第三百六十三弾「 偽りの勇者 ―K2転移録―」の続きです

 

# 偽りの勇者 ―K2転移録―

## 第五章 涙する路地裏

 王城からの逃亡は、思いのほか呆気なく成功した。
夜が明ける頃には、K2は城下町の外縁、
貧民街に近い区画にまで身を潜めていた。

 旅支度は最低限で構わなかった。
乾パン、水袋、火打石、丈夫な外套。
物乞いに身をやつした行商人の露店で、
K2は素性を隠しながら手早く物資を買い揃えていった。
銀貨を数える指先は落ち着いていたが、
視線だけは絶えず周囲を警戒していた。

 その作業が一段落したとき、K2はふと足を止めた。
目の前に広がる、朝靄に包まれた城下町の街並み。
石畳の路地、傾いた木造家屋の軒先、
竈から立ち上る白い煙。
何の変哲もない、
この世界のどこにでもある庶民の風景だった。

 なのに、K2の目からは、止めどなく涙が溢れていた。

 自分でも、その涙の理由がすぐには分からなかった。
喉の奥から込み上げてくる感情は、
悲しみでも、恐怖でもない。
もっと古く、もっと深いところから滲み出してくる、
何か懐かしさに似たものだった。

 ――ああ、そうか。

 脳裏に、堰を切ったように記憶が流れ込んできた。
それは、この世界に転移してから
今日までのK2の記憶ではなかった。
もっと遠い、もっと昔の記憶。
そう、この世界そのものの、K2自身の記憶だった。

 K2は、かつてこの世界に生きていた人間だった。

## 第六章 魔法師団長

 思い出したのは、
名も知らぬ市井の民としての生ではなかった。
K2――否、当時の彼は別の名を持っていた――は、
前国王の御代に「魔法師団長」の地位にあった男だった。

生まれながらに膨大な魔力を宿し、
その制御と応用の才は、当代随一どころか、
歴代の魔法使いの中でも比類なきものと謳われた。
齢を重ねるごとにその力は研ぎ澄まされ、
晩年には「神に匹敵する魔導の使い手」
とまで囁かれるようになっていた。

 多くの弟子が彼の下に集った。
宮廷の子弟から、地方の才ある平民まで。
K2は分け隔てなく指導し、その厳しさと公正さゆえに、
弟子たちからは畏敬と信頼を一身に集めていた。

 だが、その中でも、
彼が誰よりも心を砕いた弟子が一人いた。

 彼女と出会ったのは、王都の裏路地だった。
当時、辺境で起きた小規模な戦乱
――魔族討伐と称された、
実際には隣接する小領主同士の私闘
――によって両親を失った少女が、
行き場もなく物乞いをしていた。
痩せ細り、高熱に浮かされ、
道端でほとんど息絶えかけていたその子を、
たまたま通りかかったK2が見つけた。

 迷う理由などなかった。
K2は少女を屋敷に連れ帰り、看病し、
快復してからも手元に置いた。
彼自身、生涯独身を貫き、
実子を持たなかったこともあり、
いつしかその少女を、
実の娘のように慈しむようになっていた。

 少女には、幸いにして魔法の才があった。
K2は惜しみなく知識と技術を授けた。
彼女はめきめきと頭角を現し、
数年のうちに師団の中でも
屈指の実力者へと成長していった。
K2にとって、彼女の成長を見守る日々こそが、
老いていく自分の人生における、
何よりの誇りだった。

 だが、その幸福な日々の裏側で、
静かに、しかし確実に、破滅への糸が紡がれていた。

## 第七章 破滅の記憶

 現国王――当時はまだ王太子だった男――は、
父である先代国王の治世に、密かに不満を募らせていた。

先代は穏健な統治と周辺国との協調路線を重んじ、
王国の版図拡大には消極的だった。
だが王太子は、その方針を「臆病」と断じ、
自らが玉座に就いた暁には、
軍事力を以て周辺国を従える
強国を築くと心に決めていた。

 その野望の実現には、いくつもの障害があった。
中でも最大の障害こそが、先代に絶大な信頼を寄せられ、

王国の魔導戦力の中枢を担っていたK2の存在だった。
穏健派の重鎮であるK2が健在である限り、
王太子が武断的な政策を推し進めることは難しい。

 王太子は、K2を排除する計画を練り始めた。
だが正面から挑んで敵う相手ではない。
腕力でも魔力でも、
K2に及ぶ者は王国のどこにもいなかった。

 ならば、内側から崩すしかない。

 王太子の側近に取り立てられていた魔法使いたちは、
K2の最愛の弟子である少女に目をつけた。
当時、彼女と近い年齢の、容姿端麗な青年が、
側近の一人によって密かに用意された。
偶然を装った出会いから始まり、
周到に計算された言葉と態度で、
青年は少女の心を掴んでいった。

 初めての恋だった。
孤独な幼少期を経て、K2に救われ、
師として、父のように慕ってきた彼女にとって、
その恋は人生で初めて訪れた、自分だけの世界だった。
だからこそ、
その感情に付け入る隙は、あまりにも大きかった。

 やがて青年を通じて、
少女は側近の魔法使いたちの手による、
緩やかな意思誘導
――否、洗脳と呼ぶべき呪術に晒されていった。
それは、後にK2自身が地下の「静養院」で
目撃することになる手法と、恐ろしいほど酷似していた。

強制ではなく、誘導。
彼女は、自分の意思で、
師であり父でもあるK2を
「王国の未来を阻む障害」と信じ込むように、
少しずつ、少しずつ、
記憶と価値観を書き換えられていった。

 K2は、その異変に気づかなかった。
あるいは、気づきたくなかったのかもしれない。
誰よりも信頼していた弟子が、
自分に牙を剥くはずがない
――その慢心が、老練な魔導の使い手であった彼から、
警戒心という最後の砦を奪い去っていた。

 そして、ある夜。
師団長の私室で、二人きりで過ごしていたとき、
少女はK2の背に、迷いのない一撃を突き立てた。

 最期の瞬間、K2の目に映ったのは、
涙を流しながらも、確信に満ちた表情を浮かべる、
愛した娘の顔だった。
彼女は、自分が正義を成しているのだと、
心の底から信じきっていた。

「……お前の、せいじゃない」

 それが、前世のK2が残した最後の言葉だった。

## 第八章 二度目の生、そして再び

 魂は、異なる世界へと流れ着いた。
魔法という概念すら存在しない、
K2が「元の世界」と呼んでいた地球によく似た世界
――否、正確には、彼が生まれ直した先こそが、
後に転移者として召喚されることになる、
あの世界だった。

 前世の記憶を持たぬまま生まれ直した少年は、
しかし幼い頃から、
他の子供にはない奇妙な力の片鱗を持っていた。
それは魔法だった。
魔法という概念すら存在しないこの世界において、
K2――新しい生を受けたその人物は、
唯一無二の異能者だった。

 彼はその力を、慎重に、
目立たぬように使いながら成長した。
学業を修め、就職し、
ごく平凡な社会人としての生活を営んだ。
前世では持ち得なかったものを、
この世界で一つずつ手に入れていった。
友人、同僚、そして――恋人。

 誰かを愛し、誰かに愛される。
魔法師団長として孤独に生きた前世では味わえなかった、

ささやかで、しかしかけがえのない幸福を、
彼はこの世界で確かに掴んでいた。
前世の記憶など欠片も持たぬまま、
ただ「K2」という一人の人間として、
静かに満たされた日々を送っていた。

 その平穏を、王国は問答無用で引き裂いた。

 街ごと異世界へ引き剥がされたあの瞬間、
K2はすべてを
――恋人を、積み上げてきた生活を、失った。
そして、その喪失の傷が癒える間もなく、
更なる悲劇が彼を襲った。

 転移直後の混乱の中、
精神の均衡を崩し、錯乱状態に陥った転移者の一人が、
通りすがりの別の転移者を刺殺するという事件が起きた。

犠牲になったのは、K2が転移後に
わずかながら心を開き始めていた、
数少ない仲間の一人だった。

 だが王国側の対応は、驚くほど冷淡だった。
「戦力は一人でも多く必要である」という理由から、
犯人となった転移者の罪は、
形ばかりの謹慎処分で済まされ、
実質的に不問に付された。
仲間を失った悲しみに暮れる遺族
――否、この世界には彼女の血縁者などいない
――に対し、
王国は満足な弔いの言葉すら用意しなかった。

 この一連の出来事に対する強い不信と怒り。
それが、K2の中で凍りついていた前世の記憶を、
静かに、しかし確実に溶かし始めた引き金だった。
忘れていたはずの記憶が、
まるで堰を切ったように蘇り、
そして彼は理解した。

 自分は、この世界で二度、
同じ手口によって人生を破壊されようとしているのだと。

 最愛の弟子を奪われ、殺された前世。
そして今、王国は再び、
意思誘導という同じ手法を用いて、
転移者たちを操ろうとしている。
偶然であるはずがなかった。
この王国の中枢には、前世から連綿と続く、
何かしらの悪しき系譜が存在するのかもしれない。

 だからこそK2は、
他の転移者たちのように王国の言葉を
鵜呑みにはしなかった。
前世で味わった苦い記憶が、
彼の中に、
抜きがたい警戒心として根を張っていたのだ。

## 第九章 追跡者

 城下町を抜け、街道を数刻歩いたところで、
K2は背後に纏わりつく視線に気づいた。

 最初は気のせいかと思った。
だが、気配遮断のスキルで培った感覚は
誤魔化せなかった。
木立の陰、崖の稜線、街道脇の茂み
――巧妙に距離を保ちながら、
確実に自分を追ってくる存在が、三つ。

 K2は歩調を変えぬまま、意識だけを研ぎ澄ませた。
追手の気配の消し方は、素人のそれではない。
呼吸の乱れ一つなく、足音一つ立てず、
しかも互いの位置を完璧に連携させながら
包囲網を狭めてくる。
並の騎士や兵士に、
こんな真似ができるはずがなかった。

「王国の暗部――暗殺部隊か」

 思わず口をついて出た言葉に、
K2自身が奇妙な確信を覚えた。
前世の記憶が、
脳裏に鮮明な情報を呼び起こしていたからだ。

 魔法師団長として先代国王に仕えていた頃、
K2は幾度となく、王国直属の暗殺部隊と
共闘した経験があった。
国境紛争の火種を未然に摘み取るため、
あるいは他国の間諜を密かに排除するため
――表舞台には決して出ない、
王国の裏側を支える存在。
彼らの練度、戦術、気配の消し方、
それらすべてをK2は熟知していた。
かつて自ら、彼らの育成に助言を与えたことすらある。

 皮肉なことに、その知識が今、
K2自身を狙う敵の正体を見抜くための武器になっていた。

 街道の先、緩やかな下り坂の途中に、
鬱蒼とした森が広がっていた。
あそこならば、地形を利用して優位に立てる。
K2は表情を変えぬまま、歩調をわずかに速めた。

 背後の気配も、それに合わせて距離を詰めてくる。

 もはや、逃げ切れる段階は過ぎていた。
ならば、迎え撃つ。
前世で培った経験と、この世界で授かった暗殺の力。
その両方を併せ持つ今の自分ならば、
たとえ相手が王国最精鋭の暗部であろうと、
後れを取るはずがない。

 K2は森の入り口で足を止め、静かに振り返った。
夕闇の迫る街道に、三つの人影が音もなく姿を現した。

「――随分と、懐かしい気配を纏っているな」

 K2は低く呟いた。
その声には、恐怖の色は微塵もなかった。
あるのはただ、静かな、
しかし揺るぎない闘志だけだった。

――以降、続く

 

# 偽りの勇者 ―K2転移録―

## 第一章 転移

 目を開けた瞬間、K2が最初に感じたのは、
肺の中に流れ込む空気の匂いが違うということだった。
排気ガスと埃と、コンビニの揚げ物の匂いが
染み付いていたはずの街の空気が、
湿った土と、燃える松脂と、
そしてどこか獣じみた体臭の入り混じった、
まるで博物館の裏庭のような匂いに変わっていた。

 視界に映るのは石畳の広場だった。
見慣れた駅前のロータリーが、
そのまま石畳に置き換わっている。
信号機はなく、代わりに石造りの噴水があった。
周囲には見知った顔ぶれ
――コンビニの店員、通学途中の高校生、
スーツ姿のサラリーマン、ベビーカーを押す母親
――が、一様に呆然とした表情で立ち尽くしていた。
誰もが同じ問いを喉の奥に詰まらせていた。
ここはどこだ。

 答えは、その日のうちに、
玉座の間と称される石造りの大広間で与えられた。
豪奢な法衣をまとった初老の男が、
自らを「イーグレシア王国」の国王と名乗り、
居並ぶ転移者たちを見下ろしながら、静かに、
しかし芝居がかった悲痛さを滲ませて語った。

「諸君らには、まず詫びねばならぬ。
この暴挙は、我が王国が単独で判断したものではない。
魔族の脅威が、もはや我々だけでは抗えぬ域に
達したがゆえの、最後の手段であった」

 説明はこうだった。
イーグレシア王国は東の隣国
――クレイオス連邦――から
絶えず魔族の侵略を受けており、
その被害はここ十年で急激に拡大した。
伝承にある「異界からの勇者召喚」の
秘術を発動させるには、術者の力だけでは足りず、
一つの都市に住む人間ごと、
丸ごと異界から引き剥がす必要があった。
だからこそ、K2たちの街は住人ごと、
この世界に転移させられたのだ、と。

 王は続けた。
「諸君らの中には、この世界に来たことで、
特別な力を授かった者がいるはずだ。
それは女神の祝福であり、魔族と戦うための贈り物だ。
どうか、その力を以て、我らと人族を救ってほしい」

 広間には拍手と歓声が起きた。
恐怖と困惑の中にいた人々にとって、
それは分かりやすい物語だった。
悪意ある魔族、それに立ち向かう勇者たち、
そして自分たちには特別な使命がある
――そのシンプルな構図は、
故郷を失った喪失感を埋めるには
十分すぎるほど都合が良かった。

 K2だけが、拍手をしなかった。

 彼が転移によって得た力は、
「暗殺」に関するスキル群だった。
気配遮断、暗器精製、瞬間加速、
そして一撃必殺の急所看破。
剣を振り回して魔物を薙ぎ倒すような、
分かりやすい勇者の力ではない。
夜闇に紛れ、誰にも気づかれずに
標的の命を刈り取るための力だった。

 その事実だけでも、
K2の中に小さな違和感の種を植えつけるには十分だった。

人族を守るための贈り物にしては、
あまりにも不穏な形をしている。

「魔族と戦うための力、ね」

 与えられた宿舎の一室で、K2は独りごちた。
窓の外には、篝火に照らされた王城の尖塔が見えた。
美しい建築だった。
だが美しさというものは、往々にして、
隠したいものを覆い隠すために使われる。

## 第二章 夜の調査

 訓練は苛烈だった。
転移者たちは連日、王国が用意した教官のもとで、
それぞれに与えられた力を
「魔族討伐」に特化させるべく叩き込まれた。
剣術、魔法制御、集団戦術。
誰もが必死だった。
故郷を失った不安を紛らわせる唯一の手段が、
目の前の訓練に没頭することだったからだ。

 K2も表向きは従順な生徒を演じた。
だが夜になると、彼の本当の訓練が始まった。

 気配を完全に断ち、影から影へと移動する。
城の見取り図は、昼間の訓練中に
さりげなく交わされる会話や、
掲示された配置表から少しずつ頭に入れていた。
夜警の巡回間隔、交代の時刻、灯りの落ちる区画
――すべてを丹念に洗い出し、
三週間目の夜、K2はついに王城の中枢部、
王の私室に近い書庫へと忍び込んだ。

 書庫には、外交文書の写しが無造作に積まれていた。
埃を被った棚の奥、鍵のかかった木箱の中に、
K2が探していたものがあった。
クレイオス連邦との外交記録だ。

 読み進めるうちに、K2の背筋を冷たいものが伝った。

 そこに記されていたのは、
王が語った物語とはまるで違う現実だった。
クレイオス連邦は、この二十年間、一度たりとも
イーグレシア王国へ軍事侵攻を行っていない。
それどころか、両国間には通商条約が結ばれ、
鉱物資源――特に、魔導兵器の製造に
不可欠な稀少鉱石――の輸出入で、
イーグレシアはクレイオスに大きく依存していた。
文書には、直近五年間の交易量の推移まで
詳細に記録されており、
「魔族の侵略」を示唆する記述は
どこにも見当たらなかった。

 クレイオスは、魔族に蹂躙された
悲劇の隣国などではない。
長年、平和的な資源外交を貫いてきた
豊かな国家だった。

「……じゃあ、あの『侵略の脅威』って、何だ」

 K2は文書を元の位置に戻しながら、
乾いた声で呟いた。
答えは、まだ見えなかった。
だが少なくとも一つだけ、確信したことがあった。
この王国は、転移者たちに嘘をついている。

 調査は次の段階に進んだ。
K2が次に目をつけたのは、城の地下、
通称「静養院」と呼ばれる一角だった。
表向きは、訓練で負傷した者や、
精神的な不調を訴えた転移者が療養する
施設とされていた。
だが、そこに出入りする人間の数と、
出てくる人間の数が、
微妙に一致しないことにK2は気づいていた。

 地下への隠し通路を見つけるのに、
さらに十日を要した。
深夜、K2は暗器精製で作り出した薄刃を使い、
施錠された鉄扉をこじ開けた。

 その先にあったのは、想像を絶する光景だった。

 薄暗い石室の中に、等間隔で並んだ寝台。
そこに横たわっているのは、
K2と共に転移してきた仲間たちだった。
全員が目を閉じ、額には奇妙な紋様の刻まれた
金属製の輪が装着されている。
傍らには、ローブ姿の魔法使いたちが数人、
静かに詠唱を続けていた。

「――傀儡魔法。それも、思考誘導の類か」

 K2は物陰から観察を続けた。
魔法使いの一人が発した言葉が、彼の推測を裏付けた。
「対象の記憶の再構成は順調です。
彼らはこれを、自らの意思による
正義の選択だと認識するでしょう」

 背筋が凍った。
これは単純な洗脳や、意識の乗っ取りではない。
もっと巧妙で、もっと悪質な手法だった。
対象の記憶や価値観を少しずつ再構成し、
王国の望む結論に、まるで自分自身の意思で
辿り着いたかのように誘導する。
強制ではなく、誘導。
だからこそ、対象者本人には、
自分が操られているという自覚すら生まれない。

 この事実は、K2の胸に重くのしかかった。
もし訓練場で肩を並べている仲間たちの何人かが、
既にこの「調整」を受けているのだとしたら
――彼らが口にする「魔族への正義の怒り」も、
「人族を守るという使命感」も、
すべてこの地下室で植え付けられた
偽りの信念かもしれない。

 そしてもし、そうだとしたら。
魔族が本当に人族を襲っているという前提そのものが、
根底から揺らぐことになる。

 K2は静かにその場を後にした。
今夜知った真実の重さに、指先が微かに震えていた。

## 第三章 騎士団長

「顔色が悪いな、K2」

 声をかけてきたのは、
王国騎士団長のガレイン・ヴォルスだった。
四十がらみの偉丈夫で、頬に古い刀傷を持つ男だ。
他国にまで名を轟かせた剣の腕前と、
部下思いの人柄で知られ、
訓練場では転移者たちからも一目置かれていた。

 K2はとっさに愛想笑いを作った。
「寝不足なだけです」

「そうか」
ガレインはそれ以上追及しなかったが、
その目には何か含むものがあった。
訓練が終わった後、
彼はK2を人気のない中庭へと呼び出した。

「単刀直入に聞く。
お前、夜に何かを嗅ぎ回っているだろう」

 K2は一瞬、暗器に手を伸ばしかけた。
だがガレインの表情に敵意はなかった。
むしろ、それはどこか懇願に近い、
切実な光を帯びていた。

「俺を、殺す気か」

「いや」
ガレインは首を振った。

「俺もまた、この王国のやり方に
疑いを持っている一人だ」

 そこから語られた話は、
K2の推測を裏付けるものだった。
ガレインは、先代国王――現国王の父
――に長く仕えた騎士だった。
先代は名君として知られ、
クレイオス連邦との友好条約を結んだ張本人でもあった。

ところが三年前、先代国王は突如、
原因不明の病で急逝した。
表向きは病死とされたが、
ガレインは違和感を拭えなかった。
先代は死の直前まで健康そのものだったのだ。

 現国王――先代の息子
――が即位して以降、王国の対外方針は一変した。
クレイオスとの友好路線は破棄され、
代わりに「魔族の脅威」を喧伝する言説が、
宮廷内外で急速に広まっていった。
ガレインは独自に調査を進め、
先代の死に不審な点が多いこと、
そして現国王の側近に、
得体の知れない魔法使い集団が
急速に台頭していることを突き止めていた。

「俺はまだ、確たる証拠を掴めていない。
だが、お前なら」
ガレインはK2の目を真っ直ぐに見た。

「お前のその力なら、俺には辿り着けない場所まで、
辿り着けるはずだ」

 こうしてK2とガレインは、秘密裏に手を組んだ。
ガレインはこの世界の地理、各国の勢力図、
宮廷内の派閥構造をK2に教え、
K2は夜間の調査で得た情報をガレインに共有した。
二人は少しずつ、
真実の輪郭を浮かび上がらせていった。

 王国が語る「魔族の脅威」は、
恐らく現国王とその側近の魔法使い集団が、
資源豊かなクレイオス連邦への侵攻を
正当化するために作り上げた虚構だ。
そして転移者たちは、その侵攻の為の「戦力」として、
異界から強制的に召喚された駒に過ぎない。
傀儡魔法による記憶誘導は、
彼らを従順な兵士に
仕立て上げる為の仕上げの工程だった。

「もし俺たちの推測が正しいなら」
ある夜、K2はガレインに言った。

「王国はいずれ、俺たち転移者を使って
クレイオスに侵攻する。
何の罪もない、平和な国に」

「ああ」
ガレインの声は重かった。

「そして、その大義名分として使われるのが、
お前たちの『使命感』だ。
誰も悪意を持って人を殺すわけじゃない。
全員が、正義のために剣を振るっていると信じたまま、
罪のない国を滅ぼすことになる」

 K2は拳を握りしめた。
もっとも厄介なのは、まさにその点だった。
誘導された信念は、本人にとっては紛れもない
「自分の意思」だ。
それを外側から否定しようとしても、
彼らはただの妄言として一蹴するだろう。
ほとんど狂信に近い状態を、
力ずくで解くことはできない。
まず必要なのは、動かぬ証拠だった。

## 第四章 裏切りの夜

 証拠集めは着実に進んでいた。
だが真実に近づくということは、
それだけ危険にも近づくということだった。

 その夜、K2はガレインとの定例の情報交換のため、
いつもの人気のない裏庭へ向かった。
だが、待っていたのはガレインではなかった。

 物陰から漂う、鉄錆に似た匂い。
K2は反射的に気配察知のスキルを研ぎ澄ませた。
中庭の奥、噴水の陰に、人影が横たわっていた。
駆け寄る前から、K2にはそれが誰なのか分かっていた。

 ガレイン・ヴォルスは、既に息をしていなかった。
喉元を鋭利な刃物で一突きにされていた。
傷口の角度、力の入れ方
――それは、明らかに暗殺の技巧を持つ者による
犯行だった。

 K2が言葉を失って立ち尽くしていたその時、
周囲に複数の足音が響いた。
松明の光が中庭を照らし出し、
そこに騎士団の一隊と、
数人の転移者仲間たちの姿があった。

「そこにいたのはお前か、K2!」

 誰かが叫んだ。
松明の光の中で、
K2はガレインの遺体の傍らに立ち尽くしている
自分の姿が、どう見えるかを瞬時に理解した。
凶器の傍証。
現場に居合わせた唯一の目撃者。
そして、暗殺スキルの所持者。

「違う、俺じゃない」

 K2の声は、しかし誰の耳にも届かなかった。
転移者仲間の一人
――かつて同じ学び舎にいたはずの少年が、
憎悪に満ちた目でK2を睨みつけていた。

「ガレイン団長は、俺たち転移者に
良くしてくれた人だぞ。それをお前が……!」

 K2はその瞬間、目の前の少年の目に宿る光が、
ただの怒りではないことに気づいた。
あまりにも迷いのない、純粋すぎる憎悪。
それはまるで、あらかじめ用意された台本を
読み上げているかのような、
不自然な確信に満ちていた。

 ――誘導されている。
この場にいる仲間の何人かは、既に。

 考えている猶予はなかった。
騎士たちが剣を抜き、じりじりと包囲の輪を狭めてきた。

何を言っても、もう誰の耳にも届かない。
無実を証明する術は、この場には存在しなかった。

 K2は奥歯を噛みしめた。
ここで捕らわれれば、
待っているのは裁判の体裁を取った処刑だろう。
そして、ガレインが命を賭して集めた証拠も、
彼が守ろうとした真実も、すべて闇に葬られる。

 瞬間加速のスキルが、
K2の体を炎のように駆け抜けた。

 包囲の一角、
最も手薄だった騎士の脇をすり抜け、
城壁の陰へと躍り込む。
背後で怒号が上がり、追跡の足音が重なった。
矢が幾筋も闇を裂いて飛んできたが、
気配遮断と瞬間加速を交互に繰り出しながら、
K2は城下町の路地へと姿を消していった。

 息を切らしながら、
人気のない廃屋の陰に身を潜めたとき、
K2の脳裏に浮かんでいたのは、
恐怖でも、絶望でもなかった。

 ガレインの、あの切実な眼差し。
この世界の真実を、
命を賭してでも暴こうとした男の、最後の姿。

「……あんたを殺した奴も、あんたを利用した王国も」

 K2は闇の中で、誰に聞かせるでもなく呟いた。
声は静かだったが、
その奥には、消えることのない炎が灯っていた。

「絶対に、俺が終わらせる」

 城下に響く鐘の音が、追っ手の招集を告げていた。
K2は闇を纏い、次の行動へと踏み出した。
偽りの正義に彩られたこの王国で、ただ一人、
真実を知る者として。

――以降、続く
 

 

雨宮素直という人間を語る上で、
道路交通法第二章第十条
――歩行者は道路を通行する場合において、
歩道と車道の区別がない道路においては、
道路の右側端に寄って通行しなければならない
――この一文を避けて通ることはできない。

素直にとってこの条文は、
単なる法律の一節ではなかった。
それは彼の世界を支える、
揺るぎない秩序そのものだった。
物心ついた頃から、彼は「決められたことは
守られるべきだ」という信念のもとに生きてきた。
信号は守られるべきで、順番は守られるべきで、
そして歩行者は右側を歩くべきだった。
理由を問われれば、彼は淀みなく答えることができた。
対向車両を目視できる位置を歩くことで、
危険を未然に回避できるからだ、と。

だから素直は、左側を歩く人間を見かけると、
必ず声をかけた。
相手が老人であろうと、
子供であろうと、
スーツ姿のビジネスマンであろうと、
関係なかった。

「すみません、右側通行でお願いします」

丁寧な口調、しかし有無を言わせぬ静かな圧。
多くの人間は怪訝な顔をしながらも、
その迫力に押されて右側に寄った。
中には無視する者、舌打ちする者、
罵声を浴びせる者もいたが、素直は気にしなかった。
彼が求めているのは謝罪でも同意でもなく、
ただ「秩序が守られること」だけだったからだ。

その日も、素直はいつも通りの帰り道を歩いていた。
夕方六時、空はまだ橙色の名残を残し、
路地には長い影が伸びていた。

「――おい、待てよ兄ちゃん」

声をかけてきたのは、金髪の男だった。
制服の上着を肩に引っ掛け、
腰パンで歩くその後ろには、
似たような風体の少年たちがぞろぞろと続いていた。
数えると、十五人はいる。
彼らは瞬く間に素直を取り囲んだ。

「さっき俺らのこと睨んだだろ」

「睨んでいません。
左側を歩いていたので、注意しただけです」

素直は淡々と答えた。
その態度が、
かえって金髪の男の神経を逆撫でした。

「はぁ? お前、俺らが誰だか知って言ってんの?」

「知りません。知る必要もありません。
左側通行は危険です。それだけです」

くすくすと嘲笑が輪の中から漏れた。
細身で、黒縁眼鏡をかけ、
リュックを背負ったその立ち姿は、
誰の目にも「弱そうなオタク」としか映らなかった。
だからこそ、彼らは油断していた。

「お前さ、なんかムカつくんだよね。
ちょっと顔貸せよ」

一人が素直の胸ぐらを掴もうと手を伸ばした。

その瞬間だった。

素直の右手が、
まるで空気を摘まむような自然さで動いた。
伸びてきた手首を軽く捻る。
ただそれだけの動作で、
大柄な少年の体が独楽のように一回転し、
アスファルトに背中から叩きつけられた。
呼吸ができないほどの衝撃に、
少年は白目を剥いて悶絶した。

「な……っ!?」

輪の空気が一変した。
金髪の男が号令をかけるより早く、
周囲の少年たちが一斉に飛びかかった。

素直の体は、その瞬間から別の生き物のように動いた。
振り下ろされる拳は、
彼の視界の中でスローモーションのように緩慢だった。
半歩だけ引いた重心。
かすめもしない紙一重の回避。
返す手刀は、相手の意識だけを的確に刈り取っていく。
骨を折らない。
急所は外す。
しかし戦意だけは完全に叩き折る
――そんな絶妙な力加減が、
無数の連撃の中で寸分の狂いもなく
再現されていった。

蹴りが来れば、その足首を軽く払うだけで
相手は勝手に転倒し、
後頭部を打たないよう素直はその襟首を掴んで
支えてやる始末だった。
ナイフを取り出した一人がいたが、
素直がそれに気づいた時にはもう、
刃はへし折られて地面に転がっており、
持ち主は自分の手首が変な方向を
向いていないことに心底安堵しながら泣いていた。

一分と経たないうちに、
路地には十数人の少年たちが
折り重なるように倒れていた。
呻き声だけが響く中、
金髪の男――リーダー格だけが、
腰を抜かして後ずさっていた。

「な……なんだよ、お前……」

「暴力を振るってきたのはそちらです。
正当防衛の範囲内で対応しました」

素直は表情ひとつ変えず、
乱れてもいない眼鏡の位置を直した。
息一つ乱していない。
汗すらかいていない。

「大丈夫ですか。
骨は折っていないはずですが、念のため病院へ」

その気遣いすら、
倒れた少年たちにとっては
底知れぬ恐怖でしかなかった。

そして素直は、倒れている少年たちの体を一人ずつ、
丁寧に道路の右端へと引きずり、整然と並べ始めた。
まるで散らかった私物を片付けるかのような、
ごく自然な動作だった。

「ここは車道です。
左側に寝ていると、車に轢かれる危険があります。
右側に寄せておきますね」

通りかかった主婦が、
その光景を見て悲鳴を上げかけて、慌てて口を押さえた。

十数人の不良が、几帳面に右側へ横並びで倒れている
――その異様な光景は、
まるで前衛芸術のインスタレーションのようだった。

「あ、あの人が……」

「一人で全員……」

「でも、なんか、並べ方が丁寧……?」

野次馬たちのざわめきの中、
遠くからパトカーのサイレンが近づいてきた。
誰かが通報したのだろう。

素直は、乱れた前髪を軽く整えながら、
静かに呟いた。

「秩序は、守られなければならない」

やがて路地の向こうから、二人の警察官が姿を現した。
彼らは事件現場へ急ぐあまり、
車道の左側を並んで歩いてきていた。

その瞬間、素直の目の色が変わった。

不良十数人を制圧した時とは、また質の違う光
――それは、純粋な「正義感」の発露だった。

「――すみません」

素直は倒れた少年たちの整列作業をぴたりと止め、
まっすぐに警察官たちへと向き直った。



「警察官の方が、
道路交通法第二章第十条に違反されています」

警察署の自動ドアが開いた瞬間、
素直は左肩に警官A、右肩に警官Bを担いだまま、
堂々と受付カウンターへ歩み寄った。
もちろん――右側通行を守って。

「――すみません。
道交法違反者を二名、確保しました」

受付にいた若い事務員は、
目の前の光景に思考が追いつかず、
ただ口を半開きにして固まった。
制服姿の警官二人が、
意識はあるものの完全に戦意を喪失した状態で、
痩身の眼鏡青年の両肩に力なく担がれている。
それだけでも異常なのに、
青年は至って真面目な顔で
「道交法違反者」という単語を口にしている。

「あ、あの……警察官、なんですが」

「知っています。だからこそ問題なんです」

素直は二人をカウンター前の長椅子にそっと
――本当に丁寧に、壊れ物を扱うように
――下ろした。
荒事の後にもかかわらず、
彼らの制服にも身体にも目立った外傷はない。
素直は「暴力に訴えてきた者は徹底的に潰す」
主義ではあったが、
相手を再起不能にすることを望んではいなかった。
あくまで「わからせる」ことが目的だった。

「奥から責任者を呼んでください。
道路交通法第二章第十条、
歩行者の通行方法についての周知徹底が、
この警察署において著しく欠如している事実について、
正式に指摘したいので」

事務員は震える手で内線の受話器を取った。

奥から出てきたのは、恰幅のいい五十代の署長だった。
廊下の向こうで倒れている
――もとい、座らされている自分の部下二人を見て、
署長の顔から一瞬で血の気が引いた。

「な……何事だ、これは」

「初めまして。
道交法違反の現行犯を確保しに参りました」

素直は名刺でも渡すような自然さで、
まったく違うものを差し出した。
スマートフォンの画面
――そこには110番通報の履歴と、通話時間、
そして自分が通報中に告げた
二人の警官の名前と階級がしっかり記録されていた。

「先ほど、そちらの署員お二方が、
現場において歩行者としての
左側通行を行っておられました。
私が指摘したところ、聞き入れるどころか、
証拠保全のために撮影していた
私のスマートフォンを実力で奪おうとされました。
これは公務員による職権を利用した器物損壊未遂、
および暴行未遂に該当すると判断し、
正当防衛の範囲内で制圧しました」

署長は、担架で運ばれてもおかしくないほど
覇気を失った部下二人と、飄々と法律用語を並べる
眼鏡の青年を交互に見た。
頭の中で状況が組み上がらない。
ただ一つだけ理解できたのは
――この青年を怒らせてはいけない、
ということだけだった。

「わ、わかった。
まず、彼らの話を聞こう。少し待っていてくれ」

「結構です。
ですが、一点だけ申し上げておきます」

素直は姿勢を正し、署長をまっすぐ見据えた。
その目には、憤りというよりも、
むしろ純粋な困惑と失望が浮かんでいた。

「法を守らせる立場の人間が法を守っていない。
それは、法治国家として最も危険な状態だと
私は思います。
誰も見ていないところでは違反していい、
なんてルールはどこにも書かれていません。
第二章第十条は、歩行者が車両と
正面から向き合うことで、
危険をいち早く察知できるようにするための規定です。
これは警察官だから免除される、
という例外規定は存在しない」

署長は思わず「その通りです」と頷いてしまい、
後になって自分がなぜ頷いたのか自問することになる。

「本日のところは、口頭注意で済ませます。
ですが今後、私が同じ現場に遭遇した際に、
再び違反が確認された場合――」

素直はそこで一拍置いた。
長椅子の警官二人が、びくりと肩を震わせた。

「次は、正当防衛の範囲について、
私自身も見直す必要が出てくるかもしれません」

その台詞は、脅しというよりもむしろ、
事務的な業務連絡のように淡々と発せられた。
だからこそ、聞いていた全員の背筋に、
得体の知れない冷たさが走った。

素直は一礼すると、踵を返して出口へ向かった。
もちろん、通路の右側を歩いて。

自動ドアが閉まった後、署内には長い沈黙が流れた。
やがて署長が、震える声で口を開いた。

「……あの人、何者だ」

誰も答えられなかった。

ただ、その日を境に、
この警察署管内では「歩行者の右側通行」
に関する啓発ポスターが、
やけに大きなサイズで貼り出されるようになったという。

一方、素直は何事もなかったかのように、
夕暮れの道を、きちんと右側を歩きながら
帰路についていた。
すれ違う人々の中に、また一人、
左側を歩いてくる会社員風の男が見えた。
素直の目に、静かな
――しかし確かな――使命感の光が灯る。

「すみません、少しよろしいですか」

その声を聞いた男は、
まだ今日の自分に何が起ころうとしているのか、
まったく想像もしていなかった。

以降、続く。

 

牧野透という人間は、
教室の中で限りなく透明に近い存在だった。

朝のホームルームで名前を呼ばれても、
返事をする声は誰の耳にも留まらない。
休み時間、クラスメイトたちが机を寄せ合って
笑い合う輪の外側で、
透はいつもスマートフォンの画面越しに
アニメの最新話や漫画の更新を追いかけていた。
友達と呼べる人間は、この教室に
――いや、この学校のどこにも一人もいなかった。
話しかけられれば辛うじて言葉を返せるが、
自分から誰かに話しかけるなど到底できない。
そんな自分を、透自身もよく分かっていた。

「異世界に転生できたらなぁ」

それが透の口癖――というより、
心の中で繰り返す呪文のようなものだった。
冴えない日常、誰にも注目されない存在感、
積み重なる孤独。
それらを全部リセットして、
剣と魔法の世界で誰かに必要とされる自分になれたら。
ラノベやアニメの主人公たちのように、
特別な力を手にして、誰かを守れる強さを持てたなら。
そんな夢想だけが、透の唯一の心の逃げ場だった。

そして、透にはもう一つ、
誰にも打ち明けたことのない秘密があった。

佐藤美希――同じクラスの、あの子への想いだ。

黒く艶やかな髪を肩の少し下で切り揃え、
清楚な佇まいの中に理知的な光を宿した瞳。
銀縁の眼鏡の奥から覗くその瞳は、
いつも穏やかで、誰に対しても分け隔てなく優しかった。

成績は学年トップクラス、
それでいて驕ったところがまるでない。

透の目に映る美希は、教室という薄暗い水槽の中で
一人だけ光を放つ、そういう存在だった。

だが、その光はあまりにも遠かった。
美希はクラスの中心にいる、
いわゆる「陽キャ」と呼ばれるグループに囲まれている。

明るく社交的な女子たち、
爽やかでスポーツ万能な男子たち。
美希自身は決して見下すような態度は取らないが、
自然と人が集まってくる磁力のようなものを持っていた。

透のような存在が話しかけようものなら、
周囲の視線だけで心臓が潰れそうになる。
それどころか、廊下ですれ違う時に
視界に入れることすら、
透にとっては勇気のいる行為だった。

だから透は、ただ遠くから眺めることしかできなかった。

休み時間に友人と笑う横顔、
授業中にノートを取るために伏せられた睫毛、
給食当番でエプロンの紐を結ぶ何気ない仕草
――それら全てを、透は誰にも気づかれないように、
心の奥に大切にしまい込んでいた。
それだけで、透にとっては十分に幸せな時間だった。
手の届かない場所にある光を、
ただ美しいと思って眺めていられることが、
閉塞した日常の中でのささやかな救いだったのだ。

そんな美希には、井上孝太という幼馴染がいた。
透と同じクラスの、恰幅のいい
――いや、はっきり言ってしまえば、
かなり体格の大きな男子生徒だ。
孝太はいつも一人で購買のパンを
三つ四つと抱えて教室に戻ってきて、
昼休みになれば弁当と合わせてそれを平らげる。
運動はからきしで、体育の授業では
いつも列の後ろの方でため息をついている姿を見かけた。

クラスでの扱いは、透ほど酷くはないものの、
やはり陽キャたちの輪の中心にいるタイプではなかった。

だが、透は知っていた。
美希と孝太が、かつては誰よりも
仲の良い幼馴染だったということを。

小学校の頃、二人は毎日一緒に登下校していたらしい。
近所同士で、家族ぐるみの付き合いもあったという。
休み時間には決まって二人で遊び、
給食も隣同士で食べ、将来の話をすれば
「大人になったら結婚しようね」と、
子供らしい無邪気さで指切りを交わしていたと、
いつか誰かが噂していたのを
透は小耳に挟んだことがある。
当時の孝太は今よりずっと痩せていて、
活発で、美希とよく笑い合っていたという。

けれど、中学に上がった頃から、
孝太は少しずつ変わっていった。

きっかけは、はっきりとは分からない。
両親の仕事が忙しくなり、
家で一人で過ごす時間が増えたからだとも、
部活で挫折を経験したからだとも、
色々な噂が流れていた。
だがどうであれ、結果として孝太は
食べることに逃避するようになった。
夜遅くまでスナック菓子を頬張りながらゲームをし、
運動からは完全に足が遠のいた。
体重は面白いように増えていき、
中学二年になる頃には、かつての活発な少年の面影は
どこにもなくなっていた。

そして、それと歩調を合わせるように、
美希は孝太から少しずつ距離を置くようになった。

美希が孝太を嫌っているとか、見下しているとか、
そういう単純な話ではなかったのかもしれない。
ただ、二人の間にあった無邪気な近さは失われ、
気づけば美希は別のグループに
――活発で快活な友人たちの輪の中に
いるようになっていた。
孝太はそれでも時折、
遠くから美希に話しかけようとする
素振りを見せることがあったが、
美希の反応はどこかぎこちなく、
以前のような自然な会話は戻ってこなかった。

透はその一部始終を、教室の隅から静かに観察していた。

自分と同じように、輪の外側に追いやられていく孝太。
けれど孝太の抱える孤独は、
透のそれとは少し違う種類のものだった。
かつて確かに手にしていた
「特別な誰か」との絆を失っていく孤独
――それは、最初から誰とも繋がったことのない透には、

想像するしかないものだった。

孝太が購買のパンを頬張りながら、
時折、美希たちのグループを
遠い目で見つめていることに、透は気づいていた。
その視線の奥にあるものが何なのか、
この時の透はまだ、はっきりとは理解していなかった。

---

その日は、よく晴れた秋の午後だった。

放課後、透はいつものように一人で校門を出た。
特に用事があるわけでもなく、
ただ真っ直ぐに家へ帰るだけの、
代わり映えのない下校路。
だが、少し先を歩く一団の中に、
見慣れた後ろ姿を見つけて、
透の足は自然と速度を緩めていた。

佐藤美希が、友人たちと連れ立って歩いていたのだ。

透は少し距離を置いて、その背中を追うように歩いた。
話しかけるつもりなど毛頭ない。
ただ、下校中に彼女の後ろ姿を眺められるという、
ただそれだけのささやかな幸運を噛み締めながら、
透はゆっくりと歩を進めていた。
美希は友人と何かを話しては、時折小さく笑っていた。
その笑顔が横顔からでも分かるほど柔らかくて、
透の胸の奥がじんわりと温かくなった。

商店街を抜けた先の、
少し道幅の狭くなった通りに差し掛かった時だった。

「おい、井上ぃ」

粗野な声が響いた。
見ると、道の端で数人の不良らしき少年たちが、
一人の大柄な生徒を取り囲んでいた。
孝太だった。
学校の制服とは違う、
近隣の別の中学か高校の生徒たちらしい。
孝太は俯いたまま、
何も言い返せずに立ち尽くしていた。

「金貸せって言ってんだろ、デブ」

一人が孝太の胸ぐらを掴み、乱暴に壁に押し付けた。
周囲を歩いていた通行人たちは、
関わり合いになりたくないとばかりに
足早に通り過ぎていく。
美希たちのグループも異変に気づいたようで、
足を止めていた。

「孝太くん……」

美希が小さく呟くのが、
少し離れた場所にいる透の耳にも届いた。
その声には、単なる同情以上の
――かつての幼馴染への、
複雑な感情が滲んでいるように透には感じられた。

美希の友人の一人、活発な男子生徒が
「おい、やめろよ!」と声を上げて割って入った。
だがそれは、火に油を注ぐ結果にしかならなかった。

「あぁ? お前も一緒にしばかれてぇのか?」

不良の一人が乱暴にその男子生徒を突き飛ばした。
バランスを崩した彼は、後ろによろめき
――その勢いのまま、
すぐ近くに立っていた美希にぶつかった。

「きゃっ!」

小さな悲鳴とともに、美希の身体が大きくよろめいた。
そしてそのまま、彼女は歩道の端から車道へと、
為す術もなく飛び出してしまったのだ。

その瞬間、少し離れた交差点の向こうから、
大型トラックが速度を緩めることなく
近づいてきているのが見えた。
運転手はまだ美希の姿に気づいていない。
誰もが息を呑み、身体が硬直する中で
――一秒にも満たないその刹那、
透の身体だけが勝手に動いていた。

何も考えていなかった。
頭の中で損得を計算する余裕など、一片もなかった。
ただ、目の前で光が消えようとしている。
それだけは、絶対に阻止しなければならない
という衝動だけが、透の全身を突き動かしていた。

「美希さん!!」

自分でも聞いたことのないような叫び声を上げながら、
透は車道へと躍り出た。
渾身の力で美希の身体を歩道側へ突き飛ばす。
柔らかな身体の感触が両手に伝わり、
美希の悲鳴とも安堵ともつかない声が
耳をかすめた瞬間
――透の視界いっぱいに、
巨大なトラックのフロントガラスが迫っていた。

轟音。

それが、透の意識にはっきりと残っている
最後の記憶だった。

衝撃は、痛みとして認識される暇すらなかった。
ただ、身体という重い枷から、
ふっと軽くなったような、奇妙な浮遊感があった。
周囲からは悲鳴、怒号、誰かが電話をかけている声、
遠くから近づいてくるサイレンの音
――それら全てが、
まるで水中で聞いているかのように、
くぐもって遠かった。

透は、いつの間にか自分自身の身体を、
少し離れた場所から見下ろしていた。
アスファルトの上に横たわる、ちぎれかけた手足。
夥しい量の血だまり。
それが自分の身体だと理解するのに、
不思議なほど時間がかかった。
ああ、僕は死ぬんだな。
妙に冷静な心地で、透はそう思った。
恐怖はなかった。
ただ、美希さんが助かったなら、それでいい
――そんな満ち足りたような感覚だけが、
魂の中心にぽつりと灯っていた。

だが、透の魂はまだ、はっきりとした輪郭を保っていた。

消えていく気配はない。
ただ、身体という錨を失った魂は、
行き場を探すように、ふわふわと宙を漂っていた。

そして、不意に
――強い力で、何かに引かれる感覚があった。

抗う間もなく、透の意識は光の奔流に呑まれ、
次に気づいた時には、消毒液の匂いがする、
見知らぬ病室の中に立っていた。

ベッドの上には、
酸素マスクをつけられた孝太が横たわっていた。
心電図のモニターが、不安定なリズムを刻んでいる。
そしてそのベッドの傍らに、今にも消え入りそうな、
淡く儚い光を纏った孝太の魂が、
ぽつんと浮かんでいた。

「あ……」

孝太の魂が、透の魂に気づいて小さく声を漏らした。
その声には、驚きよりも、
どこか安堵にも似た響きがあった。

「透くん……」

孝太の魂が、透の名を呼んだ。
声には、この状況にそぐわないほどの
穏やかさがあった。

「君は、まだそんなに薄くなってない。
僕とは違うんだね」

透は自分自身の状態がどうなっているのか、
はっきりとは分からなかった。
ただ、孝太の魂が纏う光が、瞬く間にも儚く揺らぎ、
輪郭が滲むように薄れていくのが見えた。
まるで、水面に落ちた墨が、
少しずつ水に溶けて消えていくように。

「孝太……くん。これって……」

「うん。僕は、もう長くない。
分かるんだ、自分でも」

孝太は、それを告げる声にすら、
恐怖の色を滲ませなかった。
むしろ、どこか達観したような、
静かな微笑みさえ
浮かべているように透には感じられた。

「僕の身体、さっき止まりかけたんだ。
ずっと調子が悪かったのは知ってた。
中学の頃から、甘いものばっかり食べて、
運動もしなくて……医者に何度も注意されてたのに、
聞かなかった。だから、こうなったのは、
自業自得なんだと思う」

淡々と語る孝太の言葉には、自嘲の響きはあっても、
後悔の悲愴さはなかった。
まるで、とうに答えの出た問いを、
確認するように口にしているだけのようだった。

「でも透くんは違う。
トラックに轢かれて、あんなに酷い怪我をしたのに、
魂はまだしっかりしてる。
僕よりずっと力が強いみたいだ」

透は言葉を失っていた。
自分の魂の状態など、実感として分かるはずもない。
ただ、孝太の言わんとしていることの輪郭だけは、
朧げに掴めてしまっていた。

「だから、透くん。僕の身体、使ってくれないか」

案の定、孝太はそう告げた。
あまりにも真っ直ぐな眼差しで。

「……っ、そんなの、駄目だよ!」

透は思わず声を荒げた。
自分の魂にどれほどの力があるかは知らない。
だが、そんな理由で、他人の身体を
――友人でもなかった、ただのクラスメイトの身体を、
譲り受けるなど、あまりにも虫が良すぎる。
おこがましいにも程がある。

「孝太くんは、諦めちゃ駄目だ。
まだ頑張れるはずだよ。
僕なんかより、ずっと……」

「透くん」

孝太は、透の言葉を静かに遮った。
その声には、これまでにない強さがあった。

「僕はもう、無理なんだ。
自分の身体のことだから、分かる。
心臓が、限界なんだよ。
透くんがどれだけ僕を励ましてくれても、
この事実は変わらない」

その言葉には、抗いようのない実感が込められていて、
透は喉の奥に何かが詰まったように、
それ以上何も言えなくなってしまった。

「僕はもういいんだ」

孝太は繰り返した。
まるで自分自身に言い聞かせるように。
そして、少し間を置いてから、
透をまっすぐに見つめて続けた。

「ただ、ひとつだけ、お願いがある」

「……なに?」

「生き返ったら――僕の身体で、
頑張って美希さんと付き合ってくれ」

透は、耳を疑った。
予想もしていなかった言葉に、
思考が一瞬止まる。

「透くんも、美希さんが好きなんだろう? 
見てれば分かるよ。
いつも、遠くからずっと美希さんのこと目で追ってた」

孝太は、少しだけ悪戯っぽく口角を上げた。
その表情は、消えかけている魂だとは思えないほど、
少年らしい生き生きとしたものだった。
透は頬が熱くなるのを感じながらも、
誤魔化す気にはなれなかった。

「……孝太くんも、美希さんのこと、好きなんだね」

透がそう返すと、
孝太は一瞬、驚いたように目を見開いた。
そして、ふっと表情を緩めた。

「そうだね。……小さい頃からずっと、好きだった」

その声は、これまでで一番静かで、
そして一番重かった。

「幼稚園の頃から一緒にいてさ。
美希さんの家族とも仲良かったし、
毎日一緒に学校行って、毎日一緒に帰って……
小学生の頃なんて、将来結婚しようねなんて、
指切りしたこともあったんだ。
今思えば、子供の約束だったけどさ」

孝太の声に、初めて微かな震えが混じった。

「でも、僕、駄目だったんだ。
中学に上がってから、家のこととか色々あって……
気づいたら、食べることでしか、
自分を保てなくなってた。
分かってたんだよ、太っていくたびに、
美希さんが困った顔するの。
距離を置かれてるのも、気づいてた。
でも、どうしようもなかった」

透は、何も言えなかった。
ただ、孝太の言葉の一つひとつが、
これまで見てきた孝太の後ろ姿
――購買のパンを黙々と頬張る姿、
体育の授業で一人遅れて走る姿、
美希たちのグループを遠くから見つめる、
あの寂しげな横顔
――と、静かに重なっていった。

「もう、僕の気持ちは、成し遂げることができない」

孝太は、透の目をまっすぐに見て言った。

「だから、透くん。
美希さんを好きな透くんに、僕の気持ちも、
身体と一緒に受け継いでほしい。
美希さんを好きな透くんなら、適任だと思うんだ」

孝太は笑って言った。
だが、透にはその瞳の奥に、
確かに光る涙のようなものが見えた気がした。
透の胸が、押し潰されるように痛んだ。

「そんな……そんなの、あんまりだよ」

透の声は震えていた。
孝太が背負ってきたものの重さを思うと、
簡単に頷くことなどできなかった。
だが、孝太は静かに首を振った。

「あんまりじゃないよ。
透くんになら、託せる。
僕になって美希さんにアプローチするなんて、
正直、マイナスからのスタートに
なっちゃうと思うけど……
それでも、頑張ってほしい」

孝太は、透に向かって手を差し出した。
淡く光る、今にも消えそうな手だった。
透は震える手で、それを握った。
触れた瞬間、不思議な温もりが
伝わってくるような気がした。

その時にはもう、孝太の輪郭は端の方から
粒子のように解け始めていた。
淡い光の粒が、静かに空気に溶けていく。

「じゃあ――後は、任せたよ」

その言葉を残し、
孝太の魂は、穏やかな微笑みを最後に、
光の中へと完全に溶けて消えていった。

「孝太くん……!」

透は叫んだが、答えはもう返ってこなかった。
ただ、静かな病室に、
心電図の平坦な電子音だけが響いていた。
透の頬を、涙が伝った。
誰かの死を、
これほど近くで見送ったのは初めてだった。
それも、自分のために命の続きを譲ってくれた人の、
最後の瞬間を。

悲しみと、感謝と、
そしてこれから背負うことになる責任の重さが、
透の魂の中で渦を巻いた。
だが、いつまでも立ち尽くしているわけには
いかなかった。
孝太が最後に託してくれたものを、
無駄にするわけにはいかない。

透は、ベッドに横たわる孝太の
――これから自分の身体となる、その身体に、
静かに引き寄せられていった。
まるで、暖かい布団に潜り込むような、
奇妙な感覚だった。
視界が暗転し、意識が急速に何かに吸い込まれていく。

そして、次の瞬間。

「――っ、ぅ……」

重い瞼を、ゆっくりと持ち上げた。

蛍光灯の白い光が、やけに眩しく目に染みた。
指先が痺れたように重い。
身体中の細胞が軋むような、鈍い疲労感があった。
だが、それは確かに「自分の身体」
としての感覚だった。
心臓の鼓動が、耳の奥で鈍く響いている。

目を覚ました瞬間、視界がぼやけていた。
それが涙のせいだと気づいたのは、
少し経ってからだった。

「孝太……君の分まで、頑張るから……
見ててくれよな……」

掠れた声で、誰にともなく、そう呟いた。
窓の外には、憎らしいほど美しい、
澄み渡った青空が広がっていた。
孝太が最後に見ることのできなかった空。
透は、いや、これから井上孝太として
生きていくことになる少年は、
その青空に向かって、静かに誓いを立てた。

以降 続く
 

 

夜、艦艇クラブの狭い個室に戻った秋山は、
なかなか寝付けなかった。

天井を見つめながら、今日見た光景を反芻する。
タンカーの腹の中に広がっていた巨大なドック。
青白い照明に照らされたプールに浮かぶ、
まるで猛禽類のような流線形の艦体。
ワンマンサブマリン
——正式名称はまだ聞いていないが、
あの小片という男は「プロトタイプ通称『隼』です」
とだけ言っていた。

秋山は自分の左腕を見た。
今日、艦に乗り込む前に簡単な問診と採血をされた。
適合検査だと小片は言っていたが、
何に適合するための検査なのか、
詳しい説明はなかった。

——気にしすぎだ。明日になれば分かる。

そう自分に言い聞かせて、
秋山はようやく浅い眠りに落ちた。

***

翌朝、七時。
秋山はタンカーの一室——正確には
「ブリーフィングルーム」と呼ばれる、
艦内にしては不釣り合いなほど近代的な部屋に呼ばれた。

壁一面のモニターに日本列島の地図が映し出されている。

上官と小片、そしてもう一人、初めて見る顔があった。
四十代半ばと見える、目つきの鋭い女性だった。

「防衛装備庁の担当官、白石です」
と彼女は名乗った。

「今日からあなたの直属の連絡窓口になります」

秋山は敬礼した。
「三等海曹、秋山真一です」

「知っています」
白石は淡々と言った。

「たいげい型での勤務評定、優秀ですね。
特に単艦での長時間潜航時のストレス耐性が
高評価でした。
今回あなたが選ばれた理由の一つです」

秋山は驚いた。
自分の勤務評定がこんなところにまで
届いているとは思わなかった。

「本題に入ります」
白石がモニターを操作すると、
地図上に赤い航路線が表示された。
日本列島をぐるりと囲むような曲線
——そこから太平洋を横断し、
ハワイへと伸びる長い線。

「本日午前十時、隼はこのタンカー
——コードネーム『母船』から発進します。
まず日本列島を周回し、
各地の海上自衛隊基地付近を潜航通過。
これは艦の秘匿性と、味方のソナー網に対する
探知回避性能を試すテストです。
その後、そのまま浮上せず、
太平洋を横断してハワイの真珠湾に向かいます」

「浮上せず、ですか」
秋山は思わず聞き返した。

「片道どのくらいの日数を?」

「約十二日の予定です。
休憩は自動操縦モードに任せて構いません。
ただし——」

白石はここで一度言葉を切り、秋山をまっすぐ見た。

「今回のテストの本当の目的は、
艦そのものの性能実証だけではありません。
長期間、たった一人で外部との接触を
最小限にした環境で、人間がどこまで
正常な判断力を維持できるか。
そのデータ取得も含まれています」

秋山の背筋に、冷たいものが走った。

「つまり……俺自身も試験の対象、
ということですか」

「その通りです」
白石は表情を変えずに答えた。

「不安であれば、今なら辞退できます」

沈黙が部屋を満たした。
秋山は昨夜の自分の緊張と興奮を思い出した。
重要な任務だと思っていた。
だが、想像していたよりも
さらに重い意味を持つ任務だったらしい。

——それでも。

「辞退はしません」
秋山は言った。

「やらせてください」

上官が初めて口を開いた。
「よく言った。お前ならやれると思っていた」

小片が微笑んで手を叩いた。
「では、艦を案内しながら操作を教えていきましょう。
時間はあまりありませんが、
隼の操縦系統は
直感的に設計されていますのでご安心を」

***

隼のコックピットは、
秋山が想像していたよりもはるかに狭かった。
たいげい型の発令所とは比較にならない。
中央に一つのシート、
それを取り囲むように配置された
複数の曲面ディスプレイ。
まるで戦闘機のコックピットと
潜水艦の発令所を融合させたような空間だった。

「基本操作はこのメインコンソールで全て完結します」
小片が説明する。

「音響、航法、機関、武装、通信
——全てAIがサポートしますので、
あなたは『判断』に集中していただければ結構です」

シートに座った秋山は、ヘッドセットを装着した。
視界の端に情報がオーバーレイされる。
心拍数、酸素濃度、艦の姿勢角、周辺海域の水温分布
——膨大な情報が瞬時に整理されて表示される。

「乗り心地はどうですか」
小片が尋ねた。

「……思っていたより、静かです」

「防音と制振には特に力を入れています。
あなたが十二日間、正気を保てるように、ね」

その言葉に小片自身も少し苦笑いを浮かべた。
冗談なのか本音なのか、
秋山には判断がつかなかった。

十時。
母船のドックが開き、海水がプールに流れ込み始めた。
艦体がゆっくりと浮き上がる。

「秋山三曹」
通信越しに上官の声が聞こえた。

「無事任務を完遂し、必ずハワイで会おう」

「了解しました」

隼のハッチが閉まり、艦内に静寂が満ちた。
メインディスプレイに表示された文字——

『潜航準備完了』

秋山は一度深呼吸をし、操縦桿に軽く手を添えた。

「隼、潜航開始」

艦体が静かに水面下へと沈んでいく。
窓の外——正確にはカメラ映像だが
——に映る光は徐々に青みを増し、
やがて完全な闇に包まれた。

長い航海の始まりだった。

(以降 続く)
 

 

 

# 勇者メントと聖剣の子ら

## 第一章 異邦人という幻想

 前線は、また後退した。

 三つ目の王国が地図から消えたという報せが
人類国家連合の本部に届いたとき、
誰もそれを驚きとして受け止めなかった。
驚きとはまだ希望が残っている者だけが抱く感情であり、

この十年で人々はその贅沢を使い果たしていた。
魔族軍は数において人類を圧倒的に凌駕していた。
彼らの繁殖力は人類の比ではなく、
一つの村が滅びる速度で一つの部隊が生まれてくる
とさえ言われた。
連合軍の将たちは地図を睨みながら、
いつも同じ結論に辿り着く。
数では勝てない。
個で覆すしかない。

 そしてその「個」こそが、メントだった。

 初めて彼が戦場に姿を現したのは、
王国の一つが陥落する寸前、
絶望が兵たちの喉元まで這い上がっていた夜だった。
誰も彼がどこから来たのかを知らなかった。
名乗るときも、彼はただ「メントだ」とだけ言った。
姓もなく、故郷を語ることもなく、
まるで生まれたときから戦場に立つことだけが
定められていたかのように、
彼は魔族軍の中核へと単身斬り込み、
指揮官級の魔族を三体、瞬きの間に屠ってみせた。

 その日を境に、人類側の戦況は変わった。

 メントの剣は、人間のものではなかった。
速さも、力も、
そして何より「迷いのなさ」が異様だった。
歴戦の剣士たちでさえ一撃を放つ前に
僅かに呼吸を整える。
だがメントにはその溜めがない。
まるで最初から結果を知っている者のように、
彼の剣は最短距離を通って敵を斬り伏せる。
魔法使いたちも彼の魔力量を測ろうとしたが、
測定器はことごとく振り切れ、
やがて誰も測ろうとしなくなった。

 人々は最初、彼を「神が遣わした加護を受けし者」
と呼んだ。
だが戦いを重ねるうちに、
その呼び名は少しずつ違う響きを帯びていった。

 この世界には、古くから伝わる言い伝えがあった。
滅多に起こることではないが、
極稀に、この世界に生まれ育ったはずのない者が現れる。

冒険者になったばかりだというのに
凶暴な魔獣を一撃で沈める少年。
名もなき村娘だったはずが、ある日突然、
強大な敵から弱者を救い、
英雄と呼ばれるようになった女。
彼らには共通して、この世界の常識では説明のつかない
「なにか」があった。
技術ではなく、経験でもなく、
まるで魂そのものに刻まれた異質な強さ。
人々はそういう者たちを指して「異邦人」と呼んだ。
すなわち、別の世界から、
なんらかの理由でこの世界に渡ってきた者たち
――転移者、あるいは転生者。

 酒場で、教会で、兵舎で、
噂は少しずつ形を変えながら広まっていった。

「メント様は、故郷の話を一切なさらない」

「見たか、あの剣捌き。人間業じゃない。
まるで何百年も剣を振ってきたかのようだ」

「そういえば、この間の会議でも、
この世界の貨幣の価値を知らなかったと聞いたぞ」

「あの人、絶対に異邦人だ。
俺たちを助けるために、神様が遣わしてくれたんだ」

 誰も彼の正体を確かめようとはしなかった。
確かめる必要がなかったのだ。
魔族軍の侵攻という抗いようのない絶望を前にして、
人々が必要としていたのは真実ではなく、
縋ることのできる物語だった。
異邦人――どこか遠い世界から来た、
この世界の理から外れた強者。
その物語は、崩れかけた人類の心を繋ぎ止めるための、
最後の柱になった。
教会はいつしか彼を「導きの異邦人」と呼び、
子供たちは彼の武勇伝を寝物語にせがむようになった。
誰も彼が笑うところを見たことがなかったが、
それすらも「異邦人だから、
この世界の感情の機微とは違うのだろう」
という都合のいい解釈で片付けられた。

 だが、その称賛の輪から
一歩離れた場所に立っていたなら、
奇妙な違和感に気づいたはずだった。

 メントが救ったのは、常に「戦線」だった。
彼が救ったのは、崩壊しかけた防衛線であり、
陥落寸前の砦であり、
絶望に沈みかけた兵たちの心だった。
彼は決して、個人を、村を、家族を救わなかった。
彼の剣が届く範囲はいつも、
人類という種全体の均衡を保つために必要な、
最小限の一撃だけだった。

 それはまるで、彼が「介入してよい範囲」を、
あらかじめ誰かに定められているかのようだった。

 実際、その通りだったのだ。

 メント。
それは彼の本当の名ではなかった。
正確には、ジャッジメント――裁定者。
この世界を俯瞰し、時に手を加える者
――人々が神と呼び、ある種の存在たちが
ゲームマスターと呼ぶ者から遣わされた、
介入のための執行者だった。
彼の役目はただ一つ。
崩れかけた天秤を、滅びない程度に支え続けること。
人類を勝たせることではない。
人類が「戦う気力」そのものを失い、
静かに絶滅していくことを、防ぐこと。

 そして皮肉なことに、彼を「異邦人」と呼び、
遠い世界からの来訪者だと称賛していた人々自身の中に
こそ、本物の異邦人
――かつて別の世界から渡ってきた転生者や転移者
――が、数多く紛れ込んでいたのだった。

 彼らはこの世界に来た当初、
確かに規格外の力を持っていた。
だが平和な時代が続くうちに、
その力を使う機会もないまま日々は流れ、
いつしか前世の記憶は輪郭を失い、
自分が異邦人であるという事実そのものが、
深い眠りの底に沈んでいった。
今の彼らは、ただの村人であり、ただの商人であり、
ただの兵士だった。
魔族軍が村に攻め込んでも、
彼らの多くは自分の中に眠る力に気づかぬまま、
逃げ惑い、あるいは膝をつき、
そしてただの人間として命を落としていった。

 力があるのに、使われない。
 使われないまま、殺されていく。

 その光景を見かねた「上位の意思」が、
均衡を取り戻すために送り込んだのが、
メント――ジャッジメントだった。
彼の役目は、剣で敵を屠ることだけではなかった。
本当の目的は、人類という種そのものに、
もう一度「己の力を信じて戦う」
という原初の気概を思い出させることにあったのだ。

---

## 第二章 弔い合戦の刃

 メントの活躍によって前線が押し返されるたび、
人々は歓喜に沸いた。
だがその歓喜は長くは続かなかった。
魔族軍は数に飽かせて再び侵攻を開始し、
押し返されたはずの前線は、
数ヶ月もすればまた同じ場所まで後退する。
人類軍はいつしか、勝利という言葉を
「メントが救ってくれること」
と同義に扱うようになっていた。
彼が前線に立てば安堵し、
彼が別の戦場に呼ばれれば恐怖に震える。
その依存は、
まるで麻薬のように連合軍全体を蝕んでいた。

 そんな閉塞した戦況の中に、
ひとつの噂が駆け抜けた。

「新人だけの冒険者パーティが、
単独で魔族軍の分隊を壊滅させた」

 最初は誰も信じなかった。
連合軍に登録されたばかりの、
ランクで言えばまだ下から数えたほうが早い
新米の四人パーティだという。
だが噂は一度きりでは終わらなかった。
二度、三度と、
彼らは無謀としか言いようのない戦場に飛び込み、
そのたびに信じがたい戦果を持ち帰った。

 剣士ケン。
魔法使いリュウ。
盾役ダイテツ。
神官マリア。

 四人は元々、辺境にある小さな村の出身だった。
冒険者になるという幼い頃からの夢を叶えるために、
彼らは連れ立って大都市へと旅立った。
仲間で励まし合いながら見習いとしての手続きを終え、
これからだ、と笑い合った、
その翌日――故郷の村は、
魔族軍の急襲によって地図から消えた。

 連絡が取れないことを不審に思い、
伝令を頼んで確認を取ったとき、
四人が受け取ったのは「
村落、消滅。生存者なし」という、
たった八文字の報告書だった。

 ケンは、その報告書を握りしめたまま、
しばらく声を出せなかった。
育ての親も、幼馴染も、
生まれてから十八年間の記憶のすべてが
積み重なっていた場所が、
報告書のたった一行に圧縮されて、
もう存在しない過去になっていた。
リュウは村で唯一、魔法の才を見出してくれた
老魔導師の顔を思い出し、
涙も出ないまま拳を壁に叩きつけた。
盾役を志したダイテツは、
村の誰も守れなかった自分の非力さを呪った。
彼が本当に守りたかったのは、
まだ見ぬ戦場の誰かではなく、
故郷の幼い妹だったのだ。
神官マリアだけが、四人の中で唯一、
祈ることを知っていた。
だがその祈りは、慰めにはならなかった。
彼女はただ、怒りを鎮めるためだけに、
聖典の言葉を繰り返し唱え続けた。

 四人は、その夜のうちに人類軍への参加を決めた。
誰からも止められることはなかった。
むしろ止める者などいなかった。
新人の彼らを気に留める余裕が、
今の人類軍にはなかったからだ。

 だが、それが彼らにとっては幸いだった。

 「お前たちはまだ新人だ」

「その装備でその戦場は無謀すぎる」
――誰もそんな忠告をしなかった。

誰も彼らの実力を測ろうとせず、
誰も彼らに「身の程」を教えなかった。
だからこそ彼らは、
自分たちが新人であるという自覚を持たないまま、
故郷を焼いた魔族軍そのものへの復讐心と、
四人で必ず生き延びるという情熱だけを頼りに、
誰も行かないような激戦区へと自ら志願し続けた。

 初陣は、廃村となった集落を占拠した
魔族の哨戒部隊への奇襲だった。
本来ならベテラン部隊が慎重に時間をかけて
叩く規模の敵だったが、
ケンたちにはその「慎重さ」
という発想そのものがなかった。
ケンは剣を握った瞬間、故郷の光景を思い出し、
迷いなく前線の魔族に斬りかかった。
リュウは詠唱の省略という、
本来なら魔力暴走の危険を伴う荒業を
平然とやってのけ、圧倒的な火力で敵の陣形を崩した。
ダイテツは仲間を守るという一点においてのみ、
自分の身体が壊れることを一切恐れなかった。
そしてマリアの回復魔法は、
通常の神官が使うそれより明らかに濃度が高く、
まるで「絶対に誰も死なせない」
という意志そのものが
力に変換されているかのようだった。

 その戦いは、圧勝に終わった。

 次の戦いも、その次の戦いも、結果は同じだった。
周囲のベテラン冒険者たちは彼らを
「無謀な新人」と呼び、眉をひそめながらも、
その快進撃から目を離せなくなっていった。
誰かが彼らに戦い方の常識を説こうとしても、
ケンたちの答えはいつも同じだった。

「俺たちは、負ける想定をしていない」

 その言葉は、単なる若さゆえの蛮勇には
聞こえなかった。
彼らの戦いぶりには、常識では説明のつかない
「何か」が、確かに宿り始めていたのだ。

 ――なぜ、まだ新人であるはずの彼らが、
これほどまでの快進撃を続けられるのか。

 その答えを、当の本人たちはまだ知らなかった。

(以降 続く)

 

第三百五十七弾「夢を重力へ変えた男」

同じあらすじを別のAIで小説化した作品です

 

# 反重力の夢

 大熊健吾が初めて「かっこいい」
という感情を覚えたのは、
五歳の誕生日に祖父から買ってもらった
一本のビデオテープがきっかけだった。
画面の中で銀色の巨大な機体が夜空を切り裂き、
敵の軍勢を薙ぎ払っていく。
操縦席に座る主人公の凛々しい横顔に、
幼い健吾は瞬きも忘れて見入っていた。
それ以来、健吾の部屋には
ロボットのプラモデルが並び、
彼の将来の夢を聞かれれば迷わず
「ロボットに乗る人になる」と答えるようになった。

 その夢が単なる憧れから
具体的な目標へと変わったのは、
中学に上がって物理の授業を受け始めた頃だった。
健吾は放課後の図書室に通い詰め、
機械工学や航空力学の入門書を貪るように読んだ。
そして高校二年の夏、
彼はついに自分の夢の輪郭が
どれほど途方もないものであるかを
思い知ることになる。

 二足歩行の巨大人型機を実現するには、
まず自重を支えるだけの構造強度が必要であり、
その強度を持つ素材は必然的に重くなる。
重くなればなるほど、
それを動かすためのアクチュエータの出力が要求され、
出力を上げれば消費エネルギーが跳ね上がる。
そのエネルギーを供給する動力源を
機体内部に収めようとすれば、また重量が増す。
この悪循環——スケーリング則という壁が、
巨大ロボットという夢の前に立ちはだかっていることを、

健吾は数式とグラフの上で突きつけられたのだった。
彼は何日も悩み、それでも「乗る」という夢
そのものは諦めきれなかった。
ならば、人間の身体そのものを拡張する方向はどうか。
健吾の思考はそこで一つの結論に辿り着く。
パワードスーツだ。

 人が着る機械。自分の骨格の外側に力を与える鎧。
これならば、自重を支える問題は根本的に軽減される。
健吾は方向転換を決意し、大学では機械工学科に進んだ。

研究室では外骨格型の補助装置
——いわゆるエクソスケルトンの研究が
既に世界中で進められていることを知った。
介護や医療、あるいは重労働の現場での
実用化を目指したそれらの多くは、
リチウムイオン電池とモーターを組み合わせた
電動式だった。
健吾自身もまず電動式のプロトタイプを組んでみて、
その限界をすぐに悟った。

 バッテリーはどこまでいっても重く、稼働時間は短い。
歩行や作業程度の補助ならばそれで十分だろう。
しかし健吾が思い描いていたのは、
あの少年時代に夢見たロボットの延長線上にあるもの
——大空を自在に飛翔する姿だった。
地上を歩くだけの鎧に、健吾は満足できなかった。
飛ぶためには、桁違いの出力密度が要る。
既存のモーターと電池の組み合わせでは、
逆立ちしても届かない領域だ。

 健吾は大学院に進むと同時に、
独自の動力機関の研究に没頭し始めた。
ジェットエンジン、ロケットエンジン、
燃料電池、超伝導フライホイール—
—ありとあらゆる既存技術を検討しては、
そのどれもが「人が着て飛ぶ」という要求に
応えきれないことを確認していく作業の連続だった。
研究室に泊まり込む日が増え、
指導教員からは「もっと現実的なテーマにしろ」
と何度も苦言を呈された。
それでも健吾は聞く耳を持たなかった。
彼のノートには、誰にも理解されない
独自の理論の断片が、
日を追うごとに積み重なっていった。
既存の枠組みにとらわれない、
まったく新しい原理による機関
——その漠然としたビジョンだけを頼りに、
健吾は来る日も来る日も机に向かい続けた。

 同期たちが就職活動に精を出す中、
健吾は研究員としてそのまま大学に残る道を選んだ。
給料は安く、生活は苦しかった。
友人からは「いい加減夢から覚めろ」
と半ば呆れたように言われることもあった。
それでも健吾の中で、
あの五歳の日に見た銀色の機体への憧れは、
少しも色褪せることがなかった。

***

 運命の日は、健吾が二十八歳になった年の、
ありふれた平日の昼に訪れた。

 前夜も明け方近くまで計算式と格闘していた健吾は、
寝不足のまま昼食を買いに
大学近くのコンビニへと向かっていた。
頭の中では相変わらず未解決の方程式が渦を巻いており、

半分眠ったような足取りで横断歩道に足を踏み入れる。
信号が青であることは確認していた
——はずだった。
だが記憶は曖昧だ。
次の瞬間、健吾の視界の端に猛スピードで
迫る白い塊が映り、
鈍い衝撃とともに彼の身体は宙に舞った。

 信号無視で交差点に突っ込んできた乗用車は、
健吾の下半身に直接ぶつかった。
アスファルトに叩きつけられた瞬間、
健吾は自分の腰から下の感覚が
唐突に消え失せるのを感じた。
痛みすら、どこか遠い出来事のように感じられた。
救急車のサイレンが近づいてくる中、
朦朧とする意識の中で、健吾は不思議なことに、
恐怖よりも先にある一つの閃きに囚われていた。
車に撥ね飛ばされた瞬間、
彼の身体を包んだあの奇妙な浮遊感
——重力から解き放たれたかのようなあの一瞬の感覚が、
彼の脳裏に一つの数式となって焼き付いていたのだ。
それは彼が長年探し求めていた、
動力機関の核心となる理論の断片だった。

 診断は脊髄損傷による下半身不随。
若き研究者としてのキャリアも、
健常者としての人生も、
その一瞬で大きく塗り替えられてしまった。
病室のベッドの上で、
健吾はしばらく茫然自失の日々を過ごした。
二度と自分の足で歩くことはできない。
そう宣告された時の絶望は、
言葉にできるものではなかった。

 だが、リハビリの合間、
車椅子の上で天井を見つめながら過ごすうちに、
健吾の中であの閃きが再び蠢き始めた。
事故の瞬間に見えた数式—
—それは単なる偶然の産物ではなく、
彼が何年も追い求めてきた理論の
欠けていたピースそのものだったのではないか。
健吾は病室に持ち込んだノートに、
震える手でその断片を書き留め始めた。

 もはや彼の目標は、
少年時代の夢を叶えるためだけのものでは
なくなっていた。
パワードスーツは、健吾自身が再び自分の足で
——いや、自分の意志で立ち、歩き、
走るための唯一の手段になったのだ。
退院後、健吾は大学に戻り、
研究に文字通りの生命を懸けるようになった。

 彼が辿り着いた理論は、
重力そのものを人為的に制御するという、
既存の物理学の常識からすれば
荒唐無稽とも言える発想だった。
時空の歪みを局所的に生成し操作することで、
重力場そのものを発生源として扱う。
電力でモーターを回すのではなく、
重力相互作用そのものをエネルギーへと変換し、
あるいは重力場の勾配を推進力として利用する
——それが健吾の思い描いた
「新しい機関」の正体だった。

 理論を組み上げるだけでも数年を要した。
既存の物理学の枠組みと矛盾しないよう
整合性を取りながら、同時に実験室レベルで
その効果を実証していく作業は困難を極めた。
何度も理論の根幹が崩れかけ、
何度も実験装置が原因不明の暴走を起こして
健吾自身が負傷しかけたこともあった。
それでも彼は歩みを止めなかった。
車椅子の上から実験装置に指示を送り、
失敗しては原因を突き止め、
また一からやり直す。その繰り返しだった。

 事故から三年が経った頃、
ついに小規模な実験装置で、
局所的な重力場の人為的な生成と制御に成功した。
装置の上に置いた小さな金属片が、
電力をほとんど使わずにふわりと宙に浮いた瞬間、
健吾は研究室で一人、声を上げて泣いた。
あの日、アスファルトの上で見た閃きが、
確かに現実のものになった瞬間だった。

 そこからさらに二年。
健吾は理論の精度を高め、
装置の小型化と出力の安定化に心血を注いだ。
半永久的に稼働し続けられる重力制御機関
——外部からのエネルギー供給をほとんど必要とせず、
重力場そのものの相互作用によって稼働し続ける、
彼が思い描いていた究極の動力源。
事故から数えて五年の歳月をかけて、
健吾はついにその完成形を手にすることになった。

***

 完成した重力制御装置を核として、
健吾はパワードスーツの本体設計に取り掛かった。
これまでの電動式エクソスケルトンの知見と、
新たに生み出した重力制御理論を組み合わせることで、
健吾の頭の中にあった理想の姿が、
少しずつ現実の形をとっていった。

 骨格は特殊合金とカーボン複合材による
フレームで構成され、関節部には重力場を利用した
無数の微細なアクチュエータが埋め込まれた。
装着者の筋肉の動きを電気信号として読み取り、
それに追従する形で重力場を操作し、四肢を動かす。
試作機を初めて自分の身体に装着した日のことを、
健吾は生涯忘れないだろう。

 起動スイッチを入れた瞬間、
装置全体がかすかな唸りとともに稼働を始め、
健吾の下半身に力強い
浮遊感にも似た感覚が伝わってきた。
恐る恐る、右足に力を込めるイメージを送る。
すると、五年間動かなかったはずの右足が、
装置の補助によってゆっくりと持ち上がった。
健吾は息を呑んだ。
次に左足。
そして一歩。車椅子から離れ、自分の意志で
——いや、正確には装置を介してではあったが
——一歩を踏み出した瞬間、
健吾の目からは止めどなく涙が溢れた。
研究室の床を、彼はよろめきながらも確かに歩き、
そして次第に足取りを速め、ついには走り出していた。
誰もいない深夜の研究室に、
健吾の荒い息遣いと、装置の駆動音、
そして押し殺しきれない嗚咽とが響いていた。

 だが、健吾の追求はそこで止まらなかった。
彼が本当に実現したかったのは、
単なる歩行補助ではない。空を飛ぶことだった。

 重力制御装置の応用範囲を、
健吾はさらに広げていった。
局所的な重力場を身体の下方に生成し、
自らを地面から押し上げる。
同時に前方への重力勾配を作り出すことで、
推進力を得る。
理屈の上では可能なはずだった。
健吾は背中と両腕、
そして脚部に追加の重力制御ユニットを配置し、
飛行のための実験を重ねた。

 最初の飛行実験は、大学の裏手にある広い空き地で、
深夜にひっそりと行われた。
装置を全身にまとった健吾は、
恐怖と期待の入り混じった感情を抱えながら、
飛行モードへの切り替えスイッチに指をかけた。
起動と同時に、身体全体を強い浮遊感が包み込む。
次の瞬間、健吾の身体は地面から数十センチ、
ふわりと浮き上がった。

「浮いた……」

 誰もいない夜の空き地で、健吾は掠れた声で呟いた。
そこからさらに出力を上げていくと、
身体はぐんぐんと上昇していく。
十メートル、二十メートル、三十メートル
——見る間に地上の景色が小さくなっていく。
恐怖で身体が強張りかけたが、
健吾は歯を食いしばってその感覚を乗り越えた。
これは、彼が五歳の頃から追い求めてきた
景色そのものだったからだ。

 夜空の下、
街の灯りを見下ろしながら、健吾は両腕を大きく広げた。

頬を撫でる夜風、耳元で鳴る風切り音、
そして何より、重力の軛から解き放たれたこの浮遊感。
少年時代に見た銀色の機体のパイロットが
感じていたであろう高揚感を、
健吾はその瞬間、確かに我が身で体感していた。

 それから健吾は、パワードスーツの機能を
さらに拡張させていく。
重力場を操作する技術は、
単に自分の身体を動かすだけでなく、
外部への応用も可能だった。
装置の周囲に高密度の重力場を
薄い膜状に展開することで、
あらゆる物理的な衝撃を吸収・拡散する
防護膜を実現した。
銃弾であれ、鈍器であれ、
局所的に集中した重力勾配が
その運動エネルギーを受け流し、
装着者に届く前に無力化してしまう。
逆に、その重力場を極端に一点へ収束させれば、
対象物に対して強烈な圧縮力を及ぼすことも可能だった。

健吾はこれを「重力砲」とでも呼ぶべき
攻撃手段として実験を重ね、
遠く離れた岩塊を跡形もなく
押し潰すほどの威力を確認した。

 さらに健吾は、この重力制御技術が
宇宙空間においても通用することに気づいた。
真空中でも重力場の生成と操作そのものには問題がない。

呼吸用の酸素さえボンベで確保できれば、
宇宙空間での活動も理論上可能だった。
加えて、防護膜として展開する重力場は、
大気圏再突入時に発生する強烈な摩擦熱をも遮断し、
拡散させることができる。
つまりこのスーツは、地上での歩行から大空の飛行、
そして大気圏を越えた宇宙空間での活動まで、
あらゆる領域をシームレスに繋ぐ、
健吾がかつて思い描いていた
「ロボット」の理想形そのものになっていたのだった。

 完成したパワードスーツを前にして、
健吾は研究室の中で一人、子供のように歓声を上げた。
椅子から立ち上がり、装置を身にまとったまま
研究室の中をぐるぐると走り回り、
時に軽く跳躍しては天井近くまで浮遊してみせる。
長年の苦労、事故による絶望、
そこから這い上がってきた五年間の全てが、
この瞬間に報われた気がした。
窓の外はすでに白み始めていたが、
健吾はその朝日にも気づかぬほど、
ただひたすらに、
自分の手で摑み取った夢の重みを噛み締めていた。

 誰にも打ち明けられなかった孤独な研究の日々。
信じてくれる人などほとんどいなかった歳月。
それら全てを乗り越えて今、健吾は確かに、
五歳のあの日に見た夢の中に、
自らの意志で足を踏み入れていた。

「やった……やったぞ……!」

 誰もいない研究室に響く健吾の声は、
歓喜と、安堵と、
そして深い達成感に震えていた。
彼の物語は、
ここから新たな局面を迎えることになる。

(以降、続く)

 



# 第一話 夢を重力へ変えた男

 大熊健吾が初めて巨大ロボットを見たのは、
まだ五歳の頃だった。

 テレビ画面の向こうで鋼鉄の巨人が空を飛び、
光を放ち、人々を守る。

「すごい……。」

 その一言だけだった。

 幼い健吾は画面に釘付けになり、
放送が終わってもテレビの前から動かなかった。

「大きくなったら何になりたい?」

 保育園の先生に聞かれた時も、答えは決まっていた。

「ロボットに乗る人!」

 周囲は笑った。

 もちろん悪意はない。

 子供らしい夢だったからだ。

 だが健吾だけは本気だった。

 本当に乗るつもりだった。

 小学校へ進学すると図書館で科学の本を読み漁り、
中学では物理や数学に夢中になった。

 高校では工学の専門書まで読み始める。

 そして大学へ進学した頃には、
一つの残酷な事実を理解してしまった。

「巨大ロボットは……現代技術ではほぼ不可能だ。」

 巨大な質量。

 骨格強度。

 関節駆動。

 材料工学。

 熱問題。

 電力供給。

 姿勢制御。

 どれを取っても壁だった。

 歩くだけで莫大なエネルギーが必要になる。

 人型である意味もほとんど無い。

 兵器としても建設機械としても効率が悪い。

 現実はあまりにも非情だった。

 研究室のホワイトボードに書かれた
計算式を見つめながら健吾は静かに呟く。

「夢は……終わりか。」

 その時だった。

 ふと、一冊の資料が目に入る。

『装着型外骨格(Powered Exoskeleton)』

 健吾はページをめくる。

「巨大ロボットが無理なら……。」

 次の瞬間、彼の中で何かが切り替わった。

「人がロボットになる。」

 その一言が全てだった。

 巨大ロボットを諦めたわけではない。

 夢の形を変えたのだ。

「俺自身が乗り物になればいい。」

 それからの日々は研究一色だった。

 大学院。

 企業研究所。

 そして独立。

 誰も理解できないような設計図を何百枚も描き続けた。

 人間の筋肉を補助する人工筋肉。

 軽量フレーム。

 関節制御。

 慣性補正。

 姿勢安定。

 衝撃吸収。

 神経信号制御。

 少しずつ完成していく。

 だが、一つだけどうしても解決できない問題が残った。

 動力だった。

 世の中のパワードスーツは電気で動く。

 大型バッテリー。

 燃料電池。

 内燃機関。

 どれも研究されている。

 しかし健吾は納得しなかった。

「違う。」

 机を叩く。

「これじゃ飛べない。」

 飛べたとしても数分。

 推進剤も必要になる。

 バッテリーは重い。

 出力も足りない。

 熱も発生する。

「俺が欲しいのはヒーローじゃない。」

「自由だ。」

 空を飛ぶ。

 宇宙へ行く。

 世界中どこへでも行ける。

 そんなパワードスーツ。

 そのためには今ある技術では駄目だった。

「だったら……。」

 健吾は決意する。

「動力そのものを作ればいい。」

 そこから狂気にも似た研究が始まった。

 朝。

 起床。

 研究。

 昼。

 研究。

 夜。

 研究。

 深夜。

 研究。

 仮眠。

 また研究。

 研究室の床で寝る生活。

 カップ麺。

 コンビニのおにぎり。

 コーヒー。

 空になったエナジードリンクの缶が山になる。

 ホワイトボードは数式で埋まり、
消しては書き、また消して書く。

 一般相対性理論。

 量子場理論。

 超伝導。

 真空エネルギー。

 重力波。

 ゼロ点振動。

 既存理論では説明できない仮説を何百と立て、
何百と捨てる。

「重力は本当に弱い力なのか?」

「空間そのものを曲げられないのか?」

「慣性と重力は本当に同じなのか?」

 誰にも理解されない独り言を繰り返しながら、
健吾は紙の上に宇宙を書き続けた。

 しかし答えは出ない。

 それでも諦めなかった。

 幼い日の夢だけが彼を支えていた。

 そして、その運命の日が訪れる。

 研究が三日連続徹夜となった昼だった。

 健吾は眠気で視界が霞みながら
コンビニへ向かっていた。

「……腹、減った。」

 信号が青になった。

 歩き始める。

 その瞬間だった。

 耳を裂くようなクラクション。

「危ない!」

 誰かが叫ぶ。

 健吾が顔を上げた時には、
赤信号を無視した乗用車が目の前まで迫っていた。

「え——」

 轟音。

 身体が宙を舞う。

 世界が回転する。

 空。

 道路。

 ビル。

 空。

 道路。

 ビル。

 その一瞬だった。

 衝撃で意識が遠のく中、
不思議なほど頭だけが冴えていた。

「待て……。」

 回転する景色。

 落下。

 重力。

 慣性。

 空間。

 曲率。

 質量。

 ベクトル。

 今まで何年考えても繋がらなかった数式が、
一瞬で一本の線になる。

「そうか……!」

 世界は暗転した。

 目を覚ました時、病室だった。

 医師は静かに告げる。

「……下半身は、もう動きません。」

 健吾は何も言わなかった。

 布団をめくる。

 足を見つめる。

 命令する。

 動け。

 動け。

 動け。

 しかし何も起こらない。

 静寂だけが病室を満たしていた。

 夢は、二度砕け散った。

 それでも健吾は絶望しなかった。

 事故の瞬間に見えた、
あの数式が脳裏に焼き付いていたからだ。

「まだ終われない。」

 車椅子に座ったままノートを開く。

 震える手で書き始める。

 事故の瞬間に閃いた理論。

 空間の局所曲率を制御し、
重力場そのものを人工的に発生・操作するという、
常識外れの発想。

 数式を書き進めるたびに矛盾が見つかり、
修正し、新たな理論を積み上げる。
実験では何度も失敗し、試作装置は発熱して溶け、
センサーは飽和し、計測器は異常値を示し続けた。

 だが健吾は止まらない。

 歩けなくなった身体は、
皮肉にも彼を研究だけに没頭させた。

 車椅子の上が、彼の戦場となった。

 そして五年後――。

 静まり返った地下研究室。

 掌ほどの球体装置が、
無音のまま宙に浮かんでいた。

 支えはない。

 磁石でもない。

 ワイヤーもない。

 それは空間そのものに固定されたかのように、
微動だにしなかった。

「……成功だ。」

 健吾の声は震えていた。

 重力制御装置。

 空間に直接重力勾配を形成し、
外部から燃料を供給せずとも
極めて長期間安定動作を維持できる革新的機関。

 理論上、半永久的な運用が可能。

 世界の物理学を根底から覆す発明だった。

 健吾は笑った。

 静かに。

 やがて声を上げて。

 そして涙を流しながら笑い続けた。

「やった……!」

 その装置を中心に据え、最後の組み立てが始まる。

 漆黒のフレーム。

 全身を包む装甲。

 人工筋肉。

 神経接続。

 姿勢制御。

 重力制御ノズル。

 防護フィールド発生器。

 すべてが一つへと繋がる。

 最後のボルトを締めた瞬間、健吾は静かに呟いた。

「完成だ。」

 夢見続けた飛行型パワードスーツ。

 ついに現実となった。

 震える手でヘルメットを装着する。

 起動。

 電子音が響く。

『神経接続確認』

『人工筋肉同期』

『重力制御装置オンライン』

『全システム正常』

「立つ。」

 命じる。

 装甲が静かに駆動し、
長年動かなかった脚がゆっくりと床を踏みしめた。

 一歩。

 また一歩。

 歩く。

 歩ける。

 やがて駆け出す。

「ははっ……!」

 研究室を走り回る。

 笑いが止まらない。

 そして重力ベクトルを下方へ反転。

 身体がふわりと浮き上がる。

「飛べる……!」

 天井近くまで舞い上がり、滑るように旋回する。

 彼は夢見た空を飛んでいた。

 続けて重力防護膜を展開。

 青白い膜が全身を包み、
試験用の鋼鉄弾が弾かれて床へ転がる。

「完全防御……!」

 さらに照準を合わせ、高重力を一点へ照射。

 厚さ数十センチの鋼塊が、音もなく押し潰され、
紙細工のように圧縮された。

「攻撃能力も問題なし。」

 酸素ボンベを接続し、真空環境試験へ。

 防護膜は気密を維持し、宇宙空間での活動を可能にした。

 さらに大気圏再突入を想定した高熱試験では、
重力防護膜が衝撃波と熱を逸らし、
装甲温度は安全域を維持する。

「宇宙にも行ける……。」

 幼い頃、テレビの前で憧れた光景。

 ロボットが空を飛び、宇宙へ向かう姿。

 その夢は、今、自分自身の身体で実現した。

 健吾は誰もいない研究室の中央で拳を突き上げる。

「やったあああああああああっ!」

 歓喜の叫びが壁に反響する。

 笑い、泣き、飛び、着地し、また飛ぶ。

 子供の頃の夢が、ようやく現実になったのだ。

 しかし健吾はまだ知らない。

 この発明が、やがて世界中の国家と企業、
そして人類の未来そのものを
大きく変えていくことになるとは――。

**(第一話・了 第二話へ続く)**
 

 

# 楽園の代償

## 第一章 選別

 ジュネーブの国連本部、
新設された「秩序監査院」の最上階から
見下ろす街並みは、
十年前と何も変わっていないように見えた。
だが黒沢玲は知っていた。
この十年で、世界の骨格そのものが
作り替えられたことを。

 黒沢は監査官としての辞令を受け取ったばかりだった。

窓の外に広がるレマン湖を眺めながら、
彼女は自分がこれから足を踏み入れる組織の異様さを、
まだ実感として掴めずにいた。

「驚くことはない。誰もが最初はそうだ」

 声をかけてきたのは上司となる監査院長、
ハビエル・モラレスだった。
かつては国際刑事裁判所の判事だった男で、
旧国連の腐敗を
誰よりも憎んでいた人物だと聞いている。

「私が入省した日、最初に渡されたのはこれだ」

 モラレスが差し出したのは薄い契約書だった。
黒沢はそれを受け取り、目を通す。

 ――本職員は、勤務時間の内外を問わず、
常時、行動・通信・資産の
監視対象となることに同意する。
この監視を拒否する権利はない。
拒否した時点で採用は取り消され、
以後の応募資格を永久に失う。

「これに同意した瞬間から、
あなたのプライバシーという概念は消える。
異論は?」

 黒沢は少し間を置いてから、首を横に振った。

「ありません。むしろ――安心します」

 モラレスは初めて小さく笑った。

「そう言える人間しか、ここには残っていない」

 旧国連時代、職員の汚職や利益供与は
日常茶飯事だった。
母国で強権を振るい、
汚職まみれの経歴を持ちながら
国連の要職に収まっていた者。
大企業や特定国家のロビイストと化し、
決議の草案を裏で書き換えていた者。
人道支援の名目で集めた資金の一部を
私的に流用していた者。
改革の初年度だけで、旧職員の七割が解任され、
そのうち百二十名以上が
母国あるいは国際法廷で訴追された。

 「人は弱い」とモラレスは言った。

「権力を持てば、必ず誰かがそれを悪用しようとする。
性善説に立って組織を作れば、
性善説を裏切る人間から先に食い荒らされる。
だから我々は前提を変えた。
人間は放っておけば堕落する生き物だと定義し、
その堕落を許さない仕組みを先に作った。
監視は職員を縛るためではない。
職員を、職員自身の弱さから守るためのものだ」

 黒沢はその言葉を、
皮肉ではなく本気の哲学として理解した。
実際、
この十年で秩序監査院から出た不祥事はゼロだった。
断れる者は最初から採用されず、
残った者は監視という檻の中でしか
清廉を保てないと自覚した上で、
それでもここで働くことを選んだ人間たちだった。

 窓の外、湖畔を歩く市民たちは穏やかに見える。
だがその穏やかさの土台には、
常任理事国という特権階級が解体され、
いかなる大国であろうと
国境を越えて武力を行使すれば
例外なく制裁を受けるという、
単純だが徹底された原則があった。
ロシアと中国はその原則を受け入れられず、
脱退という道を選んだ。
世界は事実上二つに分かれた。
それでも新国連は
理不尽に膝を屈することを選ばなかった。

 モラレスが続けた。

「今日、あなたに担当してもらう案件がある。
第七地区、旧フランス領内での事案だ。
国外追放命令に対する異議申し立てが出ている」

「異議、ですか。でも――」

「そう、拒否権はない。それは知っているね」

 十年前に可決された国際準拠法
――通称「均一遵守法」は、
加盟国が定めた最低限の国際基準を
国内法として受け入れられない国、
あるいは個人に対し、
国外追放を強制する権限を国連に与えていた。
かつてなら、主権国家の内政干渉だと
非難囂々だっただろう。
だが均一遵守法の対象は、
あくまで「人権の根幹に関わる基準」
――拷問の禁止、恣意的処刑の禁止、
少数者への組織的迫害の禁止といった、
議論の余地が本来ないはずの基準に限定されていた。
それでも、それすら受け入れられない、
あるいは受け入れるふりをして
裏で破り続ける政権が、世界にはまだ存在した。

「異議申し立ての内容は?」

「対象は個人だ。国家元首の側近で、
少数民族の強制収容政策を主導した官僚。
国籍剥奪と国外追放が決定しているが、
本人は『自国の司法手続きを経ていない』
と主張している」

 黒沢は資料に目を落とした。
写真の中の男は、
ひどく人の良さそうな微笑みを浮かべていた。

「――彼は、これまで何人を収容所に送ったんですか」

「推定で、四千二百人。
うち生存が確認されているのは半数以下だ」

 黒沢は資料を閉じた。迷いは、なかった。

## 第二章 弁護されない罪

 第七地区の仮設法廷は、
旧市庁舎を改装した簡素な建物だった。
国外追放の異議申し立てを審理するこの法廷には、
傍聴席がほとんどない。
かつてなら世界中のメディアが
押し寄せただろう事件も、
今では静かに、粛々と処理されていく。

 被告人席に座る元官僚
――ゲラルド・ヴァンスの隣には、
疲れた顔をした若い国選弁護人が座っていた。
名前をトマ・デュボワといった。

 黒沢は傍聴席の隅から、彼の弁護を見つめていた。

「被告人は、収容政策の立案に
直接関与した証拠が不十分であり――」

 デュボワの声は小さく、どこか及び腰だった。
無理もない、と黒沢は思う。
弁護士たちが
これほど萎縮するようになったのには理由があった。

 旧時代、凶悪犯罪者を弁護する
「人権派弁護士」たちは、しばしば英雄視されていた。
彼らは巧みな弁論術と手続き上の瑕疵を突く技術で、
明白な証拠がある殺人犯や、
大量虐殺の実行者ですら減刑、
あるいは無罪に導くことがあった。
その裏で、遺族や被害者は「加害者の人権」
という壁の前で、何度も傷つけられた。
裁判が終わるたびに、
彼らは加害者が笑って法廷を出ていく姿を見せられた。

 新国連はこの構造そのものにメスを入れた。
まず、凶悪犯罪の加害者
――確定的な証拠がある場合に限り
――は、指名手配された時点、
あるいは有罪が国際基準で確定した時点で、
人権の一部を法的に喪失するとされた。
生存権や最低限の尊厳は保障されるが、
それ以上の権利、
たとえば「更生の機会」や
「情状酌量」を主張する権利は、
極めて限定的にしか認められなくなった。

 そして何より弁護士に対する規制が、
法曹界を根底から変えた。
凶悪犯罪、特に大量殺人や組織的迫害に対する
弁護において、証拠を意図的に隠蔽したり、
被害者への配慮を欠いた過度な弁論
――たとえば被害者の落ち度を強調する、
あるいは加害者の「更生可能性」を
誇張して裁判官の心証操作を狙うような弁論
――を行った弁護士は、
懲戒だけでなく刑事罰の対象となった。

 この結果、民間の弁護士たちは
凶悪犯罪の弁護からほぼ完全に手を引いた。
割に合わないどころか、
自分自身が処罰される危険を冒してまで、
他人の凶行を弁護する理由がなかったからだ。
凶悪犯の弁護は、
ほとんどが国選弁護人に委ねられることになった。
だがその国選弁護人にすら、
「過度な弁護」の一線は容赦なく適用された。

 デュボワの弁論は、その一線を測りながらの、
綱渡りのようなものだった。
彼にできるのは、
手続き上の瑕疵を指摘することだけで、
ヴァンスの行為そのものを正当化する言葉は、
ひとつも口にできなかった。

「――以上により、
手続きの適正性について再審査を求めます」

 判事は表情を変えずに頷いた。

「申し立ては記録された。
しかし証拠は明白であり、
手続き上の瑕疵は追放命令の効力に影響しない。
判決を維持する」

 ヴァンスは初めて、
それまでの人の良さそうな微笑みを消した。

「ここは私の国だ! 私を生んだ国だ! 
それを、お前たちが勝手に――」

「あなたは、四千二百人から
その『生まれた国での生活』を奪った」

 黒沢は思わず立ち上がっていた。
傍聴席からの発言は本来許されない。
だが誰も彼女を止めなかった。

「彼らにも、家族がいた。帰る家があった。
あなたはそれを、二度と取り戻せない形で奪った。
今さら自分の権利を主張する資格が、
あなたにあると思いますか」

 法廷は静まり返った。
判事は小さく頷き、それ以上何も言わなかった。

 ヴァンスは連行されていった。
国外追放――どの国も彼を受け入れる義務を負わない、
事実上の「行き場のなさ」への追放だった。

 法廷を出たところで、
デュボワが黒沢に声をかけてきた。

「厳しいですね、あなたも」

「厳しい、でしょうか」

 黒沢は少し考えてから答えた。

「更生を信じたい気持ちは、分かります。
でも更生というのは、結局のところ、
まだ被害を受けていない誰かの希望論でしかない。
人は年を取るほど、自分の経験則を手放せなくなる。
ヴァンスのような人間が、
根本から変わることは――ほとんどありません」

「では、変わらない人間はどうすれば」

「排除するしかありません。
それが、四千二百人の家族にとって、
そして次に被害者になり得たかもしれない人々にとって、

唯一誠実な選択だと思います」

 デュボワは何も言わず、ただ黒沢を見つめていた。
彼自身、心のどこかでその言葉を
否定できずにいるように、黒沢には見えた。

 湖からの風が、書類の束をわずかに揺らした。
世界は、まだ完璧ではない。
二つに分かれたままの世界地図が、
それを何より雄弁に物語っている。
それでも黒沢は、この十年で築かれた秩序の中に、
確かな希望を見ていた。
理不尽を許さない、
という単純だが揺るがない意思の中に。
 

今の日本を見ていると

いつこのような事態になっても

おかしくないと思います

 

 

# 万の刃

## 一

最初の犠牲者は、与党の若手議員・北条修一だった。

選挙戦で「消費税減税、断固実行」と
拳を突き上げていた男が、当選後わずか半年で
「財政規律を鑑み、減税は見送る」
と記者会見で頭を下げたのが十一月。
その三か月後、北条は都内の路上で刺殺された。
凶器は事務用のカッターナイフを改造したもので、
刃渡りはわずか五センチ。
それでいて頸動脈を一撃で切り裂く精度は、
素人の仕業とは思えなかった。

現場に居合わせた者は誰も犯人の顔を見ていない。
防犯カメラには、フードを目深に被った人影が
北条に近づき、すれ違いざまに何かをした
――としか映っていなかった。
まるで雑踏に溶けて消える幽霊のように。

二人目は、それから二か月後。
今度は関西選出の重鎮議員、宮田誠一郎だった。
宮田もまた「減税なくして未来なし」
と声高に叫んで当選しながら、
党の方針に従って減税法案に反対票を投じていた。
彼は自宅マンションのエレベーター内で、
何者かに首を絞められて死んだ。
防犯カメラは奇妙なことに、
犯行時刻の前後三分間だけ録画データが欠落していた。

警察庁は「政治テロの疑いあり」として
特別捜査本部を設置した。
だが捜査が進むほど、事件の異様さが
浮き彫りになっていった。
犯行手口がそれぞれ違う。
刃物、絞殺、毒物、
そして三人目に至っては偽装された転落事故
――およそ同一犯の仕業とは思えないほど
手口はばらばらだった。
それでいて共通しているのは、
被害者が皆「公約を裏切った」
あるいは「国民の一部から強い恨みを買っていた」
人物だという点だけだった。

四人目、五人目と犠牲者が増えるにつれ、
標的は政治家だけに留まらなくなった。
難民・移民の受け入れ拡大を強硬に主張していた
NGO代表・柏木恵子が、講演会場からの帰り道に
何者かに背後から刺された。
彼女が主宰する団体は、外国人労働者の
権利拡大を訴え続けてきたが、
同時に地域住民との軋轢――治安悪化への懸念、
既存の福祉制度への圧迫――を軽視してきたとして、
一部からは強い反感を買っていた。

さらに、人件費削減を理由に
日本人従業員を大量解雇し、
その穴を安価な外国人技能実習生で埋めた
製造業大手の社長・堂島隆之が、
自宅の庭先で背後から撃たれた。
銃創の角度から、犯人はプロの射撃訓練を
受けた人物ではないかと推測されたが、
身元につながる手がかりは
何一つ残されていなかった。

警察は指名手配のポスターを全国の交番に貼り、
テレビや新聞で似顔絵を公開した。
だがその似顔絵自体が、事件ごとにまるで別人だった。
ある事件では小柄な男、
別の事件では長身の女性らしき人影、
また別の事件では複数犯とも取れる証言
――捜査本部内部では
「これは単一の組織的犯行ではなく、
模倣犯の連鎖ではないか」
という声も上がり始めていたが、
当時はまだ誰もその可能性の重さを
本当の意味で理解してはいなかった。

半年が過ぎても、犯人の輪郭すら掴めなかった。
指紋も、DNAも、目撃証言の一致点も、
何一つ捜査線上に浮かんでこない。
それでいて、暗殺は止まらなかった。
むしろ加速していった。
七人目の議員が地元の後援会事務所で刺殺された時、
記者会見に立った警察庁長官の顔には、
隠しきれない焦燥が滲んでいた。

「われわれは全力を尽くしている」

その言葉は、もはや誰の耳にも虚しく響いていた。
国民の間では、奇妙な空気が漂い始めていた。
恐怖と同時に
――ある種の、口にできない共感めいたものが。
SNS上では「自業自得」「因果応報」という言葉が、
匿名の陰でひっそりと囁かれ始めていた。
誰も表立っては言わない。
だが、多くの人間の心の底に、
その言葉は静かに根を張っていった。

## 二

五年の歳月が流れた。

事件は依然として未解決のまま、
被害者の総数は二十三人に膨れ上がっていた。
政治家、NGO代表、企業経営者、
そして一部の裁判官やマスコミ関係者
――「国民の恨みを買った」とされる人物が、
次々と闇に消えていった。
もはや事件は日常の風景の一部と化し、
ニュースの扱いすら小さくなっていた。
人々は慣れてしまっていた。
恐怖にすら、慣れは訪れる。

そんな中、ついに一人の男が逮捕された。

名は、三宅浩二。四十七歳。
地方都市で小さな印刷工場を営んでいた、
これといって特徴のない中年男だった。
逮捕の決め手は些細なミスだった
――犯行に使った特殊な工具の購入履歴が、
偶然にも別件の詐欺事件の捜査線上に
浮かび上がったのだ。

取調室で三宅は、驚くほど淡々と自供した。

「あいつを殺したのは、俺です。
誰にも頼まれていません。誰の指示も受けていません」

取調官は当然、共犯者の存在、組織の関与を疑った。
だが三宅の供述は、どこまでも一貫していた。
彼の娘は、かつて外国人技能実習生を大量に採用して
日本人従業員を解雇した工場で働いていたが、
その工場の倒産後、再就職もままならぬまま
自ら命を絶っていた。
三宅が殺したのは、その工場の元経営者だった。

「五年間、ずっと考えていました。
どうやったらあいつを殺せるか。
誰にも気づかれずに。
俺は元々、機械いじりが得意でしたから」

科学捜査の徹底的な裏取りが行われた。
通信記録、金融記録、交友関係
――三宅の生活のあらゆる断面が調べ尽くされたが、
他の暗殺事件との接点は一切見つからなかった。
彼は本当に、たった一人で、五年かけて準備し、
たった一度の殺人を実行しただけの、単独犯だった。

捜査本部は困惑した。
これが組織犯罪でないなら、
いったい他の二十二件は誰の仕業なのか。

その一年後、二人目の犯人が逮捕された。
今度は元教師の女性、六十二歳の桐山雅子だった。
彼女が殺したのは、かつて彼女の息子をいじめの末に
自殺に追い込みながら、少年法の壁に守られて
一切の刑事責任を問われなかった元少年
――今は三十代になっていたその男だった。
桐山もまた、完全な単独犯だった。
何年もかけて標的の生活パターンを調べ上げ、
たった一度、確実に仕留めるためだけに
全てを費やしていた。

「あの子には、
もう一度でも人殺しを許すことはできませんでした」

取調室で彼女はそう言った後、
静かに涙を流したという。

二つの事件は、
警察に一つの恐ろしい可能性を突きつけた。
もしこれが連続する組織犯罪ではなく
――全く無関係などうしの人間たちが、
それぞれ独自の恨みを抱え、
それぞれ独自に「殺す」
という結論に辿り着いた結果だとしたら。

## 三

さらに二年の時が流れ、
警察庁は異例の記者会見を開いた。

発表されたのは、驚くべき結論だった。
一連の暗殺事件は、単一の組織や
思想集団による犯行ではなく、
それぞれが独立した動機を持つ個人による、
無関係な単独犯行の連鎖だったというのだ。

会見に立った捜査幹部は、
努めて冷静な声で説明を続けた。

「これらの事件に共通しているのは、加害者
――つまり本件の被害者となった政治家、経営者、
団体関係者らが、かつて何らかの形で、
市民に耐え難い被害や苦痛を与えていたという点です。
そして、その加害行為の多くが、
司法の場で十分に裁かれてこなかった」

近年、
司法制度は加害者の人権保護と更生を
重視する方向へと大きく舵を切っていた。
少年事件の厳罰化は見送られ続け、
初犯や情状酌量の名の下に不起訴処分が乱発され、
たとえ有罪となっても
執行猶予がつくケースが急増していた。
企業の労働問題、ヘイトクライム、詐欺、暴力
――被害者やその家族が

「加害者はほとんど何の罰も受けなかった」
と感じる事案が、
この十数年で積もりに積もっていた。

「司法が裁かない恨みは、
消えてなくなるわけではありません。
それは行き場を失い、個人の内側に沈殿し続ける。
そして、ある日――」

幹部はそこで一度言葉を切り、そして続けた。

「われわれの推計では、現時点で全国に、
こうした未遂を含む『処断の意思』を抱えている人間が、

少なくとも一万人規模で存在すると考えられます。
専門家の一部からは、この数字はさらに保守的で、
実際には十万人を超える可能性がある
という指摘もなされています」

会見場は静まり返った。

一万人。あるいは十万人。
それは、もはや取り締まることのできる
規模ではなかった。
組織犯罪であれば、頭を叩けば根は絶てる。
だがこれは、日本中に散らばった、
互いに何のつながりもない、
ただ「恨み」という一点だけを共有する
人々の集合体だった。
隣人かもしれない。
同僚かもしれない。
何十年も静かに暮らしてきた、
ごく普通の誰かかもしれない。
彼らは組織を持たず、指令系統を持たず、
ただ己の中だけで判決を下し、
己の中だけで刑を執行する準備を、
ひそかに進めているのだった。

その日を境に、日本社会の空気は決定的に変わった。
加害者として名指しされた過去を持つ人間
――かつて不起訴になった者、執行猶予で済んだ者、
世間の批判を浴びながらも法的責任を免れた者
――は、皆一様に怯え始めた。
彼らはもう、法によって守られているという安心を、
二度と取り戻すことはできなかった。
なぜなら、法が裁かなかった罪を、
いつ誰が、静かに裁きに来るか、
誰にも予測がつかなかったからだ。

それは復讐というにはあまりに個別的で、
テロというにはあまりに散発的で、
そしてある意味では――この国の司法そのものへの、
最も痛烈な不信任決議でもあった。

万の刃は、
今もどこかで、静かに研がれ続けている。