以前書いた水魔王レンが再び登場するお話を作りました。
レンが登場するお話は#水魔王レンでタグ付けしましたので
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# 水魔法士と第三王女 ―― 帝国への道 ――
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## 第一章 旅立ち
馬車の列が城門を抜けた瞬間、歓声が沸いた。
王都の民衆が道の両側に並び、花びらを撒く。
紅、白、黄色――春の終わりに咲く花々が
石畳の上に舞い落ちた。
馬車の窓から顔を覗かせたのは、
アリアーヌ=ファルス王国第三王女。十八歳。
淡い栗色の髪に、父王から受け継いだ
深緑の瞳を持つ少女だ。
表情は凛として落ち着いているが、
その瞳の奥には微かな緊張と、
それ以上の強い意志が宿っていた。
「王女殿下、お窓は閉めていただいた方が」
馬車の外から、護衛騎士団長のバルドが声をかけた。
五十を過ぎたベテランの騎士で、
白髪交じりの顎鬚が年輪を語っている。
「少しくらい構わないでしょう、バルド卿。
民に顔を見せるのも王族の仕事です」
「…ご意志はよく分かりました。
ですが帝国まで半年の旅。今から無用なお体の疲労は」
「心配性ね」
アリアーヌは微笑みながら窓を閉めた。
バルドのことは嫌いではない。
ただ、彼の心配はいつも少しだけ多すぎる。
馬車は百台を超える大行列だった。
護衛騎士団だけで三百名。
さらに魔法師団、補給部隊、外交官一行を加えれば、
総勢五百名にも上る。
三種族会議への出席という王国の威信をかけた
一大外交任務であるから、
これでも必要最低限だとバルドは言った。
そしてその列の末尾近く、
少しだけ他の集団から距離を置いて進む一団がいた。
勇者パーティー。
リーダーは若き勇者グレイン。
金髪に蒼い眼、長身で整った顔立ちを持つ
二十二歳の青年だ。
神殿に認定された「勇者」の称号を持ち、
王国中の者が彼の名を知っている。
「グレイン様、また馬車を断られたんですか」
仲間の一人、回復術師のライラが呆れた顔で言った。
「馬車に乗ってどうする。俺たちは戦士だ。
常に鍛えていなければ意味がない」
グレインは歩きながらそう返す。
鎧の重さも、長距離行軍も、彼にとってはすべて訓練だ。
その言葉に嘘はない。彼は真剣だった。
「まあまあ」
もう一人、斥候のセルがにやりと笑う。
「どうせ三ヶ月は平和な旅さ。
退屈すぎて逆に体がなまりそうだけどな」
その言葉が、やがて恐ろしい形で裏切られるとは、
この時の誰も知らなかった。
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## 第二章 三ヶ月目の空
旅は順調だった。
山を越え、川を渡り、
大森林の南端を回り込むように進んだ。
各地の街では宿を借り、民との交流を持ちながら、
一行は着実に帝国との国境へと近づいていった。
アリアーヌは馬車の中で書物を読み、
外交官たちと会議の想定問答を繰り返した。
三種族会議は容易ではない。
エルフは人間の短命さと貪欲さを嫌い、
ドワーフは表面では愛想よくしながら
自国の利益に極めて敏感だ。
そこに人間の王国が対等な立場として臨むには、
相当の準備と知識が必要になる。
「王女殿下は、いずれは外交を」
と外交官の老人が言ったことがある。
「第一王女でも第二王女でもなく、
今回、陛下が殿下をご指名なさったのは、
そういうことかと」
アリアーヌは何も答えなかった。
ただ静かに、次のページをめくった。
三ヶ月が経ったある昼下がり。
一行はレンガ色の岩山が連なる山岳地帯を
抜けようとしていた。
空は晴れていたが、高い峰の向こうから時折、
生暖かい風が吹き込んでくる。
斥候の一人が馬を返してきたのは、その時だった。
「異常あり! 上空、多数の影!」
見上げた者たちは息を呑んだ。
空が、動いていた。
翼を広げた巨大な生物が、
峰の向こうから次々と姿を現している。
一匹、二匹……十匹、二十匹。
数えることを諦めた者もいた。
飛竜だ。
体長十メートルを超えるものもいる。
鱗は深い赤と黒が混じり合い、
陽光を浴びてぬめるように光っている。
翼が風を打つたびに低い轟音が響き、
馬たちが恐慌に陥って暴れ始めた。
「全員、防衛陣形!」
バルドの怒声が飛んだ。
騎士団が素早く動き、馬車を円形に囲む。
魔法師団が詠唱を始める。弓兵が矢をつがえる。
だがそれを見ながら、バルドは内心で理解していた。
数が、多すぎる。
飛竜は一匹でも精鋭騎士十名を相手にできる。
それが今、空を埋め尽くすほどいる。
訓練された兵士でも、
これほどの絶望は味わったことがなかった。
「グレイン!」
アリアーヌが馬車から声をかけた。
「分かってます!」
グレインはすでに長剣を抜いていた。
仲間に目配せし、走り出す。
彼の実力は本物だ。
魔法と剣技を組み合わせた戦法で
飛竜の一匹に跳びかかり、
翼の付け根に深く剣を叩き込んだ。
飛竜が天に向かって叫ぶ。
しかし他の飛竜は止まらない。
炎の息が馬車を一台、なめるように焼き払った。
騎士が三名、空に舞い上がったと思った次の瞬間、
地に叩きつけられた。
魔法師団が氷と雷を放つが、飛竜の鱗は厚い。
傷はつくが、倒れない。
「くそっ……!」
グレインが歯を食いしばる。
四匹を相手に後退を余儀なくされながら、
彼は初めて「勝てない」
という言葉が頭に浮かぶのを感じた。
アリアーヌは馬車の中で状況を把握していた。
騎士団は消耗している。
魔法師団は弾切れに近い。
グレインたちがどうにか数匹と対峙しているが、
それで手が精一杯だ。
あと数分で、この護衛集団は崩壊する。
どうすれば。
必死に考えながら、
アリアーヌは馬車の窓から外を見た。
その時、岩山の稜線に、一つの人影を見た。
荷物をひとつ背に負い、
ゆったりとした旅人の格好をした男。
年は二十代後半か。
濃紺の外套が風に揺れている。
男は空の惨状を見て足を止め、
無表情のまま状況を観察していた。
岩山の稜線に立つ人影を見た瞬間、
アリアーヌの体は動いていた。
頭で考えるより先に、足が走っていた。
「レン!」
男が振り返る。
記憶の中と変わらない、無表情な顔。
濃紺の外套。静かな目。
「……久しぶりだな」
「久しぶりって……三年ぶりよ!」
「そうか、三年か」
「覚えてた?」
レンは少し間を置いた。
「覚えている」
それだけだった。
それだけで、アリアーヌには十分だった。
空では飛竜が暴れ、騎士団が壊滅の瀬戸際にある。
助けを求めなければならない。それは分かっている。
分かっているのに、アリアーヌは一瞬だけ、
それより先に思ってしまった。
(会えて、よかった)
「お願いがあるの」
「飛竜を、どうにかして下さい」
レンは、アリアーヌを見て少し眉を動かした。
「……また面倒な場面に出くわした」
「また、って失礼ね。
でも今はそれどころじゃないの。」
「見れば分かる」
レンは静かに言った。
空を一瞥する。
数を数えているのか、
それとも別の何かを確かめているのか、
その目は静かで、深かった。
「何匹いると思う?」
「えっ? そ、そんな数えてる場合じゃ……」
「三十七匹だ」
答えてから、レンは背の荷物を岩の上に置いた。
外套の袖をゆっくりと捲り上げる。
「分かった。やってみる」
そしてレンは袖を捲り上げた。
その瞬間をアリアーヌは
ずっと覚えているだろうと思った。
英雄的な言葉もなく、大げさな構えもなく、
ただ静かに、腕を天に向けた男のことを。
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## 第三章 水は、天から落ちる
レンが右手を空に向けた。
それだけだった。
それだけしか、動かなかった。
次の瞬間、空が変わった。
晴れ渡っていた青空に、巨大な水の塊が現れた。
塊、という表現でも足りないかもしれない。
それはまるで、空に湖が出現したようだった。
膨大な水が虚空に凝集し、
翡翠色に輝きながら飛竜たちの頭上に広がっていく。
飛竜たちが気づいた。
本能的な恐怖で逃げようとする。
遅かった。
水が、落ちた。
滝などという生易しいものではない。
水の柱が空から降り注ぎ、
それぞれの飛竜を正確に捉えていった。
一匹、また一匹。水圧で翼が砕かれ、
巨大な体が岩山に叩きつけられる。
逃げようとする飛竜を水の壁が包み込み、
回転させ、地に沈める。
炎の息を吐こうとする飛竜の顎を水が抉じ開け、
内側から圧力をかける。
悲鳴があった。
竜の悲鳴だ。
あれほど人間を圧倒していた存在が、
水の前に藻掻いていた。
一分も経たなかった。
空は再び青く、静かになった。
三十七匹の飛竜は、岩山の各所に横たわっていた。
死んではいない。
ただ、戦う意志を完全に失い、
翼を畳んで動けなくなっていた。
水で急所を締め上げ、意識だけを奪う。
殺すより遥かに難しい制御だ。
騎士団は沈黙していた。
魔法師団も。
勇者パーティーも。
誰も声を発しなかった。
言葉が、出なかった。
グレインは剣を持ったまま立ち尽くし、
自分が格闘していた飛竜が音を立てて倒れるのを見ていた。
彼の胸の中にあったのは、感謝よりも先に、
圧倒的な「差」の実感だった。
一人で。一分で。三十七匹を。
俺たちが全力で四匹に手こずっていた間に。
「……化け物か」
セルが呟いた。それが正直な感想だった。
レンはすでに袖を戻していた。
荷物を拾い上げ、アリアーヌの方を向く。
「負傷者は?」
「え……あ、はい。何名か……」
「水は消毒に使える。
外科的な処置が必要なものは分からないが、
傷口を洗うくらいはできる」
そう言って、レンは騎士団の方へ歩いていった。
英雄的な台詞もなく、感動を求めるような間もなく、
ただ淡々と。次の仕事に移るように。
アリアーヌはその背中を見ながら、
胸の奥で何かが温かくなるのを感じた。
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## 第四章 過去篇 奪還
―― あの夜、水が王女を連れ帰った ――
一 誘拐
それは、アリアーヌが十五歳の秋のことだった。
王都での祭の夜。街中が灯籠の明かりに彩られ、
笑い声と音楽が路地の隅々まで満ちていた。
アリアーヌはその夜、
初めて護衛を振り切って城を抜け出した。
理由は、単純な好奇心だった。
窓から見下ろすだけの祭に、
一度でいいから民と同じように紛れ込んでみたかった。
平民の服を借り、髪を結い直し、一人で城の裏門を出た。
あの時の胸の高鳴りは今でも覚えている。
だが喜びは長続きしなかった。
人混みの中で、アリアーヌは誰かに腕を掴まれた。
気づいた時には布で口を塞がれ、
路地裏に連れ込まれていた。
意識が遠のく前に見えたのは、黒装束の男たちと、
遠ざかっていく灯籠の光だった。
目を覚ました時、アリアーヌはどこかの地下室にいた。
石造りの壁。鉄の扉。窓はない。
明かりは壁に刺さった松明が一本だけで、
揺れる炎が影を踊らせていた。
手首には魔法封じの枷がはまっていた。
王族はみな、多少の魔法素養を持つ。
それを封じるための道具だ。
わざわざ用意していたということは、
これは計画的な誘拐だと直感した。
「目が覚めたか、第三王女殿下」
扉の前に男が立っていた。
五十がらみの、上質な服を着た男だった。
貴族か、それに近い立場の者だろう。
顔に見覚えはなかった。
「貴方は誰?」
「名乗る必要はない。
ただ、おとなしくしていれば命に別状はない。
殿下には交渉の道具になっていただく。それだけだ」
「……王国に何を要求するつもり?」
「賢いお嬢さんだ」男は薄く笑った。
「それも追って分かる」
扉が閉まった。
アリアーヌは深く息を吸った。
震えていた。恐ろしかった。
だがここで泣いても何も変わらない。
現状を把握しなければ。
どこに連れてこられたか。
何人いるか。
外への道は。
枷を試みに引いた。びくともしない。
魔法は使えない。走って逃げるには扉が重すぎる。
叫んでも厚い石壁の向こうには届かないだろう。
(詰んでいる)
その言葉が頭に浮かんだ時、
アリアーヌは初めて目頭が熱くなった。
二 奪還部隊
王城がアリアーヌの失踪に気づいたのは、翌朝だった。
侍女が空の寝室を見つけ、
衛兵が裏門付近で争った痕跡を発見した。
国王は激怒し、同時に蒼白になった。
護衛騎士団の精鋭三十名が即座に招集された。
「第三王女殿下を必ず取り戻せ。生きて。それだけだ」
バルドが指揮を執った。
手がかりを辿り、辿り、
街の外れの古い商館に繋がるまで、丸一日かかった。
「地下室に閉じ込められているとの情報があります。
護衛は二十名以上。魔法師も数名いる模様」
「強行突入するしかない」バルドは言った。
「時間をかければ移送される恐れがある」
奪還部隊の出発直前、一人の男が門の前にいた。
旅装束の、見慣れない男だった。
「冒険者か?」衛兵が誰何した。
「ああ。街に入ろうとしたら
物々しい雰囲気だったもので、何があったか聞いた」
男はそれだけ言った。
特別な表情もなく、感情も見えない。
ただ静かに立っていた。
バルドが歩み寄った。
「貴様、冒険者ギルドの者か?」
「フリーだ」
「名は?」
「レン」
「レンというのは冒険者としての名か?」
「本名だ」
バルドは男を上から下まで見た。
若い。二十代の前半だろう。目立った装備はない。
腰に剣もない。ただ背に荷物を一つ負っているだけだ。
だがその目に、何か引っかかるものがあった。
「戦えるか?」
「一応は」
「一応、ではこちらも困る。
精鋭の騎士が二十名以上いる場所に乗り込む。
死ぬかもしれない」
「そうか」
男は少し考えた。
「報酬は?」
「出る。後で話す」
「分かった。行こう」
それだけで、レンは奪還部隊に加わった。
バルドは内心首を傾けたが、人手は多い方がいい。
何より、あの目が気になった。
三 地下の戦い
商館に突入したのは夜だった。
正面班と裏口班に分かれ、同時に動く。
バルドが率いる正面班が扉を蹴り破った瞬間、
内部の護衛が動いた。
激しい戦闘が始まった。
騎士たちは精鋭だ。互角以上に渡り合っていたが、
敵の魔法師が厄介だった。
炎と雷が入り乱れ、建物の内部が戦場と化した。
「地下への階段はどこだ!」バルドが怒鳴る。
「こっちです!」騎士の一人が叫んだ。
だが階段の前には重厚な鉄扉があり、
魔法師が三名、それを守っていた。
炎の壁を張られては近づけない。
騎士が二人、弾き飛ばされた。
「くっ……」
バルドが苦い顔をした時、隣にいたレンが一歩前に出た。
「退いてくれ」
「何をする気だ」
「水を使う」
バルドは一瞬躊躇したが、状況がそれを許さなかった。
騎士たちを下がらせた。
レンが手を上げた。
廊下の空気が変わった。
湿り気が急速に凝集し、
魔法師たちの周囲に水の膜が張り巡らされた。
炎の壁が一瞬揺らぎ、そして消えた。
水が炎を呑んだのだ。
魔法師たちが呪文を唱え直そうとした。
水が、彼らを包んだ。
溺れるような感覚を与えながら、
ただし傷はつけない絶妙な圧力で、
三名の魔法師は数秒で膝をついた。
意識を失うか、戦意を失うか、どちらかだった。
いずれにせよ、立てなかった。
バルドは唖然としながら言った。
「……行くぞ」
地下への扉が、開かれた。
四 牢の前で
階段を下りた先、長い廊下があった。
護衛の兵が数名いたが、レンが水の壁で薙ぎ払った。
バルドたちが追いつく頃には、廊下の兵は全員倒れていた。
「あなたは一体……」騎士の一人が呟いた。
レンは答えずに廊下の奥の扉の前で止まった。
鉄の扉。重い錠前。
「鍵を探す手間は省こう」
レンが錠前に指を当てた。
水が鍵穴の内側に浸透し、凍結と融解を繰り返す。
金属が内部から変形し、数秒後、鍵穴が砕けた。
扉が開いた。
松明の光の中、石の壁を背にした少女がいた。
両手首に魔法封じの枷。汚れた平民服。乱れた栗色の髪。
だがその深緑の目は、恐怖よりも警戒の色が強く、
怯えてはいなかった。
「……王城の人間か?」
少女が聞いた。
声は、思ったよりもしっかりしていた。
「そうだ。お迎えに上がりました、殿下」
バルドが前に出て片膝をついた。
少女――アリアーヌは、騎士団長の顔を確認してから、
初めて体から力が抜けたような表情をした。
目の端に光るものがあった。だが泣かなかった。
「……バルド卿。遅かったわね」
「申し訳ございません」
「冗談よ。ありがとう」
その時、アリアーヌはバルドの後ろに立つ人物に気づいた。
騎士たちとは違う旅装束。若い。無表情。
「その人は?」
「街で出会った冒険者です。レンと名乗っています。
助力いただきました」
「……冒険者が、なぜ」
「成り行きで」
レンが短く言った。
アリアーヌはその答えに少し目を丸くし、
それから小さく笑った。
「成り行きで王女を助けるの?」
「困っている人間を助けるのに、肩書きは関係ない」
アリアーヌはしばらくレンを見た。
「枷を外してもらえる?」
「鍵は?」
「誘拐犯が持ってる」
「どこにいる?」
「地上のどこかに。五十がらみの、貴族風の男」
レンはバルドを見た。
バルドが騎士に目配せした。
「先に出ましょう、殿下。
男の確保は騎士たちに任せます」
アリアーヌは頷いて立ち上がろうとした。
その時、脚がふらついた。
一昼夜以上、ほとんど食事も水も与えられていなかった。
壁を背にして座り続けていた体は、思いの外こたえていた。
レンが無言で手を差し出した。
アリアーヌは一瞬だけその手を見た。それから握った。
「……ありがとう」
「階段がある。気をつけろ」
それだけだった。
感動的な台詞も、優しい言葉も、何もなかった。
ただ、手は確かに温かかった。
五 帰還
商館の外に出た時、夜空に星が出ていた。
街の明かりが遠くに見えた。
冷たい秋の空気が頬に当たり、
アリアーヌは思わず深く息を吸った。
「……外の空気って、こんなに美味しかったっけ」
誰に言うともなく呟いた。
「閉じ込められた後は特にそう感じるものだ」
レンが答えた。アリアーヌはちらりと隣を見た。
「あなたも閉じ込められたことがあるの?」
「一度だけ」
「どこで?」
「山の洞窟だ。三日間」
「一人で?」
「一人で」
「……怖くなかった?」
レンは少し間を置いた。
「怖かった。水はあったが、食い物がなかった。
三日目には壁の苔を食った」
アリアーヌはそれを聞いて、
少しの間黙ってから、静かに笑い出した。
「何がおかしい」
「ごめんなさい。
でも……あなたみたいな人でも、苔を食べるんだなって」
「苔は食べるだろう。生き残るためなら何でも食う」
「それが何か……少し、ほっとした」
「苔を食うとほっとするのか」
「あなたが人間らしいってことに、よ」
レンは返事をしなかった。
ただ歩き続けた。
その横でアリアーヌも歩いた。
枷はまだはまったままだったが、
空は広くて、星が多かった。
騎士団が周囲を固める中、
アリアーヌはこの無表情な男のことをじっと考えていた。
名前はレン。フリーの冒険者。
成り行きで人を助ける。苔を食ったことがある。
それ以外、何も知らない。
(でも、この人は絶対に逃げなかった。
地下室に向かっていった。なぜか、それだけは分かる)
王城の門が見えてきた時、アリアーヌはレンの袖を引いた。
「ねえ」
「何だ」
「報酬、ちゃんともらってね。
あなたがいなかったら、私まだあそこにいたと思うから」
「バルド卿に言ってくれ。俺は金額は指定しない」
「一つだけ、私からお礼を言わせて」
レンは足を止めてアリアーヌを見た。
アリアーヌは正面からその目を見た。
「助けてくれて、ありがとう。
あなたが来てくれて、本当によかった」
レンは少しの間、アリアーヌの目を見ていた。
それからそっと視線を外した。
「……城に入れ。体を温めろ」
「うん」
「それと何か食え。顔色が悪い」
「うん」
アリアーヌは微笑んだ。
レンはそれを見ずに歩き出した。
その夜、報酬を受け取ったレンは翌朝には王都を去った。
何も告げずに。
アリアーヌがそれを知ったのは昼を過ぎた頃で、
なぜかしばらく、窓の外を見続けていた。
(成り行きで、か)
胸の中で小さく繰り返した。
それ以来、その名前を忘れたことは一度もなかった。
三年前の地下室で、アリアーヌは恐怖より先に
「人の温かさ」を知った。
三年後の岩山で、レンは「成り行き」
と言いながら迷わず手を上げた。
二人の間には言葉にならない何かが積み重なっている。
それをレンはまだ、認めようとしていなかった。
## 第五章 離れる者と、残る者
夜営の焚火が幾つも灯された。
怪我人の手当てが終わり、
飛竜は岩山の奥へと散っていった。
レンが「同じ群れはもう来ない」と言い、
その言葉を誰も疑わなかった。
バルドがレンのもとへ来たのは、
夕食も終わった頃だった。
「礼を言わせていただく。
あなたがいなければ、
王女殿下を帝国へお連れすることは叶わなかった」
「大げさだ」
「いいえ」バルドは真剣な目で言った。
「私はこの仕事を三十年やっている。
何が大げさで何がそうでないか、分かっているつもりです。
……あなたは何者ですか」
「ただの冒険者だ」
「ただの冒険者があのような魔法を使えるとは思えない」
「世の中にはいろいろな人間がいる」
レンは焚火の前に座ったまま、短くそう言った。
バルドはしばらく沈黙し、
やがて深く頭を下げて立ち去った。
一方、勇者グレインはパーティーを集めていた。
「聞いてくれ」グレインは言った。
「俺は今日、自分の実力がどこにあるか思い知った」
「…グレイン」ライラが心配そうに呼んだ。
「悔しいとか情けないとか、そういう話じゃない。
ただ……俺はまだ、
本物の強さを知らないまま勇者と呼ばれていた。
それが恥ずかしい」
グレインは焚火の向こうに座るレンの横顔を見た。
「あの人は何も変わらない。
あれだけのことをしておいて、自慢もしない。
でかい顔もしない。ただそこにいる。
俺はあれを見て……まだ修行が足りないと思った。
本当の意味で」
「つまり」セルが首を傾けた。
「どうするんだ?」
グレインは答えた。
「俺たちは一度、この隊を離れる。戻って修行をやり直す。
王女殿下には申し訳ないが……
護衛は俺たちがいなくても成り立つと、今日証明された」
翌朝、グレインはアリアーヌのもとへ来た。
「勝手なお願いとは分かっています。ですが……」
「いいわ」
アリアーヌは静かに言った。
「あなたたちの気持ちは分かる。
むしろそう感じられるあなたたちを尊敬する。
行ってらっしゃい」
「王女殿下……」
「ただし」
アリアーヌは少し表情を緩めた。
「帰ってきた時に、もっと強くなっていること。約束して」
グレインは深く頭を下げた。
そしてパーティーは、静かに旅の列を離れていった。
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## 第六章 水使いと王女
一行の構成が変わった。
護衛騎士団と外交官一行はそのままに、
勇者パーティーの代わりに、
一人の男が同行することになった。
レンの同行については、アリアーヌが直接頼んだ。
「断る理由は?」とレンは言った。
「たくさんあるでしょうね。でも聞かせてもらえる?」
「…どこの国にも縛られたくない。それだけだ」
「護衛を頼んでいるんじゃないの。
一緒に旅をして欲しいと言ってるの」
レンは少し考えた。
「行き先は?」
「帝国。三種族会議の場所まで」
「帝国は行ったことがない」
「じゃあちょうどいいじゃない」
アリアーヌが微笑んだ。
レンは何も言わず、荷物を一つ担いで馬車の列に加わった。
それが答えだった。
馬車の中でアリアーヌがレンに話しかける。
レンは窓の外を眺めながら、短く答える。
「ねえ、三種族会議って知ってる?」
「名前くらいは」
「エルフとドワーフと人間が集まる会議。私が出席するの」
「王族の仕事だな」
「あなたはどう思う? 三種族の関係について」
レンはようやくアリアーヌの方を見た。
「難しい問いだ」
「難しい問いほど聞いてみたくなるものでしょう」
「……人間は欲が深い。エルフはそれを嫌う。
ドワーフは欲があるくせに、それを認めようとしない。
三者が集まっても、
本音では誰も本当の意味での共存を望んでいない。
そう俺は思っている」
「……じゃあ会議は無意味?」
「無意味ではない」レンは言った。
「集まること自体に意味がある。
本音を言わなくても、顔を合わせ続けること。
それが積み重なって、少しずつ距離が縮まる。
外交というのはそういうものじゃないのか」
アリアーヌは目を丸くした。
「…賢いのね」
「冒険者は世界中を歩く。
見ることが多ければ、考えることも多くなる」
アリアーヌはしばらく沈黙した。
窓の外を流れる草原を眺め、小さく呟いた。
「あなたといると、いろいろ考えさせられる」
レンは答えなかった。ただ再び窓の外に視線を戻した。
その横顔を、アリアーヌはこっそりと、
少しだけ長く、見つめていた。
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## 第七章 スルーの技術
夜、焚火を挟んで二人になる時間が増えた。
レンは火を見つめながら水筒を傾ける。
アリアーヌは膝の上に本を開いているが、
ほとんどページを捲っていない。
「レン、聞いてもいいこと?」
「内容による」
「なぜどこの国にも仕えないの?
あなたほどの力があれば、どこでも歓迎されるでしょう」
「歓迎されるから、仕えない」
「…どういう意味?」
「強い力を持った者が、強い組織に属した時、
その力は国のためではなく、
権力者の野望のために使われることが多い。
俺はそれが嫌だ」
「王国もそう思ってるの?」
「どこの国も、という話だ。
あなたの王国が特別に悪いとは言っていない」
アリアーヌは少し考えた。
「でも……一人でいることは、孤独じゃないの?」
レンは少し間を置いた。
「孤独を不便と思ったことはない」
「不便じゃなくても、寂しくはない?」
「…質問が変わったな」
「同じじゃないの?」
「違う」レンはきっぱり言った。
「孤独は状態だ。寂しさは感情だ」
アリアーヌは黙った。
それから静かに言った。
「私はあなたに会えた時、嬉しかった。
今日もそう。毎日そう」
レンは焚火を見たまま、答えなかった。
しばらく沈黙が続いた。
「……もう休んだ方がいい。明日も早い」
「……うん」
アリアーヌは本を閉じて立ち上がった。
その背中に向けて、レンは静かに付け加えた。
「よく眠れ」
それだけだった。それだけしか言わなかった。
アリアーヌは振り返らなかった。
ただ少しだけ、足を止めた。
それから静かに自分の天幕へと消えていった。
レンは一人、焚火の向こうに広がる夜空を見上げた。
星が多かった。
(王族とそういう関係になるつもりはない)
彼の中でその考えは変わらない。
変えるつもりもない。
だがなぜか今夜は、その考えを確認する回数が、
いつもより少し多かった。
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## 終章 帝国の門前にて
帝国の国境に差し掛かった日の朝、
アリアーヌは馬車から降りて空を見上げた。
国境の山脈が赤く染まり始めた頃、
並んで立ったレンが言った。
「あと三ヶ月だ。帝国を越えれば、会議の場所に着く」
「ええ」
「…緊張しているか?」
アリアーヌは少し驚いた顔をした。
レンが自分の内面を聞いてくることは、珍しかった。
「少し。でも……不思議と大丈夫な気がする」
「なぜ?」
「隣にいる人が、飛竜を三十七匹倒した人だから」
レンは何も言わなかった。
「冗談よ」とアリアーヌは笑った。
「本当は……あなたが話してくれることが、
ずっと力になってるの。旅の間じゅう」
レンはアリアーヌを見た。
その目が、少しだけ柔らかくなった気がした。
「……会議、うまくやれ」
「うん」
馬車の列が再び動き出した。
並んで歩く二人の間に言葉はない。
ただ、距離は昨日より少しだけ、近かった。
レンはそれに気づいていた。
気づいていながら、今日はスルーしなかった。
ただ黙って、隣を歩いた。
それが今のレンに、できる精一杯だった。
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**―― 完 ――**