元特殊作戦部隊員の幽霊と
FBI捜査官のバディもの
幽霊とのバディものってたまにあるので
自分も作ってみようと思いました



# 亡霊捜査官
### ――OPERATION: GHOST PROTOCOL――

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## 第一章 終わりの始まり

ヴァージニア州北部の秋は、
夜になると気温がひどく落ちる。
木々はとうに葉を落とし、
舗装された道路には霜が薄く張っていた。
そんな夜、陸軍特殊作戦部隊、
第一特殊部隊群第三大隊のライアン・コールは、
チームの七名と共に黒塗りのSUVに揺られていた。

コールは三十一歳。
浅黒い肌と短く刈り込んだ黒髪、
そして大柄な体格に似合わぬ鋭い観察眼を持つ男だった。

イラクとアフガニスタンで計四度の実戦を経験し、
狙撃手として百三十メートル先の人質を
人質もろとも制圧しようとした犯人を、
誤差ゼロで仕留めたという逸話で知られていた。
チームリーダーのケネス・ドレイクが
隊の全員に絶大な信頼を置く中で、
コールは特に「現場の目」として重用されていた。

「コール、現況は」

ドレイクのしゃがれた声がイヤホンを通して飛んでくる。

コールは窓の外を見ながら、頭の中の地図と照合した。

「目標まで八百メートル。
倉庫街の外縁部、赤い屋根の建物が目印。
周囲に動く影なし」

「情報通りだ。今夜で白をつける」

今回の作戦は、DEA(麻薬取締局)から回ってきた
情報に基づいていた。
メリーランド州ボルティモアから続く
密輸ルートの末端にある流通拠点を制圧し、
内部資料を押収する。
単純な任務のはずだった。

SUVが停まり、全員が音もなく降り立った。
コールは前衛の二名の後ろに位置取り、
暗視ゴーグルを下ろした。
倉庫の輪郭が緑がかった映像の中に浮かび上がる。
正面扉に錠前があるが、警備員の姿がない。

「おかしい」とコールは呟いた。

「外に人員がいないのに、
正面扉の防犯カメラが点滅している。
誰かが今朝まで管理していた痕跡だ」

「踏み込む前に解析を――」

「行くぞ」

ドレイクの一言で議論は終わった。
コールは違和感を呑み込み、
ブリーチングチャージを扉に仕掛けた。

爆発音は近隣の倉庫に吸い込まれるように消えた。
七名が雪崩れ込んだ先は、見事なまでの空白だった。

埃だけが降り積もっていた。

積まれるはずの木箱は跡形もなく、
床には木箱の底が擦ったあとだけが残っていた。
引き出された釘、散らばった梱包用の発泡材の欠片。
数日前まで確かにここに何かがあった。
しかし今は何もない。

「もぬけの殻だ」

誰かが静かに言った。

コールは奥の事務所スペースへ向かった。
鉄製の机、古いファイルキャビネット、
そして床に散らかった書類の束。
彼は膝をついてそれを拾い上げ、
暗視ゴーグルの照準をずらして懐中電灯を当てた。

中国語。
発送元の記録、品名の欄には暗号のような記号。
しかし一部は英語で書かれており、
コールはすぐに読み解いた。
――型式番号。兵器の型式番号だ。
中国人民解放軍の制式採用型番と酷似している。

さらに別の書類。
麻薬の化学式と思われる記号列、重量表記。
それは中国から太平洋を渡り、
西海岸のどこかで荷揚げされ、
陸路でここへ運ばれてきたことを示す記録だった。

「ドレイク、聞いてくれ。
これは単なる密輸じゃない。中国からの――」

銃声が一発。

コールは自分の体が後ろへ吹っ飛ぶのを、
奇妙な冷静さで認識した。
壁に背中がぶつかる。
温かいものが左胸から広がっていく。
視界がゆっくりと白く霞んでいった。

最後に見たのは、
事務所の扉の隙間から差し込む懐中電灯の光と、
それを持つ手だった。

その手は、チームメイトの一人のものだった。

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## 第二章 追跡者

FBI特別捜査官ジョーダン・ヴァスケスは、
証拠の迷宮の中で生きていた。

三十五歳、
プエルトリコ系の母とアイルランド系の父を持つ彼女は、

ニューヨーク・クイーンズで育ち、
コロンビア大学を経てFBIアカデミーに入った。
長い黒髪を後ろで束ね、
常に手帳とコーヒーを持ち歩く癖がある。

彼女が国際密輸組織「ドラゴンラインズ」の
捜査を担当してから一年半が経っていた。

これまでに三名の捜査員を潜入させた。
三名全員が殺された。

最初はマーカス・ベネット。
カリフォルニア州ロングビーチで
海に浮かんでいるのが発見された。
次はエリナ・チェン。
中国系アメリカ人で、語学力を買われて投入されたが、
ニュージャージー州の倉庫で発見されたときには既に……

ヴァスケスはその先を思い出すのをやめた。
三番目はダレル・ホワイト。
「ドラゴンラインズ」の末端組織に潜り込むことに
成功しながら、接触三週間後に音信不通になった。
遺体はまだ見つかっていない。

問題は情報漏洩だった。

アジトの場所が特定され、踏み込む日時が決まる。
しかしその一歩手前で、必ず組織は消える。
まるで内側に目があるかのように。

上司のフランクリン・タウブ副局長は
会議の度に言った。
「内通者を疑え」
その度に内部監察が始まるものの、
毎回、何も出てこなかった。

捜査班の全員が疑心暗鬼になっていた。
それが捜査の速度を更に落とした。

ある秋の夕暮れ、
ヴァスケスは一人でボルティモア近郊の
倉庫地帯に向かっていた。
正式な踏み込みではない。
今回もまた、作戦直前に組織が痕跡を消した後だ。
しかし彼女には諦める気持ちがなかった。

残されたものを見たかった。

倉庫の扉は半開きで、内部は暗かった。
ヴァスケスは懐中電灯を出して踏み込んだ。
床に散らばった紙切れ、木箱の跡、空になった金属棚。
また空振りだ、と思ったとき。

「そこで何をしている」

ヴァスケスは即座に拳銃を抜いた。
声は彼女の正面、奥の事務所スペースから聞こえた。

「FBI捜査官ヴァスケス。
手を上げてゆっくり出てこい」

返事がなかった。

ヴァスケスはゆっくりと前進し、
事務所の入口に懐中電灯を向けた。

そこに男がいた。

軍服を着た男。ACU(陸軍戦闘服)を身に着け、
左胸に大きな銃創を持つ。
しかしその男には、まったく実体感がなかった。
懐中電灯の光が男の体を素通りして、
後ろの壁を照らしていた。

ヴァスケスは三秒間、微動だにしなかった。

「……幽霊か」

低い声で言った。
それは問いというより、確認だった。

男がゆっくりと頷いた。

「ライアン・コール上等軍曹。
陸軍特殊作戦部隊、第一特殊部隊群第三大隊。
二週間前に、この近くの別の倉庫で死んだ。
あなたは?」

ヴァスケスは深呼吸した。
怖くはなかった。
正確には、怖いという感情が出てくる前に、
職業的な反射が上回った。

「ヴァスケス。FBI国際組織犯罪班。
……なぜあなたが幽霊になってここにいるのか、
全部話してくれ」

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## 第三章 二人のパートナー

翌朝、ヴァスケスは自分のアパートの台所で
コーヒーを二杯淹れた。
一杯を飲みながら、
もう一杯を机の端に置いた。

「これは飲めないが、気持ちは貰っておく」

とコールが言った。

彼は椅子ではなく、
その近くの空気の中に存在していた。
物に触れることができない分、
彼は場所を選ばない。

「わかってる。習慣だから」

ヴァスケスは手帳を開いた。

「もう一度整理しよう。
あなたは倉庫に踏み込んだとき、
事務所で中国語の書類を見つけた」

「型式番号、発送記録、麻薬の化学式。
中国の軍需企業から流れてきた武器と、
精製された麻薬が混載されていた」

「それをチームリーダーに報告しようとしたとき、
撃たれた」

「ドレイクが撃ったんじゃない」
コールは静かに言った。

「ドレイクの右後ろにいた男。マット・サローだ。
俺たちの中で一番物静かな男だった。
誰も疑わなかった」

「サローは今どこにいる?」

「わからない。俺は死んでから組織の追跡はできない。
見えるのは、俺がいる場所の周辺だけだ。
でも、見えるものの範囲は普通の人間より広い」

ヴァスケスはしばらく黙った。

これが普通の状況なら、一晩考えて却下していただろう。

しかし彼女には、それを笑い飛ばす余裕がなかった。
三人の仲間を失い、一年半の捜査がゼロに等しい。
そこに現れたのが、
密輸組織に深く関わる現場を見た
元特殊部隊員の幽霊だった。

 

この仕事をしていると

たまに不可解な事象を経験する。

FBIは捜査で霊能力者に頼る事もあり

ヴァスケスはその手の類を

信じないわけではなかった。

情報としての信憑性は高い。
問題は、この情報を公式記録に残せないことだ。

「わかったわ」とヴァスケスは言った。

「パートナーになりましょう。
ただし、あなたが見てきたことや感じることは
全部私に教えること。
私が動くのは、正規の証拠に基づいてのみ。
あなたは先行偵察と情報提供に徹して下さい」

「それで十分だ」コールが言った。
その声には、
ようやく役割を得た人間の安堵があった。

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## 第四章 壁を抜ける者

ヴァスケスが次のアジトの情報を摑んだのは、
ポトマック川沿いの廃工場だった。
DEAとの情報共有で浮かんできたIPアドレスを辿り、
二週間かけて場所を特定した。
しかし今回も、
踏み込みの前日に組織が動く気配があった。

「今夜は私一人で先行偵察に行く」
とヴァスケスは言った。

「正式な踏み込みは明後日に設定してある。
でも今夜、中に何があるかを確かめたい」

「俺が先に入る」

コールは迷いなく言った。

彼はヴァスケスより一歩先に廃工場の外壁に近づき、
そのまま壁の中へ歩いていった。

壁を抜けるとき、
コールは人間だったころの感覚を思い出した。
訓練で何度も経験した、
夜の暗闇の中でロープを下りる感覚に少し似ている。
肉体の重さがない分、むしろ楽だとも言えた。
ただし孤独だった。
壁の内側は完全な闇で、
自分が透明な存在であることを
いつも痛感させてくれた。

内部に入ると、今回は人がいた。

武装した人間が三名。
一名は正面入口付近、
二名は中央のコンテナの陰にいる。

コールは彼らの間を縫って歩いた。
人間はコールに気づかない。
気配を感じる人間は稀にいるが、
この三名は無頓着だった。
コールは各人の位置、武装、
無線機の周波数表示を確認した。

奥に事務所があった。
コールは扉を抜けて中に入り、書類を覗き込んだ。
――読める。幸い彼は幽霊になってからも、
目に見えるものを認識できる。

書類には、次回の荷受け日時と場所が書いてあった。
加えて、見慣れない名前がいくつか。
政府機関のIDらしき番号列も見えた。

コールは外に戻り、
ヴァスケスに全てを口頭で伝えた。

「東の搬入口から入ると、
右に三メートルで鉄骨の柱がある。
そこから正面入口の警備員が見える。
中央のコンテナの陰に二人。

でも今夜は動かない。
奥の書類には次の荷受けの日時、それから
――政府のIDらしき数字列があった」

ヴァスケスは素早くメモした。

「政府のID?」

「五桁のアルファベットと数字の組み合わせ。
FBI内部識別コードに似ていた」

ヴァスケスの手が止まった。

「……似ていた、
ではなく、確実にそうだったと思う?」

「俺は特殊作戦の経験で、
捜査機関の内部資料を見たことがある。
あれは本物だ。
頭に『FBI-OA』という接頭辞があった」

FBI-OAは作戦分析部門の事だ。

ヴァスケスは深呼吸した。

「教えてくれてありがとう。
明後日の踏み込みは中止する。
今夜の情報から、別の手順で動く」

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## 第五章 壁を超えた情報

廃工場の踏み込みは、形式上は「作戦変更」
として処理された。
ヴァスケスが踏み込みの二日前に
「新情報による経路変更の必要あり」
と書いた内部報告は、
FBI作戦分析部門の回覧リストには載せなかった。

代わりに、
彼女はコールが見た内部識別コードを
ひそかに照会した。

三日後、答えが出た。

FBI作戦分析部門、
上級捜査支援員、グレッグ・モリソン。

モリソンはヴァスケスの捜査班に
直接関わる立場ではない。
しかし作戦分析部門は、
踏み込み作戦の承認書類が必ず通過する部署だった。

「つまり、彼が書類を見て、
組織に時刻と場所を流していた」

「そういうことになる」コールは静かに言った。

「一つ気になることがある。
俺が見た書類には、モリソンの名前じゃなくて
IDだけがあった。
普通、内通者は自分のIDを書類に残さない」

「書類が捨てられると思っていたから残した、
か、あるいは誰かが彼のIDを使って
動いているかのどちらかね」

「どちらにせよ、ここから先は俺には追えない。
俺が見えるのは、今いる場所の周辺だけだ。
あなたが動かないといけない」

ヴァスケスは翌朝、
フランクリン・タウブ副局長室を訪れた。
彼が不在の時に……。
直属の上司を経由せずに、
FBI法務部門の特別顧問弁護士に連絡を取った。
内部捜査の申請書を個別ルートで提出するためだ。
これは規則上は認められているが、
ほとんど使われない手段だった。

モリソンへの内部監察が始まったのは、
その一週間後だった。

監察中もコールは動き続けた。
ヴァスケスがモリソンの行動パターンを
追うために張り込んでいる間、
コールは先回りしてモリソンの待ち合わせ場所や
連絡相手を確認した。

「今日の昼、モリソンはジョージタウンの
コーヒーショップで男と会った。
男は40代、白人、スーツ姿。
左手薬指に指輪なし、靴がひどく高価だった」

「顔を覚えているか?」

「顔ならいつでも確認できる。
俺はどこにでも行けるから。
でも今は名前がわからない」

「その男が今どこにいるか、追えるか?」

「時間がかかるが、やってみる」

コールはワシントンD.C.の街を、
見えない翼で飛ぶように移動した。
交通渋滞も、ビルの壁も、彼には関係ない。
速度こそ人間と変わらないが、直線距離で動ける。
彼はモリソンと会った男の乗ったタクシーを追い、
その男が降りた建物を突き止めた。

ポトマック川沿いの高級コンドミニアム。

さらにコールはロビーに入り、
郵便受けの表記を確認した。
部屋番号と名前が書かれたラベルを
ひとつひとつ読んでいく。

1203号室。「R・CALLOWAY」。

コールはその名前を持って戻り、
ヴァスケスに告げた。

ロバート・キャロウェイ。
照会すると、上院司法委員会の補佐役として
登録された民間コンサルタントだった。
そして彼の背後には、
大物上院議員の名前があった。

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## 第六章 上院議員の影

上院議員アーサー・レミントンは、
ヴァージニア州選出の三期目を迎えた重鎮だった。
六十三歳、白髪を清潔に整え、
言葉は常に穏やかで論理的。
国防委員会と予算委員会の両方に席を持ち、
「アメリカの良識」と呼ばれていた。

コールが最初にレミントンの議員会館事務所を
覗いたのは、十一月の第二週の夜だった。

議員本人は不在だったが、事務所の奥の金庫の前に、
キャロウェイが立っていた。
キャロウェイは薄手のラテックス手袋をはめ、
金庫から封筒を取り出して内ポケットにしまった。
コールはその場で封筒の表面に書かれた記号を読んだ。
暗号のように見えたが、
コールの経験では数字の羅列は送金の記録に見えた。

翌日、コールはヴァスケスに報告した。

「封筒の記号は四つのグループに分かれていた。
それぞれが金額と日付のように見える。
桁数からすると、百万ドル単位だ」

「議員本人は関与しているの、
それともキャロウェイが勝手に動いているの?」

「わからない。議員本人を見るまでは判断できない」

ヴァスケスはレミントン議員の
公開スケジュールを入手した。
議員は週に三回、
ジョージタウン大学近くのプライベートクラブで
夕食を取る習慣があった。
コールはそのクラブに先行して入り、
テーブルとテーブルの間を漂いながら、
レミントンの会話に耳を傾けた。

最初の夜は無害だった。
同僚議員との選挙区の話、家族の話。

二度目の夜、
レミントンは一人の東洋人男性と会食した。
コールは男の顔を、ヴァスケスが以前見せてくれた
「ドラゴンラインズ」の写真と照合した。

「合致する。彼女はマオ・シュウインという名で、
組織の北米資金担当だと言っていた」

コールはテーブルのすぐ横に立ち、
二人の会話を聞き取った。
英語と中国語が混在していた。
コールは中国語を話せないが、
英語の部分は全て記憶した。
そして聞き覚えのない単語の発音を
そのまま脳に刻み、
後でヴァスケスに再現して聞かせた。

ヴァスケスはその発音をスマートフォンの
録音機能に記録し、
FBI中国語翻訳専門官に匿名で照会した。

三日後、翻訳が戻ってきた。

内容は衝撃的だった。
レミントン議員は、次の国防予算審議で
特定の衛星通信システムの契約から
中国製部品の排除を阻止すること、
そしてその見返りとして
五回に分けて計二千五百万ドルの送金を
受け取ることを、マオに約束していた。

しかし、その会話の中にもう一つ、
二つの名前が出てきた。

「副大統領」と「CIA」。

コールが聞き取った英語の部分には、
明確にこんな文脈があった。

「――ホワイトハウスの件は、コールマンが処理する。
CIAの内部ルートはリャンが持っている――」

ヴァスケスは手帳を閉じた。

ブラッドリー・コールマン副大統領。

「コール、
コールマン副大統領の名前が出た意味を
理解している?」

「理解している。でも確認が必要だ。
俺はホワイトハウスに行く」

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## 第七章 透明な侵入者

ホワイトハウスへの侵入は、
コールにとって物理的な意味では問題なかった。

フェンスも、ゲートも、警備犬さえも、
コールには意味を持たなかった。
ただし彼は一定のルールを自分に課していた。
――必要な場所だけに入る。
見て良いものだけを見る。
これは法執行機関の捜査への協力であり、
個人的な覗き見ではない。

副大統領執務室のあるアイゼンハワー行政棟に
入ったのは、真夜中過ぎだった。
廊下の警備員はコールの存在に全く気づかなかった。
コールは副大統領執務室の扉を抜け、内部を確認した。

書類デスク、外部からの電話記録のコピー、
そして壁の金庫。
コールは金庫の内容には触れなかった。
開けることができないし、開ける権限もない。

翌週、
コールはコールマン副大統領の動きを追い始めた。

副大統領はその週、二度の非公式会合を持った。
一つは国防総省内の個室での昼食、
もう一つは郊外のゴルフクラブでの早朝のラウンド。

昼食の相手は三名。
そのうちの一人の顔をコールは確認し、
ヴァスケスに戻って伝えた。

「CIAの制服じゃなくて、スーツを着ていた。
でも部屋に入るときに見せた通行証の文字が読めた。
CIA作戦局、作戦統括補佐官リャン・エドワーズ」

ヴァスケスはその名前を確認するのに
一時間もかからなかった。
リャン・エドワーズ。
CIA本部ラングレー所属、中国・東アジア担当。
そして、彼の本名はリャン・ジョンウェイ。
両親とも中国本土の出身で、
エドワーズは帰化後の姓だった。

両親が不正に誰かの性を取得した疑いがある。

いわゆる背乗りだ。

ただ、これだけでは証拠にならない。
しかしコールはゴルフクラブでの会合も確認した。

コールマン副大統領とリャン・エドワーズが会ったのは、

クラブハウスの個室だった。
コールは二人の会話を聞いた。

「コール、二人は何を話していた?」

「副大統領が言った。
『FBIの女捜査官が近づきすぎている。
モリソンを切れ。ただし痕跡は残すな』」

ヴァスケスの顔から血の気が引いた。

私のことだ。

「リャンは何と答えた?」

「『モリソンは本人が処理します。
それより、次の荷受けのルートを変更します。
担当者を一人増やして二重確認体制に』
と言っていた」

「つまり私は既にターゲットになっている」

「そうだ」
コールは静かに、
しかしはっきりと言った。

「だから急がなければならない。
でも証拠なしに動けば、全員が逃げる。
あなたには大きな勝負が必要だ」

ヴァスケスは三日間、アパートに籠もって考えた。
コールは彼女の部屋の隅から、
彼女が考え込む姿を見守った。

そして四日目の朝、ヴァスケスは立ち上がった。

「大統領に話す」

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## 第八章 最後の作戦

大統領への接触は、正規のルートでは不可能だった。
副大統領が関与している以上、
ホワイトハウス内部のルートは
全て危険にさらされている可能性がある。

ヴァスケスは一つの賭けに出た。

大統領首席補佐官のダイアン・ポルターは、
ヴァスケスの法曹学科の先輩だった。
個人的な関係を使うのは捜査官として
避けるべきことだと知っていた。
しかし今は、それ以外に方法がない。

ヴァスケスはポルターの個人用携帯に電話した。
「国家の安全保障に関わる最高機密の情報があり、
大統領に直接伝える必要があります。
中間に誰も入れないで」

ポルターは十五秒間沈黙した。そして言った。
「今夜十一時。場所は私が指定する」

場所はポルターの自宅だった。

ヴァスケスはコールが持ち帰った全情報を、
慎重に再構成した文書にまとめていた。
幽霊からの情報であることは書けない。
しかし情報の裏付けとして、モリソンのID、
キャロウェイの動向、翻訳した会話記録の断片、
レミントン議員とマオの会合のタイミングと場所、
これらはヴァスケス自身が
独自に確認してきたものと整合している。

ポルターは文書を三十分かけて読んだ。
顔色が変わっていく様子をヴァスケスは見ていた。

「これが本当なら」とポルターは言った。

「大統領は直接動く」

「本当です。
そして今、副大統領はFBIの内部情報を通じて
私の動向を把握しています。
時間がありません」

翌週、大統領は国家安全保障局局長と
司法省の特別検察官を、
副大統領府を経由しない独自ルートで招集した。
ヴァスケスはその会議に出席し、
全情報を提供した。

作戦は「オペレーション・クリーンスレート」
と名づけられた。

その間もコールは動き続けた。
コールマン副大統領がリャン・エドワーズと
接触するタイミングを監視し、
ヴァスケスに逐一報告する。
二人が証拠の隠滅を始める前に動く必要があった。

コールは副大統領公邸の書斎に入り、
デスクの引き出しの中を確認した。
使い捨て携帯が二台。
一台の画面に表示された文字列が読めた。
中国の電話番号だった。

「引き出しの右から二番目に使い捨て携帯が二台。
一台の画面ロックが解除されたままで、
中国の番号が表示されていた。
末尾の四桁は4471」

ヴァスケスはその情報をNSAの対中国担当に回した。
三日後、その番号が中国国家安全部の
海外工作担当部署に紐付けられていることが判明した。

これが最後のピースだった。

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## 第九章 芋づる式の崩壊

逮捕の日は十二月の第一週の木曜日だった。

グレッグ・モリソンはFBI本庁の自席で、
ジョーダン・ヴァスケスと
内部監察チームの三名に取り囲まれた。
抵抗はしなかった。
ただし最初は黙秘を主張した。

それが変わったのは、
取調室でヴァスケスが証拠の一覧を
テーブルに広げたときだった。

モリソンは一時間で崩れた。

彼は六十八の作戦情報をドラゴンラインズに流していた。

それだけではなく、FBI内部の潜入捜査員の身元を、
少なくとも三件、組織に売っていた。
マーカス・ベネット、
エリナ・チェン、
ダレル・ホワイト。
三人の死は、モリソンの情報提供が引き金だった。

モリソンの供述から、
組織内のさらなる内通者が芋づる式に浮かんだ。

DEA内に二名、国防総省内に三名、CIAに四名
(リャン・エドワーズを含む)、
米陸軍内に六名(そのうちの一人がコールを
射殺したマット・サローだった)、
FBI内にはモリソン以外にさらに二名。
合計で十八名の政府機関内部協力者が
一斉に拘束された。

レミントン上院議員は特別検察官によって
連邦議会内で逮捕された。
キャロウェイは同日、コンドミニアムで拘束された。

そしてブラッドリー・コールマン副大統領は、
木曜日の夜、ホワイトハウスの来賓室で
大統領本人から辞任を求められた。
大統領の傍には司法省の特別検察官が二名いた。
コールマンは抵抗しなかった。
翌朝、彼は自らの意志で辞任声明を読み上げ、
その場で特別検察官に同行した。

リャン・エドワーズは庁舎内での逮捕を試みた際に
逃走を図ったが、
FBI捜査班が先回りして出口を塞いでいた。

コールは全ての逮捕の瞬間には立ち会わなかった。
必要なのは情報提供であって、
現場での立会いではない。
ただし一か所だけ、彼は立ち会った。

マット・サローの逮捕だ。

サローはヴァージニア州北部の
民間のアパートで生活していた。
捜査班が扉を破って踏み込んだとき、
コールはそこにいた。
サローはソファに座ってテレビを見ていた。
手錠をかけられ、
ミランダ警告を読み上げられるサローの顔を、
コールは静かに見た。

怒りはなかった。

あるのは、
これで終わったという静かな感覚だけだった。

その日の夜、
ヴァスケスのアパートでコールは言った。

「一つ聞いてもいいか」

「何?」

「俺が死んだことは、
正式にどういう扱いになっているんだろう。
チームが作戦中に私が撃たれたと報告したとして、
サローが犯人だとわかった今、どうなる?」

ヴァスケスはしばらく考えた。
「陸軍犯罪捜査司令部(CID)に話を持っていく。
サローの自供と、内部調査の記録を照合すれば、
あなたの死の真相が明らかになる。
名誉回復ができる」

「名誉回復」コールは繰り返した。

「……それが最後に必要なことなのかもしれない」

その夜、
コールの輪郭がかすかに薄くなっているように、
ヴァスケスには見えた。

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## 第十章 最後の別れ

陸軍犯罪捜査司令部はサローの供述から、
コールの死が作戦中の同僚による射殺であったことを
正式に認定した。
コールの名誉は完全に回復された。

サローは後の取調べで、
ドラゴンラインズから金銭を受け取り、
チームが現場で中国絡みの証拠を発見したと
判断した場合に隠滅するよう指示されていたと供述した。

コールが事務所から出てきたとき、
その表情と書類を手に持った様子から、
「全てを察した」と判断して
引き金を引いたのだという。

コールの遺族には、陸軍長官名で新たな通知が届いた。
「作戦中の背信行為による犠牲者」として、
最高の敬意と共に。

十二月の最終週、
ヴァスケスはヴァージニア州郊外の軍人墓地を訪れた。

コールの墓は、一列に並んだ
白い十字架の中にひっそりとあった。
刻まれた文字。
「ライアン・J・コール 上等軍曹 
米陸軍特殊作戦部隊」。

ヴァスケスは墓の前に立った。
手に白い花を一束持っていた。
冬の風が彼女のコートの裾を揺らした。

「来てくれると思っていた」

声がした。

コールは墓の横に立っていた。
しかしその姿は以前と少し違って見えた。
輪郭が柔らかく、
光の当たり方が不自然に穏やかだった。

「最後に話したかった」
とヴァスケスは言った。

「俺もだ」

「あなたがいなかったら、
この捜査は今でも迷宮の中にいた。
三人の仲間の死も、報われていなかった」

「あなたが動かなければ、俺は何もできなかった。
情報を持っていても、
それを証拠に変えられるのはあなただけだった」

二人はしばらく黙った。
墓地の木々が風に揺れる音だけがあった。

「成仏する気がする」
とコールは言った。

その言葉はふざけているわけではなく、
本当に静かな確信として語られた。

「やり残したことが片付いた。
あとに残るのは、何もない」

「寂しくない?」

「どうだろう。
幽霊でいる間の方が、ずっと孤独だったよ。
死んでから一人で二週間さまよって、
あなたに会うまで誰とも話せなかった」

ヴァスケスは花を墓の前に置いた。

「ありがとう、コール。
あなたは最高のパートナーだった」

「あなたもな」

コールは少し微笑んだ。
その表情を、ヴァスケスはしっかりと記憶に刻んだ。

そして次の瞬間、コールの姿はゆっくりと薄れていった。

風の中に光が溶けるように、
あるいは夜明けの霧が消えるように、
静かに、静かに。

墓地には白い冬の空と、ヴァスケスと、
白い十字架だけが残った。

彼女は少しの間、そこに立っていた。

それから踵を返し、駐車場へ向かいながら、
首席補佐官のポルターに電話をかけた。

「特別表彰の手続きが完了しました。
コール上等軍曹の家族への通知は、
陸軍省から直接行われます」

「ご苦労様でした、ヴァスケス捜査官」

電話を切った後、
ヴァスケスはもう一度だけ振り返った。

墓石は静かに、白い空の下に立っていた。

---

## エピローグ

「ドラゴンラインズ」の壊滅は、
合衆国政府の内部から始まった
最大規模の対外工作摘発として記録された。
逮捕者は政府機関内だけで十八名、
組織末端まで含めると六十三名に達した。
起訴された件数は百七件。
その中には、麻薬密輸、銃器密輸、
スパイ活動、証人殺害、贈収賄が含まれた。

コールマン前副大統領は連邦裁判所で有罪を宣告され、
収監された。
リャン・エドワーズは中国への身柄引き渡しを
回避するため司法取引を選んだ。
レミントン上院議員は全職を辞し、
起訴状を待つ身となった。

FBI内部の再編も行われた。
情報管理のシステムが全面的に見直され、
作戦情報へのアクセス権限が大幅に絞られた。

ヴァスケスは昇進した。
国際組織犯罪班の副班長となり、
新しい捜査員たちを束ねる立場になった。

デスクには小さな写真立てが一つ置かれていた。
撮った写真ではない。
コールから聞いた特徴を元に、
軍の公式記録から見つけた写真だ。
短く刈り込んだ黒髪、真っすぐな視線、
口元にわずかな微笑み。

新しい捜査員が「この人は?」と尋ねるたびに、
ヴァスケスは答えた。

「最高のパートナーよ」

それ以上は言わなかった。

---

*了*

 

ファンタジーロボットものを作ってみました

ロボットアニメ全盛期を経験しているので

ロボットものは大好きなんですよねぇ~

 

 

# 鋼鉄の精霊師

## 第一章 異端の工房

「またあの耳長が変なものを作っとる」

ドワーフの街ガルドヘイムの外れ、
岩山を刳り貫いた工房から、
昼夜を問わず青白い光が漏れ出していた。
住民たちは眉をひそめながら、
その光を遠巻きに眺める。

エルフが鎚を握るなど、本来あり得ないことだった。

エルフ族は風と光と精霊の民だ。
森の木漏れ日の中で詩を詠み、星の運行に耳を傾け、
数百年という長い時間をかけて精霊との絆を深めていく。

金属を叩き、炉に石炭を放り込み、
油と煤にまみれて機械を組み立てるのは、
ドワーフの仕事だ。
ドワーフの誇りだ。
ドワーフの魂だ。

だというのに、
その男は平然とドワーフの領域へ踏み込んできた。

エルフィアス・ヴォルン。年齢三百四十二歳。
エルフとしては壮年にも満たない若造だが、
故郷の森を追われてから既に八十年が経つ。

追放の理由は記録に残っている。

——精霊の道を踏み外し、
鉄と石の邪法に手を染めたること。

本人に言わせれば、
「精霊術と技術は対立しない。
誰もそれを証明しようとしなかっただけだ」
ということになる。

工房の中で、ヴォルンは今夜も眠らなかった。

設計図が卓上に広げられている。
いや、設計図などという生易しいものではない。
数十年分の試行錯誤、失敗の記録、精霊語の呪文式、
ドワーフ工学の応力計算、
そのすべてが幾枚もの羊皮紙の上で絡み合い、
奇妙な美しさを持つ図面を形成していた。

その図面の縮尺を示す数字を、
ガルドヘイムの職人が初めて見たとき、
全員が同じ反応をした。

目を細め、もう一度数字を確認し、
そして顔を上げてヴォルンを見る。

「……正気か」

「至って正気だ」

全高、十五メートル。

通常の人型ゴーレムの五倍以上。
ガルドヘイムの城門と同じ高さ。
街の中を歩かせれば、
二階建ての建物の屋根に肩が届く。

「なぜそんな大きさにする必要がある」
とドワーフの親方は問うた。

「大きくなければ、戦場の主役になれない」
とヴォルンは答えた。

そしてもう一枚の設計図を広げた。

それはゴーレムの胴体内部の断面図だった。
胸部の魂機関を中心として、
その上部に縦長の空間が設けられている。
人間が座れる広さ。
座席、操縦桿、計器盤の類い。

「乗るのか」
とドワーフの親方は言った。

「乗れるようにする」
とヴォルンは答えた。

「人が乗れる大きさでなければ意味がない」

---

「あと少しだ」

卓上に置かれているのは、
拳ほどの大きさの黒い球体——魔獣の核だ。
五年前、山脈の奥で彼自身が討伐した
ワイバーンの胸腔から取り出したもの。
魔獣が生涯をかけて練り上げた魔力の結晶であり、
死してなお放射し続ける魔力はゆっくりと、
しかし確実に周囲の空気を歪めていた。

これを炉心にする。

ヴォルンが構想した機関の基本概念は単純だった。
魔獣の核が放出する魔力を、
精霊術の変換式を通じて安定エネルギーへ変換する。
通常、魔獣の核は不安定な放出を続けて
やがて爆発するか、あるいは自壊するかのどちらかだ。
それを制御するために、
かつての術師たちは封印や
抑制の魔法を重ねがけしてきた。

しかし彼の発想は逆だった。

*抑えるのではなく、流す。*

精霊が川の流れを導くように、
魔力の奔流そのものを循環させる経路を作り出す。
そこに風の精霊の気流制御、
水の精霊の流体力学を応用した回路設計、
火の精霊の熱変換理論を組み合わせる。
魔力は消費されるのではなく、
循環しながら仕事をし続ける。

理論上、永遠に。

そして、この機関を搭載するのが
十五メートルの巨体であるということは
——出力の規模が通常のゴーレムとは
次元を異にするということでもあった。

それでも彼は諦めなかった。

エルフの時間感覚で八十年など、
人間で言えば十年足らずに過ぎない。

---

転機は、ある夜に訪れた。

ヴォルンは疲れ果てて作業台に突っ伏し、
うとうとしながら夢と現実の境界で設計図を眺めていた。

夢の中で、一体の人型ゴーレムが彼の前に立っていた。

人型ゴーレムは彼が愛してやまないものだった。

なぜ好きなのか、と聞かれると答えに窮する。
ドワーフの職人たちが作る石と金属の人形。
鈍重で、融通が利かなくて、
強力な魔法使いにかかれば制御を奪われ、
騎士団の精鋭に囲まれれば関節を砕かれて動けなくなる。

大型のものを作れば作るほど、
その欠点は致命的になった。
巨体は的が大きいだけで、
倒されれば地響きを立てて崩れ落ちるだけだ。

それでも。

それでも彼には、人型ゴーレムが懸命に歩く姿が
——重い鉄の足を引きずりながら、
主人の命令を愚直に実行しようとするその姿が
——たまらなく愛おしかった。

*もし、こいつらが負けなくなったら。*

夢の中でヴォルンはそう思った。

*誰にも壊されなくなったら。
あの巨体が、本当の意味で戦場に君臨したら。*

目が覚めた瞬間、彼は答えを見つけていた。

---

## 第二章 制御装置と疑似精霊

問題は制御だった。

魔獣の核を炉心とした循環機関
——彼は内心「魂機関(ソウルエンジン)」と呼んでいた
——は、試作品の段階で理論値の九十二パーセント
という驚異的な効率を叩き出した。
しかし十五メートルの巨体を
リアルタイムで制御するには、
通常の術師による操縦では追いつかない。

人間の術師が魔力を直接流し込む形式では、
体の末端まで意識が届かない。
指先一本動かすたびに術師が意識を集中するなど、
戦場では不可能だ。
かといって、事前に動作パターンを刻み込む方式では、
状況変化への対応力がゼロになる。

制御機構が必要だった。

「精霊を封じ込めるか」

ヴォルンは顎に手を当てた。
本物の精霊を強制的に機械に縛り付けるのは
倫理的に問題がある。
それ以上に、精霊は気まぐれだ。
長期運用に耐えられない。
十五メートルの巨体が戦場の最中に
気まぐれを起こしたときのことを想像すると、
背筋が冷えた。

ならば——作る。

疑似精霊。

精霊の思考パターンを模倣し、
精霊語の論理体系で動作する人工の知性体。
本物の精霊ではないが、精霊術との親和性は本物に近い。

魔力の流れを読み、機関の状態を監視し、
十五メートルの巨体の全関節・全回路に
エネルギーを最適配分し続ける。
戦闘中には攻撃と防御のバランスを
リアルタイムで演算し、
機関の出力を瞬時に振り分ける。

これをさらに小型の「制御装置」に封入する。

問題は、この制御装置が
単体では起動しないということだった。

疑似精霊は環境を必要とする。
本物の精霊が自然界という文脈の中で存在するように、
疑似精霊も適切な「器」の中でなければ安定しない。
ヴォルンが試した結果
——石版でも駄目、水晶球でも駄目、魔法陣でも駄目
——最終的に判明したのは、
疑似精霊が「人型」という形状に
強い親和性を示すということだった。

「人型ゴーレムか」

ヴォルンは笑った。

*運命とは、かくも皮肉に出来ているものだ。*

彼が最も愛するものが、
彼の発明の核心に必要だったとは。
しかも、十五メートルという巨体であればあるほど、
疑似精霊の安定度が増すことも実験で判明した。
人型という形状の「質量」が
疑似精霊の器としての強度に直結するらしかった。

大きければ大きいほど、精霊は安定する。

それはもはや設計ではなく、摂理に近かった。

---

制御装置の設計が固まったあと、
ヴォルンはさらにもう一つの問題に取り組んだ。

*誰が操るのか。*

疑似精霊は十五メートルの体を自律的に制御できる。
しかしそれだけでは、ただの巨大な自動人形だ。
戦場での判断、敵の優先順位の選択、味方との連携
——そこには人間の意志が必要だった。

彼が設計したのは、二種類の操縦方式だった。

ひとつは搭乗操縦。

胸部の魂機関上部に、人が入れる操縦室を設ける。
縦長の狭い空間に、魔力伝達用の手甲と足甲、
そして疑似精霊と意思疎通するための
精霊語接続端子を備えた座席を置く。
搭乗者が手甲と足甲を装着して魔力を流すと、
疑似精霊がその信号を解釈し、巨体の動きへと翻訳する。

搭乗者は自分の体を動かす感覚でゴーレムを動かせる。

ただし、誰でも搭乗できるわけではない。

制御装置には「登録」の仕組みを組み込んだ。
搭乗者の魔力紋——術者ごとに異なる固有の魔力の波長
——を疑似精霊に事前に記憶させる。
登録された魔力紋の持ち主だけが接続を許可され、
未登録の者が強引に搭乗しても
疑似精霊は一切応答しない。

「乗っ取りを防ぐためだ」

ヴォルンは設計図の余白にそう書き記した。

戦場でゴーレムを奪われ、逆に使われる
——それは最悪の事態だ。
登録制にすれば、たとえガーディアンが
敵の手に落ちても、
敵の術者には指一本動かせない。

もうひとつは遠隔操縦。

搭乗しなくても、登録された術者であれば
離れた場所からガーディアンを動かせる仕組みだ。
遠隔操縦には専用の「操縦符」が必要になる。
掌ほどの大きさの金属板に精霊語の回路を刻んだもので、

制御装置と対になるよう調整されている。
術者が操縦符を握り、魔力を流すと、
精霊語の信号が空間を伝わって
ガーディアンの疑似精霊へと届く。

距離には限界がある。
現状の設計では、精霊語の信号が
安定して届く範囲はおよそ一キロメートルが上限だ。
それ以上離れると信号が減衰し、
疑似精霊が命令を受信できなくなる。

「まあ、戦場で一キロメートルも離れた場所から
操縦する状況があるかどうかは知らないが」

ヴォルンはそう言いながら、
操縦符の設計図を仕上げた。

搭乗操縦と遠隔操縦、それぞれに長所と短所がある。
搭乗は反応が速く細かい動作が可能だが、
搭乗者がゴーレムと共に危険にさらされる。
遠隔は安全だが、細かい操作に遅延が生じ、
複雑な戦闘機動には向かない。

状況に応じて使い分ける——それが彼の想定だった。

---

## 第三章 完成

組み上げに五年かかった。

ガルドヘイムの工房では手狭で、
郊外の廃坑を改修して専用の建造場を設けた。
ドワーフの鍛冶師を十二名雇い、
精霊術の回路刻みはヴォルン自身が全て行った。

全高十五メートル。

素材は黒鋼とミスリルの合金で、
通常の鋼鉄の三倍の強度を持つ。
関節部には精霊術の流体回路が走り、
動作時には薄く青白い光が全身の継ぎ目から漏れ出す。
胸部中央、人間で言えば
ちょうど心臓に当たる位置に収められた
魂機関は低く唸り、その真上の操縦室へは
胸部装甲の内側から小さなハッチで
出入りできるようになっていた。
制御装置を収めた頭部は
人間のそれより二回りほど大きく、
内側から光が透けるように設計されていた。

完成した夜、
ヴォルンは起動の儀式のために
ゴーレムの足元に腰を下ろした。

足首だけで自分の身長と同じ高さがある。

精霊語で語りかける。

「お前の名前はない。お前はゴーレムだ。
しかし、お前には意志がある。魔力の流れを感じろ。
自分の体を理解しろ。
十五メートルの体の端から端まで、
全部お前のものだ。そして——」

ヴォルンは少し間を置いた。

「立て」

胸部が脈動した。

機関が咆哮した。

廃坑の天井に届きそうな巨体が、
きしむことなく、滑らかに、立ち上がった。

関節の隙間から溢れ出した青白い光が、
夜の荒野を昼間のように照らした。

十五メートルの影が、月より高く空に伸びた。

ヴォルンは涙を流していた。

一通り泣いたあと、
彼は梯子を使って胸部ハッチをよじ登り、
操縦室に滑り込んだ。
狭い。
設計通りだ。
座席に座り、手甲と足甲を装着する。
自分自身の魔力紋は
当然、最初の登録者として既に刻み込んである。

深呼吸をして、魔力を流した。

疑似精霊が応えた。

まるで自分の体が十五メートルになったようだった。
足の裏から地面の感触が伝わってくる。
手のひらで夜風を感じる。
頭部の視界が切り替わり、
遠くの木立が鮮明に見えた。

ヴォルンはゆっくりと、一歩踏み出した。

地面が揺れた。

彼は笑い続けながら、夜の荒野を歩き回った。

---

## 第四章 証明

試験は郊外の草原で行われた。

街の中では、
立っているだけで建物の二階部分が視界に入る巨体だ。
試験場として、ガルドヘイムから
三キロメートル離れた廃棄採掘場の更地を使った。

まず最初の試験は、搭乗操縦の検証だった。

ヴォルンが操縦室に搭乗し、
ガルドヘイムの守備隊長ベルンハルトを
観察者として草原の端に立たせた。

「動かしてみせる」

胸部ハッチの内側からヴォルンの声が響いた。

次の瞬間、
十五メートルの黒鋼の巨体が草原を走り始めた。
一歩ごとに地面が揺れ、踏みしめられた草が吹き飛ぶ。
ベルンハルトは思わず後退りした。
あの巨体がそんな速度で動くとは
思っていなかったのだ。

ゴーレムは急停止し、向きを変え、
その場で片膝をついた。
流れるような動作だった。
術師がゴーレムに動作を
「命令」している感じではない。
まるで巨人が自分の意志で動いているようだった。

「搭乗操縦の精度はこんなものだ」

ハッチが開き、ヴォルンが梯子で降りてきた。
「操縦者の動きをほぼリアルタイムで反映できる。
疑似精霊が翻訳の精度を高めてくれているおかげだ」

次に遠隔操縦の検証だった。

ヴォルンは操縦符を取り出した。
掌ほどの金属板。精霊語の回路が細かく刻まれ、
表面が鈍く光っている。

「ここから動かす」

彼はゴーレムから五十メートル離れた場所に立った。
操縦符を両手で握り、魔力を流す。

ゴーレムが動いた。

搭乗時より動作はわずかに遅く、大雑把だ。
しかし十五メートルの巨体が離れた場所からの指令で
確実に動いている、
その事実はベルンハルトを十分に驚かせた。

「遠隔の限界は今のところ一キロメートルだ」
とヴォルンは言った。

「それ以上は信号が減衰する。
ただ、改良の余地はある」

「一キロメートルで十分すぎる」
とベルンハルトは言った。

---

魔法使いと騎士団との対決試験は翌日に行われた。

ガルドヘイムの魔術師組合から腕利きの三人。
守備隊の精鋭二十名。
彼らは草原の端に立ち、
巨体が地平線の向こうから歩いてくる姿を見て、
まず声を失った。

「あれは……」

組合長の老魔術師が目を細めた。

今回の試験では、ヴォルンは搭乗せず遠隔操縦を選んだ。

操縦符を手にして草原の端に立ち、
静かにガーディアンを進めた。

「搭乗者の安全を確認する試験でもある」
と彼は守備隊長に言った。

「遠隔で十分戦えるなら、
搭乗者を危険に晒す必要はない」

魔術師の一人が上位の解体魔法を放った。

黒鋼のゴーレムは、魔法を*飲み込んだ*。

防御フィールドが魔法のエネルギーを受け止め、
それを逆に魂機関の循環経路へと取り込んだ。
胸部の脈動が速くなり、
全身の青白い光が一瞬強く輝いた。

「な——」

魔術師たちが後退りした。

騎士二十名が足首の関節を狙って殺到した。

防御フィールドが剣を弾いた。
槍を弾いた。
弓を弾いた。
魔法を弾いた。

ゴーレムは静かに立ち続けた。

試験終了後、
ヴォルンは操縦符を懐にしまった。
五十メートル先で、
青白く光る巨体が静かに佇んでいる。

「搭乗は、どんな時に使う」
とベルンハルトが問うた。

ヴォルンは少し考えた。

「精密な作業が必要な時。
遠隔の信号が届かない閉所での作業。
あるいは——」

彼は遠くのゴーレムを見た。

「搭乗者が、乗りたいと思った時だ」

ベルンハルトは苦笑した。

---

翌朝、
ベルンハルトの副官が走ってきた。

「隊長、えらいことになってます。
エルフの先生が、ゴーレムの操縦符を
守備隊員に試させてるんです。
登録の儀式とかで、
どんどん登録者を増やしてるみたいで」

ベルンハルトが現場に行くと、
ヴォルンが操縦符の使い方を守備隊員に説明していた。
登録の儀式はシンプルだった。
ヴォルンが制御装置に術者の魔力紋を
書き加えるだけでいい。
登録には数分もかからない。

「練習させてるのか」

「使えなければ意味がないだろう」

守備隊員の一人が操縦符を握り、
遠隔で巨体を歩かせようとしていた。
最初はぎこちなく、
巨体がふらふらと危なっかしい動きをした。
それでも疑似精霊が補正をかけ、
転倒は防いでいる。

「才能のある者は搭乗操縦を習得させる」
とヴォルンは言った。

「搭乗の方が精度は高い。ただし——」

彼は少し間を置いた。

「乗れる人間が死んだとき、
遠隔で動かせる者がいなければガーディアンは止まる。
だから両方必要だ」

ベルンハルトは腕を組んで巨体を見上げた。

「つまりお前は、
ガーディアンを動かせる人間を量産したいわけか」

「量産というより——」

ヴォルンは空を見上げた。

「ガーディアンを動かせる人間が、世界中にいてほしい。

そうすれば、誰かがこの技術を独占できなくなる」

ベルンハルトは黙った。

そこまで考えていたのか、と思った。

---

## 終章 ガーディアン

歴史書には、こう記録されている。

*魔力歴八百十七年、
エルフの工匠エルフィアス・ヴォルンにより、
全高十五メートルの新型人型ゴーレム原型が完成。
この型式は「ガーディアン」の名で呼ばれ、
各国の軍備に組み込まれていく。
ガーディアンは登録された術者であれば
搭乗による直接操縦と、
操縦符を用いた遠隔操縦の双方が可能であった。
これにより一体のガーディアンを
複数の術者が状況に応じて使い分けることができ、
従来の人型ゴーレムとは比較にならない
運用の柔軟性が生まれた。
ガーディアンに対抗できる戦力は
ガーディアンのみとなり、
戦場の主役は魔法使いと騎士から
巨大人型ゴーレムへと移行した。
これをもって
「ガーディアン戦時代」の幕開けとする。*

*なお同記録には、ガーディアンの登録制度と
操縦符の仕組みが、
この技術の一国独占を防ぐ上で
重要な役割を果たしたことも記されている。
ヴォルン工匠は設計図と登録の儀式を広く公開し、
特定の国や組織がガーディアンを
囲い込むことを意図的に困難にした。
これが後の「ガーディアン操縦士」
という職業の誕生につながった。*

しかし同じ歴史書の欄外に、
ガルドヘイムに残る口承として、
こんな話が記されている。

*ヴォルン工匠は、最初のガーディアンへの登録者を
自分一人にしなかった。
最初の登録者は守備隊の副官であり、
その次は鍛冶師の娘であり、
その次は街外れに住む老人の魔術師だった。
誰でも良かったわけではなく、
ヴォルン工匠は一人ひとりと話をして、
気に入った者に登録を許した。
あの最初の一体に、
最終的に何人が登録されたかは記録に残っていない。*

*ただ一つだけ確かなことがある。
ヴォルン工匠自身は、最初のガーディアンに
二度と搭乗しなかった。
遠隔操縦符だけを懐に持ち続け、
工房の外で巨体が他の者に動かされるのを眺めながら、
それで満足そうだったという。*

工房の灯りは今夜も消えない。

青白い光が岩山の割れ目から漏れ出し、
ガルドヘイムの夜を照らしている。

中では異端のエルフが、
また新しい設計図を広げている。

工房の扉の外、夜空の下で、
十五メートルの黒鋼の巨体が低く唸りながら、
静かに佇んでいる。

今夜は、守備隊の若い術者が
遠隔操縦の練習をしていた。
ぎこちない操作で、
巨体が星空の下をゆっくりと歩いている。

工房の窓から、ヴォルンがそれを見ていた。

満足そうに煙草をふかしながら。

その胸の奥で、疑似精霊の心臓が、
夜通し脈打ち続けていた。

---

*了*

 

 

平和運動と言いながら

脅迫、暴行を行い

他人を簡単に犠牲にする

反日左翼は

日本からいなくなればいいと思います

 

 

 

 

# 琉球の夜明け

## 第一章 静寂の前

那覇の朝は、いつもと変わらず始まった。

港川スーパーの駐車場では老婆が買い物カートを押し、
国際通りのシャッターが一枚ずつ開いていく。
アメリカンビレッジの方角から潮風が吹き、
ブーゲンビリアの赤が道端で揺れていた。

宮城賢司は那覇市内の小さなアパートの窓から、
その何でもない朝の風景を眺めていた。
三十二歳、地元紙の記者。
昨夜遅くまでデスクで書いていた記事は、
基地問題の続報だった。
もう何十本書いたかわからない。
テーマは変わらず、結末も変わらず、
そして何も変わらなかった。

スマートフォンが震えた。

同僚からのメッセージだった。

*「今すぐテレビつけろ」*

---

画面の中で、
アナウンサーが紙を手に持ったまま固まっていた。

生放送特有の、あの不自然な沈黙。

やがて彼女は口を開いた。
声が、かすかに揺れていた。

「——在日米軍は本日未明、
沖縄県内において複数の人物を
身柄拘束したことを発表しました。
米軍報道官によれば、これは日米地位協定の——」

賢司はリモコンを握ったまま、立ち尽くした。

窓の外では、ブーゲンビリアがまだ揺れていた。
何も知らないように。

---

## 第二章 G・テイラーの朝

キャンプ・フォスターの将校宿舎で、
ジョージ・テイラー中佐は
早朝のコーヒーをすすっていた。

作戦の細部は三ヶ月前から練られていた。
「サンライズ」というコードネームは、
誰かのユーモアなのか、
それとも単なる実務的な命名なのか、
テイラーには判断がつかなかった。

彼はテキサスの田舎町で育ち、
父は朝鮮戦争の帰還兵だった。
軍人になることに迷いはなかった。
しかし沖縄に赴任して四年、
この島が単純ではないことは肌で理解していた。

基地の外に一歩出れば、そこは別の世界だった。
三線の音、

ゴーヤチャンプルーの匂い、

子供たちの笑顔。

そしてゲート前では、
拡声器を持った人々が毎朝叫んでいた。

彼らの怒りを、
テイラーは理解できないわけではなかった。

しかし——と彼は思う。

自分の部下の妻が、スーパーで罵声を浴びせられた時。
部下の子供が、学校の行き帰りに石を投げられた時。
そしてあの事件——部下の一人が根拠のない容疑で
地元紙に実名報道され、無実が証明されても
一行の訂正記事すら出なかったあの夜。

テイラーは上官への報告書を書きながら、
怒りを飲み込むことを覚えた。

外交ルートでの解決を、本国は何年も試みてきた。

そしてワシントンは、結論を出した。

テイラーはコーヒーカップを置き、制服を整えた。
命令は命令だ。
しかし彼の胸の中には、この作戦が正しいのか
という問いが、まだ消えずに残っていた。

---

## 第三章 連行

夜明け前の逮捕は、静かに行われた。

抵抗した者は少なかった。
多くは眠っている間に玄関のドアが開き、
英語と日本語で権利を告げられ、
手首に結束バンドをかけられた。

県知事の新垣正雄は、パジャマ姿のまま連行された。

七十歳を超えたその老人は、引き立てられながら、
「不当だ」と繰り返した。
その声は震えていた。
怒りからなのか、恐怖からなのか、
傍から見ては判断できなかった。

彼の政治的立場がどうであれ、
民主的に選ばれた首長が夜明け前に連行される光景は、
賢司の目には異様に映った。

翌朝、賢司は那覇軍港の方角へ向かった。

すでに人だかりができていた。
報道陣、野次馬、そして泣いている人たち。
米軍の車両が列をなして出入りしていた。
ゲートの前に立つ兵士たちの表情は無機質だった。

「ねえ、あの船」

隣にいた年配の女性が、海の方を指さした。

沖合に、輸送艦が停泊していた。

---

## 第四章 島

百三十七人が収容されたのは、
沖縄本島から離れた無人島に急造された施設だった。

テントと有刺鉄線。
食事と医療は保障されているという発表があった。
面会は禁止。
弁護士へのアクセスは「検討中」とされた。

東京では緊急の国会審議が開かれた。
野党が激しく抗議した。
与党は沈黙に近い曖昧な答弁を繰り返した。
総理は「日米同盟の枠組みの中で適切に対処する」
とだけ述べた。

国連人権理事会から声明が出た。

ワシントンの報道官は
「内政干渉には応じない」と切り捨てた。

---

賢司はその夜、記事を書こうとして、
何度もページを真っ白に戻した。

何を書けばいい。

彼らの行為が度を越していたことは、
賢司自身も感じていた。
拡声器の罵声、組織的な嫌がらせ、
外国メディアを使った情報工作。
穏健な解決を求める声は、
いつも過激な側に踏みにじられてきた。

しかし、だからといって。

民主主義の手続きを経ず、夜明け前に人を連行する。
それが許されるなら、次は何が許されるのか。

彼はキーボードに指を置いた。

そして、書き始めた。

*「それは突然の出来事だった——」*

---

## 第五章 文書

再占領から二週間後、
賢司のもとに一本の電話が入った。

発信元はワシントンD.C.。
相手は国務省のアジア担当官を名乗った。
流暢な日本語だった。

「近いうちに、国会で重要な発表があります。
あなたには事前に知っておいてほしい」

賢司は受話器を握り直した。

「——どういう意味ですか」

「連行された人々が、
なぜあそこまで組織的に動けたか。
その答えが、まもなく明らかになります」

---

三日後、
衆議院の予算委員会に、前例のない人物が招かれた。

ダニエル・ハーパー。CIA副長官。

外国の情報機関トップが日本の国会に立つのは、
戦後史上初めてのことだった。
委員会室は静まり返っていた。
速記者の手が止まるほどの静寂の中、
ハーパーは淡々と語り始めた。

「我々は今回の作戦において、関係者の事務所、自宅、
および関係団体の施設から
大量の文書とデジタルデータを押収しました。
その分析結果を、日本国民および国際社会に対して
開示する義務があると判断しました」

通訳の声が、委員会室に静かに響いた。

スクリーンに、最初の文書が映し出された。

中国語と日本語の両方で書かれた指示書。
日付は七年前に遡る。
送金記録。香港経由、
さらにペーパーカンパニーを三重に経由した資金の流れ。

総額は日本円にして数十億円規模に上った。

「これらの資金は、特定の市民団体、メディア組織、
および地方議員の政治活動に対して、
中国共産党の対外工作部門である
統一戦線工作部を通じて提供されたものです」

野党議員が立ち上がり、
「証拠の信憑性は」と叫んだ。

ハーパーは静かに答えた。

「日本の公安調査庁、内閣情報調査室、
そして英国MI6との共同検証が完了しています。
文書の真正性については疑いの余地がありません」

委員会室が、どよめきに包まれた。

---

## 第六章 龍の爪痕

映し出された資料は、沖縄に留まらなかった。

ハーパーは続けた。
その声は、あくまで事務的だった。
感情を廃した官僚の声。
しかしその内容は、
聞く者の背筋を冷やすものだった。

「今回の分析を通じて明らかになったのは、
沖縄における工作活動が、
より大規模な戦略の一部であるという事実です」

新たな図表がスクリーンに展開された。
世界地図。赤い点が、各国に散らばっている。

「中国はここ二十年にわたり、
武力を用いない形での影響力拡大作戦を、
世界規模で展開してきました。
我々はこれを『静かな占領』と呼んでいます」

オーストラリア。
学術機関への資金提供と引き換えに、
親中的な研究結果を量産させた事例。

カナダ。
華人コミュニティの内部に浸透し、
反中国的な発言をする政治家への
組織的な選挙妨害を行った証拠。

ドイツ。
大手自動車メーカーへの投資を通じて、
対中批判的な政府の政策転換を引き出した
外交圧力の記録。

アフリカ諸国。
インフラ融資という名目で積み上げた債務を梃子に、
国連での投票行動を事実上コントロールしてきた実態。

そして日本。

沖縄の基地反対運動への資金提供は、
その一点だけではなかった。
特定の野党議員のスキャンダル情報を使った脅迫。
地方紙への広告費という形での経営関与。
SNSを使った世論形成のための偽アカウント網。
学術会議への研究者の送り込み。

「これらはすべて、
一つの目的に向かって設計されています」

ハーパーは一拍置いた。

「日米同盟の弱体化、
そして将来における沖縄の中国への編入を見据えた、
長期的な地ならしです」

---

委員会室は、もはや静かではなかった。

怒号。混乱。泣き崩れる議員の姿もあった。

賢司は傍聴席でそれを見ていた。
メモを取る手が、止まっていた。

画面に映し出されたある資料に、
彼の目が釘付けになった。

それは、彼がかつて所属した
反基地団体の会計記録だった。

学生時代、賢司は二年間だけその団体に関わっていた。
理想に燃えて、マイクを握って、
機動隊と対峙したこともあった。

あの情熱は、本物だと思っていた。

自分の言葉は、自分のものだと信じていた。

しかし——。

資料の中の送金記録に記された日付は、
賢司が最も熱く活動していた時期と、
完全に一致していた。

---

## 第七章 ハーパーの証言 続き

午後の審議が再開した。

ハーパーは最後にこう述べた。

「中国の戦略の本質は、相手国の内部矛盾を見つけ、
それを拡大することにあります。
沖縄には、歴史的な経緯から生まれた、
本物の怒りと悲しみがありました。
彼らはその感情を利用した。
純粋に基地問題を憂えていた沖縄の人々の多くは、
知らないうちに別の目的のための
駒として使われていたのです」

そして付け加えた。

「我々はこの問題を、
日本だけの問題だとは考えていません。
これは民主主義国家すべてが直面している脅威です。
銃声のない戦争。
それが現在進行形で続いています」

---

翌日、この証言は世界中に配信された。

ロンドン、ベルリン、ソウル、キャンベラ。
各国政府が相次いで声明を発表した。
中国大使の召喚が複数の首都で行われた。
北京は「でたらめな反中プロパガンダだ」
と強く否定したが、その声は以前より細く聞こえた。

---

## 第八章 礁の向こう

輸送艦の甲板から、新垣正雄は遠ざかる沖縄を見ていた。

コバルトブルーの海。雲の影が水面を走る。
どこまでも続く空。

国会でのハーパーの証言は、
収容施設にも伝わってきた。

新垣は自分が正しかったと、今でも思っていた。
基地は出ていくべきだ。
沖縄の痛みは本物だ。

しかしその確信の隣に、
今は別の感情が寄り添っていた。

あの熱狂の中で、
自分はどこまでが自分の意志だったのか。
あの資金は、本当に市民の善意の寄付だけだったのか。
あの時、なぜか必ず現れた
「アドバイザー」たちは、何者だったのか。

自分は信じていた。

しかし——信じさせられていたのかもしれない。

その二つの間の距離を、
今の彼は測ることができなかった。

風が強くなった。

沖縄の島影が、水平線の向こうに消えていった。

---

## 終章 夜明け

賢司は長い記事を書き終えた。

それは告発でも弁護でもなかった。

沖縄の怒りの正当性について。
それを利用した外国の意図について。
民主主義の名のもとに行われた強権的な措置について。
そして自分自身の、あの若い日々の熱狂について。

すべてを並べて、読者に渡すような記事だった。

答えは書かなかった。

答えを書ける立場に、自分はないと思った。

送信ボタンを押した後、賢司は窓を開けた。

夜明け前の那覇の空は、深い紺色をしていた。
東の水平線の端が、わずかに白み始めていた。

どこかで鶏が鳴いた。

波の音が、遠く聞こえた。

この島は、ずっとここにあった。

様々な旗が、様々な思惑を持って翻った。
それでもこの島は、ここにあり続けた。

夜明けの光が、ゆっくりと海の上を滑ってきた。

---

**了**
 

今の日本を見ていると

結局 こういう話を作りたくなります

 

 

 

# 断罪 ―正義という名の怪物―

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## 第一章 沖縄の火

梅雨の晴れ間、沖縄の空は嘘のように青かった。

名護市郊外、
米軍基地のフェンス沿いに並ぶテント村は、
もう十年以上そこに在り続けていた。
色褪せた幟旗が潮風にはためき、
「基地撤去」「平和を守れ」という文字が
夏の陽光に晒されていた。
活動家たちにとって、
それは聖域だった。信念の砦だった。

午前三時十七分。

最初の悲鳴を聞いた者は誰もいなかった。

翌朝、地元の漁師が異臭に気づいて通報した。
警察が駆けつけると、テント村は血の海だった。
十四人の遺体。
いずれも鋭利な刃物による刺傷。
抵抗の痕跡はほとんどなく、
まるで眠っているうちに屠られたかのようだった。

捜査一課の城間警部は、現場を見渡して唇を噛んだ。

三十年のキャリアで、
これほど計画的な殺害を見たことがなかった。
凶器なし。目撃者なし。
防犯カメラには不審な人影が映っていたが、
黒いレインコートとフルフェイスのヘルメットで
完全に身元が隠されていた。
歩き方すら不自然なほど変えられていた。

「プロだ」と城間は呟いた。

「しかも、一人じゃない」

ニュースは瞬く間に日本中を駆け巡った。

テレビのスタジオでは野党議員たちが声を荒げた。

「政府の責任だ」

「ヘイトクライムだ」

「右翼勢力との癒着を調査しろ」。

SNSでは百万を超えるハッシュタグが踊り、
翌日の新聞は一面どころか全紙面をその事件で埋めた。

政府は緊急声明を発表した。
「断固として犯人を逮捕する」。
総理の言葉は力強かったが、
捜査本部に届いた情報はゼロだった。

---

## 第二章 嵐の前夜

事件から三週間後。

野党第一党幹事長・馬渕克彦は、
東京の自宅でブランデーを傾けながら
支持者からの電話を切った。
五十八歳。政界歴三十年。
「庶民の味方」として名を馳せた男だったが、
その邸宅は都内の高級住宅地に構える
三億円の豪邸だった。

「沖縄の件、うまく使えるな」

秘書の栗田に囁いた言葉が、
その夜の全てを物語っていた。

彼は知らなかった。
その夜、日本全国で静かな嵐が始まっていることを。

翌朝、
馬渕の携帯電話が鳴った。
妻からだった。

「克彦さん、
美咲が……美咲が学校に来ていないって
先生から……」

娘の名を聞いた瞬間、馬渕の顔から血の気が引いた。

同じ時刻、東京・大阪・名古屋・福岡・札幌。
野党大物議員五名の自宅に、次々と電話が入った。
息子が消えた。
娘が消えた。
孫が消えた。
夫が消えた。
妻が消えた。

警察の集計によれば、
その朝だけで二百八十七名が行方不明になった。

前代未聞だった。

捜査本部が立ち上がり、城間警部が再び呼び出された。
彼は沖縄の現場から東京に移り、
不眠不休で捜査を続けていた。
だが手がかりは何一つなかった。
まるで人々が空気に溶けたように消えていた。

三日間、何も起きなかった。

日本中が固唾を飲んで待った。

---

## 第三章 配信

四日目の午後九時ちょうど。

主要ネット動画プラットフォーム全てに、
同時に映像が現れた。

画面の中央には、白い無地の壁を背景に、
黒いマスクと黒いスーツを纏った人物が立っていた。
声は機械で変調されており、
性別も年齢も判別できなかった。

「日本国民の皆さん、これは劇場ではありません」

声は静かだった。
怒鳴らなかった。
だからこそ、見た者は背筋が凍った。

「画面の左側をご覧ください」

そこには五つの小窓があり、
それぞれに人々が映っていた。
老人、中年の男女、若い女性、
そして——赤ん坊を抱えた若い母親。

「彼らは全員、あなた方が選んだ代議士の家族です。
馬渕克彦氏、桐島誠一氏、水野幸子氏、
前原達也氏、大森浩二氏。五名の議員に告げます」

人物はゆっくりと首を傾けた。

「七十二時間以内に、
公衆の面前で自ら命を絶ってください。
そうすれば家族は解放します。
拒否すれば、画面の向こうで一人ずつ死んでいきます。
選択はあなたたちにあります」

配信は三分で終わった。

日本中が絶句した。

---

## 第四章 拒絶と代償

馬渕克彦は、議員会館の自室でその映像を見た。

美咲——。
画面の中の娘は目を閉じていた。
生きているのか分からなかった。

「馬鹿にするな」

馬渕は立ち上がった。
六十年生きてきた。
政争を生き抜いてきた。
テロリストの要求に屈するくらいなら——

「絶対に自殺などしない。これは民主主義への挑戦だ。
国家がテロに屈してはならない」

記者会見でそう宣言したとき、
馬渕の目は揺れていなかった。

だが七十二時間のカウントダウンは止まらなかった。

四十八時間後の深夜、再び配信が始まった。

「馬渕克彦氏は拒否しました」

画面の小窓の一つが大きくなった。

「やめろ!」

誰かが叫んだ。
どこかの視聴者が叫んだ。
日本中の誰かが叫んだ。

映像が終わった後、SNSは絶叫で埋め尽くされた。
馬渕への憎悪、犯人への恐怖、政府への怒り、
全てが混在して濁流となった。

翌朝、馬渕の事務所のドアが破られた。

それだけではなかった。
画面の向こうで次々と
——老いた父親が、中年の兄が、若い甥が。
そして最後に、乳飲み子を抱えた娘が。

日本中がその映像を見た。

馬渕は最後まで自殺しなかった。

残る四人の議員は、涙を流しながら記者会見に臨んだ。
桐島誠一は震える手でペンを握り、
カメラの前で遺書を読み上げた。
水野幸子は三十分泣き続けた後、
立ち上がり「家族を……家族を頼む」と呟いた。
前原達也は静かだった。
大森浩二は最後に「ごめんなさい」と言った。

一週間後、四人の親族は全員、無傷で自宅前に現れた。

馬渕克彦は、その後、議員を辞職した。
国民は彼を許さなかった。
彼は娘を失い、地位を失い、
残りの人生を誰にも会わず過ごした。
それが彼への、最も残酷な罰だったのかもしれない。

---

## 第五章 法の腐敗

一ヶ月後。

日本は静かだった。
しかし静けさは平和ではなかった。
それは嵐の前の、息を潜めた沈黙だった。

東京地検特捜部の倉橋検事が行方不明になったのは、
月曜の朝だった。
続いて大阪高裁の田端裁判長が、
名古屋の弁護士・小沢が、
福岡の検察官が、
横浜の弁護士が——。

今度の誘拐リストは、警察にとって不可解だった。

共通点を探ると、浮かび上がる名前があった。

外国人被告に対して不自然な不起訴処分を
繰り返した検察官。
どう見ても証拠が揃っているのに
無罪判決を出し続けた裁判官。
凶悪犯罪者の量刑を
不可思議な弁論で引き下げた弁護士。

「これは……清算だ」

城間警部は資料を眺めながら、静かにそう思った。

三日後の配信は前回と同じ形式だった。
ただ今回は、名前が上がった全員に
自殺を要求するのではなかった。

「まず、
真実を話したい者がいれば名乗り出てください」

沈黙があった。

その沈黙を破ったのは、
大阪の弁護士・橘田雅人だった。

「私は……私は脅されていました」

彼は泣いた。
本当に泣いた。
配信の視聴者数は二千万を超えていた。

「山下金吾議員と……東京高裁の杉本裁判長に……
事務所を潰すと言われて……
家族を傷つけると言われて……」

名前が出た瞬間、日本中が息を飲んだ。

山下金吾——与党第一党の重鎮。
三十年以上政界に君臨し、「永遠の実力者」
と呼ばれた男。
杉本裁判長——司法の頂点に近い場所に立つ、
「良識の象徴」と評された人物。

橘田弁護士の家族は、別室に移された。

その後の暴露は、雪崩のようだった。
脅されていた者たちが次々と口を開いた。
だが同時に、彼らが裏で受け取っていた金の流れも、
依頼を引き受けた記録も、全て映像として流れた。

「脅されていたのは本当だ。
だが、あなたたちは脅されなくても
同じことをしていた」

画面の声は静かに言った。

橘田を除いた全員が、
自らの命で決着をつけることになった。

三週間後、
東京湾の水面に二つの遺体が浮いた。
山下金吾と杉本裁判長だった。

---

## 第六章 霞が関の核心

秋が深まる頃、日本の空気は変わっていた。

人々は怖れながらも、どこかで待っていた。
次は誰か、と。
正義か悪夢か、どちらが正確な言葉か
も分からないまま、日本という国が
巨大な劇場になっていた。

財務省の幹部たちが消えたのは、
十月の第三週だった。

今回は警察も全力で警護していた。
幹部たちには二十四時間の護衛が付き、
移動は全て把握されていた。
それでも四十三名が忽然と消えた。

城間警部は初めて机を叩いた。

「どうやって……どうやってやっているんだ」

ネット回線の追跡班は三ヶ月間、
不眠不休で調べ続けていた。
しかし信号は世界中を飛び回り、
特定できるIPアドレスは存在しなかった。
技術の専門家たちは口を揃えた。

「理論上、あり得ない」と。

配信が始まった。

要求は今回、人の死ではなかった。

「財務省を解体し、機能を分割せよ。
予算編成、税務行政、金融監督、
それぞれを独立した省庁に移管せよ。
一つの官庁があまりにも多くの権力を持ちすぎている」

政府は困惑した。

「技術的に難しい」

「時間がかかる」

「憲法上の問題も——」

そのとき、画面の隅に新しい顔が映った。

与党の大物議員たち
——左派と呼ばれる派閥のボスたちの家族だった。

「彼らも一緒に誘拐されました。
先ほど驚いていたようなので、ご説明します。
あなた方が家族を海外に避難させていたことは
知っていました。
ですから、少し手間がかかりましたが」

議員たちの顔が蒼白になった。

彼らはこの事件が始まって以来、
表向きは犯人を非難しながら、
水面下で家族を海外に移していた。
「まさか自分たちは狙われない」
という確信があった。

その確信は、音もなく砕け散った。

緊急会議が招集された。

与野党の枠を超えた協議が始まった。
財務省の分割という、かつては「非現実的」と
言われた改革が、約一年という異例のスピードで
法整備された。
行政の専門家たちは驚いた。
意志さえあれば、それほど時間はかからないのだと、
誰もが初めて気づいた。

法律が成立した日の夜、
四十三名の財務官僚と議員の家族は
全員、無事に帰宅した。

---

## 第七章 遺書

桜が咲く前の、三月の曇った朝。

都庁の展望台から、一人の男が飛び降りた。

男は三十代と思われた。
特徴のない顔立ち。
目撃者たちは後に、
「気づいたときにはもう落ちていた」と語った。

胸のポケットに遺書があった。

警察がそれを公開したのは、三日後だった。

---

*私はこれを「正義」と呼ぶつもりはない。*

*正義とは、本来、法と人と社会が互いを
支え合うことで育まれるものであって、
一人の人間が武器を持って
振りかざすものではない。*

*私がやったことは、正しくない。多くの命を奪った。
幼い子も、罪のない者も含めて。
その重みは、死ぬまで
——いや、死んでも消えない。*

*ただ、私は限界だった。*

*この国の司法が腐り始めたのを見ていた。
力ある者が法を私物化し、
守られるべき者が踏みにじられるのを見ていた。
声を上げる人間が潰されるのを見ていた。
正しい道を歩もうとする人間が
孤立していくのを見ていた。*

*私のやり方は間違っていた。
だが、私を生んだのは、この国の腐敗だ。*

*もし再びこの国が道を外れる時が来たならば、
私は戻ってくる。*

*それが空虚な言葉であったとしても、
誰かの心の中に残るならば
——道を踏み外そうとする者への、
わずかな抑止力になるかもしれない。*

*願わくば、
この先は誰も私のような者を必要としない国であれ。*

---

遺書には署名がなかった。

最後まで、男は名前を残さなかった。

---

## エピローグ  変わった国、変わらない問い

事件から一年が経った。

財務省は三つの独立した機関に分割された。
司法の透明性を高めるための
独立監視委員会が設立された。
いくつかの選挙区では新しい顔の議員が選ばれ、
永田町の空気は少しだけ変わったと言われた。

城間警部は退職した。

最後の夜、彼は部下に言った。

「犯人を捕まえられなかったことを、私は悔やんでいる。

だが正直に言えば——もし捕まえていたら、
何かが変わっていたかどうか」

部下は黙っていた。

「人間は本来、互いを見ている。
誰かが間違った道に踏み込みそうになったとき、
隣にいる者が声をかける。
それだけでいい。それだけで、多くのことが変わる。
だが私たちはずっと、見ていたのに見ていなかった」

窓の外で、東京の夜景が広がっていた。

何千万もの光が輝いていた。
その一つ一つに、人の営みがあった。
欲望があり、善意があり、弱さがあり、誇りがあった。

人が人を傷つけるとき、
その傷はいつか刃となって戻ってくる。

それは復讐の連鎖ではなく、因果の摂理だ。

犯人の行動もまた、憎しみではなく
——おそらくは深い、
どうしようもない悲しみから生まれた。
それがどんな形であれ、人の心の奥底には、
「正しくあってほしい」という祈りが宿っている。

だからこそ人は時に間違い、
だからこそ人は時に傷つけ合い、
だからこそ人は問い続ける。

   正しさとは何か、と。

   正義とは誰のものか、と。

その問いに答えが出る日まで、
人は歩き続けるほかない。

夜明けを信じながら。

---

**了**
 

童顔の工作員がいたら面白いかも?

って思い

童顔なら学校に潜入だよね

って思って作りました

 

 

# 【王女と影】

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## 第一章 欠点

 世界には、見た目で損をする職業がいくつかある。

 弁護士、医師、政治家——そして諜報員。

 エドワード・グレイは三十二歳だった。
少なくとも、パスポートにはそう書いてある。
MI6内部の人事ファイルには
「特殊工作員・最高評価(甲)」と記されており、
遠距離狙撃における命中率は
SAS全体でも指折りの精度を誇り、
中距離での制圧戦闘においては訓練教官が
「教えることが何もない」と匙を投げ、
近接格闘においては大型の訓練相手を
三秒以内に無力化することが珍しくない。

 要するに、
あらゆる距離において無類に強い男だった。

 ただし——見た目は、どう逆立ちしても
十七歳にしか見えなかった。

 身長は百七十センチに満たず、体つきは細く、
顎のラインは柔らかく、
頬には未だにわずかな丸みが残っている。
灰色がかった青い瞳は涼しく、
そこだけは年齢相応の何か冷たいものが宿っているが、
それを見抜ける人間はまずいない。
ほとんどの者は、その目より先に「若い」
という印象に飲み込まれて思考を止めてしまう。

 エドワードが物心ついた頃から、
周囲の大人たちは口をそろえて言った。

 「まあ、かわいらしい」

 小学生の頃はそれでよかった。
中学生になっても、まあ許容範囲だった。
だが高校生になっても「あなた、いくつ?小学生?」
と聞かれ続けたとき、
さすがに何かがおかしいと感じ始めた。
二十歳を超えて、二十五歳を超えて、
三十歳を超えても
——外見は十代の頃と寸分も変わらなかった。

 医師に診てもらった。
異常はなかった。
遺伝子検査をした。
特に問題はなかった。
「ルッキング・ヤング症候群」
などという造語を使った医師もいたが、
要するに「よくわからない」ということだった。

 外見上の成長が、どこかの時点で止まった。
それだけのことだ。

 実害は多岐にわたった。

 バーに入ろうとすれば止められる。
車を運転していると職務質問される。
スーパーでワインを買おうとすると
「お父さんかお母さんは?」と聞かれる。
パブでビールを注文するたびに
身分証の提示を求められ、
その身分証を見た店員が「これ……本物ですか?」
と首を傾げる。
諜報員としての本物の身分証は当然使えないので、
偽造の一般市民用証明書を使うのだが、
それを見て「三十二歳?」と絶句される。
年がら年中その繰り返しだった。

 エドワードの同僚たちはそれを笑いのタネにした。

 「グレイ、また断られたか?」

 「うるさい」

 「童顔も武器になるだろう。諜報員向きじゃないか」

 「なるわけがない」

 そう言い切れていた頃が、なつかしい。

---

## 第二章 任務

 ロンドン、テムズ川沿いのとある建物の地下。

 エドワードは白い壁の会議室で腕を組み、
上官のマーカス・ハウエル大佐の話を聞いていた。

 ハウエルは六十代で、白髪を短く刈り込み、
口元に薄い笑みを貼りつけたまま喋る癖がある。
良い話をするときも悪い話をするときも、
その笑みは変わらない。
それがエドワードは昔から苦手だった。
今日の笑みは、特に嫌な種類のものに見えた。

 「エリザベス王女殿下が、
今秋よりアメリカ・コネチカット州の名門校、
ウィンザーヒル・アカデミーに留学される」

 「それは存じています」

 「護衛を要請された」

 「それも存じています。
どこの部署が担当するんですか」

 ハウエルは微笑んだまま、
ブリーフィングの資料をエドワードの前に滑らせた。

 表紙には「機密・最優先」のスタンプ。
その下に、エドワードの名前。

 「……は?」

 「君だ、グレイ」

 「私が、王女殿下の護衛を?」

 「そうだ」

 エドワードはしばらく無言でいた。
特殊工作員として、
感情を顔に出すことは極力避けるよう訓練されている。
しかし今この瞬間だけは、
その訓練がほんの少し軋む音を立てた。

 「……光栄です。
どこかの要所に狙撃ポジションでも取ればよいですか。
それとも、学校周辺のルートを
定期的にクリアリングする任務でしょうか」

 「違う」

 「では、王女殿下の移動を影から追跡する——」

 「違う、と言った」

 ハウエルは資料を開き、
一枚の写真をエドワードの前に置いた。
制服を着た生徒たちが校舎の前で笑っている、
ごく普通の学校のパンフレット写真だった。

 「王女殿下は、あからさまな護衛を
非常に嫌っておられる。
過去にも、護衛の存在を察知した途端に行動を起こし、
護衛チームを振り切ったことが三度ある。
現地の警護チームとは連携を取るが、
近距離の密着護衛は、
王女殿下に気づかれない形で行う必要がある」

 「つまり、潜入護衛ですね」

 「そうだ」

 「……どこに潜入するんですか」

 ハウエルはパンフレットの写真を指さした。

 「この学校に。
王女殿下のクラスに、転入生として入学してもらう」

 静寂。

 エドワードは三秒かけて、今聞いたことを咀嚼した。

 「……クラスメイトになれ、ということですか」

 「そうだ。君の外見年齢は十七、八歳に見える。
ウィンザーヒル・アカデミーの
生徒の平均年齢と一致する。
現地のチームが完璧な伝説(レジェンド)を用意した。
エドワード・グレイ、十七歳、
両親を亡くしたためアメリカの叔父の元に
引き取られた英国人少年。書類は完璧だ」

 「……」

 「王女殿下は現在十八歳。
外見上、君ともそう違わない。
最も自然に近距離を維持できる護衛は君しかいない」

 「大佐」

 「何だ」

 「私は三十二歳です」

 「知っている」

 「高校の授業を受けろというんですか。三十二歳が」

 「君のような優秀な工作員が、
高校の授業についていけないわけがないだろう」

 「そういう問題では——」

 「任務だ、グレイ」

 ハウエルの笑みは変わらなかった。

 エドワードは深く、深く息を吐いた。
三十二年の人生で最も重い溜息だったかもしれない。

 「……泣く泣く、承りました」

 「よろしい。出発は二週間後だ。
制服のサイズを採寸する。
……エス(S)サイズでよかったかね」

 「余計なことは言わないでください」

---

## 第三章 ウィンザーヒル・アカデミー

 コネチカットの秋は、
英国のそれよりも鮮やかだった。

 赤と金に染まった並木道の奥に、
赤煉瓦造りの校舎が構えている。
緑の芝生、白い柵、笑い声。
絵に描いたようなアメリカの名門校だった。
エドワードはその光景を正門の前で眺め、
制服のネクタイを無意識に直した。

 濃紺のブレザー。
グレーのスラックス。
ストライプのネクタイ。

 どう見ても学生だった。

 「はあ」
と、エドワードは小さく嘆いた。
誰も聞いていない。
聞かれても困る。

 校舎に入り、担任に案内されてクラスに入った。
三十数名の生徒たちが一斉にこちらを見た。
エドワードは無表情で教室を見渡し、
瞬時に情報を処理した——出入り口の位置、
窓の数と方角、死角、
そして、前の方の席に座っているターゲット。

 エリザベス王女。

 資料で写真は何度も見ていた。
だが実物は、写真より少しだけ違った。

 栗色の髪を肩のあたりで緩くまとめ、
制服の袖をほんの少しまくっている。
頬に小さなそばかすがある。
姿勢がよく、どこか凛としているが、
隣の生徒と何か囁き合って小さく笑っている。
王族らしい気取りはなく、ごく自然にそこにいた。

 ——ああ、厄介そうだ。

 直感だった。
理由は言語化できないが、
諜報員の勘というものは大抵当たる。

 「エドワード・グレイです。よろしく」

 短く自己紹介を終え、
エドワードは空いていた後方の席に向かった。

 窓際の最後列。
壁を背に、出入り口を正面に捉えられる、
最も有利な席だった。
偶然ではない。エドワードが来る前に、
現地チームが根回しをしていた。

 「ねえ」

 声をかけられた。
隣の席の女子生徒だった。

 「英国から来たの?かわいいね」

 かわいい。
三十二年間で最も聞き飽きた言葉だった。

 「……ありがとう」

 エドワードは愛想のない微笑みを返し、
テキストを開いた。

 以来、エドワードは徹底して目立たないことを選んだ。

授業中は発言せず、休み時間は本を読み、
昼食は隅の席でひとりで食べた。
「根暗の陰キャ転入生」という印象は
あっという間に定着した。
それで構わなかった。
護衛にとって、存在感の薄さは最大の武器だ。

 一方、エリザベスは瞬く間にクラスの中心になった。

 フレンドリーで、よく笑い、
誰に対しても分け隔てなく話しかける。
しかし芯のところに鉄のような頑固さがあることは、
数日で見て取れた。
ある授業での議論では、
教師に正面から反論して引かなかった。
正論だったが、普通の生徒ならそこで折れる。
エリザベスは折れなかった。

 ——やはり厄介だ。

 エドワードは毎日その背中を後方から観察しながら、
内心でそう繰り返した。

 二週間が過ぎた頃、
エリザベスの目がこちらに向いたことは
一度もなかった。

---

## 第四章 最初の影 ――図書館の夜

 十月の第二週、水曜日の夕方。

 放課後の図書館は静かだった。
生徒が数人、それぞれの机で勉強している。
エリザベスは窓際のテーブルで
歴史の参考書を広げていた。
護衛の現地チームは今夜、校外で
別の脅威情報への対応に人員を割かれている。
エドワードひとりで対応しなければならない夜だった。

 エドワードは二列離れた書架の陰で、
文庫本を開いていた。
開いているだけで、読んでいない。
目はページの文字ではなく、
室内の全員の動向を追っている。

 ——入ってきた。

 図書館の扉が開いた。
清掃スタッフの制服を着た男が、
モップを押しながら入ってくる。
エドワードの視線が一瞬だけそこに止まった。

 おかしい。

 清掃は今日の午前中に終わっている。
この時間帯に清掃員が来るシフトではない。
男の手の動きが自然でない。
モップの柄を握る右手の位置が高すぎる
——柄の中ほどを握っている。
あの握り方は、押すためではない。

 エドワードは本をそっと閉じ、立ち上がった。

 「すみません、トイレはどこですか」

 司書に小声で聞きながら、男との距離を詰めていく。
男はゆっくりとエリザベスのテーブルへの
距離を縮めていた。
他の生徒たちは気づいていない。
エリザベスも本を読んでいる。

 男がモップの柄に手をかけた。

 エドワードが間に入ったのは、その一秒後だった。

 「落とし物ですよ」

 男の真横で声をかけながら、
エドワードの右手が男のモップの柄を持つ
手首をつかんだ。
表向きは「何かを拾い上げようとした」
動作に見える。
だが実際には、手首の特定の神経を的確に圧迫した。
鋭い痛みが走り、男の手が一瞬で開く。
モップの柄の中に仕込まれていた
細いワイヤーが抜けた。

 エドワードはそれをそのまま
自分のジャケットの内側に滑り込ませた。

 「あ、違いましたね、失礼」

 微笑みながら男から離れる。
男は痛みと驚愕で数秒固まっていた。
エドワードは書架の陰に戻り、本を再び開いた。

 男は二分後、何もできないまま図書館を出ていった。

 エリザベスは何も知らず、
参考書のページをめくっていた。

 エドワードは本のページを見つめながら、
ゆっくりと息を整えた。
心拍数は作戦行動中も乱れない
——それが彼の矜持だった。
ただ、今夜中に現地チームへの報告と、
男の身元照会が必要だ。

 図書館を出るとき、
エリザベスのそばを通りかかった。

 彼女は顔を上げなかった。

 エドワードは何も言わずに通り過ぎた。

 翌朝、身元照会の結果が届いた。
東欧系の独立系工作員。
依頼主は不明。
ターゲットは、
おそらくエリザベスの身柄拘束だった。

 この件は上層部に報告され、
「継続監視」の判断が下された。

---

## 第五章 二度目の影 ――嵐の校外学習

 十一月の初め、一泊の校外学習があった。

 行き先は隣州の自然公園。
バス二台に分乗し、
フィールドワークを行うプログラムだ。
現地チームは二名がバスに同乗し、
残りは先行して現地の安全確認を行っていた。

 エドワードはエリザベスと同じバスに乗り、
三列後ろの席に座った。

 天気予報は晴れだったが、午後から雲が出始め、
夕方前には本格的な嵐になった。
プログラムは急遽変更され、
生徒たちは近くの森林管理センターに避難した。
築五十年の古びた建物で、
広い屋内空間に雑然と設備が置かれている。

 エドワードはその建物の間取りを目で追いながら、
通信機に指を当てた。

 〈現地チーム、状況は〉

 〈嵐で移動不能。
センターから三キロ手前で車が立ち往生している。
合流まで最低四十分〉

 厄介だ。

 エドワードは静かに室内を見回した。
生徒は三十名以上、教師が三名。
センターのスタッフが二名。

 そして——外から来た者が、一名。

 雨の中、
「嵐を避けてきた通りすがりのハイカー」
として入ってきた中年の男。
バックパックを背負い、礼儀正しく挨拶をして、
端の椅子に座った。
センターのスタッフも疑わなかった。

 エドワードだけが疑った。

 雨に濡れた上着の右肩。そこだけ濡れ方が違う。
分厚い。詰め物がある。
ホルスター型の何かが、上着の下に縫い込まれている。

 雨の中でも傘を差さず手が塞がるのを嫌った
——熟練者の動作だ。

 エドワードは席を立ち、
さりげなくエリザベスのグループへ近づいた。

 「ねえ、グレイくん」

 声をかけてきたのはエリザベスだった。
エドワードは内心で少し驚いた。
彼女がこちらに話しかけてきたのは初めてだった。

 「ここに来るの珍しいね。
いつもひとりでいるじゃない」

 「雨宿りです。同じですよ」

 「そっか。あなたって英国出身なの?
アクセント、少し残ってるよね」

 「ええ、まあ」

 「私もなの。
ロンドンの学校に通ってたことがある」

 エドワードはエリザベスと会話しながら、
その視線は男を追っていた。
男がゆっくりと立ち上がり、
「トイレ」と呟いてセンターの奥へ向かう。

 「ちょっと待って」

 エドワードはエリザベスに言った。
彼女が「え?」と首を傾げる前に、
エドワードは歩き出していた。

 廊下を曲がった先、
男はすでに上着の内側に手を入れていた。

 エドワードは走らなかった。

 廊下の端の消火器を右手で素通りざまに取り、
男の三歩手前で投げた——男の足元へ。
男が反射的に視線を落とした。

 その〇・三秒で、
エドワードは男の背後に回っていた。

 右腕が男の首に巻きつき、
左手が銃を持つ右手を固定する。
一瞬の圧迫で意識が落ちた。
音は出ない。
男の体がゆっくりと壁にもたれかかった
——座り込んだように見える。

 エドワードは男の上着から小型拳銃を抜き、
分解してポケットに入れた。

 通信機を開く。

 〈グレイより現地チーム。
センター内、無力化一名。早急に回収を〉

 〈……了解。何者だ〉

 〈調査中。急いでくれ〉

 廊下を戻る。
エリザベスのグループに戻ると、
彼女は少し心配そうにこちらを見た。

 「どこ行ってたの?」

 「トイレですよ」

 「なんか顔が少し——」

 「寒いんです。英国人なので」

 エリザベスは一瞬きょとんとして、
それから吹き出した。

 「なにそれ。あったかいとこ座ろう、こっちこっち」

 エドワードは無表情のまま、彼女の隣に腰を下ろした。

 後に判明した男の素性
——今回の依頼主も前回と同様、不明のままだった。
ただ、狙いは身柄拘束ではなく、
今回は暗殺だったことが銃の弾薬から読み取れた。

 脅威のレベルが上がっている。

 エドワードはその夜、
嵐の音を聞きながら、
エリザベスの笑い声を頭の隅で反芻した。

 ——厄介だ。と、また思った。

---

## 第六章 看破

 十二月に入った頃から、
エドワードは自分がぎりぎりの
綱渡りをしていることを自覚し始めた。

 二度の護衛阻止は成功した。
だが、そのどちらでも「自分が場を離れた」
ことをエリザベスは気づいていた。
最初の図書館は気づかれていないはずだが、
校外学習の件はそうはいかない。
彼女は賢い。
情報を蓄積する。

 加えて、学校のセキュリティカメラの
映像管理を担当する現地チームから報告が入った。
校内のカメラ映像に不審なアクセスがあった。
外部の人間が、
エリザベスの行動パターンを把握しようとしている。

 次の行動は近い。

 そして——それは予想より早く来た。

 十二月の第二週、金曜日の夜。
学校のホールで小規模な
クリスマスパーティーが開かれていた。
エドワードはいつも通り、人混みの端で飲み物を持ち、
壁際に立っていた。
エリザベスはホールの中央で友人たちと笑っている。

 現地チームは今夜、三名が校内に潜入している
——はずだった。

 通信機に入ったのは、
そうではないという情報だった。

 〈緊急。現地チーム三名、毒物によりダウン。
飲料への混入と思われる。動けない〉

 エドワードは表情を変えなかった。

 〈了解。私が対応する〉

 問題は、どこから来るかだ。

 ホールは百名以上の生徒で埋まっている。
外からの侵入は難しい。
つまり——内側からだ。

 エドワードは素早く室内を見渡した。
すでに入り込んでいる。どこだ。

 エリザベスが、友人に誘われてホールの外、
廊下へと出るのが見えた。
人が多くて暑い、少し外の空気を吸いたい
——よくある流れだ。
だが、今夜この流れは罠だ。

 エドワードはホールを出た。

 廊下の先、エリザベスは窓の外を眺めていた。
友人は少し離れた場所で別の生徒と話している。

 エドワードとエリザベスの間に、
三人の人影が廊下の角から現れた。

 素早い。
訓練された動きだ。
先頭の男が手を動かした瞬間、
エドワードは判断した。

 もう、隠れてはいられない。

 「伏せてください!」

 大声は出さなかった。
だがはっきりとした、命令の声だった。
エリザベスがこちらを振り向いた。
驚愕で目が見開かれた瞬間、
エドワードは彼女の肩を押して壁に寄せ、
自分が前に出た。

 三対一。

 通常の状況なら、最も避けたい数だ。

 エドワードには通常の状況という概念がない。

 先頭の男の手首を取り、
回転させながら後続の男の顎に送り込んだ。
二人目が拳を繰り出す。
躱しながら喉元に肘を入れる。
三人目が足を払おうとする。
跳んで躱し、
着地と同時に側頭部に掌底を打ち込んだ。

 七秒。

 三人が床に伏していた。

 エドワードは息を整えながら振り返った。

 エリザベスが壁に背をつけ、
目を丸くしてこちらを見ていた。

 「……グレイくん」

 「怪我は?」

 「な、ない……けど」

 「よかった。今すぐここを離れてください。
ホールの中心に戻って——」

 「ちょっと待って」

 エリザベスの声が、低くなった。
普段の柔らかい声ではない。
あの、頑固な芯が前に出てくるときの声だ。

 「あなた、誰?」

 エドワードは一拍、黙った。

 「……英国から来た転入生です」

 「違う」

 エリザベスは一歩前に出た。
眸が真っ直ぐにエドワードを見ている。

 「図書館の夜から、ずっと気になってた。
あなたがそばにいると、
何かよくないことが起きそうな気配がして
——でも何も起きない。
それがずっと不思議だった。
今夜わかった」

 エドワードは答えなかった。

 「護衛でしょう」

 沈黙が答えだった。

 エリザベスはしばらくエドワードの目を見ていた。
それから、ゆっくりと息を吐いた。

 「……ずっと守ってくれてたの?」

 「任務です」

 「何ヶ月も、ひとりで?」

 「現地チームがいます。
今夜は彼らが使えない状況でしたが」

 「あなた、学生じゃないよね」

 「……」

 「本当の年齢は?」

 エドワードは正直に答えた。

 「三十二です」

 エリザベスが目を見開いた。
それから——笑い出した。
声を殺した笑いだったが、肩が震えている。

 「三十二……嘘でしょ」

 「嘘をつく理由がありません」

 「でも……」

 「わかっています。
見た目の話はしないでください」

 エリザベスはまだ少し笑いながら、
でも目には別の何かが宿っていた。

 「……ありがとう」

 小さく、でもはっきりと言った。

 エドワードは表情を変えなかった。

 「任務ですから」

---

## 第七章 別れと駆け込み

 護衛の露呈により、任務は終了と判断された。

 上層部の判断は早かった。
エリザベスへの身元開示が確認された以上、
潜入護衛としての機能は失われた。
現地チームを通常体制に戻し、エドワードは帰国する
——それが決定だった。

 荷物はほとんどなかった。
もともと少なかった。
制服は返却し、
私物をバッグに詰めたらそれで終わりだ。

 寮の部屋を引き払い、校門を出たのは早朝だった。
まだ暗い。誰もいない。

 それがよかった。

 エドワードはタクシーでJFKへ向かい、
チェックインを済ませ、出発ゲートのベンチに座った。
搭乗まで三十分。ロンドン行き。

 特に感傷はなかった。
任務が終わった。
それだけのことだ。

 ——終わった。

 本当にそれだけのことのはずだった。

 「グレイ!」

 声が聞こえたとき、
エドワードは最初、空耳だと思った。

 もう一度聞こえた。

 走ってくる足音と、息を切らした声。

 振り向いた瞬間、栗色の髪が視界に飛び込んできた。

 エリザベスが、制服のまま、
空港のゲートを駆けてきた。
友人も護衛も誰もついていない。
ひとりだった。

 エドワードが立ち上がる暇もなく、
彼女はまっすぐにぶつかってきた。

 腕が背中に回された。

 エドワードは、完全に固まった。

 三十二年間で
最も処理に時間がかかった出来事だったかもしれない。
あらゆる距離でいかなる敵にも対応できるこの身体が、
この瞬間、完全に機能を停止した。

 「行かないで」

 エリザベスの声は、上擦っていた。

 「……殿下」

 「行かないでって言ってる」

 「任務は終了しました。私がここにいる理由が——」

 「私が理由じゃダメなの」

 返す言葉が見つからなかった。

 エドワードは生まれて初めて、
諜報員としての語彙が役に立たないという経験をした。

 「あなたのこと、全然知らなかった。
ずっとそこにいたのに、全然見えてなかった。
ひとりで抱えてたのに、私は何も——」

 「それが正しい護衛の形です」

 「それでも」

 エリザベスは顔を上げた。目が赤い。

 「行かないで欲しい」

 エドワードは、その目を見た。

 職業的に、感情を分析する。
懇願、怒り、羞恥、そして——。

 ああ、と思った。

 これは複雑だ。

 「……殿下、私は——」

 「エリザベスでいい」

 「それは」

 「エリザベスって呼んで。
私はずっとグレイくんって呼んでたじゃない」

 「それは任務上の——」

 「グレイくん」

 「……」

 「行かないで」

 エドワードは大きく、静かに息を吐いた。

 三十二歳の特殊工作員が、
出発ゲートの前で十八歳の王女に抱きつかれたまま、
完全に答えを失っていた。

---

## 終章 護衛の継続と困惑の日々

 上層部の決定は、翌日に届いた。

 曰く、今般の脅威状況の深刻化と、
王女殿下の強いご要望を踏まえ、
グレイ工作員の護衛任務を継続する——。

 ハウエル大佐からの通信の最後に、
いつも通りの口調でこう付け加えられていた。

 「よかったな、グレイ。引き続きよろしく頼む」

 よかったな、ではない。

 エドワードは通信を切り、天井を見上げた。
ロンドンの自室ではない。
コネチカットの、新しい滞在先の天井だ。

 形式上、護衛の露呈が確認されている以上、
もはや潜入の偽装は不要だった。
エドワードは「エリザベスの護衛」として、
公式に近いかたちで彼女のそばにいることになった。

 問題は、エリザベスの態度だった。

 翌朝、
学校に顔を出したエドワードを見て、
エリザベスは廊下で満面の笑みを見せた。

 「来てくれた」

 「任務です」

 「ありがとう」

 「任務ですから礼は不要です」

 「でも嬉しい」

 「……」

 「今日の昼、一緒に食べない?」

 「護衛上、同席することは——」

 「護衛ならそばにいた方がいいでしょ」

 論破された。
エドワードは二秒考えて、諦めた。

 「……わかりました」

 エリザベスはにっこりした。

 こういう女性とは
お近づきになりたくないと思っていた。

 三十二歳の特殊工作員は、
十八歳の王女の笑顔の前で、
今日も処理能力の限界を超えていた。

 任務は継続する。

 困惑も、おそらく継続する。

---

**【了】**
 

異世界転生して世界が変わっても

主人公は自身の欲を満たすだけで

世界には干渉しない

実際にこんな事態が起こっても

人はそんな行動しかしないのでは?

 

 

# 逆転世界の片隅で

## 一

朝、目が覚めた瞬間に、何かがおかしかった。

布団の中で天井を見つめながら、
田中崇はその感覚を言葉にしようとした。
痛みでも、眠気でもない。
もっと漠然とした、
空気の質が一ミリだけずれているような
——そんな違和感だ。

「気のせいか」

呟いて、起き上がる。
二十畳もない1Kの部屋。
西荻窪の駅から徒歩八分、
築二十二年、家賃六万二千円。
大学二年生の一人暮らしとしては
標準的な空間に、標準的な男が住んでいる。

洗面台で顔を洗う。
鏡に映る自分の顔は昨日と変わらない。
目立って整っているわけでも、崩れているわけでもない、
平均値を集めて作ったような顔だ。
中学の同窓会で「お前って覚えにくいな」
と言われたことがある。
笑えない冗談だが、あながち外れてもいない。

コーヒーメーカーのスイッチを押して、
スマホを手に取る。
天気予報アプリ。
今日は晴れ、最高気温二十一度、降水確率十パーセント。

ジャケットは要らないかもしれない。

コーヒーを飲みながら、蓮は窓の外を眺めた。

空は何事もなく青かった。

---

電車に乗ったのは九時十分過ぎのことだ。

中央線の車内は、いつも通り混んでいた。
スーツのサラリーマン、スポーツバッグを抱えた学生、
イヤホンを耳に刺したまま目を閉じている女性
——それぞれが無関心という名の壁を纏って、
狭い空間に詰め込まれている。
東京の朝の通勤電車というのは、
いつもそういうものだ。

だから崇が最初に異変に気づいたのは、
吊り革を掴んでぼんやりしていたときのことだった。

扉の近くに、美しい女性が立っていた。
崇と同い年か少し上か、
切れ長の目と形の良い鼻を持ち、
どこかのブランドのコートをさらりと羽織っている。
容姿という点では、
電車内で思わず目が行くタイプの人だった。

しかし彼女は、俯いていた。

それだけなら珍しくない。
スマホを見ているのかもしれない。
だが崇が気になったのは、彼女の周囲の空気だった。
隣に立つスーツ姿の中年男が、
彼女をちらりと見て、眉をひそめた。
露骨な侮蔑とも嫌悪ともとれる目つきで。

(え?)

崇は思わず目を細めた。

見間違いかと思ったが、そうではなかった。
斜め向かいに座っている若い男も、
同じような目を彼女に向けている。
視線が刃のように、
静かに、しかし確かに刺さっていた。

美しい女性が、路線バスに乗ってきた
猫を見るような目で見られている。

(何だ、これ……)

崇には意味がわからなかった。
わからないまま、電車は大学の最寄り駅に滑り込んだ。

---

## 二

キャンパスに足を踏み入れた瞬間、崇は足を止めた。

何かが、根本的にずれていた。

いつもなら、午前の講義前のキャンパスはこうだ。
正門から続くメインストリートを、
ラウドな笑い声と共に闊歩するのは決まって
「パリピ軍団」と呼ばれる連中だ。
顔が良くて、服がブランドで、
誰もが知っているグループ。
彼らが通るだけで、周囲の空気が変わる。
カーストの頂点というのは、
ただ存在するだけで威圧感を放つものだ。

今日、そのメインストリートを歩いているのは
——見慣れない面々だった。

いや、見慣れていないというのは正確ではない。
崇は彼らの顔を知っていた。
学食の隅の定位置で、いつも小さくなっていた人たちだ。

ゲームの話を小声でしていた男子。
分厚い文庫本を読みながら歩いていた女子。
「陰キャ」という便利な言葉で括られ、
カーストの底辺に押し込まれていた人たちが
——今日は、正門からキャンパスの中心へ向かって、
背筋を伸ばして歩いていた。

堂々と。

誰に遠慮するでもなく。

対して、パリピ軍団はどこにいるのか。
崇は視線を泳がせて、ようやく見つけた。
いつも大声で笑い合っていた連中が、
校舎の壁に沿って小さな群れを作り、
互いに視線を交わしながら、
こそこそと何かを話し合っていた。

まるで昨日までの光景が、
そのまま裏返しになったようだった。

(俺……頭がおかしくなったか?)

崇は額に手を当てた。
熱はない。夢にしては細部がはっきりしすぎている。
では一体、何が起きているのか。

「田中じゃん」

声をかけられて振り向いた。

吉田雄也(よしだゆうや)だった。
同じ学部の男で、たまに講義前に話す程度の間柄だ。
いつもは少し猫背で、
目が合うとすぐに視線を逸らすような、静かな男だった。

崇が「陰キャ」という言葉を
あまり使いたくない理由の一つは、
雄也のような人間を見てきたからだ
——真面目で、物知りで、
ただ「目立つ」ことが苦手なだけの人間が、
その一言でカテゴライズされる理不尽さが、
崇には昔から引っかかっていた。

しかし今日の雄也は、違った。

背筋が伸びていた。
目が、蓮の顔をまっすぐ捉えていた。
口の端に、どこか余裕のある笑みが浮かんでいた。

「よ、雄也。……なんか、今日変じゃない?」

恐る恐る聞いてみる。

雄也は少し首を傾げた。

「変? どこが?」

「いや……キャンパスの雰囲気とか、人の様子とか」

「ああ」

雄也は短く言って、視線をメインストリートに向けた。

「まぁ、そうかもな」

それだけだった。
掘り下げる気配はなく、特に驚く様子もなかった。
まるでこれが当然の世界を生きているかのように。

(こいつも、この世界に適応してる……?)

崇が呆然としていると、
雄也の周囲に数人の女性が近づいてきた。
崇の正直な感想を言えば、
いわゆる「一般的な美人の基準」からは
少し外れている女性たちだった。
だが彼女たちが雄也に向ける目は、明らかに好意的で、
屈託がなかった。
雄也もまた、自然にその中に溶け込んでいく。

つい先日まで、
年齢イコール彼女いない歴だと
自嘲気味に笑っていた男が。

(……人の好みは、人それぞれ、か)

崇は内心でそう結論付けることにして、
深呼吸をした。

---

## 三

二限目の講義を終えた後、
昼休みに崇はキャンパスをぼんやり歩いていた。

頭の中で、この朝からの出来事が回り続けていた。
電車での光景。正門のメインストリート。
雄也の変化。あの侮蔑の目。

答えは出なかった。

ただ、世界の何かが裏返っている。
そのことだけは、確かだった。

校舎の北側は、日当たりが悪くて人が少ない。
崇がそちらに足を向けたのは、
人混みから少し離れたかったからだ。
古い建物の影が地面に伸び、
空気がひんやりとしていた。

その影の中に、人影があった。

三対一、だった。

取り囲んでいるのは、
崇がうっすら顔を知っている女子学生が三人。
いつもつるんでいる、少し派手な雰囲気の集まりだ。
今日の彼女たちはいつもと違って
萎縮しているように見えたが、
それでも今は誰かを壁際に追い詰めていた。

追い詰められている側の女子が、
壁に背中を押しつけて、うつむいていた。

崇は気づいた瞬間には走っていた。

「ちょっと待って!」

声を上げると、三人がこちらに気づいた。
一瞬の間があった。それから、
まるで示し合わせたように、
三人は足早に立ち去っていった。
急いで、逃げるように。

崇は息を整えながら、壁際の女子に近づいた。

「大丈夫ですか」

女子がゆっくりと顔を上げた。

その瞬間、蓮の心臓が一拍、余計に鳴った。

——知っている顔だった。

桐島栞(きりしましおり)。
同じ学部の、一個下の女子。
崇が去年からずっと、
どこかで気になっていた存在だった。
図書館で偶然隣になって少し話して、
それ以来ずっと、声をかけるタイミングを探しながら、
結局ずっと探しているだけで何もできなかった相手。

頬の産毛が光に透ける横顔が好きだと、
崇だけが知っていた。

「あ……はい、大丈夫、です」

栞は静かに言った。
しかしその目の端が赤かった。

「何があったんですか」

崇は努めて落ち着いた声で言った。

「ゆっくりでいいので」

栞はしばらく黙っていた。
それから、観念したように話し始めた。

サークルのお金が少し足りなくなったことがあって、
栞がやったと疑われた。
やっていない。
証拠もない。
でも「あなたが一番怪しい」と言われて、
今日もこうして問い詰められた
——それだけのことだった。
たったそれだけの、理不尽だった。

話を聞きながら、
崇は静かに怒りが腹の底に溜まっていくのを感じた。

「……なんで、あなたが疑われてるんですか」

「わからない、です」

栞は小さく笑った。
力のない笑いだった。

「ただ……最近、私みたいな人間って、
何かあると一番に疑われるから」

「私みたいな人間」という言葉が、
崇の耳に引っかかった。

「それ、どういう意味ですか」

栞は少し驚いたように蓮を見た。

「え?」

「私みたいな人間って、どういう意味ですか」

「だから……誰にも相手にされないような」

栞はまた目を伏せた。

「可愛くもないし、目立つわけでも面白いわけでも。
そういう人間って、ちょっと何かあると
すぐ悪者にされるじゃないですか。
だから……」

崇は少し間を置いた。

「可愛くない、って誰が言ったんですか」

「……え?」

「俺は、そう思いません」

蓮は真っすぐに言った。

「あと、誰にも相手にされないなんて、
それも違います。
俺は去年から、桐島さんのことが気になってた」

栞がはっとしたように顔を上げた。

「……先輩、何言ってるんですか」

困惑したような、
しかし何か別の感情も混じったような顔で、
栞は言った。

「私みたいな人間に好意を持たれても……
先輩が損するだけですよ」

崇は少し笑った。

「それを決めるのは俺なんで」

---

## 四

その日の夜、
二人は西荻窪の小さな居酒屋にいた。

カウンター席が七つ、奥にテーブルが三つ。
マスターが一人で切り盛りしている、
飾り気のない店だ。
ホッピーと煮込みとだし巻き卵が旨い。
崇が一人でよく来る場所だった。

「こんな所に来るの、久しぶりかも」

栞は周囲を見回しながら言った。

「居酒屋自体、あまり誘われなくて」

「これからは誘います」蓮は言った。

栞が少し笑った。
今度は、力のない笑いではなかった。

最初の一杯が空く頃には、
栞は少しずつ話してくれるようになっていた。

去年の春のサークルコンパで、席が離されたこと。
グループLINEの連絡がいつも自分だけ後回しだったこと。

誰かが自分の悪口を言っているのを
偶然聞いてしまったこと。
大したことではない。
でも積み重なると、確実に何かを削っていく、
そういう種類の話だった。

「どうして?」崇は聞いた。

「何かしたんですか、栞さんが」

「何もしてないと思うんですけど」

栞はグラスを回しながら言った。

「ただ……私、容姿がいいわけでも、
トークが面白いわけでも、ノリがいいわけでも。
それだけで、なんとなく浮くんですよね」

「理不尽だな」

「そうですか?」栞は少し首を傾げた。

「みんなそういうもんだと思ってた」

崇は黙って次の一杯を飲んだ。

胸の中で、今朝からの光景がもう一度流れていった。
パリピ軍団がこそこそと壁際に集まっていた光景。
逆にキャンパスを堂々と歩いていた人たち。
電車の中で美しい女性が
侮蔑の目を向けられていた光景。

裏返った世界。

——だが栞が今日体験したことは、
元の世界でずっと別の誰かが体験してきたことだった。
理不尽に疑われる。
輪から弾かれる。
存在を値踏みされる。
陰キャと呼ばれた人たちが、
何年もかけて積み重ねてきた、そういう話だった。

今日は世界が逆転したから、
別のグループが同じ目に遭っている。

でも——そもそも誰かがこういう目に
遭っていいわけがない。
カーストの上でも下でも、真ん中でも。

崇はそれを、あらためて思い知っていた。

「栞さん」

「はい」

「俺、栞さんを守ります」

栞がぽかんとした顔でこちらを見た。

「……急に何ですか」

蓮は少し照れながら言った。

「いや、急じゃないんですよ。
去年からずっとこう言いたかっただけで」

栞がまた笑った。今度は声が少し混じっていた。

「先輩、変な人ですね」

「よく言われます」

「……嫌いじゃないです、そういうの」

---

## 五

夜が深くなった。

三杯目が四杯目になり、
栞の声が少しだけ滑らかになった頃、
崇は彼女が酔っていることに気づいた。
頬が赤くて、まぶたが少しだけ重そうで、
それでも楽しそうに話し続けていた。

「先輩って、
なんでどのグループにも属してないんですか」

「属せないんじゃなくて、属さない方が楽だと思って」

「ふうん」栞は顎に手を当てた。

「羨ましい。私、どこにも属せないんです。
属そうとして、毎回失敗する」

「俺から見たら、無理に属さなくていい人に見えます」

「……そういう事言う人、先輩が初めてです」

店を出たのは、十一時頃だった。
夜風が少しだけ冷たかった。
栞はしっかり立っていたが、歩くと少し蛇行した。

「家、どこですか」

「荻窪、です。歩いて帰れます」

「一人で?」

「……無理かも」

崇は笑って、彼女の隣に並んだ。

月が出ていた。
東京にしては、珍しいくらいはっきりした月だった。

二人の影が、夜の歩道に伸びていた。

崇の部屋に電気が灯った時、崇は思った
——この朝、世界が裏返っていることに気づいた時から、
今この瞬間までの時間が、どこか夢のようだと。
だが夢ではない。
隣に栞がいる。その体温が、現実だ。

窓の外で、月が動かずにいた。

静かな夜の中で、崇はひとつの誓いを立てた。

この世界がどんな形をしていようと、
どのカーストが上になろうと下になろうと、
自分はどこにも属さない代わりに、
大切な人の隣に立ち続ける
——そういう人間でいよう、と。

それがこの逆転した世界で、
平凡な男が見つけた、ひとつの答えだった。


---
*了*
 

おとぎ話に出てくる魔法

その発想元は完全に人の空想?

何かしらの元ネタがあったのでは?

という所から発想したお話です

 

 

 

# 無魔の覇者 ―― 魔法文明終焉の記録

---

## 序章 忘れられた時代

人間はなぜ、魔法の物語を語るのだろう。
火を噴くドラゴン、空を飛ぶ魔女、
呪文を唱えれば水が炎に変わる
――そういった話は世界中のどの文化にも存在する。
東洋にも西洋にも、砂漠の民にも極北の民にも。
時代を超え、海を越え、
まるで打ち合わせたかのように同じ「夢」を見ている。
学者はそれを「人間の想像力の産物」と説明する。

しかし考えてみてほしい。
人間は空を飛んだことがないのに、
なぜ飛ぶことへの憧れをこれほど普遍的に持つのか。
人間は火を手のひらで生み出したことがないのに、
なぜその映像をこれほどリアルに「夢想」できるのか。
想像とは、何もないところから生まれるものではない。
記憶の、残滓だ。

文字に記されなかった記憶。
書物に残らなかった記憶。
しかし人間の細胞の、血の、
どこか深いところに刻まれた記憶が、
何万年という時間を経て、
おとぎ話というかたちで浮かび上がってくる。
子供が魔法の話を聞いて目を輝かせるのは、
それが「楽しそうだから」だけではない。
どこかで、知っているからだ。

これはその記憶の、本当の話である。

---

## 第一章 穏やかな日々の終わり

ラン王国の片隅に、エリと呼ばれる十六歳の少年がいた。

正確にはエリ=ド=ヴァレンという名で、
それなりの家柄の次男坊だったが、
本人にそのような自覚はほとんどなかった。
彼が気にしていることといえば、
毎朝の食事がうまいかどうかと、
姉のリナが笑顔でいるかどうか、
ただそれだけだった。

エリは魔法使いとしては落第点の存在だった。

王国の魔法師団が定める魔力測定において、
彼の数値は「戦闘不適格」の烙印を押される
下限をさらに大きく下回っていた。
測定官は気の毒そうな顔をしながら
書類に何かを書き込み、エリの母親は深い息をついた。
エリ自身は少しだけほっとしていた。

「魔力が低くてよかった」と彼は思っていた。

「戦場に行かなくていいから」

引っ込み思案で、人混みが苦手で、
見知らぬ人と話すだけで頬が赤くなるような
少年だったが、姉のリナの後ろにいる時だけは、
エリは安心できた。

リナ=ド=ヴァレン。十九歳。

彼女は弟とは正反対に、生まれながらの魔法使いだった。

炎系魔法における才能は王国でも五指に入ると言われ、
師匠の老魔法師ガルムでさえ
「彼女が男であれば間違いなく
魔法師団の団長候補だった」と舌を巻いた。
明るく、快活で、少し口が悪くて、
でも本当に優しい姉だった。

ふたりの父親はすでに戦場で亡くなっていた。

魔族との戦いが始まって三年。
エリが十三歳の春のことだ。

その日以来、
エリにとって世界で最も大切なものはただひとつ、
姉のリナだけになった。

---

## 第二章 来たるべき別れ

「魔族」という存在について、
エリはある程度の知識を持っていた。

彼らは人間とよく似た姿を持ちながら、
本質的に異なる生き物だった。
その体は並の刃を受け付けず、
矢を受けても大した傷を負わず、
鉄槌で打ち据えられても起き上がってくる。
人間の作り出したあらゆる物理的な武器は、
魔族の前では紙屑に等しかった。

唯一有効なのが魔法攻撃だった。

しかし魔法こそが魔族の得意とするものだった。

魔族は生まれながらに高い魔力を持ち、
人間の最高位の魔法使いさえ
手こずらせるほどの術を振るった。
人間が十年かけて習得する魔法を、
魔族は本能として使いこなした。
それは絶望的な非対称だった。

それでも人間は戦い続けた。

複数の大国が「人類連合軍」を組織し、
精鋭の魔法使いを集めて対抗した。
最初の二年は何とか均衡を保っていたが、
損耗率はすさまじく、
前線に送り出した魔法使いの半数近くが帰らなかった。

三年目の春、
ついに決定的な戦力不足が訪れた。

連合軍は苦渋の決断を下した。

――魔法才能を持つ女性も前線へ。

その通達がラン王国に届いたのは、葉桜の季節だった。

エリがその知らせを聞いたのは、
リナの口から直接だった。
姉は夕食の席で、何でもないことのように言った。

「来週、私、前線に行くことになったわ」

エリの箸が止まった。

「……え」

「魔法師団から令状が来たの。
まあ、そのうち来るとは思ってたけどね」

リナは軽い口調だったが、
その目の奥に何か別のものがあることに、
エリは気づいていた。

「心配しないで。
私の実力なら、すぐ戻ってこれるから」

エリは何も言えなかった。

食事の後、部屋に戻って、エリは布団をかぶって震えた。

泣いたわけではなかった。
泣く資格が自分にあるのかどうかも、わからなかった。

翌日、翌々日、
エリは何度かリナに「行かないでくれ」と言いかけた。
しかし言葉が出なかった。
言っても意味がないとわかっていたからではない。
言葉が、喉のところで凍りついてしまうのだった。

リナの出発は七日後に決まった。

---

## 第三章 覚醒

出発前日の朝、エリは早くに目を覚ました。

窓の外は薄明かりで、鳥の声が遠くに聞こえた。
エリは着替えもせずに一階へ降りた。
台所にはすでにリナがいて、
ふたり分の朝食を用意していた。

「早いじゃない」

リナは振り向いて、少し驚いた顔をした。

エリは返事をしなかった。
リナの背中を見た。
その背中が、明日にはここにないと思った。

何かが、胸の奥で揺れた。

「……行かないでくれ」

リナの手が止まった。

「エリ」

「行かないでくれよ」エリの声は震えていた。

「お父さんも、もう帰ってこなかった。
リナまで……リナまで行ったら、俺……」

リナがゆっくりと振り向いた。

「エリ」

彼女はエリの前に膝をついた。
十六歳の弟よりも少しだけ小さな姉が、
真剣な目でエリを見上げた。

「大丈夫よ。私は帰ってくる。絶対に」

「そんなの、わからない」

「わかる。私が約束するから」

エリの目から涙がこぼれた。

「嫌だ。行かないでくれ。
リナが死んだら、俺、もう……」

そこで何かが起きた。

エリ自身には、最初それが何なのかわからなかった。
ただ、胸の中心から何かが溢れ出す感覚があった。
堰を切ったというより、
今まで自分でも知らなかった
深い井戸から水が湧き出てくるような感じだった。

その感覚は広がった。

部屋の中に充満した。

リナが突然「あ」と小さく声を上げた。

「どうした?」エリが涙を拭いながら聞いた。

「魔法が……」

リナは自分の手を見た。
掌に火の玉を作ろうとしていた。
魔法使いにとって、
それは息をするくらい自然な動作だったはずだった。

「おかしい。出ない」

「え?」

「魔法が、出ない」リナの顔が青ざめた。

「何で……練力もしっかりあるのに……」

エリは姉の顔と自分の手を交互に見た。

掌に、何も感じなかった。
ただ、さっき溢れ出したものが
ゆっくりと引いていくのを感じた。

リナはその日の夕方まで魔法師団の医官に
診てもらったが、原因はわからなかった。
翌朝になっても魔法は戻らなかった。
翌々日も。

リナの出発は延期された。

---

## 第四章 実験台

一週間後、王国中の学者と魔法研究者が集められた。

リナのような実力者が突然魔法を失うなど、
前代未聞の事態だった。
最初は魔族による新型の呪いではないか
という説が有力だったが、
魔法師団の調べでは
そのような術の痕跡は見当たらなかった。

研究者たちは調査を進めるうちに、
ひとつの共通点に気づいた。

リナが魔法を失った時、その場にいた人間。

エリだった。

老研究者のベイラムが最初に疑いを口にした。

「この少年に何かある」

彼は魔力測定の道具を何種類も持ち込んで、
エリを調べた。
通常の魔力測定では依然として最低値を示したが、
ベイラムが持ち込んだ特殊な水晶は異常な反応を示した。

「これは……魔力の干渉ではない」

ベイラムは独り言のように呟いた。

「魔力の無効化だ。いや、消去か?」

さらに詳しく調べると、
エリの能力は大きくふたつに分類できることがわかった。

ひとつは「魔力無効化」。
一定範囲内の魔法を強制的に無力化する術だ。
使われている最中の魔法も、
発動しようとしている魔法も、
エリがその能力を使えばすべて霧散した。

もうひとつは「魔力消去」。
これはより深刻だった。
特定の相手に向けて発動すると、
その者の持つ魔力の根源そのものを焼き切る。
リナに起きたことがまさにこれだった。
一度この術を受けると、魔力は二度と戻らない。

研究者たちは興奮と困惑の入り混じった顔でエリを見た。

エリは自分がとんでもないことを
してしまったとようやく理解した。

「申し訳ありません。姉の魔力を……」

「謝ることはない」ベイラムは言った。

ただしその目は、研究対象を見る目だった。

「君は素晴らしいものを持っている。
だがこれは王国だけの問題ではない。
各国と共有しなければならない」

一ヶ月後、エリは各国共同の魔法研究機関
「真理の館」に連れて行かれた。

そこでエリを待っていたのは、
あらゆる種類の実験だった。

魔法で作られた炎の中でエリの能力がどこまで有効か。
射程距離はどのくらいか。
複数を同時に相手にした場合は。
連続使用した場合の限界は。
エリは毎日計測され、測定され、記録された。
研究者たちは丁寧ではあったが、
彼らにとってエリは
人間というよりも研究対象に近かった。

エリは黙って従った。

リナを守るためにやってしまったことが、
こんな結果を生むとは思っていなかった。
でも、リナは戦場に行かずに済んだ。
それだけが、エリの心の支えだった。

三ヶ月後、
真理の館から連合軍への報告書が提出された。

エリの能力は魔族に対しても
有効である可能性が極めて高い。

その結論が出た日の夜、
エリは部屋の窓から星を見た。

呼ばれると思っていた。

翌朝、連合軍の将校がやってきて、
エリに戦場行きを告げた。

---

## 第五章 戦場へ

エリが前線基地に到着したのは、初夏の終わりだった。

兵士たちはエリを奇妙な目で見た。
魔法使いとしての制服を着ているが、魔力はほぼゼロ。
細身で、どこかおどおどした目をした少年。
これが連合軍の切り札だというのか。

「君がエリ=ド=ヴァレンか」

出迎えたのは連合軍の東方指揮官、アルカ将軍だった。
五十代の女性で、戦場で右腕を失い、
義手を持つ歴戦の指揮官だ。
彼女はエリをじっと見た。

「怖いか?」

「……はい」

「正直だな」アルカは短く笑った。

「だが、臆病者が勇者より長生きするのが戦場だ。
覚えておけ」

翌日、エリは初めて魔族と対峙した。

遠くから見ると、魔族は人間に似ていた。
しかし近づくほどに違和感が増した。
目の色が異常に深く、肌には薄く文様が浮かび、
その体の周囲には常に魔力の揺らぎがあった。

連合軍の魔法使いたちが魔法を放つと、
魔族はそれを受け止めるか逸らすかして、反撃してきた。

人間の術師が受けた一撃は、
その魔法使いの意識を容易に刈り取った。

エリは怖くて足が動かなかった。

しかしアルカ将軍の指示は明確だった。

「お前はただ前に出ればいい。能力を使え!
護衛の魔法使いがお前を全力で守るから安心しろ!」

エリは震える足で一歩踏み出した。

そして本能的に、あの時と同じ感覚を呼び起こした。

胸の奥から溢れ出すもの。

範囲が広がった。

戦場の魔族たちが一斉に動きを止めた。

発動中だった魔法が霧散した。
反撃のために練り上げていた魔力が消えた。
魔族たちは自分の手を見て、
何が起きているのかわからずに戸惑った。
その隙に、連合軍の槍兵と剣士が突進した。

魔法が使えなくなった魔族は、物理攻撃が通じる。

最初の戦闘は、連合軍の勝利だった。

しかしエリは喜べなかった。
魔力無効化の範囲には、
当然ながら連合軍の魔法使いたちも含まれていた。
つまりエリが能力を使っている間は、
味方も魔法が使えない。

それだけではなかった。

翌日の戦闘で、エリは気づいた。
魔族がエリを認識し始めたことを。

特別な目で見られていた。

恐れではなく、何か別の感情で。

---

## 第六章 静かな戦場の怪物

半年後、
エリはもはや「切り札」ではなく
「悪夢」と呼ばれるようになっていた。

連合軍の間では英雄として扱われた。
しかし魔族の側から見れば、
エリは理解不能な脅威だった。
どれほど強力な術も、エリの前では無力だった。
魔族の指揮官クラスでさえ、
エリに近づくと魔力を失って剣の錆になった。

エリ自身はそのことに複雑な感情を持っていた。

戦う理由は姉を守るためだった。
しかし今や戦場で多くのものを奪っていた。
魔族とはいえ、彼らにも社会があり、
家族があるかもしれなかった。
しかしエリにその考えを止める選択肢はなかった。
止まれば、また多くの人間が死ぬ。

ある夜、アルカ将軍がエリに言った。

「お前の能力は、魔族だけでなく人間にも向けられる。
それがわかっているか?」

「わかっています」

「各国の政府はすでに気づいている」

アルカは静かに言った。

「戦争が終わった後、お前は厄介な存在になる。
魔力を持つ者全員の敵に成りうる」

エリは黙っていた。

「覚悟はあるか?」

「……どちらにしても、俺は魔力を持っていないから」

エリは小さく笑った。

「失うものは何もありません」

アルカは何かを言いかけて、止めた。

---

## 終章 魔法の終わり

戦争が終わったのは、それから二年後のことだった。

エリの能力が決定的な役割を果たした
最後の大戦において、魔族の軍勢は壊滅した。
ただし、エリはその戦いで「魔力消去」を
戦場全体に向けて解き放つという
前代未聞の選択をした。

なぜそうしたのか、後にエリは誰にも話さなかった。

ただその結果、
その場にいたすべての存在が魔力を失った。
魔族だけでなく、人間の魔法使いたちも。

そして伝染するように、それは広がった。

魔力消去という術は、
接触によって連鎖するという性質を持っていた。
魔力を失った者が魔力を持つ者に近づくと、
その者の魔力もまた失われていく。
緩やかに、しかし確実に。

数十年の間に、地球から魔法使いは絶えた。

魔族もまた、魔法のない状態では
人間と同様の存在となり、
やがて歴史の中に埋もれていった。

文明は変わった。

魔法に依存していた技術は失われ、
人類は別の手段を模索した。
火を起こすために、木を擦った。
水を汲むために、桶を作った。
数百年の後、それは別の文明へと形を変えた。

エリがその後どうなったかを記録した文書は
残っていない。

ただひとつ、ラン王国の年代記に短い記述がある。

「無魔の男エリ、戦争の終結より三年後、
姉リナとともに山間の村に移り住む。
二人は穏やかに老いたという」

---


## 後述


エリが世界から魔法を消して、数万年が過ぎた。
魔法を使った者たちは死に、
その子も死に、そのまた子も死んだ。
魔法の記録は失われ、魔法を使った建造物は朽ち、
魔法による傷跡は大地に飲み込まれた。

しかし消えなかったものがある。
ひとりの少年が炎を消した記憶。
ひとりの女が嵐を呼んだ記憶。
ひとりの老人が大地を動かした記憶。
それらは文字にならなかった。
しかし人類の血の中に、薄く、薄く、残り続けた。

母親が子に語る夜のおとぎ話の中に。
焚き火を囲む吟遊詩人の歌の中に。
子供が暗闇の中でひとり、
「魔法が使えたら」と夢想する瞬間の中に。
魔法は滅んだが、その「感覚」だけは消えなかった。

人間が魔法を「発明」したのではない。
人間が魔法を「思い出した」のだ。
正確には、思い出しきれないまま、
夢のように語り続けたのだ。
だから世界中の魔法の物語は、
細部は違えど、どこか同じ匂いがする。
同じ先祖の記憶を、
それぞれの言葉で翻訳しているのだから。

そしてひとつだけ、不思議なことがある。
世界中のおとぎ話において、
魔法は必ずと言っていいほど
「失われるもの」として描かれる。
魔法使いは迫害され、魔法の国は滅び、
魔法は禁じられ、あるいは忘れられる。
なぜ人類は、魔法が「あった」だけでなく、
「なくなった」ことまで覚えているのか。

その答えは、今あなたが読んだ物語の中にある。

---

*――了――*
 

アニメでもジャンル化してきた

オタクとギャルもの

自分も作ってみました

 

 

# 夜明け前のコンビニ

---

## 一

夏の終わりの匂いがする夜だった。

汗と煙草とシャンプーの混じった空気の中で、
レイは目を覚ました。
見慣れた天井。見慣れた散らかり方。
タツキの部屋だ。

隣を見ると、タツキはもう寝ていた。

レイは静かに起き上がり、脱ぎ捨てた服を拾った。
全身が重かった。
重い、というより、なんというか、空っぽな感じがした。
コップの水を全部飲み干した後みたいな。

スマホを確認すると、午前三時を少し過ぎていた。
クラブを出たのが一時だったから、
二時間も経っていない。

鏡を見た。
前髪がぺたんこになっている。
化粧は半分落ちかけていた。
二十歳の顔が、ひどく幼く見えた。

(また来ちゃった)

思いながら、レイはタツキの顔を見た。

横顔は整っている。
笑うと可愛い。背が高くて、体がいい。
DJの友達が多くて、どこに行っても顔が広い。
レイが彼を好きになったのは、もう一年以上前のことだ。
でも何が好きなのかと聞かれると、
うまく答えられなかった。

ただ、一緒にいると寂しくなかった。
それだけだったかもしれない。

レイはそっとドアを閉めて、
リビングのソファに腰を下ろした。
友達の誰かが置き忘れたポテチの袋が転がっていた。
テレビもつけずに、ただ暗い部屋の中に座っていた。

---

バイトは週五日入っていた。
近所のコンビニ。
時給は高くないけど、店長が悪い人じゃないし、
シフトの融通が利くから続いている。

朝の七時から始まる早番は正直きつい。
クラブの夜から帰ってそのままレジに立つことも、
一度や二度じゃなかった。

眠い目をこすりながら品出しをしていると、
バックヤードから出てくる足音がした。

「おはようございます」

佐々木くんだった。

黒縁の眼鏡。清潔感のある白いシャツ。
髪はいつも少し癖があって、でも乱れているわけじゃない。

丁寧に生きている人間の顔、とレイは思っていた。

「おはよ」

レイは短く返した。

彼とはよくシフトが被る。
無口なわけじゃないけど、必要以上に話しかけてこない。
仕事は速いし丁寧で、
ミスをしているところを見たことがない。
多分オタクだ、とレイは思っていた。
棚の整理をしながら、
アニメの話を小声でつぶやいていることがあったから。

八月の初め、
コミケの時期になると、佐々木くんは何か変わった。

別に服装が変わるわけじゃない。
でも目が違う。
どこか遠くを見ているような、
それでいてすごく楽しそうな顔で、
バイトの合間にスマホをちらちら確認している。

レイはある日、思わず聞いてしまった。

「佐々木くん、コミケ行くの?」

「あ、はい」

少し驚いた顔で彼は振り向いた。

「よく知ってますね」

「友達から聞いたことあって。楽しいの?」

「楽しいですよ」

そう言った時の佐々木くんの顔が、
なんか、すごくよかった。

レイはその夜、
タツキの家のソファでそのことを思い出して、
なんとも言えない気持ちになった。
自分はあんな顔で
何かを好きになったことがあるだろうか。

---

## 二

九月のある夜のことだ。

クラブから帰る途中、タツキが言った。

「なあ、今日ショウも呼んでいい?」

レイはピンとこなかった。

「ショウ?」

「一緒に遊ぼうぜ。三人で」

言い方のトーンで、わかった。

「……無理」

「え、なんで。楽しいじゃん」

「無理って言ってる」

タツキの顔が変わった。

「ノリわるいな」

「ノリの話じゃないし」

「だからなんで。
お前、そんなキャラじゃなかったじゃん」

「そんなキャラって何」

「別にいいじゃん、一回くらい。
嫌いじゃないだろ、そういうの」

レイは黙っていた。

嫌いじゃない。
それはそうだ。
でも今夜は、なんか、違う。
なんかが違う。
うまく言えないけど。

「ノリが悪いな、言うこと聞けよ」

タツキの声が上がった。

次の瞬間、頬に衝撃があった。

痛いというより、驚いた。

タツキが自分を殴った。
ただそのことだけが、しばらく頭に入ってこなかった。

部屋を出た。

エレベーターを待ちながら、レイは自分に問いかけた。

(なんで私、この人のこと好きだったんだろう)

わからなかった。本当に、わからなかった。

---

## 三

行く場所がなかった。

タツキと繋がっている友達は多い。
レイとタツキの間で何があったか、
もうみんなに伝わっているだろう。
どんな風に話されているか、考えたくなかった。

最初の二日は、カラオケのフリータイムで夜を明かした。
でもお金が続かない。

三日目から、人通りの少ない
裏道の先にある小さな公園に行くようになった。
昼間は子供が遊んでいるけど、夜になると誰も来ない。
ベンチの上で膝を抱えて、夜が明けるのを待った。

虫の声が、思ったよりうるさかった。

空腹で眠れない夜は、
コンビニのバイト終わりにパンを買って、
公園で食べた。

バイト中は普通にしていた。
普通にしていられた。
レジに立っている間は考えなくていいから、
むしろ楽なくらいだった。

佐々木くんとシフトが被る日は、
少しだけ気持ちが軽かった。
理由はよくわからない。
ただ彼がいると、店の空気が落ち着いた感じがした。

ある夜、
バイトが終わって公園のベンチにいると、足音がした。

見ると、佐々木くんだった。

帰り道がたまたま同じ方向なのか、
リュックを背負ってこちらに歩いてきていた。
彼もレイに気づいて、
少し間があってから、会釈をした。

レイも会釈した。

佐々木くんは通り過ぎようとして、
でも少し足を止めた。

「……こんな時間に、どうしたんですか」

「散歩」

「そうですか」

また少し間があった。

「パン、食べてたんですか」

レイの膝の上に、コンビニの袋があった。

「うん。夜って食べたくなるじゃん」

「そうですね」

佐々木くんは少し迷うような顔をしてから、
隣のベンチに腰を下ろした。
別に聞いてもいないのに。
でもレイは、嫌じゃなかった。

しばらく二人で黙っていた。虫の声がしていた。

「佐々木くんって、ここ通るの?」

「今日が初めてです。
いつもと違う道を歩いてみようと思って」

「変なの」

「よく言われます」

少し笑った。

レイは、気づいたら言っていた。

「ねえ、今日、泊めてくれない?」

沈黙。

佐々木くんはレイの顔を見た。
驚いているのは明らかだったけど、
怒った顔じゃなかった。

「……事情を、聞いてもいいですか」

レイは少し考えた。

「話したら、長い」

「構いません」

---

## 四

歩きながら話した。

タツキのこと。
殴られたこと。
行く場所がないこと。
公園で寝ていること。

話しながら、自分でも驚いた。
こんなに素直に話せるとは思っていなかった。

佐々木くんは口を挟まなかった。
ただ歩きながら、時々小さく頷いた。

マンションに着いた時、レイは思わず立ち止まった。

大きかった。
家族向けの、広そうな間取りのやつだ。
エントランスにオートロックがついている。

「……フリーターなのに、こんなとこ住んでるの?」

「いろいろあって」

部屋に入ると、きれいだった。
物が多いけど、散らかっていない。
本棚にぎっしり漫画や画集が並んでいた。
テレビの横に、フィギュアが並んでいた。

「空いてる部屋があるので、そこ使ってください」

二部屋ある。一人なのに。

「なんで一人でこんな広いとこ住んでるの」

「座りますか、話しますよ」

お茶を入れてくれた。
温かいやつ。
レイはいつ以来かわからない
温かい飲み物を両手で包んで、ソファに座った。

佐々木くんは話してくれた。

高校生の時に、両親が交通事故で亡くなったこと。
遺産で自活しながら高校を卒業したこと。
就職はうまくいかなくて、コンビニでバイトを始めたこと。

好きなオタク活動をしながら、静かに暮らしていたこと。

「宝くじ、当たったんです」

「……え」

「一昨年。スクラッチじゃなくて、普通の。高額の。」

レイはしばらく言葉が出なかった。

「漫画みたいな話じゃん」

言ったら、佐々木くんが少し困った顔で笑った。

「よく言われます」

「仕事しなくていいじゃん、それじゃあ」

「生活リズムを崩したくなくて。
あと、バイトに行かないと話す人がいないので」

レイは笑った。

声に出して、久しぶりに笑った。
お腹が少し揺れるくらいに。

(いつ以来だろう)

思ったら、急に鼻の奥がツンとした。

「……どうしたんですか」

佐々木くんがオロオロしていた。

「なんでもない」

「泣いてますよ」

「なんでもないって言ってる」

でも涙が出てきた。
拭いても拭いても出てきた。

佐々木くんはどうしていいかわからない顔で、
でも隣に座って、「大丈夫ですか」と何度も言った。
その「大丈夫ですか」が毎回少しずつ言い方が違って、
それがなんかおかしくて、
レイはまた笑った。
泣きながら笑った。

---

(こういう人を好きになれたら、
私は幸せになれたのかな)

思った瞬間、気づいたらもう動いていた。

佐々木くんの顔が近かった。
レイはそのまま、彼にキスをした。

身体が石みたいに固まった。

でもそれが、なんか、よかった。

慌てないで、逃げないで、ただそこにいてくれた。

レイは佐々木くんをぎゅっと抱きしめた。

心臓の音が、すごく速かった。
彼のが。それとも自分のが。

どちらかわからなかったけど、速い鼓動がふたつ、
確かにそこにあった。

---

## 五

翌朝、レイは空いてる部屋のベッドで目を覚ました。

窓から光が入っていた。

昨夜、佐々木くんは何も言わなかった。
ただ「ゆっくり寝てください」と言って、
自分の部屋に戻っていった。

レイはしばらく天井を見つめた。

(変な人だなあ)

思いながら、でも口の端が少し上がった。

台所から、何かいい匂いがした。

起き上がって廊下に出ると、
佐々木くんがエプロンをして卵を焼いていた。

「おはようございます。卵しかなくて」

「いや、じゅうぶん」

レイはテーブルについた。

朝ごはんを、誰かと一緒に食べる。

それだけのことが、ひどく久しぶりで、なんか照れた。

窓の外、
秋の朝の光が、テーブルの上に真っ直ぐ落ちていた。

---

*了*

 

ある日 夢で見たお話です

 

 

# 憤怒の果て ―独裁者たちの末路―

## 第一章 蓄積

田中誠は、四十二歳の独身男だった。

職業はシステムエンジニア。
東京の西側、小さなアパートの一室で、
彼は毎夜パソコンの画面と向き合っていた。
仕事が終われば、習慣のようにニュースサイトを開く。
それが彼の夜の儀式だった。

最初は、ただ「知りたい」という気持ちだった。
世界で何が起きているのかを。

しかし知れば知るほど、
胸の奥に何かが積み重なっていった。

ウクライナの街が砲撃で瓦礫と化す映像。
逃げ惑う老人と子供たち。
その映像の端に、勲章を胸に並べた男たちが
誇らしげに地図を指差している。
田中は画面を閉じ、また開き、また閉じた。

中東では、神の名のもとに人が裁かれ、石を投げられた。
宗教の違いで隣人が隣人を憎み、
何百年もそれが続いていた。

中国では、チベットの僧侶が、ウイグルの人々が、
香港の若者たちが、声を上げるたびに消えていった。
北朝鮮では、人々が暗闇の中で飢えていた。
指導者の像だけが、
街の中で煌々と照らされながら立っていた。

日本に目を向ければ、
テレビからは偏った言葉が流れ続けた。
事実は都合よく切り取られ、
感情だけが増幅されて茶の間に届いた。
差別に反対すると叫びながら、
別の差別を平然と行う人々がいた。
分断を煽ることで生計を立てている者たちがいた。

田中は怒っていた。

しかし彼は叫ばなかった。
デモにも行かなかった。
SNSにも書かなかった。
ただ、毎夜画面を見つめ、憤りを飲み込み、眠り、
また朝を迎えた。

それが一年続いた。

怒りは外に出なかった分、どこへも行かなかった。
行き場を失った感情は内側で発酵し、変質し、
やがて彼の細胞の一つ一つに染み込んでいった。

---

その夜、田中は何も特別なことをしていなかった。

いつものようにニュースを見ていた。
ある独裁国家で、広場に集まった市民が
軍の車両に踏みつぶされる映像が流れていた。
カメラはすぐに切り替わり、
スタジオのコメンテーターが他人事のような顔で
「遺憾です」と言った。

その瞬間だった。

胸の中で何かが、音もなく、爆ぜた。

痛みはなかった。
ただ、白い光が全身を包んだ、と後から田中は思った。
実際には意識を失っており、
朝、彼は床の上で目を覚ました。

パソコンは砕けていた。
画面ではなく、机ごと、粉々に。

田中は右手を見た。
何も変わっていない、ごく普通の手だった。
しかし彼は知っていた。
説明できなかったが、確信があった。

*俺は変わった。*

---

## 第二章 ロシア――皇帝の終焉

田中がモスクワに降り立ったのは、翌日の深夜だった。

飛行機には乗っていない。
気がつけばそこにいた。
意志が場所になった、とでも言えばいいのか、
田中自身にも原理はわからなかった。

赤の広場は冷えていた。
石畳に霜が降り、街灯の光がオレンジ色に滲んでいた。
田中はコートも着ていなかったが、
寒くなかった。寒さが彼に触れなかった。

クレムリンの正門に、武装した兵士が十数名並んでいた。
田中が近づいても、誰も動かなかった。動けなかった。
兵士たちの体は石のように固まり、
目だけが恐怖で揺れていた。

田中は門をくぐった。
鉄の扉は触れることなく開いた。

廊下を進む。
警備システムが作動し、サイレンが鳴り始めたが、
それも途中で途切れた。
電子機器が田中の周囲で次々と沈黙した。
監視カメラのレンズが曇り、通信機から声が消えた。

深夜の緊急会議室。

長いテーブルに、七人の男が座っていた。
大統領、国防大臣、参謀総長、
FSB長官、外相、その他二名。
田中がドアを開けると、全員が立ち上がろうとした。
しかし腰が上がらなかった。
見えない力が彼らを椅子に縫い付けていた。

「お前がプーチンか」

田中は大統領の前に立った。

テレビの中で何百回も見た顔だった。
しかし今は違った。
肌は老人のように弛み、目には小さな怯えが灯っていた。
権力を剥ぎ取れば、
そこにいるのはただの七十代の男だった。

「貴様は何者だ」

大統領は絞り出すように言った。
ロシア語だったが、田中には完全に理解できた。

「関係ない」田中は言った。

「お前は二十年以上、この国を私物にした。
隣国に軍を送り、何万人もの若者を死なせ、
何十万人もの民間人を殺した。
お前が地図の上で動かした駒は、全員人間だった」

「戦争には理由がある。NATOの脅威が——」

「黙れ」

田中の声は大きくなかった。
しかし部屋の空気が一瞬で変わった。
窓ガラスに細かいひびが入った。

「言い訳は聞いていない」

田中は七人を順番に見た。
国防大臣——ウクライナへの侵攻作戦を立案した男。
参謀総長——民間地域への砲撃を命じた男。
FSB長官——反体制派を拷問し、毒を盛り、
暗殺を指示した男。
外相——国際社会で嘘をつき続けた男。

田中は短く言った。

「終わりだ」

それからのことを、生き残った警備兵たちは後に証言した。

ただ白い光が廊下から漏れ、そして静かになった、と。

翌朝、クレムリンは沈黙していた。

ロシア軍のウクライナ駐留部隊に、突然撤退命令が下った。

命令の発信源を辿ることは、誰にもできなかった。
将軍たちは互いに顔を見合わせ、しかし命令に従った。
戦車が向きを変えた。
兵士たちが国境を越えて戻ってきた。

ウクライナの前線で、若い兵士が双眼鏡を覗いていた。
ロシア軍が、退いていく。
信じられなかった。
隣の塹壕に向かって叫んだ。

「撤退してる!本当に撤退してる!」

キーウの地下シェルターで、母親が幼い娘を抱きしめた。
サイレンが、その日は鳴らなかった。

---

しかし田中はすぐには去らなかった。

ロシアには、プーチンの下で二十年間
権力にしがみついてきた者たちがまだいた。
地方の知事、治安部隊の司令官、
体制を支え続けたオリガルヒたち。
田中は一週間かけて、ロシア全土を回った。

モスクワ郊外の豪邸に隠れていた石油財閥の男は、
田中が現れた瞬間に腰を抜かした。

「俺は政治には関係——」

「お前はプーチンの戦争に資金を提供し続けた。
それが政治への関与でなければ何だ」

カザンの秘密収容所。
反体制活動家が何十人も拘束されていた。
田中が扉を開けると、鍵は溶けるように外れた。
暗い廊下に、痩せた男女が並んでいた。
田中は何も言わなかった。
ただ出口を指差した。

人々が光の中に歩いて出てきた。

一人の老いた詩人が、田中の腕を掴んだ。

「あなたは何ですか」

田中は少し考えてから言った。

「怒った人間です」

詩人は何かを言いかけて、
やめた。そして深く頭を下げた。

---

ロシアに指導者がいなくなったその後、国は混乱した。
しかしそれは破壊の混乱ではなく、再生の混乱だった。
チェチェン、ダゲスタン、
各地の共和国が自治を声高に主張し始めた。
モスクワでは、三十年ぶりに
自由な選挙を求めるデモが広場を埋めた。

誰も撃たなかった。

もう命令する者がいなかったからだ。

---

## 第三章 イラン――神の名の下の支配者たち

テヘランは、ロシアと違う種類の重さを持っていた。

街を歩く女性たちは俯き、
ヴェールを正しい位置に直しながら歩いていた。
笑い声が聞こえなかった。
公園のベンチに座った男女は互いに距離を置き、
道徳警察の制服が見えると反射的に離れた。

田中は一人の若い女性を見た。
二十代前半だろう。
足早に歩きながら、スマートフォンを上着の内側に隠した。

VPNで外国のニュースを見ていたのだろう、
と田中は思った。
それだけで逮捕される国だった。

最高指導者の宮殿は、街の北側にあった。

イスラム革命防衛隊の精鋭部隊が警備していた。
ミサイルシステム、スナイパー、装甲車。
田中は正面から歩いて入った。

銃口が向いた。
引き金が引かれた。
銃弾は田中の胸に当たり、音もなく床に落ちた。

兵士たちが凍りついた。

田中は歩き続けた。

内部の構造は複雑だった。
地下に続く秘密の部屋、幾重にも張り巡らされた防壁。
しかし田中には壁が存在しなかった。
石も鉄も彼の前では意味を失った。

最高指導者は祈祷室にいた。

老いた男だった。
長い白髭、黒いターバン、床に額をつけて祈っていた。
田中が入ってきても、しばらく顔を上げなかった。
やがてゆっくりと立ち上がり、田中を見た。

その目に、恐怖はなかった。
あったのは困惑だった。

「神が遣わした者か」老人は静かに言った。

「違う」田中は言った。

「俺はただの人間だ」

「ならば、なぜここへ来た」

「お前たちが神の名を使って人々を縛り続けたからだ」

田中は言った。

「ヒジャブをつけない女性を殴り殺した。
若者がデモをすれば絞首刑にした。
別の宗教を信じる者を処刑した。
それが神の意志だと本当に思っているか」

老人は黙った。

「思っていないだろう」

田中は続けた。
「お前たちが守ろうとしているのは信仰ではなく権力だ。
神はその隠れ蓑に使われてきただけだ」

老人の目が揺れた。

田中は革命防衛隊の司令官、大統領、
司法府の長、秘密警察の幹部を、
その日のうちに一人残らず処理した。

翌朝のテヘランは、不思議な静けさに包まれていた。

道徳警察の車が動かなかった。
司令部に誰も出勤してこなかったからだ。
革命防衛隊の基地では、将兵たちが互いに指示を待ち、
しかし指示は来なかった。

昼過ぎ、
一人の若い女性が街角でヴェールを外した。

周囲の人々が息を飲んだ。

道徳警察は来なかった。

一分後、別の女性がヴェールを外した。
また一人。また一人。
夕方には、テヘランの大通りに、
ヴェールを手に持って歩く女性たちの群れができていた。
誰も泣いていなかった。
誰も叫んでいなかった。
ただ、静かに、深く、息を吸っていた。

その空気を、長い間吸えなかった空気を。

田中はその光景を路地の陰から見ていた。

一分ほど見てから、次の場所へ向かった。

---

## 第四章 北朝鮮――世界で最も暗い国

北朝鮮の上空は、夜になると闇だった。

衛星写真で何度も見た光景だった。
韓国が光り輝き、中国が光り輝き、
その間に、巨大な闇の塊が存在した。
電気がない。
自由がない。
情報がない。

平壌の地下には、金一族の秘密施設があった。

表向きは労働党本部の地下。
しかし本当は、食料の備蓄倉庫が何層にも重なり、
最新の医療設備を持つ個人病院があり、
映画館があり、プールがあった。
地上では人々が配給の食料を待つ列を作り、
栄養失調で子供が死んでいる、その真下に。

田中は地下三十メートルの部屋にいた。

最高指導者は食事の最中だった。
大きなテーブルに、フランス産のチーズと
日本産の牛肉と、ヨーロッパから輸入された
ワインが並んでいた。

田中が現れた瞬間、護衛たちが銃を構えた。

「撃て」

指導者が命令した。

銃声が響いた。九発。

田中は立っていた。

指導者の顔が青ざめた。
それまでの傲慢さが剥がれ落ち、
そこには怯えた中年男が残った。

「お前は何だ。霊か。悪魔か」

「人間だ」田中は言った。

「お前も人間だ。それだけが共通点だ」

「余は神聖な——」

「やめろ」

田中の声に怒気が混じった。
テーブルのワインボトルが震えた。

「お前の国の子供が今夜何人飢えているか知っているか。
政治犯収容所に何万人が閉じ込められているか。
お前の祖父の代から何十年、
この国の人間たちが何を奪われてきたか」

指導者は黙った。

「神聖だと。笑わせるな」

その夜、平壌の労働党本部から指令が一切出なくなった。
軍の上層部、秘密警察の指揮系統、
党の幹部会、全員が同時に消えた。
収容所の守備隊に命令が届かなくなった。

収容所の鉄格子は、夜明けとともに開いた。

誰が開けたのかは、わからなかった。

痩せ細った人々が、光の中に出てきた。
何年も、何十年も、外の空気を吸っていなかった人々が。
老人が草の上に膝をついて泣いた。
子供を失った母親が空を見上げた。
何の表情も出なかった。
泣く力も残っていなかった。

三十八度線の南側で、韓国軍の哨戒兵が双眼鏡を覗いた。

北から、人々が歩いてくる。
数十人、いや数百人。
手を上げていた。
武器はなかった。

「……来てる。人が来てる」

哨戒兵は震える手で無線を取った。

「民間人が大量に越境してきます。武装なし。
繰り返す、武装なし」

その夜、ソウルの病院に、
北から来た人々が運ばれ始めた。
栄養失調、凍傷、結核、拷問の傷跡。
医師たちは黙々と治療した。
涙を拭きながら。

---

## 第五章 中国――龍の解体

中国は、他とは規模が違った。

十四億の人口。世界第二位の経済。
核弾頭、極超音速ミサイル、世界最大の監視システム。
軍隊の数だけで二百万を超えた。

田中はまず北京に入った。

中南海。
中国共産党の中枢がある場所。
壁に囲まれた、街の中の別の街。

総書記は執務室にいた。

書類を読んでいた。
赤いペンで何かに印をつけていた。
田中が入ってきた時、総書記は顔を上げ、
眼鏡越しに田中を見た。
その目に驚きはなかった。
ただ、分析するような光があった。

「来るとは思っていた」

総書記は静かに言った。

田中は少し意外に思った。

「ロシアもイランも北朝鮮も、もう終わった。
次は我々だと、わかっていた」

総書記は書類を置いた。

「お前が何者かは問わない。我々には十四億の民がいる。
核がある。お前一人に何ができる」

「全部やる」田中は言った。

「党が倒れれば、中国は混乱する。
内戦になる可能性もある。民が苦しむ」

「今も苦しんでいる」

総書記は黙った。

「ウイグルの収容所に何百万人がいるか、
お前は知っている。
チベットで何が行われたか知っている。
天安門で何が起きたか知っている。
香港の若者たちが何をされたか知っている。
台湾への脅迫が何十年続いたか知っている。
南シナ海で何をしたか知っている」

田中は一歩前に進んだ。

「お前たちは人民のためと言い続けた。
しかし本当は、党のためだった。
党の存続のために、人民を道具にし続けた」

総書記は最後に言った。

「歴史が我々を正しく評価する日が——」

「来ない」田中は言った。

「お前たちがやったことは、歴史に残る。
しかし誰も正しいとは言わない」

中南海が静かになったのは、その夜のことだった。

翌朝から、中国は激しく動き始めた。

人民解放軍の上層部が一夜にして消え、
命令系統が崩壊した。
公安部の指揮が止まった。
各地の省で、地方幹部たちが互いに様子を窺い始めた。

新疆では、ウイグルの収容所の鉄扉が朝には開いていた。

何百万もの人々が外に出た。
彼らは走らなかった。
歩いた。ゆっくりと、地面を踏みしめながら。
空を見上げた。何年も見ていなかった空を。
女性たちが子供を抱きしめた。
老人が地べたに座り込んで動かなかった。

チベットでは、ラサの寺院の鐘が、
何十年ぶりに自由に鳴らされた。

その音が山に響き、渓谷を渡り、村に届いた時、
僧侶たちは経を唱えた。声が震えていた。

香港では、夜、人々が窓を開けた。

それだけのことだった。
窓を開けた。外の空気を吸った。

しかしその行為が、どれほどの意味を持っていたか。
窓を開けるのを恐れていた人々が、恐れずに窓を開けた。
それだけのことが、どれほど大きなことだったか。

台湾では、
海峡の向こうを見つめ続けていた老人が、息子に言った。

「終わった、かもしれない」

息子は何も言えなかった。

---

中国の解体は、一夜ではなかった。

田中は二週間かけて、中国全土を動いた。

各地の軍閥、秘密警察の地方組織、
党の末端幹部で人々を弾圧し続けた者たち。
田中は一人ずつ訪ねた。
暴力を行使したのではなかった。
ただ、会いに行った。

面と向かって言った。

「お前がやったことを、俺は全部知っている」

それだけで多くの者が崩れた。
逃げようとした者もいた。
どこへ逃げても、田中は現れた。

三週間が経つ頃、
中国は事実上の無政府状態になっていた。

しかしそれは恐れていたような暴力的な混乱ではなかった。

人々は、長い間押さえつけられていた何かが外れた時に、
まず呆然とした。
次に、隣人と話し始めた。
市場で、路地で、工場の休憩室で、人々は小声で話した。

「これからどうなる」

「わからない。でも、これまでよりはましかもしれない」

チベットは独立を宣言した。

東トルキスタンが独立を宣言した。

内モンゴルが自治を宣言した。

南部の広東では、北京からの独立を求める声が上がった。
上海でも、四川でも、それぞれの声が上がった。
巨大な国が、ゆっくりと、しかし確実に、
いくつもの部分に分かれ始めた。

分裂は必ずしも戦争を意味しなかった。

命令する者がいなくなった軍は、動かなかった。
戦う理由を誰も与えなかった。
兵士たちは銃を持ったまま、互いに顔を見合わせ、
そして多くが家に帰った。

田中は万里の長城の上に立った。

夕日が沈む方向に、果てしなく壁が続いていた。
何千年もかけて人が積み上げた石。
権力者が人民を使って作った壁。

田中は少し立ち止まり、それから歩き続けた。

---

## 第六章 その他の闇

中国の後、田中は止まらなかった。

キューバ。
革命の名のもとに、六十年以上人々の口を塞いできた政権。

ハバナの旧市街は美しかった。
しかしその美しさの下に、
密告と監視と貧困が積み重なっていた。

田中は一日で終わらせた。

ベネズエラ。
石油で富みながら、人民は食料を求めて国境を越えた。
権力者たちだけが太り続けた。

田中は二日かけた。

ミャンマー。
クーデターで政権を奪った軍の将軍たちが、
少数民族の村を焼き続けていた。

田中は三日かけた。
軍の施設を一つ一つ回り、
命令を下し続けた者たちを処理した。
その間に、ある村で母親が井戸の水を汲んでいた。
普通の朝の光景だったが、
三年前にはその村は存在していなかった。
焼かれていたからだ。

タジキスタン、トルクメニスタン、
ベラルーシ、エリトリア。

聞いたことのない国の名前で、
しかし確かに人々が苦しんでいた国々。
田中は地図の上の点を一つ一つ塗りつぶすように動いた。

スーダン、ジンバブエ、エチオピア。

アフリカの独裁者たちは、
往々にして欧米の支援を受けながら
人民を踏みにじっていた。
田中はその構造ごと壊した。
大統領宮殿だけでなく、資金の流れを、
武器の供給ルートを、隠れた共犯者たちを。

どの国でも同じ光景があった。

権力者が消えた朝、
人々は最初、信じなかった。
信じることを恐れた。
また騙されるのではないか。
また弾圧が来るのではないか。

しかし一日が過ぎ、二日が過ぎ、誰も来なかった。

三日目に、少しずつ、人々は顔を上げた。

---

## 第七章 核の夜

田中がカザフスタンの砂漠を歩いていた時、
頭上で何かが光った。

見上げると、大気圏の縁に白い筋が見えた。

複数あった。
五本、六本、七本。

国籍は特定できなかった。
ロシアの残存勢力か、中国の地方軍閥か、
あるいは別の誰かか。
田中を止めようとした誰かが、最後の手段を使った。

着弾まで、おそらく三分もなかった。

田中は立ち止まった。
逃げようとは思わなかった。
逃げる必要がなかった。
ただ、砂漠に立って、空を見ていた。

七発の核弾頭が、カザフスタンの砂漠に着弾した。

閃光。

熱波。

衝撃波が砂を空中に巻き上げ、
きのこ雲が七つ、夜の空に立ち上がった。

田中は砂の中に立っていた。

服に焦げ跡一つなかった。
肌に赤みすら出なかった。
熱は彼に届かず、衝撃は彼の周囲で曲がり、
放射線は彼の体を素通りした。

しばらくして、砂が降り止んだ。

田中は空を見上げた。
七つのきのこ雲が、
ゆっくりと夜空に溶けていくのを見た。

「無駄だ」

誰に言うともなく、田中はつぶやいた。

---

その後、世界の軍隊は田中を攻撃するのをやめた。

やめたのではなく、諦めた。

あらゆる兵器が通じなかった。
銃弾、砲弾、ミサイル、レーザー、EMP、
化学兵器、生物兵器、そして核。
何一つ、田中に傷一つつけられなかった。

各国の軍事参謀部で、同じ結論が出た。

*不可能だ。*

そして田中は、誰にも止められないまま、動き続けた。

---

## 終章 砂漠

一年が経った。

田中は砂漠にいた。

アラビア半島のどこか。
日が沈み、空が急速に暗くなっていく時間帯だった。
砂が金色から赤に変わり、やがて灰色になっていく。
その光景を、田中は立ったまま見ていた。

胸の中が、空だった。

一年前に積み重なっていたもの
——怒り、憤り、どうしようもない無力感
——それが全部、消えていた。
容れ物だけが残った感じだった。

田中は砂の上に座った。

体が重かった。
不老不死のはずだったが、疲れた、と思った。
疲れは感じないはずなのに。
それとも、これは疲れではなく別の何かだったのか。

目を閉じた。

脳裏に、一年間で見た光景が流れた。

収容所から出てきた人々の顔。
ヴェールを外した女性の顔。
三十八度線を越えてきた北朝鮮の人々の顔。
香港で窓を開けた人の顔。
チベットで鐘を鳴らした僧侶の顔。

怒って見ていた顔ではなかった。

泣いていた顔でも、叫んでいた顔でもなかった。

ただ、息を吸っていた顔だった。

当たり前の空気を、当たり前に吸っていた顔。

田中は砂の上に横になった。

空に、星が出ていた。
砂漠の星は多かった。
こんなに多かったのか、と田中は思った。
四十二年生きてきて、
こんなに星を見たのは初めてかもしれなかった。

*終わった。*

終わったのだ、と田中は思った。
自分がすべきことが。できることが。

不老不死は、目的のある命だった。

目的が終われば、命も終わる。

それは不思議と恐ろしくなかった。
むしろ、静かな納得があった。

一年間、怒り続けた。
動き続けた。
世界中を飛び回り、権力者を滅ぼし、
収容所を開け、人々を解放した。

誰に頼まれたわけでもなかった。

誰に感謝されたくてやったわけでもなかった。

ただ、怒っていた。それだけだった。

田中誠は、砂漠で目を閉じた。

呼吸が、一度。

もう一度。

三度目の後、なかった。

風が吹いた。砂が動いた。
田中の体の輪郭が、砂に少しずつ埋もれていった。

夜が深くなった。

星だけが残った。

---

*翌朝、世界中で誰かが誰かに手紙を書いた。
長い間書けなかった手紙を。*

*翌朝、世界中で誰かが誰かに電話をかけた。
かけると捕まると知っていたから、
かけられなかった電話を。*

*翌朝、世界中で、誰かが声に出して笑った。*

*それだけのことが、どれほど大きなことだったか。*

*田中誠には、もう知る術がなかった。*

*しかし彼は知っていた気がした。*

*砂になりながら。*

*星の下で。*

---

**了**
 

不純な関係から始まる

純な恋愛もありかな?って思い作りました

 

 

# 秘密のきみと、僕だけの世界

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## 第一章 声

春の終わりかけた夕暮れ時、
キャンパスから続く住宅街の細い路地を、
西村颯太はいつものように一人で歩いていた。

イヤホンから流れるのは今期のアニメのOP曲。
リュックの中にはアキバで買ったフィギュアが一体、
大事にプチプチで包まれている。
今夜は新しいアニメを観て、
それから推しのアイドルグループの最新MVを
何度もリピートする予定だ。
充実した夜になる
——自分にとっての充実とは、
そういうことだと颯太は思っている。

大学二年生。友人と呼べる人間はいない。

クラスに顔見知りはいる。
「ノートのコピーさせてくれない?」
と声をかけてくる奴も、
「昨日の授業出た?」と聞いてくる奴も。
でもそれは友人ではない。
颯太はそのことをわかっていたし、
別に悲しくもなかった。
人間関係は面倒だ。
二次元のキャラクターは裏切らない。

そう思いながら路地の角を曲がりかけた時。

「ちょっと待って」

声がした。

颯太はイヤホンを片方外して振り返った。

そこに、彼女が立っていた。

白いブラウスに淡いベージュのスカート。
栗色の長い髪が夕風に揺れている。
大きな瞳が颯太をまっすぐに見ていた。

藤宮莉央。

大学一の美女、と言えばぴんとこない人でも、
「ミスコンで三年連続グランプリを取った人」
と言えば全員がわかる。
大手食品グループの創業家の一人娘で、
清楚で品があって、男子からも女子からも慕われている
——颯太には別の世界の話すぎて、
彼女のことを「有名人」としか認識していなかった。

「……俺、ですか」

思わず後ろを確認した。
誰もいない。

「そう、あなた」

莉央は颯太に近づいてきた。
その表情は、ポスターで見るような
柔らかい微笑みではなく、もっと真剣な何かだった。

「西村颯太くんでしょ。C棟の一四二号室に一人暮らし」

「……なんで知ってるんですか」

「調べた」

あっさりと言った。

颯太は一歩後ずさった。
美人な人間が怖くないかと言えば嘘になる。
というかそもそもこれは何だ。
俺を騙そうとしているのか、
それとも何かの罰ゲームか。

「部屋まで行ってもいい?」

「は?」

「話したいことがあって」

---

## 第二章 提案

なぜこうなったのか。

颯太は自分のワンルームのど真ん中に立ちながら、
状況を整理しようとしていた。
部屋は散らかっている。
アニメのポスターが壁を埋め、フィギュアが棚に並び、
積みゲーとラノベが床に山を作っている。
こんな部屋に藤宮莉央が今、腰かけている。

「……お茶しか出せないですけど」

「いい」

莉央は部屋を興味深そうに見回しながら、
颯太が差し出したマグカップを受け取った。

「広くはないけど、居心地よさそうな部屋ね」

「お世辞はいいです。早く話を聞かせてください」

颯太は床に座った。
ベッドの端に腰かけた莉央と目線がほぼ同じ高さになる。

莉央はマグカップを両手で包んで、
少し間を置いてから言った。

「セフレになってほしい」

時が止まった。

颯太の頭の中で、何か重要な処理系がエラーを起こした。
再起動に三秒かかった。

「……すみません、もう一度」

「セフレ。セックスフレンド。わかる?」

「わかりますけど」颯太は声を絞り出した。

「何かの罰ゲームですか」

「違う」

「誰かに脅されてますか」

莉央は少し眉を上げた。

「何に脅されたらあなたのところに来るの」

「それはそうですけど……」

「ただ、あなたがいいと思っただけ」

「なんで俺が」

「秘密を守れそうだから」

莉央は静かに言った。

「私の周りにいる人は、みんな私に何かを期待してる。
家の名前、外見、立場。
そういうものと切り離して、
ただの私でいられる相手が欲しかった。
あなたは私に興味がないでしょ」

「……まあ」

正直に答えた。

「直接話したこともなかったので」

「それがいい」

莉央は颯太をまっすぐに見た。

「恋愛じゃなくていい。感情を持ち込まないでほしい。
ただ、定期的に会って、それだけの関係」

颯太は長い沈黙の中で、
自分の部屋の雑多な壁を眺めた。

常識的に考えれば断るべきだ。
こんな話、まともじゃない。
でも颯太には、彼女の言葉の中に、
何か痛みに似たものが聞こえた気がした。

「……わかりました」

颯太はため息をついた。

「ただ一つだけ条件があります」

「何?」

「嫌になったら、どちらからでも終わりにできること」

莉央は少し考えて、静かに頷いた。

---

## 第三章 習慣

それからの日々は、颯太にとって非現実の続きだった。

週に二、三回。
決まった時間に莉央がやってくる。
颯太は部屋を片付けるようになった。
莉央は毎回、必ずお菓子か何か小さなものを持ってきた。
「お礼」と言って、颯太の好きなコンビニの
プリンだったり、変わった味のポテチだったり。

行為のあと、莉央はすぐ帰ることもあれば、
一時間ほどソファで颯太の隣に座っていることもあった。
そういう時、二人はたいして会話しなかった。
莉央がスマホを見ていたり、颯太がゲームをしていたり。
それが不思議と気詰まりではなかった。

ある夜、颯太がアニメを流していたら、
莉央がふと画面を見た。

「これ、何?」

「今期のやつです。魔法少女もので、
見た目は可愛いんですけど話がわりとえぐくて」

「ふうん」

莉央はそのまま最後まで観た。
エンドロールが終わって、
颯太が次のエピソードを開こうとすると、

「もう一話観ていい?」と言った。

颯太は内心驚きながら、黙って再生した。

それ以来、莉央は来るたびに「続き観た?」
と聞くようになった。
颯太が一人で先に進んでしまうと、
ネタバレしないように気を遣うのが少し面倒だった。
でも——面倒だと思いながら、
颯太は毎回莉央を待って一緒に観るようになっていた。

「なんで待ってるの」莉央が聞いた。

「一人で観ても、感想言う相手いないので」

莉央は少し黙って、それから小さく笑った。
颯太は初めて、ポスターの中の微笑みではない、
本物の彼女の笑顔を見た気がした。

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## 第四章 距離

秋の気配が出始めた頃には、
颯太の中で何かが変わっていた。

気づいたのは、莉央が来ない日に、
彼女のことを考えていると気づいた時だ。

「今日のあのアニメの展開、莉央はどう思うだろう」とか、

「これ、莉央が好きそうだな」とか。

まずい、と思った。

感情を持ち込まないこと——それが契約の前提だった。
颯太はそれを破りかけていた。
いや、すでに破っていた。

ある夜、行為のあと、
颯太は天井を見上げながらぼんやりと思った。
俺は莉央のことが好きなんだと。

でも、言えるわけがない。

藤宮莉央と西村颯太の間には、埋めようのない距離がある。

家柄、容姿、人望、社会的地位
——あらゆる面で彼女は颯太の手が届く場所にいない。
彼女がこの関係に求めているのは「感情のない相手」で、
颯太はその条件のもとで選ばれた。

好きだと言えば、全部終わる。

颯太はそれを恐れていた。
莉央を失うことよりも
——もしかしたら、この部屋に誰も来なくなることを。

「最近、変じゃない?」

ある夜、莉央がぽつりと言った。

「何がですか」

「あなた」

颯太は少し間を置いた。

「そうですか」

「何か考えてる?」

「別に」

莉央はしばらく颯太の横顔を見ていたが、
それ以上は聞かなかった。

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## 第五章 崩れ目

冬が来た。

ある夜、莉央がいつもより遅い時間に来た。
颯太が開けたドアの前に立っていた彼女の目は、
少し赤かった。

「入っていい」

それだけ言って、莉央は靴を脱いで部屋に上がった。

颯太は何も聞かなかった。
お湯を沸かして、
莉央の好きな甘いほうじ茶を淹れて、
そっとテーブルに置いた。

莉央はしばらく無言でそれを飲んでいた。
颯太はその隣で、ゲームのコントローラーを
手に持ちながら、電源を入れずにいた。

「……就職説明会で、
うちの会社のリクルーターに会った」

莉央がつぶやいた。

「将来は後を継ぐんでしょ、って。
決まったことみたいに。
私の意見なんて、誰も聞かない」

颯太は何も言わなかった。

「やりたいことがある」

莉央は膝を抱えた。

「でも言ったら笑われる。
あなただったら笑わないかなって、なんとなく思って」

「……笑いませんよ」

「デザイナーになりたいの」

莉央は静かに言った。

「服とか、空間とか。
大学でも密かにデザインの勉強してる。
でも家の名前がある限り、そっちには進めない」

颯太はしばらく黙っていた。

「俺には想像できない悩みですけど」

颯太はコントローラーをテーブルに置いた。

「でも、やりたいことがあるのに諦めるのは、
勿体ないと思います」

「無責任ね」

「そうですね」颯太は頷いた。

「でも俺は莉央さんの家の事情も知らないし、
僕は何も背負ってないから、そう思う」

莉央は少しの間、颯太の顔を見ていた。

「ありがとう」

初めて、感謝の言葉を聞いた気がした。

その夜、颯太は初めて、行為をせずに莉央の隣で眠った。
明け方、颯太が目を覚ますと、彼女はもういなかった。
テーブルに小さなメモが置いてあった。

『また来る』

颯太はそのメモを、
フィギュアの棚の端に大事にしまった。

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## 第六章 告白

二月の寒い夜だった。

莉央がいつものように来て、
アニメを一緒に観て、お菓子を食べて
——そのまま颯太の隣でソファに座っていた。
窓の外には粉雪が舞っていた。

颯太は、もう限界だと思っていた。

感情を押し込めることに、疲れていた。
莉央の笑顔を見るたびに、隣にいる時間を惜しむたびに、
胸の中で何かが溢れそうになる。
言わなければ、このまま続けられる。
言えば、全部終わる。

わかってる。でも。

「莉央さん」

颯太は前を向いたまま言った。

「何?」

「好きです」

沈黙。

颯太は続けた
。声が少し震えた。

「言ったらこの関係が終わるのはわかってます。
俺と莉央さんじゃ、釣り合わないことも。
でも、このまま黙ってるのが嫌で」

莉央は何も言わなかった。

颯太はゆっくり莉央のほうを向いた。
彼女は正面を向いたまま、膝の上で手を重ねていた。

「ごめんなさい」

颯太は頭を下げた。

「条件、破りました」

「……いつから」

莉央の声は静かだった。

「秋ぐらい、ですかね」

また沈黙。

「私も」

颯太は顔を上げた。

莉央はまだ正面を向いていた。
でも、その耳が少し赤くなっていた。

「私も、変だと思ってた。
あなたのいない日に、あなたのことを考えてた」

「……莉央さん」

「感情を持ち込まないって言ったのは私なのに」

莉央はようやく颯太のほうを向いた。
その目が、わずかに揺れていた。

「矛盾してるのはわかってる」

颯太は何も言えなかった。

「でも」

莉央は小さく息をついた。

「あなたは私が藤宮莉央じゃなくても、
たぶん同じように接してくれる。
そう思った時に、気づいた」

「……俺、莉央さんの家柄とか、
そういうの正直よくわかってないです」

颯太は言った。

「ただ、一緒にアニメ観て、隣にいる莉央さんが好きです」

莉央はしばらく颯太の顔を見ていた。

それから、ゆっくりと、その手が颯太の隣に伸びてきた。

颯太はその手をそっと握った。

窓の外で、雪が静かに積もっていった。

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## エピローグ

春。

颯太は以前と変わらず、
アニメが好きでアイドルが好きで、
キャンパスでもどちらかといえば目立たない。

でも今は、帰り道に隣を歩く人がいる。

莉央は相変わらず、
キャンパスでは颯太とほとんど口をきかない。
家柄のこと、周囲の目のこと、
まだ整理のつかないことがたくさんある。
二人の関係は、まだ始まったばかりで不格好だ。

それでも、路地を曲がった先で、颯太が待っていると、
莉央は少し早足になった。

「遅い」颯太が言う。

「待てばいいでしょ」莉央が言う。

二人は並んで歩く。
誰も見ていない細い道を、どこにも急がずに。

颯太のイヤホンは、今日はポケットの中にしまってある。

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*了*