# 黄金の林檎
## 第二章 — 賄賂と美女
イダ山の斜面で、
パリスは羊の群れを見守っていた。
若く、美しく、物静かな青年。
羊飼いとしては珍しく、竪琴を奏で、
詩を口ずさむ教養人でもあった。
一部の伝承によれば、
彼はかの賢者ケイロンの下で学んだという。
ケイロン――半人半馬のケンタウロスでありながら、
武術、弓術、馬術、音楽、医学、予言、
そして動物の世話に至るまで、
あらゆる知識を修めた稀代の賢者。
アキレウス、ヘラクレス、アスクレピオス……
数多の英雄が彼の弟子だった。
もしそれが真実ならば、
パリスは単なる羊飼いではない。
だが彼自身は、自分の出自を知らなかった。
自分がトロイアの王子であること。
プリアモス王の息子として生まれながら、
「この子は国を滅ぼす」という予言のために、
殺されるはずだったこと。
家臣が憐れんで山に捨て、
羊飼いに拾われて育てられたこと。
何も知らぬまま、パリスは穏やかな日々を送っていた
――あの日までは。
---
「パリス」
突然、眩い光が彼を包んだ。
目を開けると、そこに三人の女性が立っていた。
いや、女性などという言葉では足りない。
彼女たちは**女神**だった。
一人は威厳に満ち、孔雀の羽を編んだ冠を戴いている。
母神ヘラ。
一人は兜と槍を携え、灰色の瞳が知性の光を宿している。
知恵の女神アテナ。
一人は薔薇色のヴェールに包まれ、
その微笑だけで男の理性を溶かす。
美の女神アフロディテ。
そして彼女たちの前には、黄金に輝く林檎が一つ。
「あなたに判断してもらいたいの」
アフロディテが囁く。甘く、蠱惑的な声だった。
「私たち三人の中で、誰が最も美しいか」
「え……?」
パリスは困惑した。
羊飼いの自分が、神々の美を審判するなど、
おこがましいにも程がある。
「お断りします」
彼は首を横に振った。
「そのような大それたこと、私には」
「謙遜なさらないで」
ヘラが歩み寄る。
圧倒的な存在感に、パリスは息を呑んだ。
「あなたは公平で、温和で、争いを好まない。
だからこそ選ばれたのよ」
「でも……」
「お願い」
アテナが静かに言う。
「ゼウス様でさえ、この判断は下せなかった。
だからこそ、神ならざる者
――あなたの目が必要なの」
三人に代わる代わる懇願され、
パリスはついに折れた。
「……わかりました」
彼の返事を聞くや否や、三人の女神の目が光った。
---
**まず動いたのはヘラだった。**
「パリス」
女神が近づき、その声は蜂蜜のように甘くなる。
「もしあなたが私を選んでくれたなら、
**莫大な権力**を授けましょう。
あなたはアジア全土の王となり、
あらゆる国があなたの前に膝を屈するわ」
権力。支配。絶対的な力。
それは確かに魅力的だった――が、
パリスは権力に興味がなかった。
彼は羊と竪琴があれば満足だったのだ。
**次に口を開いたのはアテナだった。**
「パリス」
知恵の女神が兜を外す。
その下から現れた顔は、凛として美しかった。
「もしあなたが私を選ぶなら、
**戦さでの常勝**を与えましょう。
あなたはどんな戦いにも勝利し、
歴史に名を刻む英雄となる。
誰もがあなたの武勇を讃えるわ」
武勇。名声。不敗の栄光。
英雄譚を聞いて育った青年にとって、
それは心動かされる提案だった
――が、パリスは争いを好まなかった。
**そして最後に、アフロディテが微笑んだ。**
「パリス」
美の女神が彼の手を取る。
柔らかく、温かく、その感触だけで心臓が高鳴る。
「もしあなたが私を選んでくれたら、
**世界一の美女**をあなたのものにしてあげる」
その瞬間、パリスの心が揺れた。
権力も武勇も要らない。
だが愛――それだけは欲しかった。
「世界一の……美女?」
「ええ」
アフロディテが囁く。
「ヘレネ。スパルタの王妃にして、
この世で最も美しい女性。
彼女をあなたのものにしてあげるわ」
---
**まぁ、賄賂に釣られる時点で公平さに欠ける。**
審判として微妙だし、
そもそも神々がこんな取引をすること自体、茶番だった。
だがパリスは若く、恋に飢えていた。
「……私は、アフロディテ様を選びます」
彼は黄金の林檎を、美の女神に差し出した。
アフロディテは歓喜の笑みを浮かべ、
ヘラとアテナは激怒した。
「後悔するわよ、パリス」
アテナが冷たく告げる。
「あなたの選択は、血で贖われることになる」
「トロイアは灰燼に帰すでしょう」
ヘラが呪いのように囁く。
だがパリスには、まだわからなかった。
自分が何を選んだのか。
自分の選択が、どれほどの悲劇を生むのか。
---
**そして、もう一つの問題があった。**
パリスには既に妻がいたのだ。
ニンフのオイノネ
――イダ山の清らかな泉に住む、心優しい妻。
彼女はパリスを愛し、彼もまた彼女を愛していた。
少なくとも、**林檎を渡すまでは。**
だがギリシャ神話の世界では、
一夫一婦制など絵空事だった。
大神ゼウスからして、
妻ヘラがいながら無数の愛人を持ち、
英雄たちもまた、
妻や妾を各地に持つのが当たり前だった。
**女神がいる割に、女性の地位は低い。**
皮肉なものだ。
そしてパリスが「世界一の美女」として
手に入れることになる女性
――ヘレネもまた、いわくつきの女だった。
美しすぎるがゆえに、幼い頃から奪い合われ、
誘拐され、政略結婚に利用され続けた女。
まぁ、こういう経緯で選ばれるからには、
やはりそういう運命の女になるのも
仕方ないのかもしれない。
だが彼女には、既に夫がいた。
スパルタの王、メネラオス
――その名は、やがて戦場に響き渡ることになる。
## 第三章 — 美しすぎた女
(続く)