第三百七十五弾「転換」の続きです
田中陽介が「個人として闘う」と宣言してから、
三日が経っていた。
その三日間、彼のスマートフォンには
絶えず着信が入り続けていた。
発信元は日本支社の役員室、そして本社の法務部。
表示される名前を見るたびに、
陽介はベッドの上で小さく息を吐いた。
会社が黙っているはずはない、とは分かっていた。
だが、彼が思っていた以上に、
その反応は早く、そして重かった。
「田中さん。
個人の判断で会見を開かれたことは、承知しています」
見舞いに訪れた本社法務部の男は、
丁寧な口調でありながら、
有無を言わせぬ響きを含んでいた。
「ですが、田中さんは日本支社の役員です。
あなたの発言は、
もはや『個人』の枠には収まりません」
陽介は苦笑した。
分かってはいたことだった。
それでも、彼はあの会見の場で
「個人的に」という言葉を選んだ。
自分一人の意思で立ち上がったのだと、
そう示すために。
しかし、L'sコーポレーションという組織の理屈は、
彼の思惑をあっさりと超えていった。
そもそも、L'sコーポレーションの
社員になるという行為自体が、生半可なものではない。
採用に至るまでには、これ以上ないほどの厳選と、
身辺から思想信条に至るまでの徹底的な調査が課される。
ここに籍を置く者は、皆一様に「非常に重要な存在」
として扱われる。
たとえ陽介が役員でなく、
平社員の一人であったとしても
――L'sコーポレーションは
その社員のために全精力を注ぐ組織だった。
そしてその「全精力」が意味するものは、
あまりにも大きすぎた。
L'sコーポレーションが本気で行使する力は、
中小国どころか、大国さえも
容易く滅ぼしうるものだと言われていた。
それでいて、彼らはその力を誇示することを
好まなかった。
彼らが力を用いるのは、
ほとんどの場合、報復の時に限られていた。
個人であれ、組織であれ、企業であれ、国家であれ
――L'sコーポレーションに何かを仕掛けた者には、
必ず、容赦のない報復が下される。
規模の大小は問題ではなかった。
小さな挑戦であろうと、国家規模の敵対であろうと、
下される報復は常に徹底的なものだった。
今回の一件は、日本の司法制度と、
それに巣食う人権派を自称する弁護士たちへの
報復として、静かに動き出していた。
ただし、その恐ろしさを本当に理解している者は、
決して多くはなかった。
大多数の検察官や弁護士、
そしてマスコミの人間たちは、
L'sコーポレーションの力を見くびっていた。
だからこそ、この件はほとんど報道されることなく、
検察や弁護士たちは
「どうせ何もできまい」と鼻で笑っていた。
だが、状況は静かに、そして確実に変わり始めていた。
事件をわずかにでも報道したテレビ局と新聞社
――それらを除くほぼ全てのマスコミに対して、
スポンサー企業が一斉に撤退を表明したのだ。
大手マスコミのスポンサーとなるような
大企業の多くは、L'sコーポレーションから
最先端技術の供与を受けていた。
その技術供与の継続に、今回の一件を理由とした
「中断」の可能性が示唆された。
企業側に残された選択肢は、ひとつしかなかった。
不平等な報道を続けるマスコミのスポンサーを、
自ら降りることだった。
そして、最大の出資者であった
L'sコーポレーション自身も、
当然のようにスポンサーの座から降りた。
これは、マスコミにとって死活問題だった。
広告収入の柱が、音を立てて崩れていく。
同時に、検察官や弁護士たちの親族にも、
あらゆる方向から圧力がかけられていった。
取引先が突然契約を打ち切り、
勤め先が謎の経営難に陥り、
子供の進学先の話が急に立ち消えになる。
目に見える暴力は、どこにも存在しなかった。
それでいて、日常のあらゆる場所から、
静かに、確実に、生活の足場が崩されていく。
追い詰められた検察官や弁護士の一部は、
裏で繋がっていた反社会的組織に助けを求めた。
だが、暴力でL'sコーポレーションに
勝てるはずがなかった。
助けを求められた反社組織は、次々と壊滅していった。
事務所への強制捜査、幹部の一斉逮捕、資金源の凍結。
これらは連日ニュースを賑わせる
大事件として報じられたが、
それを見ている一般の人々は、
その裏にL'sコーポレーションの意向が
働いていることに、
誰一人として気づいていなかった。
一般大衆というのは、
これまでマスコミの報道をそのまま信じてきた
人間が多かった。
インターネットの普及によって、
独自に真実を探ろうとする者も増えてきてはいたが、
そのネット上にもまた、
マスコミの論調に迎合する人間が多く存在していた。
上手く情報を取捨選択しなければ、
結局はマスコミの作った物語の中に取り込まれてしまう。
それが、今のこの国の情報環境だった。
当然、マスコミは黙って引き下がるわけではなかった。
反対意見を発信する者たちを、
組織的に潰しにかかった。
しかし、今回はそれもうまくいかなかった。
マスコミの主張に迎合し、
御用記者として振る舞っていた
ネット上の人間たちにも、
L'sコーポレーションの手は静かに伸びていた。
人知れず「事件の被害者」となった者たちが、
既に何人も存在していた。
L'sコーポレーションの行動は、
その実態を突き詰めれば、
明らかに「悪」に分類されるものだった。
一国の法を無視し、自らの意向を強行する。
それは法治国家の枠組みから見れば、
決して許されるべき行為ではない。
だが――それに逆らえる人間も、組織も、国家も、
この地球上には存在しなかった。
L'sコーポレーションを制止できる者は、
誰もいなかった。
――以降、続く。