「入れ替わってる~」

を自分なりに作ってみました 苦笑

 

 

 

# 鏡の向こうの君へ

---

## 一

ファミレスの床は、夜になると妙に静かになる。

厨房のフライヤーが低くうなり、
窓の外を走るトラックのライトが
一瞬だけ壁に影を落としては消えていく。
閉店一時間前のこの時間帯が、木村 蒼は一番好きだった。
忙しさが引いて、でもまだ仕事は残っていて、
余計なことを考えずに済む。

余計なこと、というのは決まって一人のことだった。

「蒼くん、三番テーブル片付けてもらえる?」

声がして、蒼は顔を上げた。

カウンターの向こうに立っていたのは、
黒いエプロンを腰に巻いた女性だった。
髪はポニーテールにまとめられ、
少し汗ばんだ額に細い前髪が張り付いている。
名札には「神崎 澪」と書いてあった。
先月からこの店に入ったバイトの先輩で、
蒼より三つ上の大学三年生だ。

「あ、はい」

蒼は言った。たったそれだけだった。

他に何か言えばよかった。
たとえば「今夜も忙しかったですね」とか
「その髪型、似合ってますね」とか。
でも喉の奥で言葉は詰まって、空気になって消えた。
蒼はトレイを持って三番テーブルに向かいながら、
自分の不甲斐なさに静かにため息をついた。

十八年間ずっとそうだった。

地元の新潟では中学も高校も、
好きな子ができるたびに同じことを繰り返した。
遠くから見て、近づけなくて、
卒業式が終わってようやく「好きでした」

と手紙を書いて、返事を待たずに逃げた。
彼女いない歴イコール年齢というのは、
蒼にとって笑えない事実だった。

上京して、一人暮らしを始めて、
少し変われると思っていた。
東京なら、新しい自分になれると思っていた。
でも四畳半のアパートで一人で食べる
コンビニのおにぎりは新潟でも東京でも同じ味がしたし、
大学の講義で隣に座った人に
話しかけられなかった自分も変わっていなかった。

せめてここでは、とバイトを始めて二ヶ月。

神崎澪を好きになった。

澪はどこからどう見ても、清楚だった。

いつも白か薄いベージュのカーディガンを着てきて、
メイクは薄く、声は穏やかで、
本を読んでいるところをよく見かけた。
お客さんへの対応は丁寧で、後輩への態度も優しくて、
バイト仲間の男たちが陰で
「神崎さんって絶対いい子だよな」
と話すのを蒼は聞いていた。

同感だった。

好きになるなというほうが無理だった。

---

閉店作業を終えて外に出ると、
五月の夜風がひやりと首筋を撫でた。
蒼はバイトの荷物を肩に掛けながら、
自転車の鍵を探してポケットをまさぐった。

「お疲れ」

振り返ると、澪がいた。

コートの前を閉めながら、スマホを見ている。
その横顔の睫毛が、
駐車場の蛍光灯に照らされてやけに長く見えた。

「お、お疲れ様でした」

蒼は言った。声が少し裏返った。

「蒼くんって新潟だっけ、出身」

「え、あ、はい」

「いいな。へぎそば食べたい」

それだけ言って、澪はイヤホンを耳に差した。
会話が終わった。
蒼は「美味しいですよ」と言いかけて、やめた。
もう澪の耳には届かないだろうし、
届いたとしても何でもない話だ。

自転車を漕ぎながら、それでも蒼は思った。

好きだな、と。

どうしようもないほど。

---

## 二

異変が起きたのは、五月の終わりの木曜日だった。

バイトの上がり際、
蒼は腹が痛くなってトイレに駆け込んだ。
個室から出て、手を洗おうと洗面台の前に立ったとき、
蒼は固まった。

鏡の中に、自分がいなかった。

いや、正確には、自分ではない誰かがいた。

「……え」

声が出た。
でもそれは自分の声ではなかった。
もっと高くて、柔らかくて、聞き覚えのある声だった。

鏡の中にいたのは、神崎澪だった。

蒼は一度目を閉じて、また開けた。
変わらなかった。
鏡の中の澪が、蒼の動きに合わせて瞬きをした。
右手を上げると、澪の右手が上がった。
左手で頬に触れると、
鏡の中の澪の頬に、細い指が当たった。

その指は蒼のものではなかった。

でも確かに、蒼が動かしていた。

「な、なんで」

呟いた声が、また澪の声だった。
蒼は洗面台の縁を両手で掴んだ。
冷たいタイル。
それだけが現実だった。

頭の中が真っ白になって、何も考えられなくなって、
蒼はそのままその場にしゃがみ込んだ。

---

## 三

どのくらいそうしていたかわからない。

気がつくと、トイレに他の人が入ってきた。
女性だった。
当たり前だった。
今の蒼は、外から見れば女性なのだ。
蒼は洗面台から離れて、俯いたまま店の外に出た。

駐輪場に停めてあった自転車のカゴには、
見慣れないトートバッグが入っていた。

蒼の自転車じゃない。

隣に停まっていた自転車に、
蒼の見慣れたバッグがぶら下がっていた。
蒼はそのトートバッグを開けた。
財布、スマホ、リップクリーム、レシート、
ひとつぶのミント菓子。
スマホのロック画面には
「神崎澪」という名前の着信履歴があった。

「……本当に、なってる」

蒼は呟いて、
それからもうどうしようもないと思って、
自転車に乗った。

澪の自転車だった。
サドルの高さが低かった。

どこに帰ればいいかわからなくて、
スマホの地図アプリを開くと、現在地が表示されていた。
バイト先の最寄りから少し離れた住所に、
「家」というピン留めがあった。

蒼はペダルを踏んだ。

---

澪のアパートは、駅から徒歩七分の二階建てだった。

玄関を開けると、ほのかに柔軟剤の香りがした。
部屋は一LDKで、蒼の四畳半よりずっと広かった。
本棚には文庫本と画集が混在していて、
机の上には描きかけのスケッチブックがあった。

澪が絵を描くなんて、知らなかった。

冷蔵庫を開けると、
タッパーに入った作り置きが几帳面に並んでいた。
きんぴらごぼう、切り干し大根、ゆで卵。
部屋は清潔で、本は背の順に並んでいて、
やっぱり澪はそういう人だと思った。

洗面台の前に立つと、また澪の顔があった。

今度は少し落ち着いて、ちゃんと見た。

細い眉。少し吊り上がった目の端。
唇の左端に、ほんの小さなほくろ。
バイト中はいつも少し遠くから眺めていたから、
こんなに近くで見たことはなかった。

手を伸ばして、頬に触れた。

やわらかかった。あたたかかった。

蒼はしばらくそのまま立っていた。

---

## 四

翌朝、蒼は澪の体で目を覚ました。

現実だった。夢じゃなかった。

スマホのアラームが鳴って、
蒼は止め方がわからなくてしばらく格闘した。
ロック解除のパスコードは四桁で、
几帳面な性格から誕生日かなと思って
試したら一発で開いた。
一月十四日。蒼は澪の誕生日を知った。

朝の支度がわからなかった。

洗顔はどのくらい洗うのか。
化粧はどうするのか。
服はどれを着ればいいのか。
蒼は洗面台の引き出しを開けて、
化粧品の多さに圧倒された。
リキッドファンデーション、コンシーラー、
アイライナー、マスカラ、チーク、リップ。
蒼は何一つ使い方がわからなかった。

結局、洗顔と歯磨きだけして、クローゼットを開けた。

ワンピース、カーディガン、デニム、白いブラウス。
いちばん無難そうな紺のカーディガンとデニムを選んだ。

鏡の前で確認すると、
澪が蒼に選ばれた服を着て困ったような顔をしていた。

大学は休もう、と蒼は決めた。

---

昼過ぎにスマホが鳴った。

「凜」という名前からLINEが来ていた。

*今夜行く?先週のあの店、割引デー*

蒼は首を傾げた。
「あの店」が何のことかわからなくて、
返事を保留にした。

それから一時間も経たないうちに、
別の名前から連絡が来た。
「タカ」。アイコンは若い男性の写真だった。

*昨日ぶり。また会いたい*

蒼はまた首を傾げた。

トーク履歴を遡った。
「タカ」とのやりとりは昨日の夜中から始まっていた。
かなり親密な文面だった。
それが一人ではなかった。
「ケン」、「ユウ」、「しょーた」。
それぞれとの会話の温度が、
どれも似たような熱さだった。

蒼は静かにスマホを置いた。

少し時間をかけて、整理しようとした。

これはつまり、どういうことだろう。

---

## 五

四日目に、決定的なものを見てしまった。

澪のクローゼットの奥の奥、
本棚の裏に隠すように置いてあったバッグを、
うっかり落としてしまったのだ。
中身が床に散らばった。

ライター。煙草の箱。クラブのスタンプカード、複数。
ミニスカートと、バイト先には絶対に
着てこないような派手なトップス。

蒼はしばらく床に座ったまま動けなかった。

澪が煙草を吸うとは、思っていなかった。

あのおとなしそうな笑顔で、あの薄いメイクで、
クラブで踊っているところを想像しようとしたけれど、
うまく絵が作れなかった。

隠しているのだ、とわかった。

意図的に、きっちりと、完璧に。

バイト先での澪は、本当に完璧だった。
声のトーンも、立ち振る舞いも、後輩への接し方も、
全部計算されていたわけではないかもしれないけれど、
全部が「清楚で優しい先輩」という像に合っていた。
蒼はその像を信じて、好きになった。

間違いだったとは思わない、と蒼はぼんやり考えた。
澪が演じていた澪も、本物の澪の一部だったかもしれない。

でも全部じゃなかった。

---

五日目の夜、日記を見つけた。

クローゼットの隅の、
壊れたリュックの内ポケットに入っていた。

*バイトの後輩、また見てしまった。
真面目で一生懸命で、話しかけると顔が赤くなる。
かわいい。でも絶対無理。
あの子にこっちの本当の話したら、引くだろうな。*

蒼は日記を閉じた。

胸が痛いとも思わなかった。
ただ、静かに、何かが終わった気がした。

澪は蒼のことを「かわいい後輩」
とは思っていたかもしれない。
でも同時に、蒼には本当の自分を
見せられないとも思っていた。

それはたぶん、正しい判断だった。

蒼にはわかった。
澪の生きている世界と、自分の生きている世界は、
重なる部分が少なすぎる。
一緒になっても、
どちらかがずっと無理をすることになる。

好きかどうかと、合うかどうかは、別の話だ。

---

## 六

六日目、外に出てみた。

近くの公園のベンチに座って、
スケッチブックに落書きをした。
下手だった。
でも澪の手は、鉛筆の持ち方を知っていた。

絵を描いていると、他のことを考えなくて済む。

日記にそう書いてあったことを、蒼は思い出した。

澪が絵を描く理由が、少しわかった気がした。

夕方、公園に夕立が来て、木の下で雨宿りをした。
ふと、自分の顔が水たまりに映った。
澪の顔だった。
こうして外を歩いていても、誰も気づかない。
この顔の中に自分がいることを、世界の誰も知らない。

それが今日は、少しだけ楽だった。

---

## 七

八日目の朝、目が覚めると、天井が違った。

自分の天井だった。

四畳半の、雨漏りの染みがあって、
角に小さなクモの巣がある、見慣れた天井。

蒼は手を見た。
自分の手だった。
厚くて、指の節が張っている、
十八年間ずっと自分のものだった手。

「……戻った」

声が戻っていた。
低くて、少し掠れた、木村蒼の声。

蒼は布団の上にしばらく座っていた。
外から自転車の音がして、
朝のニュースが聞こえてきた。
いつも通りの朝だった。

シャワーを浴びて、顔を洗って、鏡を見た。

自分がいた。

あたりまえだった。
でもなぜか、少しだけ、ほっとした。

---

## 八

次のバイトの日、澪が普通に出勤してきた。

いつも通りのポニーテール。
いつも通りの黒いエプロン。
薄いメイク、穏やかな目。
左の唇の端に、小さなほくろ。

「蒼くん、三番テーブル片付けてもらえる?」

澪が言った。

蒼は一瞬止まった。

その声を、暗い部屋の中で聞いた。
疲れているときも知っている。
本当の自分を隠しながら生きている
人間の声だと、今は知っている。

「はい」

蒼は答えて、トレイを持った。

好きかどうか、と問われたら、わからなかった。

ただ、自分には合わないとわかった。
澪が悪いわけじゃない。
蒼が劣っているわけでもない。
ただ、重ならなかった。
それだけのことが、片想いを静かに終わらせた。

告白はしなかった。

するつもりもなかった。

これは誰にも言えない理由で終わった恋だった。

---

閉店後、駐輪場で鍵を探していると、
澪がコートを羽織りながら出てきた。

「お疲れ」

「お疲れ様でした」

今日の蒼の声は裏返らなかった。

澪がスマホを見ながら少し遠くを見るような顔をした。
その横顔は、街灯に照らされてやけに綺麗だった。

蒼はしばらく、それを見ていた。

好きじゃなくなっても、綺麗なものは綺麗だ。
そういうことがあるのだと、蒼は知った。

澪はイヤホンを耳に差して、自転車に乗って去っていった。

蒼も自転車に乗った。

夜風が、今日は少しあたたかかった。

---

## エピローグ

六月になって、バイト先に新しいシフトが増えた。

その日、更衣室から出ようとドアを開けた瞬間、
蒼は固まった。

廊下に立っていたのは、金色の髪だった。

正確には、根元だけ黒くて毛先に向かって
グラデーションで抜けていく、派手な金髪。
ピアスは左右合わせて七つ。
目の下にはアイラインがしっかり引かれていて、
爪は短いけれどメタリックなシルバーに塗られていた。
背はそれほど高くないのに、
立っているだけで空気が変わるような、
妙な圧があった。

蒼と目が合った。

相手が口を開いた。

「あ。今日からバイト入る、滝川 詩。よろしく」

声は、思ったより低かった。

「あ、はい。木村です。よろしくお願いします」

「……なんか怖い顔してる」

詩が言った。

「え、してないです」

「してるよ。まあいいけど」

詩はそれだけ言って、さっさとレジに向かった。

蒼はしばらく廊下に立ったまま、その背中を見送った。

怖い、というより、なんというか、圧が強すぎた。
目線の当て方も、言葉の切り方も、歩き方も、
全部に遠慮がなかった。
蒼が今まで関わってきた人間とは、
明らかに種類が違った。

関わらずに済むなら、そうしたい。

蒼は正直にそう思いながら、エプロンを締めた。

バイトが終わって、駐輪場に向かうと、
詩が自転車の鍵をいじっていた。
ヘルメットを被る気配はなく、
代わりにリュックからポーチを取り出して、
その中から何かを探していた。

チャーム付きの小さなポーチだった。

くまのぬいぐるみのチャームだった。

蒼は気づかないふりをして自転車に乗った。

詩は蒼に気づく様子もなく、
ポーチを開けてリップを塗って、
それを丁寧にポーチに戻した。
くまのぬいぐるみが揺れた。

夜風が吹いた。

蒼はペダルを踏んで、街灯の続く道を帰った。

今夜は、何も考えなかった。

---

*了*
 

このお話はとある人物と
SNSでやり取りをしている中で
思いついたものです



# 『交差点(クロスポイント)』

---

## 第一章 轍(わだち)

雨の匂いがする夜だった。

田中颯(たなかそう)は横断歩道の白線を踏みながら、
イヤホンから流れる音楽を少し大きくした。
信号は青だった。それで十分だと思っていた。

轢かれた瞬間の記憶は、奇妙なほど鮮明だ。

スマートフォンの画面の白い光。
助手席に誰かが乗っていて、その人間が笑っていた。
ブレーキ音ではなく、衝突音が先に来た。
それから空が見えた。
アスファルトの冷たさ。
誰かの叫び声が、遠くなって——。

目覚めたのは病院だった。

「骨盤と腰椎の複合骨折です」と医師は言った。

「歩行は、難しい状況です」

颯は三十二歳だった。
プログラマーとして都内の小さな会社に勤め、
特に信仰も持たず、神の存在については
「証明できないものを信じる理由がない」
という立場を取り続けていた。
それは怠慢ではなく、彼なりの誠実さだった。
証拠のないものに頭を垂れることは、
自分への裏切りに思えた。

リハビリは半年に及んだ。

松葉杖から、フレームへ。
フレームから、杖へ。
そして——杖があっても、
電車の振動に耐えられないことがわかった。
前庭神経の損傷。
内耳の奥で何かが壊れ、一定以上の振動が加わると、
世界が傾いて倒れてしまう。
電車には乗れない。
バスにも乗れない。
車の助手席でさえ、長距離移動は難しい。

颯の世界は、半径三キロメートルに縮んだ。

その三キロメートルの中で、彼はコードを書き続けた。
画面の前では、体は関係なかった。
インターネットだけが、彼の足だった。

---

ある夜、颯はSNSに一文を書いた。

特に誰かに宛てたわけではなかった。
ただ、移民政策について政府が出した
新しいガイドラインのニュースを読んで、
胸の中で何かが蓄積され、溢れた。

> *「国とは何か。
それは価値観や習慣を共にする人々が、
互いの生命と財産と権利を守るために作り上げた
コミュニティだ。そのコミュニティの秩序を
守れない者を受け入れることを強制するのは、
コミュニティそのものの解体を意味する。
それを差別と呼ぶのは言葉の暴力だ。
差別ではなく、区別だ。」*

投稿して、コーヒーを一口飲んで、もう寝ようと思った。

翌朝、英語で返信が来ていた。

---

## 第二章 波長

エリアス・カヴァナは、
その時ちょうどコペンハーゲンの研究所にいた。

神経科学者。
専門は「意識と身体の分散的接続」
——つまり、思考は脳だけで生まれるのかという問いを、
神経科学と哲学の境界線で追いかけている男だった。
四十一歳。南アフリカ生まれのアイルランド育ち。
肌は黒く、目は茶色く、
信仰はプロテスタントだが、教会の教義より
「神という概念が人間の認識能力の外にある可能性」
に強い関心を持っていた。

彼の信仰は、畏れだった。
証明できないから信じない、ではなく、
証明できないほど大きなものが在るかもしれない
という可能性への、静かな敬意。

エリアスは颯の投稿を、
アルゴリズムの気まぐれで見つけた。

読んで、少し考えた。

> *「I understand your point. A community has the right to define its own rules. But I wonder — who gets to define what 'the community' is in the first place? History shows that definition has often been drawn by the already powerful."*
>
>(あなたの言いたいことはわかります。
コミュニティには自分たちのルールを決める権利がある。
でも問いたいのは——そもそも「コミュニティ」とは
誰が定義するのか?
歴史的に見れば、
その定義は常に力を持つ者が描いてきた。)

颯は翻訳ソフトを通して読んだ。

珍しいことが起きていた。
反論だったが、罵倒ではなかった。

彼はキーボードに指を置いた。

---

## 第三章 言語の外で

二人のやり取りは、最初は週に一度だった。

やがて三日に一度になり、毎日になった。

颯は日本語で書き、DeepLが英語に変換した。
エリアスは英語で書き、DeepLが日本語に変換した。
意味の細部は必ずどこかで失われた。
だから二人は、失われる前提で書くようになった。
大事なことは、繰り返した。
別の角度から言い直した。

それは奇妙な会話だった。

颯は言った——*「神を信じない理由は、
神が無力に見えるからではなく、
神に責任を委ねることで人間が思考を止めるからだ。」*

エリアスは答えた——*「同意する部分もある。
だが私が信仰するのは神に委ねるためではなく、
自分の認識の限界を認めるためだ。
科学者として、私は毎日『わからない』に直面する。
その『わからない』の総体に名前をつけるとしたら、
私はそれを神と呼ぶ。」*

颯はしばらく画面を見ていた。

それは自分が反論できる種類の言葉ではなかった。

---

ある夜、颯は自分の体のことを書いた。

いつもは書かなかった。
みっともないと思っていた。
哀れみを引き出すための情報を、
自分から出すことへの嫌悪があった。

だがその夜は、移民議論が別の話に繋がって
——「人間の限界」という話題になって
——気がつくと書いていた。

> *「私は三年前に車に轢かれた。
今は半径三キロから出られない。
振動で倒れてしまうから。
電車も、飛行機も、もう乗れない。
体は人間の限界を教えてくれた。
だが言葉も同じだ。
何千の言葉を並べても、私が感じていることの
正確な輪郭は誰にも伝わらない。
会議というのは合意ではなく、欲望の押しつけ合いだ。
人類は物質的には月に行けるが、
精神的にはまだ中世にいる。」*

エリアスからの返信は、いつもより遅かった。

数時間後に来た言葉は、短かった。

> *"I've been thinking about something related to your accident. Not about your suffering — about your insight. You said the body is part of thought. I believe the same thing. Let me tell you about a patient."*
>
>(あなたの事故に関連して、考えていたことがある。
あなたの苦しみについてではなく、あなたの洞察について。

あなたは身体が思考の一部だと言った。
私も同じことを信じている。
一人の患者の話をさせてほしい。)

---

## 第四章 記憶の移植

エリアスが語ったのは、一人の女性のことだった。

三十代のアメリカ人女性。
心臓移植手術を受けた後、彼女は突然、
チキンナゲットとビールが好きになった。
それまで一度も好んだことのない食べ物だった。
後にわかったのは、ドナーが十八歳の男性で、
彼の好物がまさにチキンナゲットと
ビールだったということだ。

これは単一の事例ではない、とエリアスは書いた。

> *「腎臓移植を受けた患者が、
ドナーの夢を見るようになった事例がある。
肝臓移植後に突然絵を描き始めた患者もいる。
これらを全て偶然と片付けることもできる。
だが科学者として私は問う——意識は脳だけに宿るのか?
腸には神経細胞が一億個ある。
心臓には固有の神経系がある。
もし思考が脳と身体全体の複雑な共鳴から
生まれるのだとしたら、脳だけをデータとして
保存することに、どれほどの意味があるのか。」*

颯は読みながら、
何かが音を立てて繋がる感覚があった。

彼が事故後に感じていた
違和感の、核心にある何かだった。

リハビリ中、理学療法士に言われたことがある。
「痛みは脳が作るものです」と。

確かにそうだ。
だが——脳が「作る」ためには、身体からの信号が必要だ。
信号がなければ、脳は何も作れない。
思考もまた、同じではないか。
身体が傷つくとき、思考の回路も変容する。
颯は事故の後、確かに「別の人間」になっていた。
それは喪失だけではなく、
何か新しい感覚器官が生まれたような、
奇妙な拡張でもあった。

彼は書いた。

> *「だとしたら、人の本質を保存することは
永遠に不可能だ。脳だけを取り出せば、
それは既に別の存在になっている。
これは人類の技術的限界の話ではなく、
構造的な限界の話だ。」*

エリアスは即座に返した。

> *"Exactly. And this is where my faith comes in — not to provide an answer, but to make peace with the unanswerable. What do you do with yours?"*
>
>(まさに。ここで私の信仰が入ってくる
——答えを与えるためではなく、
答えのないものと和解するために。
あなたはどうやってそれと折り合いをつけている?)

颯は、長い時間、画面を見ていた。

窓の外は、雨だった。

彼の三キロメートルの世界が、暗く濡れていた。

---

*折り合い。*

その言葉を、颯は辞書で引くように何度も反芻した。

答えがないことと、どうやって共存するか。

彼は返信を書いた。消した。また書いた。

> *「私は折り合いをつけていない。
だからコードを書いている。コードは嘘をつかない。
if文はtrueかfalseしか返さない。
人間の会議は永遠にそのどちらにもならないが、
コードは必ず結論を出す。
私は人間を信じるのをやめた代わりに、
論理を信じることにした。
だがそれでも——あなたと話すことは、
なぜか続けている。」*

エリアスは、その返信を三回読んだ。

ヘルシンキへ向かう飛行機の中で、
窓に額を押し当てながら。

---

## 第五章 区別と差別の間

秋になり、二人の話はまた政治へ戻った。

ヨーロッパで暴動があった。
移民コミュニティの一部が起こした事件を受け、
移民全体への憎悪が燃え上がっていた。
SNSは怒号で埋め尽くされた。
颯は例によって、静かに、しかし鋭く書いた。

> *「一部の行動で全体を断罪するのは論理的誤謬だ。
しかしその一部の行動がコミュニティのルールに
根本的に抵触するなら、受け入れ基準を
見直すのはルールの問題であって感情の問題ではない。
問題はその議論を封じることだ。
『差別主義者』というレッテルを貼って
議論そのものを消滅させようとすることが、
最も民主主義を傷つけている。」*

エリアスは慎重に返した。

> *「あなたの言う区別と差別の境界線
——それを誰が、どのプロセスで引くかが
問題の核心だと思う。
そのプロセスが透明で、異議申し立てが可能で、
継続的に更新されるなら、それは区別と呼べる。
だがそのプロセスが既存の多数派の価値観に
固定されているなら、
それは結果として差別になりうる。」*

颯は苦笑した。

論理的だった。反論できる部分が少なかった。

> *「あなたは私に同意しないが、私を愚かだと言わない。
それは非常に稀なことだ。」*

エリアスは笑いながら
——颯には見えなかったが、
そうであることは文章でわかった——書いた。

> *「私の神は、対話を禁じていない。
むしろそれを命じているように思う。」*

---

## 終章 交差点

冬の始まりに、エリアスが言った。

> *「一度、話せないか。声で。」*

颯は少し躊躇した。

声は、言語よりも速く、隠せない。
日本語と英語の壁もある。
しかし——翻訳ソフトを介しながらでも、
試してみる価値はあると思った。

ビデオ通話。
時差は八時間。
エリアスは朝で、颯は夕方だった。

画面の向こうに、黒い肌の男が現れた。
眼鏡をかけていた。
後ろに本棚があった。
颯は自分の部屋の、雑然としたデスクの前に座っていた。
二人はしばらく、何も言わなかった。

翻訳ソフトを立ち上げながら、エリアスが言った。

「Hi, Sou.」

颯は言った。
「……はじめまして」

それから二人は笑った。

どちらが先に笑ったか、
後からどちらに聞いても、わからなかった。

---

通話は二時間続いた。

政治の話はしなかった。
神の話もしなかった。
意識の話も、移植の話も、国家の話もしなかった。

颯が最近書いているプログラムの話をした。
エリアスが今滞在している
コペンハーゲンの寒さの話をした。
颯の近所のコーヒー屋の話をした。
エリアスが子供の頃、
父親に連れられて行った海の話をした。

翻訳は間に合わないことが多かった。
言葉は何度もすれ違った。

それでも——何かが、確かに伝わった。

---

通話を終えた後、颯はしばらく暗い画面を見ていた。

窓の外の三キロメートルの世界は、変わっていなかった。
振動は今日も怖い。
電車には乗れない。
飛行機には乗れない。
国連の会議は今日も欲望の押し付け合いで、
人類の精神はやはり中世のままだ。

だがその夜、颯は久しぶりにこう思った。

——言葉が届かないことと、
言葉が無意味であることは、違う。

証明できる思考ではなかった。
論理的に導いた結論でもなかった。

ただ、そう思った。

そして彼は、それを神とは呼ばなかった。

---

エリアスは機内で目を閉じた。次の研究所はソウルだった。

画面の中の、小さな部屋の男のことを考えた。
三キロメートルの世界の中で、宇宙の話をする男。

神は時々、最も遠い二点を最も細い糸で結ぶ、
とエリアスは思った。

それが偶然と何が違うのか、彼にも証明できなかった。

できなくていい、と彼は思った。

できなくていい。

---

二人が出会う確率は、ゼロに近かった。

それでも二人は出会った。

人類が限界を超えられるかどうか
——それは、まだ誰にもわからない。

ただ、二人の言葉は今日も、八時間の時差と、
二つの言語と、一つの翻訳ソフトを越えて、
届き続けていた。

それが何かの始まりなのか、
あるいは何かの証明なのか。

答えを持つ者は、まだ、どこにもいなかった。

---

**了**
 

そういえば魔法少女ものって

作った事無かったよなぁ・・・

って思い立って考えたお話です

 

 

# 魔法少女、零番目の星

## 第一章 落ちこぼれの烙印

雨が降っていた。

訓練場の石畳を叩く雨音は、
まるで行進する軍靴のようだと、
白瀬 凛(しらせ りん)はいつも思う。
空の向こう——魔族との前線では、
今この瞬間も誰かが戦っているのだ。
自分と同じ年頃の、誰かが。

「白瀬。もう一度」

魔法教官の浅倉 霞(あさくら かすみ)が、
感情を削ぎ落とした声で告げた。
三十代半ばの女性だが、
その目には戦場で磨かれた鋼のような光が宿っている。
左腕の袖が空のままなのは、
二年前の北方戦線での負傷によるものだ。

凛は唇を結び、右手を前に突き出した。

*魔力を、束ねる。流れを感じて、押し出す——*

掌の中心に、かすかな光が灯った。
豆粒ほどの、頼りない白い炎。
それは三秒も保たずに、雨に溶けるように消えた。

訓練場の端で、くすくすと笑い声が上がった。

「ねえ見た? また消えた」

「二年間で〈点火〉レベル一がやっとって、
どういう才能してるの」

「才能じゃなくて、パパの才能でしょ。
魔法省次官様のご令嬢は、
消えない炎があっても
前線には行かなくていいんじゃない?」

声の主は振り向かなくてもわかった。
同期の橘 澪(たちばな みお)と、その取り巻きたちだ。
澪は入学三ヶ月で〈点火〉レベル三を習得し、
先週には〈障壁〉の基礎まで会得した。
同期の中でも飛び抜けた成績で、
教官たちの期待を一身に集めている。

「橘、
余計な口を開く暇があるなら自分の訓練をしなさい」

浅倉教官が静かに制した。
澪は「はい」と澄ました顔で答え、
それ以上は言わなかった。
言わなくても、もう充分だというように。

凛は歯を食いしばり、もう一度手を前に伸ばした。

---

国立魔法少女養成第七学校

——通称「七校」——は、
かつて首都郊外に広がっていた
丘陵地帯に建設された施設だ。
魔族の侵攻が始まる前は、
ここは大学のキャンパスだったらしい。
今は高い障壁に囲まれた、
要塞に近い学び舎になっている。

凛がここに来たのは、
二年前の十歳の誕生日から
ちょうど一週間が経った朝のことだった。

封筒は無機質な白で、表には
「魔法省管轄 魔法適性認定通知兼召集令状」
と印刷されていた。
家族全員がテーブルを囲む朝食の場で、
それは音もなく届いた。

母は泣いた。

弟の凪(なぎ)は、
七歳なりに何が起きているかを察して、
黙って凛の手を握った。

父は——白瀬 誠司(しらせ せいじ)は
——立ち上がって、凛の肩に手を置いた。
魔法省次官という肩書きを持つその人は、
この朝ばかりは官僚の顔を脱いで、
ただの父親の目をしていた。

「凛、怖いか」

凛は少し考えてから、首を横に振った。

「わかんない。でも——みんな行ってるんでしょ。
私と同い年の子も、もっと小さい子も。
私だけ行かないのは、変だよ」

父は長い沈黙の後、静かに笑った。
どこか、悲しそうな笑い方だった。

「そうだな」

それだけだった。
口利きも、特別な手配も、何もなかった。
翌週、凛は七校の門をくぐった。

---

夜、寮の自室に戻ると、
凛はベッドに腰を下ろして右手を眺めた。

指の間から魔力が零れていく感覚は、
掴もうとすればするほど霧のように散ってしまう。
浅倉教官は
「魔力とは押し出すものではなく、流すものだ」
と繰り返す。
異世界から来た魔女——エルダ先生の言葉を借りるなら
「川を堰き止めるのではなく、水路を作れ」だ。

わかってはいる。頭では。

でも体が、追いつかない。

机の上に置いてある鏡が、凛の顔を映している。
栗色の髪に、細い目。魔法少女の制服
——紺色のジャケットに白いスカート
——を着ると、まだ子どもすぎる
自分の輪郭が嫌になるほどはっきりする。

*前線に行きたい。*

変な感情だと自分でも思う。
戦いに行きたいのではなく
——戦わなければならない理由が、凛にはあった。

七校に入学して最初の月、同じ部屋だった先輩がいた。
十四歳の、瀬名 朱里(せな あかり)という人だ。
朱里は前線帰りで、後方支援訓練のために
一時的に七校に戻っていた。
右の膝に古い傷跡があって、
笑うと前歯の一本がかすかに欠けているのが見えた。

「魔族って、どんな感じですか」

ある夜、凛が聞くと、
朱里はしばらく天井を見てから答えた。

「でかい。とにかく、でかい。
私たちの炎なんて、線香の火みたいなもので
——でもそれでも、当たれば退く。ちゃんと効く。
だから諦めんな」

朱里は翌月、前線に戻った。

三週間後、戦死報告が届いた。

---

凛はもう一度、手を伸ばした。

部屋の電気を消した暗闇の中で、
誰も見ていない場所で。

*急がなくていい。流す。川のように——*

今度の光は、少しだけ長く保った。
五秒。消えない。七秒。まだある。

凛は息を止めた。

十秒が過ぎ、十五秒になった時、
光はふっと揺れて——消えた。

それでも凛は笑っていた。
一人で、暗い部屋の中で、声も出さずに。

*あと少し。絶対に、届く。*

雨が、まだ降っていた。

戦場の方角から、遠雷のような音が聞こえた気がした。
それが本当の雷なのか、あるいは魔族の咆哮なのかは、
ここからではわからない。

どちらでもよかった。

白瀬凛は拳を握り、目を閉じた。
明日も、訓練がある。

---

## 第二章 エルダ先生の問い

翌朝、凛に呼び出しがかかった。

差出人は浅倉教官ではなかった。

*異界魔術顧問室 エルダ・ヴァインハルト*

七校の中でも、その部屋だけは別の空気が流れている。
廊下の石造りの壁が急に古めかしくなり、
扉には人類の文字ではない紋様が刻まれている。
凛が控えめにノックすると、
「どうぞ」という声が聞こえた
——日本語なのに、なぜかわずかに遅延があるような、
翻訳される直前の間があるような、
不思議な声で。

エルダ・ヴァインハルトは、二十代後半に見える。
長い銀髪と、薄い紫色の目。
この世界に転移してきた時点で彼女は
既に「大魔女」の位を持っていたというが、
七校での肩書きは「異界魔術顧問」だ。

彼女はこの世界の人間ではないにもかかわらず
——あるいはだからこそ——生徒たちに対して
驚くほど公平だった。
出自も成績も見ない。
ただ、何かを見ている。

「座って、凛」

エルダは名前で呼ぶ。全員を、名前で。

凛はぎこちなく椅子に腰かけた。
机の上には、小さな水晶球が置かれていた。
中でゆっくりと光の渦が動いている。

「昨夜、自室で練習していたね」

凛は目を見開いた。
エルダはわずかに微笑んだ。

「盗み見たわけじゃない。
魔力の波紋は、敏感な者には感じられる。
あなたのは——面白い形をしている」

「面白い、というのは」

「普通の生徒は、魔力を前に押し出そうとする。
教官たちもそう教える。
でも昨夜のあなたは違った。
内側で、ぐるぐると回していた」

凛は少し考えた。

「回す、という感覚は——なんとなく、わかります。
でもそれだと、外に出なくて」

「そう。今は出ない」エルダは水晶球に手を乗せた。

「ねえ凛、一つ聞いていいかしら。
あなたはなぜ魔法を早く覚えたいの?」

前線に行きたいから——と、凛は言いかけて、止まった。

エルダの目が、まっすぐすぎた。
取り繕った言葉を差し出せる気がしなかった。

「……先輩が、死にました。七校の、同室だった人が」

「聞いている」

「私が前線に行っていたら
助けられたかどうかは、わかりません。
でも——私が使えない分、誰かが多く戦ってる。
誰かが余計に傷ついてる。
それが、嫌なんです」

しばらく沈黙があった。

エルダは水晶球から手を離し、ゆっくりと立ち上がった。

「あなたの魔力の回路は、詰まっているんじゃない」

彼女は凛の前に来て、右手をそっと凛の胸の前にかざした。

何も触れていないのに、
凛の胸の奥が、じんわりと温かくなった。

「逆回転している。あなたの魔力は——内側に向いている。
それは欠陥じゃなくて、別の種類の力よ」

「別の、種類?」

「攻撃魔法は外に出す力。
でも世界には、内に向ける力がある。
強化。治癒。感応——そして、*核化*」

エルダの声が少し低くなった。

「核化というのは、自分自身の魔力密度を
極限まで高めること。
理論上は、魔族の上位個体にも通じる一撃が打てる。
けれど——」

「けれど?」

「今まで誰も成功していない。
人間の体は、その密度に耐えられないから」

凛は息を飲んだ。

エルダはまた、静かに笑った。
今度の笑い方は、最初よりずっと複雑な色をしていた。

「だから今日から、訓練のやり方を変えましょう。
浅倉教官には私から話す。あなたは——焦らなくていい」

「でも私は早く——」

「早く行きたい気持ちはわかる」

エルダは凛の目をまっすぐ見た。

「でもね、凛。戦場で一番怖いのは、
弱い魔法少女じゃない。
*半分だけ完成した魔法少女*なの。
自分の力を半分しか理解しないまま前線に出た子は、
必ず想定外の場面で崩れる」

凛は黙った。

「あなたはまだ十二歳。
そして——あなたの力は、
まだ自分でも気づいていない場所に眠っている」

窓の外で、朝の訓練ラッパが鳴り響いた。

凛は立ち上がり、深くお辞儀をした。
扉に向かいかけて、ふと振り返った。

「エルダ先生。
先生はなぜ、私たちに力を貸してくれるんですか。
この世界は先生の世界じゃないのに」

エルダは少し間を置いた。

「魔族を知っているから。
あの子たちがどこから来て、何をしようとしているか
——私は知っている」

*あの子たち。*

凛はその呼び方が引っかかったが、
聞き返す前に、エルダはもう机に向かっていた。

---

廊下に出ると、澪がいた。

壁に寄りかかって腕を組み、凛を見る目に、
いつもの軽蔑より少し違う色があった。

「エルダ先生に呼ばれたの?」

「うん」

「私も先月呼ばれた。何言われた?」

凛は少し考えた。

「内緒」

澪は鼻を鳴らした。

「……パパのコネで残留してるって、
私は本気で思ってないから」

それは、謝罪でも撤回でもなかった。
ただの事実の報告のような言い方だった。
でも凛には、それで充分だった。

「知ってる」
と凛は言って、訓練場へ向かった。

雨は上がっていた。

東の空の端に、細い日差しが伸びていた。
その向こう——まだ遠い、
でも確かにある前線の方角に向かって、
凛はもう一度右手を握った。

*流す。川のように。内側から、満たすように。*

次の戦いのために。

まだ見ぬ誰かを、守れるように。

---

*(続く)*

 

魔法が絶対の世界で

魔法を使えない主人公が活躍する

そんなお話が小説や漫画、アニメにありますね

自分も作ってみたくなりました

 

 

# 無魔の剣聖

## 第一章 放逐の朝

雨だった。

冷たい春雨が石畳を叩き、水溜まりに波紋を広げていく。
その雨の中に、十二歳の少年が立っていた。

「行け。もうお前に用はない」

父、アルデン・クロスは玄関の扉を開けたまま、
息子を見ようともしなかった。
視線は宙に向けられ、その目には羞恥と嫌悪が滲んでいた。

貴族の三男として生まれながら魔法が使えない息子は、
彼にとって家名を汚す染みに過ぎなかった。

「ねえ、本当に行かせるの」

母、エルザが夫の袖を引いた。
しかしその声に懇願の色はなかった。
ただ確認をしていた。手順を踏んでいた。

「当然だ。魔法が使えない子を育てていると知れたら、
アルデン家の格が落ちる。
先月も隣のバーネット卿に笑われた。
笑われたんだぞ、私が」

少年は、それを黙って聞いていた。

レイン・クロス。

彼の名を呼ぶ者はもう、この屋敷にはいない。

雨粒が頬を伝う。
涙ではないと、彼は自分に言い聞かせた。
実際、涙は一滴も出なかった。
泣けるほどの温かい記憶が、
この家には残っていなかったからだ。
父が彼を抱き上げたのは魔法の適性検査の前まで。
母が彼の名を優しく呼んだのは
魔法学院への入学が絶望的だと分かるまで。

十二年間、彼は愛されていたのではない。
愛される前提条件を審査されていたのだ。

「……両親はいなかった」

レインは小さく、しかしはっきりと呟いた。

扉が閉まる。鍵の音が鳴る。

それを背中で聞きながら、少年は雨の中を歩き出した。
振り返らなかった。一度も。

---

王都の外れ、貧民街の路地。

魔法が使えない人間が集まる場所は、どこも似ていた。
泥と嘆きと、諦めた目をした人間たちの溜まり場。
レインはその一角で半年を過ごし、世界の形を学んだ。

魔法使いは上流階級に就く。
商人、医師、騎士、官僚。
全ての門には魔法適性試験の証明書が必要だった。
証明書のない者が就ける仕事は、
清掃、荷運び、農作業の単純労働のみ。
そしてそれすらも、
雇用主が気に入らなければ翌日には路頭に迷う。

「おい、無魔(むま)。この荷物を五階まで運べ」

無魔。それが魔法を持たない人間への蔑称だった。

屈辱でも、腹が減るよりはましだった。
だからレインは黙って荷を担いだ。
担ぎながら、観察した。人を。街を。
魔法使いの動き方を。
魔物の出没する路地の法則を。
生き残るために必要な全てのことを。

そして六ヶ月後、レインは王都を出た。

森へ向かった。

誰もいない、深い森の中へ。

---

## 第二章 剣と静寂

グランシュバルト大森林。

王都から三日歩いた先に広がるその森は、
魔物が出ることで有名だった。
腕に覚えのある冒険者でも、奥へは踏み込まない。
まして子供一人など、自殺行為だと誰もが言った。

しかしレインには、それが好都合だった。

誰も来ない場所。誰にも見られない場所。
そこで彼は剣を学んだ。

最初の師は、書物だった。
王都の廃品回収場で拾った、ぼろぼろの剣術指南書。
文字を読む教育だけは受けていたレインは、
その本を何百回と読み返した。
次の師は、死にかけた経験だった。
ゴブリンに三箇所斬られた夜、
崩れかけた小屋の中で彼は
「なぜ自分は生きているのか」を逆算した。
どこが悪くて、どこが正しかったのか。
その答えを翌朝から実践した。

そして三番目の師は、森そのものだった。

魔物の動き。草の揺れ方。風の方向。地面の硬さ。
生き物はみな、その体に正直だ。
騙せない。ごまかせない。
魔法という便利な力がない分、
レインは全てを感覚で読んだ。
皮膚で感じ、骨で聞き、腸(はらわた)で判断した。

一年が経つ頃、
小鬼(ゴブリン)を難なく倒せるようになっていた。

二年が経つ頃、
大鬼(オーク)の首を一太刀で落とせるようになっていた。

三年が経つ頃、森の奥の迷宮に踏み込んだ。

---

迷宮(ダンジョン)とは、地下深くに広がる魔物の巣窟だ。

階層を重ねるごとに敵は強くなり、罠は複雑になる。
それを攻略するためにほとんどの冒険者は魔法を使う。
障壁魔法で罠を防ぎ、火炎魔法で群れを一掃し、
回復魔法で傷を癒す。

レインにはそのどれもなかった。

代わりに彼が持っていたのは、
圧倒的な観察眼と、一切の無駄のない剣筋、
そして何よりも、恐怖を飼い慣らす精神力だった。

罠は目で見つけた。
床の埃の積もり方。
壁の石の色の微妙なずれ。
空気の流れの不自然な渦。
それを見分ける目を、
彼は何度も死にかけることで磨いた。

群れは各個撃破した。
一体を素早く仕留め、次の敵が反応する前に離脱する。
魔法なら一秒で終わる戦いを、
レインは十分かけて完遂した。
だが必ず生きて帰った。

傷は、森の薬草で癒した。

そうして一人、また一人と、
迷宮で彼の名を聞く者が現れ始めた。

「無魔の剣士が迷宮の第十層を攻略した」

「第十五層から魔物の素材を持ち帰った」

「第二十層で、三人パーティーの屍(しかばね)の隣に、
手を合わせた形跡があった」

噂は広がった。
信じる者は少なかったが、
帰還の度に増えていく魔物の討伐証明が、
全てを物語っていた。

---

## 第三章 吸収と返還

迷宮の第二十四層。

その日、レインは初めて死を覚悟した。

地下深くの回廊で、彼は上位魔法使い種族の魔物
「アーケインゴーレム」と遭遇した。
岩と魔力で構成された巨体が、
三つの魔法陣を同時展開し、
火と氷と雷の複合魔法を放った。

剣で受けるしかなかった。

咄嗟に剣を構え、
正眼に構えた刃の峰に三つの魔法が直撃した。

——死ぬ。

そう思った瞬間、何かが体の中で弾けた。

魔法の熱と冷気と電撃が、刃を伝って腕に流れ込んだ。
燃えるような感覚が全身を駆け抜け、
そして——弾けた。
レインの体を中心として、
螺旋を描きながら三つの魔法が凝縮し、
ゴーレムへと打ち返された。

自分が放った魔法を正面から受けたゴーレムは、
爆発とともに砕け散った。

レインはしばらく、その場に立ち尽くした。

手のひらを見た。
刃を見た。
何も変わっていない。
しかし確かに、あの感覚は存在した。
魔力を受けた瞬間、それが体の中を通過し、
意志に応じて返っていった、あの流れ。

翌日から、彼は研究を始めた。

森に戻り、魔法を使う魔物を探し、あえて魔法を受けた。
何度も何度も。失敗すれば死ぬ練習を、
彼は三ヶ月続けた。

そして理解した。

魔法を持たない自分の体には、
魔力を蓄積する器官がない代わりに、
魔力を「通過させる」構造が出来上がっていた。
魔法使いの体が魔力を生む炉ならば、
レインの体は魔力を流す川だった。
外から入った魔力は変質せず、
増幅されて元の場所へ戻っていく。

能力の名を、彼は自分でつけた。

一つ目、「魔力返還(リフレクト・エッジ)」
——剣で魔法を受けた瞬間、発動者へ必ず跳ね返す。

二つ目は更に後から開花した。
返還を繰り返す中で、
彼の体が外部魔力に対する完全な拒絶反応を獲得したのだ。

半径十メートル。
その範囲内に放たれた魔法は、
レインの体が放出する
「無魔の気(き)」によって霧散する。

「魔法無効化(ヌル・フィールド)」
——これが二つ目の名だった。

レインは剣を握り直した。

今、自分は世界に何かを告げられる力を手に入れた。

---

## 第四章 子供たちのために

討伐賞金が増えるにつれ、レインには行く場所ができた。

王都の貧民街の奥、
かつて自分が半年を過ごした路地の一角に、
無魔の子供たちが暮らす廃屋があった。
十人あまり。親に捨てられたか、親が死んだか、
あるいは親に売られそうになって逃げてきたか。
事情は様々だったが、
全員に共通するのは「魔法が使えない」
という一点だった。

レインが最初にその場所を見つけたのは、
泣き声を聞いたからだ。

七歳くらいの少女が、路地の石壁に背をつけて蹲っていた。

頬に赤い痕。腕にも。
見れば炎魔法によるものだった。
通りがかった魔法使いの子供が
「遊び」でやったのだと、後で分かった。
被害を訴えても、警備隊は無魔の訴えを受け付けない。
加害者が魔法使いの家の子なら尚更だ。

少女の名はミラといった。

「お腹、すいてる?」

レインが聞くと、
ミラは長いこと黙ってから、こくりと頷いた。

それからだった。

討伐賞金の半分以上が、子供たちの食費と家賃に消えた。
レインは構わなかった。
自分には洞窟と森があれば事足りる。
食事は獲物を捌けばいい。
金は自分のためには要らなかった。

子供たちには、剣も教えた。

魔法が使えない人間は、
剣が使えなければ本当に何もできないからだ。
最初は皆、嫌がった。痛いから。疲れるから。
どうせ何をしても無駄だから、
という目が全員にあった。

「俺も昔、同じ顔をしてた」

レインは言った。

「でも世界は変えられる。俺がそれを証明する」

子供たちは黙って剣を握り直した。

---

そんなある日、ミラが泣きながら駆け込んできた。

「お兄ちゃん、ライオスが……!」

ライオスは十歳の男の子だった。
ひょうきんで、よく笑う子だった。
その日、彼は食料を買いに市場へ行って、
戻ってこなかった。

レインが市場へ走ると、
路地の隅にライオスが倒れていた。

周囲に立っているのは、三人の魔法使いの青年。
高級な外套。腰に下げた魔法杖。得意気な笑顔。

「ちょうどいいところに来た。
こいつが生意気なことを言うから少し躾けてやったんだ。
文句はないよな? 無魔(むま)のくせに」

一人が言った。

レインはライオスの傍に膝をついた。
骨が一本折れている。
火傷の跡が三箇所。
意識はある。
呼吸もある。

「……お兄ちゃん」

ライオスが呟いた。
その目に謝罪の色があった。
何もできなかったことを、この子は恥じていた。

レインは立ち上がった。

「謝るな」と静かに言った。

「お前は何も悪くない」

そして青年たちを向いた。

「一つ聞かせてくれ。
三対一で子供を嬲って、楽しいか」

青年の顔色が変わった。

「……貴様、俺たちに口を利くか。無魔の分際で」

魔法陣が三つ展開された。
火球、氷柱、雷撃。それぞれが最大出力で放たれた。

レインは剣を抜いた。

三つの魔法が剣に触れた刹那、「無魔の気」が展開され、
全ての魔法が霧散した。
青年たちの顔が驚愕に歪む。

「も、もう一度——」

今度は一人が渾身の炎魔法を放った。
レインは剣の峰で受けた。

炎は剣身を伝い、レインの体を通過し
——三倍の密度になって、術者の足元を焼いた。

「ぎゃああああっ!」

三人は転がるようにして逃げた。

レインはその背中を見ながら、剣を鞘に収めた。

心の中に、怒りはなかった。ただ確信があった。

——変えなければならない。この世界の、根本を。

---

## 第五章 最強武闘祭

「魔法最強武闘祭」への参加申し込み書に、
レインは名を書いた。

三年に一度開催されるその大会は、
国内最大の武力証明の場だった。
優勝者には国王から直接、「最強の称号」が与えられ、
その者の発言には貴族に準ずる権威が生まれる。
過去百年、優勝者は全員が魔法使いだった。

受付の係官は、申し込み書を見て笑った。

「魔法適性証明書がありませんが」

「無魔です」

笑いが止まった。

「……冗談ですね」

「真剣です。
規則には魔法使いに限るとは書いていないはずだ」

係官は上司を呼んだ。
上司は更に上の者を呼んだ。
最終的に大会規則の原本が引っ張り出され、
確認されたのは事実だった。
「魔法が使えること」という参加条件は、
確かにどこにも明記されていなかった。
百年以上、
そんな人間が現れるとは誰も思っていなかったからだ。

参加は認められた。

翌日から、街は沸いた。

「無魔の剣士が武闘祭に出る」

「迷宮の第三十層まで単独で踏破した男」

「噂の返還の剣士か」

野次馬の声は複雑だった。
嘲笑する者、好奇の目を向ける者、
そして無魔の民の中に、初めて見る希望の光を灯す者。

ミラが笑顔で駆けてきた。

「お兄ちゃん、絶対勝って!」

「ああ」

レインは短く答えた。

勝つためだけではない。
証明するために、行く。
魔法がなければ人ではないかのように扱われる
この世界に、答えを出すために。

---

第一試合 炎の主席

開会の鐘が鳴った瞬間、会場の空気が変わった。
王都中央競技場。収容人数三万。
その全ての席が埋まっていた。
貴族の桟敷席には色とりどりのドレスと外套が並び、
一般席には肩を寄せ合う市民たちが鈴なりになっている。
そして競技場の一番端、
日当たりの悪い立見席に、無魔の民が押し込まれていた。
入場料は免除の代わりに、正規の席には座れない。
それがこの国の慣例だった。

場内アナウンスが第一試合の対戦者を告げる。

「王立魔法院首席卒業生、
炎属性最上位魔法の使い手、アスタン・ベル選手!」

割れるような歓声。
貴族席からは「アスタン卿!」
「今年も優勝を!」という声援が飛ぶ。
アスタンは白い試合服に身を包んだ二十代半ばの男だった。

端正な顔立ち、鍛えられた体躯、
腰に下げた魔法杖には父祖から受け継いだ
紋章が刻まれている。
彼は観客に向けて余裕の笑顔を見せ、
試合場の中央に進んだ。

「そして対戦相手——」

アナウンスが一瞬、詰まった。

「——無魔の剣士、レイン・クロス選手」

会場が、奇妙な沈黙に包まれた。
次の瞬間、笑いが起きた。
貴族席からだった。最初は抑えた忍び笑い。
それが広がり、やがて憚りのない嘲笑になった。

「無魔が試合場に?」

「正気か」

「見世物にしては趣味が悪い」

罵声も飛んだ。
レインは試合場に入りながら、
その声を聞いていた。
聞いて、流した。
森の中で魔物の咆哮を聞き続けた耳には、
人間の嘲笑など風の音と変わらなかった。

彼が身に纏うのは、質素な黒の戦闘服。
魔法院の紋章も、貴族の家紋もない。
腰に差した一本の剣は、
鍛冶師に特注した反りのない直剣で、
刀身に魔法刻印の一つもない。
純粋な鉄と炭素と、職人の腕だけで作られた剣だ。

アスタンはレインを一瞥し、口の端を持ち上げた。

「無魔が試合場に立っているのを見るのは初めてだ。
せっかくだから、良い見せ物になってもらおう」

「……」

「何か言ったらどうだ。緊張しているのか? 
安心しろ、手加減してやる。死ぬのは寝覚めが悪い」

レインは答えなかった。
ただ剣を抜いた。
切っ先を正面に向け、右足を半歩引いて重心を低く落とす。
アスタンの眉がわずかに動いた。
——構えが、ある。
魔法使いでも、剣の基礎くらいは学ぶ。
だからアスタンには分かった。
今目の前に立っている無魔の男の構えには、
生半可な騎士を凌駕する「殺気の設計図」がある。
しかし彼はすぐにその感覚を振り払った。
魔法がない。それだけで十分だ。

審判が旗を振り下ろした。
アスタンは初手から高出力で行くことにした。
遊ぶつもりはない。
どうせ観客が期待しているのは華麗な一撃だ。
魔法陣が三重に展開され、炎が渦を巻く。
熱気が試合場全体に広がり、
最前列の観客が思わず顔を逸らした。

「ファイア・ピラー、三連!」

三本の炎柱が、レインに向かって連続で放たれた。
レインは動かなかった。
炎が触れる、その刹那。
試合場にいた全員が、奇妙なものを見た。
炎がレインの周囲で、霧のように消えた。
ぶつかって弾けたのではない。
燃え上がって消えたのでもない。
ただ、消えた。
まるで蝋燭の火が風に吹き消されるように。

沈黙。
アスタンの顔から、笑みが消えた。

「……何をした」

「何もしていない」

レインは静かに言った。
それは嘘ではなかった。
「無魔の気」は意識して出すものではなく、
今の彼にとっては呼吸と同じ、
常時展開されているものだった。

「ふざけるな」

アスタンが魔法杖を構え直した。
今度は単発ではなく、連続詠唱。
「炎の幕」と呼ばれる、逃げ場を塞ぐ面制圧魔法だ。
試合場の半分を覆う炎の壁が展開される。
それがレインに向かって押し寄せた。
レインは走った。
炎に向かって。
観客が悲鳴を上げる。
前列の者が目を閉じる。
しかしレインは炎の壁に突入し——そして、抜けた。
炎はレインの体に触れた瞬間に散り、
彼は煙一つまとわずアスタンの正面
十メートルに立っていた。
アスタンの顔が蒼白になった。

「な……なぜ……魔法が……」

「貴様の魔法は、俺には届かない」

レインは剣を構えたまま、一歩踏み出した。
アスタンは本能的に後退し、魔法杖を振るった。
渾身の一撃、彼の奥義「業火鳳凰(ごうかほうおう)」。
炎が巨大な鳥の形を取り、
会場の空気を焦がしながらレインに迫った。
実際に放たれたのはこの大会で初めてだった。
それほどの魔法だった。
観客が息を飲む。
貴族席でさえ、人々が立ち上がった。
レインは止まった。
剣を両手で握り、峰を正面に向けて水平に構えた。
炎の鳳凰がその剣身に触れた瞬間——
全てが、逆流した。

レインの体を炎が貫通するかに見えた刹那、
炎は剣から彼の両腕へ、両腕から胸へ、
胸から全身へと流れ込み、
そして爆発的な密度で凝縮され、
ほぼ同時にアスタンへと叩き返された。
「業火鳳凰」が、元の場所に戻ってきた。
三倍の密度で。
アスタンは自分の魔法を正面から受けた。
爆発。
砂煙が晴れると、
アスタンは試合場の端の壁際で倒れていた。
外套は焦げ、魔法杖は折れていた。
彼はゆっくりと頭を上げ、レインを見た。
その目に、初めて純粋な「敗北」の色があった。

審判が長い沈黙の後、震える声で告げた。
「……勝者、レイン・クロス」

会場が静まり返った。
最初に動いたのは、立見席の端だった。
拍手が一つ。
また一つ。それが広がり、
無魔の民の立見席全体が揺れた。
やがてその声は嗚咽と混じり合い、
泣きながら拍手する老人の姿があり、
子供が飛び跳ね、
大人が互いの肩を叩き合った。
貴族席は沈黙したままだった。
レインは試合場を出る前に、一度だけ立見席を見た。
そこに見知らぬ誰かの涙があった。
彼は無言で、試合場を後にした。

第二試合 氷と毒の魔術師

二回戦の相手は、
異国の賞金稼ぎ魔法使い、カルロ・ディアンだった。
初戦でレインが勝ったことは、
既に大会関係者の間に広まっていた。
カルロはそれを聞いた上で準備してきた男だった。
彼の専門は氷魔法と毒魔法の複合、「凍毒術」だ。
魔法無効化に対する彼の答えは単純だった。

「直接、体に塗ればいい」

試合開始と同時に、
カルロは魔法杖ではなく短剣を二本抜いた。
その刃に、毒が塗られているとレインはすぐに分かった。
緑がかった輝きと、漂う微かな甘い香り。
魔法を使って製造された毒だが、
塗布された後の毒そのものは
「魔法」ではなく「物質」だ。
「無魔の気」は魔法を無効化するが、
物理的な毒には作用しない。

「なかなか考えたな」

レインは呟き、腰を落とした。

「勝てると思うか?」とカルロは言った。

「俺は九年かけてこの戦法を磨いた。
魔法無効化に対する完全な回答だ」

「そうかもしれない」

「諦めるか?」

「いいや」

カルロが踏み込んだ。
速い。
短剣使いとして相当な腕がある。
右から斬り込み、空振りを誘って左の短剣を脇腹に向ける。
レインは右腕の内側でその右手首を受け、
体を回転させながら左の短剣を外側に押し出した。
刃が衣服を掠めたが、皮膚には届かない。
カルロは舌打ちして距離を取った。

「速い。だが短剣二本に剣一本。
疲れるのはお前の方が早い」

「確かに」

レインは答えながら、剣を左手に持ち替えた。
右手が空く。
カルロが再び踏み込んだ。
今度は氷魔法も同時に展開した。
足元の地面を凍らせ、レインの足を止める作戦だ。
氷は「無魔の気」で即座に霧散するが、
その一瞬の間に短剣が届く。
しかしレインは凍る前に飛んだ。
跳躍しながら剣を振り、カルロの右手首を柄頭で打った。
短剣が落ちる。
着地と同時に今度は空いた右手でカルロの左手首を掴み、
捻り上げ、もう一本の短剣も奪った。
そのまま、カルロの背後に回り、首元に剣を当てた。
三秒だった。
カルロはしばらく呆然としてから、低く笑った。

「……完敗だ。短剣の技でも負けるとは思わなかった」

「剣だけじゃない。体全部が武器だ。
魔法がないから、そうなった」

カルロは素直に降参を宣言した。
試合場を出る時、彼はレインに小声で言った。

「俺は賞金稼ぎだ。思想はない。
だが、お前を応援することにした。理由は分からんが」

レインは何も言わなかった。ただ、わずかに頷いた。


第三試合 嵐の魔法少女

準々決勝の相手は意外な人物だった。
十六歳の少女、シルヴィア・ランネル。
風属性の天才と呼ばれ、
今大会の台風の目とされていた若き魔法使いだ。
彼女は試合場でレインを見るなり、真剣な目で言った。

「あなたが無魔の剣士ね」

「そうだ」

「私、あなたに勝ちたい。
でも……理由があって勝たなきゃいけないの」

その目に複雑な色があった。
レインは少し考えて、口を開いた。

「理由を聞かせてもらえるか」

シルヴィアは迷った後、小声で言った。

「私の弟は、無魔なの。
だから……あなたが優勝することを、本当は望んでいる。
でも私が負けたら、弟は魔法使いの姉を持ちながら
無魔の弟として、更に肩身が狭くなる。
そう言われた。父に」

レインはその言葉の重さを、黙って受け取った。

「分かった。では全力で来い」

「……全力で行く」

嵐が来た。
シルヴィアの風魔法は他の追随を許さなかった。
彼女は無効化範囲の外から、
複数方向から風の刃を交差させる。
「無魔の気」は半径十メートル以内の魔法を無効化するが、

外から角度をつけて撃ち込まれた複数の攻撃は、
消しきれない隙間を生む可能性がある。
実際、シルヴィアはそれを正確に計算していた。
風刃が七方向から同時に入射した瞬間、

六つは「無魔の気」で霧散したが、

一つがレインの頬を浅く裂いた。
観客がざわめく。
初めて傷を受けたレインを見て、
立見席の無魔の民たちが息を詰めた。

シルヴィアは怯まなかった。
すぐに次の展開。
今度は竜巻。
大型の風魔法は無効化できないことへの賭けだ。
レインは竜巻の発生源を見た。
彼女の杖先。
収束点から広がる前に、そこを潰す。

走った。
竜巻の端を無効化の気で削りながら、内側に切り込む。
シルヴィアは後退しながら連続詠唱。
六つの小型竜巻をレインの周囲に配置し、
動きを封じようとする。
封じられる直前に、レインは跳んだ。
全力の跳躍。
竜巻の上を超えて、シルヴィアの正面に降り立ち、
剣の腹を首元に当てた。

「——負けた」
シルヴィアは静かに言った。

その目に涙はなかった。
ただ清澄な敗北があった。
彼女は試合場を出る前に立ち止まり、
観客席に向かって叫んだ。

「私の弟は無魔です! でも私の自慢の弟です!」

会場が一瞬、静まった。
そしてまた沸いた。その意味を理解した者も、
しない者も含めて。
レインは彼女の背中を見て、静かに前を向いた。


準決勝 騎士団長の誇り

準決勝。
相手は王国騎士団長、バルト・ハイムリッヒ。
五十代。銀髪を短く刈り上げた大柄な男。
体の節々に古傷があり、
それが彼の歩んだ戦場の数を語っていた。
魔法と剣術を高度に融合させた
「魔剣術」の使い手であり、
現役最強の剣士とも呼ばれている。
ハイムリッヒはレインを見て、深々と礼をした。

「剣士として、礼を。
無魔でここまで登り詰めた男と戦えることは、
生涯の誇りだ」

レインも礼を返した。

「騎士団長と戦えることは、俺の誇りでもある」

二人が向き合った瞬間、試合場の空気が変わった。
貴族席も一般席も静まり、
今日初めて「試合」の空気が生まれた。
ハイムリッヒが魔法剣を抜いた。
刀身に火と風の魔法が重ね付与された特注品だ。
彼の戦い方は独特だった。
「無魔の気」を理解した上で、
魔法を直接当てにいかない。
魔法は剣筋の補助に使い、あくまで打ち合いで勝負する。
最初の交錯で、レインは全力を出すことを強いられた。
重い。
純粋な剣の重さと速さが、
これまでの相手とは次元が違った。
ハイムリッヒの一撃は岩を断つような重さがあり、
それが連続して来る。
レインは捌き続けながら、崩れない軸を保った。

打ち合いが続く。

ハイムリッヒは剣の付与魔法を使い始めた。
風付与で剣速を上げる。
火付与で刃に熱を持たせ、受けた時に手元を灼く。
直接魔法を当てるのではなく、
剣の物理的性能を上げる手法だ。
「無魔の気」は剣に近づく前の魔法を無効化するが、
すでに刃に付与された魔法は物体に溶け込んでいる。
これも物質と同様に、完全には消せない。
レインの掌が、受けるたびに僅かに灼けた。
ハイムリッヒは静かに攻め続けた。
焦りも油断もなく、ただ確実に、正確に。
これが剣の頂点か。
レインは感じた。
痛みと共に、深い尊敬を。

それでも——

レインは踏み込んだ。
受けをやめ、攻めに転じた。
ハイムリッヒが振り下ろした剣を、
紙一重で躱して内側に入る。
懐の間合い、剣が使えない距離。

レインは柄頭でハイムリッヒの水月を打ち、

距離を離してから肩口に峰打ちを入れた。
ハイムリッヒは膝をついた。
立ち上がろうとする。
しかし体が言うことを聞かなかった。

「……参った」

彼は剣を横に置いた。
それからゆっくりと、レインを見上げた。
その目に、一切の屈辱はなかった。

「見事だ」とハイムリッヒは言った。

「お前を見ていて分かった。
魔法がなくても、人は強くなれる。
俺はそれを今日、初めて信じた」

「騎士団長の剣は、本物だった」

「それだけか」とハイムリッヒは苦笑した。

「それ以上の言葉を、俺は知らない」

ハイムリッヒは笑い、立ち上がり、
試合場を堂々と歩いて出ていった。


決勝 六輪の魔将

最終日。
空は晴れていた。
王都の全住民が競技場に向かっていると言われた。
貴族も平民も商人も、みな一つの試合を見るために。
三万の観客が収まりきらず、
競技場の外の広場にも人が溢れた。

帝国の六輪の魔将、グラディウス・ヴァーン。
三十代半ば。黒い礼装に身を包み、
腰に魔法杖ではなく短い指揮棒を携えた男。
顔は彫刻のように整っており、表情に感情の起伏がない。
彼が歩くと周囲の空気が変わる。
魔力が高すぎる人間特有の「圧」が、
近づく者を自然と遠ざけた。

試合が始まる前、彼はレインに近づき、小声で言った。

「お前が何者か、調べた。
無魔の民の子供たちを養い、
一人で迷宮に潜り続けた男。その動機も知っている」

レインは黙って聞いた。

「買っているよ、俺は。本当に」

グラディウスの声に珍しく感情が混じった。

「だが優勝させるわけにはいかない立場がある。
俺が属する帝国の魔法貴族機構
——その権威を、俺が体現している。
俺が無魔の剣士に負けることは、帝国の根幹に傷をつける」

「それはお前の信念か、それとも義務か」

グラディウスはわずかに目を細めた。

「……義務だ。
信念と義務が一致していないことを、お前に初めて言った」

「なら全力で来い」とレインは言った。

「お前の義務に、俺の信念で答える」

二人が試合場の中央に立った。
会場が静まった。
三万人が、息を止めた。
グラディウスが目を閉じた。
瞬間、六つの魔法陣が彼の周囲に展開された。
火、水、風、土、光、闇。
六属性が完璧なバランスで配置され、
それぞれが独立して動きながら
全体として一つの巨大な魔法体系を形成する。

温度が変わった。試合場全体が。
熱と冷気が同時に存在し、空気が揺れ、
影が深くなり、光が歪む。
六属性の複合魔法が起動する直前の、
世界が息を吸い込むような予備動作だ。

「六輪螺旋閃(ろくりんらせんせん)」
グラディウスが静かに宣言した。

六つの魔法陣から六つの奔流が発し、空中で絡み合い
、螺旋を形成しながらレインに向かって迫った。
炎と水が互いを消さずに共存し、風が螺旋を加速させ、
土が弾丸の重さを与え、光が目を焼き、闇が影を封じる。

半径二十メートルに広がる、逃げ場のない螺旋。
観客の最前列が、熱波に押されて後退した。
レインは動かなかった。
螺旋がぶつかる。「無魔の気」が展開される。
だが今回は規模が違った。
六属性の複合魔法は「気」の境界線を圧し、
削り、押し込んでくる。
レインの周囲一メートルにまで螺旋が迫り、
彼の黒い戦闘服が焦げ、氷が貼り付き、風が体を削る。
初めて「無魔の気」が、圧倒されかけた。
足りない。無効化だけでは届かない。
レインは判断した。
動いた。

螺旋の外縁に向かってではなく、螺旋の中心に向かって。
「無魔の気」で左右を削りながら、
螺旋の回転と同じ方向に体を回し、流れに乗る。
川の流れに逆らわず、川の中を進む魚のように。
螺旋の外周から内周へ、
徐々に中心の「目」へと近づいていく。
グラディウスの目が、初めて大きく開いた。

——まずい。
彼の奥義の核心を、この男は本能的に理解した。
六輪螺旋の中心は、六属性が打ち消し合う
「無魔の空間」だ。
そこに入られれば、螺旋は崩壊する。
追加詠唱。螺旋の密度を上げる。速度を上げる。
しかしレインは既に半分まで来ていた。
剣を正眼に構え、
「魔力返還(リフレクト・エッジ)」を最大限に絞り込む。

外から流れ込む魔力を、剣一点に集中して受け取り、
そして——

中心に飛び込んだ。
螺旋が弾けた。
六属性が中心で衝突し、爆発的な余波が四方に散る。
会場全体が揺れ、最前列の客が吹き飛ばされ、
空に光と炎と闇が入り混じった。

煙の中に二人がいた。
グラディウスの正面に、レインの剣が止まっていた。
喉元、一センチ。
剣先が、ゆっくりと、しかし確実に、前に進んでいた。
長い静寂が続いた。
グラディウスは目を閉じた。
何かを考えるように。あるいは何かを手放すように。
そして膝をついた。

「……俺の負けだ」

声は静かだった。
震えてもいなかった。
ただそこに、純粋な事実があった。
審判の声が、空の向こうまで届くほどの声で響いた。

「——優勝! レイン・クロス!!」


三万人が、一瞬の後、爆発した。
立見席の無魔の民たちが天を仰いで叫んだ。
老人が膝をついて泣いた。
子供が肩車の上で拳を振り上げた。
名も知らぬ者同士が抱き合った。
貴族席でも、静かに拍手する者が現れた。
最初は数人。
それが十人になり、百人になった。
嫌々ではなく、何かに動かされるようにして。
レインは立ったままだった。
剣を鞘に収め、煤と汗と血で汚れた顔のまま、
ただ立っていた。

勝利の実感は、まだなかった。
代わりにあったのは、静かな問いだった。
——これで、何かが変わるか。
答えはすぐに来なかった。
来るはずがなかった。
世界はそんなに単純ではない。

それでもレインは顔を上げ、立見席の一角を見た。
そこに、ミラがいた。
泣きながら笑っていた。
両手を振り回して、何かを叫んでいた。
声は遠くて聞こえなかったが、口の形で分かった。

——お兄ちゃん、すごい!

レインは、ほんの少しだけ、表情を緩めた。
グラディウスが立ち上がり、レインの隣に並んだ。
そして観客席に向かって、静かに言った。

「余人には聞こえない声で言う」

レインだけに届く声で。

「——俺は今日から、無魔の民の処遇改善を、
帝国内で提言する義務を自らに課した。
俺が負けたのだから、俺の側が変わらなければならない。
それが、俺の流儀だ」

レインは前を向いたまま答えた。

「……感謝する」

「礼はいらない。
俺が勝っていたら、お前に何も言わなかった。
それだけの話だ」

グラディウスは踵を返し、試合場を出た。
レインは一人、試合場の中央に残った。
三万の歓声が、波のように押し寄せる。
その中で彼は、静かに剣を一度、空に向けて立てた。
声もなく、派手な動作もなく。
ただ、誓いのように。
——始まった。


## 終章 世界を変えるということ

国王の謁見の間。

金と魔法陣で装飾された玉座の前に、レインは立った。

国王は老いた目でレインを見た。

「法の改正は、一朝一夕にはできない」
と王は静かに言った。

「だが武闘祭の優勝者には、
一つの政令を提言する権利がある。
それが慣例だ」

レインは考えていなかった。

ずっと前から、答えは決まっていた。

「魔法の有無による就労差別の禁止と、
無魔の民への暴力に対する罰則の制定を求めます」

謁見の間が静まった。
貴族たちが顔を見合わせた。
怒りの表情、困惑の表情、
そして——ごくわずかな、安堵の表情。

「……検討しよう」

王は言った。

それだけだった。
すぐには何も変わらない。政令一つで世界は変わらない。
それでもレインは、それで十分だと思った。

扉が開き、外に出ると、そこには人だかりができていた。

無魔の民が、街道の両側に並んでいた。
子供も、大人も、老人も。誰一人、
貴族のような服を着ていない。
泥のついた手、日焼けした顔、疲れ果てた目。

でもその目に、今日だけは光があった。

ミラが人込みをかき分けて走ってきた。

「お兄ちゃん!」

レインは膝をついて、その抱擁を受けた。

「勝ったね」とミラが言った。

「ああ」

「世界、変わるかな」

レインは少し考えた。正直に答えた。

「すぐには変わらない。でも、始まった」

ミラはしばらく黙って、それからまた笑った。

子供らしい、真っすぐな笑顔で。

レインは立ち上がり、空を見た。

雨上がりの青空。
あの追い出された朝の雨が、
ようやく晴れた気がした。

どこかに父と母がいる。
もう関係のない人間として、ただそこにいる。

彼にはもう、戻る場所も、縋る人間も必要なかった。

進む理由なら、いくらでもある。

背後に並ぶ、無数の命。

前に広がる、変えるべき世界。

レインは剣を握り直し、歩き始めた。

---

*無魔の剣聖の戦いは、これから本当に始まる。*

---

**― 了 ―**

 

 

第二百三十一弾「 見えない証人」の続きです

司法って容疑者を庇い

被害者に追い打ちをかけている

と感じる事が多いです

 

# 見えない証人 第二章 ――もう一つの顔――

## 一

 事件が最初に報じられたのは、春の終わりのことだった。

 都内で三ヶ月の間に五人が殺された。
被害者に共通点はなかった。
男女の別もなく、年齢もばらばら、
職業も住む場所も繋がりが見えない。
ただ、殺し方だけが同じだった。
絞殺。
そして遺体の傍らに、必ず白い石が一つ置かれていた。

 犯人が逮捕されたのは六人目の被害者が出た直後だった。

現場近くで不審な行動をしていた男を、
警ら中の警察官が職務質問した。
男は逃げた。
取り押さえると、上着のポケットに白い石が入っていた。

 男の名は、村瀬克己。三十六歳。無職。
都内のアパートに一人で暮らしていた。
近所付き合いはなく、誰も彼の顔を覚えていなかった。

---

 取調室の村瀬は、
藤堂が今まで見てきた容疑者とは何かが違った。

 怒りもない。怯えもない。
否認のための嘘をつく気配もない。
ただ、空白だった。

「覚えていない」

 村瀬は何を聞かれても同じ言葉を繰り返した。
淡々と、まるで本当に何も思い出せない人間のように。

「五人を殺したことを覚えていないと言うのか」

「知りません。私はそんなことをする人間じゃない」

「では白い石は何だ」

 村瀬は自分のポケットから出てきた石のことを、
本当に知らないような顔をした。

 藤堂は長年の経験で嘘をつく人間を見抜いてきた。
だが村瀬の空白は、嘘とも違った。何か別のものだった。

---

 精神鑑定の結果が出たのは、逮捕から一ヶ月後のことだ。

 診断名は解離性同一性障害。いわゆる多重人格。
担当の精神科医は報告書の中でこう記した。
「村瀬克己には、通常の人格とは別に、
攻撃的な衝動を持つ別人格の存在が確認された。
犯行はこの別人格によるものと推定され、
主人格には犯行時の記憶がない」

 刑法三十九条。心神喪失者の行為は、罰しない。

 その条文が、藤堂の頭の中で重く響いた。

 五人が殺された。
五人の家族がいる。
五人の人生が断ち切られた。
それが「心神喪失」の四文字で無罪になる。

 藤堂はそれを、どうしても受け入れられなかった。

---

## 二

 城南署の自席に戻った藤堂は、しばらく動かなかった。

 机の引き出しを開ける。
奥の隅に、一枚の名刺が入っている。
名前と電話番号だけが刷られた、シンプルなカード。

 フレデリック・D・マクミラン。

 前回の事件から八ヶ月が経っていた。

 藤堂はカードを指で挟んだまま、しばらく考えた。
あの青年を呼び出すことへの躊躇いがないとは言えない。
あの力が何なのか、藤堂はまだわかっていない。
わからないまま利用することへの後ろめたさもある。

 だが五人の遺族の顔が、次々と浮かんだ。

 藤堂は電話をかけた。

 三回のコールの後、静かな声が出た。

「はい」

「藤堂です」

 一瞬の間があった。

「わかりました。数日後に伺います」

 それだけで、電話は終わった。

---

## 三

 フレデリックが城南署に現れたのは、
五日後の午後だった。

 藤堂は一階のロビーで待っていた。
自動ドアが開き、長身の青年が入ってくる。
薄い茶色の髪、静かな目。
前回と何も変わっていない。
変わっていないのに、藤堂はなぜか少し安心した。

「お久しぶりです、藤堂さん」

 フレデリックは右手を差し出した。

 藤堂はその手を握った。
硬く、しかし温かい手だった。
八ヶ月の間、この手は何を感じ、何を見てきたのだろうか。

いろいろな思いが、握る力の中に込められた。

「来てくれてありがとう」

「聞かせてください、詳しいことを」

---

 会議室で一時間かけて藤堂は説明した。
五件の殺害。
白い石。
逮捕の経緯。
精神鑑定の結果。
刑法三十九条の壁。

 フレデリックは一言も遮らず聞いていた。
メモも取らなかった。
ただ、聞いていた。

 説明が終わると、フレデリックは静かに言った。

「村瀬克己さんに会わせてください」

「取調室でいいか」

「はい。二人だけで」

---

## 四

 取調室に村瀬が連れてこられた。

 藤堂は隣室に入った。
マジックミラー越しに取調室が見える。
集音マイクのスイッチを入れる。
関口管理官と数人の刑事が、すでに並んでいた。

「例の人物ですか」関口が小声で言った。

「そうです」

「今回は何をするつもりなのか」

「わかりません」藤堂は正直に言った。

「ただ、信じています」

 関口はそれ以上何も言わなかった。

---

 取調室の中で、フレデリックは村瀬の向かいに座った。

 村瀬はフレデリックを見た。
不思議そうな顔だった。
今まで来た刑事たちとは、
明らかに何かが違う人間が来た、
とでも感じているのかもしれない。

 しばらく、二人は黙って向かい合っていた。

 マジックミラーの向こうで、刑事たちは息を潜めていた。

 フレデリックが口を開いた。
だが何を言っているのか、
最初のうちは聞き取りにくかった。
声が低く、静かで、まるで独り言のようだった。

 やがて村瀬の表情が変わり始めた。

 最初は怪訝な顔。
次に、警戒。そして——何か、
固いものが崩れるような顔になった。

 隣室の刑事の一人が、藤堂に耳打ちした。

「あの二人、何を話しているんですか」

「聞こえないのか」

「聞こえているんですが……なんというか」

 刑事は言葉を探した。

「普通の会話に聞こえるのに、何かが……」

 藤堂にもうまく言葉にできなかった。
フレデリックは村瀬に、ごく普通の言葉で語りかけていた。

今日の天気のように、あたりまえのことを。
だがその言葉が、村瀬の何かに触れていた。

 三十分が過ぎた。

 村瀬は俯いていた。
肩が小さく動いていた。
泣いているのかもしれなかった。

 フレデリックは立ち上がった。
村瀬に一度だけ頷き、取調室を出た。

---

## 五

 廊下に出たフレデリックに、藤堂が近寄った。

 フレデリックの顔を見て、藤堂は驚いた。

 いつも静かで、感情を表に出さない青年の顔に、
はっきりと怒りの色があった。
眉間に浅い皺が寄り、薄い唇がわずかに引き結ばれている。

その表情を、藤堂は一度も見たことがなかった。

「フレデリック」

 青年は少し間を置いた。
そして静かに、しかしいつもより低い声で言った。

「僕は、心神喪失状態とされた犯罪者が
無罪になるという制度が、非常に納得できない」

 藤堂は黙って聞いた。

「それは被害者を貶めることだと思っています。
命を奪われた者には、もう何も訴える手段がない。
遺された者だけが、
理不尽を抱えて生きていかなければならない。
それなのに、加害者には法律が手を差し伸べる。
何かが根本的に間違っている」

 廊下を歩く人の気配がして、フレデリックは口を閉じた。

 しばらくして、いつもの静かな顔が戻ってきた。
怒りの色が消えたわけではない。
ただ、しまわれた。

「もう一度、村瀬克己さんを精神鑑定してください」
フレデリックは言った。

「彼は全ての犯行を覚えています。
別人格が現れることもない。
解離性同一性障害とは診断されないはずです」

 藤堂は「なぜ」と訊こうとした。
だが訊く前に、フレデリックは続けた。

「それだけです」

 軽く頭を下げ、青年は廊下を歩き始めた。

 藤堂は「待ってくれ」と言えなかった。
フレデリックの背中が、今日はいつより遠く見えた。

---

## 六

 再度の精神鑑定は、担当弁護士の強い抵抗の中で行われた。

 別の精神科医、別の機関、別の方法で。

 結果が出るまでの二週間、藤堂はほとんど眠れなかった。

フレデリックが言ったことを信じていた。
信じてはいたが、もしも違ったら、
という思いが夜になると這い上がってきた。

 報告書が届いた日、
藤堂は一人で会議室に入り、封を開けた。

 読んで、目を閉じた。

 解離性同一性障害の所見は認められない。
被験者は検査において一貫した単一の人格を示し、
犯行に関する記憶を保持していることが確認された。

---

 担当弁護士は目を丸くした。
「前回の鑑定との整合性を説明できない」と繰り返した。

 村瀬克己は、取調室で初めて口を開いた。
覚えている、と言った。
全部、と言った。

 何があったのか、取調室で何が起きたのか、
藤堂には最後までわからなかった。
ただ、フレデリックが村瀬の中の何かに触れ、
何かを変えたのだということだけは感じていた。

---

 裁判は長かった。

 弁護側は最初の精神鑑定を根拠に戦ったが、
二度目の鑑定結果と、村瀬自身の法廷での態度が、
その主張を崩した。
村瀬は証言台に立ち、五件の犯行を認めた。
抑揚のない声で、一つひとつを。

 判決は死刑だった。

 傍聴席で、被害者の遺族が泣いていた。
声を殺して、肩を震わせて。
悲しみなのか、安堵なのか、怒りなのか、
あるいはそのすべてなのか、
藤堂には分からなかった。ただ、
その肩の震えを見て、
藤堂は自分もようやく息ができる気がした。

---

## 七

 判決の翌日、藤堂はフレデリックに電話をかけた。

「判決が出ました。死刑です」

 短い沈黙があった。

「そうですか」

「あなたのおかげです」

「いいえ」フレデリックはすぐに言った。

「藤堂さんが動いたからです。諦めなかったから」

 藤堂は言葉を探した。聞きたいことは山ほどあった。
取調室で何をしたのか。
どうして村瀬が変わったのか。
最初の鑑定は何だったのか。

 だが藤堂は別のことを言った。

「あの日、あなたが怒っていた」

 電話の向こうで、わずかな間があった。

「……そうですね」

「あなたが怒るのを、初めて見ました」

「僕も人間ですから」静かな声だった。

「理不尽には、怒ります」

 藤堂は少し笑った。

「それを聞いて、安心しました」

「何故ですか」

「あなたが何者なのか、私にはまだわかっていない。
だが怒ることのできる人間だとわかって……
信頼できると思いました。改めて」

 今度の沈黙は、少し長かった。

「……ありがとうございます、藤堂さん」

 それは、フレデリックが
初めて藤堂に感謝の言葉を言った瞬間だった。

---

 電話を切った後、藤堂は窓の外を見た。

 初夏の空が、高く青かった。

 罪には罰を。
それは単純な報復ではない、と藤堂は思っている。
殺された者が報われるためではなく、
次に殺される者を出さないために。
そして、法の下で人が人を裁くという行為が、
せめて誠実であるために。

 被害者の声は、死とともに消える。
遺族の声は、時とともに社会から忘れられる。
犯罪者の権利は、制度の中で守られる。
その歪みを、藤堂は三十年見続けてきた。
変えられることと、変えられないことがある。
それでも、目の前の一件ずつに向き合うしかない。

 フレデリックは言っていた。理不尽には怒る、と。

 藤堂も同じだった。だからこの仕事を続けてきた。

 机の引き出しを開ける。あの名刺がある。

 藤堂はそれをそっと元の場所に戻した。
また必要なときが来る。
そのときまで、ここに置いておく。

 そしてまた、仕事に戻った。

---

*了*

 

米国では霊能者や超能力者が

警察に捜査協力をする事がありますが

日本ではそういうのは小説や漫画の中だけですが

実際にそういうケースってあるんでしょうか?

例えあったとしても表には出ないんでしょうね

 

出来て読んだ時に何かニ時間ドラマみたいだな

って思いました 苦笑

 

 

# 見えない証人

## 一

 六月の終わり、梅雨の晴れ間だった。

 夜間警ら中の巡査、
田中誠二が公園の外周路を歩いていたのは
午前二時を少し回った頃だ。
懐中電灯の光が茂みを掃く。
蒸し暑い夜で、シャツの下が汗ばんでいた。

 東屋の手前で、田中は足を止めた。

 暗がりに、人が倒れていた。

 駆け寄って、膝をつく。
うつ伏せの男。三十代前半に見える。
首の後ろに深い傷。脈はない。
体はまだかすかに温かかった。

 田中は震える手で無線を握った。

「本署、こちら田中。
城南公園にて変死体を発見。要請します」

 声が上擦っていた。

---

 翌朝には警視庁から捜査員が降りてきた。
捜査一課の面々が城南警察署の会議室を占拠し、
白板に被害者の写真が貼られた。

 被害者の名は、坂本雄介。三十二歳。
無職から一転、都内の運送会社に勤め始めて二年目。

 その名前を見たとき、
藤堂英二は胸の奥で何かが動くのを感じた。

 藤堂は五十八歳、
城南署の刑事歴三十年を超えるベテランだ。
白髪交じりの短髪、深く刻まれた目元の皺。
若い頃は「鬼の藤堂」と呼ばれ、

独自に解決した事件の多さから

警視庁にもその名を知るものが多く

それにより捜査一課からは煙たがれていた。
今は「じいさん」と呼ばれることの方が多かったが

本人は気にしていないふりをしている。


 坂本雄介。

 藤堂はその名前を七年前から知っていた。

 当時二十五歳の坂本を逮捕したのが藤堂だった。
強姦罪。被害者は二名。証拠は揃っていた。
坂本は否認を続けたが、
最終的に有罪となり、刑務所へ送られた。

 藤堂は逮捕した人間を気にかける習慣はなかった。
仕事は仕事だ。だが坂本は違った。

 出所後、坂本は藤堂の管轄内に戻ってきた。
前科者であることはすぐに近所に知れ渡り、
職場でも白い目で見られ続けた。
それでも坂本は辞めなかった。
運送会社の同僚から後に聞いた話では、
朝一番に来て夜遅くまで残り、
文句ひとつ言わなかったという。

 藤堂は月に一度ほど、
坂本が仕事帰りに立ち寄るコンビニの前で
偶然を装って顔を合わせた。
言葉を交わすわけではない。
ただ、生きているか確かめるように。

 その坂本が、公園で殺されていた。

---

## 二

 捜査は難航した。

 公園の監視カメラは四台あったが、
東屋周辺はすべて死角だった。
目撃者は現れない。凶器は見つからない。遺留品もない。
坂本の交友関係を洗っても、
怨恨を抱くほどの人間は浮かばなかった。

 一ヶ月が過ぎ、二ヶ月が過ぎた。

 捜査本部の熱量が落ちていくのを、
藤堂は肌で感じていた。
会議室に集まる刑事の数が少しずつ減り、
白板の前に立つ時間が短くなる。
やがて「未解決」という言葉が、
誰も口にしないのに空気の中に漂い始めた。

 三ヶ月目に入った頃、
捜査担当管理官の関口達也が藤堂を廊下に呼び出した。

関口は若い頃に藤堂に何度か助けられ

それが関口の手柄とされ出世した事もあって

藤堂には感謝していたのだ。

「藤堂さん、正直に言います。
本庁はそろそろ規模を縮小したいと言ってきています」

 関口は四十代半ば、
キャリア組だが藤堂との関係もあって

現場を軽んじないタイプだ。
藤堂はそんな彼を信頼していた。

「やめません」と藤堂は言った。

「それはわかっています」関口は少し間を置いた。

「でも、何もなければ」

「何かあります」

 根拠はなかった。
だが藤堂は確信に近いものを持っていた。
坂本雄介は、何かを知っていたから殺された。
それだけは感じていた。

---

## 三

 その男が城南署に現れたのは、
事件から三ヶ月と十日が経った、
九月下旬の昼過ぎだった。

「藤堂刑事に会いたいのですが」

 受付の若い警察官が面食らったのは、
相手が外国人だったからというより、
その目つきのせいだった。
二十代前半、細身で長身、薄い茶色の髪。
穏やかな顔をしているのに、目だけが異様に静かだった。
何かを見ているというより、
すべてを見透かしているような目だった。

 藤堂は連絡を受けて首をひねった。
知らない名前だ。
フレデリック・D・マクミラン。外国人。接見希望。

「会いましょう」

 断る理由がなかったし、断る気もしなかった。
長い刑事生活の勘が、何かを嗅ぎ取っていた。

---

 応接室に通すと、
フレデリックはゆっくりと椅子に腰を下ろした。
机を挟んで座った藤堂は、改めて青年の顔を観察した。
日本語は流暢だが、
どこか翻訳を経たような丁寧さがある。

「藤堂刑事、お時間をいただいてありがとうございます」

「どこで私の名前を?」

「知っていました」それだけ言った。

 藤堂はメモ帳を開いた。

「用件を聞かせてください」

「城南公園で起きた殺人事件のことです」

 藤堂の手が止まった。

「何を知っている」

「犯人の特徴をお伝えしたい」

 フレデリックは淡々と話し始めた。
犯人は警察関係者だ。
身長は一七五センチ前後。体格は普通。
当日は私服だった。
被害者と以前から面識がある。
動機は個人的な恨みだが、
計画的な犯行ではなく、衝動的な側面もある。

 藤堂はすべてをメモしながら、半信半疑だった。
これだけなら、誰でも言える。

 だが次に青年が語り始めた内容は違った。

 凶器の形状。傷の角度。被害者の体の向き。
現場に残されていたはずの微細な痕跡、
そしてそれが示す犯行の順序。

 すべて、公表されていない情報だった。

 隣の部屋では、
マジックミラー越しに関口管理官と
三人の刑事が固まって立っていた。
集音マイクが二人の声をクリアに拾っている。

「関口さん」若い刑事が小声で言った。

「これ、どういうことですか」

 関口は答えなかった。
ただマジックミラーの向こうの
フレデリックを見つめていた。

---

 フレデリックが話し終えると、しばらく沈黙があった。

 やがてフレデリックは静かに言った。

「藤堂刑事、あのミラーを見てください」

 藤堂は視線を上げた。
応接室の壁に取りつけられた長方形のミラー。
藤堂はそこに自分の顔が映っているのを見た。

 フレデリックはミラーに向かって人差し指を向けた。
そしてゆっくりと指を動かしながら、名前を呼び始めた。

「関口達也さん。四十五歳」

 ミラーの向こうで、関口の顔が固まった。

「中村孝雄さん。三十八歳。
松田誠さん。三十一歳。
大原久美さん。三十四歳」

 三人の刑事は互いの顔を見た。
誰も何も言えない。

 フレデリックは続けた。
一人ひとりの生年月日。家族の名前。住所。

 松田誠の住所は、任務上の理由から
庁内でも限られた人間しか知らない
厳重な非公開情報だった。
それすらフレデリックは正確に言った。

 隣の部屋は静まり返った。

 藤堂はミラーからフレデリックに視線を戻した。
青年の目は変わらず静かだった。
驚かせようとしているわけでも、
力を見せつけようとしているわけでもない。
ただ、必要なことをしているだけ、という顔だった。

「信じてもらいたかっただけです」
とフレデリックは言った。

「犯人の話を」

---

## 四

 フレデリックは大会議室に移された。

 関口を筆頭に、事件担当の刑事が全員集まった。
誰もがまだ夢の中にいるような顔をしていた。

 フレデリックは改めて、犯人像を詳しく語った。
そして最後にこう言った。

「現場を見たいと思います。
できれば、第一発見者の方も一緒に」

---

 翌朝、城南公園に一団が集まった。

 秋の朝の光が木々の間から差し込んでいた。
東屋の周囲には規制線の名残が残っている。
フレデリックは刑事たちに囲まれながら、
ゆっくりと歩いた。
何かを確かめるように立ち止まり、また歩く。

 藤堂は少し離れて青年を観察していた。
この男は何者なのか。訓練を受けた人間なのか。
それとも別の何かなのか。答えは出ない。
だが今はそれでいい、と藤堂は思っていた。

 しばらくして、
フレデリックが東屋の近くで立ち止まった。

 そして、第一発見者の田中誠二巡査の方へ歩き始めた。

 田中は少し離れた場所に立っていた。
細身で、目が細く、
どこかいつも緊張したような顔をしている。
二十八歳。三年目の巡査。

 フレデリックが近づくと、田中は一歩後ずさった。

「何ですか」

 フレデリックは立ち止まり、静かな目で田中を見た。

「犯人は君だね」

 周囲の刑事が息をのんだ。

 田中の顔から色が失せた。

「何を——」

「坂本雄介さんが以前起こした事件で、
自殺した女性がいた」

フレデリックは静かに、
しかし明確に言葉を続けた。

「それは君の妹さんだ。その復讐で、殺したんだね」

 田中は動かなかった。

 公園に風が吹いた。木の葉がざわめいた。

 長い沈黙の後、田中の膝が折れた。
地面にゆっくりと崩れ落ちる。
両手が地面につく。声は出なかった。
ただ、肩が細かく震えていた。

---

## 五

 その後の捜査で、
フレデリックの言ったことはすべて裏付けられた。
そして捜査が進むにつれ、
田中誠二という人間の輪郭が、
少しずつ、痛ましい形で浮かび上がってきた。

---

 田中が九歳のとき、両親は離婚した。

 母親は田中を引き取り、
田中は母親の旧姓である田中姓を名乗ることになった。
父親は五歳の妹、沙織を連れて出て行った。
沙織は父親の姓、宮本を引き続き名乗った。
家庭裁判所での取り決めでも何でもない、
ただ父親が「俺が沙織を育てる」と言い張り、
母親にそれを覆す気力がなかっただけのことだった。

 最初の一年は、時折父親から手紙が届いた。
「沙織は元気だ」と短く書かれていた。
田中はその手紙を何度も読んだ。
だが二年目からは手紙も途絶えた。
父親は職も住居も転々とし、連絡先はそのたびに変わり、
やがてどこにいるのかもわからなくなった。

 田中は沙織のことを探したいと思いながら、
探し方を知らなかった。
母親もそれ以上関わろうとしなかった。
少年は成長し、大人になり、警察官になった。
警察官になったのは、
行方のわからない妹をいつか探せる
と思ったからでもあった。

---

 七年前、
坂本雄介が逮捕されたとき、田中はまだ新人だった。
事件は管轄が違い、直接関わることはなかった。

 だが、被害者のうちの一人の顔写真が、
捜査資料の中に残っていた。

 田中がその写真を見たのは、ずっと後のことだ。
別件の書類整理をしていたとき、
古い資料の束の中にそれが紛れていた。
一瞬で手が止まった。

 その顔に、見覚えがあった。

 幼い頃の記憶の中の、
まだ五歳だった沙織の面影が、そこにあった。

 田中は震えながら独自に調べ始めた。
職権を慎重に使い、時間をかけて。

 被害者の名前は宮本沙織。
生年月日は一致していた。

 父親、宮本哲也は十年前に病死していた。
働き口を転々とし、安宿を転々とし、
最後は誰にも看取られずに逝った。
宮本哲也が納められたのは、
墨田区の小さな寺の無縁仏に近い区画だった。
身寄りがなく、引き取り手もないまま、
寺の好意で埋葬されたのだという。

 父の死後、沙織は孤児院に入った。
高校を卒業し、小さな会社に就職した。
職場の同僚の証言によれば、
真面目でおとなしく、休まず働いていたという。

 帰宅途中に被害に遭ったのは、
就職して半年後のことだった。
その四ヶ月後に、沙織は自ら命を絶った。
遺書はなかった。

 遺骨の引き取り手もなかった。
孤児院の関係者が奔走し、
最終的に受け入れてくれたのが、
父親と同じ墨田区の寺だった。
担当者は宮本という姓を見て、
同じ区画の無縁仏の中に同姓の人物が
いることに気づいた。
身元を照合した結果、父娘であることが判明し、
同じ墓に合祀することになった。

 それは誰かの意図でも、運命の導きでもなかった。
ただの、偶然だった。

 父親が生きている間に沙織を守れなかったように、
死んでからも二人は別々に、
それぞれ誰にも知られないまま
土に還っていくはずだったのだ。

---

 田中は、その墓を探し当てた。

 墓の前にしばらく立っていた。
父の名と妹の名が、同じ石に刻まれている。
意図せず引き寄せられた二人の名前。
田中には何も言葉が出なかった。

 もし自分が妹を探せていたら。
もし父と妹が連絡先を残していたら。
もし、もし、もし。

 そのもしが、墓石の前では何の意味も持たなかった。

 坂本雄介が出所し、
自分の管轄に戻ってきたと知ったのは、
それからしばらく後のことだった。

 田中は毎日、坂本の姿を遠くから見ていた。
坂本は早朝から働き、頭を下げ、静かに生きていた。
それが田中には耐えられなかった。
沙織は死んでいるのに、坂本は生きている。
汗を流して、飯を食って、眠っている。

 ある夜、非番で私服だった田中は、
偶然公園で坂本と鉢合わせした。
坂本は田中に気づかなかった。

 田中は、後から自分でも説明できないと言っていた。
気がついたときには、手が動いていた、と。

---

 田中誠二は逮捕された。

 取調室で田中は最初から否認しなかった。
ただ一言、
「妹のことを調べてくれますか」と言った。

 担当の刑事は黙ってうなずいた。

---

## 六

 感謝状の授与式は小さなものだった。
フレデリックは慣れないように見えた。
写真を撮られるのを少し嫌がっていた。

 式の後、藤堂は廊下でフレデリックを呼び止めた。

「お礼を言わせてください」

「いいえ」とフレデリックは首を振った。

 藤堂はしばらく迷ってから言った。
「田中のことは、知っていたか」

「事情は、わかっていました」

「それでも、言った」

「彼が正しいとは言えない」
フレデリックは静かに答えた。

「だが、彼の痛みが間違っているとも言えない。
それでも、解決しなければならないことがある」

 藤堂は少し間を置いた。

「妹さんの墓のことも、知っていたか。
父親と偶然同じ場所に入っていたことも」

 フレデリックは答えなかった。
ただ静かに目を伏せた。

 その沈黙が、答えだと藤堂は思った。

「坂本のことは知っていたか」

 フレデリックは少し間を置いた。
「彼が懸命に生きていたことは、知っていました」

「彼は……本当に、変わっていたと思いますか」

 フレデリックは今度は間を置かなかった。
「はい」

 藤堂は小さく息をついた。
それだけで、少し楽になった。

「また協力をお願いできますか」

藤堂は続けた。
「困ったときに、連絡できますか」

 フレデリックは上着のポケットから
小さなカードを取り出し、藤堂に渡した。
名前と電話番号だけが印刷された、
シンプルなカードだった。

「では」

 青年は軽く頭を下げ、廊下を歩いていった。

 藤堂はカードを見つめた。
フレデリック・D・マクミラン。
D は何の頭文字だろう、とふと思った。

 廊下の先で、
フレデリックは角を曲がり、見えなくなった。

---

 藤堂は窓の外を見た。
秋の空が高く、よく晴れていた。

 坂本雄介は踏ん張り続けていた。
それでも殺された。
宮本沙織は踏ん張り続けていた。
それでも死んだ。
田中誠二は妹を探し続けていた。
それでも間に合わなかった。
誰にも知られないまま偶然同じ土に還った父と
娘のことを、藤堂はしばらく考えた。

 誰もが、誰かの無念を抱えて生きている。

 正義とは何か、などと藤堂は考えない。
三十年以上刑事をやっていれば、
そんな言葉は鈍器のように重くなる。
ただ目の前の事実に向き合い、できることをする。
それだけだ。

 藤堂はカードをスーツの胸ポケットに入れた。

 そしてまた、仕事に戻った。

---

*了*

 

タイムリープものを作ってみたいと思って

最初は青春やり直しものにしよう

と思ったのですが変えちゃいました 苦笑

 

 

# 冤罪の輪廻 ―絞首台からの帰還―

---

## 序章 ――縄の感触

冷たかった。

首に食い込む麻縄の感触だけが、
妙にはっきりと意識に刻まれていた。

処刑室の天井は白かった。
それ以外に見るべきものはなかった。
目の前には刑務官が三人、無表情で立っている。
その向こうのガラス越しに、数人の立会人の影が見えた。

(俺は、何もしていない)

二十七歳。木村誠一が生きた年数だった。

判決から執行まで、彼は一貫して無実を訴え続けた。
弁護士は国選で、やる気のない目をしていた。
証人は全員が彼に不利な証言をし、
物証は巧妙に彼を指差していた。
傍聴席には両親も妹もいたが、
誰一人として彼の目を見なかった。

唯一、親友の佐野拓也だけが
——あの男だけが——法廷で涙を流した。

(あの涙は、何だったんだ)

今になって思う。あれは悲しみの涙ではなかった。

床板が開く。

重力が、彼の全身を引きずり下ろす。

(宮本先輩……ごめんなさい、俺、守れなかった。
もし次があるなら——次があるなら——)

意識が、糸のように細くなっていく。

憎悪だけが、最後まで燃えていた。

---

## 第一章 ――鏡の中の青年

目が覚めた時、最初に感じたのは布団の柔らかさだった。

(……布団?)

木村誠一は、ゆっくりと目を開けた。

見慣れない天井。
いや——見覚えはある。
しかし遠い記憶の中にある天井だ。
薄汚れたアパートの安い石膏ボード。
右上の角に小さなシミがある。
電気コードが一本、斜めに垂れ下がっている。

(俺の、部屋だ)

跳ね起きた拍子に眩暈がして、誠一は床に膝をついた。

体が軽い。
異様なほど軽い。
手を見ると、荒れ果てた拘置所での生活で
刻まれたはずのひび割れが消えていた。
指が細い。
関節のゴツゴツが、ない。

洗面台に駆け込み、鏡を見た。

「……っ」

そこにいたのは、十七歳に見える自分だった。

いや、正確には——十九歳か二十歳の頃の自分だ。
大学に入ったばかりの頃の顔。
青白くて、頼りなくて、
でもまだ世界に絶望する前の顔。

「何が……起きてる」

声が若い。
自分の声なのに、知らない人間の声に聞こえた。

部屋に戻り、スマートフォンを探した。
充電器に刺さった状態で机の上にあった。
画面を点けると——日付が目に飛び込んだ。

**20○○年、四月十二日。**

十年前だった。

誠一はその場に座り込んだ。
宮本先輩——宮本綾乃が殺されたのは、この年の十月だ。
彼女が死ぬまで、まだ六ヶ月ある。

「……間に合う」

呟いた言葉は、祈りのようだった。

---

## 第二章 ――記憶という名の設計図

最初の一週間、誠一は何もしなかった。

正確には——動けなかった。

処刑の記憶と、十年前の日常が脳内で混濁し、
現実と過去の境界が曖昧になっていた。
今の自分が大学生の木村誠一であることは理解できる。
しかし体の奥底には、八年間を拘置所で過ごし、
死刑台に立った男の記憶が、泥のように沈んでいた。

それでも、少しずつ記憶を整理した。

ノートを買ってきて、覚えていることを全て書き出した。

**【確定している事実】**
・綾乃は十月二十三日、
木曜日の放課後に大学のC棟三階、三〇五教室で殺された
・俺は拓也に「綾乃が呼んでいる」と言われ、
その教室に向かった
・遺体の第一発見者となり、
そこへ現れた武藤准教授に通報された
・凶器のナイフに俺の指紋が付いていた
・複数の目撃証言が
「俺がC棟に向かうのを見た」と証言した
・両親は俺を見捨て、妹の澄香は証言台で
「兄は暴力的な人間だった」と述べた
・拓也は「誠一が綾乃に執着していた」と証言した

**【未確認だが今なら検証できること】**
・武藤准教授はなぜあのタイミングで
あの教室にいたのか
・ナイフの指紋は本当に俺のものだったのか、
それとも偽造か
・妹・澄香と拓也の関係
・綾乃が受けていたいじめの実態

書いているうちに手が震えた。

澄香。木村澄香。

自分の妹の名前を書く時だけ、ペンが止まった。

(本当に、お前なのか。お前が綾乃を殺したのか)

拘置所での八年間、誠一は犯人像を様々に想像した。
恨みを持つ男子学生、綾乃に片思いしていた誰か、
あるいは全く見知らぬ人間による通り魔
——しかし妹だとは、一度も考えなかった。

なぜなら、
澄香は綾乃とほとんど面識がなかったはずだったから。

**「はずだった」。**

それが誤りだったのだ。

---

## 第三章 ――彼女の笑顔と、見えない傷

誠一にとって最初の難問は、綾乃とどう接するかだった。

宮本綾乃。文学部二年生。
誠一の一つ上の先輩で、
キャンパスで知らない者のいない存在だった。
華奢な体に清潔感のある黒髪、
人の目を真っ直ぐに見て話す癖があった。

タイムリープ直後の時点では、
二人はまだ付き合っていない。

出会いのきっかけになった
「愛猫が車に轢かれそうになった事件」は、
今年の六月に起きる。
誠一はその日付を正確に覚えていた。
あの日は雨だった。
大学正門前の横断歩道で、
綾乃が抱えていたキャリーケースから猫が飛び出した。

今の誠一には、その日まで二ヶ月ある。

(急いで近づく必要はない。むしろ焦ってはいけない)

彼は今回、別のことから始めることにした。

綾乃を知ることよりも先に
——綾乃を取り巻く環境を知ることを。

大学のキャンパスは情報の宝庫だった。
学食、図書館、サークル棟の掲示板、廊下の立ち話
——十年前の自分はそういったものに全く興味がなかった。
人の多い場所を避け、
講義とアパートを往復するだけの生活をしていた。

今回は違う。

誠一はまず、
大学内のコミュニティ構造を把握することから始めた。

「カースト」という言葉を誠一は好まなかったが、
現実として存在する。
サークルの中核にいる人間、SNSのフォロワーが多い人間、
教授たちに顔が効く人間
——そういった「見えない序列」が、

どの大学にも存在する。

注意深く観察すると、ある名前が何度も浮かんできた。

**木村澄香。**

自分の妹が、この大学にいる。

誠一は今まで、澄香が同じ大学に通っている
という事実を「不運な偶然」として処理していた。
別の学部で、関わりも薄く、
たまたま同じ学食で見かける程度だと思っていた。

しかし今、外から観察してみると
——澄香は驚くほど広い人脈の中心にいた。

彼女は「文化系サークル連合」の副代表という
肩書きを持ちながら、その実態は複数のサークルに跨る
非公式ネットワークの取り仕切り役だった。
学内カフェテリアでは常に取り巻きに囲まれ、
後輩の女子学生たちが澄香の一言一言に
神経を尖らせているのが、遠目にも見て取れた。

(なんで、俺は気づかなかった)

答えはわかっていた。

十年前の自分には、見ようとする意思がなかった。
澄香は「疎ましい妹」であり、
「親に贔屓される存在」だった。
関わらないことが最善だと思っていたから、
彼女が何をしているかに興味を持たなかった。

---

## 第四章 ――仮面の親友

五月になった。

大学の空気が、
新入生の緊張から少しずつほぐれ始める季節だ。

誠一は親友の佐野拓也と、今日も昼食を共にしていた。

向かいに座る拓也は、
相変わらず人懐こい笑顔を持っていた。
やや大きな目と太い眉毛が特徴的で、
誰に対しても分け隔てなく接する性格は
学内でも評判がいい。
小学校からの付き合いで、
誠一の唯一の親友だと信じていた男。

今の誠一は、
この男を愛することも憎むこともできなかった。

ただ、見ていた。

(この男が持っている感情の、どこまでが本物なのか)

「なあ誠一、最近ちょっと雰囲気変わったよな」

箸を止めず、拓也が言った。

「そうか?」

「うん。なんか……落ち着いた感じ? 
前はもっとこう、引きこもり感がすごかったのに」

拓也は笑いながら言うが、
その笑いの奥に何かを量るような目があった。

「何かいいことでもあった?」

「別に。少し考え方が変わっただけだよ」

「ふーん」

一瞬だけ、拓也の目が細くなった。

それだけで十分だった。

誠一はその日の夜、ノートに書き加えた。

**【拓也の観察記録・5月11日】**

*俺の変化に気づき、その原因を探ろうとしている。
普通の関心ではなく、
「自分の計画に影響があるかどうか」
を確かめている目だった。
少なくとも今時点で、
拓也は何らかの意図を持って俺に近づいている。*

次に確認すべきは、拓也と澄香の関係だ。

二人が恋人関係にあるとすれば、必ず接触の痕跡がある。
しかし表面上は「妹とその兄の友人」
という関係を装っているなら、
接触は慎重に隠されているはずだった。

誠一は実家に帰省するタイミングを作った。

両親との会話は苦痛だった。
母親は食卓で澄香の話ばかりをし、
父親は誠一の存在を空気のように扱った。
しかし今回、誠一は
その苦痛に耐えることに意味を見出せた。

帰省した夜、
深夜二時過ぎに玄関の鍵が開く音を聞いた。

澄香が帰ってきた気配がした。
しかしすぐに部屋に入る足音ではなく
——廊下で立ち止まり、
スマートフォンで話している声が漏れてくる。

誠一は息を殺して聞いた。

「……うん。大丈夫。兄がいても関係ないって。
……そう、来月には準備できると思う。
……拓ちゃん、焦らないで。
ちゃんとうまくいくから」

**拓ちゃん。**

誠一は毛布の中で目を閉じた。

確信が、静かに固まっていった。

---

## 第五章 ――武藤准教授の影

六月、綾乃との出会いが訪れた。

雨の日の横断歩道。
飛び出した三毛猫。
誠一は今回も、考える前に体が動いていた。
それは計算ではなく、本能だった。
タイヤに擦られた腕の痛みより、
腕の中で震える猫の温かさの方が先に来た。

「大丈夫ですか!」

綾乃が駆け寄ってきた。
その顔に見覚えがあった
——いや、正確には全てを覚えている。
全てを。この後に続く言葉も、
綾乃がどんな顔で礼を言うかも。

しかし今回、誠一には別の目的があった。

綾乃の目を見た時、誠一は気がついた。

傷がある、と思った。

笑顔の作り方が、
十年前に記憶していたものとわずかに違う。
目の奥に、小さな疲弊がある。
彼女が置かれている状況を既に知っている誠一には、
その微細な変化が鮮明に見えた。

(もうすでに、始まっているのか)

「本当にありがとうございました。
怪我、させてしまって……」

「いえ、大したことないですから」

「木村くん、って……一年生ですよね? 
私、宮本綾乃といいます、文学部の二年で」

「知ってます」

綾乃が少し目を丸くした。

「有名ですから」
と誠一は付け加えた。
それは嘘ではなかった。

その日以来、二人は会うようになった。

しかし誠一は今回、意識的に距離を測った。
十年前の自分は綾乃の優しさに溺れるように恋に落ちたが、今は違う。
彼女を守るために必要なのは、甘い感情だけではない。
彼女の周囲で何が起きているかを知ることだ。

七月のある昼下がり、
誠一は大学図書館で綾乃と並んで勉強していた。

その時、偶然
——いや、本当に偶然——武藤冴子准教授が
隣のテーブルに座った。

武藤冴子。英文学専攻、三十二歳。
端正な顔立ちに常に冷静な表情を持つ女性だった。
十年前の誠一は、彼女のことを
「たまたま現場に居合わせた教授」
としか認識していなかった。

しかし今は違う意味で見ている。

**拓也の兄の婚約者。**

武藤は本を開きながら、ちらりと綾乃を一瞥した。

その視線が、誠一には気になった。
一秒にも満たない視線だったが
——そこには明確な「認識」があった。
武藤は綾乃のことを知っている。
それも、表向きの「先生と学生」以上の文脈で。

その夜、誠一は調べた。

武藤冴子のSNSアカウントは非公開だったが、
大学の公式サイトに掲載されている
研究室のメンバー表から、ゼミ生の名前が拾えた。
そこに澄香の名前があった。

**武藤冴子准教授のゼミ——木村澄香。**

(接続した)

妹が武藤のゼミに属している。
武藤は拓也の兄の婚約者だ。
拓也と澄香は恋人関係にある。

点と点が、線になり始めた。

---

## 第六章 ――いじめの構造

八月、夏休みに入った。

誠一はこの期間を最大限に使うことにした。
学期中にはできなかった調査を、
系統的に進める必要があった。

綾乃が受けていたいじめ。

十年前の誠一は、それを全く知らなかった。
綾乃は一度もそれを口にしなかった。
彼女が「大学が少し疲れる」と言った時も、
誠一は単純に「勉強が大変なんだな」と受け取っていた。

今思えば、あの疲れた目は——孤立の目だったのだ。

誠一は綾乃と同じ文学部の講義に

聴講生として潜り込む許可を取り、

さりげなく同学年の学生たちの動向を観察した。

最初に気づいたのは、「席の周囲」だった。

大教室での講義で、綾乃が座ると、
その前後左右が不自然に空く。
百人以上が入る講義室で
席が余っているわけでもないのに、
綾乃の半径二席分だけ、常に人がいない。

次に気づいたのは、「目の動き」だった。

綾乃が廊下を歩いていると、
すれ違う女子学生たちが一瞬だけ視線を交わす。
明確な敵意でも嘲笑でもない
—もっと陰険な、「共有された合意」の視線だった。

そして——

八月の半ば、
大学に残って自習をしていた誠一は、
女子トイレの近くを通った時に声を聞いた。

「……先週のも、捨てておいたから」

「ちゃんとやってくれてる? 
澄香ちゃんに報告しないといけないから」

「もちろん。ノートも、課題のデータも全部」

誠一は足を止めた。

顔は見えない。
しかし声のトーンと内容から、状況は把握できた。

綾乃の持ち物や学習データが、継続的に妨害されている。
そしてその指示は澄香から来ている。

誠一はその日、綾乃に連絡した。

「少し話せますか」

「どうしたの、改まって」

「……先輩、
最近、大学でうまくいっていないことはありますか」

電話口に、長い沈黙があった。

「なんで」

「気になって」

また、沈黙。

「大丈夫だよ」と綾乃は言ったが、
声が少し揺れていた。

「木村くんに心配かけることじゃないから」

「俺に話してくれていいですよ」

「……ありがとう」

それだけだった。しかし誠一には十分だった。

彼女は認めなかったが、否定もしなかった。

---

## 第七章 ――両親という共犯者

九月になった。

誠一は実家に再び帰省した。
今度は目的があった。

母親と父親が、妹の計画に加担していたという事実。
死刑囚として拘置所にいた誠一には、
当時それを確かめる手段がなかった。
しかし今は違う。

「お母さん、澄香の最近どう?」

食事の席で、さりげなく聞いた。

母親の表情が、僅かに警戒した。

「何、急に。
あなたが澄香の心配なんてするの、珍しいじゃない」

「いや、たまには、と思って」

「澄香は順調よ。
いい先生のゼミに入れてもらって、
友達も多くて。あなたとは大違いね」

その「いい先生のゼミ」という言葉が引っかかった。

「武藤先生のゼミ?」

母親が食器を持つ手を止めた。

「……なんで知ってるの」

「学内で見かけたから」

父親がこちらを見た。
今まで誠一のことを見ていなかった目が、
初めて向けられた。
値踏みするような目だった。

「誠一、
お前、澄香に何か変なこと言ったりするなよ」

「別に何もしてない」

「大学でうろうろして澄香の邪魔するな。
あの子は将来がある子なんだから」

将来がある、という言葉の意味を、
誠一は今では知っている。

両親は知っていたのだ。
澄香が何をしようとしているかを。
そして澄香の「将来」を守るために
——犠牲になるべき存在が必要だということを。

その犠牲は、最初から誠一に決まっていた。

誠一は食事を続けながら、静かに全てを整理した。

両親にとって、誠一は「処分できる駒」だった。
捨てる時が来たら捨てられる——それだけの存在だった。

怒りはあった。
しかしそれより強い感情が、今の誠一の中にはあった。

**証明してやる。**

法廷でではなく、司法でもなく
——事実として、全てを白日の下に晒す。

---

## 第八章 ――拓也の告白、もう一つの動機

十月が近づいた。

誠一の調査は核心に迫っていた。
残る最大の疑問は
——拓也が綾乃に繰り返し告白していたという事実だった。

死刑判決の後に弁護士から聞いた話では、
綾乃の日記に「しつこく迫られて困っている男性がいる」
という記述があったという。
その人物の名前は書かれておらず、
証拠として採用もされなかった。

今の誠一は、その日記の存在を知っている。

(日記が、どこにあるか)

綾乃のアパートに遊びに行った時、
誠一は注意深く部屋を見た。
本棚、机の引き出し
——そして、ベッドの横の小さなナイトスタンドに、
小さなノートがあるのを目にした。

「それ、大切なもの?」と聞くと、
綾乃は少し照れた顔で「日記みたいなもの」と言った。

誠一は盗み見るつもりはなかった。
それは今も変わらない。しかし日記の存在は確認した。

直接、拓也に会うことにした。

十月の第一週、
二人でいつものファミレスで夕食を取った。
拓也は相変わらず快活で、
話題は映画やゲームや近況報告だった。

誠一は食事の終わり際に、さりげなく言った。

「なあ、拓也。お前、最近好きな人とかいる?」

拓也の箸が止まった。ほんの一瞬だったが、止まった。

「急にどうした」
笑顔は変わらない。

「いないよ、別に。誠一は? 
宮本先輩と仲良くなったんだろ、最近」

「まあ、そうだな」

「いいな。あの人、かわいいよな」

その言い方が
——「かわいいよな」という過去形のような言い方が
——誠一には引っかかった。

「拓也、宮本先輩のこと、知ってる?」

「学内で有名じゃん、普通に」

「そうじゃなくて。個人的に、何か関係ある?」

拓也は少しの間、誠一の顔を見た。

それから、笑った。

「ないよ。ただの有名人として知ってるだけ」

嘘だ、と誠一は確信した。

しかし証明する手段はまだなかった。
それでも——この会話で、拓也が何かを隠していることは、
もはや疑いの余地がなかった。

---

## 第九章 ――真実の全貌

十月二十日。

事件まで三日。

誠一は全ての調査結果をまとめ、ノートに清書した。

**【真犯人】木村澄香(実妹)**
- 動機①:佐野拓也(交際中)が
宮本綾乃に繰り返し告白し、拒絶されていた
- 動機②:宮本綾乃が「格上」の存在であることへの
嫉妬と権力意識
- 実行:綾乃が受けていたいじめを直接指示し、
その過程で直接対峙、包丁で脅した際の揉み合いで刺殺

**【共犯者①】佐野拓也**
- 役割:誠一を現場に誘導(「綾乃が呼んでいる」
という虚偽の伝言)
- 動機:綾乃への執着、澄香との交際関係の維持

**【共犯者②】武藤冴子准教授**
- 役割:第一発見者として警察に通報し、
誠一を犯人として誘導
- 関係:佐野拓也の兄・佐野健一の婚約者
- 動機:将来の義兄弟関係にある拓也・澄香を守るため

**【共犯者③④】木村義雄・木村和子(父・母)**
- 役割:証言台で誠一の人格を否定する証言、
捜査段階での協力拒否
- 動機:澄香を守ること、
もともと誠一を「不要な存在」と見なしていた

誠一はノートを閉じ、窓の外を見た。

秋の夜空に、星が出ていた。

怒りはある。憎しみもある。
しかしそれと同じくらい
——いや、それ以上に——今の誠一の中に静かな炎があった。

全員に罰を受けさせる。

しかし死刑台の上で抱いた「復讐」の形は、
少しずつ変わっていた。

誰かを傷つけることではない。

**全てを、明るみに出すことだ。**

十月二十一日の夜、誠一は綾乃に電話した。

「先輩、明日、話したいことがあります。大事な話です」

「……何?」

「先輩を、守りたいんです」

電話口で、綾乃が小さく息を吸う音がした。

「木村くん」

「はい」

「……私、怖いって思ったことがあって」

初めて、彼女が認めた。

「聞かせてください」

その夜、二人は長い時間、電話で話した。
綾乃は少しずつ、しかし確かに——ノートへの書き込み、
消えたレポートデータ、
直接対峙してきた女子学生の名前——を話してくれた。

誠一は全てを聞いた。

そして翌朝、
大学の学生相談室に予約を入れ、
同時に——スマートフォンの
ボイスレコーダーアプリを、常時起動状態にした。

十月二十三日。

運命の日は、もう一日後だった。

---

## 終章 ――十年後の決着

十月二十二日の夜、誠一は拓也に会った。

「明日、三〇五教室に来てくれないか」

拓也が目を細めた。
「なんで?」

「綾乃先輩と話したいことがある。
お前にも来ていてほしい」

拓也の目の奥で、何かが素早く動いた。

「……わかった」と拓也は言った。

「行くよ」

翌日、
誠一は三〇五教室のドアを開ける前に、
スマートフォンの録音を確認した。
廊下の角にある監視カメラの位置も、把握済みだった。

教室の中で、待っていたのは拓也だけではなかった。

澄香がいた。武藤准教授がいた。

そして——誠一が呼んでおいた
学生相談室のカウンセラーと、
事前に相談していた大学の法学部の准教授が、
廊下で待機していた。

澄香は誠一の顔を見て、一瞬だけ笑った。

「何のつもり? お兄ちゃん」

誠一は答えなかった。

ただポケットからノートを取り出し、机の上に置いた。

「全部、知ってるよ」

静寂が、部屋を満たした。

拓也の顔から、初めて笑顔が消えた。
武藤准教授が立ち上がろうとした。
澄香の目が——生まれて初めて、
誠一を「人間」として見た目が——揺れた。

「澄香、お前は綾乃先輩を傷つけた。
そして俺を犯人に仕立てようとした。
でも今日は、それを全部終わりにする」

窓の外に、秋の光が満ちていた。

---

## 後記にかえて

木村誠一が二十七歳の首に縄を受けた世界では、
宮本綾乃の死は「陰キャの男が美人な先輩を刺した事件」
として処理された。

しかし誠一が還ってきた世界では——

全てが、違った形で終わった。

誰も死ななかった。

それだけが、
全ての始まりであり、全ての終わりだった。

---

**了**
 

最近のファンタジーものって

例え悪人でも殺すなとか

例え悪どい国家でも許せとか

例え酷い法律でも遵守せよ

みたいな事を絶対に守らせようとして

それを破ると主人公にでさえ精神的苦痛を与える

みたいな作品が多くて辟易します

わざと自分に手枷足枷を付けて

自由を縛るとかどんだけドMなんだよ

って思いますね

 

 

# 英雄の我儘

## 一 牢獄の花

石造りの廊下は湿っていた。

松明の炎が揺れるたびに、影が壁を這う。
衛兵の足音が遠ざかるのを確かめてから、
男はフードを深く被り直した。

名をレイと言った。

かつてはそう呼ばれていた。
今はもう違う名で、違う顔で、
小さな村の片隅に溶け込んでいる。
農具を担いで朝露の畑を歩き、夕暮れには炉端で本を読む。

それが彼の望んだ生だった。
魔王を討ち、世界を救い、そして死んだことにして
――ようやく手に入れた、何でもない毎日。

牢獄の奥に、彼女はいた。

「……来たのですか」

鉄格子の向こう、藁の上に膝を揃えて座っていた。
髪は解かれ、絹の衣は泥に汚れている。
それでも背筋だけは真っ直ぐだった。
王族の矜持というのは、骨に刻まれているらしい。

「噂を聞いた」
レイは格子に手をかけた。

「罠だろう。あの第二王子のやり口は知っている」

エリア第三王女は、静かに微笑んだ。
泣いた跡が頬に残っていた。

「そうです。罠でした」
彼女は言った。

「でも、それが何だというのですか」

「何だと?」

「法は法です。私が大罪を犯したと記録された。
証拠は整えられた。裁判は終わった」

彼女は膝の上で指を組んだ。

「王族が法の外に立つことを認めれば、
法そのものが死にます。
それは私が死ぬより、ずっと恐ろしいことです」

レイは黙った。

反論の言葉はいくつもあった。
それは詭弁だ、濡れ衣だ、そんな法に従う義理はない
――しかし彼女の目を見ていると、
言葉が喉の奥で固まった。

本気だった。彼女は本気で、そう信じていた。

*……馬鹿だな*

心の中でそう呟いて、レイはフードを直した。

「わかった」

「レイ」

彼女が初めて、彼の名を呼んだ。
古い名前。
もう誰も呼ばないはずの名前。

「ありがとうございました。
昔、助けてくださったこと。
ずっと、お礼を言いたかった」

レイは振り向かなかった。

「達者でな」

そう言って、彼は夜の中に消えた。

---

## 二 執行前夜

村に帰っても、眠れなかった。

天井を見上げながら、レイは腕を組んだ。
藁葺き屋根の隙間から星が見えた。
魔王の城でも、何度もこうして天井を見上げた。
もっとも当時は、
次の日に生きているかどうかもわからなかったが。

三日後。

エリア王女の死刑執行は三日後だった。

*法は法です*

彼女の声が耳の奥で繰り返す。
あの真っ直ぐな目。
少しも揺れていなかった。
いや、揺れていた。
ただ彼女はその揺れを、己の意志で押さえ込んでいた。

*わかっている。それは立派なことだ。*

レイは目を閉じた。

魔王討伐の旅の途中だった。
国境の山道で、賊に囲まれていた
小さな馬車を見つけたのは。
護衛を全員倒され、
震えながらも賊を睨みつけていた少女を助けたのは。

あの時の彼女は十四だった。

馬車が修理されるまでの三日間、
彼女はレイにまとわりついた。
魔法のことを訊いた。
剣の稽古をつけてくれと頼んだ。
旅の話を聞きたがった。
笑うとほんの少しだけ、右の頬に笑窪ができた。

*うるさい子だと思っていた。*

その後も、たまに手紙が来た。
レイは毎回、二、三行だけ返した。
それ以上書くと、
色々と面倒なことになると思っていたから。

*そうか。あれは全部。*

彼は目を開けた。

「……俺は、ずっと気が付かない振りをしていたな」

声に出すと、妙に静かな気持ちになった。

彼女が好きだった。
たぶんずっと前から。
それを認めたくなくて、返事を短くして、
会いに行かなくて、王族と関わりたくない
という理由を盾にしていた。

英雄として祭り上げられることが嫌だった。
それも本当だ。

でも、それだけじゃなかった。

*怖かったんだ。*

自分が何かを強く望むことが。
望んで、失うことが。
魔王との戦いで、仲間を何人も失った。
大切なものは、持たないほうがいい。
そう決めて、偽りの死を選んで、
誰とも深く関わらない日々を選んだ。

それは本当に、彼が望んだ生だったのか。

天井の節穴から、星の光が一筋差し込んでいた。

レイはゆっくりと身を起こした。

---

## 三 正門崩壊

王都の夜明けは霧の中にあった。

王城の正門は高さ十メートルを超える鉄の扉だった。
両脇の塔には弓兵が詰め、
内側には常時五十名の近衛が控えている。
難攻不落と名高い、王国の顔だった。

レイは門の前に立ち、それをしばらく眺めた。

特に感慨はなかった。

右手を持ち上げ、ごく軽く、押すように前に突き出した。

音は、しなかった。

ただ正門が、紙を破るようにして内側に吹き飛んだ。
鉄の塊が石畳を転がり、土煙が巨大な柱となって立ち昇る。

塔の弓兵たちが悲鳴を上げた。

「侵入者!」

「衛兵を呼べ!」

「魔法陣を展開しろ!」

怒号が城内に木霊する。

最初の矢が来たのは、煙がまだ晴れないうちだった。
数十本が一斉に降り注ぐ。
レイは歩きながら、息を吐いた。
指先に薄く魔力を纏わせる。
矢は彼の一歩手前で、
見えない壁に弾かれたように四散した。

次いで槍兵の突撃。

整然とした隊列、鍛え抜かれた動き。
平時であれば脅威だったろう。
レイは立ち止まりもしなかった。
槍が届く寸前、彼の周囲に風が渦巻き、
兵士たちは軽々と横に吹き飛ばされた。
誰も傷つけない、けれど誰も近寄れない。

「魔法部隊、一斉射撃!」

号令と共に、五十を超える魔法の火線が交差した。
炎、氷、雷、土塊。色とりどりの破壊が一点に集中する。

煙が晴れる。

レイは無傷で立っていた。

上着の裾が少し揺れていた。

その光景を見た兵士たちの間に、静寂が落ちた。
戦意ではなく、純粋な困惑の静寂だった。
彼らは訓練通りにやった。
手順通りにやった。
なのに目の前の男は、
まるでそよ風でも受けたような顔をしている。

レイは特に何も言わなかった。

ただ、まっすぐに歩き続けた。

---

## 四 我儘のかたち

牢獄には、誰もいなかった。

いや、正確には、衛兵たちは全員逃げていた。
城内に響いた轟音と、次々と届く
「誰も傷つかないのに誰も止められない」
という報告が、彼らの戦意を根こそぎ奪ったのだった。

鉄格子の向こうで、エリアは立っていた。

三日前とは違い、目を大きく見開いていた。

「……あなたは、一体」

「騒がしくして済まない」

レイは錠前を指で弾いた。
金属が音を立てて砕ける。

「迎えに来た」

「迎えに」
彼女は繰り返した。

「何を、言って」

「法は法だと言ったな」

「そうです。私は罪人として記録された。
このまま死刑を受け入れることが――」

「君の話はわかった」
レイは格子を開けた。

「でも、俺の話も聞いてくれ」

エリアは動かなかった。

「俺はずっと、周りに合わせて生きてきた。
英雄だから英雄らしくしろと言われればそうした。
仲間のために死ぬ覚悟を持てと言われれば持った。
世界のために魔王を倒せと言われれば倒した。
それ自体は後悔していない」

彼は一歩、格子の中に踏み込んだ。

「でも、それだけじゃなかったんだ。
俺はいつの間にか、
自分が何を望むかを考えることを、やめていた。
それが誰かの重荷になりそうで怖くて、
ずっと気が付かない振りをしていた」

「レイ」

「今日は、俺がやりたいようにやることにした」

彼は真っ直ぐに、彼女を見た。

「俺は、君に死んでほしくない。それだけだ。
難しい理由は何もない。
ただそれだけのことを、今まで言えなかった」

エリアの目が、音もなく歪んだ。

膝ではなく、目が。
こらえていたものが端からあふれるように、
涙が頬を伝った。
三日前の夜と同じように。
いや、違った。三日前は一人だった。

「……馬鹿です」
彼女は声を震わせた。

「法を、国を、何だと思っているのですか。
こんなことをして、あなたは」

「追われるだろうな」
レイは頷いた。

「でもまあ、逃げ足には自信がある」

「私は重罪人として記録されているのです。
あなたと一緒にいれば、あなたも」

「知ってる」

「国が」

「知ってる」

エリアは言葉に詰まった。

レイは手を差し伸べた。

何の飾りもない、
剣だこのついた、農夫の手だった。

「行こう」

長い沈黙だった。

松明が揺れた。
遠くで、また誰かの怒号が聞こえた。
時間はなかった。

エリアはゆっくりと、その手を取った。

---

## 五 その後の話

王国は、滅んだ。

正確に言えば、第二王子は王位を簒奪したものの、
第三王女を処刑できなかったという失態と、
未知の力を持つ侵入者を誰も止められなかった
という事実が、政権の威信を根底から崩した。
反乱が起き、近隣諸国が介入し、
王都は一時的な混乱に沈んだ。

第一王子は――コミュ障で気弱な、あの王子は
――混乱のさなかに民衆の前に現れ、
震えながらも声を上げた。たった一言だった。

「私が、やります」

それだけだった。
それだけで、何かが変わった。

人々は不思議とその声を信じた。

数年後、
廃墟の上に新しい国が生まれた。
第一王子が王となり、法を作り直した。
今度は、権力者が法を道具として使えないような法を。
エリア王女が命をかけて守ろうとした精神を、
より堅固な形で。

風の噂によれば。

かつての英雄と、かつての王女は、
山奥の村に住んでいるらしかった。

どこにあるかは、誰も知らない。

ただ、旅人が迷い込んで親切にしてもらったという話が、
時々酒場に流れてくる。
小さな畑があって、犬が一匹いて、
夕暮れには縁側で二人が並んで座っているのを見たと、
その旅人は言ったそうだ。

男のほうは不愛想で、女のほうはよく笑った、と。

英雄の話は、そこで終わる。

語り継がれるべき武勲も、詩に刻まれるべき犠牲も、
その後にはない。
あるのはただ、誰も知らない山の、
誰も来ない夕暮れと、縁側に並ぶ二人の横顔だけだ。

それで十分だと、レイは思っていた。

*了*
 

 

またまた昭和っぽいお話です

これも8割位は自分の実体験を元にしています

 

 

# 浮き輪と白い病室と、ガンダム

## 一

新潟の夏は、東京とは違う匂いがした。

潮と松と、
祖母が庭先で干す洗濯物の柔軟剤が混ざったような、
そういう匂いだ。
僕は毎年夏休みになると、
両親に連れられて新潟の祖父母の家に帰省した。
家から徒歩十分ほどのところに海があって、
祖父はよく麦わら帽子を被り、
僕の手を引いて砂浜まで歩いてくれた。

問題は、僕が泳げないことだった。

小学五年生になった今も、それは変わらなかった。
波打ち際で膝まで浸かるのが精いっぱいで、
少し深いところへ行こうものなら足がすくんで、
心臓が縮み上がった。
だから僕には浮き輪が欠かせなかった。
黄色くて丸い、空気を目いっぱい入れた浮き輪。
それを脇の下に挟んでいないと、海に入れなかった。

祖父は何も言わなかった。
ただ隣で静かに海を眺めていた。

祖母は砂浜のパラソルの下から
「涼太ー、気をつけてねえ」と声をかけてくれた。
その声が波の音に紛れていくのを聞きながら、
僕は浮き輪にしがみついて、
ただぷかぷかと揺れていた。

---

九月が近づいたある日、
担任の片桐先生から手紙が配られた。

*夏休み明け、プール学習補講のご案内。
二十五メートルを泳げない生徒は強制参加となります。*

胃が重くなった。

クラスの半分以上はすいすいと泳いでいたし、
もちろん僕のような生徒のための補講だということは、
手紙を読んだ瞬間にわかった。
情けなくて、
その日の夜は布団の中でずっと天井を見ていた。

補講は八月の後半から始まった。

参加者は十人ほど。
みんな一様に気まずそうな顔をしていた。
コーチ役を買って出た体育の小山先生は、
怒鳴ったりしない、穏やかな人だった。

「焦らなくていい。
水を怖がらなくなるところから始めよう」

毎日プールに通った。
バタ足を繰り返して、息継ぎを練習して、
水を飲んで咳き込んで、また泳いだ。
少しずつ、本当に少しずつだったけれど、
体が水に馴染んでいくのがわかった。

そして補講最終日。

僕はついに、二十五メートルを泳ぎ切った。

壁に手が届いた瞬間、
プールサイドで小山先生が拍手をしていた。
水を顔から拭いながら立ち上がると、
胸の奥に温かいものがじんわりと広がった。
やれた、という感覚。
浮き輪なしで、自分の力だけで、二十五メートル。

プールから上がって着替えていると、
腹の右下のあたりがじんわりと痛んだ。

最初は疲れかな、と思った。

だが廊下に出たとき、その痛みが急に牙を剥いた。

鋭い、刃物のような痛みが腹の内側を突き刺した。
思わず壁にもたれかかり、膝が折れた。
顔から血の気が引いていくのがわかった。

保健室に運ばれて、先生が両親に電話をかけた。

父が学校に着いたとき、
僕はすでにまともに歩けなかった。
父は何も言わず、しゃがんで背中を向けた。
僕は父の背中にしがみついた。
夏の終わりの生ぬるい風の中、
僕は父におぶさって家に帰った。
小学五年生にもなって、と思う気持ちもあったけれど、
それよりも痛くて、
そんな恥ずかしさはどこかへ消えていた。

---

病院での診断は、虫垂炎だった。

「炎症が進んでいますね。
手術が必要です」と医師は淡々と言った。

手術。

その言葉が頭の中で反響した。
生まれてから一度も手術なんてしたことがない。
注射だって大嫌いで、
予防接種の前の日は必ず眠れなかった。
それなのに手術なんて。

入院の手続きをしながら、
母が「大丈夫よ」と言った。
その声が少し震えていたのを、
僕は聞き逃さなかった。

手術は翌朝だった。

手術台に横になると、天井のライトが白く眩しかった。
麻酔は全身麻酔ではなく、局所麻酔だと説明された。
脊髄に注射を打つのだと聞かされたとき、
看護師さんの手をぎゅっと握った。

「少し痛いですよ」という声のあと、
背骨の奥深くに何かが刺さる感覚があった。

痛い、という言葉では足りなかった。

それは痛みというより、
自分の芯を直接触られているような、
言葉にならない感覚だった。
思わず声が漏れると、
看護師さんが「もう少しで終わりますよ」と囁いた。

やがて腰から下の感覚がなくなっていった。

顔の上にタオルがかけられた。
視界が暗くなった。
意識はある。痛みはない。
ただ天井と、タオルの白さだけがあった。

医師たちの話し声が聞こえた。
器具の金属音が聞こえた。

そのとき、タオルがほんの少しずれた。

ほんの、一センチほどの隙間。

でもそれで十分すぎた。

白い手術着を着た医師の手が、
僕の腹の中に入っているのが見えた。

視覚と、感覚の間に、巨大な断絶があった。
腹に手が入っているのが見えるのに、何も感じない。
自分の腹が開いているのが見えるのに、
それが現実のこととは思えなかった。
でも確かに見えた。血が、見えた。

「ああっ」

叫んだのか、声が出たのかもわからない。
体を動かそうとした。逃げようとした。

すぐに複数の手が僕の体を押さえた。

肩を、腕を、足を。

「動かないで!」という声が飛んだ。

でもタオルはずれたままだった。

僕はそのまま、手術が終わるまで
、自分の血だらけの腹を見続けた。
目を閉じることもできなかった。
ただ見ていた。
震えながら、泣きながら、見ていた。

## 二

病室は六人部屋だった。

窓際のベッドで、白いカーテンを引くと外に木が見えた。
蝉の声が聞こえた。

手術は無事に終わった。
傷は思ったよりも痛かったけれど、
少しずつよくなっていった。
それよりも辛かったのは、毎日の注射だった。
朝になると決まって看護師さんがやってきて、
腕に針を刺す。
わかっているのに慣れなかった。
注射を待つ時間が、一日の中で一番嫌いな時間だった。

退屈といえば退屈だった。

学校は始まっていた。
友達は教室にいる。
自分だけがこの白い部屋にいる。
窓の外の木を眺めながら、
そういうことをぼんやりと考えた。

そんな僕を見かねたのか、
祖父母と両親が次々と差し入れを持ってきてくれた。
ゼリーや果物、それから漫画雑誌。

少年マガジン、少年サンデー、少年チャンピオン……
いろんな雑誌がベッドサイドの棚に積み上がっていった。

その中に、一冊、見慣れない雑誌があった。

表紙に、少年が描かれていた。

髪の色が、緑から黄色へ、
まるで夏草が光を受けたような
グラデーションで染まっていた。
整った顔立ちで、
どこか遠くを見ているような目をしていた。
タイトルは「少年キング」。

*超人ロック、連載スタート!*

という文字が帯に踊っていた。

読み始めたら、止まらなかった。

ロックは超能力者だった。
何百年も生き続ける、孤独な超能力者。
宇宙を舞台に、時代を渡り歩きながら、
様々な人間と出会い、戦い、別れていく。
絵は繊細で、
コマの端まで宇宙の静寂が満ちているようだった。

こんな漫画があったのか、と思った。

熱が出たわけでもないのに、
体の中心がじんわりと熱くなるような感じがした。
ロックが好きだと思った。
この漫画が好きだと思った。

あとで知ったことだが、
この「超人ロック」はもともと同人誌として
描かれていたものが商業誌に初めて連載されるという、
その記念すべき第一号だったらしい。
僕は知らずに、
その最初のページから読み始めていたことになる。

---

病室のテレビは、
百円を入れると一時間だけ見られる仕組みだった。

硬貨を入れると画面がぱっと明るくなって、
時計のような表示がカウントダウンを始める。
一時間なんてあっという間に過ぎた。

学校では「ザ・ウルトラマン」が
流行っていると友達から手紙をもらっていた。
僕も毎週欠かさず見ていた。
ウルトラマンが変身するシーンは
何度見てもかっこよかった。

ある夕方のことだった。

まだ少し時間が残っているからと、
ベッドの上でぼんやりしながらテレビをつけた。

画面に映ったのは、知らないアニメだった。

宇宙だった。
でも明るくない宇宙じゃなくて、
戦争をしている宇宙だった。
大きなロボットが爆発する炎の中に立っていた。

*機動戦士ガンダム*

テロップにそう書いてあった。

最初の五分で、引き込まれた。

ロボットがかっこいいとかそういう話ではなかった。
戦争があって、巻き込まれた少年がいて、
戦わなければならない状況があって、人が死んで、
それでも生きていく話だった。
十一歳の僕には全部は理解できなかったと思う。
でも画面から目が離せなかった。

気がつくと、百円分の時間が終わっていた。

翌週も見た。その翌週も見た。

病室で過ごす木曜日の夜が、急に楽しみになった。
アムロが戦い、シャアが笑い、
ランバ・ラルが「これがモビルスーツの戦いか」
と言うシーンを、
白いカーテンに囲まれたベッドの上でひとり見ていた。

## 三

九月の下旬、やっと学校に戻れた。

久しぶりの教室は、少しだけ遠い場所のように感じた。
席に座ると、いろんな人が「大丈夫だった?」
と声をかけてくれた。

休み時間になると、教室はいつものように賑やかになった。

「ウルトラマンのさあ、先週のやつ見た?」

「999の先週の話、やばくなかった?」

メーテルの話、ウルトラマンの話、
あちこちから声が聞こえてきた。

僕はそういう輪の中に入りながら、ふと言ってみた。

「ガンダム、見てる人いる?」

しばらく間があった。

「ガンダム?」

「なにそれ」

「聞いたことない」

みんな首を傾げた。

そうか、と思った。
病室でひとりで見ていたあの土曜日の夕方、
あの感動は、ここでは誰とも共有できないんだ。
面白いのに。
本当に面白いのに。

少し残念に思いながら、
放課後、僕は鞄を持って廊下に出た。

「おい」

声をかけられて振り返ると、二、三人が立っていた。

一人は黒田だった。
足が速くて、運動会ではいつもリレーの選手だった。
もう一人は西村で、サッカーが上手くて
クラスの誰とでも話せるような、
そういうタイプの男だった。
二人ともクラスの中心にいる人間で、
僕みたいな地味な生徒と話すような場面は、
今まで一度もなかった。

「お前、さっきガンダムって言ってたよな」

黒田がまっすぐに聞いてきた。

「……うん。入院中に見て」

「毎週見てる?」

「見てる」

黒田と西村が顔を見合わせた。
そして二人同時に、にっと笑った。

「ガンダム最高だろ」と黒田が言った。

「でもさ、学校だとこの三人しか知らないんだよ。
話せなくてさ」

三人、という言葉に気づいた。
黒田と西村ともう一人——少し後ろに立っていた橋本が、
小さくうなずいた。

「俺、病院でたまたまつけたら、ハマっちゃって」

「マジで?それ何話から見たんだよ」

「えっと、ジャブローの話のあたりから……」

「あそこいいよな!」

一気に話が始まった。

廊下の窓から夕日が差し込んでいた。
どこかの教室から先生の声が聞こえていた。

僕と黒田と西村と橋本は、四人で立ったまま、
ガンダムの話をした。
シャアはなぜあんなにアムロを狙うのか、
ジオンと地球連邦はどっちが悪いのか、
ガンダムとズゴックが戦ったらどうなるか。

気づいたら、
廊下の向こうの窓が赤く染まっていた。

他のクラスメイトが帰り際にちらちらとこちらを見ていた。

クラスで一番目立つ黒田たちと、地味な僕が、
なぜか笑い合っている。
その光景は、確かに奇妙に映ったかもしれなかった。

でも僕にはそんなこと、どうでもよかった。

新潟の海で浮き輪にしがみついていた夏が終わって、
プールで二十五メートル泳いで、腹を切って、
病室でロックに出会って、ガンダムに出会って、
そして今、同じものが好きな人間と並んで喋っている。

それだけで十分だと思った。

それだけで、この夏はもう充分だった。

---

後になって気づくことがある。

人生の中で、本当に大切なものと出会う瞬間は、
大抵、計画の外にある。

手術の痛みがなければ、あの病室に入ることもなかった。
入院しなければ、夕方のテレビを
何気なくつけることもなかった。
ロックにもガンダムにも、出会わなかった。

そして黒田たちとも。

 

ガンダムはこの後、徐々に人気が出て

年末には世間の話題の中心になっていたが

その事をあの時の僕たちはまだ知らなかった。

浮き輪を手放した夏の終わりに、
僕はそういうものをいくつか、手に入れた。
 

前回 自分の実体験を元にした

昭和なお話を作った事で

また昭和なお話を作りたくなりました

これは7割くらい実際にあったお話です

 

 

# ガラスの夜に

### 1988年、冬

バブルという言葉が、
まだ自分たちには実感を伴わなかった。

テレビをつければ株価が上がっただの
ゴルフ会員権が売れただの、そういう話ばかりだったが、
寮に住んで月に五万のバイト代で暮らしている俺には
対岸の話だった。
それでも街の空気は確かに浮ついていて、
吉祥寺のサンロードを歩けば、
肩パッドの入ったコートを着た女性たちが、
どこかに急ぐように歩いていた。

十二月二十五日。

午後八時を過ぎた頃には、
その人波もずいぶんと薄くなっていた。

アーケードの天井に飾られたイルミネーションが、
冷えた空気の中でやけに白々しく光っている。
今年はやたらとイルミネーションが派手だった。
街ごとバブルで着飾っているみたいに。

俺は隣に立つ田中を横目で見た。
田中も同じように、行き交うカップルの背中を眺めていた。
目が合うと、お互い苦笑いした。言葉はいらなかった。

「もう無理だろ?」

俺が言うと、田中は少しだけ肩の力を抜いて、

「……だよな」

と答えた。

思えば今日だけで何人に声をかけたろうか。

俺は元々、人と話すのが得意ではない。
好きなものといえばアニメと漫画とバイク。
今年は「鎧伝サムライトルーパー」と
「シティハンター2」にどれだけ時間を
溶かしたか分からない。
サムライトルーパーは春から始まって
毎週欠かさず見ていたし、
シティハンターの2になってからも
冴羽獖のモッコリ話で友人と盛り上がっていた。
愛車はヤマハのFZR250で、
それだけが本当に自慢できるものだったが、
女性にその話をしても「ふーん」で終わる。
「最近何か見てますか」と聞けば向こうは
「男女7人冬物語とか……」と言う。
さんまと大竹しのぶか。
そこで俺の語彙は完全に尽きる。

それでも先輩たちの命令は明確だった。
「必ず一人は連れて来い」。
別に今日急に言われたわけじゃない。
ずっと前から言われていた。
寮というのはそういうところで、上下関係は絶対で、
理不尽も込みで受け入れるのが当たり前だった。
当時はそれが普通だと、全員が思っていた。

だから俺なりに頑張ってきたつもりだ。

一番長く話せたのは、あの人妻だった。
三十代くらいだろうか、おっとりした笑顔の人で、
俺のぎこちない話にも根気よく付き合ってくれた。
FZR250の話をしたら「かっこいいですね」
と言ってくれて、俺は内心で舞い上がっていた。
が、しばらくして左手の薬指に光るものを見てしまった。
その瞬間の、胸の中がすうっと冷えていく感覚を、
俺はまだ覚えている。

結局、まともに会話できたのはその人だけだった。

---

俺たちは覚悟を決めて、
先輩たちが貸し切っているスナックへ向かった。

駅の近くの、雑居ビルの二階。
細い階段を上がると演歌と
タバコの煙が混じった空気が降りてきた。
八人掛けのカラオケボックスではなく、
カウンターとボックス席があって、ママがいて、
そういう昔ながらのスナックだ。
カラオケといっても、
まだレーザーディスクで映像が流れるやつで、
機械の前に分厚いカタログ本が置いてある。

扉を開けると、先輩たちの笑い声が飛び込んできた。

俺と田中は無言で顔を見合わせ、
それからほぼ同時にその場に膝をついた。

「すみませんでした」

「連れてこれませんでした」

床に額が触れるかという角度で頭を下げると、
先輩たちはしばらく沈黙して、それから笑い崩れた。

「しょうがねえな。じゃあ何か歌え!」

田中と俺は顔を見合わせ、
ほとんど同時に同じ曲が浮かんだ。

今年、何度テレビで見たか分からない。
ローラースケートを履いた少年たちが、
あのイントロで滑り出してくる映像が
脳裏に焼きついている。

マイクを握って、俺たちは歌った。

光GENJIの「ガラスの十代」。

ほとんどヤケだった。
感情を込める余裕もなく、ただ声を張り上げた。
田中のほうが音程は外れていたが、
俺もたいして変わらなかった。
先輩たちはゲラゲラ笑いながらも手拍子を打ってくれた。
レーザーディスクの画面では内海光司と
諸星和己が笑顔でターンを決めていた。
その手拍子が、妙にありがたかった。

---

スナックを出たのは十一時を過ぎた頃だった。

「いつものプールバーに行くか」

俺が言うと、田中は黙ってうなずいた。

今年の夏に「カクテル2」が封切られてから、
吉祥寺にもビリヤードバーが急に増えた。
トム・クルーズがカウンターで
シェイカーを振る映画の続編だが、
なぜかビリヤードのシーンが妙に格好よくて、
それから街のあちこちに台が置かれるようになった。
バブルの金が、そういう洒落たものを一気に広げていく。

吉祥寺の駅近く、地下に降りていくプールバーがある。
新しく出来た店は内装も明るくてドリンクも高いが、
ここは古くて薄暗くて安い。
深夜になると客はほとんどいない。
俺と田中は二人でよくここへ来ていた。

コインを入れてボールをセットする。
チョークをキューの先に塗る。
その一連の動作が、妙に落ち着く。

ブレイクショットの音が地下に響いた。
ボールが散らばり、一つが沈む。

俺は次のボールを狙いながら、
今日のことを頭の中で巻き戻していた。

街はこんなに浮かれているのに、俺には彼女一人いない。

バブルの恩恵は株と土地と、
あとはディスコで踊れる人間たちのものだ。
木場や六本木のディスコに繰り出せるような
陽気さが俺にはなかった。
そういう場所が根本的に向いていない俺は、
今夜もサムライトルーパーの録画でも
見たほうがよかったのかもしれないと、
半分本気で思っていた。
遼たちは鎧を纏って戦っているのに、
俺は吉祥寺のアーケードで砕け散っていた。

いつかできるのかな、彼女。

半分、諦めに似た何かが頭の中を静かに満たしていく。

田中を見る。

彼は無言でキューを構えていた。
三ヶ月前、あいつはスナックの外で電話を受けていた。
——電話といっても公衆電話だ。
テレフォンカードで話す田中の顔が、
街灯の下でみるみる青ざめていくのを、
俺は外から偶然見てしまった。
遠距離の彼女から、浮気を告げられたのだという。
携帯電話などない時代、
遠距離恋愛は公衆電話とテレカと手紙でつなぐしかない。
そのぶん別れも、突然やってくる。

その後、俺たちは朝まで飲んだ。
田中は何度も同じ話をした。
俺はただ聞いていた。
気の利いた言葉なんて、一つも出てこなかった。

田中のほうが、ずっとつらいだろうな。

「外れた」

田中が小さく毒づいて、キューを俺に渡した。

俺はボールを打ちながら、ふと上を向く癖がある。
薄暗い天井を見て、その向こうの夜空を想像する。

思い出すのは、高校の頃に好きだった子の笑顔だ。
眼鏡をかけた、すらりと背の高い子で、
星座が好きだった。
冬の夜に「あれがオリオン座で」
と嬉しそうに指を差す横顔が、
今でも妙にはっきりと思い出せる。
天文部の子だった。
俺はアニメや漫画の話しかできなくて、
結局一度もまともに話しかけられなかった。
シティハンターの冴羽獖みたいに
気の利いたセリフが言えたなら、
と何度思ったか知れない。
ただそれを切っ掛けに星やギリシャ神話が好きになった

あの子は今頃、付き合っている先輩と一緒にいるんだろう。

クリスマスだから。

きっとどこかの洒落たレストランで向かい合って、
ワインでも飲んでいる。
バブルのクリスマスはそういうものだと
雑誌には書いてある。
ANANやnonnoがどこのレストランがいいだの、
プレゼントには何がいいだの、そういう特集を組んでいた。

俺はそれをコンビニで立ち読みして、そっと棚に戻した。

俺は打ったボールが外れるのを眺めながら、
静かにキューを田中に渡した。

地下室には俺たちの他に客がいなくて、
球が転がる音だけが響いていた。
有線から流れる山下達郎の声が、
遠く、小さく聞こえていた。

「なあ」と田中が言った。

「来年は、もうちょっとマシになるかな」

俺はすぐには答えなかった。

外は昭和六十三年の、最後の冬だ。
来年になれば元号が変わるかもしれないという噂が、
ずっと前からくすぶっている。
街も時代も変わっていく。

でも俺たちは変わるのだろうか。

「まあ」と俺はやっと言った。

「なるんじゃないか。知らんけど」

田中は少し笑った。俺も少し笑った。

まだ二十一だ。
人生はまだまだこれからのはずだ。
——頭ではそう思う。
でも今夜の冷たい地下の空気と、
二人で歌ったガラスの十代と、
山下達郎の歌声は、きっとずいぶん長いこと、
俺の記憶の底に沈んでいるような気がした。

沈んだままで、ずっと光り続けるもののように。

---

*翌年の一月七日、
昭和天皇が崩御され、元号は平成に変わった。*
*バブルが弾けるのは、もう少し先のことだった。*