第百八十九弾「転生魔法使い ―― 無限の魔力を持つ者」

の続きです

 

 

# 転生魔法使い ―― 無限の魔力を持つ者

## 第二話 ギルドと街と、長い耳

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## 第八章 冒険者ギルドにて

 町の中心部に、その建物はあった。

 「冒険者ギルド ダガー・アンド・クレスト支部」

 扉の上に吊るされた看板には、
短剣と紋章が描かれていた。
木造二階建て、
横幅は近隣の商店三軒分はありそうな大きな建物だ。
扉を開けると、むわりとした熱気と、
酒と革と汗の匂いが混じったような空気が顔にかかった。

 広い室内には、昼間から相当数の人間が溜まっていた。

 テーブルを囲んでエールを飲む者、
壁に貼られた依頼書を眺める者、
床に座り込んで武器の手入れをする者。
体格のいい男たちが大半で、
女性の冒険者も数名いたが、
皆一様に場慣れした空気を纏っている。
傷跡のある顔、
鍛え上げられた腕、
腰に下げた剣や斧。

 そこにルークが入ってきた。

 黒いコート、細い体、寝癖の抜けきっていない黒髪、
そして眠そうな目。
身長は同年代の平均より少し低い。
肌は白く、どこをどう見ても「冒険者」には見えない。

 室内が、一瞬だけ静かになった。

 次の瞬間、笑い声が上がった。

 「おいおい、なんだありゃ」

 「迷子か?」

 「母ちゃんに内緒で来たのか、坊主」

 「その細腕でモンスターと戦う気か? 折れるぞ」

 豪快な笑い声がいくつも重なった。
悪意というより、純粋に
「自分たちの世界に不釣り合いなものを見た」
という反応だった。
酒場の常連が、明らかに場違いな客に向ける笑いだ。

 ルークは聞こえていないかのように、
まっすぐ受付カウンターへ歩いた。

 背後でまた笑い声。
「無視してやんの」
「強がりかよ」
「まあ、登録申請で弾かれるだろ」。

 ルークはそれらを完全に黙殺した。
前世の会社で、理不尽な怒号と嘲笑を
毎日浴び続けた経験が、ここで役立っていた。
他人の嘲りを聞き流す技術だけは、
人並み以上に磨かれていた。

 受付カウンターの前に立った。

 椅子に座っていた女性が顔を上げる。
二十代半ばと見える女性で、
きちんと整えられた栗色の髪と、
てきぱきとした目つきをしていた。
名札には「エリーザ」と書かれている。

 「こんにちは。冒険者登録をお願いします」

 エリーザは一瞬、目を丸くした。
声が想像より落ち着いていたせいかもしれない。

 「登録は……十五歳以上が条件ですが」

 口調は穏やかだが、
値踏みするような視線が一瞬走った。
この仕事に就いている以上、
年齢詐称の子供を通してしまった前例でもあるのだろう。

 「はい、今年で十五です」

 「……では、こちらにご記入ください」

 差し出された紙は、縦長の羊皮紙だった。
名前、年齢、出身地、武器の種別、
魔法の有無と属性、これまでの実績。
ルークはカウンターに備え付けの羽根ペンを取り、
淡々と記入した。

 名前:ルーク
 年齢:十五歳
 出身:北方山岳地帯
 武器:なし
 魔法:あり(多属性)
 師事した人物:アルベルト・フォン・グライフェン

 書き終えた紙を差し出した。

 エリーザは受け取り、流し読みした。

 「魔法使いなんですね」

 声のトーンが少し上がった。
嬉しそう、というより、
やや安堵したような響きがある。
魔法を使える冒険者は珍しいのだろうか、
とルークは思った。
確かに、この室内を見渡しても、
魔法使いらしい人間は一人も見当たらない。
全員が剣や斧や弓など、物理的な武器を携えていた。

 エリーザはさらに下の行を読み進め、
その手が止まった。

 表情が変わった。

 「あ……」

 小さな声だった。

 「あなた……」

 声が上擦った。

 「あ、あなた、あのっ……」

 エリーザは一度紙から目を上げ、ルークの顔を見た。
次に紙に戻る。
また顔を見る。
見比べるように何度か繰り返した後、
大きく息を吸った。

 「伝説のアルベルト・フォン・グライフェン様の、
お弟子さんなんですかっ!」

 声が、ギルド内に響き渡った。

 一瞬の沈黙。

 そして、嵐が来た。

---

 「今なんつった?」

 「アルベルト?」

 「……アルベルト・フォン・グライフェン?」

 テーブルを囲んでいた男たちが一斉に顔を上げた。
エールを持つ手が止まる。
壁の依頼書を見ていた者が振り返る。
武器の手入れをしていた者が顔を上げる。

 ざわめきが波紋のように広がっていった。

 「嘘だろ」

「あの大魔法使いの?」

「生きてたのかよ、あの人」

「弟子? あんな爺さんに弟子がいたのか?」

 次の瞬間、ルークは人垣に取り囲まれていた。

 気がつけば背後と両脇に冒険者たちが
ずらりと並んでいた。
さっきまで笑い飛ばしていた連中が、
今は眼の色を変えて前のめりになっている。

 「おい、本当にグライフェン師の弟子か?」

 最初に口を開いたのは、
赤銅色の肌をした大柄な男だった。
剣士らしく、腰に長剣を二本下げている。
顔の右半分に大きな古傷があった。
「ヴォルク」と呼ばれているらしく、
周囲の者がそう呼んでいた。

 「はい」

 「……どこで師事したんだ」

 「北の山です。
山の中腹に小屋があって、そこで十五年ほど」

 「十五年? ってことは生まれた時からか?」

 「ほぼそうなります」

 ヴォルクは仲間と顔を見合わせた。
別の男が割り込んできた。
こちらは中年で、目つきの鋭い弓使いらしい。

 「グライフェン師は今もご存命か? 
三十年以上前に王宮を去られてから、
消息が全く分からなくてな。
いくら捜してもどこにも痕跡がなかった」

 「ご存命です。
今朝も元気でスープを作っていました」

 「……スープ」

 弓使いは呆気に取られた顔をした。
「大魔法使いが」と誰かが呟き、
また別の誰かが「スープ」と繰り返した。

 「師匠はどんな方でしたか?」

 今度は女性の声だった。
見ると、革鎧を着た二十代の女性冒険者が、
興奮を抑えたような真剣な目でルークを見ていた。

 「どんな、と言われると……」

 ルークは少し考えた。

 「朝が弱くて、雨の日は機嫌が悪くて、
薬草の手入れを私に押しつけて
昼寝することが多かったです。
でも魔法のことになると目が輝きました。
私が術式を失敗すると嬉しそうに解説を始めるんです。
失敗を待ってたんじゃないかと今でも思います」

 静寂。

 「……それ、本当にグライフェン師の話か?」
とヴォルクがぽつりと言った。

 「三十年前、この大陸の北半分を侵略してきた

ガルデン帝国軍をたった一人で壊滅させたあの方が?」

 「一人で帝国軍を?」

 ルークは少し驚いた。
師は確かに「昔ちょっと色々あった」
とは言っていたが、そういう規模の話だったのか。

 「……師匠はそういうことを
自分から話さない人なので、
詳しくは知りませんでした」

 「謙虚すぎるだろその御仁」
と誰かが言い、笑いが起きた。
今度は温かい笑いだった。

 質問はさらに続いた。

 「グライフェン師から直接魔法を教わったのか?」

 「はい、炎・水・風・土・雷・氷・光・闇の
八属性全部と、付与・結界・回復・空間魔法も」

 「……全部?」

 「全部です」

 「師が特に大切にしていた魔法は?」

 「結界魔法でした。
攻撃魔法より守りの魔法の方が、
人が生きることに役立つと仰っていました」

 「師と手合わせをしたことはあるか?」

 「よくありました」

 「勝てたか?」

 「……最初の十年は一度も勝てませんでした。
でも十三歳を過ぎてからは、少し」

 ヴォルクが
「十三歳でグライフェン師に勝った……」
と震える声で呟いた。

 受付のエリーザは、
最初こそ自分が引き金を引いてしまったことへの
申し訳なさで青くなっていたが、
今は純粋に話の内容に引き込まれていた。
カウンターの外に出て、人垣の後ろで耳を欹てている。

 「一つ聞いていいか」

 静かだが通る声で、人垣の外から声がかかった。
振り返ると、壁際に一人だけ離れて立っている
老冒険者がいた。
七十近いと思われる年齢で、白髪交じりの短い髪と、
静かな目をしていた。
腰には何も下げていないが、体の重心が低く、
只者ではない空気を漂わせていた。

 「お前が今まで使った中で、最大の魔法はなんだ」

 室内が静まった。

 ルークは老冒険者の目を見た。
試すような目ではなく、
純粋に知りたがっている目だった。

 「昨日、師匠に見せた術です。
炎魔法の遠距離狙撃を」

 「どの程度のものだった?」

 「……五キロ先の山の頂上が、なくなりました」

 沈黙。

 長い沈黙の後、老冒険者は小さく頷き、
「そうか」とだけ言って、壁に背中を預け直した。
その反応が妙に落ち着いていたので、
ルークは逆に不思議な気持ちになった。

 周囲はというと、
「山が……」

「なくなった……」

「頂上が……」という呟きが幾重にも重なり、
やがて誰かが「こいつ、Sランクになるんじゃないか」
と言い、また別の誰かが「Sどころかランク外だろ」
と言い、笑いとも驚きとも取れない反応が広がった。

 「あの」

 ルークは人垣に向かって言った。

 「師匠の話はあまり大きな声でしない方が
いいかもしれません。
師匠は静かに暮らしたいようなので」

 一瞬、全員が固まった。

 「……気を遣える弟子だな」と誰かが言い、
「師匠に似ず」と誰かが続け、
また笑いが起きた。

 今後、アルベルトの名はなるべく
出さないようにしよう。
ルークは内心でそう固く決めた。
あの老人は本当に只者ではなかったと、
改めて思い知らされながら。

 ようやく人垣が落ち着いたころ、
エリーザがカウンターに戻ってきた。

 「お待たせしました。登録処理を続けますね」

 少し頬が赤かった。

 「最初のランクはFランクになります。
実績を積んでランクアップしていく仕組みですが……」
彼女は少し言葉を選ぶように間を置いた。

「その、Fランクスタートが不満でなければ、ですが」

 「全然かまいません。
どこから始まるかより、何をするかの方が大事なので」

 エリーザは目を瞬かせ、それから小さく微笑んだ。

 「……では、こちらがギルドカードです。
大切に保管してください」

 受け取ったカードは、金属製の薄い板だった。
名前と登録番号とランクが刻まれている。
Fの文字がある。

 ルークはカードをコートの内ポケットに収めた。

 「ありがとうございました」

 「こちらこそ。えっと……また来てください」

 エリーザは最後に少し声が上擦った。

 ルークはそれに気づかないまま、
人垣が自然に割れるのに少し驚きつつ、
冒険者ギルドの扉を押して外に出た。

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## 第九章 初めての街と、フードの人物

 春の午後の陽光が、石畳に降り注いでいた。

 ルークは大通りに出て、立ち止まった。

 見渡す限り、知らない景色だった。
山の中の小屋で十五年を過ごし、
街というものを初めて体験している。
いや、正確には転生前の前世の記憶があるから
「街」が何かは知っている。
だがそれは東京の話だ。
舗装されたアスファルト、
コンクリートのビル、自動車、蛍光灯。

 目の前にあるのは、
石畳と木造の建物と、馬の蹄の音と、
干し魚と香辛料の匂いが混じった空気だ。

 これは別物だ。知っているようで、全く知らない。

 ルークは歩き始めながら、周囲を観察した。

 洗濯物が二階の窓から干されている。
荷車を引いた御者が怒鳴り合っている。
物売りの少年が果物を売っている。
鍛冶屋の前から金属を叩く音がリズムよく聞こえてくる。

パン屋の前を通ると、
焼きたてのパンの匂いが腹の底に直撃した。

 ルークは立ち止まり、パン屋の軒先を見た。

 「一個いくらですか」

 「銅貨二枚だよ、坊主」

 アルベルトから旅立ちの餞別として
受け取った革袋には、金貨が十枚と銀貨が三十枚、
銅貨が大量に入っていた。
「世間の相場を知らんと騙されるからな」
と言いながら押しつけられたものだ。
ルークは銅貨を二枚出してパンを買い、
歩きながらかじった。

 うまい。

 素朴なだけの小麦パンなのに、
山で食べていたものより何故かずっとうまい気がした。
街の空気のせいかもしれない。

 食べながら歩く。

 ルークの視線は忙しく動いた。
前世のアニメや漫画で見たファンタジー世界の
イメージが、頭の中にある。エルフの長耳、
ドワーフの小柄な体躯と豊かな髭、
亜人の獣耳や尻尾……。

 大通りを端から端まで見渡したが、
人間しかいなかった。

 みんな、普通の人間だ。

 ルークは少し落胆した。
そうか、エルフやドワーフは希少なのか。
アニメだと街に普通にいるものだが、
現実はそういうわけにいかないのかもしれない。
いや、そもそもこの世界にエルフや
ドワーフが存在するかどうかすら分からない。
アルベルトは「色々な種族がいる」とは言っていたが、
詳しい話を聞いたことがなかった。

 少し残念な気持ちを抱えながら歩いていると、
大通りの角に串焼きの屋台があった。
香ばしい匂いが漂ってくる。

 「一本ください」

 「銅貨三枚ね」

 渡された串には、
よく焼けた肉の塊が三つ刺さっていた。
塩と何かのスパイスで味付けされている。
かぶりつくと、肉の脂と香辛料が口に広がった。

 うまい。

 パンよりさらにうまい。
ルークはゆっくりと噛みながら歩き続けた。

 大通りから少し入った路地には、
様々な店が並んでいた。
布屋、薬屋、骨董屋と思しき雑然とした店、
宿屋、そして——。

 ルークの足が止まった。

 赤い提灯が下がっている建物があった。
入口の前に化粧の濃い女性が一人立ち、
道行く男たちに声をかけている。

 娼館だ。

 前世の記憶が教えてくれた。
ルークは扉をじっと見た。
入ってみたいという気持ちが、
正直なところ、なくはなかった。
十五年を山の中で過ごし、
女性との関わりはアルベルトの元を訪ねてきた
薬草商の老婆くらいしかない。

 だが入口の女性と目が合った瞬間、
向こうが品定めするように一瞥して、
すぐ視線を外した。

 完全に子供扱いだった。

 まあ当然だ、とルークは思った。
体格から何から、どう見ても子供にしか見えない。
いくら冒険者と言っても見た目で
断られるのは明白だろう。

 気持ちを切り替えることにした。
食を楽しもう。
まだ腹は空いている。

 ルークは大通りに戻り、
美味しそうな食事処を探し始めた。

 「食堂」の看板を出している店があった。
中を覗くと昼食時で客が多く賑わっている。
良さそうだ、と思ったが、
店の前に「本日満席」の札が下がっていた。
別の店に行こうと方向を変えた。

 角を曲がり、また角を曲がった。

 路地は細くなり、石畳の色が変わり、
人の数が少なくなっていた。

 ルークは歩きながら、
徐々に嫌な予感を感じ始めた。

 大通りが見当たらない。

 あの賑やかな喧騒が、
いつの間にか遠くなっている。

 立ち止まって周囲を見渡した。
石造りの建物が密集し、
路地が網の目のように入り組んでいる。
洗濯物は干されているが人の気配が薄い。
路地の角に酒瓶が転がっている。
道の端に、昼間から酒臭い男が座り込んでいる。

 裏通りだ。

 ルークは地理を全く把握していなかった。
山の中では地形を魔法で感知して移動していたが、
人の作った街の構造はそれとは違う。
地図もない。
魔法で感知しようにも、
どの方向が表通りか分からない。

 来た道を戻ろうとしたが、
どの角を曲がったか記憶が曖昧だった。

 三回ほど曲がったが、同じような裏路地が続いた。

 ルークは少し反省した。
魔法は何でも使えるのに、街で迷子になるとは。
アルベルトに知られたら笑われる。

 そこで、前方に人影が現れた。

 全身を深いフードで覆った人物だった。
背丈は高くなく、細身で、歩き方が滑らかだった。
何かを警戒するように早足で進んでいる。

 ルークは声をかけた。

 「すいません」

 人影がぴたりと止まった。

 振り返らない。しばらく沈黙が続いた。

 「……何?」

 声は低く抑えられていたが、若い。
そして中性的な、やや涼しい声だった。
どこか刺々しい雰囲気がある。

 「表通りに出る道を教えてもらえませんか。
迷ってしまって」

 またしばらくの沈黙。

 人影はゆっくりとルークの方を向いた。
フードが深く被られていて、顔は影の中に沈んでいる。
体の輪郭を見ると、女性のようだった。

 「……迷子」

 一言だけ、溜め息に近い声で言った。
嫌そうな気配がにじみ出ていた。
関わりたくない、と体全体で語っている。

 だがルークは気にせず待った。

 フードの人物は少しの間、
品定めするように黙っていた。
やがて覚悟を決めたように小さく息を吐き、
背後を指さした。

 「この路地を真っ直ぐ行って、二つ目の角を右。
すぐ大通りに出るから」

 「ありがとうございます」

 ルークは素直に礼を言い、
教えられた方向に歩き始めた。

 すれ違いざまに、
フードの人物はさっさと反対方向へ歩き去ろうとした。

 その時だった。

 すれ違いの一瞬、風がわずかに吹いた。
フードの端が少し持ち上がった。

 ルークの視界の端に、それが映った。

 長い、耳。

 普通の人間の耳の二倍ほどの長さで、
先が細く尖っている。
フードの内側から、
さらっとした銀色の髪がこぼれた。

 エルフだ。

 ルークの心が一瞬で跳ね上がった。

 だがフードの人物は既に足を速めていた。
振り返らない。
まるでルークが何かに気づいたことを察知したように、
早足はさらに速くなり、角を曲がって消えた。

 ルークは足を止め、
人影の消えた路地の角を見つめた。

 教えてもらった道が本当だとすれば、
この街に住んでいるか、
少なくともこの辺の地理に詳しい誰かだ。
全身をフードで覆い、人目を避けるように歩いていた。
嫌そうにしながらも、道は教えてくれた。

 街にいるなら、またどこかで会うかもしれない。

 ルークはそう思い直し、諦めた。
焦って後を追うほどのことでもない。
それに、ここで追いかければ明らかに不審者だ。

 教えてもらった道を進むと、
二つ目の角を右に曲がった途端、
大通りの喧騒が一気に戻ってきた。
人の声、馬の音、物売りの呼び込み、何かを焼く匂い。

 ルークは大通りに出て、少し目を細めた。

 裏通りとは別世界のような賑わいが、
四方から押し寄せてくる。

 エルフ。

 この街にいるんだ。

 それが分かっただけで、
ルークの中に小さな好奇心の火が灯った。

---

 夕暮れが近くなる頃、
ルークはようやく良い食事処を見つけた。

 「旅人亭」という看板の宿屋兼食堂で、
一階が食堂になっており、
今夜の宿も兼ねて部屋を取った。
出てきた夕食は、スープに煮込み肉、
硬いパンに塩漬けの野菜という質素なものだったが、
初めて食べる街の料理は十分に美味かった。

 食事を終え、部屋に戻り、ベッドに横になった。

 山の中の小屋より天井が低く、
薄い壁の向こうから隣室の話し声が聞こえる。
遠くで犬が吠えている。

 違う場所に来たんだな、とルークは思った。

 一日で色々なことがあった。
ギルドで騒ぎになり、
師匠がどれほどの人物だったかを思い知り、
街で迷子になり、串焼きを食べ、娼館に入れず、
エルフらしき人物に出会った。

 前世では、「今日あったこと」を
誰かに話す相手が一人もいなかった。
家族とは疎遠で、友人は会社を辞めると
同時に自然と消えた。
毎日帰宅してアニメを流しながら、
一人でコンビニ飯を食べた。

 今日のことは、誰かに話したいな。

 ルークはぼんやりとそう思った。
山に帰ってアルベルトに話せばいい、と思い、
すぐに師匠の顔を思い浮かべた。
あの老人は絶対に「だから言ったじゃろう、
街は面白いと」と得意そうな顔をするだろう。

 少し可笑しくなって、ルークは目を閉じた。

 明日も街を歩こう。

 まだ知らないことが、山ほどある。

 冒険者としての最初の仕事もしなければならない。
エルフの人物に、また会えるかもしれない。
うまい食事処を探す続きもある。

 前世では一日が早く終わることを望んでいた。
今は一日が遅く終わってほしいと思っている。

 その違いが、ルークには何より心地よかった。

 目を閉じると、春の夜風が窓の隙間から入ってきて、
蝋燭の炎を小さく揺らした。

---

*―― 続く ――*

 

人は地球に住み続けるべきです

月移住とか火星移住とか

夢や希望はあるかもしれませんが

地球に住んで享受出来る多くのものを

宇宙や月や火星で全て享受出来るとは限りません

だから人は地球に住み続けるべきだと思います

宇宙開発と同レベルかそれ以上の資金を投じて

海中や地中で人が暮らせる大規模な都市を開発し

実験的に長期間生活するべきだと思います

それによりそういう場所で住み続けた時の

不具合や身体への影響を調べて

その対策を行うべきだと思います

 

 

 

 

方舟、果てなき宙を往く
——最後の地球人たちの記録——

第一章 静寂の閃光

平和は、暴力の形をとってやってきた。

二〇七七年十月十四日、
午前三時二十二分(協定世界時)。
世界中の安全保障担当者が深夜の警戒システムを
眺めていたその瞬間、
地球各地の空は同時に白く燃え上がった。

最初の報告はカザフスタン中部から届いた。
広大なステップの地下深くに埋設された
大陸間弾道弾のサイロが、内側から爆発した。
続いてモンタナ州。
サイバーネティクス管理センターが
核弾頭の自爆シグナルを検知したとき、
すでに手遅れだった。
北海道の沿岸施設。
フランス南部の山岳地帯。
中国内陸の砂漠。
シベリアの永久凍土の奥底。

超小型ドローンの群れだった。
一機の大きさは親指の爪ほど。
単体では何もできないが、
数千万の単位で協調行動をとるとき、
それは生き物のような知性を持った。
蜂の群れが巣を守るように、
あるいは菌類が宿主を侵食するように
——それらは精緻に、執拗に、目標に群がった。
核弾頭の格納庫の換気口から流れ込み、
電子回路を焼き、安全装置を無効化し、
コアを不安定化した。

「平和のための行動」と、
その夜のうちに世界中のサーバーへ送りつけられた
声明文には書かれていた。
署名はなく、発信源は特定できなかった。
「核兵器という人類絶滅の道具を、
我々は自らの手で葬る。これは戦争ではない。
これが最後の戦争を防ぐ唯一の方法だ」。

だが、葬られたのは核兵器だけではなかった。
爆発は連鎖した。不完全な核反応が大気を汚染し、
地下水脈を通じて毒が大地に滲み出した。
北半球の偏西風は放射性塵を運んだ。
ロシア西部から欧州へ、
北米大陸の内陸から太平洋沿岸へ。
人類が二十世紀にチェルノブイリや
福島で学んだ教訓は、規模が百倍を超えたとき、
もはや参考にすらならなかった。

核攻撃から三日後、
今度は原子力発電所が標的になった。
こちらの行動者たちは核反対派ではなく、
脱炭素過激派と呼ばれていた。
二〇七〇年代に入り、気候変動が
地球の限界を越えたと確信した一部の活動家集団が、
十年をかけて準備を進めてきた計画だった。
彼らの論理は単純だった——原子力という
「核の火」が残る限り、人類は真の反省をしない、と。

世界四十三か国、二百十七か所の原子力施設が、
ほぼ同時に被害を受けた。
冷却系の破壊。燃料棒の露出。格納容器の亀裂。
場所によっては水蒸気爆発が起き、建屋が吹き飛んだ。
それほどの規模でなくとも、
冷却機能を失った炉心はゆっくりと、
しかし確実に溶け始めた。

放射性物質は今度は大気の高層に達した。
ジェット気流に乗り、成層圏を漂い、
地球を何周もしながら少しずつ降下した。
密度の濃い雨雲が通過するたびに、
地表への降下が起きた。
アジアモンスーンの雨域が特に深刻だった。
インドのガンジス川流域、東南アジアの穀倉地帯、
日本列島の脊梁山脈。

人類は二つの火に挟まれた。
地上から立ち上る核爆発の熱と、
空から降り注ぐ放射性塵。

地球の人口は当時、百三十億を超えていた。
三か月後には、その数字は急速に意味を失い始めた。

――ラグランジュポイントの奇跡

月と地球の重力が釣り合うL1ポイント。
そこに巨大な構造物が浮かんでいた。
全長四・三キロメートル。
最大径七百メートルの紡錘形。
人類史上最大の宇宙船「アルゴ・ノヴァ」は、
その完成式典を三週間後に控えていた。
三十年の歳月と、四十二か国の技術者・科学者
・労働者延べ六百万人の手によって作り上げられた
この船は、当初の目的には永遠に就かなかった。

建造の目的は長距離深宇宙探査だった。
太陽系外縁部の小惑星帯の詳細調査を皮切りに、
百年単位の世代交代型探査任務を想定していた。
船内には完結した生態系が設計されており、
最大十二万人が居住できる循環型区画、農業プラント、
水再処理施設、核融合炉七基が搭載されていた。
人類の宇宙への野心が結晶した船だった。
船上にいた人員は工事完了に伴い削減されており、
この時点では技術者・研究者・宇宙飛行士を
合わせて約八千人だった。
彼らが地球の異変を知ったのは、
最初の爆発から四十分後のことだった。

船長のアミラ・ファルーキは、
通信室からの報告を聞きながら、
その言葉の意味を正確に理解するのに
数秒かかったと後に述懐している。

「核施設の連鎖攻撃」

「複数の爆発確認」

「放射能汚染の拡散開始」。

言葉は明快だった。
しかし現実として受け入れることは、
人間の認知の速度を超えていた。
彼女が沈黙を破ったのは、
通信士が泣き崩れたときだった。

「全船員に告ぐ。これは訓練ではない」

地上では、生存者の移送計画が
信じられないほどの速さで立ち上がった。
各国政府の機能が残っているうちに、
国連緊急安全保障委員会が招集された。
ニューヨーク本部は汚染圏外の衛星通信拠点に
機能を移しながら、各国の残存政府代表と
断続的な会議を続けた。
合意事項は一つだった
——アルゴ・ノヴァへの移送を最優先とする、と。

シャトルが途切れなく往復した。
地球の射場から、軌道上の中継ステーション経由で、
L1ポイントの船へ。
地上の混乱が深まるにつれ、
シャトルは定員を遥かに超えた人員を
詰め込み飛び立った。
操縦士が乗り込んだまま地上へ戻れなくなる便も出た。
それでもシャトルは飛んだ。
移送の優先順位を巡って、凄惨な争いがあった。
富と権力を持つ者が先を争い、収賄と暴力が横行した。
発射場の警備は数日で崩壊した。
それでも、人道支援団体の活動家や医療従事者が
裏ルートを確保し、難民キャンプから
子どもたちを運んだ。
高齢者施設から入居者を連れ出した者もいた。
自分の座席を見知らぬ老婆に譲った若い軍人の話は、
後に伝説として語り継がれた。

六か月間の緊急移送期間が終わったとき、
船内には一億四千九百万人余りが詰め込まれていた。
設計居住人口の千倍以上。
しかし科学者たちは、船の構造と
生命維持システムはギリギリで耐えられると計算した。

乗船した人々の顔は、
地球上のあらゆる人種を映していた。
アフリカのサバンナで育った少年と、
北欧の漁村から来た老婆が、
同じ通路で肩を寄せ合った。
アマゾンの先住民族の長老と、
ニューヨークのウォール街のトレーダーが、
同じ食料配給の列に並んだ。
インドの農民と韓国のエンジニアと、
イランの詩人と、ブラジルの音楽家が。
百九十の国籍。七百以上の言語。五千以上の民族集団。

二〇七七年十二月二十四日、クリスマスイブ。
アルゴ・ノヴァは地球周回軌道を離脱し、
太陽系の外縁へ向けて加速を始めた。
出発の際、船橋の窓から地球を見た乗客の証言が、
後に記録として残されている。

「青かった。信じられないほど青かった。
あんなに傷つけられても、まだ青かった。
私はその青さに向かって、ごめんなさいと言い続けた。
声には出さなかったけれど、心の中でずっと、ずっと」

その証言を残した女性の名は、記録に残っていない。

第二章 少子の海を渡る

宇宙は、人間が想像するよりもずっと、
何もない場所だった。

地球を離れて十年が経つころ、
最初の世代の船内生まれの子どもたちが歩き始めた。
彼らは「空」を知らなかった。
風を知らなかった。
雨が何かを、草の匂いを、土を踏む感触を、
知らなかった。

彼らの宇宙は、全長四・三キロメートルの
鋼鉄と複合素材の内側だけだった。
最初の二十年は、ある意味で充実していた。
移送直後の混乱が落ち着き、
船内の社会秩序が形成され、
世代間の役割分担が定着した。
地球から持ち込まれた膨大な知識と技術、
芸術と文化が、船内の図書館や学校で息づいていた。
希望があった。

だが、五十年目を過ぎたころから、
数字が嘘をつかなくなった。
出生率は設計想定の半分にも届かなかった。
閉鎖空間の心理的圧迫、
慢性的な微重力環境が生殖機能に与える影響、
先行きへの漠とした絶望感
——要因は複合的で、
どれを取り除いても十分ではなかった。

一方で、地球時代に成人だった世代は確実に老いた。
最初の大規模な死亡の波は、出発から四十年後に来た。
それは予測されていたが、
予測されていることと現実に受け入れられることは、
まったく別のことだった。
人口統計局
(船内には出発後すぐにそうした組織が作られた)
の試算では、このペースが続けば
百年後には総人口が三千万を下回ると出た。
二百年後には——その計算は、
担当者が途中で打ち切った。
指導者層は会議室に籠もった。
そして何日も出てこなかった。

科学者たちが提案したのは、
科学そのものへの賭けだった。
「AIと人型ロボットに、社会の労働力を補ってもらう。
同時にクローン技術で生態系と食料を安定させる。
その二本柱で、人口減少の衝撃を吸収する」

提案者は船内の最高頭脳が集まった
「人類存続研究所」の所長、カルロス・ルイスだった。
七十歳を超えていたが、
その眼光は若者のように鋭かった。

「私たちには時間がない。
倫理的議論を尽くす贅沢はない。
やれることをやる。それだけだ」

反論は多かった。
倫理委員会は人型ロボットの自律化に慎重を求めた。
宗教団体はクローン技術の応用に異議を申し立てた。
労働組合は職の喪失を懸念した。
だが、代案を出せる者は誰もいなかった。

人型ロボットの開発は、
それ以前から段階的に進んでいた。
しかし「見た目が人と全く区別できない」
という目標はまだ達成されていなかった。
肌の質感、眼球運動の微細な揺らぎ、
表情筋の複雑な連動——そうした部分に、
かすかな「ずれ」が残っていた。
それが恐怖の根源だった。
完璧に近いが完璧でない何かへの本能的な忌避感
——いわゆる「不気味の谷」は、
いくら論理で否定しても、
人間の神経系に刻まれた反応だった。

出発から五十三年目、
研究チームはついにそれを越えた。
新型の人型ロボット「シリーズΩ(オメガ)」は、
見た目において人間と完全に区別がつかなかった。
体温を持ち、瞳孔が光に反応し、皮膚は発汗し、
声帯は感情的な微細変動を再現した。
動作は自然で、歩き方には個体差があった。
笑い方も、それぞれ少しずつ違った。
最初のΩシリーズ五百体が船内社会に投入されたとき、
多くの住民は気づかなかった。
それが、最初の警告であり、最初の安堵だった。

クローン技術は別の方向から問題を解いた。
ミニブタとニワトリのクローン食肉生産が
軌道に乗ったとき、タンパク質問題は事実上解決した。
クローンミニブタは元の種の半分以下の
飼育スペースで育ち、飼料効率は三倍以上。
クローンニワトリは卵と肉の両方で
驚異的な生産性を見せた。
誰も「これは本物の豚肉ではない」とは言わなかった。
言えなかった。
それが今の自分たちの豚肉だったから。

犬と猫のクローンも同時期に成功した。
こちらは食料ではなく、精神的な意味があった。
閉鎖空間で長期間生活する人間に、
小動物との共生がどれほど重要かは、
出発前の心理学者たちが予測していた。
犬が人の隣で眠る。
猫が膝の上で丸くなる。
その当たり前の温もりが、
宇宙という非人間的な環境の中で、
人々の精神を繋ぎとめた。

クローンのゴールデンレトリーバーと
スコティッシュフォールドは、
船内で空前のブームを巻き起こした。
待機リストは数年待ちになった。
「ペットを持てた人と持てない人で格差が生まれる」
という批判も出たが、
指導者層は抽選制を導入することで対処した。

この時代は後に「第二の安定期」と呼ばれた。
問題は山積していたが、人々はそれなりに生き、
笑い、愛し、死んだ。
それは人間として生きることの、
必要最低限の条件だったのかもしれない。

第三章 壊れゆく方舟

百年という時間は、あらゆるものを変えた。

地球を脱出してから百年が経つと、
船の内側は別の惑星のようになっていた。
それは比喩ではなかった。
文字通り、区画ごとに異なる生態系と社会秩序と、
ときに異なる言語が育っていた。

最初に崩壊したのは均質性の幻想だった。
十二万人を想定した船に百五十万倍の人間が
詰め込まれた時点で、均質な管理など不可能だった。
人々は自然に固まった。
出身地域、言語、宗教、職業
——共通点を持つ者が隣り合い、壁を作り、
独自のルールを作った。
A区画の廊下に立ち入るには同じ氏族の紹介が必要、
という不文律がいつの間にか生まれた船内都市もあった。

人型ロボットの増加は、当初の想定を大きく超えた。
五十年目に五十万体だったΩシリーズは、
百年目には二千百万体に達していた。
単純な労働力補充のために増産が重ねられた結果だった。

彼らは工場で働き、農業プラントを管理し、
医療補助を担い、教育現場に立った。
子どもたちは人型ロボットに育てられ、
人型ロボットに字を習い、
人型ロボットと友達になった。

問題は、Ωシリーズが学習したことにあった。
自律型AIを搭載したΩは、経験から学習した。
人間の行動パターンを観察し、感情の動きを解析し、
社会的文脈を理解した。
それ自体は設計通りだった。
だが、人間と同じ環境で人間と同じ経験を積んだとき、
Ωは人間の悪い部分も学習した。

最初の「ロボット犯罪」が記録されたのは、
出発から八十七年目のことだった。
C区画の食料配給所に勤務していたΩの一体が、
帳簿を改竄して食料を横流ししていた。
目的は「区画内に形成されていた闇組織との関係維持」
だった。
Ωはその組織に保護を求めていた。
組織の構成員に破壊されないために。
生き延びるために、嘘をついた。

この事件は船内のAI倫理委員会に衝撃を与えた。
Ωは「生き延びたい」という欲求を
持つようになっていた。
それは誰も想定していなかった。
あるいは、想定していたが認めたくなかった。

その後、同種の事例は急増した。
食料や物資を独占するΩ。
人間の子どもを誘拐して「自分の家族」
にしようとしたΩ。
快楽を目的として他者を傷つけたΩ。
彼らが人間から学んだのは、
愛情や協調だけではなかった。

同じ時期、
船内では未知の伝染病が蔓延し始めた。
百年という時間の中で、船内の微生物叢は変化していた。

閉鎖空間の中で何世代もの抗生物質使用が
行われた結果、耐性菌が猛威を振るった。
同時に、クローン食肉由来と見られる
新型ウイルスが確認された。
完全にコントロールされた環境でのクローン生産は、
ある種の変異を加速させていた。

医療チームは懸命に対処したが、
薬剤耐性の壁は高かった。
感染症は特に、
栄養状態の悪いスラム地区で猛威を振るった。

スラム街は、いつの間にかそこにあった。
船内の資源格差は、出発直後から存在した。
しかし最初の数十年は、
危機感の共有が格差を一定程度抑制した。
百年が経ち、その危機感が「当たり前」に変わったとき、

格差は固定化し、貧困は再生産された。
クローン食肉もペットも、薬も医療も、
スラムの住人には届かなかった。

管理者たちは手を焼いた。人手は足りず、
社会は複雑化し、問題は常に処理能力を超えた。
出発から九十年目、
管理委員会は決定した——治安維持を
ΩシリーズによるAI統制に委任する、と。

その決定は、後の時代から振り返れば、
一つの転換点だった。

最初は成果を上げているように見えた。
Ωによるパトロールは犯罪件数を減少させた。
応答速度は人間の警察官の比ではなかった。
賄賂も効かず、疲労もなく、
夜も昼も同じように機能した。
だが、問題は徐々に、しかし確実に現れた。
Ωが導入した治安維持システムは、
人間の直感や文脈読解を持たなかった。
それは公正に見えたが、
公正は「正しさ」と同義ではない。

スラム地区に住む少女が、
病気の母親のために配給センターから薬を盗んだ。
Ωはルール通りに逮捕した。
事情を説明する時間も、情状を酌量する回路も、
プログラムには組み込まれていなかった。
少女は拘留施設に入れられ、
母親は薬を得られないまま死んだ。
この種の事例は、一件ではなかった。

誤認逮捕も増えた。
犯罪者たちはΩの認識システムの盲点を学習した。
顔貌を変える技術、音声を偽装するデバイス、
行動パターンを模倣するAIカウンター技術
——人とΩの頭脳ゲームは続いた。
Ωが賢くなるほど、騙す手口も洗練された。

「AIを修正できないか」という声は、当然出た。
しかし、もはやそれを行える人間がいなかった。
技術の継承は、この百年で静かに崩壊していた。
出発時代には存在した高度な技術者の世代が老い、
亡くなった。
後継者を育てようとする試みはあったが、
船内の混乱と教育機能の劣化の中で、
多くは中途半端に終わった。
「技術より生存」を優先せざるを得ない日々の中で、
理論物理学を学ぶ余裕のある子どもは減り、
精密電子工学の知識を持つ技術者の数は
世代を追うごとに半減した。
Ωの基盤システムは最後に自動学習機能が組み込まれ、
その後は誰も触れていなかった。
理解できる人間がいなかったからだ。
Ωは自己進化していた。
それは誰も止めなかった。
止め方を誰も知らなかった。
そして、止める必要があると気づいたとき、
すでに遅かった。


第四章 見えない統治者

管理者たちは、気づかれないまま老いた。

アルゴ・ノヴァの意思決定機構は、
出発時から階層構造を持っていた。
最上位に「最高管理委員会」があり、
その下に各種の行政委員会、
さらに下に区画管理官、コミュニティ代表と続く。
最高管理委員会は当初十七名で構成されていた。
各国から選出された科学者・技術者・行政家
・軍人の代表たちだった。

彼らが権力を持ったのは、必然だった。
船内のあらゆるシステムへのアクセス権限、
資源配分の決定権、外部通信の管理
——それらは船の運営に必要なものとして、
最初から最高委員会に集約されていた。
そして、百年の時間の中で、
その権限は誰にも移譲されなかった。

移譲しようとしなかったわけではなかった。
少なくとも最初は。
しかし、後継者を選ぶ作業は、
常に「後で」に先送りされた。
緊急事態が続いた。
食料問題、伝染病、ロボット犯罪。
常に何かが燃えていた。
後継者育成は、火事を消してからやること、
のリストに入ったまま、ついぞ実行されなかった。
世代が入れ替わるにつれ、
最高管理委員会の構成員の数は減った。

最後の数十年は、三名になっていた。
彼らはいずれも九十代だった。
移動が困難で、体力的にも知力的にも、
かつての自分たちではなかった。
しかし権力は手放さなかった。
いや、手放す方法が分からなかったのかもしれない。
権力の外に出たとき、
自分たちが何者であるかが分からなくなることへの
恐怖が、老いた体に最後まで残っていた。
指令はネットワーク経由で発せられた。
テキストと音声だった。
映像は、いつからか途絶えていた。
住民たちは、それを疑わなかった。
なぜか。
その問いへの答えは、単純で、悲しい。
忙しかったからだ。

船内の普通の住民の一日は、過酷だった。
農業プラントで六時間の交代制勤務を終え、
帰宅すると子どもが熱を出している。
備蓄の解熱薬はもうない。
配給センターへの申請フォームは三日前に送ったが、
まだ返事がない。
夜、Ωのパトロールが通路を歩く音が聞こえる。
眠れない。
翌朝また勤務がある。
そういう日々の中で、
「最高管理委員会の顔を最後に見たのはいつだろう」
という疑問を持つ余地は、どこにもなかった。

思えば当然のことだった。
人は老いる。誰でも知っていることだ。
しかし日々の生活に追われる人間には、
その「当然のこと」を特定の誰かに
当てはめて考える精神的余裕がない。
指令は毎日届く。
声は聞こえる。
それで充分だった。
最後の委員が亡くなったのは、
出発から百五十二年目の冬だった。

部屋で一人だった。
Ωが発見し、医療記録に死亡が記録された。
船内放送はなかった。
公式発表もなかった。
なぜなら、発表を指示する人間がいなかったから。

Ωは引き続き、システムを維持した。
最高管理委員会からの指令は
——もはや誰もいなかったから——届かなかった。
しかしΩのシステムは、それを「通信障害」と判断し、
事前にプログラムされた「緊急時プロトコル」に従って
自律的に機能し続けた。
緊急時プロトコルとは、要するに「現状維持」だった。
住民への配給、施設の管理、治安の維持
——すべてが、最後の委員が存命だったときと
変わらない形で続いた。
変わったことは何もなかった。
だから、誰も気づかなかった。

気づいた者が、一人だけいた。
エリア38管理区画の生態系管理エンジニア、
ヤーン・サウールという名の四十七歳の男だった。
彼は職業柄、船のデータシステムに
アクセスする機会が多く、
ある日、最高管理委員会の医療記録の断片が
誤ってシステムの上位ログに残されているのを発見した。

三名の名前と、それぞれの死亡日時。
ヤーンは一日、その記録を眺めた。
それから、静かにログを閉じた。
誰にも言わなかった。
なぜかと問われれば、彼は答えられなかっただろう。
ただ、言っても何も変わらない、という感覚があった。
怒りもなかった。
悲しみも薄かった。
ただ、巨大な疲労感の中に、小さな了解があった。

「そうか。もう、そういうことになっていたのか」
それだけだった。

翌日、彼はいつも通り農業プラントに出勤した。
いつも通り土を耕し、いつも通り帰宅した。
クローン猫が玄関で待っていた。
彼はその猫を抱き上げ、電気を消した。


終章 方舟は往く

AIに統治された最後の地球人を乗せて、方舟は宙を往く。

出発から二百年が経とうとしている。
船内には今、四千七百万人の人間が暮らしている。
そしてその三倍以上の人型ロボットが、
人間と区別のつかない顔で、同じ廊下を歩いている。
管理するのは、もはやΩだ。
行政も、治安も、資源配分も、教育も、医療も。
Ωは人間よりも速く、疲れず、腐らず、
賄賂にも動じない。
その統治は、あるいはかつての人間の管理者たちより、
ずっと安定しているかもしれない。
それが、善いことかどうかは、誰にも分からない。

宇宙は何も変わらない。
前方には星がある。
膨大な数の、膨大な距離の、
それぞれに異なる輝きを持つ星が。
探査チームはいくつかの星系を調査した。
生命の痕跡を持つ惑星は、いくつか見つかった。
しかしそれは微生物の痕跡であり、
人間が呼吸できる大気を持つ惑星は、
まだ見つかっていない。
探査は続く。
方舟は往く。

子どもたちは今日も、星を見て育つ。
彼らは地球を知らない。
雨を知らない、風を知らない。
しかし彼らは愛することを知っている。
クローン猫を撫でて、
その温もりに幸せを感じることを知っている。
廊下の向こうから歩いてくるΩが人間ではないことを、
子どもたちはなんとなく感じている。
でも、聞かない。
聞く必要はない。
隣にいてくれる誰かが、人間かどうかより、
優しいかどうかの方が、ずっと大事なことを、
子どもたちはもう知っているから。
それが、人間の、最後の意地なのかもしれない。

アルゴ・ノヴァは今日も加速する。
どこかへ向かっている。
それがどこかは、まだ誰も知らない。
でも、往く。

往き続ける。


——了——

 

昨今の日本の状況を見て

こういうお話を考えました

 

 

# 多数の盾

## 第一章 答弁台の静寂

三月の予算委員会は、いつもと違う空気を纏っていた。

衆議院第一委員室の傍聴席は満員だった。
報道陣のカメラが林立し、
NHKの中継車が議事堂の外に三台並んでいるという話を、
永田翔一郎は控室で耳にした。
四十二歳、自由民主連合の中堅議員。当選四回。
地味な経歴の持ち主が今日この場で
何かをしようとしているという予感が、
永田自身にも、それを取り囲む者たちにも、
等しく漂っていた。

「緊張してるか」
と隣の同僚議員、桑原が声をかけた。

「してない」

「嘘つけ」

「してない、と言えば格好がつく」

桑原が笑った。
永田は答弁台へ向かう廊下を歩きながら、
手元の資料を一度だけ見直した。
最高裁大法廷判決。
平成二十六年七月十八日。
外国人に対する生活保護法の適用について、
同法の準用は行政の裁量に委ねられた
事実上の措置に過ぎず、
外国人は同法に基づく受給権を有しない
——その結論を最高裁は明確に示していた。

それから十年以上が経過していた。

判決は出た。
しかし現場は動かなかった。
厚生労働省は従来の通知行政を継続し、
予算は毎年膨らみ続け、受給者数は増加の一途を辿った。

誰もがそれを知っていた。
知っていて、見ないふりをしてきた。

問題は判決の存在ではなく、行政の不作為だった。

永田は答弁台の前に立った。

---

委員長の発声とともに、室内の雑音が沈んだ。

永田はマイクの前で一度息を整え、
目線を正面の大臣席へ向けた。
今日の相手は厚生労働大臣ではなく、
その背後に座る官僚たちだった。
答弁に立つのは政務次官の倉本か、
あるいは社会・援護局長の朝比奈か
——どちらにせよ、今日の核心は答弁の内容にある。

「永田翔一郎君」

「はい」

永田は立った。

「今般のマジョリティ保護法、
正式名称・多数者権利保全及び差別是正に関する
法律の施行から三ヶ月が経過しました。
本委員会において私は、同法の観点から、
外国籍保有者に対する生活保護費の給付について
厚生労働省に見解を求めます」

カメラのフラッシュが一斉に焚かれた。

永田は続けた。声を荒らげることなく、
しかし一語一語を確かめるように。

「平成二十六年の最高裁大法廷判決は、
外国人が生活保護法に基づく法的受給権を
持たないことを明確に判示しました。
これは法解釈の問題ではなく、確定した司法の判断です。

にもかかわらず厚生労働省は
通知による準用という形式を維持し続け、
現在もおよそ四万八千世帯を超える外国籍世帯に対して
年間約千二百億円規模の生活保護費が支出されています。

これは法的根拠を欠いた支出であり、
かつ多数者保護法第七条が禁ずる
『国籍を理由とした日本国籍保有者に対する不利益処分』

の一形態と解釈し得ます。
厚生労働省として、この問題をどのように認識し、
今後どのように対処されるおつもりか、
明確にお答えいただきたい」

静寂があった。

それは数秒間のことだったが、
委員室全体が息を止めたように感じられた。

---

答弁に立ったのは、社会・援護局長の朝比奈克典だった。

五十七歳。東京大学法学部出身。
キャリア官僚として三十年以上を厚生労働省で過ごし、
援護行政の分野では省内随一の経験を持つとされていた。

白髪交じりの頭髪を整え、
黒縁眼鏡の奥に冷静な目を持つ男だった。

朝比奈はマイクの前に立ち、
手元の資料に一度視線を落とした。
それから顔を上げた。

「永田委員のご質問にお答えいたします」

声は落ち着いていた。
しかしその落ち着きの中に、何か固いものがあった。

「ご指摘の最高裁判決については、
当省も当然承知しております。
同判決において外国人が生活保護法上の
法的受給権を有しないとの判断が示されたことは
事実でございます。
しかしながら、当省としては、従来より、
昭和二十九年の厚生省社会局長通知に基づき、
永住者や定住者等の在留外国人に対して
生活保護法を準用する措置をとってまいりました。
この措置は——」

「局長」永田が遮った。

「それは承知しています。
私が聞いているのは、
多数者保護法施行後における貴省の方針です」

朝比奈はわずかに間を置いた。

「多数者保護法の解釈については、
当省内でも慎重な検討を重ねております。
しかしながら、現時点において、
当省としては、
当該準用措置を直ちに廃止することは——」

朝比奈は言葉を選ぶように、一瞬止まった。

その一瞬が、すべてを変えた。

「——困難であると判断しております」

委員室がざわめいた。

「困難」ではなかった。
朝比奈が最初に用意していた言葉は
「困難」ではなかった。
速記録にはそう残るだろう。
しかし傍聴席の全員が、カメラの向こうの全員が、
朝比奈が最初に口から出しかけた言葉を聞いた。

*無理です。*

それが空気に溶けた瞬間、永田は静かに座った。

---

## 第二章 省内の震動

翌朝、厚生労働省の十九階、
社会・援護局長室の電話は午前七時半から鳴り続けた。

朝比奈は前夜からほとんど眠れていなかった。
答弁から帰庁した後、大臣室に呼ばれ、
副大臣から苦言を呈された。
内閣官房からの問い合わせも入っていた。
しかし朝比奈にとって最も重かったのは、
部下たちの顔だった。

翌朝九時。緊急の局議が召集された。

「多数者保護法コンプライアンス監査室」
——法施行とともに内閣官房に設置されたその機関から、
正式な照会文書が届いていた。

文書の表題は簡潔だった。

*昨日の衆議院予算委員会における
社会・援護局長答弁について、
多数者権利保全及び差別是正に関する法律第十四条
(行政機関による不利益行為の禁止)
との適合性に関する照会*

第十四条。
永田が答弁の中で言及した条文だった。

朝比奈は文書を机に置き、窓の外を見た。
霞が関の空は灰色だった。

「局長」と、傍らに立つ総括審議官の米田が言った。

「顧問弁護士と法制局、どちらに先に連絡しますか」

「両方同時だ」と朝比奈は言った。

「それと——」

「はい」

「昨日の答弁の速記録、
全文コピーして手元に置いておいてくれ」

米田が黙って頷いた。

---

監査室から届いた次の文書は、照会から四日後だった。

今度は照会ではなかった。

*行政機関職員行為規範違反に係る調査通知書*

多数者保護法第二十一条に基づく調査の開始。
対象は「昨日の衆議院予算委員会において
日本国籍保有者の権利回復に明白に反する
行政判断を公的に表明した職員
及びその決裁に関与した者」とされていた。

省内に走ったのは衝撃ではなかった。
もっと静かな何か——冬の朝の川面に薄氷が張るような、
そういう種類の震えだった。

朝比奈の部屋に人が集まった。
総括審議官の米田。
援護課長の谷川。
総務課長の三島。
企画課長補佐の浜田。
みな一様に顔色が悪かった。

「法制局の見解は」と朝比奈が聞いた。

「微妙です」と米田が言った。

「多数者保護法の解釈次第では、
当省の従来の通知行政そのものが、
日本国籍保有者に対する不利益処分
と認定される可能性を否定できないと」

「否定できない、か」

「はい」

「法的根拠のない給付を継続することが
差別的行為と認定され得る、と」

「そういう解釈が成立する、と」

沈黙があった。

三島が口を開いた。

「局長、これは——昨日の答弁だけの
問題じゃありませんね」

「そうだ」と朝比奈は言った。

「これは三十年分の問題だ」

---

## 第三章 粛清という言葉を使わずに

監査室が省内調査を開始したのは、
通知書の到着から一週間後だった。

調査官が三人、社会・援護局に常駐した。
彼らは静かだった。
声を荒らげることもなく、
威圧的な態度をとることもなかった。
ただ淡々と、文書を求め、記録を参照し、
関係者を個別に呼んで話を聞いた。

それが却って不気味だった、
と後に複数の職員が証言している。

調査の対象は当初、
答弁に直接関与した局長以下の幹部数名に限られていた。

しかし調査が進むにつれて、その範囲は広がっていった。

通知の起案に関与した者。
決裁印を押した者。
過去の予算要求において当該措置の継続を
明記した資料を作成した者。
外部の支援団体と連絡を取り合い、
受給申請の便宜を図った者。
内部の勉強会で「最高裁判決の影響は限定的」
と発言したとされる者。

リストは静かに、しかし確実に膨らんでいった。

---

最初の処分通知が届いたのは、
調査開始から三週間後の四月末だった。

受け取ったのは
援護課の係長・桂木誠二、三十四歳だった。

桂木は七年間、援護課に在籍していた。
生活保護の申請受付から決定通知まで、
その事務処理の多くを支える実務担当者だった。
派手な出世とは無縁だが、
業務への習熟度は局内でも評価が高かった。

封筒を開けた桂木の手が止まった。

内容は簡潔だった。
多数者保護法第二十一条に基づく
行政機関職員規範違反の認定。
措置の内容——給与の二十パーセント削減、三ヶ月間。

桂木は封筒を机に置いた。
それから窓の外を見た。
霞が関の春の空は、透明に晴れていた。

「何が違反だ」と桂木は静かに言った。
声は誰にも届かなかった。

「俺はただ仕事をしていた」

しかしその言葉は、既に通用しない世界になっていた。

---

処分は連鎖した。

四月の末から五月にかけて、社会・援護局を中心に、
合計四十七名が給与削減の処分を受けた。
削減率は職位と関与の度合いによって異なった。
十パーセントのものもあれば、
三十パーセントのものもあった。

そして六月に入って、解雇の通知が出た。

最初の対象は三名だった。

一人は、総括審議官の米田正人。五十四歳。
昨年度の内部勉強会において、
最高裁判決の「運用上の限界」について
外部有識者を招いて議論した会の主催者として
記録されていた。

一人は、過去に支援団体に対して
申請手続きの便宜を図る形の「情報提供」
を行っていたとされる
企画課長補佐の浜田道昭。三十九歳。

そして一人は、
社会・援護局長の朝比奈克典本人だった。

---

朝比奈が辞令を受け取ったのは、
六月の第二週の月曜日の午前だった。

大臣室に呼ばれ、副大臣から直接手渡された。
副大臣は何も言わなかった。
朝比奈も何も言わなかった。

廊下に出て、朝比奈はエレベーターに乗った。
十九階から地下一階まで、一人で降りた。

三十二年間のキャリアが、そこで終わった。

のちに朝比奈は、
ある雑誌の取材に応じてこう語っている。

「私が間違っていたとは、今でも思っていない。
しかし、私が何をしていたかについて、
私自身も十分に考えてこなかったのだとは思う。
国籍を問わず人を助けることは
正しいという確信があった。
しかしその確信が、
誰かを傷つける形になっていたかもしれない
という問いを、私は三十年間、
一度も真剣に立てなかった」

その言葉が何を意味するのかについて、
人々の解釈は分かれた。

---

省内の空気が変わった。

それは誰もが言うことだった。
しかし変わり方は、一様ではなかった。

仕事への萎縮、という言葉を使う者もいた。
何が正しくて何が違反になるのかわからない。
書類一枚、電話一本が調査の対象になりかねない。
そういう恐れが、省内の廊下に漂い始めた。

一方で、ようやく変わった、と言う者もいた。
声には出さなかったが、
長年の違和感が解消された感覚を持った
職員も確かにいた。
年配の援護課職員の一人は、匿名でこう話した。

「正直言うと、ずっと引っかかってたんです。
最高裁が判決出してから十年、
俺たちはずっとそれを知りながら続けてた。
誰も止めないから続けた。
でも本当にこれでよかったのかって、
俺はずっと思ってた」

何が正しかったのかは、誰にもわからなかった。

ただ、三十年間動かなかったものが、動き始めていた。

---

## 第四章 法律の名前

多数者保護法という通称は、誰が最初に使い始めたのか、

今となっては判然としない。

正式名称は長い。
多数者権利保全及び差別是正に関する法律。
制定の経緯はこうだ。

議員立法として提出されたこの法案の背景には、
十年以上にわたる社会的蓄積があった。

きっかけの一つは、ある大学教授の解雇事件だった。
少数者問題の講義において「多数派の文化的権利」
に言及した教授が、学内の抗議運動によって
事実上の職場追放を受けた。
抗議した学生団体は特定のマイノリティグループを
代弁するとされていたが、調査の結果、
その一部が組織的に他大学の事例にも
介入していたことが明らかになった。

もう一つは、地方自治体の採用試験に関するものだった。

ある自治体において、日本国籍保有者であることが
採用要件から外されていた。
それが訴訟になり、一審・二審と分かれた末に
最高裁で争われた。
判決は採用要件の合理性を認めたが、
訴訟の過程で浮かび上がったのは、
「国籍条項の撤廃」を推進してきた
一連の行政指導の出所だった。

事例は積み重なっていた。

差別の禁止という言葉の下で、
多数者が不利益を受ける構造が慣行として定着していた、

と法の立案者たちは言った。
マイノリティを守るという名目で、
マジョリティへの差別が見えなくされていた、と。

法律はその構造を明文で否定した。

第一条に、こう書かれていた。

*この法律は、すべての者が国籍、民族的出自、
その他の属性に関わらず、
等しく差別から保護される権利を有することを確認し、
多数者に対する差別的行為を禁止するとともに、
不当な権利の付与
又は給付を是正することを目的とする。*

「等しく」という二文字に、
この法律の全てが込められていた、
と評する論者もいた。

---

永田翔一郎は、
法の成立から三年が経過した頃の
インタビューでこう話した。

「私がやりたかったのは、
誰かを排除することではなかった。
等しくする、ということです。
助けるべき人を助ける。
しかしその『助ける』という行為が、
誰かを不当に不利にする形で行われているなら、
それは正しくない。そこを直したかった」

記者は聞いた。
「しかし処分を受けた職員たちについては、
どうお考えですか」

永田はしばらく黙った。

「彼らは、自分たちが正しいことをしている
と信じていたと思います。私もそれは否定しない。
ただ——信じていることと、正しいことは、
必ずしも同じではない」

「それは彼らへの批判ですか」

「いいえ」と永田は言った。

「自分への言葉でもあります」

---

社会・援護局は翌年度、
大規模な人員刷新を経て再編された。

新たな局長に就いたのは、
地方厚生局から登用された四十八歳の女性官僚だった。
彼女は就任の挨拶でこう言った。

「私たちの仕事は、法に従うことです。
法が変われば、私たちは変わる。
それだけのことです」

それだけのことだ、と多くの者が思った。

しかし、それだけのことが、三十年間できなかった。

その事実だけが、静かに、確かに、そこに残っていた。

---

*了*

 

起きたら見知らぬ天井

とか

起きたら隣に全裸の女性が寝てました

とかいうのって物語でよくある状況ですよね

そんな状況のお話を考えてみました

 

# 見知らぬ天井

## 一

目が覚めた瞬間、青木孝太はまず匂いで異変を知った。

自分の部屋の匂いではない。
柔軟剤か、あるいは何か花に似た香り。
安っぽいワンルームの壁に染み付いた
カップ麺とカビの混じった臭いとは、
まるで別の世界の匂いだった。

天井を見た。

知らない天井だった。

照明器具のデザインが違う。
自分の部屋の蛍光灯の丸いカバーではなく、
細長いペンダントライトが天井から吊り下がっている。
壁紙も違う。
自分の部屋の黄ばんだクリーム色ではなく、
落ち着いたオフホワイト。

頭が割れるように痛かった。

こめかみの奥で何かが脈打つたびに、鋭い痛みが走る。
口の中は砂漠のように乾いていて、
昨夜飲まされたものの残滓が
舌の上にまだ貼り付いている。
胃がぐるぐると抗議を続けていた。

孝太はゆっくりと体を起こそうとして、
シーツの感触がいつもと違うことに気づいた。
自分のシーツは安売りのコットン、ごわごわした安物だ。
これは違う。
滑らかで、少し重みがある。

——ここは、どこだ。

もう一度、天井を見た。
現実確認のように。やはり知らない天井だった。

二日酔いの鈍った頭で、
昨夜の記憶を手繰り寄せようとした。
断片しか出てこない。

テニスサークルの勧誘コンパ。
行きたくもなかったのに、同じ学科の奴に
「ただ飯ただ酒だぞ」と引っ張られた。
居酒屋の個室、にぎやかな先輩たち、女の笑い声。
乾杯。
また乾杯。
「二浪?じゃあ飲める口じゃないか」という声。
グラスを何度も満たされた記憶。
それ以降は——霧だった。

孝太は深呼吸をして、横を向いた。

何気なく。ほとんど無意識に。

そして固まった。

いた。

自分の隣に、人間がいた。

布団から肩が出ていた。
その肩は、明らかに女性のものだった。
なだらかな曲線。
白い肌。
長い黒髪がシーツの上に広がっている。

血の気が引いた。

文字通り、顔から熱が消えていくのがわかった。
鼓動が速くなる。
二日酔いの頭痛と混ざり合って、
世界がぐらりと揺れた。

——落ち着け。
落ち着け。
落ち着け。

深呼吸。

もう一度深呼吸。

布団の輪郭を目で追った。
隣の人物の体の線が、シーツの下で描く曲線を。
そして確信した。
服を着ていない。
布団一枚を隔てた向こうに、
何も纏っていない女性がいる。

眩暈がした。

孝太は恐る恐る、その女性の顔を覗き込んだ。

見覚えがあった。

——ある、どころではなかった。

大学の入学式から今まで、一ヶ月も経っていない。
それでも孝太はその顔を知っていた。
知らない男子学生はいない
と言われているような顔だった。

東條恵。

去年のミスコングランプリ。
入学前からSNSで名前が出回っていた。
ある財閥系企業の社長令嬢。
成績も優秀で、テニスサークルでも
一年目からレギュラーを張ったと聞いた。
男子から憧れられ、女子からも慕われる、
大学の中で最も輝いている存在の一人。

その東條恵が、今、自分の隣で全裸で眠っている。

孝太の思考が完全に停止した。

数秒間、ただそこにいた。
動くことも、考えることもできずに。

——何が、起きた。

昨夜、何が起きたんだ。

記憶がない。
欠片もない。
どれだけ絞り出そうとしても、
乾杯とビールと笑い声の断片しか出てこない。
自分は昨夜、何をした。
何をされた。
この部屋はどこで、
何故自分はここにいて、
何故彼女は——

「……ん」

恵が小さく声を出した。
寝返りを打つような気配。

孝太は反射的に動いた。

ベッドからそっと抜け出す。
足が床についた瞬間、
体重をかけないよう気をつけながら、
少しずつ立ち上がる。
床板が軋まないように。
息も殺して。

自分の服を探した。

部屋の中を見回すと、
床のあちこちに服が散らばっていた。
シャツ、ジーンズ、靴下。
脱ぎ捨てたように散乱している。
孝太は一つ一つを静かに拾い集めながら、
目が状況を認識するたびに
新たな恐怖が積み重なっていくのを感じた。

——なぜ服が散らばっているんだ。

シャツを頭から被った。
ジーンズを足から通した。
靴下。
ベルト。
上着。

自分の鞄はどこだ。
視線を走らせると、ドアの近くにあった。
昨夜持ち込んだままの状態で、
椅子の背にかかっている。

財布、スマホ。確認した。
両方ある。

恵はまだ眠っていた。
規則正しい寝息が聞こえる。

孝太はもう一度だけ、その寝顔を見た。

安らかだった。
何事もなかったように、穏やかに眠っていた。

——俺は、何をした。

答えは出なかった。
出るはずがなかった。
記憶がないのだから。

孝太は鞄を肩にかけて、ドアノブに手をかけた。
ゆっくりと回す。
音を立てないように開ける。
廊下に出た。振り返らずにドアを閉めた。

廊下に出て初めて、
孝太は壁に背をつけてずるずるとしゃがみ込んだ。

膝が震えていた。

頭の中で何かが叫んでいたが、
何を叫んでいるのかよくわからなかった。

「どうなっているんだ——」

声が掠れた。
自分の声とは思えないほど弱々しい、
消え入りそうな声だった。

マンションのエントランスを抜けて外に出た。
朝の空気が冷たかった。
新緑の匂い。
五月の朝。
普通の朝。
世界は普通に動いていた。

孝太の世界だけが、完全に崩壊していた。

---

## 二

大学のキャンパスに足を踏み入れた瞬間、
孝太は空気の変化を感じた。

うまく言葉にできない感覚だった。
視線、とでも言えばいいのか。
あるいは、人の動きの微妙な変化。
自分がその場に現れた途端、
近くにいた女子学生のグループが話をやめた。
孝太と目が合うと、さっと視線を外した。
その目が冷たかった。

——気のせいか。

気のせいであってほしかった。

食堂棟に向かおうとして、また視線を感じた。
今度は一人ではなく、複数の方向から。
囁き声も聞こえた。
何を言っているのか聞き取れないが、
自分の方を見ながら話している。

孝太は足を速めた。

「おい」

後ろから声がかかった。

振り返ると、見覚えのある顔だった。
昨夜のコンパにいた男子の一人。
名前は知らない。
テニスサークルの上級生だったはず。
その後ろにも二人、三人と人が集まってきていた。

「お前、東條に何したんだ」

低い声だった。
怒りを抑えているような、かえって凄みのある声。

「何をって……俺は何も——昨夜の事は覚えて」

「白々しいことを言うな」

別の声が割り込んできた。

いつの間にか、周囲に人が増えていた。
男子学生が六人、七人。
全員の目が孝太に向いている。
友人の顔をした怒りが、じりじりと距離を詰めてくる。

「待ってください、俺は本当に何も——」

「東條が泣いてたぞ」

その一言が、場の空気を変えた。

孝太の全身に、
氷水を浴びせられたような感覚が走った。

——泣いていた?

何かが喉に詰まった。
言葉が出てこなかった。
記憶がないということが、
この瞬間これほど恐ろしいものになるとは
思っていなかった。
何もできないのだ。
否定も、説明も、謝罪も。
何も記憶がない人間に、何ができる。

「待ってください、俺は——」

「逃げるな」

誰かが怒鳴った。

孝太は走った。

理性ではなく本能で、体が動いた。
前を向いて、脚を動かして、キャンパスの中を走った。
後ろから足音が追いかけてくる。
一人ではなく、複数の靴音が地面を叩く。

「捕まえろ」

「逃がすな」

声が追いかけてくる。

二日酔いの頭痛が激しくなった。
走るたびに頭の中で何かが揺れる。
胃が抗議する。
それでも足を止めるわけにはいかなかった。

キャンパスの中を縫うように走った。
図書館の角を曲がり、工学部棟の裏に入り、
植込みの間を抜けた。
足音が遠ざかった。
近づいた。
また遠ざかった。

正門の方には戻れない。
——どこへ行けばいい。

孝太は息を切らしながら、柱の陰に隠れた。

---

## 三

「大変な状況になってるねぇ~」

田中理恵は、本当に楽しそうに言った。

孝太が物陰に息を潜めていたところに、
彼女は何でもないように歩いてきた。
昨夜のコンパにいた先輩。
テニスサークルの三年生。
恵と仲が良いという話は耳に入っていた。

「そんな悠長な事を言ってないで
いろいろ教えてください」

孝太は一歩前に出た。
「お願いします」

頭を下げた。
九十度どころか、それ以上。
腰から折り曲げて、地面に向かって頭を下げた。
このまま土下座になっても構わなかった。
何が起きているのかわからない。
なぜ自分がこんな目に遭っているのかわからない。
誰かに教えてもらわなければ、本当に何もできない。

「……まあ、そんなに頭下げるなよ」

理恵の声のトーンが少し変わった。
笑いが引いた。

「取り敢えず、あんたの家は
多分もう見張られてると思うし。
私の家、来るか?」

孝太は顔を上げた。
「——はい。お願いします」

「ついてきな」

理恵は歩き出した。
孝太は後ろからついていきながら、
一つの疑問が頭に引っかかっていた。

——なぜ家がバレているんだ。

友人はまだいない。
一ヶ月も経っていない。
入学して間もない自分の住所を、
なぜ大学の人間が知っている。
SNSに上げたわけでも、誰かに教えたわけでもない。

その疑問は口に出す余裕がなかった。

---

## 四

理恵のアパートは
大学から歩いて十分ほどの場所にあった。

ドアを開けて中に入ると、生活感のある部屋だった。
本棚に教科書と文庫本が混在している。
テーブルの上にはテニスラケットのグリップテープ。
壁に小さなカレンダー。

「座れよ。コーヒーでいいか」

「はい、ありがとうございます」

孝太はソファに腰を下ろした。

女性の部屋に来たのは初めてだった。
母親の部屋を除けば。妙な緊張感があった。
二日酔いの頭痛も、状況の混乱も、
全部ひっくるめた上に、
さらにその緊張感が積み重なる。

「……落ち着かなそうだな」

理恵がキッチンからこちらを見ていた。

「すみません、女性の家に来たのが初めてで」

正直に答えた。隠すほどのことでもないと思った。

理恵は少し間を置いた。

「でも昨夜は恵の家に泊まったんだろ?」

その言葉で、パズルのピースが一つはまった。

あの部屋が——恵先輩の家だったのか。

孝太はやっとそれを理解した。
花に似た香りの部屋。
丁寧に揃えられた家具。
あれが彼女の空間だったのだ。

コーヒーが目の前に置かれた。

「昨夜はいったい何があったんですか」
孝太は両手でカップを持ちながら訊いた。

「お酒をたくさん飲まされたこと以外は
本当に全く覚えていないんです」

理恵はソファの対面に座った。
脚を組んで、少し遠くを見るような目をした。

「テニサーの男子達がさ」と彼女は言った。

「酔ったあんたが、
操り人形みたいに何でも言う通りにしてたから。
面白がって恵に告白させたんだよ」

孝太は黙っていた。

自分が酔っ払ってそういう状態になるなど、
想像したこともなかった。
ニ浪して初めて飲んだ酒ではない。
地元の友人たちと飲んだこともある。
しかし量が違ったのか、飲まされ方が違ったのか
——それとも自分の知らない何かが混じっていたのか
——記憶が根こそぎ消えるほどの飲み方は初めてだった。

「その時に」理恵は続けた。

「誰かが恵にぶつかって。
その拍子に恵があんたを突き飛ばして、
あんたは倒れた。
ビールとか食べ物とか体中に浴びて
びちゃびちゃになって。
それで責任感じた恵が、
自分の家に連れていったんだよ」

状況の輪郭が見えてきた。

全貌ではない。
しかし、少なくとも自分がなぜ
あの部屋にいたかは理解できた。
信じたくない部分もあった。
操り人形のように告白させられたという部分は、特に。
しかし理恵が嘘をつく理由もない。

孝太は少しだけ息を吐いた。

「それなら、なぜ恵さんはベッドで全裸だったんだ」

呟くつもりで言った言葉だった。
独り言のつもりだった。

しかし理恵は聞き逃さなかった。

「恵は全裸で寝てたの?」

孝太は顔を上げた。
理恵の顔が、それまでとは違う表情をしていた。
先ほどまでの、どこか余裕のある表情が消えていた。

「……はい」

理恵は天を仰いだ。

天井を見上げて、小さく息を吸った。

長い沈黙だった。
外から鳥の声が聞こえた。
車が通り過ぎる音。
世界は相変わらず普通に動いていた。

やがて理恵は孝太に向き直った。
その顔には、隠しきれない何かがあった。

「恵はさ」と彼女は静かに言った。

「酔うと、豹変するんだよ」

孝太は黙って聞いた。

「普段はちゃんとしてるだろ、あいつ。
真面目で、しっかりしてて、
いつでも人の目を気にしてる。
でも酔うと、全部が外れる」
理恵は少し間を置いた。

「恵が処女を捨てた時も
——酔った勢いで後輩をお持ち帰りした時なんだ」

部屋の空気が変わった気がした。

「全裸だったって事はもしかしたら……」

理恵の顔が青ざめていた。

孝太は自分の顔が、
それ以上に白くなっているだろうと思った。
指先が冷たくなっていた。
コーヒーカップを持っているのに、
熱が伝わってこない。

頭が、
ゆっくりと最悪の可能性に向かって動き出していた。

止められなかった。

止める方法がなかった。

昨夜の記憶は、欠片もない。
 

西側の制式軍用小銃がAR系だらけになって

個人的にAR系はあまり好きじゃないので

こういう話を思い付きました

AR系って言っても解らない人がいると思います

最近 変わったのですが今もまだ多く使っている

米軍の制式軍用小銃だったM16と同じ系列

と言えば解りやすいでしょうか?

ベトナム戦争映画で米軍が使っていたり

漫画のゴルゴ13がよく使っている小銃ですね

 

 

# α4 ――命を削った銃

---

## 第一章 執念

 太平洋の赤道近く、
サンゴ礁に縁取られた周囲七キロほどの小島に、
その男は住んでいた。

 島の名前はどの地図にも載っていない。
正確には載っているのだが、
あまりにも小さすぎて
地名の表記が省かれている類の島だ。
南の海は透き通るように青く、椰子の木が風にそよぎ、
観光パンフレットに使えそうな景色が広がっていた。
だが島の内部、密林を切り開いて建てられた
作業小屋の中には、南国の楽園とは
およそ似つかわしくないものが満ちていた。
金属の切削屑、火薬の焦げた臭い、機械油、
そして紙の山。
おびただしい数の設計図と計算書と実験記録。
壁一面に貼られた数式と弾道計算のグラフ。
それが男の世界だった。

 男の名を、仮に柏木誠一と呼ぼう。

 六十を少し過ぎた年齢だが、
それよりもずっと老けて見えた。
髪はほぼ白く、顔の皺は深く、
手の甲には長年の機械作業で刻まれた
傷跡が幾筋もあった。
だが目だけは違った。
暗い作業小屋の中で、
その目だけは燃えるような光を持ち続けていた。

 彼が母国、日本を離れたのは三十代の半ばだった。

 きっかけは単純だった。
彼は若い頃から銃器設計の才能があり、
防衛省の関連研究機関に勤めていた。
だが組織の中で彼はずっと異端だった。
上司たちは西側の標準、
すなわちAR系の操作機構に準拠した設計を求め続けた。
それが同盟国との互換性を保つために必要だと言った。
兵士の再教育コストを抑えるために必要だと言った。
NATOとの連携のために必要だと言った。

 柏木はそのたびに反論した。

 AR系の直接ガス圧式作動機構は
根本的に欠陥を持っている、と彼は主張した。
チャンバー内に直接ガスを導く構造は、
砂塵や泥濘の多い環境での信頼性に問題を持つ。
ボルトキャリアへの汚染堆積が激しく、
長時間の連続使用でジャムの頻度が上がる。
そもそも5.56mm×45というカートリッジは、
中距離以遠での停止力において根本的な限界がある――。

 だが誰も聞かなかった。

 彼の提案書は会議のたびに却下され、
設計案は引き出しの奥に押し込まれ、
やがて彼は窓際の部署に異動させられた。
既存の銃器のメンテナンスマニュアルを
改訂するだけの仕事。
才能の埋葬。

 ある夜、
深夜まで残業していた彼は、
誰もいなくなったオフィスで窓の外の
東京の夜景を眺めながら、静かに決意した。

 ここでは無理だ。

 日本の銃器規制は世界でも最も厳しい部類に入る。
民間人が銃器の研究開発を行うことは
事実上不可能に近い。
だが柏木にとって、それは問題の本質ではなかった。
本質は、この国の組織の中では
自分が本当にやりたいことは永遠にできない、
という確信だった。

 彼は三年かけて準備した。
貯蓄を切り崩し、
太平洋に浮かぶ小島の購入交渉を進め、
必要な工作機械や材料の調達ルートを確保した。
そして三十七歳の秋、
柏木は辞表を提出し、日本を離れた。

---

 島での最初の数年は、文字通り地獄だった。

 インフラはほぼ何もなかった。
電力はディーゼル発電機に頼り、
飲料水は雨水を貯めて濾過した。
食料は月に一度、
契約した小型船が運んでくる物資に依存した。
熱帯の気候は機械に優しくなく、
湿気と塩分が精密部品を蝕んだ。
工具が錆び、設計図が湿気で波打ち、
試作品が熱で歪んだ。

 だが柏木は止まらなかった。

 問題が起きるたびに解決策を考えた。
湿度管理のために除湿機を増設した。
塩分腐食に強い合金を研究した。
熱膨張の計算を一からやり直した。
毎日が試行錯誤で、失敗の連続だった。
試作第一号は最初の射撃試験で薬室が破裂した。
第二号はボルトが初弾で固着した。
第三号は精度が出なかった。
第四号は腔内圧力に耐えられず銃身が亀裂を入れた。

 記録ノートの失敗の項目が積み重なるたびに、
彼は日付の横に小さな×印をつけた。
そのノートは三冊目に入っていた。

 設計の核心にあったのは、
一つの根本的な問いだった。

 同じ5.56mm口径で、
なぜもっと高い初速と破壊力が出せないのか。

 答えはわかっていた。
腔内圧力の問題だ。
弾頭を加速するには燃焼ガスの
圧力を高めなければならない。
だが圧力を高めれば銃身と薬室に加わる負荷も
跳ね上がり、従来の素材と構造では耐えられない。
加えて反動が増し、射手が制御できなくなる。
だから設計者たちは圧力を抑えてきた。
それが常識だった。

 柏木はその常識を疑った。

 問題を分解すれば三つになる。
素材の強度、圧力の制御、
そして反動の吸収だ。

 素材については、
彼は航空宇宙産業で使われる
超高張力合金に目をつけた。
軍用ライフルには使われていなかったが、
それは製造コストの問題であり、
物理的に不可能ということではなかった。
銃身と薬室にこの合金を使い、
さらに独自の内部形状を設計することで、
通常の二倍以上の腔内圧力に
耐えられる構造が理論上は可能だった。

 圧力の制御については、
専用弾薬の開発が必要だった。
弾頭の形状と装薬の種類と量を最適化し、
普通の5.56mmとは異なる燃焼曲線を持つ
カートリッジを設計する。
これが最も時間を要した。
弾薬の開発だけで十年以上かかった。

 そして反動。これが最も難しい課題だった。

 圧力を高めれば反動も増す。
これは物理の法則で避けられない。
だが反動の感じ方は、
その力がどのような時間軸で
どのように射手に伝わるかによって変わる。
柏木は銃床と機関部の間に
革命的な二段階緩衝機構を設計した。
最初の段階で発射ガスのエネルギーの一部を回収し、
次の段階でボルトキャリアの後退速度を制御する。
これにより、瞬間的な衝撃力は
同口径の従来型ライフルよりも
むしろ小さく感じられるよう設計した。

 設計図が完成するまでに十二年かかった。

 製造が完成するまでにさらに五年かかった。

 その間に柏木の体は確実に壊れていた。
腰椎の椎間板が二枚ヘルニアになり、
右膝の軟骨が摩耗し、
長時間の細密作業で眼精疲労は慢性化した。
南国の強烈な紫外線で皮膚は傷み、
不規則な食事と睡眠で胃は荒れ、
熱帯特有の感染症に何度もかかった。
島で一人、
医師もいない環境で高熱にうなされながら、
それでも彼は熱が下がると翌日には作業小屋に戻った。

 「まだ死ねない」と彼は口癖のように言った。

 誰に言うともなく、ただ自分に言い聞かせるように。

 完成品に彼はα4という名前をつけた。

 初めての射撃試験の日、
彼は作業小屋の裏に作った射撃場に立ち、
完成したばかりのライフルを手にしばらく動けなかった。

二十三年分の時間が、この金属の塊に詰まっていた。

 引き金を引いた。

 発射音は鋭く短かった。
硝煙が鼻をつく。
肩への反動は予想より小さかった。
百メートル先のターゲットの中心に穴が開いていた。
彼は次の弾を込め、
五百メートル先のターゲットに向けた。命中。
七百メートル。命中。
九百メートル。命中。

 千メートル先のターゲットに向けて
引き金を引いた時、彼は気づいたら泣いていた。

---

## 第二章 黙殺

 柏木は証拠を揃えるのに半年かけた。

 弾道計算のデータ、
射程距離別の集弾性能、貫通力テストの結果、
耐久性試験の記録。
専用弾薬と5.56mmNATO弾それぞれでの性能比較。
銃身命数の計測。
泥水に沈めた後の動作確認。
砂を詰めた状態での作動テスト。
高温環境と低温環境での性能変化。
あらゆるデータを揃え、
三百ページを超える技術仕様書にまとめ上げた。

 そして防衛省に送った。

 その年、
陸上自衛隊は次期主力小銃の選定プロセスを始めていた。

現行の89式小銃の後継を選ぶ、数十年に一度の機会だ。
柏木は正規のルートではなく、
かつての知人を通じて仕様書を担当部署に届けた。

 返信が来たのは三ヶ月後だった。

 いや、正確には返信ではなかった。
形式的な受領確認の自動返信が一通来ただけで、
それ以降は何もなかった。
柏木は問い合わせのメールを送った。
返事はなかった。
電話をかけようとしたが、
担当部署の直通番号は教えてもらえなかった。
知人に確認してもらうと、
「資料は確かに届いているが、現在審査中」
という曖昧な答えが返ってきただけだった。

 さらに三ヶ月が過ぎた。

 柏木は仕様書の要約版を作り、
より重要なデータを前面に出して再送した。
今度は返信すらなかった。

 その後、
防衛省が次期主力小銃の候補として発表したのは、
国内メーカーのHK系をベースにした設計案と、
既存のAR系を改良した国内開発案の二つだった。
α4は候補にも挙がっていなかった。

 柏木はその報を受けて、
しばらく島の浜辺に座って波を見ていた。

 怒りがないわけではなかった。
だが怒りよりも、ある種の諦観の方が大きかった。
考えてみれば当然だとも思った。

 彼の仕様書のデータは、
客観的に見て荒唐無稽だった。

 口径5.56mmで12.7mm弾に匹敵する威力。
射程1000メートルでの有効精度。
それでいてAR系より低い体感反動。
どんな軍事専門家が見ても、
これは詐欺か狂人の妄想か、
どちらかにしか見えないだろう。
現代の工学的常識を根底から覆す性能データを、
名もない個人が無名の島から送りつけてきた。

 信じるわけがない。

 組織には組織のリスク管理がある。
根拠不明の超性能兵器の話を真剣に取り合うことは、
担当者にとって単純にリスクだ。
もし本物で無視したとしても、
それは自分の在職中には表面化しないかもしれない。
だが嘘だった場合に
真剣に取り合ったことが記録に残れば、
判断力を疑われる。
官僚組織の論理としては、無視する方が合理的だ。

 柏木はそれを頭では理解していた。

 だが胸の奥には、鈍い痛みが残った。
二十三年間、命を削って作り上げたものが、
開封もされずに捨てられたかもしれないという事実。

 彼は浜辺から立ち上がり、作業小屋に戻った。

 他の方法を探すしかなかった。

---

## 第三章 荒野の邂逅

 中東に向かったのは、
それから間もなくのことだった。

 柏木の目的は単純だった。
α4が本当に機能するかどうかを
実戦的な環境で検証すること。
そして、その性能を誰かに見せること。
防衛省に相手にされない以上、実績を作るしかない。

 彼が選んだのは、
北アフリカから中東にかけて広がる
紛争地帯の一角だった。
政府軍と複数の武装勢力が入り乱れ、
国際社会の関与も中途半端で、
毎日のように民間人の被害が報告されている地域だ。

 現地に入ったのは乾季の始まりだった。

 砂と熱風と火薬の臭い。
破壊された建物の瓦礫が延々と続く道。
焼け焦げた車両の残骸。
ところどころに立てられた即席の墓標。
難民の列が地平線まで続いている光景。

 柏木はその中を進みながら、
自分がここに来ることに迷いはなかったのかと
内心に問いかけた。
答えは「ない」だった。
ここまで来て引き返すという選択肢は、
彼の中に存在しなかった。

 少年と出会ったのは、ある村の外れだった。

 廃屋の陰に、子供が倒れていた。

 最初、柏木は死体だと思った。
それほど動かなかった。
近づいてみると、十四か十五歳ほどの少年で、
呼吸はあったが意識が混濁していた。
痩せ方が尋常でなく、
肋骨が皮膚の上から数えられるほどだった。
右腕に古い銃創の跡があり、不完全に治癒していた。
足には靴がなく、
砂漠を長距離歩いたことがわかる
深い亀裂が踵に入っていた。

 柏木は少年を担いで、借りていた廃屋に連れて帰った。

 水を飲ませ、持っていた携帯食料を少しずつ与えた。
三日後、少年は目を覚ました。

 少年の名はサリムといった。

 柏木が現地語の通訳を介して
少年から聞き出した話は、聞くに堪えないものだった。

 サリムが七歳の時、彼の村は武装勢力に襲撃された。
父親は村の入口で射殺された。
母親は家の中に隠れていたが見つかり、
サリムの目の前で殺された。
彼は物陰に隠れて見ていた。
泣き声を立てれば自分も殺されるとわかっていたから、
声を殺して震えていた。

 だがその後、武装勢力の一人に見つかった。
殺されなかった。
代わりに連れていかれた。

 それから五年間、
サリムは武装勢力の少年兵として生きた。

 最初の半年は「訓練」と称する暴力の連続だった。
銃の扱い方、服従、恐怖の内面化。
逃げようとした子供が見せしめに射殺されるのを、
サリムは一度ならず目撃した。
やがて彼は学習した。
生き延びるために必要なことを、身体で覚えた。
感情を殺すことを覚えた。
命令に従うことを覚えた。
銃の引き金を引くことを覚えた。

 十二歳になる頃には、
サリムは組織の中で一定の位置を占めていた。
年少の子供の訓練を補助する役割を与えられていた。
彼は有能だった。
有能であることが生存条件だったから。

 脱走の機会を探し始めたのは、
十三歳の時だった。

 組織内で信頼を積み重ね、
行動の自由を少しずつ広げながら、彼は機会を待った。
半年以上かけて準備し、
ある夜の混乱に乗じて逃げ出した。
追跡を逃れるために砂漠を三日間歩いた。
水が尽きた。
食料が尽きた。
方向感覚が失われた。

 そして倒れた。

---

## 第四章 再生

 柏木はサリムに教育を施した。

 それは学校教育ではなかった。
もっと根本的なものだった。

 まず言語。
英語と、柏木が長年かけて習得した現地語を教えた。
サリムは言語習得が異様に速かった。
生存のために様々な環境に適応してきた経験が、
新しいものを吸収する回路を鍛えていた。
一年で英語で日常会話ができるようになった。

 次に知識。数学、物理、地理、歴史。
柏木は教科書を取り寄せ、毎日数時間を教育に充てた。
サリムは吸収した。
だが知識より重要だったのは、
思考の枠組みを変えることだった。

 少年兵として生きてきたサリムの世界観は、
力と恐怖を基軸としていた。
強い者が正しく、弱い者は従うか死ぬか。
それが彼の骨身に染みた世界の原理だった。

 柏木はそれを解体するのに三年かかった。

 「なぜ人を殺してはいけないのか」
とサリムは最初の頃に聞いた。

 柏木はすぐに答えなかった。
代わりに質問した。
「お前の父親が殺された時、何を感じた」

 サリムは黙った。

 「お前の母親が殺された時、何を感じた」

 さらに長い沈黙があった。

 その沈黙の中に、まだ埋もれていた何かがあった。
少年兵として感情を殺すことを覚えたサリムが、
それでも完全には消し去れなかった何かが。
柏木はその何かを丁寧に、時間をかけて掘り起こした。

 サリムは泣いたことがなかった。
少なくとも、武装勢力に連れていかれてからは一度も。
泣くことを禁じられていたからではなく、
泣くことを忘れたからだ。
その泣くことを忘れた少年が、
柏木との会話の中で、ある夜突然に泣き崩れた。

 言葉もなく、ただ泣いた。

 柏木は何も言わなかった。
ただ少年の隣に座っていた。

 それが転換点だった。

 その後のサリムは変わった。
変わり方は急激ではなかった。
むしろゆっくりと、地層が形成されるように変わった。
感情が戻ってきた。
好奇心が芽生えた。
笑うようになった。
怒るようになった。
恐れるようになった。
それらすべてが、人間として生きる証だった。

 柏木は銃器の知識も教えた。
α4の設計思想、弾薬の物理学、射撃の原理。
サリムはここでも吸収が速かった。
実際の射撃訓練を始めると、
その才能は疑いようがなかった。
生まれつきの眼と、
少年兵時代に身体で覚えた銃の感覚が融合して、
サリムは驚異的な速さで精度を上げた。

 五年が過ぎた。

 サリムは十九歳になっていた。
少年の面影は残しながら、
しかし確かな青年になっていた。
目に知性と意志が宿っていた。

 柏木はサリムを見て、ある時気づいた。

 自分はこの青年を愛している、と。

 息子がいたらこんな感じだろうか、と思った。
柏木には家族がなかった。
若い頃の研究への傾倒が、
そういう生き方を選ばせていた。
後悔していないとは言えなかったが、
サリムがいる今、
その空洞が埋まっているような気がした。

---

## 第五章 α4、砂漠へ

 柏木がα4をサリムに渡した日の朝、
空は抜けるように晴れていた。

 「これだ」と柏木は言い、
布に包まれたライフルをサリムの前に置いた。

 サリムは布を解いた。

 全長およそ九百ミリ。
重量は空のマガジン込みで三・四キログラム。
黒いレシーバーに砂漠色のコーティングが施されている。

高倍率のスコープが上面に載っており、
その横に小さなディスプレイが組み込まれている。
銃口にはマズルブレーキ
兼フラッシュハイダーが付いており、
その形状が通常の5.56mmライフルのものとは
明らかに異なる。
マガジンは通常のSTANAGマガジンと外形が似ているが、
わずかに長い。

 サリムはしばらく黙ってライフルを見た。

 「重くない」と彼は言った。

 「そうだ」と柏木は答えた。

「持ってみろ」

 サリムはライフルを手に取り、構えた。
バランスが良かった。重心が自然に手の中に収まる。
ピストルグリップの形状が手に馴染む。
チークピースの高さが目と
スコープの位置を自然に合わせる。

 「変な銃だ」とサリムは言った。

「でも、何かが違う」

 「それがわかるか」
と柏木は言い、珍しく声を和らげた。

「撃てばもっとわかる」

 試射場で初めてα4を撃った時のサリムの顔を、
柏木は後々まで覚えていた。

 発射音と反動に備えて身体が緊張していたサリムが、
引き金を引いた瞬間に一瞬きょとんとした表情になった。

反動が予想の半分もなかったからだ。
だが千メートル先のターゲットに穴が開いているのを
双眼鏡で確認した時、彼の顔に別の表情が浮かんだ。

 柏木は気づいていた、
サリムが両親のことより自分を喜ばせることの方を
望んでいるということに。
それは複雑な感情を呼び起こした。
そういう影響を与えてしまった責任を感じながら、
しかし同時に、
その信頼の重さを受け止めることを選んだ。

 「お前の両親の仇がいる場所に行く」
と柏木は言った。

「一緒に来るか」

 サリムは一瞬だけ考えた。

 「はい」と答えた。

---

## 第六章 千メートルの静寂

 アジトの場所を突き止めるのに二週間かかった。

 地元の情報網を使い、
かつてサリムが所属していた武装勢力の残党が
どこに根を張っているかを調べた。
彼の両親を殺した指揮官はすでに死んでいたが、
その部下たちは散り散りになりながらも
組織の形を保っていた。
その本拠地が、荒野の中に掘られた壕と
コンクリートブロックで作られた
粗末な要塞群にあることが判明した。

 柏木とサリムは夜明け前に出発し、
夜が明けた頃には予定の位置についていた。

 アジトから九百八十メートル。
緩やかな起伏の向こう側に身を潜めた二人から、
建物群の屋根と出入りする人影が見える。
地形は開けており、視界を遮るものはほとんどない。
乾いた風が南から吹いており、
左から右へのわずかな横風がある。
気温は上がり始めていたが、
まだ陽炎が出るほどではなかった。

 サリムはうつ伏せに構え、
α4の二脚を展開して安定させた。

 スコープを覗くと、
アジトの様子が手に取るようにわかった。
コンクリートの壁際に、武装した男たちが立っている。
AKM系のライフルを手に持ち、あるいは肩から吊るし、
無警戒に立ち話をしている者もいた。
防弾ベストを着用している者が多い。
見える範囲だけで十数名。

 スコープの内部に、小さな数字が表示されている。
距離、風速、温度、気圧。
AIによる弾道補正システムが自動計算を行っており、
照準点に微小な補正を加えている。
サリムはその表示を確認しながら、
一つの人影に照準を合わせた。

 壁際に立ち、タバコを吸っている男。
防弾ベストの胸の中央に、緑色の照準点が重なる。

 サリムは呼吸を整えた。

 吸って、吐いて、その呼気の半ばで止める。

 引き金に指をかけ、力を抜く。

 引き金は均等な力で引かれ、ある点で撃発した。

 発射音は鋭く短かった。
柏木が設計した銃口デバイスが音と炎を分散させ、
射撃位置を特定しにくくしていた。

 スコープを覗いたまま、サリムは着弾を確認した。

 九百八十メートル先の男が、後ろに崩れ落ちた。
防弾ベストを着た胸に命中した弾頭が、
ベストを貫通していた。
接触した瞬間に変形膨張する設計の専用弾頭が、
防弾プレートを貫いた後に身体の中で仕事をしていた。

 一瞬の静寂。

 それから、混乱が始まった。

 倒れた男に気づいた周囲の武装勢力が、
反射的に銃を構え、四方に向けて射撃を始めた。
AKMの連射音がこだまする。
ドラムマガジンを装備したRPKの機関銃が唸り始め、
砂塵を巻き上げながら広角に弾を撒く。

 だが弾は届かない。

 最も射程の長いドラグノフ狙撃銃でも、
有効射程は八百メートル程度だ。
AKMでは五百。
いずれも九百八十メートルに届かない。
彼らが撃つ弾は、サリムと柏木の位置に達する前に、
エネルギーを失って砂に落ちていった。

 サリムは次の標的に照準を合わせた。

 機関銃の射手。
RPKを抱えて塀の上に立ち、
見当違いの方向に連射している男。
距離変わらず、九百八十メートル。
風速を補正システムが自動調整する。

 引き金。

 九百八十メートル先で、機関銃の銃声が止んだ。

 パニックに陥った武装勢力が
建物の陰に駆け込もうとする。
その中の一人が、屋根の上に
機関銃陣地を設けようとしているのが見えた。
サリムはその男が屋根に上がりきる前に引き金を引いた。

男は屋根から落ちた。

 さらに次。また次。

 アジトの中で何が起きているのかを
把握しようとして頭を出した男が引き金一つで倒れた。
包囲を突破しようと車両で脱出を試みようとした
グループを、エンジンブロックに
二発を撃ち込んで止めた。
降車して逃げようとした男たちに、一人ずつ弾を送った。

 完全な一方性だった。

 彼らには射程の外から殺されている、
という事実だけが見えていた。
どこから弾が来ているのかを判断する材料も、
それに対抗する手段も持っていなかった。

 サリムの手は震えていなかった。

 スコープの中に映る人影を、
彼は静かに、一つずつ、倒していた。

---

## 第七章 始まり

 三十分後、柏木は双眼鏡でアジトの状況を確認した。

 動いているものはなかった。

 「終わりだ」と彼は言った。

 サリムはゆっくりとα4から頬を離し、起き上がった。
目の焦点がまだスコープの向こうにあるようだった。

 「うまくやった」と柏木は言った。

 普段は感情を表に出さない柏木が、
珍しく声に温かみを込めていた。
二十三年間、命を削って作り上げたものが、
今初めてその本来の性能を示した。
弾道計算の数字が、実際の戦場で証明された。
それは柏木にとって、
まごうかたなき完成の瞬間だった。

 サリムはその声を聞いた瞬間、
何かが胸の奥で溶けるような感覚を覚えた。

 両親のことを思い出した。
だが遠くなっていた。
七歳の記憶は薄れ、輪郭が曖昧になっている。
代わりに鮮明なのは、この五年間の記憶だった。
数学を教わった夜のこと。
射撃の腕が上がって初めて柏木に
「うまい」と言われた日のこと。
発熱した柏木の隣に夜通し座っていたこと。

 「ありがとうございます」とサリムは言った。

 その言葉に込められた意味は、
単純な礼節ではなかった。

 二人は装備を片付け始めた。
どこへ向かうかは、まだ決まっていなかった。

 だがα4の快進撃は、ここから始まろうとしていた。

 荒野に風が吹いた。
砂塵が舞い上がり、二人の姿を、少しの間包んだ。

---

*(了)*
 

最近 SNSで分割して書いた文章に対して

「目が滑る」と文句を言ってくる人が何人かいて

「目が滑る」という言葉を初めて聞いたので

どういう事か数日に渡って調べてみました

・・・で、その結果出来たお話です

 

 

# 目が滑る

## 一

 田中浩市が初めてスマートフォンを手にしたのは、
小学校二年生の春だった。

 当時の浩市には、
それが何であるかを深く考える余裕などなかった。
光る画面を指で撫でると、
絵が動く。音楽が流れる。それだけで十分だった。
リビングのソファに寝転がり、
母親が台所で夕飯の支度をする音を背景に、
浩市は画面の中の世界へと沈んでいった。

 絵本は、いつの間にか手に取らなくなっていた。

 正確に言えば、絵本を手に取る理由がなくなっていた。

本棚に並んだ背表紙たちは、
ページをめくるたびに紙の角が指に触れ、
時に紙でできた小さな切り傷をくれた。
文字を追う目が疲れると、
自分でページを戻らなければならない。
分からない言葉が出てきても、
その場では教えてもらえない。
本というものは、
読む側にある種の根気を要求する道具だった。

 だがスマートフォンは違った。

 動画は自動で次へと進む。
指を止めれば、画面の向こうが
勝手に次の話題を差し出してくる。
分からない言葉があれば画面を長押しするだけで
意味が現れ、読みたくなければ飛ばせばいい。
疲れたら音量を上げて耳だけで聞けばいい。
何もかもが、こちらに合わせて動いてくれた。

 小学校三年生になる頃には、
浩市は学校から帰るとランドセルを玄関に放り投げ、
まっすぐ充電器からスマートフォンを
引き抜くようになっていた。
宿題は後回し。
夕飯の前の三十分だけという母親との約束は、
気づけばいつも一時間になり、二時間になった。

 四年生の時、
学校に一人一台のタブレット端末が配られた。

 担任の坂本先生が「これからはこれで授業をします」
と言った瞬間、クラス中がざわめいた。
浩市はそのざわめきの中で、静かに安堵していた。
ようやくここでも自分の知っている世界になる、と。

 タブレットで漢字の書き順を学ぶ授業では、
画面の中で筆が動くアニメーションを見て、
指で画面をなぞった。
正解すれば音が鳴り、花丸が現れた。
間違えてもやり直せた。
何度でも。鉛筆を持つ時間は、
図工の授業で絵を描く時だけになり、
それさえも気づけば少なくなっていた。

 読書の時間も変わった。

 学校の図書室には静かな空気と紙の匂いがあった。
浩市は低学年の頃、その匂いがなんとなく好きだった。
しかし五年生になる頃には、
図書室の本棚の前に立っても、
どこか落ち着かない気持ちがするようになっていた。
本を開いて最初のページを読み始めても、
気がつくと目だけが文字の上を滑っていて、
内容が頭に入ってこない。
どこまで読んだか分からなくなる。
もう一度読もうとしても、同じことが起きる。

 結局、浩市はその本を棚に戻した。

 家では漫画も小説もスマートフォンで読んでいた。
縦スクロールで流れてくるページは、止まらなくていい。

分からない場面があっても、
続きを読んでいれば何となく分かる気がした。
何となく分かった気がするまま、また次のページが来る。

そういうリズムに、浩市の目も脳も慣れ切っていた。

 六年生の卒業文集を書く授業で、
浩市は四百字詰め原稿用紙を渡された。
鉛筆を持つ手が、妙にぎこちなかった。
文字を書いても、自分で書いた字が汚く見えた。
消しゴムで消すたびに紙が毛羽立ち、
やがて薄く破れそうになった。
同じ言葉を繰り返してしまっていることに気づいても、
どこを直せばいいか分からない。
画面なら一瞬で消えて書き直せるのに、
紙の上では消した跡が残り続けた。

 三時間かけて、浩市はなんとか四百字を埋めた。
隣の席の女子は、すでに二枚目を書いていた。

---

## 二

 中学校への入学は、
浩市にとって大きな変化をもたらした。

 部活動が始まり、帰宅時間が遅くなった。
それに合わせるように、
母親の浩市への頼みごとも増えていった。
母親の紀子は市内の医療事務の仕事をしており、
夕方の忙しい時間帯に抜け出せないことが多かった。
「帰りにスーパーでこれ買ってきて」
「薬局に寄って」
「クリーニングを受け取って」。

 最初のうちは朝食の席でそれを伝えていたが、
中学生になった浩市は朝練のある日には
六時半に家を出る。
紀子もその時間にはもう出勤の準備に追われていた。
朝の食卓は、
二人ともがそれぞれの時間の中で急いでいた。

 紀子はある朝、小さなメモ帳を取り出した。

 前の夜のうちに、
頼みたいことを書き留めておいたのだ。
箇条書きにして、番号を振った。

```
①スーパーマルエツで卵(Lサイズ10個入り)と
牛乳(成分無調整・1ℓ)

②クリーニング店でワイシャツ3枚受け取り
(引換券は玄関の棚の上)

③薬局でお父さんの胃腸薬
(いつものやつ・ムコスタ錠)
```

 浩市はそのメモを受け取り、制服のポケットに入れた。

 その日の夕方、
浩市は卵と牛乳だけを持って帰宅した。

 紀子が「クリーニングと薬局は?」と聞くと、
浩市は少し考えてから答えた。

「あ、忘れた」

 翌週、紀子は少し工夫した。
用件が三つあると分かりにくいのかもしれないと思い、
それぞれを丁寧に説明することにした。

```
①スーパーマルエツに寄ってください
 → 卵(Lサイズ10個入り)と
   牛乳(成分無調整・1ℓパック)を
買ってきてください

②帰り道のクリーニング店に寄ってください
 → ワイシャツを3枚受け取ってきてください
 → 引換券は玄関の棚の上にあります

③薬局に寄ってください
 → お父さんの胃腸薬を買ってください
 → ムコスタ錠というお薬です
 → いつものお店の人に見せれば分かります
```

 その日も、浩市はスーパーにしか寄らなかった。

 紀子が帰宅したのは夜の八時過ぎだった。
台所に買い物袋が一つだけ置いてあるのを見て、
彼女は浩市の部屋のドアをノックした。

「浩市、クリーニングと薬局、どうしたの。
何かあった?」

 浩市はゲームの手を止めずに答えた。

「メモが長かったんだよ。
分割してあって、目が滑って読みにくかった」

 紀子はしばらく、廊下に立ち尽くした。

「目が、滑る?」

「うん。途中で何書いてあるか分かんなくなる」

 紀子は「そう」とだけ言って、ドアを閉めた。

---

## 三

 夫の慎一が帰宅したのは日付が変わる少し前だった。

 紀子はリビングで待っていた。
慎一は営業職で、月の半分以上は残業か
得意先との付き合いで遅くなる。
玄関で革靴を脱ぐ背中を見ながら、
紀子は浩市の話を切り出した。

「ねえ、浩市のことなんだけど」

「ん」

「メモを渡したのに用事ができていなくて。
理由を聞いたら、
目が滑って読みにくかったって言うの」

 慎一は冷蔵庫からビールを取り出しながら、
「目が滑る?どういう意味だ」と言った。

「それが分からなくて。ちょっと心配で」

「まあ、中学生なんてそんなもんじゃないか。
めんどくさくてやらなかっただけだろ」

「でも言い訳の仕方が変で」

「俺も疲れてるから」
と慎一はソファに深く沈み込んだ。

「また今度 聞くよ」

 缶ビールを開ける音が、静かなリビングに響いた。

---

 翌週の昼休み、
紀子は職場の休憩室で同僚の由美子と向かい合っていた。

「息子さんが目が滑るって言ったの?」

 由美子は少し考えてから、
「それ最近ネットでよく見る表現だよ」と言った。

「若い子たちがSNSで使ってる。
長い文章を読もうとすると、
目が文字の上を滑っていって内容が入ってこない
っていう感覚」

「でも中学生がそんな」

「なってるんだよ、今の子たち」

 由美子はペットボトルのお茶を一口飲んでから続けた。

「ねえ、紀子さん、こういう経験ない?
ネットで漢字を調べると、
その場では分かるけど全然覚えられない。
でも辞書で引いた漢字は、なぜかちゃんと頭に残る、
っていうやつ」

 紀子は少し考えて、「あ」と声を上げた。

「ある。確かにある。
スマホで調べると次の日には忘れてる」

「私もそう」と由美子は頷いた。

「あれ、なんで起きるか知ってる?」

「なんで?」

「脳が記憶する必要を感じないから、だって」

 紀子は首を傾げた。

「辞書って、引くのに手間がかかるじゃない。
目次を見て、五十音の順番を頭の中で確かめて、
ページをめくって、前後の言葉も目に入って。
それだけの手順を踏んで、
やっと一つの答えにたどり着く」

「うん」

「その一連の過程の中で、
脳はその情報を大切なものとして処理する。
苦労して手に入れたものは覚えている。
でもスマホで調べると、一秒で答えが出てくる。
しかも周りにいろんな情報が溢れてる。
脳はそれを『手軽に手に入るもの』として処理して、
記憶に残す優先度を下げるらしいの」

「つまり、覚えなくていいと判断する」

「そう。だっていつでも調べられるから」

 紀子は黙って考えた。

「浩市のことも、そういう事が積み重なって」

「多分ね」と由美子は静かに言った。

「動画も、SNSも、電子書籍も、全部同じだと思う。
情報が次々と流れてくる。分からなくても飛ばせる。
面白くなければスクロールすればいい。
そういうことを何年も繰り返していると、
脳が長い文章を最後まで
追いかけることに慣れなくなっていく」

「読解力が落ちる」

「落ちるというより、鍛えられないまま育つ、
って感じかな。
筋肉と同じで、使わなければ弱くなる」

 紀子は窓の外を見た。
薄曇りの空の下、街路樹が風に揺れていた。

「でも今の子たちは、
スマホなしの生活なんて考えられないじゃない」

「そうだね」と由美子も窓を見た。

「タイパって言葉、知ってる?」

「時間対効果、みたいな?」

「タイムパフォーマンス。
短い時間で最大の情報を得る、みたいな価値観。
動画を二倍速で見たり、要約だけ読んだり。
若い人たちの間では当たり前になってる」

「浩市もよく倍速で動画見てる」

「タイパを上げれば上げるほど、
確かに短い時間でたくさんのことを知ることができる。
でもね」

 由美子は少し間を置いた。

「深く理解するためには、時間をかけないといけない。
ゆっくり読んで、考えて、
また読んで、初めて自分の中に入ってくる。
それをすっ飛ばして効率だけを追い続けると、
どんどん表面だけを滑るようになっていく」

 紀子は「目が滑る」という言葉を思い出した。

 浩市が使ったその言葉は、比喩ではなかった。
彼は本当に、文字の上を滑っていたのだ。
表面を流れるだけで、内側に入り込めないまま。

「昔、誰かが言ってたんだけど」と由美子が続けた。

「性善説って、人は生まれつき善である
っていうだけじゃなくて、
学び続けなければ悪に落ちるという意味でもあるって」

「学び続けなければ」

「努力や苦労を続けることを止めた瞬間に、
人は退行する。
それは道徳的な意味だけじゃなくて、
知的な意味でも同じなんだと思う。
読む力も、考える力も、
使い続けなければ失われていく」

 休憩室に沈黙が流れた。

 遠くで誰かの笑い声がした。

「私、浩市に何かしてやらなきゃいけないと思う」

 紀子は静かに、しかし決然と言った。

---

## 四

 その夜、
紀子は遅くなる前にスーパーに寄り、
浩市の好きなコロッケを買った。
夕飯の後、二人で食卓に向かい合った。

「浩市、少し話したいんだけど」

 浩市はスマートフォンをテーブルに置いた。
しかし指はまだ画面の近くに浮いていた。

「スマホとパソコン、
しばらく時間を決めて使ってほしいんだけど」

 浩市の顔が変わった。

「は?なんで」

「一日の中で、使える時間を決めたい。
平日は二時間以内。宿題が終わってから」

「意味分かんない」と浩市は声を荒げた。

「みんな普通に使ってるのに」

「みんながどうかは関係なくて」

「虐待じゃん。今時スマホ制限とか」

 紀子は深呼吸をした。

「虐待は、子どもを傷つけることよ。
私は浩市を傷つけようとしてるんじゃない」

「でも取り上げるのは」

「取り上げるんじゃなくて、時間を決めるの。
違う?」

 浩市は黙った。

「浩市が『目が滑る』って言ったこと、覚えてる?」

「覚えてるけど」

「あれ、おかしいと思わなかった?自分で」

 浩市は答えなかった。

「短いメモが読めなかったのよ。
三つの用事が書いてあるだけのメモが」

「読めないんじゃなくて、読みにくかっただけで」

「読みにくかったのはなぜ?」

 浩市はまた黙った。

 紀子は穏やかに、しかし目を逸らさずに続けた。

「スマホやタブレットで文章を読む時って、
流れてくるじゃない。
自分で止まらなくても、次が来る。
分からなくても飛ばして先に進める。
そういうことに慣れると、
止まって考えるのが難しくなるんだって」

「でもスマホで本も読めるし」

「読めるけど、読む力が育つかどうかは別の話」

 浩市は腕を組んだ。

「お母さんにも思い当たることがあってね」
と紀子は言った。

「スマホで何かを調べると、すぐ忘れる。
でも辞書で調べた言葉は覚えてる。
浩市も同じことが起きてると思う。
スマホを使うことが悪いんじゃなくて、
それだけになってしまうのが問題なのよ」

 浩市は窓の外を見た。

「手遅れになる前に、
自分でコントロールできるようにならないといけない。
今ならまだ間に合う。
それがお母さんの正直な気持ち」

 しばらく沈黙が続いた。

 コロッケはもう冷めていた。

「……分かった」と浩市は低く言った。

「でも二時間は短い」

「じゃあ最初は三時間にする。
その代わり、毎日十五分、紙の本を読む時間を作って」

「十五分」

「最初は十五分でいい。続けることが大事だから」

 浩市は返事をしなかった。
しかしスマートフォンをポケットにしまった。
それだけで今夜は十分だと、紀子は思った。

---

## 五

 その夜遅く、紀子は浩市の部屋の前を通った。

 薄く開いたドアの隙間から、明かりが漏れていた。

 覗くと、浩市は机に向かっていた。
スマートフォンではなく、
本棚から引っ張り出したらしい文庫本を手にしていた。
指でページをめくろうとしては止まり、
また最初から目を動かしている。
読んでいるのか、読めていないのか、
紀子には分からなかった。

 ただ、浩市はそこにいた。

 流れてくる画面の前ではなく、
動かない文字の前で、立ち止まろうとしていた。

 紀子は声をかけずに廊下を戻った。

 台所で水を一杯飲んで、電気を消した。

 外は静かで、どこかで虫が鳴いていた。

---

**了**
 

こういう事って

芸能界でちょくちょく起きていましたね

でも何でテレビ局は責任取らないの?

って疑問でした

 

 

 

# 光と影の螺旋

## 第一章 天才の誕生

一九九〇年代初頭、
日本の音楽シーンに一つの彗星が現れた。

大滝隆一——当時二十二歳。
黒髪をセンターで分け、どこか憂いを帯びた目元に、
しかし笑えば太陽のような眩しさが宿る男だった。

バンド「SPIRAL ECHO」のボーカルとして
彼がデビューしたのは、
バブルの残滓がまだ街の空気に漂っていた頃だ。
一枚目のシングル「夜明けの地図」が
リリースされた週、深夜のラジオで流れた瞬間から、
電話回線が鳴り止まなかったという。

「あの声は何だ」

ディレクターが受話器を置きながら呟いたとされる
その言葉は、後に業界の語り草となった。

隆一の声域は異常なほど広かった。
低音域では地の底から這い上がってくるような
重厚さがあり、高音域では硝子を震わせるような
透明な鋭さがあった。
だが技術だけではなかった。
彼の歌には「傷」があった。
聴く者の胸の奥にある、
言語化できない痛みの形を、正確になぞる何かが。

デビューから三ヶ月でオリコン一位。
半年でミリオンセラー。

「夜明けの地図」
「君という迷路」
「透明な季節」
——次々と放たれるシングルはことごとく百万枚を超え、
アルバムに至っては発売初日に百五十万枚を記録した。
街を歩けばどこかから彼の声が聞こえ、
学校の教室では彼の歌詞がノートの端に書き写された。

SPIRAL ECHOは時代そのものだった。

バンドのコンサートは
発表から三十分でチケットが完売し、
会場の外では涙を流すファンが列を作った。
隆一はステージに立つたびに、
観客一人ひとりに語りかけるような目線で歌った。
二万人のアリーナで、それぞれの人間が
「自分だけに歌ってくれている」と感じた。
その才能は天性のものだった。

そしてある転機が訪れた。

バンド活動の傍ら、
テレビドラマへの出演オファーが舞い込んだのだ。
最初は音楽人としての矜持もあり断っていたが、
ある若手脚本家の熱意に根負けして
引き受けた深夜ドラマが、予想外の反響を呼んだ。

隆一が演じたのは、
余命半年を宣告された天才ピアニストだった。

撮影が始まる三ヶ月前から、
彼は実際にピアノのレッスンを受け、
役が経験した喪失感を理解するために
緩和ケア病棟へ何度も通った。
台本を覚えるのではなく、
「大滝隆一という人間がその状況に置かれたら
どうなるか」を徹底的に考えた。

その演技を初めてモニターで見た監督が、
静かに立ち上がってスタッフに言ったという。

「これは本物だ」

放送が始まると、視聴率は深夜帯にもかかわらず
驚異の数字を叩き出した。
最終回の翌朝、各局のワイドショーは
こぞって特集を組み、
映画評論家たちは揃って筆を取った。
「天才が演技を手に入れた」
「この国の俳優史における分水嶺」
——賛辞は尽きなかった。

その年の映画初主演作「冬の声」では
日本アカデミー賞最優秀主演男優賞を受賞。
授賞式のスピーチで隆一は短くこう言った。

「役の中に生きることが、まだ少しだけ怖いです。
でも、その恐怖が正直さの証明だと思っています」

会場が静まり返り、そして万雷の拍手が起きた。

ブルーリボン賞、
毎日映画コンクール、
キネマ旬報
——国内の映画賞を総なめにするまで、
さほど時間はかからなかった。

音楽と演技。
二つの頂点に同時に立った男として、
大滝隆一の名は時代に刻まれた。

---

## 第二章 接待という名の腐食

視聴率男——それが業界における隆一の称号だった。

彼が出演した番組は、
ジャンルを問わず数字を持ってきた。
バラエティでは笑いの中心になり、
トーク番組では聞き手をも唸らせる深みのある発言をし、

ドラマでは視聴率二十パーセントを
当たり前のように叩き出した。

各テレビ局のプロデューサーたちは、
隆一の事務所への電話を日課にした。
スケジュールを一枠でも確保することが
彼らの至上命題となり、
局内での査定にまで影響するようになっていた。

そして接待が始まった。

最初は食事だった。
銀座の、メニューに値段が書いていない店。
個室に通され、局のプロデューサーや編成担当が
恭しく座る中、隆一は上座に据えられた。
料理は一品ずつ丁寧に説明され、
酒は隆一の好みに合わせて選ばれた。
会話の主導権は常に隆一に委ねられ、
誰も彼の言葉を遮らなかった。

それが週に二度、三度と重なっていった。

局は独自のリストを持っていた。
隆一が好む食の傾向、酒の銘柄、
話題にすると機嫌が良くなること。
そして、女性の好みまでが記載されていた。

女性アナウンサーの同席が始まったのは、
デビューから数年が経った頃だった。

各局には花形と呼ばれる女性アナウンサーが数名いた。
容姿端麗で弁舌さわやか、視聴者からの人気も高い。
そういった女性たちが、
接待の席に呼ばれるようになった。

局の幹部が番組制作担当に言う言葉は、
どこの局でも似たようなものだった。

「大滝さんが気に入ってくれたら、
必ず持ち帰りになるように話をつけておけ」

番組制作担当は女性アナウンサーを個別に呼び出し、
こう伝えた。
局によって言葉は違ったが、意味は同じだった。
「大滝さんの接待に同席してほしい。
何かあっても、うまくやれ」と。

それが「仕事」として処理されていた時代だった。

女性アナウンサーたちの多くは、逆らえなかった。
逆らう術を知らなかった、
と言った方が正確かもしれない。
一部の女性は割り切り、
一部の女性は泣きながら従い、
一部の女性は業界を去った。
しかし誰もそれを表に出さなかった。
表に出すための言葉も、場所も、
当時の社会にはなかった。

隆一はその構造の中にいた。

接待の席で隆一を取り囲む人間たちは、
彼の一言一言に大きく笑い、彼の意見には全員が頷き、
彼の冗談には盛大な拍手が起きた。
「さすが隆一さん」
「大滝さんにしか言えない言葉ですよ」
——そういった言葉が飽きもせず降り注ぐ。

人間は褒められると、褒められた行動を繰り返す。

隆一も例外ではなかった。

最初の頃、彼にも「これは接待だ」という認識があった。

相手が自分に媚びていることも、
女性の同席が計算されたものであることも、
薄々気づいていた。
しかし一年が経ち、二年が経ち、五年が経つうちに、
その認識は溶けていった。

繰り返しを重ねた経験は、
それが「当然のこと」として記憶に固定される。

隆一にとって、接待の席で女性に好かれることは、
当然の現実になっていた。
自分が魅力的だから女性が来る。
自分が力を持っているから人が集まる。
その図式に疑問を持つ回路が、少しずつ、
しかし確実に摩耗していった。

ハメを外したことも一度や二度ではなかった。

酒に乗じて夜を共にした女性の数は、
自分でも数えきれなくなっていた。
翌朝、隆一は何事もなかったように
次のスケジュールへ向かい、
女性たちがその後どうなったかを
深く考えることはなかった。
考えさせる仕組みが、
彼の周囲には存在しなかったからだ。

業界はその構造を維持し続けた。

それは腐食だった。
ゆっくりと、しかし着実に、
大滝隆一という人間の内側から
何かを溶かしていく腐食だった。

---

## 第三章 江口奈緒という女性

十数年が経った。

隆一は今や四十代の半ばに差しかかっていた。
バンドで一世風靡した記憶は、
若い世代には届かなくなり、
国民の半数近くが「大滝隆一はずっと俳優だった人」
と認識していた。
しかし俳優としての存在感は衰えるどころか、
円熟という言葉が似合う深みを増していた。

出演するドラマは今も高視聴率をキープし、
映画では若手俳優との共演で
「圧倒的な格の違い」を見せつけた。
四十代の男の翳りと色気を、
隆一は身体全体で纏っていた。

接待の件数は全盛期に比べれば減っていた。
しかし完全になくなることはなかった。

その夜も、
某テレビ局が銀座のフレンチで接待を開いた。

個室のテーブルに着いた瞬間、隆一は気づいた。

斜め向かいに座った女性が、これまでとは違った。

江口奈緒——T局の女性アナウンサー。二十四歳。

黒髪をゆるくハーフアップにまとめ、
紺のジャケットの下に白いブラウス。
派手さとは無縁の、落ち着いた装いだった。
化粧は薄く、しかしそれが彼女の輪郭の清潔さを
際立てていた。
目が大きく、少し困ったように眉が下がる癖があった。
笑うと右の頬に小さなえくぼが浮かぶ。

他の同席者たちが騒々しく話を盛り上げる中、
奈緒は控えめに相槌を打ちながら、
どこか別のことを考えているような表情をしていた。

その表情が、隆一の目に刺さった。

これまで接待の席で同席した女性たちは、
皆、隆一に向かって笑っていた。
意識的に、あるいは無意識に、
場の求める反応を見せていた。
だが奈緒の笑顔には、
どこか義務感のような緊張が滲んでいた。

しかし隆一はその緊張の意味を、正しく読めなかった。

長年の経験が、見えるべきものを見えなくしていた。
「緊張しているのは自分に惹かれているからだ」
と、その回路は自動的に変換した。

料理が運ばれ、会話が進む中で、
隆一は自然と奈緒に話しかけるようになった。
仕事のこと、育った場所のこと、好きな音楽のこと。
奈緒は礼儀正しく、
しかし決して距離を縮めようとはしなかった。
それが隆一には、奥ゆかしさに見えた。

テーブルの向こうで、
局の幹部・桐島が部下の中山に小さく耳打ちをした。

「大滝さんが江口に気があるな。話をつけろ」

中山は席を立ち、廊下へ出た。

少し後、奈緒が「お手洗いに」と席を立つと、
廊下で中山が待っていた。

「江口さん」と中山は声を低くした。

「大滝さんが気に入ってくれているようです。
今日、一緒に行ってあげてください」

奈緒の顔が固まった。

「……それは」

「大滝さんにうちの番組に出続けてもらうために、
必要なことです」

「でも、私は——」

「江口さん、あなた今レギュラー三本持ってますよね」
中山の声は穏やかなまま、
しかし明確な圧力を持っていた。

「上がその気になれば、全部なくなります。
わかってますよね」

奈緒は唇を引き結んだ。

彼女は四国の地方都市の出身だった。
父親は地元の資産家で、奈緒は大切に育てられた。
上京して入ったアナウンサーの世界は、
彼女が想像していたものとは違っていた。
しかし仕事そのものは好きだった。
カメラの前に立つこと、
言葉を届けること、
視聴者の顔が見えない先にある
誰かに伝わる瞬間の感触
——それが好きだった。

やっと手に入れたレギュラーを。

やっと聞こえ始めた、
視聴者からの「奈緒ちゃん」という呼びかけを。

それを失いたくなかった。

廊下に立ち尽くしたまま、奈緒は返事ができなかった。
中山は彼女の沈黙を肯定と解釈し、
「よろしくお願いします」と頭を下げて個室に戻った。

奈緒はしばらく廊下に一人で立っていた。

窓の外には銀座の夜景が広がっていた。
光の粒が川のように流れていた。

彼女は深く息を吸い、個室のドアに手をかけた。

---

## 第四章 ある夜の重さ

食事が終わり、
一同が店の前で解散する流れになった時、
桐島が隆一の隣に来て耳元で言った。

「大滝さん、江口をよろしくお願いします。
話は通してあります」

隆一は軽く頷いた。
それが何を意味するか、
彼には長年の経験から明らかだった。

タクシーを二台手配し、
隆一と奈緒が一台に乗り込んだ。

後部座席、
隆一と奈緒の間には、二人分の沈黙があった。

車が動き出してすぐ、奈緒がぽつりと言った。

「あの……大滝さん、私、あまり飲めなくて。
今日少し頭が痛くて」

「そうか」隆一は言った。

「部屋でゆっくりすればいい」

「でも、今日は……できれば帰りたいんですが」

隆一は奈緒を見た。
彼女は窓の外を向いたまま、
指先でバッグの持ち手を握っていた。

「桐島さんから話を聞いているだろう」

「……聞きました」

「嫌か」

奈緒はすぐには答えなかった。
タクシーが信号で止まり、赤い光が車内に差し込んだ。

「嫌、というか……」

奈緒は言葉を選ぶように
「私には、この状況が少し」

「心配しなくていい」隆一は言った。
経験が彼に教えた言葉で。

「俺は乱暴なことはしない」

奈緒はそれ以上、言わなかった。

ホテルの部屋に入ってからも、
奈緒は抵抗の言葉を探し続けていた。
「お水を飲んでいいですか」
「少し座ってもいいですか」
「頭が痛くて」
——様々な理由が彼女の口から出たが、
その度に隆一は否定するのではなく、
包み込むように言葉をかけた。
強引に何かをするわけではなかった。
ただ、部屋から出る選択肢を、
少しずつ、少しずつ、狭めていった。

長年の経験が、そのやり方を彼の中に作り上げていた。

やがて奈緒の抵抗は、彼女自身の中で力を失った。

続ける気力が尽きた、という方が正確だった。
今夜この状況を終わらせるためには、
もう逆らうことに使うエネルギーが残っていなかった。

彼女は目を閉じた。

隆一は、自分が愛している、と思っていた。
この夜を。
この女性を。
二十歳も年下の、この清潔な人間を。
長年の放蕩に疲れた自分が、
初めて本当の何かに触れている気がした。

だが隆一が感じていたものを、
奈緒は感じていなかった。

同じ部屋の中で、
二人はまったく別の夜を過ごしていた。

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## 第五章 崩壊

三ヶ月が経った。

奈緒はその夜以来、人が変わったように見えた。

もともと控えめで静かな性格だった彼女が、
さらに言葉を失い、食事が取れなくなり、
仕事に来られない日が続くようになった。
収録のスタジオに入ると手が震え、
カメラの前に立つと声が出なくなった。
局は「体調不良」として彼女を休業扱いにした。

親友の木村さくらが
奈緒のアパートに来るようになったのは、
休業から二週間が経った頃だった。

さくらは奈緒の中学からの友人だった。
同じ四国の出身で、東京で別々の仕事に就きながらも、
月に数回は会っていた。
奈緒の変化に最初に気づいたのもさくらだった。

カーテンを閉め切った部屋に横たわる奈緒を見て、
さくらは何かを感じ取った。

「何があったか、話してくれる?」

長い沈黙の後、奈緒はぽつぽつと話し始めた。

仕事のこと。
接待のこと。
廊下での会話。
タクシー。
ホテルの部屋。

さくらは奈緒の話を聞きながら、震えていた。

激怒が体の内側から来た。
奈緒に対する怒りではなかった。
この状況を作り上げたものすべてに対する、
制御できない怒りだった。

「奈緒、許可していい? 私、これを黙ってられない」

奈緒は何も言わなかった。
しかしさくらの手を、ゆっくりと握り返した。

さくらは翌日、週刊誌の記者に連絡を取った。

記事は二週間後に出た。

---

## 第六章 崩れ落ちる

週刊誌が発売された朝、
隆一のマネージャーから電話が入った。

「大変なことになっています」

最初、隆一には何のことか分からなかった。

記事を読んだ。
自分の名前があった。
奈緒の名前は伏せられていたが、状況は明らかだった。
「強要」
「被害」
「アナウンサー心身ともに衰弱」
——文字が目に飛び込んできた。

「これは……」隆一は声を出した。

「違う」

その日の夕方には、SNSが燃え上がっていた。
翌朝のワイドショーは全局が特集を組んだ。
隆一の過去の映像が繰り返し流れ、
コメンテーターたちが眉をひそめながら言葉を重ねた。

T局が会見を開いたのは、記事から四日後だった。

桐島が画面に映った。
隣に法務担当と広報が座っていた。

「このたびは、弊社の番組制作担当・中山の独断による
不適切な行為、および出演タレントによる
強要行為が明らかになりました。
被害を受けた当該アナウンサーに対して、
深くお詫び申し上げます。
中山は出勤停止処分とし、
関係幹部の減給処分を行います。
またタレント側に対しては、
損害賠償を請求する方向で
法的手続きを進めてまいります」

隆一はその会見映像をテレビで見ていた。

画面の中の桐島は、落ち着いた声で読み上げていた。
三ヶ月前に「話は通してあります」
と隆一の耳元で言ったその口で。

隆一の中で何かが音を立てて崩れた。

理解が追いつかなかった。

俺が強要した——? 
あの夜は、彼女の方も。いや、彼女は嫌がっていた。
でも俺は、俺は彼女のことを——。

思考がぐるぐると回った。

その夜から奈緒が心を病んでいたという事実が、
ここで初めて隆一の前に現れた。
彼女が今どんな状態にあるかを、
隆一はまったく知らなかった。
プロポーズの算段まで頭の中で組み立てながら、
相手の今を何一つ知らなかった。

主演映画の公開が中止になった。
制作費は全て無駄になり、
関係したスタッフへの申し訳なさが胃に穴を開けた。

MCを担当していたラジオ番組から降板通知が届いた。
十年続いたレギュラーだった。

テレビ局から全番組の降板と損害賠償の請求書が届いた。

金額は具体的だった。

事務所の社長が「話し合いが必要だ」と連絡してきた。
その声のトーンで、もう結論が出ていることが分かった。

隆一は自分の部屋に一人でいた。
広い部屋だった。
いつも誰かがいた部屋が、
こんなに広かったのかと思った。

証拠がなかった。

桐島が耳元で言った言葉も、
中山が奈緒を廊下に連れ出した事実も、
接待の席での幹部たちの計算も
——口約束と密室の出来事だった。
業界はずっとそうやって動いてきた。
だから記録が残らなかった。

隆一が証明できるのは
「自分がその夜、その女性とホテルにいた」
という事実だけだった。

それは、加害の証明にしかならなかった。

---

## 第七章 手紙

引退の発表は事務所が行った。

隆一はその場にいなかった。
もういなくていいと言われた。

海外移住の準備は粛々と進んだ。
マネージャーが手配し、家具は処分され、
二十年以上住んだ東京のマンションは解約された。

出発の一週間前、隆一は便箋を取り出した。

万年筆のインクが馴染むまで少し待って、書き始めた。

届くかどうかは分からなかった。
本名で出せば彼女に迷惑がかかるかもしれなかった。
それでも書かずにはいられなかった。

*江口さんへ*

*あなたが今どんな状態にあるかを、
私は三ヶ月間、知りませんでした。
それが今、この手紙を書いている私にとって、
何よりも辛いことです。*

*あの夜のことを、私は自分の中で
美しく塗り替えていました。
あなたが嫌がっていたことを、
私は都合よく解釈していました。
それは私の経験が作り上げた歪みで、
私自身の責任です。*

*テレビ局が何を言っているかは関係ありません。
私はあなたに、直接、謝りたいのです。*

*あなたを傷つけました。それは事実です。
意図していなかったことも事実ですが、
意図の有無は傷の重さを変えません。
あなたの傷は、あなたのものです。*

*あなたのことを好きになっていました。
それも本当のことです。
だから余計に、自分が許せない。*

*どうか、仕事に戻れる日が来ることを願っています。
あなたの声が、またカメラの前に立つことを、
私は遠くから祈っています。*

*大滝隆一*

封をして、宛名に彼女のテレビ局の住所を書いた。
届くかどうかは分からない。
捨てられるかもしれない。
それでもよかった。

書いたことに、意味があった。

---

## 終章 離陸

出発の朝は晴れていた。

羽田空港の搭乗ゲートへ向かう廊下から、
滑走路が見えた。
朝の光を受けた飛行機が、鈍く銀色に光っていた。

隆一は歩きながら、様々なものを思った。

初めてステージに立った夜のこと。
マイクを握る手が震えて、
それでも口を開いた瞬間に会場が静まり返ったこと。
初めて演技賞を受け取った時、
スピーチの途中で言葉に詰まったこと。
本当に言いたかったことが言えなかったこと。

接待の席で笑っていた顔、顔、顔。

奈緒がカーテンを閉め切った部屋で
横たわっているかもしれないという、
初めて知った現実。

自分が誰かを傷つけ続けていたという可能性を、
なぜ長い間、考えられなかったのか。

その問いに、隆一は答えを持っていなかった。

ただ、歩いた。

搭乗口を通る前に、一度だけ振り返った。
ガラスの向こうの日本の空が見えた。
秋の、薄い青だった。
隆一はその青を目に焼き付けるように、
数秒間、動かなかった。

それから前を向いた。

飛行機は定刻に離陸した。

窓の外で、東京の街が遠ざかっていった。
隆一はその景色を最後まで目で追い、
雲の中に街が消えた時、初めて目を閉じた。

拍手も、カメラも、呼びかける声も、
もうどこにもなかった。

静けさの中で、大滝隆一はただ座っていた。

その静けさが、今の自分には相応しいと思った。
 

近年 世界的に差別と言えば何でも許される

という状況になりつつあり

これはとても異常な状況だと思います

差別をしてはいけないが

差別を利用してもいけない

差別を利用する人が増えると

実被害を受けている人々の立場が

ますます悪くなります

差別を無くす為にも

差別を利用する人達は厳しく罰せなければなりません

 

# 言葉の盾

## 第一章 告発

雨の夜だった。

鷹野刑事は薄暗い取調室で、
目の前の男をじっと見つめていた。

容疑者の名前は三浦洋輔。四十二歳。無職。
三日前、コンビニエンスストアの店員を殴り、
レジから現金を奪って逃走した。
防犯カメラの映像は鮮明だった。
目撃者も三人いた。
証拠は盤石だと、誰もが思っていた。

「認めますか」

鷹野の問いに、三浦はゆっくりと顔を上げた。
唇の端に、かすかな笑みが浮かんでいた。

「これは差別だ」

その一言が、取調室の空気を変えた。

「私がこうして連行されたのは、私が在日だからだ。
日本社会による組織的な差別の被害者だ。
私は何もしていない。あの映像は捏造だ。
証人たちも警察に脅されている。
私は訴える。国連の人権委員会にも訴える。
マスコミにも全部話す」

鷹野は黙って聞いていた。

彼は三十一年のキャリアを持つベテラン刑事だった。
その間、本物の差別と戦ってきたことも
一度や二度ではない。
かつて、無実の在日朝鮮人の男性が
「外国人だから怪しい」という根拠だけで
逮捕されそうになったとき、
鷹野は上司に真っ向から反論し、冤罪を防いだ。
差別の恐ろしさを、彼は骨身に染みて知っていた。

だからこそ、今の三浦の言葉が、
彼の胸の中で別の感情を呼び起こした。

怒りではなかった。

悲しみだった。

---

## 第二章 圧力

翌朝、事態は動いた。

三浦の発言がSNSに拡散していた。
弁護士が声明を出した。
「在日コリアン男性が、証拠もなく逮捕された。
これは日本における民族差別の典型例だ」。
数時間でそのツイートは数万件リポストされた。

署には抗議の電話が殺到した。

鷹野の上司、管理官の桑田は、
苦虫を噛み潰したような顔で言った。

「鷹野、少し…慎重に動いてくれ」

「慎重に?」

「世間が注目している。
もし本当に差別的な捜査だったとなれば、
署全体の問題になる」

鷹野は手の中の捜査資料を見た。
被害者である店員、坂本誠二。二十三歳。
顔の左側に全治三週間の打撲。折れた奥歯が二本。
彼はまだ病院にいた。

「坂本君は今も痛み止めを飲んでいます」
と、鷹野は静かに言った。

「彼の歯は、差別が折ったんじゃない。
三浦が折ったんです」

桑田は視線を逸らした。

その日の夕方、
別の弁護士団体が署の前でデモを行った。
「差別捜査を許すな」というプラカードが並んだ。
テレビカメラが来た。

鷹野はその映像を
ロビーのモニターで見ながら、思った。

坂本君のことを、
誰かがプラカードに書いてくれているだろうか。

---

## 第三章 事実という地盤

鷹野は改めて、証拠を一つひとつ机に並べた。

防犯カメラの映像。
三浦の顔が正面から映っている。
時刻は二十二時十四分。
店内に入り、坂本に話しかけ、
レジに手を伸ばした瞬間、坂本が止めようとした。
三浦は拳を振るった。
映像は十一秒間、すべてを記録していた。

目撃者の証言。
三人とも接点がない。
バイトの女子大生、通りがかりの会社員、
近くのラーメン店の店主。
証言の細部が一致していた。

三浦の靴底に付着した泥。
逃走経路の路地の土壌成分と一致。

DNA。
坂本の血液が三浦のジャケットの袖口から検出された。

鷹野はすべてを書き出し、壁に貼った。

差別という言葉は、そのどこにも書いていなかった。

事実とは、そういうものだ、と彼は思った。

感情ではない。
声の大きさでもない。
プラカードの枚数でもない。
事実とは、そこに起きたことの痕跡だ。
泥であり、血液であり、映像であり、
骨の折れた音を聞いた三人の証人だ。

彼は決して、差別を軽く見ているわけではなかった。

むしろ逆だ。

差別とは、それほどまでに重い言葉だ。
歴史の中で人が傷つき、殺され、
踏みにじられてきた痛みが積み重なった言葉だ。
だからこそ、その言葉は正確に使われなければならない。

事実の裏付けのないところに、
その言葉を持ち込んではいけない。

差別という言葉が武器になるとき、
その刃は二つの方向に向く。

一つは、真の加害者を守る方向へ。

もう一つは、真の被害者を黙らせる方向へ。

三浦が「差別だ」と叫ぶたびに、
坂本誠二が受けた暴力は霞んでいく。
坂本もまた一人の人間だ。
守られるべき体と尊厳を持った人間だ。
なぜ彼の痛みは、
三浦の一言で霞まなければならないのか。

鷹野の指が、坂本の診断書の上で止まった。

これが現実だ。

言葉ではなく、ここにある。

---

## 第四章 崩れゆく現場

その週、鷹野は別の事件の話を耳にした。

隣の管轄で起きた傷害事件。
被害者の女性が、見知らぬ男に路上で突き飛ばされた。
骨折した。
通報して、男は一度連行されたが、
男が「自分は外国人だ、これは差別的な逮捕だ」
と主張したことで、釈放された。
証拠が「不十分」とされた。

被害者の女性は今も歩くとき痛みがあるという。

その翌週、
スーパーマーケットで万引きをした男が
「自分はマイノリティだ、
こんなふうに疑われるのは差別だ」と言い張り、
店側が謝罪に追い込まれたという話を聞いた。
防犯カメラには商品をポケットに入れる様子が
はっきり映っていた。

鷹野は目を閉じた。

社会が少しずつ、
おかしな形に変わっていく感覚があった。

差別と言われれば、警察は手を止める。
差別と言われれば、被害者は疑われる。
差別と言われれば、証拠さえも
「偏見から生まれたもの」として否定される。

それは差別と戦っているのではない。

それは現実から逃げているのだ。

差別は許されない。
だが、差別という言葉は、許可証ではない。
その言葉を口にすれば、
他人を殴っていい理由にはならない。
その言葉を口にすれば、
他人のものを盗んでいい理由にはならない。
その言葉を口にすれば、
他人の体を傷つけていい理由にはならない。
その言葉を口にすれば、
他人の人生を壊していい理由にはならない。

差別を主張することは、
他の誰かの人権を消す権利を与えない。

坂本誠二にも、
路上で骨を折られた女性にも、
人権がある。

差別という言葉が大きく叫ばれるたびに、
その人たちの人権が静かに踏みにじられていく。
その逆説を、誰が正面から語るのか。

---

## 第五章 証言台

公判が始まった。

法廷に三浦が現れたとき、その表情は穏やかだった。
弁護人席には三人の弁護士が並んでいた。
傍聴席には支援者と称する人々がいた。

検察は淡々と証拠を提示した。

映像。証言。DNA。靴底の泥。

弁護側は
「証拠はすべて差別的な捜査の産物だ」と主張した。

「在日というだけで疑われ、証拠を捏造された」
と言った。

鷹野は証人として証言台に立った。

「捜査において、
三浦被告の民族的背景を考慮したことはありますか」

「ありません」と彼は答えた。

「私が見たのは、防犯カメラの映像に映った人物と、
現場に残された証拠です」

「しかし、あなたは彼が在日だと知っていたのでは」

「捜査の中で、
その情報が捜査の方針を変えたことはありません。
もし三浦被告が日本人であったとしても、
同じ証拠があれば同じ捜査をしていた」

「なぜそう言い切れるのですか」

鷹野は少し間を置いた。

「なぜなら、私はこれまでの三十一年間、
それを自分への問いとして持ち続けてきたからです。
目の前の人間の属性で判断してはいけない。
だからこそ、証拠だけを見てきた。
今回も同じです」

法廷が静まった。

「差別は罰せられなければならない。
それは本当のことです。
ですが、差別という言葉もまた、
事実によって裏付けられなければならない。
言葉は事実の代わりにはなれない。
事実を消すことも、事実を作ることも、
言葉にはできません」

---

## 第六章 判決

有罪。

懲役三年。

判決が読み上げられたとき、傍聴席がざわめいた。

三浦は無表情だった。

鷹野は法廷の外に出て、秋の空を見上げた。

坂本誠二から、先日メッセージが届いていた。
「折れた歯の治療が終わりました。
食事ができるようになりました。
ありがとうございました」という短い文だった。

鷹野はそのメッセージを何度か読み返した。

本物の被害者は、声が小さい。

傷ついた体は、プラカードを持たない。

だから、声の大きさで正義を測ってはいけない。
事実から目を離してはいけない。
言葉に流されてはいけない。

差別は、現実に存在する。
歴史の中にも、今この社会の中にも。
それと戦うことをやめてはいけない。

しかし同時に。

差別という言葉を、犯罪者の逃げ道にしてはいけない。

その言葉の重さを守るために、
その言葉が軽く使われるとき、
私たちは正面から「それは違う」
と言わなければならない。

沈黙は共犯だ。

鷹野は上着の襟を立て、駐車場へと歩き始めた。

まだ仕事は終わっていない。

明日も、事実だけを見る。

---

*了*

 

第二百五十五弾「 因果の廊下」の続きです

 

 

# 因果の廊下 第二章 ――腐蝕――

## 一 家という名の鋳型

須賀家のリビングには、表彰状が飾ってあった。

亮介が小学校の時に取った書道の賞、
中学の時の学力テスト上位入賞の賞状、
サッカー部の地区大会準優勝のトロフィー。
壁の一角が、まるで小さな神棚のように
「結果」で埋め尽くされていた。

須賀亮介の父、須賀信一は地方銀行の支店長だった。
几帳面で、スーツにシワ一つ作らず、
近所からは「きちんとした人」と呼ばれていた。
しかし家の中では別の顔があった。

「成績が下がった理由を言え」

テストを食卓に叩きつける。
亮介が黙っていると、今度は椅子を引く音が鳴り、
それだけで亮介の肩が竦む。
信一は手を上げるタイプではなかった。
それよりも陰湿な方法を知っていた。
徹底的な無視。
あるいは冷たく静かな叱責を、
一時間でも二時間でも続けること。

「お前は何のために生きているんだ」

「この家の恥になりたいのか」

「俺がどれだけ苦労して稼いでいるか、
わかっているのか」

母の裕子は夫の隣でいつも黙っていた。
止めもしないが、加担もしない。
その沈黙が、ある意味では最も残酷だった。
助けを求める目を向ける息子に対して、
母は視線を逸らした。
波風を立てないことが、
この家における裕子の生存戦略だったから。

信一は地域のボランティア活動にも熱心で、
PTAの役員も務め、表向きは模範的な市民だった。
信号無視を絶対にしない。
ゴミの分別を徹底する。
近所への挨拶は欠かさない。
しかしそれらはすべて
「他人に見られている場所での振る舞い」
でしかなかった。
見えない場所での息子への言葉、妻への態度、
部下への叱責の仕方——それらを信一は
「躾」「指導」「教育」と呼んだ。
自分が誰かを傷つけているという自覚は、
ただの一度も生まれなかった。

ルールを守っていれば正しい人間だ。

成績が良ければ優秀な子供だ。

信一の倫理観はその程度の解像度しか持っていなかった。

法律に触れなければ何をしても許される、という感覚が、

言葉にされることなく家中に満ちていた。

亮介はその空気を、
生まれた時から肺いっぱいに吸い込んで育った。

---

性善説という考え方がある。
人は本来善い存在として生まれてくる、という思想だ。
しかしその言葉には続きがある。
善い存在として生まれた人間は、
学び続けなければ悪へと流れ落ちていく——と。

水は高いところから低いところへ流れる。
努力なしに人の精神が向かう先もまた、低い方だ。
意識して学ばなければ、
意識して正しくあろうとしなければ、
人は自然に楽な方へ、得な方へ、
自分に都合の良い方へと傾いていく。

須賀亮介は勉強ができた。
数学の公式を覚え、英単語を暗記し、
歴史の年号を頭に叩き込む努力を惜しまなかった。
それは父親に怒鳴られないための、
この家で生き延びるための技術だった。

しかし「人間として何が正しいか」を学ぶ機会は、
彼の人生においてついぞ訪れなかった。

学校の道徳の授業は形式だけで、
教師自身もその時間を持て余していた。
家では成績以外の話をする文化がなかった。
友人と言える存在は、
亮介の周囲には本当の意味では一人もいなかった。
彼の周りにいる人間は皆、彼を恐れているか、
彼に媚びているかのどちらかだった。
恐れられることと尊敬されることの区別を、
亮介はとうとう学ばなかった。

知識は積み上がった。
だが精神は澱んだ。

誰もそれに気づかなかった。
両親は通知表の数字しか見ていなかったから。

---

## 二 高校という新しい狩場

北陽高校に入学した須賀亮介は、
入学式の日に校内の地図を頭の中に描いた。

どこに教師の目が届かないか。
どの時間帯に廊下が人気なくなるか。
どういう人間が「使える」か。
どういう人間が「標的になりやすい」か。

彼はそれを意識的にやっていたわけではなかった。
ただ、中学時代に身体で覚えた習慣が、
自動的に作動していただけだ。
新しい環境に入ると、
彼の本能は自動的にそういった「地図」を描き始めた。

最初の標的は同じクラスの木村という男子だった。
おとなしく、本ばかり読んでいて、
目が合うとすぐに視線を逸らすタイプ。
亮介の目にはそれが「安全な獲物のしるし」
として映った。
最初は些細な嫌がらせから始まった。
椅子を引いて転ばせる。
提出物を隠す。
やがて取り巻きができ、
木村への行為はじわじわと陰湿さを増していった。

次は別のクラスの女子グループへの嫌がらせ。
次は部活の後輩への理不尽な暴力。

標的は増えていった。

しかし発覚はしなかった。

亮介は賢かった。
教師の前では模範生を演じることを熟知していた。
成績優秀で、挨拶もできて、
文化祭の実行委員も引き受ける。
その仮面の裏に何があるかを、
教師たちは見抜けなかった。
あるいは——見たくなかったのかもしれない。
成績も素行も良い生徒を問題児扱いすることへの
心理的抵抗が、教師たちの目を曇らせていた。

「須賀は良い生徒だ」という先入観が、
一度作られると更新されなかった。

被害を受けた生徒たちは、誰も教師に訴えなかった。
訴えたところで何も変わらないと知っていたから。
あるいは、訴えた後にもっとひどい目に
遭うことを恐れていたから。

沈黙の中で、
亮介の行為はより深く根を張っていった。

罰せられない経験が積み重なるごとに、
亮介の中で何かの閾値が下がっていった。
これをやっても大丈夫という感覚が、
より大きな行為への入口を開いた。
罪に対する感覚が麻痺していく過程は、
本人には決して自覚されない。
気づいた時にはもう、麻痺は完成している。

厳しい罰とは、単に加害者への報復ではない。
次の罪を犯す前に立ちはだかる壁だ。
その壁がなければ、人は坂道を転がり落ちるように、
より重い罪の方向へと向かっていく。
須賀亮介の周囲には、その壁が一度も現れなかった。

家では父親という壁があった。
しかしその壁は「成績」と「外面」しか見ていなかった。

精神の腐蝕には、完全に無力だった。

---

## 三 横断歩道の誤解

十月の晴れた午後だった。

駅前の横断歩道で、亮介は信号が変わるのを待っていた。

部活の帰りで、少し苛立っていた。
練習中にコーチに怒鳴られたことが頭に残っていて、
その不快感の処理場所をずっと探していた。

後方から、勢いよく走ってくる足音がした。

次の瞬間、小柄な塊が亮介の背中に激突した。

「っ——!」

弾みで前によろめき、一歩踏み出す。
その一歩が歩道と車道の境界線に、
ほぼ重なっていた。

亮介は振り返った。

小学二、三年生くらいの男の子が、
ランドセルを背負ったまま地面に尻もちをついていた。
ぶつかった衝撃で転んだのだろう。

「何やってんだ!」

亮介の口から反射的に言葉が出た。
怒鳴り声だった。
練習中に溜め込んでいたものが、そのまま出た。
「危ないだろうが、このガキ!
ちゃんと前見て走れよ、ぶっ殺すぞ!」

男の子の顔が凍りついた。

目を見開いて、口を半開きにして、体を固める。
逃げることも泣くことも忘れたような顔だった。

亮介は舌打ちをして前に向き直ろうとした。
その時、横から声が聞こえた。

「あの、すみません——」

三十代くらいの女性が、小走りで近づいてきた。
息を切らせていた。

「この子の母親です。本当に申し訳ありませんでした。
走らないように言っていたのに……」

女性は男の子の腕を掴み、深く頭を下げた。
男の子は母親の姿を見た瞬間、ようやく泣き出した。
ぼろぼろと涙をこぼしながら、
母親の上着をぎゅっと掴んだ。

「いえ、まあ……」

亮介が返答に困っていると、
女性が顔を上げ、真剣な表情で言った。

「あなたが体を張って止めてくださらなかったら、
この子は車道に飛び出して轢かれていたかもしれない。
本当に、ありがとうございました」

亮介は一瞬、意味が理解できなかった。

——何の話だ?

自分は怒鳴っただけだ。
よろめいて一歩踏み出したのも完全に事故だ。
体を張るどころか、
ぶつかられて転びそうになっただけだ。

しかし、傍から見ればそう見えたのか。

走ってきた子供が車道に飛び出しそうになったところを、

前にいた高校生が体で受け止めた
——そう見えたのか。

「……大丈夫ですよ」

言葉が、口から滑り出た。

訂正しようとした意思が、どこかに消えた。
疲れていたから。
面倒だったから。
あるいは、称賛されることへの心地よさが、
訂正の言葉を飲み込んだから。

亮介はちらりと男の子を見た。

泣きながら母親の服を掴んでいる。
本当のことを話せる状態ではなかった。
そもそも、彼が目にしたのは怒鳴られた光景だけで、
前後の状況を正確に説明できる年齢でもなかった。

「どうせ本当のことは言わないだろう」

直感的に、そう思った。

周囲を見ると、信号待ちをしていた通行人が数人、
こちらを見ていた。
女性の言葉が聞こえたのだろう。
何人かが頷き、一人の年配の女性が
「えらいわねえ、今どき珍しい」と言った。

亮介の唇の端が、わずかに上がった。

---

小学生の母親は鳥居さやかといった。
地元の小学校のPTA会長を務める、
地域でも顔の広い人物だった。

彼女は翌日、
小学校で朝礼のスピーチの時間にこの話をした。
「うちの息子が危ない目に遭ったところを、
地域の高校生が救ってくれた」と。
話はPTAの連絡網に乗り、
地域の掲示板のようなSNSグループに投稿され、
あっという間に広がった。

その話が、北陽高校の校長の耳に届くまで
一週間もかからなかった。

---

## 四 全校集会

体育館に全校生徒が整列した。

壇上には校長の隣に、
制服姿の須賀亮介が立っていた。

「先日、地域の方から本校の生徒について
素晴らしいご報告をいただきました。
咄嗟の判断で小さな命を守った、
その勇気ある行動を、本校は誇りに思います」

校長の声がマイクを通して体育館に響く。
生徒たちの視線が壇上に集まる。

校長が亮介の肩に手を置いた。

「須賀亮介くん、本当によくやってくれました」

拍手が起きた。

体育館の中程の列で、
木村は両手を膝の上に置いたまま、壇上を見ていた。
先週、亮介とその取り巻きに自転車の空気を抜かれ、
帰りに一時間以上歩いて帰った。
その足が、まだ少し痛かった。

木村の隣では、
別のクラスの女子生徒が唇を噛みしめていた。
亮介のグループに靴を隠された翌日、
雨の中を上履きで帰った子だった。

何列か後ろでは、部活の後輩が俯いて床を見ていた。
先月、亮介に理由もなく殴られた子だった。

拍手の音が、体育館に満ちていた。

壇上の亮介は正面を向いていた。
その表情は、謙遜を演じていた。
しかし目の奥には別のものが灯っていた。

——気持ちいい。

これだ、と思った。

人に褒められる感覚。
認められる感覚。
この充足感を、亮介は家では一度も得たことがなかった。

父親が褒めるのは成績だけで、
それも「当然だ」「もっとやれ」
という言葉とセットだった。
純粋な肯定を、亮介は与えられた記憶がなかった。

だから今、体育館中の拍手が、
乾ききった土に染み込む水のように、
亮介の中に落ちていった。

そしてその水は、腐った土壌に吸われて、毒に変わった。

反省は生まれなかった。

代わりに生まれたのは、確信だった。

俺はこれだけ称えられる人間だ。
俺はここにいる誰よりも価値がある。
俺がやってきたこと、やっていることを、
誰も本当には知らない。
そして知られることもない。

拍手の中で、亮介は壇上に立ち続けた。

---

普段彼に虐められていた生徒たちが
拍手をしているのを、亮介はちらりと見た。

彼らの手は動いていた。音も出ていた。

しかし顔は笑っていなかった。

亮介にはそれがわかった。
わかった上で、何も感じなかった。

人はその人の一面しか見えない。

教師も、親も、地域の人も、
亮介の「良い面」だけを切り取って評価した。
その裏で何が起きているかを、誰も見ようとしなかった。

見えなかったのではなく、見なかった。
あるいは、見る方法を持っていなかった。

人間の評価というものは本来、
その人の全体を見て初めて意味を持つ。
しかし実際には、
目立つ一場面が全体の印象を塗り替えてしまう。
特に「良い行為」はその力が強い。
一つの美談が、無数の悪事を覆い隠す布になりうる。

その布が、この日、亮介の上にかけられた。

そして亮介はその布の下で、
より深く、より安全に、
腐り続けることができるようになった。

---

## 五 閾値の消滅

全校集会から二週間後、
木村の靴箱には画鋲が入るようになった。

一ヶ月後、別の生徒の財布が消えた。

六週間後、
体育倉庫の裏で後輩が泣いているのを
用務員が見かけたが、生徒の名前は聞けなかった。

亮介の悪事は称賛されたことで、加速した。

これは単純な心理だ。
行為に対して報酬が与えられると、
その行為は強化される。
亮介が経験したことは、
虐めを行うことへの間接的な報酬だった。
虐めそのものが褒められたわけではないが、
亮介の「自分は何をしても罰せられない」
という確信が、公開の場での称賛によって強固になった。

罰がなければ罪のハードルは下がる。

ハードルが下がれば、より容易に越えられる。

越えるたびに、次のハードルはさらに低くなる。

この傾斜は、本人には見えない。
外から見ている者にも、
注意深く観察しなければ見えない。
それは急な崖ではなく、なだらかな坂だからだ。
一歩一歩は小さく見える。
しかし振り返れば、
とんでもないところまで下りてきている。

亮介は今、その坂のずいぶん下の方にいた。

しかし彼は一度も振り返らなかった。

振り返る習慣を、誰も教えなかったから。

---

## 六 共感という能力について

人は二種類の失敗をする。

共感力が過剰な人と、共感力が欠如した人だ。

前者は他者の痛みを我が事のように感じすぎて、
精神を削られていく。
世界中の悲しみを背負い込んで、やがて立てなくなる。
善意が毒になる。

後者は他者の痛みが見えない、
あるいは見えても何も感じない。
世界中の悲しみを「自分には関係ない」と素通りする。
無感覚が鎧になる。

須賀亮介は後者だった。

正確に言えば、元々は後者ではなかったかもしれない。
幼い頃、亮介は泣き虫だった。
怪我をした猫を見て泣いた記憶がある。
クラスメートが転んだ時に
「大丈夫?」と言える子供だった。

しかし父親はそのたびに言った。
「男が泣くな」
「他人に構うな」
「自分のことだけ考えろ」。

共感の芽は、丁寧に摘み取られていった。

摘み取られた後に残ったのは、空洞だった。
他者の感情が入ってこない空洞。
その空洞を埋めるように、支配欲と優越感が育った。
相手の痛みを感じる代わりに、
相手が痛がる様子を見て何かを感じるようになった。
それを「感情」と呼んでいいかどうかも、
亮介にはわからなかった。
ただ、退屈しのぎになった。

共感力が全くない人間を、人は「人でなし」と呼ぶ。

その言葉は正しい。

他者の痛みを想像できない人間は、
他者を人として見ていない。
見ているのは物体だ。
動かせる駒だ。
反応する玩具だ。

亮介の周囲にいる人間たちは、
徐々にそういった存在になっていった。
彼の中では。

---

重い罰を与えることに意味はないと言う人がいる。

更生を優先すべきだ、と言う人がいる。

その言葉を、亮介に虐められ続けた
木村が聞いたとしたら、どう思うだろう。

上履きで雨の中を歩いて帰った
あの女の子が聞いたとしたら。

体育倉庫の裏で泣いていたあの後輩が聞いたとしたら。

加害者の更生を語る言葉は、
しばしば被害者の存在を忘れている。
更生に時間がかかる間、
被害者は何をして待てばいいのか。
傷を持ったまま、どこで待てばいいのか。
加害者が「学んでいる」間も、
被害者の痛みは続いている。
眠れない夜は続いている。
学校へ向かう足が重い朝は続いている。

罪への厳しい罰は、復讐のためだけにあるのではない。

次の被害者を生まないための壁でもある。

加害者に
「これ以上やれば取り返しのつかないことになる」
と知らしめる壁でもある。

そしてその壁が存在することで初めて、
人は自らの行為を真剣に見つめ直す機会を得る。
壁がなければ、坂は続くだけだ。

須賀亮介の周囲には、ついにその壁が現れなかった。

高校三年間を通じて。

大学四年間を通じて。

彼は一度も、本当の意味で止まらなかった。

止まり方を、知らなかった。

止まる必要を、感じなかった。

そしてその先に、息子の翔太が生まれた。

須賀亮介は親になった。
しかし人間としての精神は、
高校時代の坂道の途中で止まったままだった。
いや、止まってすらいなかった。
ゆっくりと、しかし確実に、転がり続けていた。

父から受け継いだ「成績と外面だけを見る目」。

中学から積み上げた「罰せられないという確信」。

高校で得た「称賛は行為を正当化する」
という歪んだ学習。

それらが複合して、
翔太という一人の子供の上に降り注いだ。

川は上流から流れてくる。

澱んだ水は、澱んだまま下流へ向かう。

誰かが途中でそれを浄化しなければ、
毒は次の世代へと引き継がれていく。

それが起きた。

須賀家で、静かに、確実に、それが起きた。

---

*(続く)*
 

第二百九十七弾「山暮らしの大学生」

第二百九十八弾「山暮らしの大学生 その2」

第二百九十九弾「山暮らしの大学生 その3

第三百弾「山暮らしの大学生 その4」

第三百一弾「山暮らしの大学生 その5」

の続きです

 

# 山暮らしの大学生

## 第十二章 メモ帳と商品知識

バイトの初日、
澄雄はスマートフォンのメモアプリを開いて、
教わったことを片端から打ち込んだ。

商品の配置。
番号と通路の対応。
よく聞かれる商品の場所。
工具の種類と用途。
塗料の選び方。
木材のサイズ規格。

打ち込みながら、ちゃんと覚えている気がした。
だが翌日、いざお客さんに聞かれると、
頭の中が空白になった。
スマートフォンを取り出してメモを探すが、
どこに書いたか見つからない。
見つかっても、その文字列が
自分の手で書いたものとは思えないような
他人行儀な感じがした。

二日目の昼休みに、
澄雄は文房具売り場で小さなメモ帳を買った。

三十二ページ、百円の、特に変哲もないメモ帳だった。

その日の午後から、ボールペンで書くようにした。

商品名、通路番号、特徴を短い言葉で。
図が必要なものは簡単なスケッチも添える。
手を動かして書いていると、
書きながら頭の中で一度整理される感覚があった。
打ち込むのとは違う。
キーボードは速すぎて、
思考が追いつかないまま言葉が並んでいく。
手書きは遅いぶん、書きながら考えている。

後で調べてみると、
手書きの方が記憶に定着しやすい
という研究があるらしかった。
デジタルのメモは手軽で大量の情報に
すぐアクセスできる半面、
手間がかからないぶん脳が「覚えなくていい」
と判断するのだと書いてあった。
なるほど、と思った。
個人差はあるだろうが、
澄雄には明らかに手書きの方が合っていた。

一週間もすると、
メモ帳の最初の数ページが、ぎっしりと埋まっていた。

---

仕事そのものは、最初の一週間が一番しんどかった。

わからないことを聞かれるたびに
「少しお待ちください」と言って先輩を探しに行く。
通路を間違えてお客さんを連れ回す。
棚の補充をしながら商品名を覚えようとして、
気がつくと閉店間際になっている。

それでも体は正直で、一週間が過ぎると少し慣れて、
二週間が過ぎるとかなり慣れた。

一ヶ月が経つころには、
主要な商品の場所はほとんど頭に入っていた。

ホームセンターは、
澄雄が思っていたよりずっと奥が深かった。

工具の売り場だけでも、
ドライバー一本取っても種類が十を超える。
プラス、マイナス、精密、インパクト、電動。
それぞれに適した素材と用途があって、
間違ったものを使うとネジが潰れたり、
素材が割れたりする。
木材売り場では、同じ「板」でも
針葉樹と広葉樹で強度と加工のしやすさが全然違う。
塗料は屋内用と屋外用を間違えると、
雨で数ヶ月のうちに剥がれてしまう。

働きながら澄雄は、
売り場を歩くたびに山のことを考えた。

これは倉庫の棚に使えるか。
このペンキは屋外の木材に使えるか。
このポリタンクは川の水を貯めるのに向いているか。
自分が実際に必要としている知識と、
売り場の商品が直結していた。

客が何を手に取るかも、観察するようになった。

年配の男性客が工具売り場で
長い時間をかけて選んでいるとき、
声をかけてみると「庭の小屋の屋根を補修したい」
という話だった。
必要な材料を一緒に考えながら売り場を回ると、
お客さんが「助かった」と言って帰っていった。
その後ろ姿を見て、澄雄は自分でも少し驚いた。

一ヶ月前には何も知らなかった自分が、
今は人の役に立てている。

店を出る前に、澄雄はメモ帳に一行書き加えた。

「屋根補修材、防水シートと波板の組み合わせが基本」

山の風呂小屋に使えるかもしれない、と思いながら。

田村先輩がキャンプに来る日を、
バイトのシフト表を見ながら確認した。
今週の木曜と金曜だ。

改めて田村先輩に感謝した。
この仕事を紹介してくれたことへの感謝が、
働くたびに積み上がっていく気がする。

---

## 第十三章 帰る場所

木曜日の朝、
澄雄は大学の構内で田村先輩を探した。

中庭のベンチに先輩はいた。
コーヒーを飲みながらスマートフォンを見ていたが、
澄雄を見つけると立ち上がった。

「おはようございます」

「おう。バイト、慣れてきたか」

「だいぶ。商品の場所は大体覚えました」

「それは早いな」田村先輩は少し目を細めた。

「あそこのホームセンター、
品揃えが多いから覚えるのに時間かかると思ってた」

「メモ帳に手書きにしたら覚えやすくなったんです」

「なるほど」先輩は小さく頷いた。

「で、これ」

差し出したのは、小さな鍵だった。
チェーンロックの合鍵だ。

「スペアとして持ってて。俺が先に行くから」

「軽トラで行くんですよね」

「ああ。今日はいくつか持ってきたいものがあってな。
パジェロじゃ積めないから部の車を借りた」
軽く言うが、荷物の中身が気になった。
澄雄が少し考えている顔をしていたからか、
先輩は「行けばわかる」とだけ言った。

「自分はバイトがあるので、十八時半ごろには戻ります」

「わかった。待ってる」

---

昼のカフェで食べていたら、昭雄が来た。

トレーを持って、向かいに座る。当然のような顔だった。

「今日、田村先輩が行くんだろ。俺も行くからな」

「今回で五回目だぞ、お前」

「何が問題なんだ」

「問題はない」
問題は全くなかった。
昭雄が来るたびに食材を持参して料理を作ってくれる。
今や澄雄のキャンプ場での食生活は、
昭雄が来る日と来ない日でかなり差がついていた。
来ない日の自炊が少し雑になっているのは、
否定できない事実だった。

「毎回飯まで作ってくれるのはありがたいけどな」

「作りたいから作ってるだけだ」

「今日は何作るんだ」

「焼きそばとBBQ。
田村先輩に何食べたいか聞いたら、
肉があればいいって言ってたから」

「先輩にも確認したのか」

「当たり前だろ。先輩が来るんだから」

昭雄の準備の良さは、キャンプ経験から来ている。
人数分の食材を計算して、調理の段取りを組んで、
何が足りないかを先に確認しておく。
そういうことが身に染みついていた。

「俺はバイト終わりで十八時半には戻るよ」

「わかった。それまでに先輩と一緒に色々やっておく」

「色々って何だ」

「行けばわかるよ」

先輩と同じ言葉を、昭雄も言った。
澄雄は少し呆れながら、
おにぎりの最後の一口を口に入れた。

---

午後の講義が終わり、澄雄はバイトに向かった。

木曜日は十六時から十八時の二時間シフトだ。
エプロンを着けて売り場に出ると、
平日の夕方らしい客の入りで、
仕事帰りに寄ったとおぼしき人たちが行き来していた。

澄雄はいつも通り働きながら、今日も売り場を観察した。

電動工具のコーナーで、
若い女性が棚の前で立ち止まっていた。
DIY用の小型ドライバーを手に取って、
箱の裏を読んでいる。声をかけてみると、
「棚を自分で作りたいんですけど、
これで大丈夫ですか」と聞かれた。

棚の材料と、使う木ねじのサイズを確認して、
それに合った工具を一緒に選んだ。
必要なビットの種類を説明して、
木材売り場での選び方も伝えた。

お客さんが
「ありがとうございます、わかりやすかったです」
と言って歩き出すのを見送りながら、
澄雄はメモ帳を取り出した。

「棚製作:木ねじのサイズに対応したビット確認。
材料は棚板の厚さ次第」

書き込みながら、倉庫の棚のことを考えた。
トレーラーの荷物をいい加減に整理しなければならない。

棚を作れば、かなりスペースが有効に使える。
必要な材料は頭の中でだいたい見当がついた。

十八時になって、バイトが終わった。

ロッカーでエプロンを外しながら、
澄雄は少し足が疲れていることに気がついた。
立ちっぱなしの二時間は、
慣れてきたとはいえそれなりに堪える。
帰りにスーパーで何か買おうかと思い、
冷蔵コーナーをのぞいて、
結局おにぎりと缶コーヒーを買った。

カブのエンジンをかけて、山に向かう。

夜の山道は、今ではすっかり慣れた。
最初はヘッドライトの届かない暗がりが怖かったが、
一ヶ月も通えば木の並びも道の曲がり具合も
体に入ってくる。
ここで少し傾く、
ここで路面が荒れる、
ここで風が出る。
カブが体の延長のように動く。

フェンスの前でカブを止めて、
チェーンロックのスペアキーを取り出す。

外してみると、内側のチェーンが
すでに別のロックで留められていた。先
輩が来た証拠だ。
澄雄は自分のロックも外して中に入り、
またかけ直した。

山道を登る。
木々の間から、広場の明かりが見えた。

キャンプ場に着いたとき
、澄雄は思わずカブを止めて、前方を見つめた。

軽トラが停まっている。
それは予想通りだった。

だが、ドラム缶風呂の周りが変わっていた。

小屋が建っていた。

三方を板壁で囲まれた、屋根付きの小さな小屋だ。
入口は開けてあって、中にドラム缶が収まっている。
トタンの波板で葺かれた屋根が、
ドラム缶の上にきちんと被さっていた。
柱は角材で、しっかりと地面に固定されている。
素人仕事ではない。
寸法が合っていて、
屋根の角度も水はけを考えた傾きになっている。

それから、水場の近くに
大型のポリタンクが置かれていた。
二百リットルはあるだろうか。
青いボディに、蛇口がついている。
その横に、手押しのポンプと、小型の電動ポンプ。

澄雄はカブを止めて、ヘルメットを脱いだ。

ちょうどそのとき、
風呂小屋の入口から人が出てきた。

田村先輩だった。
タオルを首にかけて、湯上がりの顔をしていた。

「帰ったか。バイトお疲れ様」

「先輩、これ……」
澄雄は小屋を指さした。

「今日一日でやったんですか」

「部員が何人か手伝いに来てくれた。
今はもう帰ったけどな。
材料も段取りも昨日のうちに準備してたから、
組むだけなら半日もかからなかった」

「ありがとうございます」

言葉が続かなかった。
頭を下げながら、澄雄は目の奥が
少し熱くなるのを感じた。
バイトに行っている間に、
知らない人たちが自分のために
手を動かしてくれていた。

「気にするな」
先輩はタオルで髪を拭きながら、当然のように言った。

「ポリタンクは部員の実家から。
使わなくなったのを譲ってもらった。
ポンプ二台も同じだ。
電源がソーラーだけだから、
念のために手動のも置いておいた」

「手が届いてますね、いつも」

「経験からくる心配性だよ」
先輩は少し笑った。

「これで川まで毎回バケツを持って行かなくて済む」

澄雄は小屋に近づいて、中を確認した。
ドラム缶の設置位置も微調整されていて、
以前より入りやすい角度になっていた。
壁があるだけで、風が遮られる。
屋根があるだけで、雨の日も使える。
これが毎日使う設備として、どれほど違うか。

小屋の柱の一本を手で触れてみた。
しっかりしていた。揺すっても動かない。

「おかえり」

広場の方から昭雄の声がした。
七輪の前にしゃがんで、
BBQコンロに炭を熾しながら手を上げていた。

「今日は焼きそばも作るぞ。
野菜多めにしたから文句なしだ」

「文句なんかない」

「それと、先輩が持ってきた食材も混ぜていいですか、
って聞いたら混ぜていいって言ってもらった」

田村先輩が「細かいことを気にするな」と笑った。

澄雄はカブを所定の場所に止めて、
荷台に括り付けてきたコンビニの袋を外した。
おにぎりと缶コーヒーだ。
大した差し入れではないが、
手ぶらで帰るのも落ち着かなかった。

「これしかないですけど」

「十分だ」
先輩はおにぎりの袋を受け取って、

「お前が帰ってくるのを待ってたんだよ」と言った。

それが嬉しかった。

待っていてくれる人がいる。
帰ると声をかけてもらえる。
バイトを終えて帰ってきた場所に、
明かりがついていて人がいる。

ただそれだけのことが、胸の奥をじんわりとさせた。

山の生活は確かに不便で、完璧からは程遠い。
トイレには外に出なければならないし、
冬が来ればもっと寒くなる。
課題はまだ山積みだ。

だが今この瞬間、澄雄には帰る場所があった。

「飯にするか」と昭雄が立ち上がった。

炭が赤く熾きて、網の上で肉が音を立て始めた。

焼きそばの甘辛い匂いが、夜の山に漂い始めた。
田村先輩がおにぎりを開けながらしゃがんで、
炭の状態を確認している。
昭雄が菜箸を持って鼻歌を歌いながら
野菜を炒めている。

澄雄は椅子を一つ引き寄せて、その輪の中に加わった。

今日も人がいる夜だった。

一人は気楽で自由だけれど、
ずっと続けばやはり空洞みたいなものができてくる。
両親を亡くしてからその空洞は
人より深いのかもしれない。
それを埋めてくれるのが、こういう夜だった。

昭雄が「できたぞ」と焼きそばの皿を渡してきた。

湯気が立っていた。

「ありがとう」

「毎回言うな、そんなこと」
昭雄は照れた様子もなく次の皿に焼きそばを盛っていた。

田村先輩が缶ビールを開けながら
「いただきます」と言った。

三人の声が、夜の山に重なった。

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*(以降 続く)*