第二百四十八弾「忘れていく」の続きです
が前作とはだいぶ変わった感じになりました
# 忘れていく ―続章―
## 第八章 医師の憂慮
十二月の診察室は、静かすぎた。
井上医師は電子カルテの画面を前に、
次の患者を呼ぶ手を止めた。
画面の中に、「桐島咲」の名前がある。
次回予約日から、すでに六週間が過ぎていた。
不在着信を入れた。
繋がらなかった。
メッセージを送った。
既読がつかなかった。
それだけならまだ、「通院をやめた患者」で
終わらせることもできた。
自己判断で治療を中断する患者は少なくない。
それでも井上医師の胸の奥に、
小さな棘が刺さったまま抜けなかった。
彼女は、すがっていた。
あの日の泣き顔を、井上医師は忘れていなかった。
「どうにかしてください」と言った声の切実さを。
あれほど回復に意欲的だった患者が、
無断でいなくなることには、理由がある。
そして若年性健忘症の進行という文脈において、
その理由は一つしか考えられなかった。
カルテに記載された緊急連絡先に電話をかけたのは、
その夜のことだった。
「桐島と申しますが」
と電話口に出たのは、おだやかな男性の声だった。
「娘さんの担当医、井上と申します。
桐島咲さんと最近、連絡は取れていますか」
短い沈黙があった。
「……先生、実は、娘と連絡が取れなくなって、
もう一ヶ月になるんです」
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両親を呼んで、診察室で話した。
静岡から新幹線で来た父と母は、揃って背筋を伸ばし、
小さく縮こまるようにして椅子に座っていた。
井上医師は丁寧に、しかし誤魔化さずに説明した。
若年性健忘症のこと。
症状の経緯。
治療の経過。
そして、症状が進行すると日常生活の維持が
困難になること、
自分の居場所や家族の存在そのものが
認識できなくなる可能性があること。
「そんな……」と母が口元を押さえた。
「娘はずっと、一人で抱えていたんですね」
と父が言った。
声が揺れていた。
「警察へはもう届けを?」
「まだです。まさかそこまでとは思っていなくて……」
「すぐに出してください。
失踪人捜索として届け出る際、
病気のことを伝えてください。
判断力や記憶力に障害のある状態で
行動していると伝えることで、対応が変わります」
両親はうなずいた。
でも、それだけでは見つかるとは到底思えなかった。
東京の夜の街に、記憶を失いながら一人で
歩いている女の子を、警察がどれだけ優先して探せるか。
行方不明の届け出は年間八万件を超える。
そのうち大人の女性が任意で失踪したとみられる
ケースは、後回しになりがちだ。
病気のことを伝えても、
見た目に何の異常もない若い女性を
最優先で捜索することにはならない。
診察室で一人になった後、
井上医師はしばらく窓の外を見ていた。
そのとき、
ふと、友人の由美から聞いた話が頭をよぎった。
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由美と知り合ったのは、医学部時代の同期の紹介だった。
年齢も職業も違うが、
月に一度ほど食事をする気安い間柄だった。
「うちのお店ね、
去年ひどい目に遭いそうになったんだよ」
由美が言っていたのは、
彼女が働く駅前の喫茶店
「カフェ・マリアンヌ」のことだった。
大和ファイナンスという会社が突然現れて、
立ち退きを迫ってきた。
実態はヤクザのフロント企業で、
店のオーナーはすっかり怯えてしまったという。
「でも、エイキュー警備保障っていう
会社の人が間に入ってくれてさ。話をつけてくれたんだよ。
L'sコーポレーションの傘下の会社なんだけど、
なんか只者じゃない感じがしてね、
結局大和ファイナンスの方が引いたんだよ」
L'sコーポレーション。
世界規模の巨大企業グループで、インフラから医療機器、
セキュリティ事業まで多角的に展開している。
その日本法人傘下のエイキュー警備保障。
人探しとはまた違う話だ。
でも、と井上医師は思った。
由美が「只者じゃない」と感じた、
その何かに、今は賭けてみる価値があるかもしれない。
翌日、由美に連絡を入れた。
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## 第九章 カフェ・マリアンヌの男
「カフェ・マリアンヌ」は、
駅から二分ほどの路地に入ったところにある。
外観は古びた洋館風で、
窓枠が濃いボルドー色に塗られていた。
入ると焙煎した豆の香りがして、
アンティーク調の家具が並んでいる。
由美が厨房の奥からひょこっと顔を出した。
「来た来た。もう少しで来るはずだから待ってて」
井上医師は窓際の席に座り、コーヒーを頼んだ。
ドアが開いたのは、五分後だった。
入ってきた男を見て、井上医師は一瞬、人違いかと思った。
くたびれた紺色の背広は、
肩のあたりが光の加減でわずかにテカっていた。
ネクタイの結び目は常に緩く、
喉元から三センチほど下がっている。
靴は長らく磨かれた形跡がなく、
先端が白っぽく曇っていた。
髪は整えようとした痕跡はあるが、
どこかで力尽きている。
年齢は四十代の半ばか、
疲れ方によってはもう少し上にも見えた。
(この人に頼む……?)
一瞬、帰ろうかと思った。
男は由美に軽く手を上げて挨拶し、
「いつものやつ」と言った。
カウンターの中で由美が
ナポリタンを作り始める音がした。
「田中誠です」
男は向かいに座り、名刺を差し出した。
エイキュー警備保障。渉外担当、とあった。
「井上先生ですね。由美さんから聞いてます」
声は落ち着いていた。
背広の外見と声のトーンがどこかちぐはぐで、
それがかえって不思議な安心感を生んだ。
「突然のご連絡で申し訳ありません」
と井上医師は言い、封筒を取り出した。
「患者の、桐島咲さんという方が
行方不明になっていて……
医師として患者の個人情報をこういう形で
お渡しするのは本来あってはならないことなのですが、
それでも、どうしても」
「ご両親の同意は?」
「いただいています」
田中は封筒を受け取った。
中から桐島咲の写真と、
簡単なプロフィールをまとめた資料が出てきた。
写真の中の咲は笑っていた。
カフェのエプロンを着けて、
カウンターの向こうに立っていた。
バイト先で撮られたものらしかった。
「若年性健忘症で、判断力が著しく低下した状態で
行方不明になったと思われます。
危険な状況にいる可能性が高く、
警察への届けは出していますが……」
「お金を払います」と井上医師は続けた。
「いくらでもかまいません。どうか探してください」
田中は資料を一通り読んだ。
ナポリタンが運ばれてきた。
由美が気を利かせて、さっさと厨房に引っ込んだ。
田中はフォークを手に取りながら、静かに言った。
「わかりました。受けましょう」
それだけだった。
値段交渉も、成功の保証も、
大仰な言葉も何もなかった。
ただ、受けた。
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## 第十章 ミュルミドンの眼
その夜、
田中は東京都内のビルの一室に戻り、端末を起動した。
画面に向かって、桐島咲の写真と資料を送信した。
宛先は通常の通信網には乗らない、
専用の暗号回路だった。
「ミュルミドン各機へ。対象者情報を送付する。
発見次第、報告せよ」
電文は一瞬で散った。
ミュルミドン——世間にその名前を知る者はいない。
L'sコーポレーションの極秘開発部門が
長い年月をかけて完成させた、
全高三センチの自律型AIロボットだ。
その漆黒のボディは光を吸収し、
どんな高精度の赤外線センサーにも映らない
特殊コーティングが施されていた。
四肢の構造は人間のそれを精緻に模していて、
壁面も天井も自在に這い回る。
背部には薄く折りたたまれた昆虫型の翅があり、
展開すれば驚くほどの距離を滑空できた。
腕部には微細なレーザー射出機構があり、
配線を焼き切ることも、
鍵穴の内側を溶接することも可能だった。
感知できるのに、見えない。
存在するのに、計測できない。
何百万体が世界中に展開している。
都市のビルの壁の隙間に、
空港のターミナルの天井裏に、
港のコンテナの内側に。
人間の社会の隙間を縫うように、静かに満ちている。
そのうちの一体が、桐島咲を見つけたのは、
送信から七十二時間後のことだった。
場所は、日本ではなかった。
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田中の端末に映像が届いた。
薄暗い部屋の、窓際に置かれた長椅子。
そこに座っている若い女性。
目線が定まらず、表情は空白に近い。
でも顔は、写真と一致した。
所在地のデータが続いた。
東南アジア、ある国の郊外。
地名を見た瞬間、
田中の中の膨大なデータベースが照合を始めた。
その地域で勢力を持つ武装組織のボスの居住地として、
複数の情報と合致した。
ミュルミドンが収集した追加情報によれば、
咲が日本から「運ばれた」ルートの痕跡もあった。
日本国内の反社組織が介在し、
対価として武器と薬物が渡った。
人身取引の古典的な手口だった。
ただ彷徨っているところを掬い上げ、商品として手渡す。
記憶が欠落した状態の若い女性は、抵抗も主張もできない。
田中は端末を閉じ、上司へ報告を送った。
翌朝、返信が届いた。
「現地確認、および対象者保護を承認する。
通常手続きにて対応せよ」
出張の辞令が出た。
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## 第十一章 L'sロードミニ01
L'sコーポレーション日本支社ビルの地下駐車場に、
田中の車がある。
見た目はどこにでもある軽バンだ。
白いボディ、小さなサイドミラー、
くたびれたフロントグリル。
駐車場の端に停まっていると、
掃除用具を積んだ業者の車と区別がつかない。
だが内部は、
外観が示唆するいかなるものとも異なっていた。
扉を開けると、空間が広がる。
これは比喩ではない。
物理的に、内部の体積が外形から想定されるそれを
大きく超えている。
空間拡張と呼ばれる技術によるものだ。
奥にはベッドがあり、シャワーとトイレが備わっていた。
小型の冷蔵庫と調理スペース。
長距離移動のすべてが、この車内で完結する。
動力は小型の反物質反応炉。
燃料補給は不要で、理論上の航続距離は無限に等しい。
重力制御装置が搭載されており、
地上を走る際も厳密には路面には接していない。
浮いているのだが、タイヤは回転し、
車体は地面から一センチか二センチしか
浮いていないため、見た目では判別できない。
海上は水面を走る。空中は飛ぶ。
陸海空の境界を、この車は気にしない。
AIによる完全自律制御が基本で、
田中は目的地を入力するだけでいい。
さらに、本社から常時監視と制御が可能で、
緊急時には遠隔で完全自動運転に切り替わる。
万一、外部から衝突を試みるものがあれば、
重力制御装置が応答し、
乗員にダメージが及ぶ前に排除する。
田中は目的地を入力し、座席に深く座った。
車は静かに地下駐車場を出て、
東京の夜道に滑り出した。
夜を走り、海を渡り、空を行き
——田中は東南アジアへ向かった。
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## 第十二章 連れ戻す
目的の建物は、緑に囲まれた敷地の中に立っていた。
高い塀と、鉄製の門と、不機嫌そうな顔の男たちがいた。
田中には、光学迷彩がある。
装備を展開すると、田中の姿は背景に溶け込んだ。
正確には、周囲の光景をリアルタイムに取り込んで
表面に投影する技術で、
完全な透明ではないが人間の視覚では判別できない。
監視カメラにも映らない特性がある。
ミュルミドンが事前に収集した建物の内部構造データが、
田中の視界にオーバーレイされた。
門を越え、中庭を抜け、建物の側面から内部へ。
廊下を進み、階段を上がり、突き当たりの部屋へ。
扉は施錠されていた。
田中の指先からレーザーが細く走り、
錠前の機構を二秒で無効化した。
部屋の中は薄暗かった。
窓からわずかな月明かりが差していた。
長椅子の上に、咲は座っていた。
膝を揃えて、手を膝の上に置いて、
どこでもない場所を見ていた。
部屋に人が入ってきたことすら、
認識していないようだった。
田中は光学迷彩を解除した。
「桐島咲さん」
咲はゆっくりと顔を向けた。
目線が田中の顔の上を滑った。
焦点が合うのに、少し時間がかかった。
「……だれ」
「迎えに来ました。一緒に帰りましょう」
咲は田中の顔をしばらく見ていた。
警戒する様子でも、喜ぶ様子でもなかった。
ただ見ていた。
「帰る……」と咲はつぶやいた。
その言葉の意味を、口の中で確かめるようだった。
「どこに?」
「日本です。お父さんとお母さんが待っています」
その言葉に、咲の目の焦点が少し変わった。
何かが、薄い霧の奥で動いたような。
「……おかあさん」
「そうです」
咲は立ち上がった。
それ以上の説明を求めなかった。
ただ、田中の後についた。
建物を出て、車に乗り込むまで、誰とも鉢合わせなかった。
ミュルミドンが建物内の人員の動きを
リアルタイムで把握し、
田中の経路をナビゲートしていた。
L'sロードミニ01が、静かに夜の空へ上昇した。
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## 第十三章 帰還
日本に帰ってからの処理は、
あらかじめ段取りされた手順通りに進んだ。
表向きの説明は、
「山中で遭難しているところを登山者が発見、保護された」
というものだった。
発見場所として使えるロケーションと、
それを証言してくれる人物の手配は、
田中の会社が担った。
田中が桐島咲を連れて静岡の実家を訪れたとき、
玄関先で母が声を上げた。
「咲!」
咲は一瞬、固まった。
目の前の女性の顔を見て、何かを探すような表情をした。
それから——ゆっくりと、崩れるように泣き出した。
声も出ず、ただ涙が流れた。
母が咲を抱きしめた。父が後ろから二人を包んだ。
田中は玄関の外で、静かに必要経費の請求書を手渡した。
父がそれを受け取りながら、目を赤くして頭を下げた。
「本当に、本当にありがとうございました」
「仕事ですので」と田中は言った。
それから田中は上司に申請を入れた。
桐島咲の周辺へのミュルミドン配備の
承認を求める申請だった。
承認は翌日降りた。
それ以来、桐島咲の日常の半径のどこかに、
常に漆黒の小さな目がある。
彼女は知らない。
誰も知らない。
ただ、もし次に彼女の足が迷い出したとしても、
それは記録される。
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## 第十四章 カフェ・マリアンヌ、再び
一月の、穏やかな昼下がりだった。
「カフェ・マリアンヌ」の窓際の席に、
井上医師は座っていた。
コートをまだ脱がずに、
両手でコーヒーカップを包んでいた。
田中が入ってきた。
いつもの背広。いつものくたびれ具合。
いつもの、どこか宙ぶらりんのネクタイ。
向かいに座ると、
由美がすかさずナポリタンを持ってきた。
「見つかりました」と田中は言った。
「ご本人は今、実家で療養中です。
記憶の状態については、
主治医の先生にお任せするしかありませんが、
身体的なダメージは……」
井上医師はしばらく言葉が出なかった。
窓の外の冬の光が、白く差し込んでいた。
「本当に……」声が出た。
「本当に、ありがとうございました」
「仕事ですので」
「それでも」と井上医師は言った。
「あなたが動いてくださらなかったら、彼女は」
「先生が諦めなかったから動けたんです。
それだけです」
田中はフォークでナポリタンを巻き取りながら、
ごく平静に言った。
井上医師はコーヒーを一口飲んだ。温かかった。
「彼女、回復しますか」と田中が聞いた。
「長い道のりになりますが……
今度は、一人じゃありませんから」
田中はうなずいた。それ以上は何も言わなかった。
窓の外を、冬の風が通り過ぎた。
どこかの木の枝が揺れて、葉が一枚、落ちた。
由美が厨房の奥から何か陽気なことを言って、
カフェの中が少し笑い声に満ちた。
田中はナポリタンを食べ続けた。
背広はくたびれたままで、ネクタイは緩んだままで、
靴は曇ったままだった。
それでも、そのくたびれた横顔には、
何か静かなものが宿っていた。
名前のつけにくい、しかし確かに存在するものが。
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*了*
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**あとがきにかえて**
田中誠がロボットであるということを、
井上医師は知らない。
由美も知らない。
桐島咲の両親も知らない。
彼が人間であるかどうかなど、
この物語においては関係のないことかもしれない。
諦めずに動いたということ、
ただそれだけが、一人の人間を取り戻した。