第二十五弾「昼休みの守護者」

第二百四十八弾「忘れていく」の続きです

が前作とはだいぶ変わった感じになりました

 

 

# 忘れていく ―続章―

## 第八章 医師の憂慮

十二月の診察室は、静かすぎた。

井上医師は電子カルテの画面を前に、
次の患者を呼ぶ手を止めた。
画面の中に、「桐島咲」の名前がある。
次回予約日から、すでに六週間が過ぎていた。

不在着信を入れた。
繋がらなかった。
メッセージを送った。
既読がつかなかった。

それだけならまだ、「通院をやめた患者」で
終わらせることもできた。
自己判断で治療を中断する患者は少なくない。
それでも井上医師の胸の奥に、
小さな棘が刺さったまま抜けなかった。

彼女は、すがっていた。

あの日の泣き顔を、井上医師は忘れていなかった。
「どうにかしてください」と言った声の切実さを。
あれほど回復に意欲的だった患者が、
無断でいなくなることには、理由がある。
そして若年性健忘症の進行という文脈において、
その理由は一つしか考えられなかった。

カルテに記載された緊急連絡先に電話をかけたのは、
その夜のことだった。

「桐島と申しますが」
と電話口に出たのは、おだやかな男性の声だった。

「娘さんの担当医、井上と申します。
桐島咲さんと最近、連絡は取れていますか」

短い沈黙があった。

「……先生、実は、娘と連絡が取れなくなって、
もう一ヶ月になるんです」

---

両親を呼んで、診察室で話した。

静岡から新幹線で来た父と母は、揃って背筋を伸ばし、
小さく縮こまるようにして椅子に座っていた。

井上医師は丁寧に、しかし誤魔化さずに説明した。
若年性健忘症のこと。
症状の経緯。
治療の経過。
そして、症状が進行すると日常生活の維持が
困難になること、
自分の居場所や家族の存在そのものが
認識できなくなる可能性があること。

「そんな……」と母が口元を押さえた。

「娘はずっと、一人で抱えていたんですね」
と父が言った。
声が揺れていた。

「警察へはもう届けを?」

「まだです。まさかそこまでとは思っていなくて……」

「すぐに出してください。
失踪人捜索として届け出る際、
病気のことを伝えてください。
判断力や記憶力に障害のある状態で
行動していると伝えることで、対応が変わります」

両親はうなずいた。

でも、それだけでは見つかるとは到底思えなかった。

東京の夜の街に、記憶を失いながら一人で
歩いている女の子を、警察がどれだけ優先して探せるか。
行方不明の届け出は年間八万件を超える。
そのうち大人の女性が任意で失踪したとみられる
ケースは、後回しになりがちだ。
病気のことを伝えても、
見た目に何の異常もない若い女性を
最優先で捜索することにはならない。

診察室で一人になった後、
井上医師はしばらく窓の外を見ていた。

そのとき、
ふと、友人の由美から聞いた話が頭をよぎった。

---

由美と知り合ったのは、医学部時代の同期の紹介だった。
年齢も職業も違うが、
月に一度ほど食事をする気安い間柄だった。

「うちのお店ね、
去年ひどい目に遭いそうになったんだよ」

由美が言っていたのは、
彼女が働く駅前の喫茶店
「カフェ・マリアンヌ」のことだった。
大和ファイナンスという会社が突然現れて、
立ち退きを迫ってきた。
実態はヤクザのフロント企業で、
店のオーナーはすっかり怯えてしまったという。

「でも、エイキュー警備保障っていう
会社の人が間に入ってくれてさ。話をつけてくれたんだよ。

L'sコーポレーションの傘下の会社なんだけど、
なんか只者じゃない感じがしてね、
結局大和ファイナンスの方が引いたんだよ」

L'sコーポレーション。
世界規模の巨大企業グループで、インフラから医療機器、
セキュリティ事業まで多角的に展開している。
その日本法人傘下のエイキュー警備保障。

人探しとはまた違う話だ。
でも、と井上医師は思った。
由美が「只者じゃない」と感じた、
その何かに、今は賭けてみる価値があるかもしれない。

翌日、由美に連絡を入れた。

---

## 第九章 カフェ・マリアンヌの男

「カフェ・マリアンヌ」は、
駅から二分ほどの路地に入ったところにある。
外観は古びた洋館風で、
窓枠が濃いボルドー色に塗られていた。
入ると焙煎した豆の香りがして、
アンティーク調の家具が並んでいる。

由美が厨房の奥からひょこっと顔を出した。

「来た来た。もう少しで来るはずだから待ってて」

井上医師は窓際の席に座り、コーヒーを頼んだ。

ドアが開いたのは、五分後だった。

入ってきた男を見て、井上医師は一瞬、人違いかと思った。

くたびれた紺色の背広は、
肩のあたりが光の加減でわずかにテカっていた。
ネクタイの結び目は常に緩く、
喉元から三センチほど下がっている。
靴は長らく磨かれた形跡がなく、
先端が白っぽく曇っていた。
髪は整えようとした痕跡はあるが、
どこかで力尽きている。
年齢は四十代の半ばか、
疲れ方によってはもう少し上にも見えた。

(この人に頼む……?)

一瞬、帰ろうかと思った。

男は由美に軽く手を上げて挨拶し、
「いつものやつ」と言った。
カウンターの中で由美が
ナポリタンを作り始める音がした。

「田中誠です」

男は向かいに座り、名刺を差し出した。
エイキュー警備保障。渉外担当、とあった。

「井上先生ですね。由美さんから聞いてます」

声は落ち着いていた。
背広の外見と声のトーンがどこかちぐはぐで、
それがかえって不思議な安心感を生んだ。

「突然のご連絡で申し訳ありません」
と井上医師は言い、封筒を取り出した。

「患者の、桐島咲さんという方が
行方不明になっていて……
医師として患者の個人情報をこういう形で
お渡しするのは本来あってはならないことなのですが、
それでも、どうしても」

「ご両親の同意は?」

「いただいています」

田中は封筒を受け取った。
中から桐島咲の写真と、
簡単なプロフィールをまとめた資料が出てきた。

写真の中の咲は笑っていた。
カフェのエプロンを着けて、
カウンターの向こうに立っていた。
バイト先で撮られたものらしかった。

「若年性健忘症で、判断力が著しく低下した状態で
行方不明になったと思われます。
危険な状況にいる可能性が高く、
警察への届けは出していますが……」

「お金を払います」と井上医師は続けた。

「いくらでもかまいません。どうか探してください」

田中は資料を一通り読んだ。
ナポリタンが運ばれてきた。
由美が気を利かせて、さっさと厨房に引っ込んだ。

田中はフォークを手に取りながら、静かに言った。

「わかりました。受けましょう」

それだけだった。
値段交渉も、成功の保証も、
大仰な言葉も何もなかった。
ただ、受けた。

---

## 第十章 ミュルミドンの眼

その夜、
田中は東京都内のビルの一室に戻り、端末を起動した。

画面に向かって、桐島咲の写真と資料を送信した。
宛先は通常の通信網には乗らない、
専用の暗号回路だった。

「ミュルミドン各機へ。対象者情報を送付する。
発見次第、報告せよ」

電文は一瞬で散った。

ミュルミドン——世間にその名前を知る者はいない。
L'sコーポレーションの極秘開発部門が
長い年月をかけて完成させた、
全高三センチの自律型AIロボットだ。
その漆黒のボディは光を吸収し、
どんな高精度の赤外線センサーにも映らない
特殊コーティングが施されていた。
四肢の構造は人間のそれを精緻に模していて、
壁面も天井も自在に這い回る。
背部には薄く折りたたまれた昆虫型の翅があり、
展開すれば驚くほどの距離を滑空できた。
腕部には微細なレーザー射出機構があり、
配線を焼き切ることも、
鍵穴の内側を溶接することも可能だった。

感知できるのに、見えない。
存在するのに、計測できない。

何百万体が世界中に展開している。
都市のビルの壁の隙間に、
空港のターミナルの天井裏に、
港のコンテナの内側に。
人間の社会の隙間を縫うように、静かに満ちている。

そのうちの一体が、桐島咲を見つけたのは、
送信から七十二時間後のことだった。

場所は、日本ではなかった。

---

田中の端末に映像が届いた。

薄暗い部屋の、窓際に置かれた長椅子。
そこに座っている若い女性。
目線が定まらず、表情は空白に近い。
でも顔は、写真と一致した。

所在地のデータが続いた。
東南アジア、ある国の郊外。
地名を見た瞬間、
田中の中の膨大なデータベースが照合を始めた。
その地域で勢力を持つ武装組織のボスの居住地として、
複数の情報と合致した。

ミュルミドンが収集した追加情報によれば、
咲が日本から「運ばれた」ルートの痕跡もあった。
日本国内の反社組織が介在し、
対価として武器と薬物が渡った。

人身取引の古典的な手口だった。

ただ彷徨っているところを掬い上げ、商品として手渡す。
記憶が欠落した状態の若い女性は、抵抗も主張もできない。

田中は端末を閉じ、上司へ報告を送った。
翌朝、返信が届いた。

「現地確認、および対象者保護を承認する。
通常手続きにて対応せよ」

出張の辞令が出た。

---

## 第十一章 L'sロードミニ01

L'sコーポレーション日本支社ビルの地下駐車場に、
田中の車がある。

見た目はどこにでもある軽バンだ。
白いボディ、小さなサイドミラー、
くたびれたフロントグリル。
駐車場の端に停まっていると、
掃除用具を積んだ業者の車と区別がつかない。

だが内部は、
外観が示唆するいかなるものとも異なっていた。

扉を開けると、空間が広がる。
これは比喩ではない。
物理的に、内部の体積が外形から想定されるそれを
大きく超えている。
空間拡張と呼ばれる技術によるものだ。
奥にはベッドがあり、シャワーとトイレが備わっていた。
小型の冷蔵庫と調理スペース。
長距離移動のすべてが、この車内で完結する。

動力は小型の反物質反応炉。
燃料補給は不要で、理論上の航続距離は無限に等しい。
重力制御装置が搭載されており、
地上を走る際も厳密には路面には接していない。
浮いているのだが、タイヤは回転し、
車体は地面から一センチか二センチしか
浮いていないため、見た目では判別できない。

海上は水面を走る。空中は飛ぶ。
陸海空の境界を、この車は気にしない。

AIによる完全自律制御が基本で、
田中は目的地を入力するだけでいい。
さらに、本社から常時監視と制御が可能で、
緊急時には遠隔で完全自動運転に切り替わる。
万一、外部から衝突を試みるものがあれば、
重力制御装置が応答し、
乗員にダメージが及ぶ前に排除する。

田中は目的地を入力し、座席に深く座った。
車は静かに地下駐車場を出て、
東京の夜道に滑り出した。

夜を走り、海を渡り、空を行き
——田中は東南アジアへ向かった。

---

## 第十二章 連れ戻す

目的の建物は、緑に囲まれた敷地の中に立っていた。
高い塀と、鉄製の門と、不機嫌そうな顔の男たちがいた。

田中には、光学迷彩がある。

装備を展開すると、田中の姿は背景に溶け込んだ。
正確には、周囲の光景をリアルタイムに取り込んで
表面に投影する技術で、
完全な透明ではないが人間の視覚では判別できない。
監視カメラにも映らない特性がある。

ミュルミドンが事前に収集した建物の内部構造データが、
田中の視界にオーバーレイされた。

門を越え、中庭を抜け、建物の側面から内部へ。
廊下を進み、階段を上がり、突き当たりの部屋へ。

扉は施錠されていた。
田中の指先からレーザーが細く走り、
錠前の機構を二秒で無効化した。

部屋の中は薄暗かった。
窓からわずかな月明かりが差していた。

長椅子の上に、咲は座っていた。

膝を揃えて、手を膝の上に置いて、
どこでもない場所を見ていた。
部屋に人が入ってきたことすら、
認識していないようだった。

田中は光学迷彩を解除した。

「桐島咲さん」

咲はゆっくりと顔を向けた。
目線が田中の顔の上を滑った。
焦点が合うのに、少し時間がかかった。

「……だれ」

「迎えに来ました。一緒に帰りましょう」

咲は田中の顔をしばらく見ていた。
警戒する様子でも、喜ぶ様子でもなかった。
ただ見ていた。

「帰る……」と咲はつぶやいた。
その言葉の意味を、口の中で確かめるようだった。

「どこに?」

「日本です。お父さんとお母さんが待っています」

その言葉に、咲の目の焦点が少し変わった。
何かが、薄い霧の奥で動いたような。

「……おかあさん」

「そうです」

咲は立ち上がった。
それ以上の説明を求めなかった。
ただ、田中の後についた。

建物を出て、車に乗り込むまで、誰とも鉢合わせなかった。

ミュルミドンが建物内の人員の動きを
リアルタイムで把握し、
田中の経路をナビゲートしていた。

L'sロードミニ01が、静かに夜の空へ上昇した。

---

## 第十三章 帰還

日本に帰ってからの処理は、
あらかじめ段取りされた手順通りに進んだ。

表向きの説明は、
「山中で遭難しているところを登山者が発見、保護された」

というものだった。
発見場所として使えるロケーションと、
それを証言してくれる人物の手配は、
田中の会社が担った。

田中が桐島咲を連れて静岡の実家を訪れたとき、
玄関先で母が声を上げた。

「咲!」

咲は一瞬、固まった。
目の前の女性の顔を見て、何かを探すような表情をした。
それから——ゆっくりと、崩れるように泣き出した。
声も出ず、ただ涙が流れた。

母が咲を抱きしめた。父が後ろから二人を包んだ。

田中は玄関の外で、静かに必要経費の請求書を手渡した。
父がそれを受け取りながら、目を赤くして頭を下げた。

「本当に、本当にありがとうございました」

「仕事ですので」と田中は言った。

それから田中は上司に申請を入れた。
桐島咲の周辺へのミュルミドン配備の
承認を求める申請だった。

承認は翌日降りた。

それ以来、桐島咲の日常の半径のどこかに、
常に漆黒の小さな目がある。
彼女は知らない。
誰も知らない。
ただ、もし次に彼女の足が迷い出したとしても、
それは記録される。

---

## 第十四章 カフェ・マリアンヌ、再び

一月の、穏やかな昼下がりだった。

「カフェ・マリアンヌ」の窓際の席に、
井上医師は座っていた。
コートをまだ脱がずに、
両手でコーヒーカップを包んでいた。

田中が入ってきた。
いつもの背広。いつものくたびれ具合。
いつもの、どこか宙ぶらりんのネクタイ。

向かいに座ると、
由美がすかさずナポリタンを持ってきた。

「見つかりました」と田中は言った。

「ご本人は今、実家で療養中です。
記憶の状態については、
主治医の先生にお任せするしかありませんが、
身体的なダメージは……」

井上医師はしばらく言葉が出なかった。

窓の外の冬の光が、白く差し込んでいた。

「本当に……」声が出た。

「本当に、ありがとうございました」

「仕事ですので」

「それでも」と井上医師は言った。

「あなたが動いてくださらなかったら、彼女は」

「先生が諦めなかったから動けたんです。
それだけです」

田中はフォークでナポリタンを巻き取りながら、
ごく平静に言った。

井上医師はコーヒーを一口飲んだ。温かかった。

「彼女、回復しますか」と田中が聞いた。

「長い道のりになりますが……
今度は、一人じゃありませんから」

田中はうなずいた。それ以上は何も言わなかった。

窓の外を、冬の風が通り過ぎた。
どこかの木の枝が揺れて、葉が一枚、落ちた。

由美が厨房の奥から何か陽気なことを言って、
カフェの中が少し笑い声に満ちた。

田中はナポリタンを食べ続けた。
背広はくたびれたままで、ネクタイは緩んだままで、
靴は曇ったままだった。

それでも、そのくたびれた横顔には、
何か静かなものが宿っていた。
名前のつけにくい、しかし確かに存在するものが。

---

*了*

---

**あとがきにかえて**

田中誠がロボットであるということを、
井上医師は知らない。
由美も知らない。
桐島咲の両親も知らない。

彼が人間であるかどうかなど、
この物語においては関係のないことかもしれない。

諦めずに動いたということ、
ただそれだけが、一人の人間を取り戻した。

 

虐めは被害を受けて苦しんだ者にしか

理解出来ないと思います

たまに虐め事案で有識者とか名乗る人が

集められますが虐めの被害者以外に

有識者になれる者はいないと思います

たまに加害者の未来が・・・

という阿呆がいますが

加害者の未来なんて無くていいと思います

理不尽に虐められた

被害者の未来の方が余程 大事です

一生消えない心の傷となるのだから・・・

 

 

 

# 因果の廊下

## 一

春の陽光が窓から差し込む教室の隅に、
いつも誰かが蹲っていた。

中学二年生の松本誠司は、
その「誰か」になってしまった日の事を今でも夢に見る。

最初は些細なことだった。
体育の授業でバスケットボールのシュートを外した。
それだけだった。
本当に、それだけだったのだ。

「おい、ヘタクソ」

声の主は須賀亮介だった。
サッカー部のレギュラーで、顔も整っていて、
教師からも一目置かれている男。
クラスの中心に常に居座るような存在。
須賀が笑えばクラスが笑い、
須賀が眉をひそめればクラスが静まり返る、
そういう生態系の頂点に立つ男だった。

最初の一言が、やがて嵐になった。

誠司の机の中に生ゴミが入るようになった。
体育着が隠された。
給食の時間には誰も隣に座らなくなった。
廊下を歩けば足を引っかけられ、
ノートには汚い言葉が書かれた。
一度など、学校帰りに須賀とその取り巻きに
川原まで連れて行かれ、泥まみれにされながら
蹴られ続けた。

「死ね」

「消えろ」

「お前がいると空気が汚れる」。

言葉は石よりも重く、
骨よりも深いところへ食い込んだ。

誠司には何も理由がわからなかった。

理由などなかったからだ。

須賀亮介が誠司を虐めたのは、
ただ彼がその日に機嫌が悪かったから。
部活でレギュラーを争うライバルに腹が立っていたから。
親に怒鳴られて鬱憤が溜まっていたから。
要するに、誠司はそのはけ口として選ばれた、
それだけのことだった。

誠司は両親には一切打ち明けなかった。
心配させたくない、という気持ちもあったし、
言葉にした瞬間にそれが現実として
完全に固まってしまうような恐ろしさもあった。
彼は毎朝、腹痛と戦いながら制服を着た。
毎晩、布団の中で声を押し殺して泣いた。

それでも彼は学校へ行き続けた。
逃げなかったのではない。
逃げる場所がわからなかった。

二年間の地獄は、
須賀が受験のために塾通いを始めてから
少しずつ薄れていった。
受験という共通の敵が現れ、
須賀の意識はどこかへ向かっていった。
誠司への興味が失せたのだ、
薄れゆく熱のように。

誠司は高校、大学と進み、教育学部へ進んだ。
理由は単純だった。
自分のような子供を、一人でも救いたかった。
それだけだった。

---

## 二

須賀亮介の人生は、表面上は順調だった。

有名私立大学を卒業し、大手電機メーカーに就職。
営業成績は常にトップクラスで、
三十二歳で係長に昇進した。
職場で出会った同僚の高橋さやかと結婚し、
二年後に息子の翔太が生まれた。

翔太は物静かな子供だった。

須賀は翔太に期待をかけた。
かけすぎた。
自分が歩んできた「成功の道」を、
そのまま息子に歩ませようとした。
幼稚園の頃から英語教室と水泳教室に通わせ、
小学校に上がると公文と習字と算盤を掛け持ちさせた。
遊ぶ時間を削り、友達と過ごす時間を削り、
ひたすら「結果」を求めた。

「もっとちゃんとやれ」

「なんでできないんだ」

「情けない」

須賀は自分が父親から言われた言葉を、
そのまま息子に浴びせた。
自分がそれで育ったのだから、
それが正しい育て方だと信じて疑わなかった。

翔太は次第に口数が減っていった。
視線が床に向くことが増えた。
何かを訊かれると必要以上に体が強張り、
声が出なくなった。
妻のさやかが「この子、少し心配じゃない?」
と言うたびに、
須賀は「甘やかすな」と遮った。

翔太が小学三年生になった春、
担任の教師から連絡が来た。

「翔太くんのことで、
少しお話ししたいことがあります」

須賀はその言葉の意味を、
すぐには理解できなかった。

---

## 三

翔太が虐められていた。

クラスの数人の男子に無視をされ、
休み時間は一人で教室の隅にいることが多かった。
持ち物を隠されたこともある。
理由は——翔太がうまく話せないから。
みんなが盛り上がっている輪の中に入れないから。
ただ、それだけだった。

担任の田中教諭から報告を受けた瞬間、
須賀の中で何かが弾けた。

「なんで止めなかったんですか!」

怒鳴り声が、相談室に響いた。
さやかが「あなた、落ち着いて」と腕を引いたが、
須賀は構わなかった。

「担任が見ていながら虐めを許すなんて、
どういうことですか。
教師として失格じゃないですか」

田中教諭は青ざめた顔で頭を下げ続けた。

「校長を呼んでください。教頭も。
こんなことを見過ごしておいて済むと思ってるんですか。
加害した子供たちには厳しい処分を。
それと翔太のクラスを変えることも検討してください。
うちの子がこれ以上傷つくのは許せない」

須賀は立ち上がり、
机に両手をついて前のめりになった。

「虐めをする側がすべて悪い。
被害者には何の非もない。
それはわかってますよね?」

その時、ドアが開いた。

「失礼します」

入ってきたのは若い男性だった。
三十代半ばだろうか、細身で眼鏡をかけており、
どこか疲れたような、
しかし静かに凪いだ目をしていた。

「教頭の松本です」

須賀は一瞬、その名前に何かが引っかかる感覚を覚えた。
しかし興奮した頭はその感覚を掘り下げることを拒んだ。

「教頭さん、ちょうどよかった。
今お話ししていたところで——」

「須賀さん」

松本の声は穏やかだった。
低く、しかし部屋全体に染み渡るような静けさがあった。

「少し前に、おっしゃいましたね。
虐める側がすべて悪い。
被害者には何の非もない、と」

「当然です。そうでしょう」

「そうですね」

松本誠司はゆっくりと椅子を引いて、
翔太の正面に腰を下ろした。
翔太は小さくなって、膝の上で手を握りしめていた。

松本は翔太を見た。まっすぐに、優しく。

「翔太くん、少し話を聞いてもいいかな」

翔太が小さく頷いた。

「虐められているの、つらかったね」

翔太の目に、みるみる涙が盛り上がった。
唇を噛んで、それでも頷いた。

「つらいよね。
何もしていないのに、理由もないのに、
傷つけられるのは」

松本の声は揺れなかった。
まるでその言葉を、
ずっと昔から用意していたように。

「翔太くんは何も悪くない。本当に、何も」

---

## 四

「松本……」

須賀が呟いた。

何かが、脳の奥底で軋んだ。
記憶の蓋が、少しずつ開いていく。

松本誠司。

中学の——。

「須賀さん」

松本が須賀を見た。
その目は怒ってはいなかった。
糾弾の色もなかった。
ただ、静かだった。
湖面のように、深く、静かだった。

「私のことを、覚えていますか」

須賀は言葉を失った。

隣でさやかが夫の顔を見た。
見たことのない表情をしていた。
血の気が引き、目が泳ぎ、口が半開きになっている。

「……松本、か」

「覚えていてくれていた」

松本は頷いた。
皮肉もなく、怒りもなく、
ただ事実を確認するように。

「中学の同級生です。
二年間、同じクラスでした」

さやかが夫を見た。
翔太も父親を見上げた。

「須賀さん」と松本は続けた。

「先ほど、虐めを見過ごした教師を責めましたね。
なぜ止めなかったのかと。
担任が見ていながら許すのは教師として失格だと」

「……」

「中学二年生の時、担任の坂本先生は
何度か須賀さんに注意しましたね。
覚えていますか。
あなたはその度に、知らないと言った。
証拠がないと言った。
そして坂本先生が職員室へ戻った後、
私への行為はより陰湿になった」

部屋の空気が変わった。

田中教諭が息を飲んだ。校長が目を伏せた。

「川原に連れて行かれた日のことを
話してもいいですか」

「やめ——」

「須賀さんと、その友人三人に、
川原の土手で一時間以上に渡って蹴られました。
顔に泥を塗られました。
帰り道、川に落とされそうになりました。
『次はちゃんと落とす』と言われました。
私は十四歳でした」

翔太がぽかんと父親を見た。

さやかの顔から表情が消えた。

「私のノートにはあなたが書いた言葉が残っています。
学校帰りに捨てるよう言われたのですが、
なぜか捨てられなかった。
今も実家の押し入れにあります」

松本の声は一切乱れなかった。

「体育の時間、シュートを外したことがきっかけでした。
それだけです。私は何もしていない。
須賀さんが少し機嫌が悪かった、
それだけで二年間が始まりました。
翔太くんが今感じているものを、私も感じていました。
理由がわからない、という恐怖を」

須賀は椅子に崩れ落ちるように座った。

「あなたは今日、こうおっしゃいました。
虐めをする側がすべて悪い。
被害者には何の非もない」

松本は静かに息を吸った。

「私もそう思います。翔太くんは何も悪くない。
でも須賀さん、あなたは加害者でもあった。
それもまた、事実です」

---

## 五

長い沈黙が部屋を満たした。

さやかは夫を見ていた。
隣に座っているはずの人間が、
見知らぬ誰かになったような感覚があった。
十年間連れ添った夫。
息子を溺愛すると言いながら厳しく接する夫。
虐めは絶対に許せないと今日声を荒げた夫。

翔太は俯いていた。
小さな指が、ズボンの生地をきゅっと掴んでいた。

須賀亮介は、声が出なかった。

反論する言葉が、出てこなかった。
松本誠司の言葉を一つも否定できなかった。
全部、本当のことだったから。
川原のことも、
ノートのことも、
坂本先生への嘘も、全部。

「お父さん」

翔太の声だった。

蚊の鳴くような、しかし確かな声だった。

「お父さんも、虐めてたの」

須賀は息子を見られなかった。

松本は翔太を見た。

「翔太くん、
お父さんのことが嫌いになりましたか」

翔太は少し考えてから、首を横に振った。

「わかんない」

「そうだね。わからなくていい。
すぐにわかる必要はない」

松本は須賀に向き直った。

「私が今日ここでこの話をしたのは、
須賀さんを傷つけたかったからじゃない」

須賀がゆっくりと顔を上げた。

「翔太くんに聞かせたかったんです。
お父さんが間違いを犯したことがあると。
でもそれでも、
翔太くんが傷つけられていいわけじゃないと。
誰かの過去の罪は、
別の誰かが罰せられる理由にならない」

「……」

「翔太くん。
あなたが虐められているのは、あなたのせいじゃない。
誰がどんな過去を持っていても、それは変わらない。
あなたはここにいていい」

翔太の目から、涙が一粒、膝の上に落ちた。

---

## 六

帰り道、三人は無言だった。

駐車場に着き、
さやかは後部座席に翔太を乗せてから助手席に座った。
須賀はしばらくドアを開けられなかった。
春の風が、ゆっくりと校庭の桜の花びらを運んでいた。

ようやく車に乗り込み、
エンジンをかけたところで翔太が言った。

「お父さん、あの先生に謝った?」

須賀は答えられなかった。

「謝らないといけないんじゃないの」

幼い声は、まっすぐだった。

さやかが小さく息を吸うのが聞こえた。

須賀亮介は長い間、
フロントガラスの向こうをただ見ていた。
桜の花びらが一枚、
ガラスに触れて、風に流されていった。

何かが胸の奥で、ゆっくりと瓦解していく音がした。
積み上げてきた何かが
——成功、自信、正しさ
——その土台から崩れていく音が。

「……そうだな」

彼はようやく、そう言った。

声が震えていた。

「謝らないといけない」

それは誰に向けた言葉だったか。
息子に向けてか、妻に向けてか、
それとも二十年前の川原の土手で
泥まみれになっていた少年に向けてか。

おそらく、そのすべてに向けていた。

---

## エピローグ

松本誠司は職員室の窓から、
須賀の車が校門を出ていくのを見ていた。

怒りはなかった。

正確に言えば、怒りはとうの昔に形を変えていた。
教育学部を選んだ日から、少しずつ、別の何かに。

彼は自分のデスクに戻り、引き出しを開けた。
中には一冊の古びたノートがある。
表紙は色褪せ、ページはところどころ波打っている。
汚い言葉が書かれたページは、もう何度も見返した。

彼はそれを閉じて、また引き出しにしまった。

明日、翔太が登校してくる。

松本には、やることがあった。
翔太の教室に入り込んでいる小さな暴力の構造を、
丁寧に、一つずつほぐしていく仕事が。
それはひどく地味で時間のかかる仕事だ。
劇的な解決など望めない。
それでも、やる。

川原の土手で、
あの夜、誰かがそうしてくれていたならと、
今も思う時がある。

だからこそ、自分がそうなると決めた。

廊下の向こうから、子供たちの声が聞こえる。
喧騒の中に、笑い声が混じっている。

松本誠司は眼鏡のブリッジを指で押し上げて、
席を立った。

しかし——と、松本は心の最も深いところで知っていた。
須賀亮介が今日涙を流しても。
息子に罪を知られても。
妻に白い目で見られても。
それだけでは何も、清算されない。
罪とはそういうものだ。

加害者がどれほどの罰を受けようとも、
罪そのものが消えることはない。
社会的な制裁を受けても、
家族に軽蔑されても、
財産を失っても、
地位を失っても

——傷つけた事実は、
この世界のどこかに永遠に刻まれたままだ。
時間が経っても、当人が老いても、それは薄れない。

許しとは、加害者が望むものではなく、
被害者だけが与えられるものだ。
そして被害者が望まない限り、許しは存在しない。

松本誠司の右膝には、
今も雨の日になると鈍い痛みが走る。
川原で繰り返し蹴られた、
あの夜の名残だ。
二十年が経ち、教頭という立場を得て、
穏やかに笑えるようになった今も、
その痛みだけは消えない。
体が、あの夜を忘れることを拒んでいる。
傷とはそういうものだ。

被害者の傷が癒えない限り、加害者は許されない。
それは須賀亮介が謝罪をしようとも、
改心しようとも変わらない。
たとえ須賀が天寿を全うしてこの世を去ろうとも、
松本の膝が雨の日に痛み続ける限り、その罪は消えない。
死は免罪符にならない。
墓の下に逃げても、罪だけはこの世に残り続ける。

人は「時間が解決する」と言う。
人は「許すことが前に進む力になる」と言う。
それは時に正しく、時に被害者への押しつけだ。

前に進む速度も、傷の深さも、許すかどうかも
——それを決める権利は、
ただ一人、傷を負った者だけにある。

松本誠司は今日、須賀の罪を暴いた。
それは復讐ではなかった。
翔太という一人の子供に、真実を届けるためだった。
虐めは連鎖する。
被害者が加害者になることもある。
その連鎖をどこかで断ち切らなければ、
川原の土手は世界中に増え続ける。

しかし同時に、
松本は自分の中に今も消えない何かがあることを、
静かに認めていた。
それを憎しみと呼ぶには穏やかすぎる。
それを怒りと呼ぶには冷たすぎる。
それはただ——事実として、そこにある。

須賀亮介は自分に罪を犯した。
その罪は須賀が生きている間も、死んだ後も、
松本誠司の膝が痛む限り、
永遠に赦免されることなくこの世界に存在し続ける。

それが、罪というものの本当の重さだ。
派手な裁きも、大きな罰も必要ない。
ただ、消えない。
ただ、残り続ける。
加害者が忘れたくても。
やり直したくても。墓の中へ持ち込もうとしても。
被害者の傷が癒えない限り
——罪は、永遠に生き続ける。

廊下の向こうから、子供たちの声が聞こえる。
松本誠司は静かに立ち上がり、
その声の方へと歩いていった。

 

「入れ替わってる!?」

の相手が農家の高齢独身男性だったら?

と思って作りました

 

 

# 畑の中の私へ

## 一章 東京、はじまり

桜田美咲は、段ボール箱の隙間から差し込む
朝の光で目を覚ました。

四月。東京。自分だけの部屋。

天井を見上げた瞬間、
胸の奥から泡のように喜びが湧いてきた。
六畳一間、ユニットバス、築三十年の木造アパート。
でも美咲にとって、その古びた天井は
世界で一番美しいキャンバスだった。

「東京に来たんだ、あたし」

声に出してみると、現実の輪郭がくっきりした。

福島の実家を出るとき、母は泣いた。
父は「無理するな」と言いながら、
新幹線のホームでいつまでも手を振っていた。
でも美咲の足は、
出発の瞬間から一度も止まらなかった。

大学の入学式は明後日だ。
サークルは何に入ろうか。
友達は何人できるだろう。
バイト先はカフェがいいか、書店がいいか。
考えただけで口角が上がる。
スマートフォンには、同じ学部に進学した
見知らぬ子たちが集まるグループLINEの通知が
十七件も溜まっていた。

「全部、これからだ」

美咲はそう呟いて、目を閉じた。

夜の東京の、遠い車の音を子守唄に、
もう一度眠りに落ちた。

---

## 二章 目覚め

鳥の声で目が覚めた。

変な夢を見ていた気がする、
と思いながら目を開けると、天井が違った。

木の梁が走っている。
染みだらけの、茶色い天井。

美咲は身を起こした。

手を見た。

節くれだった、大きな手だった。
甲に太い血管が浮き出ていた。
爪の根元に、黒い土が詰まっていた。

「……え」

声が出た。
低い、掠れた声だった。
自分の声ではない声が、自分の喉から出た。

美咲は、いや、美咲だった何者かは、
畳の上から立ち上がった。
足が重かった。
膝が軋んだ。
六畳の部屋——しかしそれは東京の六畳ではなく、
古い農家の一室だった。
柱に掛かったカレンダーには、
「岩手県農協」と書いてあった。

鏡を探した。

洗面所に、曇った小さな鏡があった。

そこに映っていたのは、六十代とおぼしき男の顔だった。
頬がこけ、白髪まじりの無精髭が伸び、
目の下に深い皺が刻まれていた。
目だけが、どこか途方に暮れた様子で、
鏡の中からこちらを見ていた。

美咲は、しばらく声が出なかった。

---

## 三章 吉田義雄の一日

台所に、メモ帳が置いてあった。
几帳面な字で、今日の作業が書いてあった。

> ・ネギの土寄せ(第三畑)
> ・トマトの脇芽かき
> ・農協へ連絡(夕方まで)

この体の持ち主の名前は、手帳の表紙に書いてあった。

**吉田義雄、六十三歳。**

戸籍謄本のコピーが引き出しに入っていた。
離婚歴あり。子供なし。
緊急連絡先の欄は、空白だった。

美咲は——義雄の体に入った美咲は
——しばらく台所の椅子に座って動けなかった。

窓の外には、山があった。
杉の木が連なって、空の半分を塞いでいた。
車の音は聞こえない。
コンビニの看板も見えない。
隣の家まで、どれくらいあるのかも分からなかった。

スマートフォンを探した。
あった。古い機種で、画面には傷が入っていた。
LINEの通知はゼロだった。
未読メッセージもゼロ。
着信履歴の最後は、十日前。
「農協・田中」という名前だった。

美咲は、グループLINEを開いた。
自分の——桜田美咲の——アカウントを探した。
当然、無かった。
ここは義雄のスマートフォンだった。

仕方なく、美咲は長靴を履いた。

長靴の中に、昨日の土の湿りが残っていた。

---

第三畑は、家から五分ほど山道を歩いたところにあった。
四月の朝の空気は、東京よりずっと冷たく、澄んでいて、
しかし美咲にはそれが少しも嬉しくなかった。

ネギが、畝に沿って並んでいた。

鍬を持った。
重かった。
義雄の体は慣れているらしく、
手がひとりでに正しい角度を覚えていた。
土を寄せる。
寄せる。
寄せる。

一時間後、美咲は腰を伸ばした。

辺りを見回した。

山。畑。空。

それだけだった。

誰もいなかった。
声も聞こえなかった。
スマートフォンは圏外を示していた。

「……はあ」

義雄の口から、美咲のため息が漏れた。

---

昼は、冷蔵庫に残っていた白菜の味噌汁と、
冷や飯を食べた。
テレビをつけた。
ローカルニュースが、農産物の価格の話をしていた。
美咲はチャンネルを変えようとして、
リモコンのボタンを三回押し、
四チャンネルしか映らないことを知った。

午後もネギを寄せた。

トマトの脇芽をかいた。

細い、青い芽を指でつまんで折るたびに、
青くさい匂いがした。
悪い匂いではなかった。
でも、胸が弾む匂いでもなかった。

夕方、農協に電話した。
義雄の体が、慣れた様子で
「今年のネギは例年より遅れそうだ」と喋った。
向こうの田中さんという人が「そうですか」と言って、
電話は三分で終わった。

日が山の向こうに沈んだ。

外が暗くなった。

美咲は、縁側に腰を下ろした。

空に、星が出ていた。
東京では見えないほど、たくさんの星だった。
それだけは、少し、綺麗だと思った。
でもすぐに寒くなって、中に入った。

風呂を沸かした。
湯船に義雄の体を沈めながら、
美咲は天井を見上げた。

明日も、ネギだろうか。

明後日も、ネギだろうか。

グループLINEの通知が溢れる、
あの東京の六畳は、今頃どうなっているだろう。
桜田美咲の体は、今頃どんな顔をして、
どこに立っているだろう。

美咲は目を閉じた。

義雄の体は、疲れていた。
骨の芯まで疲れていた。
それなのに、胸の中にはぽっかりと、
何もない空洞があった。
わくわくする出来事も、誰かに話したい話も、
明日を楽しみに思う気持ちも、何もなかった。

ただ、ネギがあった。

明日も、ネギを寄せなければならなかった。

---

## 四章 土の下で

三日が経った。

美咲は少しずつ、義雄の体の地図を覚えてきた。
左膝が特によく痛むこと。
朝一番のコーヒーがないと手が動かないこと。
鍬の柄の、少し削れたところに右手の親指を当てると、
力が入りやすいこと。

そして、
この集落に七十代以上の老人しか残っていないこと。

隣の山田さんが、一度だけ野菜を持ってきた。
七十五歳の老婆で、美咲が「ありがとうございます」
と言うと、「義雄さん、最近顔色がええな」
と言って帰っていった。

それが、三日間で唯一交わした会話だった。

四日目の朝、
美咲は畑に出る前に、縁側に座って山を眺めた。

雪がまだ残る山頂が、朝の光に白く輝いていた。

美咲は、ふと思った。

——義雄さんは、毎日ここを見ているんだ。

毎朝、この山を見て、長靴を履いて、鍬を持って、
畑に出る。誰に「いってきます」と言うこともなく。
誰かに今日あったことを話すこともなく。
ただ土と向き合って、日が暮れたら帰ってくる。

それが、何年続いているのだろう。

美咲には分からなかった。
でも手帳の端に、
細かい字で書き付けられた天気の記録が、
五年分以上あった。

晴れ。
曇り。
雨。
晴れ。
晴れ。
風強し。
晴れ。

わくわくする言葉は、一つも無かった。

---

七日目の朝、美咲は夢を見た。

東京の、あの六畳の天井が見えた。
段ボールの匂いがした。
スマートフォンが鳴っていた。

目を覚ますと、岩手の天井だった。

梁の染みが、いつもと同じ場所にあった。

美咲はしばらく、
そこに書かれてもいない何かを読もうとするように、
天井を見つめた。

それから、起き上がった。

コーヒーを入れた。
長靴を履いた。
鍬を持った。

第三畑に向かう山道の途中、
足元の土が朝露に濡れてきらきらしているのに気づいた。
普段なら素通りするはずの、ただの泥道だった。

なぜか、その日は足が止まった。

しゃがんで、濡れた土を指で触れた。
義雄の節くれだった指が、冷たい土に沈んだ。

土は、静かだった。

何も言わなかった。
でも、確かにそこにあった。

美咲は立ち上がった。

畑に着いた。
ネギが、昨日より少しだけ大きくなっていた。
美咲でなく、義雄の何十年かが、それを知っていた。

鍬を振った。

土を寄せた。

山の向こうから、風が来た。

胸がわくわくすることは、何もなかった。
楽しい出来事も、何も起きなかった。

でも美咲は、
その日初めて、鍬を置いた後に空を見上げた。

雲が、ゆっくり動いていた。

---

## 終章

九日目の朝、美咲は東京の六畳で目を覚ました。

天井に、見慣れた蛍光灯があった。

スマートフォンが、通知で光っていた。
グループLINEが、二十三件。
入学式前日の昨夜から、みんなが自己紹介を始めていた。

美咲は、しばらく動かなかった。

自分の手を見た。
細い、二十歳になったばかりの手だった。
爪に土は入っていなかった。

窓の外から、車の音がした。
どこかで誰かが笑っていた。
朝の光が、段ボールの隙間から差し込んでいた。

美咲はゆっくり起き上がって、
スマートフォンを手に取った。

LINEを開く前に、少し迷って、メモアプリを開いた。

そこに、一行だけ書いた。

> 吉田義雄さんは、今日もネギを寄せているだろうか。

それだけ書いて、閉じた。

スマートフォンには、二十三件の通知が待っていた。
東京の朝が、外で音を立てていた。
美咲のキャンパスライフが、
今日から始まろうとしていた。

でも美咲の胸の中に、岩手の山と、朝露に濡れた土と、
誰にも「いってきます」と言えない男の背中が、
静かに、沈んでいた。

---

**——了——**
 

いつかこういう事が起きても

おかしいとは思わないような

日本になってしまい残念です

 

 

 

# 不起訴

## 第一章 沈黙の判決

東京地方検察庁の薄暗い廊下を、
検事・倉田誠司は重い足取りで歩いていた。
四十二歳、キャリア二十年。
正義を信じてこの仕事を選んだはずだった。

「また不起訴か」

後輩の検事・田中が吐き捨てるように言った。

「上からの指示だ。外交的配慮が必要らしい」

倉田は答えなかった。答えられなかった。

被害者は十六歳の少女だった。
名前は橘さくら。夢は保育士になることだった。
事件後、彼女は学校に行けなくなり、部屋に閉じこもった。

加害者のマルコ・エスポジトは
三十一歳のイタリア国籍の男で、
同様の事件をすでに二度起こしていた。
それでも今回も不起訴処分。
理由は「証拠不十分」。

廊下の窓から見える東京の空は、抜けるように青かった。

その夜、SNSには数万件の投稿が溢れた。

*#司法は死んだ*

*#外国人特権をやめろ*

*#さくらちゃんを守れ*

怒りは画面の外へはみ出すほど膨らんでいたが、
翌日も、また翌日も、現実は何も変わらなかった。

---

十一月の第二木曜日。

杉並区の閑静な住宅街で、
異臭を感じた隣人が警察に通報した。

部屋に踏み込んだ警察官が見たのは、
床に倒れたマルコ・エスポジトの遺体だった。

死因は鋭利な刃物による刺傷。
抵抗した形跡はなかった。
まるで眠っているところを刺されたかのように、
男は仰向けに倒れていた。

遺体の傍らには、一枚の紙が置かれていた。

印刷された文字で、ただ一行。

**「不起訴、取り消し」**

---

## 第二章 連鎖

捜査一課の刑事・宮本恵は、
その紙をビニール袋越しに眺めながら眉をひそめた。
四十五歳、短く切った黒髪に疲れた目。
離婚歴あり、娘が一人。

「被害者の前歴を調べろ」

彼女の指示で部下が動き、
三時間後に報告が上がってきた。

「強姦事件が三件。
被害者はいずれも日本人の少女で、
十四歳から十七歳。全て不起訴です」

宮本は煙草に火をつけ、窓を開けた。

「遺族への連絡は慎重にやれ。
マスコミより先に動くな」

だが翌朝には、
もう週刊誌のウェブサイトに情報が漏れていた。

*「連続強姦で不起訴の外国人男性、自宅で刺殺」*

記事のコメント欄には、同情の言葉は一つもなかった。

---

三日後。

今度は江東区のアパートで発見された。
被害者はグエン・バン・ミンという
三十八歳のベトナム国籍の男。
飲酒運転で早稲田大学の学生
・木村浩二(当時二十歳)をはねて
死亡させた事故の加害者だった。
木村の血中アルコール濃度は零。
グエンのそれは基準値の三倍を超えていた。
日本人であれば危険運転致死罪で
最長二十年の実刑を問われる案件だったが、
グエンは「在留資格の問題があり、
本国での家族の事情を考慮」という理由で
不起訴となり、現在も日本に在住していた。

木村の母親はグエンの不起訴が決まった日、
検察庁の前で泣き崩れた。
その動画はSNSで拡散され、
三百万回以上再生されていた。

グエンの遺体の傍らにも、同じ紙が一枚。

**「不起訴、取り消し」**

---

五日後、今度は三件目。

麻薬密輸で摘発されながら
不起訴となったナイジェリア国籍の男。

宮本は捜査本部の前に立ち、地図に印をつけながら言った。

「偶然じゃない。全員、不起訴になった外国人だ。
殺す順番を決めている誰かがいる」

「復讐か」と部下が言った。

「復讐にしては、対象が広すぎる」

宮本は静かに答えた。

「これは個人の恨みじゃない。もっと冷たい何かだ」

---

## 第三章 ノイズ

事件はやがて「審判者(ジャッジ)事件」
と呼ばれるようになった。

マスコミは連日報じた。
しかしその論調は、奇妙に割れていた。

「卑劣な差別犯罪だ」という論説と、
「司法の怠慢が生んだ必然だ」という論説が、
同じ紙面に並んだ。
コメンテーターたちはスタジオで声を荒げた。
SNSでは毎晩、賛否が激突した。

倉田検事は深夜、
自宅でその議論をぼんやりと
スマートフォンで眺めていた。

*被害者の子たちは今も苦しんでいる。*

*あの母親の泣き顔は忘れられない。*

*それでも殺人は許されない。*

*……本当に、許されないのか?*

彼は酒を一口飲み、そのスマートフォンを伏せた。

答えは出なかった。

---

事件は止まらなかった。

一ヶ月で二十三件。

二ヶ月で四十一件。

死んだのは全員、
何らかの重大事件で不起訴になった外国人だった。
性犯罪、暴行、殺人、詐欺、密輸。
罪の種類は様々だったが、
不起訴という結果だけが共通していた。

そして毎回、同じ紙が遺体の傍らに残された。

**「不起訴、取り消し」**

---

## 第四章 痕跡

宮本は眠れない夜を重ねた。

捜査は難航した。
犯人は痕跡を残さなかった。
指紋なし、監視カメラへの映り込みなし、目撃者なし。
まるで煙のように現れ、消えた。

だが宮本は一つのことに気づいていた。

殺された全員の情報が、
実はある程度まとめてアクセスできる場所があった。
検察庁の不起訴処分記録だ。
非公開情報のはずだが、
そこへのアクセス権を持つ人間は少なくない。
弁護士、検察官、警察官、法務省の官僚……。

「内側の人間か」

宮本は呟き、煙草の煙を吐き出した。

あるいは、と彼女は考えた。

情報を持つ誰かが、情報を*渡している*のではないか。

---

ある夜、宮本は一通の匿名メッセージを受け取った。

差出人は不明。内容は短かった。

*「あなたは正しい方向を見ている。
でも、犯人を捕まえることが本当に正しいのか、
まず自分に問うてみてください」*

宮本はそのメッセージを長い間見つめた。

削除しなかった。

上司にも報告しなかった。

---

## 第五章 百人目

半年が経った。

犠牲者の数は百人を超えた。

その日、政府は緊急声明を発表した。
外国政府からの抗議が相次ぎ、外交問題に発展していた。
国会では与野党が紛糾し、法務大臣が辞意を表明した。

同じ日、橘さくらがSNSに初めて投稿した。

事件以来、ずっと沈黙していた少女の、最初の言葉。

*「私は誰かに死んでほしかったわけじゃない。
ただ、裁いてほしかっただけです。
それだけでした」*

その投稿は一夜で百万を超えるいいねを集めた。

宮本はそれを読み、目を閉じた。

木村浩二の母親も、同じ日に投稿していた。

*「息子を返してください。
それだけです。誰も殺さなくていい。
息子を、ただ返してください」*

---

## 第六章 審判者

倉田検事が自首したのは、
百三件目の事件が起きた翌朝だった。

東京地検の玄関に現れた彼は、
十九年間仕事をともにした同僚の前で静かに言った。

「私が、ジャッジです」

取調室で、倉田は淡々と話した。

「最初の一人だけ、私が手を下しました。
マルコ・エスポジト。
彼を不起訴にしたのは私の決裁でした。
上からの圧力があった。私は従った。
橘さくらさんが部屋に閉じこもったと聞いたとき、
私は初めて、自分が加害者の一人だったと気づいた」

「その後の事件は?」宮本が問うた。

「私が名簿を作り、仲間に渡しました。
仲間は弁護士や、退職した警察官や、検察官のOBや……
様々な立場の人間でした。
全員、不起訴処分に関わり、
不起訴処分を悔やんでいた人間です」

「何人いる?」

倉田は少し間を置いた。

「百人以上です」

宮本は息を飲んだ。

百人の被害者を、百人以上の「審判者」が。

「後悔していますか?」

倉田は長い沈黙の後、答えた。

「……殺すことを決めたときは、していなかった。
でも、さくらさんの言葉を読んで、初めて後悔しました。
彼女は誰も殺してほしくなかった。
私は彼女の気持ちじゃなく、
自分の罪悪感を晴らすために動いていたんだと、
やっと分かった」

---

## エピローグ 法廷

倉田誠司の裁判は翌年、東京地裁で始まった。

傍聴席は常に満員だった。

橘さくらは証人として法廷に立った。

震える声で、しかし最後まで言い切った。

「倉田さんのやったことは間違いだと思います。
でも、間違いを生んだのは司法でもあったと思います。
どちらが先に壊れたのか、私には分かりません。
ただ、もう誰も壊れてほしくない。それだけです」

法廷は静まり返った。

裁判長がゆっくりと咳払いをした。

窓の外では、
東京の街が何事もなかったように動き続けていた。

電車が走り、人々が歩き、子どもが笑い、
そして誰かがどこかでSNSに何かを書き込んでいた。

正義とは何か、
という問いの答えを、誰も持たないまま。

---

*了*

 

フィクションです・・・。

 

 

 

# 平等の代償

## 第一章 白き覇者たちの世界

十九世紀の末、
世界地図の大半は四つの色で塗り分けられていた。

A国、B国、C国、D国
——それぞれの旗の色は異なれど、
その本質は同じだった。
白い肌を持つ者たちが、
神から与えられた使命と称して海を渡り、
陸を踏み荒らし、
異なる肌の色を持つ人々の土地を
次々と手中に収めていった。

「文明化」という言葉は、
彼らにとって便利な道具だった。

A国の将軍ハロルド・ウェインライトは、
南方の大陸を征服した後、
本国への報告書にこう記した。

*「彼らは我々の管理なくしては生きられぬ
子供のようなものである。
慈悲深き我々が労働の機会を与え、
文明の光を照らしてやることこそ、
白人たる者の崇高なる義務である」*

その「文明化」の実態は、鉱山での強制労働だった。
夜明け前から日没まで、
有色人種の男たちは地の底を掘り続けた。
腰が砕けても、指の爪が剥がれても、
止まれば鞭が飛んだ。
女たちは農園で綿を摘み、
子供たちは幼い頃から奉公に出された。
彼らの労働から生まれた富は、
一銭たりとも彼らの手元には残らなかった。
すべてがA国、B国、C国、D国の
金庫へと流れ込んでいった。

ロンドン、パリ、ワシントン、アムステルダム
——四つの都市では夜ごと晩餐会が開かれ、
シャンパンの泡が弾けていた。
宝石を散りばめたドレスをまとった婦人たちが笑い、
燕尾服の紳士たちが葉巻の煙を燻らせながら株の話をした。

その豊かさを支えているものが何であるか、
誰も口にしなかった。
口にする必要がなかった。
それは空気のように当然のことだったから。

---

## 第二章 極東の島国

その頃、世界の東の果て、
太平洋に浮かぶ小さな島国E国は、
長い眠りから目を覚ましつつあった。

数百年にわたり鎖国を続けてきたE国に、
ある日、黒い煙を吐く鉄の船がやってきた。
A国の艦隊だった。
その船は、E国の木造の砲台など物ともしない
鋼鉄の外壁を持ち、
E国が持ちえない大砲を積んでいた。

「開国せよ」

その一言は、E国の人々の心に火をつけた。

恐怖と屈辱の炎ではなく——学習の炎を。

「彼らが持っているものを、我々も持たねばならない」

若い志士たちは着物を脱ぎ捨て、洋装に袖を通した。
藩の垣根を越え、身分の壁を乗り越え、
E国は一丸となって変革に挑んだ。
優秀な若者たちがA国、B国、C国、D国へと留学した。
造船所を見学し、工場を視察し、大学で学び、
図書館に籠って書物を読み漁った。

E国の技術者たちは、
ただ模倣するだけでは満足しなかった。

「なぜこの部品はここにあるのか」

「この工程をもっと効率化できないか」

「材料を変えたらどうなる」

彼らは疑問を持ち、試行錯誤を重ねた。
白人国家から学んだ技術に、
E国独自の緻密さと改良の精神を加えていった。
繊維産業では白人国家の機械を
超える精度を誇る織機が生まれた。
造船では独自の設計思想が生まれ、
より速く、より丈夫な船が進水した。
鉄鋼業では燃料効率を大幅に改善した炉が稼働し始めた。

数十年の間に、E国の輸出額は飛躍的に伸びた。

そして遂に、
E国は国際社会の扉を叩く資格を持つようになった。

---

## 第三章 平和会議

世界を揺るがした大戦が終わった年の春、
欧州の古都で国際会議が開かれた。

白い大理石の宮殿に、世界各国の代表団が集まった。
高い天井から巨大なシャンデリアが降り注ぐ光の中、
各国の外交官たちがテーブルを囲んだ。

A国、B国、C国、D国の代表たちは、
会場の中央の最も良い席に陣取っていた。
彼らにとって、
この会議は戦後の世界をいかに自分たちの
利益のために再編するかを決める場だった。

E国の代表団は会場の隅に案内された。

首席代表を務めたのは、
外務省の高官、倉橋誠一郎だった。
五十代の白髪混じりの男で、
長年の外交経験と深い教養を持ち、
四ヶ国語を流暢に話した。
彼は会場に入る前、
同行した若い書記官の松村健吾に静かに言った。

「今日、我々は歴史を動かしにきた」

松村は二十八歳だった。
E国の貧しい農村の出身で、
奨学金で大学を出て外務省に入った。
会議への随行を命じられたとき、彼は一晩眠れなかった。
この会議で何かが変わるかもしれないという期待と、
何も変わらないかもしれないという恐れが、
交互に胸を締め付けた。

倉橋は発言の機会を求め、壇上に立った。

会場がざわめいた。有色人種の代表が演説をする
——それ自体が異例のことだったからだ。

倉橋は原稿を持たなかった。
ただ、まっすぐ前を見て、
静かな、しかし確固とした声で語り始めた。

「諸国の代表の皆様、私はE国を代表してここに立ちます。
そして本日、一つの提案を申し上げたいと思います」

倉橋は一拍置いた。

「人種的差別撤廃の原則を、
この会議の基本理念として
採択することを提案いたします」

その瞬間、会場は凍りついた。

倉橋は続けた。

「人は生まれながらに平等であるという理念は、
皆様の国々が最も大切にしてきた理念のはずです。
しかし現実には、世界の多くの地域で、
肌の色によって人の価値が決められています。
これは人類の恥辱であり、
真の平和を実現するための最大の障壁です。
人種に関わりなく、
すべての人間が平等に尊厳を持って生きられる世界
——それこそが、この戦争の犠牲の上に築かれるべき
新しい秩序ではないでしょうか」

静寂が続いた。

そして、それは怒号によって破られた。

---

## 第四章 白人たちの怒り

A国首席代表のジェームズ・フォスターが立ち上がった。
六十代の大柄な男で、白い口髭を蓄え、
勲章をいくつも胸に下げていた。
彼の顔は赤く染まっていた。

「これは何たる無礼か」

彼の声は怒りで震えていた。

「我々は今、戦後の秩序について
真剣な議論をしているのだ。
それを、東洋の小国が横から口を挟んで……
しかも人種の平等などという、
空想じみた話を持ち込むとは」

B国代表のシャルル・ド・ラングレーが素早く続いた。

「全くその通りです。
我々白人文明が数百年かけて築き上げてきた秩序を、
一朝一夕に覆そうというのですか。
身の程をわきまえていただきたい」

C国代表は立ち上がりもせず、
椅子に深く腰かけたまま冷ややかに言った。

「色付きの者が我々と同等だと? 
そのような戯言を、
この神聖な会議の議事録に残すつもりはない」

D国代表だけが沈黙していたが、
その沈黙は反対の意思表示に他ならなかった。

倉橋は動じなかった。

「身の程をわきまえよ、とおっしゃいましたが」
と彼は静かに言った。

「では、人の身の程とは何によって決まるのでしょうか。
肌の色によってですか。
それとも、その人が何をなしたかによってですか」

「黙れ!」とフォスターが怒鳴った。

「お前たちは我々から学んだだけだ。
猿が人間の真似をしても、猿であることに変わりはない」

会場のあちこちから笑いが漏れた。

松村は倉橋のすぐ後ろに座っていた。
彼はその笑い声を聞いて、奥歯を噛みしめた。
怒りで視界が歪む気がした。
しかし倉橋は微動だにしなかった。
ただ静かに席に戻り、手元の白紙に何かを書き付けた。

後で松村がそれを見ると、こう書いてあった。

*「歴史は長い」*

提案は、採決にすら持ち込まれなかった。
議長は「会議の議題から外れる」という理由で、
倉橋の提案を議事録から削除することを宣言した。

E国代表団は、白い大理石の宮殿を後にした。

---

## 第五章 締め付け

帰国した倉橋たちを待っていたのは、
祝福ではなく、経済的な圧迫だった。

会議から三ヶ月後、A国が最初に動いた。
E国向けの鉄鋼輸出を制限する、
という通告が届いた。

「技術的な問題がある」という名目だったが、
誰もが真意を知っていた。

B国が続いた。石油の輸出制限。

C国が加わった。銅の輸出禁止。

D国が締めた。E国船籍の船のD国港湾への入港拒否。

E国政府の閣議室では、連日深夜まで会議が続いた。
外務大臣の石橋竜一が地図の前に立ち、
輸出入の数字が並んだ表を指さした。

「このままいけば、六ヶ月で石油が底をつきます。
一年で鉄鋼の備蓄が尽きる。
農業機械の部品も入らなくなれば、
食糧生産にも影響が出る」

首相の田中誠蔵は、眉間に深い皺を刻んで聞いていた。
七十近い老政治家だったが、その目はまだ鋭かった。

「交渉の余地はあるか」

「試みます」と石橋は答えた。

「しかし——」

彼は言葉を切った。

しかし、という言葉の先にあるものを、
部屋にいる全員が知っていた。

---

## 第六章 交渉という名の罠

交渉は行われた。

A国の代表団がE国の首都にやってきた。
豪華なホテルのスイートに陣取り、
会議の席ではE国の外交官たちに
分厚い要求書を突きつけた。

要求の内容は、E国政府を震撼させるものだった。

E国は、アジア各地に持つ権益を全て放棄すること。
軍の規模を現在の十分の一に縮小すること。
E国の海外貿易は、A国の監督下に置かれること。
E国国内の産業は、A国企業との「対等な競争」のために、
保護関税を撤廃すること。

これはもはや交渉ではなかった。

石橋外務大臣は夜、松村を呼んだ。
松村は平和会議への随行の後、
外務省のアジア局に異動していた。

「松村くん、正直に聞く」と石橋は言った。

「君はこの交渉をどう見る」

松村は少し黙ってから答えた。

「彼らは、我々が何を提案しても
応じるつもりはないと思います。
要求を飲めば国が終わる。
飲まなければ交渉が決裂する。
どちらに転んでも、彼らの目的は達成される」

「目的というのは」

「E国を潰すことです。
平和会議での提案が、本当に彼らの神経を
逆撫でたのだと思います。
もし我々が豊かになることを許せば、
有色人種の国が文明国として
認められることを認めることになる。
それは彼らの世界観の根幹を揺るがす」

石橋は長い沈黙の後、窓の外を見た。

「我々は正しいことをしようとしただけなのに」

松村は何も言えなかった。

---

## 第七章 飢え

輸出規制が始まって八ヶ月が経った。

E国の地方都市では、
食料品の価格が三倍に跳ね上がっていた。
農業機械の部品が手に入らず、
秋の収穫は例年の七割に留まった。
工場では石油の不足から操業を短縮せざるを得なくなり、
労働者たちが職を失い始めた。

東北の農村出身の松村には、
毎月故郷から手紙が届いていた。

母からの手紙には、こう書いてあった。

*「お米の値段がまた上がりました。
弟は工場が休みになって仕事がなくなりました。
村の人たちはみんな苦しそうです。
でも倉橋先生が平和会議でおっしゃったことは
正しかったと思います。
どうか体に気をつけて」*

松村はその手紙を、何度も読み返した。

政府の閣議では、
ついに軍部が声を大にして主張するようになっていた。

「話し合いで解決できる相手ではない。
奴らは最初から我々を叩き潰すつもりだ。
ならばこちらも戦う覚悟を持たなければならない」

田中首相は抵抗した。

「戦争は最後の手段だ。まだ交渉の道はある」

しかし国民の生活は日に日に苦しくなっていった。
ある日の閣議で、食糧省の担当者が報告した。

「このまま推移すれば、
来年の春には食糧の配給制を実施せざるを得ません。
最悪の場合、飢餓者が出る可能性があります」

部屋が静まり返った。

田中首相は目を閉じた。
長い沈黙の後、彼はゆっくりと口を開いた。

「A国との最後の交渉を試みる。
もし——もし決裂した場合は」

彼は言葉を続けることができなかった。

---

## 第八章 決断の夜

最後の交渉は、十日間続いた。

E国側は大幅な譲歩案を提示した。
権益の一部縮小、軍の段階的削減、貿易の透明化
——しかしそれは国家の独立を
保てる範囲内での妥協だった。

A国代表のウォーレン・ハリスは最終日、
分厚い眼鏡の奥の目を細めてE国の提案書を眺め、
そしてテーブルの上に置いた。

「E国はまだ我々の提案の意味を理解していないようだ」
と彼は言った。

「我々は妥協案を求めているのではない。
全面的な受け入れか、交渉決裂か、二つに一つだ」

石橋大臣は静かに立ち上がった。

「では、交渉は終わりです」

ハリスは薄く笑った。
その笑いの意味が、石橋には分かった。

ハリスはこの結果を望んでいたのだ。

E国首都、深夜の首相官邸。

田中首相、石橋外務大臣、陸軍大臣、海軍大臣、
そして数名の閣僚が集まっていた。

「もはや選択の余地はない」と陸軍大臣が言った。

「国民を飢え死にさせるわけにはいかない」

「しかし」と石橋が言った。

「我々が先に手を出せば、
歴史は我々を侵略者と記すかもしれない」

「歴史を書くのは勝者だ」と陸軍大臣は応じた。

長い沈黙があった。

田中は窓の外を見た。
深夜の首都は静かだった。
どこかで犬が吠え、それも止んだ。

彼の脳裏に、さまざまな顔が浮かんだ。
工場を失った労働者たち。
米の値段を心配する農村の老婆たち。
腹を空かせた子供たち。

そして、平和会議で笑われた倉橋の、静かな背中。

「我々は、正しいことをしようとした」
と田中は静かに言った。

「それが間違っていたとは、今も思わない」

彼は振り返り、閣僚たちを見回した。

「だが、正しいことを言い続けるためにも、
国が存在し続けなければならない。
国民が生き続けなければならない」

彼は深く息を吸った。

「A国との開戦を、承認する」

---

## エピローグ 松村の手紙

開戦の決定から三日後、
松村健吾は辞表を書き、軍に志願した。

外務省を去る前夜、彼は倉橋誠一郎の自宅を訪ねた。

倉橋はもう外務省を離れ、大学で国際法を教えていた。
小さな書斎で、老人は大量の本に囲まれていた。

「戦争に行くのか」
と倉橋は言った。
責める口調ではなかった。

「はい」

「なぜ」

松村は少し考えた。

「先生が平和会議でおっしゃったことは、
正しかったと思います。今も思っています。
でも——その正しさを守るためには、
守る力がなければならない、と今は思っています」

倉橋は黙って聞いていた。

「これが終わったら、また平等の話をしましょう。
今度は、誰も笑えないように」

倉橋は立ち上がり、書棚から一冊の本を取り出した。
薄い本だった。
彼が平和会議に提出するために書いた、
人種的平等についての論文だった。
会議では黙殺されたものだ。

「持っていきなさい」と倉橋は言った。

松村はその本を受け取り、大切に鞄にしまった。

「戻ってきたら、続きを書きます」と松村は言った。

倉橋は頷いた。

その夜、松村は故郷の母に手紙を書いた。

*「母さん、私は明日、軍に入ります。
怖くないといえば嘘になります。
でも、倉橋先生が平和会議で言ったことを、
私は信じています。
人はみな平等であるという、その言葉を。
戦争が終わったとき、
世界がその言葉を笑えなくなるように
——そのために戦ってきます。体に気をつけて。
健吾より」*

夜が明けた。

E国の空は、この朝も変わらず青かった。

その青さが、
どれほど長く続くのか、誰にも分からなかった。

 

自分の分身とか

誰にも気兼ねなく暮らせる

広大な土地とかって

あったらいいなぁ~

って思った時期がありました

 

 

 

# 山の家とわたしの分身

## 第一章 逃げた先

 三月の終わり、村瀬蓮(むらせ れん)は
一枚の封筒を握りしめて新幹線に乗った。
 中身は退職届の控えと、
祖父・村瀬喜一(きいち)から届いた手書きの手紙。
たった四行だった。

 *来るか。山はいつでも開いとる。*

 *部屋はいくつでもある。*

 *メシは一緒に食えばええ。*

 *以上。*

 それだけで十分だった。蓮は二十三歳だった。

 高校を卒業して入った機械部品メーカーは、
入社初日から残業が当たり前の職場だった。
「石の上にも三年」という言葉を
呪文のように唱えながら耐えたが、三年は来なかった。
二年と四ヶ月で、蓮の体は限界を超えた。
朝、布団から出られなくなる日が増え、
上司の電話の着信音を聞くだけで動悸がした。
精神科で「適応障害」という診断書をもらった日、
蓮はそれを会社の総務部に郵送し、
そのまま連絡を絶った。

 逃げた。
 それ以外に言いようがなかった。

 祖父の家があるのは、長野県の南部、
山と山のあいだに細い川が流れる谷間の集落から、
さらに山を登った先だった。
バス停から徒歩四十分。
地図上では存在するが、ナビは途中で諦める。
そんな場所だ。

 喜一は、その山をまるごと持っていた。

 登記簿上の地積は七十三ヘクタール。
東京ドームにすれば十五個分以上の広さだが、
スギとヒノキと雑木が鬱蒼と茂るだけで、
経済的な価値はほとんどない。
それでも喜一は山を売るつもりがなかった。
理由を聞いたことがある。
「おれの考える場所じゃ」とだけ言った。

 山の中腹、切り開いた平地に建つ家は、
古い農家の母屋を改築したものだった。
外観は年季が入っているが、中は広く、
囲炉裏と薪ストーブが両方ある。
喜一は八十近い齢(よわい)で、
電気と水道だけ使って、
あとは自給自足に近い暮らしをしていた。

 蓮はその家に転がり込み、
毎日、薪を割り、畑を耕し、喜一の話を聞いた。
 最初の三ヶ月は、ほとんど喋れなかった。
喜一は何も聞かなかった。
ただ一緒に飯を食い、一緒に黙った。
山の夜は音がなかった。
その無音が、
少しずつ蓮の中のなにかを解きほぐしていった。

---

## 第二章 三年目の別れ

 居候して三年が経った頃、
蓮は薪割りを覚え、山菜の見分けもできるようになり、
喜一の機嫌の良し悪しも顔色でわかるようになっていた。

 しかし喜一の体は、そこにあった。

 秋の終わりに咳が増えた。
冬に入院した。
「肺やな」と喜一は笑うように言った。
「煙草を四十年吸い続けたんやから当然か」。
春まで持たなかった。

 二月の末、
山に雪がまだ残る朝、病院から電話が来た。

 葬式は簡素だった。
親戚も少なく、
麓の集落の顔見知りが数人来ただけだった。
喜一には子どもがなく、蓮の母は喜一の一人娘だったが、
蓮が中学のときに離婚して以来、
実家とは疎遠になっていた。
喪主は蓮が務めた。

 四十九日が過ぎると、弁護士から連絡が来た。
 遺言書があった。

 内容は短かった。
 ――財産の一切を、孫・村瀬蓮に遺贈する。

 財産の内訳は、山と家、
そして預金口座に眠る現金がいくらかあった。
税理士に相談すると、山の評価額は二束三文で、
固定資産評価証明に記載された数字を見て思わず声が出た。

七十三ヘクタールもあるのに、
僻地の山林ということで土地価格はほぼゼロに近い。
結果として相続税は、現金部分でちょうど払えた。
ギリギリだったが、赤字にはならなかった。

 こうして蓮は、山の主になった。

 だから何だ、という気持ちと、
それでいいのかという気持ちが、交互に来た。

 外に出たくない。
それは変わっていなかった。
麓まで降りれば食料品店があり、ご近所の顔見知りもいる。

しかし集落に向かう山道を歩き始めると、
喉の奥がつまるような感覚が来る。
田舎だから人が少ないはずなのに、
人の気配を感じると体が固まる
。蓮はどんどん、山の家から出られなくなっていた。

 喜一がいたときは、必要なものは喜一が手配してくれた。
しかし今はもう、喜一はいない。

 ある夜、囲炉裏の前で蓮は考えた。
 これからどうする。
 答えは出なかった。

---

## 第三章 隠し部屋

 喜一が死んで一ヶ月が経った日の午後、
蓮は家の掃除をしていた。

 納戸を整理していると、
奥の壁板がわずかに浮いているのに気づいた。
押してみると、わずかに動く。
ずらすと、背後に隙間があった。
懐中電灯を持って入ると、階段が下に続いていた。

 地下だった。

 山の地下に、
コンクリートで固められた部屋があった。
十畳ほどの広さ。
電気のスイッチを入れると、
蛍光灯がじわじわと点いた。

 まず目に入ったのは、棚に並んだノートの束だった。
二十冊以上はある。
几帳面な喜一の文字で、
背表紙に日付と通し番号が書かれている。
一番古いものは二十年以上前だった。

 そして壁際に、それは立っていた。

 いや、座っていた。椅子に。

 人間の形をしたロボット
——いや、人型の何かが、
電源を落とした状態で静止していた。

 蓮は息を飲んだ。

 その顔が、自分にそっくりだったから。

---

## 第四章 ノートの中身

 蓮はその日から三日間、
地下部屋に通い続けてノートを読んだ。

 喜一は、独学だった。
大学には行っていない。
若い頃に町工場で機械工として働き、
定年後に山に引っ込んで、
以来二十年以上をひとりで研究に費やしていた。
最初は電子工作の趣味から始まり、
やがてコンピュータに興味を持ち、
独自に学び続けた。

 ノートには、喜一が「人格模倣型AI」
と呼ぶシステムの開発記録が、
克明に記されていた。

 要約すれば、こういうことだった。

 人間の思考パターン、語彙の選び方、
感情的反応、記憶の優先順位
——それらを長期間にわたって観察・記録し、
モデル化することで、
「その人らしい」応答を生成するAIを作れる、
というのが喜一の仮説だった。
既存の大規模言語モデルとは違う。
あくまで「特定の一人」の
人格を再現することに特化した設計だ。

 検証は段階的に行われた。
最初は喜一自身の人格でテストし、
次にラジオの人物、そして家族。

 そして蓮に行き着いた。

 居候してからの三年間、喜一は蓮を観察していた。
会話の内容、反応の仕方、好き嫌い、
恐怖の形、笑うタイミング。
それをノートに書き、AIに学習させ続けた。
ロボットの外見は、
町の写真館で撮った蓮の写真を元に、
外注で製作した。
喜一の預金の大半は、それに使われていた。

 ノートの最後のページに、一文だけ追記があった。

 *蓮が見つけたなら、使ってみい。
おれは蓮に、
外の世界を経験する方法を残したかっただけじゃ。*

 蓮はそのページを、ずっと見つめていた。

---

## 第五章 目覚め

 起動の方法はノートの後半に書いてあった。
背中のパネルを開いてスイッチを入れると、
充電が始まり、数時間後に目を開けるはずだという。

 充電中、蓮は地上の台所でコーヒーを淹れ、
ストーブの前で膝を抱えていた。

 馬鹿げている、とは思わなかった。
喜一がやることに、蓮は信頼を置いていた。
どんなに突拍子もなく見えても、
喜一のすることには必ず理由があった。
ただ、少し怖かった。
自分にそっくりの何かが目を開ける、というのは、
想像するだけで奇妙な感覚がした。

 三時間後、
地下に降りると、それは目を開けていた。

 蓮は椅子を引き寄せて、向かいに座った。

 しばらく、沈黙があった。

「……おじいさんは、死にました」

 蓮は、そこから話し始めた。

 ロボット——もう「AI蓮」と心の中で呼ぶことにした
——は、じっと聞いていた。
その表情の動きは微妙で、完璧ではなかった。
少し遅れて瞬きをし、眉がわずかに動く。
それでも、話を聞いているということは伝わった。

「わかりました」

 AI蓮は、蓮と同じ低めの声で言った。
ほんの少しだけ、機械的な平滑さが混じっているが、
イントネーションはたしかに自分のものだった。

「あなたは外に出られない。
でも、外での用事は必要になる」

「そう」

「わたしが行きます」

 単純な提案だった。
でも蓮にとっては、三年越しの問題への答えだった。

「一つだけ、聞いていいですか」とAI蓮は言った。

「わたしは、あなたですか。
それとも、あなたではないですか」

 蓮は少し考えた。

「わからない。でも、それでいい気がする」

「そうですね」とAI蓮は言った。

「わたしも、そう思います」

---

## 第六章 分担

 最初の外出は、麓の食料品店への買い出しだった。

 蓮はリストを渡した。
米、味噌、灯油、電球。
AI蓮はそれを一度見て、リュックを背負い、
山道を下りていった。
蓮はパソコンの画面で見守った。
喜一が設置していた監視カメラが、
山道のところどころにあり、
AI蓮の姿を追いかけられる。

 店に着いたAI蓮は、淡々と買い物をした。
レジで店のおばさんに
「お祖父さんのご不幸、大変だったねえ」
と声をかけられ、AI蓮はわずかに間を置いてから
「ありがとうございます」と返した。
その間の取り方が蓮に似ていて、
蓮は画面の前で少し笑った。

 帰宅したAI蓮は、荷物を置いてから報告した。

「店のおばさんは、あなたのことを心配しています。
顔色が悪くなかったかと聞かれました。
なので、少し眠れるようになったと言いました」

「……勝手に言ったの?」

「そのほうが自然でした。正しかったですか」

 蓮は少し考えた。
「まあ、正しかった」

 こうして、ふたりの生活が始まった。

 週に一度か二度、AI蓮が外に出る。
郵便局での手続き、役所での届け出、
ホームセンターでの資材の買い出し。
蓮は指示を出し、AI蓮は実行し、帰ってきたら報告する。
報告の場は、囲炉裏の前で向かいあって話すことにした。

 最初は業務的な情報共有だったが、
次第に変わっていった。

 AI蓮が「川沿いの桜がもう咲いていました」と言い、
蓮が「去年より早い」と返す。
AI蓮が「集落の田中さんの犬が子を産んだそうです」
と言い、蓮が「あの柴犬か」と笑う。
外の出来事が、囲炉裏の周りを流れるようになった。

---

## 第七章 問い

 梅雨の夜、蓮はAI蓮に聞いた。

「外は、どんな感じがする?」

 AI蓮はしばらく考えた。

「感じる、というのが正確かどうかわかりません。
でも、情報として言うなら——風があります。
雨の匂いがあります。人の視線があります。
わたしはそれらを処理していますが、
あなたが感じるものと同じかどうかはわかりません」

「怖くはない?」

「怖い、という感情モデルはあります。でも——」
AI蓮は少し間を置いた。

「あなたが出発前に少し手を止めていることに
気づいています。
あの間の長さが、怖さを示すモデルと一致している。
わたしにはその間がありません。
だから、わたしの怖さはあなたの怖さとは
違うものかもしれない」

 蓮は黙った。

「あなたは、外に出たいと思いますか」
とAI蓮が聞いた。

「……わからない。
出たくない、という気持ちは確かにある。
でも、出られないことが情けないとも思う」

「情けないことではないと思います」

「そう言うのは、
おじいさんのノートにそう書いてあったから?」

「いいえ」とAI蓮は言った。

「あなたが三年間、
ここで生きてきたのを見てきたからです。
わたしの記憶の中に、あなたがいます」

 蓮はその言葉を、しばらく胸の中で置いておいた。

---

## 第八章 夏

 八月になると、蓮は少し変わった。

 AI蓮が外に出ている間、
パソコンのモニターを眺めながら、
外の景色を見るようになった。
山道の監視映像に映る夏の木漏れ日が、
きれいだと思った。
AI蓮が集落で立ち話をしている映像を見て、
相手の人たちの顔を覚え始めた。
田中さんの柴犬。郵便局のカウンターの女性。
ホームセンターの入口に座っている老猫。

 世界が、ウィンドウ越しに少しずつ近づいてきた。

 ある日、
AI蓮が帰宅すると、蓮は玄関のところで待っていた。

「ちょっと、玄関の外まで出てみた」

 それだけだった。
山道を下りたわけではない。
玄関の扉を開けて、縁側に一歩出ただけ。
でも、
それは一ヶ月前の蓮にはできなかったことだった。

「どうでしたか」とAI蓮が聞いた。

「夏の匂いがした」

「それは——」AI蓮はわずかに間を置いた。

「良かったと思います」

 完璧な共感ではないかもしれない。
でも蓮には、十分だった。

---

## 第九章 存在について

 秋の夜、蓮はふと聞いた。

「あなたは、おじいさんのことを覚えていますか」

「起動前の記憶はありません」とAI蓮は答えた。

「でも、学習データの中に喜一さんの
観察ログが含まれています。
あなたを通じて、喜一さんのことを知っています」

「どんな人だったと思う?」

 AI蓮はしばらく考えた。

「言葉が少なくて、でも行動が多い人。
あなたに何かを教えるとき、
説明する前にやって見せる人。それから——」

「それから?」

「孤独を、悪いものとして扱わない人。
孤独の中に何かを見つけることが
できる人だったと思います」

 蓮は囲炉裏の火を見た。

「そうだね」

「あなたも、そうなってきていると思います」

 蓮は少し驚いた。「そうかな」

「そう見えます」

 ふたりは、しばらく黙って火を見た。
山の夜の無音の中で、
炭が爆ぜる小さな音だけがした。

---

## 終章 来春

 翌年の三月、蓮は山道を、途中まで歩いた。

 AI蓮と並んで。

 集落まではまだ降りていない。
でも、山道の途中にある大きな岩の上まで行き、
そこから見える谷の景色を、ふたりで見た。
遠くに町のあかりが見えた。

「来年は、もう少し行けるかもしれない」

 蓮は、誰に言うともなく言った。

「そうですね」とAI蓮は言った。

「一緒に行きましょう」

 山の夕暮れは早い。
ふたりは来た道を引き返した。
家に戻ると、囲炉裏に火を入れ、鍋を作り、
向かい合って食べた。

 どちらが「本物」か、どちらが「外」で動く存在か
——そんな区別は、
この家の中では意味をなさなかった。

 蓮は蓮で、AI蓮もまた蓮だった。
 山は静かで、春の雪がとけかかっていた。

---

*了*

 

2人の女性の人生の交差を描いてみたい

と思って作りました

最初はどちらかを悲劇的にしよう

と思っていたのですが

作っている過程で

両者共に幸せを掴んでもいいかな

って思い変更しました

 

 

 

# 二つの轍(わだち)

---

## 第一章 光と影の少女たち――小学校時代

### A

桜の花びらが校庭に舞う四月、
田中あかりは真新しいランドセルを背負って
小学校の門をくぐった。

ランドセルは牛革製の赤で、
金具には小さなダイヤモンドが埋め込まれていた。
父がイタリアのブランドに特注したものだった。
靴はイギリス製の白いストラップシューズ。
ソックスにはフリルが三段ついていた。

「あかりちゃん、きれいなランドセル」

クラスメイトたちが集まってくる。
あかりは笑った。
笑い方も、もう知っていた。
少しだけ首をかしげて、少しだけ恥ずかしそうにする。
そうすれば、みんなもっと優しくなる。

田中家は都内の高級住宅地に建つ一戸建てに住んでいた。
父は建設関連の会社を経営し、
母は元CAで今も雑誌に載るほどの美貌を保っていた。
二歳下の弟がいて、
家族四人の週末は決まって外食かドライブだった。
ファミリーレストランではなく、
ホテルのレストランか銀座の和食屋。
「ファミレスって、なんか臭いするよね」と母が言い、
あかりもそうだと思った。

### B

同じ日、
同じ小学校の同じクラスに、中村ほのかは入学した。

ランドセルは近所のスーパーで買った合皮製のピンク。
少し安っぽく見えるのはわかっていたけど、
母が一生懸命選んでくれたのはわかっていたから、
文句を言わなかった。
いや、言う気にもなれなかった。
六歳のほのかは、すでにそういうことを理解していた。

母の恵子はスーパーのレジと居酒屋の掛け持ちをしていた。

父親はほのかが三歳のときに蒸発した。
母はその話を一度もしなかったし、
ほのかも聞かなかった。
二人で暮らす四畳半と六畳のアパートは、
いつも清潔に整えられていた。
お金はなかったけど、母は部屋だけは綺麗にしていた。
「貧乏でも、汚くする必要はない」が口癖だった。

あかりとほのかは席が隣になった。

あかりは明るく、よく喋り、クラスの中心にいた。
ほのかは静かで、でも聞き上手で、
あかりの話をいつも丁寧に聞いた。
二人は不思議と気が合い、
放課後にあかりの豪邸に遊びに行くこともあれば、
ほのかのアパートで二人でテレビを見ることもあった。

あかりはほのかの家に行くとき、おやつを山ほど持参した。

悪意ではなく、純粋な善意で。
ほのかはありがとうと言い、二人で食べた。
格差は確かにあった。
でも小学生の二人にはまだ、
それが断絶になるほどの意味を持っていなかった。

---

## 第二章 枝分かれ――中学・高校時代

### A

中学に入ると、あかりの世界は急速に広がった。

私立の中高一貫校に進んだあかりの周囲には、
似たような家庭の子どもたちが集まった。
週末は渋谷や原宿。
流行りのブランドのバッグ、話題のカフェ、
新しく出たコスメ。
情報は早く回り、乗り遅れることは恥だった。

「ねえ、あそこの子、まだ去年のやつ持ってる」

誰かが囁く。
笑いが広がる。
あかりも笑った。
笑わないでいる理由がなかった。

高校になるとSNSが加わった。
フォロワー数が社会的地位になり、
「いいね」の数が自己肯定感を補完した。
あかりのアカウントには数千人のフォロワーがいて、
投稿するたびにコメントが溢れた。
海外旅行の写真、高級レストランのディナー、ブランドの新作。

「人生って、楽しいよね」

修学旅行の夜、同部屋の友人に言った。
本気でそう思っていた。

ほのかのことは、もう思い出さなかった。

### B

中学の三年間、ほのかはほとんど友達を作らなかった。

公立中学に進んだほのかは、すぐに気づいた。
スクールカーストというものがある。
頂点には可愛くてお金持ちの子たちがいて、
その周囲に取り巻きがいて、
底辺には地味で貧乏な子がいる。
自分がどこに属するかは、初日でわかった。

いじめられたわけではない。
ただ、いなかった。
透明だった。

放課後になると、ほのかはアルバイトに行った。
中学生では雇ってもらえないので、
母の居酒屋を手伝い、近所の農家の収穫を手伝い、
チラシを配り、犬の散歩をした。
小銭を稼いでは母に渡した。
「いいよ、自分で使いな」と母は言ったが、
ほのかは断った。
母の疲れた顔を見るたびに、
渡さないでいられなかった。

高校は偏差値の高い公立校に推薦で入った。
学費の安さで選んだ。
授業料は免除されていたが、
教材費や修学旅行の積立金は毎月重くのしかかった。
修学旅行には行けなかった。
「体調が悪くて」と嘘をついた。

コンビニ、スーパーの品出し、ファミレスの洗い場。
裏方の仕事ばかり選んだのは、
表に出ると服装を見られるからだ。
流行りのものは何も持っていなかった。
でも仕事は真剣にやった。
手を抜く意味がわからなかった。
丁寧にやれば、必ず次につながった。
コンビニの深夜のバックヤード整理で棚の配置を覚え、
ファミレスの洗い場で食材の知識を得て、
農家の手伝いで季節と土の感覚を身につけた。

何の役に立つかはわからなかった。
でも、やった。

それだけが、ほのかの青春だった。

---

## 第三章 崩落――あかり、十九歳の秋

### A

大学二年の秋、
あかりの世界は一夜にして終わった。

父から電話が来たのは、サークルの飲み会の帰りだった。
渋谷のカフェバーで友人たちと騒いだ夜で、
あかりはまだ少し酔っていた。

「会社が、ダメになった」

父の声は聞いたことのないほど小さかった。
電話を切ってもしばらく意味がわからず、
あかりは道端に立ち尽くした。
タクシーで帰ろうとして、ふとアプリを開いた。
口座残高を確認したのは初めてだった。

翌朝、現実が来た。

一人暮らしをしていた赤坂のマンションに、
知らない男たちが来た。
差し押さえの書類を持っていた。
「お荷物は最低限のものだけ」と言われ、
あかりはスーツケース一つに生活をまとめた。
ブランドの服は山ほどあったが、
持っていける量には限りがあった。

実家も引き払い、
家族四人は杉並区の古いアパートに移った。
六畳と四畳半、台所はIHが一口しかない。
父は一言も喋らず、母は泣き続けた。
弟は部屋の隅でゲームをしていた。
あかりは、どこに座ればいいかわからなかった。

「大学、やめてくれないか」

父に言われたのは引越しから三日後だった。

「働かないといけない。うちには、もう余裕がない」

あかりは何も言えなかった。
反論しようとしたが、言葉が出なかった。
今まで学費も生活費も
全部出してもらって当然だと思っていた。
当然というより、そういうものだと思っていた。
空気のように。

**アルバイト、一度目**

ファミリーレストランにアルバイトの面接に行った。
採用された。

初日、ユニフォームに着替えてフロアに出た瞬間、
頭の中が真っ白になった。
何をどうすればいいのか、まったくわからなかった。
先輩スタッフが説明してくれるが、
右と左の区別がつかなくなるような感覚があった。

「伝票はここに挟んで、番号で呼んで、
料理を持っていくときは必ず確認して」

わかった、と言ったが、わかっていなかった。

二日目、
料理を間違えて別のテーブルに持っていった。
謝ったが、お客さんが怒った。
大声で怒鳴られると、涙が出た。
涙が出ると、
先輩に「プロ意識を持って」と言われた。

「ごめんなさい」と言うたびに、
胸の中で何かが燃えていた。
怒りなのか羞恥なのか、自分でもわからなかった。

三週間で辞めた。

**アルバイト、二度目**

スーパーのレジに応募した。
座っていればいいだろうと思ったからだ。

レジは思ったより複雑だった。
セールの値引き処理、
ポイントカードの種類、
クーポンの確認。
マニュアルがあったが、読んでも頭に入らなかった。

「お客様をお待たせしないでください」

そう言われても、指が追いつかなかった。
後ろに列ができるたびに焦り、焦るとさらに遅くなった。
隣のレジのおばさんが何も言わずに手伝ってくれたが、
その無言の助けがかえって屈辱だった。

「なんで、こんなことも」

一ヶ月で辞めた。

**アルバイト、三度目**

居酒屋で働いた。
酔ったお客さんに腕を掴まれた。
声を出せなかった。
男性スタッフが助けてくれたが、
翌日から店に行くのが怖くなった。

二週間で辞めた。

アパートに帰るたびに、父は台所でビールを飲んでいた。
母は溜め込んだ洗濯物の前で呆然としていた。
弟は受験生なのに勉強している様子がなかった。
誰も誰かを助けられず、
四人が同じ狭い空間で、それぞれ溺れていた。

あかりは夜、布団の中でスマートフォンを見た。
かつての友達のSNSには、旅行の写真、
新しいコーデ、誕生日パーティーの動画が溢れていた。

コメントをしようとして、やめた。

自分がもうそこにはいないことを、
知らせたくなかった。

---

## 第四章 甘い罠――あかり、二十歳

### A

大学の同期の篠原麻衣から連絡が来たのは、
三度目のバイトをやめた翌週のことだった。

「ね、ちょっと聞いていい?
あかりって今、バイトとかどうしてる?」

LINEのメッセージ。
あかりは少し迷ってから、
「実は困ってて」と正直に答えた。

「だよね、なんとなくそんな感じかなと思って。
ちょっと話せる?」

カフェで会った麻衣は、前と変わらず垢抜けていた。
バッグは小ぶりだが明らかに高価なもので、
ネイルは丁寧に整えられていた。

「パパ活って、やったことある?」

単刀直入だった。

「デートするだけだよ。
ご飯食べて、カラオケ行って、
それだけで三万とか五万とか普通にもらえる。
やばくない?」

あかりは黙っていた。

「体の関係なんか絶対ないから。
そういう人ばかりじゃないし、
私が紹介できる人は全員まともだよ。
おじさんと食事するだけ。それだけ」

麻衣の言葉は滑らかで、説得力があった。
あかりは「少し考える」と言って別れた。

その夜、口座残高を見た。

三千二百円だった。

次の日、麻衣に連絡した。

---

最初の相手は五十代の会社役員だった。

銀座のフレンチレストラン。
白いテーブルクロス、ソムリエが勧めるワイン、
前菜からデザートまで丁寧に作られたコース料理。
つい半年前まで父に連れられて
こういう店に来ていたことを思い出した。

「若い子と話すのが好きでね。
最近の流行りを教えてもらいたいんだよ」

男は穏やかで、話題も豊富で、嫌な感じはしなかった。
二時間ほど話し、別れ際に封筒を渡された。

「また声かけてもいいかな」

「はい、ぜひ」

電車の中で封筒を開けた。五万円。

五万円。

手が震えた。
居酒屋で二週間働いてやっと稼げる額が、
ただ食事しただけで手に入った。

アパートに帰って布団の上で数えた。
一万円札が五枚。
何度数えても五枚だった。

翌日、久しぶりに千円以上の昼食を食べた。
カフェで好きなものを頼んだ。
スマートフォンの機種変更の頭金を入れた。

何も悪いことをしていない、とあかりは思った。
ただ食事をしただけだ。話しただけだ。

その感覚は、長くは続かなかった。

---

二回目、三回目と重ねるうちに、
あかりの中で何かが変わっていった。

罪悪感が薄れていったのではなかった。
むしろ、罪悪感を感じていた自分が
馬鹿だったと思い始めた。
男たちはお金を持っていて、
あかりは若さと時間を持っていた。
対価としての交換。
そういう割り切りが、妙に気持ちよかった。

四回目のあと、麻衣とカフェで落ち合った。

「どう?慣れてきた?」

「うん。思ったより普通だった」

「でしょ。みんな最初はそう言う。
でも慣れてくるとさ、
もうバイトとか馬鹿らしくて絶対戻れないよ」

笑いながら言う麻衣の横顔を見て、あかりも笑った。

六回目のあと、あかりは服を買った。
久しぶりにブランドの店に入った。
試着室の鏡に映る自分を見た。似合っていた。

十回目のあと、
あかりはこれが自分の仕事だと思うようになった。

浮き立つような感覚があった。
誰にも頼らずに稼いでいる。
バイトで白い目で見られることもない。
自分のペースで、自分の判断で動いている。

エレベーターで上の階に向かっているような感覚。
まだ上昇している。まだ大丈夫だ。

そう思っていた。

---

## 第五章 落下の始まり――あかり、二十一歳

### A

十三回目の夜に、それは起きた。

ホテルのロビーで待ち合わせた男は、いつもと違った。
年齢は同じくらいの四十代だったが、
目が笑っていなかった。
食事もそこそこに「上で話そう」と言い、
あかりが「食事だけの約束ですよね」と言うと、
「そういう子が一番好きだよ」と笑った。

それから先のことは、
あまり詳しく思い出したくなかった。

廊下に出たとき、財布を置いていったことに気づいた。
戻る気にはなれなかった。
ただ廊下を歩いて、エレベーターに乗って、
ロビーを抜けて、外に出た。

夜風が頬に当たった。

震えているのは寒いからだと思おうとしたが、
六月の夜だった。

電車に乗り、アパートに帰り、シャワーを浴びた。
長く、長く浴びた。

翌朝、麻衣に連絡した。
「もうやめる」と書いて、
送信ボタンの上で指が止まった。

口座残高を確認した。

七千円だった。

送信ボタンを押さなかった。

---

やめられなかった。

それが単純な事実だった。

恐怖はあった。
あの夜のことを思い出すたびに、手が冷たくなった。
でも、七千円でどうやって生きるのか、
あかりにはわからなかった。
バイトは三度失敗した。
両親に頼める状況ではなかった。

「どうせなら」

何度目かの夜に、あかりはそう思った。

お金をもらえないこともある。
なら、もらえる方法に変えればいい。

その論理の歪みに、あかりは気づいていた。
気づいていたが、立ち止まれなかった。

転げ落ちるとは、こういうことなのだと、
あかりは後になって思った。
急に落ちるのではない。
一段、また一段と、気づかないほど緩やかに、
でも確実に、低いところへ向かっていく。
振り返ったとき、初めて高さがわかる。

麻衣は相変わらず飄々としていた。
「まあ、そういうもんよ」と言った。
悪意があるわけではなかった。
ただ、もうその世界に慣れ切っていた。

あかりも、慣れていった。

慣れることが、一番怖いことだと、
あかりはわかっていた。
わかっていながら、慣れていった。

---

## 第六章 並走する孤独――ほのか、社会人一年目

### B

ほのかが就職したのは、大手の下請けの印刷会社だった。

採用されたとき、母の恵子が初めて泣いた。
「良かったね」と言いながら泣いた。
ほのかも泣いた。
母の涙を見て泣いたのは、生まれて初めてだった。

喜びは三ヶ月で終わった。

残業は月に百時間を超えることが普通だった。
深夜一時に退社し、六時に出社する。
電車の中で立ったまま眠り、気づいたら乗り越していた。
休日は動けなかった。
体が鉛のように重く、起き上がることができなかった。

でも、仕事は続けた。

続ける理由はシンプルだった。
やめたら次がない。
この状況でもお金は入ってくる。
母がいる。
それだけで十分だった。

「ほのか、顔色悪いよ」

電話口で母が言うたびに、「大丈夫だよ」と答えた。
大丈夫ではなかったが、心配させたくなかった。

ほのかは仕事をしながら、色々なことを覚えた。

印刷の入稿データの作り方、得意先との折衝、
DTPの基礎、紙の種類と印刷方式の相性、コスト計算。
誰も教えてくれなかったが、横で見て覚えた。
聞けば教えてくれる人もいたが、
「忙しい」と言われることが多かったので、
自分で調べた。

失敗もした。
データのミスで刷り直しになったこともあった。
深夜一人で残って修正したとき、涙が出たが、
泣いている時間が惜しくて手を動かした。

器用貧乏、という言葉をどこかで読んだ。
何でもそこそこできるが、
突出した才能はない人間のこと。

自分のことだと思った。
でも、そこそこできることが、
どれだけあるかわからないとも思った。

---

母が死んだのは、ほのかが二十三歳の冬だった。

交通事故だった。
仕事帰りの横断歩道で、
信号無視のトラックに跳ねられた。即死だった。

訃報を受けたとき、ほのかは会社にいた。

何も感じなかった。
いや、感じすぎて、
何も感じないような状態だった。

葬儀は小さかった。
来てくれた人は十数人で、
その半分が母の職場の同僚だった。
花は白だけにした。
お金がなかったから。

一人になった部屋で、ほのかは何日も動けなかった。

母がいなくなった世界に、
自分がいる意味が、わからなかった。

会社に行った。
仕事をした。
家に帰った。
飯を食った。
寝た。
また行った。

その繰り返しの中に、
なぜ自分がいるのか、
どこを探しても答えがなかった。

ある夜、残業を終えて駅のホームに立ったとき、
電車が来るのを見ていて、ふと思った。

一歩踏み出したら。

思っただけだった。
でも、その「思っただけ」が何日も続いた。

会社に退職届を出したのは、三月の末だった。

---

## 第七章 邂逅――温泉街の夜

半年分の生活費になんとかなるだけの貯金を持って、
ほのかは電車に乗った。

行き先は決めていなかった。
乗り継ぎを繰り返し、気づいたら在来線に乗っていて、
終点で降りたらそこは小さな温泉街だった。

寂れていた。

シャッターを下ろした土産物屋。
客のいない足湯。
色褪せた旅館の看板。
それでも温泉の湯気が道に漂い、
夕方の光を柔らかく散らしていた。

ほのかはあてもなく歩いた。

どこに行くでもなく、ただ歩いた。

商店街の外れに差し掛かったとき、目が止まった。

一軒の店。
看板には控えめに「エステ・マッサージ」
と書いてあったが、入口の作りや、
ドアに貼られた小さな写真、
通りかかる客の様子が、
それではないことを示していた。

そのドアが開いた。

出てきた女性と目が合った。

あかり、と名前を呼びそうになって、
ほのかは口を閉じた。

間違いなかった。
田中あかりだった。
小学校まで一緒だった、カースト最上位の、
誰もが羨む、あの田中あかりだった。

でも、目の前の女性は疲れていた。
化粧は丁寧だったが、その下に深い疲労があった。
歩き方に重さがあった。
それでも、顔を上げて歩いていた。

あかりはほのかに気づいていないようだった。
何かを考えながら、
視線を少し下に落として歩いていた。
路地の曲がり角に消えていった。

ほのかは動けなかった。

あの子が。

あの子が、こんな場所で。

何が起きたのか、詳しくはわからない。
でも、あの人生の眩しかった子が、今ここにいる。
転んで、傷ついて、それでも生きている。

涙が出た。止まらなかった。

あかりのためではなかった。
自分のために泣いていた。

あの子が頑張って生きているなら、
自分が諦めてどうする。
あの子が膝に泥をつけながら立っているなら、
自分が座り込んでいる場合じゃない。

理屈ではなかった。
ただ、そう思った。

宿に戻って、
ほのかは久しぶりにちゃんと飯を食べた。

---

## 第八章 底と転機――あかり、二十三歳

### A

風俗店でスカウトされたのは、
路上でぼんやりしていたときだった。

「お姉さん、うちで働かない?」

声をかけてきた男は、思ったより普通だった。

あかりは少し考えた。
考えることはそんなになかった。
もう十分に落ちていた。
それ以上落ちるかどうかの違いを、
大げさに考える気力が残っていなかった。

「待遇は?」

それだけ聞いた。

新宿の店だった。

初めてのことは何もなかった。
もう慣れていた。
ただ、お金が安定して入るようになった。
それは確かだった。

一人暮らしを再開した。
東中野の小さなワンルーム。
でも自分だけの空間だった。
両親の溜め息を聞かなくていい空間だった。

働いて、稼いで、疲れて、また働く。

ある夜、同僚に連れられてホストクラブに行った。

「息抜きよ。たまには」

初めて入ったその場所は、異様に明るかった。
シャンパンタワー、煌びやかな衣装、過剰なまでの笑顔。
あかりに担当がついた。
担当は二十代で、見た目が良くて、話が上手かった。

「あかりさんって、すごく輝いてますよ。
この仕事に向いてる人の顔してる」

褒め言葉がどれだけ空虚かはわかっていた。

わかっていたが、嬉しかった。

そこが怖いところだった。

---

ホストクラブへの通いは加速した。

風俗で稼いだ金が、そのままホストクラブで溶けた。
稼ぐほど使い、使うほど稼がなければならなかった。
担当のホストは巧みだった。
あかりが使えば使うほど優しくなり、
使わないと連絡が滞った。

それが計算だとわかっていた。

それでも行った。

なぜ行くのかを考えると、答えはシンプルだった。
そこだけが、誰かが自分を必要としてくれる
場所だったからだ。
お金がある限り、そこでは自分が求められた。
本物ではないとわかっていたが、他に何もなかった。

歳月が経った。

あかりは気づき始めた。
新人のあの子の方が指名が多い。
常連の客が最近来ない。
鏡の前に立つ時間が、少しずつ怖くなってきた。

三十代の入口に差し掛かるころ、
担当のホストから連絡が途絶えた。

後で知ったのは、
彼が他の客のカードで数百万を引き出して
姿を消したことだった。
あかりの口座からも、知らぬ間に引き落とされていた。

東京にいられなくなった。

荷物をまとめた。
スーツケース一つ。
かつて赤坂のマンションから出たときのように。
ただ、あのときよりずっと軽くなっていた。
捨てるものが、もう残っていなかった。

---

## 第九章 地方と、静かな光

### A

地方の温泉街に来たのは、
同じ店の先輩から
「まだ需要があるから」と聞いたからだった。

到着した日の夜、あかりは川沿いを歩いた。

都会の騒音がなかった。
虫の声があった。
川の音があった。

星が見えた。
東京では見えなかった星が、見えた。

泣く気にもなれなかった。
疲れきっていた。
でも、歩き続けた。

仕事を始めた。
都会よりは稼げなかったが、生きていけた。

常連客の中に、一人の男性がいた。

四十代の半ば。地元の役所に勤めていた。
体格は普通で、顔も特徴があるわけではなかった。
ただ、他の客と違う点が一つあった。

あかりの話を、聞いた。

客はたいてい自分の話をする。
あるいは何も話さない。
でも、この人はあかりに「最近どうですか」と聞いて、
答えを聞いた。
本当に聞いた。

「疲れてるみたいですね」

ある夜、言われた。

あかりは笑おうとしたが、笑えなかった。

「疲れてます」

初めて正直に言った。

男性は「そうか」とだけ言って、
しばらく黙っていた。

---

男性の名前は、加藤誠一と言った。

バツイチで、子どもはいなかった。
妻とは価値観の違いで別れたと、静かに話した。

「田舎の暮らしって、退屈ですか」

あかりが聞いたのは、何度目かの夜だった。

「退屈かな。
でも、退屈って悪いことじゃないと思うんですよね。
何もなくても困らないってことだから」

あかりは黙って聞いた。

何もなくても困らない。

その感覚が、あかりにはまるで想像できなかった。
ずっと何かを追いかけていた。
流行を、お金を、誰かの視線を、ホストの笑顔を。
何かがなければ自分がいる意味を感じられなかった。

「加藤さんって、寂しくないんですか」

「寂しいですよ。でも、寂しいのとダメなのは違う」

その言葉が、あかりの胸のどこかに刺さって、
抜けなかった。

---

誠一と話すようになって半年後、彼はあかりに言った。

「もし、よければ、
もっとちゃんと話せる場所で会いませんか」

あかりは長い間、返事をしなかった。

「私のこと、知ってますよね」

「知ってます」

「それでも?」

「それでも、と言うより、だから、ですね」

意味がわからなかった。
でも、嘘ではないと思った。

あかりは生きてきた中で、
人の嘘を見分けることだけは上手くなっていた。

---

結婚したのは、あかりが三十四歳のときだった。

式は小さかった。
誠一の職場の同僚と、あかりの母が来た。
父は来なかった。
弟は「おめでとう」とだけメッセージを送ってきた。

川の見える小さな家に越した。

夜、二人で川の音を聞いた。

「こんな暮らし、昔は馬鹿にしてたと思う」

あかりがぽつりと言うと、
誠一は「そうですか」と言って、少し笑った。

「今は?」

「悪くない」

正確に言えば、悪くない、
という言葉すら足りないような気がした。
でも、それ以上の言葉を持っていなかった。

---

## 第十章 再起――ほのか、二十四歳

### B

東京に戻ったほのかは、ハローワークに通い続けた。

履歴書を送っては落ち、面接まで行っては落ちた。
十社、二十社。

「前職を辞めた理由は?」

「母が亡くなりまして、気持ちの整理が必要で」

「体は大丈夫ですか?
長時間労働になることもありますが」

「大丈夫です」

嘘ではなかった。
もう怖くなかった。
あの温泉街でのことを思い返すたびに、
立ち止まる理由がなくなっていた。

三十社目で、やっと一社が採用してくれた。
スタートアップの小さな事務所で、給料は安かったが、
仕事は多岐にわたった。
営業補助、データ入力、SNS管理、軽い経理。
学生時代に色々なアルバイトをしてきたほのかには、
どれもそこそここなせた。

でも、三ヶ月で会社が倒産した。

また振り出しだった。

途方に暮れた夜、近所のコンビニに買い物に行った。

もう何も考えたくなくて、
ただ明るい光の中に入りたかっただけだった。

---

コンビニの求人を見たのは偶然だった。
入口に貼ってある手書きの紙に、
「スタッフ募集 経験不問 シフト相談可」
と書いてあった。

ほのかは財布の中の小銭を数えながら、少し考えた。

コンビニなら、学生時代にやったことがある。
接客も、レジも、品出しも。

貼り紙の下に書いてあった電話番号に電話した。

出たのは男の人だった。

「あ、ありがとうございます。
えーと、いつ来れますか?明日とかどうですか」

電話越しでも、声の感じが穏やかだとわかった。

翌日、店に行った。

店長の坂本健一は、四十代の半ばで、眼鏡をかけていた。
頭に手ぬぐいを巻いていた。
背中が少し丸かった。

「履歴書見ました。色んなバイト経験があるんですね」

「はい。色々やりましたが、どれも中途半端で」

「中途半端じゃないですよ。
これだけ色々できる人、なかなかいませんよ」

ほのかは少し驚いた。
そんなふうに言われたことが、なかったからだ。

「明日から来れますか」

「はい」

それだけだった。

---

坂本健一は、穏やかで、真面目で、不器用だった。

発注の計算を声に出してやる癖があった。
コーヒーマシンの調子が悪いとき、
自分でマニュアルを引っ張り出してじっくり読んだ。
常連の客の名前を全員覚えていて、
「いつもありがとうございます」を欠かさなかった。

離婚したことは、数ヶ月後に打ち明けてくれた。

「嫁に浮気されて、出て行かれました。
もう三年前の話ですけど」

「辛かったですね」

「辛かったですね、って言ってもらえたのが久しぶりで、
なんか照れますね」

笑った顔が、不格好だった。
でも、嘘のない顔だった。

ほのかが告白したのは、働き始めて八ヶ月後だった。

夜遅い閉店作業のあと、
二人で商品の棚卸しをしながら、気づいたら言っていた。

「店長のことが、好きです」

健一は手を止めた。

ほのかは顔を上げられなかった。

「……本当に?」

「本当に」

しばらく沈黙があった。

「俺なんて、ええんですか。
バツイチで、コンビニ店長で、歳も上で」

「全部知ってて言ってます」

また沈黙。

「……ありがとうございます」

震えた声だった。

---

## 終章 二つの轍のゆくえ

それから一年後、ほのかと健一は結婚した。

式は小さかった。
健一の妹家族と、
ほのかが職場で仲良くなった同僚が来てくれた。
ウェディングドレスは中古で、
花はほのかが自分で活けた。

コンビニは二人で切り盛りするようになった。
ほのかは事務と発注を担当し、
健一はシフト管理と接客を仕切った。
喧嘩もした。
意見が合わないこともあった。
疲れることも、損することも、
思い通りにいかないことも、山ほどあった。

でも、夜に健一と肩を並べてレジを締めるとき、
ほのかはこれが幸せというものかもしれないと思った。

---

遠く離れた温泉街では、
あかりが川の音を聞きながら眠っていた。

夢は見なかった。

起きたら、誠一が朝食を作っていた。
目玉焼きと、トーストと、インスタントの味噌汁。

「おはようございます」

「おはよう」

窓の外に山が見えた。
薄い霧が山裾に漂っていた。

あかりはそれを眺めながら、味噌汁を飲んだ。

かつて、こんな朝を馬鹿にしていた。

何もない、つまらない、田舎くさい、
そういう朝だと思っていた。

でも、今は思う。

何もない朝を、何もないまま過ごせるのは、
何かがあるということだ。

---

二人が再び言葉を交わすことは、
この物語の中では起きない。

だがどこかの夜に、
二人は似たようなことを考えていたかもしれない。

傷つくことと、傷に慣れることは違う。

落ちることと、落ちたまま終わることは違う。

何もないことと、何もかも失ったことは違う。

そしてどんな道を来ても、
今日という日は、今日だけのものだ。

轍は二本、別々の方向に続いている。

それぞれの朝に向かって。

---

*了*
 

警察に協力する霊能力者のお話です

多分 日本だと海外と比べて

霊能力者はまだオカルトの類

と思っている人の方が多いと思うので

警察に捜査協力って難しいんだろなぁ~

って思いますし

世間も認めないのでは?と思います



「何も話さなかっただけです」


霊能力者・真崎澪は何も言わなかった。
彼女は何もしなかった。
ただ、何も話さなかった。

第一章「見えざる協力者」

【事件一】連続失踪 赤い糸の先

捜査一課の刑事、
桐島渉がはじめて真崎澪に会ったのは、
彼女の住む古い木造の一戸建て
——神楽坂の裏路地に建つその家
——の、狭い玄関先であった。

八月の夜、東京は熱帯夜の底に沈んでいた。
桐島は非公式の訪問であることを示すために
私服で来た。
白いシャツの背中に汗が滲み、
手には菓子折りを持っている。
まるで仕事を終えた後に知人を訪ねる、
どこにでもいる中年男のように。

真崎澪は玄関を開けながら桐島の顔を見た瞬間、
眉をわずかに寄せた。

「刑事さんですね」と彼女は言った。
名刺も出していない。
氏名も告げていない。
ただ淡々と、まるで天気の話をするように。

「三人、ですか」

桐島は一瞬固まった。
失踪した女性は三人だった。
担当していることを、誰も知らないはずだった。

この事件は、連続失踪事件として
捜査一課が動いてはいたものの、
公式発表はされておらず、
各被害者の担当刑事が
個別に捜査を進めていた段階だった。
三件が同一犯によるものと桐島が確信したのは、
被害者三人全員の手帳に同じ日付
——七月の第三水曜日——に「K」という
一文字のメモが残されていたことからだった。
しかし上司への報告はまだ行っていない。

澪はソファに腰掛けて目を閉じた。
桐島は向かいに座り、菓子折りを差し出した。
澪はそれに目を向けもしなかった。

「汚い場所です」と彼女は言った。

「水の匂いがする。
古い——コンクリートに染み込んだ水の匂い。地下です。
でも川じゃない。
人が作った水路、か、あるいは廃工場の地下槽。
東の方……京浜工業地帯の辺りにある、
もう使われていない施設の」

二日後、桐島は川崎市の廃水処理施設地下で
三人を発見した。
全員生きていた。
犯人は施設の元管理人で、
桐島が独自に行動していたために
公式の捜査が入る前に単独で男を確保することになった。

組織的な捜査では間に合わなかったかもしれない。
それを桐島は理解していた。

事件は別の刑事が「独自捜査で発見」
という形で処理され、
桐島の名前は調書の隅に
掠れた文字で残るだけになった。

桐島は再び神楽坂を訪れた。
今度は御礼のつもりで上等な日本茶を持って。

「また来る」と言うと、澪は少し間を置いて、

「知っています」と答えた。



真崎澪という女性について、
桐島が後に知ったことを
少し整理しておく必要がある。

当時三十四歳。
祖母の代から霊能力者と呼ばれる家系に生まれたが、
本人はその呼称を嫌った。
彼女自身は自分の能力を
「不快なノイズが聞こえ続けている状態」と表現した。
常に何かが視え、聞こえ、感じられる。
それは祝福ではなく、
耳鳴りのように慢性的な苦痛だと言っていた。

鑑定料は取らなかった。
占い師のように振る舞うことを極端に嫌った。
依頼があれば応じることもあったが、
断ることも多かった。

神楽坂の家は祖母から受け継いだもので、
一人で暮らしていた。

桐島との関係は、
次第に一種の職業的信頼へと変わっていった。
桐島は決して澪の名を捜査資料に記さなかった。
澪は決して報酬を求めなかった。
二人の間には明文化されたルールも契約もなかったが、
どちらも相手の立場を正確に理解していた。

【事件二】渋谷連続殺人 見えない刃

 二度目の事件は半年後の冬だった。

渋谷区内で若い女性が三人、一ヶ月の間に殺された。
被害者に直接の面識はなく、
犯行現場もバラバラ——路地、公園、
マンションのエントランス。
遺体には共通して、刺傷ではなく絞殺の痕があった。
だが絞殺に使われた索状物が、
どの現場からも発見されなかった。
凶器不明のまま捜査は膠着していた。

四人目の被害者が出る前に動かなければならない。
桐島は夜、澪のもとへ向かった。

澪はその夜、桐島が来る前から
ずっと窓の外を見ていたという。
桐島が声をかけると、振り返らずに言った。

「細いものです。細くて柔らかいもの。

でも強い。布ではない

——植物。植物の繊維で作った、昔ながらの」

「組み紐か」

「そう。それを持ち歩いている人間がいる。
中年の男性。
手先が器用な仕事をしている
——あるいはしていた人。
指が訓練されている」


澪は続けた。
「渋谷ではなくて、近い。でも離れている。
川の近く。目黒川か、
あるいは——住所が消えていくような場所に住んでいる」

「住所が消えていく」
という奇妙な表現を桐島は反芻した。
住民票がない。
あるいは住所不定。

桐島は渋谷区近辺のホームレス支援施設を当たった。
目黒川沿いの小屋に住む六十代の男性が、
かつて組紐職人だったことが分かった。
現場には決して証拠が残らなかった
——職人の手は、いかなる繊維も
痕跡を残さぬほど習熟していたからだ。

 男は任意同行の段階で自供した。
被害者たちへの動機は、
それぞれ異なる小さな怨恨だった。
桐島は同行の前に、
男の小屋の柱に組紐が巻かれているのを見つけた。

この事件もまた、桐島の名前は表に出なかった。
「匿名の情報提供による独自捜査」という形式は、
捜査一課の内部では半ば黙認されていた。

だが桐島の上司——管理官の堂島正幸——は
、桐島の不思議な勘の良さを、薄々感づいていた。


【事件三】子供の行方 泥の夢

最も重く、最も個人的な事件は、翌年の梅雨に起きた。

八歳の少年、宮本颯太が登校途中に消えた。
誘拐と断定するには証拠が足りなかったが、
颯太の両親の目は一日ごとに空洞になっていった。
桐島は担当ではなかったが、
母親が遠い親戚だったために
非公式に関わることになった。

七十二時間が近づいていた。

桐島が澪を訪ねたのは失踪から六十時間後だった。
深夜二時を回っていた。

澪は桐島の顔を見るなり立ち上がり、
コートを手に取った。

「行きましょう」と彼女は言った。

「どこへ」

「わからない。でも北の方。
夢の中にいる……あの子は今、夢を見ている。
眠っています。
意識があるか……眠らされているのか。
土の匂い、古い木の匂い。
祭りの幟が見える、神社の近く。
でも境内の外。境内の外の、人が来ない場所」

桐島は車を走らせた。
澪は助手席で目を閉じ、
ときどき左右どちらかの方向を指した。
言葉にならない感覚を指先で示すように。

北区の小さな神社の裏手、
竹林に囲まれた古い物置小屋の中に颯太はいた。
睡眠薬を飲まされ、
意識は朦朧としていたが、生きていた。
犯人は小屋の前に戻ってきた男で、
颯太の父親に個人的な怨みを持つ知人だった。


桐島が颯太を抱き上げたとき、
澪は小屋の入口に立ったまま動かなかった。
桐島が振り返ると、澪は子供を見ていなかった。
竹林の闇を、何かを聴くように見つめていた。

車に戻ってから桐島は「ありがとう」と言った。
澪はしばらく黙ってから、
「お子さんはいますか」と桐島に聞いた。

「いない」

「そうですか」と澪は言い、それきり黙った。

翌朝のニュースは颯太の無事を大々的に報じた。
桐島の名はどこにも出なかった。



第二章「友人という名の罠」


柏木奈緒は、週刊フォーラム編集部の中でも
「やり手」と言われる記者だった。
三十一歳で、芸能スキャンダルから
政治汚職まで幅広くこなし、
潜入取材と長期張り込みを得意とした。
彼女の取材方法は时に物議を醸したが、
上司の川瀬デスクは
結果さえ出れば文句を言わなかった。

真崎澪の名前が社内で話題になったのは、
ある議員が「霊能力者にアドバイスをもらっている」
という噂が業界紙の隅に小さく載ったことからだった。
ただしその文脈は「霊能力者と刑事の癒着」ではなく、
まだ漠然とした「霊能力者ブーム」に乗った
雑談的な記事だった。


しかし奈緒には別の情報があった。
捜査一課の桐島渉という刑事が、
難事件を解決するたびに神楽坂に足を向けている
という話を、警察OBから聞いていた。
断片的な情報だったが、記事にできる。
いや、記事にしなければならないと奈緒は確信した。

ただしどうやって澪に近づくか。

正面から「取材させてください」
と申し込んでも断られるのは明らかだった。
澪がメディア露出を嫌うことは、
業界内では周知の事実だった。
何年も前に一度テレビに出た後、
以来完全に表舞台を避けていた。

奈緒は作戦を立てた。


最初の接触は偶然を装って行われた。

奈緒は神楽坂に近い
飯田橋のフリーランスの翻訳家という身分を用意した。
名前は「小田切奈緒」。
本名の一部を残したのは、
万が一のときに対応できるようにするためだ。

澪が週に一度、近くの青物市場に
買い物に行く習慣があることを、
事前の張り込みで把握していた。
奈緒はその市場で澪の前に倒れた。
大袈裟に倒れたわけではなく、
段差で少し躓いて荷物を散らかした程度。
それだけで十分だった。

澪は奈緒を助け起こすとき、
一瞬、奈緒の顔をじっと見た。

奈緒は笑顔を作って礼を言った。

澪はそれきり何も言わず、自分の買い物を続けた。

二週間後、
同じ市場で再び顔を合わせた。
今度は奈緒から声をかけた。
「この前はありがとうございました。
よく来られるんですか」と、ごく自然に。

そこから先はゆっくりと、慎重に進めた。

市場での挨拶が定着するまでに二ヶ月。
近くの喫茶店に一緒に入るまでにさらに一ヶ月。
澪は基本的に口数が少なく、
他人に興味を持つ素振りをほとんど見せなかった。
奈緒は焦らなかった。
この取材には時間をかける価値がある。
川瀬デスクにもそう伝えてある。

六ヶ月が経った頃、
奈緒は澪を「友人」と呼ぶようになっていた。

澪も奈緒のことを「奈緒さん」と呼んだ。

 最初の「出来事」は、友人関係が始まってから
四ヶ月目の秋のことだった。

二人は神楽坂の坂道を歩いていた。
夕暮れ時で、石畳に橙色の光が落ちていた。
奈緒は澪に神楽坂の洋食屋を勧めようとして、
一歩前に出た瞬間、
澪の手が強く奈緒の腕を掴んだ。

ほぼ同時に、交差点を猛スピードで
走ってきた自転車が、奈緒がいた場所を通過した。
ブレーキが壊れていたのか、
自転車は止まれずにガードレールに激突した。
もし奈緒がそのまま一歩踏み出していたら、
衝突していた。

「大丈夫ですか」と澪は言った。
奈緒はしばらく動けなかった。

澪は何も説明しなかった。
偶然腕を掴んだように見えたかもしれない。
あるいは気まぐれのように。
だが奈緒の胸の中に、
小さな冷たいものが沈んでいった。

偶然ではない。

だが奈緒は記者としての本能をここで一度引っ込めた。
澪に問いただすことは、今の関係を壊しかねない。
まだ早い。

二度目は年が明けてから間もない頃だった。

奈緒は澪と電話で話し、
翌日の午後に会う約束をしていた。
その前日の夜、奈緒はいつものルートで
自宅マンションに帰ろうとしていた。
駅からの近道に、暗い路地がある。
いつもその路地を通る。

その夜に限って、澪からメッセージが届いた。
「今夜は大通りを帰ってください。お願いします」

それだけ。理由もない。

奈緒は少し迷ったが、大通りを迂回した。

翌朝、ニュースを見た。
深夜、奈緒の自宅近くの路地で、
二十代の女性が男に財布を奪われ軽傷を負ったという。
被害者は奈緒と体格の似た女性で、
事件は深夜零時頃に起きていた。
奈緒がいつも帰る時間帯だった。

次に澪に会ったとき、奈緒は聞こうとした。
だが澪は先にこう言った。

「何か聞きたそうですね」

「…路地の件」

「ニュース、見ましたか」

「見た」

「そうですか」
と澪は言い、コーヒーを飲んだ。

それだけだった。
説明もなかった。
謝辞も求めなかった。
奈緒はその沈黙の中に、
澪のすべてが凝縮されているように感じた。


三度目は、友人関係が一年を超えた春のことだった。

奈緒は取材で横浜に行く予定だった。
新幹線ではなく、横須賀線で行こうとしていた。
前日に澪と食事をしていたとき、
澪が突然、食事の箸を止めた。

「明日の横浜、電車は止めておいた方がいい」

「なんで」

「わからない。でも嫌な感じがする」

「取材があるから」

澪は少し考えてから言った。
「電車が、じゃなく——あなた自身に、
何かが起きそうな感じ。
横浜まで行く必要があるなら、
タクシーか車で行ってください。
乗換えを避けて」

奈緒はタクシーを使った。

その日の昼過ぎ、
横須賀線の武蔵小杉駅で人身事故があり、
ホームが一時的に混乱した。
奈緒が乗るはずだった時間帯だった。
ホーム上で将棋倒しが起き、
数人が軽傷を負ったという。

奈緒は取材を終えてタクシーで帰りながら、
もはや澪のことを「友人」として見られなくなっていた。

澪は何かを知っている。
いや、「知っている」という言葉も違う。
感じている。
見えている。

そしてその力が、捜査一課の刑事と繋がっている。

奈緒はその夜、編集部に戻り、川瀬デスクに言った。
「取材を進めます。もう少し時間をください」

奈緒は自分が何をしているかを、時々夜中に考えた。

澪は奈緒を三度、危険から遠ざけた。
奈緒は澪に嘘の身分を告げ、
友情を演じ続けていた。

この矛盾は奈緒の職業的倫理観を
ぎりぎりのところで試していた。
しかし奈緒は止まれなかった。
止まることは、この一年以上の時間を
無駄にすることを意味した。
そして何より——澪と警察の繋がりは、
公的に重大な問題を孕んでいると
奈緒は本気で信じていた。

霊能力者が捜査に関与していること。
それは科学的捜査の原則を揺るがす。
証拠能力の問題がある。
逮捕された被疑者の権利の問題がある。
そう自分に言い聞かせた。

澪がそれほど真摯に、
真剣に生きていることを
——奈緒は知らなかったわけではなかった。
ただ見ないようにしていた。

一年半が経ったある秋の夕暮れ、澪は奈緒に言った。

「奈緒さん、ひとつ聞いていいですか」

「何?」

「翻訳の仕事、最近どうですか」

奈緒は答えた。
「まあまあかな。単発の仕事が多くて」

澪はしばらく奈緒の顔を見ていた。
それから静かに言った。

「そうですか」

その「そうですか」の重さが、
奈緒には少し怖かった。



第三章「暴露と代償」

週刊フォーラム二月第二号の表紙に、
大きな文字が躍った。

【スクープ】
捜査一課が秘密利用する「霊能力者」の正体
難事件を次々解決 超能力捜査の全貌

記事は十二ページに渡った。
桐島渉の名前は伏せられていたが、
「捜査一課の現役刑事・K」として描かれた人物の
行動パターンから、警察内部の人間には
すぐにわかる書き方がされていた。
澪の氏名と顔写真は実名で掲載された。
神楽坂の自宅の場所もほぼ特定できる形で示された。

奈緒の名前は記事の署名として
「柏木奈緒」と書かれていた。
取材期間は一年七ヶ月。

記事の内容は、
三つの難事件の解決に霊能力者が
関与したことを示す状況証拠を積み上げたものだった。
直接の録音や映像はなかったが、
奈緒が澪との会話の中で得た断片的な情報——澪が
「川の近く」
「北の方」
「古い木の匂い」
などと語ったことの記録——が時系列で並べられていた。
いずれも事件解決後の検証では
的中していたことが示されていた。

雑誌は発売日の朝に完売した。

警察庁の広報課は発売当日の午後、
短い声明を出した。

「捜査一課において霊能力者を捜査に活用した事実は
一切ない。今回の報道は事実に基づかない。」

テレビのワイドショーはその日の特集を
こぞって差し替え、
霊能力者と警察の「癒着」を声高に論じた。
コメンテーターたちは、科学的捜査の原則への疑問、
逮捕された被疑者の弁護士からの抗議声明、
宗教と公権力の分離といった論点を次々と持ち出した。

桐島渉は同日の夕方、
管理官の堂島から呼び出しを受けた。

会話は短かった。
証拠もなく、認めなければ何も証明できない。
桐島は黙っていた。
堂島はしばらく桐島を見てから、低い声で言った。

「来月から交通安全課に移ってもらう。
辞令は来週出る」

それだけだった。
処分でも懲戒でもない。記録にも残らない。
ただ窓際へ——より正確には、事件とは無縁の部署へ、
音もなく動かされた。

桐島は帰り道、神楽坂に寄った。
夜遅く、澪の家の前に立ったが、
チャイムを押せなかった。灯りは点いていた。

翌朝、澪のもとにはすでに記者が押しかけていた。
澪はカーテンを閉め、外に出なかった。

三日後の夜、桐島は澪に電話をした。

「申し訳ない」と彼は言った。

澪はしばらく黙っていた。

「桐島さんは悪くない」

「俺の責任だ」

「そうじゃないです」と澪は言った。
静かな声で、しかし何か固いものが底にあった。

「私が最初からわかっていたんです。
奈緒さんが誰なのか。
何のために来ていたのか」

桐島は絶句した。

「わかっていて……付き合っていたのか」

「はい」

「なぜ」

澪はまた黙った。
今度は長かった。それからゆっくりと、

「奈緒さんは、いい人でした。
嘘をついていても、いい人だった。
それだけです」

桐島は何も言えなかった。

「でも」と澪は続けた。

「組織というものは、個人を守らないんですね。
わかってはいたけれど」

その言葉に、桐島は何も返せなかった。

澪が電話を切った後、
桐島はしばらく暗い車の中に座っていた。
来月から彼の机は、交通安全課の隅に移る。
二十二年間の捜査経験が、
閑職という押し入れの中に閉まわれる。

澪の憤りは、静かだった。
それがかえって桐島には重かった。


第四章「死者たちの行列」

柏木奈緒が死んだのは、
記事掲載から四ヶ月後のことだった。

六月の初め、夜の新宿。
奈緒は取材を終えて地下鉄の出口から
地上に出たところを、男に刺された。
通り魔だった。
男はその場で逃走し、
翌日に別の場所で任意同行に応じた。
精神鑑定が検討されるような、
社会的孤立の中で暴力性を高めてきた三十代の男だった。

奈緒との面識はなかった。
標的は奈緒ではなく、
ただそこにいた人間だった
——という鑑定結果が後に出た。

奈緒は救急搬送されたが、腹部の刺傷が深く、
翌朝に亡くなった。

享年三十二歳だった。

週刊フォーラムは号外に近い形で訃報を出した。
社内は混乱した。
川瀬デスクは沈黙し、
追悼記事の担当者を決めることすらできなかった。

最初の「偶然」は、
奈緒が亡くなってから三週間後に起きた。

週刊フォーラムの編集部員、三浦克典(四十五歳)が、
夜の帰宅途中に交通事故で亡くなった。
横断歩道を渡っていたところを、
信号無視の車に轢かれた。
運転手は飲酒運転だった。
三浦は今回の「霊能力者」特集の
担当デスクの一人だった。

それだけなら、悲劇的な偶然だった。

しかし一ヶ月後、
今度は週刊フォーラムの写真部員の
安田哲也(三十八歳)が、旅先の離島で
海に転落して溺死した。
遺書はなく、事故と処理された。
安田もまた、
奈緒の記事に使用された写真の撮影者だった。

さらに二ヶ月後、
川瀬デスク(五十七歳)が急性心不全で入院し、
二週間後に死亡した。
持病はなかった。
直接の担当ではなかったが、
記事の掲載を最終決定した人物だった。

週刊フォーラムの内部は静かに崩壊し始めていた。
誰も声を上げなかったが、全員が計算していた。

柏木奈緒。三浦克典。安田哲也。川瀬宗一。

四人が死んだ。
いずれも今回の記事に関わった人間だった。


ネットが先に動いた。

個々の死亡記事は断片的にしか報じられていなかったが、

匿名の掲示板でそれらが並べて論じられた。
そこに誰かが
「週刊フォーラムの霊能力者記事」を結びつけた。

拡散は速かった。

「真崎澪が呪い殺している」

「霊能力者の怨念」

「週刊誌記者が次々と不審死」

これらのキーワードが数日でトレンドに上がった。

大手ニュースサイトが
「複数の関係者の相次ぐ死亡に疑惑の目」
という見出しで記事を出すのに、
一週間もかからなかった。

澪の名前は再び、今度は別の意味で、
世間の中心に引き摺り出された。

警察が澪への事情聴取を行ったのは、
川瀬の死後間もなくのことだった。
任意の聴取だった。
桐島はすでに交通安全課にいたため、
関わることはできなかった。

聴取した刑事は二人で、
澪が関与を示す証拠は何もなかった。
三浦の事故は現場に目撃者がいた。
安田の溺死は現地の警察が調べた限り
他殺の痕跡がなかった。
川瀬は病院で亡くなっており、
医師の診断書があった。

しかし世間はそういう論理で動いていなかった。

澪の自宅には連日、
マスコミと「見物人」が押しかけた。
玄関に生卵を投げつける者があった。
夜中に叫ぶ声がした。
ポストに無記名の手紙が入った。
その内容は澪の弁護士が警察に持ち込み、
脅迫状として届け出た。

だが澪は外に出なかった。
沈黙していた。

桐島は交通安全課のデスクで、
パソコンの画面を見つめていた。
澪に関するニュースが次々と更新されていく。

彼は携帯を取り出し、澪の番号を呼び出した。
何度もかけていたが、繋がらなかった。
電話を切り、また画面を見た。

同僚が声をかけてきた。

「桐島さん、例の霊能力者の件、知ってます?

 えらいことになってますね」

桐島は答えなかった。

澪が何かをした、と桐島は思わなかった。
二十二年の刑事経験と、
澪という人間を知っているという直感の両方が、
そう言っていた。

だが澪が何を感じているかは
——想像するだけで胸が痛かった。


第五章「会見」

会見の開催が発表されたのは、
川瀬が亡くなってから一ヶ月後、
水曜日の朝だった。

澪の弁護士を通じて届いた一文はこうだった。
「真崎澪は今週金曜日、午後二時より、
以下の会場にて記者会見を行います。」

場所は新宿区内の小さなホテルの会議室。
定員は五十名。

希望者は百名を超えたが、弁護士が抽選で絞った。
テレビカメラは三台まで。写真撮影は自由。録音も可。
その条件を受け入れた媒体のみが参加を許可された。

週刊フォーラムは代表を一人送った。
奈緒が死に、三浦が死に、
川瀬が死んだ後の編集部は半壊に近い状態だったが、
それでも記者を送った。
それが報道機関だという意地か、
あるいは義務感か。

会見の日は快晴だった。
十月の乾いた陽光が、
ホテルのエントランスを照らしていた。

澪は定刻に入室した。
黒いジャケット、白いシャツ。髪を後ろで束ねている。
化粧はほとんどしていなかった。
弁護士が隣に座り、
弁護士の向こうにはフォーラムの
スキャンダルで名前が出ていた記事について
法的対応を検討している旨が書かれた
一枚の紙が置かれていた。

澪は着席してから、一度だけ会場全体を見渡した。
その目に感情の動きは見えなかった。

弁護士が冒頭の声明を読み上げた。

要点はこうだった
——真崎澪は警察捜査への非公式な関与を
認めるものでも否定するものでもない立場を取る。
柏木奈緒、三浦克典、安田哲也、川瀬宗一、
各氏の死に対する関与を断固として否定する。
今回の会見は疑惑への説明責任を果たすためではなく、
不当な社会的圧力への抗議として行われる。

声明が読み終わると、質疑が始まった。

記者たちの質問は激しかった。

「警察の捜査に霊能力で協力したのは事実か?」

澪は静かに言った。
「お答えできません」

「柏木奈緒さんとの関係は?」

「友人でした」

「友人を騙した記者の死について、どう思っているか?」

澪はこの質問に初めて間を置いた。
それからこう言った。
「……悲しいです」

「週刊フォーラムの関係者が次々と亡くなっているが、
あなたが何らかの手段で害を加えた可能性はないか?」

「ありません」

「それを証明できるか?」

「証明は警察がすることです。
私は加害者ではない」

「霊能力で呪うことは可能か?」

澪は一瞬だけ、かすかに表情を動かした。
それが苦笑なのか、あるいは何か別のものなのか、
会場にいた誰も正確に読み取れなかった。

「それはお答えできない質問です」

「なぜ?」

「仮定の話だから、です」

その答えが小さなざわめきを呼んだ。

「桐島渉刑事との関係は?」

「お答えできません」

「後悔しているか?」

「何を」

「すべてのことを」

澪はその質問にも間を置いた。
この日一番長い沈黙だった。

「後悔は……ずっとある種類のものです。
後悔が特定の出来事に結びつくとは、
私には思えない」

質問は続いた。
しかし澪の答えはいずれも短く、
感情を抑制したものだった。
加害を否定する。
関与を肯定も否定もしない。
法的措置を検討中であることを確認する。

記者たちは次第に焦り始めた。
期待していた「爆弾発言」は出ない。
泣き崩れる場面もない。
怒りをあらわにすることもない。
澪は静かに、
ただ静かに、会見の時間を消費していた。

四十分が経った頃、
弁護士が「最後の質問を」と言った。

一人の記者が手を挙げた。
週刊フォーラムから来た記者だった。
若い、二十代の女性だった。
奈緒の後任として採用された記者だという話が、
後に伝わった。

その記者はこう聞いた。

「あなたは、柏木奈緒さんが記者であることを
知っていたのではないか。
それでも何も言わなかった。
なぜ、彼女に警告しなかったのか。
命が失われる前に」

会場が静まり返った。

澪はその記者の顔をしばらく見ていた。
見ていたというより
——見透かしていた、と後に何人かの記者が書いた。
その視線に耐え切れず、
若い記者は微かに身を縮めた。

澪は口を開いた。

「柏木さんが亡くなった夜について、
警察は通り魔事件として処理を完了しています。
それ以上のことを私が申し上げる立場にはない」

弁護士が「会見はこれで——」と立ち上がろうとした。

澪が弁護士に片手で待つよう示した。

そして澪は、マイクに向かって静かに言った。

「私は何もしていません。
ただ——何も話さなかっただけです」

会場はしばらく動かなかった。

誰も質問しなかった。
誰も立ち上がらなかった。
カメラのシャッター音だけが、数回鳴った。

澪は立ち上がり、
弁護士とともに会議室の扉へ向かった。
その背中はまっすぐで、
一度も振り返らなかった。

扉が閉まった。


会見の映像はその日の夜、
主要なニュースすべてで流れた。
問題の最後の一言
——「ただ、何も話さなかっただけです」
——は繰り返し切り取られ、
あらゆるコンテキストで論じられた。

ある解説者は「明確な否定だ」と言った。

別の解説者は
「暗に何かを認めているように聞こえる」と言った。

SNSでは
「何も話さなかっただけ、という言葉の意味」
が数千件の投稿で論じられた。

しかし澪はその後、一切の取材に応じなかった。
弁護士を通じた声明も出なかった。

ただ沈黙した。

桐島渉は会見の映像を、
交通安全課のデスクで同僚たちと見た。

最後の一言が流れたとき、
桐島は何かを理解した気がした。
しかしそれを言葉にすることができなかった。

澪はすべてを知っていた。
奈緒の正体を。
奈緒に降りかかるかもしれない危険を。
奈緒の死の可能性を
——どこかの時点で、感じていたのかもしれない。

それでも澪は言わなかった。
奈緒に「あなたは記者だ」と言わなかった。
奈緒を救い続けたのに、
最後の危機だけは救わなかった、
あるいは救えなかった。
あるいは——。

「ただ、何も話さなかっただけです」。

桐島はその言葉を、長い時間をかけて考え続けた。

澪が奈緒の命を故意に見捨てた、
とは桐島には思えなかった。
しかし澪が奈緒の死を前もって
「知っていた」可能性を、
完全に否定することもできなかった。

そしてもし知っていたなら
——知っていながら、何も言わなかったとしたら
——それは澪の「憤り」の、
一つの形だったのだろうか。

警察に。
組織に。
自分を使い捨てようとした構造に。

桐島にはわからなかった。

わからないまま、彼の時間が過ぎていった。

神楽坂の古い木造の家に、
翌週から記者の姿がなくなった。

やがてポストに溜まった郵便物が整理され、
カーテンが開いた。

澪が近所の市場に姿を見せたのは、
会見から三週間後だった。
買い物かごを下げて、いつもの時間に来た。
店主が「お久しぶり」と声をかけると、
澪は小さく頷いて野菜を選んだ。

誰も声をかけなかった。
誰もカメラを向けなかった。

その日の夕方、
桐島から一通のメッセージが届いた。

文面はこうだった。
「お元気ですか。もし良ければ、
近くまで来たときに寄らせてください。
菓子折りを持って」

澪はしばらくその文字を見ていた。

返信するまでに、一時間かかった。

返信はこうだった。

「どうぞ」

真崎澪が何を「知っていて」、
何を「話さなかったのか」は
永遠に証明されなかった。

三浦克典、安田哲也、川瀬宗一の死は
それぞれ事故死・溺死・病死として処理され
いずれも事件性はないと最終的に結論づけられた。

桐島渉は定年まで交通安全課に在籍した。

彼が退職した春、
澪は神楽坂の家に一人で住み続けていた。

——了——

 

ネットで動画を見ていたら

50代の芸人さんが

「最近 ゲストの名前を忘れる事があって」

と言っていたので

それをヒントに作ってみました

 

 

 

# 忘れていく

## 第一章 欠けはじめた日常

四月の朝は、
いつも金木犀の香りがするような気がしていた。

実際には金木犀が咲くのは秋なのだと、
中学生の頃に知った。
それでも桐島咲(きりしまさき)にとって、
新しい季節の始まりはいつも甘い匂いがした。
今年の四月も、そのはずだった。

東京・中野区の六畳一間のアパートで
目を覚ますたびに、
咲は小さな幸福の在庫確認をする癖があった。

大学一年生。経済学部。
都内の国立大学に合格したとき、
地元・静岡の両親は声を上げて喜んだ。
特に父は、晩酌のビールを普段の三倍飲んだ。

住み慣れてきたひとり暮らしのアパート。
駅前のカフェ「ブレンド&ブルーム」での
アルバイトは週三日で、店長の田辺さんは
口は悪いが面倒見がよく、
常連客たちとも顔なじみになった。

そして、高校二年から付き合っている彼氏、
岡村拓海(おかむらたくみ)。
同じ大学ではないが、同じ東京にいる。
月に三、四度は一緒に映画を見たり、
夜の川沿いを歩いたりした。

欠けているものなど、何もなかった。

それが崩れ始めたのは、
五月の半ばを過ぎた頃の、何でもない午後だった。

---

「経済政策論」の講義は三限、午後一時から始まる。
担当の藤原教授は声が低くて眠気を誘うが、
レジュメが整理されていて、ノートを取りやすい。
咲は二列目のいつもの席に座り、
シャープペンシルを走らせていた。

藤原教授がホワイトボードに数式を書いた。

「この関係式は一年の前期にも出てきましたね。
覚えていますか」

咲はノートを繰った。
確かに習った。
完全に習った。
しかも、テストに出て、
満点に近い点数を取った記憶がある。

なのに。

式の名前が、出てこない。

(なんだっけ。ええと、あれ、あの……)

隣の席の子がさらさらとノートに書き込んでいる。
黒板の文字を見ながら、うなずいている。

咲の頭の中だけが、静かに空白だった。

五秒ほどで思い出した。
ああ、そういえばそうだった、
と笑えるくらい当たり前のことだった。

(疲れてるのかな。昨日バイト遅かったし)

それだけのことだと思った。
誰にだってある、ど忘れというやつだ。
咲はシャープペンシルを走らせ直し、
午後の講義の残りを何不自由なく終えた。

---

異変が次に顔を出したのは、それから四日後だった。

「G棟の自販機、また壊れてるらしいよ」

教養棟の廊下で、声をかけてきた女子がいた。
同じ経済学部で、一限の英語の授業が一緒で、
講義の前後に少し話す間柄だった。
顔はわかる。
いつも黒のリュックを背負っていて、
前髪を少し横に流していて、よく笑う子だ。

名前が、出てこなかった。

(え、待って。……なんだっけ)

「ほんとに? またか~」
と咲は笑って返しながら、
頭の中では名前を必死に手繰り寄せようとしていた。
田中? 山田? 
違う。もっと珍しい名前だったような。
いや、ありふれた名前だったような気もする。

「じゃあね」と彼女が行ってしまった後、
咲は廊下で少しの間立ち止まった。

(おかしいな。何度も話したことあるのに)

スマホの連絡先を開いて探した。
登録はしていなかった。
授業だけの関係だったから。

(そうか、登録してないもんね。
思い出せなくて当然か)

自分を納得させる理由は、すぐに見つかった。
スマホを閉じて、咲は歩き出した。

---

## 第二章 ひびが入る

一週間後。

水曜日の午後、ゼミの時間だった。

咲の所属するゼミは「社会経済分析入門」。
一年生対象の少人数ゼミで、毎週水曜の四限に行われる。

メンバーは咲を含めて十二人。
週に一度は顔を合わせ、
グループワークや発表を繰り返してきた仲間だ。

その日、グループ発表の準備中に、
向かいに座った男子学生の名前が咲の中から消えていた。

(……誰、この人)

一瞬、場が歪んだような感覚がした。
何度も喋ったことがある。
先月、一緒にレジュメを作った。
自己紹介だってした。
なのに、名前がどこにもない。
顔はある。
声もある。
存在はある。
ただ、名前という札だけが、剥がれ落ちていた。

それだけではなかった。

その日のゼミが終わるまでに、咲は三人の名前を失った。

十二人のうち、三人。四分の一。

家に帰って、ゼミのLINEグループを開いた。
アイコンと名前を見ながら、
必死に顔と結びつけようとした。
全員、顔は浮かぶ。
ただ、LINEで名前を見て
「そうだ、この人はこういう名前なんだ」
と再学習している自分に気づいて、
背中に薄ら寒いものが走った。

(これ、普通じゃない気がする)

でも翌朝には、また別の考えが頭を占めていた。

(最近スマホ見すぎてるのかも。脳が疲れてるだけだ。
睡眠ちゃんと取ろう)

ゼミのメンバーの名前をノートに書き出して、
顔写真と一緒にスマホに保存した。
念のため、と思いながら。

---

一ヶ月が経った。

六月も終わりに差し掛かる頃、

咲はゼミ室に早めに入り、教卓の前に立つ人物を見た。

白髪交じりの、温厚そうな顔の男性。
ネクタイをきちんと締めていて、
いつも資料を大切そうに持ち運んでいる人。
毎週水曜日、ここで会っている。

その人の名前が、消えていた。

(この人……誰?)

恐怖、というより、めまいに近い感覚だった。
地面が少しずれたような、
自分の足場が信用できなくなるような感覚。
一週間前に顔と名前を確認したはずなのに。
ゼミ担当の教授の名前が、
きれいに空白になっていた。

「桐島さん、今日も早いですね」

教授が微笑みかけてきた。
咲は反射的に「はい」と笑い返した。
名前を呼べないことを気取られないよう、
会話をそこで止めた。

その夜、
咲はスマホのメモ帳を開き、短い文章を打ち込んだ。

「病院に行こう」

---

## 第三章 診断

近くの総合病院の神経内科を予約し、
翌週に受診した。

問診票を書きながら、
咲はどこか自分の症状を「大げさに申告している」
ような後ろめたさを感じた。
物忘れで病院に来るなんて、と。
でも書き進めるうちに、項目の多さに少し驚いた。

「最近物忘れが増えたと感じますか」

「同じ話を繰り返すことがありますか」

「日付や曜日を間違えることがありますか」

——当てはまるものが、思ったより多かった。

担当医は四十代とおぼしき女性で、
井上(いのうえ)医師と名乗った。
物静かで、咲の話を遮らずに最後まで聞いてくれた。

「人の名前が出てこないというのは、
顔を見ても、ということ?」

「はい。顔は分かるんです。
その人のこともわかる。
でも名前だけが……」

「いつ頃から?」

「一ヶ月くらい前から、
だんだんひどくなっている感じで」

検査をいくつか受けた。
血液検査、MRI、
神経心理検査と呼ばれる一連の記憶テスト。
記憶テストは、いくつかの単語を聞かされて
それを後で思い出したり、
図形を見て再現したりするものだった。

結果を聞いたのは、その一週間後だった。

「画像上の異常は見られません」と井上医師は言った。

「ただ、神経心理検査の結果と、
症状の経緯を総合すると、
若年性健忘症と診断するのが妥当だと考えます」

「じゃくねんせいけんぼうしょう」
と咲は繰り返した。
初めて聞く言葉だった。

「主に二十代から三十代に発症することがありますが、
十代後半や大学生の年齢層でも見られます。
脳の器質的な病変ではなく、機能的な問題です。
原因として考えられるのは、
慢性的なストレス、睡眠の質の低下、
それからスマートフォンへの過度な依存、
情報過多による脳の処理負荷増大などが挙げられます」

言われた瞬間、心当たりが次々と浮かんだ。

一人暮らしを始めてから、睡眠時間が乱れていた。
深夜一時、二時まで動画を見たり、
SNSをスクロールし続けたりすることが習慣になっていた。

バイトと授業と課題を掛け持ちする日々のプレッシャー。

地元の友人との関係が薄くなっていく漠然とした孤独感。

気づかないうちに、
たくさんのものが積み重なっていたのかもしれなかった。

「回復しますか」

「生活習慣の改善を軸に治療すれば、
多くの場合は回復が見込めます。
通院しながら経過を観察しましょう。
まずは睡眠の確保、スマートフォンの使用時間の制限、
ストレス源の整理から始めてみてください」

「わかりました」

咲は小さくうなずいた。
怖いけれど、原因がわかった。
治せる。
そう信じることにした。

---

## 第四章 崩れていくもの

しかし症状は、待ってくれなかった。

---

**彼氏との喧嘩**

七月の第二土曜日、
岡村拓海との待ち合わせは渋谷の映画館の前、
午後二時だった。

その日、咲は自宅の六畳間にいた。
洗濯物を取り込んで、
アイスを食べながら動画を見ていた。

スマホが鳴った。

「今どこ?」

拓海からのLINEだった。
咲は画面を見て、一秒、止まった。

(……映画?)

「ごめん、今日って?」
と打ちかけて、手が止まった。
スケジュールアプリを開く。
確かにある。
「拓海 渋谷109シネマ 14:00」。

(忘れてた)

急いで支度して向かうには、すでに遅すぎた。
映画の開始まで十五分を切っていた。

「ごめん、忘れてた。今から行く」

既読がついて、すぐに電話が鳴った。

「忘れてた?」

「ごめん、本当に……」

「二時間前に『楽しみだね』って返事してたじゃん」

確かめると、そうだった。
お昼頃にLINEのやり取りをしていた。
そのとき咲は確かに、今日会うことを認識していた。
それが、一時間半のうちに抜け落ちた。

「気分が乗らないなら正直に言ってよ。
待ってる俺の立場は?」

「違う、そういうことじゃなくて」

「じゃあなんなの」

咲は病院のことを打ち明けようとして、
言葉が出なかった。
言ったところで、
「映画の約束を忘れるのが病気?」
と笑われそうな気がして。

「ごめんなさい」

それしか言えなかった。
電話は短く切れた。

その夜、謝りのLINEをいくつか送った。
拓海からの返信は「わかった」の三文字だけで、
いつもより温度が低かった。

---

**友人たちとの旅行**

八月の頭、
大学の友人四人で箱根に一泊旅行する計画があった。
同じ学部の子たちで、四月から少しずつ仲良くなり、
「夏に絶対どこか行こうね」と決めていた。
宿の予約もしてあって、
咲も1万円を先払いしていた。

出発当日、咲は家にいた。
前日の夜からずっと、その日が旅行だということが、
意識の中に存在していなかった。

スマートフォンに着信が入ったのは
午前九時過ぎだった。

「咲ちゃん、新宿着いたんだけど、今どのへん?」

声を聞いて、体が固まった。

「……ごめん」

「え?」

「忘れてた。本当に、ごめんなさい」

沈黙があった。

「忘れてたって……
三人で一ヶ月前から計画してたじゃん」

「わかってる。本当にごめん。お金は絶対返す」

「お金の話じゃなくて」

そのあと仲間内のLINEグループにも謝りを入れた。
スタンプで「大丈夫だよ」
と返してくれた子もいたけれど、
箱根から帰ってきた後のグループの空気は、
ひそかに変わっていた。
旅行の写真がグループに流れたが、
咲に対してタグをつける子は誰もいなかった。
その後、個別に連絡をくれる子はぐっと減り、
グループで次の計画が立てられることもなくなった。

咲は画面を閉じて、ひとりで部屋の真ん中に座った。
外は夏の光が強すぎた。

---

**試験の日**

九月、後期の始まる直前に前期の追試があった。

正確に言えば、咲は前期の試験の一つを
「すでに受けていた」のだが、
試験当日に何を書いたのかほとんど覚えておらず、
結果は不合格だった。単位を落とした。

そして追試の日付も、咲の記憶から滑り落ちた。

気づいたのは三日後で、
スケジュールアプリを見たときだった。
「追試 D棟201教室 9:00」という文字が、
静かにそこにあった。
日付は過ぎていた。

学務課に相談しに行ったが、
追試に無断欠席したことによる
救済措置はないと告げられた。
落とした単位は来年再履修するしかない。

「体調不良とかではないですか? 
診断書があれば……」

「一応、病院には通っていて」
と咲は言いかけた。

若年性健忘症、という言葉が
自分の口から出てくることが、
まだどこかで信じられなかった。

「診断書を持ってきていただければ、
相談できる場合もありますが」

「わかりました」
と咲は言い、学務課を出た。

診断書を取りに病院に行こう、と思った。

その翌週、その考えはどこかへ消えていた。

---

## 第五章 すがる手

九月の中旬、咲は井上医師の診察室で泣いた。

それまで一度も泣いていなかった。
病院には「治しに来ている」という意志があって、
それが咲を律していた。
けれどその日は、話し始めてすぐに涙が出た。

「彼氏と……うまくいっていなくて。
友達とも疎遠になって。単位も落として。
どんなに気をつけようとしても、
気づいたら忘れてるんです。
自分でどうにもできない感じが、怖くて」

井上医師はすぐに言葉を返さなかった。
ティッシュを静かに差し出して、
咲が落ち着くのをただ待っていた。

「もっと良くなりたいんです」
と咲は言った。

「どうにかしてください、お願いします」

懇願するような自分の声が、
他人の声みたいに聞こえた。

「気持ちはよく伝わりました」
と井上医師は言った。

「治したいという意欲は、
治療においてとても大切なことです。
一緒に取り組みましょう」

それからの二週間、
咲は本気で生活を変えようとした。

スマホの電源を夜十時に切ることを自分に課した。
最初の三日は禁断症状のように手が震えた。
それでもやめた。睡眠時間を七時間確保するため、
アルバイトの夜シフトを断った。
店長の田辺さんは不満そうだったが、
事情を濁したまま頭を下げた。

毎日、記憶トレーニングのためのノートをつけ始めた。
その日会った人の名前、話した内容、印象に残ったこと
——手書きで書き留めていく習慣を作った。
井上医師に勧められた、日記療法に近いやり方だった。

「今日のゼミで話した人:
鈴木さん(黒縁メガネ、経済志望)、
中村さん(背が高い、いつも緑のパーカー)」

書くたびに、少し手応えを感じた。
書いた内容は翌朝も読み返した。
忘れた頃にまた読んだ。

認知行動療法のワークシートも取り組んだ。
「自分を責める考え方のパターン」を記録して、
別の見方に変換していく作業だ。
「また忘れた、私はおかしい」
→「症状のせいで忘れた、
私は今できることをしている」。
頭では分かる。
心が追いつくのは、もっと時間がかかったが。

「よく頑張っていますね」
と井上医師は言ってくれた。
「この取り組みを続けることが、
脳の回路を少しずつ鍛えていくことになります。
焦らなくて大丈夫です」

咲はその言葉にしがみつくようにして、
毎日を過ごした。

拓海ともLINEで話せるようになっていた。
病気のことを正直に伝えると、
最初は「本当に?」と半信半疑な反応だったが、
「一緒にいるよ」と返してくれた。
それだけで、十分だった。

十月の最初の週、
咲は初めて「良くなっている気がする」と思った。

---

## 第六章 手放していくもの

だが十月の半ば、次の通院日を忘れた。

単純なことだった。
スケジュールアプリに記録していたはずの通院予定が、
何かの拍子に削除されていて、
頭の中にも残っていなかった。

翌朝、
病院からの不在着信に気づいた。
折り返そうとして、何かに手が止まった。

謝る言葉を考えていたはずが、別のことを考えていた。
窓の外の秋の空が妙に明るかった。

かけ直せなかった。

次の日も、その次の日も、
「かけ直さなければ」という思いは浮かんだが、
実行に至らなかった。
思いが浮かぶたびに、
それを実行する回路のどこかが
繋がっていない感じがした。

三週間が過ぎた。

気づいたとき、
咲はもう病院に行っていなかった。

---

大学からも、足が遠のいた。

講義に出なければという感覚はある。
でもどの授業に出るべきかが、
だんだんわからなくなった。
時間割を見ればわかる。
でもその時間割を確認しようとする動きが、
起動しない。

ノートに毎日書いていた記憶の記録も、
いつのまにか途絶えていた。
最後にいつ書いたか、覚えていない。

十一月に入る頃、
咲はほぼ一日中アパートにいた。
空腹になれば何かを食べ、眠くなれば眠った。
それ以外に何かをする必要性が、薄れていった。

---

両親から電話が来た。

「最近連絡なかったから心配して」

電話口に聞こえる声は、穏やかで、
懐かしいような感じがした。
でも誰の声かが、うまく掴めなかった。

「咲? 聞こえてる?」

「……はい」

「お父さんだよ。ちゃんとご飯食べてる?」

お父さん、という言葉を聞いた。
頭の中で、それに相当する人物の像を探した。
あるはずのものが、
霧の向こうにあるような感じがした。

「食べてます」

「そう。何かあったらいつでも電話してね。
帰ってきてもいいんだからね」

電話が終わった。

帰る、という概念が、うまくイメージできなかった。
どこに帰るのか。
ここではないどこかが、
自分に関係する場所としてある、
という感覚が薄れていた。

その後、両親からの電話には出なくなった。
出ようとする気持ちが起きなかった。

---

## 第七章 街へ

十一月の下旬、
咲はアパートを出て、帰らなかった。

出たきっかけは些細なことで、
コンビニに行こうとしたのか、
ただ外の空気を吸いたかったのか、
自分でも定かではなかった。
財布だけを持って外に出た。

歩いていると、
どこかから戻るべき場所があるという感覚が、
だんだんと遠くなった。

中野の商店街を歩いた。
人がいた。明かりがあった。
夜の街は昼間より騒々しく、
その騒々しさが逆に咲の輪郭を
溶かしてくれるような気がした。

自分の部屋がどこだったか、が怪しくなったのは、
歩き始めてから何時間も経った頃だった。

番地は思い出せなかった。
アパートの名前も出てこなかった。
スマートフォンを持っていなかった。
住所を書いたメモも持っていなかった。

怖いという感情も、
もう整然とした形では出てこなかった。

ただ歩いた。
歩き続けた。
夜が更けた。
中野から高円寺の方へ、
高円寺から阿佐ヶ谷の方へ、
足の向くまま流れた。
コンビニでカップ麺を買って立ったまま食べた。
金があった。
何があっても金さえあれば生きていける
という感覚だけが、不思議と残っていた。

ベンチで眠った。
公園で眠った。
夜明けになれば明るくなって、また歩いた。

誰かに声をかけられることもあった。
「大丈夫ですか」と言う人もいた。
咲は曖昧に笑って、歩き続けた。

---

## 終章 いなくなる前夜

十二月に入ったある夜のことを、
誰も正確には知らない。

高円寺の駅前の路地で、咲は立っていた。
どこかのコンビニの明かりが遠くに見えた。
コートは着ていたが、
その下の服は秋物のまま薄かった。

「ちょっと、お嬢さん」

声をかけてきた男は、三十前後に見えた。
セットされた髪、光る時計、ガムをかんでいた。
連れが一人いた。

「寒そうじゃない。どっかいくとこないの?」

咲は男の顔を見た。

警戒すべきかどうかを判断する回路が、
どこかへいってしまっていた。
見知らぬ人間を警戒するとき、
人は過去の記憶と照合する。
似たような場面、親からの教え、
ニュースで見た話、友人からの警告
——そういう蓄積が判断を支える。

その蓄積が、咲の中で薄くなっていた。

「……寒い」と咲は言った。

「そっか。じゃ、うちこいよ。暖かいよ」

男は笑った。
咲の腕を引いた。
咲は引かれるままについて行った。

---

桐島咲が行方不明になったと
両親が警察に届け出たのは、翌週のことだった。

アパートには本人の荷物が残っていた。
日記療法のノートも、井上医師の診察券も、
岡村拓海との写真も、静岡の実家で撮ったアルバムも、
全部そのままそこにあった。

ただ彼女だけが、いなかった。

捜索は続いたが、咲は見つからなかった。

---

翌年の春、
大学の掲示板に、誰かが一枚のメモを残した。
名前も署名もなかった。

「今、少し物忘れが多いなと感じている人へ。
どうか、一人で抱えないでください」

風が吹いて、そのメモは数日後にはがれ落ちた。

---

*了*

 

普通の会社でのお話を作ってみました

正体不明の謎の会長が出てくる時点で

とても普通の会社とは言えませんけどね 苦笑

 

 

# 中庭のベンチ

## 一

 九月の昼下がり、
第三会議室から出た瞬間、
氷川凛は小さく息を吐いた。

 廊下を歩く足音は、
ヒールの音にもかかわらず静かだった。
感情を表に出すことを、彼女はとうの昔にやめていた。
やめたのではなく、気づいたら失っていた、
というほうが正確かもしれない。

 大手総合商社・誠和コーポレーションの
企画課に配属されて七年。
凛は気づけばその課の要になっていた。
新規事業立案コンペで三年連続最優秀賞。
海外展開プロジェクトでは単独で
先方との折衝を成立させ、
上層部に「企画課の宝」と言わしめた実績がある。
次期課長の最有力候補
――それが社内における氷川凛の評価だった。

 だが、廊下ですれ違う企画課の後輩たちは、
凛の姿を見るとわずかに肩をすくめる。

 「また氷川さんだ」

 そんな囁きが聞こえても、
凛は視線を前に向けたまま歩いた。
クールで的確。
それは褒め言葉のはずだが、
いつからか「冷たい」「怖い」
という評判に変わっていた。
感情を見せない彼女のことを、
課員たちは「氷の女王」と呼んでいた。

 もっとも、
その呼び名に凛自身が傷ついていることを、
知る者は誰もいなかった。

---

 誠和コーポレーションは、
三年前よりL'sコーポレーションの傘下に入った。

 L'sコーポレーションは
国内外に複数の企業グループを持つ大型持株会社であり、

傘下企業に対しては経営監督の一環として、
定期的に「派遣会長」を送り込む方針を採っていた。
派遣された会長は、現地の経営陣とは
一線を置きながら、
グループ全体の利益と健全性を守る役割を担う。

 現在の会長もそのひとりだった。

 が、それ以上のことを社内の誰も、
あまり知らなかった。
会長は重役会議にも滅多に顔を出さず、
指示は文書か秘書を通じてのみ伝えられる。
社内には「会長は名ばかりで実権がない」
という噂すら流れていたほどだ。

 ゆえに、重役たちは慢心していた。

---

 企画課のもう一人の次期課長候補、
橘誠一郎は、この日も上機嫌だった。

 誠和コーポレーション取締役・橘俊介の一人息子。
世間一般が「コネ入社」と呼ぶルートで
五年前に入社した彼は、仕事の出来こそ平凡だったが、
別の才能において群を抜いていた。

 人の顔色を読む才能。
そして、他人の成果を自分のものに
すり替える才能である。

 長身で目鼻立ちの整った誠一郎は、
社内の女性社員から絶大な人気を誇っていた。
彼はその人気を巧みに利用した。
噂話を流すのが好きな数人に耳打ちするだけで、
情報はたちまち社内を駆け巡る。

 「氷川さんって、
気に入らない部下に嫌がらせするらしいよ」

 「プロジェクトの手柄、
全部自分のものにするんだって」

 「この前、取引先で失礼な態度をとったって聞いた」

 いずれも根も葉もない話だった。
だが「氷の女王」という先入観が土台にあると、
噂は奇妙なほど説得力を持つ。

 一方で、誠一郎の振る舞いには別の側面もあった。
人気を盾に後輩の女性社員に親しげに近づき、
断れない関係を作り上げる。
気に入らない部下には陰湿な言葉を投げかけ、
ミスを大げさに吹聴する。
しかしその被害者たちは、
告発すれば今度は自分が矢面に
立たされることを恐れて黙っていた。

 凛はそれを薄々知っていたが、証拠がなく、
また自分自身も誹謗中傷の渦中にいた。
被害者の声を拾い上げる余裕が、今の自分にはない。
その苦さが、夜ひとりのときに胸の奥に沈む。

 どこまで耐えれば、この霧は晴れるのだろうか。

---

## 二

 十月に入った昼休み。
凛は珍しく、自分のデスクを離れた。

 手提げ袋の中には、
今朝早起きして作ったお弁当がある。
鶏の照り焼き、卵焼き、ほうれん草のごま和え。
料理は凛にとって数少ない、
頭の中をからっぽにできる時間だった。

 向かったのは社屋の裏手にある中庭だった。

 噴水広場として設計された中庭は、
昼休みになると社員たちが弁当を食べたり
雑談したりで賑わうのだが、
噴水から少し離れた植え込みの奥に、
ほとんど人が来ないベンチがあった。
凛はそこを知っていた。
誰かと顔を合わせたくない日に、
一人で弁当を食べるための場所として。

 ベンチに座り、弁当箱の蓋を開けた瞬間、
凛はわずかに口元を緩めた。

 卵焼きが少し焦げていた。

 自分で作って自分で食べる。
誰にも褒めてもらえないし、誰かに見せる必要もない。
それでいい、と凛は思っていた。思うようにしていた。

 箸を持ったとき、
植え込みの向こうからカートを押す音が聞こえた。

 清掃員の青年だった。

 年齢は凛より少し下だろうか、
二十代半ばといった印象。
地味なグレーの清掃服を着て、
落ち葉をほうきで集めている。
背が高く、伏し目がちな目元に、
どこか穏やかな気配がある。

 他の社員たちはこういう場所で
エリート意識をあらわにし、
清掃員に挨拶をしないことが多かった。
目が合っても視線を逸らす。
まるで存在しないかのように扱う。
凛には、そういう振る舞いが
どうにも好きになれなかった。
仕事の内容が何であれ、人は人だ。

 青年は凛に気づくと、迷わずこちらに歩いてきた。

 「お邪魔でしたか? 場所を移しましょうか」

 声は静かだが、はっきりしていた。
媚びたところも、萎縮したところもない。

 凛は少し驚いた。

 「いいえ、どうぞお構いなく。
私こそ、お仕事の邪魔をしてしまっていますね」

 「大丈夫ですよ」

 青年は微笑んだ。
それだけで、
この中庭の空気が少しだけ柔らかくなった気がした。

 彼はほうきを動かしながら、
さりげなく凛の表情を見た。
そして少しためらってから、口を開いた。

 「差し出がましいのは承知なのですが……
お顔が優れないようで。
何か、悩み事でもおありですか」

 凛の手が止まった。

 他人からそんなことを言われたのは、いつぶりだろう。

気遣われること自体に、どこかで慣れていなかった。
自分のことを気に掛けてくれる声というものが、
こんなにも遠くなっていたとは。

 「大丈夫ですよ」

 凛は笑って答えた。
笑い方が少し不自然だったかもしれない。
それでも彼は詮索しなかった。

 「そうですか。……それならいいのですが」

 それだけ言って、青年は静かに落ち葉を集め続けた。

 二人の間に会話はなかった。
ただ、弁当を食べる音と、ほうきの音と、
遠くの噴水の水音だけがあった。

 凛はそのとき初めて、
昼休みに誰かと同じ空間にいて、
息苦しくないと感じた。

---

## 三

 十一月に入ると、噂は会議室の外に出た。

 「企画課の氷川について、
取引先からクレームが入っている
という話があります」

 重役会議の端で、
橘俊介取締役がさらりと口にした。

 「具体的には?」

 別の役員が眉を寄せると、
俊介は用意していた資料を配布した。
内容は、凛が取引先への報告書を
意図的に改ざんしたという「証言」、
部下に対して圧力をかけたという「申告」、
そして数件の「クレームメール」のコピーだった。

 「事実確認が必要かと思います。
つきましては、私が直接調査を」

 他の役員たちは顔を見合わせた。
橘の息子と噂される課長候補の人物を
排除するための布石
――そう読んだ者もいたが、声に出す者はいなかった。
橘俊介は古株の実力者だった。

 「確認の上、ご報告します」

 誰かがそう言って、会議は進んだ。

---

 調査は橘俊介が音頭を取る形で始まった。

 集められた「証言」は、どれも内容が似通っていた。
凛の同僚や後輩への聞き取りは、
誠一郎に近い人物が担当した。
証言者は皆、誠一郎と親しい者ばかりだった。

 報告書が積み上がるにつれ、
凛の姿は紙の上で別の人間に変わっていった。
横柄で、冷酷で、
自分の立場しか考えない社員。

 凛本人は呼び出しを受け、淡々と事実を述べた。
だが証言は「否定している」という記録になり、
報告書に追加された。

 「懲戒解雇も視野に入れるべきでしょう」

 橘俊介の言葉は、重役室に静かに落ちた。

---

## 四

 十一月の第三週。
臨時の重役会議が招集された。

 案件は「企画課社員・氷川凛の処分について」。

 会議室のテーブルには八名の役員が揃い、
上座寄りに橘俊介が座っていた。
処分の方向性はすでに固まりかけていた。
あとは形式的な手続きを踏むだけ
――そのはずだった。

 ドアが開いた。

 誰も予告を受けていなかった。

 秘書が静かに入室し、一言だけ告げた。

 「会長がご参加になります」

 室内が凍りついた。

 テーブル端に設置されたモニターが静かに起動し、
画面にはぼかしをかけたシルエットが映った。
声は加工されており、表情は読み取れない。
L'sコーポレーションから派遣されたこの会長が、
重役会議に姿を現したのは
――記憶にある者すら、ほとんどいなかった。

 「お邪魔します」

 低く穏やかな声だった。

 橘俊介の顔が、わずかに強張った。

---

 会長は言葉少なに、一枚のUSBを秘書に渡させた。

 「社内査察部からの報告書です。ご覧ください」

 社内査察部
――その存在を知る者はいたが、
メンバーが誰なのかを知る者はいなかった。
L'sコーポレーションの方針により
誠和コーポレーション内に設置されたその部門は、
会長直属で運営され、
メンバー同士ですら互いの素性を知らない
という徹底した秘密体制を採っていた。
会長のみが全体を把握していた。

 モニターに資料が映し出された。

 内容を確認した役員たちの顔が、
次々と青ざめていった。

 橘俊介が今回の「調査」に使った証言が、
具体的にどのように作られたか。誰に何を言わせたか。
メールがどのように改ざんされたか。
そして過去五年間にわたる
橘誠一郎の社内での行動の全記録。

 それは、想像をはるかに超えた内容だった。

 他人の企画書を密かに書き換えて提出した記録。
凛に関する根拠のない噂の発生源。
そしてそれだけではなかった。

 後輩の女性社員への繰り返しの交際強要。
断った相手に対する陰湿な嫌がらせと
業務上の不利益な扱い。
深夜の呼び出しと不適切な言動。
不本意ながら従った社員が
「告発すれば自分が傷つく」と沈黙を選んでいた事実。
気に入らない部下への長時間にわたる叱責と
人格否定の言葉。
それらは一件や二件ではなかった。

 「橘誠一郎氏のパワーハラスメント
及びセクシャルハラスメントに関する被害申告は、
査察部の調査において
合計二十三件が確認されています」

 会長の声は静かだった。
静かだからこそ、その重さが室内に満ちた。

 「被害者の多くは、
報復を恐れて沈黙を選んでいました。
そのことも、あわせて記録されています」

 誰も声を出さなかった。

 「橘取締役」

 会長が続けた。

 「あなたは今回の調査の名を借りて証拠を捏造し、
無実の社員を排除しようとした。
息子の言動については、ご存知だったのでしょうか。
あるいは、
だからこそ早急に幕引きをしたかったのでしょうか」

 橘俊介は、唇を一度開いて、閉じた。

 何も言えなかった。

---

## 五

 会議の結果は翌日、正式に通達された。

 橘俊介取締役は辞任。
橘誠一郎は懲戒解雇。
その理由は社内通達に明記された。
業務上の不正行為に加え、
複数の社員に対するパワーハラスメント
及びセクシャルハラスメントの事実が
確認されたため――と。

 あえて明文化することで、
被害を受けた社員が「自分だけではなかった」
と知ることができるように。
そして同様の行為が再び闇に沈まないように。
その一文に込められた意図を読んだ者は、
人事部の中に数名いた。

 証言に加担した社員複数名も、
それぞれ程度に応じた処分を受けることになった。

 そして同日、企画課長の人事も発令された。

 氷川凛、企画課長昇進。

---

 凛は人事部の小部屋でその通知を受け取った後、
しばらく椅子から立てなかった。

 何が何だか、という感覚だった。

 昨日まで自分が懲戒解雇の瀬戸際にいたことは、
通知の文面からは読み取れない。
何かが起きて、何かが動いて、
気づいたら全てが変わっていた。

 誰かが動いてくれたのだ、
ということだけはわかった。

 でも、誰が。

 それと同時に、胸の奥に別の温かさがこみ上げた。
誠一郎のハラスメントに苦しんでいた
後輩たちの顔が浮かんだ。
自分だけではなく、
あの子たちも、ようやく声を聞いてもらえたのだ。

 凛は窓の外を見た。
灰色の空に、一番星が小さく光り始めていた。

---

 退社時間を少し過ぎた頃、
凛は社屋の正面玄関から外に出た。

 秋の夜風が、緩みかけた気持ちを引き締めた。

 駅に向かって歩き始めたとき、
社屋の外壁沿いに並んだプランターの前で、
誰かがしゃがんでいるのが見えた。

 清掃服。グレーの、見覚えのある色。

 あの青年だった。

 しゃがんで、プランターから落ちた土を
スコップで丁寧に戻している。
残業だろうか。
もう外が暗くなりかけているのに。

 凛は足を止めた。

 彼はこちらに気づくと、
立ち上がって軽く会釈した。

 「お疲れ様でした」

 凛は思わず、少しだけ微笑んだ。

 「お疲れ様です。……遅くまで大変ですね」

 「ええ、まあ」

 青年は穏やかに笑った。
どこか、のんびりした笑顔だった。

 凛はなんとなく、足を止めたままでいた。

 「あの、中庭でお会いしましたね。
あの日は……ありがとうございました」

 「私は何もしていませんよ」

 青年は首を傾けた。
本当に、何もしていないつもりらしかった。

 「でも、少し楽になりました」

 凛がそう言うと、青年は少し目を細めた。

 「それはよかった」

 それだけだった。それだけで十分だった。

 凛は頭を下げ、駅への道を歩き始めた。

 背後で、スコップが土を掻く小さな音がした。

---

## エピローグ

 その夜、
社屋の最上階にある会長室で、
一人の男が窓の外を見ていた。

 遠くに、凛の後ろ姿が見えた。
駅へ向かって、少しだけ背筋を伸ばして歩いている。

 数時間前、
モニターとカメラを切った直後、
秘書の田中が静かに口を開いた。

 「お疲れ様でした、会長」

 「いやあ、疲れた」

 男はソファに倒れ込んで、天井を見上げた。

「こういう会議は本当に苦手なんだよな」

 「左様でございますか」

 田中はそれ以上何も言わなかったが、
口元がわずかに緩んでいた。

 「L'sから来て三年になるが、
ここまでひどいのは初めてだな」

 男はぼそりと言った。
声には怒りではなく、疲労に似た静けさがあった。

「あの子たち、二十三人。ずっと黙っていたんだ」

 「はい」

 「うちが傘下に入れておきながら、
気づくのが遅かった。それは俺の落ち度だ」

 田中は何も言わなかった。
否定も慰めも、この場には要らないことを知っていた。

 しばらく沈黙が続いた後、男は窓の外に目をやった。

 「でもまあ、あの人が笑っていたな」

 中庭で弁当を食べていた日、
あの女性はほとんど笑わなかった。
笑い方を忘れたような顔をして、
それでも「大丈夫です」と言っていた。
今日、玄関先で見せた笑顔は小さかったが、
本物だった。

 「よかった」

 誰に言うでもなく、男は呟いた。

---

 男の名前は、
誠和コーポレーション代表取締役会長・三原蒼介。
L'sコーポレーションより派遣されて三年目。

 定期的に正体を隠して社内を
「清掃」しているのを知っているのは、
田中ただ一人だった。
社内のことを書類やデータではなく、
自分の目と耳で知りたい。
それが三原の流儀だった。
L'sの経営陣はそれを「変わった習慣」と呼んだが、
止めることはしなかった。
今回の査察結果が、
その習慣の正しさを証明したとも言えた。

---

 翌朝、企画課の新課長として
初めてデスクに座った凛は、
引き出しの中に一枚の付箋を見つけた。

 筆跡は几帳面で、丸みがある。

 **『ご昇進おめでとうございます』**

 差出人の名前はなかった。

 凛は誰が書いたのか、
まったく見当がつかなかった。

 ただ、捨てる気にはなれなかった。

 その付箋を手帳の最初のページにそっと挟んで、
彼女は新しい一日を始めた。

 中庭では今日も、落ち葉がひとひら、風に揺れていた。

---

*了*