# 求婚者の誓い

## 第一章 狂気の演技

エーゲ海に面したイタケの宮殿に、一隻の船が着いた。
舳先には、ナフプリオの紋章が翻っている。

「パラメデス様のお成りだ」

見張りの声に、宮殿内が慌ただしくなった。
だが、オデュッセウスは動じなかった。
いや、動じないふりをしていた。

彼は妻ペネロペに優しく微笑みかけた。
赤子のテレマコスを抱いた彼女の顔には、
不安の影が落ちている。

「大丈夫だ。計画通りにいく」

オデュッセウスは言ったが、
ペネロペの不安は消えなかった。
彼女の父イカリオスは、
ヘレネの父テュンダレオスの兄弟である。
つまりペネロペとヘレネは従姉妹同士。
かつてオデュッセウスはヘレネに求婚したが、
選ばれたのはメネラオスだった。
その代わりに、
彼は従姉妹であるペネロペと結ばれた。

運命とは皮肉なものだ。
あの時、自分が提案した「求婚者の誓い」が、
今、自分の首を絞めようとしている。

「ヘレネ様がトロイアの王子パリスに奪われた以上、
あの誓いは発動されます」
ペネロペが囁いた。

「あなたも、戦争に行かなければ……」

「行かない」

オデュッセウスは断言した。

「予言を忘れたわけではないだろう?
もし戦争に行けば、二十年は戻れない。
そして帰ってきた時は、
ボロボロの状態だと言われた。
お前と、この子を、
そんなに長く待たせるわけにはいかない」

彼は海岸へと向かった。
そこには、牛と馬を繋いだ奇妙な鋤があった。

## 第二章 天才の洞察

パラメデスが浜辺に降り立った時、
目に飛び込んできたのは異様な光景だった。

イタケの王オデュッセウスが、
牛と馬という全く異なる動物を一つの鋤に繋ぎ、
畑を耕している。
しかも、畑に蒔いているのは麦ではなく、塩だ。

「オデュッセウス王!」
パラメデスが呼びかけた。

オデュッセウスは振り返らず、
虚ろな目で塩を撒き続けた。

「ははは、塩だ、塩を蒔けば……
何が育つ?何も育たぬ!ははは!」

狂人の演技。パラメデスの鋭い目がそれを見抜いた。

この男は、文字を発明し、計量の基準を作り、
サイコロを考案した天才だ。
戦略家としての能力は、
オデュッセウス自身と並び称されるほど。
そんな男を、拙い演技で欺けるはずがない。

「王よ」パラメデスは静かに言った。

「狂気とは便利なものですな。
それを装えば、誓いから逃れられると?」

「塩!塩!塩を蒔け!」
オデュッセウスは叫び続けた。

パラメデスは踵を返し、宮殿へと向かった。
そして、乳母の腕から、幼いテレマコスを受け取った。

「何をなさる!」
ペネロペが叫んだ。

パラメデスは無言で、赤子を抱いて畑へと戻った。
そして、オデュッセウスが耕す畑の真ん中、
鋤の進む道の上に、テレマコスを置いた。

「塩を!塩を蒔……」

オデュッセウスの声が止まった。

鋤が赤子に近づく。
牛と馬が進む。あと少しで——

「やめろ!」

オデュッセウスが叫び、鋤の手綱を引いた。
動物たちが止まる。
彼は転がるように走り寄り、息子を抱き上げた。

「正気に戻られたようですな」
パラメデスが冷たく言った。

オデュッセウスは、
激しい憎悪の眼差しでパラメデスを見た。
だが、もう逃げ道はない。
自分の息子への愛情が、狂気の演技の嘘を暴いた。

「……トロイア遠征に参加しよう」
オデュッセウスは低く呟いた。

「だが、パラメデス。この恨み、忘れぬぞ」

「恨まれるのは慣れております」
パラメデスは平然と答えた。

「あなたの知略は、この戦争に不可欠なのです」

## 第三章 説得の連鎖

オデュッセウスが遠征への参加を承諾すると、
事態は急速に動き出した。

彼は自らの足で、かつての求婚者たちを訪ね歩いた。
心の中では、二十年という予言の言葉が
重くのしかかっていたが、表には出さなかった。

「私も行くのだ。お前だけが逃れられると思うな」

この言葉は、幸せな生活を送っていた
元求婚者たちに、重くのしかかった。

最初は渋っていた者たちも、
オデュッセウスの弁舌と、
何より彼自身が行くという事実に、
次々と陥落していった。

「オデュッセウスほどの知略家が行くのなら……」

「あの慎重な男が参加を決めたのだから、
勝算があるのだろう」

「誓いは誓いだ。破れば、名誉が……」

こうして、かつてヘレネに求婚した者たちが、
一人、また一人と、遠征への参加を表明していった。

だが、まだ決定的に重要な人物が欠けていた。

## 第四章 預言者の言葉

アウリスの港に、
ギリシャ連合軍の船が集まり始めた頃、
一人の男が総大将アガメムノンの天幕を訪れた。

預言者カルカス。

「お前は、トロイア出身だったな」
アガメムノンが言った。

「はい」カルカスは頷いた。

「私はトロイアの滅亡を予見しました。
そして、パリス王子の行為——妻ある客人から、
その妻を奪うという恥ずべき行為に、
反感を抱きました。
だからこそ、祖国を出て、この地に来たのです」

「で、予言とは?」

「この遠征には、絶対に欠かせぬ人物がいます」
カルカスの目が、遠くを見た。

「ペレウスとテティスの息子、アキレウス。
彼なくして、トロイアは落ちません」

「アキレウスか……」
アガメムノンが呟いた。

「あの若武者を、どうやって?」

その時、天幕の入口が開いた。

「その件なら、私にお任せを」

オデュッセウスだった。
彼の顔には、かつての狂気の演技の面影はない。
そこにあるのは、冷徹な戦略家の表情だった。

「アキレウスの母テティスは、
息子を戦争に行かせたくないはずです。
恐らく、何か策を講じているでしょう。
ですが……」

オデュッセウスは不敵に笑った。

「策には、策で対抗するまでです」

彼の心の奥底では、パラメデスへの恨みが、
静かに燃えていた。いつか、必ず、この借りは返す。

だが今は、戦争だ。

二十年。その予言が現実になるかどうかは、
これから始まる戦いにかかっている。

オデュッセウスは、遠くトロイアの方角を見据えた。
そこには、彼の運命が、ギリシャ全軍の運命が、
そして一人の女、ヘレネをめぐる、
神々と人間の壮大な物語が、待ち受けていた。

**——求婚者の誓いは、
こうして果たされようとしていた。
だが、誰も知らなかった。
この戦争が、どれほど多くの英雄たちの
運命を狂わせることになるのかを——**

(終)