# 偽りの勇者 ―K2転移録―
## 第五章 涙する路地裏
王城からの逃亡は、思いのほか呆気なく成功した。
夜が明ける頃には、K2は城下町の外縁、
貧民街に近い区画にまで身を潜めていた。
旅支度は最低限で構わなかった。
乾パン、水袋、火打石、丈夫な外套。
物乞いに身をやつした行商人の露店で、
K2は素性を隠しながら手早く物資を買い揃えていった。
銀貨を数える指先は落ち着いていたが、
視線だけは絶えず周囲を警戒していた。
その作業が一段落したとき、K2はふと足を止めた。
目の前に広がる、朝靄に包まれた城下町の街並み。
石畳の路地、傾いた木造家屋の軒先、
竈から立ち上る白い煙。
何の変哲もない、
この世界のどこにでもある庶民の風景だった。
なのに、K2の目からは、止めどなく涙が溢れていた。
自分でも、その涙の理由がすぐには分からなかった。
喉の奥から込み上げてくる感情は、
悲しみでも、恐怖でもない。
もっと古く、もっと深いところから滲み出してくる、
何か懐かしさに似たものだった。
――ああ、そうか。
脳裏に、堰を切ったように記憶が流れ込んできた。
それは、この世界に転移してから
今日までのK2の記憶ではなかった。
もっと遠い、もっと昔の記憶。
そう、この世界そのものの、K2自身の記憶だった。
K2は、かつてこの世界に生きていた人間だった。
## 第六章 魔法師団長
思い出したのは、
名も知らぬ市井の民としての生ではなかった。
K2――否、当時の彼は別の名を持っていた――は、
前国王の御代に「魔法師団長」の地位にあった男だった。
生まれながらに膨大な魔力を宿し、
その制御と応用の才は、当代随一どころか、
歴代の魔法使いの中でも比類なきものと謳われた。
齢を重ねるごとにその力は研ぎ澄まされ、
晩年には「神に匹敵する魔導の使い手」
とまで囁かれるようになっていた。
多くの弟子が彼の下に集った。
宮廷の子弟から、地方の才ある平民まで。
K2は分け隔てなく指導し、その厳しさと公正さゆえに、
弟子たちからは畏敬と信頼を一身に集めていた。
だが、その中でも、
彼が誰よりも心を砕いた弟子が一人いた。
彼女と出会ったのは、王都の裏路地だった。
当時、辺境で起きた小規模な戦乱
――魔族討伐と称された、
実際には隣接する小領主同士の私闘
――によって両親を失った少女が、
行き場もなく物乞いをしていた。
痩せ細り、高熱に浮かされ、
道端でほとんど息絶えかけていたその子を、
たまたま通りかかったK2が見つけた。
迷う理由などなかった。
K2は少女を屋敷に連れ帰り、看病し、
快復してからも手元に置いた。
彼自身、生涯独身を貫き、
実子を持たなかったこともあり、
いつしかその少女を、
実の娘のように慈しむようになっていた。
少女には、幸いにして魔法の才があった。
K2は惜しみなく知識と技術を授けた。
彼女はめきめきと頭角を現し、
数年のうちに師団の中でも
屈指の実力者へと成長していった。
K2にとって、彼女の成長を見守る日々こそが、
老いていく自分の人生における、
何よりの誇りだった。
だが、その幸福な日々の裏側で、
静かに、しかし確実に、破滅への糸が紡がれていた。
## 第七章 破滅の記憶
現国王――当時はまだ王太子だった男――は、
父である先代国王の治世に、密かに不満を募らせていた。
先代は穏健な統治と周辺国との協調路線を重んじ、
王国の版図拡大には消極的だった。
だが王太子は、その方針を「臆病」と断じ、
自らが玉座に就いた暁には、
軍事力を以て周辺国を従える
強国を築くと心に決めていた。
その野望の実現には、いくつもの障害があった。
中でも最大の障害こそが、先代に絶大な信頼を寄せられ、
王国の魔導戦力の中枢を担っていたK2の存在だった。
穏健派の重鎮であるK2が健在である限り、
王太子が武断的な政策を推し進めることは難しい。
王太子は、K2を排除する計画を練り始めた。
だが正面から挑んで敵う相手ではない。
腕力でも魔力でも、
K2に及ぶ者は王国のどこにもいなかった。
ならば、内側から崩すしかない。
王太子の側近に取り立てられていた魔法使いたちは、
K2の最愛の弟子である少女に目をつけた。
当時、彼女と近い年齢の、容姿端麗な青年が、
側近の一人によって密かに用意された。
偶然を装った出会いから始まり、
周到に計算された言葉と態度で、
青年は少女の心を掴んでいった。
初めての恋だった。
孤独な幼少期を経て、K2に救われ、
師として、父のように慕ってきた彼女にとって、
その恋は人生で初めて訪れた、自分だけの世界だった。
だからこそ、
その感情に付け入る隙は、あまりにも大きかった。
やがて青年を通じて、
少女は側近の魔法使いたちの手による、
緩やかな意思誘導
――否、洗脳と呼ぶべき呪術に晒されていった。
それは、後にK2自身が地下の「静養院」で
目撃することになる手法と、恐ろしいほど酷似していた。
強制ではなく、誘導。
彼女は、自分の意思で、
師であり父でもあるK2を
「王国の未来を阻む障害」と信じ込むように、
少しずつ、少しずつ、
記憶と価値観を書き換えられていった。
K2は、その異変に気づかなかった。
あるいは、気づきたくなかったのかもしれない。
誰よりも信頼していた弟子が、
自分に牙を剥くはずがない
――その慢心が、老練な魔導の使い手であった彼から、
警戒心という最後の砦を奪い去っていた。
そして、ある夜。
師団長の私室で、二人きりで過ごしていたとき、
少女はK2の背に、迷いのない一撃を突き立てた。
最期の瞬間、K2の目に映ったのは、
涙を流しながらも、確信に満ちた表情を浮かべる、
愛した娘の顔だった。
彼女は、自分が正義を成しているのだと、
心の底から信じきっていた。
「……お前の、せいじゃない」
それが、前世のK2が残した最後の言葉だった。
## 第八章 二度目の生、そして再び
魂は、異なる世界へと流れ着いた。
魔法という概念すら存在しない、
K2が「元の世界」と呼んでいた地球によく似た世界
――否、正確には、彼が生まれ直した先こそが、
後に転移者として召喚されることになる、
あの世界だった。
前世の記憶を持たぬまま生まれ直した少年は、
しかし幼い頃から、
他の子供にはない奇妙な力の片鱗を持っていた。
それは魔法だった。
魔法という概念すら存在しないこの世界において、
K2――新しい生を受けたその人物は、
唯一無二の異能者だった。
彼はその力を、慎重に、
目立たぬように使いながら成長した。
学業を修め、就職し、
ごく平凡な社会人としての生活を営んだ。
前世では持ち得なかったものを、
この世界で一つずつ手に入れていった。
友人、同僚、そして――恋人。
誰かを愛し、誰かに愛される。
魔法師団長として孤独に生きた前世では味わえなかった、
ささやかで、しかしかけがえのない幸福を、
彼はこの世界で確かに掴んでいた。
前世の記憶など欠片も持たぬまま、
ただ「K2」という一人の人間として、
静かに満たされた日々を送っていた。
その平穏を、王国は問答無用で引き裂いた。
街ごと異世界へ引き剥がされたあの瞬間、
K2はすべてを
――恋人を、積み上げてきた生活を、失った。
そして、その喪失の傷が癒える間もなく、
更なる悲劇が彼を襲った。
転移直後の混乱の中、
精神の均衡を崩し、錯乱状態に陥った転移者の一人が、
通りすがりの別の転移者を刺殺するという事件が起きた。
犠牲になったのは、K2が転移後に
わずかながら心を開き始めていた、
数少ない仲間の一人だった。
だが王国側の対応は、驚くほど冷淡だった。
「戦力は一人でも多く必要である」という理由から、
犯人となった転移者の罪は、
形ばかりの謹慎処分で済まされ、
実質的に不問に付された。
仲間を失った悲しみに暮れる遺族
――否、この世界には彼女の血縁者などいない
――に対し、
王国は満足な弔いの言葉すら用意しなかった。
この一連の出来事に対する強い不信と怒り。
それが、K2の中で凍りついていた前世の記憶を、
静かに、しかし確実に溶かし始めた引き金だった。
忘れていたはずの記憶が、
まるで堰を切ったように蘇り、
そして彼は理解した。
自分は、この世界で二度、
同じ手口によって人生を破壊されようとしているのだと。
最愛の弟子を奪われ、殺された前世。
そして今、王国は再び、
意思誘導という同じ手法を用いて、
転移者たちを操ろうとしている。
偶然であるはずがなかった。
この王国の中枢には、前世から連綿と続く、
何かしらの悪しき系譜が存在するのかもしれない。
だからこそK2は、
他の転移者たちのように王国の言葉を
鵜呑みにはしなかった。
前世で味わった苦い記憶が、
彼の中に、
抜きがたい警戒心として根を張っていたのだ。
## 第九章 追跡者
城下町を抜け、街道を数刻歩いたところで、
K2は背後に纏わりつく視線に気づいた。
最初は気のせいかと思った。
だが、気配遮断のスキルで培った感覚は
誤魔化せなかった。
木立の陰、崖の稜線、街道脇の茂み
――巧妙に距離を保ちながら、
確実に自分を追ってくる存在が、三つ。
K2は歩調を変えぬまま、意識だけを研ぎ澄ませた。
追手の気配の消し方は、素人のそれではない。
呼吸の乱れ一つなく、足音一つ立てず、
しかも互いの位置を完璧に連携させながら
包囲網を狭めてくる。
並の騎士や兵士に、
こんな真似ができるはずがなかった。
「王国の暗部――暗殺部隊か」
思わず口をついて出た言葉に、
K2自身が奇妙な確信を覚えた。
前世の記憶が、
脳裏に鮮明な情報を呼び起こしていたからだ。
魔法師団長として先代国王に仕えていた頃、
K2は幾度となく、王国直属の暗殺部隊と
共闘した経験があった。
国境紛争の火種を未然に摘み取るため、
あるいは他国の間諜を密かに排除するため
――表舞台には決して出ない、
王国の裏側を支える存在。
彼らの練度、戦術、気配の消し方、
それらすべてをK2は熟知していた。
かつて自ら、彼らの育成に助言を与えたことすらある。
皮肉なことに、その知識が今、
K2自身を狙う敵の正体を見抜くための武器になっていた。
街道の先、緩やかな下り坂の途中に、
鬱蒼とした森が広がっていた。
あそこならば、地形を利用して優位に立てる。
K2は表情を変えぬまま、歩調をわずかに速めた。
背後の気配も、それに合わせて距離を詰めてくる。
もはや、逃げ切れる段階は過ぎていた。
ならば、迎え撃つ。
前世で培った経験と、この世界で授かった暗殺の力。
その両方を併せ持つ今の自分ならば、
たとえ相手が王国最精鋭の暗部であろうと、
後れを取るはずがない。
K2は森の入り口で足を止め、静かに振り返った。
夕闇の迫る街道に、三つの人影が音もなく姿を現した。
「――随分と、懐かしい気配を纏っているな」
K2は低く呟いた。
その声には、恐怖の色は微塵もなかった。
あるのはただ、静かな、
しかし揺るぎない闘志だけだった。
――以降、続く