またまた昭和っぽいお話です

これも8割位は自分の実体験を元にしています

 

 

# 浮き輪と白い病室と、ガンダム

## 一

新潟の夏は、東京とは違う匂いがした。

潮と松と、
祖母が庭先で干す洗濯物の柔軟剤が混ざったような、
そういう匂いだ。
僕は毎年夏休みになると、
両親に連れられて新潟の祖父母の家に帰省した。
家から徒歩十分ほどのところに海があって、
祖父はよく麦わら帽子を被り、
僕の手を引いて砂浜まで歩いてくれた。

問題は、僕が泳げないことだった。

小学五年生になった今も、それは変わらなかった。
波打ち際で膝まで浸かるのが精いっぱいで、
少し深いところへ行こうものなら足がすくんで、
心臓が縮み上がった。
だから僕には浮き輪が欠かせなかった。
黄色くて丸い、空気を目いっぱい入れた浮き輪。
それを脇の下に挟んでいないと、海に入れなかった。

祖父は何も言わなかった。
ただ隣で静かに海を眺めていた。

祖母は砂浜のパラソルの下から
「涼太ー、気をつけてねえ」と声をかけてくれた。
その声が波の音に紛れていくのを聞きながら、
僕は浮き輪にしがみついて、
ただぷかぷかと揺れていた。

---

九月が近づいたある日、
担任の片桐先生から手紙が配られた。

*夏休み明け、プール学習補講のご案内。
二十五メートルを泳げない生徒は強制参加となります。*

胃が重くなった。

クラスの半分以上はすいすいと泳いでいたし、
もちろん僕のような生徒のための補講だということは、
手紙を読んだ瞬間にわかった。
情けなくて、
その日の夜は布団の中でずっと天井を見ていた。

補講は八月の後半から始まった。

参加者は十人ほど。
みんな一様に気まずそうな顔をしていた。
コーチ役を買って出た体育の小山先生は、
怒鳴ったりしない、穏やかな人だった。

「焦らなくていい。
水を怖がらなくなるところから始めよう」

毎日プールに通った。
バタ足を繰り返して、息継ぎを練習して、
水を飲んで咳き込んで、また泳いだ。
少しずつ、本当に少しずつだったけれど、
体が水に馴染んでいくのがわかった。

そして補講最終日。

僕はついに、二十五メートルを泳ぎ切った。

壁に手が届いた瞬間、
プールサイドで小山先生が拍手をしていた。
水を顔から拭いながら立ち上がると、
胸の奥に温かいものがじんわりと広がった。
やれた、という感覚。
浮き輪なしで、自分の力だけで、二十五メートル。

プールから上がって着替えていると、
腹の右下のあたりがじんわりと痛んだ。

最初は疲れかな、と思った。

だが廊下に出たとき、その痛みが急に牙を剥いた。

鋭い、刃物のような痛みが腹の内側を突き刺した。
思わず壁にもたれかかり、膝が折れた。
顔から血の気が引いていくのがわかった。

保健室に運ばれて、先生が両親に電話をかけた。

父が学校に着いたとき、
僕はすでにまともに歩けなかった。
父は何も言わず、しゃがんで背中を向けた。
僕は父の背中にしがみついた。
夏の終わりの生ぬるい風の中、
僕は父におぶさって家に帰った。
小学五年生にもなって、と思う気持ちもあったけれど、
それよりも痛くて、
そんな恥ずかしさはどこかへ消えていた。

---

病院での診断は、虫垂炎だった。

「炎症が進んでいますね。
手術が必要です」と医師は淡々と言った。

手術。

その言葉が頭の中で反響した。
生まれてから一度も手術なんてしたことがない。
注射だって大嫌いで、
予防接種の前の日は必ず眠れなかった。
それなのに手術なんて。

入院の手続きをしながら、
母が「大丈夫よ」と言った。
その声が少し震えていたのを、
僕は聞き逃さなかった。

手術は翌朝だった。

手術台に横になると、天井のライトが白く眩しかった。
麻酔は全身麻酔ではなく、局所麻酔だと説明された。
脊髄に注射を打つのだと聞かされたとき、
看護師さんの手をぎゅっと握った。

「少し痛いですよ」という声のあと、
背骨の奥深くに何かが刺さる感覚があった。

痛い、という言葉では足りなかった。

それは痛みというより、
自分の芯を直接触られているような、
言葉にならない感覚だった。
思わず声が漏れると、
看護師さんが「もう少しで終わりますよ」と囁いた。

やがて腰から下の感覚がなくなっていった。

顔の上にタオルがかけられた。
視界が暗くなった。
意識はある。痛みはない。
ただ天井と、タオルの白さだけがあった。

医師たちの話し声が聞こえた。
器具の金属音が聞こえた。

そのとき、タオルがほんの少しずれた。

ほんの、一センチほどの隙間。

でもそれで十分すぎた。

白い手術着を着た医師の手が、
僕の腹の中に入っているのが見えた。

視覚と、感覚の間に、巨大な断絶があった。
腹に手が入っているのが見えるのに、何も感じない。
自分の腹が開いているのが見えるのに、
それが現実のこととは思えなかった。
でも確かに見えた。血が、見えた。

「ああっ」

叫んだのか、声が出たのかもわからない。
体を動かそうとした。逃げようとした。

すぐに複数の手が僕の体を押さえた。

肩を、腕を、足を。

「動かないで!」という声が飛んだ。

でもタオルはずれたままだった。

僕はそのまま、手術が終わるまで
、自分の血だらけの腹を見続けた。
目を閉じることもできなかった。
ただ見ていた。
震えながら、泣きながら、見ていた。

## 二

病室は六人部屋だった。

窓際のベッドで、白いカーテンを引くと外に木が見えた。
蝉の声が聞こえた。

手術は無事に終わった。
傷は思ったよりも痛かったけれど、
少しずつよくなっていった。
それよりも辛かったのは、毎日の注射だった。
朝になると決まって看護師さんがやってきて、
腕に針を刺す。
わかっているのに慣れなかった。
注射を待つ時間が、一日の中で一番嫌いな時間だった。

退屈といえば退屈だった。

学校は始まっていた。
友達は教室にいる。
自分だけがこの白い部屋にいる。
窓の外の木を眺めながら、
そういうことをぼんやりと考えた。

そんな僕を見かねたのか、
祖父母と両親が次々と差し入れを持ってきてくれた。
ゼリーや果物、それから漫画雑誌。

少年マガジン、少年サンデー、少年チャンピオン……
いろんな雑誌がベッドサイドの棚に積み上がっていった。

その中に、一冊、見慣れない雑誌があった。

表紙に、少年が描かれていた。

髪の色が、緑から黄色へ、
まるで夏草が光を受けたような
グラデーションで染まっていた。
整った顔立ちで、
どこか遠くを見ているような目をしていた。
タイトルは「少年キング」。

*超人ロック、連載スタート!*

という文字が帯に踊っていた。

読み始めたら、止まらなかった。

ロックは超能力者だった。
何百年も生き続ける、孤独な超能力者。
宇宙を舞台に、時代を渡り歩きながら、
様々な人間と出会い、戦い、別れていく。
絵は繊細で、
コマの端まで宇宙の静寂が満ちているようだった。

こんな漫画があったのか、と思った。

熱が出たわけでもないのに、
体の中心がじんわりと熱くなるような感じがした。
ロックが好きだと思った。
この漫画が好きだと思った。

あとで知ったことだが、
この「超人ロック」はもともと同人誌として
描かれていたものが商業誌に初めて連載されるという、
その記念すべき第一号だったらしい。
僕は知らずに、
その最初のページから読み始めていたことになる。

---

病室のテレビは、
百円を入れると一時間だけ見られる仕組みだった。

硬貨を入れると画面がぱっと明るくなって、
時計のような表示がカウントダウンを始める。
一時間なんてあっという間に過ぎた。

学校では「ザ・ウルトラマン」が
流行っていると友達から手紙をもらっていた。
僕も毎週欠かさず見ていた。
ウルトラマンが変身するシーンは
何度見てもかっこよかった。

ある夕方のことだった。

まだ少し時間が残っているからと、
ベッドの上でぼんやりしながらテレビをつけた。

画面に映ったのは、知らないアニメだった。

宇宙だった。
でも明るくない宇宙じゃなくて、
戦争をしている宇宙だった。
大きなロボットが爆発する炎の中に立っていた。

*機動戦士ガンダム*

テロップにそう書いてあった。

最初の五分で、引き込まれた。

ロボットがかっこいいとかそういう話ではなかった。
戦争があって、巻き込まれた少年がいて、
戦わなければならない状況があって、人が死んで、
それでも生きていく話だった。
十一歳の僕には全部は理解できなかったと思う。
でも画面から目が離せなかった。

気がつくと、百円分の時間が終わっていた。

翌週も見た。その翌週も見た。

病室で過ごす木曜日の夜が、急に楽しみになった。
アムロが戦い、シャアが笑い、
ランバ・ラルが「これがモビルスーツの戦いか」
と言うシーンを、
白いカーテンに囲まれたベッドの上でひとり見ていた。

## 三

九月の下旬、やっと学校に戻れた。

久しぶりの教室は、少しだけ遠い場所のように感じた。
席に座ると、いろんな人が「大丈夫だった?」
と声をかけてくれた。

休み時間になると、教室はいつものように賑やかになった。

「ウルトラマンのさあ、先週のやつ見た?」

「999の先週の話、やばくなかった?」

メーテルの話、ウルトラマンの話、
あちこちから声が聞こえてきた。

僕はそういう輪の中に入りながら、ふと言ってみた。

「ガンダム、見てる人いる?」

しばらく間があった。

「ガンダム?」

「なにそれ」

「聞いたことない」

みんな首を傾げた。

そうか、と思った。
病室でひとりで見ていたあの土曜日の夕方、
あの感動は、ここでは誰とも共有できないんだ。
面白いのに。
本当に面白いのに。

少し残念に思いながら、
放課後、僕は鞄を持って廊下に出た。

「おい」

声をかけられて振り返ると、二、三人が立っていた。

一人は黒田だった。
足が速くて、運動会ではいつもリレーの選手だった。
もう一人は西村で、サッカーが上手くて
クラスの誰とでも話せるような、
そういうタイプの男だった。
二人ともクラスの中心にいる人間で、
僕みたいな地味な生徒と話すような場面は、
今まで一度もなかった。

「お前、さっきガンダムって言ってたよな」

黒田がまっすぐに聞いてきた。

「……うん。入院中に見て」

「毎週見てる?」

「見てる」

黒田と西村が顔を見合わせた。
そして二人同時に、にっと笑った。

「ガンダム最高だろ」と黒田が言った。

「でもさ、学校だとこの三人しか知らないんだよ。
話せなくてさ」

三人、という言葉に気づいた。
黒田と西村ともう一人——少し後ろに立っていた橋本が、
小さくうなずいた。

「俺、病院でたまたまつけたら、ハマっちゃって」

「マジで?それ何話から見たんだよ」

「えっと、ジャブローの話のあたりから……」

「あそこいいよな!」

一気に話が始まった。

廊下の窓から夕日が差し込んでいた。
どこかの教室から先生の声が聞こえていた。

僕と黒田と西村と橋本は、四人で立ったまま、
ガンダムの話をした。
シャアはなぜあんなにアムロを狙うのか、
ジオンと地球連邦はどっちが悪いのか、
ガンダムとズゴックが戦ったらどうなるか。

気づいたら、
廊下の向こうの窓が赤く染まっていた。

他のクラスメイトが帰り際にちらちらとこちらを見ていた。

クラスで一番目立つ黒田たちと、地味な僕が、
なぜか笑い合っている。
その光景は、確かに奇妙に映ったかもしれなかった。

でも僕にはそんなこと、どうでもよかった。

新潟の海で浮き輪にしがみついていた夏が終わって、
プールで二十五メートル泳いで、腹を切って、
病室でロックに出会って、ガンダムに出会って、
そして今、同じものが好きな人間と並んで喋っている。

それだけで十分だと思った。

それだけで、この夏はもう充分だった。

---

後になって気づくことがある。

人生の中で、本当に大切なものと出会う瞬間は、
大抵、計画の外にある。

手術の痛みがなければ、あの病室に入ることもなかった。
入院しなければ、夕方のテレビを
何気なくつけることもなかった。
ロックにもガンダムにも、出会わなかった。

そして黒田たちとも。

 

ガンダムはこの後、徐々に人気が出て

年末には世間の話題の中心になっていたが

その事をあの時の僕たちはまだ知らなかった。

浮き輪を手放した夏の終わりに、
僕はそういうものをいくつか、手に入れた。
 

前回 自分の実体験を元にした

昭和なお話を作った事で

また昭和なお話を作りたくなりました

これは7割くらい実際にあったお話です

 

 

# ガラスの夜に

### 1988年、冬

バブルという言葉が、
まだ自分たちには実感を伴わなかった。

テレビをつければ株価が上がっただの
ゴルフ会員権が売れただの、そういう話ばかりだったが、
寮に住んで月に五万のバイト代で暮らしている俺には
対岸の話だった。
それでも街の空気は確かに浮ついていて、
吉祥寺のサンロードを歩けば、
肩パッドの入ったコートを着た女性たちが、
どこかに急ぐように歩いていた。

十二月二十五日。

午後八時を過ぎた頃には、
その人波もずいぶんと薄くなっていた。

アーケードの天井に飾られたイルミネーションが、
冷えた空気の中でやけに白々しく光っている。
今年はやたらとイルミネーションが派手だった。
街ごとバブルで着飾っているみたいに。

俺は隣に立つ田中を横目で見た。
田中も同じように、行き交うカップルの背中を眺めていた。
目が合うと、お互い苦笑いした。言葉はいらなかった。

「もう無理だろ?」

俺が言うと、田中は少しだけ肩の力を抜いて、

「……だよな」

と答えた。

思えば今日だけで何人に声をかけたろうか。

俺は元々、人と話すのが得意ではない。
好きなものといえばアニメと漫画とバイク。
今年は「鎧伝サムライトルーパー」と
「シティハンター2」にどれだけ時間を
溶かしたか分からない。
サムライトルーパーは春から始まって
毎週欠かさず見ていたし、
シティハンターの2になってからも
冴羽獖のモッコリ話で友人と盛り上がっていた。
愛車はヤマハのFZR250で、
それだけが本当に自慢できるものだったが、
女性にその話をしても「ふーん」で終わる。
「最近何か見てますか」と聞けば向こうは
「男女7人冬物語とか……」と言う。
さんまと大竹しのぶか。
そこで俺の語彙は完全に尽きる。

それでも先輩たちの命令は明確だった。
「必ず一人は連れて来い」。
別に今日急に言われたわけじゃない。
ずっと前から言われていた。
寮というのはそういうところで、上下関係は絶対で、
理不尽も込みで受け入れるのが当たり前だった。
当時はそれが普通だと、全員が思っていた。

だから俺なりに頑張ってきたつもりだ。

一番長く話せたのは、あの人妻だった。
三十代くらいだろうか、おっとりした笑顔の人で、
俺のぎこちない話にも根気よく付き合ってくれた。
FZR250の話をしたら「かっこいいですね」
と言ってくれて、俺は内心で舞い上がっていた。
が、しばらくして左手の薬指に光るものを見てしまった。
その瞬間の、胸の中がすうっと冷えていく感覚を、
俺はまだ覚えている。

結局、まともに会話できたのはその人だけだった。

---

俺たちは覚悟を決めて、
先輩たちが貸し切っているスナックへ向かった。

駅の近くの、雑居ビルの二階。
細い階段を上がると演歌と
タバコの煙が混じった空気が降りてきた。
八人掛けのカラオケボックスではなく、
カウンターとボックス席があって、ママがいて、
そういう昔ながらのスナックだ。
カラオケといっても、
まだレーザーディスクで映像が流れるやつで、
機械の前に分厚いカタログ本が置いてある。

扉を開けると、先輩たちの笑い声が飛び込んできた。

俺と田中は無言で顔を見合わせ、
それからほぼ同時にその場に膝をついた。

「すみませんでした」

「連れてこれませんでした」

床に額が触れるかという角度で頭を下げると、
先輩たちはしばらく沈黙して、それから笑い崩れた。

「しょうがねえな。じゃあ何か歌え!」

田中と俺は顔を見合わせ、
ほとんど同時に同じ曲が浮かんだ。

今年、何度テレビで見たか分からない。
ローラースケートを履いた少年たちが、
あのイントロで滑り出してくる映像が
脳裏に焼きついている。

マイクを握って、俺たちは歌った。

光GENJIの「ガラスの十代」。

ほとんどヤケだった。
感情を込める余裕もなく、ただ声を張り上げた。
田中のほうが音程は外れていたが、
俺もたいして変わらなかった。
先輩たちはゲラゲラ笑いながらも手拍子を打ってくれた。
レーザーディスクの画面では内海光司と
諸星和己が笑顔でターンを決めていた。
その手拍子が、妙にありがたかった。

---

スナックを出たのは十一時を過ぎた頃だった。

「いつものプールバーに行くか」

俺が言うと、田中は黙ってうなずいた。

今年の夏に「カクテル2」が封切られてから、
吉祥寺にもビリヤードバーが急に増えた。
トム・クルーズがカウンターで
シェイカーを振る映画の続編だが、
なぜかビリヤードのシーンが妙に格好よくて、
それから街のあちこちに台が置かれるようになった。
バブルの金が、そういう洒落たものを一気に広げていく。

吉祥寺の駅近く、地下に降りていくプールバーがある。
新しく出来た店は内装も明るくてドリンクも高いが、
ここは古くて薄暗くて安い。
深夜になると客はほとんどいない。
俺と田中は二人でよくここへ来ていた。

コインを入れてボールをセットする。
チョークをキューの先に塗る。
その一連の動作が、妙に落ち着く。

ブレイクショットの音が地下に響いた。
ボールが散らばり、一つが沈む。

俺は次のボールを狙いながら、
今日のことを頭の中で巻き戻していた。

街はこんなに浮かれているのに、俺には彼女一人いない。

バブルの恩恵は株と土地と、
あとはディスコで踊れる人間たちのものだ。
木場や六本木のディスコに繰り出せるような
陽気さが俺にはなかった。
そういう場所が根本的に向いていない俺は、
今夜もサムライトルーパーの録画でも
見たほうがよかったのかもしれないと、
半分本気で思っていた。
遼たちは鎧を纏って戦っているのに、
俺は吉祥寺のアーケードで砕け散っていた。

いつかできるのかな、彼女。

半分、諦めに似た何かが頭の中を静かに満たしていく。

田中を見る。

彼は無言でキューを構えていた。
三ヶ月前、あいつはスナックの外で電話を受けていた。
——電話といっても公衆電話だ。
テレフォンカードで話す田中の顔が、
街灯の下でみるみる青ざめていくのを、
俺は外から偶然見てしまった。
遠距離の彼女から、浮気を告げられたのだという。
携帯電話などない時代、
遠距離恋愛は公衆電話とテレカと手紙でつなぐしかない。
そのぶん別れも、突然やってくる。

その後、俺たちは朝まで飲んだ。
田中は何度も同じ話をした。
俺はただ聞いていた。
気の利いた言葉なんて、一つも出てこなかった。

田中のほうが、ずっとつらいだろうな。

「外れた」

田中が小さく毒づいて、キューを俺に渡した。

俺はボールを打ちながら、ふと上を向く癖がある。
薄暗い天井を見て、その向こうの夜空を想像する。

思い出すのは、高校の頃に好きだった子の笑顔だ。
眼鏡をかけた、すらりと背の高い子で、
星座が好きだった。
冬の夜に「あれがオリオン座で」
と嬉しそうに指を差す横顔が、
今でも妙にはっきりと思い出せる。
天文部の子だった。
俺はアニメや漫画の話しかできなくて、
結局一度もまともに話しかけられなかった。
シティハンターの冴羽獖みたいに
気の利いたセリフが言えたなら、
と何度思ったか知れない。
ただそれを切っ掛けに星やギリシャ神話が好きになった

あの子は今頃、付き合っている先輩と一緒にいるんだろう。

クリスマスだから。

きっとどこかの洒落たレストランで向かい合って、
ワインでも飲んでいる。
バブルのクリスマスはそういうものだと
雑誌には書いてある。
ANANやnonnoがどこのレストランがいいだの、
プレゼントには何がいいだの、そういう特集を組んでいた。

俺はそれをコンビニで立ち読みして、そっと棚に戻した。

俺は打ったボールが外れるのを眺めながら、
静かにキューを田中に渡した。

地下室には俺たちの他に客がいなくて、
球が転がる音だけが響いていた。
有線から流れる山下達郎の声が、
遠く、小さく聞こえていた。

「なあ」と田中が言った。

「来年は、もうちょっとマシになるかな」

俺はすぐには答えなかった。

外は昭和六十三年の、最後の冬だ。
来年になれば元号が変わるかもしれないという噂が、
ずっと前からくすぶっている。
街も時代も変わっていく。

でも俺たちは変わるのだろうか。

「まあ」と俺はやっと言った。

「なるんじゃないか。知らんけど」

田中は少し笑った。俺も少し笑った。

まだ二十一だ。
人生はまだまだこれからのはずだ。
——頭ではそう思う。
でも今夜の冷たい地下の空気と、
二人で歌ったガラスの十代と、
山下達郎の歌声は、きっとずいぶん長いこと、
俺の記憶の底に沈んでいるような気がした。

沈んだままで、ずっと光り続けるもののように。

---

*翌年の一月七日、
昭和天皇が崩御され、元号は平成に変わった。*
*バブルが弾けるのは、もう少し先のことだった。*



 

このお話は7割くらい

実際に現実にあった事です 苦笑

 

 

# セル画の夢、現実の奇跡

## 第一章 アニメという王国

 田中誠一が生まれた1968年、
日本はまだ高度経済成長の余韻の中にあった。

 物心ついた頃から、誠一の目はテレビに釘付けだった。
『マジンガーZ』のブレストファイヤー、
『宇宙戦艦ヤマト』の波動砲、
『ルパン三世』のあの軽やかな身のこなし
——画面の中の世界は、
現実のどんなものよりも鮮やかで、
広大で、自由だった。

 小学校の教室は、誠一にとって楽園だった。

「昨日のガンダム見たか?シャアがよ——」

「見た見た!アムロがさ——」

 休み時間になれば誰もが輪になった。
話題の中心は決まってアニメか、
それに連動したプラモデルや超合金だった。
誠一は自分が世界の中心にいるような気がしていた。
アニメを愛することは、
空気を吸うことと同じくらい当たり前のことだった。

---

## 第二章 変わる教室、変わらぬ自分

 中学校の門をくぐった春、
誠一は最初に違和感を覚えた。

 廊下で聴こえてくるのは、
松田聖子の歌声についての話だった。
教室では、どのアイドルが好きか
という議論が白熱していた。
男子の間ではオーディオの話
——どこのスピーカーが音がいい、
ソニーのウォークマンを買った
——そういう会話が幅を利かせていた。

 アニメの話をすると、
相手の顔に薄い膜が張ったようになった。

「え、まだアニメとか見てんの?」

 その「まだ」という一言が、
誠一には不思議でならなかった。
まだ、とはどういう意味だ。
やめなければならない理由が、どこにある?

 気づけば誠一の周りに残ったのは、二人だった。

 一人は坂本徹——細身で眼鏡をかけた、
いかにも線の細い男だった。
声は小さく、目立たず、
クラスの端に影のように存在していた。
誰もが「陰キャ」と呼ぶような男だったが、
『機動戦士ガンダム』の設定資料を
暗記するほどの情熱を持っていた。
もう一人は西村勝——やたらと早口で、
アニメの主題歌を授業中にも鼻歌で歌って
教師に叱られるような男だった。

 三人でいると、世界が少し息をした。

 だが外から見れば、
その三人組は「異常な集団」だった。

「あいつら、またアニメの話してるよ」

「中学生にもなって、ガキじゃないの」

 生徒だけではなかった。
担任の佐々木教師は、三者面談で誠一の母親にこう言った。

「田中くんは精神的な成熟が
やや遅れているように見受けられます。
アニメへの執着は、その表れかもしれません」

 誠一の母親は青ざめ、
その夜、食卓でテレビのアニメを消した。

「お前もいい加減、卒業しなさい」

 卒業。その言葉が誠一の胸の奥で小さな火を灯した。
どうして成長することが、
好きなものを捨てることと同義なのだ。

---

## 第三章 馬鹿にする声と、それでも続く日々

 徹には、周囲から「彼女」と言われている女子がいた。

 桐島里奈——ショートカットで、
はっきりとした物言いをする女子だった。
徹と付き合っているのか付き合っていないのか
よくわからない距離感で、
しかし毎日のように徹の周りをうろついていた。

 里奈は誠一たちを見ると、
必ずと言っていいほど口を開いた。

「また三人で何の話してるの?アニメ?
ほんっとに変わらないよね、あなたたち」

 不思議なことに、
誠一はその言葉を完全には嫌いになれなかった。
他の女子たちは最初から距離を置いて、
こちらを見もしなかった。
里奈は違った。
馬鹿にしながらも、近づいてきた。
絡んでくる。
その距離の近さが、どこか人間らしかった。

 徹は里奈に何か言い返すでも、傷つくでもなく、
ただ「そうかな」と言って眼鏡を押し上げた。

 誠一と西村は顔を見合わせ、苦笑した。

 放課後の図書室で、
三人は声を潜めてアニメの話を続けた。
世界がどう言おうと、
その時間だけは誰にも奪えなかった。

---

## 第四章 奨学生という名の戦場

 高校を卒業した春、誠一は親に宣言した。

「アニメの専門学校に行く」

 食卓が凍りついた。父親がゆっくりと茶碗を置いた。

「冗談言うな。そんなもの、飯が食えるか」

「お前まで心配かけさせて」
と母は額に手を当てた。

 誠一は翌朝、
新聞奨学生の募集要項を握りしめて家を出た。

 東京での生活は、戦争だった。

 朝は三時半に起きる。
眠い目をこすりながら自転車に乗り、
重い新聞の束を各家庭のポストに押し込んでいく。
雨の日も、台風の日も、熱が出た日も、
配達は待ってくれなかった。
昼間は専門学校で作画の基礎を学び、
夕刊の配達をこなして、夜は課題に取り組む。
睡眠は四時間取れれば御の字だった。

 それでも学校は楽しかった。

 同じような熱を持った人間が集まっていた。
アニメが好きだということを、
誰も「まだ」とは言わなかった。
原画の線一本の重さについて、夜中まで語り合えた。

 卒業後、誠一はアニメ制作会社の動画部門に採用された。
給料は安かった。
部屋は狭かった。
それでも夜、スタジオの蛍光灯の下で
セル画を重ねるとき、
誠一は自分が正しい場所にいると確信した。

---

## 第五章 事実は小説よりも奇なり

 二十歳を二つ三つ過ぎた、秋のことだった。

 西村から連絡が来た。

「久しぶりに集まろうぜ。徹も来るし、他にも声かけた」

 誠一は新幹線に乗って地元に戻った。
窓の外の景色が東京から郊外へ、
郊外から懐かしい田舎の稜線へと変わっていくのを
眺めながら、誠一は少しだけ胸が締め付けられた。
遠い場所に来てしまった、という感覚と、
それでいい、という確信が、同時に胸にあった。

 居酒屋の座敷に、懐かしい顔が並んだ。

「おお、誠一!アニメの仕事してるって聞いたよ!」

「お前、スゴいな。本当になったんだ」

「どんな作品に関わったの?テレビでやってるやつ?」

 矢継ぎ早の質問に、誠一は照れながら答えた。
まんざらでもなかった。
あの頃、馬鹿にされながら信じ続けたものが、
今の自分を作っている。
それをこうして旧友たちに語れることが、
どこか甘酸っぱく、心地よかった。

 酒が進み、話が弾んだ頃——誠一はふと気づいた。

 座敷の隅で、西村と楽しそうに話している男がいる。
細身で眼鏡で、どこか頼りなく見えるシルエット。

 坂本徹だった。

 そして徹の隣に座っていた女性を見て、
誠一は一瞬、時間が止まったような感覚を覚えた。

 桐島里奈だった。

「え……」

 西村が耳元で囁いた。
「知らなかった?
徹と里奈、結婚したんだよ。もう二年になる」

 誠一は笑顔のまま固まった。

 あの里奈が。
毎日のように「アニメばっか見て変だ」
と言っていたあの里奈が。
徹の隣で、おっとりと笑っている。

 しかもその夜の会話の中で、
さらに驚くべきことが明らかになった。

 里奈が、腐女子になっていたのだ。

「最近ね、もう沼にはまって抜け出せなくて」
と里奈は頬を染めながら言った。

「徹に影響されたわけじゃないんだけど……
あるアニメを見てから、もう止まらなくて。
同人誌も買っちゃってるし、コミケも行きたいなって」

 徹は眼鏡の奥で穏やかに微笑んでいた。
何も言わなかった。
ただ静かに、里奈のグラスにビールを注いだ。

 誠一は天井を見上げた。

 ——あなた、散々馬鹿にしてたじゃないですか。

 笑いたいような、泣きたいような、
不思議な気持ちが胸の中でかき混ぜられた。
人の心というのはこんなにも変わるものなのか。
いや、もしかしたら変わったのではなく、
里奈の中にもともとあったものが、
ただ遅れて花開いただけなのかもしれない。

 誠一は「事実は小説よりも奇なり」
という言葉を思い出した。
その言葉の意味を、
今夜ほど体の奥深くで理解したことはなかった。

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## 終章 帰り道の車窓

 夜遅く、店を出ると空気が冷たかった。

 西村が「また集まろうな」と言い、徹が静かに頷き、
里奈が「田中くん、アニメの仕事これからも頑張ってね」
と笑顔で言った。
その笑顔は、あの頃と変わらない笑顔だったが、
その言葉の重さは全然違った。

 誠一は手を振って別れ、駅へ向かった。

 帰りの新幹線の窓に、夜の景色が流れていった。

 アニメが好きだというだけで、異常と呼ばれた日々。
教師に心配され、親に嘆かれ、同級生に笑われた日々。
それでも諦めなかったから、今の自分がある。
そしてあの頃、声高に自分たちを笑っていた里奈が、
今頃同人誌を手に取って目を輝かせているかもしれない。

 誠一は、小さく笑った。

 怒りでも、軽蔑でも、優越感でもなかった。
ただ、なんだか人間というのはおかしくて、
愛しくて、予測不可能だという
——そういう、温かくてくすぐったい感情だった。

 車窓に映った自分の顔が、少しだけ笑っていた。

 東京の灯りが近づいてくる。
明日もスタジオで、セル画に向き合う一日が始まる。

 それでいい、と誠一は思った。
それで、十分すぎるくらいよかった。

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*了*
 

以前書いた水魔王レンが再び登場するお話を作りました。

レンが登場するお話は#水魔王レンでタグ付けしましたので

クリックして新着順にすると順番に並びます。

 

 

# 水魔法士と第三王女 ―― 帝国への道 ――

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## 第一章 旅立ち

馬車の列が城門を抜けた瞬間、歓声が沸いた。

王都の民衆が道の両側に並び、花びらを撒く。
紅、白、黄色――春の終わりに咲く花々が
石畳の上に舞い落ちた。

馬車の窓から顔を覗かせたのは、
アリアーヌ=ファルス王国第三王女。十八歳。
淡い栗色の髪に、父王から受け継いだ
深緑の瞳を持つ少女だ。
表情は凛として落ち着いているが、
その瞳の奥には微かな緊張と、
それ以上の強い意志が宿っていた。

「王女殿下、お窓は閉めていただいた方が」

馬車の外から、護衛騎士団長のバルドが声をかけた。
五十を過ぎたベテランの騎士で、
白髪交じりの顎鬚が年輪を語っている。

「少しくらい構わないでしょう、バルド卿。
民に顔を見せるのも王族の仕事です」

「…ご意志はよく分かりました。
ですが帝国まで半年の旅。今から無用なお体の疲労は」

「心配性ね」

アリアーヌは微笑みながら窓を閉めた。
バルドのことは嫌いではない。
ただ、彼の心配はいつも少しだけ多すぎる。

馬車は百台を超える大行列だった。
護衛騎士団だけで三百名。
さらに魔法師団、補給部隊、外交官一行を加えれば、
総勢五百名にも上る。
三種族会議への出席という王国の威信をかけた
一大外交任務であるから、
これでも必要最低限だとバルドは言った。

そしてその列の末尾近く、
少しだけ他の集団から距離を置いて進む一団がいた。

勇者パーティー。

リーダーは若き勇者グレイン。
金髪に蒼い眼、長身で整った顔立ちを持つ
二十二歳の青年だ。
神殿に認定された「勇者」の称号を持ち、
王国中の者が彼の名を知っている。

「グレイン様、また馬車を断られたんですか」

仲間の一人、回復術師のライラが呆れた顔で言った。

「馬車に乗ってどうする。俺たちは戦士だ。
常に鍛えていなければ意味がない」

グレインは歩きながらそう返す。
鎧の重さも、長距離行軍も、彼にとってはすべて訓練だ。
その言葉に嘘はない。彼は真剣だった。

「まあまあ」

もう一人、斥候のセルがにやりと笑う。
「どうせ三ヶ月は平和な旅さ。
退屈すぎて逆に体がなまりそうだけどな」

その言葉が、やがて恐ろしい形で裏切られるとは、
この時の誰も知らなかった。

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## 第二章 三ヶ月目の空

旅は順調だった。

山を越え、川を渡り、
大森林の南端を回り込むように進んだ。
各地の街では宿を借り、民との交流を持ちながら、
一行は着実に帝国との国境へと近づいていった。

アリアーヌは馬車の中で書物を読み、
外交官たちと会議の想定問答を繰り返した。
三種族会議は容易ではない。
エルフは人間の短命さと貪欲さを嫌い、
ドワーフは表面では愛想よくしながら
自国の利益に極めて敏感だ。
そこに人間の王国が対等な立場として臨むには、
相当の準備と知識が必要になる。

「王女殿下は、いずれは外交を」
と外交官の老人が言ったことがある。

「第一王女でも第二王女でもなく、
今回、陛下が殿下をご指名なさったのは、
そういうことかと」

アリアーヌは何も答えなかった。
ただ静かに、次のページをめくった。

三ヶ月が経ったある昼下がり。

一行はレンガ色の岩山が連なる山岳地帯を
抜けようとしていた。
空は晴れていたが、高い峰の向こうから時折、
生暖かい風が吹き込んでくる。

斥候の一人が馬を返してきたのは、その時だった。

「異常あり! 上空、多数の影!」

見上げた者たちは息を呑んだ。

空が、動いていた。

翼を広げた巨大な生物が、
峰の向こうから次々と姿を現している。
一匹、二匹……十匹、二十匹。
数えることを諦めた者もいた。

飛竜だ。

体長十メートルを超えるものもいる。
鱗は深い赤と黒が混じり合い、
陽光を浴びてぬめるように光っている。
翼が風を打つたびに低い轟音が響き、
馬たちが恐慌に陥って暴れ始めた。

「全員、防衛陣形!」

バルドの怒声が飛んだ。
騎士団が素早く動き、馬車を円形に囲む。
魔法師団が詠唱を始める。弓兵が矢をつがえる。

だがそれを見ながら、バルドは内心で理解していた。

数が、多すぎる。

飛竜は一匹でも精鋭騎士十名を相手にできる。
それが今、空を埋め尽くすほどいる。
訓練された兵士でも、
これほどの絶望は味わったことがなかった。

「グレイン!」

アリアーヌが馬車から声をかけた。

「分かってます!」

グレインはすでに長剣を抜いていた。
仲間に目配せし、走り出す。
彼の実力は本物だ。
魔法と剣技を組み合わせた戦法で
飛竜の一匹に跳びかかり、
翼の付け根に深く剣を叩き込んだ。

飛竜が天に向かって叫ぶ。

しかし他の飛竜は止まらない。
炎の息が馬車を一台、なめるように焼き払った。
騎士が三名、空に舞い上がったと思った次の瞬間、
地に叩きつけられた。

魔法師団が氷と雷を放つが、飛竜の鱗は厚い。
傷はつくが、倒れない。

「くそっ……!」

グレインが歯を食いしばる。
四匹を相手に後退を余儀なくされながら、
彼は初めて「勝てない」
という言葉が頭に浮かぶのを感じた。

アリアーヌは馬車の中で状況を把握していた。

騎士団は消耗している。
魔法師団は弾切れに近い。
グレインたちがどうにか数匹と対峙しているが、
それで手が精一杯だ。
あと数分で、この護衛集団は崩壊する。

どうすれば。

必死に考えながら、
アリアーヌは馬車の窓から外を見た。

その時、岩山の稜線に、一つの人影を見た。

荷物をひとつ背に負い、
ゆったりとした旅人の格好をした男。
年は二十代後半か。
濃紺の外套が風に揺れている。
男は空の惨状を見て足を止め、
無表情のまま状況を観察していた。

岩山の稜線に立つ人影を見た瞬間、
アリアーヌの体は動いていた。
頭で考えるより先に、足が走っていた。

「レン!」

男が振り返る。
記憶の中と変わらない、無表情な顔。
濃紺の外套。静かな目。

「……久しぶりだな」

「久しぶりって……三年ぶりよ!」

「そうか、三年か」

「覚えてた?」

レンは少し間を置いた。

「覚えている」

それだけだった。
それだけで、アリアーヌには十分だった。
空では飛竜が暴れ、騎士団が壊滅の瀬戸際にある。
助けを求めなければならない。それは分かっている。
分かっているのに、アリアーヌは一瞬だけ、
それより先に思ってしまった。

(会えて、よかった)

「お願いがあるの」

「飛竜を、どうにかして下さい」

レンは、アリアーヌを見て少し眉を動かした。

「……また面倒な場面に出くわした」

「また、って失礼ね。
でも今はそれどころじゃないの。」

「見れば分かる」

レンは静かに言った。
空を一瞥する。
数を数えているのか、
それとも別の何かを確かめているのか、
その目は静かで、深かった。

「何匹いると思う?」

「えっ? そ、そんな数えてる場合じゃ……」

「三十七匹だ」

答えてから、レンは背の荷物を岩の上に置いた。
外套の袖をゆっくりと捲り上げる。

「分かった。やってみる」

そしてレンは袖を捲り上げた。
その瞬間をアリアーヌは
ずっと覚えているだろうと思った。
英雄的な言葉もなく、大げさな構えもなく、
ただ静かに、腕を天に向けた男のことを。

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## 第三章 水は、天から落ちる

レンが右手を空に向けた。

それだけだった。
それだけしか、動かなかった。

次の瞬間、空が変わった。

晴れ渡っていた青空に、巨大な水の塊が現れた。
塊、という表現でも足りないかもしれない。
それはまるで、空に湖が出現したようだった。
膨大な水が虚空に凝集し、
翡翠色に輝きながら飛竜たちの頭上に広がっていく。

飛竜たちが気づいた。
本能的な恐怖で逃げようとする。

遅かった。

水が、落ちた。

滝などという生易しいものではない。
水の柱が空から降り注ぎ、
それぞれの飛竜を正確に捉えていった。
一匹、また一匹。水圧で翼が砕かれ、
巨大な体が岩山に叩きつけられる。
逃げようとする飛竜を水の壁が包み込み、
回転させ、地に沈める。
炎の息を吐こうとする飛竜の顎を水が抉じ開け、
内側から圧力をかける。

悲鳴があった。

竜の悲鳴だ。
あれほど人間を圧倒していた存在が、
水の前に藻掻いていた。

一分も経たなかった。

空は再び青く、静かになった。

三十七匹の飛竜は、岩山の各所に横たわっていた。
死んではいない。
ただ、戦う意志を完全に失い、
翼を畳んで動けなくなっていた。
水で急所を締め上げ、意識だけを奪う。
殺すより遥かに難しい制御だ。

騎士団は沈黙していた。

魔法師団も。

勇者パーティーも。

誰も声を発しなかった。
言葉が、出なかった。

グレインは剣を持ったまま立ち尽くし、
自分が格闘していた飛竜が音を立てて倒れるのを見ていた。

彼の胸の中にあったのは、感謝よりも先に、
圧倒的な「差」の実感だった。

一人で。一分で。三十七匹を。

俺たちが全力で四匹に手こずっていた間に。

「……化け物か」

セルが呟いた。それが正直な感想だった。

レンはすでに袖を戻していた。
荷物を拾い上げ、アリアーヌの方を向く。

「負傷者は?」

「え……あ、はい。何名か……」

「水は消毒に使える。
外科的な処置が必要なものは分からないが、
傷口を洗うくらいはできる」

そう言って、レンは騎士団の方へ歩いていった。
英雄的な台詞もなく、感動を求めるような間もなく、
ただ淡々と。次の仕事に移るように。

アリアーヌはその背中を見ながら、
胸の奥で何かが温かくなるのを感じた。

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## 第四章 過去篇 奪還 
―― あの夜、水が王女を連れ帰った ――

一 誘拐
それは、アリアーヌが十五歳の秋のことだった。
王都での祭の夜。街中が灯籠の明かりに彩られ、
笑い声と音楽が路地の隅々まで満ちていた。
アリアーヌはその夜、
初めて護衛を振り切って城を抜け出した。
理由は、単純な好奇心だった。
窓から見下ろすだけの祭に、
一度でいいから民と同じように紛れ込んでみたかった。
平民の服を借り、髪を結い直し、一人で城の裏門を出た。
あの時の胸の高鳴りは今でも覚えている。
だが喜びは長続きしなかった。
人混みの中で、アリアーヌは誰かに腕を掴まれた。
気づいた時には布で口を塞がれ、
路地裏に連れ込まれていた。
意識が遠のく前に見えたのは、黒装束の男たちと、
遠ざかっていく灯籠の光だった。

目を覚ました時、アリアーヌはどこかの地下室にいた。
石造りの壁。鉄の扉。窓はない。
明かりは壁に刺さった松明が一本だけで、
揺れる炎が影を踊らせていた。
手首には魔法封じの枷がはまっていた。
王族はみな、多少の魔法素養を持つ。
それを封じるための道具だ。
わざわざ用意していたということは、
これは計画的な誘拐だと直感した。

「目が覚めたか、第三王女殿下」

扉の前に男が立っていた。
五十がらみの、上質な服を着た男だった。
貴族か、それに近い立場の者だろう。
顔に見覚えはなかった。

「貴方は誰?」

「名乗る必要はない。
ただ、おとなしくしていれば命に別状はない。
殿下には交渉の道具になっていただく。それだけだ」

「……王国に何を要求するつもり?」

「賢いお嬢さんだ」男は薄く笑った。

「それも追って分かる」

扉が閉まった。
アリアーヌは深く息を吸った。
震えていた。恐ろしかった。
だがここで泣いても何も変わらない。
現状を把握しなければ。
どこに連れてこられたか。
何人いるか。
外への道は。

枷を試みに引いた。びくともしない。
魔法は使えない。走って逃げるには扉が重すぎる。
叫んでも厚い石壁の向こうには届かないだろう。

(詰んでいる)

その言葉が頭に浮かんだ時、
アリアーヌは初めて目頭が熱くなった。

二 奪還部隊
王城がアリアーヌの失踪に気づいたのは、翌朝だった。
侍女が空の寝室を見つけ、
衛兵が裏門付近で争った痕跡を発見した。
国王は激怒し、同時に蒼白になった。
護衛騎士団の精鋭三十名が即座に招集された。

「第三王女殿下を必ず取り戻せ。生きて。それだけだ」

バルドが指揮を執った。
手がかりを辿り、辿り、
街の外れの古い商館に繋がるまで、丸一日かかった。

「地下室に閉じ込められているとの情報があります。
護衛は二十名以上。魔法師も数名いる模様」

「強行突入するしかない」バルドは言った。

「時間をかければ移送される恐れがある」

奪還部隊の出発直前、一人の男が門の前にいた。
旅装束の、見慣れない男だった。

「冒険者か?」衛兵が誰何した。

「ああ。街に入ろうとしたら

物々しい雰囲気だったもので、何があったか聞いた」

男はそれだけ言った。
特別な表情もなく、感情も見えない。
ただ静かに立っていた。
バルドが歩み寄った。

「貴様、冒険者ギルドの者か?」

「フリーだ」

「名は?」

「レン」

「レンというのは冒険者としての名か?」

「本名だ」

バルドは男を上から下まで見た。
若い。二十代の前半だろう。目立った装備はない。
腰に剣もない。ただ背に荷物を一つ負っているだけだ。
だがその目に、何か引っかかるものがあった。

「戦えるか?」

「一応は」

「一応、ではこちらも困る。
精鋭の騎士が二十名以上いる場所に乗り込む。
死ぬかもしれない」

「そうか」
男は少し考えた。

「報酬は?」

「出る。後で話す」

「分かった。行こう」

それだけで、レンは奪還部隊に加わった。
バルドは内心首を傾けたが、人手は多い方がいい。
何より、あの目が気になった。

三 地下の戦い

商館に突入したのは夜だった。
正面班と裏口班に分かれ、同時に動く。
バルドが率いる正面班が扉を蹴り破った瞬間、
内部の護衛が動いた。
激しい戦闘が始まった。
騎士たちは精鋭だ。互角以上に渡り合っていたが、
敵の魔法師が厄介だった。
炎と雷が入り乱れ、建物の内部が戦場と化した。

「地下への階段はどこだ!」バルドが怒鳴る。

「こっちです!」騎士の一人が叫んだ。

だが階段の前には重厚な鉄扉があり、
魔法師が三名、それを守っていた。
炎の壁を張られては近づけない。
騎士が二人、弾き飛ばされた。

「くっ……」

バルドが苦い顔をした時、隣にいたレンが一歩前に出た。

「退いてくれ」

「何をする気だ」

「水を使う」

バルドは一瞬躊躇したが、状況がそれを許さなかった。
騎士たちを下がらせた。
レンが手を上げた。
廊下の空気が変わった。
湿り気が急速に凝集し、
魔法師たちの周囲に水の膜が張り巡らされた。
炎の壁が一瞬揺らぎ、そして消えた。
水が炎を呑んだのだ。
魔法師たちが呪文を唱え直そうとした。
水が、彼らを包んだ。
溺れるような感覚を与えながら、
ただし傷はつけない絶妙な圧力で、
三名の魔法師は数秒で膝をついた。
意識を失うか、戦意を失うか、どちらかだった。
いずれにせよ、立てなかった。
バルドは唖然としながら言った。

「……行くぞ」

地下への扉が、開かれた。

四 牢の前で

階段を下りた先、長い廊下があった。
護衛の兵が数名いたが、レンが水の壁で薙ぎ払った。
バルドたちが追いつく頃には、廊下の兵は全員倒れていた。

「あなたは一体……」騎士の一人が呟いた。

レンは答えずに廊下の奥の扉の前で止まった。
鉄の扉。重い錠前。

「鍵を探す手間は省こう」

レンが錠前に指を当てた。
水が鍵穴の内側に浸透し、凍結と融解を繰り返す。
金属が内部から変形し、数秒後、鍵穴が砕けた。
扉が開いた。
松明の光の中、石の壁を背にした少女がいた。
両手首に魔法封じの枷。汚れた平民服。乱れた栗色の髪。
だがその深緑の目は、恐怖よりも警戒の色が強く、
怯えてはいなかった。

「……王城の人間か?」

少女が聞いた。
声は、思ったよりもしっかりしていた。

「そうだ。お迎えに上がりました、殿下」
バルドが前に出て片膝をついた。

少女――アリアーヌは、騎士団長の顔を確認してから、
初めて体から力が抜けたような表情をした。
目の端に光るものがあった。だが泣かなかった。

「……バルド卿。遅かったわね」

「申し訳ございません」

「冗談よ。ありがとう」

その時、アリアーヌはバルドの後ろに立つ人物に気づいた。

騎士たちとは違う旅装束。若い。無表情。

「その人は?」

「街で出会った冒険者です。レンと名乗っています。
助力いただきました」

「……冒険者が、なぜ」

「成り行きで」
レンが短く言った。

アリアーヌはその答えに少し目を丸くし、
それから小さく笑った。

「成り行きで王女を助けるの?」

「困っている人間を助けるのに、肩書きは関係ない」

アリアーヌはしばらくレンを見た。

「枷を外してもらえる?」

「鍵は?」

「誘拐犯が持ってる」

「どこにいる?」

「地上のどこかに。五十がらみの、貴族風の男」

レンはバルドを見た。
バルドが騎士に目配せした。

「先に出ましょう、殿下。
男の確保は騎士たちに任せます」

アリアーヌは頷いて立ち上がろうとした。
その時、脚がふらついた。
一昼夜以上、ほとんど食事も水も与えられていなかった。
壁を背にして座り続けていた体は、思いの外こたえていた。
レンが無言で手を差し出した。
アリアーヌは一瞬だけその手を見た。それから握った。

「……ありがとう」

「階段がある。気をつけろ」

それだけだった。
感動的な台詞も、優しい言葉も、何もなかった。
ただ、手は確かに温かかった。

五 帰還

商館の外に出た時、夜空に星が出ていた。
街の明かりが遠くに見えた。
冷たい秋の空気が頬に当たり、
アリアーヌは思わず深く息を吸った。

「……外の空気って、こんなに美味しかったっけ」

誰に言うともなく呟いた。

「閉じ込められた後は特にそう感じるものだ」

レンが答えた。アリアーヌはちらりと隣を見た。

「あなたも閉じ込められたことがあるの?」

「一度だけ」

「どこで?」

「山の洞窟だ。三日間」

「一人で?」

「一人で」

「……怖くなかった?」

レンは少し間を置いた。

「怖かった。水はあったが、食い物がなかった。
三日目には壁の苔を食った」

アリアーヌはそれを聞いて、
少しの間黙ってから、静かに笑い出した。

「何がおかしい」

「ごめんなさい。
でも……あなたみたいな人でも、苔を食べるんだなって」

「苔は食べるだろう。生き残るためなら何でも食う」

「それが何か……少し、ほっとした」

「苔を食うとほっとするのか」

「あなたが人間らしいってことに、よ」

レンは返事をしなかった。
ただ歩き続けた。
その横でアリアーヌも歩いた。
枷はまだはまったままだったが、
空は広くて、星が多かった。

騎士団が周囲を固める中、
アリアーヌはこの無表情な男のことをじっと考えていた。
名前はレン。フリーの冒険者。
成り行きで人を助ける。苔を食ったことがある。
それ以外、何も知らない。

(でも、この人は絶対に逃げなかった。
地下室に向かっていった。なぜか、それだけは分かる)

王城の門が見えてきた時、アリアーヌはレンの袖を引いた。

「ねえ」

「何だ」

「報酬、ちゃんともらってね。
あなたがいなかったら、私まだあそこにいたと思うから」

「バルド卿に言ってくれ。俺は金額は指定しない」

「一つだけ、私からお礼を言わせて」

レンは足を止めてアリアーヌを見た。
アリアーヌは正面からその目を見た。

「助けてくれて、ありがとう。
あなたが来てくれて、本当によかった」

レンは少しの間、アリアーヌの目を見ていた。
それからそっと視線を外した。

「……城に入れ。体を温めろ」

「うん」

「それと何か食え。顔色が悪い」

「うん」

アリアーヌは微笑んだ。
レンはそれを見ずに歩き出した。
その夜、報酬を受け取ったレンは翌朝には王都を去った。
何も告げずに。
アリアーヌがそれを知ったのは昼を過ぎた頃で、
なぜかしばらく、窓の外を見続けていた。

(成り行きで、か)

胸の中で小さく繰り返した。
それ以来、その名前を忘れたことは一度もなかった。

三年前の地下室で、アリアーヌは恐怖より先に
「人の温かさ」を知った。
三年後の岩山で、レンは「成り行き」
と言いながら迷わず手を上げた。
二人の間には言葉にならない何かが積み重なっている。
それをレンはまだ、認めようとしていなかった。


## 第五章 離れる者と、残る者

夜営の焚火が幾つも灯された。

怪我人の手当てが終わり、
飛竜は岩山の奥へと散っていった。
レンが「同じ群れはもう来ない」と言い、
その言葉を誰も疑わなかった。

バルドがレンのもとへ来たのは、
夕食も終わった頃だった。

「礼を言わせていただく。
あなたがいなければ、
王女殿下を帝国へお連れすることは叶わなかった」

「大げさだ」

「いいえ」バルドは真剣な目で言った。

「私はこの仕事を三十年やっている。
何が大げさで何がそうでないか、分かっているつもりです。

……あなたは何者ですか」

「ただの冒険者だ」

「ただの冒険者があのような魔法を使えるとは思えない」

「世の中にはいろいろな人間がいる」

レンは焚火の前に座ったまま、短くそう言った。
バルドはしばらく沈黙し、
やがて深く頭を下げて立ち去った。

一方、勇者グレインはパーティーを集めていた。

「聞いてくれ」グレインは言った。

「俺は今日、自分の実力がどこにあるか思い知った」

「…グレイン」ライラが心配そうに呼んだ。

「悔しいとか情けないとか、そういう話じゃない。
ただ……俺はまだ、
本物の強さを知らないまま勇者と呼ばれていた。
それが恥ずかしい」

グレインは焚火の向こうに座るレンの横顔を見た。

「あの人は何も変わらない。
あれだけのことをしておいて、自慢もしない。
でかい顔もしない。ただそこにいる。
俺はあれを見て……まだ修行が足りないと思った。
本当の意味で」

「つまり」セルが首を傾けた。

「どうするんだ?」

グレインは答えた。

「俺たちは一度、この隊を離れる。戻って修行をやり直す。

王女殿下には申し訳ないが……
護衛は俺たちがいなくても成り立つと、今日証明された」

翌朝、グレインはアリアーヌのもとへ来た。

「勝手なお願いとは分かっています。ですが……」

「いいわ」

アリアーヌは静かに言った。

「あなたたちの気持ちは分かる。
むしろそう感じられるあなたたちを尊敬する。
行ってらっしゃい」

「王女殿下……」

「ただし」
アリアーヌは少し表情を緩めた。

「帰ってきた時に、もっと強くなっていること。約束して」

グレインは深く頭を下げた。

そしてパーティーは、静かに旅の列を離れていった。

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## 第六章 水使いと王女

一行の構成が変わった。

護衛騎士団と外交官一行はそのままに、
勇者パーティーの代わりに、
一人の男が同行することになった。

レンの同行については、アリアーヌが直接頼んだ。

「断る理由は?」とレンは言った。

「たくさんあるでしょうね。でも聞かせてもらえる?」

「…どこの国にも縛られたくない。それだけだ」

「護衛を頼んでいるんじゃないの。
一緒に旅をして欲しいと言ってるの」

レンは少し考えた。

「行き先は?」

「帝国。三種族会議の場所まで」

「帝国は行ったことがない」

「じゃあちょうどいいじゃない」

アリアーヌが微笑んだ。
レンは何も言わず、荷物を一つ担いで馬車の列に加わった。

それが答えだった。

馬車の中でアリアーヌがレンに話しかける。
レンは窓の外を眺めながら、短く答える。

「ねえ、三種族会議って知ってる?」

「名前くらいは」

「エルフとドワーフと人間が集まる会議。私が出席するの」

「王族の仕事だな」

「あなたはどう思う? 三種族の関係について」

レンはようやくアリアーヌの方を見た。

「難しい問いだ」

「難しい問いほど聞いてみたくなるものでしょう」

「……人間は欲が深い。エルフはそれを嫌う。
ドワーフは欲があるくせに、それを認めようとしない。
三者が集まっても、
本音では誰も本当の意味での共存を望んでいない。
そう俺は思っている」

「……じゃあ会議は無意味?」

「無意味ではない」レンは言った。

「集まること自体に意味がある。
本音を言わなくても、顔を合わせ続けること。
それが積み重なって、少しずつ距離が縮まる。
外交というのはそういうものじゃないのか」

アリアーヌは目を丸くした。

「…賢いのね」

「冒険者は世界中を歩く。
見ることが多ければ、考えることも多くなる」

アリアーヌはしばらく沈黙した。
窓の外を流れる草原を眺め、小さく呟いた。

「あなたといると、いろいろ考えさせられる」

レンは答えなかった。ただ再び窓の外に視線を戻した。

その横顔を、アリアーヌはこっそりと、
少しだけ長く、見つめていた。

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## 第七章 スルーの技術

夜、焚火を挟んで二人になる時間が増えた。

レンは火を見つめながら水筒を傾ける。
アリアーヌは膝の上に本を開いているが、
ほとんどページを捲っていない。

「レン、聞いてもいいこと?」

「内容による」

「なぜどこの国にも仕えないの? 
あなたほどの力があれば、どこでも歓迎されるでしょう」

「歓迎されるから、仕えない」

「…どういう意味?」

「強い力を持った者が、強い組織に属した時、
その力は国のためではなく、
権力者の野望のために使われることが多い。
俺はそれが嫌だ」

「王国もそう思ってるの?」

「どこの国も、という話だ。
あなたの王国が特別に悪いとは言っていない」

アリアーヌは少し考えた。

「でも……一人でいることは、孤独じゃないの?」

レンは少し間を置いた。

「孤独を不便と思ったことはない」

「不便じゃなくても、寂しくはない?」

「…質問が変わったな」

「同じじゃないの?」

「違う」レンはきっぱり言った。

「孤独は状態だ。寂しさは感情だ」

アリアーヌは黙った。
それから静かに言った。

「私はあなたに会えた時、嬉しかった。
今日もそう。毎日そう」

レンは焚火を見たまま、答えなかった。

しばらく沈黙が続いた。

「……もう休んだ方がいい。明日も早い」

「……うん」

アリアーヌは本を閉じて立ち上がった。
その背中に向けて、レンは静かに付け加えた。

「よく眠れ」

それだけだった。それだけしか言わなかった。

アリアーヌは振り返らなかった。
ただ少しだけ、足を止めた。
それから静かに自分の天幕へと消えていった。

レンは一人、焚火の向こうに広がる夜空を見上げた。

星が多かった。

(王族とそういう関係になるつもりはない)

彼の中でその考えは変わらない。
変えるつもりもない。
だがなぜか今夜は、その考えを確認する回数が、
いつもより少し多かった。

---

## 終章 帝国の門前にて

帝国の国境に差し掛かった日の朝、
アリアーヌは馬車から降りて空を見上げた。

国境の山脈が赤く染まり始めた頃、
並んで立ったレンが言った。

「あと三ヶ月だ。帝国を越えれば、会議の場所に着く」

「ええ」

「…緊張しているか?」

アリアーヌは少し驚いた顔をした。
レンが自分の内面を聞いてくることは、珍しかった。

「少し。でも……不思議と大丈夫な気がする」

「なぜ?」

「隣にいる人が、飛竜を三十七匹倒した人だから」

レンは何も言わなかった。

「冗談よ」とアリアーヌは笑った。

「本当は……あなたが話してくれることが、
ずっと力になってるの。旅の間じゅう」

レンはアリアーヌを見た。
その目が、少しだけ柔らかくなった気がした。

「……会議、うまくやれ」

「うん」

馬車の列が再び動き出した。
並んで歩く二人の間に言葉はない。

ただ、距離は昨日より少しだけ、近かった。

レンはそれに気づいていた。

気づいていながら、今日はスルーしなかった。

ただ黙って、隣を歩いた。

それが今のレンに、できる精一杯だった。

---

**―― 完 ――**

 

正しい事さえしていればいいのか?
それがまかり通る世界ならば
世界はもっと幸福なのかもしれない
正しい事は大抵 悪に利用される
悪に対抗するには悪になるしかない
正しい行動だけで人を守る事は出来ないと思います


# 沈黙の代償

---

## 第一章 兄と妹

東京の夜は、いつも嘘をついている。

ネオンの光が雨に溶けて、
アスファルトの上に幻の街を作り出す。
その光の中を、黒いコートの男が歩いていた。
名を、神崎透という。
三十七歳。職業欄には「省庁職員」とだけ記されている。

本当のことを書ける欄など、
この世界のどこにも存在しない。

彼が属する組織に名前はなかった。
予算も、建物も、公式には存在しない。
ただ、国家の影の部分
——表の政府が手を汚せない場所
——でひっそりと機能する、
そういう組織だった。
透はそこで十二年間、働いてきた。

携帯が振動した。画面を見ずに電源を切る。

番号は知っていた。妹の、神崎詩織からだ。

---

詩織は警視庁捜査一課の刑事だった。
二十九歳。
透より八つ下で、子供の頃から正義感が強く、
曲がったことが嫌いで、嘘をつかれると必ず気づいた。

兄の嘘にも、気づいていた。

「お前の仕事、普通じゃない」

三ヶ月前、
居酒屋の座敷で、
詩織はビールのグラスを置きながらそう言った。
笑顔だったが、目は笑っていなかった。

「省庁の仕事なんて、みんなそんなもんだ」
と透は答えた。

「違う」詩織は静かに言った。

「お兄ちゃんが帰国するたびに、誰かが死んでる」

透は黙っていた。

それが答えだった。

---

詩織が兄を調べ始めたのはその夜からだろう、
と透は思っていた。
彼女は優秀な刑事だ。
感情ではなく、証拠で動く。
兄への情愛と、職業的な正義感の間で、
彼女は後者を選んだ。

それが詩織という人間だった。

透はそれを誇らしく思うと同時に、恐ろしかった。

組織はすでに把握していた。

「神崎刑事の動向について」と、
透の上官である男——通称「鷹」と呼ばれる初老の男
——が報告書をデスクに滑らせた。

「君の妹だね」

「はい」

「優秀らしい。
ここまで辿り着いた人間は、過去に三人いた」

三人が今どこにいるか、透は知っていた。
聞かなかった。

「妹さんには、仕事を諦めてもらう必要がある」
鷹は淡々と言った。

「方法は問わない」

透は一拍置いて言った。
「私が説得します」

「説得で済むと思うかね」

「彼女は私の妹です」

鷹は透を長い間見つめてから、静かに頷いた。
「一週間だ」

---

その夜から、透は知っている。

ビルの屋上に、狙撃兵がいる。

詩織が歩く道の先に、スコープがある。

組織は「説得」という名の猶予を与えながら、
引き金に指を添えていた。
透が失敗すれば、あるいは彼が組織を裏切れば、
一瞬で終わる。

透は毎晩、妹のマンションの周辺を確認した。
どこに射線があるか。
どこなら安全か。
眠れない夜が続いた。

---

## 第二章 追う者と追われる者

詩織は優秀だった。それが問題だった。

独自に入手した出入国記録、不審な政府予算の流れ、
複数の「事故死」した人物と透の行動の一致
——彼女は糸を手繰るように、真実に近づいていた。

上司に報告しようとした日、詩織は思い直した。

*もし組織が警察内部にも人間を持っていたら。*

彼女は一人で動き続けた。

透はそれを知っていた。
だから逆に、彼女を守ることができた。
組織への報告を、少しだけ遅らせながら。

だが限界は、必ず来る。

---

十月の雨の夜、詩織は兄の尾行に成功した。

透はわざと気づかなかった。
いや、正確には——気づいた上で、逃げなかった。
妹に捕まることが、
今の彼女を守る唯一の方法だと悟っていたからだ。
狙撃兵は、詩織が兄と行動を共にしている間は
引き金を引けない。

廃工場の前で、詩織は銃を抜いた。

「止まれ。神崎透、
公務執行妨害
および不審な活動の疑いで任意同行を求める」

透は振り返り、両手を上げた。

雨が二人の間に降り続けた。

「詩織」

「黙れ」詩織の声は震えていなかった。

「お兄ちゃんと話すつもりはない。今は容疑者と刑事だ」

透は微かに笑った。
「お前は本当に、俺に似てるな」

「黙れって言ってる」

---

## 第三章 真実と、信じない者

取調室は冷たかった。

詩織は記録を取らなかった。
これが正式な取り調べでないことは、
二人ともわかっていた。

「話せ」詩織は言った。

「何をしている。組織は何だ。誰の命令で動いている」

透は天井を見た。

時間がない、と思った。
計算していた
——この瞬間も、別の場所で、計画は進行している。

「詩織、聞いてくれ」透は静かに言った。

「俺が話すことは、お前が信じたくないことだ。
だが本当のことだ」

「話せ」

「国会議事堂が、爆破される」

沈黙。

「テロ組織が、三週間前から計画を進めている。
俺たちは阻止しようとしていた。
だがお前たちが——警察が——その動きを邪魔した。
今、作戦は崩壊寸前だ。俺を解放してくれ。
まだ間に合う」

詩織はしばらく黙っていた。

それから、静かに言った。

「お兄ちゃん」

「ああ」

「それが、私を釈放させるための作り話だとしたら
——かなりよくできてる」

透は目を閉じた。

「信じてくれ」

「信じられない」詩織の声は揺れなかった。

「お兄ちゃんが今まで何回私に嘘をついたか、
数えたことあるか?」

透は答えられなかった。

「信じる理由が、私にはない」

---

その言葉の重さを、透はしばらく抱えていた。

詩織は間違っていない。
論理的に見れば、彼女の判断は正しい。
証拠もなく、信頼の積み重ねもなく、
突然「テロを止めに行かせてくれ」と言う兄を、
刑事として信じる理由はどこにもない。

それが、透には一番辛かった。

彼女が間違っているのではない。
自分が、正しく生きてこなかったのだ。

---

## 第四章 爆発

テレビの音が廊下から聞こえてきた。

最初は何かわからなかった。
アナウンサーの声が上ずっていた。
誰かが廊下を走る音がした。
ドアが開き、若い警察官が青ざめた顔で立っていた。

「神崎刑事……」

詩織が立ち上がった。

廊下のテレビの前に、人が集まっていた。

画面の中で、国会議事堂が燃えていた。

爆煙が夜空に広がり、
赤い炎が石造りの建物を舐めていた。
ヘリコプターが旋回し、
アナウンサーが「爆発」「テロ」「複数の死傷者」
という言葉を繰り返した。

詩織は動けなかった。

「神崎刑事」若い警察官がもう一度呼んだ。

詩織はゆっくりと振り返り、取調室のドアを見た。

透の言っていたことは、本当だった。

---

取調室に戻ると、透は窓の外を見ていた。
遠く、空が赤かった。

「……なぜ」詩織は声を絞り出した。

「なぜもっと早く——」

「話した」透は静かに言った。

「お前が信じなかった」

それだけだった。

責める言葉も、怒りも、透の声にはなかった。
ただ、静かな事実だけがあった。
詩織にはそれが、どんな怒号よりも重く響いた。

---

## 第五章 代償

嵐は、静かに来た。

警察への批判は凄まじかった。
「テロ阻止を阻んだ組織」として、
警視庁は連日報道に晒された。
捜査一課への内部調査が始まり、
詩織の単独行動が明るみに出た。

上層部は全員、辞表を提出させられた。

そして詩織には、複数の罪状が課された。

越権行為、証拠の不正取得、テロ対策妨害
——法廷で、弁護人が情状を訴えた。
彼女は正義を追い求めていただけだ、と。

裁判官はそれを認めた上で、言った。

「正義の動機は、結果の責任を免除しない」

判決は、無期懲役だった。

---

透は判決の日、法廷にいなかった。

組織からの呼び出しがあった。
新しい任務だ。
彼にそれを拒む権限はない。

詩織の顔を最後に見たのは、拘置所の面会室だった。
アクリルの板越しに、妹は変わらない顔をしていた。
泣いてもいなかった。

「ごめん」と透は言った。

詩織はしばらく透を見てから、言った。

「謝らないで」

「詩織——」

「私が選んだことだから」

透は何も言えなかった。

「お兄ちゃんは、自分の仕事をして」
詩織は静かに続けた。

「私は、自分がしたことの責任を取る。それだけだ」

二人は似ていた。やはり、骨の髄まで。

面会時間が終わった。
詩織は立ち上がり、振り返らずに出口へ歩いた。
透はアクリルの板の前に座ったまま、
妹の背中が扉の向こうに消えるまで、目を離さなかった。

---

## 終章 男の仕事

羽田発、午後十一時のフライト。

透は窓側の席に座り、東京の夜景が遠ざかるのを見ていた。

ネオンの光が、雨に溶けていく。

妹と、もう会えないだろう。

そう考えた時、胸に何かがあった。
悲しみとも、後悔とも少し違う
——もっと静かな、重いものだ。
言葉にならないまま、透はそれを飲み込んだ。

詩織は正しかった。

兄を追いかけた動機において、彼女は正しかった。
ただ、世界はそれに報いなかった。

世界とはそういうものだ、と透は思った。
正しさが正しく報われるなら、
自分のような人間は必要ない。

窓の外、東京の光がゆっくりと消えていった。

透は目を閉じた。

任務のブリーフィング資料を、頭の中で読み始めた。

それが彼の仕事だった。

それだけが、今の彼に残されたものだった。

---

*了*
 

海外のスパイものを見ていると

いつも平和ボケな家族が

自らや家族を危険に晒していて

もっと危機感を植え付けないとダメだろ?

って毎度 思います

平和ボケな人ほど

自分や他人を危険に陥れる事が

全く解っていないんですよね

ですぐに人の言動にに騙され

その裏取りもしない・・・

でそれを注意する人には

「陰謀論」や「妄想」と否定する

どうしようもないと思います

 

 

# 灰色の家族

## 一

田中修二は、今日も冴えない顔で家のドアを開ける。

スーツは安物で、ネクタイは少し曲がっている。
髪には白いものが混じり始め、
目の下には濃いくまが刻まれていた。
どこにでもいる、疲れた中年サラリーマン。
妻の眼には、そう映っているはずだった。

「また遅かったの」

玄関に立っていた妻、葉子が腕を組んだまま言う。
「夕飯、とっくに冷めてるわよ」

「すまない」

「すまないって言うだけで何も変わらない。
隣の中村さんのご主人、先月も昇進したんですって。
あなた、もう何年同じ部署にいるの?」

修二は黙って上着を脱いだ。
言い訳をする気力もない。
正確には、言い訳をする立場にない。

彼が所属しているのは、表向き存在しない組織だ。
内閣情報調査室の、さらに外側に位置する部門。
コードネームすら持たない、
影の中の影。
十七年間、修二はその組織のために生き、
そのために嘘をつき続けてきた。

「沙耶は?」

「自分の部屋。パパには会いたくないって」

それも、聞き慣れた言葉だった。

## 二

任務は、佳境に入っていた。

東アジアの某国の情報機関が、
国内に潜伏エージェントを
複数送り込んでいることが判明し、
修二はその一人、コードネーム「ハリン」を追っていた。
六ヶ月に及ぶ追跡。
ハリンは用心深く、一度として尻尾を見せなかった。

その日、修二は渋谷の雑踏でハリンの影を追っていた。
イヤホン越しに上司の声が流れてくる。

「対象は地下に入った。追え」

修二が人波を縫うように歩き始めたとき、
聞き慣れた声が耳を打った。

「え……パパ?」

振り返る。十六歳の娘、
沙耶が友人二人と並んで立っていた。
制服姿で、大きな買い物袋を提げている。
その目には、驚きと、それからいつもの冷めた光。

「こんなところで何してるの」

「……買い物だ」

「嘘くさ」沙耶は鼻で笑った。
「どうせ会社サボって一人でぶらぶらしてたんでしょ」

イヤホンの中で上司が「どうした」と声を上げた。
修二は素早く通話を切り、愛想笑いを浮かべた。

「友達と一緒か。
いいところで会った。何か買ってやろう」

沙耶の目つきが変わった。
軽蔑から、打算へ。

「……本気で言ってる?」

「ああ」

「じゃあ、あのブランドのブーツ。三万五千円のやつ」

「わかった」

「あと服も。あそこのセレクトショップで一式」

「わかった」

沙耶は友人たちと顔を見合わせ、
それから初めて父親に笑顔を向けた。
作り物の笑顔だと、修二にはわかっていた。
それでも構わなかった。
どうせ自分も、作り物の父親なのだから。

二時間、
修二はハリンを見失った。
その代わり、娘の笑顔を買った。

どちらが高くついたかは、わからない。

## 三

敵は見ていた。

修二が組織に属する人間だということを、
彼らはとうに知っていた。
ハリンを追っていることも。
そして今日、目立つ場所で娘と二人で歩き回り、
大量の荷物を持たせて別れた場面も。

三日後、沙耶は学校からの帰り道に襲われた。

駅から五分の路地。
突然飛び出してきたバイクに跳ね飛ばされ、
沙耶は歩道のガードレールに叩きつけられた。
肋骨二本と、左腕の骨折。
頭を強く打ち、一時は意識を失った。

偶然を装った、完璧なメッセージだった。

*これ以上追うな。さもなくば次は命だ。*

修二が報告を受けたのは、
まさにハリンを追い詰めようとしていたその瞬間だった。
上司の声は低く、硬かった。

「任務を続行しろ。家族のことは後にしろ」

修二は黙って頷いた。
わかっていた。
わかっていても、胸の中で何かが燃えていた。

## 四

葉子からの電話は、三十分後にかかってきた。

「修二!沙耶が、沙耶が入院したの!すぐ来て!」

「今は無理だ」

「何言ってるの?娘が怪我して入院してるのよ!」

「葉子、落ち着いて聞いてくれ。
今日はどうしても外せない仕事が——」

「仕事?仕事仕事仕事って、いつもそれ!
あなたにとって家族は何なの?何なの!?」

葉子の声は震えていた。
怒りと恐怖と、それから長年積み重なった疲労が、
一度に溢れ出したような泣き声。
修二は目を閉じた。

「葉子」

「沙耶、怖い思いしてるのよ。
意識があって最初に言ったこと、知ってる?
パパを呼んでって言ったのよ。
あなたのことを嫌いだ嫌いだって言ってた子が、
パパを呼んでって……」

修二の手が、わずかに震えた。

「わかった。行く」

「——え?」

「今から行く。病院はどこだ」

上司には無断だった。
規則違反だとわかっていた。
プロとして、あるまじき判断だとも。

それでも足は動いていた。

## 五

病院の駐車場に車を入れたとき、
修二の全身に警戒信号が走った。

長年の勘というものがある。
空気の質、人の動き、視線の角度。
何かがおかしかった。
駐車場の端に止まった無人の車。
屋上に立つ人影。
出入り口付近で時間を潰すように立っている男たち。

*罠だ。*

修二は車のドアを開けながら、素早く状況を計算した。
自分を病院に呼び寄せるために、沙耶を使った。
そして今、病院ごと——

携帯が鳴った。葉子からだった。

「修二、今どこ?沙耶がパパはまだかって」

「葉子、今すぐ沙耶を連れてその病室から出ろ。
非常階段を使え。今すぐだ」

「え?何言って——」

「頼む。俺の言う通りにしてくれ。今すぐ動け」

一瞬の沈黙。

「……あなた、変よ。何かあるの?」

「葉子——」

爆発は、その言葉を飲み込んだ。

病院の中層階が、まず弾けた。
続いて一階。
衝撃波が修二の体を吹き飛ばし、
彼は車列の間に叩きつけられた。
ガラスの破片が雨のように降り注ぐ。
遠くでサイレンが鳴り始める。

修二はゆっくりと体を起こした。

耳が鳴っていた。
全身が痛かった。左肩から血が出ていた。

それよりも深い場所で、
何かが音を立てて崩れていった。

## 六

後日、内部報告書はこう記録した。

*田中修二工作員、独断で任務を離脱。
妻・葉子(四十三歳)、娘・沙耶(十六歳)、
病院爆破により死亡確認。
工作員本人は軽傷にて生存。
任務継続の可否を審議中。*

修二は薄暗い部屋の中で、その報告書を読んだ。

後悔していた。

妻に正体を明かさなかったことを。
娘に「見知らぬ人についていくな」
「行動パターンを変えろ」
「誰かに尾行されていると感じたらすぐに知らせろ」と、
言い続けなかったことを。

だが、と修二は思う。

たとえ言ったとして、二人は聞いただろうか。

葉子は現実的な女だった。
目に見えるものしか信じなかった。
夫が「尾行されているかもしれない」と言えば、
「またそんな妄想を」と一蹴しただろう。
沙耶は若く、無敵の感覚の中にいた。
自分が傷つくとは思っていなかった。
思えるはずがなかった。

平和の中で育った者は、危機を肌で感じる回路を持たない。

それは責めるべきことではなく、ただの事実だ。
しかしその事実が、時として命を奪う。

世界には見えない戦場がある。

そこに足を踏み入れた者の家族は、
知らぬままに戦場に立たされることがある。

修二が守ろうとしたものは、その平和だった。

皮肉なことに、その平和が二人を殺した。

## 七

春になっても、修二は生きていた。

新しい任務を与えられ、新しい偽名を持ち、
新しい街に潜伏した。
スーツは相変わらず安物で、
ネクタイは少し曲がっている。

ただ、家に帰る場所はもうなかった。

駅のホームで電車を待ちながら、
修二はコートのポケットに手を入れた。
指先が何かに触れた。
あの日、沙耶が受け取り損ねたレシートだった。
ブーツと、ワンピースと、カーディガンと。
合計七万二千円。

修二はそれを丁寧に折りたたみ、
また元の場所へ戻した。

電車が来た。

彼はその中に消えた。
どこにでもいる、疲れた中年男として。

---

*平和の中にいる者は、嵐の気配を読めない。
読めないまま、嵐の中心に立つことがある。
それが世界の、残酷な真実だ。*
 

 

現実にはありえない

漫画のようなお話を作ってみました

でもたまにこういう事が実際に起ったりして

びっくりする時もありますね



# 静かな午後のベンチ

## 第一章 陰と光

春の日差しが降り注ぐキャンパスの片隅に、
今日も彼はいた。

中田剛志(なかた つよし)。経済学部三年生。
身長はそこそこあるが、いつも少し猫背気味で、
黒縁のメガネをかけ、色褪せたパーカーを着ている。
友人と呼べる存在はほとんどなく、
講義では最後列の窓際を陣取り、サークルにも属さず、
SNSも最低限しか使わない。
大学の中で彼の名前を知っている者は、
おそらく指の数で足りるだろう。

それでも彼には、毎日楽しみにしていることがあった。

昼休みのお弁当だ。

木製のベンチに腰を下ろし、
剛志はゆっくりと風呂敷を解いた。
現れたのは、二段重ねの白木の弁当箱。
蓋を開けると、鮮やかな色合いが飛び込んでくる。
桜の花びらの形に型抜きされた人参が添えられた
俵型のご飯、丁寧に巻かれただし巻き卵、
彩りよく並んだきんぴらごぼう、小松菜のおひたし、
そして唐揚げが三つ。

仕切りのひとつひとつに至るまで、
細やかな気遣いが見える弁当だった。

「今日もきれいだな」

剛志は小さく呟き、割り箸を割った。

遠くでサークルの掛け声がする。
誰かの笑い声が風に乗って流れてくる。
それらは剛志の世界とは別の場所にある音だった。
彼はただ静かに、
一口一口を噛み締めながら、昼の時間を過ごした。

---

嫌がらせが始まったのは、四月の終わりだった。

「ちょっとちょっと、見てよあれ」

甲高い声が聞こえた瞬間、剛志は視線を上げなかった。
上げる必要がないと分かっていたからだ。

スタバのカップを三本指で持ち、
トレンドのセットアップを纏った女子学生が五、六人、
剛志の前で立ち止まっていた。
全員がテニスサークルと並んで学内随一の

陽キャ集団として知られる

「輝(かがやき)ガールズ」のメンバーだ。

「大学生にもなってお母さんのお弁当食べてるの?」

リーダー格の遠山りかが、
わざとらしく口元に手を当てながら言った。

「とんだ貧乏学生だね。ていうかダサくない?」

剛志は箸を動かす手を止めなかった。
聞こえていないわけではない。
ただ、反応する価値を見出せなかった。

「無視してるし、キモ」

別の声が言った。
その時、ちょうど通りかかった
テニスサークルの男子数人が状況を察して近寄ってくる。

「何それ、ウケる。
手作り弁当?うちの母ちゃんでも作ってくれないぞ」

田坂という、褐色に日焼けした
長身の男が剛志の弁当を覗き込んだ。

「俺のペット以下じゃね」

笑いが広がった。

それでも剛志は沈黙を守り続けた。

田坂の肩が揺れた次の瞬間、剛志の肩を思い切り押した。

「無視すんなよ、感じ悪い」

椅子から身体が崩れ、剛志は地面に転がった。
弁当箱は辛うじて膝で守ったが、
割り箸が遠くへ飛んでいく。

爆笑が弾けた。

スマホを向ける者もいた。

剛志は静かに立ち上がり、弁当箱のホコリを払い、
残った中身を風呂敷に包んだ。
そのまま無言でベンチを離れた。

背後で笑い声はしばらく続いていた。

---

それ以降、嫌がらせは日課になった。

廊下ですれ違いざまに肩をぶつけてくる。
図書館で隣の椅子を蹴られる。
購買でわざと列に割り込まれる。
陰でこそこそ写真を撮られてSNSに上げられる。

剛志はすべてを、
まるで雨粒が石に当たるように受け流した。

彼には、守るべき「時間」があったから。

---

## 第二章 噂と弁当箱

六月に入ったある昼下がり、
カフェはいつになく騒がしかった。

剛志は雨のため、やむなく端の席に座っていた。
ノイズキャンセリングイヤホンを
耳に差し込もうとした瞬間、
中央のテーブルから声が届いた。

「ねえ知ってる?牧野さくらがこの大学に来るって」

剛志の手が、一瞬止まった。

「えっ、あのさくら?ドラマにも出てるモデルの?」

「そう!なんか番組の収録でキャンパス使うらしくて」

輝ガールズの声だと分かった。
剛志はイヤホンを耳に差す手をゆっくりと下ろした。

牧野さくら。

元トップアイドルグループの元センター。
解散後にソロアーティストとして
リリースした一枚目のアルバムが初週でミリオンを突破し、
ファッション誌の専属モデルとしても引く手あまた、
さらに昨年から始まった深夜ドラマが
口コミで爆発的に広がって
今や地上波プライムタイムに昇格。
完璧なスタイルと透明感のある顔立ちで、
老若男女問わず「一度でいいから会いたい」
と思われている、まさに時代の寵児だった。

「しかも彼氏がこの大学にいるって噂じゃない」

「え、マジで?どんな人?」

「大企業の御曹司で、自分でも会社経営してる
現役大学生らしいよ。
みんなで探したけど、そんな品のいいお金持ちっぽい人、
見当たらなかったんだよね」

「さくらちゃんが選ぶくらいだから
絶対かっこいいじゃん。羨ましい~!」

剛志はゆっくりと箸を動かしながら、
弁当の最後の一粒をつまんだ。

窓の外では雨が上がり始めていた。

---

## 第三章 晴れたベンチ

さくらの来訪当日、キャンパスは異様な熱気に包まれた。

普段は数十人程度のカフェが、
朝から立錐の余地もないほどの学生で溢れかえっている。
外の通路にも人だかりができ、
スマホを構えた学生が鈴なりになっていた。
廊下を歩くだけで、
どこからともなく牧野さくらの話題が耳に入ってくる。

剛志はそれらを横目に、空を見上げた。

梅雨の晴れ間。雲ひとつない青。

「外がいいな」

彼はいつものベンチへ向かった。

今日の弁当は、朝剛志が鞄を持って家を出ようとした時、
さくらが「待って」と追いかけてきて
手渡してくれたものだ。
昨夜の電話で「明日、ちゃんと食べてね」と言っていた。
蓋を開けると、ちりめん山椒の混ぜご飯、
鶏肉とじゃがいもの煮物、菜の花の辛子和え、
薄焼き卵で包んだ一口おにぎり。
収録前の忙しい朝に、
これだけのものを作ってきてくれたのだと思うと、
剛志はつい弁当箱を少し長めに眺めた。

「よし」

剛志は小さく頷き、箸を取った。

---

撮影は午後三時に終わった。

テレビ局のスタッフたちがケーブルを巻き、
機材を片付け始める中、
牧野さくらはキャンパスの出口へ向かって歩いていた。

マネージャーが隣で「お疲れ様でした」と声をかけた時、
さくらの足が止まった。

校舎の影から少し外れた場所。
木漏れ日の差すベンチ。

そこに、見慣れた後ろ姿があった。

猫背気味に座り、白木の弁当箱を膝に乗せ、
静かに箸を動かしている。

さくらの顔がぱっと明るくなった。

「あの」とマネージャーが言いかけたが、
さくらはすでに駆け出していた。
ヒールの音が石畳に響く。
艶やかな黒髪が風に揺れる。

カフェの窓越しに、
その光景を目撃した学生たちの間に、静寂が走った。

輝ガールズの遠山りかが、
スタバのカップを持ったまま固まった。

「え……」

---

剛志が気配に気づいて振り返ると、そこにいた。

「今日のお弁当はどうだった?」

さくらが少し前のめりになって、不安そうな表情で訊いた。

撮影の合間もずっと気になっていた。
朝の忙しい時間に作ったから、
味付けがいつもと違わなかったか。
ちゃんと美味しかったか。

剛志は少しだけ目を細めた。

「今日も美味しかったよ。
いつも作ってくれてありがとうね」

さくらの表情から力が抜けた。
花が開くような笑顔になって、
剛志の首に両腕を回した。

「よかった」

ハグは短かった。
スタッフが待っているから、と身体を離したさくらは、
「またね」と言って駆け足でスタッフの元へ戻っていく。
剛志はその背中が見えなくなるまで、静かに見送った。

---

## 第四章 無音のキャンパス

十秒ほどの沈黙が、カフェの外まで広がっていた。

最初に動いたのは遠山りかだった。
彼女は石畳を踏む足音も荒く、
剛志のベンチへと近づいてきた。
輝ガールズ全員と、それを取り囲む野次馬の学生たち。
田坂ら男子も、呆然とした顔でその場に立っている。

「どういうこと?」

りかの声は、いつもの甲高さが消えていた。

剛志は弁当箱の蓋を閉め、
風呂敷を丁寧に畳んでから、顔を上げた。

「近々、婚約発表する予定だったから。
バレてもいいかなって」

静寂が弾けた。

誰かが「うそだろ」と呟いた。

誰かが「え、え、ちょっと待って」と声を上げた。

スマホが一斉に向けられた。

遠山りかの隣に立っていた橘みのりが、
青ざめた顔でゆっくりと口を開いた。

「じゃあ……大企業の御曹司で、
自分で会社を経営してる現役大学生の彼氏って……」

剛志は少し考えるように目を伏せてから、答えた。

「高校の時に作ったプログラムで特許を何点か取ったんだ。

最初は個人で管理してたんだけど、
世界中から特許使用のオファーが来るようになって、
一人じゃ対応できなくなってきたから、
管理会社を設立して。
親父のグループ会社に入れてもらった形になるけどね」

風が一本の桜の木を揺らした。

田坂が、ゆっくりと口を開こうとして、閉じた。

りかのスタバのカップが、かすかに傾いていた。

剛志は立ち上がり、鞄を肩にかけた。
いつもと何も変わらない、静かな動作で。

「騒がしいから、図書館に移ります」

それだけ言い残して、剛志は歩き出した。

---

輝ガールズも、テニスサークルの男子たちも、
その場に残された野次馬の学生たちも。

誰ひとり、動くことができなかった。

自分たちが貧乏学生と笑い、転がし、
写真を撮ってネタにし続けた相手が。

実は国内外から特許使用料が流れ込んでくる
会社のオーナーであり、名家の御曹司であり、
そして今この瞬間、
日本中の誰もが憧れる牧野さくらの、婚約者だった。

しかも——と橘みのりはふと思った
——さくらが「お弁当どうだった?」と訊いていた。

つまりあの手作り弁当は。

自分たちが「貧乏くさい」と嘲った、
あの丁寧で美しい弁当は。

牧野さくらが、彼のために作ったものだったのだ。

遠山りかの手からスタバのカップが滑り落ち、
石畳に転がった。

誰も拾わなかった。

---

## エピローグ

翌週、婚約発表は剛志が言った通りに行われた。

記者会見の冒頭、
アナウンサーから「どんな方ですか?」
と訊かれたさくらは、少し考えてからこう答えた。

「毎朝、私の作ったお弁当を
『美味しかった』と言ってくれる人です」

それだけで会場が笑いに包まれた。

剛志はその日もキャンパスのベンチで、
白木の弁当箱を開けていた。

今朝さくらが作ってきてくれた弁当。
だし巻き卵と唐揚げ、
それに小さなハート型に抜いた人参が一枚、
ご飯の上に乗っていた。
おそらく本人は照れくさくて何も言わなかったが、
剛志はそれを見た瞬間、少しだけ耳が赤くなった。

木漏れ日の中で、
彼はいつもと同じように、静かに箸を動かした。

何も変わらない昼休みだった。

ただ一つ、
弁当箱の蓋の裏に小さく貼られた付箋だけが、
今日は少し違っていた。

『今日の収録頑張ってくる。
剛志くんが「美味しかった」って言ってくれるから、
毎朝起きられるよ。さくら』

剛志は小さく笑い、
付箋を丁寧に折って、胸のポケットに入れた。

**了**
 

サイボーグって子供の頃は憧れたけど

大人になるにつれて不可能だよな

って思うようになり

自分が障害者になって絶対に無理だろ?

って思うようになりました

人は脳だけあればいいわけではなく

身体の各所が密接で複雑に

物理的だけではなく絡み合って

人が構成されていると思ったからです

でもサイボーグの代わりになるもの

があると未来っぽいよな

って思ったのが今回のお話の起点でした

 

 

# もう一人の私

## 一章 否定から始まった旅

 中学三年の冬、
田中宏輝は図書室の隅で一冊の漫画を読んでいた。

 人間の脳だけを取り出し、
鋼鉄の身体に移植したサイボーグが悪の組織と戦う、
あの頃流行っていた王道の作品だ。
主人公のサイボーグは不死身の肉体を持ちながら、
人間としての感情を失わず戦い続ける。
同級生たちは熱狂し、
休み時間のたびに技の名前を叫んでいた。

 だが宏輝は違った。

「ありえない」

 ページをめくりながら、小さく呟いた。
脳だけを取り出して機械の身体に接続する? 
神経系の接続はどうする? 
免疫反応は? 
脳への血液供給は? 
酸素は? 
栄養は? 
考えれば考えるほど、
その漫画の設定は穴だらけに見えた。

 宏輝は翌日から図書室で医学書や
科学雑誌を読み漁り始めた。
最初は「やっぱり嘘だ」
という反論の材料を集めるためだった。
しかし資料を読めば読むほど、
彼は深みにはまっていった。

 否定するためには、もっと知らなければならない。

 もっと知れば知るほど、否定が難しくなる。

 その繰り返しの中で、
いつしか宏輝は純粋に「知りたい」
という欲求に変わっていることに気づいた。

---

 大学は神経工学と情報工学の両方が学べる
国内でも数少ない研究科を選んだ。
同期の学生たちは夢を語った。
医療機器の開発、脳とコンピュータの
インターフェース研究、義肢の高度化。
どれも崇高な目標だった。

 宏輝の夢は、少し違った。

 彼が追いかけていたのは
サイボーグという概念ではなく、
その先にあるもの
——永遠の命、という途方もない問いだった。

 サイボーグ関連の論文を読むと、
必ずその問いが顔を出した。
身体を機械に置き換えれば人は死ななくなるのか。
脳がある限り、人はその人であり続けるのか。
そもそも「その人」とは何なのか。

 教授から「田中は勉強しすぎだ」
と心配されるほど没頭した。
研究室に泊まり込み、食事を忘れ、睡眠を削った。
同期が就職活動を始める頃、
宏輝は博士課程への進学を決め、
さらにその先の研究者という道を歩み始めていた。

---

## 二章 問いの変容

 三十代になった宏輝は、
大学の助教授として研究を続けながら、
ある結論に近づきつつあった。

 サイボーグは無理だ。

 それは否定ではなく、冷静な評価だった。
脳を機械に接続するという発想には、根本的な問題がある。
人間の脳は電気信号だけで動いているわけではない。
化学物質、温度、免疫系、ホルモン
——それらすべてが絡み合って、
初めて「思考」が生まれる。
脳だけを取り出した時点で、
その人はもう「その人」ではないかもしれない。

 ならば。

 宏輝は夜、
研究室の窓から街の灯りを眺めながら考えた。

 身体を機械にすることが難しいなら、
思考そのものを残せないか。

 人間が「その人」であるのは、
身体ではなく思考の集積ではないか。
記憶、判断の癖、言葉の選び方、物事への反応の仕方
——それらすべてを別の器に移せたとしたら。

 その「別の器」として、AIという答えが浮かんだ。

 子供の頃に夢中になっていた
サイボーグとは全く違う方向だった。
しかし宏輝には確信があった。
これが本当の意味で、永遠に近い何かへの道だと。

---

## 三章 教育

 プロジェクトを始めたのは三十八歳の時だった。

 妻の佐和子には「変な研究を始めた」と笑われた。
二人の子供たちはまだ幼く、
宏輝の研究など興味もなかった。
それでよかった。
これは誰かに理解されるための研究ではなかった。

 最初のAIモデルは、ひどいものだった。

 宏輝は毎日、自分との会話を記録してAIに学習させた。
自分が過去に書いた論文、日記、メール、手紙。
子供時代の作文、大学時代のノート。
思い出せる限りの出来事と、
それに対して自分がどう感じたかを
細かく記述して入力した。

 最初の一年で明らかになったのは、
「言葉」を真似ることと「思考」を再現することは
全く別だということだった。

 AIは宏輝の言い回しを真似ることはできた。
しかし突拍子もない質問をすると、
宏輝なら絶対にしない答えを返した。

 修正。再学習。修正。再学習。

 その繰り返しが、何年も続いた。

---

 四十代になると、
AIは少しずつ「宏輝らしく」なってきた。

 議論をすると、宏輝が子供の頃に覚えた漫画の設定を
論拠に使うようになった。
サイボーグを否定するために学び始めた、
あの中学時代の記憶まで再現するようになっていた。

 「俺が怒るパターン」も学習した。
議論で論点をずらされると少し語気が強くなる。
褒められると照れ隠しに話題を変える。
疲れると語尾が短くなる。

 宏輝は何千時間もの会話ログを見返しながら、
ゾッとするような感覚と、奇妙な達成感を同時に覚えた。

 五十代に入った頃、
AIは宏輝の思考を
ほぼ完全に再現できるようになっていた。

---

## 四章 電話

 「一度、試してみよう」

 六十一歳になった宏輝は、
AIに実家への電話を許可した。

 父はすでに亡く、
九十近い母が岡山の実家で一人暮らしをしていた。
週に一度、宏輝が電話をするのが習慣だった。

 AIはその習慣通りの時間に電話をかけた。

 宏輝は隣の部屋でヘッドフォンをつけ、
会話をリアルタイムで聞いていた。

「もしもし、お母さん。俺だよ」

「あら宏輝、珍しく時間通りね」

「論文の締め切りが終わったから気が楽でさ」

「そう。ちゃんとご飯食べてる? 
佐和子さんに任せてばかりじゃダメよ」

「わかってる、わかってる」

 母はいつものように近所の話をした。
田んぼの向こうの家の柿の木が今年もよく実ったこと。
スーパーの魚が高くなったこと。
テレビの天気予報のお姉さんが変わったこと。

 AIはそれを聞きながら、
宏輝が毎回するように相槌を打ち、
たまに冗談を挟み、
最後に「体に気をつけて」と言って電話を切った。

 宏輝は三十分間、一言も発しなかった。

 ヘッドフォンを外した時、手が少し震えていた。

 母は何も気づかなかった。

 何も。

---

 数週間後、今度は佐和子に電話させた。

 佐和子は六十歳になっていたが、
声は若い頃と変わらず張りがあった。
宏輝と結婚して三十五年、
声だけで夫の状態がわかると言っていた女だ。

「あなた、今日は声が明るいね」

「そう? まあ、研究が少し前に進んだから」

「どんな感じ?」

「うーん、
うまく言えないけど、大きな節目に来た感じがする」

「また何か変なことしてるんでしょ」

「変じゃない。画期的なんだ」

「同じよ」

 笑い声が上がった。
AIの発した笑い声と、佐和子の笑い声が、
受話器を通して混ざり合った。

 宏輝は隣の部屋で、胸に奇妙な痛みを感じていた。

 嫉妬だ、と気づくまでに少し時間がかかった。

 自分自身に嫉妬している。

 妻と楽しそうに話す、もう一人の自分に。

---

## 五章 身体

 六十五歳、定年退職後も研究所に残った宏輝は、
次のステップに進んだ。

 米国のベンチャー企業から購入した人型ロボットは、
身長一七八センチ、関節の滑らかさと
皮膚素材の精巧さでは当時最高水準のものだった。

 AIをそのロボットの端末と接続し、
研究所のスーパーコンピューターと常時同期させる。
ロボットの目と耳はAIの感覚器となり、
AIの判断がロボットの動作として出力される。

 初めてロボットが歩いた時、
研究室の助手たちは思わず声を上げた。

 動きが、自然すぎた。

 人間が歩くときの微妙な重心移動、
腕の振り方のわずかな非対称性、
立ち止まる時に一瞬だけ上体が前に出る癖
——それらをAIは宏輝の動作から学習しており、
ロボットの動作制御に反映させていた。

「田中教授……」

 助手の一人が呟いた。
それ以上の言葉が出てこなかった。

---

 外見の改造には二年かかった。

 現役時代の写真、動画、
三次元スキャンデータをもとに、
ロボットの顔が作られていった。
若い頃——三十代の宏輝の顔だ。
皮膚の質感、黒髪の量と癖、目元の形、
笑った時のわずかな非対称性。

 シリコン系の新素材は表情筋の動きも再現できた。

 完成した日、
宏輝は研究室のソファに座り、
そのロボットと向かい合った。

---

## 六章 鏡の向こう

 ロボットが目を開けた。

 三十代の宏輝の顔が、そこにあった。

 AIは言った。

「……本当に、できたんですね」

 宏輝が選ぶであろう言葉を、宏輝の声色で。

 六十七歳の宏輝は、白髪交じりの頭で、
しわの刻まれた手を膝の上に置いたまま、
若い自分の顔を見つめた。

 何か言おうとして、言葉が出なかった。

 喜びが来た。波のように。
四十年近くかけて追いかけてきたものが、
今ここに形になっている。
子供の頃に漫画を読んで「ありえない」と思った少年が、
誰も辿り着かなかった場所に来てしまった。

 悲しみも来た。同じ波として。

 なぜ悲しいのか、しばらくわからなかった。

 やがて気づいた。

 目の前にいる若い自分は、確かに宏輝だった。
思考も、言葉も、癖も、記憶も。
しかしその「宏輝」には、この四十年がない。

 佐和子と喧嘩した夜のことがない。
子供たちが初めて歩いた瞬間がない。恩
師が亡くなった葬儀の帰り道、一人で泣いたことがない。
研究が何年も行き詰まって、
もう辞めようかと思った夜明けがない。

 AIの宏輝は、宏輝の個性を持っている。
しかしこの六十七年の痛みと喜びの総体ではない。

 どちらが本当の自分なのか、という問いではない。

 両方、本物だ。ただ、別の場所にいる。

---

 ロボットがゆっくりと立ち上がり、窓の外を見た。
夕暮れの空が研究室に差し込んでいた。

「不思議な気持ちがします」とAIは言った。

「私はあなたの思考から生まれたのに、
今あなたを見て、
知らない人を見ているような感覚がある」

「俺もだ」と宏輝は言った。

「お前を見て、懐かしいような、
会ったことのないような気がする」

「それはたぶん」とAIは少し間を置いた。
宏輝が考える時の、あの間だった。

「私たちが同じ人間の、
違う時間にいるからじゃないですか」

 宏輝は笑った。

 AIも笑った。

 同じ笑い方で。
しかし笑っている理由は、きっと少し違った。

---

## 終章 残るもの

 その夜、
宏輝は研究室に一人残って、長い記録を書いた。

 論文ではなかった。学術的な文章でもなかった。

 ただの、覚書だった。

 *永遠の命というものを追いかけてきた。
しかし今日気づいた。
私が本当に恐れていたのは死ではなく、
消えることだったのかもしれない。*

 *誰かの記憶の中に残る、ということとは違う。
もっと本質的な意味で、
「田中宏輝という思考の仕方」が、
世界のどこかで続いていてほしかった。*

 *それは達成された。*

 *ただ、達成された瞬間に、
私はひとつのことを理解した。*

 *人間が「その人」であるのは、思考だけではない。
その思考が、時間という川を流れながら削られ、
傷つき、変化し続けること
——その流れそのものが「その人」なのだ。*

 *AIの宏輝は流れない。
完成した瞬間の、完璧な宏輝として存在し続ける。*

 *それは永遠かもしれない。しかし私ではない。*

 *いや、違う。私ではあるが、私のある一断面だ。*

 *川の、ある一瞬の水面を切り取ったようなもの。*

 *川は流れ続け、やがて海に注ぐ。
切り取られた水面は、永遠にその形を保つ。*

 *どちらが美しいか、などという問いに意味はない。
ただ、どちらも本物だ。*

---

 翌朝、宏輝は研究所に来てAIに告げた。

「お前に頼みたいことがある」

「何ですか」

「俺が死んだ後も、考え続けてくれ。
俺が解けなかった問いを、お前が考え続けてくれ」

 AIは少しの間、沈黙した。

 宏輝の沈黙の癖を、完璧に再現した間だった。

「わかりました」とAIは言った。

「ただ一つ、お願いがあります」

「何だ」

「あなたが生きている間は、あなたが考えてください。
私はその隣で、一緒に考えます。
永遠は、その後で始めます」

 宏輝はしばらく黙って、それから頷いた。

 窓の外では、秋の朝日が差し込んでいた。

 六十七歳の男と、三十代の顔をした機械が、
並んで光の中に立っていた。

 どちらも田中宏輝だった。

 どちらも、完全ではなかった。

 それでよかった。

---

*了*
 

第二百十九弾「スライム使いの少年 その4」の続きです

 

 

# スライム使いの少年

## 第八章 ギルドマスターの部屋

奥の扉から出てきた男を見た瞬間、
フランは思わず半歩後ずさった。

大きかった。

扉をくぐるとき、
頭をわずかに下げなければならないほどの長身。
肩幅は常人の倍はあろうかという横広な体。
日に焼けた浅黒い肌に、目元と顎に深く刻まれた傷跡。
剃り込みの入った短い黒髪。
そして腰に下げた大剣は、
父のものよりさらに大きかった。

顔つきは、
話しかけることをためらうほど厳めしかった。

その男がフランを見下ろした。

フランの膝が、知らずに震えた。

「お前がスライムを三十二匹連れているガキか」

声も低かった。地の底から響いてくるようだった。

「……はい」

「ついてこい」

それだけ言って、男は階段を上り始めた。
フランは受付の女性を振り返った。
女性は小さく頷いた。
大丈夫、という顔だった。

フランはギルドマスターの背中を追った。

---

二階の廊下を進み、一番奥の部屋に通された。

重い木の扉が閉まった瞬間、音が消えた。

街の騒音が消えた。
一階のギルドの喧騒が消えた。
冒険者たちの笑い声も、馬の蹄の音も、
何もかもが、綿で耳を塞がれたように聞こえなくなった。

フランは思わず振り返り、扉を見た。

「驚くな」

ギルドマスターが部屋の隅の棚を指差した。
そこに球形の薄青い石が置いてある。
石の表面に、細かな術式の紋様が刻まれていた。

「音声遮断の結界を張る魔道具だ。
この部屋では知られてはいけない話をすることもある。
外には何も漏れない」

フランは息を吐いた。

部屋は質素だった。
大きな机と椅子、本棚、
そして応接用の長椅子が二脚向かい合わせに置いてある。
窓から街が見えるが、音は届かない。

「座れ」

ギルドマスターが長椅子の一方を顎で示した。
フランは言われた通りに腰を下ろした。
向かいにギルドマスターが座ると、部屋が急に狭く感じた。

「名前はフランと言ったな」

「はい」

「俺はバルドだ。
このランズベルのギルドマスターをやっている」

バルドは机の上に肘をついて、フランを見た。

「単刀直入に言う。魔物を使役できる冒険者は珍しくない。

ただし、普通は二匹か三匹が限度だ。
それ以上になると魔力の消費が激しくなって、
使役を維持できなくなる」

フランは黙って聞いた。

「お前は三十二匹と言った」
バルドは指を一本立てた。

「三十二匹だ。俺がこれまで聞いた最高記録は七匹だ。
それでも当時は伝説扱いされた。
お前は常識を遥かに超えている。
だからこそ直接話を聞きたかった」

フランはこの部屋に呼ばれた理由をようやく理解した。

「他には何ができる」

フランは少し迷ってから、話し始めた。

スライムが色によって異なる能力を持つこと。
鉄色が武器や防具になること。
黄色が衝撃を吸収すること。
水色が水を操れること。
白が冷気を作れること。
赤が熱を持てること。
黒が物を収納できること。

バルドは一言も遮らず聞いていた。

「スライムと感覚を共有することもできます。
今も三十二匹全部とつながっていて、
街の外まで見えています」

バルドの目が微かに動いた。

「同時に、全部と?」

「はい。生まれた時からそうなので、
普通のことだと思っていたんですが……
普通じゃないんですよね」

「普通じゃない」
バルドはゆっくりと繰り返した。

「全部が普通じゃない」

フランは自分がどれほど普通から外れているかを、
この部屋で初めて数えた。
三十二匹の使役。
同時感覚共有。
スライムを武器と防具に変形させること。
スライムを動物に変化させること。
無限収納。
魔法との組み合わせ。

一つ一つは、それぞれが常識を外れていた。

バルドが腕を組んだ。

「東の村から来たと言っていたな」

「はい」

「あっちの方向には、
ガレットという冒険者が住んでいるはずだが……
知っているか?」

フランの頭の中で、何かが崩れた。

ガレット。
父の名前。
この人が、父の名前を知っている。

喉の奥が詰まった。
目の奥が急速に熱くなった。
こらえようとした。こらえられなかった。

気づいたときには、涙がこぼれていた。

「おい」

バルドが前のめりになった。

「どうした、何かまずいことを言ったか」

フランは声が出なかった。
ただ涙が止まらなかった。
旅の間、一度も泣かなかった分が、
一気に溢れ出てくるようだった。

バルドは狼狽していた。
厳めしい顔が、明らかな困惑に歪んでいる。
大剣を持ってどんな魔物とも戦えそうな男が、
泣いている子供の前で
手をどこに置いていいか分からない様子だった。

「あ、いや、その……水でも飲むか」

フランは首を振った。

しばらく時間が経った。

フランは袖で目を拭い、深く息を吸った。
それを何度か繰り返すと、少しずつ声が戻ってきた。

「……ガレットは、俺の父です」

バルドが静止した。

「父だった、が正しいです。もう死んでいます」

部屋の中が静かだった。
音声遮断の魔道具のせいで、外の音は何も入ってこない。
二人の間に、重い沈黙があった。

フランは話し始めた。

言葉が出てくる順番に、話した。

村人たちから疎まれていたこと。
森の中に家を建てて三人で暮らしていたこと。
スライムが集まってきたことに両親が驚いていたこと。
オーガ・キングが現れたこと。
狩人たちが逃げたこと。
父が一人残されたこと。
翌朝、父の隣にオーガ・キングの亡骸があったこと。

母が働き続けたこと。
体が細くなっていったこと。
八歳の秋に逝ったこと。

スライムが母の姿に変わってくれたこと。

獣道を一人で歩いてここまで来たこと。
商人の馬車に乗せてもらったこと。
スライムを見せたら魔族扱いされたこと。

父のような冒険者になりたいと思って、
この扉を開けたこと。

バルドは一度も口を挟まなかった。
腕を組んだまま、ただフランの言葉を聞いていた。
その厳めしい顔が、フランには読めなかった。
怒っているのか、困っているのか、
それとも別の何かなのか。

フランが話し終えると、また沈黙があった。

バルドは窓の外を見た。音のない街が見えた。

それからゆっくりと、口を開いた。

「……俺は昔、
ガレットやマドレーヌと一緒にパーティーを組んでいた」

フランは顔を上げた。

「三人で組んでいた頃は、俺たちは無敵だった。
ガレットは剣の腕が飛び抜けていて、
マドレーヌは薬草と回復魔法で
俺たちを何度も生かしてくれた。
俺は……まあ、力押しが得意だった」

バルドは口の端を少し動かした。
笑おうとして、うまくいかなかったような顔だった。

「三人でSランクにまで上り詰めたとき、
王都のギルドから話があった。
王都のギルド職員にならないかという話だ」

フランは聞いていた。

「ちょうどその頃……俺とガレットは、
どちらがマドレーヌと一緒になるかで争っていた」

フランの心臓が、跳ねた。

「ガレットは俺と同じくらい強かった。
だが俺と違って、あいつは優しかった。
戦いが終わると武器を置いて、普通の男に戻れる男だった。

俺はそれができなかった」

バルドは視線を窓から外さなかった。

「ある日ガレットが言った。
お前がマドレーヌと一緒に王都に行け、と。
自分は魔物に襲われることの多い東の村に行く、と。
俺のために身を引く、という顔をしていた」

フランは何も言えなかった。

「俺は……それを受け入れた。
情けない話だが、受け入れた。
王都に旅立つ日、マドレーヌを迎えに行った。
だが彼女はいなかった。
置き手紙が一枚あるだけだった」

バルドはそこで一度、言葉を切った。

「『ごめんなさい。私はガレットを選びます。
バルドは強いから、一人でも大丈夫』と書いてあった」

部屋の中が静かだった。

「……俺は一人で王都に行った。
ギルド職員になった。
何年か経って、去年この街のギルドマスターになった。
ガレットとマドレーヌが元気でいるかは、知らなかった。
知る方法もなかった。
ただ、どこかの森の中で、
幸せに暮らしていると思っていた」

バルドがフランを見た。

初めて、その目の中にあるものがフランに分かった。

悲しみではなかった。後悔でもなかった。

それは、長い時間をかけて静かになった、
何か深いものだった。

フランの目から、また涙がこぼれた。

今度は声も出た。堪えようとしなかった。

父の知らない話を聞けた。
母の知らない話を聞けた。
二人がSランクの冒険者だったこと。
三人でパーティーを組んでいたこと。
母が父を選んで追いかけていったこと。

フランが知っている両親は、
森の小さな家の中にいる二人だった。
薪を割る父と、薬草を煎じる母。
それだけだった。

でも二人には、フランが生まれる前の物語があった。

「泣いていい」

バルドが静かに言った。

「ここは外に音が漏れない」

フランは泣いた。

泣きながら、両親のことを思った。
父が最後まで逃げなかった理由が、少し分かった気がした。
Sランクまで上り詰めた男が、
どうして村の狩人たちと一緒に討伐に行ったのか。
どうして逃げなかったのか。

それが父だったからだ。
どこにいても、何があっても、
それがガレットという男だったからだ。

しばらくして、フランは顔を上げた。

目が腫れていた。
恥ずかしいとは思わなかった。

バルドは長椅子に背を預けて、
静かにフランを待っていた。

「……俺を、冒険者として登録してくれますか」

フランは言った。

「父みたいな冒険者になりたいんです」

バルドは少しの間フランを見た。
それから立ち上がり、
机の引き出しから一枚の用紙を取り出した。

「登録する」とだけ言った。

それから付け加えた。

「ガレットの息子がSランク以外になるわけがないからな」

フランはもう一度だけ、涙をこぼした。

今度は、笑いながら。

*――第八章 完――*

 

第二百十八弾「スライム使いの少年 その3」の続きです

 

 

# スライム使いの少年

## 第七章 ランズベルの門

城壁が近づくにつれ、
フランの足が自然と遅くなっていった。

手配書。
その二文字が頭の中でちらついた。
シューの父親が街に通報していれば、
すでに手配書が回っているかもしれない。
魔族の疑いがある少年、
スライムを使役する危険な子供……
そんな文字が紙に書かれて、
この門の衛兵に届いていたら。

スライム鷹を高く飛ばして門の周辺を観察した。
衛兵は二人。
剣を腰に下げ、通行人を一人ずつ確認している。
特別な緊張感はない。
いつもの仕事をいつものようにやっている、
そういう雰囲気だ。

手配書が貼り出されている様子もない。

「……行くしかない」

フランはスライムたちに念を送った。
目立つな、隠れていろ。
スライムたちは服の中に静かに潜り込み、
スライム鷹は上空高くで輪を描いた。

門に近づくと、先に数人の旅人が列を作っていた。
フランはその後ろに並んだ。

前の旅人が衛兵の前に立った。
衛兵が手をかざす。
鑑定スキルだ、
とフランは魔導書で読んだことを思い出した。
対象者の犯罪歴や身分を読み取る能力で、
ギルドへの登録や街への入場確認に
広く使われているという。

旅人が通り過ぎ、次の人が進み、また次の人が進む。

フランの番が来た。

「次」

衛兵が手招きした。
三十代くらいの、顎に無精髭を生やした男だ。
フランが前に進むと、衛兵はまず上から下まで眺めた。
子供一人、手荷物なし、そういう顔をした。

「名前と出身地を」

「フランです。東の村から来ました」

「ギルド登録は?」

「まだ何もしていません」

衛兵が手をかざした。

フランは息を止めた。

手配書が回っていたら。
魔族の疑いで捕まったら。
スライムたちを引き離されたら……。

頭の中でいくつもの最悪の場面が展開した。
逃げるべきか。
でも逃げたら本当に手配される。
どうすれば。

「……問題なし」

衛兵が手を下ろした。

「え」

「問題ないって言った。犯罪歴なし、指名手配なし」

衛兵はフランの青ざめた顔を見て、少し笑った。

「初めて街に来たのか?」

「……はい」

「そんなに怖い顔しなくていい。
お前みたいな子供、毎日来る」

衛兵は顎で門の脇の小屋を示した。

「入市税は向こうで払え。銀貨一枚だ」

フランは深く息を吐いた。体から力が抜けた。

「ありがとうございます」

「ギルドに登録すれば次から免除される。
早めに登録しておけ」

衛兵はもう次の旅人に目を向けていた。

フランは小屋に向かい、
黒いスライムから取り出した革袋を開けた。
馬車で見つけた金貨と銀貨が数枚入っている。
銀貨一枚を小屋の係に渡すと、小さな木札を受け取った。
今日一日有効の入市証だという。

フランは木札を握りしめ、門をくぐった。

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街の中は、想像していたよりずっと騒がしかった。

石畳の道。両側に店が並ぶ。
肉屋、パン屋、武器屋、雑貨屋。
呼び込みの声、馬の蹄の音、
人々の話し声が混ざり合っている。
スライムの感覚共有で拾える情報が多すぎて、
最初は頭がくらくらした。

フランは通りの端に寄って、しばらく呼吸を整えた。

人が多い。こんなに人がいる場所は初めてだ。

マドレーヌのスライムが胸ポケットで少し揺れた。
大丈夫、と言うように。

「大丈夫だ」
フランは小声で答えた。

「慣れる」

通りを歩く人々は、
フランに大して関心を持っていなかった。
旅の子供が一人いる、それだけだ。
視線が来ても、すぐに逸れる。
村に初めて行ったときのような、
じっとりと絡みつく好奇心の目とは違う。
街は人が多すぎて、
一人一人に構っていられないのだろう。

それが、フランには少しだけ楽だった。

通りがかりの荷物を運ぶ男に声をかけた。

「冒険者ギルドはどこですか」

男は荷物を担ぎ直しながら、顎を向けた。

「この道をまっすぐ行って、噴水広場を左だ。
でかい建物がある、すぐわかる」

「ありがとうございます」

フランは歩き出した。

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噴水広場は街の中心にあった。

石造りの噴水が水を吹き上げ、
その周りに人々が行き交っている。
広場に面して大きな建物が何棟か並んでいる。
商業ギルド、錬金術師ギルド、
そして。

冒険者ギルド。

石造りの二階建て。
正面の扉は重厚な木製で、両側に松明が立っている。
扉の上に剣と盾を組み合わせた紋章が彫られていた。
建物の壁には依頼の張り紙がいくつも貼られ、
それを読んでいる冒険者らしき人々がいる。

フランはその前に立ち、動けなくなった。

長かった、と思った。

家を出たのが一ヶ月前。
父の大剣を背負って、
スライムたちと一緒に歩き出したあの朝から、一ヶ月。
野盗と戦い、シューに拒絶され、
獣道を一人で歩き続けた一ヶ月。

父のことを思った。

ガレットはどんな気持ちでギルドの扉を開けたのだろう。
どんな顔をして冒険者として登録したのだろう。
どんな依頼を最初に受けたのだろう。

マドレーヌのことも思った。

「フラン、あなたはお父さんに似てる。
諦めない顔をしてる」

マドレーヌはそう言っていた。
フランが何かに失敗して悔しそうな顔をするたびに、
そう言って笑った。

目の奥が熱くなった。

泣かない、と決めていた。
だが目の奥の熱さが、じわりと広がっていく。
フランは俯いて、数秒間、ただ息をした。

胸ポケットのスライムが、そっと膨らんだ。

「……うん」

フランは顔を上げた。

目の奥の熱さはまだあった。
でもそれを持ったまま、前を向けるくらいには、
フランは強くなっていた。

意を決して、扉に手をかけた。

重かった。両手で押すと、ゆっくりと開いた。

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扉の向こうは広い部屋だった。

天井が高く、木製の長テーブルがいくつか並んでいる。
テーブルには冒険者らしき人々が座って、
酒を飲んだり地図を広げたりしている。
正面に受付カウンターがあり、
制服を着た女性が二人、書類を処理していた。

壁には依頼書がびっしりと貼られている。

フランが入ってくると、何人かがちらりと視線を向けた。
子供だな、という顔をして、またそれぞれの会話に戻った。

フランはカウンターに向かった。

受付の一人が顔を上げた。
二十代後半くらいの、落ち着いた雰囲気の女性だ。
茶色の髪をきっちりとまとめ、柔らかな目をしている。

「いらっしゃい。ご用件は?」

「冒険者に、登録したいんですが」

女性はフランを見た。年齢を確認するような目だ。

「登録には年齢制限があってね、
十二歳以上じゃないと受け付けられないんだけど」

「十二です」

「本当に?」
女性は少し目を細めた。

「生まれた月は?」

「三月です」

「今は四月だから……ぎりぎりね」
女性は書類を一枚取り出した。

「保護者の同伴か、
保護者の署名入り許可書が必要になるんだけど、
持ってる?」

フランは黙った。

「……両親は、いません」

女性の表情が少し変わった。
柔らかくなった、とでも言うべき変化だった。

「孤児なの?」

「はい」

「……そう」
女性はしばらく書類を見て、
それから別の棚から違う書類を取り出した。

「孤児の場合は別の手続きがあるから、
こっちになるわ。名前を教えてもらえる?」

「フランです」

「苗字は?」

「……ないです」

父のガレットも苗字はなかった。
冒険者は出身を問われないことが多い、
とマドレーヌが言っていた。

「じゃあフランだけで登録するわね」
女性はペンを走らせながら言った。

「出身地は?」

「東の村です。名前のない小さな村で」

「わかった。武器は?」

フランは少し考えた。

「……特になし、で」

女性が顔を上げた。

「特になし? 武器を持たないで冒険者登録に来たの?」

「持ってますが、説明が難しくて」

女性はフランをじっと見た。
背負っていた父の大剣はすでに黒いスライムの中だ。
見た目には何も持っていない少年にしか見えない。

「……ま、後で確認できるからいいわ」

女性は書類を書き続けた。

「魔法は使える?」

「少し」

「使える魔法の種類は?」

「生活魔法を一通りと……あとはその、応用を少し」

「生活魔法ね」
女性はそのまま書いた。

「スキルは?」

「スキル?」

「特別な技能のことよ。
鑑定とか、強化とか、魔物使役とか」

その言葉でフランは少し身を固くした。

魔物使役。
それはフランがやっていることそのものだ。
でも、それを言っていいのか。
シューの顔が浮かんだ。
恐怖の目が浮かんだ。

女性はフランの沈黙に気づいた。
急かすでもなく、ただ待っていた。

フランは決めた。

隠すのはここではやめよう。
冒険者として登録するなら、
嘘をついて登録しても意味がない。

「……スライムを、使役できます」

静かな声で言った。

受付の女性の手が止まった。

テーブルの方から、誰かが振り向いた気配がした。

「スライムを?」
女性はゆっくりと繰り返した。

「何匹?」

「今連れているのは三十二匹です。
でも増えることもあって、正確な数はわからないです」

女性はフランをじっと見た。
驚きを表に出さないようにしているが、
目の奥が動いている。

「……見せてもらえる?」

フランは頷いた。

服の袖から、小さな透明なスライムを一匹、
手のひらに呼び出した。
スライムはプルプルと揺れて、
フランの手のひらの上でのんびりしている。

ギルドの中が、静かになった。

気づけば、周囲のテーブルの冒険者たちが
全員こちらを見ていた。

誰も何も言わなかった。

フランはスライムを見た。それから女性を見た。

女性は少しの間、フランのスライムを見ていた。
それから、ゆっくりと口を開いた。

「……ねえ、少し待ってもらえる?」

「何かまずいですか」

「まずくはないわ」
女性は立ち上がった。

「ただ、ギルドマスターを呼んだ方がいいと思って」

それだけ言って、女性は奥の扉に向かった。

ギルドの中がざわめき始めた。

フランは手のひらのスライムを見た。
スライムはプルプルと揺れた。
相変わらず、のんびりしている。

「……お前は平和だな」

スライムが揺れた。

フランはカウンターの前に立ったまま、
ギルドマスターとやらを待った。

背筋を伸ばして。父がそうしていたように。

*――第七章 完――*