第百十一弾の続きです
# 記憶の迷宮
都心の夜景が眼下に広がる高層ビルの最上階。
勘解由小路建設の社長室は、
まるで東京という巨大な獣を見下ろす
鷹の巣のようだった。
「記憶喪失、だと?」
野村征一郎は葉巻を灰皿に置き、
向かいのソファに座る国会議員、藤堂隆文を睨んだ。
六十を過ぎた野村の目には、
まだ若き日の土建屋としての獰猛さが宿っている。
「黒沢会長からの連絡です」
藤堂は冷静に答えた。
「矢沢竜也が三日前、突然倒れた。
病院で検査したが、脳に異常はない。
だが、ここ数年の記憶が
完全に消えているそうです」
野村の拳が革張りの肘掛けを叩いた。
「都合が良すぎる。あまりにも」
二人の間に重苦しい沈黙が落ちた。
窓の外では、無数の光が瞬いている。
この街の繁栄の裏側で、
どれだけの闇が蠢いているか。
それを知る者は少ない。
矢沢竜也。龍誠会の中堅幹部。
表向きは不動産仲介業を営む、ただのヤクザ。
だが、二年前のあの夜、
彼は四人の男を率いて桐生隆司と
その妻を「事故」に見せかけて始末した。
完璧な仕事だった。
警察は事故として処理し、
桐生コンツェルンは
混乱の中で内部から崩れ始めた。
すべては計画通りだった。
野村の建設会社、藤堂の政治力、黒沢の実行部隊、
そして桐生コンツェルン内部の裏切り者、滝川修。
四者が結託し、東京の経済界を
牛耳る桐生コンツェルンを乗っ取る。
壮大な陰謀は、完璧に進行していたはずだった。
「田村の件は?」
野村が訊いた。
「心配ありません」
藤堂は眼鏡の奥で目を細めた。
「実行犯の一人、
田村健二は獄中で自殺したことになっています。
私の息のかかった看守が処理しました。
検死も私の息のかかった医師が担当した。
完璧です」
「ならば、なぜ矢沢の記憶喪失なんだ?」
藤堂は立ち上がり、窓際に歩み寄った。
夜景を背に、その影が野村の顔に落ちる。
「誰かが嗅ぎつけた。確実に」
「まさか......」
「桐生隆司の息子たちです」
野村の顔色が変わった。
桐生隆司には二人の息子がいる。
長男の桐生隼人は警視庁の刑事。
次男の桐生蒼太は父の跡を継ぎ、
形だけの重役となった。
「隼人は優秀だと聞く」
野村が呟いた。
「だが、所詮は一刑事だ。コネも権力もない」
「油断は禁物です」
藤堂は振り返った。
「彼は二年間、父の死を追い続けている。
執念深い男です。
そして弟の蒼太......こちらは一見、
無能な坊ちゃんに見えますが」
「滝川の報告では、ただの飾り物だと」
「それが罠かもしれない」
野村は立ち上がり、藤堂の隣に並んだ。
二人の男が、東京の夜を見下ろす。
「どうする?」
「徹底的に調べます」
藤堂の声は冷たかった。
「私が隼人を、滝川が蒼太を監視させる。
彼らの動き、接触する人間、すべてを洗い出す。
そして、もし彼らが真実に近づいているなら......」
言葉の続きを、野村は待たなかった。
もう十分、理解している。
「後戻りはできない」
野村が低く言った。
「ここまで来たんだ。
東京を、この国を支配するまで」
「その通りです」
藤堂が頷いた。
「明日、滝川と黒沢を呼びましょう。
四人で今後の対策を練る必要がある」
野村は葉巻に火をつけた。
紫煙が天井に向かって昇っていく。
「矢沢の記憶喪失が本物かどうかも確認しろ」
「既に手配しています。
黒沢会長が、信頼できる医師
に再検査させるそうです」
しばらく、二人は黙って夜景を眺めていた。
足下に広がる無数の光。
それは欲望の光であり、野心の光であり、
そして時には、誰かの人生が消える
瞬間の光でもある。
野村の携帯が震えた。
メッセージを確認した彼の顔が、一瞬強張る。
「滝川からだ。
桐生蒼太が今夜、怪しい動きをしている、と」
「どこに?」
「歌舞伎町。龍誠会系列の店がある地区だ」
藤堂の目が鋭く光った。
「偶然ではない」
「ああ」
野村は携帯を握りしめた。
「戦いは始まっている。我々が気づかぬうちに」
窓の外で、救急車のサイレンが遠くに響いた。
この街では毎晩、誰かが倒れ、
誰かが消え、誰かが這い上がる。
そして今夜、新たな駒が動き出した。
「藤堂」
野村が振り返った。
「本気だ。この戦いは」
「野村さん」
藤堂は冷たく微笑んだ。
「我々はとうの昔に、
引き返せない場所まで来ています。
今更、迷う余地などありません」
社長室のドアが開き、秘書が顔を出した。
「会長、明日の会議の資料です」
「机に置いておけ」
秘書が去り、再び二人きりになる。
野村は窓ガラスに映る自分の顔を見つめた。
そこには、かつて泥にまみれながら
建設現場で働いていた若者の面影はない。
今あるのは、権力を手に入れるためなら
何でもする、老獪な男の顔だった。
「始めよう」
野村が言った。
「この街の、真の支配者になるために」
藤堂は無言で頷いた。
そして二人は、それぞれの戦場へと
向かうために社長室を後にした。
高層ビルの窓から見える東京の夜は、
相変わらず美しく、そして残酷だった。
その時だった。
ヒュッ、という空気を切り裂く音。
次の瞬間、何かが壁に突き刺さる鈍い音が響いた。
「なっ......!?」
野村と藤堂は同時に振り返った。
社長室の壁、重厚な木製パネルに、
一本の矢が深々と突き刺さっていた。
黒塗りの矢柄に、白い紙が結ばれている。
二人は凍りついた。
「馬鹿な......」
野村が呟いた。
「ここは四十五階だぞ......」
藤堂は窓ガラスを見た。
小さな穴以外は傷一つない。
この窓は特注の防弾ガラスだ。
拳銃の弾丸すら貫通しない。
それなのに、矢が......
野村はゆっくりと矢に近づいた。
手が震えている。
結ばれた紙を慎重に解く。
開いた紙には、墨で力強く、
たった二文字が書かれていた。
**「天誅」**
紙を持つ野村の手が震えた。
藤堂が背後から覗き込み、
その文字を見て顔色を失った。
「誰だ......誰が......」
野村は窓に駆け寄った。
外を見渡すが、
周囲に矢を射かけられるような建物はない。
この勘解由小路建設本社ビルは、
この一帯で最も高い。
「不可能だ」
藤堂が震える声で言った。
「物理的に、絶対に不可能なはずだ」
だが、矢は確かにそこにある。
防弾ガラスを貫通し、壁に突き刺さっている。
野村は矢を引き抜こうとしたが、
あまりに深く刺さっていて微動だにしない。
まるで、超人的な力で射られたかのように。
「これは......警告か?」
野村が呟いた。
「いや」
藤堂は青ざめた顔で答えた。
「宣戦布告だ」
二人の間に、今までにない恐怖が走った。
彼らは権力を、金を、暴力を支配してきた。
この街で恐れるものなど何もないはずだった。
だが今、
得体の知れない何かが、彼らを狙っている。
防弾ガラスを貫通し、
四十五階という高みに矢を届かせる、
人間離れした存在が。
「桐生の息子たちか......?」
野村が震える声で訊いた。
「わからない」
藤堂は矢を見つめた。
「だが、これは......人間業ではない」
社長室に、重苦しい沈黙が落ちた。
窓の外の東京の夜は、相変わらず美しく輝いている。
だが今、その光の中に、
得体の知れない闇が潜んでいることを、
二人は理解した。
狩る者だと思っていた彼らが、
今、狩られる側になったのだ。
---
**終わり**