# 第一話 夢を重力へ変えた男

 大熊健吾が初めて巨大ロボットを見たのは、
まだ五歳の頃だった。

 テレビ画面の向こうで鋼鉄の巨人が空を飛び、
光を放ち、人々を守る。

「すごい……。」

 その一言だけだった。

 幼い健吾は画面に釘付けになり、
放送が終わってもテレビの前から動かなかった。

「大きくなったら何になりたい?」

 保育園の先生に聞かれた時も、答えは決まっていた。

「ロボットに乗る人!」

 周囲は笑った。

 もちろん悪意はない。

 子供らしい夢だったからだ。

 だが健吾だけは本気だった。

 本当に乗るつもりだった。

 小学校へ進学すると図書館で科学の本を読み漁り、
中学では物理や数学に夢中になった。

 高校では工学の専門書まで読み始める。

 そして大学へ進学した頃には、
一つの残酷な事実を理解してしまった。

「巨大ロボットは……現代技術ではほぼ不可能だ。」

 巨大な質量。

 骨格強度。

 関節駆動。

 材料工学。

 熱問題。

 電力供給。

 姿勢制御。

 どれを取っても壁だった。

 歩くだけで莫大なエネルギーが必要になる。

 人型である意味もほとんど無い。

 兵器としても建設機械としても効率が悪い。

 現実はあまりにも非情だった。

 研究室のホワイトボードに書かれた
計算式を見つめながら健吾は静かに呟く。

「夢は……終わりか。」

 その時だった。

 ふと、一冊の資料が目に入る。

『装着型外骨格(Powered Exoskeleton)』

 健吾はページをめくる。

「巨大ロボットが無理なら……。」

 次の瞬間、彼の中で何かが切り替わった。

「人がロボットになる。」

 その一言が全てだった。

 巨大ロボットを諦めたわけではない。

 夢の形を変えたのだ。

「俺自身が乗り物になればいい。」

 それからの日々は研究一色だった。

 大学院。

 企業研究所。

 そして独立。

 誰も理解できないような設計図を何百枚も描き続けた。

 人間の筋肉を補助する人工筋肉。

 軽量フレーム。

 関節制御。

 慣性補正。

 姿勢安定。

 衝撃吸収。

 神経信号制御。

 少しずつ完成していく。

 だが、一つだけどうしても解決できない問題が残った。

 動力だった。

 世の中のパワードスーツは電気で動く。

 大型バッテリー。

 燃料電池。

 内燃機関。

 どれも研究されている。

 しかし健吾は納得しなかった。

「違う。」

 机を叩く。

「これじゃ飛べない。」

 飛べたとしても数分。

 推進剤も必要になる。

 バッテリーは重い。

 出力も足りない。

 熱も発生する。

「俺が欲しいのはヒーローじゃない。」

「自由だ。」

 空を飛ぶ。

 宇宙へ行く。

 世界中どこへでも行ける。

 そんなパワードスーツ。

 そのためには今ある技術では駄目だった。

「だったら……。」

 健吾は決意する。

「動力そのものを作ればいい。」

 そこから狂気にも似た研究が始まった。

 朝。

 起床。

 研究。

 昼。

 研究。

 夜。

 研究。

 深夜。

 研究。

 仮眠。

 また研究。

 研究室の床で寝る生活。

 カップ麺。

 コンビニのおにぎり。

 コーヒー。

 空になったエナジードリンクの缶が山になる。

 ホワイトボードは数式で埋まり、
消しては書き、また消して書く。

 一般相対性理論。

 量子場理論。

 超伝導。

 真空エネルギー。

 重力波。

 ゼロ点振動。

 既存理論では説明できない仮説を何百と立て、
何百と捨てる。

「重力は本当に弱い力なのか?」

「空間そのものを曲げられないのか?」

「慣性と重力は本当に同じなのか?」

 誰にも理解されない独り言を繰り返しながら、
健吾は紙の上に宇宙を書き続けた。

 しかし答えは出ない。

 それでも諦めなかった。

 幼い日の夢だけが彼を支えていた。

 そして、その運命の日が訪れる。

 研究が三日連続徹夜となった昼だった。

 健吾は眠気で視界が霞みながら
コンビニへ向かっていた。

「……腹、減った。」

 信号が青になった。

 歩き始める。

 その瞬間だった。

 耳を裂くようなクラクション。

「危ない!」

 誰かが叫ぶ。

 健吾が顔を上げた時には、
赤信号を無視した乗用車が目の前まで迫っていた。

「え——」

 轟音。

 身体が宙を舞う。

 世界が回転する。

 空。

 道路。

 ビル。

 空。

 道路。

 ビル。

 その一瞬だった。

 衝撃で意識が遠のく中、
不思議なほど頭だけが冴えていた。

「待て……。」

 回転する景色。

 落下。

 重力。

 慣性。

 空間。

 曲率。

 質量。

 ベクトル。

 今まで何年考えても繋がらなかった数式が、
一瞬で一本の線になる。

「そうか……!」

 世界は暗転した。

 目を覚ました時、病室だった。

 医師は静かに告げる。

「……下半身は、もう動きません。」

 健吾は何も言わなかった。

 布団をめくる。

 足を見つめる。

 命令する。

 動け。

 動け。

 動け。

 しかし何も起こらない。

 静寂だけが病室を満たしていた。

 夢は、二度砕け散った。

 それでも健吾は絶望しなかった。

 事故の瞬間に見えた、
あの数式が脳裏に焼き付いていたからだ。

「まだ終われない。」

 車椅子に座ったままノートを開く。

 震える手で書き始める。

 事故の瞬間に閃いた理論。

 空間の局所曲率を制御し、
重力場そのものを人工的に発生・操作するという、
常識外れの発想。

 数式を書き進めるたびに矛盾が見つかり、
修正し、新たな理論を積み上げる。
実験では何度も失敗し、試作装置は発熱して溶け、
センサーは飽和し、計測器は異常値を示し続けた。

 だが健吾は止まらない。

 歩けなくなった身体は、
皮肉にも彼を研究だけに没頭させた。

 車椅子の上が、彼の戦場となった。

 そして五年後――。

 静まり返った地下研究室。

 掌ほどの球体装置が、
無音のまま宙に浮かんでいた。

 支えはない。

 磁石でもない。

 ワイヤーもない。

 それは空間そのものに固定されたかのように、
微動だにしなかった。

「……成功だ。」

 健吾の声は震えていた。

 重力制御装置。

 空間に直接重力勾配を形成し、
外部から燃料を供給せずとも
極めて長期間安定動作を維持できる革新的機関。

 理論上、半永久的な運用が可能。

 世界の物理学を根底から覆す発明だった。

 健吾は笑った。

 静かに。

 やがて声を上げて。

 そして涙を流しながら笑い続けた。

「やった……!」

 その装置を中心に据え、最後の組み立てが始まる。

 漆黒のフレーム。

 全身を包む装甲。

 人工筋肉。

 神経接続。

 姿勢制御。

 重力制御ノズル。

 防護フィールド発生器。

 すべてが一つへと繋がる。

 最後のボルトを締めた瞬間、健吾は静かに呟いた。

「完成だ。」

 夢見続けた飛行型パワードスーツ。

 ついに現実となった。

 震える手でヘルメットを装着する。

 起動。

 電子音が響く。

『神経接続確認』

『人工筋肉同期』

『重力制御装置オンライン』

『全システム正常』

「立つ。」

 命じる。

 装甲が静かに駆動し、
長年動かなかった脚がゆっくりと床を踏みしめた。

 一歩。

 また一歩。

 歩く。

 歩ける。

 やがて駆け出す。

「ははっ……!」

 研究室を走り回る。

 笑いが止まらない。

 そして重力ベクトルを下方へ反転。

 身体がふわりと浮き上がる。

「飛べる……!」

 天井近くまで舞い上がり、滑るように旋回する。

 彼は夢見た空を飛んでいた。

 続けて重力防護膜を展開。

 青白い膜が全身を包み、
試験用の鋼鉄弾が弾かれて床へ転がる。

「完全防御……!」

 さらに照準を合わせ、高重力を一点へ照射。

 厚さ数十センチの鋼塊が、音もなく押し潰され、
紙細工のように圧縮された。

「攻撃能力も問題なし。」

 酸素ボンベを接続し、真空環境試験へ。

 防護膜は気密を維持し、宇宙空間での活動を可能にした。

 さらに大気圏再突入を想定した高熱試験では、
重力防護膜が衝撃波と熱を逸らし、
装甲温度は安全域を維持する。

「宇宙にも行ける……。」

 幼い頃、テレビの前で憧れた光景。

 ロボットが空を飛び、宇宙へ向かう姿。

 その夢は、今、自分自身の身体で実現した。

 健吾は誰もいない研究室の中央で拳を突き上げる。

「やったあああああああああっ!」

 歓喜の叫びが壁に反響する。

 笑い、泣き、飛び、着地し、また飛ぶ。

 子供の頃の夢が、ようやく現実になったのだ。

 しかし健吾はまだ知らない。

 この発明が、やがて世界中の国家と企業、
そして人類の未来そのものを
大きく変えていくことになるとは――。

**(第一話・了 第二話へ続く)**
 

 

# 楽園の代償

## 第一章 選別

 ジュネーブの国連本部、
新設された「秩序監査院」の最上階から
見下ろす街並みは、
十年前と何も変わっていないように見えた。
だが黒沢玲は知っていた。
この十年で、世界の骨格そのものが
作り替えられたことを。

 黒沢は監査官としての辞令を受け取ったばかりだった。

窓の外に広がるレマン湖を眺めながら、
彼女は自分がこれから足を踏み入れる組織の異様さを、
まだ実感として掴めずにいた。

「驚くことはない。誰もが最初はそうだ」

 声をかけてきたのは上司となる監査院長、
ハビエル・モラレスだった。
かつては国際刑事裁判所の判事だった男で、
旧国連の腐敗を
誰よりも憎んでいた人物だと聞いている。

「私が入省した日、最初に渡されたのはこれだ」

 モラレスが差し出したのは薄い契約書だった。
黒沢はそれを受け取り、目を通す。

 ――本職員は、勤務時間の内外を問わず、
常時、行動・通信・資産の
監視対象となることに同意する。
この監視を拒否する権利はない。
拒否した時点で採用は取り消され、
以後の応募資格を永久に失う。

「これに同意した瞬間から、
あなたのプライバシーという概念は消える。
異論は?」

 黒沢は少し間を置いてから、首を横に振った。

「ありません。むしろ――安心します」

 モラレスは初めて小さく笑った。

「そう言える人間しか、ここには残っていない」

 旧国連時代、職員の汚職や利益供与は
日常茶飯事だった。
母国で強権を振るい、
汚職まみれの経歴を持ちながら
国連の要職に収まっていた者。
大企業や特定国家のロビイストと化し、
決議の草案を裏で書き換えていた者。
人道支援の名目で集めた資金の一部を
私的に流用していた者。
改革の初年度だけで、旧職員の七割が解任され、
そのうち百二十名以上が
母国あるいは国際法廷で訴追された。

 「人は弱い」とモラレスは言った。

「権力を持てば、必ず誰かがそれを悪用しようとする。
性善説に立って組織を作れば、
性善説を裏切る人間から先に食い荒らされる。
だから我々は前提を変えた。
人間は放っておけば堕落する生き物だと定義し、
その堕落を許さない仕組みを先に作った。
監視は職員を縛るためではない。
職員を、職員自身の弱さから守るためのものだ」

 黒沢はその言葉を、
皮肉ではなく本気の哲学として理解した。
実際、
この十年で秩序監査院から出た不祥事はゼロだった。
断れる者は最初から採用されず、
残った者は監視という檻の中でしか
清廉を保てないと自覚した上で、
それでもここで働くことを選んだ人間たちだった。

 窓の外、湖畔を歩く市民たちは穏やかに見える。
だがその穏やかさの土台には、
常任理事国という特権階級が解体され、
いかなる大国であろうと
国境を越えて武力を行使すれば
例外なく制裁を受けるという、
単純だが徹底された原則があった。
ロシアと中国はその原則を受け入れられず、
脱退という道を選んだ。
世界は事実上二つに分かれた。
それでも新国連は
理不尽に膝を屈することを選ばなかった。

 モラレスが続けた。

「今日、あなたに担当してもらう案件がある。
第七地区、旧フランス領内での事案だ。
国外追放命令に対する異議申し立てが出ている」

「異議、ですか。でも――」

「そう、拒否権はない。それは知っているね」

 十年前に可決された国際準拠法
――通称「均一遵守法」は、
加盟国が定めた最低限の国際基準を
国内法として受け入れられない国、
あるいは個人に対し、
国外追放を強制する権限を国連に与えていた。
かつてなら、主権国家の内政干渉だと
非難囂々だっただろう。
だが均一遵守法の対象は、
あくまで「人権の根幹に関わる基準」
――拷問の禁止、恣意的処刑の禁止、
少数者への組織的迫害の禁止といった、
議論の余地が本来ないはずの基準に限定されていた。
それでも、それすら受け入れられない、
あるいは受け入れるふりをして
裏で破り続ける政権が、世界にはまだ存在した。

「異議申し立ての内容は?」

「対象は個人だ。国家元首の側近で、
少数民族の強制収容政策を主導した官僚。
国籍剥奪と国外追放が決定しているが、
本人は『自国の司法手続きを経ていない』
と主張している」

 黒沢は資料に目を落とした。
写真の中の男は、
ひどく人の良さそうな微笑みを浮かべていた。

「――彼は、これまで何人を収容所に送ったんですか」

「推定で、四千二百人。
うち生存が確認されているのは半数以下だ」

 黒沢は資料を閉じた。迷いは、なかった。

## 第二章 弁護されない罪

 第七地区の仮設法廷は、
旧市庁舎を改装した簡素な建物だった。
国外追放の異議申し立てを審理するこの法廷には、
傍聴席がほとんどない。
かつてなら世界中のメディアが
押し寄せただろう事件も、
今では静かに、粛々と処理されていく。

 被告人席に座る元官僚
――ゲラルド・ヴァンスの隣には、
疲れた顔をした若い国選弁護人が座っていた。
名前をトマ・デュボワといった。

 黒沢は傍聴席の隅から、彼の弁護を見つめていた。

「被告人は、収容政策の立案に
直接関与した証拠が不十分であり――」

 デュボワの声は小さく、どこか及び腰だった。
無理もない、と黒沢は思う。
弁護士たちが
これほど萎縮するようになったのには理由があった。

 旧時代、凶悪犯罪者を弁護する
「人権派弁護士」たちは、しばしば英雄視されていた。
彼らは巧みな弁論術と手続き上の瑕疵を突く技術で、
明白な証拠がある殺人犯や、
大量虐殺の実行者ですら減刑、
あるいは無罪に導くことがあった。
その裏で、遺族や被害者は「加害者の人権」
という壁の前で、何度も傷つけられた。
裁判が終わるたびに、
彼らは加害者が笑って法廷を出ていく姿を見せられた。

 新国連はこの構造そのものにメスを入れた。
まず、凶悪犯罪の加害者
――確定的な証拠がある場合に限り
――は、指名手配された時点、
あるいは有罪が国際基準で確定した時点で、
人権の一部を法的に喪失するとされた。
生存権や最低限の尊厳は保障されるが、
それ以上の権利、
たとえば「更生の機会」や
「情状酌量」を主張する権利は、
極めて限定的にしか認められなくなった。

 そして何より弁護士に対する規制が、
法曹界を根底から変えた。
凶悪犯罪、特に大量殺人や組織的迫害に対する
弁護において、証拠を意図的に隠蔽したり、
被害者への配慮を欠いた過度な弁論
――たとえば被害者の落ち度を強調する、
あるいは加害者の「更生可能性」を
誇張して裁判官の心証操作を狙うような弁論
――を行った弁護士は、
懲戒だけでなく刑事罰の対象となった。

 この結果、民間の弁護士たちは
凶悪犯罪の弁護からほぼ完全に手を引いた。
割に合わないどころか、
自分自身が処罰される危険を冒してまで、
他人の凶行を弁護する理由がなかったからだ。
凶悪犯の弁護は、
ほとんどが国選弁護人に委ねられることになった。
だがその国選弁護人にすら、
「過度な弁護」の一線は容赦なく適用された。

 デュボワの弁論は、その一線を測りながらの、
綱渡りのようなものだった。
彼にできるのは、
手続き上の瑕疵を指摘することだけで、
ヴァンスの行為そのものを正当化する言葉は、
ひとつも口にできなかった。

「――以上により、
手続きの適正性について再審査を求めます」

 判事は表情を変えずに頷いた。

「申し立ては記録された。
しかし証拠は明白であり、
手続き上の瑕疵は追放命令の効力に影響しない。
判決を維持する」

 ヴァンスは初めて、
それまでの人の良さそうな微笑みを消した。

「ここは私の国だ! 私を生んだ国だ! 
それを、お前たちが勝手に――」

「あなたは、四千二百人から
その『生まれた国での生活』を奪った」

 黒沢は思わず立ち上がっていた。
傍聴席からの発言は本来許されない。
だが誰も彼女を止めなかった。

「彼らにも、家族がいた。帰る家があった。
あなたはそれを、二度と取り戻せない形で奪った。
今さら自分の権利を主張する資格が、
あなたにあると思いますか」

 法廷は静まり返った。
判事は小さく頷き、それ以上何も言わなかった。

 ヴァンスは連行されていった。
国外追放――どの国も彼を受け入れる義務を負わない、
事実上の「行き場のなさ」への追放だった。

 法廷を出たところで、
デュボワが黒沢に声をかけてきた。

「厳しいですね、あなたも」

「厳しい、でしょうか」

 黒沢は少し考えてから答えた。

「更生を信じたい気持ちは、分かります。
でも更生というのは、結局のところ、
まだ被害を受けていない誰かの希望論でしかない。
人は年を取るほど、自分の経験則を手放せなくなる。
ヴァンスのような人間が、
根本から変わることは――ほとんどありません」

「では、変わらない人間はどうすれば」

「排除するしかありません。
それが、四千二百人の家族にとって、
そして次に被害者になり得たかもしれない人々にとって、

唯一誠実な選択だと思います」

 デュボワは何も言わず、ただ黒沢を見つめていた。
彼自身、心のどこかでその言葉を
否定できずにいるように、黒沢には見えた。

 湖からの風が、書類の束をわずかに揺らした。
世界は、まだ完璧ではない。
二つに分かれたままの世界地図が、
それを何より雄弁に物語っている。
それでも黒沢は、この十年で築かれた秩序の中に、
確かな希望を見ていた。
理不尽を許さない、
という単純だが揺るがない意思の中に。
 

今の日本を見ていると

いつこのような事態になっても

おかしくないと思います

 

 

# 万の刃

## 一

最初の犠牲者は、与党の若手議員・北条修一だった。

選挙戦で「消費税減税、断固実行」と
拳を突き上げていた男が、当選後わずか半年で
「財政規律を鑑み、減税は見送る」
と記者会見で頭を下げたのが十一月。
その三か月後、北条は都内の路上で刺殺された。
凶器は事務用のカッターナイフを改造したもので、
刃渡りはわずか五センチ。
それでいて頸動脈を一撃で切り裂く精度は、
素人の仕業とは思えなかった。

現場に居合わせた者は誰も犯人の顔を見ていない。
防犯カメラには、フードを目深に被った人影が
北条に近づき、すれ違いざまに何かをした
――としか映っていなかった。
まるで雑踏に溶けて消える幽霊のように。

二人目は、それから二か月後。
今度は関西選出の重鎮議員、宮田誠一郎だった。
宮田もまた「減税なくして未来なし」
と声高に叫んで当選しながら、
党の方針に従って減税法案に反対票を投じていた。
彼は自宅マンションのエレベーター内で、
何者かに首を絞められて死んだ。
防犯カメラは奇妙なことに、
犯行時刻の前後三分間だけ録画データが欠落していた。

警察庁は「政治テロの疑いあり」として
特別捜査本部を設置した。
だが捜査が進むほど、事件の異様さが
浮き彫りになっていった。
犯行手口がそれぞれ違う。
刃物、絞殺、毒物、
そして三人目に至っては偽装された転落事故
――およそ同一犯の仕業とは思えないほど
手口はばらばらだった。
それでいて共通しているのは、
被害者が皆「公約を裏切った」
あるいは「国民の一部から強い恨みを買っていた」
人物だという点だけだった。

四人目、五人目と犠牲者が増えるにつれ、
標的は政治家だけに留まらなくなった。
難民・移民の受け入れ拡大を強硬に主張していた
NGO代表・柏木恵子が、講演会場からの帰り道に
何者かに背後から刺された。
彼女が主宰する団体は、外国人労働者の
権利拡大を訴え続けてきたが、
同時に地域住民との軋轢――治安悪化への懸念、
既存の福祉制度への圧迫――を軽視してきたとして、
一部からは強い反感を買っていた。

さらに、人件費削減を理由に
日本人従業員を大量解雇し、
その穴を安価な外国人技能実習生で埋めた
製造業大手の社長・堂島隆之が、
自宅の庭先で背後から撃たれた。
銃創の角度から、犯人はプロの射撃訓練を
受けた人物ではないかと推測されたが、
身元につながる手がかりは
何一つ残されていなかった。

警察は指名手配のポスターを全国の交番に貼り、
テレビや新聞で似顔絵を公開した。
だがその似顔絵自体が、事件ごとにまるで別人だった。
ある事件では小柄な男、
別の事件では長身の女性らしき人影、
また別の事件では複数犯とも取れる証言
――捜査本部内部では
「これは単一の組織的犯行ではなく、
模倣犯の連鎖ではないか」
という声も上がり始めていたが、
当時はまだ誰もその可能性の重さを
本当の意味で理解してはいなかった。

半年が過ぎても、犯人の輪郭すら掴めなかった。
指紋も、DNAも、目撃証言の一致点も、
何一つ捜査線上に浮かんでこない。
それでいて、暗殺は止まらなかった。
むしろ加速していった。
七人目の議員が地元の後援会事務所で刺殺された時、
記者会見に立った警察庁長官の顔には、
隠しきれない焦燥が滲んでいた。

「われわれは全力を尽くしている」

その言葉は、もはや誰の耳にも虚しく響いていた。
国民の間では、奇妙な空気が漂い始めていた。
恐怖と同時に
――ある種の、口にできない共感めいたものが。
SNS上では「自業自得」「因果応報」という言葉が、
匿名の陰でひっそりと囁かれ始めていた。
誰も表立っては言わない。
だが、多くの人間の心の底に、
その言葉は静かに根を張っていった。

## 二

五年の歳月が流れた。

事件は依然として未解決のまま、
被害者の総数は二十三人に膨れ上がっていた。
政治家、NGO代表、企業経営者、
そして一部の裁判官やマスコミ関係者
――「国民の恨みを買った」とされる人物が、
次々と闇に消えていった。
もはや事件は日常の風景の一部と化し、
ニュースの扱いすら小さくなっていた。
人々は慣れてしまっていた。
恐怖にすら、慣れは訪れる。

そんな中、ついに一人の男が逮捕された。

名は、三宅浩二。四十七歳。
地方都市で小さな印刷工場を営んでいた、
これといって特徴のない中年男だった。
逮捕の決め手は些細なミスだった
――犯行に使った特殊な工具の購入履歴が、
偶然にも別件の詐欺事件の捜査線上に
浮かび上がったのだ。

取調室で三宅は、驚くほど淡々と自供した。

「あいつを殺したのは、俺です。
誰にも頼まれていません。誰の指示も受けていません」

取調官は当然、共犯者の存在、組織の関与を疑った。
だが三宅の供述は、どこまでも一貫していた。
彼の娘は、かつて外国人技能実習生を大量に採用して
日本人従業員を解雇した工場で働いていたが、
その工場の倒産後、再就職もままならぬまま
自ら命を絶っていた。
三宅が殺したのは、その工場の元経営者だった。

「五年間、ずっと考えていました。
どうやったらあいつを殺せるか。
誰にも気づかれずに。
俺は元々、機械いじりが得意でしたから」

科学捜査の徹底的な裏取りが行われた。
通信記録、金融記録、交友関係
――三宅の生活のあらゆる断面が調べ尽くされたが、
他の暗殺事件との接点は一切見つからなかった。
彼は本当に、たった一人で、五年かけて準備し、
たった一度の殺人を実行しただけの、単独犯だった。

捜査本部は困惑した。
これが組織犯罪でないなら、
いったい他の二十二件は誰の仕業なのか。

その一年後、二人目の犯人が逮捕された。
今度は元教師の女性、六十二歳の桐山雅子だった。
彼女が殺したのは、かつて彼女の息子をいじめの末に
自殺に追い込みながら、少年法の壁に守られて
一切の刑事責任を問われなかった元少年
――今は三十代になっていたその男だった。
桐山もまた、完全な単独犯だった。
何年もかけて標的の生活パターンを調べ上げ、
たった一度、確実に仕留めるためだけに
全てを費やしていた。

「あの子には、
もう一度でも人殺しを許すことはできませんでした」

取調室で彼女はそう言った後、
静かに涙を流したという。

二つの事件は、
警察に一つの恐ろしい可能性を突きつけた。
もしこれが連続する組織犯罪ではなく
――全く無関係などうしの人間たちが、
それぞれ独自の恨みを抱え、
それぞれ独自に「殺す」
という結論に辿り着いた結果だとしたら。

## 三

さらに二年の時が流れ、
警察庁は異例の記者会見を開いた。

発表されたのは、驚くべき結論だった。
一連の暗殺事件は、単一の組織や
思想集団による犯行ではなく、
それぞれが独立した動機を持つ個人による、
無関係な単独犯行の連鎖だったというのだ。

会見に立った捜査幹部は、
努めて冷静な声で説明を続けた。

「これらの事件に共通しているのは、加害者
――つまり本件の被害者となった政治家、経営者、
団体関係者らが、かつて何らかの形で、
市民に耐え難い被害や苦痛を与えていたという点です。
そして、その加害行為の多くが、
司法の場で十分に裁かれてこなかった」

近年、
司法制度は加害者の人権保護と更生を
重視する方向へと大きく舵を切っていた。
少年事件の厳罰化は見送られ続け、
初犯や情状酌量の名の下に不起訴処分が乱発され、
たとえ有罪となっても
執行猶予がつくケースが急増していた。
企業の労働問題、ヘイトクライム、詐欺、暴力
――被害者やその家族が

「加害者はほとんど何の罰も受けなかった」
と感じる事案が、
この十数年で積もりに積もっていた。

「司法が裁かない恨みは、
消えてなくなるわけではありません。
それは行き場を失い、個人の内側に沈殿し続ける。
そして、ある日――」

幹部はそこで一度言葉を切り、そして続けた。

「われわれの推計では、現時点で全国に、
こうした未遂を含む『処断の意思』を抱えている人間が、

少なくとも一万人規模で存在すると考えられます。
専門家の一部からは、この数字はさらに保守的で、
実際には十万人を超える可能性がある
という指摘もなされています」

会見場は静まり返った。

一万人。あるいは十万人。
それは、もはや取り締まることのできる
規模ではなかった。
組織犯罪であれば、頭を叩けば根は絶てる。
だがこれは、日本中に散らばった、
互いに何のつながりもない、
ただ「恨み」という一点だけを共有する
人々の集合体だった。
隣人かもしれない。
同僚かもしれない。
何十年も静かに暮らしてきた、
ごく普通の誰かかもしれない。
彼らは組織を持たず、指令系統を持たず、
ただ己の中だけで判決を下し、
己の中だけで刑を執行する準備を、
ひそかに進めているのだった。

その日を境に、日本社会の空気は決定的に変わった。
加害者として名指しされた過去を持つ人間
――かつて不起訴になった者、執行猶予で済んだ者、
世間の批判を浴びながらも法的責任を免れた者
――は、皆一様に怯え始めた。
彼らはもう、法によって守られているという安心を、
二度と取り戻すことはできなかった。
なぜなら、法が裁かなかった罪を、
いつ誰が、静かに裁きに来るか、
誰にも予測がつかなかったからだ。

それは復讐というにはあまりに個別的で、
テロというにはあまりに散発的で、
そしてある意味では――この国の司法そのものへの、
最も痛烈な不信任決議でもあった。

万の刃は、
今もどこかで、静かに研がれ続けている。

 

第三百五十三弾「器用貧乏の男」の続きです

 

 

 弓桁の一件があってから、
五郎が営業部の中で完全に孤立する
ということはなくなった。
だが、それは決して「歓迎された」
ということを意味するものではなかった。

 あの一件を評価する声は、確かに存在した。
だがそれは、部署内でもごく少数の人間に限られていた。

下請けの工場や協力会社に対して、
普段から対等な立場で接している数人
――彼らは、五郎が工場側の担当者と
交渉する様子を見て、素直に「大したものだ」
と感心していた。
工場を単なる駒として、頭を下げさせるべき
下位の存在としか見ていない人間には、
決して真似のできないやり方だったからだ。

 だが、そうした少数派とは反対に、
多くの本社社員にとって、
五郎のあの振る舞いは評価に値するものというより、
むしろ「時代遅れの田舎臭さ」の象徴として映っていた。

「支社と本社じゃ、そもそもやり方が違うんだよな」

「わざわざ電話一本で済む話を、あんなに丁寧に、
しかも自分から工場に頭下げてまとめるとか、
暇なんだね」

「本社は本社のスピード感があるんだから、
支社時代のやり方を持ち込まれてもね……」

 直接五郎に向けられる言葉ではなかったが、
フロアの空気の端々から、
そうした声が漏れ聞こえてくることがあった。
目立ちたがりの田舎者。効率を知らない旧世代。
彼らの目には、五郎のあの行動は、
そういうレッテルの下にしか収まらないものだった。

 皮肉なことに、五郎自身、
本社と支社でやり方が違うということを、
誰よりも痛感していた。
だからこそ、二十歳も年下の井上晴人に頭を下げて、
一から仕事のやり方を教わっているのだ。
五郎にしてみれば、それは当然のことであり、
恥じることでも何でもなかった。
新しい環境に来たのだから、
そこのやり方に合わせて学び直す。
ただそれだけの話だった。

 そして何より、五郎自身は、
あの弓桁とのやり取りを、
大した出来事だとは全く思っていなかった。

 工場の話を聞き、要点を整理し、
営業側にわかる言葉に翻訳して伝える。
それだけのことだ。
特別な知識でも、特別な才能でもない。
ただ、支社時代に人手が足りず、
工場の手伝いに駆り出されたことが人より多かったから、

たまたま人より少しだけ、
工場の事情に詳しいというだけのことだ。
誰にでもできることを、たまたま自分がやっただけ。
五郎はそう信じて疑わなかった。

 むしろ五郎の中には、
密かな引け目のようなものすらあった。
本社に来て、五郎が目にしてきた社員たちは、
皆それぞれに秀でた何かを持っていた。
ある者は圧倒的な交渉力で大口の契約を
次々と取ってくる。
ある者は複雑な製品仕様を瞬時に理解し、
技術的な質問にも澱みなく答える。
ある者は数字の分析に長け、
市場動向を的確に読み解いてみせる。
それぞれが、その道の「特別な人間」だった。

 その中に混じって、
自分にはこれといった尖った武器が何もない。
営業もそこそこ、事務もそこそこ、
工場の勝手もそこそこわかる。
だがそのどれ一つとして、胸を張って
「これが自分の強みだ」と言えるものではない。
五郎の自己評価の中で、自分はあくまで
「本社の特別な人々」の水準には遠く及ばない、
平凡な支社上がりの人間でしかなかった。
だからこそ、弓桁からの称賛にも、
心のどこかで「そんな大したことじゃないのに」
という戸惑いが、常について回っていたのだった。

---

 本社に来て二週間ほどが経ったある日の午後、
五郎は営業フロアの隅で、
新入社員の杉原が電話口で
頭を下げ続けているのを見かけた。

「本当に申し訳ございません……
はい、はい、重々承知しております……」

 もう十分近く、
その姿勢を崩さずに謝罪の言葉を繰り返している。
額には汗が滲み、受話器を握る手が微かに震えていた。
何かただならぬことが起きているのは、
その様子だけで容易に見て取れた。

 五郎は自分のデスクから、
そっと杉原の方へ近づいていった。

「杉原くん、大丈夫か。何があった」

 電話を切った杉原は、蒼白な顔で振り返った。

「あ、野中さん……。
実は、先月客先から聞き取ってまとめた要望書に、
不備があったみたいで。
設計が終わった段階で、
寸法の記載に食い違いがあることが発覚して……。
今、設計課の方に平謝りしてたんですが」

「設計課の担当者と、電話で?」

「はい。もう十分くらい謝ってるんですけど、
なかなか納得してもらえなくて」

 五郎はしばらく考えてから、杉原に静かに言った。

「杉原くん、悪いけど、
その電話、俺に代わってもらえるか」

 戸惑う杉原から受話器を受け取ると、
五郎は設計課の担当者に対して
丁寧に謝罪の言葉を述べ、
そして続けてこう言った。

「このたびはご迷惑をおかけして
誠に申し訳ございません。
詳細について、こちらから直接お伺いして
経緯をご説明させていただければと思います。
今からそちらに向かいますので、
少々お時間いただけますでしょうか」

 電話を切ると、五郎は杉原に向き直った。

「行くぞ、設計課に」

「え、でも、電話でもう謝ったんですけど……」

「同じビルの中にいるんだから、
まずは電話じゃなくて、直接会いに行かないと。
こちらの意向は、電話だけじゃ伝わらないよ」

 杉原は釈然としない顔をしていた。
電話で用が足りるなら、
わざわざ足を運ぶ必要はないのではないか
――そう思っている顔だった。
だが五郎にとって、
それは若い世代の多くが見落としがちな、
しかし決定的に重要な部分だった。

 電話越しの言葉は、どうしても平板になる。
表情も、頭を下げる仕草も、相手には伝わらない。
だが直接顔を合わせ、頭を下げる姿を目にした相手は、
そこで初めて、言葉の裏にある誠意の重みを感じ取る。
人間の感情というのは、
そういう物理的な距離の近さによって、
驚くほど大きく揺れ動くものなのだ。

 それは、飲み会というものに対する
若い世代の忌避感にも通じる話だと、五郎は思っていた。

今の若手社員の多くは、
業務時間外の付き合いを無駄なものと見做し、
極力避けようとする。
その気持ちも、五郎にはよくわかった。
だが、いざという時、
困った時に手を差し伸べてもらえるかどうかは、
そうした普段からの人間関係の積み重ねに
大きく左右される。
友人であれば、頼まれずとも助けたいと思う。
だが、特に関わりのない相手であれば、
助ける必要性を感じない人間の方が多い。
そしてそれは、自分に何かしらの負担や
マイナスが伴う場合であればあるほど、
より顕著になる。

 五郎自身、新入社員だった頃は、
他部署や下請けの人間たちが開く飲み会に、
よく顔を出していた。
当時は誘われるがままに参加していただけだったが、
後になって、そうした席で築いた関係性に
何度も助けられることになった。
無理を聞いてもらえたのも、
融通を利かせてもらえたのも、
あの飲み会の席で交わした、
たわいもない会話の積み重ねがあったからこそだった。
それに気づいてからは、五郎は自ら進んで、
そうした場に参加するようになっていったのだった。

---

 設計課のフロアに足を踏み入れると、
五郎は杉原を伴ったまま、大きな声で頭を下げた。

「失礼します、営業部です。
この度は設計課の方々に御迷惑をおかけしまして、
誠にすみませんでした。
担当の杉原と共に、謝罪に伺いました」

 その声に気づいて、何人かの社員が顔を上げ、
突然現れた二人を見た。
中の一人が、意外そうな表情を浮かべて声を上げた。

「あれ? 五郎ちゃんじゃないか」

 その男は椅子から立ち上がり、
五郎の方へと歩み寄ってきた。
五郎は頭を上げてその顔を見て、目を丸くした。

「もしかして……秋山さん?」

 秋山と呼ばれたその男は、五郎の肩を軽く叩いた。

「いつの間に本社に栄転したんだよ。教えてくれよ〜」

 朗らかに笑う秋山に、
五郎も思わず頭をかいて苦笑いした。
隣では、事情の飲み込めない杉原が、
ぽかんとした顔で二人のやり取りを見つめている。
それに気づいた五郎が、杉原に向かって説明した。

「秋山さんは、
俺が支社時代にお世話になった設計士さんでね。
たまに一緒に飲んだこともあるんだよ」

 秋山は、懐かしむように腕を組んで杉原に言った。

「当時、五郎はいつも無理難題を押し付けるんだけどな、

その度に手土産持って飲みに誘われてよ。
こっちも仕方なく付き合ってやってたんだよ」

 そして秋山の視線が、杉原の方へと向いた。

「お前さんが、今回やらかした新人だろ? 
でもまぁ、五郎に学べば、今後は成長するだろうな。
今回は、多めに見てやるよ」

「そんな簡単に済ませていいんですか?」

 五郎が慌てて口を挟むと、
秋山は鷹揚に笑って答えた。

「課長指示で、どうにかするよ」

 その一言に、五郎の顔から驚きの色が消えなかった。

「秋山さん……本社設計課の課長だったんですか?」

「もうすぐ定年退職だけどな」

 秋山はそう言って、屈託なく笑ってみせた。

(以降、続く)
 

# 器用貧乏の男

 東京本社の営業部フロアは、
五郎がこれまで勤めてきた地方支社のそれとは
何もかもが違っていた。
天井が高く、窓の外には他の高層ビルが林立し、
床には埃ひとつ落ちていない。
そして何より、
そこに集まった社員たちの視線が違っていた。

「本日付で、地方支社から異動して参りました
野中五郎です。至らぬ点も多いかと思いますが、
何卒よろしくお願いいたします」

 五郎は深く頭を下げた。
頭を下げている間だけは、
あの視線から逃れられる気がした。
だが顔を上げれば、また同じ空気が待っている。

 拍手はまばらだった。
義理で叩かれる拍手というものが、
これほど乾いた音を立てるものだとは
五郎は知らなかった。
前列に座る若い社員の何人かは、
露骨に眉をひそめてスマートフォンの画面に
視線を落とし、後列では小さな囁き声が交わされていた。

聞き取れずとも、その内容は容易に想像がついた。

 ――何であんな歳のおっさんが、
しかも地方支社から。

 ――どうせ会長の縁故だろう。

 ――使えないから左遷ならぬ
「左遷の逆」ってやつじゃないの。

 実際、五郎自身がそう思っていたのだから、
彼らを責める気にはなれなかった。
五十五歳、地方支社一筋三十年。
年功序列でようやく部長の椅子に座れたが、
それも本社から見れば「支社止まりの部長」でしかない。
リストラの対象にこそなれ、
本社への栄転など五郎の人生設計の
どこにも存在しなかった選択肢だった。

 小田桜子――かつて支社時代に
五郎の下で働いていた、あの生真面目な後輩が、
今や会長秘書筆頭になっているという話は
風の噂で聞いていた。
だが、まさか彼女がこの人事に関わっているとは、
五郎はこの時点ではまだ知らなかった。
ただ、辞令を受け取った日から
「なぜ自分が」という疑問だけが、
頭の中でずっと渦を巻いていた。

 挨拶が終わると、部長の田渕という男が
形式的に五郎を紹介し、
あとは各自の仕事に戻るよう促した。
誰も五郎に近づいてこようとはしなかった。
まるで彼が透明な壁の向こうにいる
人間であるかのように、
社員たちは五郎の周りだけを避けて動いていた。

 五郎は用意されたデスクに座り、
パソコンの電源を入れる真似だけをしながら、
内心では今すぐこの場から消えてしまいたい
と思っていた。
三十年の会社員生活で培った経験も、地方での実績も、
この部屋では何の意味もなさない。
むしろ「浮いている」という事実だけが、
五郎の存在を際立たせていた。

 昼休みになっても、誰も彼を食事に誘わなかった。
五郎は仕方なく一人で近くの定食屋に入り、
味のよくわからない生姜焼きを黙々と口に運んだ。

「こんな思いをするために、東京に来たのか……」

 誰に聞かせるでもなく、五郎はそう呟いた。

---

 そんな五郎に唯一、
まともに声をかけてきたのが井上晴人だった。
三十五歳、営業部では中堅どころの社員で、
年齢は五郎より二十歳近く下になる。

「野中さん、システムの使い方、
まだ慣れてないですよね。
よかったら教えましょうか」

 昼休み明け、晴人は特に気負う様子もなく、
五郎のデスクの脇に椅子を持ってきて座った。
周囲の視線を気にする素振りもない。
五郎はその屈託のなさに、
少しだけ救われる思いがした。

「ああ、助かるよ。
正直、本社のやり方はさっぱりでね」

「地方支社って、結構やり方違うんですよね。
うちの会社、本社と支社で
使ってるシステムが微妙に違うから」

 晴人は手際よく、受発注システムの操作方法や、
社内稟議の通し方、営業日報のフォーマットなどを
一つひとつ説明してくれた。
五郎はメモを取りながら、必死にそれを頭に叩き込んだ。

三十年間積み上げてきた経験があっても、
こういう事務的な手続きの違いばかりは、
ゼロから覚え直すしかない。

「野中さん、覚えるの早いですね。
もっと年配の人だと、
こういうのに苦手意識持つ人多いのに」

「まあ、これでも一応、支社では部長やってたからね。
新しいことを覚えるのは嫌いじゃないんだ」

 そんな会話を交わしていた矢先、
フロアの向こうで唸り声のようなものが聞こえた。
声の主は弓桁総一郎、
営業部の中でも一際目立つ存在の中堅社員だった。
三十歳前後、恰幅がよく声も大きい。
契約件数はいつも部内トップクラスで、
上司からの覚えもめでたい、
いわば営業部のエースだ。

「……いや、だからその
『歩留まりの関係で納期を再調整したい』
っていうのが、具体的にどういうことなのか
教えてほしいんですけど」

 弓桁は電話を片手に、明らかに苛立った様子で
パソコンの画面を睨みつけていた。
工場の担当者と電話でやり取りをしているらしい。

「え、いや、その、公差がどうとか言われても……
とりあえず、一旦切りますね。折り返します」

 電話を切った弓桁は、大きなため息をつくと、
頭を抱えてデスクに突っ伏した。

「くそ、何言ってるか全然わかんねえ……」

 晴人が小声で五郎に耳打ちする。

「弓桁さん、営業成績は部内トップなんですけど、
工場側の技術的な話になると急にダメになるんですよ。
専門用語出されると、もう思考停止しちゃって」

「歩留まりとか公差とか言われてたね」

「そうなんです。
今回、工場の生産ラインの都合で納期が
ずれ込みそうだって話らしいんですけど、
工場側の説明が専門的すぎて、
弓桁さん、何をどう客に説明していいか
わからないみたいで」

 五郎はしばらく黙って弓桁の様子を眺めていた。
デスクに突っ伏したまま動かない背中には、
焦りと苛立ちがそのまま滲み出ていた。
契約を取ることには長けていても、
その後工場との調整で躓く。
それは決して弓桁の能力が低いからではなく、
単に営業と製造という、畑の違う知識の間に
橋がかかっていないだけのことだった。

 五郎は自然と、
弓桁のデスクの方へ足を向けていた。

「弓桁くん、といったかな。
よかったら、その話、聞かせてもらえるかい」

 弓桁は突然声をかけられて驚いたように顔を上げた。
今朝の挨拶で見た「あの浮いた新参者」が、
なぜ自分に話しかけてくるのか、
その顔には戸惑いが浮かんでいた。

「あ……野中さん、でしたっけ。
いや、大丈夫です、自分で何とかしますんで」

 やんわりとした拒絶だった。
無理もない。
今朝方冷たい視線を送っていた側の人間が、
まさかこの中堅社員だったかもしれないのだ。
だが五郎は気にする様子もなく、
机の上に広げられた資料に目をやった。

「歩留まりの話をしてたみたいだけど、
工場のラインでロスが出てるってことなら、
公差の見直しと納期は切り離せない話になる。
客先にどう説明するかも変わってくると思うんだが」

 その一言で、弓桁の表情が変わった。

「……え、今の電話、聞こえてました?」

「いや、聞こえたというより、
まあ、大体の予想がついただけだよ。
よかったら、工場の担当者、
もう一度呼び出してもらえるかい。
一緒に話を聞かせてもらえたら」

 半信半疑ながらも、弓桁は工場に再度電話をかけ、
五郎に受話器を渡した。

「もしもし、野中と申します。
先ほど弓桁が伺っていた
歩留まりの件なんですが……」

 五郎はそこから、工場側の担当者と
淀みなく会話を始めた。
金型の摩耗による公差のズレ、
それに伴う不良率の上昇、
ライン調整にかかる時間、
代替ラインの空き状況
――専門用語が飛び交う中でも、
五郎は一つも聞き返すことなく、的確な質問を返し、
要点を整理していく。
弓桁はその様子を、
口を半開きにしたまま見つめていた。

 十五分ほどのやり取りの後、
五郎は電話を切ると、弓桁の方に向き直った。

「大体話が見えたよ。
要するに、今使ってる金型が摩耗してきていて、
このまま生産を続けると不良品が増える。
だから一旦金型を交換したいんだが、
交換作業に三日かかる。
今のスケジュールのまま行くと、
その三日がまるまる納期に上乗せされる形になる、
ということらしい」

「はあ……」

「ただ、工場側は、二号ラインが来週なら
空くらしいから、そっちを使えば
金型交換の間も生産を止めずに済むと言っている。
ただしその場合、二号ラインの段取り替えに
丸一日かかるから、結局納期は当初より
二日遅れになる。
逆に一号ラインのまま強行すれば、
不良率が上がる分、追加の検品工程が必要になって、
これも結局二日から三日は遅れる計算になる」

 五郎は淡々と、しかし丁寧に説明を続けた。

「つまり、どちらにしても二日から
三日の遅れは避けられない。
だったら、品質を落とさずに済む二号ラインでの
生産の方が、客先への説明としても
筋が通ると思うんだが、どうだろう」

 弓桁はしばらく呆然としていたが、
やがて我に返ったように何度も頷いた。

「……そうですね。それでいきましょう。
いや、それしかないです。
すみません、俺、恥ずかしながら、
金型の交換がどうとか、
ライン云々の話が全然頭に入ってこなくて」

「専門が違うんだから、仕方ないよ。
営業は営業で、客先との関係を作ることに
全力を注ぐべきだ。
工場の細かい話まで全部理解しろというのは、
そもそも無理な話なんだ」

 五郎はそう言うと、弓桁の了承を得た上で、
改めて工場側に連絡を入れ、
二号ラインでの生産切り替えと、
それに伴う正式な納期を取り決めた。
話がまとまった時には、
弓桁の表情からすっかり険しさが消えていた。

「野中さん……ありがとうございます、本当に。
これ、客先に連絡できないまま今日一日、
ずっとどうしようって悩んでたんです」

 弓桁は両手で五郎の右手を包み込むように握った。
その握力の強さに、五郎は少し面食らったほどだった。

「いやいや、そんな大したことじゃないよ」

 五郎は照れくさそうに頭をかいた。

「地方支社だと人が少ないから、
納期が近付くと工場の仕事を出向いて
手伝う事もあったから、
工場の仕事も結構、知っているんだよね」

 その言葉に、
傍で見ていた晴人が驚いたように口を挟んだ。

「え、営業なのに
工場の現場作業までやってたんですか?」

「まあ、人手が足りない時はね。
営業も事務も工場も、
猫の手も借りたいくらい忙しい時期があるんだよ、
支社は」

 軽く笑ってそう答える五郎だったが、
実際のところ、彼が語った内容は、
工場の作業工程そのものを深く理解していなければ
到底出てこないものだった。
金型の摩耗の兆候、ライン切り替えにかかる
正確な所要時間、検品工程の負荷
――それらを瞬時に結びつけ、
営業側にも工場側にも納得できる着地点を見つけ出す。
それは付け焼き刃の知識では
到底できることではなかった。

「いや、そこまでわかってるのが凄いですよ。
俺、正直、野中さんのこと、
今朝までは失礼ながら
『なんで今更こんな人が本社に』
とか思ってましたけど……」

「はは、それは仕方ないよ。
実際、俺もそう思ってるくらいだから」

 五郎は自嘲気味に笑ってみせたが、
弓桁の言葉には嘘のない称賛が込められていた。

「だからと言って、
工場の作業が完璧に出来るわけじゃないから、
大した事は無いよ。ただの器用貧乏なだけだよ」

 五郎は謙遜するように、そう付け加えた。

 器用貧乏。
この言葉を、五郎自身も何度も自分に対して使ってきた。

何をやらせてもそこそこできる。
だが、これといって突出した専門性があるわけではない。

営業もできる、事務もできる、現場作業も一通りわかる。

それは裏を返せば、「これが自分の強みだ」
と胸を張って言えるものが何一つない、
ということでもあった。

 器用貧乏という言葉には、多分に自虐と、
そして周囲からの軽い蔑みが含まれている。
「何でもできるが、何にもなれない人間」
――そういうニュアンスで使われることが多い。
五郎自身、この三十年間、
幾度となくその言葉を自分自身に投げかけてきた。
ある一つの分野を極め、
名人と呼ばれるような人間に対する、
密かな劣等感すらあった。

 だが、本当にそうなのだろうか。

 営業の言葉と、工場の言葉。
契約を取る力と、ものを作る現場の理屈。
その両方を理解し、間に立って翻訳できる人間は、
決して多くない。
一つの分野を極めることも尊いが、
複数の分野をつなぎ、橋を架けることもまた、
それとは違う種類の、
しかし同じくらい重要な技能なのだ。

 ただ、その価値は、
会社という組織の中では驚くほど正当に評価されない。
縁の下の力持ちというやつは、
縁の下にいる限り、誰の目にも留まらない。
派手な成果を上げるわけでもなく、
目立った実績として数字に残るわけでもない。
ただ、その人間がいなくなった時に初めて、
周囲は「あの人がいたから、うまく回っていたのだ」
と気づく。
それがこの手の能力の宿命だった。

---

 その夜、本社ビルを出た小田桜子は、
会長室のある最上階から、
営業部のフロアを見下ろすようにして、
ひとり小さく息をついた。

 弓桁と野中の間に立ち、
工場との調整をまとめる五郎の姿は、
フロアの防犯カメラの映像として、
桜子の手元のタブレットにも映し出されていた。
彼女は今日一日、
それとなくその映像を確認していたのだ。

 ――やっぱり、野中さんだ。

 桜子がかつて地方支社で五郎の下で働いていた頃から、

ずっと感じていたことがあった。
この人は、決して目立つタイプではない。
派手な実績を打ち立てるわけでもない。
だが、部署の中でどこか歯車が噛み合わなくなった時、
気づけばいつも、五郎がその隙間に静かに入り込み、
物事をスムーズに回してしまう。

 本社に来て、桜子は痛感していた。
本社の人間は皆、それぞれの分野において優秀だった。
営業は営業のプロフェッショナルであり、
開発は開発の、経理は経理のエキスパートだった。
だが、その専門性が高ければ高いほど、
部署と部署の間には見えない壁ができていく。
営業は工場の言葉を知らず、
工場は営業の事情を知らない。
開発は現場を知らず、
現場は開発の意図を汲み取れない。

 そうした壁の隙間で、どれほど多くの案件が滞り、
どれほど多くの機会が失われてきたことか。
桜子はその非効率さを、
秘書として会長の傍らで日々の会議や
報告書を通して痛いほど見てきた。

 誰か、
その壁と壁の間をつなげられる人間はいないか。

 そう考えた時、
桜子の頭に真っ先に浮かんだのが、
かつての上司、野中五郎の顔だった。

 彼女は会長に直談判した。
「地方支社に、埋もれている人材がいます」と。
会長は最初、五十五歳の支社部長を
本社に呼ぶことに難色を示した。
年齢も、これまでの実績も、
決して華々しいものではない。
だが桜子は食い下がった。

「派手な実績は何もありません。
ですが、野中さんは、
誰も繋げられなかったものを繋げられる人です。
今のうちの会社に、
一番欠けているものだと思います」

 最終的に、会長はその進言を受け入れ、
異例の人事異動が決定した。

 だが、桜子は五郎本人には、
この経緯を一切伝えていなかった。
伝えれば、五郎は必要以上に恐縮し、
あるいは
「自分にそんな大層な役目が務まるわけがない」
と固辞しかねない。
それに何より、五郎自身が己の価値に気づかぬまま、
自然体で本社という場に馴染んでいく過程を、
桜子はどこかで見てみたいと思っていた。

 今日一日、
五郎がどれほど冷たい視線に晒されていたかも、
桜子は知っていた。
それでも、彼が誰かに背を向けることなく、
目の前で困っている人間に
静かに手を差し伸べる姿を見て、
桜子は確信を深めていた。

 ――大丈夫。この人なら、きっと。

 タブレットの画面の中で、弓桁に両手で手を握られ、
照れくさそうに頭をかいている五郎の姿を見ながら、
桜子は久しぶりに、
心の底からの安堵の笑みを浮かべていた。

(以降、続く)
 

第三百五十一弾「浮かぶ街、視られる街」の続きです



 大学の敷地に入ると、
リオの右足がわずかに軋むような感覚を伝えてきた。
実際には軋んでなどいない。
それは彼の脳が「懐かしさ」として処理する、
ある種の記憶の再生に過ぎなかった。

 十年前――リオがまだ十二歳だった夏の夕方。

 あの日、彼は妹と手を繋いで歩道を歩いていた。
ロボットタクシーしか走らないはずの通りに、
一台の車が異音を立てて
突っ込んできたのはその時だった。
後にわかったことだが、
その車の運転手は違法改造によって
自動運転システムを強制的にキャンセルし、
AIの介入を完全に遮断していた。
都市の交通網は本来、
そんな暴走を許すようには設計されていない。
だが「絶対」という言葉は、
悪意という穴の前ではいつも脆い。

 運転手は正気を失ったように加速し、
歩道を突き進んだ。
リオは咄嗟に妹を突き飛ばした。
その一瞬の判断が妹の命を救い、リオの右半身を奪った。

同じ現場には、身重の女性もいた。
彼女とその夫、そしてもう一人の通行人が命を落とした。

三人が死傷したその事故は、
この時代においては「事件」と呼ぶにふさわしいほど
稀有な出来事だった。
街中で人が車に轢かれるということ自体が、
もはや歴史の教科書に載るような
異常事態になっていたのだ。

 容疑者は逮捕からひと月と経たずに死刑判決を受け、
控訴の機会すら実質的に与えられぬまま刑が執行された。

当時、これを「性急すぎる」と批判する声も
一部にはあった。
だが、被害者遺族の慟哭と、
二度と同じ悲劇を生まないという
社会全体の意思の前では、
その批判の声はあまりにも小さく、
あまりにも軽かった。

 リオの右腕と右足は、
あの日を境に「本物」ではなくなった。
だが今、彼がその事実を意識することはほとんどない。
装着された外骨格フレームは、
彼の脳が発する電気信号をリアルタイムで読み取り、
寸分のタイムラグもなく関節を駆動させる。
指を握ろうと思えば指が握られ、
歩こうと思えば足が前に出る。
かつての「義肢」という言葉が持っていた
不自由さのイメージは、
この時代にはもう当てはまらない。
それは失われた肉体の代替物ではなく、
リオの意思をそのまま実現する、
もう一つの体だった。

 ――痛みだけは、再現されない。

 技術は多くを取り戻してくれた。
だが取り戻せなかったものもある。
リオはそれを、
誰にも言わずに胸の奥にしまっていた。

 *

 講義棟の中庭で、
リオはいつものベンチに彼女の姿を見つけた。

「リオ?」

 彼が近づく前に、彼女
――リタ・クローデルの方が先に彼の名を呼んだ。
彼女の視線はまっすぐにリオの方を向いていたが、
その瞳が実際に光を捉えているわけではない。
リタは生まれつき、
視神経そのものが機能していなかった。
網膜は健常でも、
そこで受け取った光の情報を脳へ届ける経路が、
生まれつき欠損していたのだ。

 だが今、リタは確かにリオの顔を「見て」いた。

 彼女のスマートグラスが捉えた映像情報は、
専用のプロセッサによって電気信号へと変換される。
その信号は、ナノマシンによって修復
・再構築された視神経の経路を通り、
脳の視覚野へと届けられる。
脳はそれを「見えている」情報として認識する。
生まれてから一度も光を知らなかったはずのリタが、
今は木々の緑を、空の青さを、
そしてリオの表情の微妙な変化までも認識できていた。

 もしこの時代にスマートグラスと
ナノマシン医療がなければ、
リタは一生、光のない世界で生きていただろう。
杖を頼りに、音と匂いだけを頼りに、
この浮遊都市の複雑な空間を
一人で歩き回ることさえ困難だったに違いない。
今の彼女は、リオと同じ速度で歩き、
同じ景色を見て、同じように笑うことができる。

 科学技術は、全ての人を救うわけではない。

 それは事実だった。
生まれつきの障害の種類によっては、
いまだ有効な治療法が存在しないものも多い。
だが、だからといって
「全員を救えないなら、意味がない」
と切り捨てるのは、
あまりに乱暴な理屈だとリオは思っていた。
リタは救われた。
それは紛れもない事実であり、
その事実の重みを、
誰にも否定させたくはなかった。

 実際、リオの周囲にも
「そんな技術に頼るのは不自然だ」
「一部の人間しか恩恵を受けられない技術に
税金を投じるのは不公平だ」
と口にする者は少なくなかった。
だがそういう人間に限って、
自分自身がその技術の恩恵を受ける立場になった途端、
手のひらを返したように利用を望む。
リオはそれを何度も目にしてきた。

 一つの案に完璧な解決を求め、
少しでも穴が見つかれば全てを廃案にしようとする。
そうしているうちに、
救えたはずの命が、救えたはずの人生が、
静かに失われていく。
二重、三重に案を重ね、
穴を塞ぎながら前進するしかないのに、
多くの人間はそれを面倒だと感じ、
いつか現れる「完璧な答え」をただ待ち続けようとする。

その間に積み重なる犠牲には、目を向けようとしない。

 人類は、本当に愚かだ。

 だがせめて、
自分たちが愚かであると自覚している人間は、
まだ救いがある。
厄介なのは、自分たちを「優秀な種族」
だと錯覚している者たちだった。
その錯覚こそが、
目の前で苦しむ人間を見捨てる正当化に使われ、
結果としてより多くの犠牲を生み出している。
リオはそのことに、
この十年で嫌というほど気づかされていた。

「何、ぼーっとして」

 リタの声に、リオは我に返った。
彼女はいつものように、
少しだけいたずらっぽく微笑んでいる。

「いや……何でもない。行こうか」

 リオは右手を差し出した。
装具越しに伝わる彼女の体温は、
機械の指先を通してさえ、
確かに「本物」だった。

(つづく)

 

 

 

 

# 第一章 浮かぶ街、視られる街

 二五一二年、六月。
 霧雨の残る朝の空に、
無数の車体がまるで見えない糸に
吊られているかのように滑らかに移動していく。
都心部の高度制限は地上五メートル
――衝突を避けるための最低限の逃げ場しか
与えられていないその空間を、
ロボットタクシーの群れが
息をするように行き交っていた。

 リオ・カザマは後部座席で窓に頬杖をつき、
その光景をぼんやりと眺めていた。
彼が乗る車体――G-UNITを搭載した流線型のポッド
――は、彼が指一本触れることもなく
AIによって完璧に制御されている。
加速も減速も、車線変更も、
まるで熟練の運転手が百人がかりで
計算し尽くしたかのように滑らかで、
リオの体には重力の変化すら
ほとんど伝わってこなかった。

「経路変更、二分の遅延が発生します」

 車内AIの声が告げると同時に、
進行方向のホログラムに迂回ルートが表示された。
前方で緊急車両が上昇待機をしているらしい。
リオはその様子を目で追った。
緊急時でさえ、上下に五メートル逃げるだけ
――それがこの都市の空の掟だった。
かつて二一世紀の人類が夢見た「空飛ぶ車」は、
G-UNITという重力制御装置によって確かに実現した。
ナノマテリアルで精製されたメインコアは、
電気を通すだけで浮遊と推進を同時にこなし、
乗用車が消費する電力は旧世代の電気自動車の
百分の一にも満たない。
だが、その恩恵を受けた都市は同時に、
空という最後の自由さえも厳密に区切ることを選んだ。

 人間が自らの意思でハンドルを握れるのは、
都市を遠く離れたクローズドサーキットだけだ。
そこでは高高度飛行も、急加速も、意のままに許される。

だがそれは特権であり、日常ではない。
ほとんどの市民は自動車を所有する意味を見出せず、
リオもまた例外ではなかった。
渋滞という言葉は、彼の世代にとっては
もはや歴史の教科書の中の単語でしかない。
事故のニュースも、彼が物心ついてから
ほとんど聞いた覚えがなかった。
自由に運転するという行為そのものが、
いつしか「趣味」という棚に
静かに収められていたのだ。

 ――便利だ。
安全だ。
それは間違いない。

 だがリオの腕には、
常に小さな違和感がまとわりついていた。
彼の手首で微かな光を灯すスマートバンドと、
耳元に骨伝導で語りかけるスマートグラス。
それらは彼のIDであり、財布であり、免許証であり、
そして彼のDNAと分かちがたく結びついた
「彼自身の証明」でもあった。
盗まれても意味がない。
持ち主のDNA情報と同期していない限り、
バンドもグラスもただの金属とガラスに過ぎない。

 便利だ。
だが、便利すぎる。

 リオの目に映る通りの景色――信号待ちの歩行者、
ベンチに座る老人、子どもを連れた母親
――彼ら一人一人が身につけているスマートグラスは、
警察の要請があれば映像を送信する。
つまりこの街を歩く誰もが、知らぬ間に
「移動する監視カメラ」になっているということだ。

 犯罪は激減した。
検挙率は九割を超えた。
誰もがそれを「正しいこと」だと教えられて育った。

 だが、リオの父はかつて検察官だった。

 彼はふと、三年前のことを思い出す。
父が仕事を失った日のことを。

 司法に携わる者は毎年、
思想試験と呼ばれる審査を受けなければならない。
中立性を保っているか、特定の思想に偏っていないか
――国家が定めた基準によって判定される、
いわば「精神の健康診断」だ。
父はその試験に、二年連続で「要注意」の判定を受けた。

理由は明かされなかった。
ただ、判定結果が出た翌日には、
父のオフィスの権限は凍結され、
法服を着ることは二度と許されなくなった。

 この制度が導入された当初、多くの弁護士や裁判官、
検察官が職を追われた。
人権派と呼ばれた弁護士たちは声を上げたが、
その声はやがて「犯罪幇助の可能性がある」
という一言で封じられていった。
実際に弁護士資格を剥奪された者も少なくない。
マスコミはこぞってこれを「思想統制だ」
「新しい形の粛清だ」と書き立てたが、
世論はそれを支持しなかった。
犯罪被害者たちの権利が
ようやく守られるようになったこの時代に、
加害者の側に立ち続けた者たちへの視線は、
日を追うごとに冷たくなっていったのだ。

 思想試験は司法関係者にとどまらず、
やがて教育関係者、
そして警察関係者にまで拡大された。
特に教育現場では、試験に耐えられず
教壇を去る者が後を絶たなかった。
かつて「聖職」と呼ばれた教師という仕事は、
いつしか「常に思想を測られる仕事」
へと姿を変えていた。

 リオの父は、それでも国を恨まなかった。
「正しいことをしていたつもりだった。
だが、正しさというのは時代によって形を変える。
俺はただ、時代の形に合わなかっただけだ」

 父はそう言って、静かに笑った。
その笑顔がどこか諦めを含んでいたことを、
リオは今でも覚えている。

 車が停止する。
目的地――M工科大学の正門前だった。
リオは降車する前に、ふと窓の外の空を見上げた。
灰色の雲の切れ間から、朝の光が僅かに差し込んでいる。
その光の中を、規則正しく整列した車列が
音もなく滑っていく。

 美しい。
そして、あまりにも整然としすぎている。

 リオはスマートグラスを軽く指で押し上げ、
車を降りた。

(つづく)
 

第三百二十六弾「異能の転生者」

第三百二十七弾「異能の転生者 その2」

第三百二十八弾「異能の転生者 その3」

第三百二十九弾「異能の転生者 その4」

第三百三十弾「異能の転生者 その5」

第三百三十一弾「異能の転生者 その6」

第三百三十ニ弾「異能の転生者 その7」

第三百三十三弾「異能の転生者 その8」

第三百三十四弾「異能の転生者 その9」

第三百三十五弾「異能の転生者 その10」

第三百三十六弾「異能の転生者 その11」

第三百三十七弾「異能の転生者 その12」

第三百三十八弾「異能の転生者 その13」

第三百三十九弾「異能の転生者 その14」

第三百四十弾「異能の転生者 その15」

第三百四十一弾「異能の転生者 その16」

第三百四十ニ弾「異能の転生者 その17」

第三百四十三弾「異能の転生者 その18」

第三百四十四弾「異能の転生者 その19」

第三百四十五弾「異能の転生者 その20」

第三百四十六弾「異能の転生者 その21」

第三百四十七弾「異能の転生者 その22」

第三百四十八弾「異能の転生者 その23」

第三百四十九弾「異能の転生者 その24」

の続きです

 

 

 

# 異能の転生者

## 第六十二章 二度目の国葬

### 一

土天ダン・グラファイトの国葬は、
ラングバルト侯爵の国葬から
三ヶ月も経たない時期に執り行われた。

同じ大聖堂だった。
同じ石造りの天井に、
同じ色ガラスの窓から光が差し込んでいた。
しかし空気は違った。

ラングバルト侯爵の国葬は、
政治的な意味合いが大きかった。
王国が誠意を示すための儀式という側面があった。

しかし今回は違った。

ダンを知る者たちが、本当の意味で悼んでいた。

騎士団の者たちが、正装で並んでいた。
その顔に、悲しみがあった。
上官への礼儀としての悲しみではなく、
この人を失ったという実感からくる悲しみだった。
ダンが長年、どのように騎士団を率いてきたかが、
その顔の一つ一つに現れていた。

民衆も集まっていた。

騎士団長の国葬だから来た者もいただろう。
しかし中には、
ダンに個人的に助けられた経験を持つ者もいた。
地方の紛争に騎士団が介入した時、
ダンが直接動いて救われた村がある。
その者たちが、わざわざ王都まで来ていた。

エリスとジノが、喪主として前に立っていた。

エリスは落ち着いていた。
泣いていなかった。
しかしその落ち着きが、
どれほどの力を要しているかは、
傍で見ていればわかった。

ジノは真っ直ぐ前を向いていた。

泣いていなかった。
泣くまいとしているのが、その顔に出ていた。
父親のような騎士になると言った少年が、
父親の国葬で泣くまいとしていた。

ルークは参列者の中にいた。

前回、ラングバルト侯爵の国葬には出席しなかった。
気まずかったからだ、とルークは自分に説明していた。
しかし今回は違った。
出席しないという選択肢が、ルークの中になかった。

思うところが多かった。

それだけではなかった。

ダンに対して、ルークは負い目があった。
最後まで真実を伝えられなかった。
火天ライナスが背後にいることを、
もっと早く察知すべきだった。
木天ジレルの毒を、もっと早く解析すべきだった。

全てにおいて、もっとできることがあった。

その後悔を抱えながら、
ルークはダンの国葬に立っていた。

式典が進んだ。

国王が言葉を述べた。
騎士団の幹部が言葉を述べた。
各地から送られた書簡が読み上げられた。

ジノが前に出た。

子供が喪主の言葉を述べることは、異例だった。
しかしエリスがそれを望んだのか、
あるいはジノ自身が望んだのか、
ジノは大聖堂の中央に立った。

「父は、弱い者の味方でした」

声が、大聖堂に響いた。

子供の声だった。
しかし揺れていなかった。

「強い力を持ちながら、
その力を自分のために使いませんでした。
いつも、守るために使っていました。
僕はそれを、ずっと見てきました」

ルークはジノを見ていた。

「父のような騎士に、僕はなります」

最後の言葉だった。

声が、少しだけ揺れた。
しかしそれだけだった。

大聖堂の中に、静かな拍手が広がっていった。

ルークは拍手をしながら、ジノの後ろ姿を見ていた。

あの子は、本当になるだろう、とルークは思った。
ダンの息子だから、というだけではなかった。
あの目を持つ子供は、言ったことをやり遂げる。

---

## 第六十三章 新しい風

### 一

国葬から数日後、
グレイの研究室に新しい顔が加わった。

アイーダ・ランドルフだった。

ルークが声をかけていた。
理由は単純だった。
ライナスが長期離脱した今、
火天の空白を埋められる可能性がある人物として、
アイーダ以上の候補がルークには見えなかった。

火、水、黒の三系統に風魔法の特別な適性。
魔力量は卓越。
そして、物事を正確に見る目
——ライナスが持っていなかった
最も重要な資質を、アイーダは持っていた。

グレイは最初、少し渋い顔をした。

「研究の場に、
部外者を入れることには慎重でいたいが」

「アイーダは入学試験の総合第二位です。
グレイ教授が認めない生徒ではないはずです」

グレイは少し考えて、承諾した。

しかしグレイの承諾がどういうものかを、
アイーダは最初の日に思い知ることになった。

---

校庭に出た最初の瞬間から、
アイーダは違和感を覚えた。

グレイの通常の授業は知っていた。
Aクラスの授業は、
他のクラスとは比べものにならない水準だった。
しかしこれは、その授業とも違った。

通常の授業には、段階があった。
基礎から応用へ、
理論から実践へ、という順序があった。

しかしグレイがフリーダに向ける指導には、
その段階がなかった。

最初から、高度だった。

「六系統の同時起動。前回より出力を二割増やせ」

グレイがそう言った時、アイーダは耳を疑った。
六系統を同時に、しかも前回より二割増し。
それがどれほどの難度かを、
アイーダは魔法使いとして即座に理解した。

理解した上で、到底できないと思った。

しかしフリーダはそれを、実行していた。

六つの色が、フリーダの周囲に同時に現れた。
それぞれが干渉せずに共鳴していた。
複合の出力が、確かに以前より高かった。

アイーダは自分でも試みた。

火、水、黒の三系統の同時起動から始めた。
通常であれば、それだけでも相当の集中力を要する。
しかし今日のグレイの要求水準には、
はるかに届かなかった。

三十分が経った時点で、
アイーダの魔力は半分以下になっていた。

一時間が経った時点で、アイーダは限界を感じていた。

「少し、見学させてください」

アイーダはグレイに言った。

グレイは頷いた。
批判も、励ましもなかった。
ただ、当然だという顔をしていた。

アイーダは端に下がって、フリーダを見た。

フリーダはまだ続けていた。

疲れているのはわかった。
額に汗があった。
しかし止まっていなかった。
グレイの次の指示を聞いて、
また別の複合魔法を試みていた。

アイーダは、入学試験の時のことを思い出した。

あの時のフリーダは、Cクラスの低位評価の生徒だった。

アイーダより遥かに下の位置にいた。
ルークがいなければ、二人の実力差は天と地ほどあった。

それが今は、逆転していた。

圧倒的に、逆転していたのだ。

今のフリーダと戦えば、
アイーダは手も足も出ないだろう。
その差は、入学時の差より
さらに大きいかもしれなかった。

こんなに早く、こんなに大きく——。

アイーダは自分の手を見た。

悔しい、という感情があった。
しかしそれよりも大きい何かがあった。

もっと上に行きたい、という感情だった。

この場所に来てよかった、とアイーダは思った。
自分の限界を、正確に見せてくれる場所だった。

フリーダの側にも、変化があった。

一人で指導を受けていた時より、表情に余裕があった。
アイーダという同年代の存在が、
同じ場所で努力していることが、
フリーダの中に何かをもたらしていた。

競う相手ではなかった。
しかし、向き合う相手がいることが、
フリーダの集中を高めていた。

一人で限界に向かい続けることと、
誰かと共に向かっていくことは、
同じ行為でも質が違った。
フリーダにとって、
アイーダの存在は予想外の形で
良い影響をもたらしていた。

---

## 第六十四章 空白

### 一

王国は、静かに揺れていた。

土天ダンの戦死。
木天ジレルの死亡。
火天ライナスの長期離脱。
そして水天アクアの精神的な不調。

六名いた天のうち、機能しているのは
白天ハインリヒと
黒天ヴィルヘルムの二名だけになった。

この事実が持つ意味を、
王国内の者たちは各自の立場で受け取っていた。

騎士団は、
天の空白が防衛力に与える影響を試算していた。
他国との力関係が、
どの程度変化するかを分析していた。

貴族たちは、
この状況をどう利用するかを考えていた。

そして魔法協会は、動いていた。

新たな天候補の選定が、協会内部で始まっていた。
空白を埋めることは急務だった。
天の数が減れば、魔法協会の影響力も比例して下がる。
それは協会にとって容認できない事態だった。

協会がピックアップした候補の中に、
二つの名前があった。

一つは、エドワード・タイン。

七十歳を超えた高齢の魔法士だった。
先代の木天を務めた経験を持つ。
現在は引退状態にあったが、
その実力は今も衰えていないと言われていた。
木天ジレルの後継として、最も手堅い選択だった。

協会にとって御しやすい人物でもあった。
高齢で保守的な思想を持ち、
協会の方針に従順だった。

しかしルークには、この名前に別の記憶があった。

エドワード・タイン。

自分が五歳の時、魔力鑑定を行った人物の一人だった。
微量の評価を告げた三人のうちの一人。
あの時の彼の顔を、ルークは今も覚えていた。

もう一つの名前は、トール・グレイブヤードだった。

ルークは、その名前を報告書で見た瞬間に、
少し目を細めた。

兄だった。

火、土、白の三系統が使える。
魔力量は至高の評価を受けている。
学業成績は常に首席クラス。
政治的な洞察力においても、
同年代の中で群を抜いている。

先代の火天を務めた
ドナルド・グレイブヤード伯爵の息子という血筋も、
その評価を支えていた。

能力だけを見れば、妥当な選択だった。

しかしルークは、兄が天になることの意味を、
政治的な観点から考えた。

トールは現在、特定の派閥に深く関わっていた。
天になれば、その立場が変わる。
天は王室にも教会にも魔法協会にも属さない、
独立した存在という建前がある。
その建前の下に置かれれば、
トールの政治的な動きに
制約が生まれる可能性があった。

魔法協会がトールを候補に挙げた理由が、
その点にあるとすれば——。

ルークは考えを止めた。

今すぐ結論を出す問題ではなかった。

---

### 二

グレイが動いた。

グレイ・サンダーズが公的な場で発言することは、
普段は少なかった。
しかし今回は違った。

王室側が、
天候補の選定において魔法協会の意向に
難色を示している
——その情報を得たグレイは、
タイミングを計っていた。

魔法協会が主導する選定は、
魔力量と系統の純粋さを基準にしていた。
それは従来の天の選び方だった。
一系統を極めた者が天になる
という原則に沿った選定だった。

しかしグレイは、
その原則そのものに異議を持っていた。

ルークとの研究で、グレイは知っていた。
魔法の可能性は、一系統の極みに留まらない。
複数系統の組み合わせ、魔法と別の力の共存
——それらが拓く領域は、
従来の天の基準を
根本から書き換える可能性を持っていた。

フリーダがその証明だった。

そしてアイーダも、まだ発展途上だが、
複数系統を扱える可能性を持っていた。

グレイは王室側の窓口に、書簡を送った。

内容は明快だった。

フリーダ・ラングバルトと
アイーダ・ランドルフを、天候補として推薦する。

その理由として、
グレイは三ヶ月間の研究記録を添付した。
フリーダの魔力量の推移、六系統の出力の変化、
複合魔法の達成記録
——全てが数値として記録されていた。

書簡を受け取った王室側の担当者は、
内容を読んで目を丸くした。

それから、国王のもとに走った。

グレイの書簡は、
魔法協会の選定に対する公式な異議申し立てだった。
しかしそれ以上に、
この王国の天の在り方そのものへの、
静かな挑戦だった。
 

第三百二十六弾「異能の転生者」

第三百二十七弾「異能の転生者 その2」

第三百二十八弾「異能の転生者 その3」

第三百二十九弾「異能の転生者 その4」

第三百三十弾「異能の転生者 その5」

第三百三十一弾「異能の転生者 その6」

第三百三十ニ弾「異能の転生者 その7」

第三百三十三弾「異能の転生者 その8」

第三百三十四弾「異能の転生者 その9」

第三百三十五弾「異能の転生者 その10」

第三百三十六弾「異能の転生者 その11」

第三百三十七弾「異能の転生者 その12」

第三百三十八弾「異能の転生者 その13」

第三百三十九弾「異能の転生者 その14」

第三百四十弾「異能の転生者 その15」

第三百四十一弾「異能の転生者 その16」

第三百四十ニ弾「異能の転生者 その17」

第三百四十三弾「異能の転生者 その18」

第三百四十四弾「異能の転生者 その19」

第三百四十五弾「異能の転生者 その20」

第三百四十六弾「異能の転生者 その21」

第三百四十七弾「異能の転生者 その22」

第三百四十八弾「異能の転生者 その23」

の続きです

 

 

 

# 異能の転生者

## 第六十章 報告

### 一

王城の正門は、以前と変わらない姿で立っていた。

あの夜、ルークが吹き飛ばした門だった。
ルークが帰り際に元通りにした門だった。
石と鉄の複合構造に、王家の紋章が金で刻まれていた。

ルークはその前に立って、
少しの間だけ、その門を見た。

あの夜と今日では、全てが違った。

あの夜は怒りがあった。
明確な目的があった。
向かうべき相手が見えていた。
しかし今日は違った。
今日のルークは、報告をしに来ていた。
本来はダンがするはずだったことを、
代わりにしに来ていた。

正式な訪問だった。

事前に使者を送り、時刻を調整し、礼装を整えた。
ルークにとって、それは慣れないことだった。
しかしダンの名代として来るのだから、
それが最低限の礼儀だった。

門をくぐった。

廊下を歩いた。

案内の者が先を歩いていた。
その背中を追いながら、
ルークは今日言うべきことを頭の中で整理していた。

感情的になってはいけない。
事実を、正確に、順序立てて伝える。
それだけだった。

---

通された部屋は、広かった。

王城の中でも中枢に近い場所にある謁見室だった。
天井が高く、両側に柱が並んでいた。
窓から入る午後の光が、石の床に長い影を作っていた。

国王グルーベンハーゲン・ブラウンシュヴァイク
・ヴォルフェンビュッテルが、正面に座っていた。

齢を重ねた顔だった。
しかし目に力があった。
長年、この国の頂点に立ち続けてきた人間の目だった。

その隣に、白天ハインリヒがいた。

獅子公の異名を持つ男だった。
国王の弟。天の中でも最強と言われる。
あの夜、ルークを見た瞬間に
自分の首が飛ぶイメージを見たと言った男だった。
今日はルークに対する警戒があるのだろう、
その立ち位置は国王のすぐ傍だった。

レイスナー第二王子もいた。

ルークと視線が合った瞬間、レイスナーは小さく頷いた。

この場にいることへの意味を、
二人はそれぞれの立場で理解していた。

黒天ヴィルヘルム第一王子の姿は、なかった。

ルークはそれを確認して、内側で一つのことを確認した。

今日この場にヴィルヘルムがいないことが、
何を意味するか。
偶然ではないと、ルークは判断していた。

「ルーク・グレイブヤード、報告を」

国王が言った。

ルークは前に出た。

「大型魔獣ヒュドラ、ブラックバイパー、
ワイバーンの群れは全て討伐完了しました」

声を整えて言った。
感情を出さないように。事実だけを伝えるように。

「ただし、その中で火天ライナスと
木天ジレルによる襲撃がありました。
火天ライナスは戦闘の結果、重傷を負い
現在は生存しています。
木天ジレルは戦闘の結果、死亡しました。
遺体は回収できませんでした」

部屋の空気が、変わった。

国王の顔が、固まった。

ハインリヒの目が、細くなった。

「そして」
ルークは続けた。

「木天ジレルの奇襲により、
土天ダン・グラファイトが戦死しました。
ダンの遺体は持ち帰っています。
戦死した騎士三名の遺体も、同様に回収しています」

沈黙があった。

長い沈黙だった。

天同士の争い。
それはこの王国において、あってはならないことだった。

最高戦力である天が互いに戦えば、
その被害は計り知れない。
国そのものが揺らぐ。
そして外部の国々が、その隙を狙う。

そういう最悪の事態が、実際に起きた。

しかも、二名の天が失われた。

木天ジレルと土天ダン。
六名しかいない天の中から、一度に二名が消えた。
戦力の喪失だけではなかった。
天という存在が持つ抑止力、他国への示威効果
——それが大きく損なわれた。

国王は、項垂れる寸前の顔をしていた。

---

### 二

「どうして火天ライナスだけ生き残ったのかね」

ハインリヒが口を開いた。

声は穏やかだった。
しかし問いの鋭さは隠れていなかった。

ルークはハインリヒを見た。

「彼はまだ改心の余地があると判断しました」

ルークは答えた。

「ただし」
続けた。

「天とするには、精神が幼稚すぎます。
能力だけで判断せずに、
そういう点をもっと重要視すべきだと思います」

言葉に、無意識の威圧が混じっていた。

後から気づいたが、止めなかった。
言うべきことを言っていた。
撤回する理由がなかった。

部屋にいた者たちが、一斉に気圧された。

国王も、ハインリヒも、レイスナーも
——全員が、ルークの言葉の重さに押された。
物理的な力ではなかった。
しかし、その言葉を否定できる立場にいる者が、
この部屋にはいなかった。

ルークは少し間を置いてから、続けた。

「土天ダンが木天ジレルに殺害されたことは、
彼の腹に刺さった木を調べればわかると思います。
木天ジレル特有の毒が検出されるでしょう」

声が、わずかに変わった。

悔しさが、にじんでいた。
抑えていたが、完全には抑えられなかった。

「それが——」

ルークは一度、言葉を切った。

「それが、ダンを助けられなかった理由です」

ただの傷ならば、治せた。
ルークの超能力は、肉
体の損傷を修復することができた。
しかし木天ジレルは、
攻撃する木の中に毒を仕込んでいた。

単純な毒ではなかった。

複数の成分を独自に配合した、解析困難な毒だった。
解析を妨げる罠が幾重にも仕掛けられていた。
その構造を解読するだけで、相当の時間が必要だった。
しかし毒は即効性だった。
体内に入った瞬間から、数秒で全身を駆け巡った。

解析が終わる前に、毒が致死量に達していた。

どれほどの力を持っていても、
解析できないものは対処できなかった。
ルークはそれを、ダンが絶命するまでの
短い時間の中で理解していた。

理解しながら、何もできなかった。

国王が、ゆっくりと頭を垂れた。

長年、この国のために働いてきた男が死んだ。
しかもそれが、天同士の政治的な争いに
巻き込まれた結果として。
その事実の重さが、国王の肩にのしかかっていた。

---

## 第六十一章 遺族

### 一

「戦死した騎士の遺体はどうすればいいでしょうか」

ルークは尋ねた。

国王に代わって、ハインリヒが答えた。

「火天ライナスは魔法協会に搬送する。
治癒魔法士が集まっているから、そちらで治療を受ける。

土天ダンと騎士たちの遺体は、地下の安置室に」

それから一拍置いて、続けた。

「土天ダンは後日、国葬を執り行う」

ルークは頷いた。

おおむね、妥当だった。

ただ一点だけ、引っかかるものがあった。

火天ライナスを魔法協会に搬送する。

魔法協会がどういう組織であるかを、
ルークは既に把握していた。
王国の三大勢力の一つ。
天の認定権を持ち、魔法の評価基準を独占する。
その組織が、
今回の件で天を二名失ったことをどう受け取るか。

ライナスを引き取ることで、
何かを隠蔽しようとする可能性があった。

しかしルークがそれに口を出せる立場には、
今はなかった。

ルークは何も言わなかった。

---

### 二

王城の地下に、遺体安置室があった。

石造りの静かな部屋だった。
外の音が届かなかった。
温度が低く保たれていた。
いくつかの台の上に、遺体が安置されていた。

ルークはダンの傍に立った。

亜空間から取り出した時のままだった。
時間を止めていたから、変化がなかった。
眠っているように見えた。

しかし眠っていなかった。

ルークは何を言うべきかを考えた。

言葉が見つからなかった。

ダンが最後に言ったことは、まだルークの中にあった。
消えていなかった。
消えるとも思えなかった。
しかし今、その言葉に何かを返す言葉が、
ルークの中にはなかった。

ただ、傍にいた。

しばらくの時間が経った。

扉が開いた。

人が入ってきた。

女性と、子供だった。

女性は三十代と思しき年齢だった。
落ち着いた顔立ちの人だった。
しかし今は、その顔が強ばっていた。
目が赤かった。
既に一度、泣いていた顔だった。

子供は少年だった。
十歳前後に見えた。
母親の後ろについて入ってきたが、
その目も赤かった。

二人はダンの遺体に近づいた。

女性がダンの顔を見た。
一秒、二秒——それからダンに抱きついた。
声が出なかった。
肩が震えていた。

少年は母親の隣に立って、ダンの手を握った。

握った瞬間に、少年の目から涙が溢れた。
声を殺して泣いていた。
我慢しようとしていた。
しかし我慢しきれなかった。

ルークはその光景を見た。

部屋の端に下がろうとした。
この二人の時間に、
自分がいるべきではないと思った。

しかし女性が気づいた。

涙をハンカチで拭いて、ルークのところに来た。
目は赤かった。
しかし足取りはしっかりしていた。

「私はダンの妻、エリスです。
あの子は息子のジノです」

声が少し掠れていたが、はっきりしていた。

「すみません、見覚えがないのですが
——夫の同僚の方ですか」

ルークはエリスを見た。

この人に、何を言えるか。

正確な事実は言えなかった。
天同士の争いは極秘扱いになっていた。
火天ライナスの名前も、木天ジレルの名前も、
この場では出せなかった。

しかし嘘だけはつきたくなかった。

「いえ」
ルークは言った。

「今回の一件で、ダンさんに誘っていただいて
共に戦いました」

「そうでしたか」
エリスは頷いた。

「大型魔獣の群れだったと聞きました。
かなり多かったのですか」

「はい」

ルークは答えた。

これは嘘ではなかった。
魔獣は確かに多かった。
しかし本当の原因については——

「ヒュドラやブラックバイパーや
ワイバーンが非常に多くいて、
非常に不利な戦いでした」

そこまでは言えた。

「だけど彼は決して諦めずに」

ルークは続けた。

エリスの顔を、見られなかった。俯いた。

「みんなを必死に守って、守り抜いたんです。
非常に立派でした」

嘘ではなかった。

ダンは最後まで、部下たちを守ろうとしていた。
土壁を構築し続けて、魔獣の攻撃から騎士たちを守った。

その事実は変わらなかった。

しかしその言葉を言いながら、
ルークは自分の声が信用できなかった。

本当のことを言えていない。
言えない理由がある。
しかしその理由が、ダンの死に繋がっていた。

エリスは何も言わなかった。

しばらくして、少年の声が聞こえた。

「僕はお父さんのような立派な騎士になります」

ジノがルークを見上げて言った。

目から涙が溢れていた。
しかし声は、決意の形をしていた。
泣きながら、
それでも前を向こうとしている目だった。

ルークはジノを見た。

この子が言う言葉の重さを、ルークは理解していた。
父親を亡くした直後に、
父親のようになると言える強さが
どこから来るのかを。

「ダンの息子なのだから、絶対になれるよ」

ルークは言った。

「応援してるから」

笑った。

しかしその笑いは、ぎこちなかった。
自分でもわかっていた。
笑い方を、ルークは知っていた。
しかし今、自然に笑える状態ではなかった。

ジノはそれでも、ルークの言葉を受け取った。

また涙が溢れたが、頷いた。

エリスがジノの肩に手を置いた。

三人の間に、しばらくの沈黙があった。

安置室の外から、かすかに人の気配があった。
遺族のために場所を用意しようとしている
者たちの気配だった。

ルークは頭を下げた。

「失礼します」

そう言って、安置室を出た。

扉が閉まった。

廊下に出た瞬間、ルークは石の壁に背を預けた。

天井を見た。

石造りの天井が、灯りに照らされていた。

ジノの顔が、頭から離れなかった。
泣きながら、それでも前を向いていた目が。

ルークは少しの間、その場に立っていた。

それから、歩き始めた。

王城の廊下を、一人で歩いた。
 

 

第三百二十六弾「異能の転生者」

第三百二十七弾「異能の転生者 その2」

第三百二十八弾「異能の転生者 その3」

第三百二十九弾「異能の転生者 その4」

第三百三十弾「異能の転生者 その5」

第三百三十一弾「異能の転生者 その6」

第三百三十ニ弾「異能の転生者 その7」

第三百三十三弾「異能の転生者 その8」

第三百三十四弾「異能の転生者 その9」

第三百三十五弾「異能の転生者 その10」

第三百三十六弾「異能の転生者 その11」

第三百三十七弾「異能の転生者 その12」

第三百三十八弾「異能の転生者 その13」

第三百三十九弾「異能の転生者 その14」

第三百四十弾「異能の転生者 その15」

第三百四十一弾「異能の転生者 その16」

第三百四十ニ弾「異能の転生者 その17」

第三百四十三弾「異能の転生者 その18」

第三百四十四弾「異能の転生者 その19」

第三百四十五弾「異能の転生者 その20」

第三百四十六弾「異能の転生者 その21」

第三百四十七弾「異能の転生者 その22」

の続きです

 

 

 

# 異能の転生者

## 第五十八章 最期

### 一

ルークはダンに駆け寄った。

地面に倒れていた。
木の幹がまだ体を貫いていた。
ルークはそれを慎重に取り除いた。
傷口を塞いだ。
しかし内側の損傷は深かった。
貫通した木が、内臓の複数を傷つけていた。

ダンの呼吸は、かすかだった。

しかし目は開いていた。ルークを見ていた。

「やった奴は、わかったのか」

ダンの声は、しかし小さかった。
血が混じっていた。

「木天ジレルだった。
でも、もう倒した。心配いらない」

ダンは少しの間、天を見た。

「あぁ」
と言った。

「やはり天同士で争うことになっちまったか」

残念だった。
怒りではなかった。
ただ、残念だった。
長年、この国を守るために立ち続けてきた人間の、
純粋な残念さだった。

「天同士が争えば、
確実に力なき者たちが巻き込まれていく」

ダンはゆっくりと両手を動かした。
ルークの腕を掴んだ。

握力はまだあった。
騎士団長として鍛えてきた体の、
最後の力が、その手に残っていた。

「ルーク、お願いだ。弱者を守ってくれ」

声が、懇願の形を取っていた。

しかしその懇願には、弱さがなかった。
頼む相手を信頼しているからこそ出てくる言葉だった。
この少年ならば、と思っているからこそ、
最後の力を使って言葉にしていた。

「俺は地位も権力もどうでもよかった」

ダンは続けた。視線がルークに向いたままだった。

「ただ、そういう争いに巻き込まれる
弱者を助けたいから、騎士団長になった。
天になった。それだけだった」

ルークはダンの手を、両手で受け止めた。

「だからラングバルト男爵の件を知った時は、
非常に無念だった」

ダンの声が、少し掠れた。しかし言葉を続けた。

「だがあの時、ルークが怒ってくれているのを見て、
とても嬉しかったんだ」

ルークは何も言えなかった。

「俺以外にも、強者でありながら
弱者のために動いてくれる人間がいると、そう思えた。
それがどれほど嬉しかったか——」

ダンの目が、少し細くなった。
遠くを見るような目だった。

「勝手な押しつけで悪いが」

また、ルークを見た。

「どうか弱者を守ってくれ」

その言葉が終わった後、ダンの体から力が抜けた。

握っていた手が、緩んだ。

緩んだのではなかった。力が、なくなった。

ルークはダンの体を、そのまま抱えていた。

ダンの目は、半分開いたままだった。
その目に、最後まで意識があったことが見えた。
言いたいことを、全て言えた顔だった。

土天ダン・グラファイトは、
ルークの腕の中で絶命した。

---

### 二

ルークは動かなかった。

どのくらいの時間が経ったか、わからなかった。

泣いていなかった。
涙が出なかった。
感情が大きすぎると、
涙という出口を見つけられなくなることがある。
ルークの中にある喪失感は、
涙という形に収まらなかった。

これからもっと良い関係が築けていた。

ルークはそう思った。

馬車の中での会話が蘇った。
携帯食料を温めた時に目を細めて喜んだ顔。
フリーダのことを心配して
「しまい込みすぎると出てこなくなる」
と静かに語った言葉。
「本当に魔獣だったか」と聞いて、
答えを得られないまま
それ以上を聞かなかった誠実さ。

もしかしたら、
親友と呼べる存在になっていたかもしれなかった。

この世界に来てから、
ルークにはそう呼べる相手がいなかった。
グレイとは研究者同士の関係があった。
フリーダには別の感情があった。
トールは兄だった。
しかしダンとの間には、
別の種類の繋がりが生まれ始めていた。

同じ方向を向いている者同士の繋がりだった。

力のない者たちを守りたいという、
その一点において、
二人は完全に同じ場所に立っていた。

それを、自分の甘さで失った。

ルークは自分の判断の失敗を、
もう一度、正確に確認した。

感情的に曖昧にせず、
どこで何を間違えたかを、冷静に把握した。
それはルークにとっての弔い方だった。
同じ失敗を繰り返さないことが、
ダンへの誠実さだと判断していた。

---

復讐は何も生まない、という言葉がある。

ルークはその言葉を知っていた。
前世においても、今生においても、
そういう考え方が存在することを知っていた。

しかし、その言葉を言える人間は、
復讐したいという場所まで
落とされたことがない人間だとルークは思っていた。

精神が抉られてマイナスになった状態から、
ゼロに近づくための行為が復讐だった。

マイナスにされたことがない人間には、
その必要性が理解できない。
理解できないから、綺麗な言葉で否定できる。

しかしルークが今感じているのは、
感情的な衝動だけではなかった。

より根本的な判断があった。

罪には、手痛い罰を与えなければならない。

それは感情の問題ではなく、構造の問題だった。

罪を犯した者は、その行為によって、
次の罪へのハードルが下がる。
一度越えた壁は、次に越える時の高さを失う。
時間が経つほど、その抑制は緩んでいく。
放置すれば、より重い罪が、より容易に繰り返される。

ジレルは今回の件で終わりではなかった。
ライナスも、ヴィルヘルムも、
背後で糸を引いていた者も——全員が、
今回の一件に何らかの形で関与していた。

ジレルはルークが仕留めた。

残りは、これから対処する。

今回の件に関わった者全てを、
ルークは虐殺するつもりだった。

それが冷たい判断であることは、
ルーク自身が知っていた。
しかし冷たさと正しさは、別の概念だった。
新たな犠牲者を出さないために、
取り除くべきものを取り除く。
それはダンが言った「弱者を守る」
ということの、もう一つの側面だった。

ダンは弱者を守ることを願った。

ルークはその願いを受け取った。

守り方が、ダンのやり方と
完全には一致しないかもしれなかった。
しかしルークにできる形で、ダンの言葉に応える。

それが、ルークにできる弔いだった。

---

## 第五十九章 帰還

### 一

ルークは立ち上がった。

ダンの遺体を、亜空間に収納した。

時間を止めた。
ダンの体の時間を、現在の瞬間で固定した。
王都に戻るまでの間、
ダンの体は今この瞬間のままで保たれる。

それがルークに、今できることだった。

騎士たちを集めた。

全員が、放心した状態だった。
次元破壊砲の光を見て、
その後で森と山脈が消えた光景を見て、
何が起きているかを理解できないまま
立ち尽くしていた。

ルークは一人ずつ、傷の状態を確認した。

軽傷者は超能力で即座に癒した。
重傷者には時間をかけた。
内臓の損傷、骨折、熱傷
——それぞれの傷の性質に応じて、
最適な処置を施した。

騎士たちは、ルークが何をしているかを
半分も理解できていなかった。
しかし痛みが消えていくことは、体が理解していた。

戦死者が三名いた。

魔獣の攻撃で命を落とした者が二名。
ライナスの火炎を直撃した者が一名。

ルークはその三名の遺体も、
ダンと同じように亜空間に収納した。
時間を止めて、状態を保った。

家族のところに、きちんと帰す。

それはダンが言葉にしなかったことだったが、
ダンならそう望むだろうとルークは思った。

---

馬車は王都に向かって動き始めた。

来た時と同じ道を、戻っていった。
しかし空気は全く違った。

騎士たちは無言だった。

馬車の中でルークは一人だった。
向かいの席は空だった。

ルークはその空席を見なかった。

窓の外を見ていた。

日が傾いていた。
来た時は朝だったのに、今は夕方になっていた。
一日が、ひどく長く感じた。

ダンの最後の言葉が、ルークの中で繰り返されていた。

勝手な押しつけで悪いが、どうか弱者を守ってくれ。

押しつけではなかった。

ルークは、そう思っていた。

押しつけというのは、
相手が望まないことを強制することだ。
しかしルークはダンの言葉を聞いた時、
拒否したいとは思わなかった。
それは元から、
ルークが持っていた方向性と同じだったからだ。

だから押しつけではなかった。

ただ、確認だった。

お前が向かっている方向は正しい、
という確認だった。

馬車が揺れた。

ルークは窓の外を見続けた。

王都の明かりが、遠くに見えてきた。