今の社会を見ていると

いつもこういうお話を考えちゃいます

 

 

#  冤魂 ―正義の絞首―

## 第一章 省という男

本田省という男は、
この世界にとって都合の良すぎる人間だった。

正直に生き、まっすぐに働き、
それでも報われることはなかった。
両親が逝ったのは省が七歳の冬だった。
交通事故だった。
雪の降る夜、帰らぬ二人を待ち続けた省の記憶は、
そのまま凍りついて心の底に沈んだ。

引き取られた叔母夫婦の家は、表向きは普通の家庭だった。

近所の人々には愛想よく振る舞い、
民生委員には「かわいそうな子を育てている」
と同情を買っていた。
だが玄関の扉が閉まれば、そこは別の世界だった。

熱した菜箸。
タバコの火。
食事を与えない日が続くこともあった。
叔母はことあるごとに言った。
「お前の両親は馬鹿だから死んだんだ。
その血を引くお前も馬鹿だ」と。

省は泣かなかった。泣くことをどこかで諦めていた。

代わりに、省は体を鍛えた。
夜明け前に起き、近くの公園で腕立てをし、
懸垂をし、走った。
体が強くなれば、いつか、なにかが変わると信じていた。
あるいは、信じることで正気を保っていた。

高校を卒業した春の朝、省は叔母の家を出た。
荷物はリュックサック一つ。
振り返らなかった。
振り返る価値がそこにはなかった。

工場の仕事は単調だったが、省には合っていた。
黙々とやるべきことをやる。
文句を言わない。
それが省のやり方だった。
だが人間社会というのは、
黙って耐える者をいつまでも放っておかない。

「おい、省。お前、また俺より先に休憩に入ったな」

先輩の桐島は目つきの悪い男で、
省を見るたびになにかしら因縁をつけた。
昼の弁当に機械油を垂らされたこともあった。
ロッカーの中身を荒らされたこともあった。
同僚たちは見て見ぬふりをした。
それが一番楽な生き方だと、みんな知っていたから。

省の腕力は、桐島など問題にならないほど強かった。
本気を出せば、あの男の腕の一本や二本、
へし折ることは難しくなかった。
だが省は手を出さなかった。

――ここを失ったら、俺にはなにもない。

薄い壁の安アパート。
インスタントラーメンと米だけの食事。
それでも省には、毎日帰るべき場所だった。
それで十分だと、省は自分に言い聞かせた。

いつか必ず報いを受けさせる。
その思いだけを胸に、省は今日も工場へ向かった。

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## 第二章 青信号

十一月の夜は早く暗くなる。

工場を出た省は、いつものように徒歩で帰路についた。
交差点の信号が青になった。
省は横断歩道を渡り始めた。

エンジン音が聞こえた。

次の瞬間、世界が真っ暗になった。

衝撃も痛みも、一瞬だけだった。
省の意識は、それ以上続かなかった。

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省が次に気づいたとき、
自分は自分の体の上に立っていた。

アスファルトに横たわる体。
散らばった荷物。
野次馬の輪。
遠くで救急車のサイレンが鳴っていた。

奇妙な感覚だった。
寒くも痛くもなかった。
体が軽く、まるで水の中に浮いているようだった。

省は自分が死んだことを理解した。

横断歩道から数十メートル先に、車が止まっていた。
黒塗りのドイツ製高級車。
フロントガラスが砕けていた。

運転席から出てきたのは、
浅黒い肌をした四十代ほどの男だった。
日本語で電話をしていた。
うまく聞き取れなかったが、
「難民」という言葉だけは聞こえた。

省は男の顔を見た。
表情には恐怖もなく、後悔もなかった。
ただ面倒くさそうな、そういう顔をしていた。

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## 第三章 不起訴

三ヶ月後。

地方検察庁の会議室に、省の霊は漂っていた。

壁に沿って椅子が並び、
そこに座る人間たちが書類を回していた。
高橋という姓の検察官が、
眼鏡の奥に鋭い目を光らせながら書類を捲っていた。

省を轢いた男の名前はアリ・カリミと名乗っていた。
イラン出身と言っていたが、
本当の素性は誰も確認できていなかった。
難民申請中ということで、
特別な配慮が求められていた。
少なくとも高橋検察官はそう判断した。

「被疑者の在留資格の問題もあり、
また証拠の収集状況を鑑みて……」

高橋は淡々と述べた。

不起訴。

その言葉が会議室に落ちたとき、
省の中でなにかが音を立てて切れた。

青信号だった。
俺は青信号を渡っていた。
それなのに、なぜ。

怒りというよりも、それは絶望の色をしていた。
被害者であっても、死ねばそれで終わりか。
加害者は裁かれることなく今日も生きているのか。

省の意識が、熱を帯びた。

気づいたとき、省の手は高橋検察官の首にあった。

指が、実体を持っていた。

高橋は急に立ち上がり、首に両手を持っていった。
「な、なに……っ」と声を上げようとしたが、
声にならなかった。
会議室の全員が凍りついた。
誰の手も触れていない。
なのに高橋の首には、見えない力が巻き付いていた。

もがき、椅子を蹴り、床に倒れた。

それでも省の手は離れなかった。

しばらくして、高橋検察官は動かなくなった。

会議室は、しんと静まり返った。

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## 第四章 探索

省はアリ・カリミを探した。

一ヶ月かかった。

男は難民支援団体の庇護のもと、
都内のマンションに住んでいた。
難民と言いながら、部屋には現金の束と
ブランド物の鞄が積まれていた。
夜になると繁華街に出て、
路地裏でよからぬことをしていた。

省がその男を見つけた夜、
細い路地に若い女性が連れ込まれていた。

声を殺して泣いていた。

アリは笑っていた。

省の中で、炎が燃え上がった。
叔母に虐められた夜も、桐島に嫌がらせをされた日も、
横断歩道で撥ねられた瞬間も、
不起訴の言葉を聞いた時の絶望も、
全てが一つになって燃えた。

省の両手が、アリの首に巻き付いた。

男は急に立ち上がり、女から離れた。
苦しみながら、見えない何かと格闘していた。
その隙に、女性は走って逃げた。

省は彼女の背中を見送った。

それから、腕に力を込めた。

アリ・カリミは、路地の暗闇の中で動かなくなった。

省は、長い時間そこに立っていた。

怒りは収まらなかった。

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## 第五章 連鎖

それから三ヶ月で、
不起訴になっていた外国人が絞殺される事件が
三十件を超えた。

被害者には一つの共通点があった。
罪を犯しながら、社会のシステムの隙間をすり抜けて
裁かれなかった者たち。
難民を装いながら詐欺や強盗を繰り返していた者、
性犯罪を起こしながら示談で逃げ延びた者、
弱者を踏み台にして利益を享受してきた者。

警視庁は特別捜査本部を設置した。

捜査員たちは監視カメラを洗い、聞き込みを重ね、

法医学的証拠を求めた。

だが犯人は見つからなかった。

見えない手に首を絞められるという事件に、

捜査の手が及ぶはずもなかった。

テレビのコメンテーターたちは様々なことを言った。
「見えない殺人鬼」
「霊的犯罪の可能性」
「社会への復讐」。
だが誰も本当のことはわからなかった。

そして七月。

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## 第六章 会見

左翼活動家の集団が平和運動と称して高校生を動員し、
幹線道路に繰り出し米軍人とその家族に抗議していた。
交通を遮断し、汚い言葉でスローガンを叫んだ。
その混乱の中で、引率されていた高校生の一人が
トラックに撥ねられて死んだ。

翌日、活動家たちは記者会見を開いた。

カメラの前で代表格の男が言った。
「我々に責任はない。
悪いのは、この社会の構造であり、
米軍の存在であり……」

生放送だった。

代表の男が突然、言葉を止めた。
両手が首へ伸びた。
目が見開いた。

カメラが捉え続けた。

男はテーブルから転げ落ち、床でのたうちまわった。
そして糸の切れた人形のように、静止した。

隣に座っていた女性活動家が悲鳴を上げようとした瞬間、
彼女もまた同じように首を押さえた。

会見に出席していた五人が、次々と倒れた。

日本中が、その映像を見た。

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## 第七章 世界へ

省の怒りは、もはや日本だけに向いていなかった。

霊体は境界を知らない。省は世界を漂った。

英国のロンドンで、宗教的過激思想のもとに
市民を脅迫していた男が死んだ。
スウェーデンで、性犯罪を繰り返しながら
難民認定を盾に司法から逃れ続けていた男が死んだ。
アメリカで、人種的正義を掲げながら
無実の市民を暴行し
店舗で略奪を繰り返していた者たちが死んだ。

グローバリストと呼ばれる者たちの中にも、
省の手が届いた。
国際会議の壇上で、自分たちの利権のために
世界の食糧政策を歪め続けてきた人物が倒れた。
ヴィーガン活動を名目に農家を脅迫し、
生活を破壊し続けてきた過激派団体の幹部が死んだ。

彼らに共通するものは、
イデオロギーでも宗教でも国籍でもなかった。

自分の正しさを疑わず、他者の痛みを顧みず、
自分勝手な欲望を「正義」と言い換えて
社会に押し付けてきた人間たちだった。

一年後、
世界中で絞殺された人間の数は五十万人を超えた。

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## 第八章 静寂

不思議なことが起きた。

過激な主張をする声が、徐々に小さくなっていった。

かつては声高に差別的スローガンを叫んでいた者たちが、
静かになった。
自分の利益のために他者を犠牲にすることを
当然と思っていた人間たちが、
少しずつ周囲を気にするようになった。
変わったのは法律でも制度でもなかった。
人々の内側にある、恐れと、それに続く省察だった。

歴史的に見れば、
人は大きな抑止力がなければ
欲望を制御できない生き物だった。
かつては神への恐れがその役割を担い、
次に法律が担い、
そして今、見えない手がその役割を担った。

それが正しいことかどうか、省には判らなかった。

自分がしてきたことが正義かどうかも、わからなかった。

ただ、青信号を渡っていただけの男が、
叔母に殴られながら耐えていた子供が、
桐島に嫌がらせをされながら我慢していた工場労働者が、
この世界に何かを残したことだけは確かだった。

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## 終章 省

ある冬の夜明け、省は公園にいた。

幼い頃、夜明け前に走っていた公園に似ていた。
霜が降りた地面。白い息が消えていく空。

省はベンチに座り、空を見上げた。

怒りは、すでにどこかへ消えていた。

怒りを燃やし続けるには、人間でなければならない。
感情は、生者の特権だ。
省はいつの間にか、怒りよりも
静けさの方が大きくなっていることに気づいた。

この世界は理不尽だ。
それはこれからも変わらないだろう。

だが人間というものは、恐れを知ることで、
少しだけ立ち止まることができる。
少しだけ、他者のことを考えることができる。
その「少し」が積み重なれば、
世界は変わるかもしれない。
変わらないかもしれない。

省には、もうわからなかった。

夜明けの光が、公園の木々の間から差し込んできた。

省の輪郭が、その光の中に溶けていくようだった。

最後に省が思ったのは、両親のことだった。
雪の夜、帰らなかった父と母のこと。

彼らの元へ行けるだろうか、と。

光は、広がり続けた。

---

*了*