第三百二十六弾「異能の転生者」

第三百二十七弾「異能の転生者 その2」

第三百二十八弾「異能の転生者 その3」

第三百二十九弾「異能の転生者 その4」

第三百三十弾「異能の転生者 その5」

の続きです

 

 

 

# 異能の転生者

## 第十三章 検証

### 一

グレイ・サンダーズは、
敗北を引きずる男ではなかった。

それは強がりではなく、
彼が長年かけて身につけた思考の習慣だった。
起きた事実は変えられない。
変えられないものに感情を注ぎ込むことは、
資源の無駄だ。
ならば、その事実から何を引き出せるかを
考える方が建設的だ
——そういう考え方が、グレイの中に根付いていた。

だから、学院を休んだのはショックのためではなかった。

検証のためだった。

自室の書斎に籠もり、
グレイはあの模擬戦を最初から最後まで、
一つ一つの動作に分解して記憶から取り出した。
何を試みて、何が起きたか。
どの攻撃がどのように止められたか。
相手の動き方の特徴は何だったか。

まず最初の問いを立てた。

今の自分の能力で、勝てたか。

答えを出すのに、一日かかった。

結論は、否だった。

感情を排して検証した結果がそれだった。
あの模擬戦でグレイが使えた手段は、
全て使い切っていた。
攻撃の角度、魔法の属性、槍との連携、出力の増減
——考えられるパターンは全て試みた。
そのどれもが通用しなかった。

では、何か新しい技術を身につければ勝てるか。

これが二日目の問いだった。

グレイは自分が習得していない魔法の技術を洗い出した。

理論上は存在するが実用化されていない術式、
他国の魔法使いが使う特殊な系統、
古い文献に記録された失われた技法
——それらを一つずつ検討した。

仮にそれらを習得したとして、
あの障壁を突破できるか。

答えは、おそらく否、だった。

問題は技術の種類ではなかった。
あの障壁が魔法に対して示した反応を思い出すと、
属性や術式の違いが本質的な差を生むとは思えなかった。

どんな魔法を当てても、
同じように消えるだろうという予測が立った。

では、あの力は魔法ではないのか。

三日目に、グレイはその仮定を立てた。

魔法ではない、と仮定する。
ならば何か。
グレイの知識の中に、
魔法以外の力という概念は存在しなかった。
この世界において、超自然的な力は魔法だけだ
という認識が、グレイの中では自明のことだった。
しかし、その前提自体を疑う必要があるかもしれない。

もしあの力が魔法でないとすれば、
魔法で対抗することは可能か。

グレイは考え続けた。

四日目、五日目と、検証は続いた。
書斎の机の上に、メモが積み重なっていった。
魔法理論の文献を引き出し、対照しながら考えた。
睡眠は取っていたが、食事は不規則になっていた。

そして六日目の朝、グレイは一つの結論に達した。

自分一人では、答えが出ない。

それは敗北宣言ではなかった。
論理的な帰結だった。
あの力の正体を知らない状態で、
その力に対抗する方法を考えることは、
前提が欠けた問いに答えようとすることだ。
どれだけ考えても、推測の域を出ない。

ならば、最も効率的な方法は何か。

答えは明快だった。

直接、本人に聞く。

グレイはメモを整理しながら、
その結論の正しさを確認した。
プライドの問題ではなかった。
効率の問題だった。
自分が一週間かけて辿り着けなかった答えに、
本人との対話が数時間で近づける可能性がある。

ならば、躊躇する理由はない。

七日目の朝、グレイは学院に向かった。

---

### 二

学院の廊下を歩いた時、
最初に気づいたのは視線だった。

いつもと違った。

グレイが廊下を歩けば、生徒たちは道を開ける。
教師たちは会釈をする。
それは彼の地位と実績に対する、
当然の反応として長年続いてきたものだった。

しかし今日は、何かが違った。

視線が、どこか腫れ物に触るような質を帯びていた。
道は開く。
しかし開き方が、心なしか早かった。
会釈をする教師の目が、微妙に泳いでいた。
廊下の向こうから来た若い教師が、
グレイを見た瞬間に別の方向に曲がった。

グレイは不思議に思った。

一週間休んだことへの反応にしては、奇妙だった。
休養は珍しくない。
特別なことではない。
なぜこれほど周囲の空気が変わっているのか。

職員室に入った時、会話が途切れた。

複数の教師たちが、一斉にグレイを見た。
それから、それぞれが何かをするふりをして、
視線を逸らした。
誰かが「お戻りでしたか」と言った。
声が少し高かった。

「ああ」とグレイは答えた。

「少し調べることがあった」

それ以上を説明する気はなかった。
しかし周囲の反応が、
グレイの中に小さな疑問を植えつけた。

箝口令が敷かれていることは知らなかった。

学院の上層部が何を決定したか、
グレイは把握していなかった。
休んでいる間に学院内で何が動いたか、
今の段階では情報がなかった。
ただ、この空気が何かを意味していることは、
長年の経験から感じ取れた。

後で確認すればいい、とグレイは思った。

今は、目的を果たすことが先だった。

---

## 第十四章 カフェ

### 一

昼になった。

グレイはルークがどこにいるかを、
学院の事務から確認した。
午後の授業が始まる前の昼食の時間、
Aクラスの生徒の多くは学院内のカフェを使うという。

カフェは本館の一階にあった。

石造りのアーチ天井の下に、
木製のテーブルが並んでいる。
窓から中庭が見えた。
昼の時間帯は生徒たちで賑わう場所だった。

グレイが入った瞬間、空気が変わった。

会話が止まった。
動きが止まった。
複数の視線が、一斉にグレイに向いた。
それから、グレイが何者であるかを確認した視線が、
次の動きを探し始めた。

グレイはそれを無視して、室内を見渡した。

端の席に、一人で食事をしている生徒がいた。

ルークだった。

窓際の隅のテーブルに、一人で座っていた。
食事の内容は簡素だった。
皿の上のものを静かに口に運んでいた。
周囲の騒ぎにも、グレイが入ってきたことにも、
気づいていない様子だった。
あるいは気づいていて、
関与しないと決めているのか。

グレイはルークのテーブルに向かって歩いた。

周囲の生徒たちの視線が、グレイの動く方向を追った。
グレイがルークのテーブルに近づくにつれ、
その視線が徐々に緊張を帯びていった。

グレイはルークの向かいの椅子を引いて、座った。

カフェの中が、一瞬、完全に静止した。

それから、誰かが短い悲鳴に近い声を上げた。
小さな騒動が起きた。
隣のテーブルの生徒が立ち上がり、
出口に向かって走り始めた。
廊下に出た足音が遠ざかっていく。
報告に行ったのだろう、誰かに。

残った生徒たちは、動けなかった。
見ていた。

ルークが顔を上げた。

向かいに誰かがいることに気づいた瞬間、
わずかに目が大きくなった。
それがルークの「少し驚いた」という反応だった。
それ以上は変わらなかった。

グレイを見た。グレイが自分を見ていた。

「君と話し合いたい」

グレイは言った。
前置きなしだった。

ルークはグレイを見たまま、少し間を置いた。
それから口を開いた。

「あなたは自分には魔力が無い事で、
魔法使いとして見下していたのでは?」

声は穏やかだった。
しかし言葉の端に、かすかな質感があった。
皮肉と呼ぶには薄すぎる。
しかし完全に中立でもない。
事実の確認と、それに対する感情の痕跡が
混ざったような言い方だった。

グレイは、その言葉をそのまま受け取った。

否定しなかった。
言い訳もしなかった。

「そうだ」と言った。

「私はそう思っていた。
魔力量が能力の全てだと信じていた。
だから君を、その基準で判断した」

ルークは何も言わなかった。
続きを待っていた。

「私の考え方は、君との模擬戦で崩れた」
グレイは続けた。

「一週間、自室で検証した。
今の自分の能力で君に勝てたか。
新しい技術を身につければ勝てるか。
君の力が魔法とは異なると仮定して、
魔法で対抗できるか。それぞれを考え続けた」

「結論は?」

「自分一人では答えが出ない。
ならば直接、君に聞くのが最も効率的
だという結論になった」

ルークは少し黙った。

グレイという人物を、改めて見ていた。
最初の授業で感じたことと、
今感じることが、微妙に違っていた。

「ならばより高みを目指すために、
君に協力してもらう方が得策だと考えを変えた」
グレイは真っ直ぐにルークを見て言った。

「以前の私の言動を不快に思っていたならば、
謝罪しよう」

そう言って、グレイは頭を下げた。

カフェの中に、また新たな悲鳴が上がった。
複数の声だった。
立ち上がる音がした。
壁際に押し退く音がした。
グレイ・サンダーズが頭を下げた
——その事実が、見ていた者たちには
信じがたい光景として映ったのだろう。

ルークはそのざわめきを聞きながら、
グレイの下げた頭を見ていた。

ある意味、純粋な人だな、とルークは思った。

最初の授業で感じた傲慢さは、確かに不快だった。
しかしそれは、
グレイが長年かけて積み上げた信念から来ていた。
信念に基づいた傲慢さは、少なくとも根がある。
根のない傲慢さよりも、向き合い方がわかる。

そして今、その信念が覆された時、
この男は一週間かけて検証し、論理的な結論を出し、
こうして頭を下げに来た。
感情に流されていなかった。
プライドで目を曇らせていなかった。

噂で聞いていたグレイ・サンダーズの像
——偏見に満ちた、自分の基準以外を認めない教師
——とは、少し違うものが見えてきた。

完全に違うとは言えなかった。
陰の部分がある人物であることは変わらない。
しかし少なくとも、事実の前では動ける人間だった。

ルークは息を一つ吐いた。

「そこまで言われるならば、協力します」

グレイが頭を上げた。
その目に、安堵と、それから何か別のものがあった。
先を見ようとしている目だった。

「一つだけ聞かせてください」
ルークは続けた。

「一週間の検証で、どこまで辿り着けましたか」

グレイは少し目を細めた。
それから、静かに答え始めた。

「あの障壁が魔法障壁でないことは確信している。
魔法であれば、
あれだけの魔力を叩き込めば崩れるはずだ。
しかし崩れなかった。
属性を変えても、出力を変えても、
組み合わせを変えても、何も変わらなかった」

「続けてください」

「魔法とは別の原理で動いているとすれば、
魔法で対抗することは根本的に難しいかもしれない。
しかし、もし何らかの形で
その原理に近づくことができれば
——魔法の可能性はまだ広がる余地があるはずだ。
その可能性を確かめたい」

ルークはグレイの言葉を聞きながら、
内側で評価していた。

一週間で、そこまで辿り着いた。
前提を疑うことができた。
可能性の方向を見つけた。
感情を排して考え続けた。

大魔法使いと呼ばれるだけのことはある、
とルークは思った。

「一つだけ今日の段階で言えることがあります」

「聞かせてほしい」

ルークは少し考えてから言った。

「あなたの方向性は、間違っていない」

グレイの表情が、わずかに動いた。

カフェの中では、まだざわめきが続いていた。
遠くから足音が近づいてくる気配があった。
報告を受けた誰かが来るのだろう。

しかしルークとグレイは、その音に構わなかった。

二人の間に、何かが始まっていた。
 

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## 第十一章 決着

### 一

グレイ・サンダーズは、限界を知らない男だった。

少なくとも、これまでの人生においては。

魔法師団の上位魔法士たちと渡り合い、
複数の国の強者と交えた経験を持ち、
現役の天に近いとさえ評価された時期がある。
その長いキャリアの中で、
手詰まりという感覚を味わったことは、
ほとんどなかった。

しかし今、その感覚が、
疑いようのない現実として目の前にあった。

魔力が減っていた。

これだけの攻撃を続ければ当然だった。
しかし問題は量だけではなかった。
手段が尽きていた。
攻撃の角度を変えた。
魔法の属性を変えた。
槍との連携のパターンを変えた。
速度を上げ、出力を上げ、数を増やした。
試せることは全て試した。

だがどれも届かなかった。

一方でルークは、変わっていなかった。

表情が変わらなかった。
呼吸が乱れていなかった。
動きに重さが加わっていなかった。
グレイが全力で攻め続けた時間と、
ルークが消耗した量が、全く釣り合っていなかった。
いや、釣り合っていないどころか、
ルークには消耗という概念が存在しないかのようだった。

グレイの脳裏に、断片的な思考が流れた。

あの障壁を突破できれば。
隙間を突ければ。
速度で上回れれば
——しかしどれも、続く言葉を持てなかった。
突破できない。
隙間がない。
速度が足りない。
それが事実だった。

槍を構え直そうとした。
腕が重かった。

魔力の消耗が、体に出始めていた。
長年鍛えた体でも、これだけの魔力を
短時間に使い続ければ、
体の芯から力が抜けていく感覚が来る。
それを知っていたから、
グレイはこれまでの戦闘で消耗戦を避けてきた。
相手を早期に圧倒することで、
自分の消耗を最小化してきた。

今日は、その逆が起きていた。

相手の消耗がゼロで、自分だけが消耗していく。

グレイは息を整えようとした。
しかしルークが動いた。

---

### 二

ルークはそろそろ終わりにしようと思った。

これ以上続けることに意味はなかった。
グレイが手詰まりであることは、
数分前から明らかだった。
彼の攻撃のパターンが繰り返しになり始めた瞬間に、
ルークはそれを確認していた。
新しい手が出てこない。
出しようがない。

問題は、どう終わらせるかだった。

相手を傷つけることは、
今は適切ではないとルークは判断していた。
グレイは確かに最初から手加減をしなかった。
それはルークへの悪意でもあり、
自分の目で確かめようとする意志でもあった。
どちらの側面も否定できなかった。
しかし、この場で教師を傷つければ、話が複雑になる。
複雑になることをルークは好まなかった。

傷つけずに、しかし明確に。

それが条件だった。

ルークは視線を校庭の端に向けた。
レンジの先に、先ほど貫通した的の残骸があった。
あの時に使った光の矢。
あれを、複数同時に。

意識を集中した。

光の矢が、空中に現れた。
一本ではなかった。
数十本が、ルークを中心として宙に浮かんだ。
それぞれが指ほどの太さで、
内側から白い光を発していた。

グレイがそれを見た。

目が大きくなった。
数十本の光の矢が同時に存在している。
それだけでも常識を外れていたが、
問題はその配置だった。
全方位だった。
ルークを中心として、
あらゆる角度に向かって浮かんでいる。
上から下から、左右から、斜めから
——グレイを包囲するような配置が、
一瞬で完成していた。

グレイは動こうとした。
どこかに抜け道があるはずだと、
体が反射的に探した。

矢が動いた。

一斉にではなかった。
順番に、しかし連続的に。
まるで意思を持っているかのように、
グレイの動きを読んで軌道を変えた。
逃げようとする方向に、先回りして矢が向かった。
攻撃しようとすれば、その手元に矢が迫った。

グレイの体が、防御に徹した。
魔法障壁を展開しようとした。
しかし残った魔力では、
完全な障壁を張ることが難しかった。

矢は当たらなかった。

ただ、グレイの動ける範囲を、着実に狭めていった。
左に動けば右から矢が来て動けなくなる。
右に動けば今度は左が閉じる。
後退しようとすれば背後から。

追い込んでいるのではなかった。
包囲していた。

グレイは気づいた。
この矢は自分に当てるつもりがない。
しかし、どこにも行けない。

その理解が来た瞬間、矢が一点に集中した。

グレイの持つ槍だった。

数十本の矢が、それぞれ異なる角度から、
槍の各部位に向かって同時に収束した。

衝撃音があった。

金属が砕ける音だった。

グレイの手の中で、槍が四散した。
根元から、中ほどで、穂先の手前で、
それぞれが別々の場所で折れ、
砕け、弾け飛んだ。
金属の破片が地面に落ちた。

グレイの両手が空になった。

それと同時に、四方からバリアの壁が現れた。

グレイを囲む四面の壁。
透明だった。
しかし確かにそこにあった。
グレイが手を伸ばすと、見えない壁に触れた。
押しても動かなかった。
魔法を叩きつけても、揺れもしなかった。
上も、下も、同様だった。

グレイは完全に身動きが取れなかった。

沈黙があった。

長い沈黙だった。

グレイは自分の両手を見た。
空の両手を。
それから囲む四面の壁を見た。
それからルークを見た。

ルークは立っていた。
変わらない表情で。
変わらない呼吸で。

グレイは目を閉じた。

一秒あったか、なかったか。

「……参った」

声は低かった。
かすれていた。
しかしはっきりと聞こえた。

バリアの壁が消えた。

---

### 三

一瞬の静寂があった。

それから、歓声が上がった。

Aクラスの生徒たちは、
いつの間にか自分たちの模擬戦を止めて、
この戦闘を見ていた。
互いのペアを忘れていた。
見入っていた。
そして今、その感情が音になって出てきた。

驚きと興奮と困惑が混ざり合った声だった。
純粋な喝采とは違った。
何かとてつもないものを目撃してしまった
という戸惑いが、歓声の底に流れていた。

グレイ・サンダーズが負けた。

この学院において、それは起きてはならないことだった。

教師と生徒の力関係は、この場の秩序の前提だった。
その前提が、今日、崩れた。
しかも相手は、魔力「微量」の新入生だった。

生徒たちはルークを見た。

ルークは特に何もしていなかった。
ただ立っていた。
グレイが降参を告げた瞬間から、
表情は変わっていなかった。
勝利を誇る様子がなかった。
安堵している様子もなかった。
ただ、終わったという事実を
確認しているような顔だった。

グレイは地面を見ていた。

周囲の音が、
彼の耳に届いているかどうかわからなかった。
生徒たちの歓声が、
何か遠い場所の音のように聞こえていた。

ルークはグレイを見た。

この男が今どういう状態にあるか、
ルークには見えていた。
体の消耗だけではなかった。
もっと根本的な何かが、グレイの内側で折れていた。
長年信じてきたものが、
今日の結果によって
根底から揺るがされた人間の顔をしていた。

それについて、ルークは何も言わなかった。

言うべき言葉を持っていなかった、
というより、言うべき言葉がないと判断していた。
グレイが向き合うべきことは、
ルークが言葉にできるものではなかった。

---

## 第十二章 箝口令

### 一

その日の夜のうちに、学院の上層部が動いた。

グレイ・サンダーズが新入生に敗北した。
その事実は、Aクラスの生徒十二名と、
その場にいた数名の教官が目撃していた。
口伝えで広まるには十分な人数だった。

学院長が緊急の会議を開いた。

結論は速かった。

箝口令を敷く。
関係者全員に対して、
今日の出来事を外部に一切漏らさないよう命じる。
違反した場合の処分も明示した。
教師に対しては職の問題。
生徒に対しては、評価への影響を示唆した。
明言はしなかったが、意図は明確だった。

生徒たちは翌朝、担任から個別に呼ばれた。
今日見たことは話さないように、と言われた。
理由の説明はなかった。
ただ、命令として告げられた。

Aクラスの生徒たちは、それぞれの反応を示した。

従順に頷く者、内心で疑問を持ちながら黙る者、
理不尽を感じながらも逆らえない者——様々だった。
しかし全員が、少なくとも表向きは箝口令に従った。
この学院に反抗することのコストを、
彼らはよく理解していた。

グレイは翌日から学院に来なかった。

公式な説明はなかった。
体調不良、とだけ事務的に伝えられた。
いつ戻るかも告げられなかった。

---

### 二

グレイが休んでいる間、
Aクラスの授業は座学中心に切り替わった。

代理の教師が来た。
年配の女性教師で、魔法理論の専門家だった。
彼女はグレイとの対戦について一切触れなかった。
最初の授業の冒頭で
「グレイ教授は体調を崩されています。
回復するまでの間、私が担当します」
とだけ言い、すぐに授業に入った。

座学の内容は、魔法理論の基礎から始まった。

魔法の系統分類、各系統の特性と相互関係、
魔力の構造と流れ方——体系的な内容だった。
ルークはそれを聞きながら、
この世界の魔法理論の全体像を改めて整理していた。

理論として興味深い部分はあった。

この世界の魔力は、ルークの超能力とは
根本的に異なる原理で動いていた。
しかし、いくつかの点で類似した構造も見えた。
エネルギーの集中と放出のパターン、
方向性の制御方法、
複数の力を同時に扱う際の干渉の問題
——表面的な形は違っても、
根底にある原理には共通するものがあった。

ルークは授業を聞きながら、
そういった考察を静かに進めていた。

Aクラスの他の生徒たちは、
どこか落ち着かない様子だった。

グレイが休んでいる理由について、
公式な説明がないことへの不安があった。
あの対戦を見た後で、
何も言われないままグレイが消えた。
その事実が、様々な推測を生んでいた。

ルークにはさっぱり解らなかった。

あの対戦の後、
グレイが受けたダメージについては把握していた。
体の消耗と、精神的な衝撃。
どちらも、数日の休養で回復するものだと
ルークは見ていた。
物理的には問題なかった。

ではなぜ、まだ来ないのか。

ルークにはその答えが見えなかった。
グレイという人間が、今どういう状態にあるのか。
敗北という経験が、
彼の内側でどのように処理されているのか。
それはルークが理解しにくい領域だった。

誇りを、信念を、
積み上げてきたものを、否定されること。

その痛みの質が、ルークには実感として掴みにくかった。

前世のフレデリック・マクミランは、
自分の力が否定された経験を持っていなかった。
否定できる者がいなかったから。

だからグレイが感じているものの深さが、
正確にはわからなかった。

ただ、相当のものだろうとは思っていた。

---

### 三

グレイが休んでいることについて、
学院内の噂は静かに、しかし確実に広まっていた。

箝口令は完全ではなかった。

十数人が目撃した出来事を完全に封じることは、
現実的には難しかった。
言葉に出さなくても、表情に出る。
態度に滲む。
誰かの耳に届いた断片が、
別の誰かの断片と合わさって、輪郭を持ち始める。

魔力「微量」の新入生に、グレイ教授が負けたらしい。

その噂が、他のクラスの生徒たちの間に流れ始めた。
信じる者は少なかった。
信じたくない者の方が多かった。
しかし否定する材料も、誰も持っていなかった。

グレイの休みは一週間を過ぎた。

その理由について、様々な憶測が生まれた。
病気、過労、家の事情
——しかしAクラスの者たちが口を閉じている事実が、
何かを示唆しているように見えた。

あの新入生に敗れたことが、
よほどのショックだったのではないか。

その解釈が、最も広まった解釈だった。

ルークはその噂を、廊下を歩く時に断片的に耳にした。
自分についての話を他人の口から聞くのは、
奇妙な感覚だった。
話されている内容の事実関係は正確だったが、
そこに込められた感情の読み方が、
ルークの内側にある理解とずれていた。

グレイが受けた衝撃の核心は、
敗北そのものではないとルークは思っていた。

魔力が全てだという信念。
その信念の上に立った世界観。
それが今日の一つの出来事によって成立しなくなった。
人間にとって、世界の見方が崩れることは、
単に戦闘に負けることよりはるかに大きな出来事だ。

それに向き合う時間が、
グレイには必要なのかもしれなかった。

授業が終わった午後、
ルークは学院の図書館に向かった。

この学院の蔵書は相当なものだった。
魔法理論の古典から、各国の歴史書、
天の記録、魔法生物の生態まで
——ルークが興味を持てる素材は十分にあった。

グレイが戻るまでの間、学べることを学んでおく。

それがルークにとっての、今できることだった。

 

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## 第九章 校庭

### 一

王立魔法学院の校庭は、
ルークが今まで見た中で最も念入りに準備された
訓練場だった。

広さは相当なものだった。
本館から見下ろすと、整然とした石畳の広場が広がり、
その周囲を手入れされた芝が囲んでいる。
しかしその美しさよりも、
ルークが注目したのは別のことだった。

空気の質が、外と微妙に違った。

校庭全体を覆う対魔法結界の存在だった。
魔法使いでなければ感知できない類のものだが、
ルークには透けて見えるようだった。
複数の層から構成された複合結界で、
内側から放たれる魔法エネルギーを吸収し、
外部への影響を遮断する構造になっていた。
それなりの規模の魔法にも耐えられる設計だった。

この学院を作った者たちの技術水準が、
ここに凝縮されていた。

校庭の端に、レンジが数カ所設けられている。
各レンジの先端から百メートル先に、
的が設置されていた。
円形の標的で、
中心から外側に向かって同心円が描かれている。

グレイが生徒たちに向かって言った。
「各自、指定されたレンジに立て。
的に向かって最大出力の攻撃魔法を放て。
距離は百メートル。
中心への命中を目標とする」

生徒たちが動いた。
それぞれのレンジに散っていく。

ルークは一番端のレンジに立った。
百メートル先の的を見た。
的は小さかった。
円全体の直径がおよそ一メートル。
中心の核心部分は、その五分の一程度だった。
この距離からあの中心を狙う。

それが課題だった。

最初の生徒が魔法を放った。
炎の塊が勢いよく飛び出し、
四十メートルほどで急速に減衰して消えた。
魔力が尽きたのだった。

次の生徒は土魔法を使った。
地面を這うように岩塊が向かったが、
六十メートルあたりで止まった。

「次」グレイが淡々と言った。

一人ずつ、順番に試みた。
百メートルに届いた者は、
十二名のうちわずか四名だった。
そのうち的に命中したのは二名。
中心部に当たったのは一名だけだった。

その一名は、あの「卓越」評価を受けた少女だった。
風魔法の使い手で、細く鋭い刃状の魔法を
精密に制御して中心に当てた。
Aクラスの中では間違いなく頭一つ抜けていた。

残りの生徒たちは、届かなかった。

グレイはそれを見ながら、内側で評価を更新していた。

こんなものだろう、という評価だった。

Aクラスに選抜された者たちでも、
本格的な指導を受ける前の段階では
この程度が標準だった。
百メートルに届く者が三分の一というのは、
むしろ例年より良い結果だった。
ここから自分が育てていく。
器のある者を見極め、伸ばしていく。
それがグレイ・サンダーズのやり方だった。

順番がルークのところに来た。

他の生徒たちの視線がルークに集まった。
昨日の試験の結果が一部には伝わっていたが、
格闘実技と魔法実技は別物だ。
遠距離の魔法攻撃に必要なのは、何より魔力量だ。
微量の評価しか受けていない者が
百メートルに届くはずがない
——そういう前提が、見ている者たちの間にあった。

グレイも見ていた。
その目に期待はなかった。
ただ、記録のために確認する目だった。

ルークはレンジの前に立った。

百メートル先の的を見た。
中心の小さな核心部分を見た。

何を使うべきかを考えた。

力の出力調整は、攻撃の形式よりも繊細な作業だった。
強すぎてはいけない。
しかし、弱すぎても意味がない。
的に届き、中心に当たり、
かつこの場の状況を著しく逸脱しない
——その範囲を設定した。

光の矢を選んだ。

それは特定の魔法系統に属するものではなかった。
ルークが超能力を、この世界の観察者が
理解できる形に変換した出力だった。
指先ほどの太さの光の束。
細く、密度が高く、方向性が明確なもの。

中心を射抜くイメージを、一度だけ確認した。

放った。

音が、後から来た。

的まで到達してから、それから遅れて音が届いた。
衝突音ではなかった。
光の矢が空気を引き裂いた時の、鋭い破裂音だった。
音速を超えていた。

的は、中心から真っ直ぐに貫通していた。

そこで終わらなかった。

光の矢は的を貫いた後も減衰しなかった。
百メートル先の対魔法結界に当たった。
学院の設計者たちが、
相当の強度を見込んで設計した結界だった。

一瞬、結界が輝いた。

それから、光の矢はその結界を貫通した。

結界の向こうにあった石壁に穴が開いた。
その向こうの空気が揺れた。

静寂があった。

誰も何も言わなかった。

グレイが的を見た。
中心に開いた穴を見た。
その向こうの結界に開いた穴を見た。
さらにその向こうの壁の穴を見た。

視線がルークに戻った。

表情が変わっていた。

それまでのグレイは、
どんな状況でも評価する側の顔をしていた。
審査する者の顔だった。
しかし今は違った。
何かを理解しようとして、
理解できないでいる顔だった。

「微量の魔力で」誰かが呟いた。

別の声が続いた。
「あれは魔力なのか?」

困惑が広がっていた。
この世界の住人たちにとって、
魔力評価と魔法の出力は直結している。
微量の評価の者が放った攻撃が対魔法結界を貫通する。
それは、認識の枠組みそのものが揺らぐ出来事だった。

グレイは数秒間、何も言わなかった。

それから声を整えた。
「次の訓練に移る」

それだけだった。

しかしその言葉の裏にあるものを、ルークは読んでいた。

グレイの中で、何かが動いていた。
認めたくない。
しかし無視もできない。
その二つの力が、今まさにぶつかり合っていた。

---

## 第十章 格闘

### 一

近接格闘戦の訓練が始まった。

グレイは生徒たちを二人一組に分けた。
互いに模擬格闘を行い、
魔法と体術をどう組み合わせるかを実践で学ぶ、
という説明だった。

しかしグレイ自身はペアから外れていた。

ルークの相手をする、とグレイは言った。

声は平静を保っていた。
説明の口調は、指導者として
当然の配慮をしているように聞こえた。

「最初の実技は、私が直接確認する必要がある」
という言い方だった。

他の生徒たちは互いのペアで向き合い始めた。

グレイとルークは、校庭の中央に向かい合って立った。

グレイは右手に槍を持っていた。
学院の訓練用の槍ではなかった。
彼が普段から使う、実戦用の魔法槍だった。
魔力を通すことで属性を付与できる
特殊な合金で作られている。
これを持ち出したことが、
この場の性質を如実に示していた。

ルークはそれを見た。

手加減をしない、という意思表示だった。
それは指導者が生徒に対して取る姿勢ではなかった。
しかしグレイにとって、
ルークはもはや通常の生徒ではなかった。
先ほどの的当ての結果が、そうさせていた。

理解できないものを排除するか、
それとも自分の手で確かめるか
——グレイは後者を選んでいた。

「始める」

グレイが動いた。

最初から全力だった。

右手の槍が低い軌道でルークの脚を狙った。
同時に左手から火魔法が放たれた。
二つの攻撃が、互いに補完し合う角度と速度で来た。
槍を避けようとすれば魔法に当たり、
魔法を防ごうとすれば槍が届く。
長年の実戦で培った連携だった。

それが大魔法使いと呼ばれる理由の一端だった。
魔力量だけではなく、その使い方に洗練があった。
複数の魔法を同時に起動しながら、
物理攻撃との連携を維持する。
並みの魔法使いには真似のできない技術だった。

ルークはバリアを展開した。

複数のバリアが、ルークの周囲に同時に現れた。

魔法障壁とは構造が根本的に違った。
魔法障壁は、術者が意識的に維持する必要がある。
攻撃を受けるたびに消耗し、
再展開には時間と魔力がかかる。
複数の方向からの攻撃に対しては、
どうしても対応が遅れる瞬間が生まれる。

バリアはそうではなかった。

それはルークの意識に連動していたが、
維持のためにルークが何かを
消費するわけではなかった。
悪意を持つ攻撃に対して、自動的に反応した。
槍の穂先がバリアの層に触れた瞬間、
その運動エネルギーが吸収された。
火魔法がバリアの別の層に当たった瞬間、
熱と魔力が無効化された。

二つの攻撃が、同時に止まった。

グレイの顔に、一瞬の戸惑いが走った。
しかし彼はすぐに次の攻撃に移った。
今度は三つ同時だった。
火、土、そして槍の突き。

また止まった。

四つ同時。
五つ。
出力を上げ、速度を上げ、角度を変えた。

全て、止まった。

グレイは動きを止めなかった。
攻撃のパターンを変え続けた。
それは確かに高度だった。
どの攻撃も、単体では十分な威力があった。
しかしバリアの前では、
組み合わせることの意味がなかった。
どの方向から来ても、
どの属性であっても、
どの速度であっても
——バリアはそれを区別しなかった。

ルークは攻撃に回る余裕が生まれていた。

バリアが防御を担っている間、
ルークは自分が何もしなくていい。
普通の魔法使いは、防御と攻撃を切り替えながら戦う。
防御している間は攻撃できず、
攻撃している間は防御が薄くなる。
その切り替えのコストが、戦闘の主要な負荷になる。

ルークにはそのコストがなかった。

防御はバリアが自動的に行う。
ルークは攻撃だけを考えていればいい。

最初の一分は、ルークは攻撃しなかった。
グレイの動き方を観察していた。
どの角度を好むか、
どのタイミングで魔法を切り替えるか、
槍と魔法の間にどのくらいの時間差があるか。

それから、動き始めた。

返す、という形を取った。
攻撃ではなく、グレイの力を利用する形だった。
槍の軌道を、ほんの少しだけ変えた。
グレイが魔法を放った瞬間に、
その力の方向をわずかに押し返した。
グレイ自身の力が、
グレイの想定しない角度に返ってくる。

グレイが体勢を崩した。

立て直した。
しかし次の攻撃の起点が変わっていた。
ルークはその変化を先に読んで、先に動いていた。

時間が経つにつれ、差が広がっていった。

グレイは消耗していた。
これだけの攻撃を続ければ、魔力は減っていく。
ルークは消耗していなかった。
バリアに何も使っておらず、
返し技にもほとんど力を使っていない。

グレイの呼吸が変わり始めた。

微かにだが、乱れていた。
これほど長く、手応えのない攻撃を続けることは、
体力だけでなく精神力も削っていく。
大魔法使いとして長年積み上げてきた自信が、
攻撃を弾き返されるたびに僅かずつ削れていく感覚
——それはグレイが今まで経験したことのない感覚だった。

格闘で相手を圧倒したことは何度もあった。

一方的に押し込まれたことも、ごく稀にあった。

しかし、これは違った。
圧倒されているわけではない。
しかし何も届かない。
何を試しても、何も変わらない。
攻撃は全て消え、相手は涼しい顔をしている。

グレイの頭の中に、問いが溢れ始めていた。

何故だ。魔法障壁のはずがない。
魔法障壁ならとうに崩れている。
これだけの魔力を叩き込めば、
どんな障壁も維持できない。
ではあれは何だ。
魔力を消費している様子がない。
自分の攻撃が、
まるで霧の中に消えていくようだ。

そして何より。

アクアでさえ、
在学中はここまで自分を追い詰めなかった。

水天アクア・ヴォルフィード。
自分が最も誇る教え子。
卒業後わずか五年で天の称号を得た、
この時代最高の才能。
在学中の彼女と模擬戦を重ねた記憶は、今も鮮明だった。

彼女は確かに優れていた。
しかし在学中は、
グレイが本気を出せば圧倒することができた。

それが教育だった。
教師が生徒を超えているから、
生徒は教師に学ぼうとする。

今、自分は追い詰められている。
魔力「微量」の評価を受けた、
魔法学院に入ったばかりの子供に。

その事実が、グレイの中で整合性を持てずにいた。

認めたくなかった。

認めれば、自分がこれまで積み上げてきた全てが揺らぐ。

魔力量が全てだという信念が。
その信念の上に立った指導法が。
その指導法の正しさを証明してきた実績が。

しかし。

目の前の事実は、変わらなかった。

グレイの次の攻撃が、また止まった。
返し技が来た。
グレイは横に跳んでそれを回避した。
着地した瞬間、膝に力が入らなかった。
踏ん張って立て直した。

槍を構え直した。
しかし、次の動きが出てこなかった。

何を試しても届かない。
何を変えても変わらない。

その認識が、初めてグレイの中で
明確な形を取った瞬間だった。

校庭の他の場所では、
生徒たちの模擬戦が続いていた。
しかし誰も自分のペアを見ていなかった。
全員が、グレイとルークを見ていた。

グレイ・サンダーズが、一方的に攻撃し続けながら、
追い詰められていく。

その光景を、Aクラスの生徒たちは言葉なく見ていた。
 

第三百二十六弾「異能の転生者」

第三百二十七弾「異能の転生者 その2」

の続きです

 

 

 

# 異能の転生者

## 第八章 グレイ・サンダーズ

### 一

王立魔法学院が世界にその名を轟かせているのは、
単に歴史が長いからでも、
施設が優れているからでもなかった。

理由は一つだった。

この学院の出身者が、
世界の頂点に立っているからだった。

魔法には六つの系統がある。
木、火、土、水、白、黒
——それぞれの系統には固有の性質があり、
使い手の適性によって得手不得手が生まれる。
どの系統においても、その頂点に君臨する者が存在した。

称号は「天」。
人類の守護者と呼ばれる六人の魔法使いたちだった。

現役の天は五名いた。
そのうち五名全員が、王立魔法学院の出身者だった。

この事実は、学院の名声を決定的なものにしていた。
世界中の富裕層が我が子をこの学院に送り込もうとし、
各国の王族が入学枠を求めて外交的な圧力をかけた。
入学試験の倍率は毎年高騰し、
合格者の顔ぶれは各国の将来を担う者たちで占められた。

五名の天の中でも、
特別な関心を集めるのが最年少の水天だった。

アクア・ヴォルフィード。

この学院を卒業してから、わずか五年で水天に昇格した。

前例がなかった。
天の称号を得るには通常、数十年の研鑽が必要とされる。

才能だけではなく、積み重ねた経験と、
圧倒的な実戦での証明が求められるからだ。
それをアクアは五年で成し遂げた。
魔法史において、
彼女の名は特別な意味を持って刻まれていた。

そのアクアを育てた人物こそが、
グレイ・サンダーズだった。

王立魔法学院において、
最上位のAクラスを長年にわたって
担当してきた教師だった。
大魔法使いの称号を持ち、
現役の魔法使いとしても一流の域にある。
彼の授業を受けた者が水天になったという事実が、
グレイの名を学院と不可分に結びつけていた。

世間における評判は、絶大だった。

厳しいが公正。
才能を見抜く眼が確かで、指導法が卓越している。
彼の元で学ぶことができれば、
普通の生徒が想像もしないほどの高みに到達できる
——そういう評価が広まっていた。
親たちは子供をAクラスに入れることを夢見た。
各国の貴族が推薦状を書いてもらうために手を回した。

しかし。

グレイ・サンダーズを実際に知る者たちの評価は、
まったく違った。

彼が認めた生徒には、確かに惜しみない指導が注がれた。

それは本当のことだった。
アクアがその証明だった。
しかしグレイが認めなかった生徒に対して、
何が行われたか
——それを公の場で語れる者はほとんどいなかった。

グレイは見極めが早かった。

最初の数週間で、
この生徒は伸びると判断すれば全力を注いだ。
伸びないと判断すれば、切り捨てた。
切り捨て方は巧妙だった。
直接的な暴力はない。
露骨な差別もない。
ただ、じわじわと、その生徒の居場所をなくしていく。
授業での扱い方、他の生徒への影響、評価の付け方、
学院内での立ち位置——あらゆる手段を使って、
静かに、しかし確実に、対象の生徒を追い詰めた。

王立魔法学院からの退学が何を意味するか、
この世界では誰もが知っていた。

魔法の実力こそが個人の価値を決めるこの社会において、

最高学府から放逐されることは、
単なる学業上の失敗ではなかった。
能力を公的に否定されることだった。
貴族家の者であれば、家の評判に傷がつく。
平民の出身であれば、
魔法に関わる職業への道が完全に閉ざされる。
再起は、ほぼ不可能だった。

絶望する者もいた。
姿を消した者もいた。
グレイの指導を受けてAクラスを去った者たちが
その後どうなったか
——その情報は、不思議なほど表に出なかった。

陽の部分が大きすぎた。
アクアという輝きが、全ての影を飲み込んでいた。

グレイ・サンダーズは、
光の中に闇を隠すことの名人でもあった。

---

### 二

Aクラスの教室は、学院本館の最上階にあった。

窓から王都が一望できる。
天井は高く、壁には歴代の優秀な卒業生の
肖像が並んでいた。
その中にアクア・ヴォルフィードの
若い頃の肖像もあった。
机は他のクラスより広く、椅子の造りも違った。
細部に至るまで、
ここが特別な場所であることを主張していた。

Aクラスの合格者は十二名だった。

それぞれが、各地の名門家の出身者、
あるいは飛び抜けた魔力評価を受けた者たちだった。
教室に集まった彼らの間には、
すでに独特の空気があった。
互いを品定めするような緊張と、
選ばれた者同士が共有する
優越感の混じり合った空気だった。

ルークは窓際の席に座った。

他の生徒たちがルークを見た。
視線の質を読めば、一人一人の内側がある程度わかった。

純粋な好奇心の者、警戒している者、軽蔑している者、
無関心を装いながら観察している者。
試験の結果が伝わっているのか、
軽蔑の割合は昨日より減っていた。
しかしまだ、魔力「微量」というカテゴリが
ルークに貼り付いていた。

ルークはそれを特に気にしなかった。

しばらくして、扉が開いた。

グレイ・サンダーズが入ってきた。

五十歳手前の男だった。
長身で、背が真っ直ぐだった。
白髪が混じり始めた髪を後ろに流し、
学院の礼服を完璧に着こなしていた。
顔の彫りが深く、目元に知性の鋭さがあった。
歩き方に無駄がなかった。
部屋に入った瞬間、空気が変わった。
それほどの存在感があった。

生徒たちが一斉に背筋を伸ばした。

グレイは教卓の前に立ち、生徒たちを一人ずつ眺めた。
値踏みするような目だった。
品評会の審査員が出品物を見る目に、少し似ていた。

それからゆっくりと口を開いた。

「魔力量が全てだ」

最初の言葉がそれだった。
挨拶もなく、自己紹介もなく、
開口一番に断言した。

「魔法使いとして何かを成し遂げたいなら、
魔力量以外の要素は全て補助に過ぎない。
精度が高い?技術が巧みだ?戦術が優れている?
魔力量が上回る相手の前では、
全てが小手先のお遊びになる。歴史を見ろ。
天の称号を持つ者たちは、
例外なく桁違いの魔力を持っていた。
それが事実だ」

声に力があった。
確信に満ちていた。
長年それを信じて指導してきた者の声だった。

生徒たちは黙って聞いていた。
否定できる者がいなかった。

「この授業では、魔力量の増加を基本方針とする。
現在の自分の器を広げることが第一目標だ。
技術はその後についてくる。
器が小さければ、どれだけ技術を磨いても
溢れ出ることはない。
逆に器が大きければ、技術は自然と伸びる」

理論の筋は通っていた。
魔力量の重要性は、
この世界においては否定しがたい事実だった。

しかし。

「ただし」
グレイの目が、教室の端へ動いた。

「前提として、ここに来る資格のある者に限る」

視線が止まった。

ルークのところで。

「入学試験の結果に、私は今朝、目を通した。
魔力評価が微量の者がいる。
愛玩動物と同程度の魔力しか持たない者が、
なぜこの教室にいるのか、私には理解できない」

声は穏やかだった。
怒っているわけではない。
事実を述べているような口調だった。
それがかえって、
言葉に冷たい刃の重さを与えていた。

他の生徒たちが動いた。
ルークから目を逸らす者、正面から見る者、
微妙に表情を変える者、様々だった。

「授業を続けよう」
グレイはそれだけ言って、視線を前に戻した。

教卓の前に立ち、この半期で扱う内容を説明し始めた。
魔力量の測定方法、増加の理論、実技での検証方法
——内容は体系的だった。
準備されていた。
大魔法使いとして積み上げてきたものが、
説明の構造に現れていた。

ルークは聞いていた。

内容について言えば、有益な部分はあった。
この世界の魔法理論は、
ルークがまだ完全には把握していない体系を持っている。

それを整理する意味では、聞く価値があった。

しかし、グレイという人間については、
別の観察をしていた。

説明の途中、グレイが時折ルークを見た。
それは授業の内容とは無関係な視線だった。
この生徒をどう処理するか、考えている目だった。

長い説明が終わった。

「では、諸君に一つ伝えておく」
グレイは生徒たちを見渡した。

「私の授業は厳しい。
それは覚悟しておくように。
ただし、真剣に取り組む者には、私も真剣に応える。
努力した者が報われる場所でありたいと思っている」

美しい言葉だった。

言葉だけ聞けば、理想的な教師像だった。

グレイはそこで一度、間を置いた。
その間の取り方が巧みだった。
生徒たちに言葉が浸透する時間を計算していた。

それからグレイの目が、再びルークに向いた。

今度は違った。

視線に、何かが加わっていた。
肉眼では見えない何かが、
グレイの目からルークに向かって放たれた。
魔法だった。
威圧の魔法だった。
直接的な攻撃ではない。相手の精神に圧力をかけ、
恐怖や萎縮を引き起こす類の魔法だった。

グレイが授業の場で生徒に対してこれを使ったのは、
おそらく初めてではなかった。
使っても誰も気づかない。
気づいたとしても、確認する手段がない。
ただ生徒が急に萎縮したり、
教室を出たくなったりする。
それをグレイは「その生徒の本質が出た」
と解釈してきた。

威圧の波が、ルークに向かった。

ルークの内側で、何かがそれを受け取った。

バリアだった。

ゴールが魔法障壁だと思い込んでいたそれは、
魔法障壁とは根本的に異なるものだった。
魔法障壁は魔力によって構築された防御膜だ。
相手の魔法を弾く、あるいは吸収する。
しかし対応できる攻撃の種類に限界があり、
圧倒的な魔力差の前では崩れる。

ルークのバリアは違った。

それはルークの超能力が、
転生という過程を経て自動的に構築したものだった。
悪意を持つ力に対して反応し、
その性質に関係なく無効化する。
魔法であろうと、物理的な攻撃であろうと、
精神に作用する類のものであろうと
——悪意を介して放たれるものは、
全てこのバリアの前で止まった。

そしてバリアには、もう一つの機能があった。

受け取ったものを、送り返すことができた。

グレイの威圧が、ルークに届いた瞬間、
静かに向きを変えた。
送り返す強度は、ルークが決める。
原形のまま返せば、
グレイの意識を刈り取ることも可能だった。
しかしそれは今は必要ない。

ルークは強度を大きく落とした。

かなり落とした。
グレイが放ったものの、
おそらく五分の一か、それ以下か。

それでも。

グレイの体が揺れた。

教卓を両手で掴んだ。
掴まなければ倒れていた。
何が起きたかを、グレイは理解しようとしていた。
理解できなかった。
自分が放ったものが何らかの形で
戻ってきたことはわかった。
しかし仕組みが分からなかった。

膝が、笑っていた。

生徒たちは気づいていた。
教師が何かに反応して体勢を崩した。
何があったかはわからない。
しかし、この教室で最も力のある人間が、
一瞬、揺らいだ。

グレイは数秒かけて体勢を整えた。
顔色が変わっていた。

ルークを見た。

ルークは窓の外を見ていた。
王都の屋根が続いていた。
青い空があった。

グレイは何も言わなかった。

しかし、その沈黙の質が、
先ほどまでとは違っていた。

---

### 三

「魔法実習を行う。全員、校庭に出るように」

グレイは声を整えて言った。

生徒たちが席を立ち始めた。ルークも立ち上がった。

廊下に出る瞬間、ルークはグレイの横を通り過ぎた。

二人の間に言葉はなかった。

しかし一瞬、グレイの目がルークを見た。
その目の中に、
大魔法使いが初めて持つことになった感情があった。
計算ではなかった。
準備されたものでもなかった。

警戒だった。

ルークは廊下を歩きながら考えた。

グレイ・サンダーズという人間が
どういう構造を持っているか、
最初の授業でかなりのことが見えた。
才能がある。
経験がある。
体系的な知識がある。
しかし同時に、自分の基準から外れた存在を
許容できない。
それは彼が長年培ってきた世界観の問題だった。
魔力が全て。
その前提が崩れることを、この男は受け入れられない。

そしてルークは、その前提を根本から覆す存在だった。

これからどうなるか、いくつかの可能性が見えた。

グレイがルークを認められない限り、
この男はルークをAクラスから排除しようとするだろう。
学院側も、その方向を望んでいる。
魔力「微量」がトップ合格した事実を、
学院が隠蔽しようとしていることは、
いくつかの間接的な証拠から既に推測していた。
成績の掲示における処理の仕方、
試験官たちの対応の微妙な歪み
——小さな事実が積み重なっていた。

問題は、ルークがここで学べることが
どのくらいあるか、だった。

校庭に向かう石の廊下を歩きながら、
ルークは窓の外を見た。

学院の庭が見えた。
手入れの行き届いた木々が並んでいた。
その向こうに王都の街並みが続いていた。

悪くない場所だと、ルークは思った。

何が起きるかは、まだわからない。
しかしそれは、今に始まったことではなかった。

階段を下り、校庭に続く扉の前に来た時、
ルークは少し立ち止まった。

後ろで、グレイ・サンダーズの足音が続いていた。
 

第三百二十六弾「異能の転生者」の続きです

 

# 異能の転生者

## 第五章 王都

### 一

王都への道は、思っていたより長かった。

グレイブヤード領から王都まで、馬車で四日。
道中、ルークは窓から流れる景色を眺めていた。
森が開けると農地が広がり、
農地が途切れると次の村が現れた。
王都に近づくにつれて街道の整備が良くなり、
行き交う商人の数が増え、建物の密度が上がった。

馬車の中にはルーク一人だった。

ゴールは両脚の複雑骨折により、
今も領地の療養室に留まっている。
父ドナルドはゴールの怪我の原因について
何も聞かなかった。
ルークも何も言わなかった。
ただ出発の朝、ドナルドはルークを執務室に呼んで、
向かい合って座り、しばらく息子の顔を眺めた。

「気をつけて行け」

それだけだった。

トールは城門まで見送りに来た。
「魔法学院のことは俺にも教えてくれ。
俺が入る頃には変わってるかもしれないけど」
と彼は言った。
ルークは頷いた。
兄は将来の領地運営の為に高等教育を受けていた。
王国でも政務に関わっていた人物を特別講師に招き
経営学や基本的な商業知識、
人身掌握術等を学んでいる
だがいずれ兄も魔法師団に入る為に
魔法学院に通う事は既に決まっていた。
兄の顔に、いつもの注意深い親切さがあった。
それから、何か言いたい事があるような間があった。
しかしトールは結局、何も言わなかった。
賢明な判断だった。

馬車が王都の城門をくぐった時、
ルークは初めて外に出た。

城壁は高かった。
石造りの重厚な構造物が、都市全体を囲んでいる。
その内側に広がる街は、
グレイブヤード領の城下とは規模が違った。
通りは広く、石畳が整然と敷かれ、
両脇に商店が並んでいた。
人の数が多い。
声が多い。
においが多い。

ルークはそれらを静かに観察しながら歩いた。

前世のフレデリック・マクミランは、
宇宙の果てから果てまでを知覚できた。
惑星が生まれ、燃え尽き、消える過程を、
瞬きほどの時間で観測できた。
その意識を持つ者にとって、王都の賑やかさは、
砂浜の砂粒を数えるような作業に似ていた。
膨大だが、把握できないものではない。

学院はどこだ、とルークは考えた。

案内の標識に従って歩いていくと、
王都の北区画に、それはあった。

---

王立魔法学院。

正門からして、既に威圧感を発していた。
黒い鉄の門扉に、王家の紋章が金で刻まれている。
石造りの塀が左右に伸び、
その向こうに本館の塔が見える。
入学希望者の受付は正門脇の建物で行われており、
既に多くの少年少女が列を作っていた。

受験者の年齢は、十歳から十五歳まで幅があった。

ルークは列に並んだ。
前後の受験者たちが互いに話し合っているのが聞こえた。

どの地域から来たか、魔力の評価はどうだったか、
得意な魔法は何か
——そういった話題が飛び交っていた。
声に興奮があった。
それは自然なことだった。
王国で最も権威ある学院の入学試験に来ている。
緊張と期待が混ざり合った空気だった。

受付を済ませると、試験前の集合場所に案内された。
広い中庭だった。
石畳の広場に受験者たちが集まり、
その周囲を試験官と思しき学院の教官たちが囲んでいた。

「試験の前に、全員の魔力適性を確認する」

教官の一人が声を上げた。
年配の男だった。
魔法師団の制服に似た学院の礼服を着ている。

「一人ずつ前に出て、鑑定球に触れること。
結果は記録する。
全員が終わり次第、試験を開始する」

受験者たちの間に緊張が走った。
それと同時に、
互いの顔を見合わせるような動きもあった。
他者の評価を知ることができる機会でもある。

鑑定は番号順に進んだ。

最初の数人は「標準」から「上位」の評価だった。
球が橙色や黄緑色に光り、教官が結果を手帳に記録した。

受験者たちから、感嘆の声や励ましの言葉が漏れた。
その後も順調に続き、
一人だけ「卓越」の評価が出た時には、
中庭全体がざわめいた。
球が青白い光を放ち、熱を帯びた。
その少女は澄ました顔で列に戻ったが、耳が赤かった。

ルークの番が来た。

番号札を持って前に出た。
鑑定球の前に立った。
球に手を触れた。

沈黙があった。

光は出なかった。
例のかすかな明滅が球の奥で一瞬揺れ、消えた。

最初は静かだった。
教官が眉をひそめ、記録を確認した。
それから再度触れるよう促した。
結果は同じだった。

笑いが起きたのは、
教官が「微量」の評価を記録した瞬間だった。

「微量?」誰かが言った。

「愛玩動物以下じゃないか」

「なんでそいつここにいるの」

「試験費用を払えば誰でも受けられるからだろ。
無駄だけど」

「グレイブヤードって言ってたな。
伯爵家の?どういうことだ」

「恥ずかしくないのかな」

声は特定の誰かのものではなかった。
中庭全体から、ぽつりぽつりと
言葉が落ちてくる感じだった。
大声で嘲るわけではない。
しかし届かないほど小さくもない。
その曖昧な音量の取り方に、
ルークは一種の技術を感じた。
責任の所在が分散する声量だった。

ルークは列に戻った。

慣れていた。
グレイブヤード家の使用人たちの囁き、
城下の者たちの視線、ゴールが毎日繰り返した言葉
——その全てを経て、
今更この程度で揺れる理由はなかった。

しかし。

「ちゃんと触れてたのかな。
もう一回やらせてあげれば」

「無駄無駄。あの光のなさは本物だよ。
ペットの犬でも連れてきた方がマシだった」

くすくすという笑いが続いていた。

いつまでも終わらずに続くと微妙に腹が立ってきた。

論理的な怒りではなかった。
この笑い声自体が、
ルークにとって脅威でも障害でもない。
誰一人として、ルークにとって
本質的な意味を持つ存在ではない。
しかし、感情というものは必ずしも論理に従わない。
それはフレデリック・マクミランが
前世で学んだことの一つでもあった。
宇宙規模の認識を持っていても、
人間の体と人間の神経系に宿っている間は、
人間的な反応を完全に切り離すことはできない。

ルークは教官の一人に目を向けた。

視線だけで意図を伝えることができるかどうか、
試してみる気持ちで。

教官はルークの視線に気づいた。
何かを察したように、短く咳払いをした。

「静粛に。鑑定はまだ続いている」

声は平坦だった。
感情が込められていなかった。
それが全てだった。
形式として注意を促したが、
笑い声を本気で止める気はない。
止めるべきだという認識も、おそらく薄い。
微量評価の受験者が笑われることは、
ここでは想定の範囲内なのだ。

ルークは中庭を見回した。

石造りの建物、整然とした石畳、権威を示す紋章の数々
——外見は確かに王国最高の学府に相応しかった。
しかし中身は、と問われれば。

笑い声はまだ続いていた。
小さく、しかし確実に。

王国一の学院と言っても、このレベルか。

ルークは静かにそう思った。
失望というより、確認だった。
場所が変わっても、人間の傾向は大きく変わらない。
それは予測できることだったはずだが、
それでも、もう少し違うものを
期待していた自分がいたことに気づいた。
その期待が甘かった。

鑑定は続き、やがて全員が終わった。

試験官が前に出た。

「これより入学試験を開始する」

---

## 第六章 試験

### 一

試験は三部構成だった。

筆記、魔法実技、格闘実技
——その順番で行われると試験官が説明した。
受験者たちの中に緊張が走った。
格闘実技については、
騎士団から騎士が派遣されていると補足された。
実戦に近い形式の試験だという。

受験者たちの間で話し合う声が聞こえた。
格闘の騎士が誰なのか、
どのくらい手加減してくれるのか、
といった内容だった。
ルークは聞いていたが、参加しなかった。

筆記試験から始まった。

大広間に机が並べられ、受験者が着席した。
試験用紙が配られた。ルークは問題に目を通した。

魔法理論、歴史、算術、語学
——分野は広かったが、深さは浅かった。
ルークは一通り読んで、それから端から答えていった。
迷う問題はなかった。
考える必要のある問題もなかった。
手が止まったのは一度だけで、
それは問いの意図が曖昧で、
出題者が何を求めているかを
確認する必要があったためだった。
結論として両方の解釈に対応できる答え方をした。

周囲の受験者たちは、まだ問題と格闘していた。

ルークは答案を裏返した。
試験官がこちらを見た。
「終わりか?」という顔だった。
まだ試験開始から半刻も経っていなかった。
受験者の中では明らかに最初だった。

試験官が答案を確認しに来た。
内容を一瞥して、何も言わずに持って行った。
しかしその顔の微妙な変化を、
ルークは見逃さなかった。

次は魔法実技だった。

中庭の一角に、標的が設置されていた。
藁を固めた人型が三体、
距離をそれぞれ変えて並んでいる。
受験者は一人ずつ前に出て、
指定された三つの標的に攻撃魔法を当てる。
精度、威力、速度を
複合的に評価するという形式だった。

先に進んだ受験者たちの結果を、ルークは観察した。

最も遠い標的への命中率が下がった。
精度と威力を両立できている者は少なかった。
あの「卓越」評価を受けた少女は、
三体すべてに高精度で攻撃を当てた。
試験官たちが頷いていた。
確かに、この試験の形式においては際立っていた。

ルークの番が来た。

試験官が構えよと言った。

ルークは最も近い標的を見た。
次に中距離のものを見た。
最後に、最も遠いものを見た。

何を使うべきか、しばらく考えた。

この世界では、ルークの超能力は魔力として認識される。

どのような形で出力しても、
観察者はそれを魔法だと解釈する。
ならば、適切な強さはどの程度か。
試験として意味のある結果を出しながら、
この場の状況を著しく逸脱しないレベル。

手加減の基準を設定する方が、
本来の力を出すより手間がかかった。

ルークは右手を前に出した。

三体の標的に向けて、順に力を放った。
最初は近距離のもの。
次に中距離。
最後に遠距離。

一体目の藁人形は、上半身が消えた。
標的の後ろにあった石壁に、焦げ跡が残った。

二体目は、
着弾の衝撃で数メートル後方に吹き飛んだ。

三体目は、遠距離にもかかわらず、
他の二体と全く変わらない精度で
同様の結果になった。

中庭が静まり返った。

試験官たちが顔を見合わせた。
誰も何も言わなかった。
しばらくして、記録係が何か書き始めた。
その手が微かに震えているのを、
ルークは確認した。

「終わりか?」と試験官が言った。
先ほどと同じ台詞だったが、声の質が全く違った。

「はい」

列に戻ったルークを、周囲の受験者たちが見た。
さっきまで笑い声を立てていた者たちが、
今は黙っていた。
視線の質が変わっていた。
笑いが消え、その代わりに何が入ったかというと、
ルークには判断がつかなかった。
困惑か、驚愕か、
あるいはそれ以前の、認識が追いつかない状態か。

最後は格闘実技だった。

試験官が受験者たちに説明した。

「騎士団から上位ランクの騎士を二名派遣して貰った。
受験者は一人ずつ、いずれかの騎士と模擬戦を行う。
一定時間内に相手の動きを止めるか、場外に出すか、
あるいは相手が試験終了と判断すれば合格とする」

騎士が二人、広場の中央に進み出た。
どちらも体格が良く、装備が整っていた。
その動き方を見ただけで、
一定の水準があることはわかった。
少なくとも、
ゴールの取り巻きたちとは比べものにならない。

しかし。

ルークは二人を見ながら、正直なところを評価した。

強い。
この世界の基準では、十分に強い。
鍛えられた体、洗練された剣技、魔法との連携
——積み上げてきたものが見えた。
訓練を怠らず、実戦経験も積んでいる。
そういう人間だった。

だがルークには物足りなかった。

前に出るのが怖くて尻込みする受験者もいた。
一人は騎士と剣を交えた瞬間に場外に押し出された。
別の一人は健闘したが、三十秒ほどで抑え込まれた。
先の少女は最も長く持ちこたえたが、
それでも一分を超えなかった。
騎士は手加減していた。それでも結果はそうなった。

ルークの番が来た。

騎士の一人と向き合った。
背の高い男だった。
目線を下げながらルークを見ていた。
子供が相手だから当然の配慮だが、
その視線に油断があることも確認できた。
微量評価の受験者。
魔法実技の結果は見ていたかもしれないが、
それでも、格闘における体格差は
覆せないと判断しているはずだった。

「始め」

騎士が動いた。

最初から丁寧に距離を取りながら、
受験者の力量を測るような動き方だった。
素直な入り方だった。
剣の先端でルークの反応を探っている。

ルークは一歩前に出た。

騎士の剣が動いた。
ルークはそれを、右手一本で受け止めた。
素手で。

金属音がなかった。
剣の動きが止まった。
止めたのはルークの手だった。
刃が触れているのに、血が出なかった。

騎士の動きが一瞬、完全に止まった。

その隙にルークは騎士の剣を握ったまま、
相手の重心を崩した。
大きな体が傾き、ルークは一歩踏み込んで、
そのまま騎士を地面に倒した。
音はほとんどしなかった。
騎士は地面に背をつけた状態で、
ルークが自分の上にいることを確認した。

「終了」と騎士は言った。

声が掠れていた。

試験官が「試験終了」と宣言した。

ルークは騎士から離れ、立ち上がった。
騎士も立ち上がった。
少し間があってから、
騎士はルークに向かって短く頭を下げた。
それは試験の形式にはない動作だった。

中庭は静かだった。

ルークは周囲を見た。
受験者たちの顔に、
先ほどとは別の何かが加わっていた。
言語化しにくい表情だった。

あれで上位ランクか、とルークは思った。

悪くない。
確かに悪くない。
この世界の人間として、
この年齢でこの練度に達している騎士は、
相当な努力をしてきた人間だ。
その事実は正当に評価できる。

しかし。

トップはどのくらいなのだろう。
王国最強の騎士がどの程度か、
それだけが今のルークには少し興味があった。

---

## 第七章 掲示板と王子

### 一

合格発表は翌日の昼だった。

学院の正門脇に、
大きな掲示板が設置されていた。
合格者の名前と、各試験の評価、
そして総合順位が記されている。
発表の時刻になると、
受験者とその家族が掲示板の前に集まった。

ルークは人混みの外から掲示板に近づいた。

一番上に名前があった。

ルーク・グレイブヤード。総合第一位。

筆記評価:最高。
魔法実技:評価欄が空白だった。
評価基準の上限を超えたため、
記録保留、と小さな注記があった。
格闘実技:最高。

周囲の受験者たちが掲示板を見ていた。
自分の名前を探し、確認し、一喜一憂している。
その中で何人かが一番上の名前を見て、
それからルークを見た。
何かを言いたそうな顔をした者もいたが、
昨日の試験を見ていれば、
声に出せないのも無理はなかった。

ルークは掲示板から視線を外した。

こんなもんだろう、という感覚があった。

試験をやってみて、
学院に対して持っていた期待の残りが、
静かに消えていった。
試験の水準が低いというわけではない。
この世界の基準で見れば、
十分に難度の高い試験だったはずだ。
しかしルークが物差しとして
持っているものとは違いすぎた。

自分がこの学院で学べるものがあるとすれば、
それは魔法の技術ではないかもしれない。
この世界の文化、人間関係の構造、
この社会がどのように機能しているか
——そういった情報の方が、
今のルークには価値があった。

思考がそこまで進んだ時、肩に手がかかった。

唐突だった。後ろからだった。

ルークの体が動いたのは、思考より先だった。

前世における反射は、人間のそれではなかった。
星系規模の脅威に対して反応するために
最適化された感覚が、背後からの接触を即座に処理した。

脅威の規模を測り、対応の強度を調整し、
力を行使する——その全てが一瞬で完了した。

重力が、ルークを中心として
半径三メートルの範囲で反転した。

音がした。

周囲にいた受験者たちが一斉に吹き飛び、
地面に倒れた。試験官の一人が壁に当たった。
掲示板が傾いた。

静寂があった。

「き、貴様——王子に対して何と無礼な!」

倒れた騎士の一人が叫んだ。
声に怒りがあったが、
その底に恐怖があることはルークには明らかだった。
立ち上がろうとして、立ち上がれないでいた。
体の損傷ではない。拘束されていた。

ルークはゆっくりと振り返った。

地面に倒れている少年がいた。
ルークと同年代か、一つ二つ上か。
華やかな装飾の施された衣装を着ていた。
その周囲にいた護衛の騎士たちが、
全員、動けない状態だった。

「王子に」とルークは言った。
声は静かだった。

「後ろから急に触れることが礼儀なのか、この国では」

先ほど叫んだ騎士が答えようとした。
しかし言葉が出てこなかった。

騒ぎを聞きつけた騎士たちが、
遠くから駆けてくる気配があった。
足音が増えていった。
ルークはそれを聴きながら、倒れている少年を見た。
少年の目は開いていた。
状況を理解しようとしている目だった。

やがて、一人の騎士が人混みをかき分けて前に出た。
他の騎士たちとは装備が違った。
全身を覆う鎧は、実用と格式を兼ねた造りだった。
走ってきたのに、息が乱れていなかった。

その騎士は、ルークの前で兜を脱いだ。

四十代と思しき男だった。
日に焼けた顔に、深い疲れが刻まれていた。
しかし目は鋭く、
状況を見渡す眼差しには迷いがなかった。

「少し待って欲しい」

声は落ち着いていた。
命令でも懇願でもない、
話し合いを求める声だった。

「自分はダン・グラファイト。
王国の騎士団長だ。私が話を聞く」

ルークはダンを見た。

この男は、他の騎士たちとは違う何かを持っていた。
地位だけではない。
目の前の状況を、感情的にではなく
構造的に把握しようとしている。
それがわかった。
声に虚勢がなく、しかし脆さもなかった。

話が通じる人間か、そうでないか
——ルークにはそれが判断の基準だった。

「わかりました」

ルークは少し息を吐いた。
拘束を解いた。
倒れていた者たちが、
各自のペースで動き始めた。

「自分はルーク・グレイブヤード。
ドナルド・グレイブヤード伯爵の三男です」
ルークは言った。

「王国に反抗する気はありません。
後ろから急に引かれた為、
相手が誰かわからないまま反射的に反応しました。
それだけのことです」

ダンは頷いた。
「そうでしたか」

短い言葉だったが、その短さに全てがあった。
言い訳を求めず、責めず、ただ事実を受け取った。
そういう頷きだった。

ダンは倒れている少年の元に歩いた。
少年を引き起こしながら、ルークに向かって言った。

「この方はレイスナー第二王子です」

レイスナー第二王子は立ち上がった。
衣装の埃を払いながら、ルークを見た。
その目に、複数の感情があった。
怒りがあった。
屈辱があった。
それから、何か別のものがあった。
値踏みするような眼差しだった。

ルークはその目を見返した。

それからダンを見た。

騎士団長の顔に、疲労の色が滲んでいた。
目の下の陰、眉間の深い皺、
それらは一朝一夕に刻まれたものではなかった。
王子の護衛を務めるということが、
この男にとってどのような日常であるかを、
ルークはそこから読み取った。

この王子は、普段からやっかいな人物なのだろう。
そしてダン騎士団長は、
その厄介さを長年にわたって引き受けてきた。

「ご迷惑をおかけしました」
とルークはダンに言った。
王子ではなく、ダンに向かって言った。
それが適切だと判断した。

ダンはわずかに目を細めた。
何かを察した顔だった。

周囲の騎士たちに指示を出して、人を散らし始めた。
受験者たちも、それぞれに立ち去り始めた。
掲示板の前の人混みが、少しずつ薄くなっていく。

その間も、王子はルークから目を離さなかった。

ルークはその視線に気付いていた。

目をつけられたな、と彼は思った。
これがどこに向かうかは、まだわからない。
王子が単純な意趣返しを求めるなら、
それはそれで対処できる。
しかし、もし王子がこの出来事を
何かの契機にしようとするなら
——その先には、
もっと複雑な話が待っている可能性があった。

この出会いが、最終的にどこまで広がるかを、
ルークは静かに考えた。

最悪の場合、
王国そのものに影響が及ぶ規模になるかもしれない。
それは望ましくなかった。
ルークは別に、この世界で
大きな力を誇示したいわけではなかった。
静かに暮らしたかった。
この世界の文化を知り、人間を観察し、
ゴールのような存在には適切に対処しながら、
穏やかに過ごしたかった。

宇宙の果てまで届く力を持ちながら、
その力を振るいたいとは思っていなかった。
振るう必要がなければ、それでいい。

しかし。

降りかかる炎は、払う。

それは変わらなかった。
どんな地位の人間が相手であっても、
どんな規模の話に発展しようとも、
その一点だけは揺るがなかった。

王子がどう動くかは、王子次第だった。

ルークは掲示板に向き直った。

自分の名前が一番上にあった。
それを確認してから、
ルークは学院の正門をくぐった。

新しい場所の始まりだった。

 

異世界転生ものを見ていたら

また異世界転生ものを作りたくなりました 苦笑

 

 

# 異能の転生者

## 第一章 グレイブヤード家の三男

### 一

フレデリック・マクミランが死んだのは、
特別な理由があったわけではない。

新型ウイルスの感染が確認されてから
三日目の朝、熱が四十度を超え、
五日目の夜明け前に意識を失い、
そのまま還らなかった。
病院のベッドの上で、
彼は自分が死につつあることを静かに理解していた。
恐怖はなかった。
ただ、随分と呆気ない幕切れだと思った。
宇宙の果てから果てまで見渡せる眼を持ち、
素粒子の振動を指先で操り、
次元そのものを折り畳む力を秘めていて

「生きる伝説」とまで称された男の死としては、

あまりにも凡庸だった。

意識が途切れる瞬間、
フレデリックは何かに引っ張られる感覚を覚えた。
引力とも違う。
意志とも違う。
ただ、存在の核心にあたる何かが、
別の容れ物を求めて動き始めたような感覚だった。

次に彼が知覚したのは、泣き声だった。
自分自身の泣き声だった。

---

グレイブヤード家の三男が生まれたのは、
国王暦四百三十二年の冬の初めだった。

伯爵ドナルド・グレイブヤードは五十を過ぎていたが、
まだ壮健だった。
かつて王国魔法師団の団長を務めた男の体躯は、
引退から十年近くが経った今も衰えを知らなかった。
銀糸の混じった黒髪、岩を刻んだような顎の線、
両の眼に宿る静かな炎
——彼が宴席に現れるだけで、
周囲の空気がわずかに緊張するのは、
その男が積み上げてきた実績の重さゆえだった。

王国の東端に広がるグレイブヤード領は、
面積においても産出においても、
王国内でも上位に数えられる豊かな土地だった。
北を山脈に、南を深い森に囲まれた盆地の中央に
城塞都市が広がり、その周囲を幾重もの農地が
取り巻いている。
ドナルドはこの地を、先代から受け継いだ
疲弊した状態から立て直し、
今では王都の商人たちが競って
取引を求めてくる繁栄した領地に育て上げた。
魔法の才と軍人としての経験を持つ男は、
政治家としても一流だった。

その屋敷に、三人目の息子が生まれた。

赤子は最初の泣き声を上げた後、
奇妙なほど静かだった。
普通の嬰児は何かにつけて泣くものだが、
この子は違った。
天井を見上げる黒い瞳には、
新生児らしからぬ落ち着きがあった。
乳母は気味が悪いと言い、
侍女たちはひそひそと話し合った。
ドナルドは息子の顔を見て、
しばらく何も言わなかった。

「ルークと名付けよう」

その名がどこから来たのか、
ドナルド自身も説明できなかった。
ただ、この子にはこの名が相応しいと、
直感が告げていた。

---

### 二

長男のトール・グレイブヤードは、
ルークが生まれた時、すでに十五歳になっていた。

父親の血を濃く引いた黒髪と、
亡き母の面影を残す柔らかな目元を持つトールは、
グレイブヤード家の後継者として
申し分のない素養を示していた。
魔力適性の試験では最上位の評価を受け、
魔力の質においては当代の師団員と比較しても
遜色ないと鑑定士たちが口を揃えた。

しかし、トールが真に傑出していたのは
魔力よりも頭脳だった。
彼は物事を急がなかった。
どんな問題に対しても、まず全体を見渡し、
構造を把握し、それから最も少ない手数で解を求める。
感情的にならず、しかし冷淡でもない。
正義感は人一倍強かったが、
それを振りかざす愚かさを持っていなかった。

父ドナルドはトールを魔法師団に送り込む予定だった。
それは単純に才能への投資ではなく、
政治的な布石でもあった。
グレイブヤード家と師団との関係を
次世代においても維持することで、
この家の影響力を継続させる
——そういう計算がそこにはあった。
トールはその意図を理解した上で、
父の判断を正しいと認めていた。
理解と服従の間にある微妙な均衡を、
彼は自然に保てる人間だった。

次男のゴール・グレイブヤードは、
トールと正反対だった。

十二歳になったゴールは、
父親の名声と家の財力を
自分自身の力だと信じて疑わなかった。
魔力はそれなりにあった。
同世代の中では上位に入る。
運動能力は高く、模擬戦では
年長の相手にも食らいついた。
それだけの事実が、
ゴールの自己評価を際限なく膨らませた。

問題は、彼がそれ以上を持っていないことだった。

先を読む力がない。
他者の感情を読む必要性を感じない。
自分の行動が引き起こす結果について、
明日より遠いことは考えられない。
グレイブヤード家の次男という地位が、
その欠点を長年にわたって覆い隠してきた。
父の威光の中で育った子供が陥りやすい罠に、
ゴールは深々と嵌まっていた。

彼は騎士団に入ることが決まっていた。
前線で戦う役割は、
ゴールの好戦的な気性には合っていた。
しかし、それを選んだのがドナルドであることを、
ゴールは理解していなかった。
息子の限界を見切った父親が、
最も被害の少ない場所に
彼を誘導したのだということを。

---

## 第二章 鑑定

### 一

王国では、五歳になった子供は
すべて魔力適性の鑑定を受けることが
法律で定められていた。

鑑定には資格を持つ魔法士が三名必要だった。
一人では観測誤差が生じる可能性があり、
二人では意見の対立が生じた際に決着がつかない。
三人という数は、
精度と公正を両立させるための慣例として、
百年以上前から定着していた。

鑑定の結果は六段階で評価された。
最上位の「至高」から順に「卓越」「上位」
「標準」「低位」「微量」と続く。
至高の評価を受けた子供は
王都の高等魔法学院への推薦を受ける権利を得た。
卓越から標準までの範囲であれば、
程度に応じて魔法師団の候補生、

宮廷魔法士の補助、商業魔法の使用者など、
様々な道が開けた。
低位以下の評価は、魔法に関わる職業への道が
実質的に閉ざされることを意味した。

評価は単なる職業の指針に留まらなかった。
結婚の縁談においても、家同士の取引においても、
魔力の格付けは人間の価値を測る物差しとして
機能していた。
それが正しいかどうかという問いは、
この社会では意味をなさなかった。
そういう世界なのだ、
という事実があるだけだった。

グレイブヤード家において、
長男トールの鑑定は家の者全員の記憶に刻まれていた。
三人の鑑定士が沈黙し、目を見合わせ、
それから一斉に話し始めた光景を、
ドナルドは今も折に触れて思い出した。
「至高」の中でも際立った数値だったと、
後で一人の鑑定士が私的な場で打ち明けた。
ドナルドは表情を変えなかったが、
その夜だけは珍しく深酒をした。

次男ゴールの鑑定は、期待よりも高く、
希望よりも低い結果だった。
「上位」の評価は十分に誇れるものだったが、
兄との比較を知っているゴールにとっては
満足できるものではなかった。
その不満を彼は素直に表に出した。
鑑定士の一人が苦笑いをしたのを、
ドナルドは見逃さなかった。

そして、ルークの番が来た。

---

### 二

ドナルドはあえて外部の鑑定士を呼び寄せた。

城内に常駐している魔法士を使っても構わなかった。
しかし彼は、三男の鑑定に際して、
王都の師団から二名の鑑定士を招いた。
かつての部下たちの中から、
腕が確かで口が堅いことで知られる二人を選んだ。
一人はエドワード・タイン、
元師団第二席の理論家。
もう一人はセシル・ウォーカー、
実戦で鍛えた感覚的な魔力の読み取りに
定評のある女性魔法士だった。

自分自身を含めて三人。
規定通りだった。

ルークは鑑定の意味を理解していた。
正確に言えば、この世界の慣習として理解していたが、
自分の結果がどうなるかについても、
おそらく理解していた。

五歳になった彼は、歳相応に小さかったが、
座り方が妙に落ち着いていた。
鑑定用の水晶球を前にして、ぐずることもなく、
かといって緊張している様子もなく、
ただ三人の大人を静かに見回した。
その黒い眼に、エドワード・タインは一瞬、
言葉にしがたい不快感を覚えた。
見られている、というより、
測られているような感覚だった。

「では始めます」

セシルが手を差し伸べた。
水晶球に触れるよう促す仕草だった。
ルークはゆっくりと手を伸ばし、
球の表面に指先を当てた。

沈黙が続いた。

通常、魔力のある者が触れると、
水晶球は内側から光を発する。
光の色と強度が魔力の質と量を示す。
至高の評価を受けた者が触れれば、
球全体が白金色に輝き、熱を帯びるほどだという。
トールが触れた時は、
室内が一瞬昼間のように明るくなったと、
立ち会った者たちが証言している。

ルークが触れた球は、光らなかった。

かすかな、かすかな明滅があった。
蛍の光よりも弱い、
確認するためには目を凝らす必要がある程度の光が、
球の奥底で一度だけ揺れ、消えた。

三人の鑑定士は互いの顔を見た。
ドナルドの表情は変わらなかった。

「もう一度」

エドワードが言った。
ルークは同じように手を当てた。
結果は同じだった。

三人が確認のために魔力を集中させ、
精度を上げて再計測した。
それでも変わらなかった。
鑑定士たちは短い言葉を交わし、
それからドナルドに向き直った。

「申し上げにくいのですが——」

「構わない。正確に報告しなさい」

エドワードが深く息を吐いた。

「魔力の保有量は、計測下限を僅かに上回る程度です。
数値で言えば、一般的な愛玩動物が示す生命魔力と
同程度か、それ以下。
魔法の習得と運用には、
実用上、問題なく不適格と判断されます」

室内が静まり返った。

ルークは三人の大人の顔を順に見た。
父の表情が石のように固まっているのを確認した。
それから、ごく自然に視線を自分の手に落とした。

そうか、と彼は思った。

当然の結果だった。
予想通りだった。
むしろ、これだけの数値が残っていたことの方が
興味深かった。

前世において、
フレデリック・マクミランが持っていた能力は、
魔力などというものとは次元が違った。
それは生命エネルギーでも霊的な力でもなく、
存在そのものの構造に関わる何かだった。
物質と空間と時間と因果律を、
彼は意識だけで書き換えることができた。
惑星を砕くことは呼吸をするほど容易く、
星系を再構成することは考えるほど自然だった。
宇宙の果てで起きている出来事を、
眼を閉じたまま観測できた。
次元の壁は、
薄い膜のように彼の意識の前で揺れていた。

そのような力を持つ存在が別の世界に転生する際、
その世界の法則が付与しようとした魔力は、
ルークの内側に根付いている何かによって、
ことごとく弾き返されていた。
入ってくる前に消えた。
正確には、彼の能力が持つ自動防衛機構が、
異質なエネルギーの注入を
脅威と判断して無効化したのだ。

この世界の魔力は、ルークの本質と比べれば、
水の中の水泡のようなものだった。

それをルークは批判的に思っていなかった。
この世界の者たちにとって、魔力は確かに強大な力だ。
その事実は変わらない。
ただ、自分にはその力がない。
それだけのことだった。

「わかった」とドナルドは言った。
声に感情はなかった。

「ご苦労だった」

---

### 三

鑑定の結果は、家の中に静かに広まった。

使用人たちの間で、
グレイブヤード家の三男坊は魔力がほとんどないらしい、

という話が囁かれ始めた。
城下の者たちの耳にも届いた。
ドナルドはそれを封じようとはしなかった。
隠すことのできない事実を隠そうとすれば、
隠そうとする行為そのものが噂を育てる。
彼はそれをよく知っていた。

トールはルークの部屋を訪ねた。

「鑑定のこと、聞いた」

ルークはトールを見上げた。
兄の表情に憐憫はなかった。
それが良かった。
憐れみを向けられることは、
ルークにとって不快以外の何物でもなかっただろう。

「うん」

「辛いか」

少し考えた。
正直に言えば、辛くはなかった。
が、五歳の子供として
自然な反応を求められているならば、
多少の演技は必要かもしれない。
ルークは肩をわずかに落とした。

「少し」

トールはそれ以上を聞かなかった。
隣に腰を下ろして、しばらく二人で庭を見ていた。

「俺も師団に入ったら、
最初はゼロから覚えることばかりだと思う。
魔力があっても、使い方を知らなければ意味がない」

それが慰めなのか、
それとも別の何かを伝えようとしているのか、
ルークには判断がつかなかった。
しかし悪意がないことは明らかだった。

「ありがとう」とルークは言った。

その夜、ゴールが廊下でルークを待ち伏せていた。

「魔力ゼロの屑が」彼は笑いながら言った。

「猫以下だってな。犬以下か?
お前はグレイブヤードの恥だ。
父上もさぞ失望しただろうよ」

ルークはゴールを見た。何も言わなかった。

「何か言えよ。
ああ、お前には取り柄が何もないか。
魔力も才能もない出来損ないのくせに、
この家に居座って恥ずかしくないのか?」

ルークはゴールの顔を見つめた。
兄の眼の中に渦巻いているものが見えた。
劣等感だった。
父に失望されることへの恐怖が、
弱い者を見つけたことで出口を見つけた。
それだけのことだった。

「おやすみ、ゴール兄さん」

それだけ言って、ルークは自分の部屋に戻った。

ゴールは拍子抜けした顔で、
しばらくその場に立ち尽くしていた。

---

## 第三章 見えぬ炎

### 一

それから数年が過ぎた。

ゴールによるルークへの嫌がらせは、
日常の一部になっていた。
廊下ですれ違うたびに小突く。
食卓での言葉の棘。
使用人の目がない場所での、より直接的な行為。

ルークはそれらを受け流した。

感情がないわけではなかった。
不快だと感じていた。
面倒だと思っていた。
しかし、ゴールを本気で対処する必要性を、
まだ感じていなかった。
子供が石を蹴る。
犬が吠える。
それと同程度の意味しか、
ゴールへの行為はなかった。
本気で向き合う価値のある相手ではない。

だが、ルークの中には明確な基準があった。

降りかかる炎は必ず払う。
手加減はしない。

それはルークが前世において学んだことだった。
あの宇宙の端まで届く力を持ちながら、
フレデリック・マクミランは長い時間をかけて
一つの真実を理解していた。
力を持つ者が慈悲と寛容を示す時、
それはしばしば相手を増長させる。
悪意を持つ者に対して手心を加えることは、
その者が次に向かう被害者への贈り物になる。

見逃すという行為には、見逃す側の自己満足がある。
許す者が許す行為によって気持ち良くなっている間、
その悪意は別の誰かに向かっている。

ルークは自分が傷つくことを恐れていなかった。
それは不可能に近かった。
しかし、自分の周囲にいる者たちが傷つく可能性を、
彼は正確に計算していた。
ゴールという存在を放置することのコストを、
ルークは既に見積もっていた。

まだ時機ではない、と彼は判断していた。
ただそれだけのことだった。

---

### 二

トールがルークの異様さに最初に気付いたのは、
ルークが六歳の頃だった。

庭で転んで膝を擦り剥いた時のことだった。
どの子供でも泣くような怪我だった。
ルークは泣かなかった。
それだけなら我慢強い子供で片付けられる。
しかし、傷の回復が速すぎた。
翌朝には跡形もなくなっていた。

その後も、似たようなことが続いた。

ゴールがルークに向けて投げた花瓶が、
ルークの顔の寸前で軌道を変えた。
壁に当たって割れた破片が、
ルークの体には一つも届かなかった。
使用人たちは風のせいだと言い合った。
トールは黙ってルークを見た。

廊下で二人きりになった時、トールは聞いた。

「大丈夫だったか」

「うん」

「本当に?」

ルークはトールを見た。
兄の眼に、恐れに似た何かがあった。
本物の恐怖ではない。
しかし、前方に自分の理解を超えた
何かがあることを察知した時の、
知性ある者が示す慎重さだった。

「本当に」とルークは言った。

トールはそれ以上を聞かなかった。
自分が聞くべきではないことを、
彼は本能的に理解していた。
確認することで、何かが変わる。
今は何も変えない方がいい。
そういう判断だった。

以来、トールはルークに対して、
一種の注意深い親切さを保ち続けた。
弟を大切にする感情は本物だった。
しかし、その底には
彼が言語化することのできない判断があった。
この子は、自分にどうにかできる存在ではない。
だから、自分はこの子の味方であるべきだ
——それは打算と呼ぶことも、
賢明な処世術と呼ぶこともできた。
しかしトールは自分の行動の理由を
一つに絞ることを好まなかった。
人間の動機は一つではない。
弟への好意も、自分自身の安全への配慮も、
両方が本当のことだった。

ルークはその複雑さを見抜いていた。
そして、その複雑さを嫌わなかった。

純粋な好意より、
計算の混じった好意の方が、長く続く。
フレデリック・マクミランは、
宇宙の時間の中でそれを学んでいた。

「トール兄さんは頭がいいな」
とルークは一度だけ言った。

トールは少し笑った。
「お前の方が変なやつだと思うけどな」

それはおそらく、
この兄弟の間で交わされた最も正直な言葉だった。

---


## 第四章 断罪

### 一

二人が学院に入る月の、三週間前のことだった。

使用人の一人がルークのところに来て、
ゴール様がお呼びだと伝えた。
場所は城の裏手にある訓練場だった。
人目のない場所だった。

ルークはほんの一瞬だけ考えた。

目的はすぐに推測できた。
学院への入学を妨害しようとしている。
直接的な形で。
ゴールが持っている問題解決の手段は常に直接的だった。

それが彼の限界だった。

「わかった」とルークは使用人に言った。

訓練場に着くと、ゴールが腕を組んで待っていた。
仲の良い家臣の子弟が二人、背後に控えていた。

「来たか、屑が」

ゴールは最初からその言葉を使う男だった。
他に語彙を知らないのか、
あるいはそれが効果的だと信じているのか、
どちらにせよ想像力の問題だった。

「呼んだのはお前だろ」

「そうだ。来月から俺たちは学院に行く。
俺は同じ場所に、魔力もない出来損ないと
一緒にいたくない。
お前にはここで怪我をしてもらって、
入学を遅らせてもらう。
父上への言い訳は、俺が考える」

言葉に詰まる様子もなく、ゴールはそれを言った。
論理的ではなく、長期的に見て何の利益もなく、
父親への言い訳として成立する話でもない計画だった。
しかしゴールはそれに気付いていなかった。

ルークは返事をしなかった。

ゴールが片手を上げた。
炎が集まり始めた。
赤い光が彼の掌の上で渦を巻いた。
訓練場の空気が熱を帯びた。

確かに、同世代の中では群を抜いていた。
炎の純度、圧縮の密度、放出の速度
——いずれも十代前半の子供が出せる水準を
大きく超えていた。
別の状況であれば、
ルークはその技術を素直に評価しただろう。

ゴールが炎を解き放った。

赤い塊が、空気を裂いてルークに迫った。

それがルークに届くことはなかった。

音もなかった。
特別な動作もなかった。
炎はルークの体の数センチ手前で何かに阻まれ、
熱を失い、消えた。

ゴールは眉をひそめ、それから鼻を鳴らした。
「魔法障壁か。なるほど、そういうことか」

合点がいった、という顔だった。
彼にとって、それで全ての説明がついた。
魔力がないと鑑定されたはずの弟が炎を防いだ
——その事実が示しうる可能性の中で、
ゴールが選んだのは最も都合の良い解釈だった。
鑑定は間違っていた。
あるいは、こいつは隠し持っていた。
いずれにせよ、魔法は魔法だ。

「隠してたのか。
ずいぶんと姑息な真似をする。
それがお前の全力か?」

ルークは何も言わなかった。

ゴールは再び炎を放った。
今度は大きく、密度を高めて。それも消えた。
三度。四度。いずれも同じ結果だった。

ゴールの顔に焦りが混じり始めた。
しかしその焦りは、弟の能力への驚きではなかった。
自分の炎が弱い。
自分の魔力がこの障壁を破れない。
その屈辱に向けられた焦りだった。
彼の思考の構造は常にそうだった。
事実よりも自己像が優先された。

「このっ、障壁ごとき、もう少し出力を上げれば——」

より強い炎を。
より速い攻撃を。

それでも届かなかった。

ゴールは舌打ちをした。
出力の問題ではない、という認識には至らなかった。
至れるほどの想像力を、彼は持っていなかった。
ただ、遠距離では埒が明かないという判断だけをした。
接近すれば、剣がある。
魔法障壁は外部からの攻撃を防ぐが、
接触を防ぐものではない
——そういう理屈を、ゴールは組み立てた。

「魔法障壁が張れるなら使ってみろ。
こいつを防いでみせろ」

ゴールが走り出した。
剣を抜いた。
その動きは確かに速かった。
騎士団の候補生として鍛えた体の使い方は、本物だった。

炎魔法だけではなく、
接近戦においても同世代の水準を超えている
——そのことをゴールは知っていた。
知っていたから走った。

接触すれば、魔法障壁は関係ない。

その確信を持ちながら、ゴールは距離を詰めた。

ルークはその動きを見ていた。

面倒だ、と彼は思った。

これ以上続けることへの意味が見えなかった。
学院の入学を妨害しようとした意図が明確になった今、
対処を先延ばしにすることのコストが、
対処するコストを上回った。

ルークは右手を、ごくわずかに動かした。

ゴールは走りながら、自分の両腕と両脚に、
全く説明のつかない感覚を覚えた。
何かが、内側から、静かに——

音は四つあった。

ゴールは勢いのまま地面に突っ込んだ。
何が起きたかを理解するより前に、痛みが来た。

叫び声が上がった。

訓練場の外まで届くような声だった。
それも仕方がなかった。
ゴールの四肢は、ルークが操った力によって
肩と股関節から切り離されていた。
失血は起きていなかった
——ルークは断面を処理していた
——しかし、四肢を失った人間の感覚が
どれほど凄絶なものかは、想像に難くない。

二人の取り巻きは、
何が起きたかを理解できないまま、
ただ立っていた。
彼らはルークを見た。
ルークは彼らを見た。
「帰れ」とルークは言った。
二人は走って逃げた。

ゴールの声が次第に細くなり、
そして止まった。
失神したのだった。

---

### 二

ルークはゆっくりとゴールに近づいた。

切り離された四肢は、
それぞれが元あった場所に宙吊りになっていた。
ルークが意識でそこに留めていた。
血は一滴も地面に落ちていなかった。

彼はしゃがんで、ゴールの青ざめた顔を見た。

意識のない顔は、普段より幾分幼く見えた。
威圧も傲慢さも消えると、単に愚かな少年だった。
それが可哀想かといえば、そうは思わなかった。
可哀想さは、
本人が変わる意志を持った時に初めて意味を持つ。

四肢を戻した。

骨と肉と腱が繋がる感覚を、
ルークは自分の指先に確認しながら、
正確に元通りに組み直した。
外傷は完全に消えた。
ゴールの体は、傷ひとつない状態に戻っていた。

「これで少しは
大人しくなってくれればいいんだけど」

独り言のように言った。

おそらく、ならない。
ゴールという人間の構造を理解していれば、
その結論は避けがたかった。
彼が今日の出来事から学ぶとしても、
学ぶのは「弟に変な魔法障壁がある」
「遠距離からの謎の攻撃に気をつけろ」
という程度だろう。
本質には届かない。届ける気もなかった。

では、何が有効か。

ルークは少し考えた。

それから、ゴールの両脚に手を当てた。
今度は繊細な作業だった。
骨の内部、複数の箇所に、精密な力を加えた。

骨折の特性は様々だ。
単純骨折は扱いが簡単だ。
複雑骨折——複数の破片が生じ、
神経や血管と複雑に絡み合った状態
——は、治癒に時間がかかる。
最低でも数ヶ月。
適切な処置を受けなければ、それ以上。

両脚に、複雑骨折を施した。

ゴールの顔が、無意識の中で苦痛に歪んだ。

「これで学院への入学は遅れるだろう」

ルークは立ち上がった。
言葉は誰に向けたものでもなかった。
確認の言葉だった。

やがてゴールが目覚めた時、彼は何を思うだろうか。
弟が魔法障壁が使える事を隠していたから

やられたと悔しがるかも。
それ以上のことは思わないだろう。
謎の四肢切断については、
おそらく自分の混乱した記憶のせいにするか、
弟が自分の知らない攻撃魔法を使ったと解釈するだろう。

この世界に超能力という概念がない以上、
彼が別の答えに辿り着く手段はなかった。

知らないのだから、それは当然のことだ。

訓練場を出る前に、一度だけ振り返った。
地面に横たわるゴールを見た。
屋敷の方から、使用人たちが走ってくる気配があった。
あの取り巻きたちが何かを伝えたのだろう。

ルークは向き直り、歩き始めた。

陽光が訓練場の石畳を白く照らしていた。

空は澄んでいた。
風が、城壁の旗を揺らしていた。

ルークは自分の手を見た。
何も変わっていない手だった。
それは当然だった。
彼がしたことは、
彼にとって、息を吐くことと
同じくらいの労力しか必要としなかった。

学院に行ったら、何があるだろうかと、
ルークは考えた。

魔法のない少年が魔法の学院に通う。
それはそれで、面白い話の始まりかもしれない。
 

第三百十三弾「忘れられない人」

第三百十四弾「忘れられない人 その2」

第三百十五弾「忘れられない人 その3」

第三百十六弾「忘れられない人 その4」

第三百十七弾「忘れられない人 その5」

第三百十八弾「忘れられない人 その6」

第三百十九弾「忘れられない人 その7」

第三百二十弾「忘れられない人 その8」

第三百二十一弾「忘れられない人 その9」

第三百二十ニ弾「忘れられない人 その10」

第三百二十三弾「忘れられない人 その11」

第三百二十四弾「忘れられない人 その12」

の続きです

 

 



# 忘れられない人(最終回)

## 二十四

 三か月が経っていた。

 圭人はそれを特別な節目だとは思っていなかった。
ただ藍が「せっかくだから外で食べようよ」と言って、
蒼が「行く」と即答して、気づいたら約束になっていた。

 家を出るとき、空が青かった。

 隣を歩く蒼は、珍しく機嫌が良かった。
鼻歌とまではいかないが、足取りが軽かった。

 圭人はその横顔を見ながら、
頭の中にまだくすぶっているものを意識した。

 蒼への答えを、まだ出していなかった。

 あの夜、空き部屋で「離れろ」と言ってから、
蒼は一度もそのことを蒸し返さなかった。
圭人も言い出せなかった。
日々の生活が続く中で、答えは宙に浮いたままだった。

 藍のこともそうだった。
男の存在への疑念、护衛の件、旦那の動向。
全部が頭の中で渦を巻いたまま、
どれも片付いていなかった。

 でも今日だけは、と圭人は思った。

 今日くらいは、全部を脇に置いていい。
三か月、この家で三人で暮らした。
それだけのことを、ただそれだけのこととして、
今日は受け取っていい。

「何食べたい?」と蒼が聞いてきた。

「何でも」

「それ一番困る答えだよ」

 蒼が笑った。

 圭人も、少し笑った。

---

## 二十五

 大型スーパーの待ち合わせ場所は、
一階の噴水前だった。

 圭人と蒼が着いて、数分待つと藍が来た。
エコバッグを持っていない。
手ぶらで来た。
それだけで少し、普段と違う感じがした。

「お母さん、こっちだよ」

 蒼が手を振って叫んだ。
藍が気づいて、小走りで来た。

 三人が揃った。

 どこに入ろうか、と話し始めたそのときだった。

 人混みの向こうから、男が近づいてきた。

 歩き方が、普通ではなかった。

 人を避けていなかった。
まっすぐ、こちらに向かって歩いていた。
目が、一点を見ていた。

 圭人が気づいたとき、
男はもう十メートルの距離にいた。

 見覚えがあった。
あの日、スーパーで蒼の隣にいた男だった。

「蒼!」

 男が叫んだ。

 蒼の体が、固まった。

 顔から色が消えた。
呼吸が止まったように見えた。
細かく、肩が震え始めた。

 男は歩きながら叫び続けた。

「俺と別れるなんて嘘だろ。俺の何が悪かったんだよ」

 目は蒼だけを見ていた。
圭人も藍も、見えていなかった。

「蒼ちゃん、知ってる人なの?誰なの?」

 藍が蒼に聞いた。
蒼は答えられなかった。
唇が小さく動いたが、声が出なかった。

 圭人は動いた。

 蒼と永井の間に、体を入れた。

「お前!蒼の新しい男か!
蒼、こいつが現れたから俺と別れると言ったのか!」

 周囲がざわめき始めた。

 足を止める人が出てきた。
子供を引き寄せる母親がいた。
スマートフォンを向ける人間がいた。

「あなたは蒼の何なんですか」

 藍の声が、圭人の後ろから聞こえた。
硬い、落ち着いた声だった。
スマートフォンを永井に向けていた。
画面に110と打ち込んであった。

「これ以上おかしなことをしたら、警察を呼びますよ」

 永井の目が、初めて藍に向いた。

 一瞬、何かが揺れた。

 でもその次の瞬間、永井が走り出した。

 圭人には永井が何をしようとしているかを
考える時間がなかった。

 体が動いた。

 蒼の前に出た。

 それだけだった。

---

## 二十六

 天井が見えた。

 大型スーパーの天井だった。
明るかった。
蛍光灯がいくつも並んでいた。

 騒がしかった。
遠くで声がたくさんしていた。
でも遠かった。

 圭人は仰向けに倒れていた。

 痛みは、最初だけだった。
今はもうなかった。

 不思議と、頭の中が静かだった。

 ずっと渦を巻いていたものが、
全部、どこかに行っていた。

 藍のこと。
蒼のこと。
自分のこれから。
二十二年間の片想い。
資産のこと。
一人で暮らし続けた時間。
全部が、台風が過ぎた後の空のように、
静かになっていた。

 視界の端に、藍の顔があった。

 泣いていた。

 ああ、と圭人は思った。

 高校の卒業式のとき、彼女が泣いていた。
あの日は友達と泣いていた。
今日は圭人を見て泣いている。

 それだけで、何かが満たされる感じがした。

 蒼の顔もあった。

 泣いていた。
声を殺して、でも肩が激しく震えていた。

 この子は泣けるんだ、と圭人は思った。

 泣ける子だったんだ。

 パトカーのサイレンが聞こえた。
救急車の音も混ざっていた。
周囲が騒然としていた。
でも圭人のいる場所だけが、不思議と静かだった。

 藍の手が、圭人の手を握っていた。

 温かかった。

 三か月間、
同じ屋根の下で感じていた温度と、同じ温度だった。

 圭人は目を閉じた。

 幸せになってくれ、と思った。

 二人とも。

 声には出なかった。
出す必要もなかった。

---

## 二十七

 田所と恵は、遠巻きにその場面を見ていた。

 恵が田所の腕を引いて、
大型スーパーに戻ってきたのは、
藍に一言言うためだった。
父親の不倫相手に、直接、言うつもりだった。

 でも戻ってきた先で、騒ぎに出くわした。

 人が集まっていた。
誰かが倒れていた。
泣いている女性と、女の子がいた。

 恵は、女性の顔を見て、止まった。

 あの喫茶店で見た顔だった。

 父親の、不倫相手だった。

 その人が今、
床に倒れた誰かの手を握って、泣いていた。

 言いたかった言葉が、どこかに消えた。

 田所は、泣いている藍の顔を見ていた。

 長い時間、見ていた。

 それから静かに、恵の肩を引いて、その場を離れた。

 歩きながら、田所は何も言わなかった。

 恵も何も言わなかった。

 二人は並んで、駐車場に向かって歩いた。

---

## 二十八

 後日、藍は圭人の部屋を片付けていた。

 本が多かった。
段ボールに詰めながら、背表紙を一冊ずつ確認した。
読んだことのない本ばかりだった。

 机の引き出しを開けたとき、封筒があった。

 名前は書いていなかった。でも藍は開けた。

 便箋が一枚入っていた。

 字は丁寧だった。
圭人らしい、几帳面な字だった。

 内容は短かった。

 もし自分に何かあった場合、この家と資産を蒼に譲る。
手続きは同封の書類の通りにしてほしい。
それだけが書いてあった。

 日付を見た。

 蒼があの夜、空き部屋で圭人に抱きついた、
その翌々日だった。

 藍はしばらく、便箋を持ったまま動かなかった。

 これが、答えだったのかもしれない。

 蒼への答えを、圭人はこういう形で出していた。
言葉にしなかった。
でも行動にしていた。

 それが圭人という人間だった、と藍は思った。

 ずっとそうだった。
言葉より先に行動があって、
行動の意味は後から、
あるいは永遠にわからないままだった。

 三回、告白してくれた。
三回とも断った。
幸せになってくれと思いながら見送った、あの男が。

 二十二年後に、また目の前に現れて、
また何も言わずに、また行動だけした。

 藍は便箋を折って、封筒に戻した。

 窓の外に、圭人が剪定をさぼり続けた植木があった。

 好き放題に枝を伸ばして、手入れされていなくて、
それでも枯れずに、ただそこで生きていた。

 藍はしばらく、その植木を見ていた。

---

 この人のことを、一生忘れないだろう、
と藍は思った。

 隣の部屋から、蒼の気配がした。

 静かな午後だった。
 

 

第三百十三弾「忘れられない人」

第三百十四弾「忘れられない人 その2」

第三百十五弾「忘れられない人 その3」

第三百十六弾「忘れられない人 その4」

第三百十七弾「忘れられない人 その5」

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第三百十九弾「忘れられない人 その7」

第三百二十弾「忘れられない人 その8」

第三百二十一弾「忘れられない人 その9」

第三百二十ニ弾「忘れられない人 その10」

第三百二十三弾「忘れられない人 その11」

の続きです

 

 

次回で終わりです

 



## 二十二

 永井は大型スーパーの入口から入って、
すぐに立ち止まった。

 どこを見ればいいのかわからなかった。
ただ歩いていた。
フロアを端から端まで歩いて、また戻った。

 蒼の顔を探していた。

 いるはずがない、とどこかではわかっていた。
でも足が止まらなかった。
ここで蒼とよく会っていた。
だからここにいれば会えるかもしれない。
その論理が正しいかどうか、
永井にはもう判断できなかった。

 判断できなくなっていた。

 食品売り場を歩いた。
衣料品のフロアを歩いた。
書籍コーナーの前を通った。
どこにも蒼はいなかった。

 周囲の客が、永井を避けるように歩いていた。

 永井は気づいていなかった。
自分がどんな顔をして、どんな歩き方をしているか、
もう把握できていなかった。
きょろきょろと視線を動かしながら、目的なく彷徨う男。

声をかけようとする人間は誰もいなかった。

 三周目に入ったころ、見知った顔が視界に入った。

 田所だった。

 上司の、田所だった。

 永井は足を止めた。

 田所は女性と腕を組んで歩いていた。
落ち着いた様子で、何か話しながら、
ゆっくり歩いていた。

 永井は田所の妻を知っていた。
会社の行事で何度か顔を合わせたことがあった。
隣の女性は、妻ではなかった。
年齢も、雰囲気も、違った。

 田所が不倫している。

 その事実が、永井の頭の中に入ってきた。

 最初は、ただの認識だった。

 でも次の瞬間、何かが燃え上がった。

 自分はこんなに不幸なのに。

 蒼を失って、家では透明で、
毎日をどうやって生き延びるかしか
考えられない状態なのに。
なぜ田所は笑っているのか。
なぜ田所は腕を組んで歩いているのか。
なぜ田所だけが。

 許せない。

 その感情が、永井の中で急速に膨らんだ。

 二人の後を、永井は歩き始めた。

---

 しばらくして、田所と女性は別れた。

 女性は別の方向に歩いていった。
田所は一人になって、スーパーの出口に向かった。

 永井は田所を追った。

 出口を出て、駐車場を抜けて、
駅の方向に向かう道を歩く田所の、
十メートルほど後ろを歩いた。

 田所は気づいていなかった。

 商店街に入ったところで、前から誰かが歩いてきた。

 田所が立ち止まった。

 若い女だった。
高校生くらいの。
田所の顔を見て、露骨に表情が変わった。

 永井は立ち止まって、商店街の端に寄った。
声がかろうじて届く距離だった。

 娘だ、と永井は気づいた。
以前、会社の家族参観日に来ていた顔だった。

---

## 二十三

「お父さん」

 恵の声は、平坦だった。

 田所は笑顔を作ろうとした。
でも娘の顔を見て、その笑顔が固まった。

「外に女がいるの?」

 恵は声を抑えていたが、
抑えている分だけ、言葉が鋭かった。

「今日、友達と一緒にいるときに見たんだけど。
あの喫茶店」

 田所の顔から血の気が引いた。

「恥ずかしいからやめてほしいんだけど。
止めないならお母さんに言うよ」

 田所は何か言おうとした。
言葉が出なかった。

 まさか娘に見られるとは思っていなかった。
あの席は入口から見えない。
外からも見えないはずだった。
そう思っていた。
でもそれは田所の側からの見え方であって、
外から角度によっては丸見えだった。

 こういうことをしている人間は、いつもそうだった。
自分に都合のいい部分だけを信じる。
見えないはずだ、バレないはずだ、大丈夫なはずだ。
その「はずだ」を積み重ねて、ある日突然崩れる。

 田所は娘に何か言いかけて、また止まった。

 父娘の間に、しばらく沈黙があった。

---

 商店街の端で、永井はその場面を見ていた。

 田所が娘に詰め寄られている。
動揺している。
言葉が出ない。

 永井の中で、何かが決まった。

 これを会社でばらしてやろう。

 田所が不倫していることを、職場に広める。
それだけで田所の立場は変わる。
人事評価も変わるかもしれない。
少なくとも、あの笑顔が消える。

 自分は不幸で、
田所が幸せでいることが許せなかった。

 論理ではなかった。
永井の蒼への執着と、田所の不倫は、
何の関係もなかった。
田所が何をしていようと、蒼は戻ってこない。
それは永井にも、頭の片隅ではわかっていた。

 でも関係なかった。

 誰かを道連れにしたかった。
自分だけが落ちていくのが、耐えられなかった。

 それが正義だと永井は思っていた。
田所は悪いことをしている。
それを暴くのは正しいことだ。

 永井の思考は、
もうその歪みを自分で検知できなかった。

---

 田所と娘が別れた後、
永井は先ほどの女性を探した。

 田所と一緒にいた女が誰かわかれば、証拠になる。
田所を追い詰める材料になる。

 スーパーの周辺を歩き回った。

 なかなか見つからなかった。

 角を曲がったとき、
見覚えのある後ろ姿が目に入った。

 蒼だった。

 永井の足が止まった。

 心臓が跳ね上がった。
蒼がいる。
本当にいる。
毎日探し続けて、今日ここにいる。

 でも蒼は一人ではなかった。

 男と一緒にいた。中年の男だった。

 永井の中で、燃えていたものが、
一瞬で別の種類の炎になった。

 あの男は誰だ。
蒼の隣にいる資格があるのは自分だけのはずだ。
なぜあの男が。
なぜ。

 怒りが、視界を狭めた。

 その瞬間、
蒼が前を歩く女性に向かって手を振った。

 駆け寄りながら、声を上げた。

「お母さん!」

 永井は固まった。

 女性が振り返った。

 田所と腕を組んでいた、あの女性だった。

 蒼の母親だった。

 永井の頭の中で、いくつかの事実が繋がった。

 田所の不倫相手が、蒼の母親。

 蒼と一緒にいる男が、
蒼たちが今住んでいる場所の人間。

 全部が、一本の線でつながった。

 永井はその場に立ったまま、しばらく動けなかった。

 頭の中が、静かになっていた。

 嵐の前の、奇妙な静けさだった。

 

第三百十三弾「忘れられない人」

第三百十四弾「忘れられない人 その2」

第三百十五弾「忘れられない人 その3」

第三百十六弾「忘れられない人 その4」

第三百十七弾「忘れられない人 その5」

第三百十八弾「忘れられない人 その6」

第三百十九弾「忘れられない人 その7」

第三百二十弾「忘れられない人 その8」

第三百二十一弾「忘れられない人 その9」

第三百二十ニ弾「忘れられない人 その10」

の続きです

 

 

## 二十

 永井の箸が止まった。

 止まったまま、しばらく動かなかった。

 リビングのテレビが笑い声を流していた。
妻はソファに座って画面を見ていた。
息子はスマートフォンを見ながら笑っていた。
二人の視界に、永井は入っていなかった。

 こういう夜が、何年も続いていた。

 最初に気づいたのはいつだったか、
もう正確には思い出せなかった。
妻が自分を見なくなったのか、
自分が妻を見なくなったのか、
どちらが先かもわからなかった。
気づいたときには、テーブルを囲んでいるのに、
三人がそれぞれ別の場所にいる夜が
当たり前になっていた。

 妻との会話は、家の用事と金の話だけになった。

 息子は小学校の高学年ごろから口をきかなくなった。
反抗期かと思っていたが、そのまま戻らなかった。
今年で高校二年生になったが、
必要なとき以外は永井と目を合わせなかった。

 この家で、永井は透明だった。

 いても、いなくても、同じだった。

 蒼と出会ったのは、そういう時期だった。

 最初は哀れみだったかもしれない、
と永井は思っていた。
路上で倒れた女性を助けたのと同じような、
突発的な善意。
でも違った。
蒼は永井を見た。
目を合わせて、話を聞いて、笑った。
それだけのことが、永井には違った。

 この家で誰かに見てもらえた感覚が、
いつ最後だったか思い出せなかった。

 蒼といるとき、永井は透明ではなかった。

 それだけが、永井を繋ぎとめていた。

---

 夕食を急いで済ませて、
「疲れたから先に休む」と妻に言った。

 妻は画面から目を離さずに「はい」とだけ言った。

 寝室に入って、ドアを閉めて、ベッドに倒れ込んだ。
布団を引き寄せて、スマートフォンを取り出した。

 蒼からのメッセージを開いた。

 読んだ瞬間、血の気が引いた。

 頭が、白くなった。

 文字を追っているのに、意味が入ってこなかった。
もう一度読んだ。
今度は意味が入ってきた。
その意味が、胸の中心に刺さった。

 歩いていて、突然、地面が消えた感覚だった。

 震える指で返信を打った。
言葉を選ぶ余裕がなかった。
とにかく、引き留めたかった。
考え直してほしかった。
会って話せば何か変わるかもしれない。
そう思いながら送った。

 返信を待った。

 寝室の天井を見ていた。
妻と息子のテレビの音が、ドア越しに聞こえていた。

 返信が来た。

 *ごめん、やっぱり終わりにする。*

 永井はしばらく画面を見ていた。

 人生が終わった、と思った。
大げさではなく、本当にそう感じた。
毎日を乗り越えられていたのは、蒼がいたからだった。
次に会う約束があったから、
今日を終わらせることができた。
その支えが、なくなった。

 目の前が暗くなった。

 でも、暗くなった先で、何かが動いた。

 まだある、と思った。

 諦めない。
どんな手を使っても。
どんなことをしても。
蒼を取り戻す。
必ず。

 永井は起き上がって、鏡台の前に座った。

 妻の化粧品が並んでいた。
自分の顔が映っていた。

 笑っていた。

 自分でも気づかないうちに、口角が上がっていた。
その表情が何を意味するのか、
永井自身にはわからなかった。

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## 二十一

 喫茶店の窓際の席は、店の入口からは見えなかった。

 藍はそれを確認した上で田所と向き合っていた。
テーブルの上で、田所が藍の手を両手で包んでいた。

 田所はデレデレと笑っていた。

「もっと頻繁に会いたいよ」

「今の所に住んでいる以上、
そんなに時間は取れないです」

「どうにかうちの会社で働けるようにするから」
田所は続けた。

「家もどうにかするよ」

 藍は微笑んで頷いた。

 でも頭の中では、別のことを考えていた。

 圭人の家に来てから、何かが変わっていた。

 最初は気づかなかった。
でも少しずつ、自分の中の霧が
晴れていくような感覚があった。
毎日決まった時間に食事があって、静かな夜があって、
蒼が学校に行く音がして、圭人が部屋にいる気配がある。

 その規則正しさの中で、
藍の思考が少しずつ整ってきていた。

 田所は確かに助けてくれた。
あの病院の日々、来てくれたのは田所だけだった。
退院の日、迎えに来てくれたのも田所だった。
その事実は変わらない。
感謝している。

 でも、と藍は思った。

 田所には妻がいる。
子供がいる。
それはこれからも変わらない。
変わらない限り、
自分と田所の関係は宙ぶらりんのままだ。

 圭人の家で暮らしながら、
藍はその「宙ぶらりん」が、
以前より重く感じるようになっていた。

 歳を取って、一人になる。

 その未来が、以前より怖くなっていた。

 田所との関係に、決着をつけなければならない。

 でも今日はそれを言わなかった。
言葉が整っていなかった。

 田所に手を握られながら、藍は窓の外を見た。

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 道路の反対側を、二人の女子高生が歩いていた。

 一人が立ち止まって、喫茶店の窓を見た。

「あれ、恵のお父さんじゃない?」

 もう一人——恵と呼ばれた方——が振り返って、窓を見た。

 窓には店名のロゴが白く書いてあった。
中から外は見えにくい作りになっていた。
でも外からは、角度によって、中が丸見えだった。

 恵は目を細めた。

 確かに父親だった。

 見間違いではなかった。
テーブルの向こうで、女性の手を握っていた。
笑っていた。
家で見たことのない顔で。

 恵は数秒、その場に立っていた。

「行こう」

 友人に言って、歩き出した。

 振り返らなかった。

 スマートフォンを取り出して、画面を見た。
何かを打ちかけて、止めた。

 誰に送るつもりだったのか、
自分でもわからなかった。

 ポケットにしまって、また歩き出した。

 街の音が、耳の横を流れていった。
 

第三百十三弾「忘れられない人」

第三百十四弾「忘れられない人 その2」

第三百十五弾「忘れられない人 その3」

第三百十六弾「忘れられない人 その4」

第三百十七弾「忘れられない人 その5」

第三百十八弾「忘れられない人 その6」

第三百十九弾「忘れられない人 その7」

第三百二十弾「忘れられない人 その8」

第三百二十一弾「忘れられない人 その9」

の続きです

 

今回を含めてあと4回で終わります

 

 

## 十八

 蒼を引き離した後も、圭人の手が震えていた。

 部屋を出て廊下を歩きながら、
震えを止めようとしたが止まらなかった。
自室に入って鍵をかけた。
鍵をかける習慣がなかったのに、
今日は手が勝手に動いた。

 ベッドに倒れ込んで、布団を頭から被った。

 暗闇の中で、圭人は自分の呼吸を聞いていた。

 乱れていた。

 冷静を装った。
装えたかどうかはわからない。
蒼の前では何とか声を出したが、
内側では全く別のことが起きていた。

 蒼は高校生だ。
藍の娘だ。
手を出していい理由がどこにもない。

 それはわかっていた。
完全にわかっていた。

 でも、わかっていることと、感じていることは、
別の場所にある。

 圭人の頭の中で、二つの声が交互に鳴っていた。

 一方は言った。
あれは藍に似ている。
顎のライン、首の傾け方、ふとした仕草。
二十二年間、手に入らなかったものの残像が、
目の前にいる。
しかも向こうから近づいてきた。
かつての圭人が何度挑んでも越えられなかった壁を、
今なら越えられるかもしれない。

 もう一方は言った。
馬鹿なことを考えるな。蒼は藍ではない。
似ているのは外見の一部だけだ。
そもそも、藍への気持ちのリベンジを
別の人間で果たすという発想自体が、蒼に対する侮辱だ。

あの子を藍の代替として見ている時点で、圭人は最低だ。

 最低だ、と思った。

 思いながら、欲望は消えなかった。

 消えないことが、また自己嫌悪を呼んだ。
自己嫌悪が、また混乱を呼んだ。

 布団の中で、圭人はしばらく動かなかった。

 欲望を持つことと、欲望に従うことは違う。

 どこかで読んだ言葉が頭に浮かんだ。
感情は選べないが、行動は選べる。

 圭人は深呼吸した。一度、二度。

 少しずつ、呼吸が整った。

 震えが止まった。

 行動は選べる。
それだけを、今は持っていればいい。

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## 十九

 蒼は自室に戻って、ベッドに座った。

 スマートフォンを手に取って、
しばらく画面を見ていた。

 永井へのメッセージを打った。

 *何か家族にバレたっぽいから、
今の関係は終わりにしようと思う。*

 送信した。

 家族、という言葉を使ったのは、正確ではなかった。
圭人は家族ではない。
でも他に適当な言葉が思いつかなかった。

 しばらくして返信が来た。

 *少し考え直してくれないかな。今度会って話そう。*

 蒼は画面を見た。

 永井には妻がいる。
子供がいる。
それを蒼は知っていた。
バレれば大変なことになる。
それもわかっている。
それでも会って話したいと言う。

 なぜだろう、と蒼は思った。

 答えはわかっていた。
永井にとって、蒼との関係は失いたくないものだった。
でもそれは、蒼という人間を失いたくないのではなく、
蒼との関係が与えてくれる何かを失いたくないのだった。

 その違いを、蒼は言葉にできなかったが、
感覚として知っていた。

 父親もそうだった。

 蒼に対して怒鳴るとき、父親は蒼を見ていなかった
。自分の感情を向ける場所として蒼を使っていた。
それだけだった。

 永井も似ていた。

 蒼はスマートフォンを置いて、天井を見た。

 圭人の顔が浮かんだ。

 さっきの部屋で、蒼が抱きついたとき、圭人は固まった。

顔が赤くなった。
でも、手を出さなかった。
「離れろ」と言った。
静かな声だった。
怒鳴らなかった。

 父親なら怒鳴っていた。
あるいは、怒鳴らずに別のことをした。

 永井なら、喜んだ。

 圭人は、そのどちらでもなかった。

 この人は違う、と蒼は思った。
どう違うのかを説明する言葉を、蒼は持っていなかった。

ただ、違うということだけが、はっきりしていた。

 父性、という言葉を蒼は知らなかった。
求めているものに名前をつける知識が、
まだなかった。

 ただ、この人の近くにいたい、
という気持ちだけがあった。
それが何なのか、蒼にはわからなかった。
わからないまま、圭人の顔を思い浮かべると、
胸の奥が少し温かくなった。

 *おじさんなら、
私が成人するまでは手を出さないだろうな。*

 そう思った。

 根拠はなかった。
でも確信があった。

 *それでも、おじさんと一緒がいい。*

 蒼はスマートフォンを手に取って、
永井への返信を打った。

 *ごめん、やっぱり終わりにする。*

 送信した。

 既読がついた。
返信は来なかった。

 蒼はスマートフォンを枕の下に押し込んで、
布団を引き寄せた。

 圭人の部屋は、廊下を挟んだ向こうにある。

 静かだった。

 その静けさが、なぜか安心だった。