第三百七十五弾「転換」の続きです

 

田中陽介が「個人として闘う」と宣言してから、
三日が経っていた。

その三日間、彼のスマートフォンには
絶えず着信が入り続けていた。
発信元は日本支社の役員室、そして本社の法務部。
表示される名前を見るたびに、
陽介はベッドの上で小さく息を吐いた。

会社が黙っているはずはない、とは分かっていた。
だが、彼が思っていた以上に、
その反応は早く、そして重かった。

「田中さん。
個人の判断で会見を開かれたことは、承知しています」

見舞いに訪れた本社法務部の男は、
丁寧な口調でありながら、
有無を言わせぬ響きを含んでいた。

「ですが、田中さんは日本支社の役員です。
あなたの発言は、
もはや『個人』の枠には収まりません」

陽介は苦笑した。
分かってはいたことだった。
それでも、彼はあの会見の場で
「個人的に」という言葉を選んだ。
自分一人の意思で立ち上がったのだと、
そう示すために。

しかし、L'sコーポレーションという組織の理屈は、
彼の思惑をあっさりと超えていった。

そもそも、L'sコーポレーションの
社員になるという行為自体が、生半可なものではない。
採用に至るまでには、これ以上ないほどの厳選と、
身辺から思想信条に至るまでの徹底的な調査が課される。

ここに籍を置く者は、皆一様に「非常に重要な存在」
として扱われる。
たとえ陽介が役員でなく、
平社員の一人であったとしても
――L'sコーポレーションは
その社員のために全精力を注ぐ組織だった。

そしてその「全精力」が意味するものは、
あまりにも大きすぎた。

L'sコーポレーションが本気で行使する力は、
中小国どころか、大国さえも
容易く滅ぼしうるものだと言われていた。
それでいて、彼らはその力を誇示することを
好まなかった。
彼らが力を用いるのは、
ほとんどの場合、報復の時に限られていた。

個人であれ、組織であれ、企業であれ、国家であれ

――L'sコーポレーションに何かを仕掛けた者には、
必ず、容赦のない報復が下される。
規模の大小は問題ではなかった。
小さな挑戦であろうと、国家規模の敵対であろうと、
下される報復は常に徹底的なものだった。

今回の一件は、日本の司法制度と、
それに巣食う人権派を自称する弁護士たちへの
報復として、静かに動き出していた。

ただし、その恐ろしさを本当に理解している者は、
決して多くはなかった。

大多数の検察官や弁護士、
そしてマスコミの人間たちは、
L'sコーポレーションの力を見くびっていた。
だからこそ、この件はほとんど報道されることなく、
検察や弁護士たちは
「どうせ何もできまい」と鼻で笑っていた。

だが、状況は静かに、そして確実に変わり始めていた。

事件をわずかにでも報道したテレビ局と新聞社
――それらを除くほぼ全てのマスコミに対して、
スポンサー企業が一斉に撤退を表明したのだ。

大手マスコミのスポンサーとなるような
大企業の多くは、L'sコーポレーションから
最先端技術の供与を受けていた。
その技術供与の継続に、今回の一件を理由とした
「中断」の可能性が示唆された。
企業側に残された選択肢は、ひとつしかなかった。
不平等な報道を続けるマスコミのスポンサーを、
自ら降りることだった。

そして、最大の出資者であった
L'sコーポレーション自身も、
当然のようにスポンサーの座から降りた。

これは、マスコミにとって死活問題だった。
広告収入の柱が、音を立てて崩れていく。

同時に、検察官や弁護士たちの親族にも、
あらゆる方向から圧力がかけられていった。
取引先が突然契約を打ち切り、
勤め先が謎の経営難に陥り、
子供の進学先の話が急に立ち消えになる。
目に見える暴力は、どこにも存在しなかった。
それでいて、日常のあらゆる場所から、
静かに、確実に、生活の足場が崩されていく。

追い詰められた検察官や弁護士の一部は、
裏で繋がっていた反社会的組織に助けを求めた。

だが、暴力でL'sコーポレーションに
勝てるはずがなかった。

助けを求められた反社組織は、次々と壊滅していった。
事務所への強制捜査、幹部の一斉逮捕、資金源の凍結。
これらは連日ニュースを賑わせる
大事件として報じられたが、
それを見ている一般の人々は、
その裏にL'sコーポレーションの意向が
働いていることに、
誰一人として気づいていなかった。

一般大衆というのは、
これまでマスコミの報道をそのまま信じてきた
人間が多かった。
インターネットの普及によって、
独自に真実を探ろうとする者も増えてきてはいたが、
そのネット上にもまた、
マスコミの論調に迎合する人間が多く存在していた。
上手く情報を取捨選択しなければ、
結局はマスコミの作った物語の中に取り込まれてしまう。

それが、今のこの国の情報環境だった。

当然、マスコミは黙って引き下がるわけではなかった。
反対意見を発信する者たちを、
組織的に潰しにかかった。

しかし、今回はそれもうまくいかなかった。

マスコミの主張に迎合し、
御用記者として振る舞っていた
ネット上の人間たちにも、
L'sコーポレーションの手は静かに伸びていた。
人知れず「事件の被害者」となった者たちが、
既に何人も存在していた。

L'sコーポレーションの行動は、
その実態を突き詰めれば、
明らかに「悪」に分類されるものだった。
一国の法を無視し、自らの意向を強行する。
それは法治国家の枠組みから見れば、
決して許されるべき行為ではない。

だが――それに逆らえる人間も、組織も、国家も、
この地球上には存在しなかった。

L'sコーポレーションを制止できる者は、
誰もいなかった。

――以降、続く。

 

 

マンションの廊下は、
いつも通りの静けさに満ちていた。

蛍光灯が等間隔に並び、
コンクリートの壁に淡い影を落としている。
田中陽介はその廊下を、もう何百回と歩いてきた。
二十三歳、
都心から少し外れたこのマンションに
越してきて三年になる。
隣人たちは彼のことを何も知らなかった。
朝は決まった時間に出て行き、
夜も決まった時間に戻ってくる。
それ以外の情報は、誰も持っていなかった。

「何の仕事してるんだろうね、あの人」

「なんか怪しくない? いつも黒い車が迎えに来るし」

「関わらない方がいいわよ、きっと」

そんな声が、薄い壁を通して
陽介の耳に届くこともあった。
彼はそのたびに、小さく笑うだけだった。
反論する必要もなかったし、
理解してもらう必要もなかった。
彼の仕事は、そういう種類のものだった。

その日、廊下がいつもと違う色をまとっていた。

隣室のドアの前に、制服警官が四人、
その奥に私服の男が三人立っていた。
緊迫した空気が、狭い廊下全体を満たしている。
無線機の雑音、押し殺した声、革靴が床を擦る音。
陽介は自室のドアを薄く開けたまま、
しばらくその光景を見つめていた。

――何かがあった。

好奇心か、それとも単なる習慣か。
陽介は玄関のドアを開け、廊下に一歩踏み出した。

その瞬間だった。

隣室のドアが内側から蹴破られるように開き、
痩せた男が飛び出してきた。
目が血走り、口元には泡のようなものが浮いている。
手には黒光りする拳銃。
警官たちが叫び声を上げる間もなく、
男は無造作にそれを構え、
廊下に立っていた唯一の一般人
――陽介に向けて引き金を引いた。

破裂音が、狭い廊下に反響した。

陽介の体が、後ろに弾かれるように傾いだ。
左肩から胸にかけて、焼けるような、
それでいて奇妙に遠い感覚が広がっていく。
膝から力が抜け、視界が傾く。
廊下の天井の蛍光灯が、
やけにゆっくりと流れていくように見えた。

警官たちは、その場に立ち尽くしていた。

誰も動かない。
誰も反応しない。
まるで時間ごと凍りついたかのように、
七人の男たちがただ突っ立って、
床に崩れ落ちていく一人の青年を眺めている。

――ああ、そうか。

朦朧とする意識の中で、
陽介は妙に冷静にそのことを理解した。
この男たちは、これまで何度もこの犯人を
取り逃がしてきたのだろう。
裁判にかけても不起訴、拘束しても釈放。
慎重に、慎重に事を進めてきたはずだった。
だからこそ、丸腰だと思い込んでいた男が
実弾入りの拳銃を隠し持っていたという事実に、
思考が追いつかないのだ。

血の匂いが鼻をつく。
床に広がっていく赤い染みを、
陽介は他人事のように見つめた。

このままでは、まずい。

「――救急車」

声にならないほど掠れた声だったが、
それでも廊下の空気を震わせるには十分だった。

「救急車を呼べ!!」

もう一度、今度は喉が張り裂けるような叫びで、
陽介は言った。
その一声で、凍りついていた警官たちが
ようやく我に返ったように動き出した。
無線機に怒鳴るような声、駆け寄ってくる足音、
誰かが陽介の体を支える手の感触。
犯人の男はすでに複数の警官に取り押さえられ、
床に組み伏せられていた。

意識が薄れていく中、陽介はぼんやりと考えていた。

――この男は、いったい何人目なんだろうな。

搬送される救急車の中で聞こえてきた話によれば、
犯人は不法滞在の外国人で、
これまで交通事故、窃盗、強姦、強盗傷害と、
数え切れないほどの罪を重ねてきた人物だった。
それでいてすべてが不起訴。
理由の一端には、彼に付いていたという
「人権派」を自称する
弁護士の存在があるらしかった。

サイレンの音が遠くに聞こえる。
陽介は目を閉じながら、静かに、
しかし確かな熱を持って、
ひとつの決意を固めていた。

――誰が本当の犯人なのか、
僕がはっきりさせてやる。

***

一週間後、病院の一室に、
場違いなほど多くのカメラと記者が詰めかけていた。
とはいえ、その数は決して多いとは言えなかった。
しょせんは「通り魔的な誤射事件の被害者による会見」
程度の扱いだったからだ。
集まった記者たちの顔には、あからさまな退屈と、
どこか小馬鹿にしたような色が浮かんでいた。

ベッドに半身を起こした陽介は、
点滴の管を引きずりながら、
静かにマイクの前に座った。

「今日、皆さんに集まっていただいたのは、
この国の司法の在り方について、
そして特定の弁護士について、
正式に追及していく意思を表明するためです」

記者席から、くすくすという笑いが漏れた。

「司法を追及、ねぇ」

「一介の会社員が何を言い出すんだか」

そんな囁きが、マイク越しにも拾えるほどの音量で響く。

陽介はその反応を気にする様子もなく、淡々と続けた。

「私を撃った男は、これまで交通事故、窃盗、強姦、
強盗傷害と繰り返してきたにもかかわらず、
すべて不起訴になっています。
その背景には、特定の思想を持つ弁護士による
組織的な介入があったと、私は確信しています」

「あの、失礼ですが」
記者の一人が、あくびを噛み殺しながら手を挙げた。

「田中さんは、どちらにお勤めなんですか?」

質問の意図は明らかだった。
しょせんは名もなき会社員が、
被害者感情に任せて大言壮語を吐いているだけだ
――そういう空気を含んだ問いだった。

陽介は、一瞬だけ間を置いてから答えた。

「L'sコーポレーションです」

その瞬間、部屋の空気が変わった。

先ほどまでの弛緩した表情が、
記者たちの顔から一斉に消え去った。
カメラを構えていた手が止まり、
ペンを走らせていた指が固まる。
誰かが小さく息を呑む音が聲こえた。

L'sコーポレーション。

その名を聞いて動揺しない人間は、
この国に、いや、この世界にほとんど存在しなかった。
世界的な多国籍企業――という言葉では
到底表現しきれない存在。
経済力においても、軍事力においても、
もはやアメリカ合衆国すら凌駕している
とまで囁かれる、事実上の世界の頂点。
国家であろうと巨大企業であろうと、
L'sコーポレーションに逆らった者に
「明日」が訪れることはない、
とまことしやかに語られていた。

現代文明を支える最先端技術のほぼすべてが、
この企業に端を発しているとされていた。
そしてなお、彼らはまだ世に出していない
未知の技術を、山のように抱え込んでいるとも
噂されていた。
当然、世界中の国家機関や企業がその技術を
不正に奪取しようと、幾度となく試みてきた。
だが、その結末はいつも同じだった。
送り込まれた凄腕の工作員たちが、
誰一人として帰ってくることなく、
屍の山を築くだけに終わるのだ。

その企業の社員が、
たった今、マイクの前に座っている。

記者の一人が震える声で尋ねた。

「その……L'sコーポレーションの社員である
田中さんが、個人的に、司法や弁護士を追及すると
……そういうことでしょうか」

陽介は、点滴の管が繋がれた腕を
静かに机に置きながら、
口元にわずかな笑みを浮かべた。

「ええ。個人的に、です」

その「個人的に」という一言が、
部屋の空気をさらに凍りつかせた。
個人の意思ですら、これほどの重みを持つ。
それがL'sコーポレーションという存在だった。

会見場のざわめきが、静寂へと変わっていく。
誰もが息を潜め、
この痩せた青年の次の言葉を待っていた。

――以降、続く。

 

第三百七十一弾「 車輪の記憶」

第三百七十ニ弾「 車輪の記憶 その2」

第三百七十三弾「 車輪の記憶 その3」

の続きです

 

# 車輪の記憶

## 第五章 出したくないカード

「我が国の住民が――虐殺されているとの報告が」

 その一言を聞いた瞬間、誉は言葉を失った。
全身から血の気が引いていくのが、
自分でもはっきりと分かった。
だが同時に、心のどこか冷めた部分が、
静かにこう囁いてもいた。

(――結局、そうなったか)

 占拠された国境付近の地域に、
ユナイト連邦の治安部隊と称する軍が居座り続けてから、

すでに数週間が経っていた。
その間、誉は表向き外交による解決を
模索し続けてきたが、内心ではずっと、
この最悪の展開を予感していたのかもしれない。
この世界の軍隊というものが、
誉の知る自衛隊のような、
規律に厳格に縛られた組織とは根本的に異なることを、
誉はすでに嫌というほど思い知らされていた。
略奪、暴行、そして――今、報告された虐殺。
戦時、あるいはそれに準ずる状況において、
そうした犯罪行為が「当たり前のように」
行われることを、誉はこの世界に来てからの
短い期間だけで、痛感させられていた。
占領地に、規律もろくに保たれていない軍隊が
駐留し続ければ、こうした事態が起きることは、
むしろ必然だったのかもしれない。

 誉は目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
そして、それまで意図的に手元に温存してきた、
出したくないカードに――ついに手をかけた。

「軍を派遣して、住民の保護をさせろ」

 誉は、震えそうになる声を必死に抑え込みながら、
そう命じた。

「ただし――戦闘は厳禁だ」

 治安部隊だけを送り込めば、
正規の軍隊を相手にしては全滅する可能性が極めて高い。

かといって、正面から軍隊同士をぶつければ、
それこそ誉が最も避けたかった、
全面的な武力衝突への引き金になりかねない。
誉に残された道は、軍を派遣して相手を牽制しながら、
あくまで住民の保護という一点に絞って対処するという、

極めて危うい綱渡りだけだった。

「付近の国民は、一時的に避難させろ。
強制的にして構わない」

 誉は間を置かず、次の指示を続けた。

「死ぬよりも、マシだろう」

 その言葉を口にした瞬間、誉の胸に鈍い痛みが走った。

住み慣れた土地を、家を、
強制的に追い立てられる国民たちの顔が、
目に浮かぶような気がした。
だが、それでも、命だけは何としても
守らなければならない。
なるべく国民への被害を最小限に抑えたい
――誉はその一心で、心を鬼にしてそう命じた。

「我が国に協力してくれる国は、あったか」

 誉は続けて、そう尋ねた。
軍事的な対応と並行して、
誉が水面下で進めさせていた外交交渉の成果に、
藁にもすがる思いで期待をかけていた。
ユナイト連邦のこの横暴な侵略行為を、
公然と非難してくれる国を
――誉は探し続けていた。

(どこの国だって、いつ、
うちと同じ立場に立たされるか分からないはずだ)

 誉はそう信じていた。
だからこそ、最悪の事態を避けるために、
互いに協力し合うべきなのだと。
一国だけでは到底防衛しきれなくとも、
複数の国家が手を取り合って対抗すれば、
侵略という選択肢そのものを、
相手に躊躇させることが出来る。
それこそが、誉がドイツで学んだ
「備え」の本質だと信じていた。
一国の孤立した強さではなく、
価値観を同じくする者たちが手を取り合うことで
築かれる、抑止のための連帯。

 だが――現実は、誉のその願いに対して、
あまりにも冷淡だった。

 そう簡単に、協力を申し出てくれる国など、
現れるはずもなかった。
どの国も、自国の利害と、
ユナイト連邦やその同盟国との関係を天秤にかけ、
あるいは沈黙し、あるいは曖昧な言葉で
同情を示すに留まった。
誰も、火中の栗を拾おうとはしなかった。
誉はその報告を受けるたびに、
国際社会というものの冷徹な現実を、
一つ、また一つと思い知らされていった。

「――ユナイト連邦と通じていた企業が、
判明いたしました」

 その報告を受けた時、誉は一瞬、
僅かながらも光明を見出した気がした。
裏切り者の正体が明らかになったのなら、
少なくとも国内の膿を出し切ることは出来る。
誉は差し出された資料に手を伸ばし、
逸る気持ちで目を通した。

 だが、その内容を読み進めるにつれ、
誉の顔から血の気が引いていった。

 国に対して多大な献金を行い、
国外にもその名を知られた、
押しも押されもせぬ大企業
――それが、内通していたというのだ。

(――これは、単純に潰せる相手じゃない)

 誉は資料を握りしめたまま、しばし呆然とした。
この企業は、国内に膨大な数の従業員を抱えている。
もしこの会社を今この瞬間に解体すれば、
街には大量の失業者が溢れ返ることになる。
ただでさえ食糧不足に喘ぐ国民たちが、
更に生活の糧までも失うことになれば
――それは、誉が守ろうとしているはずのものを、
自らの手で壊すことに等しかった。

 誉は何度も何度も、資料と向き合い、
あらゆる選択肢を頭の中で検討し続けた。
全面的な解体。
一部部門の切り離し。
あるいは、国有化という手段もあるかもしれない。
だが、どの案にも、
実行に移すには大きすぎる代償が付きまとった。

 試行錯誤の末に、誉が出した結論は
――社長以下、一部の重役に限定した検挙だった。

 これならば、企業そのものは存続させることが出来る。

従業員たちの生活を、根こそぎ奪うことにはならない。
だが、それは同時に、
内通の全容を完全には裁ききれないという、
苦渋の妥協でもあった。

「受け皿が見つかるまでは、
潰すわけにはいかない、な……」

 誉は資料を机に置き、両手で頭を抱えた。
その呟きは、誰に向けたものでもなく、
ただ自分自身に言い聞かせるための言葉だった。

 完璧な正義など、この状況のどこにも存在しない。
誉はそのことを、痛いほど思い知らされていた。
虐殺を止めるために出したくないカードを切り、
国民を守るために強制的な避難を命じ、
裏切り者を裁くために不完全な妥協を選ぶ。
そのどれもが、何かを犠牲にしなければ成立しない、
危ういバランスの上に成り立っていた。

(それでも――僕は、この国を、
これ以上悪い方向には進ませない)

 誉は窓の外に広がる、
重く垂れ込めた雲を見上げながら、
静かにそう心に誓った。
だがその誓いの奥底には、
拭いきれない不安が、確かに存在していた。
この綱渡りが、いつまで続けられるのか
――誰にも、分からなかった。

(以降、続く)

 

第三百七十一弾「 車輪の記憶」

第三百七十ニ弾「 車輪の記憶 その2」

の続きです

 

# 車輪の記憶

## 第四章 強行の代償

「治安組織による取り締まりで、
違法行為をするイスマム人の逮捕は出来ないのか」

 誉は、こみ上げる焦燥を
必死に抑えながらそう尋ねた。
これだけの被害が積み上がっているのだ、
既存の法執行機関で対処できないはずがない
――そう信じたい気持ちが、
質問の端々に滲んでいたかもしれない。
だが返ってきた答えは、
その淡い期待をあっさりと打ち砕くものだった。

「治安部隊が出動した時には、
すでに犯行後であることがほとんどです」

 報告した男の声には、疲労と諦めが混在していた。

「イスマム人は虚偽の証言を行い、
自分の犯罪をなかったことにしようといたします。
あるいは多言語を用い、
意図的に言葉を通じさせないようにいたします。
更には、裏で通じている企業がこれを擁護し、
『差別だ』と騒ぎ立てて、
取り締まりそのものを妨害してまいります」

 誉の中で、何かがぷつりと切れる音がした。

(――これは。これは、日本と同じだ)

 誉の脳裏に、ドイツ留学から帰国して以降、
テレビや街角で幾度となく目にしてきた光景が蘇った。
弱腰な対応が、問題を悪化させる
一方でしか機能しなかった祖国の姿。
取り締まりを強めれば「差別だ」と声高に非難され、
かといって放置すれば被害はじわじわと拡大していく。
誰も彼もが「もっと早く、もっと強く対応していれば」
と口にする頃には、すでに手遅れになっているという、
あの繰り返しを、誉は何度も目の当たりにしてきた。
ニュースの向こう側の出来事だと思っていたそれが、
いつの間にか自分の生活圏の中にまで
入り込んでいたのを、誉は肌で知っていた。

(もう、同じ轍は踏まない)

 誉の中で、静かに、しかし確固たる決意が固まった。
ここで多少強引な手段を用いてでも、
早期に食い止めなければ
――問題は間違いなく拡大の一途を辿る。
それは、これまで報告を聞いてきた
わずか数時間の間だけでも、
痛いほどに理解できていた。

「治安部隊で人員が足りないというのなら」

 誉は、震えそうになる声を
腹の底から押し出すようにして続けた。

「軍を出動させろ。
違法行為を行うイスマム人を捕縛し、
強制送還しろ」

 会議室にどよめきが走った。
だが誉は構わず続けた。

「抗議する企業についても同罪として罰するように」

 不法入国したイスマム人の数の多さを鑑みれば、
治安部隊だけでの対処には限界がある。
誉はそう判断し、軍の出動を許可した。
だが、その決断を下した瞬間にも、
誉の胸の奥では、もう一人の自分が必死に囁いていた。

(殺害するわけじゃない。
あくまで、捕縛と送還だ。それだけだ)

 自分にそう言い聞かせなければ、
この決断の重さに押し潰されてしまいそうだった。
自国民を守るためには、
違法行為を働く外国人を強行的に罰していくしかない。
誉はそう自分に言い聞かせた。
国というものは、そもそも同じ価値観を持つ人々が、
共同で自分たちの暮らしを守るために
作り上げてきたものだ。
ごく少数の、異なる価値観を持つ者たちの
身勝手な行動によって、
多くの国民が理不尽な被害を被る事態を、
国の長たる者が見過ごすことなど許されない。
もしその判断すら下せないというのなら
――その人間には、
そもそも国の長に立つ資格などない。

 誉は膝の上で、震える拳を強く握りしめた。

 ――そして、三ヶ月が経った。

 国境付近に不法入国していた外国人たちは、
軍と治安部隊の合同作戦によって次々と捕縛され、
強制送還された。
その過程で、いくつかの小規模な衝突が起きた
という報告も上がってきたが、
誉が最も恐れていたような大規模な流血には
至らずに済んだ。
誉はその報告を受けるたびに、安堵と、
それでもなお拭いきれない罪悪感の間で、
複雑な思いを抱き続けていた。

 だが、この強行的な措置に対して、
隣国からは即座に非難声明が発表された。

「人権を無視した強制排除である」

「多文化共生の理念に反する暴挙だ」


――そうした言葉が、外交ルートを通じて
次々とカールの元に届けられた。
誉はそのたびに、外務を司る官僚たちを通じて、
自国の立場を強く主張させた。

「これは自国民を守るための、
正当な犯罪者の排除に過ぎない」

 その一点だけは、誉は決して譲らなかった。
譲ってはいけないと思った。
ここで一歩でも引けば、
この三ヶ月間の対応そのものが、
無意味なものになってしまう。

 だが、事態は誉の想像を超えて、
更に悪い方向へと転がっていった。

 イスマム国の同盟国である、ユナイト連邦。
その国が、「イスマム人保護のため」と称して、
国境を越えて治安部隊を派遣してきたのだ。

 その報せを聞いた瞬間、
誉は椅子から立ち上がりかけた。

(これは――どう考えても、内政干渉だ。
いや、それどころか)

 誉の背筋に、冷たい汗が伝った。
他国の軍事力を、要請もなしに、自国の領土内へ、
しかも実力をもって送り込んでくる。
それは、誉がドイツで学んだ歴史の教科書の中で、
幾度となく目にしてきた「侵略」
という言葉の定義そのものに、
限りなく近いものだった。

(絶対に、してはいけないと誓ったはずのことが
――今、自分の国に向けられている)

 誉の胸の中で、皮肉な感情が渦を巻いた。
侵略戦争を憎み、二度と繰り返させてはならないと
誓ったはずの自分が、今まさに、その侵略の側から
――否、侵略される側から、この事態を見つめている。

 誉は震える声を必死に押さえつけながら、
居並ぶ重臣たちに向けて指示を下した。

「すぐに軍隊を送ることは避ける」

 その一言に、会議室の空気がわずかにざわついた。
強硬な対応を予想していた者たちにとって、
それは意外な判断だったのだろう。
だが誉には、確固たる考えがあった。
ここで即座に軍を動かせば、
それこそ相手に「先に武力を用いたのはこちらだ」
という口実を与えてしまう。
それだけは、絶対に避けなければならない。

「ユナイト連邦の行為は、明確な侵略行為である。
早急に、そして完全に撤退するよう、
あらゆる外交ルートを通じて強く抗議しろ」

 誉はそう命じた。
声は震えていたが、その芯だけは、
決して揺らがせないよう強く意識した。

 だが――返ってきたユナイト連邦の主張は、
誉の想像を更に上回る、悪意に満ちたものだった。

「これはあくまで、
イスマム人救援のための人道的措置である」

「加えて、地元企業からの
正式な要請を受けた上での行動である」

 そう主張したユナイト連邦は、撤退の要求を無視し、
あろうことか国境付近の一部地域を占拠したまま、
居座り続けたのだった。

 その報告を受けた誉は、拳を握りしめたまま、
しばらく言葉を発することが出来なかった。
頭の中では、様々な感情が渦を巻いていた。
怒り、焦り、そして――言いようのない恐怖。

(僕は、戦争だけは、絶対に起こしたくない。
それだけは、絶対に――)

 だが、目の前の現実は、
その願いを嘲笑うかのように、着実に、
そして残酷に、望まぬ方向へと形を変えつつあった。
誉は窓の外に広がる、見知らぬ国の空を見上げた。
そこには、あの夜、キャンプ場で見上げた、
落下してくる巨大な機影の記憶が、
不意に重なって見えた気がした。

(以降、続く)

 

第三百七十一弾「 車輪の記憶」の続きです

 

# 車輪の記憶

## 第三章 積み上がる難題

 案内されるままに廊下を進み、
両開きの扉をくぐった瞬間、
カール――いや、その身に宿った岡村誉は
場違いな感想を抱いた。

(学校の体育館くらいかな)

 高い天井、
整然と並んだ長机、
正面に掲げられた見覚えのない国章。
天蓋付きのベッドで目覚めてから
まだ数時間しか経っていないというのに、
誉の頭はすでに、こうした場違いな比較でしか
目の前の現実を処理できなくなっていた。
だが、そんな感慨に浸っている場合ではないことは、
部屋を埋め尽くす重苦しい空気がすぐに教えてくれた。
長机の両側にずらりと並んだ壮年の男たちの視線が、
一斉にカールへと注がれている。
その視線には敬意と呼べるものよりも、
期待という名の重圧の方が色濃く滲んでいた。

(この考えは、とりあえず脇に置いておこう)

 誉は内心でそう自分に言い聞かせ、
示された上座に腰を下ろした。
椅子に体重を預けた瞬間、
木製の椅子がぎしりと軋んだ音を立てたのが、
やけに大きく耳に響いた。

 誉が座るのを待っていたかのように、
居並ぶ男たちの中から一人が立ち上がった。
恰幅の良い、白髪交じりの口ひげを蓄えた男だった。

「現在、我が国は様々な問題を抱えております。
閣下には是非、解決案を提示して頂きたく
お願い申し上げます」

 丁寧な口調だった。
だが、その丁寧さの裏側に隠された響きを、
誉は聞き逃さなかった。
――これは体の良い丸投げだ。
責任の所在を、たった今目覚めたばかりの
この身体の持ち主一人に押し付けようとしている。
誉は昨夜までただの大学一年生だった自分を思い出し、
こみ上げる場違いな笑いを何とか噛み殺した。
笑っている場合ではない。

「まず、食料問題です」

 男が切り出した瞬間、
誉の背筋に冷たいものが走った。
食料問題という言葉の重みは、
平和な日本で生まれ育った誉の
想像力をも凌駕するものだった。

「今年の冷害により、作物収穫量が
例年の三分の一まで低下しております。
必要量を大幅に下回っており、
不足分は輸入で賄う予定でございましたが――」

 そこで男の顔が、目に見えて曇った。
眉間に深く刻まれた皺の奥から、
抑えきれない怒りがじわりと滲み出す。

「隣国のプレスコット共和国、
およびオーエンハイム共和国が、
小麦の値段を大幅に釣り上げてまいりました。
これにより、予定量の購入が困難となっております」

 室内の空気が、一段と重くなったのを誉は肌で感じた。

誰かが小さく舌打ちをする音が聞こえた。

「――これにより、食料不足はほぼ決定的な状況です。
国民に一定数の餓死者が出る可能性が、
現実味を帯びてまいりました」

 餓死者。
その二文字が、誉の胸の奥に
鈍い刃物のように突き刺さった。
ドイツで学んだ歴史の教科書の中でしか
見たことのなかった言葉が、今、目の前の男の口から、
まるで天気予報のように淡々と語られている。
誉は思わず両手で頭を抱えた。
昨日まで、友人たちと焦げた
飯盒炊爨を笑いながら食べていた自分がいた。
その延長線上に、こんな現実が待っているとは、
どうしても実感が追いつかなかった。

「一応、少し離れた島国
――ブリタニア王国にも打診いたしました。
多少の融通はして頂けましたが」

 男は言葉を切り、深く息を吐いた。

「プレスコット共和国やオーエンハイム共和国ほど
高くはないものの、通常よりは高価な上に、
輸送量を加味すれば大差はございません。
量もまったく足りない状況です」

「――その、条約違反ではないのか」

 誉は、絞り出すようにそう尋ねた。
国家間には何らかの取り決めがあるはずだ。
この困窮に付け込んで価格を吊り上げる行為が、
何のお咎めもなしに通るはずがない。
そう信じたかった。

「価格については、当然抗議いたしました。
しかし『うちも冷害で食糧が不足していた』
という回答が返ってまいりました」

 男の口元が、皮肉げに歪んだ。

「我が国の軍の情報では、
両国にそこまでの冷害があったという報告は
上がっておりません。
ですが、これ以上の追及は
――おそらく無駄でございましょう」

 男の声には、諦めの色が濃く滲んでいた。
誉はその諦観に、かえって強い焦燥を掻き立てられた。
今この瞬間から麦の代替を用意することなど、
誰にも出来はしない。
時間は、誰にも取り戻せない。

 誉が言葉を発せずにいる間にも、
男は容赦なく次の議題へと話を進めた。
まるで、この一件で立ち止まる余裕すら、
この国には残されていないとでも言うかのように。

「次に、国境付近の不法移民と、
国民の拉致問題についてです」

 解決策も出せぬまま次の難題を突きつけられ、
誉は思わず目眩を覚えた。
だが、耳を塞ぐことは許されない。

「不法に国境を越えたイスマム人が、
我が国内に勝手に住み着き、商売を始めております。
これにより、我が国民に対する犯罪が増加しております」

 誉は再び頭を抱えた。
犯罪の増加。
その言葉の裏に、どれほどの被害者の顔があるのか、
想像するだけで胸が締め付けられる。

「イスマム人は我が国の法律を一切遵守いたしません。
税も納めません。
それゆえに、彼らの売る品は安価で
――困窮する我が国民が、
こぞってそれを買い求めてしまっている状況です」

 この食糧難であれば
仕方のないことなのかもしれない。
誉が一瞬そう思いかけた矢先、
男の次の一言が、
その甘い考えを容赦なく打ち砕いた。

「更に悪いことに、イスマム人が持ち込む食料は、
我が国の農家から奪われたものであったり、
あるいは何の検査もされていないもので
あったりいたします。
これにより農家は大損害を被り、
経営継続が困難になっている上
――疫病の大発生も招いております」

 誉の背筋が凍りついた。
救いになるどころか、
この国そのものを内側から蝕む毒になっている。
誉が言葉を失っている間にも、
男の報告は止まらない。

「イスマム人によって拉致され、
奴隷にされた我が国民も多数おります。
軍が対処に当たっておりますが、
どうやらイスマム人の違法居住者が
これに加担しているようで、
なかなか解決に至っておりません」

「イスマム国に――抗議はしたのか」

 誉は絞り出すように尋ねた。
声が微かに震えているのが、自分でも分かった。

「抗議はいたしました。
ですが、『警告はしているが止められない』
という回答しか返ってまいりません。
本気で警告を行っているかどうかは、
正直なところ不明でございます」

 男は一度、居並ぶ出席者たちの顔を見渡した。
その目に浮かんだ色に、誉は嫌な予感を覚えた。

「そして、更に悪いことに
――我が国の一部の人間が、プレスコット共和国、
オーエンハイム共和国、
そしてイスマム国の行動に
加担しているのではないかという
疑惑が浮上しております」

 国内にも裏切り者がいる。
その事実に、誉は言葉にならない
辟易とした感情がこみ上げるのを感じた。
外からの脅威だけでも手に余るというのに、
内側にまで敵がいるというのか。

「裏切った企業は特定いたしました。
しかし処分できたのは一部に留まっております。
当該企業の規模が大き過ぎるため、
早急に潰しては国益を損なう恐れがあり、
安易に手を出せない状況です。
これらと繋がり国益を損なわせた官僚については
既に処分いたしましたが、
まだ全てを把握しきれているわけではございません」

 男はそこまで言うと、深く一礼して着席した。
会議室に、重苦しい沈黙が満ちた。
誰も口を開かない。
全員の視線が、静かに、
しかし確実にカールへと注がれている。
まるでこの重すぎる荷物のすべてを、
今この場で誉に――たった一晩でこの世界に
放り込まれたばかりの一人の大学生に
――背負わせようとするかのように。

 誉は喉の奥が渇いていくのを感じながら、
目の前に積み上げられた問題の山を、
必死に頭の中で整理しようとした。
食糧不足。
隣国の裏切りにも似た価格の吊り上げ。
不法移民と拉致事件。
国内に潜む裏切り者。
そのどれもが、単独でさえ
一国を揺るがしかねない重さを持っている。
それが、今、同時に、この国の
――そして自分の――肩にのしかかっている。

(戦争なんて、絶対にしちゃいけない。
それだけは、絶対に譲れない)

 誉はドイツで学んだあの教訓を、
胸の中でもう一度強く握りしめた。
だが同時に、冷たい理性がこう囁くのを止められなかった。

――もし、この状況を放置すれば。
この国はやがて、誰かの手によって、
望まぬ形で戦火に引きずり込まれるかもしれない。
それを防ぐための力すら持たなければ、
防衛どころか、国民を守ることさえ出来はしない。

 誉は膝の上で拳を強く握りしめた。
カール・フリードリヒ・フォン・ドライスとして、
この国の「閣下」として、
これから自分が下す一つ一つの判断が、
無数の人間の生死を左右することになる。
その重みに、押し潰されそうになりながらも、
誉は顔を上げた。

「――まず、確認したいことがある」

 誉は、震えそうになる声を必死に抑え込みながら、
そう切り出した。
会議室にいる全員の視線が、
一層強く自分に集まるのを感じながら。

(以降、続く)

 

 

# 車輪の記憶

## 第一章 落下する空

 岡村誉が生まれてから十八年間、
東京の外で眠った夜の数は
片手で数えられるほどしかなかった。
修学旅行、家族旅行、
そして高校二年生の夏に三ヶ月だけ滞在したドイツ。
あとは幼い頃、祖父母の家で過ごした
数回の夏休みくらいだ。
今年の春、都内の大学に進学したばかりの誉にとって、
実家の外で夜を明かすということ自体が、
まだどこか非日常の響きを持っていた。

 ドイツ留学の記憶は、
誉の中で今も色褪せずに残っている。
ミュンヘンの寄宿先で見せられた教科書、
ホロコースト記念館の重い沈黙、
そして「二度とこの国に同じ過ちを繰り返させない」
と語ったホストファーザーの声。
誉はそこで、侵略戦争というものが
どれほど人間の尊厳を踏みにじるものかを、
頭ではなく胃の底で理解した気がした。
だからこそ帰国してからも、
誉は戦争というものに人一倍敏感だった。

 しかし――大学に入って出会った
「戦争反対」を唱えるサークルの先輩たちの
話を聞くたびに、誉の中には
小さな違和感が積もっていった。
彼らの多くは、軍備そのものを悪だと断じていた。
自衛隊の存在すら否定するような口ぶりの者もいた。
誉はドイツで学んだはずだった。
悪いのは侵略であって、国を守る力そのものではないと。

牙を抜かれた羊が狼から群れを守れないのと同じように、

備えのない平和など、
砂の上に建てた城でしかないのではないか。
そう思うと、誉はどうしても「反対」の
輪の中に無条件で入っていくことができなかった。
かといって声高に自説を主張する勇気もなく、
誉はいつも議論の外側で、
自分の考えを一人で抱え込んでいた。

 そんな誉にとって、
ゴールデンウィークに大学で出来たばかりの
友人たちに誘われたキャンプは、
久しぶりに何も考えずに済む時間だった。

「誉、テント張るの手伝ってくれよ」

「あ、うん、今行く」

 埼玉県の山奥、
川のせせらぎが遠くに聞こえるキャンプ場。
都会育ちの誉にとって、木々の匂いも、
湿った土の感触も、すべてが新鮮だった。
友人たちと不器用にテントを組み立て、
火をおこすのに三十分近く格闘し、
出来上がった夕食は
――お世辞にも美味しいとは言えない、
少し焦げた飯盒炊爨と生焼けの肉だった。
それでも誉は、こんなに味を気にせず笑って
食事をしたのは久しぶりだと思った。
誰かの失敗を囃し立て、誰かの武勇伝に大げさに驚き、
他愛もない話で腹を抱えて笑う。
味覚よりも、
この空気そのものが誉の胸を満たしていた。

 焚き火を囲んで話し込んだ話題は、
将来の夢から、大学の講義の愚痴、
好きな音楽、恋愛の話にまで及んだ。
誰かがふと「誉ってさ、ドイツ行ってたんだよな。
あっちの若い子って戦争のことどう思ってんの?」
と聞いてきた時、誉は一瞬言葉に詰まった。
うまく説明できる自信がなかったからだ。
それでも誉は、拙いなりに自分の考えを口にしてみた。

「向こうの人はさ、過去への反省はすごく強いんだけど、

だからって『軍隊はいらない』とは言わないんだよね。
反省してるからこそ、
二度と同じ立場に立たないために、
ちゃんと備えるっていうか……」

友人たちは意外そうな顔をしながらも、
誉の話に静かに耳を傾けてくれた。
誰も否定しなかった。
ただ「そういう考え方もあるんだな」と頷いてくれた。
それだけのことが、誉にはひどく嬉しかった。

 夜が更け、話し疲れた身体を引きずるようにして、
誉たちはそれぞれのテントに潜り込んだ。
シュラフのジッパーを首元まで引き上げると、
昼間の疲労が一気に押し寄せてきて、
誉の意識はあっという間に闇に沈んでいった。

 ――そして、それは午前二時過ぎに起きた。

 誉は周囲の喧騒で目を覚ました。
人の叫び声、テントの外を走り回る足音、
何かを叩きつけるような轟音。
寝ぼけた頭のまま、誉は寝袋から這い出し、
震える手でテントのジッパーを開けた。

 外に出た瞬間、誉が目にしたのは、
キャンプ場中の人間が右往左往する異様な光景だった。
何人かが空を指さし、
悲鳴とも警告ともつかない声を上げている。
誉はつられるように顔を上げ、夜空を見た。

 そこには――こちらに向かって、
まっすぐに落ちてくる巨大な機影があった。

 夢だと思った。
いや、夢であってくれと願った。
だが目の奥に映るその輪郭は、
あまりにも鮮明で、あまりにも大きくなっていく。
轟音が耳を、身体の芯までを揺さぶった。
逃げなければ。
頭のどこかは冷静にそう告げていた。
だが誉の足は、地面に根を張ったように動かなかった。
喉の奥から悲鳴を上げようとしても、
空気すら吸い込めない。

 自分の人生が、こんな形で、
こんなにも唐突に終わるなんて。
誉は一度も、そんな未来を想像したことがなかった。
ドイツで学んだこと、
大学で見つけたばかりの友人たち、
まだ何も語っていない将来の夢。
そのすべてが、頭の中を凄まじい速さで駆け巡り、
そして――光と轟音が、誉の意識を白く塗りつぶした。

## 第二章 閣下のお目覚め

 目を覚ました時、
誉は柔らかいものの上に横たわっていた。

 最初にそう感じたのは、
頬に触れる上質な布の感触だった。
キャンプ用のシュラフの、
あのごわついた化学繊維の感触ではない。
誉はゆっくりと瞼を開けた。

 視界に飛び込んできたのは、
見たこともないほど広い天井だった。
金の装飾が施された漆喰の縁飾り、
中央から下がる巨大なシャンデリア。
誉は弾かれるように身を起こした。
自分が寝ていたのは、天蓋付きの、
両手を広げても端に届かないほど大きなベッドだった。
部屋そのものも、
誉の実家のリビングが丸ごと入りそうなほど広く、
壁には見覚えのない紋章の掛け軸、
窓には重厚な緞帳。

「――ここ、どこだよ」

 誉は掠れた声で呟いた。
キャンプ場にいたはずだ。
友人たちと焚き火を囲んで、シュラフに潜り込んで、
それから――そこで思考が止まる。
飛行機。
落ちてきた、あの巨大な機影。
誉は反射的に自分の身体を見下ろした。
腕も、足も、どこにも怪我らしきものはない。
それどころか、着ている夜着は誉のものではない、
見たこともない仕立ての、
絹のような肌触りの一着だった。

 混乱したまま部屋を見回していると、
控えめなノックの音がした。
返事をする間もなく扉が開き、
モノトーンの制服に身を包んだ女性が入ってきた。
頭に載せた白いカチューシャ、
丁寧に結い上げられた髪。
誰の目にも明らかな、メイド服だった。

 誉は状況も忘れて、
一瞬だけ鼻の下を伸ばしかけた自分に内心で慌てた。
いや、今はそれどころじゃない。

「閣下、お目覚めになられましたか」

 メイドは深々と一礼し、静かにそう告げた。
その声には、誉に対する明らかな敬意と、
それでいて業務的な落ち着きが同居していた。

「閣下……? それ、僕のこと?」

 誉が思わず聞き返すと、
メイドは一瞬だけ怪訝そうに眉をひそめたが、
すぐにまた恭しい表情に戻って答えた。

「はい。
カール・フリードリヒ・フォン・ドライス閣下」

 その名前を聞いた瞬間、
誉の頭の中で何かが凍りついた。
カール・フリードリヒ・フォン・ドライス。
ドイツ留学中に、確か――自転車の原型となる
「ドライジーネ」を発明した人物として、
授業で名前だけ聞いたことがある。
誉の記憶の中では、その人物は
貴族であり発明家であって、
断じて「閣下」と呼ばれるような
統治者ではなかったはずだ。

(僕は、自転車の原型を発明した人になったのか……? 

それが、皇帝……?)

 誉の頭の中は、疑問符でいっぱいになった。
これは夢か、それとも本当に、
あの落下してくる飛行機に押し潰された
自分の意識が見せている、
最後の走馬灯のようなものなのか。

 だが誉の
――否、誉の身体に宿った「カール」の
混乱などまるで意に介さぬ様子で、
メイドは淡々と続けた。

「今朝も国内問題が山積みでございます。
早く対処なさいませんと」

 その言葉の重みに、誉は思わず息を呑んだ。
国内問題。
山積み。
まるでこの身体の持ち主が、
既に何らかの国家を背負う立場にあるとでも
言うかのような響きだった。

 誉が呆然としている間にも、
扉の向こうから次々と新しいメイドたちがやってきて、
誉――いや、カールの身体を取り囲んだ。
誰も彼の戸惑いになど気づく様子もなく、
手慣れた動きで夜着を脱がせ、
真新しいシャツに袖を通させ、
複雑な結び方のクラヴァットを首元に巻きつけていく。
抵抗する間もなく、誉はされるがままに、
見知らぬ誰かの
――いや、これから自分がそうならざるを
得ない誰かの姿へと、着せ替えられていった。

 鏡の中に映るのは、誉の見慣れた自分の顔ではない。
淡い金髪、意志の強そうな青い瞳を持つ、
まだ若い青年の顔だった。
だがその表情に浮かぶ困惑だけは、
間違いなく岡村誉自身のものだった。

(僕は、これから、
いったい何をさせられるんだ……)

 窓の外には、東京では決して見ることのない、
石造りの街並みが広がっていた。
誉の新しい――そして重すぎる一日が、
今、始まろうとしていた。

(以降、続く)

 

第三百六十三弾「 偽りの勇者 ―K2転移録―」

第三百六十四弾「 偽りの勇者 ―K2転移録― その2」

第三百六十五弾「 偽りの勇者 ―K2転移録― その3」

第三百六十六弾「 偽りの勇者 ―K2転移録― その4」

第三百六十七弾「 偽りの勇者 ―K2転移録― その5」

第三百六十八弾「 偽りの勇者 ―K2転移録― その6」

第三百六十九弾「 偽りの勇者 ―K2転移録― その7」

の続きです

 

# 偽りの勇者 ―K2転移録―

## 第二十八章 領主の判断

「領主!」

 街の領主が執務室で書類を検めていると、
慌ただしい足音と共に補佐官が駆け込んできた。

「領内で戦闘が行われています! 
どうやら、あの組織が絡んでいるようで……!」

 息を切らし、額に汗を浮かべた補佐官の言葉に、
しかし領主は顔を上げることなく、
既に手元にあった騎士団からの
報告書に静かに目を通していた。

「慌てるな。もう知っている」

 落ち着き払った声だった。
補佐官はなおも荒い呼吸を整えられずにいた。

「相手は、王国の暗部らしいな。
それでも、ここまで表沙汰になるほどの
騒ぎになっているとは。
組織の強さは、わしの想像を超えていたようだ」

 領主の口調に、動揺の色はなかった。
むしろ、どこか感慨深げでさえあった。

「一部の領民団体が、組織に対する
抗議行動を起こしているようですが……」

 補佐官は、額の汗を拭いながら報告を続けた。

「どうせ、隣国の工作員に扇動された
反国家主義者どもだろう。
まったく、馬鹿な真似を」

 その言葉に、補佐官は困惑を隠せなかった。
何故、それが馬鹿げた行為だと言うのか。
大々的に抗議の声を上げれば、
それは組織を排斥する世論の形成に
繋がるはずではないのか。

「解らんのか」

 領主は、いくらか呆れた様子で続けた。

「だから、文官出身の、
机上の勉強ばかりが得意な世間知らずは困る」

「……と、おっしゃいますと」

「相手はおそらく、王国暗部と魔法師団の選りすぐりだ。

すなわち、王国が誇る最高戦力と言って過言ではない。
人知れず、確実に標的を屠る、暗殺の専門集団だ」

 領主は、報告書に目を落としながら続けた。

「それが、ここまで大っぴらになるほどにしか、
組織を制圧できていない。
それどころか、騎士団からの報告では、
むしろ暗部と魔法師団の方が劣勢だと書いてある。
つまり――王国の最高戦力ですら、
あの組織には通用しないということだ」

 補佐官の顔から、みるみる血の気が引いていった。

「彼らは、暴力の行使に一切の躊躇がない。
抗議している領民団体は、
自分たちが暴力を振るわれることはない
という前提で行動しているのだろうが、
あの組織にとって、人を秘密裏に葬ることなど、
造作もないことだ。
数日中に、その領民団体の何人かが、
領外のどこかで骸となって発見されたとしても、
何ら不思議ではない。
そして、誰もそれを咎めることはできまい。
下手をすれば、
自分自身の命に関わることなのだからな」

 領主は、それだけの危険を正確に理解した上で、
なお冷静さを崩さなかった。
それこそが、彼なりの覚悟の表れなのだろう。

「わしとて、対応次第では、
明日の朝日を拝めるかどうか、定かではない」

 その言葉に、補佐官は震えを抑えられなかった。
だが領主は、その恐怖を押し殺すように、
静かに言葉を継いだ。

「わしの立場としては、
たとえ彼らが反国家主義的な行動を取っていようと、
領民に被害が及ばぬことを、ただ祈るしかない」

 そう口にしながらも、領主の胸中では、
彼らがどうなろうと不思議はない
という冷徹な覚悟が、既に固まっていた。

「取り急ぎ、騎士団には領内の巡回警備を続けさせよ。
ただし、決して戦闘には関与させるな。
見て見ぬふりをさせておけ。
領民の生命が直接の危険に晒された場合のみ、
行動を許可する。
それ以外は、断じて動くな。厳命しておけ」

 補佐官は、深々と一礼すると、
慌ただしく執務室を後にした。
残された領主は、静かに窓の外へと視線を移した。
この街の平穏な日常が、
すぐ隣で繰り広げられている激突の余波を、
どこまで免れられるか。
それだけを、静かに案じていた。

## 第二十九章 晴れた霧

 マリアの頭の中に長く垂れ込めていた霧は、
堰を切ったように、急速に晴れていった。

 これまで思い出そうとしても、
どうしても手が届かなかった記憶の断片が、
次々と鮮明さを取り戻していく。
師の死の真相。
あの夜、自分自身の手が振るった凶刃。
その裏で、巧妙に仕組まれていた恋という名の罠。
すべてが、一つの物語として繋がっていく。

 込み上げてきたのは、耐えがたいほどの後悔だった。
マリアは、その場に膝をついたまま、
声を殺して泣いた。
涙が、次から次へと頬を伝った。

 それを見下ろすK2の表情には、
しかし、労わりよりも先に、
呆れの色が浮かんでいた。

「今、お前がすることは、泣くことなのか」

 その言葉に、マリアは泣き腫らした赤い目を上げた。
目の前に立つ男の外見は、
前世で見慣れた姿とはまるで違っていた。
それでも、その身に纏う魔力の質感には、
間違いなく覚えがあった。

「師匠……」

 震える声で、ようやくそれだけを絞り出した。
懐かしさと、拭い去れない罪悪感と、
押し寄せる後悔が入り混じり、
マリアの思考はぐちゃぐちゃに乱れていた。

「お前は、恋愛に溺れた結果、油断した。
それが、どういう結末を招いたか
――ようやく、思い出したか」

 マリアは、何も言い返せなかった。
かける言葉すら、見つからなかった。

「恋愛を大事にしたいのなら、
ただの一人の娘のままでいればよかった。
力を得れば、それに群がる寄生虫が近づいてくるのは、
当然のことだ。
それに対処できなければ、
自分にとって大切なものを失うのは、
火を見るよりも明らかだ。
欲望は、自身を高めると同時に、自身を貶める」

 それは、かつて師であった頃のK2が、
マリアに幾度となく説いてきた言葉だった。
それでも当時のマリアは、自らの欲望に
――誰かに愛されたいという、ごくありふれた願いに
――抗うことができなかった。

 K2は、無言のまま、
一つのペンダントをマリアの足元へと投げた。
マリアはそれを拾い上げ、
戸惑いながらK2を見つめた。

「洗脳阻害の魔道具だ。
誰にも鑑定できないよう細工してある。
ただのアクセサリにしか見えないはずだ」

 どこか気恥ずかしさを隠すように、
K2はマリアから顔を背けながらそう言った。

「今日のところは見逃してやる。
部下を連れて、王都に帰れ。
暗部の方は、一人を残して片付けておく」

 それだけを言い残すと、
K2は踵を返し、夕闇の中へと歩き去っていった。

 マリアは、その後ろ姿が完全に見えなくなるまで、
その場に立ち尽くしたまま、じっと見つめ続けていた。
手の中のペンダントを、
痛いほどに強く握りしめながら。

――以降、続く

 

第三百六十三弾「 偽りの勇者 ―K2転移録―」

第三百六十四弾「 偽りの勇者 ―K2転移録― その2」

第三百六十五弾「 偽りの勇者 ―K2転移録― その3」

第三百六十六弾「 偽りの勇者 ―K2転移録― その4」

第三百六十七弾「 偽りの勇者 ―K2転移録― その5」

第三百六十八弾「 偽りの勇者 ―K2転移録― その6」

の続きです

 

 

# 偽りの勇者 ―K2転移録―

## 第二十五章 暴力装置

 左腕を失い、地面に倒れ伏したまま
気を失っているヴェイスを、
いつの間にか数人の男たちが取り囲んでいた。
かつてこの街の裏社会を仕切っていた組織
――今はK2の配下となった、元チンピラたちだった。

「この男、どうします? 
今なら俺らでも、やれそうですけど」

 若い男の一人が、リーダー格の男に問いかけた。
倒れた暗部工作員は、
片腕を失い、大量の血を流している。
今なら数人がかりで止めを刺すことは容易いだろう。

「いや。
ボスの指示だと、このままにしておけって話だ」

 別の男が、腕を組みながら答えた。
声には、いくらかの緊張が滲んでいた。
ボスと呼ばれる存在――
すなわちK2――の指示に逆らうという選択肢は、
彼らの頭の中には最初から存在しなかった。

「王国暗部っていうから、
得体の知れない悪意の塊みたいなもんだと
思ってましたけど、こうして目の前で
倒れてるのを見ると、ただの人なんですねぇ」

 若い男が、感慨深げに呟いた。
倒れているヴェイスの顔は、苦悶に歪んでいるものの、
ただの一人の男の表情に過ぎなかった。
伝説めいて語られていた王国暗部の恐ろしさとは、
あまりにもかけ離れた、生々しい姿だった。

 リーダー格の男は、その言葉に、しばし沈黙した後、
ゆっくりと口を開いた。

「基本的には、俺たちと同じさ。
しょせん、暴力装置でしかない。
違うのは、頭がどこにあるかってことだけだ」

 男は、倒れたヴェイスに一瞥をくれながら、
続けた。

「そして、暴力に対抗できるのは、
結局のところ暴力でしかない。
よく世間じゃ、正義だ悪だって騒がれるが、
あんなのは、片方が自分たちの都合で
勝手に決めつけているだけのもんだ。
俺たちだって、少し前まではこの街の住人に
さんざん『悪党』って呼ばれてたが、
ボスに代替わりして方針が変わっただけで、
住人の誰も、俺たちを悪だなんて言わなくなった」

 誰かが、小さく息を呑む気配がした。
リーダー格の男は、乾いた笑みを浮かべながら、
言葉を締めくくった。

「頭が違うだけで、中身は同じなのにな。
周りの評価なんてもんは、驚くほど簡単に変わる。
そういうもんだよ」

 それだけ言うと、
男はヴェイスを路傍に放置したまま、
指示された次の現場へと足を向けた。
他の男たちも、無言でそれに続いた。
夕闇の迫る路地に、
気を失ったヴェイスだけが、独り取り残された。

## 第二十六章 尽きぬ魔力

 マリアの強さの根源は、
その圧倒的な魔力量にあった。

 彼女が体内で生み出せる魔力の総量は、
常人のそれとは比較にならないほど桁違いに多かった。
この規格外の魔力量こそが、
これまでマリアがどんな相手と対峙しようとも、
圧倒的な力で捻じ伏せてきた所以だった。

 だが、今、目の前を逃げる標的に対しては、
その常勝の方程式がまったく通用していなかった。

 どれほど魔力の精製量が多かろうと、
それを湯水のように消費し続ければ、
いずれ供給が追いつかなくなる。
これまでの任務で、
これほどまでに連続して魔法を行使し続けたことは、
マリアには一度もなかった。

 それでも、標的の魔力が尽きる気配は、
微塵も感じられなかった。

(まさか、私よりも、魔力の精製量が多いというのか)

 標的を追いながら、
マリアの脳裏にその疑念がよぎった。
だが同時に、記憶の奥底で、
何かがその考えを強く否定していた。
あり得ない、と。
しかし、その「あり得ない」理由を
具体的に思い出そうとした瞬間、
いつものように、頭の中に濃い霧が立ち込め、
それ以上の思考を阻んだ。

 そして、遂にその時が来た。
全力で使い続けた魔力が底を突き、
マリアはその場に、力なくうずくまった。

 膝をついたマリアの視界の中で、
標的の足が、静かに止まった。

「相変わらず、中級魔術や大魔術ばかりを多用して、
自分の魔力の持続時間を計算できていないな」

 標的――K2――が、静かに口を開いた。

「長期戦では、なるべく低級魔術で対応できるよう、
日頃から鍛えておくようにと、あれほど教えたはずだが」

 その言葉を耳にした瞬間、
マリアの脳裏に、何か大切なものが
蘇りかける感覚があった。
だが、いつもの霧が、それを執拗に押し留めていた。
思い出せそうで思い出せない、
その苛立ちが、マリアの顔をぎこちなく歪ませた。

「まだ、洗脳が解けていないのか」

 K2の声に、失望と怒りが色濃く滲んだ。

「世間知らずの子供ではあるまいし。
魔法師団長という肩書を背負っているなら、
そのくらい、自力で解いてみせろ!」

## 第二十七章 消えなかった愛情

 怒るということは、肉体的にも、精神的にも、
驚くほど消耗する行為だ。
ただ穏やかに、何事にも動じずに生きていく方が、
よほど楽に決まっている。

 それでも、大切な相手が過ちを犯そうとしている時、
人は怒る。
その怒りを通じて、相手の心に恐れを植えつけ、
危険な道を進む前に、ブレーキをかけさせようとする。

 どうでもいい相手には、そんな真似はしない。
どうでもいい人間が、どれほど間違った道を歩もうと、
知ったことではないからだ。
怒りを向けないということは、
結局のところ、
相手に対して無関心であることの裏返しでしかない。

(僕にはまだ、マリアに対しての、
親心のようなものが残っているんだな)

 自らの言動を顧みながら、
K2は改めて、
自分の中に燻り続ける感情の在り処を噛み締めていた。

 敵に寝返り、裏切られ、
自らの命を奪った相手であっても。
長年、実の娘のように慈しみ、
育て上げたという事実がある限り、
その愛情は、簡単には消え去ってはくれなかった。

 だが、それが自分の甘さであり、
油断であったことも、K2は痛いほど自覚していた。
物事には常に、メリットとデメリットが
表裏一体で存在する。
どちらか片方だけを都合よく切り離すことなど、
できはしない。
メリットを得たいのであれば、
それに付随するデメリットもまた、
受け入れざるを得ない。
すべては、両者を天秤にかけた上での、
総合的な取捨選択でしかないのだ。

 前世のK2は、マリアという存在から
多くのメリットを享受した。
師として、弟子の成長を見守る喜び。
孤独な人生に差し込んだ、温かな光。
そして、そのメリットの代償として、
彼女という存在が孕んでいたデメリットによって、
K2は命を落とした。

 それでもなお、K2は今も、
彼女を切り捨てるという選択肢を、
心の底から選び取ることができずにいた。

(僕も、所詮は人という枠組みから逃れられない、
その程度の存在なんだな)

 かつて周囲から「神に匹敵する」
とまで讃えられたK2であっても、
その中身は、結局のところ、
ただの一人の人間に過ぎなかった。
矛盾を抱え、割り切れない感情に振り回される、
不完全な存在だった。

「空気中の魔力を、少しでも吸収できるよう努力して、
魔法の持続時間を伸ばせと、あれほど教え込んだはずだ。
それなのに、まったく努力しなかったんだな! 
この、愚か者めが!」

 K2は、感情を隠すことなく吐き捨てるように叫んだ。
そして同時に、
その手のひらから、静かな光が放たれた。

 長きにわたり、マリアの意識の奥深くに巣食っていた
誘導の呪縛――洗脳の術式が、
その光によって、静かに、確実に解かれていった。

 廃屋の陰に、夕闇の静寂が満ちていた。
うずくまったままのマリアの瞳に、
これまで決して晴れることのなかった霧が、
初めて、ゆっくりと晴れていこうとしていた。

――以降、続く

 

 

第三百六十三弾「 偽りの勇者 ―K2転移録―」

第三百六十四弾「 偽りの勇者 ―K2転移録― その2」

第三百六十五弾「 偽りの勇者 ―K2転移録― その3」

第三百六十六弾「 偽りの勇者 ―K2転移録― その4」

第三百六十七弾「 偽りの勇者 ―K2転移録― その5」

の続きです

 

# 偽りの勇者 ―K2転移録―

## 第二十一章 焦る男

「標的を見つけた。追い詰める」

 その一文が記された伝書が届いた瞬間、
街に潜んでいた王国暗部の工作員たちは、
一斉に行動を開始した。
それぞれが担当していた区画を離れ、
報告のあった地点へと、音もなく収束していく。
遅れて同じ報告を受け取った
魔法師団のメンバーたちも動き出し、
マリアもまた、宿の一室を飛び出した。

 最初にK2を発見したと報告した暗部工作員
――名をヴェイスといった――の胸中には、
隠しきれない焦りがあった。

 行方をくらませた暗部三名のリーダー格だった男は、
ヴェイスにとって、長年しのぎを削り続けてきた
出世争いの相手だった。
実力は互角、いや、ヴェイス自身、
心のどこかで常に一歩劣ることを
認めざるを得なかった。
その男が、あろうことか単独任務で失敗し、
忽然と消息を絶った。

 それを聞いた時のヴェイスの胸中は、複雑だった。
長年のライバルを失った喪失感と、
同時に湧き上がる、言葉にしづらい感情。
そこへ舞い込んできたのが、今回の追撃任務だった。

(この俺が、あの男が仕留め損ねた獲物を、
この手で仕留めてやる)

 もしこの手で標的を討ち取ることができれば、
消えたライバルよりも、自分の方が上であったことを、
何よりも雄弁に証明できる。
その執念にも似た思いが、ヴェイスの判断を、
わずかに急かせていた。
他の仲間が合流する前に、単独で決着をつける
――その焦りが、既に彼の視野を狭めていた。

## 第二十二章 罠の応酬

 標的の逃げ足は、思いのほか速かった。

 ヴェイスは全力で追跡を続けたが、
速度で標的に追いつくことができなかった。
ならばと、彼は追いながら次々と罠を仕掛け、
標的をそこへ誘い込む戦法に切り替えた。

 呪縛の魔法を幾度となく放ったが、
そのすべてが紙一重のところで躱されていく。
標的の反応速度は、単なる転移者のそれとは
思えないほど鋭敏だった。
ヴェイスは苛立ちを募らせながらも、
地形を利用し、じわじわと罠の密度を上げていった。

 三十分にも及ぶ攻防の末、
標的の周囲には、
いつしか無数の罠が張り巡らされていた。

(今だ)

 ヴェイスは、自らも巻き込まれることを承知の上で、
すべての罠を一斉に発動させた。
轟音と共に、周囲一帯で爆発が連鎖する。
噴き上がる炎と粉塵の中、標的は逃げ場を失い、
その場に押し留められた。

 ヴェイスは好機を逃さなかった。
急加速の魔法を発動し、爆炎の中を一気に接近する。
右手に構えたナイフを、標的の胸元へと突き出した。

 だが、その刹那。
標的から放たれた鋭利な風の刃
――エアカッター――が、
ヴェイスの左腕を粉々に切り裂いた。
激痛が全身を貫いたが、ヴェイスの闘志は消えなかった。

伸ばしたナイフの切っ先は届かなかったものの、
彼にはまだ、切り札が残っていた。

 柄に仕込まれたボタンを押す。
刃と柄を繋ぐワイヤーが、勢いよく解き放たれた。
刃だけが弾丸のように飛び、
意表を突かれた標的の左胸に、深々と突き刺さった。

 標的の体が、力なく崩れ落ちるのが見えた。

 ヴェイスは荒い息を吐きながら、
失った左腕の切断面に急いで止血の魔法をかけた。
激痛に顔を歪めながらも、
その胸には、確かな達成感が満ちていた。

(やった……仕留めた……!)

 立ち込めていた爆炎の煙が、少しずつ晴れていく。
ヴェイスは震える足を叱咤しながら、
倒れた標的の元へと歩み寄った。

 そして、そこで彼は言葉を失った。

## 第二十三章 気配なき人形

 地面に横たわっていたのは、
確かに標的の姿をした人物だった。
だが、その体は、既に人としての質感を失いつつあった。

皮膚だったはずの表面が、内側から崩れ、
粘土質の断面を晒している。
血の代わりに滲み出しているのは、
赤黒い、粘性を帯びた液体だった。

 それは人型ゴーレムだった。

 それも、ヴェイスがこれまでの任務で見てきた、
如何なるゴーレムとも一線を画す代物だった。
あの三十分に及ぶ攻防の中で、
ヴェイスは一度たりとも、
目の前の相手が生身の人間ではないと
疑ったことはなかった。
反応の鋭敏さ、
呼吸の乱れ方、
疲労の色を滲ませる仕草
――そのすべてが、あまりにも人間そのものだった。
加えて、あの魔法の応酬。
エアカッターを放つゴーレムなど、
ヴェイスは聞いたことすらなかった。

「馬鹿な……こんな、ゴーレムが……」

 言葉が、震えながら零れ落ちた。
全力を尽くし、片腕を失ってまで仕留めたはずの標的が、

ただの作り物に過ぎなかったという事実。
これまで積み重ねてきた努力も、覚悟も、
すべてが虚しく空を切ったような感覚に、
ヴェイスの気力は音を立てて崩れ落ちていった。

 視界が、ぐらりと揺れる。
失血と精神的な衝撃が重なり、
ヴェイスはそのまま、
崩れたゴーレムの傍らに倒れ伏し、意識を手放した。

## 第二十四章 唯一の本物

 街の各所で、同じような光景が繰り広げられていた。

 暗部の他の工作員たちも、
魔法師団のメンバーたちも、
それぞれが必死に「標的」を追い詰め、
あるいは仕留めていた。
だが、その誰一人として、
自分たちが対峙していた相手が、
精巧に作られた人型ゴーレムに過ぎなかったことに、
まだ気づいてはいなかった。

 街のあちこちに、まったく同じ容姿、
同じ気配、同じ戦闘反応を示す「K2」が、
同時多発的に姿を現し、
それぞれの追跡者を翻弄していたのだ。
誰もが、自分こそが本物の標的を
追い詰めていると信じて疑わなかった。

 だが、その中でただ一人。

 マリアが追っていた「K2」だけは、
他とは違っていた。

 彼女が路地の奥、廃屋の陰へと標的を追い詰めた時、
そこに立っていたのは、
幻影でも、精巧な作り物でもなかった。
本物のK2だった。

 それは、決して偶然ではなかった。
K2自身が、周到に仕組んだ配置だった。
街に潜入した追跡者たちの動きを、
毒虫の情報網で逐一把握し、
それぞれに複製のゴーレムをぶつける。
だがマリアにだけは、本物の自分を対峙させる
――その采配のすべてが、
K2の意志によって決められていた。

 夕闇の迫る廃屋の陰で、
マリアは息を切らしながら足を止めた。
目の前に立つ人物の輪郭を、
彼女は目を凝らして見つめた。
フードの下から覗く、静かな眼差し。

 その瞬間、マリアの胸の奥で、
あの霧が再び立ち込め始めていた。
だが今度は、それを振り払おうとする間もなく、
彼女はただ、目の前に立つその人物から、
目を離すことができずにいた。

「……あなたは」

 声が、震えていた。理由の分からない震えだった。

 K2は、何も答えず、
ただ静かにマリアを見つめ返していた。
夕闇の中、二人だけの静寂が、
廃屋の陰にゆっくりと満ちていった。

――以降、続く
 

第三百六十三弾「 偽りの勇者 ―K2転移録―」

第三百六十四弾「 偽りの勇者 ―K2転移録― その2」

第三百六十五弾「 偽りの勇者 ―K2転移録― その3」

第三百六十六弾「 偽りの勇者 ―K2転移録― その4」

の続きです

 

# 偽りの勇者 ―K2転移録―

## 第十八章 見えざる眼

 この街に配置されているのは、
人型ゴーレムだけではなかった。

 街の路地裏、下水溝の隙間、宿屋の軒先、
市場の屋台の陰――蚊ほどの大きさしかない、
無数の毒虫が、誰にも気づかれることなく、
この街の隅々に潜んでいた。
それらは単なる虫ではなかった。
K2が独自に創り出した、
映像と音声を捉える小さな眼であり耳だった。

 毒虫が拾い集めた情報は、
街に配置された知能特化型の指揮用ゴーレム
――外見も知性も、他のゴーレムより
一段階上に設計された個体
――へと絶えず送られ続けていた。
指揮ゴーレムはその膨大な情報を瞬時に選別し、
真に重要と判断した事案のみを、
念話によってK2の意識へと直接届けていた。
おかげでK2は、街のどこにいようとも、
まるでその場に立ち会っているかのように、
街全体の動向を把握することができた。

 この街に配置している毒虫は、数百匹に過ぎない。
だが、王国全土に目を転じれば、
その数は既に数十万匹にまで及んでいた。
人知れず張り巡らされたこの情報網こそが、
K2が他に類を見ない優位性を握る、
最大の武器だった。

 先に王都からの追手だった三人の暗殺部隊を、
姿を見せることなく一方的に葬ることができたのも、
この情報網あってのことだった。
相手の位置、動き、呼吸のリズムに至るまで、
K2は事前にすべてを把握していた。
戦いというものは、剣を交える前に、
既に趨勢の大半が決している。
K2はその原則を、誰よりも深く理解していた。

 それは、前世――かつて魔法師団長として、
この世界で無双の力を誇った日々の、
苦い教訓から得たものだった。
あの頃の彼は、直接的な戦闘においては
誰にも負けたことがなかった。
魔導の腕においても、剣を交えての実力においても、
彼に匹敵する者は王国のどこにもいなかった。
だが、その圧倒的な武力の裏で、
彼は情報戦においてはあまりにも無防備だった。
最愛の弟子の心が、いつ、誰の手によって、
どのように蝕まれていったのか
――その兆候を、
彼は最後まで見抜くことができなかった。
気づいた時には、既に手遅れだった。

 二度と、同じ過ちは繰り返さない。
K2はそう心に誓っていた。
だからこそ、戦う前に、常に相手よりも優位に立つ。
情報こそが、この世界における最大の武器なのだと、
彼は骨身に染みて理解していた。

## 第十九章 潜入者

 マリアは、変装してこの街に足を踏み入れていた。

 地味な旅装に身を包み、
フードを目深に被ってはいたものの、
生来の長身と、フードの隙間から覗く鮮やかな赤髪は、
どうしても人目を引いてしまう。
街ゆく人々の視線が、時折彼女の姿を捉えては、
すぐに逸れていくのを、マリア自身も感じていた。

(もう少し、地味な色に染めておくべきだったか)

 内心でそう自嘲しながらも、
マリアは足を止めることなく、
市場の雑踏へと紛れていった。

 この作戦には、王国暗部の精鋭数名と、
マリアが選抜した魔法師団のメンバー数名が
投入されていた。
だが、全員が個別に、バラバラの経路で
この街に潜入するという方針が徹底されており、
マリアは他のメンバーが今どこで何をしているのか、
まったく把握できていなかった。

 連絡手段は、一日に一度の伝書のみと定められていた。

伝書とは、特殊な魔道具を用いた通信手段で、
専用の紙に記した文字が、
遠く離れた宛先の魔道具へと転写される仕組みだった。
魔法師団の内部であれば、
マリアは各メンバーと相互に連絡を
取り合うことができた。
だが、暗部側の連絡先については、
マリアには一切知らされていなかった。

 その理由を、マリアは知らなかった。

 実のところ、先んじてK2を追跡した暗部の精鋭三名
――王国でも指折りの実力者たちだった
――が、忽然と行方をくらませていた。
この失踪劇を受けて、暗部の上層部は
「王国内部に、情報を流している者がいるのではないか」

という疑念を強めていた。
それゆえ、今回の作戦では、連絡経路を極端に細分化し、

たとえ内部に裏切り者がいたとしても、
全容を掴ませない体制を敷いていたのだった。

 だが、その慎重な配慮もまた、皮肉なことに、
既に無意味と化していた。

 スパイは、確かに存在した。
ただし、それは人ではなかった。

 今この瞬間、マリアの外套の背中に、
一匹の小さな毒虫が、音もなく張り付いていた。
彼女自身は、それに気づいていない。
仮に気づいたとしても、
旅の埃にまみれた道中でよく見かける、
鬱陶しい羽虫の一匹だと思う程度だろう。

 街に潜入した暗部の精鋭たちにも、
魔法師団のメンバー全員にも、
例外なく同じ毒虫が張り付いていた。
彼らがどれほど巧妙に経路を分散させ、
連絡手段を細分化しようとも、
その全容は既にK2の掌の上にあった。

## 第二十章 かつての教え子

 指揮ゴーレムからの念話が、K2の意識に届いたのは、
市場の喧騒を眼下に見下ろす宿の一室でのことだった。

 念話によって流れ込んでくる映像
――赤髪の女性が、
雑踏の中を注意深く歩を進めている姿
――を確認した瞬間、
K2の中に、小さくない衝撃が走った。

(マリア……)

 前世で、実の娘のように慈しんだ、
あの弟子の姿だった。
あの頃よりも、いくらか大人びた面差し。
だが、纏う気配、歩き方の癖、
周囲を警戒する際の視線の運び方
――そのすべてに、
かつての面影が色濃く残っていた。

 まさか、討伐の先鋒に、彼女自身が立つとは。

 驚きは、
しかしすぐに、冷静な分析へと切り替わった。
マリアほどの立場にある人物を、
直接この任務に投入してくるということは、
それだけ王国が、この一件を一刻も早く片付けたい
と焦っている証左に他ならない。
暗部の精鋭三名を失ったことに加え、
K2という存在そのものが、
王国にとって想定を超える脅威と
認識され始めているのだろう。

 だが、それと同時に、新たな疑問も浮かんだ。
この街に、これほどの戦力を投入してきた理由が、
まだK2には見えていなかった。
もしかすると、この街には、
まだK2自身も把握しきれていない、
暗部の常駐拠点が存在するのかもしれない。

 情報が足りない。
ならば、答えは単純だった。

 K2は静かに目を閉じ、
意識を街全体に広げる指揮ゴーレムへと、
新たな指令を送った。
街に潜ませている毒虫の数を、
数百から一気に千匹にまで増やす。
監視の密度を、
これまで以上に濃密なものへと引き上げる。

 街の隅々に、新たな眼が次々と生まれ、
闇に紛れて散っていった。
市場の屋根の隙間へ、酒場の梁の上へ、
宿屋の窓枠の裏へ。
誰にも気づかれることなく、
この街の全貌を、余すところなく把握するために。

 K2は窓辺に立ち、遠く市場の方角へと視線を向けた。
そこには、かつての愛弟子の姿があった。
彼女がなぜ、今の王国に、
これほどまでに忠実であり続けているのか。
その理由の一端を、K2は既に知っていた。
だが、まだ確かめなければならないことが、
いくつも残っていた。

「……久しぶりだな、マリア」

 誰に届くはずもない呟きが、
静かな部屋の中に溶けていった。
夕闇が街を包み始める中、
K2の意識は、この街に潜む、
すべての気配へと静かに広がり続けていた。

――以降、続く