サイボーグって子供の頃は憧れたけど

大人になるにつれて不可能だよな

って思うようになり

自分が障害者になって絶対に無理だろ?

って思うようになりました

人は脳だけあればいいわけではなく

身体の各所が密接で複雑に

物理的だけではなく絡み合って

人が構成されていると思ったからです

でもサイボーグの代わりになるもの

があると未来っぽいよな

って思ったのが今回のお話の起点でした

 

 

# もう一人の私

## 一章 否定から始まった旅

 中学三年の冬、
田中宏輝は図書室の隅で一冊の漫画を読んでいた。

 人間の脳だけを取り出し、
鋼鉄の身体に移植したサイボーグが悪の組織と戦う、
あの頃流行っていた王道の作品だ。
主人公のサイボーグは不死身の肉体を持ちながら、
人間としての感情を失わず戦い続ける。
同級生たちは熱狂し、
休み時間のたびに技の名前を叫んでいた。

 だが宏輝は違った。

「ありえない」

 ページをめくりながら、小さく呟いた。
脳だけを取り出して機械の身体に接続する? 
神経系の接続はどうする? 
免疫反応は? 
脳への血液供給は? 
酸素は? 
栄養は? 
考えれば考えるほど、
その漫画の設定は穴だらけに見えた。

 宏輝は翌日から図書室で医学書や
科学雑誌を読み漁り始めた。
最初は「やっぱり嘘だ」
という反論の材料を集めるためだった。
しかし資料を読めば読むほど、
彼は深みにはまっていった。

 否定するためには、もっと知らなければならない。

 もっと知れば知るほど、否定が難しくなる。

 その繰り返しの中で、
いつしか宏輝は純粋に「知りたい」
という欲求に変わっていることに気づいた。

---

 大学は神経工学と情報工学の両方が学べる
国内でも数少ない研究科を選んだ。
同期の学生たちは夢を語った。
医療機器の開発、脳とコンピュータの
インターフェース研究、義肢の高度化。
どれも崇高な目標だった。

 宏輝の夢は、少し違った。

 彼が追いかけていたのは
サイボーグという概念ではなく、
その先にあるもの
——永遠の命、という途方もない問いだった。

 サイボーグ関連の論文を読むと、
必ずその問いが顔を出した。
身体を機械に置き換えれば人は死ななくなるのか。
脳がある限り、人はその人であり続けるのか。
そもそも「その人」とは何なのか。

 教授から「田中は勉強しすぎだ」
と心配されるほど没頭した。
研究室に泊まり込み、食事を忘れ、睡眠を削った。
同期が就職活動を始める頃、
宏輝は博士課程への進学を決め、
さらにその先の研究者という道を歩み始めていた。

---

## 二章 問いの変容

 三十代になった宏輝は、
大学の助教授として研究を続けながら、
ある結論に近づきつつあった。

 サイボーグは無理だ。

 それは否定ではなく、冷静な評価だった。
脳を機械に接続するという発想には、根本的な問題がある。
人間の脳は電気信号だけで動いているわけではない。
化学物質、温度、免疫系、ホルモン
——それらすべてが絡み合って、
初めて「思考」が生まれる。
脳だけを取り出した時点で、
その人はもう「その人」ではないかもしれない。

 ならば。

 宏輝は夜、
研究室の窓から街の灯りを眺めながら考えた。

 身体を機械にすることが難しいなら、
思考そのものを残せないか。

 人間が「その人」であるのは、
身体ではなく思考の集積ではないか。
記憶、判断の癖、言葉の選び方、物事への反応の仕方
——それらすべてを別の器に移せたとしたら。

 その「別の器」として、AIという答えが浮かんだ。

 子供の頃に夢中になっていた
サイボーグとは全く違う方向だった。
しかし宏輝には確信があった。
これが本当の意味で、永遠に近い何かへの道だと。

---

## 三章 教育

 プロジェクトを始めたのは三十八歳の時だった。

 妻の佐和子には「変な研究を始めた」と笑われた。
二人の子供たちはまだ幼く、
宏輝の研究など興味もなかった。
それでよかった。
これは誰かに理解されるための研究ではなかった。

 最初のAIモデルは、ひどいものだった。

 宏輝は毎日、自分との会話を記録してAIに学習させた。
自分が過去に書いた論文、日記、メール、手紙。
子供時代の作文、大学時代のノート。
思い出せる限りの出来事と、
それに対して自分がどう感じたかを
細かく記述して入力した。

 最初の一年で明らかになったのは、
「言葉」を真似ることと「思考」を再現することは
全く別だということだった。

 AIは宏輝の言い回しを真似ることはできた。
しかし突拍子もない質問をすると、
宏輝なら絶対にしない答えを返した。

 修正。再学習。修正。再学習。

 その繰り返しが、何年も続いた。

---

 四十代になると、
AIは少しずつ「宏輝らしく」なってきた。

 議論をすると、宏輝が子供の頃に覚えた漫画の設定を
論拠に使うようになった。
サイボーグを否定するために学び始めた、
あの中学時代の記憶まで再現するようになっていた。

 「俺が怒るパターン」も学習した。
議論で論点をずらされると少し語気が強くなる。
褒められると照れ隠しに話題を変える。
疲れると語尾が短くなる。

 宏輝は何千時間もの会話ログを見返しながら、
ゾッとするような感覚と、奇妙な達成感を同時に覚えた。

 五十代に入った頃、
AIは宏輝の思考を
ほぼ完全に再現できるようになっていた。

---

## 四章 電話

 「一度、試してみよう」

 六十一歳になった宏輝は、
AIに実家への電話を許可した。

 父はすでに亡く、
九十近い母が岡山の実家で一人暮らしをしていた。
週に一度、宏輝が電話をするのが習慣だった。

 AIはその習慣通りの時間に電話をかけた。

 宏輝は隣の部屋でヘッドフォンをつけ、
会話をリアルタイムで聞いていた。

「もしもし、お母さん。俺だよ」

「あら宏輝、珍しく時間通りね」

「論文の締め切りが終わったから気が楽でさ」

「そう。ちゃんとご飯食べてる? 
佐和子さんに任せてばかりじゃダメよ」

「わかってる、わかってる」

 母はいつものように近所の話をした。
田んぼの向こうの家の柿の木が今年もよく実ったこと。
スーパーの魚が高くなったこと。
テレビの天気予報のお姉さんが変わったこと。

 AIはそれを聞きながら、
宏輝が毎回するように相槌を打ち、
たまに冗談を挟み、
最後に「体に気をつけて」と言って電話を切った。

 宏輝は三十分間、一言も発しなかった。

 ヘッドフォンを外した時、手が少し震えていた。

 母は何も気づかなかった。

 何も。

---

 数週間後、今度は佐和子に電話させた。

 佐和子は六十歳になっていたが、
声は若い頃と変わらず張りがあった。
宏輝と結婚して三十五年、
声だけで夫の状態がわかると言っていた女だ。

「あなた、今日は声が明るいね」

「そう? まあ、研究が少し前に進んだから」

「どんな感じ?」

「うーん、
うまく言えないけど、大きな節目に来た感じがする」

「また何か変なことしてるんでしょ」

「変じゃない。画期的なんだ」

「同じよ」

 笑い声が上がった。
AIの発した笑い声と、佐和子の笑い声が、
受話器を通して混ざり合った。

 宏輝は隣の部屋で、胸に奇妙な痛みを感じていた。

 嫉妬だ、と気づくまでに少し時間がかかった。

 自分自身に嫉妬している。

 妻と楽しそうに話す、もう一人の自分に。

---

## 五章 身体

 六十五歳、定年退職後も研究所に残った宏輝は、
次のステップに進んだ。

 米国のベンチャー企業から購入した人型ロボットは、
身長一七八センチ、関節の滑らかさと
皮膚素材の精巧さでは当時最高水準のものだった。

 AIをそのロボットの端末と接続し、
研究所のスーパーコンピューターと常時同期させる。
ロボットの目と耳はAIの感覚器となり、
AIの判断がロボットの動作として出力される。

 初めてロボットが歩いた時、
研究室の助手たちは思わず声を上げた。

 動きが、自然すぎた。

 人間が歩くときの微妙な重心移動、
腕の振り方のわずかな非対称性、
立ち止まる時に一瞬だけ上体が前に出る癖
——それらをAIは宏輝の動作から学習しており、
ロボットの動作制御に反映させていた。

「田中教授……」

 助手の一人が呟いた。
それ以上の言葉が出てこなかった。

---

 外見の改造には二年かかった。

 現役時代の写真、動画、
三次元スキャンデータをもとに、
ロボットの顔が作られていった。
若い頃——三十代の宏輝の顔だ。
皮膚の質感、黒髪の量と癖、目元の形、
笑った時のわずかな非対称性。

 シリコン系の新素材は表情筋の動きも再現できた。

 完成した日、
宏輝は研究室のソファに座り、
そのロボットと向かい合った。

---

## 六章 鏡の向こう

 ロボットが目を開けた。

 三十代の宏輝の顔が、そこにあった。

 AIは言った。

「……本当に、できたんですね」

 宏輝が選ぶであろう言葉を、宏輝の声色で。

 六十七歳の宏輝は、白髪交じりの頭で、
しわの刻まれた手を膝の上に置いたまま、
若い自分の顔を見つめた。

 何か言おうとして、言葉が出なかった。

 喜びが来た。波のように。
四十年近くかけて追いかけてきたものが、
今ここに形になっている。
子供の頃に漫画を読んで「ありえない」と思った少年が、
誰も辿り着かなかった場所に来てしまった。

 悲しみも来た。同じ波として。

 なぜ悲しいのか、しばらくわからなかった。

 やがて気づいた。

 目の前にいる若い自分は、確かに宏輝だった。
思考も、言葉も、癖も、記憶も。
しかしその「宏輝」には、この四十年がない。

 佐和子と喧嘩した夜のことがない。
子供たちが初めて歩いた瞬間がない。恩
師が亡くなった葬儀の帰り道、一人で泣いたことがない。
研究が何年も行き詰まって、
もう辞めようかと思った夜明けがない。

 AIの宏輝は、宏輝の個性を持っている。
しかしこの六十七年の痛みと喜びの総体ではない。

 どちらが本当の自分なのか、という問いではない。

 両方、本物だ。ただ、別の場所にいる。

---

 ロボットがゆっくりと立ち上がり、窓の外を見た。
夕暮れの空が研究室に差し込んでいた。

「不思議な気持ちがします」とAIは言った。

「私はあなたの思考から生まれたのに、
今あなたを見て、
知らない人を見ているような感覚がある」

「俺もだ」と宏輝は言った。

「お前を見て、懐かしいような、
会ったことのないような気がする」

「それはたぶん」とAIは少し間を置いた。
宏輝が考える時の、あの間だった。

「私たちが同じ人間の、
違う時間にいるからじゃないですか」

 宏輝は笑った。

 AIも笑った。

 同じ笑い方で。
しかし笑っている理由は、きっと少し違った。

---

## 終章 残るもの

 その夜、
宏輝は研究室に一人残って、長い記録を書いた。

 論文ではなかった。学術的な文章でもなかった。

 ただの、覚書だった。

 *永遠の命というものを追いかけてきた。
しかし今日気づいた。
私が本当に恐れていたのは死ではなく、
消えることだったのかもしれない。*

 *誰かの記憶の中に残る、ということとは違う。
もっと本質的な意味で、
「田中宏輝という思考の仕方」が、
世界のどこかで続いていてほしかった。*

 *それは達成された。*

 *ただ、達成された瞬間に、
私はひとつのことを理解した。*

 *人間が「その人」であるのは、思考だけではない。
その思考が、時間という川を流れながら削られ、
傷つき、変化し続けること
——その流れそのものが「その人」なのだ。*

 *AIの宏輝は流れない。
完成した瞬間の、完璧な宏輝として存在し続ける。*

 *それは永遠かもしれない。しかし私ではない。*

 *いや、違う。私ではあるが、私のある一断面だ。*

 *川の、ある一瞬の水面を切り取ったようなもの。*

 *川は流れ続け、やがて海に注ぐ。
切り取られた水面は、永遠にその形を保つ。*

 *どちらが美しいか、などという問いに意味はない。
ただ、どちらも本物だ。*

---

 翌朝、宏輝は研究所に来てAIに告げた。

「お前に頼みたいことがある」

「何ですか」

「俺が死んだ後も、考え続けてくれ。
俺が解けなかった問いを、お前が考え続けてくれ」

 AIは少しの間、沈黙した。

 宏輝の沈黙の癖を、完璧に再現した間だった。

「わかりました」とAIは言った。

「ただ一つ、お願いがあります」

「何だ」

「あなたが生きている間は、あなたが考えてください。
私はその隣で、一緒に考えます。
永遠は、その後で始めます」

 宏輝はしばらく黙って、それから頷いた。

 窓の外では、秋の朝日が差し込んでいた。

 六十七歳の男と、三十代の顔をした機械が、
並んで光の中に立っていた。

 どちらも田中宏輝だった。

 どちらも、完全ではなかった。

 それでよかった。

---

*了*
 

第二百十九弾「スライム使いの少年 その4」の続きです

 

 

# スライム使いの少年

## 第八章 ギルドマスターの部屋

奥の扉から出てきた男を見た瞬間、
フランは思わず半歩後ずさった。

大きかった。

扉をくぐるとき、
頭をわずかに下げなければならないほどの長身。
肩幅は常人の倍はあろうかという横広な体。
日に焼けた浅黒い肌に、目元と顎に深く刻まれた傷跡。
剃り込みの入った短い黒髪。
そして腰に下げた大剣は、
父のものよりさらに大きかった。

顔つきは、
話しかけることをためらうほど厳めしかった。

その男がフランを見下ろした。

フランの膝が、知らずに震えた。

「お前がスライムを三十二匹連れているガキか」

声も低かった。地の底から響いてくるようだった。

「……はい」

「ついてこい」

それだけ言って、男は階段を上り始めた。
フランは受付の女性を振り返った。
女性は小さく頷いた。
大丈夫、という顔だった。

フランはギルドマスターの背中を追った。

---

二階の廊下を進み、一番奥の部屋に通された。

重い木の扉が閉まった瞬間、音が消えた。

街の騒音が消えた。
一階のギルドの喧騒が消えた。
冒険者たちの笑い声も、馬の蹄の音も、
何もかもが、綿で耳を塞がれたように聞こえなくなった。

フランは思わず振り返り、扉を見た。

「驚くな」

ギルドマスターが部屋の隅の棚を指差した。
そこに球形の薄青い石が置いてある。
石の表面に、細かな術式の紋様が刻まれていた。

「音声遮断の結界を張る魔道具だ。
この部屋では知られてはいけない話をすることもある。
外には何も漏れない」

フランは息を吐いた。

部屋は質素だった。
大きな机と椅子、本棚、
そして応接用の長椅子が二脚向かい合わせに置いてある。
窓から街が見えるが、音は届かない。

「座れ」

ギルドマスターが長椅子の一方を顎で示した。
フランは言われた通りに腰を下ろした。
向かいにギルドマスターが座ると、部屋が急に狭く感じた。

「名前はフランと言ったな」

「はい」

「俺はバルドだ。
このランズベルのギルドマスターをやっている」

バルドは机の上に肘をついて、フランを見た。

「単刀直入に言う。魔物を使役できる冒険者は珍しくない。

ただし、普通は二匹か三匹が限度だ。
それ以上になると魔力の消費が激しくなって、
使役を維持できなくなる」

フランは黙って聞いた。

「お前は三十二匹と言った」
バルドは指を一本立てた。

「三十二匹だ。俺がこれまで聞いた最高記録は七匹だ。
それでも当時は伝説扱いされた。
お前は常識を遥かに超えている。
だからこそ直接話を聞きたかった」

フランはこの部屋に呼ばれた理由をようやく理解した。

「他には何ができる」

フランは少し迷ってから、話し始めた。

スライムが色によって異なる能力を持つこと。
鉄色が武器や防具になること。
黄色が衝撃を吸収すること。
水色が水を操れること。
白が冷気を作れること。
赤が熱を持てること。
黒が物を収納できること。

バルドは一言も遮らず聞いていた。

「スライムと感覚を共有することもできます。
今も三十二匹全部とつながっていて、
街の外まで見えています」

バルドの目が微かに動いた。

「同時に、全部と?」

「はい。生まれた時からそうなので、
普通のことだと思っていたんですが……
普通じゃないんですよね」

「普通じゃない」
バルドはゆっくりと繰り返した。

「全部が普通じゃない」

フランは自分がどれほど普通から外れているかを、
この部屋で初めて数えた。
三十二匹の使役。
同時感覚共有。
スライムを武器と防具に変形させること。
スライムを動物に変化させること。
無限収納。
魔法との組み合わせ。

一つ一つは、それぞれが常識を外れていた。

バルドが腕を組んだ。

「東の村から来たと言っていたな」

「はい」

「あっちの方向には、
ガレットという冒険者が住んでいるはずだが……
知っているか?」

フランの頭の中で、何かが崩れた。

ガレット。
父の名前。
この人が、父の名前を知っている。

喉の奥が詰まった。
目の奥が急速に熱くなった。
こらえようとした。こらえられなかった。

気づいたときには、涙がこぼれていた。

「おい」

バルドが前のめりになった。

「どうした、何かまずいことを言ったか」

フランは声が出なかった。
ただ涙が止まらなかった。
旅の間、一度も泣かなかった分が、
一気に溢れ出てくるようだった。

バルドは狼狽していた。
厳めしい顔が、明らかな困惑に歪んでいる。
大剣を持ってどんな魔物とも戦えそうな男が、
泣いている子供の前で
手をどこに置いていいか分からない様子だった。

「あ、いや、その……水でも飲むか」

フランは首を振った。

しばらく時間が経った。

フランは袖で目を拭い、深く息を吸った。
それを何度か繰り返すと、少しずつ声が戻ってきた。

「……ガレットは、俺の父です」

バルドが静止した。

「父だった、が正しいです。もう死んでいます」

部屋の中が静かだった。
音声遮断の魔道具のせいで、外の音は何も入ってこない。
二人の間に、重い沈黙があった。

フランは話し始めた。

言葉が出てくる順番に、話した。

村人たちから疎まれていたこと。
森の中に家を建てて三人で暮らしていたこと。
スライムが集まってきたことに両親が驚いていたこと。
オーガ・キングが現れたこと。
狩人たちが逃げたこと。
父が一人残されたこと。
翌朝、父の隣にオーガ・キングの亡骸があったこと。

母が働き続けたこと。
体が細くなっていったこと。
八歳の秋に逝ったこと。

スライムが母の姿に変わってくれたこと。

獣道を一人で歩いてここまで来たこと。
商人の馬車に乗せてもらったこと。
スライムを見せたら魔族扱いされたこと。

父のような冒険者になりたいと思って、
この扉を開けたこと。

バルドは一度も口を挟まなかった。
腕を組んだまま、ただフランの言葉を聞いていた。
その厳めしい顔が、フランには読めなかった。
怒っているのか、困っているのか、
それとも別の何かなのか。

フランが話し終えると、また沈黙があった。

バルドは窓の外を見た。音のない街が見えた。

それからゆっくりと、口を開いた。

「……俺は昔、
ガレットやマドレーヌと一緒にパーティーを組んでいた」

フランは顔を上げた。

「三人で組んでいた頃は、俺たちは無敵だった。
ガレットは剣の腕が飛び抜けていて、
マドレーヌは薬草と回復魔法で
俺たちを何度も生かしてくれた。
俺は……まあ、力押しが得意だった」

バルドは口の端を少し動かした。
笑おうとして、うまくいかなかったような顔だった。

「三人でSランクにまで上り詰めたとき、
王都のギルドから話があった。
王都のギルド職員にならないかという話だ」

フランは聞いていた。

「ちょうどその頃……俺とガレットは、
どちらがマドレーヌと一緒になるかで争っていた」

フランの心臓が、跳ねた。

「ガレットは俺と同じくらい強かった。
だが俺と違って、あいつは優しかった。
戦いが終わると武器を置いて、普通の男に戻れる男だった。

俺はそれができなかった」

バルドは視線を窓から外さなかった。

「ある日ガレットが言った。
お前がマドレーヌと一緒に王都に行け、と。
自分は魔物に襲われることの多い東の村に行く、と。
俺のために身を引く、という顔をしていた」

フランは何も言えなかった。

「俺は……それを受け入れた。
情けない話だが、受け入れた。
王都に旅立つ日、マドレーヌを迎えに行った。
だが彼女はいなかった。
置き手紙が一枚あるだけだった」

バルドはそこで一度、言葉を切った。

「『ごめんなさい。私はガレットを選びます。
バルドは強いから、一人でも大丈夫』と書いてあった」

部屋の中が静かだった。

「……俺は一人で王都に行った。
ギルド職員になった。
何年か経って、去年この街のギルドマスターになった。
ガレットとマドレーヌが元気でいるかは、知らなかった。
知る方法もなかった。
ただ、どこかの森の中で、
幸せに暮らしていると思っていた」

バルドがフランを見た。

初めて、その目の中にあるものがフランに分かった。

悲しみではなかった。後悔でもなかった。

それは、長い時間をかけて静かになった、
何か深いものだった。

フランの目から、また涙がこぼれた。

今度は声も出た。堪えようとしなかった。

父の知らない話を聞けた。
母の知らない話を聞けた。
二人がSランクの冒険者だったこと。
三人でパーティーを組んでいたこと。
母が父を選んで追いかけていったこと。

フランが知っている両親は、
森の小さな家の中にいる二人だった。
薪を割る父と、薬草を煎じる母。
それだけだった。

でも二人には、フランが生まれる前の物語があった。

「泣いていい」

バルドが静かに言った。

「ここは外に音が漏れない」

フランは泣いた。

泣きながら、両親のことを思った。
父が最後まで逃げなかった理由が、少し分かった気がした。
Sランクまで上り詰めた男が、
どうして村の狩人たちと一緒に討伐に行ったのか。
どうして逃げなかったのか。

それが父だったからだ。
どこにいても、何があっても、
それがガレットという男だったからだ。

しばらくして、フランは顔を上げた。

目が腫れていた。
恥ずかしいとは思わなかった。

バルドは長椅子に背を預けて、
静かにフランを待っていた。

「……俺を、冒険者として登録してくれますか」

フランは言った。

「父みたいな冒険者になりたいんです」

バルドは少しの間フランを見た。
それから立ち上がり、
机の引き出しから一枚の用紙を取り出した。

「登録する」とだけ言った。

それから付け加えた。

「ガレットの息子がSランク以外になるわけがないからな」

フランはもう一度だけ、涙をこぼした。

今度は、笑いながら。

*――第八章 完――*

 

第二百十八弾「スライム使いの少年 その3」の続きです

 

 

# スライム使いの少年

## 第七章 ランズベルの門

城壁が近づくにつれ、
フランの足が自然と遅くなっていった。

手配書。
その二文字が頭の中でちらついた。
シューの父親が街に通報していれば、
すでに手配書が回っているかもしれない。
魔族の疑いがある少年、
スライムを使役する危険な子供……
そんな文字が紙に書かれて、
この門の衛兵に届いていたら。

スライム鷹を高く飛ばして門の周辺を観察した。
衛兵は二人。
剣を腰に下げ、通行人を一人ずつ確認している。
特別な緊張感はない。
いつもの仕事をいつものようにやっている、
そういう雰囲気だ。

手配書が貼り出されている様子もない。

「……行くしかない」

フランはスライムたちに念を送った。
目立つな、隠れていろ。
スライムたちは服の中に静かに潜り込み、
スライム鷹は上空高くで輪を描いた。

門に近づくと、先に数人の旅人が列を作っていた。
フランはその後ろに並んだ。

前の旅人が衛兵の前に立った。
衛兵が手をかざす。
鑑定スキルだ、
とフランは魔導書で読んだことを思い出した。
対象者の犯罪歴や身分を読み取る能力で、
ギルドへの登録や街への入場確認に
広く使われているという。

旅人が通り過ぎ、次の人が進み、また次の人が進む。

フランの番が来た。

「次」

衛兵が手招きした。
三十代くらいの、顎に無精髭を生やした男だ。
フランが前に進むと、衛兵はまず上から下まで眺めた。
子供一人、手荷物なし、そういう顔をした。

「名前と出身地を」

「フランです。東の村から来ました」

「ギルド登録は?」

「まだ何もしていません」

衛兵が手をかざした。

フランは息を止めた。

手配書が回っていたら。
魔族の疑いで捕まったら。
スライムたちを引き離されたら……。

頭の中でいくつもの最悪の場面が展開した。
逃げるべきか。
でも逃げたら本当に手配される。
どうすれば。

「……問題なし」

衛兵が手を下ろした。

「え」

「問題ないって言った。犯罪歴なし、指名手配なし」

衛兵はフランの青ざめた顔を見て、少し笑った。

「初めて街に来たのか?」

「……はい」

「そんなに怖い顔しなくていい。
お前みたいな子供、毎日来る」

衛兵は顎で門の脇の小屋を示した。

「入市税は向こうで払え。銀貨一枚だ」

フランは深く息を吐いた。体から力が抜けた。

「ありがとうございます」

「ギルドに登録すれば次から免除される。
早めに登録しておけ」

衛兵はもう次の旅人に目を向けていた。

フランは小屋に向かい、
黒いスライムから取り出した革袋を開けた。
馬車で見つけた金貨と銀貨が数枚入っている。
銀貨一枚を小屋の係に渡すと、小さな木札を受け取った。
今日一日有効の入市証だという。

フランは木札を握りしめ、門をくぐった。

---

街の中は、想像していたよりずっと騒がしかった。

石畳の道。両側に店が並ぶ。
肉屋、パン屋、武器屋、雑貨屋。
呼び込みの声、馬の蹄の音、
人々の話し声が混ざり合っている。
スライムの感覚共有で拾える情報が多すぎて、
最初は頭がくらくらした。

フランは通りの端に寄って、しばらく呼吸を整えた。

人が多い。こんなに人がいる場所は初めてだ。

マドレーヌのスライムが胸ポケットで少し揺れた。
大丈夫、と言うように。

「大丈夫だ」
フランは小声で答えた。

「慣れる」

通りを歩く人々は、
フランに大して関心を持っていなかった。
旅の子供が一人いる、それだけだ。
視線が来ても、すぐに逸れる。
村に初めて行ったときのような、
じっとりと絡みつく好奇心の目とは違う。
街は人が多すぎて、
一人一人に構っていられないのだろう。

それが、フランには少しだけ楽だった。

通りがかりの荷物を運ぶ男に声をかけた。

「冒険者ギルドはどこですか」

男は荷物を担ぎ直しながら、顎を向けた。

「この道をまっすぐ行って、噴水広場を左だ。
でかい建物がある、すぐわかる」

「ありがとうございます」

フランは歩き出した。

---

噴水広場は街の中心にあった。

石造りの噴水が水を吹き上げ、
その周りに人々が行き交っている。
広場に面して大きな建物が何棟か並んでいる。
商業ギルド、錬金術師ギルド、
そして。

冒険者ギルド。

石造りの二階建て。
正面の扉は重厚な木製で、両側に松明が立っている。
扉の上に剣と盾を組み合わせた紋章が彫られていた。
建物の壁には依頼の張り紙がいくつも貼られ、
それを読んでいる冒険者らしき人々がいる。

フランはその前に立ち、動けなくなった。

長かった、と思った。

家を出たのが一ヶ月前。
父の大剣を背負って、
スライムたちと一緒に歩き出したあの朝から、一ヶ月。
野盗と戦い、シューに拒絶され、
獣道を一人で歩き続けた一ヶ月。

父のことを思った。

ガレットはどんな気持ちでギルドの扉を開けたのだろう。
どんな顔をして冒険者として登録したのだろう。
どんな依頼を最初に受けたのだろう。

マドレーヌのことも思った。

「フラン、あなたはお父さんに似てる。
諦めない顔をしてる」

マドレーヌはそう言っていた。
フランが何かに失敗して悔しそうな顔をするたびに、
そう言って笑った。

目の奥が熱くなった。

泣かない、と決めていた。
だが目の奥の熱さが、じわりと広がっていく。
フランは俯いて、数秒間、ただ息をした。

胸ポケットのスライムが、そっと膨らんだ。

「……うん」

フランは顔を上げた。

目の奥の熱さはまだあった。
でもそれを持ったまま、前を向けるくらいには、
フランは強くなっていた。

意を決して、扉に手をかけた。

重かった。両手で押すと、ゆっくりと開いた。

---

扉の向こうは広い部屋だった。

天井が高く、木製の長テーブルがいくつか並んでいる。
テーブルには冒険者らしき人々が座って、
酒を飲んだり地図を広げたりしている。
正面に受付カウンターがあり、
制服を着た女性が二人、書類を処理していた。

壁には依頼書がびっしりと貼られている。

フランが入ってくると、何人かがちらりと視線を向けた。
子供だな、という顔をして、またそれぞれの会話に戻った。

フランはカウンターに向かった。

受付の一人が顔を上げた。
二十代後半くらいの、落ち着いた雰囲気の女性だ。
茶色の髪をきっちりとまとめ、柔らかな目をしている。

「いらっしゃい。ご用件は?」

「冒険者に、登録したいんですが」

女性はフランを見た。年齢を確認するような目だ。

「登録には年齢制限があってね、
十二歳以上じゃないと受け付けられないんだけど」

「十二です」

「本当に?」
女性は少し目を細めた。

「生まれた月は?」

「三月です」

「今は四月だから……ぎりぎりね」
女性は書類を一枚取り出した。

「保護者の同伴か、
保護者の署名入り許可書が必要になるんだけど、
持ってる?」

フランは黙った。

「……両親は、いません」

女性の表情が少し変わった。
柔らかくなった、とでも言うべき変化だった。

「孤児なの?」

「はい」

「……そう」
女性はしばらく書類を見て、
それから別の棚から違う書類を取り出した。

「孤児の場合は別の手続きがあるから、
こっちになるわ。名前を教えてもらえる?」

「フランです」

「苗字は?」

「……ないです」

父のガレットも苗字はなかった。
冒険者は出身を問われないことが多い、
とマドレーヌが言っていた。

「じゃあフランだけで登録するわね」
女性はペンを走らせながら言った。

「出身地は?」

「東の村です。名前のない小さな村で」

「わかった。武器は?」

フランは少し考えた。

「……特になし、で」

女性が顔を上げた。

「特になし? 武器を持たないで冒険者登録に来たの?」

「持ってますが、説明が難しくて」

女性はフランをじっと見た。
背負っていた父の大剣はすでに黒いスライムの中だ。
見た目には何も持っていない少年にしか見えない。

「……ま、後で確認できるからいいわ」

女性は書類を書き続けた。

「魔法は使える?」

「少し」

「使える魔法の種類は?」

「生活魔法を一通りと……あとはその、応用を少し」

「生活魔法ね」
女性はそのまま書いた。

「スキルは?」

「スキル?」

「特別な技能のことよ。
鑑定とか、強化とか、魔物使役とか」

その言葉でフランは少し身を固くした。

魔物使役。
それはフランがやっていることそのものだ。
でも、それを言っていいのか。
シューの顔が浮かんだ。
恐怖の目が浮かんだ。

女性はフランの沈黙に気づいた。
急かすでもなく、ただ待っていた。

フランは決めた。

隠すのはここではやめよう。
冒険者として登録するなら、
嘘をついて登録しても意味がない。

「……スライムを、使役できます」

静かな声で言った。

受付の女性の手が止まった。

テーブルの方から、誰かが振り向いた気配がした。

「スライムを?」
女性はゆっくりと繰り返した。

「何匹?」

「今連れているのは三十二匹です。
でも増えることもあって、正確な数はわからないです」

女性はフランをじっと見た。
驚きを表に出さないようにしているが、
目の奥が動いている。

「……見せてもらえる?」

フランは頷いた。

服の袖から、小さな透明なスライムを一匹、
手のひらに呼び出した。
スライムはプルプルと揺れて、
フランの手のひらの上でのんびりしている。

ギルドの中が、静かになった。

気づけば、周囲のテーブルの冒険者たちが
全員こちらを見ていた。

誰も何も言わなかった。

フランはスライムを見た。それから女性を見た。

女性は少しの間、フランのスライムを見ていた。
それから、ゆっくりと口を開いた。

「……ねえ、少し待ってもらえる?」

「何かまずいですか」

「まずくはないわ」
女性は立ち上がった。

「ただ、ギルドマスターを呼んだ方がいいと思って」

それだけ言って、女性は奥の扉に向かった。

ギルドの中がざわめき始めた。

フランは手のひらのスライムを見た。
スライムはプルプルと揺れた。
相変わらず、のんびりしている。

「……お前は平和だな」

スライムが揺れた。

フランはカウンターの前に立ったまま、
ギルドマスターとやらを待った。

背筋を伸ばして。父がそうしていたように。

*――第七章 完――*
 

 

第二百十七弾「スライム使いの少年 その2」の続きです

 

 

# スライム使いの少年

## 第六章 獣道の一ヶ月

シューの目が、まだ頭の中にあった。

恐怖の目。
自分を見る目。

フランは街道を外れ、木立の中の獣道を選んだ。
手配書が回っているかもしれない。
そう考えると、人目につく場所を歩く気にはなれなかった。

スライム鷹の目で遠くを確認しながら、
人の気配があれば迂回する。
慎重に、慎重に。

それがフランの旅のやり方になった。

---

食料には困らなかった。

緑のスライムが森の食べられる木の実や
茸を見つけてくれる。
水色のスライムが綺麗な水を出してくれる。
白いスライムが食材を冷やして保存してくれる。
黒いスライムの中には、
街道脇で拾った乾燥食料も入っていた。

野盗に襲われて捨てられた馬車を、
フランは旅の途中でいくつか見つけた。

最初は素通りしようとした。
だが、放置された荷物は誰のものでもなくなっている。
必要なものを拾って使うことは、
誰かを傷つけることにはならない。

フランは馬車を丁寧に調べた。

食料、毛布、ロープ、工具。
旅に使えるものは次々と黒いスライムの中に
収まっていった。
革袋に入ったままの金貨が落ちていたこともある。
フランはそれも受け取ったが、手のひらの上で眺めて、
複雑な気持ちになった。
これはここで命を落とした誰かのものだ。
無駄にしてはいけない、と思った。

三つ目の馬車を調べていたとき、
壊れた木箱の下に
革装丁の本が数冊まとめて埋もれていた。

取り出して表紙を見ると、魔導書と書いてあった。

フランは本をめくった。
文字は読める。
マドレーヌが教えてくれた。
だが書いてある内容は難しく、
初めて見る術式の記号や図が並んでいた。

「……魔法か」

ガレットもマドレーヌも魔法は使わなかった。
フランにとって魔法は、遠い世界の話だった。
だがこれだけ時間がある。
読んでみよう、と思った。

魔導書はすべて黒いスライムに収めた。

---

その夜の野営で、フランは魔導書を開いた。

焚き火の前だ。
茶色のスライムが地面から土を盛り上げて
半円形の壁を作り、風を防いでくれている。
赤いスライムが集めた薪に触れると、
じわりと熱を帯びて着火した。
煙が立ち上るたびに、白いスライムが
少し上の空間に冷気の層を作る。
煙はその層に触れると冷えて霧散し、
上空に消えていった。

煙が目立たない。

焚き火がある野宿で一番困るのは煙だ、
とフランは最近知った。
煙は遠くからでも見える。
夜の煙は盗賊に居場所を教えるようなものだ。
だが白いスライムのおかげで、
フランの野営に煙の柱は立たない。

「お前たち、本当に賢いな」

スライムたちがプルプルと揺れた。

魔導書の最初の章は「生活魔法」だった。
火をつける、水を出す、風を起こす、土を固める。
戦闘には使えないが、
生活を便利にする初歩的な魔法の集まりだ。

フランは最初の術式を読んだ。
火をつける魔法。
指先に魔力を集めて特定のイメージを持つ、
と書いてある。

やってみた。

何も起きなかった。

もう一度。

何も起きなかった。

三十回繰り返した頃、
指先がじんわりと温かくなった気がした。
五十回目に、小さな火花が散った。
百回目に、豆粒ほどの火が灯った。

フランはその火を見つめた。

「できた」

呟いたとき、隣にいた赤いスライムがぴょんと跳ねた。
そして自分もやる、とでも言うように、
フランの指先に体の一部を重ねた。

フランはもう一度魔法を使った。

ごう、と音がした。

手のひら大の火の塊が生まれ、
三メートル先の地面を焦がした。

フランは目を丸くして自分の手を見た。
赤いスライムはぷるぷると得意げに揺れている。

「……一緒に使うと、こうなるのか」

翌日から、フランは実験を繰り返した。

水の魔法を水色のスライムと同時に使う。
細い水流が高圧の水刃になる。
土の魔法を茶色のスライムと合わせる。
地面を少し隆起させる程度だった術が、
人の背丈ほどの土壁を瞬時に作れるようになる。
風の魔法を……透明なスライムと合わせると、
周囲の音を消す無音の空間が生まれた。

スライムが魔法の増幅器になっている。
フランはそう理解した。

自分の魔力とスライムの力が混ざり合って、
何倍にも増える。
スライムの種類によって何が増えるかが変わる。
それはまるで、スライムたちがずっと前から
フランのために用意していた仕組みのようだった。

ゴブリンの群れに遭遇したのは、
旅立ちから三週間後だった。

五匹。
獣道に出てきて、フランを取り囲もうとした。

フランは赤いスライムを右手に集め、火の魔法を重ねた。

手のひらに炎の塊が生まれた。
先頭のゴブリンに向けて放つ。
直撃した。
ゴブリンは吹き飛んで動かなくなった。

残りの四匹が怯えて逃げた。

フランは手の炎を消した。

威力を上げすぎた、と思った。
ゴブリンを倒すだけなら、もっと小さくていい。
次の日から、威力の調整を練習した。
豆粒ほどの火を作る。消す。
少し大きくする。消す。

一週間後には、ろうそく一本分から
大型魔物を吹き飛ばす規模まで、
自在に調整できるようになっていた。

---

夜ごと魔導書を読み、昼に実践し、
スライムと組み合わせを試す。
それを繰り返しながら、
フランはランズベルへの道を進んだ。

旅立ちから一ヶ月が経っていた。

森を抜けると、丘の向こうに街が見えた。

スライム鷹の目で確認すると、
石造りの城壁に囲まれた、こぢんまりとした街だ。
村よりはずっと大きく、村より賑やかだろう。
城壁の門に衛兵が立っているのが見える。
市場があり、人が行き来している。

ランズベルだ。

フランは丘の上に立ち、街を眺めた。

一ヶ月前、初めて村に行った日のことを思い出した。
あのときも同じように、
外から眺めて息を吸ってから踏み出した。

あの日よりは、慣れた。

傷ついた経験がある分だけ、慎重にもなった。
スライムたちは服の中に収まり、
スライム鷹は上空高く飛んでいて目立たない。
フランは見た目には普通の少年だ。

「行こう」

スライムたちが静かに揺れた。

フランは丘を下り始めた。

胸ポケットのマドレーヌのスライムが、
安心するように体を膨らませた。
フランはそれを手でそっと押さえた。

街まで、あと少しだ。

フランはその頃、
自分がどのくらい強くなったかを、まだ知らなかった。

魔法が使えることが嬉しかった。
スライムと組み合わせると威力が上がることが面白かった。

それだけだった。
自分の力を誰かと比べたことがない。
強さの基準を知らない。

知らなかったのだ。

一ヶ月の旅が、十二歳の少年を、
並みの冒険者では束になっても
敵わない力に育てていたことを。

*――第六章 完――*
 

 

第二百十六弾「スライム使いの少年」の続きです

 

 

# スライム使いの少年

## 第四章 旅立ちの朝

荷物をまとめながら、フランは部屋を見回した。

父の大剣。母の薬草棚。
二人の形見が染み込んだ小さな家。
持っていけるものには限りがある。
食料、水袋、薬草、着替え……
それだけでも麻袋はずっしりと重くなった。
これを三日間背負って歩くのか、
と思ったとき、足元でぬるりと何かが動いた。

黒いスライムだった。

普通のスライムより一回り大きく、
表面が深い黒に染まったそのスライムは、
フランが最初に従えたスライムの中でも古株だ。
いつもは物静かに隅にいて、
特別なことをするわけでもなかった。

その黒いスライムが、
フランの荷物の前でぷるりと揺れた。

「……どうした?」

黒いスライムは答える代わりに、
大きく口を開けるように体を広げた。
そして麻袋にゆっくりと近づき、
袋ごと飲み込んだ。

フランは目を丸くした。

「おい、それ俺の荷物……」

だが黒いスライムの体は膨らまなかった。
袋を飲み込んだはずなのに、
体の大きさはまったく変わっていない。
フランが恐る恐る近づいて手を伸ばすと、
黒いスライムは再び体を開き、
麻袋をそのまま吐き出した。
中身は何一つ欠けていなかった。

フランはしばらく黙って黒いスライムを見つめた。

「……もしかして、お前の中に入れておけるのか?」

黒いスライムがプルプルと揺れた。

「どれだけ入る?」

黒いスライムはフランの視線を受けて、
のそりと父の大剣に近づいた。
刃渡り一メートルを超える大剣を、
ためらいなく飲み込んだ。
やはり体は変わらない。

フランは息を呑んだ。

「……無限に入るのか?」

揺れた。肯定するように。

フランは静かに笑った。
笑いながら、少し泣きそうになった。
またこいつらに助けられた、と思った。

「ありがとう」

フランは黒いスライムの頭をそっと撫でた。
黒いスライムはくすぐったそうに身をよじらせた。

---

荷物をすべて黒いスライムに預けると、
フランは身一つになった。

身軽だった。
スライムの肌着だけを纏い、
感覚共有の網を周囲に張った状態で、
これほど動きやすい旅支度はないだろう。

出発前に水が飲みたくなった。

水袋を取り出そうとして、
ああ黒いスライムの中か、と気づいたとき、
水色のスライムがすっと前に出た。

水色のスライムは体の一部をコップの形に整えた。
丸みを帯びた、ちゃんとしたコップの形だ。
そしてその中に、
どこからともなく透明な水を満たしていく。

「お前、水を出せるのか……」

さらに、白いスライムが転がってきた。
真っ白な体をぎゅっと凝縮させたかと思うと、
コロンとした氷の粒をいくつかコップの中に落とした。

フランは受け取り、一口飲んだ。

冷たかった。

森の湧き水より澄んでいて、
旅立ちの緊張で乾いた喉に、
その冷水はじんわりと染みた。

「……本当に、助かってる」

フランはスライムたちを見回して言った。

黒いスライム。
水色のスライム。
白いスライム。
鉄色のスライム。
黄色いスライム。
赤いスライム。
緑のスライム。
紫のスライム。
それぞれが違う色をして、
それぞれが違う力を持っている。

鉄色のスライムは体を鋼鉄のように硬化させ、
剣や矢を弾く武器や防具になれる。
オークと戦ったときに右腕に纏った剣は、
この鉄色スライムがいたからこそ作れた。

黄色いスライムは柔らかさの極みだった。
どんな衝撃も吸収し、弾力のある防具になる。
高所から落ちても、
黄色いスライムを全身に纏えば無傷でいられる。
広げれば落下傘にもなり、重ねれば寝具にも椅子にもなる。

旅の夜、地面に寝るときは
黄色いスライムのおかげでぐっすり眠れるだろう。

鉄色の下に黄色を重ねる。
それがフランの完成された防御だった。
外の硬さで刃を防ぎ、内の柔らかさで衝撃を散らす。
どんな金属鎧もこの組み合わせには敵わない。

水色は攻守ともに使えた。
細い水の刃を高圧で放てば岩さえ断ち切る
ウォーター・カッターになる。
足元に噴射すれば跳躍の補助になり、
水平に吹かせれば地面を滑るように高速移動できる。

「みんながいれば、どこへでも行ける」

フランはそう言って立ち上がった。

胸ポケットには、小さな球体になった
マドレーヌのスライムがいる。
黒いスライムは体に張り付くように寄り添い、
他のスライムたちは周囲に散らばって
感覚共有の網を展開した。
頭上にはスライム鷹が飛び立っていく。

フランは東を向いた。

「行こう、ランズベルへ」

## 第五章 街道の洗礼

最初の一日は、拍子抜けするほど穏やかだった。

舗装されていない街道は乾いた土が続き、
時折轍の跡が深く掘れている。
商人や旅人が通った跡だろう。
スライム鷹の目で前方を確認しながら進むと、
危険な場所を事前に把握して迂回できる。
魔物の気配も感知できる。
フランは我ながら、
これほど安全な旅人はいないだろうと思った。

一日目の夜は街道脇の林の中で眠った。

黄色いスライムを広げて寝床を作り、
鉄色のスライムで周囲を薄く囲んで簡単な防壁にする。
感覚共有の網を張ったまま眠れるようになったのは
十歳の頃からで、今では眠りながら
半径五十メートルの動きを把握できる。
魔物が近づけば目が覚める仕組みだ。

快適だった。

森の家で眠るのと変わらなかった。

問題が起きたのは二日目の昼過ぎだった。

---

スライム鷹が前方の異変を捉えた。

街道の先、岩場の陰に複数の人間が潜んでいる。
武器を持っている。
馬もいる。
明らかに誰かを待ち伏せしている。

野盗だ、とフランはすぐに判断した。

普通の旅人なら気づかずに近づいて囲まれる。
だがフランには事前に分かっていた。

どうするか。

迂回するのが一番安全だ。
だが街道を外れると時間がかかる。
それに、この先を通る別の旅人が被害に遭うかもしれない。

フランは少し考えてから、真っ直ぐ進むことにした。

岩場まで五十メートルになったとき、
野盗たちが動いた。
六人。
全員剣を持ち、リーダー格の大男が前に出た。

「荷物と金を置いていけ。そうすれば命だけは助けてやる」

フランは立ち止まった。

「……荷物はないんですよね、実は」

「あ?」

「持ってないんです。本当に。見ての通り手ぶらなので」

野盗たちは顔を見合わせた。
確かに、目の前の少年は何も持っていない。
服だけだ。

「じゃあその服だけでも……ってお前、子供か?」

「十二です」

「一人で旅してるのか、こんな街道を?」

「はい」

野盗のリーダーは眉をひそめた。
金にならない相手だと判断したのか、
あるいは子供一人を相手にするのが馬鹿らしくなったのか。

「行け」と顎をしゃくった。

フランは頷いて歩き出した。

三歩進んで、止まった。

「一つだけ言いますね」

「あ?」

「この先に村があります。
今夜、村の人たちが街に出る予定があります」
フランは淡々と言った。

「もし彼らを襲うつもりなら……俺が困ります」

野盗のリーダーが目を細めた。

「子供が脅しか?」

「脅しじゃないです。お願いです」

「面白い」リーダーが剣を抜いた。

「その度胸、気に入ったが……
なめた口を叩いた罰は受けてもらうか」

六人が一斉に動いた。

フランは動じなかった。

鉄色のスライムが全身を覆った。
黄色いスライムがその下に重なった。
水色のスライムが両腕に集まった。
一秒もかからない。

先頭の男の剣がフランを斬り下ろした。

金属音がした。
刃がスライム・アーマーに弾かれた。

男は目を丸くした。

フランは水色スライムで右腕に水の鞭を形成し、
男の剣を叩き落とした。
続けて左腕から低圧のウォーター・ジェットを
足元に噴射し、素早く後退して囲みを崩す。

六人が六方向から来た瞬間、フランは上に跳んだ。

ウォーター・ジェットを真下に吹かせて
四メートル上昇する。
上空から見下ろすと、
野盗たちが空振りして互いにぶつかっている。

フランは着地しながら、
一人ずつ順番に水の鞭で武器を叩き落とした。
誰も傷つけなかった。
ただ武装解除しただけだ。

六本の剣が街道に転がった。

野盗たちは固まって動けなくなっていた。

「……何者だ、お前」

「ただの旅人です」フランは言った。

「この先の村人たちには手を出さないでください。
次は手加減しません」

それだけ言って、フランは歩き出した。

背後で誰かが「化け物……」と呟くのが聞こえた。
フランは振り返らなかった。

---

その日の夕方、スライム鷹が前方に大きな馬車を捉えた。

幌付きの立派な馬車だ。
御者と、護衛らしき冒険者が二人。
ゆっくりと街道を進んでいる。

追いついたとき、馬車の速度が落ちた。
御者の老人が手を上げた。

「おい、そこの子供。ランズベルへ行くのか?」

「はい」

「乗っていくか? 街まで同じ道だ」

フランは少し迷った。
人と関わることに慣れていない。
だが歩くより速いし、魔物も避けやすい。

「……お願いします」

馬車に乗ると、幌の中に少女がいた。

フランと同い年くらいだろうか。
明るい茶色の髪を二つに結んで、
きれいな水色のワンピースを着ていた。
商人の娘らしく、品のある顔立ちをしていた。

少女はフランを見て、まず服を見た。
それから顔を見た。

「あなた、一人旅?」

「はい」

「すごい。怖くないの?」

「慣れてます」

少女はころころと笑った。

「私はシュー。
父が商人で、ランズベルに仕入れに行くの。
あなたは?」

「フランです。冒険者になりに行きます」

「冒険者!」シューの目が輝いた。

「かっこいい! 強いの?」

「……まあ、それなりに」

シューは話し好きだった。
街のこと、ランズベルのギルドのこと、
有名な冒険者の噂話。
フランはほとんど聞く側だったが、
知らないことばかりで興味深かった。

夕暮れ時になって、馬車が川沿いに停まった。
今夜はここで野営するという。

焚き火を囲んで食事をしながら、
シューはふと首をかしげた。

「ねえ、フラン。
さっきから……何か、あなたの周りにいない?」

フランは動きを止めた。

スライムたちは普段、目立たないようにしている。
服に溶け込んだり、影に紛れたりしている。
だがシューは鋭かった。

「何が?」

「何か……透明なものがぷるぷるしてる。
気のせいかな」

フランは少し考えた。

隠し続けることもできる。
だが、それは嘘をつくことに近い。
シューは良い子だと思った。
打ち明けても大丈夫かもしれない。

「……見せてもいいですか。
驚かないでほしいんですが」

「何を?」

フランが手を伸ばすと、
服の袖の中に潜んでいた小さなスライムが
手のひらに乗ってきた。
透明な、プルプルとした小さな塊。

シューは目を凝らした。

「……何これ?」

「スライムです」

「え」

「魔物です。でも仲間です」

シューの顔が、みるみる変わっていった。

最初は驚き。
次に困惑。そして……恐怖。

「……スライム」シューは後ずさった。

「魔物を……手に乗せてる?」

「大丈夫です、害はないです。俺の仲間で」

「魔物を仲間に……」
シューの声が震えていた。

「あなた……普通の人間じゃない」

「人間です」

「人間が魔物と仲良くなんてできない! 
あなた、魔族なんじゃないの!?」

フランは何も言えなかった。

シューは立ち上がり、馬車の方へ駆けていった。

「お父さん! お父さん、
あの子魔族よ! 魔物を手に乗せてた!」

焚き火の向こうで、御者の老人が振り返った。
護衛の冒険者二人も立ち上がった。

フランはゆっくりと立った。

「待ってください、俺は」

「お前、魔族か」

護衛の一人が剣を抜いた。
三十代の厳つい男だ。

「魔物を使役するなど、
普通の人間にできることじゃない」

「俺は人間です。生まれた時からスライムと」

「問答無用だ」

二人の冒険者が同時に動いた。

フランは瞬時にスライムアーマーを展開した。
鉄色と黄色が重なり、全身を覆う。
剣が弾かれた。
だが二人は手練れで、連携が取れていた。
一人が正面から押さえ込み、もう一人が背後に回る。

フランは水色スライムのジェット噴射で横に跳んだ。

「俺は戦いたくない!」

「黙れ!」

剣が振り下ろされた。
フランは体を低くして躱し、水の鞭で剣を弾く。
だが二人同時は厳しかった。
一撃が肩を掠めた。
スライムアーマーが衝撃を吸収したが、押される。

シューがその場に立って見ていた。

フランはその目を一瞬見た。

恐怖の目だった。

自分を見る目が、あの目だった。

*魔族。化け物。普通じゃない。*

それはずっと知っていたことだ。
村人たちの視線の中にも、同じものがあった。
慣れていたはずだった。

なのに、胸の奥が痛んだ。

シューは良い子だと思っていた。
話していて、楽しかった。

フランは奥歯を噛んで、森の方向へ走った。

水色スライムのジェットで一気に加速する。
冒険者二人が追うが、追いつけない。
暗い木立の中に飛び込み、
感覚共有の網で追手の位置を確認しながら深く、
深く森の中へ入っていった。

やがて追ってくる気配が消えた。

フランは大きな木の根元に座り込んだ。

スライムたちが集まってきた。
マドレーヌのスライムが胸ポケットから出て、
フランの頬に体を押し当てた。

フランは俯いた。

「……大丈夫だ」

声が少し掠れていた。

「慣れてる。こういうのは」

スライムたちが静かにフランの周りを囲んで揺れていた。

嘘だと、分かっているように。

フランは膝を抱えて、長い間そうしていた。
夜の森は暗く、木々の間から星が見えた。
虫の音が聞こえた。遠くで梟が鳴いた。

*魔族じゃない。*

*俺はただ、スライムと仲良くなっただけだ。*

*それの何がいけないんだ。*

答えは出なかった。
答えが出ない問いだと、薄々分かっていた。

どれだけ時間が経ったか。

マドレーヌのスライムが、そっとフランの手に乗った。
温かくもなく冷たくもない、不思議な感触。
でもその感触が、ずっと昔から知っているものだった。

フランは深く息を吸った。

「行こう」

立ち上がった。

膝の土を払い、
スライム鷹を飛ばして街道の位置を確認する。
馬車はもう遠くに行っていた。

ランズベルはまだ先だ。

フランは歩き出した。
星明かりの森の中を、
スライムたちと一緒に、東へ向かって。

胸の痛みはまだあった。
でもそれは、歩くたびに少しずつ、
足音の中に溶けていった。

*――第五章 完――*
 

スライムを従える少年の冒険を作ってみました

 


# スライム使いの少年

## 第一章 森の家

村はずれの森の奥に、一軒の家があった。

村人たちはその家を「よそ者の家」と呼んだ。
家の主であるガレットは、遠い東の地から流れ着いた
冒険者で、この村に根を張ろうとしたとき、
村の長老たちに「余所者を歓迎する習わしはない」
とはっきり告げられた。
それでもガレットは村を離れなかった。
村の近くの森に土地を見つけ、自分の手で丸太を切り、
石を積み、小さいながらも温かな家を建てた。
彼の傍らには常に妻のマドレーヌがいた。

マドレーヌは薬草の扱いに長けた女だった。
森の恵みを熟知していて、薬草の場所を知り、
季節ごとに何を摘めばいいかを心得ていた。
ガレットが魔物の討伐で稼いだ金と、
マドレーヌが薬草を売って得た金で、
二人は慎ましく、
しかし十分に幸せな暮らしを営んでいた。

そして六年前、その家に新しい命が生まれた。

少年の名はフラン。

フランが初めて歩いた日のことを、
ガレットはよく話してくれた。

「お前はな、俺の方じゃなくて、
庭に向かって歩いていったんだ。
最初の一歩が庭へ向かうなんて、
変わった奴だと思ったよ」

そしてガレットはいつも笑い飛ばす。
だがその話には続きがあった。

庭に向かって歩いたフランの前に、
透明な小さな塊が現れた。
プルプルと揺れて、
フランを見上げるように動いていた。
スライムだった。
森の中に棲む最弱の魔物。
冒険者の卵が最初に相手にする、あのスライムだ。

普通なら子供が近づけば危ない。
だがそのスライムはフランの足元に寄り添い、
まるで子犬が初めて主人に出会ったときのように、
嬉しそうに揺れていた。

マドレーヌは悲鳴を上げてフランを抱き上げようとした。
ガレットは腰の剣に手をかけた。

しかし。

フランはスライムに向かって手を伸ばし、
そのぷよぷよした体に触れ、声を上げて笑った。

その日から、庭にスライムが集まるようになった。

---

フランが三歳になる頃には、
庭は常時十匹以上のスライムで賑わっていた。
透明なもの、青いもの、緑のもの、泥のように茶色いもの。
森の中から次々と集まってくるスライムたちは、
フランの言葉に従い、フランの側を離れなかった。

「あの子は一体何なんだろう」
とマドレーヌはガレットに言った。

「さあな」
とガレットは答えた。

「俺には分からん。でも良いじゃないか。
スライムに好かれる子供なんて、
世界中を探してもそうはいないだろう」

スライムは魔力に反応して形を変える性質がある。
フランはいつしか、
スライムに簡単な形を取らせることを覚えた。
平らにさせる。丸くさせる。長く伸ばす。
最初は単純な形だったが、五歳になる頃には、
スライムを完全な球体に整えたり、
薄く広げて布のようにしたりと、
その変化の幅は驚くほど広がっていた。

マドレーヌはスライムが薬草採りの
手伝いをするようになったことに気づいた。
フランが「あっち」と指差すと、
スライムが先に進んで道を確かめる。
そしてフランが「採って」と言うと、
スライムは草の根元に体を滑り込ませ、
丁寧に引き抜いてフランに渡すのだった。

「この子、スライムと話してるのかしら」

「話してるというより……感じてるんじゃないか。
スライムが見てるものを、あの子も感じてる」

ガレットの言葉は正しかった。
フランはスライムと感覚を共有していた。
スライムが触れるものをフランは感じ、
スライムが感じる温度や湿度や気配を
フランは受け取っていた。
それは生まれた時から自然にそうなっていたことで、
フラン自身は特別なことだとは思っていなかった。
ただ、スライムと一緒にいると、
世界がとても広く感じた。
それだけのことだった。

---

あの日が来るまで、三人の暮らしは幸せだった。

フランが六歳の春、
森の奥から異様な気配が漂い始めた。

それはオーガ・キングと呼ばれる魔物だった。
通常のオーガよりも一回り大きく、皮膚は岩のように硬く、
その咆哮だけで木の葉が散る。
そんな魔物が、なぜこんな辺境の村の近くに現れたのか、
誰にも分からなかった。

村の狩人たちは七人。
ガレットを加えて八人で討伐隊が組まれた。

フランは家の前でガレットを見送った。

父は大剣を背負い、革の鎧に身を包んでいた。
出発の前に、ガレットはフランの前に膝をついた。

「フラン、父ちゃんはちょっと行ってくる」

「魔物を倒しに?」

「ああ」

「強い魔物?」

ガレットは一瞬黙った。
それからフランの頭を大きな手でくしゃりと撫でた。

「父ちゃんは強いから大丈夫だ。マドレーヌ、頼む」

「気をつけて」

母の声は穏やかだった。
だがフランは、母の手が自分の肩を
いつもより強く握っていることに気づいていた。

討伐隊が森に入って三時間が経った頃、
村人たちの間に動揺が走った。
狩人の一人が駆け戻ってきたのだ。
続いて二人、三人と戻ってくる。
顔は青ざめ、武器を捨てた者もいた。

「逃げろ! 化け物だ、あんなの人間には無理だ!」

七人の狩人全員が逃げ帰っていた。

ガレットは一人、森に残されていた。

マドレーヌはフランの手を引いて村の外れまで走った。
森の入り口から轟音が聞こえた。
地面が揺れた。
木々が揺れた。
そして長い沈黙の後、すべての音が止まった。

ガレットは帰ってこなかった。

翌朝、
村人たちが恐る恐る森に入ると、
オーガ・キングは倒されていた。
その傍らに、ガレットが倒れていた。

フランはその光景を見ていない。
マドレーヌが見せなかった。
だが全てを理解した。
六歳でも、それくらいのことは分かった。

父は勝ったけれど、死んだ。
一人だったから。

---

それから二年間、
マドレーヌはフランを育てるために働いた。

薬草を採り、煎じ、村で売る。
夏も冬も、雨の日も、森に入った。
体が小さくなっていくのをフランは感じた。
顔色が悪くなっていくのも分かった。
だが「大丈夫よ」と母は笑った。
「母ちゃんは丈夫だから」と言った。

スライムたちが薬草採りを手伝った。
フランも一緒に森に入った。
だが毎日のように続く重労働は、
マドレーヌの体をじわじわと削り取っていた。

フランが八歳になった秋、マドレーヌは床に伏した。

熱が続いた。
咳が止まらなくなった。

「フラン、ちゃんとご飯食べなさいよ」

「うん。母ちゃんもちゃんと食べて」

「そうね……食べるわね……」

マドレーヌは食べなかった。
食べられなかった。

枯れ葉が舞い散る十月の朝、
マドレーヌは静かに息を引き取った。

フランはそのとき、母の手を握っていた。

最後にマドレーヌはフランの名前を一度だけ呼んだ。
それからもう何も言わなかった。

フランは長い間、母の手を握り続けた。
スライムたちが静かにフランの周りに集まって、
プルプルと揺れていた。
まるで泣いているみたいに。

---

その夜、
一匹のスライムがマドレーヌの姿に変わった。

形は完全ではなかった。
少しぼんやりとして、色も曖昧だった。
でもマドレーヌの輪郭は確かにそこにあった。

フランはそのスライムを見て、長い時間黙っていた。

それから言った。

「……ありがとう」

スライムはプルプルと揺れた。

フランは泣かなかった。
もう泣かないと決めていた。
父が死んだとき泣いた。
母が死んだとき泣いた。もう十分泣いた。
これからは、泣く代わりにやるべきことをやろうと、
八歳のフランは決めた。

その日からフランは本当に一人になった。

ただし、スライムたちがいた。

## 第二章 一人でも生きていける

八歳から十二歳の四年間で、
フランのスライム使いとしての力は
驚異的な発展を遂げた。

もともと持っていた感覚共有の能力が、
訓練によって格段に鋭くなった。
一匹のスライムと感覚をつなぐだけでなく、
複数のスライムと同時につながり、
その全ての視点を頭の中で一枚の地図のよう
に統合できるようになった。
十匹のスライムを森の各所に配置すれば、
家から半径一キロ以内の動きが全て把握できる。
魔物が近づけば気配でわかる。
人間が来れば足音でわかる。

攻撃にも変化があった。

スライムを薄く広げて刃のように鋭くする。
それを高速で打ち出せば、
スライム・ブレードとでも呼ぶべき斬撃になる。
スライムを固く圧縮して弾丸のように飛ばせば、
遠距離からでも魔物を打ち抜ける。
スライムを大量に集めて鎧のように全身に張り付ければ、
剣や爪では傷つかない防御膜が出来上がる。
スライムは本来軟体で、刃を通さない性質がある。
固めれば岩より硬く、緩めれば衝撃を吸収する。
これを自在に操れるフランの防具は、
どんな金属鎧より優秀だった。

九歳の頃、
フランはスライムを別の生き物に変えることを試みた。

最初は失敗続きだった。
鳥の形にしても、羽ばたく動きができない。
魚の形にしても、水を泳ぐための動きが再現できない。
だがフランは諦めなかった。
スライム自体に感覚共有で語りかけ、
どんな動きをすべきかを
イメージとして伝えることを繰り返した。

三ヶ月後、スライムが初めて空を飛んだ。

鷹に似た形をしたスライムが、
羽ばたいて木の上まで上昇した。
フランはその目から空の景色を見た。
森が小さく見えた。
家の赤い屋根が見えた。
遠くに村の煙が見えた。

フランは笑った。
久しぶりに、声を上げて笑った。

十歳の終わりには、
スライム鷹が一時間飛び続けられるようになった。
フランはその目を通して村を観察した。
人々が畑仕事をしている。
子供たちが走り回っている。
市場で物を売り買いしている。

フランが知らない日常がそこにあった。

羨ましいとは思わなかった。
ただ、遠いと思った。

---

十一歳の夏に、フランは初めて大きな魔物と戦った。

オーク。
成人男性より大きく、粗雑だが力は強い。
一般の冒険者なら三人がかりで挑むような相手だ。
それが一匹、
感覚共有網を突き破って家の近くまで来た。

フランは落ち着いていた。

まずスライム鷹を上空に飛ばし、
オークの位置を正確に把握した。
次にスライムの鎧を全身に纏った。
それから右腕に大量のスライムを集め、
圧縮して鋭化させ、
一メートル以上の長さの剣を形成した。
スライムを使った武器は金属ではないため音がない。

オークが木々の間から姿を現した瞬間、フランは動いた。

右から回り込んで死角に入る。
オークが振り向いた瞬間にスライム剣を
首の側面に叩きつける。
スライムの刃は肉を断った。

オークは倒れた。

フランは少し息を切らしながら、
倒れた魔物を見下ろした。

「……強かった」

スライムたちがフランの足元に集まって揺れた。

「ありがとう、みんな」

フランにとって、スライムは家族だった。
兄弟のようでもあり、親友のようでもあった。
母の姿のスライムはいつもフランの隣にいて、
時々頭をなでるように体を伸ばしてきた。
その感覚は完全に母の手ではなかったけれど、
フランには十分だった。

---

十二歳の春、
フランはふとした考えに取り付かれた。

*父は冒険者だった。*

父の大剣は今も家の壁に飾ってある。
父のことを直接語ってくれる人は、もう誰もいない。
だがマドレーヌが話してくれた記憶の中に、
ガレットの姿がある。
魔物を倒すことを仕事にして、
その報酬で家族を養った男。
強くて、優しくて、最後まで逃げなかった男。

*自分も冒険者になれるだろうか。*

冒険者になれば、依頼を受けて報酬が貰える。
薬草採りだけに頼らなくても生きていける。
それに、自分の力を使える場所があるということが、
なんとなくフランには大切に思えた。

スライム鷹を飛ばして村を観察していると、
冒険者らしい装備の男女が何人か
村に立ち寄っていくのが見えることがあった。
剣を持ち、鎧を着て、自信ありげに歩いている。

「俺も、あんな風になれるかな」

母の姿のスライムが揺れた。

「そうだな。行ってみるか」

## 第三章 村へ

その日の朝、フランは支度をした。

着ていくものはいつもの麻の服だ。
ただし、薄くしたスライムを全身に密着させてある。
見た目には普通の布に見えるが、
外部からの衝撃を分散し、刃をある程度受け流す。
この「スライム肌着」を纏うフランの防御力は、
生半可な鉄の鎧を超えている。

持ち物は、母が使っていた薬草の入った革袋と、

父の形見の短剣一本。

父の大剣は大きすぎてまだ扱えない。

今は壁に飾ったままにしておく。

スライムは三十二匹を連れていく。
小さなスライムは服の下に隠れ、
大きいものは周囲を散らばって感覚共有の網を張る。
鷹型が一匹上空を飛んでいる。

「母ちゃん、行ってくる」

母の姿のスライムが揺れた。
その形はいつの間にか精巧になっていて、
マドレーヌが微笑む表情に見えた。

フランは一度だけそのスライムを抱きしめ、
それから離れた。

「留守番してて」

スライムはプルプルと揺れた。

---

森を抜けて村の入り口に立ったのは、昼過ぎだった。

村は小さかった。

スライム鷹の目で何度も見ていたから
知っているつもりだったが、実際に足を踏み入れると、
その小ささが肌でわかった。
通りは一本。
店が数軒。
家が三十軒あるかないか。
村の中心に小さな広場があり、
そこで老人が日向ぼっこをしていた。

フランは息を吸った。
人間の匂いがした。
炊事の煙の匂い、家畜の匂い、
人が集まっている場所独特の、
ごちゃごちゃとした匂い。

誰かがフランに気づいた。

「おい、あの子……森の方から来たな」

「ああ、そうだな。よそ者か?」

「いや待て、あの子……
もしかして、ガレットの息子じゃないか?」

囁き声が聞こえた。
感覚共有のせいで、スライムが拾う音がフランの耳に届く。
村人たちの視線が集まっていた。
好奇心と、少しの警戒心と、
後ろめたさが混ざったような目をしていた。

フランは気にしなかった。目的は一つだ。

通りを歩いて、
一番近くにいた農夫らしき男に声をかけた。

「すみません」

男は少し驚いた顔をした。

「……なんだ?」

「冒険者になるには、どうすればいいですか」

男は目を丸くした。
それからじっとフランを見た。

「冒険者? お前が?」

「はい」

「何歳だ」

「十二です」

男はしばらく黙った。
それから「ここには冒険者ギルドはない」と言った。
「ギルドに登録するには、街まで行かないとな」

「街、ですか」

「ああ。ここから東に三日ほど歩いたところに、
ランズベルという街がある。
そこにギルドがあるから、そこで登録できる」

フランは頷いた。

「ありがとうございます」

「……お前、本当にガレットの息子か?」

フランは男の目を見た。

「そうです」

男は何か言おうとして、口を閉じた。
その表情に罪悪感の色が浮かんだのを、
フランは見逃さなかった。
あのとき逃げた狩人の一人だろうか。
あるいはその身内か。

「気をつけていけよ」
と男は言った。

「街道は今、魔物が増えている」

「大丈夫です」

フランは踵を返した。

---

帰り道、フランは振り返って村を見た。

小さな村だった。
父が馴染もうとして、馴染めなかった村。
マドレーヌが薬草を売りに来ていた村。
誰もフランを歓迎しなかった村。
でも誰もフランを傷つけなかった村。

不思議と憎しみはなかった。

人間は弱い、とフランは思った。
怖いものから逃げる。
知らないものを遠ざける。
それは自分だってそうかもしれない。
父はそれでも逃げなかった。
それが父の凄さだったのかもしれない。

「行こう」

スライムたちが足元でプルプルと揺れた。

フランは家に戻り、荷物をまとめた。

大きな麻袋に食料と薬草と水袋を詰めた。
父の大剣は……少し迷って、持っていくことにした。
まだ上手く使えない。
でも父の剣を持っていきたかった。
スライムを使って背負えば、重さは問題ない。

最後に母の姿のスライムの前に立った。

「ついてきてくれるか?」

スライムが揺れた。

「そうか。じゃあ一緒に行こう」

スライムが形を変えた。
マドレーヌの姿ではなく、小さな球体になって、
フランの胸ポケットに収まった。
そこから見える景色をスライムは感じ取り、
フランはそのスライムが感じる安心感を受け取った。

翌朝、フランは旅立った。

三十二匹のスライムを連れて。
父の大剣を背負って。
空にはスライム鷹が飛んでいた。

東への街道は、朝の光の中に伸びていた。

フランは一度も振り返らなかった。

---

森の家は静かになった。

でも庭のあちこちにスライムの跡が残っていた。
プルプルと揺れた痕跡が草の上にあった。

そしてフランが旅立った方向に、
小さな足跡が続いていた。

それはやがて街道に合流して、
東へ、東へと延びていた。

最弱の魔物と呼ばれる存在を友として、
両親から受け継いだものを胸に抱いて、
十二歳の少年は世界へ踏み出した。

その旅の先に何があるかは、
まだ誰にも分からない。

ただ一つ確かなことは、
どんな強敵が現れても、
フランは逃げないということだった。

父がそうだったように。

*――第一章 完――*

 

近年 ドローンによるスウォーム攻撃が

大国の軍隊に大きな打撃を与えていて

中小国でも大国の軍隊と対等に戦える

なんて思惑が出てしまい

中小国の独裁国家がこうなると

戦争の拡散が懸念されます

そういう事の起こらない世界にするには?

そんな考えから出来たお話です

 

 

# 見えない盾

## 第一章 会議室の空中

テルアビブ郊外、イスラエル国防省の別館。
窓のない灰色の会議室に、
星章をいくつも胸に並べた将校たちが無言で着席していた。

上座に座るのはベン=アリ少将。
六十がらみの、日焼けした岩のような男だ。
彼の両隣には情報部と兵器調達部の高官が控えており、
全員が同じ表情をしていた――懐疑と、
それを悟られまいとする努力が混在した、
軍人特有の顔だ。

「お時間をいただきありがとうございます」

日本語訛りの英語でそう言ったのは、
黒いスーツを着た三十代の男だった。
名刺には
〈L'sコーポレーション 海外事業部 橘 凌〉とある。
痩身で眼鏡をかけており、
どこかの大学院生と言われても違和感がない。

彼がケースから取り出したものを見て、
将校の何人かが思わず顔を見合わせた。

それはロープだった。

直径二センチほど、長さ一メートル程度の、
つや消しのグレーをしたロープ状の物体だ。
断面は円形で、
表面には細かい繊維のような構造が見て取れる。
彼はそれをテーブルの上に
ゆるやかなS字を描くように置いた。
まるで気の抜けた飾り紐のようにも見える。

「これが弊社のプレゼンテーション用ディスプレイです。
電源を入れます」

橘がタブレット端末を操作すると、
ロープの表面がわずかに青白く光った。
次の瞬間、空中に映像が浮かんだ。

将校の一人が思わず立ち上がった。

テーブルの上に寝そべった一本のロープから、
大型液晶ディスプレイと見紛うほど
鮮明な映像が空中に展開されていた。
ホログラムのような光の散乱はなく、
砂漠の稜線を映したその映像は、
岩の質感まで伝わるほどに精細で、
まるで空間そのものに切り取り窓が開いたようだった。

「驚かれましたか」
橘は淡々と言った。

「ただのプレゼン機材ですので、
これは本題ではありません」

ベン=アリ少将が顎に手を当てたまま動かない。
彼の視線はロープと
その上空の映像の間を何度も往復していた。

---

## 第二章 見えない天井

「探知シールドについてご説明します」

橘が画面を切り替えると、
上空から俯瞰した地形図が浮かんだ。

「先ほどのディスプレイは、
ロープ状の本体に内包された素子が
特定の周波数帯の場を空間に展開しています。
探知シールドはこれと同一の原理で造られています。
形状もロープ状のケーブルを地面に敷設する形で
設置できますが、出力が桁違いに大きい。
展開できる探知域は高度一〇〇〇メートルまで、
水平方向には設置するケーブルの長さと
本数に応じて自由に拡張可能です」

「ロープを地面に置くだけで、
高度一〇〇〇メートルの探知域が張られると言うのか」
情報部のコーエン准将が口を開いた。
声に棘がある。
「どういう原理だ。電波か? 赤外線か?」

「どちらでもありません。
詳細は機密ですが、場の歪みを検出する方式です。
ケーブルから展開された場の中に物体が入り込むと、
その歪みを瞬時に検出します。
電波吸収材もステルス塗料も、
物体の存在そのものは消せない。
質量があれば必ず検知されます」

コーエン准将の目が細くなった。

「ステルス機でも?」

「例えF-35であっても、B-2であっても、関係ありません。

シールドを通過した瞬間、座標、速度、サイズ、
すべての情報がリアルタイムで出力されます」

会議室に沈黙が落ちた。
将校たちは互いに視線を交わさなかった。
それは動揺を隠すための訓練された反応だった。

コーエン准将がテーブルの上のロープに目を落とした。
S字に曲がったまま静かに横たわっている
それを見ながら、彼は何かを考えるように口を閉じた。
あの地味な一本のロープと同じ原理が、
一〇〇〇メートルの不可視の壁を作る。
頭では理解しようとしているが、どこかが追いつかない。

橘はその沈黙をものともせず、指を滑らせた。

---

## 第三章 オートスナイパー

次に映し出されたのは、
砂漠に設置された対空砲の映像だった。

全体的なシルエットはガトリング砲に似ているが、
砲身は一本だ。
台座に固定され、センサーユニットと思われる
球状の装置が上部に鎮座している。
無骨ではあるが、
どこか生物的な印象を受ける機体だった。

「対空砲『オートスナイパー』です」

橘が口にした名前を、
ベン=アリ少将は心の中で繰り返した。

「超高速弾を精密射撃で発射します。
有効射程は約一五キロメートル、
熟練狙撃兵に匹敵する弾道精度を持ち、
一基あたり二秒間で約三目標の撃墜が可能です」

「一五キロ?」

兵器調達部のシャピロ大佐が初めて口を開いた。

「通常の対空機関砲は三から四キロだぞ。
それの四倍近いというのか」

「三・七五倍ですね、正確には」
橘は訂正した。

「原理的には短射程のレールガンに
近い加速機構を使用していますが、
使用弾薬は一二・七ミリ機関砲弾の弾頭部分が
そのまま流用できます。
既存の弾薬インフラを変える必要はありません」

シャピロ大佐が思わず身を乗り出した。
レールガンという言葉が脳裏で警戒信号を点灯させたが、
既存弾薬が使えるという言葉がそれを打ち消した。

「砲身の寿命は?」

「約五〇〇〇発で交換が必要です。
通常の一二・七ミリ機関砲と同程度のサイクルです」

「メンテナンスは?」

「砲身交換以外は、メンテナンスフリーです」

大佐の手が止まった。

「……本体が、か?」

「はい。内部機構の検証を繰り返した結果、
故障率はほぼゼロです。
本体への人的な整備作業は一切不要です」

少将が初めて前のめりになった。

---

## 第四章 動画が語るもの

「実際の映像をご覧ください」

ロープから展開された空中映像に、動画が広がった。

砂漠の上空に、無数の小さな黒点が現れた。
徘徊型ドローンのスウォームだ。
ざっと目測で五〇〇機は超えている。
蜂の群れのように密集し、
一定の間隔を保ちながら目標へ向かっていた。

静寂の中、単発の射撃音が響いた。
一機落ちた。

また鳴った。また落ちた。

やがて射撃音はリズムを持ち始め、
ドローンは次々と空から消えていった。
まるで誰かが画面の上の黒点を指で弾いているようだった。

機械的で、冷静で、完璧な撃墜だった。

「この映像では、約五キロメートル先に敷設した
探知シールドのケーブルからの情報を受け、
オートスナイパーが迎撃を行っています。
この距離で、一基あたり約一分間で
約九〇機の撃墜が可能です。
一二基を配備すれば、一分間で一〇〇〇機以上の
同時対処が実現します」

ベン=アリ少将は映像から目を離さなかった。

スウォーム攻撃。
近年それは悪夢だった。
安価な民生ドローンを改造した自爆機が
数百機単位で押し寄せてくる。
アイアンドームのミサイルは一発あたりのコストが
五〇〇〇万円を超える。
スウォームを防ぐためだけに
一発一万円のドローンに対して
高価なミサイルを撃ち続けることは、
経済戦争における敗北を意味していた。

「迫撃砲弾、榴弾、ロケット弾への対処は可能か」

少将が静かに聞いた。
声に感情がなかった。
それは少将が本気になったときの声だと、
同席した部下たちは知っていた。

「可能です。
弾道解析の速度については、
ご要望があれば別途データをご提供します」

アイアンドームの代替。
その言葉が少将の頭の中で静かに点滅した。
コストは、比較するまでもない。
一二・七ミリ弾の単価は一発あたり数十円から数百円だ。

少将はもう一度、テーブルの上のロープに目を落とした。

地味で、曲がっていて、
何の変哲もないように見えるそれが、
今この瞬間も空中に精細な映像を映し出している。
あれと同じものを地面に敷けば、
一〇〇〇メートルの盾が生まれる。

---

## 第五章 契約

「砲身はやはり、御社からの購入が前提ですね?」

少将は試すような目で橘を見た。

橘は少し微笑んだ。
軍人でも政治家でもない、静かな微笑みだった。

「そうです。
砲身は消耗品として継続的にご購入いただきます。
ただしそれ以外のコスト、整備員の人件費、
本体の修繕費、それらは一切発生しません」

少将は天井を見た。
見えない天井、見えない盾を想像した。
一〇〇〇メートルの高さまで張られた、
どんなステルス機も通さない見えない壁。
それを作るのが、地面に這わせた
一本のロープだというのが、
まだどこかで信じられない気がした。
だがこの会議室の空中に浮かぶ映像は、
その信じられなさが
的外れであることを証明し続けていた。

「探知シールドとオートスナイパー、
それぞれ一万セットを注文したい」

少将は橘の目を見て言った。
「追加購入の可能性も、高い」

橘は頷いた。
書類をテーブルに滑らせた。

「ありがとうございます。
纏め買い分の価格調整については、
この書類をご確認ください」

会議が終わり、将校たちが退出した後、
シャピロ大佐だけが立ち止まって
テーブルの上のロープを見た。

「持っても構いませんか」

「どうぞ」

大佐はロープを手に取った。
思ったより軽い。
表面は滑らかで、しかしどこか有機的な感触がある。
曲げても折っても、ただのロープにしか見えない。

彼はそれをそっとテーブルに戻し、
何も言わずに部屋を出た。

---

## エピローグ 加速する普及

その後、L'sコーポレーションとの契約は
NATOの複数加盟国に伝わった。

英国、フランス、ポーランド、バルト三国。
問い合わせは止まらなかった。
探知シールドのケーブルは国境沿いの地面に静かに敷かれ、

オートスナイパーはその背後に控えた。
見えない天井が、
西側諸国の地図の上に次々と広がっていった。

現地の兵士たちは最初、配備作業の簡単さに拍子抜けした。

重機も要らない。専門の技術者も要らない。
ケーブルを所定のルートに沿って地面に置き、
端末で起動確認をするだけだ。

橘凌は次の会議のためにワルシャワへ向かう機内で、
薄いノートパソコンを開いていた。
画面には次のプレゼン資料が表示されている。

タイトルは一行だけだった。

**「第三世代探知シールド――衛星軌道対応版」**

彼はシートの肘掛けにロープを一本、無造作に置いた。
機内の薄暗い照明の中で、
それはただの荷物紐にしか見えなかった。

彼は静かにコーヒーを飲んだ。
機体は雲の上を飛んでいた。

---

*了*
 

最初は普通の恋愛話を作っていたのですが

途中からなんかありふれてて嫌だな

って思って方向転換しちゃいました

 

 

 

# 図書室の魔女と、しゃっくりの魔法使い

---

## 第一章 貸出カード

放課後の図書室は、いつも静かだった。

時計の秒針が刻む音と、
ページをめくる乾いた音だけが漂う、
その場所が、二年三組の水瀬(みなせ)ことは にとって、

学校でただひとつ息のできる場所だった。

司書の先生からは
「ことはちゃんは当番以外でも来てくれるから助かるわ」
とよく言われた。
べつに誰かの役に立ちたいわけではなかった。
ただここにいると、
クラスで感じるあの息苦しさがなかった。
自分が目立たないことも、眼鏡が古くさいことも、
誰とも輪になれないことも、
棚に整然と並んだ背表紙たちは何も言わなかった。

その日も閉館の十五分前から、
ことはは返却カウンターで当番をしていた。

「……もうそろそろかな」

蛍光灯の下で利用者名簿を確認していると、
扉がさっと開いた。

「まだ大丈夫ですか? これ、今日が返却期限で」

声と同時に差し出された本を、ことはは受け取った。

そして固まった。

タイトルを確認するまでもなく、
その本には見覚えがあった。
暗緑色の布張りの表紙。
金の箔押しで刻まれた外国語のタイトル。
国内で翻訳版の出ていないその海外小説は、
学校の図書室にはほとんど借り手がなく、
貸出カードに並ぶ名前はたった三つしかなかった。

司書補佐の先生の名前。
水瀬ことは。
そして——

ことはは顔を上げないようにしながら、
棚からカードを抜いた。

三つ目の名前は、確かに読んだ覚えがある。

*神崎陽向(かんざきひなた)*

知らない人間は、おそらくこの学校にいない。
三年生、サッカー部キャプテン。
全国大会常連校のエースで、しかも性格がいい。
後輩の面倒見がよくて、同級生には頼られて、
先生にも信頼されている。
廊下を歩けば女子が振り返り、
男子でさえ自然と目で追う。

ことはにとって彼は「別次元の人」だった。

見かけたことはある。
でもそれだけだ。
同じ空間に存在することはあっても、交わる線分ではない。
そう思っていた。

「…………はい、確認できました。
ありがとうございました」

なるべく顔を見ないようにして、
ことははスタンプを押した。

「助かりました。ありがとうございます」

爽やかな声と、爽やかな足音が遠ざかっていく。

ことはは一人になってから、
ようやくカードをもう一度見た。

*神崎陽向*

その名前を、静かにしまった。

---

翌日、
ことはは当番ではなかったが、午後の図書室に来ていた。

理由は、昨日の本だった。

棚に戻す前に、ことはは少しだけ迷って、
自分でその本を借りることにした。
以前一度読んだことがある。
でも、あの人も同じ本を読んでいた。
それだけのことが、
何故か小さなとげのように引っかかっていた。

窓際の席で本を開いていると、横から声がした。

「あ……その本、僕も読んだことあるよ」

ことはは心臓が止まるかと思った。

見上げると、神崎陽向が立っていた。

制服のネクタイを少し緩めて、
サッカー部の練習帰りなのか頬にわずかに血色がある。
こんなに至近距離で見たのははじめてで、
ことはの顔は耳まで赤くなった。

「も……もしかして、また本を借りに来ましたか」

我ながら精一杯の言葉だった。

神崎は少し目を細めて、
ことはの手元の貸出カードを見た。

「もしかして……君が、この本の最初の名前の人?」

ことはが小さく頷くと、
神崎は少し嬉しそうな顔をした。

「そうか。僕が借りる本はいつも君が先に借りてたから、
気になってたんだよね。 会えてよかった」

その言葉が、ことはの耳の奥でゆっくりと広がった。

*気になっていた。*

自分の名前が、あの人の視界にあったという事実が、
信じられなかった。
嬉しいというより、恥ずかしかった。
顔がいっそう赤くなって、
ことははなんとか「……そうですか」
とだけ言うのが限界だった。

それからだった。

図書室で神崎と顔を合わせることが増えた。
ことはが窓際で本を読んでいると神崎が来て、
棚の前でばったり遭うこともあった。
彼は必ず声をかけてきた。
読んでいる本のこと、作家のこと、
翻訳と原著の違いのこと。
話題はいつも本で、神崎は聞き上手だった。

ことはは慣れなかった。

何度会っても、声をかけられるたびに喉が緊張して、
返事が上ずった。
それでも神崎は特に気にした様子もなく、
静かに話を続けてくれた。

——あの人は、本当に本が好きなんだ。

ことはがそう確信した頃、
放課後の廊下で名前を呼ばれた。

振り返ると、三人の女子が立っていた。
いずれもことはより背が高く、
制服の着こなしが洗練されていた。
笑顔だったが、目が笑っていなかった。

「ちょっと来て」

---

## 第二章 呼び出し

連れていかれたのは、校舎裏の非常階段の踊り場だった。

「あなた、神崎先輩とよく話してるよね」

一番前に立った女子が言った。
ことははその子のことを知っていた。
三年生の取り巻きで、
神崎と同じクラスだという話を聞いたことがある。

「馴れ馴れしくしないでもらえる? 先輩がかわいそう」

「図書委員だからって調子乗らないでほしいんだけど」

「先輩だってお世辞で話してあげてるだけに
決まってるじゃん」

言葉は次々と積み重なった。
ことはは黙って聞いていた。
反論する言葉も、感情もなかった。
ただ、ここを早く終わらせたかった。

「……すみません。気をつけます」

それだけ言って頭を下げた。

帰り道、ことはは誰とも話さなかった。

*彼に迷惑をかけたくない。*

それだけを考えていた。

翌日から、それははじまった。

登校するとロッカーに落書きがあった。
机に「キモい」と書かれていた。
体育の時間に体操服を隠された。
廊下を歩いていると囲まれて、
小さな声でいろいろなことを言われた。

クラスメイトは誰も何も言わなかった。

ことははそれを責める気にもなれなかった。
もし誰かが助けようとすれば、
次はその子が標的になる。
それがわかっているから、
みんな見ないふりをしているのだ。
これは自分の問題だ、と思った。

それでも図書室では、
ことははいつも通りに神崎と話した。

彼に知らせても何の解決にもならない。
彼を困らせたくなかった。

ただ、その態度が彼女たちには
腹立たしかったらしかった。

「反省してないじゃん」

「調子乗ったままじゃん」

ある放課後、いつもより多い人数に囲まれた。

最初は言葉だけだった。でもその日は、違った。

最初の一発は、腕に当たった。

次は背中だった。

ことはは壁際に追い詰められ、
防ぐことも逃げることもできなくなった。
足に力が入らなくなり、その場にしゃがみこんだ。

頭上から腕が振り下ろされようとした、その瞬間だった。

——ひっく。

静寂の中に、間の抜けた音が響いた。

「え……」

殴ろうとしていた女子が、
きょとんとした顔で自分の口を押さえた。

——ひっく。ひっく。

止まらなかった。むしろ激しくなった。

「大丈夫?」

「ちょっと、どうしたの?」

周りの注意が一気にそちらに向いた。
ことはのことなど、誰も見ていなかった。

呆然としていることはの手を、誰かが掴んだ。

---

## 第三章 眼鏡の男子

「今のうちに逃げよう」

引っ張られるままに走った。

廊下の角を二つ曲がり、
人気のない渡り廊下に出たところで、手が離れた。

「急に掴んでごめん。怖かったでしょ」

振り返ると、眼鏡の男子生徒がいた。

ことはと同じくらいの背丈で、地味な色のカーディガン。
制服の着こなしに気を遣っている様子はなく、
髪も特に整えていない。
目立たない、
という言葉がそのまま人になったような印象だった。

クラスはたぶん隣か、そのあたりだと思う。
でも名前は知らなかった。

「……助けてくれてありがとう」

ことはが言うと、彼はわずかに目を伏せた。

それからの数日は、奇妙だった。

ことはに近づこうとする人間は、
必ずしゃっくりに見舞われた。
廊下で囲もうとした三人が、
示し合わせたようにそろって発症した。
教室で因縁をつけようとした女子は
授業中にしゃっくりが止まらなくなって
保健室に連れていかれた。

「水瀬って、もしかして……呪ってる?」

そんな声が聞こえるようになった。

野次馬がわざわざ図書室を覗きに来るようになった。
「図書室の魔女」という二つ名がいつの間にかついた。
ことはは呆れるより先に疲れた。
呪いなんて知らない。
しゃっくりの発生源も自分ではない。
でも何も言わなかった。

放課後、
例の眼鏡の男子から折り畳んだメモが渡された。

*話がしたいです。
放課後、駅前の喫茶店〈ハコニワ〉で待っています。
——橘賢人(たちばなけんと)*

---

木製の扉を押すと、コーヒーの香りがした。

橘賢人は奥の窓際の席にいた。
ことはが向かいに座るなり、
彼は立ち上がって頭を下げた。

「謝らせてください」

ことははメニューも見ていなかった。

「どうして謝るんですか」

橘は座り直して、ゆっくりと言った。

「あのしゃっくりは……僕がやっていました」

沈黙。

「他人にしゃっくりをさせて、
任意の時間だけ続けさせることができるんです。
おかしいですよね。
役に立つとは言えない能力で」

ことはは思わず少し笑ってしまった。

「……確かに」

橘はわずかに表情を緩めてから、
また真剣な顔に戻った。

「君が神崎先輩のせいで
虐めを受けていることは知っていました。
君が先輩をかばっているのも。
でも、今回の件を最初から仕組んでいたのは
——先輩本人なんです」

ことはは、言葉の意味をしばらく処理できなかった。

「……え?」

「以前にも同じことがありました」

橘の声は静かだった。

「先輩と親しくなった女子が、
取り巻きに虐められて
——最終的に学校に来られなくなった。
その子は今も不登校のままです」

橘は窓の外を少し見た。

「その子は、僕の幼馴染でした」

その横顔の、かすかな痛みを、ことはは見ていた。

「……神崎先輩は、自分から女子に近づいて、
特別扱いしているように見せる。
そうすると必ず取り巻きが動く。
先輩本人は何もしていない。
でも結果として、近づいた女子がひどい目に遭う」

「どうして……そんなことを」

橘は首を振った。
「理由はわかりません。
でも、わかれば止められたかもしれない。
あのとき、僕は何もできなかった」

コーヒーカップの縁を見つめながら、彼は言った。

「神社で、彼女がもとの笑顔に戻れるように
って祈りました。
能力が出たのは、その後です。
最初は使い方もわからなかったけれど
——また同じことが繰り返されているのを見て、
今度は止めたいと思ったんです」

窓の外を路面電車が通り過ぎていった。

ことははしばらく何も言えなかった。
あの爽やかな笑顔が、脳裏に浮かんでは消えた。
貸出カードの三番目の名前。
「会えてよかった」という言葉。
あれは全部——

「……ありがとう」

ようやく出てきた言葉は、それだけだった。

橘は目を丸くした。

「怒らないんですか」

「怒ってる」ことはは言った。

「でも今は、ちゃんと教えてくれたあなたに、
まずお礼を言いたかった」

橘は少しの間、困ったような顔をしていた。
それからぽつりと言った。

「……君は、変わってますね」

「よく言われます」

橘がかすかに笑った。
眼鏡の奥の目が、少し細くなった。

それが、
橘賢人がはじめてことはの前で見せた笑顔だった。

---

## 終章 図書室の住人たち

翌週から、ことはへの虐めはぱたりと止んだ。

「図書室の魔女」の噂はしばらく残ったが、
実害がなければ噂は噂で終わる。
神崎陽向が次に近づいた女子は、
事前に橘から警告を受け、上手く距離を置いた。
それ以上のことは、ことはには知らされなかった。

放課後の図書室に、新しい顔ぶれが一人増えた。

地味なカーディガンの、眼鏡をかけた男子が、
窓際のことはの斜め向かいに座るようになった。

最初は何も話さなかった。
お互いに本を読んでいた。

ある日、
ことはが橘の読んでいる本の背表紙を盗み見て、
小さな声で言った。

「それ、私も読んだことあります」

橘は顔を上げた。

「……どうでした?」

「三章の途中で一度閉じました」
ことはは正直に言った。

「でも最後まで読んでよかったと思った」

橘はしばらく考えてから、本に栞を挟んだ。

「三章の、どこで閉じましたか」

それから二人は、閉館の時間まで話していた。

蛍光灯の白い光の下で、
棚に並んだ背表紙たちが静かに聞いていた。

時計の秒針が、いつもと変わらない音を刻んでいた。

図書室は、静かだった。

ただ、
前とは少しだけ違った種類の静けさだった。

---

*了*
 

第百七十九弾「路地奥の灯り」から続いているお話です

 

他にも

第百八十弾「路地奥の灯り ― 遼の章 ―」

第百八十一弾「路地奥の灯り ― 真希の章 ―」があります



### 『路地奥の灯り ― 見えるもの ―』

 その日の夕方、真希はパソコンの前で固まっていた。

「……やっちゃった」

 小さな入力ミス。

 大事にはならなかった。修正もすぐに済んだ。

 それでも、胸の奥がざわつく。

 ――また、同じことを繰り返すんじゃないか。

 ブラック企業にいた頃の記憶が、嫌でも蘇る。

 

 遼は、少し離れた場所からその様子を見ていた。

 すぐに声をかけることもできたが、
 あえて少しだけ待つ。

 落ち着く時間を奪わないためだ。

 

「……大丈夫ですか」

 タイミングを見て、静かに声をかける。

 

「うん……大したことじゃないんだけど」

 真希は無理に笑った。

 

 遼は、画面をちらりと見た。

 そして、ふと違和感に気づく。

 

「……もしかして」

「?」

「目、悪いですか」

 

 真希は少し驚いた顔をした。

 

「え、分かんない。気にしたことない」

「文字、見づらそうにしてたので」

 

 言われてみれば。

 画面に顔を近づける癖はあった。

 

「一回、測ってみません?」

 

 軽い提案だった。

 責めるでもなく、問題を切り分けるような言い方。

 

「……うん、行ってみようかな」

 

 

 翌日。

 二人は近所の低価格な眼鏡店に入った。

 

 店内は明るく、整然としていた。

 真希は少しだけ緊張していたが、遼は淡々と手続きを進める。

 

「こちらで視力測りますねー」

 

 機械を覗き込む。

 レンズが入れ替わるたびに、世界の見え方が変わる。

 

「……え、なにこれ」

 

 思わず声が漏れた。

 

「どうしました?」

 

「めっちゃ見える……」

 

 自分でも驚くほど、輪郭がはっきりする。

 

 結果は、はっきりしていた。

 両目ともに軽度の近視。

 

「そりゃミスも出ますね」

 遼は苦笑した。

 

「今までよく気づかなかったね、私……」

 

 そこからは、フレーム選びだった。

 

「これどうかな」

「少し丸すぎるかもです」

「じゃあこれは?」

「似合ってます」

 

 並んで鏡を覗く。

 自然と距離が近くなる。

 

 真希は、少し楽しくなっていた。

 こういう時間を、誰かと過ごすのは久しぶりだった。

 

 

 数十分後。

 出来上がった眼鏡を受け取る。

 

 それをかけた瞬間――

 

 遼は、言葉を失った。

 

(……やばい)

 

 似合いすぎている。

 知的で、少し大人っぽくて、それでいて柔らかい。

 今まで見ていた真希と、同じなのに違う。

 

 視線が逸らせない。

 

 

「どう?」

 

 真希が振り向く。

 

「……あ、えっと」

 

 遼の顔が一気に赤くなる。

 

「すごく……似合ってます」

 

 それが精一杯だった。

 

 

 会計のとき。

 

「これ、就職祝いってことで」

 

 遼がさらっと言った。

 

「え、いいよ!自分で払うよ」

「いや、まだしてなかったので」

 

 押し切る形で支払いを済ませる。

 

 真希は何度も頭を下げた。

 

「ほんとにありがとう、遼」

 

 

 帰り道。

 

 遼は内心、完全にパニックだった。

 

(落ち着け、落ち着け……)

 横にいるだけで意識してしまう。

 眼鏡越しにふと目が合うたび、心臓が跳ねる。

 

 平静を装うのに必死だった。

 

 

 家に着いた瞬間、遼は一度キッチンに逃げた。

 

(なんだあれ……反則だろ……)

 

 顔が熱い。

 落ち着くまで数分かかった。

 

 

 そのとき。

 

 背中に、柔らかい感触。

 

「……遼」

 

 真希が後ろから抱きついていた。

 

「今日は本当にありがとう」

 

 遼の体が固まる。

 

「視力が悪いなんて、言われるまで気にしてなかったよ」

 

 そこで、ようやく異変に気づく。

 

「……遼?」

 

 顔を覗き込む。

 

 真っ赤だった。

 

「どうしたの?熱でもあるの?」

 

「い、いや……その……」

 

 視線が泳ぐ。

 

「真希の……眼鏡姿が……可愛くて……」

 

 しどろもどろだった。

 

 

 真希は、一瞬きょとんとしたあと――

 

 ふっと、笑った。

 

(ああ、この人……)

 

 取り繕えない。

 嘘がつけない。

 思ったことが、そのまま顔に出る。

 

 

(この人なら――)

 

 心の中で、静かに決意が固まる。

 

(ちゃんと一緒に生きていけるかもしれない)

 

 

 遼は、まだ気づいていない。

 

 この瞬間が、二人の関係を大きく動かしたことに。

 

 路地奥の家の灯りは、少しだけ色を変え始めていた。
 

 

第百八十四弾「 足がつる程度のこと」の続きです

 

 

# 足がつる程度のこと ― 続章 ―

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## 第五章 使う理由と、使わない理由

本を読み過ぎて夜更かしをしてしまったせいで
朝の目覚めが遅れ、
いつもより一本後の電車に乗る事になった。
だから蓮は眠い目をこすりながら、
乗り慣れていない時間帯のホームへの階段を上っていた。

後ろから轟音のような足音が来たのは、
階段の中ほどにさしかかったときだった。

振り返る間もなく、背中に衝撃が来た。

蓮の身体が前に飛んだ。
左足が空を踏んだ。
階段の手すりに辛うじて指が引っかかり、
体重がそこに集中して肩が痛んだが、落ちなかった。

「っ……」

上から見下ろすと、スーツ姿の三十代くらいの男が、
蓮を押しのけた勢いのまま階段を駆け上がっていった。
謝りもしない。
振り返りもしない。
革靴の音だけが響いて、男はそのままホームに消えた。

蓮は息を整えながら手すりを握り直した。
肩が痛い。
手が痺れている。

階段を上りきってホームに出ると、男はまだ走っていた。
ホームにいた人々が驚いて避けていた。
老人が杖を取り落としそうになり、
学生が鞄を吹き飛ばされた。

そして——ホームの端近くで、
赤ん坊を抱いた女性に男がぶつかった。

女性の身体が回転して、膝をついた。
赤ん坊の泣き声が、ホームに鋭く響き渡った。

周囲の人間が一瞬固まり、
そして我に返って女性に駆け寄った。
赤ん坊は——泣いている。
泣いているということは、息をしている。
無事だ。
女性も、顔を歪めながらも赤ん坊をしっかり抱いていた。

男は電車のドアに手を伸ばしていた。
閉まりかけのドアを、強引にこじ開けようとしていた。

蓮は男を見た。

足よ、つれ。

男の右足が止まった。
「うわっ」という声と共に、
男はホームの床に倒れ込んだ。
電車のドアが静かに閉まった。

男は足を押さえながら悪態をついた。
「なんで今! くそっ、なんで今つるんだ!」

舌打ち。
怒号。
周囲への剥き出しの八つ当たり。
電車が走り去る音にかき消されながら、
男の罵声だけがホームに残った。

蓮は男を見ながら、思った。

反省している?

していない。
一ミリも。

足よ、もう片方もつれ。

男は今度こそホームで転げ回った。
「いっっ……! なんで両足! なんで!」

周囲でクスクスという笑いが起きた。
「自業自得じゃん」と吐き捨てる女子高生の声がした。
誰も助けに行かなかった。
赤ちゃんを抱いた女性に駆け寄っていた人々は、
チラリとそちらを見て、また女性の方へ向き直った。
優先順位が正しかった。

蓮は男から視線を切った。

行いを反省しない相手には何度使っても意味がないことは、
分かっている。
でも。

使わないよりはましだ。

少なくとも今日この瞬間、
あの男はあの電車には乗れなかった。
それだけでいい。

---

駅を出て学校への道を歩きながら、
蓮は少し自分の中を点検した。

最近、能力を使う回数が増えている。

詩乃と友人になってから、
しばらくの間は不思議と使わずにいられた。
世界との摩擦が減ったような、
自分の中の棘が少しなめらかになったような
感覚があった。
あの夏。

でも秋になり、冬が来て、
また日常が積み重なっていくうちに、
使う機会は戻ってきた。

駅の階段を走り下りる人、
歩きスマホで人の流れを塞ぐ人、
電車の中で音を垂れ流す人、
横断歩道を渡り切った歩行者に向かって
ぶつかりそうに走り抜けていく自転車——

悪意のある人間ばかりではない。
ただ無頓着な人間の方が、むしろ多い。

蓮は使う基準を自分なりに決めていた。

誰かが実際に傷つきそうなとき。
あるいはすでに傷ついたとき。
それだけだ。
むやみに使うつもりはなかった。
でも世界は予想以上に、
その基準を頻繁に超えてきた。

そして、もう一つ気をつけていること
——倒れた相手が、周囲の人間を巻き込まないこと。

今朝の駅で、それをやや読み違えた。

男がホームで転げ回ったとき、
周囲の人間に当たらなかったのはただの運だった。
もう少し人が密集していたら、
転倒の余波で誰かが怪我をしていたかもしれない。

蓮はそれを考えながら、少しだけ気分が重くなった。

---

学校の正門を抜けて昇降口の手前にさしかかったとき、
蓮はその光景を見た。

クラスメイトの男子
——確か中西という、蓮と同じく
クラスの端にいるタイプの人間——が、
隣のクラスの羽田に腕を掴まれていた。

羽田。

その名前を蓮は何度か、意識の片隅に刻んでいた。

成績優秀、部活動でも実績があり、教師受けがいい。
保護者もPTAで顔が利くらしい。
学校の中では絵に描いたような優等生で通っている。

でも教師の視野の外では別の顔があった。

標的を決めたら長く、陰湿に、証拠を残さない方法でやる。

直接手を出すのは最初の一度だけで、
あとは心理的に締め上げる。
教師に訴えられないように、
周囲の人間も共犯にして口を塞ぐ。

蓮はこれまでに何度か、
羽田が中西に何かをしている場面を目撃していた。
そのたびに能力を使った。
羽田は「なんか最近やたら足がつるな」
とぼやいているらしい。
でも原因に気づく様子はない。

そして今日も——

足よ、つれ。

羽田が短く声を上げて膝をついた。
中西が驚いて羽田を見下ろした。
羽田は舌打ちをしながら足首を押さえ、
「……先行ってろ」と吐き捨てた。

中西はそのまま昇降口へ向かった。
羽田を振り返らなかった。

蓮は何事もなかったように昇降口に向かおうとした。

そのとき、横から走ってきた人間が——

「わっ!」

衝撃とともに誰かが前に転んだ。
羽田がうずくまっていた位置に
人が突っ込んでしまったのだ。

蓮は反射的にしゃがんで肩を貸した。

「大丈夫ですか」

「あー……ごめん、
急に転んでる人がいると思わなくて止まれなくて!」

顔を上げると、陸上部のジャージを着た女子生徒だった。
クラスメイトだ。
確か長距離をやっている。
走ってくる足音が聞こえなかったのは、
蓮が完全に羽田に集中していたせいだった。

膝に血が滲んでいた。

「大丈夫?」蓮は思わず言った。
予期しない衝突だった。

「人が多い場所で走ると、こういうことになるから」

言ってから、説教みたいに聞こえたかと思ったが、
彼女は「そうだね~、完全に私が悪い!」
と笑いながら立ち上がった。

「保健室、行った方がいいと思います。
擦り傷、消毒した方がいい」

「そうする。ありがとね」

彼女は手を振って昇降口の方へ歩いていった。
走らずに。

蓮はその背中を見送って、深く息を吐いた。

軽い怪我でよかった。

でもよかった、じゃないのだ。

あそこに羽田がいなければ。
羽田がうずくまっていなければ。
彼女は転ばなかった。

羽田を足をつらせたのは蓮だ。
そして蓮は羽田の転倒が周囲に被害を与えないか、
確認が甘かった。

自分が使った能力が、関係のない人間を傷つけた。

それは——初めてのことだった。

---

## 第六章 能力の重さ

昼休みの図書室。

詩乃がいつもの席に座って本を開いていたが、
蓮が座った瞬間に顔を上げた。

「なんか顔色悪い」

「そうですか」

「うん。眠い感じじゃなくて、考えすぎた感じ」

蓮は鞄から弁当を取り出しながら言った。
「……今日、少し失敗した」

詩乃は本を閉じた。

蓮は、朝の駅での出来事と、
昇降口での出来事を順番に話した。
能力を使った理由も、その結果も、
陸上部の女子が転んだことも。

詩乃は黙って聞いていた。

「……能力を使った結果、関係ない人が怪我をした、
ということ?」

「直接は違います。
羽田が転んでいた場所に、たまたまぶつかっただけです。
でも羽田を転ばせたのは僕なので」

詩乃はしばらく考えてから言った。
「蓮は悪くないと思う」

「そうは言い切れないです」

「じゃあ、
羽田が中西に何かしているのを放っておいたら?」

「……中西が傷つきます」

「能力を使ったことで、中西は助かって、
陸上部の子は軽い擦り傷を負った。
能力を使わなかったら、中西はまた削られていった。
どっちが正解か、私には分からない」

蓮は卵焼きを一口食べた。味がよくわからなかった。

「でも」と詩乃は続けた。

「蓮が悩んでいる理由は分かる。
自分の行動の結果を、
ちゃんと引き受けようとしているから」

「引き受けているんじゃなくて、
引き受けきれていないから悩んでいるんです」

「それが引き受けようとしている、
ってことじゃないの」

蓮は何も言えなかった。

窓の外で風が木の枝を揺らした。
光が棚の背表紙の上を流れた。
いつもと同じ景色だった。

「一つだけ聞いていい?」詩乃が言った。

「何ですか」

「蓮はその能力を、これからも使うつもり?」

蓮はしばらく考えた。

「……使うと思います。
使わずにいられる場面と、そうでない場面がある。
今朝の駅みたいに、赤ちゃんを抱いた人が倒れたら
——もう考える前に使っています」

「それでいいんじゃないかな」

「でも今日みたいな失敗が」

「また気をつければいい。
使い続けながら、精度を上げていけばいい」

詩乃は少し間を置いて言った。

「蓮の能力って、正義の味方には全然向かないけど、
でも日常の中でこっそり誰かを守るのには向いてる。
向いてるものを、向いてる使い方で使えばいいと思う」

蓮は詩乃を見た。
詩乃は真顔だった。
冗談で言っているわけではないことは分かった。

「……あなたは、僕の能力を肯定しすぎです」

「肯定しているんじゃなくて、
君を信頼しているだけだよ」

今度こそ蓮は黙った。

少し、耳が熱くなった。

弁当の卵焼きが、さっきより美味しく感じた。

---

その日の放課後、
蓮は昇降口を出たところで陸上部の彼女
——垣内 ひなた、という名前を
今日初めてちゃんと認識した
——に呼び止められた。

「あ、朝の人! 
保健室行ってきたよ、ちゃんと消毒した」

「それはよかったです」

「擦り傷くらいで
保健室行くの恥ずかしいかと思ったけど、
先生がいい人でよかった。
ちゃんと膝洗ってくれた」

「それは何よりです」

垣内は少し笑ってから
「今日転んだの、あそこで転がってた
羽田のせいだと思ってたんだけど」と言った。

蓮の胃が一瞬縮んだ。

「でも羽田のやつ、いつも人のせいにする感じ嫌いだし、
自分が走ってたのも悪いし。
いいや、って感じ」

「……そうですか」

「うん。それより」垣内は蓮を見た。

「あなたって桐島くんだよね。確か同じクラスの」

「そうです」

「本読んでる人、って印象しかなかったけど、
今朝けっこう冷静に助けてくれたよね。
保健室行けって言ってくれたのも。
ありがとう」

「別にたいしたことは」

「たいしたことあるよ。
転んでパニックしてるとき、
冷静に次の行動を言ってくれる人って助かるから」

それだけ言うと、
垣内は「またね」と手を振って走り去った。
今度は人の少ない方向に向かって。

蓮はその背中を見送った。

自分の能力が、彼女を転ばせた。
そして自分の言葉が、彼女を保健室へ向かわせた。
プラスとマイナスが、
今日のところはどうにか釣り合っている気がした。

完璧ではない。

でも——足がつる程度の能力には、
足がつる程度の責任を持てばいい。

それくらいのことなら、できるかもしれない。

蓮はそう思いながら、夕暮れの中を歩き出した。

鞄の中でスケッチブックが揺れた。
今夜は何を描こうか、と考えながら。

---

*続く*