第二百三十七弾「 秘密のきみと、僕だけの世界」

第二百七十三弾「秘密のきみと、僕だけの世界 ―続章―」

の続きです

 

 

 

# 秘密のきみと、僕だけの世界 ―最終章―

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## 第十三章 穴の開いた日々

莉央が旅立ってから、颯太の部屋はやけに広く感じた。

洗面台から莉央のハンドクリームを捨てたのは、
一ヶ月後だった。
捨てられなかったのではない。
捨てるのを忘れていた——そういうことにした。

スマートフォンを確認する癖は、なかなか抜けなかった。
帰宅して鍵を閉めて、コートを脱いで、
それからスマートフォンを手に取る。
莉央からの通知を探す。
何もない。
わかってる。
それでも探してしまう。

*もう忘れよう。*

何度そう思っただろう。

大学四年生になって就職活動が始まると、
考える暇がなくなった。
エントリーシートを書いて、スーツを着て、
見知らぬビルの会議室でぎこちなく笑って。
そのうちに内定が一つ決まった。

何の因果か、藤宮グループ傘下の食品会社だった。

颯太は苦笑しながら内定通知書を眺めた。
縁というのは不思議なものだと思った。

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## 第十四章 営業マン西村颯太

社会人一年目は、颯太の想像をはるかに超えていた。

担当はスーパーへの食品営業。
毎朝サンプルを詰めたカバンを持って、
あちこちの店舗を回る。
バイヤーと交渉して、棚のスペースを確保して、
売り上げデータを分析して
——体力も、コミュニケーション力も、
学生時代の颯太には
欠けていたものばかりが求められた。

最初の一年、颯太は何度も心が折れかけた。

先輩の営業マンは颯太の倍以上の速さで話して、
倍以上の契約を取ってきた。

「西村、お前の説明は長い」

「顔が硬い、もっと笑え」

「バイヤーさんの話、ちゃんと聞いてるか?」

——毎日のようにダメ出しをされた。

でも颯太はこの会社を辞めなかった。

なんとなく、辞めたくなかった。
藤宮グループという名前が社名のどこかに入っているから
——そんな理由ではないと颯太は思おうとしていたが、
完全には否定できなかった。

三年が経つ頃には、颯太は変わっていた。

先輩のダメ出しに笑って返せるようになっていた。
バイヤーとの雑談が苦にならなくなっていた。
数字の読み方が身につき、提案に説得力が出てきた。

アニメやアイドルが好きな陰キャオタクだった自分が、
スーパーのバイヤーと世間話をしながら
棚の交渉をしている
——鏡の前でネクタイを締めながら、
颯太はたまに可笑しくなった。

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## 第十五章 二人目の彼女

その後輩は、
入社二年目に颯太の部署に配属されてきた。

明るくて、よく気がついて、先輩社員の受けもいい。
颯太は最初、普通に仕事上の先輩として接していた。

だから告白された時は、驚いた。

「西村さんのこと、ずっと見てました。
付き合ってください」

ランチの帰り道、
人通りの少ない社内の通路で、真剣な顔で言われた。
颯太は三秒ほど固まった。

*また、向こうから来た。*

学生時代の記憶が一瞬よぎった。
颯太は小さく苦笑して、
それから「こちらこそ、よろしくお願いします」
と頭を下げた。
後輩は「お願いしますじゃないですよ!」と笑った。

付き合い始めると、颯太はすぐに困った。

デートの仕方がわからなかった。

莉央との関係は「普通の交際」ではなかった。
映画を観て、ご飯を食べて、手を繋いで歩く
——そういう当たり前のことを、
颯太はまともにやったことがなかった。

初めてのデートで映画を選ぶのに三日かかった。

「ホラーはどうかな、いやアクションか、
でも彼女の好みがわからない」

——結局、無難なラブコメを選んだ。
当日、映画館のシートに並んで座って、
颯太は腕をどこに置けばいいかずっと迷っていた。

「西村さん、緊張してますか?」

「してない」

「肘置き使ってないですよ」

颯太は素直にアームレストに肘を置いた。
彼女がそっと手を重ねてきた。
颯太は正面を向いたまま、
じわじわと耳が赤くなっていった。

食事のデートも、最初はぎこちなかった。

颯太はメニューを開いて
彼女に渡すのを忘れて自分だけ読み込んでいたり、
会話が途切れると沈黙を何とかしようと
必死になって余計なことを言ったり。
彼女はそのたびにくすくす笑った。
怒らずに笑ってくれる人だった。

何度か重ねるうちに、少しずつ慣れてきた。
彼女の好きな食べ物、苦手なもの、
映画のジャンル、週末の過ごし方
——そういうものが颯太の中に積み重なっていった。

「西村さんって、最初すごくぎこちなかったですよね」
二年目のある夜、彼女が言った。

「今もぎこちないだろ」

「今は可愛いぎこちなさです」

颯太は苦笑した。

「褒めてるのかそれ」

「褒めてます」

彼女は明るくて、素直で、
颯太には過ぎた人だと思っていた。

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## 第十六章 プロポーズと、その後

付き合って二年が経った頃、
颯太はプロポーズを決めた。

下調べは念入りにした。
指輪の選び方、渡し方、言葉の作り方。
いくつかのサイトを読んで、
片膝をついて渡すのが定番だと知った。
给料の三ヶ月分のリングを
ジュエリーショップで購入して、颯太は練習した。
鏡の前で、一人で。何度も。

当日、颯太はレストランの個室を予約して、
食事が終わった頃合いを見て椅子を引いた。
片膝をついて、小箱を両手で差し出した。

「一緒に生きてほしい。結婚してください」

彼女は目を丸くして、それから吹き出した。

「やり方、古くないですか?」

颯太も苦笑した。
「……調べたらこうって書いてあって」

「可愛い」彼女はまだ笑っていた。

「もう立っていいですよ」

颯太が立ち上がると、
彼女は涙目で笑いながら「はい、喜んで」と言った。

結婚生活は穏やかだった。

颯太は家事を分担した。
料理は苦手だったが覚えた。
妻の仕事が忙しい時は颯太が多く担った。
大きな喧嘩はほとんどなかった。
でも——颯太にはうまく言えない何かが、
ずっと心の底に澱のように溜まっていた気がしていた。

五年目の秋、颯太は見てしまった。

営業回りの途中で立ち寄ったカフェの窓越しに、
妻が知らない男と向かい合って座っていた。
その距離感が、颯太には十分だった。

*ああ、そういうことか。*

颯太は何も言わなかった。
妻が話してくれるのを待った。
一週間、二週間、一ヶ月
——妻は何も言わなかった。
笑って夕食を作って、
何もなかったように颯太の隣で眠った。

一年後、颯太は探偵に依頼した。
揃えた証拠を、ある夜テーブルの上に置いた。

妻は最初、泣いて謝った。
次の日には
「颯太が構ってくれないから」
「一緒にいても楽しくないから」と言い始めた。

颯太は黙って聞いていた。

自分なりにやってきたつもりだった。
妻の好みに合わせて、休日の計画を立てて、
家事を分担して。それでも足りなかったというなら、
自分には何かが欠けているのだろう、と思った。
怒りより先に、静かな失望が来た。

「子供もいないし、慰謝料もいらない。別れよう」

颯太は淡々と言った。

また、部屋が静かになった。

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## 第十七章 それぞれの十数年

離婚してから、颯太は仕事だけになった。

意識してそうしたのか、
無意識にそうなったのか、
自分でもわからなかった。
ただ、動いていれば考えずに済んだ。
朝早く出て、夜遅く帰る。
数字を追って、提案書を書いて、部下を育てる。
いつの間にか課長になり、部長になった。

来年で四十歳。

颯太は帰宅途中のデパートの前で立ち止まって、
ショーウィンドウに映った自分を見た。
スーツの似合う、
どこにでもいる中年男性がそこにいた。

*椅子でも買うか。*

なんとなくそう思って、颯太はデパートに入った。

デザイン家具の展示会、
という案内板を目で追いながら、フロアを歩いた。
洗練されたデザインの家具が並んでいる。
颯太は実用的な椅子を探しながら、
ぼんやりとフロアを見回した。

人だかりの中心で、
一人の女性がてきぱきとスタッフに指示を出していた。

白いシャツに黒のパンツ。
髪をすっきりまとめて、その場を自然に仕切っている。
颯太は、その人の立ち姿をなんとなく目で追った。

*綺麗な人だな。*

その女性がふと顔を上げた。

颯太の方を見た。

驚いた顔をした。

そのまま颯太の方へ歩いてきた。
颯太は何か不味いことをしたかと思いながら、
立ち止まった。

「颯太!」

その声を聞いた瞬間、颯太の時間が止まった。

声には聞き覚えがあった。
でも頭がすぐに追いつかなかった。
目の前の女性を、颯太はまじまじと見た。

三十代後半。目元に少しだけ年齢の重みが加わっていたが、

その白い肌と大きな瞳は——颯太の記憶の中にある。

「……もしかして、莉央?」

女性は笑った。

「十何年ぶりなのに、『もしかして』なの」

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## 第十八章 喫茶店の一時間

仕事が終わったら会いましょう、
と連絡先を交換して別れた。

颯太はデパートの近くの喫茶店に入り、
窓際の席で紅茶を頼んだ。
カップを両手で包みながら、
今起きたことを整理しようとした。

*莉央がいた。あの展示会に。*

まさか、という気持ちと、
どこかで予感していたような気持ちが混ざっていた。
縁とは不思議なものだと、また思った。

一時間ほどして、店のドアが開いた。

莉央が入ってきた。
颯太に気づいて、小さく手を挙げた。

向かいの席に座って、コーヒーを頼んで、
それから二人は少しの間笑い合った。
何から話せばいいかわからないような、
懐かしいような、不思議な間があった。

「元気だったの?」莉央が先に聞いた。

「まあ、なんとか。莉央は?」

「私も、なんとか」

お互いに苦笑した。

それから少しずつ、話した。

莉央のパリ留学、デザインの勉強、
自分の才能の限界を知った時のこと。
外資系企業に入ってバイヤーになったこと、
外国人と結婚して、うまくいかなくて離婚したこと。
仕事も行き詰まった時に
日本の家具メーカーに引き抜かれて帰国したこと。

「デザインを作る才能はなかったけど」
莉央はコーヒーカップを持ちながら言った。

「選ぶ目は悪くなかった。
だから今があるのかもしれない」

「十分すごいよ」颯太は言った。

「自分で道を切り開いてきたじゃないか」

莉央は少し照れたように視線を逸らした。

「颯太は?」

颯太も話した。
食品会社の営業に入ったこと、
最初の三年間が死ぬほど大変だったこと、
部長になったこと。
結婚して、五年で離婚したこと。

「お互い、苦労したね」莉央が言った。

「そうだね」颯太も笑った。

窓の外に、夜の街の灯りが広がっていた。
コーヒーカップが空になっていた。
颯太はしばらくテーブルの木目を見ていた。

*言うなら、今しかない。*

十数年前、颯太は莉央を見送る時に何も言えなかった。
笑って送り出した。
それでよかったと思っていた。
でも——

「莉央」

颯太は顔を上げた。

「うん?」

「これからも、会ってくれないか」

莉央の目が、少しだけ揺れた。
それから、困ったような、
でも嬉しそうな顔で口を開いた。

「セフレとして?」

颯太は苦笑した。
その言葉には、もう怯まなかった。

「結婚を前提としたお付き合いで、お願いします」

颯太はテーブルの上に手を伸ばした。

莉央は少しの間、颯太の手を見ていた。

「相変わらず真面目だね」

莉央の手が、颯太の手の上に重なった。

颯太は胸の中で静かに息をついた。

*やっと。自分から言えた。*

その思いは声には出さなかった。
ただ、莉央に向かって、颯太は満面の笑顔を返した。

窓の外の街の灯りが、
二人の顔をやわらかく照らしていた。

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## エピローグ 棚の端の、あのメモ

その夜、颯太は一人でマンションに帰った。

部屋の電気をつけて、スーツのジャケットを脱いで
——それからふと、本棚の端を見た。

古い棚の、一番奥の隅。

そこには小さく折りたたまれた紙が、
ずっと置いてある。

颯太は手を伸ばして、それを取り出した。

もう何年も触っていなかったのに、捨てられなかった。
引っ越しのたびに、一緒に運んでいた。

広げると、見慣れた字が見えた。

『また来る』

颯太はしばらくそのメモを見ていた。

それから、静かに折りたたんで——今度は、捨てた。

もう必要ない。

彼女は本当に、また来たのだから。

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**―了―**


「あとがき」

最初は2人が最後に会っても

交際しない方向にしようと思っていたのですが

あらすじを作っているうちに

この2人は一緒になって欲しいなぁ・・・

と思い交際する事に変えました

何かそうした方がいいかなぁ~

って思っちゃったんですよね 苦笑