の続きです
ジョン・リースは
などに登場しています
# 【王女と影】続編 ― 灰色の外交 ―
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## 第十五章 偶然の発見
三月の夜、ロンドンは冷えた雨が続いていた。
エドワードは本来、別の任務の事後処理をしていた。
テムズ川沿いの倉庫街で、
東欧系の密輸ルートを追っていた調査の締め括り
——現場の最終確認と証拠写真の収集だ。
深夜二時、倉庫の周辺を無音で移動していた
エドワードは、隣の区画に光が漏れているのを見た。
本来の任務ではない。
だが、諜報員の勘というものは黙っていない。
エドワードは予定のルートを外れ、
光の方へ向かった。
倉庫の壁に背をつけ、換気口から内部を確認した。
スーツ姿の男が二人。ロシア語で話している。
テーブルの上に、木箱が複数。
箱の側面に刻まれたキリル文字
——武器のシリアルナンバーだ。
もう一方のテーブルには、
ビニールで厳重に梱包された白い粉末の
ブロックが積み上げられていた。
量が多い。
街に流れれば何百人もの人間に届く量だ。
男のひとりの顔が、光の角度で見えた。
エドワードの脳裏で、記憶と照合が走った。
駐英ロシア大使館、駐在武官。
アレクセイ・ヴォルコフ。
外交官免許証保持者。
——なぜここに。
外交官免許を持つ人間が、
深夜に民間の倉庫で武器と麻薬の中にいる。
答えは一つしかない。
エドワードはカメラを構え、証拠を記録し始めた。
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## 第十六章 外交特権の壁
MI6に報告が上がったのは翌朝だった。
ハウエル大佐の顔が、珍しく険しかった。
「証拠は完璧か」
「写真と音声記録、両方あります。
武器のシリアルナンバーも照合済みです。
ロシア軍の管理下にあった兵器です」
「外交官免許の確認は」
「本物です。ヴォルコフ武官で間違いない」
ハウエルは腕を組んだ。
「問題がある」
「存じています」
「外交官免許を持つ人間は、
ウィーン条約で身柄を拘束できない」
「それでも、現行犯で確保する根拠は——」
「グレイ、政治の話をしている」
エドワードは黙った。
「今、英国とロシアの関係は表向き安定している。
この件を表に出せば、外交問題になる。
上層部は……慎重だ」
「慎重、というのは」
「動くなということだ。今は」
エドワードは一拍置いた。
「ヴォルコフが密輸した武器が、
英国内の誰かの手に渡ります。
麻薬も同様です」
「わかっている」
「それでも」
「わかっている、と言った」
ハウエルの口調に、珍しい苦さがあった。
上の判断に納得していないのは彼も同じだ
——エドワードには読めた。
だが大佐は大佐の立場で動く。
「独自に動いていいですか」
「……証拠だけにしておけ」
「了解しました」
エドワードは三日で、
ヴォルコフの密輸ルートの全容を掴んだ。
受け渡しの時間、場所、仲介者の顔と名前、
使われている車両のナンバー
——全部揃えた。
そして四日目の夜、
証拠を揃えた上で確保に動いた。
ヴォルコフは現場で拘束された。完璧だった。
——完璧だった、はずだった。
翌朝、上層部から通達が来た。
ロシア側が外交チャンネルを通じて強く抗議。
ウィーン条約を盾に引き渡しを要求。
英国政府は関係悪化を避けるため、
要求に応じる——。
エドワードは書類を読んだ。
もう一度読んだ。
感情を顔に出さない訓練は、
今この瞬間、最大限に機能した。
「……了解しました」
それだけ言って、書類を閉じた。
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## 第十七章 ジョン・リース
一週間後。
MI6のブリーフィングルームに、
見慣れない男が座っていた。
エドワードより頭ひとつ分背が高く、肩幅が広く、
短く刈り込んだ黒髪に、
鋭いが落ち着いた目をしていた。
スーツは着ているが、
着慣れていない人間の着方ではない。
しかし軍服の方が自然だろう、
とエドワードは思った。
男は立ち上がり、手を差し出した。
「ジョン・リース。
エイキュー警備保障から来ました」
「エドワード・グレイです」
握手をした。
手の力の入れ方で、
相手の戦闘経験値が大まかに読める
——エドワードがそう感じる相手は、
これまでの人生で両手で数えるほどしかいなかった。
リースは、その数に入った。
ハウエルが背後で説明した。
「エイキュー警備保障は、
L'sコーポレーション傘下のPMCだ。
今回の件——ヴォルコフの確保について、
協力の申し出があった」
「MI6が承諾したということですか」
「……そうだ」
ハウエルの口調に、エドワードは何かを読んだ。
承諾した、というより、乗らざるを得なかった
——そういう響きだった。
「リース氏」
エドワードはリースを見た。
「L'sコーポレーションが、なぜこの件に」
「密輸ルートが我々の管理する物流網と
一部重複していました。
そちらの問題は我々が始末する。
ヴォルコフも込みで」
「込みで、というのは」
「引き渡してもらいます」
「ロシアが拒否した場合は」
リースは短く答えた。
「説得します」
その「説得」がどういう意味かを、
エドワードはこのとき正確には理解していなかった。
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## 第十八章 大使館の交渉
翌日、
エドワードとリースは連れ立って
駐英ロシア大使館に向かった。
守衛に名を告げ、応接室に通された。
対応に出たのは参事官のスモレンスキーという男で、
四十代、顔に一切の表情がない。
長くこの仕事をしてきた人間の顔だった。
スモレンスキーは椅子に座り、
書類を一枚テーブルに置いた。
「ヴォルコフ武官は既にロシアに帰国しました。
英国政府との件は外交チャンネルで処理済みです。
今日いらした用件は?」
「引き渡しを要請しに来ました」
エドワードが答えた。
スモレンスキーの目に、微かな軽蔑が混じった。
「それは既に——」
「私はMI6の話をしていません」
リースが口を開いた。
穏やかな声だった。
スモレンスキーがリースを見た。
「L'sコーポレーション、
エイキュー警備保障のジョン・リースです」
一瞬——スモレンスキーの顔に、何かが走った。
完璧な無表情に、ひびが入った。
ほんの一瞬だったが、
エドワードは見逃さなかった。
L'sコーポレーションという名前を、
この男は知っている。
そして恐れている。
「……英国政府との話は——」
「我々は英国政府ではありません」
「外交抗議を——」
「どこに?」
リースは静かに言った。
「我々には大使館も外務省もありません。
外交抗議の受け取り先がない。
遺憾の意を表明されても、
受理する窓口がないんです」
スモレンスキーの口が閉じた。
「本国に連絡して、
ヴォルコフの引き渡しについて打診してみてください。
今日中にお返事をいただければ、
話し合いの余地があります」
「……」
「もし、今日中に返事がない場合は——」
リースはそこで一拍置いた。
「我々が直接、処理します」
その「直接」が何を意味するかを、
スモレンスキーは知っているようだった。
彼は静かに立ち上がり、
「少々お待ちください」と言って部屋を出た。
エドワードはリースの隣で、
静かにそのやり取りを聞いていた。
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## 第十九章 赤の広場
回答は、その日の夕方に来た。
「ロシア連邦政府は、
いかなる民間組織の要求にも応じない」
電話越しにスモレンスキーが読み上げた。
声が、わずかに震えていた。
怒りか恐怖か、あるいは両方か。
リースは電話を持ったまま、静かに言った。
「了解しました。
では、我々の意思をお伝えする必要がありますね」
通話を保留にし、腕時計型の端末を操作した。
数秒後、
エドワードの携帯に通知が来た
——ニュース速報だった。
『モスクワ、赤の広場上空に正体不明の光線。
地上にロシア語で「標的」の文字』
エドワードは画面を見た。
衛星映像のような角度から撮られた映像が
広まっていた。
赤の広場の石畳の上に、
巨大な文字が光で刻まれていた。
上空からの高出力レーザー照射
——大気圏外からの精密誘導だ。
エドワードはその技術レベルを
即座に計算しようとして、答えが出なかった。
現在の人類の技術水準を超えている。
リースが保留を解除した。
「お伝えできましたか。次の標的はクレムリンです。
ヴォルコフの引き渡しを、
今すぐ本国に要請してください」
電話の向こうで、
激しいロシア語が飛び交う音がした。
その三十秒後——ニュース速報がもう一件来た。
『赤の広場に巨大な陥没穴。
深さ不明、直径約五十メートル。
負傷者なし、建物への被害なし』
ピンポイントで、人的被害ゼロ。
それが可能な精度を持つ兵器が、
この世に存在する。
エドワードは画面を見ながら、
自分がこれまで生きてきた
「世界の常識」というものの縁が、
静かに崩れていく感覚を味わった。
五分後、本国モスクワから回答が届いた。
「ヴォルコフの引き渡しに応じる」
リースは電話を切り、端末を操作した。
エドワードは隣でその一部始終を見ていた。
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## 第二十章 握手
ヴォルコフの身柄は翌日、
ロシア側から英国に引き渡された。
エドワードが三日かけて集めた証拠と合わせて、
法的処理に渡すことができた。
密輸ルートは遮断された。
MI6のロビーで、リースが帰り支度をしていた。
エドワードは近づいた。
「お疲れ様でした」
「こちらこそ」
「一つ聞いていいですか」
「どうぞ」
「赤の広場の件
——あれは、本当に最初から人的被害が出ないと
確信していましたか」
リースは少し考えてから、答えた。
「精度の誤差は、
プラスマイナス三十センチメートル以内です」
「……それは答えになっていますか」
「なっていると思いますが」
エドワードは二秒間、リースを見た。
リースも、こちらを見ていた。穏やかな目だった。
「L'sコーポレーションとは、何ですか」
「民間企業です」
「それだけですか」
「今のところ、それだけです」
曖昧な答えだが、嘘をついている様子はなかった。
エドワードは深く追わないことにした。
諜報員として、今の自分が持っている情報と
権限の範囲で答えが出る質問ではないと判断した。
リースが手を差し出した。
エドワードはそれを握った。
「グレイ、あなたは優秀だ」
「……ありがとうございます」
「また仕事をする機会があれば」
「そのときは」
リースはそれだけ言って、
MI6のロビーを出ていった。
ガラスのドア越しに、
その背中が遠ざかっていく。
エドワードはしばらくそこに立っていた。
今日一日で、自分の世界の地図に、
これまでなかった領域が書き加えられた。
軍事力、経済力、技術力、外交力
——そのすべての面で既存の国家を
上回る組織が存在する。
そしてそれは、クレムリンを标的にすると言って、
実際に赤の広場に一キロメートルの
穴を開けることができる。
既存の常識が通じない。
——世界は、自分が思っているより広い。
エドワードはそう思った。
特殊工作員として長く生きてきて、
今さら世界の広さに驚くとは思っていなかった。
廊下を歩きながら、携帯を開いた。
エリザベスからのメッセージが来ていた。
「グレイくん、今日どこにいるの?
昨日も連絡なかったし」
エドワードは歩きながら短く返した。
「任務中でした。終わりました」
三秒で返信が来た。
「よかった!夕飯一緒に食べない?」
「護衛の立場上——」
「護衛ならそばにいた方がいいでしょ」
また論破された。
エドワードは携帯を見たまま、
ほんの少し、眉を上げた。
「——了解しました」
送信した。
ロンドンの夜は、まだ灰色だったが、
雨は止んでいた。
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**【続く】**