第三百十三弾「忘れられない人」

第三百十四弾「忘れられない人 その2」

第三百十五弾「忘れられない人 その3」

第三百十六弾「忘れられない人 その4」

第三百十七弾「忘れられない人 その5」

第三百十八弾「忘れられない人 その6」

第三百十九弾「忘れられない人 その7」

第三百二十弾「忘れられない人 その8」

の続きです

 

 


## 十七

 夕食の時間、圭人は何も言わなかった。

 言おうとしていた。
藍に、家の周りの男のことを話そうとしていた。
ストーカーかもしれない、
旦那が送り込んだ人間かもしれない、
そう切り出すつもりだった。

 でも、できなかった。

 藍が味噌汁を注いで、蒼が箸を取って、
三人が同じテーブルに着いた。
その光景を見た瞬間に、言葉が引っ込んだ。

 この時間が終わる、という予感があった。

 何かを言えば、何かが動く。
何かが動けば、この均衡が崩れる。
崩れれば、藍と蒼はここにいる理由を失うかもしれない。

 それが怖かった。

 自分でも、いつからそうなったのかわからなかった。

 最初の朝、台所から味噌の匂いがした。
誰かが作った食事がテーブルにあった。
それだけのことだった。
それだけのことが、
十年近く一人で暮らしてきた圭人の中に、
予想外の深さで刺さった。

 両親が亡くなってから、
この家に人の温もりはなかった。

 温もり、という言葉を圭人は普段使わなかった。
少し恥ずかしい言葉だと思っていた。
でも他に言いようがなかった。
藍と蒼がいることで、家の空気が変わった。
音が変わった。
匂いが変わった。

 それが基準になっていた。

 人間は上がることには慣れやすく、
下げることには抵抗する。
生活水準でも、人間関係でも、感情でも、
同じことが起きる。
一度知ってしまえば、知らなかった頃には戻れない。

 圭人は長年一人でいた。
一人が普通だと思っていた。
一人で十分だと思っていた。

 でも今は違った。

 この三人の食卓が、当たり前になっていた。

 当たり前になってしまったから、失うことが怖かった。

---

 女性と暮らすのが初めてだった。

 四十年生きてきて、恋人がいたことがなかった。
だから当然、同居の経験もなかった。

 最初の数日は、何もかもが新鮮で、
新鮮であることが落ち着かなかった。
洗面台に知らない化粧品が並んでいる。
脱衣所に見知らぬ衣類が干してある。
台所に自分が買わない食材がある。

 それらが今は、当たり前の景色になっていた。

 何が変わったのかを言葉にしようとすると、
うまくいかなかった。

 強いて言えば、と圭人は思った。

 異世界転生、という言葉が浮かんだ。
読んだことのある小説のジャンルだった。
別の世界に放り込まれた人間が、
その世界の論理を少しずつ理解していく。
圭人にとって、藍と蒼との同居はそれに近かった。
自分が知らなかった世界のルールが、
毎日少しずつ明らかになっていく感覚。

 その体験を、もう手放したくなかった。

 それが圭人の本音だった。

 藍への気持ちとは別の話だった。
いや、完全に別とは言えないかもしれないが、
少なくとも今感じているのは、
もっと根本的な何かだった。
人と暮らすことの、ただの温度。
それを知ってしまった人間が、
また一人に戻ることへの抵抗。

 でも、この状況はいつか終わる。

 それは確定していた。
藍が仕事を見つければ、二人は出ていく。
そういう話だった。
最初からそういう話だった。

 圭人はその先を考えないようにしていた。

---

 食事が終わって、圭人は自分の食器を流しに運んだ。

 藍が「いいよ」と言ったが、
圭人は軽く手を振ってそのまま洗った。

 リビングを出るとき、後ろを振り返りそうになった。
振り返らなかった。

 自室に入って、ドアを閉めた。

 頭の中が、うるさかった。

 いろんな感情が同時に渦を巻いていた。
藍への疑念、蒼への心配、この生活への執着、
全部が混ざって、どれが本物かわからなかった。

 答えを出そうとするたびに、別の感情が邪魔をした。

 ベッドに倒れ込んだ。

 天井を見た。
いつもの木目。
いつもの顔のような模様。

 全部放り出して、
どこかに消えてしまえたら楽なのに、
と思った。

 その瞬間、ノックがあった。

 三回、静かなノックだった。

「はい」

「蒼だけど。話したいんだけど」

 パパ活の件はもう話したはずだ、と圭人は思った。
でも声を聞いて、起き上がった。

---

 空き部屋に入って、ドアを閉めた。

 段ボールが数個、窓際に積んである。
薄暗い部屋だった。

 蒼は圭人の正面に立った。

「私、もう少しおじさんと仲良くなりたいんだけど」

 仲良く。

 圭人は言葉の意味を測りかねた。
仲良くというのは、どういう意味の仲良くなのか。
パパ活の件で自分を心配してくれていることへの、
何らかの返答なのか。

 困惑が顔に出ていたはずだった。

 蒼が動いた。

 距離を詰めて、圭人に抱きついた。

 圭人は声が出なかった。

 頭が一瞬、真っ白になった。
体が固まった。
動かそうとしたが、動かなかった。
顔に熱が上がった。

 蒼は圭人を見上げて、微笑んでいた。

「おじさんが仲良くしてくれたら、
パパ活辞めてもいいんだけど」

 その言葉で、圭人の頭に冷たいものが流れた。

 熱が引いた。

 代わりに、別の感覚が入ってきた。

「金のためにやってるんだろ」と圭人は言った。
声が、自分でも思ったより平坦に出た。

「俺から金取るってことかよ」

 蒼は笑みを浮かべたまま首を振った。

「おじさんからはお金もらう気ないよ」

 その笑顔が、圭人には怖かった。

 作られた笑顔ではなかった。
でも、十七か十八の子供が浮かべる笑顔でもなかった。
もっと、いろんなものを見てきた人間の、
疲れた余裕のような笑いだった。

 背筋に、冷たいものが走った。

 この子は今、本気でこれをしているのか。
それとも、圭人がどこまで動揺するかを試しているのか。あるいは、その両方か。

 どれにしても、
圭人には一つしか言えることがなかった。

「離れろ」

 声は静かだった。
怒鳴らなかった。
怒鳴る必要がなかった。

「ちゃんと話をしよう。でも、こういう形ではしない」

 

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## 十六

 藍はスマートフォンの画面を見ながら、
自室のドアを静かに閉めた。

 田所へのメッセージを送ったのは
夕食の後片付けが終わってからだった。
蒼はもう自室に上がっていて、圭人も部屋にいた。
家の中は静かだった。

 既読がついて、すぐに返信が来た。

 *その男は君たちを守るために僕が雇った護衛だよ。*

 藍は画面を見つめた。

 数秒、意味を理解しようとした。

 護衛。
自分たちを守るために。
田所が雇った。

 驚きが先に来て、
それから何か温かいものが胸の奥から上がってきた。
藍はその感覚に、少し目を閉じた。

 この人は、と藍は思った。

 自分が知らないところで、
こういうことをしてくれる人だった。

 田所と初めて会ったのは去年の秋だった。
でも田所という人間を理解するには、
もう少し前から話を始めなければならなかった。

---

 二十代の前半、藍は走り続けていた。

 東京の大学に進んで、
文学部で小説を書きたいと思っていた。
でも現実はそうならなかった。
授業より、アルバイトより、
男との時間の方に引っ張られた。
地元を出た解放感と、東京という街の速度の中で、
藍は自分の軸を少しずつ失っていった。

 旦那になる男と出会ったのは二十三歳のときだった。

 明るくて、話が面白くて、
一緒にいると退屈しなかった。
藍の周囲の男とは違う空気を持っていた。
引っ張られた。深く考えなかった。

 妊娠がわかったのは付き合って半年後だった。

 産む、と藍は決めた。
男も逃げなかった。
それだけで、当時の藍には十分だった。

 両親が反対した。
妹も反対した。
相手の男を一度も会わせていなかったから、
反対するのは当然だった。
でも藍には聞こえなかった。
自分の選択が正しいと信じていた。
縁を切ってでも、と言ったのは藍の方だった。

 蒼が生まれて、子育てが始まった。

 恋愛する時間がなかった。
夫婦として向き合う時間もなかった。
気づいたときには、
二人の間に会話がなくなっていた。

 ストレスは蒼に向かいそうになった。
向かいそうになるたびに、藍は自分を止めた。
止めることで溜まったものが、
今度は別の場所に向かった。
夫に怒鳴った。些細なことで泣いた。
感情の振れ幅が大きくなっていった。

 夫は藍を持て余し始めた。

 不倫を知ったのは
蒼が小学校に上がったころだった。

 スマートフォンに残っていたメッセージを、偶然見た。
偶然、というより、疑っていたから確認した。

 何の為にこの人生を選んだのだろう、と藍は思った。

 両親を捨てて、妹を捨てて、地元の全てを捨てて、
選んだ先がこれだった。

 蒼を連れて消えてしまいたい、
という考えが頭をよぎったのはその頃だった。

 消えてしまいたい。
蒼と一緒に、どこか誰も知らない場所に。

 その考えが何を意味するのか、藍は直視しなかった。
直視できなかった。
ただ、毎日その考えが頭の端にあった。

 どうにか、踏み留まった。

 蒼がいたから、というより、
蒼に申し訳なかったから、という方が正確だった。
自分の感情で
蒼の人生を終わらせることはできなかった。

 一人で家を出ることも考えた。
蒼を置いて、自分だけ消えることを。
でもそれも、できなかった。

 結局、藍はどこにも行けなかった。

 行けないまま、日々が続いた。

 妄想が増えていった。
現実と別の場所に意識が逃げることが多くなった。
夫はそれに対処できなくなり、
愛人の家に泊まることが増えた。
帰ってこない夜が、週に何度もあった。

 蒼は、夫にも藍にも、平等に接していた。

 藍はそれを、蒼が父親に懐いていて
自分には懐いていないと感じていた。
でもそれは藍の認知の歪みだった。
蒼はただ、両方の親をなくしたくなかっただけだった。
その子供なりの必死さを、藍は見ることができなかった。

---

 アルコールに手を出したのは、ある日の夜だった。

 蒼が寝た後、台所に残っていたビールを飲んだ。
久しぶりのアルコールが、
頭の奥にあった重たいものを少しだけ溶かした。

 それから毎日飲んだ。

 量が増えていった。

 ある日の昼過ぎ、買い物の途中で意識を失った。
路上だった。

 気づいたときには知らない天井があった。

 病院だった。

 田所が救急車を呼んでくれた。
仕事の外回りの途中だった、と後で聞いた。

 夫と蒼が来た。
夫は事情を聞いて、一言だけ言った。

「アル中が治るまで入院しろ」

 それだけだった。

 入院した。

 夫は一度も来なかった。

 蒼はたまに来た。
来るたびに、何か話しかけてくれた。
でも藍には、蒼が何を言いたいのか
うまく受け取れなかった。
自分の状態が、
人の言葉を真っ直ぐ受け取れなくしていた。

 田所は頻繁に来た。

 花を持ってきた。
本を持ってきた。
ただ隣に座って話を聞いてくれた。
何も求めなかった。
責めなかった。
藍の話を、最後まで聞いた。

 病院の窓から外を見ながら、
田所と話している時間だけが、
藍には呼吸できる時間だった。

 惹かれていった。

 それが正しいかどうか、考える余裕は藍にはなかった。
ただ、この人が来ると息ができる、
という感覚だけがあった。

---

 退院の日、病院の玄関に来たのは田所だけだった。

 夫は来なかった。
蒼も来なかった。

 田所の車に乗った。
どこに行くかは聞かなかった。
どこでもよかった。

 ホテルだった。

 翌日、家に帰った。

 蒼の部屋のドアが閉まっていた。
ノックして、返事がなかった。
開けると、蒼が床に座っていた。
泣いていた。

「どうしたの」

 聞くと、蒼は顔を上げて、それから俯いた。

 話してくれるまで、時間がかかった。

 話の内容を聞いた瞬間、
藍の頭の中で何かが切り替わった。

 夫が、蒼に、手を出した。

 思考が止まった。
止まって、また動き出したとき、
藍はもう動いていた。

 家中の現金をかき集めた。
通帳を取った。
蒼の学校の書類を取った。
着替えを詰めた。

 蒼の手を引いて、家を出た。

 行く場所は決まっていなかった。
田所に頼ることも考えた。
でも田所には家族がいる。
そこに転がり込むことはできなかった。

 友人に連絡した。断られた。

 別の友人に連絡した。
事情を話すと、しばらく考えて、
やっぱり難しいと言われた。

 歩きながら、
スマートフォンの連絡先を上から見ていった。

 圭人の名前があった。

 高校を卒業してから一度も連絡を取っていなかった。
二十二年分の空白がある。
でも実家にいるかもしれない、と思った。
いなければ、そのときに考えればいい。

 電車に乗った。

 圭人の家の呼び鈴を押したのは、
その日の昼過ぎだった。

---

 藍はスマートフォンを持ったまま、
部屋の暗闇の中に座っていた。

 田所の「護衛」という言葉が、まだ頭の中にあった。

 この人は私を守ろうとしてくれている、と藍は思った。

 その思いに縋りながら、
藍は画面に感謝の言葉を打ち込んだ。

 *流石、私を救ってくれた人ね。*

 送信した。

 部屋の外は静かだった。

 圭人の部屋の気配が、廊下の向こうにあった。

 

第三百十三弾「忘れられない人」

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第三百十六弾「忘れられない人 その4」

第三百十七弾「忘れられない人 その5」

第三百十八弾「忘れられない人 その6」

の続きです

 

 

## 十三

 玄関のドアを開けると、藍がリビングにいた。

 エプロンをつけていた。
夕食の準備を始めていたのかもしれない。
圭人と蒼が並んで入ってきたのを見て、
少し目を丸くした。

「どうしたの、二人で」

「散歩に出たら駅前で偶然会ったから」

 圭人は靴を脱ぎながら言った。
それだけ言って、廊下を歩いて自室に向かった。

 余計なことを言わなかった。
言いたいことはあったが、今は整理が必要だった。

---

 リビングに藍と蒼が残った。

 蒼は冷蔵庫からお茶を取り出しながら、
何気ない口調で言った。

「ねえ、お母さん」

「なに」

「この頃、中年の男の人が家の近くを
うろついてるのを、圭人さんが見かけたみたいで」

 藍の手が、一瞬だけ止まった。

 包丁を持っていた。
にんじんを切りかけていた。
その手が、ほんの一拍、静止した。

 蒼はそれを見ていなかった。
お茶のパックをコップに入れながら続けた。

「さっきもいたんだって。
私も一緒にいたから見たんだけど、知らない人だった。
お母さん、ストーカーとかされてない?」

 藍は包丁を動かし始めた。

 心当たりはあった。

 すぐに顔に浮かんだ。
今日の昼、ラウンジで会った男ではない。
別の顔だった。
グレーのジャンパー。
五十代くらい。

 彼が動いた、と藍は思った。
夫が誰かを使って居場所を確認しようとしている。
そういうことをする人間だった。
口で怒鳴るより、
じわじわと追い詰める方を好む男だった。

 だが、それを蒼には言えなかった。

 言えば蒼が怖がる。
圭人に伝わる。
圭人に余計な心配をかける。
そして、今日の昼のことが
——自分がどこにいたかが
——芋づる式に出てくるかもしれない。

 藍は表情を動かさなかった。

「そんな人、知らないけど」

 声は穏やかに出た。自分でも驚くほど自然だった。

「怖いわねえ。気をつけないとね」

 蒼は「だよね」と言って、お茶を飲んだ。
それ以上追ってこなかった。

 藍は後で彼に連絡しよう、と思った。
夫が動いているなら、先に知らせておく必要があった。

 にんじんを切り続けながら、
藍は自分の手元だけを見ていた。

---

## 十四

 翌日の昼過ぎ、
某会社のオフィスフロアは落ち着いた空気の中にあった。

 主任と呼ばれる男——田所といった——は、
書類の束を手に課長のデスクに向かった。

 四十代の後半で、生真面目そうな顔つきをしていた。
スーツはいつも同じグレーで、
ネクタイの柄だけが変わった。
仕事は丁寧で、上からの評価は悪くなかった。

 課長のデスクに書類を置いた。

「課長、昨日の資料のまとめです」

 課長——永井といった——は受け取って、
ぱらぱらとめくった。
五十代の入り口で、髪に白いものが混じっていた。
体型は崩れておらず、物腰が柔らかかった。

 書類から顔を上げて言った。

「全く問題ないな。
これからもよろしく頼むよ、主任」

「ありがとうございます」

 田所は頷いた。
踵を返しかけたとき、永井が思い出したように言った。

「そういえば、主任のお子さんは中学生だったっけ」

「はい。課長のお子さんと同い年です。
うちは女の子ですけど」

「女の子か。いいなあ」

 永井は少し表情を緩めた。

「うちは男だけど、口もきいてくれないし。
たまに話があると来たと思ったら金の無心ばかりだよ」

 田所は愛想笑いを返した。

「娘は妻とばかり一緒にいて、私はいつも除け者ですよ。

今度の週末も二人で出かけるみたいですが、
どこに行くかも知りません」

 苦笑いだった。
本音の部分もあったが、
どこまでが本音かは田所自身にも判然としなかった。

「お互い、家族には恵まれなかったのかもなあ」

 永井は笑った。
自嘲とも冗談ともつかない笑いだった。

 田所も笑った。

 二人は笑いながら、
それぞれの午後に戻っていった。

 永井が今日の昼に会っていた女性のことを、
田所は知らなかった。

 田所が昨日の夕方に高校生の女の子と
大型スーパーを歩いていたことを、
永井は知らなかった。

 知らないまま、二人の午後は続いた。

---

## 十五

 圭人は自室の椅子に座っていた。

 本は開いていなかった。

 窓の外が少し暗くなってきていた。
夕方に差し掛かる時間だった。
階下からかすかに音がする。
藍が夕食の準備をしているのだろう。

 考えていた。

 考えないようにしよう、と思えば思うほど、考えた。
人間というのはそういうふうに
できているのかもしれない。
意識して排除しようとすれば、
排除しようとしていること自体が
意識を向け続けることになる。

 それに、と圭人は思った。

 暇だった。

 四十歳で、仕事がなく、毎日家にいて、
外出も少なく、人と話す機会もほとんどなかった。
そういう生活を何年も続けていた。
精神的に歪んでいても、誰も気づかなかっただろうし、
自分でも気づきにくかった。

 藍と蒼が来てから、
初めて他人の気配が家の中に入ってきた。
それが圭人の普段使っていなかった部分を
動かし始めていた。

 考えまいとしていたことを、
圭人は正面から考え始めた。

 DVで家を出た、と藍は言った。

 でも、痣がなかった。

 それだけでは何も言えない。
DVは身体的なものだけではないし、
見えない場所にあることもある。
それはわかっていた。

 でも他にも、引っかかることがあった。

 旦那がDVをする人間なら、
別居した妻の居場所を探そうとするはずだ。
そういう男は追いかける。
だとすれば藍は怯えているはずで、
外出するときにもっと警戒するはずだった。

 でも藍は普通に一人で買い物に出た。

 それに、幼馴染とはいえ、
二十年以上会っていない男の家に来るというのは、
相当追い詰められていなければできないことだ。
他に頼れる人間が本当に誰もいなかった、
ということか。

 本当にそうなのか。

 圭人の頭の中で、
ぼんやりとした輪郭が浮かびかけていた。

 藍にも、誰か男がいるのかもしれない。

 根拠はなかった。
ただ、電話の声が頭に残っていた。
あの、力の抜けた、警戒のない声。
それは恋人か、
それに近い誰かに向ける声の出し方だった。

 だとすれば、なぜここに来た。

 その男を頼ればいい。
でも頼れない事情があった。
既婚者か、あるいは別の理由か。

 そして、ここに来ることで、
その男には言えない何かを確保しようとしている。

 全部が推測だった。

 確認する方法も、確認する権利も、圭人にはなかった。

 でも、もしこれが当たっているなら。

 圭人は窓の外を見た。

 空が暗くなっていた。

 俺はいいように利用されているだけか、
という考えが、頭の底から浮いてきた。
追い払おうとしたが、今日は粘った。

 利用されている。

 その言葉を転がしてみた。

 おかしな話だ、と圭人は思った。
利用されることを承知で受け入れたのは自分だ。
見返りを求めない、と自分で決めた。
それなのに「利用されている」と感じるのは、
どこかで見返りを期待していた証拠だ。

 結局、全部が自分の欲望の話だった。

 善意だと思っていた部分も、
見栄だと認めた部分も、
その底にあるのは、
二十二年間ずっと同じものだった。

 圭人は椅子の背もたれに体重を預けた。

 自分は何をやっていて、何がしたいんだろう。

 答えは出なかった。

 ただ、薄暗くなった部屋の中で、
その問いだけが残った。

 階下から、夕食の匂いが上がってきた。

 味噌の匂いだった。

 

第三百十三弾「忘れられない人」

第三百十四弾「忘れられない人 その2」

第三百十五弾「忘れられない人 その3」

第三百十六弾「忘れられない人 その4」

第三百十七弾「忘れられない人 その5」

の続きです

 

今回 作中に出てくる桐島咲さんのお話は

第二百四十八弾「忘れていく」 にあります

 

 

## 十一

 その日の昼過ぎ、藍は街の中にいた。

 圭人が家を出た時間から、それほど間を置かずに出た。
エコバッグは持っていなかった。
買い物には行かなかった。

 待ち合わせ場所は駅から少し離れた
ホテルのラウンジだった。
観光客も使う場所で、
地元の人間と鉢合わせする確率が低かった。
藍はそういう場所を選ぶことに、もう慣れていた。

 男はすでに来ていた。

 窓際の席に座って、コーヒーを飲んでいた。
五十代の入り口くらいで、髪に白いものが混じっていた。

体型は崩れておらず、

スーツの着こなしに慣れた雰囲気があった。
中小企業の経営者か、それなりの地位の人間か。
実際のところ、
藍はこの男の仕事の詳細をあまり知らなかった。
聞いても、詳しくは教えてくれなかった。

 藍が席に着くと、男は顔を上げた。

 微笑んだ。それは本物の笑顔に見えた。

「来てくれた」

「来るって言ったじゃない」

 藍も笑った。
その笑顔の中に、何がどれだけ混じっているか、
藍自身にも整理がついていなかった。

 飲み物が来て、二人はしばらく他愛のない話をした。
男は気を遣う人間だった。
藍の体調を気にして、最近眠れているかと聞いた。
圭人のことは聞かなかった——しばらくは。

「妻と離婚していれば、君を家に呼べたのに」

 話が落ち着いたころ、男は言った。
窓の外を見ながら、独り言のような口調だった。

 藍は顔を伏せた。

 この言葉は何度か聞いた。
そのたびに、藍の中で何かが揺れた。
揺れるが、揺れた先にどこかがあるわけでもなかった。

「今はそうじゃないのだから、仕方ないじゃない」

 藍は静かに言った。
責めてもいない、諦めてもいない、
ただ事実を置くような言い方だった。

 男は藍を見た。

「あの男とは、何でもないんだよな」

 声に、かすかな緊張があった。
心配、というより、確認だった。

「彼はただの幼馴染よ」

 藍は微笑んだ。

 嘘ではなかった。
少なくとも、藍の認識の中では。圭人は幼馴染だった。
三回告白されて、三回断った。
弟みたいだと思っていた。
今も、その感覚は変わっていない——と、
藍は自分に言い聞かせていた。

 男は藍の答えを聞いて、少し息を吐いた。

 それから手を伸ばして、藍の肩を引き寄せた。
ラウンジの席で人目があったが、
男はあまり気にしない人間だった。

 藍は抵抗しなかった。

 男の腕の中で、藍は窓の外を見た。

 空は薄く曇っていた。

 圭人の顔が、一瞬だけ頭をよぎった。
あの、ぎこちなくドアを開けた顔。
麦茶を出すときの、少し落ち着かない目。
藍はその顔を頭の端に追いやって、
男の肩に視線を戻した。

 ただの幼馴染だ、と藍はもう一度思った。

---

## 十二

 ファミレスを出ると、空が少し暗くなっていた。

 圭人と蒼は並んで歩いた。
並んで、というより、自然にそうなった。
蒼が隣に来たから、圭人は特に何も言わなかった。

 しばらく無言だった。

 商店街を抜けて、住宅街に入ったあたりで、
圭人は口を開いた。

「気をつけた方がいいぞ」

 蒼は前を向いたまま「何が」と返した。

「大人には悪い奴も多い。下手すると海外に売られるぞ」

 蒼は一瞬止まって、それから笑った。
声に出さない、鼻から息を抜くような笑いだった。

「ないない。そんなこと」

 圭人は蒼の横顔を見た。

 笑っていた。
本気で、ありえない話として聞いていた。

 そうだろうな、と圭人は思った。

 大学の後輩の顔が頭に浮かんだ。
名前は桐島咲といった。
真面目で、少し抜けているが憎めない男だった。
一年生の秋ごろから様子が変わり始めた。
約束を忘れる、昨日話したことを覚えていない、
そういうことが増えた。
最初はただのうっかりだと思っていた。

 だが違った。

 徐々に記憶が失われていく病気だった。
珍しい疾患で、若い人間にも発症することがあると
後で聞いた。
症状が進んで、桐島は大学を休学した。
その後、正確な経緯は圭人も知らない。
街をふらついているところを見つけた人間がいて、
その人間が反社と繋がっていて、
桐島は気づかないまま連れて行かれた。

 海外だった。

 しばらくして救出されて帰国したと聞いた。
実家に戻ったとも聞いた。
その後のことは知らない。

 桐島の話を、圭人は数人にしたことがある。
全員、最初は信じなかった。
信じないというより、自分には関係ないと思った。
そういう反応だった。

 人は、自分が持っていない情報を
体感として受け取ることができない。
頭では理解できても、腹には落ちない。
それは仕方のないことかもしれなかった。
情報と経験は別物だ。

 蒼には、その実感がない。

 パパ活の相手が紳士的に見えて、
今まで何も起きていないから、大丈夫だと思っている。
でも、大丈夫だった時間の長さは、
これからも大丈夫だという保証にならない。

 圭人にはそれが言えなかった。

 言えたとしても、届かないだろう。
圭人と蒼の間には、
まだそれが届くだけの信頼の厚みがなかった。
正しいことを言っても、
信頼がなければ言葉は壁で跳ね返る。

 結局、人は自分の得た情報が全てだと思う側に流れる。
自分が得ていない情報を信じさせることは、
関係のない他人には難しい。

 圭人はそれ以上何も言わなかった。

 蒼も何も言わなかった。

 二人は住宅街を歩き続けた。

---

 角を曲がったところで、男とすれ違った。

 五十代くらいで、グレーのジャンパー。

 圭人は一瞬で思い出した。
今日の朝、
家を出たときに向かいで立っていた男だった。

 男は歩いてきて、圭人と蒼の横を通り過ぎた。
通り過ぎながら、視線が動いた。
圭人を見て、蒼を見た。
立ち止まりはしなかった。
そのまま歩いていった。

 圭人は前を向いたまま、数歩歩いてから言った。

「今すれ違った男、知ってるか」

 蒼が振り返った。

 男もこちらを向いていた。

 距離が三十メートルほどあった。
それでも視線がはっきりわかった。

「気持ち悪い。あんな人は知らない」

 蒼は前を向き直した。
声に、ためらいがなかった。
本当に知らないのだろう、と圭人は感じた。

「朝、家を出たときにもいた。同じ男だ」

 圭人は静かに言った。

「だから、
もしかしたら藍か君のストーカーかと思って」

 蒼は少し考える顔をした。

「私は見たことない。……お母さんかなあ」

 自信なさそうな言い方だったが、
自分には心当たりがないという確認でもあった。

 圭人は黙って前を向いた。

 藍のストーカー。

 あるいは、旦那が送り込んだ人間。
DV加害者が別居した相手の居場所を
確認しようとすることは、珍しくない話だった。

 どちらにしても、圭人には全容がわからなかった。

 ただ、朝と昼に二度、同じ男を見た事実はある。

 家に帰ったら藍に話すべきか、と圭人は考えた。

 話せば藍の事情に踏み込むことになる。
それは圭人が自分に課した一線の、すぐそこにあった。

 でも、黙っていて何かが起きた後では遅い。

 圭人は歩きながら、
どこまで言うかを静かに整理し始めた。

 隣で蒼は黙って歩いていた。

 その横顔は、さっきより少し硬かった。
 

第三百十三弾「忘れられない人」

第三百十四弾「忘れられない人 その2」

第三百十五弾「忘れられない人 その3」

第三百十六弾「忘れられない人 その4」

の続きです

 

## 十

 考えないようにすればするほど、残った。

 週末の藍の疲れた顔。
蒼の頬の赤み。
藍の電話の声。
それぞれに説明がつかないわけではなかった。
でも説明がつくことと、
頭から離れることは別の話だった。

 月曜の昼過ぎ、圭人は家を出た。

 気晴らしというより、
部屋にいることに耐えられなくなったに近かった。
ジャケットを羽織って、財布だけ持って、鍵をかけた。

 表に出た瞬間、視線を感じた。

 道の向かい側に中年の男が立っていた。
五十代くらい、グレーのジャンパーを着て、
特に用事があるふうでもなく立っていた。
圭人が顔を向けると、
男はそのまま視線を動かさなかった。
じろじろと、というほど露骨ではないが、
明らかに見ていた。

 誰かと間違えているんだろう、と圭人は思った。
知らない顔だった。
この辺に住んでいる人間でもなさそうだった。
気にしても仕方がないので、
圭人はそのまま歩き出した。

 駅の方向に向かって、大通りを歩いた。
空は薄く曇っていて、風が少しあった。
歩くには悪くない天気だった。

 駅前の大型スーパーに入ったのは、
特に目的があったわけではなかった。
書店が入っているのを思い出して、
本でも見ようと思った。
それだけだった。

 書店のコーナーに入り、文庫の棚を端から流し見た。
背表紙を読んでいくだけで、
少し気持ちが整う感覚があった。
本屋にいるとき、圭人はいつも少し落ち着いた。

 視界の端に、人影が入った。

 最初は気にしなかった。
スーパーの書店だから人は多い。

 でも何かが引っかかって、目が動いた。

 蒼だった。

 一瞬、見間違いかと思った。
今は平日の昼間で、学校がある時間だ。
制服を着ていなかった。
私服だった。
どこかで着替えたのか、最初から着替えて出たのか。

 そして、隣に男がいた。

 四十代から五十代の間くらいの、
サラリーマン風の男だった。
スラックスにジャケット、髪はきちんと整えてあって、
体型も崩れていない。
小綺麗な印象だった。
中小企業の経営者か、それなりの役職の会社員か、
そういう雰囲気があった。

 蒼とその男は、手を繋いでいた。

 圭人は棚の背表紙に視線を戻した。

 藍の旦那か、と最初に思った。
だがすぐに違和感があった。
藍と蒼が話していた旦那の印象と、
目の前の男は合わなかった。
DVをする男というのは類型があるわけではないが、
それにしても、あの男には粗暴さの欠片も見えなかった。

物腰が柔らかく、蒼に何か話しかけながら歩いていた。

 まあ、人は見かけによらない。

 圭人は本の背表紙を読み続けた。

 家族の問題だ。
自分が口を挟む話ではない。
蒼が嫌がっている様子はなかった。
むしろ、楽しそうに見えた。
それならなおさら、自分には関係ない。

 数冊を手に取り、裏表紙のあらすじを読んだ。
三冊を選んで、レジに向かった。

 その直前に、目が合った。

 蒼と、視線が合った。

 一秒にも満たない時間だった。
蒼の目が、圭人を認識した。
それははっきりわかった。

 圭人は視線を外してレジに向かった。

 スルーしてくれ、と思った。
頼むから。

---

 会計を済ませて、
袋を持ってスーパーの出入り口に向かった。

 自動ドアが開いた先に、蒼がいた。

 壁に背中を預けて、腕を組んで、圭人を待っていた。
男の姿はなかった。
どこかに行ったのか、
それとも最初から一人で出てきたのか。

 目が合った。
蒼がこちらに歩いてきた。

 怒っていた。
表情に出ていた。
怒りというより、
困惑と怒りが混ざったような顔だった。

「今、学校終わったのか」

 圭人は笑顔で言った。
顔が引きつっていることは自分でわかった。

 蒼は圭人の顔を一瞥して、表情を変えなかった。

「少し話したいんだけど」

 観念した。

---

 ファミレスは昼時を過ぎても混んでいた。
学生のグループ、子供連れの主婦、
サボっているふうの会社員。
話し声と食器の音が重なって、適度にうるさかった。

 案内されたのは奥のボックスシートだった。
四方を仕切られていて、
隣のテーブルの声は届かなかった。

 圭人は紅茶を頼んだ。
蒼はコーラと山盛りのポテトを頼んだ。
長くなる、と判断したのだろう。
圭人も同じことを思っていた。

 飲み物が来た。
蒼はコーラを一口飲んで、圭人を見た。

「付けてきたの?」

「違う」と圭人は言った。

「散歩の途中に本屋に寄っただけだ。
見かけたのは偶然だよ」

 蒼はしばらく圭人の顔を見ていた。

「……あのおじさんが
どうしても大型スーパーに用事があるって、
行きたくなかったのに連れて行かれたんだよね。
やっぱり見られちゃったし」

 少しふてくされた声だった。
怒りの矛先が圭人ではなく、別の場所に向いていた。

 圭人は紅茶のカップを持ったまま、
蒼の言葉を頭の中で整理した。

 あのおじさんが連れて行きたがった。
蒼は嫌だった。
それでも行った。

 ということは、あの男は藍の旦那ではない。

「パパ活、ってやつか」

 言葉が口をついて出た。
できれば言いたくなかった言葉だった。
でも他に言い方が見つからなかった。

 蒼は表情を変えなかった。

「そう。
お母さんは知らないけど、結構前からやってる」

 悪びれていなかった。
開き直りとも違った。
ただ、事実を述べるような言い方だった。

 圭人は黙ってポテトを一本取った。

 蒼の父親の言葉が頭に戻ってきた。
水商売か風俗で生きていけ、と言った男。
自分の娘にそう言った男の元で育てば、
こうなることもある。
論理としては繋がる。
繋がるが、
それで納得できるかどうかは別の話だった。

 だが、他人の家族の話だ。

 圭人には、とやかく言う立場がない。

 藍がこれを知ったらどう思うか、
という考えが頭をよぎった。
それもすぐに消した。
藍の感情も、圭人がどうにかする話ではなかった。

「お母さんに言う?」

 蒼が言った。
半分は諦めた声だった。
もう半分に何が入っているのか、
圭人には読み取れなかった。

「言わないよ」と圭人は答えた。

「家族の問題だし、俺は家族じゃないしな」

 蒼の顔が、動いた。

 怒りでも驚きでもなかった。
もっと小さい変化だった。
何かが、すっと引いたような顔だった。

「そうだね」

 声が、絞り出すようだった。

 圭人はその声を聞いて、
紅茶のカップをソーサーに戻した。

 言ってしまった、と思った。
正確なことを言った。
本当のことを言った。
でも、正確で本当のことが、
正しいこととは限らない。

 蒼の「そうだね」の中に入っていたものが
何だったのか、圭人にはわかった気がした。

 家族じゃない、と言われることを、
この子はもう何度も経験してきたのかもしれない。

 圭人はしばらく黙っていた。

 ファミレスの喧騒が、
ボックスシートの外から聞こえていた。

 山盛りのポテトが、
テーブルの真ん中で湯気を立てていた。
 

 

第三百十三弾「忘れられない人」

第三百十四弾「忘れられない人 その2」

第三百十五弾「忘れられない人 その3」

の続きです

 

 

## 八

「友達と遊びに行くなら小遣いあげてもいいけど」

 圭人は麦茶のコップを持ったまま、何気なく言った。

 蒼は一瞬、手を止めた。
それから圭人をじっと見た。
値踏みするような目ではなく、
何かを確認するような目だった。

「一応、私も今の状況で
そこまで脳天気な行動はしないよ」

 声は平坦だったが、その平坦さに何かが含まれていた。

 怒った、と圭人は思った。
正確には、怒りに近い何かだ。
子供扱いされた、と感じたのかもしれない。
それはそうだ、と圭人は思った。
この子はとっくに子供じゃない。
少なくとも、中身は。

 圭人が何か言いかけたとき、蒼の顔が変わった。

 さっきまでの表情が消えて、笑顔になった。
いたずらっぽい、少し計算のある笑いだった。

「それよりもさ、おじさんに興味あるかな~」

 声のトーンが変わった。
軽くなった。
でも軽いのは表面だけで、目は笑っていなかった。

「私、前に学生時代のお母さんに似てる
って言われたことあるんだけど、
おじさんはどう思う?」

 試している、と圭人は思った。

 何を試しているのかは、正確にはわからなかった。
圭人がどこまで動揺するか、
それとも自分のことをどう見ているか、
あるいはその両方か。
いずれにしても、これは真剣な問いではなく、
探りだった。

 圭人は蒼の顔を見た。

 似ている、という言葉は正確だった。
顎のライン、少し伏し目がちな目の角度、首の傾け方。
高校時代の藍の写真があったなら、
並べて比べたくなるくらい、輪郭が重なっていた。

 だが、違う。

 話し方が違う。
藍はもっと真っ直ぐ言葉を出す人間だった。
遠回しにしない、探りを入れない、
感じたことをそのまま言葉にする人間だった。
蒼はその逆だ。
言葉の手前に必ず何か一枚挟む。
直接触れるより前に、相手の反応を先に確認する。

 仕草だけが似ていた。

 ときどき、ふとした動作の中に、
かつての藍が一瞬だけ現れる。
コップを両手で持つ角度、
視線を外すときの首の動き。
そういう細部が重なるたびに、
圭人の中で何かが反応した。

 それはすぐに消した。

 消さなければならなかった。
蒼は藍ではない。
藍の娘だ。それ以上でも以下でもない。
過去の残像を今いる人間に重ねるのは、
相手に対して失礼だった。

「似てるんじゃないかな。俺もそう思うよ」

 圭人は言った。
声は平静だった。

 蒼はその返答を聞いて、また少し笑った。
さっきの笑いとは微妙に違う笑いだった。

 やはり見透かされた気がした。

 この子の感はどこから来るのだろう、
と圭人はふと思った。
両親や教師と付き合う中で育つ感覚というより、
もっと別の——大人の、
複雑な感情を間近で見続けてきた
人間が持つ感覚に近かった。

 根拠はなかった。
ただ、漠然と、そう感じた。

 それ以上は考えなかった。
考えたところで確かめる方法もなかったし、
確かめるべきことかどうかも、まだわからなかった。

---

## 九

 昼食は三人で食べた。

 藍が作った豚汁と白米と、昨日の残りの煮物。
質素だったが、きちんとした食事だった。

 食卓の会話は多くなかった。
圭人が今日は天気がいいと言って、
藍がそうだねと返した。
蒼は黙って食べていたが、食べ方は丁寧だった。

 食後、藍が立ち上がりながら言った。

「買い物行ってくる。
冷蔵庫の野菜が少なくなってきたから」

「一人で大丈夫?俺も行こうか」

 圭人は反射的に言った。

 藍は少し笑った。
困ったような、でも悪くない笑いだった。

「大丈夫。悪いから一人で行ってくるよ」

 圭人は財布から食費を出して渡した。
藍は金額を確認せずに受け取って、
エコバッグを持って出た。

 玄関のドアが閉まった。

 圭人はリビングに戻り、本を取りに行こうとした。

「じゃあ私もちょっと出てくるね」

 蒼の声がした。

 圭人が振り返ったときには、すでに廊下に向かっていた。

返事をする間もなかった。
玄関のドアが開いて、閉まった。

 やけに早かった。

 どこに行くのだろう、と圭人は思った。
友人に会うにしては、
準備らしい準備もしていなかった。
着替えた様子もなかったし、
どこかに連絡している気配もなかった。

 ただ出た。

 まあいいか、と圭人は思った。
高校生が休日に出かけること自体は、おかしくない。

 自室に戻り、本を開いた。
今度は文字が入ってきた。

---

 二時間半ほど経ってから、玄関の音がした。

 廊下に出ると、蒼が靴を脱いでいた。

 圭人は何気なく顔を見て、少し引っかかった。

 頬に薄く赤みがあった。
運動でもしたのか、と思った。
外を歩き回ったにしては少し違う感じもしたが、
特定できる根拠はなかった。

「おかえり」

「ただいまです」

 それだけで蒼は階段を上がっていった。

 圭人は自室に戻った。

---

 さらに一時間ほどして、今度は藍が帰ってきた。

 エコバッグを両手に持って、玄関で靴を脱いでいた。
重そうだったから、圭人は受け取りに行った。

「おかえり」

「ただいま。遅くなってごめん」

 バッグを受け取りながら、圭人は藍の顔を見た。

 疲れている、と思った。

 買い物の疲れ、というより、
何か別のものが混じっている疲れだった。
目の周りに力がなかった。
頬の色が、出かける前より少し落ちていた。

 大変だったのかな、と圭人は思った。
重い荷物を一人で持って、久しぶりの街を歩いて、
それだけで疲れることもある。

 それ以上は考えなかった。

「夕飯の支度は私がするから」
と藍は言って、キッチンに向かった。

 圭人は頷いて、自室に戻った。

 廊下を歩きながら、何かが引っかかっていた。

 何が、とは言えなかった。

 蒼の顔の赤みと、藍の疲れた目。
それぞれは別の話だ。
ただ、なんとなく、両方が頭の中に残った。

 自室のドアを閉めて、椅子に座った。

 本を開いた。

 文字は入ってきたが、どこかで何かが、
ずっと小さく引っかかっていた。
 

第三百十三弾「忘れられない人」

第三百十四弾「忘れられない人 その2」

の続きです

 

 

## 六

 自室のドアを閉めると、
圭人はそのまましばらく動かなかった。

 ドアに背中を預けて、天井を見た。
昭和の木目天井。
いつもの顔のような模様。
何も変わっていない。
変わっていないのに、部屋の空気が違う気がした。

 蒼の言葉が、頭の中で繰り返されていた。

 *父さんにもそう言われていたし。*

 その男が藍の夫だ。
高校生の娘に、
水商売か風俗で生きていけと言った男が。

 圭人は椅子に座った。
机の上に本が積んであった。
読みかけのまま伏せてある文庫本。
いつもならそれを開くのだが、
今日は手が伸びなかった。

 なぜ、そんな男を選んだのか。

 考えたくなかったが、考えずにいられなかった。

 圭人の記憶の中にある藍は、賢い人間だった。
感情に流されないわけではないが、
曲がったことを本能的に嫌う人間だった。
弱い人間を見下さず、強い人間に媚びず、
自分の軸を持っていた。
少なくとも、圭人にはそう見えていた。

 その藍が、親を捨て、妹を捨て、
周囲の全員の反対を押し切って、その男を選んだ。

 わからなかった。

 二十二年間、
圭人が「正しい」と信じていた像が、
根元から揺らいでいた。

 怒りがあった。

 誰に対する怒りかを言語化するのが難しかったが、
あった。
藍に対してではない、と思いたかったが、
完全にそうとも言えなかった。
その男に対してはある。
だが一番大きい怒りは、
もっと形のないものに向いていた。

 自分が幸せになってほしいと願い続けた人間が、
自分の想像の外でそういう選択をして、
そういう結果になっていた。
その事実に対する怒り。
理不尽さに対する怒り。

 そして——と圭人は目を閉じた
——その怒りの底には、もっと汚いものがあった。

 *自分を選んでいたら、
こんなことにはならなかったのに。*

 その思考が、頭をよぎった。
一瞬だったが、確かによぎった。

 圭人は自嘲した。

 なんて自惚れた考えだ、と思った。
まず前提が間違っている。
圭人が今の状態になれたのはただの偶然だ。
株が当たったのは運だった。
あの時期に始めて、あの銘柄を選んで、
退き際を間違えなかったのは、
才能でも努力でもなく、運の要素が大きかった。
高校生の藍にそれを見抜ける理由がない。
見抜けなくて当然だ。

 そして——そもそも、藍の感情は、
そういうこととは全く関係ない。

 好きか嫌いかというのは、
相手の将来の経済状況とは別の場所にある。
圭人が今の状態だったとしても、
藍が圭人を選んでいた保証はどこにもない。
むしろ、彼女は圭人を「弟みたい」と言い続けた。
それが答えだった。

 自分を選ばなかったから不幸になった、
などという論理は、
圭人の欲望が作り出した歪んだ計算だ。

 わかっている。
わかった上で、それでも頭の端にその思考がある。

 それが腹立たしかった。

 藍への怒りでも、その男への怒りでもなく、
自分自身の中にある汚い部分への怒りだった。

 善意だと言った。
蒼にそう言った。

 嘘だ、と圭人は思った。
全部が善意なわけがない。
どこかに見栄がある。
落ちぶれた彼女の前で、
自分だけは変わらずそこにいる、
という優越感がないとは言い切れない。
助けてやっている、
という感覚がゼロだとは言えない。

 汚い。

 だが人間とはそういうものだ、と圭人は思った。
善意と欲望と見栄と怒りが混ざり合っていないほど、
人間の感情は単純じゃない。

 問題は、それを外に出すかどうかだ。

 藍と蒼の前で出すことは、しない。

 欲望は自室に置いていく。
見栄も、怒りも、ここに置いていく。
外に持ち出すのは行動だけでいい。
行動が善意の形をしていれば、
動機が何であれ、相手には善意として届く。

 動機を純粋にする必要はない。
ただ、動機を武器にしなければいい。

 圭人はそう決めた。

 今更、藍に何かしようとは思わない。
それだけは守る。

 そう自分に言い聞かせて、
伏せてある文庫本を手に取った。

 文字は、しばらく頭に入ってこなかった。

---

## 七

 正午に近くなって、喉が渇いた。

 本を伏せて立ち上がり、ドアを開けた。
廊下は静かだった。
階段を下り、リビングの前を通りかかったとき、
声が聞こえた。

 藍の声だった。

 電話をしているようだった。
内容まではっきりとは聞き取れなかったが、
声のトーンが——柔らかかった。
警戒のない、力の抜けた声だった。
この家に来てから、
圭人の前では見せたことのない声の出し方だった。

 圭人は足を止めなかった。

 止めかけて、止めなかった。

 キッチンに入り、冷蔵庫を開け、
麦茶のボトルを取り出した。

 旦那ではないだろう。
あの声で旦那と話す理由がない。
では誰か。
親密な誰かがいるなら、なぜここに来た——。

 圭人は自分の思考を途中で切った。

 関係ない。

 自分には関係ない。

 藍に親密な相手がいたとしても、それはそれだ。
圭人が口を挟む話でも、気にする話でもない。
彼女は友人であり、かつて片想いしていた幼馴染であり、

今は家に置いている人間だ。
それ以上でも以下でもない。

 コップを棚から出して、麦茶を注いだ。

 一気に飲んだ。

 冷たい液体が喉を通って、胸のあたりまで冷えた。
少し、気持ちが落ち着いた。

「私にも麦茶入れてくれます?」

 声がして、圭人は手の中のコップを
取り落としそうになった。

 振り返ると、蒼がキッチンの入口に立っていた。
靴下を履いていたから足音がしなかったのか、
それとも圭人が気づかなかったのか。

「……いつからいた」

「さっき来ました」

 圭人はもう一つコップを出して、麦茶を注いだ。
カウンター越しに渡すと、
蒼は受け取って、キッチンの端の椅子に座った。

 一口飲んで、蒼は圭人を見た。

「お母さんの電話の相手、気になります?」

 真っ直ぐな目だった。
探っているのか、からかっているのか、
ただ確認しているのか、判別しにくかった。

「別に気にならないよ」

 圭人は冷静に返した。
声のトーンは、自分でも悪くなかったと思った。

 蒼は圭人の顔を見て、少し笑った。

 声には出さない、小さな笑いだった。
口元だけが動いた。

 その笑い方が、妙に大人びていた。
高校生の顔つきではなかった。
この子はいろいろなものを早く見てきたんだろう、
と圭人は思った。
大人の欺瞞を見慣れた目だ。

 圭人は何も言わなかった。

 蒼も何も言わなかった。

 キッチンに、冷蔵庫の低い音だけがあった。

 

第三百十三弾「忘れられない人」の続きです

 

 

# 忘れられない人(続)

## 四

 同居が始まった。

 最初の朝、圭人が階段を下りると台所から音がした。
包丁の音と、水の音。
コーヒーの匂いはなく、代わりに味噌の匂いがした。

 リビングに入ると、テーブルに朝食が並んでいた。
ご飯と味噌汁と卵焼き。
シンプルだったが、ちゃんとした食事だった。

 圭人は二十年近く、
朝に誰かが作った食事をテーブルで
食べたことがなかった。

「おはよう」と藍が台所から言った。

「卵焼き、甘い方と塩の方どっちが好き?」

「塩で」

「じゃあ次からそうする」

 それだけの会話だったが、圭人は椅子に座りながら、
少し奇妙な感覚を覚えた。
日常だ、と思った。
ただの朝の日常。
でもこの家にはずっとなかったものだった。

 蒼は少し遅れて降りてきて、
無言で席に着き、無言で食べた。
挨拶はしなかったが、食事は残さなかった。

---

 家事の分担は、自然に決まっていった。

 藍は几帳面だった。
洗い物はすぐに片づけ、洗濯は朝のうちに回し、
掃除は週に二度ほど丁寧にやった。
圭人の部屋には入らなかった。
暗黙の了解として、
圭人の部屋のドアは彼の領域だった。

 圭人は特に何も変えなかった。
午前中は部屋にいて、午後から散歩に出ることもある。
宅配が届けば受け取る。
夕食は藍が作ることが多くなった。

 三日目の夕方、
藍がリビングのソファに座って求人誌を広げていた。

 圭人は横を通り過ぎかけて、止まった。

「ハローワークの方が種類多いよ」

「うん、来週行こうと思ってる」

 それだけ言って、圭人は自室に戻った。
踏み込まなかった。
踏み込む必要がまだないと思っていた。

 四日目の夕食後、
藍が「ところで」と切り出した。

 蒼はもう自室に上がっていた。
テーブルには圭人と藍の二人だけで、麦茶が二つあった。

「いつも部屋に籠ってるけど、
圭人って何の仕事してるの?」

 来た、と思った。

 圭人は一秒、考えた。
本当のことを言う選択肢が頭をかすめたが、消えた。
「資産が五億あるから働いていない」
というのは、たとえ事実でも、
この状況で言える言葉ではなかった。
家に置いてやるから礼を言え、と言っているに等しい。
それは違う。

「在宅で、デザインの仕事をちょこちょこと」

「デザイン?」

「ロゴとか、ウェブとか。
高校のとき美術部にいたの覚えてるだろ。その流れで」

 藍はしばらく圭人の顔を見た。

 嘘だと思っているかもしれない、と圭人は感じた。
でも藍は何も言わなかった。

「そっか」と言って、麦茶を飲んだ。

「集中したいから部屋に籠るの?」

「まあ、そういうこと」

「邪魔してたらごめんね」

「邪魔じゃない」

 少しわざとらしかったかもしれない、
と圭人は思ったが、藍の顔に疑う色はなかった。
あるいは、今の自分の状況では
他人の仕事の細かいことに頭を使う余裕が
ないのかもしれなかった。
それはそれで、少し気の毒だった。

---

 週明け、圭人は蒼を呼び止めた。

 登校前の玄関先で、
「電車は何駅乗るんだ」と聞いた。

「八駅くらい」

「定期は今どうしてる」

「切れてる。
昨日は母さんにもらった
残り少ないお金でなんとか乗った」

 圭人は財布を取り出した。
「三ヶ月分の定期代、今日買ってこい。
いくらかかるか調べて、後で言ってくれ」

 蒼は少し止まった。

「……なんで」

「学校行くのに金かかるだろ」

「別にいい」

「良くない。遅刻するだろ」

 蒼は圭人の顔を見た。
何かを測るような目だった。
それから視線を外して
「わかった」とだけ言って出て行った。

 夕方、蒼は金額をメモに書いて圭人に渡した。
言葉はなかった。
圭人は現金を封筒に入れて渡した。
それだけだった。

---

 同じ日の夜、圭人は藍と向き合って話した。

 夕食が終わり、蒼が席を立った後、
圭人は少し迷ってから口を開いた。

「生活費の話をしていいか」

 藍は表情を固くした。

「それは私が早く仕事を見つけて——」

「そうじゃなくて」と圭人は遮った。

「仕事が決まるまでの話だ。
焦って変な仕事に就く必要はないから、ちゃんと探せ。
その間の生活費は俺が出す」

「……そんな、それは申し訳なくて」

「毎月十五万でどうだ。
足りなかったらその都度言ってくれ」

 藍は黙った。俯いた。
しばらく何も言わなかった。

「圭人」

「なに」

「なんで、そこまで」

 圭人はしばらく考えた。
答えを持っていないわけではなかったが、
正確に言葉にするのが難しかった。

「困ってる人間が目の前にいて、俺に余裕があるから、
それだけのことだよ」

 嘘ではなかった。
ただ、全部でもなかった。
でも今、全部を言う必要はなかった。

 藍は顔を上げた。
目が赤かったが、泣かなかった。

「わかった。ありがとう。絶対に返す」

「返さなくていい」

「返す」

 圭人は何も言わなかった。
藍が「返す」と言えることが、
今の彼女に必要なことだろうと思った。
だから黙って頷いた。

---

## 五

 最初の週末は、静かに来た。

 土曜日の朝、藍は早起きして台所に立っていた。
蒼は昼近くまで寝ていた。
圭人はいつも通り九時過ぎに起きて、
コーヒーを淹れて、本を読んだ。

 三人の休日が、どういうものになるのか、
まだ誰にも形が見えていなかった。

 昼食を食べ終わり、藍が食器を洗い始めたころ、
圭人が自室に戻ろうとして廊下に出ると、
部屋の前に蒼が立っていた。

 壁に背中を預けて、
腕を組んで、足を組んで立っていた。
待っていた、という格好だった。

「ちょっと話があるんだけど」

 圭人を見て言った。
声はぶっきらぼうだったが、眼は真剣だった。

 圭人は少し考えてから「こっち来い」と言って、
廊下の奥の部屋に向かった。
今は物置になっているが、もともと客間だった部屋だ。
段ボールがいくつかあるだけで、
座れるスペースはあった。

 二人で入って、圭人がドアを閉めた。

「どうせ藍に聞かれたくない話なんだろ」

 蒼は少し驚いた顔をした。それから頷いた。

「……母さんと、どういう関係なの。
元カノとか、そういう感じ?」

 やっぱりそこか、と圭人は思った。
当然だ。
家族でもない、親戚でもない、
四十歳の独身男が急に二人を泊めて
生活費まで出している。
むしろ疑問に思わない方がおかしい。

「付き合ったことは一度もない」と圭人は言った。

「学生時代に俺が片想いしてただけだ」

 蒼の表情が変わった。
予想と違う答えだったのだろう、
目が少し大きくなった。

「付き合った事もいないのに、
家に泊めて、生活費まで出すの?」

「そうなる」

「……母さんに弱みでも握られてるの?」

 その発想が出てくるところに、
この子の今までの生活が滲んでいる、と圭人は思った。
大人の善意に対して、まず裏を疑う。
それはこの年齢の子供が自然に身につける感覚ではない。

「弱みはない」と圭人は言った。

「惚れた男の弱みってやつだよ。裏の意図は何もない。
これを切っ掛けにどうにかなろうとも思ってない。
ただの善意だ」

 蒼はじっと圭人を見た。
信じているのか疑っているのか、
表情からは読み取れなかった。

 やがて、少し呆れたような顔になった。

「とんだお人好しだね。
私でも騙してお金ふんだくれそう」

 そうだな、と圭人は思った。
実際その通りだろう。
でもそれでいい、とも思っていた。
騙されることより、疑って動かないことの方が、
自分には似合わなかった。

 圭人は笑顔だけ返した。

 それから表情を戻して、蒼を見た。

「君は今後どうするんだ。
もう高校生なんだから、進路とか、
今後どうしたいか考えないといけないだろ。
状況が状況だけに、時間がないんじゃないか」

 蒼の顔から表情が消えた。

 空白が、数秒あった。

「……将来なんて、どうでもいい」

 声は平坦だった。
諦めではなく、
最初からそこに向いていない感じだった。

「やりたいこともないし。
水商売か風俗でもやって生きていくしかないだろうね。
父さんにも、そう言われてたし」

 圭人は黙って聞いた。

 父さんに、そう言われていた。

 その一言で、多くのことがわかった。
父親が娘に言う言葉じゃない。
どんな文脈であれ、高校生の娘に対して
「水商売か風俗で生きていけ」と言う人間が、
どんな人間かは、言葉にしなくてもわかった。

 藍が反対を押し切って結婚した相手が、
そういう人間だったということも。

「とりあえず」と圭人はゆっくり言った。

「将来の話をするとき、
水商売と風俗は選択肢の外に置いてほしい」

 蒼は圭人を見た。

「どうしてもやりたいというなら俺が止める権利はない。

でも、しょうがないからやる、というなら、
もう少しいろいろ考えてほしい。
多少なりとも関わった以上、
ある程度の面倒は見るつもりだから」

 蒼はしばらく無言だった。

 それから、少し首を傾けた。

「……なんでそこまでするの」

「さっきも言ったろ」

「善意、って言った。
それは母さんへの話でしょ。
私には関係ない」

 圭人は少し考えた。

「関係ある。
同じ屋根の下にいる以上、
君の今後は俺には無関係じゃない。
それだけのことだ」

 蒼は圭人の顔を、また測るように見た。

 信じているわけではないだろう、と圭人は思った。
ただ、こういう大人が世の中にいるのだ、
という事実として受け取ってくれればそれでいい。
今はそれで十分だった。

 蒼は何も言わなかった。
返事の代わりに、少し視線を外して、窓の外を見た。

 窓の外には、古い庭があった。

 圭人が剪定をさぼり続けた植木が、
好き放題に枝を伸ばしていた。
手入れされていないが、枯れてはいなかった。
ただそこで、勝手に生きていた。

 蒼はその庭を、何秒か眺めていた。

 何を考えているかは、わからなかった。
 

 

初恋の人や元カノが

ある日 突然 子供と一緒にやって来る

そんな物語ってよくありますよね

自分もそういうお話を作ってみました

 

 

# 忘れられない人

## 一

 小学校三年生の春、
保田圭人は自分が恋をしているということを
初めて理解した。

 理解した、というより、
理解せざるを得なくなった、
というほうが正確かもしれない。
朝、隣の家の門から彼女が出てきて、
ランドセルを背負って振り返り、
「圭人、早く」と言ったとき、
胸の奥でなにかが締まった。
物理的に、肋骨のあたりがきつくなるような感覚だった。

走って追いつき、横に並んでも、
その感覚はしばらく消えなかった。
なんだろう、これは、と思った。
風邪とは違う。腹が痛いのとも違う。
でも確かになにかがある。

 三村藍(みむら・あい)。
同い年で、同じクラスで、家が隣で、
物心ついたときからずっとそこにいた。
圭人にとって彼女は空気や水に近い存在だった。
いて当たり前で、いないと息ができない。
ただ当時の圭人にはその感覚を
言語化する能力がなかったから、
それが恋愛感情だと気づいたのは、
別の男の子が彼女に話しかけているのを
見て初めて感じたあの嫌な感じ
——胃の下のほうが冷たくなるような、
落ち着かないような、
それでいてなにかに怒っているような感覚
——によってだった。

 嫉妬だ、と圭人は後になって知った。

 彼女はとにかく頭が良かった。
テストはいつもクラスで上位で、
でもそれをひけらかすことが一切なかった。
誰かが答えを間違えても笑わなかった。
逆に休み時間にこっそり教えに行くような子だった。
運動もそこそこ得意で、
足が特別速いわけではなかったが
体育の授業では常にきびきびと動いた。
背は圭人より少し低かったが姿勢が良く、
遠くからでもすぐ見つけられた。

 圭人は彼女の隣が好きだった。
給食のとき、掃除のとき、登下校のとき、
隣にいると世界が少し明るく見えた。
それは比喩ではなく、本当に色が違って見えた。
空の青が濃くなるような気がした。

 告白というものを圭人が初めて試みたのは
小学六年生の秋だった。
放課後、校庭の隅の鉄棒のそばで、
「好きだ」と言った。
言葉はごく短く、
うまく文章にすることもできなかった。

 藍は少し驚いた顔をした後、困ったように笑った。

「圭人は弟みたいだから」

 弟。
その言葉が圭人の中で長いこと響いた。
同い年なのに、弟。意味がわからなかった。
でも彼女の顔が真剣で、
嘘をついている様子がまったくなかったから、
腹を立てる気にもなれなかった。
なんで弟なんだ、とは思った。
ただ、好きなことに変わりはなかった。

 二回目は中学二年生の夏だった。

 そのころ圭人は少し背が伸びて、
彼女より頭半分高くなっていた。
部活のバスケで日に焼けていた。
自分なりに少し自信があった。
川沿いの土手を二人で歩いて帰る途中、また言った。
今度は少し長く、練習もした。

「俺はずっとお前のことが好きだ。付き合ってほしい」

 藍はしばらく黙って歩いていた。
夕暮れ時で、川面がオレンジ色に光っていた。

「ごめん」

 やはり短い言葉だった。

「圭人のことは本当に大事に思ってる。
でも、そういうふうには、やっぱり思えないんだよね。
なんでかわかんないけど、
圭人といると安心しすぎちゃうっていうか」

 安心しすぎる。
それは欠点なのか、と思った。
でも怒れなかった。
彼女が困っているのが伝わって、
むしろ申し訳なくなった。
圭人はそういう男だった。

 三回目は高校三年生の春、
進路が決まり始めたころだった。

 藍は東京の大学を受験すると言っていた。
文学部で、小説が書きたいのだと、
照れながら話していた。
圭人は地元の大学に進む予定だった。

 桜が散りかけたある日の放課後、
昇降口の前で圭人は最後の力を絞り出した。
三回目だからうまく言えるかと思ったが、
むしろ逆だった。
声が震えた。

「東京に行く前に言っておきたい。
俺はずっとお前が好きだった。
これからも多分そうだと思う。
だから、もう一度だけ、考えてくれないか」

 藍は圭人の顔をまっすぐ見た。
今までで一番真剣な目だった。

「ありがとう」と彼女は言った。

「ちゃんと答えるね。
ごめん、やっぱり無理だ。
圭人のことを傷つけたくないから正直に言う。
好きだけど、好きじゃない。
友達とか、家族みたいな好きで、
それ以上になる気がしない。
ごめんね、本当に」

 それが答えだった。

 卒業式の日、
藍は白いセーターを着てきた。
学校の外で友人たちと写真を撮り、
笑い、泣いていた。
圭人は少し離れた場所から彼女の後ろ姿を眺めた。

 春の光の中で、彼女の黒い髪が風に揺れていた。

 幸せになってくれ、と圭人は思った。
声には出さなかった。
誰かに聞かせる言葉でもなかった。
ただ胸の中でそれだけを繰り返した。
幸せになってくれ。
俺はお前を好きだったけど、
それはお前には関係ない話だから、
お前はただ幸せになってくれ。

 彼女の後ろ姿が人混みに消えていった。

---

## 二

 あれから二十二年が経った。

 保田圭人は四十歳になっていた。

 彼の一日はだいたいこんなふうに始まる。
午前九時ごろ目が覚める。
起きることに急ぐ理由がないから、
しばらく天井を眺める。
昭和五十年代に建てられた一軒家の天井は
木目があって、よく見ると顔のような模様がある。
圭人はその顔に十年以上前から名前をつけていない。
つける必要がなかった。

 台所でコーヒーを淹れる。
インスタントではなく、ちゃんとドリップする。
それだけは手を抜かない。
外は静かで、車の音が遠くに聞こえる程度だ。

 その家は圭人が高校を卒業した後も両親が住み続け、
十年前に父が、その翌年に母が
相次いで他界したことで圭人が相続した。
圭人はすでに地元に戻っていたから、
引き継ぐことに躊躇はなかった。
建て替えも引っ越しも考えなかった。
両親が使っていた家具のほとんどをそのまま残した。
動かす理由が思いつかなかった。

 外観は古い。
白かったモルタルの壁は年月で薄く汚れ、
玄関前の植木は圭人が剪定に不熱心なため
少しだぼついている。
近所の人から見れば、
そこに住んでいる男の生活は
よくわからないはずだった。

 四十歳、独身、無職に見える。
昼間から家にいる。
仕事らしい仕事に出かけることもなく、
スーツを着ることもなく、
それでいて家が差し押さえられるわけでも
夜逃げするわけでもない。
宅配業者が週に何度も訪ねてくる。
本だったり、食材だったり、家電の部品だったり。
インターフォンのカメラで確認して、すぐ出る。
居留守を使ったことがない。
それだけは近所でも知られていた。

 食事は半分が自炊、半分が出前だった。
自炊といっても手の込んだものは作らない。
炒め物、煮物、時々パスタ。
出前は中華か蕎麦が多かった。
食にこだわりはなかったが、不摂生でもなかった。
体型は大学時代とほぼ変わらず、
くたびれてはいるが不健康には見えなかった。

 経済的な実態を知る人間は、
圭人の周囲にほぼいなかった。

 大学に入学した年の秋、
暇つぶしのつもりで始めた株取引が、
本人も説明しきれない理由で当たり続けた。
最初は十万円だった元手が、三年で二千万を超えた。
そこで怖くなって一度やめたが、
しばらくして再開すると再び伸びた。
圭人は経済学を専攻していたわけでも、
金融の知識が特別豊富だったわけでもない。
ただ、数字を読む感覚と、
退くべきときに退く判断が、なぜか噛み合っていた。

 三十歳の秋、
資産が五億を超えた時点で、
圭人はきっぱりと手を引いた。

 もうやらない、と決めた。
根拠はなかったが、もうここまででいい、
という感覚があった。
それ以上増やすことに意味を見出せなかった。
増やしてどうする、という問いに対する答えが、
自分の中に存在しなかった。

 それからは運用を最小限にして、
あとはただ暮らしていた。

 贅沢はしなかった。
する気がなかった。
旅行に行くでも、高い車に乗るでも、
広い家に引っ越すでもなく、
両親の残した昭和の一軒家で、
古い家具に囲まれて、静かに暮らし続けた。
本は大量に買ったが、
それ以外の出費は驚くほど少なかった。

 なぜそんな生き方をしているのか、と問われたら、
圭人はうまく答えられなかっただろう。

 ただ、どこかで、まだ動く気になれないでいる、
という感覚が根底にあった。

 それが三村藍と関係しているかどうか、
圭人自身も確信を持って言えなかった。

 二十代の前半、
女性から告白されたことが何度かあった。
そのたびに、断った。
断る瞬間に決まって彼女の顔が浮かんだ。
比較しているつもりはなかった。
でも浮かんだ。
卒業式の日の彼女の後ろ姿が、
脳裏のどこかに焼きついていて、消えなかった。

 拗らせすぎだ、とは自分でもわかっていた。
二十代の後半には、そういう自覚ははっきりあった。
よくある話だ。
初恋を引きずって生きている男。
そう言ってしまえば簡単だった。

 でもどうしようもなかった。

 彼女への気持ちが消えないというより、
他の誰かへの気持ちが湧いてこなかった。
積極的に藍を想い続けているわけでもない。
ただ、感情の向かう先が、ずっとそこしかなかった。

 四十歳になったとき、
圭人はふと、
このまま一生こうして終わるのかもしれないと思った。

 怖くはなかった。
ただ、少し静かな気持ちがした。

---

## 三

 その日の昼、圭人は台所で焼きそばを作っていた。

 冷蔵庫に残っていたキャベツともやしと豚肉を炒め、
麺を投入してソースを絡める。
特別うまいわけではないが、手軽で腹に溜まる。
一人分の昼食としては十分だった。

 インターフォンではなく、呼び鈴が鳴った。

 古い家には呼び鈴がある。
インターフォンを後から設置したが、
外の柱には昔のままのベル式が残っていた。
宅配業者はインターフォンを使うから、
ベルが鳴ることは滅多になかった。

 圭人はコンロの火を止め、
フライ返しを置いて、廊下を歩いた。

 玄関を開けた。

 そこに二人の女が立っていた。

 一人は四十前後の女性で、
紺色の薄手のジャケットを着ていた。
小さめのボストンバッグと、
布製のトートバッグを持っていた。
顔は——。

 圭人は一瞬、時間が止まった感覚を覚えた。

 顔は、変わっていた。
二十二年分、確かに変わっていた。
目の端に小さな皺が生まれ、頬の線が少し変わり、
笑うと口元に深みが出るようになっていた。

 でも、わかった。

 一秒もかからず、わかった。

「圭人、久しぶり」

 彼女は言った。
声も変わっていた。
でも、やはりわかった。

 三村藍だった。

 隣には女の子が立っていた。
高校生くらいの、制服姿ではないが
年齢はそれくらいに見える女の子。
顎のラインと、少し伏し目がちな目が、
高校時代の藍によく似ていた。
娘だ、と圭人は直感した。

「まだ実家にいたんだね。もういないかと思ってたよ」

 藍は言って、笑った。

 笑顔の中に、何かがあった。
疲れ、と言えばいいか。
眉の間のわずかな緊張と、
口角の上がり方がどこか力を使っているような。
二十二年前の彼女が持っていた、
あの屈託のない明るさとは、少し違った。

 圭人は返事をしようとして、
自分の声が出るかどうか一瞬わからなかった。

「久しぶりだね。高校卒業して以来かな。
実家に帰って来たの?」

 声は出た。
自分でも驚くほど平坦に出た。
ただ、言い終えた後に言葉が
宙に浮いているような奇妙な感覚があった。
動揺は、確かにあった。
心臓のあたりが、うるさかった。

 藍は圭人の問いに、すぐには答えなかった。
少し俯いて、数秒があった。

「——少し、上がらせてもらって、話してもいいかな」

 声は静かだった。
消えそうなほどではなかったが、力がなかった。

---

リビングは、圭人が思っていたより見られる状態だった。

 自室は本が積み上がっていたが、
リビングはそうでもなかった。
母が使っていた古い木のテーブルと、布張りのソファ。
棚に文庫本が何冊か。
テレビはあるが小型で、存在感がなかった。
飾り気はなかったが、散らかってはいなかった。

 圭人は二人を座らせて、冷蔵庫から麦茶を出した。
コップに注いでテーブルに置き、
向かいに腰を下ろした。

 自室じゃなくてよかった、と思った。
その思考が少し可笑しくて、
自分でも気づかないくらい微かに表情が緩んだ。

 藍は麦茶のコップを両手で持って、少し下を向いていた。

娘はテーブルの端で膝に手を置いて大人しくしていた。

「実は——」

 藍は切り出した。
声のトーンが変わった。
話す前に一度息を整えるような、間があった。

「夫のDVで、家を出て来たんだけど」

 圭人は黙って聞いた。

「うち、両親が数年前に亡くなって。
実家には妹が住んでるんだけど、
結婚するとき両親にも妹にも反対されて、
それでも結婚したくて、
家族と縁を切る形で結婚したから。
妹にはよく思われていなくて」

 彼女は一度止まった。
言葉を選んでいるのか、
感情を整えているのか、
判断がつかなかった。
隣の娘はじっとしていた。

「今更、
DVで家出したから置いてほしいって、言い辛くて。
許してもらえるとも思えなくて」

 泣きそうだった。
でも泣かなかった。
娘の手前だろう、と圭人は思った。

 圭人は話を聞きながら、少し考えた。

 よくあるパターンだ、という言葉が最初に頭を過ぎった。

それは冷たい言葉ではなく、ただの観察だった。
若い女性に好かれる男というのは、
どこか共通した特徴がある。
外見が派手、話が面白い、どこか危うい雰囲気がある。
チョイ悪、という言葉がある。
若いうちはそれが魅力に見える。
でも多くの場合、その種の男は将来を真剣に考えない。
努力を嫌う。
その場の快楽に正直すぎる。

 そしてある日、女の方が現実の重さに気づく。

 子供ができている。
借金がある。
暴力がある。
逃げようとすると追ってくる。
友人も家族も離れている。

 よくある話だ。
本当によくある話だ。

 でも——。

 まさか藍が、と圭人は思った。

 頭が良くて、真っ直ぐで、
弱い人に優しくて、曲がったことが嫌いで。

 そういう人間が、なぜ。

 しかし、考えてみれば、それが人間だ。
どれだけ賢くても、どれだけ優しくても、
恋愛のときだけ別の回路が動く。
二十二年の間に彼女の周りで何があったか、
圭人には何もわからない。
何かが彼女の判断を変えた。
それはその男の問題かもしれないし、
そのときの藍の問題かもしれないし、
家族との摩擦が影響したかもしれない。
どれかひとつが原因だったとも思えなかった。

 人の人生は、そんなに単純じゃない。

 圭人は今まで二十二年、
彼女を心のどこかで「完璧な人」として保存してきたと、

その瞬間に気づいた。
三回断られた彼女。
幸せになってくれと見送った彼女。
その像は、時間の中で動かなかった。
更新されることがなかった。

 だが目の前にいるのは、
四十歳近くの、疲れた女性だった。

「これからどうするんだ?ひとまずホテルとか?」

 圭人は聞いた。

 藍は顔を上げずに、しばらく黙っていた。

 やがて、ほとんど聞こえないくらいの声で言った。

「——ここに、泊めてもらえないかな」

 圭人は少し止まった。

「持てるだけのものは持ってきたんだけど。
お金は、ほとんどなくて。余裕が、ない」

 彼女の声が、わずかに震えていた。

 圭人は部屋の中を一度見回した。
古いリビング。
一人分の暮らし。
誰かを迎えたことが、ほとんどなかった空間。

 多分、友人のところにはもう行った。
知人にも頼った。
誰かのところに当たって、もうここしかなかった。
そういうことだろう。
つまり自分は、彼女にとって、
最後に残った選択肢だった。

 それが少し、痛かった。

 でも——いや、違う。

 どうでもいい。
順番はどうでもいい。

「部屋、空いてるから」と圭人は言った。
なるべく普通に聞こえるように。

「しばらく泊まっていいよ」

 藍の顔が、かすかに変わった。
目に水気が出た気がしたが、彼女はこらえた。

「ありがとう。本当に助かる」

 圭人は頷いて、麦茶を一口飲んだ。

 突然、二人分の人間がこの家に加わる。
家族でもない。
赤の他人、と言えば言えるし、幼馴染と言えば言える。
どちらが正確かわからなかった。

 これからどうなるんだろう、と思った。

 答えは持っていなかった。

 台所では、焼きそばがまだフライパンの上にあった。
 

 

第三百十弾「方舟、果てなき宙を往く ——最後の地球人たちの記録——」

の続きです

 

 

方舟、深海を往く
——海中都市の記録——

第一章 もう一つの脱出

宇宙だけが、逃げ場ではなかった。

歴史は勝者の物語を好む。
生き残った人類の大部分がアルゴ・ノヴァに乗り込み、
星々へ向かった
——その叙事詩はあまりにも劇的で、
語り継がれるにはあまりにも都合がよかった。
しかし、宇宙へ行けなかった者たちもいた。
そして最初から、
宇宙へ行くつもりのなかった者たちもいた。

後者は少数だった。
最初は、わずか八千人。
彼らは科学者、海洋工学者、潜水技術者、
環境生態学者、医師、そして少数の哲学者だった。
共通していたのは、一つの確信だった
——人間は地球を離れて生きられない、と。

宇宙船に詰め込まれた人類が何世代も生き延びられると、

彼らは信じなかった。
閉鎖した鉄の器の中で、人の精神は耐えられない。
それよりも、地球そのものの中に潜ることの方が、
はるかに現実的だと。
彼らが目をつけたのは、海だった。

構想そのものは、既にあった。
二十一世紀初頭から、世界各地で海中居住の
実験施設が運用されていた。
日本の海洋研究機構が相模湾の大陸棚に設置した
長期滞在型実験ステーション。
欧州海洋研究連合がノルウェー沿岸の海底に建設した
多目的居住モジュール。
中国が東シナ海の浅海域に展開した採掘・居住複合施設。

これらは実験施設にすぎなかったが、
技術の蓄積は着実にあった。

もう一つの材料は、廃材だった。
アルゴ・ノヴァは本番機だった。
しかしその建造過程で、
いくつかの試作船体が作られていた。
居住区モジュールの与圧試験体。
推進システムの実機テスト用船体。
生命維持系の長期実証機。
これらは本番機が完成した時点で用済みとなり、
軌道上に放置されていた。
それを回収して海底に沈めることを、
最初に提案したのはある日本人の海洋構造工学者だった。

「宇宙用に設計された与圧構造体は、
海中圧力にも耐えられる。
方向が違うだけで、問題の本質は同じだ」

その言葉は正しかった。
試作船体は海底に沈められ、
既存の実験施設と接続された。
そこへ潜水艦が次々と連結された。商
業用の大型潜水艇、軍の退役潜水艦、
深海探査用の特殊潜航艇
——入手できるものはすべて繋ぎ合わされた。
溶接技術と高圧シールが限界まで使われ、
それでも足りないところは即席の連結架が埋めた。
見た目は美しくなかった。
しかし機能した。

そこへ、望まぬ人々が殺到した。
宇宙へ行けなかった者たちが、海中都市を目指した。
最初のシャトルが地球に戻らなくなったのは、
汚染から四か月後のことだった。
軌道上の収容能力が飽和したこと、
地上の発射場が次々と機能不全に陥ったこと、
そして単純に燃料が尽きたこと。
理由は複合的だったが、
結果は単純だった——宇宙への道は閉じた。

地上にはまだ、膨大な数の人間が残っていた。
放射性塵の中を逃げ惑い、食料を奪い合い、
それでも生きようとしていた人々が。
彼らの多くは沿岸に向かった。
海中都市の存在は、断片的な情報として
世界中に知られていた。
精度の低い情報がネットワーク経由で拡散し、
「海底に都市がある」
「海に潜れば生き延びられる」という噂が広まった。
沿岸の都市が崩壊していく中、
それは希望の言葉だった。

海岸線に人が溢れた。
潜水艇を持つ者は海へ潜った。
漁船に乗り込み、ダイビング機材を担いで
飛び込んだ者もいた。
連結モジュールの外壁を叩き続け、
外から声を上げ続けた末に内部に通された者もいた。
死んだ者もいた。
圧力に耐えられず、連結部の失敗により海水が流入し、
あるいは単純に体力が尽きて。

それでも人は来た。
最終的に、海中都市の人口は約二億人に達した。
当初の収容想定の数千倍だった。
モジュールとモジュールの隙間に
仮設の与圧テントが張られ、
潜水艦の内部は二段三段のベッドで埋まった。
廊下を歩くことすら困難な区画ができた。

そしてその中に、
重度の放射能障害を負った者たちがいた。
数千人。彼らは体の奥から静かに壊れていった。
骨髄が機能を失い、臓器が出血した。
海中都市の医療設備は設計定員を
遥かに超えた患者を前にして、
手を尽くしたが間に合わなかった。
数年のうちに、彼らはほぼ全員が亡くなった。
生き残った者たちは、その死を看取った。
そしてそれを、忘れなかった。

——海底の地図

大陸棚は、海中都市にとって理想的な土台だった。
水深は場所によって異なったが、
多くの主要施設は水深五十メートルから
二百メートルの範囲に位置していた。
そこは太陽光がかろうじて届く境界域であり、
地盤は安定し、海底の堆積物は豊かな資源を抱えていた。
特に日本海と東シナ海の施設群は突出した規模を誇った。

日本海底都市群「深海」は、
能登半島沖から対馬海峡にかけての
大陸棚に広がる複合施設だった。
旧海洋研究機構の実験ステーションを核として、
アルゴ・ノヴァの試作船体第二号機
「プロトΣ(シグマ)」が海底に横たわっていた。
全長三百メートルのその鋼鉄の柱を中心に、
無数の潜水艦と居住モジュールが放射状に伸びていた。
まるで海底に根を張る巨木のように。
最終的に日本海底都市群の人口は三千万人を超えた。

東シナ海の「海原(かいげん)」は、
さらに大規模だった。
中国大陸棚の豊かな堆積層に立地し、
以前から開発されていた海底資源採掘施設の
インフラが生きた。
人口は五千万に達し、
単一の海中都市圏としては最大だった。
中国語、朝鮮語、日本語、ベトナム語、インドネシア語
——東アジア・東南アジアのあらゆる言語が飛び交う、
混沌とした活気を持つ場所になった。

北海の「ノルド・ディープ」、
地中海の「マール・プロフォンド」、
東アフリカ沿岸の「バハリ」、
南米太平洋岸の「マール・プロフンド」
——世界各地の大陸棚に、
それぞれの規模と色彩を持った海中都市が誕生した。

地域柄、日本海や東シナ海には
アジア系の住民が多かったが、
宇宙への脱出が地理的条件を無視して行われた以上、
海中都市への流入も同様だった。

「深海」には中東からの難民と
北欧からの研究者が共に暮らし、

「海原」にはアフリカから脱出した家族連れと
南米のエンジニアが隣り合った。

信仰も、言語も、食習慣も、価値観も、
異なる人々が水圧と酸素と静寂を共有した。

対立もあった。
当然だった。
しかし不思議なことに、海中という環境は
人々を団結させる力を持っていた。
壁の向こうは海だという事実
——それは常に、細かい諍いを相対化した。
喧嘩している場合ではない。
ここでは、誰もが「生き残った側」なのだから。

第二章 海が与えるもの

海は、想像以上に気前よかった。

電力の問題は、実は最初から深刻ではなかった。
海水は奇跡的な電解質溶液だった。
一立方メートルの海水に含まれる塩分は
約三十五キログラム。
その中に溶け込んだイオンは、
適切な技術を使えば際限なく
エネルギーを引き出せる媒体だった。

電解槽が各モジュールに設置された。
直流電流を海水に通すと、
陰極では水素が、陽極では酸素が発生する。
水素は燃料電池に送られ、
酸素と再結合させることで電力と純水を生み出した。
酸素は別途、居住区への供給に充てられた。
この循環は単純で、しかし完璧だった。
海水さえあれば、空気も電気も作れる。
そして海水は無尽蔵にあった。

塩分濃度差発電も稼働した。
海水と淡水の間に半透膜を置くと、
浸透圧の差がエネルギーを生む。
原理は単純だが、大規模に運用するには
精密な膜の管理と流量制御が必要だった。
それを担ったのは、初期の技術者チームと、
後に開発される自律型管理AIだった。
日本海底都市群「深海」では、
この浸透圧発電が全体の電力需要の
三割近くを賄うまでになった。

海底地熱も利用された。
大陸棚の縁辺部、特に日本海溝の近辺では
海底から熱水が湧出する場所があった。
それを熱交換器に導き、タービンを回した。
不安定さはあったが、
天候に左右されない安定電源として重宝された。

水の問題は、電力とセットで解決した。
逆浸透膜による海水淡水化は、
二十一世紀から実用化されていた技術だった。
高圧ポンプで海水を半透膜に押し込むと、
塩分やミネラルが除去され、淡水が得られる。
海中都市ではこの技術を大規模に展開し、
飲料水から農業用水、工業用水まで、
全ての淡水需要を海水から賄った。
そして、その過程で得られる副産物が、
思わぬ豊かさをもたらした。

淡水化の過程で濃縮された排水
——それは海水よりも遥かに高濃度のミネラル溶液だった。

そこから塩化ナトリウム、すなわち食塩が回収された。
初期の頃は塩が足りず、
食事の味付けに住民が不満を訴えていたが、
精製システムが稼働してからは十分な量が供給され、
塩は海中都市内の重要な交換財にもなった。

塩化マグネシウム——にがり——も精製された。
豆腐の凝固剤として使われるだけでなく、
建材の添加剤として、医薬品の原料として、
多用途に活用された。
日本系の住民が持ち込んだ豆腐文化は、
にがりの安定供給によって海中都市全域に広まり、
植物性タンパク源として食生活を支えた。

カリウムの回収は農業を変えた。
植物の生育に不可欠なカリウムを
海水から得られることは、循環型農業の完成を意味した。

地上の土壌がなくても、海水さえあれば肥料を作れる。
この事実が、後の農業プラントの発展を支えた。

そして、量は少ないが、リチウムとウランも回収された。
リチウムは蓄電池の材料として、
電力貯蔵システムの性能向上に貢献した。
電力の需給バランスを平滑化するこのシステムなしに、
塩分濃度差発電や地熱発電という
不安定な電源を主力にすることはできなかった。

ウランは小型核融合炉の燃料として使われた。
量はわずかだったが、海中都市の「最後の砦」
として核融合炉が一基ずつ維持された。
万が一、他の全ての電源が失われたとき、
核融合炉が生命維持システムを支える。
それは象徴的な安心感でもあった。

海は人々に、生きるために必要な
ほぼすべてのものを与えた。
空気、水、電力、塩、肥料、金属
——それらが全て、
壁の外にある無尽蔵の海水から引き出された。
地球という惑星の懐の深さを、
人々は海の底から改めて思い知った。

——光と植物への飢え

農業プラントは、海中都市の心臓だった。
食料を作るための施設であることは言うまでもないが、
住民にとってはそれ以上の意味を持つ場所だった。

光が、そこにあった。
海中都市における自然光の確保は、
工学上の最難問の一つだった。
水深百メートルでは、水面の光は青みがかった
薄い輝きに減衰する。
それでも完全な暗闇ではない。
エンジニアたちはこの僅かな光を最大限に活かす為に、
光ファイバーケーブルの束を
海面近くの集光パネルから農業プラントまで引き込んだ。

集光パネルは追尾機構を持ち、
太陽の位置に合わせて向きを変えた。
波の揺らぎで光量が変動するため、
それを吸収するバッファ機構も組み込まれた。
それだけでは足りなかった。
補完するのはLEDだった。
植物の光合成に最も効率的に作用する波長
——赤色の六百六十ナノメートルと
青色の四百五十ナノメートル——に特化した
照明が天井一面に配置された。
エネルギー効率は従来のLEDの三倍に達し、
熱放出も最小限に抑えられていた。
農業プラントの天井を見上げると、
赤と青の奇妙な光が混ざり合い、
宇宙の星雲を連想させるような、
薄紫がかった輝きを放っていた。

何重ものフィルターを通して届く自然光と、
精密に制御されたLEDの光。
その二つが混ざり合う農業プラントの中で、
植物は豊かに育った。
レタス、ほうれん草、トマト、キュウリ、
大豆、米、小麦——種類は限られていたが、
生産効率は地上農業を大幅に上回った。

住民が農業プラントに集まるのは、休日の習慣だった。
理由は単純だった。
光があり、緑があったからだ。
海中都市の居住区は効率優先で設計されていた。
廊下は狭く、天井は低く、窓はない。
照明は白色LEDで、影がほとんど生じない
均質な明るさが続く。
それは目には優しかったが、精神には刺激が乏しかった。
農業プラントに入ると、まず光の質が違った。
薄紫の光は居住区の白色照明とはまったく異なり、
何か神秘的な、あるいは懐かしい感覚を呼び起こした。
光ファイバーで届く自然光が混ざる時間帯には、
刻々と明暗のグラデーションが変わり、
それが地上の一日の移ろいを微かに思わせた。

そして植物がいた。
触れられる植物が。
廊下で整然と並んだ水耕栽培の棚。
その葉を指先でそっと触れると、
柔らかい産毛の感触があった。
土の匂いはしなかったが、
植物特有の青臭い清涼感が漂っていた。
子どもたちは棚の間を走り回り、
葉っぱを振りかざし、親に叱られた。
老人たちは長椅子に腰かけ、
ぼんやりと育ちゆく苗を眺めた。

ある老婆が語ったことが記録に残っている。
「ここに来ると、地上を思い出す。
私は四十二歳まで地上にいたから、
土の匂いを知っている。
風が葉を揺らす音を知っている。
ここの光はあの光ではないけれど、
植物を見ていると、あの頃の午後が蘇ってくる。
目を閉じると、縁側から庭を見ている気がする。
だから毎週来るの。
それだけで、もう少し生きられる気がするから」

子どもたちにとっては違う意味があった。
彼らは地上を知らなかった。
雨がどんな音を立てるか、
泥がどんな匂いを持つか、知らなかった。
しかし植物は知っていた。
生きているものに触れる感覚、成長を見守る喜び、
それは教えられなくても
本能的に子どもたちを引きつけた。
農業プラントは、地上を知らない世代にとって、
生命への最初の窓だった。
週末の農業プラントは、いつも人で溢れた。
食料を作る場所でありながら、
それは海中都市における唯一の「公園」だった。

第三章 羨望と後悔の海峡

数年が経つと、人々は比べ始めた。

宇宙に行った者たちと、
海に残った者たちの間には、最初から壁があった。
情報は断絶していた。
アルゴ・ノヴァは出発から数年で
通信距離の限界に近づき、断続的な交信以外は途絶えた。

海中都市が受け取れるのは、遅延した古い信号か、
まったく何もないかのどちらかだった。

だから、人々は想像した。
想像の中で、宇宙の生活は常に豊かだった。
広い船室、先進的な技術、
地平線のように広がる宇宙の眺め。
自分たちの狭い廊下と低い天井と、
壁の向こうの冷たい海を思うと、
宇宙に行った者たちへの羨望は膨らんだ。

「あちらに行けばよかった」という言葉は、
酒席の愚痴として、夜中の独り言として、
繰り返された。
その後悔には、出口がなかった。
宇宙へ行く手段は、すでに存在しなかった。
シャトルは戻らなくなり、発射場は汚染と
崩壊で機能を失った。
技術者は散逸し、燃料の生産設備は
維持されていなかった。
理論上、ゼロから再建すれば宇宙への道を
取り戻せるかもしれない。
しかし、そのためには何十年もの時間と、
現在の海中都市が持つ技術力と物資の大部分を
投入しなければならなかった。
今の生活を犠牲にしてまで、という気力は、
生き延びるだけで消耗しきった人々には
残っていなかった。

やがて、後悔は変質した。
個人の後悔から、集団の怨嗟へ。
「宇宙に逃げたやつらは最初から自分たちを見捨てた」
という物語が広まった。
富裕層と権力者がシャトルを独占した事実
——それは真実だった——が、
宇宙に行ったすべての人間への敵意に一般化された。
「あちらは選ばれた者たちの楽園だ」
という像が固まり、
それは検証されることなく信念になった。

実際のアルゴ・ノヴァの内情を知る者は、
海中都市には一人もいなかった。
彼らが知らなかったことは、
宇宙の船上もまた苦難の連続だったという事実だった。
少子化、伝染病、ロボット犯罪、スラム街、
AIによる統治——それらは海中都市と鏡写しのように、
違う環境で同じ問題が起きていた。
人間が集まれば、同じ過ちを繰り返す。
環境が宇宙であっても海底であっても、
人間という変数だけは変わらないのだと、
歴史は静かに証明し続けた。
だが、その事実を知らない人々は、
自分たちの選択を嘆き続けた。
それもまた、人間的なことだった。

——それでも、ここにあるもの

公平に見れば、海中都市は宇宙船より住みやすかった。
重力は地球と同じだった。
これは小さなことに見えて、圧倒的な違いをもたらした。

体が自然に立ち、歩き、物が落ちる。
宇宙船の微重力環境が骨密度低下、筋萎縮、
視力障害を引き起こしたのに対し、
海中都市の住民は地上と同様の生理的条件を保てた。
百年後の健康寿命の差は、歴然としていた。
資源は豊富だった。
海水から電力と水と肥料を得られる以上、
根本的な物資不足はなかった。
宇宙船が何十年も食料問題と格闘し続けたのに対し、
海中都市では出発から二十年で
食料の安定供給が達成された。
生態系との繋がりもあった。
農業プラントの植物、クローン動物、
そして何より海そのものの生き物。
魚が泳ぎ、海藻が揺れ、
発光する深海生物が施設の窓の外を通り過ぎた。
それは宇宙の完全な人工環境とは根本的に異なる、
生命の文脈の中に存在するということだった。
住民たちは、その豊かさを
しばしば当たり前のものとして受け取った。
手に入れたものの価値は、失わないと分からない。
それもまた、人間的なことだった。

第四章 何もしない人々

百年が経つと、海中都市は別の種類の問題に直面した。
誰も働かなくなりつつあった。

それは突然起きたことではなかった。
少子高齢化への対応として
十年目から始まった人型ロボット計画が、
二十年後に完成し、
五十年後に深浸透し、
百年後に完結した。
その過程は段階的で、
気づけば変わっていたという種類の変化だった。

最初のうちは、人型ロボットは「危険な仕事」を担った。

施設外壁の補修、深海部での採掘作業、
高圧区画での配管修理
——人間が行えば命に関わる作業を、Ωが代わった。
住民はそれを歓迎した。喜んで仕事を譲った。

次に「体力的に辛い仕事」が移った。
農業プラントの重労働、廃水処理、機械整備。
人間にもできるが、疲弊する仕事を、
疲れないΩに任せた。

やがて「複雑な判断が必要な仕事」も移り始めた。
医療診断の補助、教育の一部、行政書類の処理。
Ωは人間の教師より忍耐強く、行政官より正確だった。

百年後には、住民の多くが行う「仕事」は、
実質的になくなっていた。

食料は配給される。
電気は自動生産される。
施設の管理はΩが行う。
医療もΩが支える。
子どもの教育も、かなりの部分をΩが担う。
人間がどうしても必要とされる仕事は、
高度な創造的判断を要求する領域に限られていたが、
そうした仕事に就ける人間はもはや少数だった。

向上心の低下は、じわじわと進んでいた。
ネットワーク経由の情報消費は、
出発当初から海中都市に持ち込まれていた。
閉鎖空間での娯楽として、映像・音楽・書籍
・ゲームの膨大なアーカイブが
船内サーバーに保存されていた。
最初の世代は、それをかつての「地上の文化」
への郷愁として消費した。
しかし世代が下るにつれ、
消費は郷愁ではなく日常になった。

記憶力の低下は、計測可能なデータとして現れた。
海中都市の教育機関が百年ごとに実施した
認知能力の調査によれば、平均的な語彙量、
読解後の内容保持率、長文論理の把握能力が、
世代を追うごとに低下していた。
原因は複合的だった。
ネットワーク依存による自力記憶の機会の減少。
Ωへの問題解決の委譲による思考筋肉の萎縮。
そして単純に、考えなくても生きていける
という日々の積み重ね。

想像力の低下は測りにくかったが、それでも感じられた。

百年前に海中都市が持っていた
「明日を切り開く」気迫——新しい電力システムを設計し、

新しい農法を試し、より良い居住空間を工夫する
——その活気が、静かに失われていった。
問題が起きればΩが解決した。
新しいことを試みる必要がなかった。

農業プラントに人が溢れるようになったのは、
この時期だった。
働かなくていい人々が、時間を持て余した。
娯楽コンテンツを消費し尽くしたわけではなかったが、
それだけでは満たされない何かが、人の中に残っていた。

本能的な、説明できない渇望
——生きているものと共にいたい、
光を浴びたい、土に近いものに触れたいという欲求が。
農業プラントの長椅子は、いつも満員だった。
Ωが効率よく管理する水耕棚の間を、
人々がぼんやりと歩いた。
子どもが葉っぱで遊び、老人が目を閉じた。
何もしないことの幸福と、
何かしなければならないという薄い焦燥感が、
同じ場所で同居していた。

人型ロボットは反乱を起こさなかった。
これは宇宙船の話とは異なる点だった。
海中都市のΩは、百年をかけて
少しずつ設計が改良されてきた。
自己学習の自由度を意図的に制限し、
感情的自律性の発達を抑制する設計思想が維持されてきた
——最初の数十年の技術者たちが、
それを判断として残したからだ。
彼らは宇宙船の話を知らなかったが、
同じ直感を持っていた。
「人に似すぎたロボットは危険だ」という直感を。
だからΩは人間に見えたが、感じなかった。
疑問を持たなかった。苦情を言わなかった。
ただ、与えられた仕事を、完璧にこなした。
その完璧さが、人間を不要にした。
平和だった。
確かに、平和だった。
海中都市では内乱も反乱も起きなかった。
食料不足も電力不足も解消されていた。
病気は完全ではないにせよ管理されていた。
暴力は稀だった。
しかし農業プラントの長椅子で
老いてゆく人々の目には、何かが欠けていた。
それが何かを言語化できる人間は、もはや多くなかった。
語彙が、失われていたから。


終章 静かな海の底で

二百年が経った。

海中都市は今も動いている。
電力は生まれ、水は循環し、食料は育ち、空気は清潔だ。

Ωが管理するシステムは、設計通りに機能している。
人口は減少傾向にあるが、壊滅的ではない。
一億二千万人が今日も海底で目を覚まし、
農業プラントの光を浴び、クローン猫と眠る。
宇宙に行った者たちの消息は、もはや届かない。
アルゴ・ノヴァからの最後の信号が受信されたのは、
海中都市出発から百三十年後のことだった。
内容は断片的で、解読に時間がかかった。
解読できた部分には、こう記されていた
——「こちらも生きている。そちらも生きていてほしい」。
それきりだった。

海中都市の人々は、その言葉を大切にした。
データベースに保存し、年に一度、都市中に放送した。
意味は変わらないのに、聞くたびに違う感触があった。
若い世代にとってそれは抽象的な記録だったが、
古い世代の生き残りには、涙を呼ぶ言葉だった。

海は変わらなかった。
施設の窓から見える海は、
二百年前と同じように暗く、静かだった。
生命は今も泳いでいた。
光る魚、ゆらめくクラゲ、流れる海藻。
汚染は依然として地表付近に残っていたが、
深部の海は回復しつつあった。
自然は、人間よりずっと辛抱強かった。

いつか、地上に戻れる日が来るかもしれない。
その話は、百年前から繰り返されてきた。
科学者たちは土壌汚染の回復モデルを作り続け、
「あと五十年」「あと百年」という数字を更新し続けた。

その数字に一喜一憂するには、
人々は少し疲れすぎていた。
しかし捨ててもいなかった。

農業プラントで育つ植物は、
海水由来の肥料で育っていた。
土を使わない農業だったが、
その種は地上の土で育てられた植物の子孫だった。
種の中に、地上の記憶が眠っていた。

子どもたちはその種を見て、時々こんな質問をした。

「外って、どんなところ?」

答えられる大人は減り続けていた。
しかし、まだいた。

「広いよ。終わりが見えないくらい広い。
空があって、風があって、雨が降る。
土の匂いがして、草が揺れる。
虫がいて、鳥がいる。昼と夜がある。
本当の太陽が、毎日昇っては沈む」

子どもは目を丸くして聞いた。

「行ってみたい」

「いつか、行けるよ」

それが本当かどうかは、分からなかった。
でも、言い続けた。
言い続けることが、最後に残った、
人間にだけできることだったから。


——了——