前回は暗い話だったので
今回は明るい異世界転生ファンタジー
にしてみました
# 春の迷い子
## 第一章 桜と蕎麦と、春の終わり
大井妃咲の春は、あっけなかった。
十八年間育った福岡を離れ、
東京の大学に合格した喜びはまだ胸の中で輝いていた。
引っ越しの段ボール箱をようやく片付け終えた夕方、
空腹を覚えた彼女は、近所のコンビニへと向かった。
棚の前で少し迷って、選んだのはざるそばと、
春の期間限定デザート
——桜の花びらを模したゼリーの上に、
うっすらピンク色の練乳クリームが載っている、
見るからに可愛らしい一品だった。
パッケージの隅に小さく「数量限定・春のみ」
と書かれているのを確認して、
思わずにやけてしまった。
夕暮れの空は茜色で、
帰り道の歩道には植えたばかりの
若い桜の木が並んでいた。
来週には花が開くかもしれない。
入学式に桜が咲いていたら完璧だな、
と思いながら横断歩道を渡り始めたのが、
妃咲にとって最後の記憶だった。
信号は青だった。
それは間違いない。
なのに。
―――
気がつくと、妃咲は草の上に立っていた。
コンビニの袋は、もうなかった。
緑の丘が緩やかに広がり、
遠くには石造りの大きな壁に囲まれた街が見えた。
街の向こうには山があり、空の色はくっきりとした青で、
見たこともない種類の鳥が悠然と輪を描いていた。
東京じゃない。
日本でもない。
地球でも、ない?
妃咲はゆっくりと周囲を見渡した。
風が草を揺らしている。
木々が葉擦れの音を立てている。
虫が鳴いている。
五感に届く情報はどれもリアルなのに、
自分がどこにいるのかがまったくわからない。
——そうだ。
高校二年生のとき、
アニメ好きの友人・千鶴に
無理やり貸し付けられた漫画があった。
主人公が異世界に転生して、チートな能力で無双するやつ。
ふだんはそういうジャンルをあまり読まない妃咲だったが、
暇つぶしに読み始めたら意外と続きが気になって、
気づけば全巻読み終わっていた。
あの漫画に出てきた街に、似ている。
すごく、似ている。
――という事はここは異世界?
死んで異世界転生したって事?
頭の中で漫画の知識が次々に展開される。
異世界の街の外は危険区域。
魔獣が跳梁跋扈していて、
冒険者たちがギルドで依頼を受けて倒しに行く。
Fランクからのスタートで、
スキルを身につけて、強くなって……
待って。
今の私、街の外にいる。
魔獣に、襲われる!
その恐怖が腹の底から突き上げてきた瞬間、
茂みが大きく揺れた。
現れたのは虎に似た巨大な獣だった。
しかし虎ではない。
体の模様は渦巻き状で、尾の先が炎のように揺れている。
眼は赤く光り、牙は白い閃光のようだった。
漫画で見た「炎虎(えんこ)」に近い見た目だ。
Cランク相当の、中堅の魔獣。
一人で倒せる冒険者はまだ少ない、
と作中で説明されていた。
妃咲は目を瞑った。
食べられる。きっと、食べられる。
身体が竦んで動けない。叫び声さえ出ない。
でも——何も、起きない。
恐る恐る、片目だけ開けた。
魔獣は妃咲のすぐ目の前を歩いていた。
まるで妃咲など存在しないかのように。
鼻をひくひくさせているが、
妃咲の方を向こうともしない。
……見えてない?
妃咲はそっと右手を伸ばした。
指先が炎虎の脇腹に触れる——はずだった。
しかし指はそのまま、魔獣の身体を通り抜けた。
まるで空気を掻くように。
妃咲の手が魔獣の中に沈んでいくのを、
妃咲自身がぽかんと見ていた。
熱さも、毛の感触も、何もなかった。
炎虎は相変わらず妃咲に気づかないまま、
悠然と丘を下って姿を消した。
しばらくして我に返った妃咲は、
近くにあった大木に近づいた。
幹を触ろうとする。
やはり、手がめり込む。
ゆっくりと深呼吸して、今度は思い切って走った。
大木に向かって、全速力で。
ごとんっ、という音ひとつなく、
妃咲の身体は木を通り抜けた。
振り返ると、木はそこにある。
自分は木の向こう側にいる。
頭の中で、何かがゆっくりと繋がっていく。
……え?
私って異世界転移したけど、幽霊のままなの?!
―――
## 第二章 透明な存在
妃咲は丘の上に座り込んだ。
正確には、
「座り込もうとしたら地面にめり込みそうになって、
慌てて意識を集中させたら辛うじて地面の上に留まれた」
のだが、そんな細かい話は後回しにした。
とにかく、状況を整理しなければならない。
一、自分は信号無視のトラックに撥ねられて死んだ。
これはもう間違いない。
二、気がついたら異世界にいた。
三、しかし、何も触れない。何にも触れられない。
魔獣にも木にも地面にも。
四、逆に言えば、魔獣には見えていないし、
近づいても食べられない。
つまり、自分は——異世界転生した幽霊。
「……なにそれ」
声に出してみたら、ちょっとだけ気持ちが楽になった。
声は出るらしい。
「なんで幽霊のままなの。転生したんじゃないの。
異世界に来たんじゃないの」
誰も答えてくれない。草が風に揺れるだけだ。
妃咲はため息をついて、空を仰いだ。
空は相変わらず美しく青かった。
雲がゆっくり流れている。
あの世の神様か何かが、
「いやー間違えてごめんね、
でも魔獣には食べられないようにしといたから」
とでも言いたいのだろうか。
……それにしても、なぜ異世界に来たのだろう。
妃咲はぼんやりと考えた。
死んだとき、何を思っていたか。
東京での一人暮らし。
大学の授業。サークルに入ってみようかなとか、
バイトはどこにしようかなとか。
そういう、これから始まるはずだった生活への未練。
それと——コンビニの袋の中にあった、
春の期間限定デザート。
桜のゼリーに、ピンクのクリーム。
食べたかったなあ。
馬鹿みたいだと自分でも思うけれど、
本当に食べたかった。
あれを楽しみに帰り道を歩いていたのに。
「未練って、そういうことなのか」
妃咲は独り言を言った。
漫画でも読んだことがある。
幽霊になるのは未練があるから、と。
ならば自分の未練は、
一人暮らしと大学生活と、あの春のデザート
——そのどれかということになる。
あるいは全部。
「でも、異世界に来た理由は……」
それはわからなかった。
ただ、こうして草の上に座って
(正確には浮いて)いると、
なんとなく、ここに来てしまったことに、
怒りよりも不思議な納得感があった。
さて、どうする。
妃咲は立ち上がって(浮き上がって)、
遠くに見える街の方を見た。
壁に囲まれた街。
あそこには人が住んでいる。
冒険者がいる。
ギルドがある。
魔法があるかもしれない。
異世界の食べ物がある。
触れないけれど、見ることはできる。
聞くこともできる。
歩くこともできる
(厳密には地面を踏んでいないのだが、
見た目には歩いているように見えるらしい)。
やることは決まった。
とりあえず——あの街に行こう。
何も触れなくたって、
透明人間みたいな存在だって、
ここが異世界なのは間違いない。
情報を集めるのが先決だ。
妃咲は丘を下りながら、もう一度空を見上げた。
東京の空よりも、少しだけ色が濃い。
でも、綺麗だと思った。
死んだのに、透明な幽霊のくせに、
それでも「綺麗だ」と感じる自分に気づいて、
妃咲は苦笑した。
「私って意外と、しぶといな」
その言葉は誰にも聞こえず、風に溶けた。
街までの道には、名前も知らない白い花が咲いていた。
踏んでも踏み荒らせない足で、
妃咲は花の中を歩き続けた。
―――
## 第三章 壁の街・アルセイア
街の名前は「アルセイア」というらしかった。
門の前に立て看板があり、
そこに「アルセイア自由都市」と書かれていた
——もちろん日本語ではなく、見たこともない文字で。
なのになぜか読めた。
これも転移の恩恵なのかもしれない。
転移した幽霊というミスマッチな存在に付与された、
ちょっとだけ便利な能力。
門番の兵士たちは、妃咲に気づかなかった。
当たり前だ。妃咲は幽霊なのだから。
妃咲は堂々と、壁をすり抜けて街の中に入った。
石畳の道。
露店が並んでいる。
馬車が走っている。
子どもが走り回って、親に叱られている。
お肉を焼く匂いが漂ってくる——匂いは感じる。
なんとも不思議な身体だと思った。
匂いがわかるのに、物が触れない。
市場の端で、
焼き鳥に似た何かを売っている屋台があった。
妃咲はそこで立ち止まった。
肉の焦げた香ばしい匂い。
スパイスのような、知らない香り。
それがなんとも美味しそうで
——食欲を感じている自分に驚いた。
幽霊でも食欲はあるのか。食べられないのに。
「……つらい」
小さく呟いた。
「何がつらいんだ、嬢ちゃん」
いきなり声をかけられて、
妃咲は飛び上がった(文字通り、少し浮いた)。
振り返ると、屋台の主人
——五十がらみの大柄な男が、こちらを見ていた。
「え、私に話しかけてる?」
「他に誰がいる」
男は首をひねった。
見える。
この人には、自分が見える。
妃咲は自分を指さした。
「私のことが……見えますか」
「見えるも何も、嬢ちゃんが突然目の前に現れたんだが。
さっきまでそこに誰もいなかったのに」
男の目には戸惑いの色があった。
壁をすり抜けて入ってきたのを
見ていたわけではなさそうだが、
急に現れた人物に驚いているらしい。
妃咲はどう説明すればいいかわからなかったが、
とりあえず頭を下げた。
「すみません、驚かせて。私、旅人なんです。
ちょっと……迷子になってしまって」
「迷子? こんな子どもが一人で?」
子どもと言われたのは少し心外だったが、
まあ十八歳だし仕方ない。
「一人です。色々あって。
あの、この街のことを教えてもらえますか。
宿とか、ギルドとか」
「ギルド? 冒険者になるつもりか?」
「いえ、まあ、色々調べたくて」
男は少し考えてから、
焼いたばかりの串を一本、妃咲に差し出した。
「食うか? 口は合わんかもしれんが」
妃咲は一瞬固まった。
手を伸ばす。串に触れようとする。
指が、串をすり抜けた。
男の目が大きく見開いた。
しまった、と思ったが、もう遅い。
沈黙が流れた。
妃咲はゆっくりと顔を上げて、男を見た。
男は串を持ったまま固まっている。
「……驚かせてすみません」
「……嬢ちゃん、まさか」
「はい」
「……お前さん、生きてるのか?」
妃咲は少し考えてから、答えた。
「……それが、よくわからないんです」
―――
屋台の男——名前はゴードンといった
——は、存外に話のわかる人物だった。
怪しむよりも先に、妃咲のことを
「珍しい存在」として受け入れてくれた。
曰く、この世界には霊的な存在が
稀にいることは知られており、
それを「幻人(まぼろしびと)」と呼ぶらしい。
「幻人は普通、見えない。
見える人間は霊眼の持ち主くらいだ。
俺は若い頃に呪いを受けてな、
副作用でそういう目になった」
「じゃあ私は……幻人みたいなものなんですか」
「見た目は普通の娘だが、物を触れないんだろう。
ほぼそれだな」
ゴードンは串を炭火で炙りながら、
落ち着いた声で続けた。
「幻人がどこから来るかは諸説ある。
成仏しきれなかった魂とか、
遠い地から魂だけ飛んできた者とか。
お前さんはどっちだ?」
「……遠い地、から、だと思います。
すごく、遠い」
ゴードンは短く「そうか」と言っただけで、
それ以上は聞かなかった。
妃咲は木の椅子に腰かけようとして、
半分めり込みかけながら、なんとか座面の上に留まった。
意識を集中すれば、ある程度は固体に接触できるらしい。
触れることはできないが、乗ることは——かろうじて。
「ゴードンさん、ひとつ聞いていいですか」
「なんだ」
「幽霊って、成仏できるんですか。この世界でも」
ゴードンはしばらく沈黙してから、
火を見つめたまま言った。
「未練が消えれば、消えるらしい。
霊格が上がれば戻れることもあるとも聞く。
どちらにせよ、俺には詳しくわからん。
神殿の司祭に聞いた方がいいだろう」
未練が消えれば。
妃咲はその言葉を、胸の中でゆっくり転がした。
東京での一人暮らし。
大学の青春。
春の期間限定デザート。
そんな未練を、異世界で、幽霊のままで
——どうやって消せというのだろう。
「……難しそうですね」
「お前さん、案外冷静だな」
「冷静じゃないです。内心めちゃくちゃです」
妃咲は正直に言った。
そして、焼けた肉の匂いを吸い込みながら、
ため息をついた。
「でも、ここにいる間は——何かしたいんです。
ただ浮いてるだけじゃなくて」
ゴードンは初めて、少し笑った。
「それがわかってるなら、なんとかなるかもしれん」
街の喧騒が、遠くから聞こえてくる。
馬車の音。子どもの笑い声。商人の呼び込み。
妃咲には触れられない世界が、
それでも五感の全部で流れ込んでくる。
触れなくても、いる。存在している。
春の期間限定デザートは食べられなかったけれど
——まだ、ここにいる。
それはきっと、何かを意味しているはずだった。
―――
(続く)