった。

 「グレイ」

 「はい」

 「……すまなかった」

 それだけだった。

 ハウエル大佐が謝罪をしたのは、
エドワードが知る限り、
後にも先にもその一度だけだった。

 エドワードは天井を見上げた。

 「大佐は悪くありません」

 「そうは言えない状況だ」

 「……そうですね」

 窓の外が明るくなっていた。

 「休め。
任務の続きは、お前が動けるようになってからだ」

 大佐は立ち上がり、部屋を出た。

 エドワードはひとりになった病室で、
長い間、天井を見ていた。

 鍵のかかった引き出しが、
胸の中に、また一つ増えた。

---

**【外伝2・了】**

---

*グレイは任務に復帰した。
その後の評価記録には、感情の揺らぎを示す一行もない。
失ったものが多ければ多いほど、残るものは鋭くなる
——ハウエル大佐はのちに、そう記した。*
 

第二百四十ニ弾「王女と影」

第二百五十七弾「 【王女と影】続編 ― 桜と波紋 ―」

第二百六十三弾「 【王女と影】続編 ― 灰色の外交 ―」

の続きです

 

# 【王女と影】外伝 ― アイルランドの雨 ―

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## 序章 若き工作員

 エドワード・グレイが英国陸軍
特殊作戦部隊SASに配属されたのは、
二十二歳の春だった。

 その頃すでに、外見上の成長は止まっていた。

 訓練課程では体格の大きな同期たちに交じって、
どう見ても高校生にしか見えない青年が
同じ訓練をこなしていた。
最初は教官も半信半疑だったが、
三週間で疑いは消えた。
射撃の精度、体力、判断の速さ
——数値が全てを語った。

 配属後の最初の任務が、アイルランドだった。

 上官のマクレガー少佐から
告げられた内容は簡潔だった。

 「軍服は着るな。街に溶け込め。
見て、聞いて、記録しろ。
お前の顔は、この任務には都合がいい」

 都合がいい。

 エドワードは黙って頷いた。

 幼い見た目を気にしていないと言えば嘘になる。
だが任務は任務だ。
感情と仕事は別の引き出しにしまう。
それがこの仕事の基本だと、
エドワードはすでに学んでいた。

 くすんだ空の下、
ベルファスト郊外の街に、ひとりの青年が降り立った。

 ジーンズと薄いジャケット。小さなリュック。
地図を持つ観光客のような、
あるいは近所の学生のような格好で、
エドワードは街に入っていった。

---

## 第一章 雨の街と老人たち

 街は、くたびれていた。

 石造りの建物が連なる通りに、
土産物屋と小さなパブと食料品店が混在している。
壁には落書きがあり、
所々にかつての紛争の傷跡が残っている。
人々の顔には、長い年月の疲労が染みついていた。

 エドワードは最初の一週間、ただ歩いた。

 同じルートを同じ時間帯に歩き続ける。
顔を覚えてもらうためだ。
不審者として認識されないために、
存在を日常に溶け込ませる。
諜報の基本だが、
エドワードの外見はそれを格段に楽にした。

 誰も、彼を脅威だとは思わない。

 「おい、坊主」

 五日目の朝、
パン屋の前で声をかけてきたのは、
フィン・マローンという老人だった。
七十代で、背が曲がり、白い顎髭をたくわえ、
目だけが若く光っていた。

 「そこのパン屋、高いぞ。
三つ先の角のパン屋の方が安くてうまい」

 「ありがとうございます」

 「どこから来た?」

 「ロンドンです」

 老人は顔をしかめた。

 「ロンドンか」

 「おじいさんはお嫌いですか」

 「嫌いに決まっとる。
だがお前は別だ。顔がかわいいからな」

 エドワードは内心で溜息をついた。
が、顔には出さなかった。

 「ご親切にありがとうございます」

 「どこに住んどる?」

 「この近くです。叔父の家に居候していて」

 「叔父は誰だ?」

 「ブライアン・コナーというんですが——」

 「コナーのとこか!あの男とは若い頃からの付き合いだ」

 伝説(レジェンド)が機能した。
現地チームが用意した「叔父」の名前と経歴は、
この街の古参の人間関係に
自然に溶け込むよう計算されていた。

 「じゃあちょっとこい」

 老人はエドワードの腕を引っ張り、
「三つ先の角のパン屋」へ連れて行った。

 それが、始まりだった。

---

 フィン・マローンは、この街の生き字引だった。

 七十年以上をこの街で生き、紛争の時代も、
停戦の時代も、全部この目で見てきた老人だった。
口が達者で、話し始めると止まらず、
政治の話になると特に止まらなかった。
英国に対する恨みは深く、
しかし若い世代への暴力については
「もう終わりにせんとあかん」と言う、
矛盾を抱えた人間だった。

 エドワードは毎朝、フ
ィンが行きつけのパン屋で買ったスコーンを
ひとつ分けてもらいながら、話を聞いた。

 「この街は変わったよ。
昔は怒りがあったが、今は疲れとる」

 「それは悲しいですね」

 「悲しいもんか。疲れた方がいい。
怒りは人を殺すが、疲れは人を生かす」

 フィンの話は、情報として有益だった。
しかしエドワードがそれ以上に感じていたのは
——この老人が、自分を本当に「坊主」
として見ているということだった。

 諜報員ではなく。
ロンドンから来た叔父の甥っ子として。

 それが何か、
胸の柔らかいところに触れるものがあった。

 「お前は目がいい」

 ある朝、フィンが不意に言った。

 「ただ聞いているだけに見えて、
全部見とる。賢い子だ」

 エドワードは少し間を置いた。

 「そんなことはないですよ」

 「嘘をつくな。だが悪い目じゃない。
冷たい目と、冷静な目は別もんだ。
お前のは後者だ」

 老人は長く生きた目で人を見る。

 エドワードはその朝、
スコーンをいつもより時間をかけて食べた。

---

 フィンの仲間の老人たちとも、
やがて顔なじみになった。

 毎週火曜の夜、
近所のパブに集まってダーツをする四人組——フィン、
セアン、パディ、コーマックの四人は、
エドワードをいつの間にか五人目に加えていた。

 「坊主、お前ダーツ上手いな」

 「少しだけ」

 「少しじゃない。セアン、見たか今の」

 「見た見た。うちの孫より上手い」

 「ビール飲むか?」

 「……まだ未成年です」

 これは本当の嘘だった。
二十二歳だが、ビールを頼めば確実に止められる。

 「そうか、じゃあジュースだな」

 「ありがとうございます」

 老人たちは笑った。エドワードも、少しだけ笑った。

 火曜の夜は、
エドワードにとって任務中で
最も奇妙な時間になっていった。
諜報員として耳を澄ませながら、
同時に、本当にただパブにいる若者として、
そこにいた。

 ふたつの自分が、
火曜の夜だけ、ほんの少し重なっていた。

---

## 第二章 ショーン

 三週間が過ぎた頃、彼と出会った。

 ショーン・マッカーシー。二十五歳。

 背が高く、赤みがかった黒髪を雑に切り、
いつもウィンドブレーカーを羽織っていた。
口が悪く、笑い声が大きく、
誰に対しても遠慮なく物を言う男だった。
フィンの孫の友人で、
エドワードがパブに現れたときから
何度か顔を合わせていた。

 最初に話しかけてきたのはショーンの方だった。

 「お前、ロンドンから来たんだって?」

 「そうです」

 「ロンドンは飯がまずいな」

 「同意します」

 ショーンは一瞬、面食らったように目を丸くして、
それから大声で笑った。

 「正直なやつだ。気に入った。俺はショーン」

 「エドワードです。エドと呼んでください」

 「エド。いい名前じゃないか。何歳だ?」

 「十七です」

 これも嘘だったが、疑われなかった。
ショーンはエドワードの肩を叩いて「若いな」と言い、
自分のギネスを一口飲んだ。

 「うちの街で不自由なことがあったら言えよ。
俺はこの辺のことは全部知ってるから」

 「ありがとうございます」

 「敬語使うな、歳の近い男どうしだろ。
エドって普段何してるんだ?」

 「あちこち歩いてます。街を見て回ったり」

 「ぶらぶらしてるわけか。いいな、気楽で」

 ショーンは悪い男ではなかった。

 それが——最も厄介なことだった。

---

 ショーンは気前がよかった。

 パブでよく飲み物を奢ってくれた。
エドワードにはジュースを。
自分にはギネスを何杯でも。
食事も「腹減ってないか」と頻繁に聞いてきて、
断ると「細いな、ちゃんと食え」
と言って無理やり何か買ってきた。

 街のことを何でも教えてくれた。
どこの店が安くてうまいか、
どの路地を通れば早いか、
誰が誰と仲がいいか悪いか。

 エドワードがサッカーボールを蹴っているのを見て、
一緒に練習に混ぜてくれた。
近所の空き地で若い男たちが集まってやる即席の試合で、
エドワードが身体の小ささに関係なく
動けることにショーンは目を輝かせた。

 「お前、やるじゃないか!」

 「少しだけ」

 「また少しだけって言う。もっと自分を評価しろ」

 ショーンは試合の後、
汗を拭きながらエドワードの隣に座った。

 「お前、弟に似てるな」

 「弟さんがいるんですか」

 ショーンの顔が少しだけ変わった。

 「……いた。三年前に病気で死んだ。十九だった」

 「……それは」

 「似てるよ、お前。顔じゃない。雰囲気が。
あいつもお前みたいに、
あんまり喋らないけど全部見てるような目をしてた」

 ショーンはそれ以上は言わなかった。

 エドワードも何も言わなかった。

 夕暮れの空き地で、
ふたりはしばらく並んで座っていた。

---

 それからショーンはエドワードを「エド」
と呼びながら、何かと気にかけてくれた。

 街の集まりに連れて行ってくれた。
フィン老人たちとは別の、若い世代の集まりだ。
そこでエドワードは更に多くの人間と顔を合わせた。
笑いながら話し、記憶し、記録した。

 ショーンが政治の話をするときだけ、
声の質が変わった。

 英国への恨みは深く、具体的で、
個人の経験に根ざしていた。
家族が受けた仕打ち、街が受けた仕打ち。
怒りは感情だけでなく、
思想として構造化されていた。

 エドワードは聞きながら、内側で分析した。

 これは、ただの鬱憤ではない。

 確信を持った人間の言葉だ。

 ショーンがRIRAの構成員であることを、
エドワードが確認したのは六週間目だった。

 確認したが——何も変わらなかった。

 変えるわけにはいかなかった。
任務は情報収集だ。動く時期ではない。

 それだけだと、エドワードは自分に言い聞かせた。

---

## 第三章 シオナ

 ショーンに妹がいることを知ったのは、
一ヶ月が過ぎた頃だった。

 空き地でのサッカーに、
ある日見慣れない顔が加わった。

 ショートヘアで、ジーンズとスニーカー
という格好の女性だった。
細身だが動きに無駄がなく、ボールの扱いが上手かった。
男たちに混じっても臆せず、むしろ積極的に前へ出てくる。

 「ショーンの妹のシオナだ」

 誰かがそう教えてくれた。

 試合の後、
シオナがエドワードの隣に来た。

 「ロンドンから来たんだって?」

 「そうです」

 「英国人か」

 「はい」

 「ふうん」

 シオナはエドワードを上から下まで一度見て、
それから「まあいいか」という顔をした。

 「サッカー上手いね。ロンドンでもやってたの?」

 「少し」

 「また少しだけって」

 エドワードは思わず目を見開いた。
ショーンが言ったのと同じ言葉だった。

 シオナは笑った。

 「お兄ちゃんが言ってた。
お前は絶対そう言うって。
兄妹ってそういうとこ似るのかな」

 「……似てますね、確かに」

 「次の練習も来るでしょ?また混ぜてあげる」

 命令口調だったが、悪意はない。
むしろ明るい。

 「ありがとうございます」

 「敬語やめてよ、歳いくつ?」

 「十七です」

 「同い年じゃん。タメで話してよ」

 そう言ってシオナは行ってしまった。

 エドワードは彼女の背中を見送りながら、
兄妹とはよく似るものだと思った。

---

 シオナは、快活だった。

 ショーンが熱い人間だとすれば、
シオナは明るい人間だった。
怒りより笑いの方が多く、しゃべり出すと止まらず、
友人が多く、何をするにも全力だった。

 サッカーの練習は週に二、三度のペースになっていた。
エドワードは最初の頃は端の方で
パスを回す程度だったが、
シオナが積極的に中央に引っ張っていった。

 「エドはもっと前出ていいよ。遠慮しすぎ」

 「チームの流れがあるから」

 「流れなんか作ればいい。行け行け」

 指示に従って動くと、そこにはちゃんとパスが来た。
シオナはよく周りが見えていた。

 試合の後は大体、
近くの売店でジュースを買って飲んだ。
シオナはオレンジジュースを好んで飲んだ。

 「エドって、あんまり自分のこと話さないよね」

 ある日、彼女がそう言った。

 「そうですか」

 「タメって言ったじゃん」

 「……そうかな」

 「うん。
ショーンが言ってたけど、目が大人だって」

 「ショーンさんはよく人を見てますね」

 「お兄ちゃんは人を見るのが得意なんだよ」

 シオナはジュースのパックを
ストローでかき混ぜながら、少し遠くを見た。

 「私はあんまり得意じゃないけど。
でも、エドがいい人だってことはわかる」

 エドワードは返す言葉を選んだ。

 「ありがとう」

 「褒めてるんだから素直に受け取ればいいじゃん」

 シオナは笑った。

 エドワードも少しだけ笑った。

 笑いながら、胸の奥で何かが静かに軋んだ。

---

 シオナとの時間が増えていった。

 サッカーだけでなく、街を一緒に歩くことが増えた。
シオナはこの街を愛していて、
好きな場所を次々に教えてくれた。

 「ここの石垣、見て。
雨が降ると色が変わるんだよ。
綺麗でしょ」

 「綺麗だね」

 「お兄ちゃんが子供の頃に教えてくれたんだ。
雨の日に濡れながらここに来て、石垣を見るの。
変な兄妹でしょ」

 「そうでもない」

 「変だよ。でも好きなんだよね、この場所」

 シオナはよく兄の話をした。
ショーンへの信頼と愛情が言葉の端々に滲んでいた。

 エドワードは聞きながら、
ショーンの別の顔を知っていた。

 それを、シオナは知らない。

 ——知らない方がいい。

 そう思いながら、同時に、
そう思うこと自体が既に任務の範囲を
超え始めているとも感じていた。

---

 シオナの好意が、友人としての域を
少しずつ超え始めていることに、
エドワードは気づいていた。

 諜報員として、
人の感情を読むことには長けている。

 シオナがエドワードを見る目の変化は、
六週間目あたりから始まっていた。

 何かを言おうとして黙る。
エドワードと目が合うと少しだけ早く視線をそらす。
サッカーの後で隣に座るのを意識的に選んでいる。

 エドワードは全部気づいていた。

 気づいていて、どうすることもできなかった。

 否定することもできない。
肯定することはもっとできない。

 任務だ。
感情を持ち込んではいけない。
しかし感情を完全に消すことと、
感情を表に出さないことは、同じではなかった。

 ある夕方、雨が降り始めた頃、
ふたりで石垣の前に立っていた。

 シオナが言った。

 「エドって、いつかここを離れるの?」

 「……いつかは」

 「そっか」

 しばらく、雨の音だけがあった。

 「その前に、ちゃんと話したいことがある」

 「うん」

 「……今じゃなくていい。でもいつか」

 シオナは石垣を見たまま、そう言った。

 雨に濡れた石垣が、確かに色を変えていた。
濃く、深く、灰色がかった緑に。

 エドワードは隣に立ちながら、その色を見ていた。

 ——この色は、ずっと覚えていると思った。

---

## 第四章 荷揚げの夜

 命令は突然来た。

 SISが情報を掴んだ。
RIRAが大量の武器を海路で密輸入する。
荷揚げは三日後の深夜。
場所は郊外の小さな港だ。
一網打尽にする作戦が決行される。
エドワードも支援要員として参加せよ——。

 エドワードはその命令を受け取り、
三秒間、静止した。

 ショーン・マッカーシーが、
この密輸を仕切っていることを
エドワードは知っていた。

 感情と任務は別だ。

 わかっていた。ずっと、わかっていた。

 三秒が経ち、エドワードは返信した。

 「了解しました」

---

 深夜の港は、霧が出ていた。

 波の音だけが聞こえる暗闇の中に、
SISの要員たちが展開していた。
エドワードは支援班として、
港の倉庫群の北側に位置していた。

 船が着いた。

 荷降ろしが始まったとき、作戦が動いた。

 複数のサーチライトが一斉に灯り、拡声器で叫んだ。
武装した要員たちが四方から詰めた。

 次の瞬間、銃声が始まった。

 RIRAの男たちは逃げなかった。
戦った。
訓練を受けた人間の動きで、
短機関銃を構え、SIS側に応射した。

 エドワードは倉庫の陰を移動しながら、
北側から侵入しようとした二名を制圧した。
銃声の中で、身体が先に動く。
訓練と本能が混ざった動きだった。

 霧の中を走りながら、エドワードは人影を追った。

 倉庫の角を曲がったとき
——その人影と正面から向き合った。

 ショーンだった。

 手に銃を持っていた。
エドワードも銃を構えていた。

 数メートルの距離。

 ショーンの目が、エドワードを認識した。

 その瞬間——ショーンの顔に、何かが走った。

 引き金を引こうとした指が、一瞬だけ、止まった。

 エドワードは、止まらなかった。

 銃声が一発。

 ショーンが倒れた。

 霧の中で、倒れた人影を見ていた。
エドワードは銃を構えたまま、近づいた。

 ショーンは地面に伏せ、目を開いていた。
目が、エドワードを見ていた。

 何も言わなかった。

 エドワードも何も言わなかった。

 ショーンの目が、ゆっくりと閉じた。

 銃声が遠ざかっていった。
霧が流れた。波の音だけが戻ってきた。

 エドワードは立ったまま、動かなかった。

 一秒。二秒。三秒。

 感情と任務は別だ。

 わかっていた。

 わかっていたが——胸の奥の何かが、
この夜、取り返しのつかない形で変わった。

---

## 第五章 基地の食堂

 それから二週間が経った。

 エドワードはアイルランドにある
英国陸軍の基地に呼ばれ、
報告書の最終確認のために顔を出していた。

 昼前、基地内の食堂を通りかかった。

 食料品の搬入業者が数名、
台車や袋を持って出入りしていた。
定期便だ。
警備は確認を済ませ、通している。

 エドワードは通り過ぎようとして——足が止まった。

 搬入業者の中に、見知った顔があった。

 ショートヘア。ジーンズ。

 シオナだった。

 袋を抱えて、うつむいて歩いていた。
エドワードの方を見ていない。

 エドワードの脳が、一瞬で情報を処理した。

 彼女が搬入業者のリストに入っているはずがない。
この搬入会社に彼女が勤めているという情報もない。
ショーンが死んだ後、RIRAとシオナの関係は——。

 ——おかしい。

 判断は、コンマ数秒で出た。

 エドワードは歩み寄った。

 「シオナ」

 声に出した瞬間、シオナが顔を上げた。

 エドワードを見た。

 その目に、何重もの感情が重なっていた。
驚き、恐怖、悲しみ、そして
——何か、決意のようなもの。

 エドワードの胸が、一瞬だけ冷えた。

 「……何でここにいるの。何を持ってるの」

 シオナは答えなかった。

 視線だけが、エドワードに向いていた。

 食堂の入り口の外で、他の搬入業者たちが動いた。
素早く車に乗り込む音がした。
エンジンがかかり、タイヤが砂利を踏む音。
仲間たちが、逃げている。

 基地の警備が異変を感じた。
無線が鳴り、数名が食堂の方へ歩き始めた。

 シオナが周囲を見た。

 軍人たちがこちらへ来る。仲間はいない。

 シオナはエドワードを見た。

 ——その目が、何かを言っていた。

 声だったかもしれない。
唇が動いたかもしれない。
あるいはエドワードが、
そう読んだだけかもしれない。

 「ごめんなさい」

 次の瞬間、爆発が起きた。

---

 爆風がエドワードの身体を吹き飛ばした。

 壁に叩きつけられ、意識が一瞬飛んだ。
耳が鳴っている。
熱い。
右腕が動かない。

 起き上がろうとして、動けなかった。

 煙の向こうに、破壊された食堂の入り口が見えた。

 軍人たちの叫び声が聞こえた。
遠い。
近い。
よくわからない。

 エドワードは意識を保ちながら、
ひとつのことだけを考えていた。

 自分の失態だ。

 発見した時点で拘束すべきだった。
撃つべきだった。
一秒の迷いも許されない状況だった。
それをわかっていて、動けなかった。

 任務と感情は、別でなければならなかった。

 別に、できなかった。

 その代償が、今ここにある。

 意識が遠ざかっていく中で、
雨の日の石垣の色を、エドワードは見た気がした。

---

## 終章 教訓

 病院で目が覚めたのは、二日後だった。

 右腕の骨折、肋骨二本のひび、全身の擦過傷
——それがエドワードの負った傷だった。
軽傷とは言えないが、重傷でもない。
爆発の位置と向きを考えれば、
生きていること自体が僥倖だった。

 傍に近寄ってきた軍人にも負傷者が出た。

 エドワードは病院のベッドで、その報告を聞いた。

 処分は降格だった。

 任務中の判断ミス——発見した不審者の即時拘束を
怠ったことによる爆発事案への間接的関与。

 軍には残ることができた。

 エドワードは処分通知を読んだ。
もう一度読んだ。折り畳んでベッドの脇に置いた。

 窓の外に、雨が降っていた。

 自分が何をしたのかは、わかっていた。
何をすべきだったかも、わかっていた。

 そしてなぜ、できなかったのかも。

 感情は武器にはならない。
任務の中では、感情は隙だ。

 エドワードはその夜、
長い時間をかけて、自分の中の何かを整理した。

 悼むことと、任務は、別の場所にある。
悼みはここに置いていく。
フィンの老人たちのこと、ショーンのこと、シオナのこと
——それは胸の奥の鍵のかかった引き出しにしまう。

 任務の自分は、その引き出しを開けない。

 それがこの仕事の、本当の意味での基本だと、
エドワードはこの夜、初めて理解した。

 訓練で教わったことと、
身体で覚えたことは、重さが違う。

---

 退院した日、
エドワードは一度だけ、
街の外れの石垣のそばを通った。

 雨は降っていなかった。

 石垣は、乾いた明るい色をしていた。

 エドワードは立ち止まらなかった。

 ただ、通り過ぎた。

 それだけだった。

---

 その後のエドワード・グレイの記録は、
MI6の機密ファイルに眠っている。

 降格から三年で元の階級に戻り、
五年でSASから引き抜かれた。
以後の任務評価は一貫して最高評価。
感情の揺らぎを示す記録は、
どの任務報告書にも存在しない。

 ただひとり、
ハウエル大佐だけがある夜、記録外の言葉を残した。

 「グレイは、アイルランドで何かを失って、何かを得た。失ったものの方が大きかったかもしれない。
だが得たものが、彼を今の彼にした」

 エドワード・グレイ、三十二歳。

 彼の胸の奥に、鍵のかかった引き出しがある。

 王女の笑い声だけが、時々その鍵を揺らす気がした。

---

**【外伝・了】**

---

*本編へ続く。

エドワード・グレイの「任務中は感情を持たない」

という鉄則がどこで生まれたか

——それはアイルランドの雨の夜に刻まれていた。*

 

 

第二百四十七弾「 中庭のベンチ」の続きです

 

 

# 中庭のベンチ 第二章 ――営業部の男――

## 一

 十二月の第一週。
誠和コーポレーション営業部の大友司は、
自分のデスクで書類を眺めながら、
静かに頭を抱えていた。

 三十四歳。入社十二年目。
営業部のエース格として、
社内でも一目置かれてきた男だった。
口数は多くないが、
顧客との信頼関係を地道に積み上げるタイプで、
担当案件の成約率は部内でも常に上位だった。

 だが今、
その実績が音を立てて崩れていこうとしていた。

---

 問題の発端は、三ヶ月前に遡る。

 「今月から営業部に入る。よろしく」

 そう言って現れたのが、里中勇輝だった。

 二十三歳。
どこか気だるい目をした、体格のいい青年だった。
入社の経緯は「役員の甥」という一言で社内に広まった。
営業部長の安田がその日から態度を豹変させ、
里中を丁重に扱い始めたことで、誰もが察した。

 大友は里中の教育担当に指名された。

 最初の一週間で、大友は悟った。

 これは長い戦いになる、と。

---

 里中は、仕事をする気がなかった。

 正確に言えば、
仕事をしなくても自分には何も起こらないと知っていた。

 午前中に「ちょっとコンビニ行ってきます」
と言って三十分帰ってこないのは序の口だった。
外回りに同行すると、取引先のビルのエントランスで
「俺、外で待ってます」と言い残してベンチに座り、
スマートフォンをいじり続ける。
商談から戻った大友に、
「終わりました?」と欠伸をしながら聞く。

 「里中、一緒に入って先方の担当者と
顔を合わせないと意味がないだろう」

 「でも俺、まだ何もわからないんで、
いても邪魔じゃないですか」

 理屈は通っている。
だが三ヶ月経っても同じことを言い続けるのは、
学習ではなく回避だった。

 営業部長の安田は里中が何をしても注意しなかった。
大友が報告に行くと、
「まあ、慣れるまで時間がかかるよ」
と笑ってかわした。
その笑顔が、大友には何よりも苦かった。

---

## 二

 事態が大きく動いたのは、十一月の下旬だった。

 大友が二年かけて関係を築いてきた取引先、
中堅の食品メーカー・三葉食品との案件だった。

 三葉食品の購買部長・堂島は、
細かくて厳しい人物だった。
資料の誤字一つで
「うちとの付き合いを軽く見ているのか」
と言い放つタイプで、
大友は過去に何度も頭を下げてきた。
それでも根気強く通い続けた結果、
ようやく大型契約の最終段階まで漕ぎ着けていた。

 大友は里中に言った。

 「今日の三葉食品への訪問は、非常に重要だ。
絶対に遅刻するな。スーツに乱れがないか確認しろ。
先方の堂島部長は細かいことを
非常に気にされる方だから」

 里中は「わかりました」と言った。

 当日の朝、里中は現れなかった。

---

 大友が一人で三葉食品に到着すると、
受付ロビーに堂島が既に出てきて待っていた。

 「お一人ですか」

 堂島の声は低かった。

 「申し訳ありません。同行予定の者が……」

 「予定ではお二人と伺っておりました。
事前に連絡もなく」

 それだけで、その日の商談の雰囲気が決まった。

 大友は誠心誠意謝罪し、
商談をなんとか繋ぎ止めようとした。
堂島は表面上は話を聞いたが、
その目は最初から冷えていた。

 会議室を出たとき、
大友のスマートフォンに里中から
メッセージが届いていた。

 「寝坊しました。すみません。
明日でもよかったんじゃないですか?」

 大友はしばらく、廊下でその画面を見つめていた。

---

 翌日、里中が何食わぬ顔で出社した。

 「昨日はすみませんでした。
まあでも、大友さんなら一人でもうまくやれますよね」

 大友は何も言わなかった。
言葉を選んでいたわけではなく、
言うべき言葉が多すぎて、
何から口にすればいいかわからなくなっていた。

---

 三葉食品の堂島から連絡が来たのは、
その三日後だった。

 「今回の件は、見送らせていただきます」

 二年間の積み重ねが、電話一本で終わった。

 「理由をお聞かせいただけますか」

 「率直に申し上げると、
御社の企業姿勢に疑問を感じました。
担当者の欠席の件もそうですが、
その後のフォローも薄かった。
大友さん個人への信頼は変わりませんが、
会社として取引するということは、そういうことです」

 堂島はそれだけ言って、電話を切った。

---

## 三

 三葉食品だけではなかった。

 里中の行動は、大友が把握しているだけでも
数社に影響を与えていた。

 老舗の文具卸・村田商事では、
里中が担当者との商談中に
「この製品、うちの親父も使ってますよ。
古くさいですよね」と言い放ち、
担当者が硬直したという。

 中堅の物流会社・東西ロジスティクスでは、
里中が送った見積書に誤りが複数あり、
それを大友が事前確認を求めたにもかかわらず
「大丈夫っすよ」と言って
無断で送付していたことが発覚した。
先方から「信頼性に疑問を感じる」
という言葉が届いた。

 精密機器メーカーの桐島製作所では、
里中が先方のエントランスで受付の女性に
馴れ馴れしく話しかけ、名刺を求める場面があった。
後日、先方の担当者から
「今後の窓口を別の方にしていただけますか」
という申し入れが来た。

 被害は静かに、しかし確実に広がっていた。

 大友は毎晩、担当取引先のリストを見ながら、
どこに影響が出ているかを確認した。
数字が少しずつ、確実に落ちていく。
二年、三年かけて育てた関係が、
里中が関わった途端に冷えていく。

 大友は営業部長の安田に報告した。

 「里中さんの言動により、
複数の取引先との関係に影響が出ています。
このままでは、今期の数字に大きく響きます」

 安田は資料をぱらぱらとめくった後、
ゆっくり顔を上げた。

 「まあ、新人だからな。多少のことは仕方ないよ。
大友くんが上手くフォローしてあげなさい」

 「フォロー以前の問題です。
商談の無断欠席、誤書類の無断送付、
先方担当者への不適切な言動。
これは教育レベルの話ではありません」

 「わかった、わかった。
里中くんには私から言っておく」

 安田が里中に何かを言った様子は、
その後まったくなかった。

---

## 四

 十二月に入った週。大友は決断した。

 担当役員の桑原に直訴する。

 アポイントを取り、資料をまとめ、
大友は桑原の部屋に入った。
取引先への影響を数字で示し、
里中の言動の具体的な事例を時系列で並べた資料は、
我ながら丁寧に作れたと思っていた。

 桑原は資料を一瞥した。

 「で、君は何が言いたいんだ」

 「里中さんの行動を、
このまま放置することはできないということです。
すでに三社との取引に影響が出ており、このままでは」

 「里中くんは私の甥だ。それはわかっているね」

 「はい」

 「新人が多少の失敗をするのは当然だろう。
君だって最初は失敗したはずだ」

 「失敗と、問題行動は別のことだと思います」

 桑原の目が細くなった。

 「大友くん、
君は今、私の判断に異議を申し立てているのかね」

 大友は一瞬、間を置いた。

 「社のためを思って申し上げています」

 「私が社のためを考えていないとでも?」

 「そういう意味では――」

 「もういい」

 桑原は立ち上がった。
「君の意見は聞いた。
それと、今後は担当案件の一部を調整する。
里中くんのサポートに集中してもらいたい」

 一週間後、
大友の主要担当案件はほぼすべて他の社員に移管され、
大友は社内の資料整理と里中の「アシスタント」
という名目の閑職に回された。

---

## 五

 その日の昼休み、
大友は一人で社員食堂の隅に座っていた。

 食欲はなかった。
トレーの上のカレーが冷めていくのを、
ただ眺めていた。

 「大友さん、少しよろしいですか」

 顔を上げると、女性が立っていた。

 スーツの着こなしが整然としていて、
立ち姿に無駄がない。
企画課の――確か、最近課長になった。

 「氷川課長……ですか」

 「突然すみません。座ってもいいですか」

 大友は少し驚きながらも頷いた。

 氷川凛はトレーを置いて向かいに座り、
まっすぐ大友を見た。
「氷の女王」という噂は大友も聞いたことがあった。
だが目の前の表情は、冷たいというより、静かだった。

 「単刀直入に聞かせてください。
営業部で何か起きていますか」

 大友は少し考えた後、口を開いた。

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 凛が大友に接触したのは、偶然ではなかった。

 課長になって以来、
凛は社内の動きに目を配るようにしていた。
数字の変化、取引先からの微妙なトーンの変化、
社員の表情。企画課に流れてくる情報の中に、
営業部からの案件報告の数字に不自然な落ち込みがあった。

しかも特定の担当者が絡んだ案件に集中している。

 そして社員食堂で大友を見かけたとき、凛は直感した。

 あの顔は、知っている。
自分も一時期、ああいう顔をしていた。

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 大友は話した。

 最初は言葉を選んで慎重に。
しかし凛が黙って、目を逸らさず聞き続けるうちに、

堰を切ったように全部を話していた。

里中のこと、安田部長のこと、

桑原役員への直訴と、その結果。

失った案件の数と、顧客から言われた言葉。

 凛はメモを取りながら聞いた。
途中で口を挟まなかった。

 「三葉食品の堂島部長が言った言葉、
正確に覚えていますか」

 「『御社の企業姿勢に疑問を感じた』と」

 凛はその言葉を書き留めた。

 「大友さん、
これは個人の問題では済まないと思います。
私の方で少し調べさせてください」

 「でも、桑原役員が……」

 「はい。そこも含めて」

 大友は凛の顔を見た。

 恐れていない目だった。
役員の名前が出ても、表情一つ変わらなかった。

 大友は自分の中で何かが、
ほんの少しだけほぐれるのを感じた。

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## 六

 凛は動いた。

 まず、営業部から企画課に共有されている

案件データを精査した。

里中が関わった案件、関わっていない案件を分類し、

成約率・継続率・取引先からの反応を時系列で並べる。

 数字は正直だった。

 里中が接触した取引先の七割以上で、
何らかのネガティブな変化が出ていた。
商談の進行遅延、担当者変更の申し入れ、連絡頻度の低下。

そして三葉食品のように、関係が完全に切れた案件が複数。

 「企業としての信頼は、
積み上げるのに年単位かかるが、失うのは一瞬だ」

 凛はかつて先輩から言われた言葉を思い出した。

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 凛は次に、大友が挙げた取引先の一部に、
企画課の連携という名目で接触した。

 東西ロジスティクスの担当者は、
凛の問いに対して慎重に言葉を選びながらも、
こう言った。

 「正直に申し上げると、
御社のご担当者の一人の言動について、
社内で問題視する声があります。
大友さんのことは評価していますが、
同行される方が……その、少し」

 村田商事の担当者はもっと直接的だった。

 「失礼ですが、
あの若い方は、仕事をする気があるのですか。
先日も、弊社との打ち合わせ中に
スマートフォンを操作されていて、
弊社の担当者が非常に不快に思っています」

 凛は丁寧に謝罪し、状況を記録した。

 資料は積み上がっていった。

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## 七

 一週間後、凛は報告書をまとめた。

 里中の具体的な問題行動の記録、
影響を受けた取引先のリスト、数値化した損失試算、
そして取引先担当者の声。
それと、大友が桑原役員に直訴した際の経緯と、
その結果。

 凛はその報告書を、
会長秘書の田中を通じて三原に送付した。

 件名は簡潔だった。

 「営業部における縁故入社社員の問題行動
および関連する管理職の対応について」

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## 八

 報告書を読んだ三原は、しばらく無言だった。

 会長室の窓から、中庭が見える。
今日も清掃カートが静かに動いている。
いつもなら自分が押している、あのカートだ。

 田中が静かに言った。

 「L'sコーポレーションの内規では、
縁故入社は明示的に禁止されております。
傘下企業への適用も、
三年前の規約改訂で明文化されました」

 「わかっている」

 三原は資料を閉じた。

 橘の件が片付いたばかりだった。
あの一件で社内が少し変わったと思っていたのに、
別の場所で同じ構造が生きていた。
役員の権力、その庇護、声を上げた者への報復。
形を変えた同じ病巣だ。

 「桑原役員を呼んでくれ」

 「会議室を用意しますか」

 「いや、ここでいい」

 三原の声は穏やかだった。
穏やかだからこそ、
田中はこの件が穏やかには終わらないと察した。

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## 九

 桑原役員が会長室に入ったのは、翌日の午後だった。

 「お呼びでしょうか、会長」

 三原は桑原に椅子を勧め、自分も向かいに座った。
資料は手元に置いていない。

 「L'sコーポレーション系列では、
縁故入社を禁じているのはご存知ですか」

 桑原は一瞬、表情が揺れた。

 「はい、それは……」

 「誠和コーポレーションもその傘下に入っています。
三年前からその規約が適用されています。
入社時に全役員へ説明されているはずですが」

 「はい」

 「では何故、君の甥御さんが
君の指示で入社しているんだ」

 桑原の口が、開きかけて止まった。

 三原は続けた。声は依然として穏やかだった。

 「里中勇輝さんが入社した経緯を調べました。
採用プロセスが通常と異なる。
採用担当者への確認も取れています。
君が直接、採用を指示した記録がある」

 「それは……採用の判断は現場に任されており、
私は推薦という形で」

 「推薦と指示は違います。
そしてその結果、どうなったか」

 三原は資料を一枚だけ取り出し、テーブルに置いた。

 「里中さんの入社から三ヶ月で、
営業部の関係取引先のうち複数社との関係が悪化し、
三葉食品との案件は破談になった。
損失の試算もここに出ています。
そして声を上げた大友さんは閑職に回された」

 桑原は顔が青ざめていた。

 「この責任は、
君に取ってもらうことになります」

 三原は静かに言った。

 「里中さん本人はもちろん、
君が無理やり入社させたことで生じた損失の責任は、
当の本人だけでなく君にも取ってもらう。
具体的な処分については、
追って人事と法務から連絡が入ります」

 「か、会長、少しお待ちください。
甥とはいえ、彼には将来が――」

 「将来の話であれば、
正規のルートで入社試験を受ければよかった。
うちは今、入社希望者が以前の十倍以上います。
優秀な人材は正面から来ています」

 桑原は固まって、何も言えなくなった。

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 三原が付け加えた言葉は、会長室に静かに落ちた。

 「それと、一つ申し上げておきます」

 三原は窓の外を見た。

 「誠和がL'sの傘下に入った後、
入社希望者が増えたことはご存知ですね。
L'sへの入社はスカウト以外では
ほぼできないと言われている。
だからグループ傘下の企業を目指す人が増えた。
つまり今、この会社には本気でここで働きたい
と思っている人たちが、
正規のルートで入ろうとしている」

 三原は桑原を見た。

 「その人たちの席を、縁故で埋めた。
その意味を、少し考えてみてください」

 桑原はもはや顔を上げられなかった。

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## 十

 処分は翌週に出た。

 里中勇輝は即日付けで解雇。
桑原役員は辞任、かつ損失額の一部について
個人として責任を負うことが決定した。

 安田営業部長も、
監督責任を問われて降格処分となった。

 大友司は営業部への復帰と、
担当案件の返還を正式に通知された。
それに加えて、一行だけ書き添えられていた。

 「三葉食品担当案件については、
会社として改めて謝罪の機会を設けることを検討する」

 大友はその通知を読んで、
しばらくデスクに手をついていた。

 泣くつもりはなかったが、目の奥が熱かった。

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 その日の夕方、大友は廊下で氷川凛とすれ違った。

 「氷川課長」

 凛は立ち止まった。

 「ありがとうございました」

 大友が頭を下げると、
凛は少し間を置いてから、静かに言った。

 「大友さんが最初に声を上げていなかったら、
私も動けませんでした」

 それだけ言って、凛は歩き続けた。

 大友はその背中を見送りながら、
「氷の女王」という噂が、ひどく的外れだと思った。

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## エピローグ

 その夜、三原は珍しく会長室に遅くまで残っていた。

 田中がコーヒーを置いて、静かに言った。

 「今日は清掃に出なかったんですね」

 「忙しかった」

 三原はそっけなく答えたが、
少し間を置いて付け加えた。
「まあ、来週また行くよ」

 田中は何も言わなかったが、
それがいつもの答えだとわかっていた。

 三原はコーヒーカップを持ち上げながら、
窓の外を見た。

 夜の中庭には誰もいない。
噴水だけが、暗がりの中で静かに水を上げていた。

 あの植え込みの奥のベンチで、
あの女性が弁当を食べていた日のことを、
三原はなんとなく思い出していた。

 笑い方を忘れたような顔をして、
それでも「大丈夫です」と言っていた。

 今日、大友という男が頭を下げ、
凛がそれを受け取った廊下の場面を、
三原は見ていなかった。
だが報告書の最後のページに、
凛が一行だけ書いていた。

 「大友さんは、
声を上げるべき時に声を上げた人間です」

 三原はその一行を読んで、少しだけ頬を緩めた。

 会社というのは、数字だけでできているわけではない。
こういう一行が積み重なって、初めてまともな場所になる。

 「田中さん」

 「はい」

 「氷川課長、仕事してるな」

 田中は微笑んだ。

 「はい。よく動いておられます」

 三原はコーヒーを一口飲んで、静かに頷いた。

---

*続く*