# 黄金の息子

## 第一章 海の女神の恐れ

エーゲ海の波間に、一つの宮殿が浮かんでいた。
いや、浮かんでいるように見えた。
海の女神テティスの住まいは、
海と陸の境界に存在する。

「行かせるわけにはいかない」

テティスは、
息子アキレウスの寝顔を見つめながら呟いた。

彼女は美しかった。
かつて、神々の王ゼウスすら、
海の王ポセイドンすら、彼女に求愛した。
だが彼女は拒んだ。
神々の妻になることを。

そして選んだのは、人間の男。
アルゴ船の英雄の一人、プティア王ペレウス。

「あなたほどの男はいなかった」
テティスは微笑んだ。

「神々でさえ、あなたほど美しくはなかった」

ペレウスのイケメンぶりは伝説的だった。
だが、テティスが彼を選んだのは、容貌だけではない。
その誠実さ、勇敢さ、
そして何より、
彼女を一人の女性として愛してくれたからだ。

二人の間に生まれたアキレウスは、
両親の美貌を受け継いでいた。
金髪、碧眼、薄い唇。
引き締まった身体は、まだ少年のものだが、
すでに戦士としての素質を見せていた。

だが、予言があった。

「この子が戦争に行けば、生きては戻れない」

テティスは決意した。
あらゆる手段を尽くして、息子を守ると。

## 第二章 不死の身体

真夜中。
テティスは幼いアキレウスを抱いて、
冥界への入口に立っていた。

「母上、ここは?」

「心配しなくていいの。
あなたを守るために、必要なことよ」

彼女の前には、黒々とした川が流れていた。
ステュクス川。
黄泉の国を流れる、神々すら誓いを立てるこの川。

テティスは深呼吸すると、
アキレウスの踵を掴み、川の中へと浸した。

「うわあっ!冷たい!」

「我慢して。すぐに終わるから」

川の水が、アキレウスの身体に染み込んでいく。
皮膚が、筋肉が、骨が、
まるで金属のように変質していく。

だが、テティスが掴んでいた踵だけは、
川の水に触れなかった。

引き上げると、アキレウスの身体は、
不思議な光沢を帯びていた。

「試してごらんなさい」テティスは小刀を渡した。

アキレウスは恐る恐る、
自分の腕に刃を当てた。
だが、皮膚は傷つかない。
まるで最高級の鎧を纏っているかのように。

「母上!これは!」

「鎧よりも強固な身体。これで、あなたは守られる」

テティスは微笑んだ。
だが、その微笑みには、一抹の不安が混じっていた。
踵。
あの部分だけは、普通の人間のまま。

まあ、踵を狙われることなど、あるまい。

## 第三章 王女たちの中で

数年後。スキュロス島。

リュコメデス王の宮殿には、
美しい王女たちが集っていた。
そして、その中に一人、
異様に美しい「王女」がいた。

「ピュラ様、今日のお召し物もお似合いですわ」

侍女が声をかける。ピュラ
——本名アキレウス——は、ぎこちなく微笑んだ。

女装。母テティスが考えた、
究極の隠蔽策。
戦争の徴募から逃れるため、
美しい王女たちの中に息子を紛れ込ませたのだ。

そして、それが可能だったのは、
アキレウスが尋常でない美貌の持ち主だったからだ。

「ピュラ姉様、一緒に織物をしませんか?」

末娘のデイダメイアが声をかけてきた。
彼女は特に美しく、優しい性格で、
アキレウスは密かに心惹かれていた。

いや、密かではなかった。

夜、二人は密会を重ねた。そして——

「アキレウス様」
デイダメイアが囁いた。
誰もいない場所では、彼女は彼の本当の名を呼んだ。

「私、身籠もったかもしれません」

アキレウスは彼女を抱きしめた。

「心配するな。必ず、お前を守る。子供も」

だが、その誓いを果たす時間は、
残されていなかった。

## 第四章 剣を取る手

ある日の午後、宮殿の中庭に行商人が訪れた。

「美しい王女方!
遠い国から、素晴らしい品々を持ってまいりました!」

初老の商人
——変装したオデュッセウス——が、声高に叫んだ。
その隣には、若い助手——ディオメデス——がいる。

「まあ、素敵!」

王女たちが集まってくる。
アキレウスも、仕方なく加わった。

絹の織物、エジプトの香水、ペルシャの宝石。
様々な品が並べられていく。

王女たちは歓声を上げて、品物を手に取った。

そして、最後に置かれたもの。

一振りの剣。

それは美しかった。
鍛え抜かれた刃、精緻な装飾。
だが、女性の装飾品の中では、明らかに異質だった。

アキレウスの手が、無意識に伸びた。

剣の柄を握る。
その瞬間、身体に電流が走ったような感覚。
これだ。これこそが、自分の持つべきもの。

「見つけたぞ、アキレウス」

オデュッセウスの声が、冷たく響いた。

王女たちが悲鳴を上げる。
アキレウスは、ハッとして剣を手放そうとしたが、
もう遅い。

「待ってください!」
デイダメイアが叫んだ。

「この方は、ただの——」

「王女が剣を取る?」
オデュッセウスが冷笑した。

「それも、宝石や香水を差し置いて、真っ先に?」

アキレウスは観念した。
女装用のヴェールを外すと、金色の髪が現れた。

「見事だ、オデュッセウス」
アキレウスは認めた。

「だが、誤解するな」

彼は剣を高く掲げた。

「俺は、逃げていたわけじゃない。
母が心配するから、ここにいただけだ。本当は——」

アキレウスの目が、戦士の目に変わった。

「戦いたかった。
トロイアで、英雄として名を馳せたかった!」

## 第五章 黄金の鎧

出発の前夜。テティスが息子の前に現れた。

「母上……」

「責めないわ」
テティスは悲しげに微笑んだ。

「あなたは、父の血も引いている。戦士の血を」

彼女は、大きな箱を取り出した。

「炎と鍛冶の神ヘファイストに、
特別に作ってもらったの。開けてごらんなさい」

アキレウスが箱を開けると、眩い光が溢れた。

黄金の鎧。

胸当て、篭手、脛当て、兜。
すべてが黄金に輝き、だが装飾だけではない。
その一つ一つに、神の力が込められている。

「まるで……」
アキレウスが呟いた。

「黄金の聖闘士みたいだ」

「何?」

「いや、何でもない」

アキレウスは鎧を身に着けた。
完璧な fit 感。まるで自分の皮膚のように。

「それと」
テティスが続けた。

「あなたの部下となる者たちを連れてきたわ。
ミュルミドン人よ」

宮殿の外から、
整列した兵士たちの気配が伝わってくる。

「ミュルミドン人?」

「あなたの祖父、アイアコスの民。
元は蟻だった者たち」

テティスは説明した。
かつて、ゼウスが河の神アソポスの娘
アイギナを誘拐し、無人島に住まわせた。
そこで生まれたアイアコスは孤独だった。
だからゼウスは、島の蟻を人間に変えた。
それがミュルミドン人。

「蟻?」

「侮るな。彼らは屈強で、力強く、何よりタフ。
疲れを知らず、命令に忠実。
あなたの父ペレウスがプティアに連れてきた
彼らの子孫が、今、あなたの部下になる」

アキレウスは窓から外を見た。
月明かりの下、整然と並ぶ兵士たち。
その目には、鋼のような意志が宿っている。

「行くのね」
テティスが囁いた。

「ああ」

「生きて帰ると、約束できる?」

アキレウスは、答えなかった。
答えられなかった。

代わりに、彼は母を抱きしめた。

「俺は、英雄になる。
トロイアで、誰もが語り継ぐような、偉大な英雄に」

テティスは泣いた。
息子の肩に顔を埋めて、声を殺して泣いた。

なぜなら彼女は知っていたから。

英雄とは、悲劇と共にあることを。

そして、栄光とは、
しばしば死と引き換えであることを。

## エピローグ

スキュロス島では、
デイダメイアが月を見上げていた。

彼女の腹部は、まだ目立たないが、
確かに新しい命を宿している。

「アキレウス様……」

風が、彼女の髪を撫でた。
まるで、遠くへ去った愛しい人の手のように。

そして彼女は知らなかった。

自分の腹の中で育つ子供——ネオプトレモス——が、
いつか父の仇を討つために、
同じトロイアの地に立つことを。

運命の歯車は、回り始めていた。

黄金の息子、アキレウスを乗せて。

**——神々の予言は、必ず成就する。
だが、英雄は、それでも戦場へ向かう。
なぜなら、それが英雄だから——**

(終)