第二百三十七弾「 秘密のきみと、僕だけの世界」の続きです

 

 

 

# 秘密のきみと、僕だけの世界 ―続章―

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## 第七章 終わりの予感

颯太は数えていた。

莉央が卒業するまで、あと何ヶ月か。
カレンダーを見るたびに、
その数字が一つずつ減っていくことを、
颯太は心のどこかでずっと意識していた。

藤宮莉央は大手食品グループの令嬢だ。
卒業すれば家の会社に入り、
やがて親が選んだ相手と婚約する。
それが彼女の「普通の未来」のはずだった。
颯太のような人間が、
その先に続く道に立っていられる場所はない。

わかってる、とっくに。

だから颯太は莉央の顔を見るたびに笑って、
何も言わなかった。

男子学生からのやっかみは相変わらず続いていた。

「なんであんな地味な奴が」

「どうせ遊ばれてるだけだろ」

——廊下の端でそんな声が聞こえても、
颯太は気にしないふりをした。
莉央が卒業してしまえば、そういう噂も自然と消える。

「やっぱり遊びだったんだ」で終わる。
それでいい。

ただ一つだけ、
颯太が予想していなかったことがあった。

莉央が来る回数が、増えていた。

以前は週に二、三回だったのが、
今は四、五回になっていた。
平日の夜遅くに来ることも増えたし、
朝まで泊まっていくことも珍しくなくなった。
颯太の部屋に莉央の歯ブラシが置いてある。
洗面台の隅に、彼女のハンドクリームがある。

それだけではない。

激しさが、変わっていた。

以前の莉央は、どこかクールな距離感を保っていた。
でも最近は、颯太にしがみつくような瞬間がある。
まるで何かを確かめるように、
あるいは何かから逃げるように
——颯太にはその意味がうまく掴めなかった。

*何かが変わろうとしているのかもしれない。
でも俺には、何も聞けない。*

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## 第八章 全裸の相談

ある夜、長い時間が過ぎた。

颯太はベッドの上で天井を見ていた。
隣に莉央がいる。
二人ともぐったりしていた。
部屋の電気は消えていて、
窓から街の灯りだけが薄く差し込んでいる。

しばらく、どちらも何も言わなかった。

それが颯太には心地よかった。
こういう沈黙に、二人はすでに慣れている。

「ねえ」

莉央が天井に向かって言った。

「うん」

「私たちって、いつもこれだけよね」

颯太は莉央のほうを見た。

「これだけって」

「セックスだけ」莉央は少し笑った。

「ちゃんとしたデート、したことないじゃない」

颯太は考えた。
確かに、その通りだった。
映画も、食事も、どこかに出かけたことも——何もない。
莉央はいつも颯太の部屋に来て、そして帰っていく。

「……まあ、そうだね」

「今度の週末、泊まりで行かない?」

颯太は少し間を置いた。

「旅行、ってこと?」

「そう。二人で。どこかに」

*卒業前に、ちゃんと一度だけ。*

颯太はそう直感したが、言葉にはしなかった。

「行こう」颯太は言った。

「どこがいいかな」

「箱根とかどうかしら。温泉もあるし」

「いいね」

二人はベッドの上でスマートフォンを取り出して、
あれこれ調べ始めた。
旅館か、ホテルか。
電車で行くか、バスか。
露天風呂付きの部屋が空いている、
温泉街まで歩けるところがいい、
夕食はフルコースがいい
——話しているうちに、
声が弾んでいくのを颯太は感じた。

莉央が「ここ、どう? 露天風呂が部屋についてるって」
とスマートフォンの画面を見せてきた。
颯太が「いいじゃん、予約しよう」と言って、
二人で顔を見合わせた。

「決まったね」

「決まった」

嬉しさのまま、颯太は莉央の肩を引き寄せた。
莉央も颯太の胸に額を当てた。
しばらくそのままでいて
——それからふと、颯太は気がついた。

「……俺たち、ずっと全裸で旅行の話してた」

莉央が吹き出した。
颯太も笑った。

二人の笑い声が、小さな部屋の中に広がって、
すぐに静かになった。

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## 第九章 新宿発、君と行く

当日の朝、
颯太は三十分前から新宿駅の改札前にいた。

落ち着け、と自分に言い聞かせながら、
スマートフォンを意味もなく何度も確認した。
旅行カバン一つ、財布の確認は三回した。
女性と一泊旅行に行くのは生まれて初めてだった。
準備の仕方すらよくわからなくて、
昨夜はほとんど眠れなかった。

待っている間、颯太は行き交う人の波を眺めた。
カップルが多かった。
隣に誰かがいることが当たり前の人たちが、
あちこちにいた。

*俺もそっち側にいる。今日は。*

まだ実感がなかった。

「颯太!」

声がした。

人の流れの向こうから、
莉央が手を振りながら小走りでやってくるのが見えた。

颯太は思わず息を止めた。

莉央はシンプルなベージュのコートに、
淡いピンクのマフラーを巻いていた。
髪は少しだけ巻いてある。
荷物を抱えて小走りで来るその姿は、
いつもキャンパスで見る「藤宮莉央」でも、
颯太の部屋に来る莉央でもなかった。

ただ、颯太のところへ来るために走っている、
一人の女の子だった。

「待った?」
莉央が息を弾ませながら颯太の前に立った。

「全然。ちょうど今来たとこ」

嘘だった。
でも莉央は「そう」と笑って、颯太の隣に並んだ。

ロマンスカーのシートに並んで座ると、
颯太はようやく実感が来た。
窓の外を流れていく景色、
莉央の肩が時々自分の肩に触れる感覚、
コーヒーとパンを買って二人で分けながら食べた味
——すべてが、颯太の知らない時間だった。

「あなたって、外でこんなに緊張するんだね」
莉央がくすくす笑った。

「緊張してない」

「耳が赤いよ」

颯太は窓の外を向いた。

「寒いから」

「車内なのに?」

莉央がまた笑った。
颯太は笑われながら、でも悪くないと思っていた。

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## 第十章 箱根の一日

箱根は晴れていた。

まず向かったのは大涌谷だ。
ロープウェイで上がると、眼下に広がる山の景色と、
噴気孔から立ち上る白い煙が視界に広がった。
空気に硫黄の匂いが混じっている。

「すごい」
莉央が手すりに手をかけながら、
眼下を見下ろした。

「なんか、世界の果てみたい」

「大げさだよ」

「でも綺麗じゃない」

颯太も隣で同じ景色を見た。
確かに綺麗だった。
でも颯太の目は、
景色よりも莉央の横顔に引き寄せられた。
風に髪が揺れて、
彼女は気にせず景色を見続けている。

名物の黒たまごを二つ買って、二人で並んで食べた。

「一個食べると七年寿命が延びるらしいよ」
と颯太が言うと、
「じゃあ二個で十四年ね」と莉央が返した。

「そんなにいる?」

「いるに決まってるでしょ」

——何気ない言葉のやりとりが、
颯太の胸の中にしまわれていった。

芦ノ湖では遊覧船に乗った。
湖面は穏やかで、遠くに富士山が見えた。
雲一つなく、山頂まではっきりと見える。

「富士山って、こんな綺麗なんだね」
莉央が言った。

「いつも写真でしか見てなかった」

「俺も初めてちゃんと見た」

「そうなの?」

「関東育ちなのに、意外と機会がなくて」

「なんか、損してたね」

「今日見たからよかった」

莉央が颯太のほうを向いた。
颯太も莉央を見た。

莉央は少し笑って、颯太の腕に自分の腕を絡めた。
颯太は何も言わずにそのままにした。
船が湖面を進む音と、風の音だけが聞こえていた。

箱根神社に寄って、商店街をぶらぶら歩いた。
莉央が小さな陶器の店を覗いたり、
颯太がアニメの聖地っぽい看板に反応したり
——完全に噛み合っていないのに、
なぜかそれが心地よかった。

夕方近く、
疲れた二人はカフェに入って熱いコーヒーを飲んだ。
莉央は窓の外の山を眺めながら言った。

「今日って、普通だね」

「普通?」

「なんか、すごく普通のカップルみたいだなって」
莉央はコーヒーカップを両手で包んだ。

「ただ旅行してるだけ。それが、なんか、よかった」

颯太は答えなかった。

ただ、うん、と小さく言った。

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## 第十一章 露天の告白

ホテルの部屋は、
颯太が奮発して予約した甲斐があった。

和洋折衷の広い客室に、
バルコニーに続く露天風呂がついていた。
夜の山の空気が冷たく澄んでいて、
湯気が白く立ち上っている。
夕食のフルコースはテーブルに
料理が次々と運ばれてきて、
颯太はどのタイミングで
どのフォークを使えばいいのか少し迷ったが、
莉央が黙って隣のフォークを示してくれたので助かった。

「慣れてるね、こういうの」
颯太が言うと、莉央は少し複雑そうに笑った。

「嫌になるくらいね」と言った。

食後、
少しワインを飲んでから、莉央が言った。

「せっかく露天風呂があるんだから、
一緒に入らない?」

颯太の顔に熱が上がった。

「そ、そうだね」

なぜか今更そういうことで赤くなっている自分が
可笑しかったが、どうしても赤くなった。

莉央が先に入った。
颯太が少し後から出ると、
石造りの湯船に莉央の後ろ姿が見えた。

夜の山の空気の中、
湯気の向こうに、白い肩と首の線が浮かんでいる。

颯太は思わず立ち止まった。

何度も見てきたはずの姿なのに、今夜は違って見えた。
温泉の湯に温められた肌が、
夜の空気の中でほのかに白く光っているようだった。

「綺麗だ」

颯太は声に出ていると気づいた時には、
もう言ってしまっていた。

莉央が振り返った。
少し意外そうな顔をして、それから笑った。

「なによ、改まって」

「……いや、なんか、そう思って」

「あなた、たまに急に素直になるわよね」
莉央はくすくす笑った。

「可愛いじゃない」

「可愛いは余計」

颯太は湯船に入りながら、莉央の隣に腰を下ろした。
お湯が温かい。
冷たい夜の空気と、熱い湯の境界に身を置いていると、
頭がゆっくりとほぐれていく気がした。

「あ~、気持ちいい」颯太は思わずこぼした。

莉央がちらりと颯太を見た。

「セックスより?」

「それとこれは別だよ~」
颯太は赤くなりながら笑った。

莉央も笑った。
二人の笑い声が、夜の山に溶けた。

しばらく、沈黙があった。

遠くで虫の声がした。
月が出ていて、湯面に光が揺れていた。

「颯太」

莉央の声が、少し変わった。

「うん」

「卒業したら、留学する」

颯太は莉央のほうを見た。
莉央は湯面を見つめていた。

「デザインの勉強をしたくて。
ちゃんとした学校で学びたい。
パリに行こうと思ってる」

颯太は黙って聞いていた。

「留学の準備で、これから忙しくなる。
多分……もうほとんど、会えなくなると思う」

莉央の声は静かだった。
でも颯太には、
その静かさの中に何かが張り詰めているのがわかった。

莉央は少し俯いた。
湯面に視線を落として、唇を一度だけ結んだ。

颯太の胸の中で、何かが静かに沈んでいった。

わかっていた。
いつかこういう日が来ると、ずっとわかっていた。
でも、こんなに穏やかに言葉にされると、
準備していたはずなのに、
上手く呼吸ができなくなった。

颯太は少しの間だけ夜空を見上げた。

*悲しい顔は、見せない。*

それだけを決めて、颯太は莉央のほうを向いた。

「おめでとう」颯太は笑った。

「よかったね、夢に向かえるじゃん。
何もできないけど、応援するよ」

莉央が颯太を見た。
颯太の笑顔の裏にあるものに気づいているのが、
その目でわかった。
でも莉央は何も言わなかった。

「ありがとう」莉央は静かに言った。

「がんばるね」

夜の空気が冷たかった。
お湯が温かかった。

その温度の差の中で、颯太は莉央の隣にいた。
それだけで、十分だと思おうとした。

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## 第十二章 最後の夜

莉央の言った通りだった。

それ以来、二人が会う機会は急に減った。
莉央からのメッセージは来るが、
「忙しくてごめん」という一言が続いた。
颯太は「大丈夫、頑張って」と返した。

桜が咲いて、散った。

莉央の卒業式の日、
颯太はキャンパスの端から遠くに袴姿の莉央を
一瞬だけ見た。
莉央は友人たちに囲まれて笑っていた。
颯太とは目が合わなかった。

それでよかった、と颯太は思った。

その夜、莉央から一件だけメッセージが来た。

『来月、日本を出ます。一度だけ会えませんか』

颯太はしばらくスマートフォンを見つめた。

『もちろん』と打った。

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最後に莉央が颯太の部屋に来た夜、
二人はほとんど何も話さなかった。

言葉よりも先に、お互いの体が動いていた。
その夜の莉央は、颯太の名前を何度も呼んだ。
颯太はその声を、
心の奥の、誰にも見せない棚の一番奥にしまった。

明け方、莉央が帰り支度をした。
颯太は玄関まで送った。

ドアの前で、莉央は振り返った。

「颯太」

「うん」

「ありがとう」

何に対してのありがとう、とは聞かなかった。
颯太もただ頷いた。

莉央は少しだけ颯太の胸に額を当てて、
それからドアを開けた。

廊下に出て、一度だけ振り返って、
小さく手を振った。

颯太も手を振った。

エレベーターのドアが閉まった。

颯太は部屋に戻って、ドアを閉めた。

静かだった。
洗面台に莉央のハンドクリームが残っていた。
颯太はそれを手に取って、
しばらくそのまま立っていた。

*よかった。ちゃんと笑って送れた。*

そう思いながら、颯太は壁のアニメのポスターを眺めた。
積みゲーの山を見た。
棚のフィギュアを見た。

全部、変わらずそこにあった。

颯太は床に座って、膝を抱えた。

誰もいない部屋の中で、
颯太はしばらくそのままでいた。

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*次章、最終章へ*
 

今日中に最終章を載せる予定です