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今日の記事は
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過去の彼について
 
色々なことがわかればわかるほど
 
「あいつ本当にクズだな」って思うのですが
 
 
 
 
 
彼のことを「クズ」って言うと
 
 
 
彼と似たような波動の方々
 
(女性性のエネルギーを支配利用蹂躙する形で現世利益を得てきた方々)が
 
 
感情反応だけでわたしにエネルギー的な攻撃をしてきたり(生霊を飛ばしてきたり)するので
 
 
 
なるべく黙っていようとは思っております。
 
 
 
 
 
 
 
 
自分が「クズ」と言われたわけでもないのに
 
 
 
わたしが彼の行いを「クズ」と称すること自体に苛立って
 
感情反応だけで攻撃してくるような人達って
 
 
大体性エネルギーが 
低い波動の男性性に侵されていて
 
 
瞳が肉食獣とそっくりなんですよね。
 
 
 
 
 
だからでしょうか、
 
眼鏡などをかけて己の瞳を隠していらっしゃる方も多いですね。
 
 
 
(※ わたしも自分の感覚に嘘をついて生きていた時はメガネが手放せませんでしたね。ちなみに今は眼鏡を全て処分していてます。日中はコンタクトで寝る時だけ裸眼で過ごしています。再来年辺りにレーシックする予定です。)
 
 
 
 
 
性エネルギーの穢れている方って
 
 
自他の境界線が悪い意味であやふやで 
 
「間違ったワンネス」に浸りきっているというか
 
 
 
他人と自分の聖域を護らずに
 
平気で他者の領域を土足で荒らす方が多い印象です。
 
 
 
 
 
「お前のものは俺のもの、俺のものもお前のもの」を
 
自分にとって都合の良い形で肯定して
 
 
 
他者とのエネルギー領域の境界線を
 
やたらと壊したがる方が多いのですが
 
 
 
 
「性エネルギーの純粋性」を大切に護り通している人間からしてみたら
 
 
それは「たまったものじゃない」のですよね。
 
 
 
 
 
そりゃ自分の性エネルギーが穢れていれば
 
自分以外の人間のすべての波動を美しく感じられますし
 
誰といても心地よいですよ。
 
 
「穢れなんて無いよ」
「人間は皆美しいよ」
「皆一つだよ」
 
って言えます。
 
 
 
 
でもそれは
 
「すべての人は美しい」と称していれば
己の醜さに目を向けずにいられるという
 
「自分にとって都合の良いワンネス」です。
 
 
 
 
自他の聖域(神聖な性エネルギーの領域)をきちんと尊重した上でのワンネスとは程遠く
 
「穢れた人間にのみ利がある状態のワンネス」です。
 
 
   
 
 
つまりそれは
無条件の愛では無いのに
 
「無条件の愛」「ワンネス」を詭弁にして(自身の感覚をごまかして)
 
他者の領域を犯している状態です。
 
 
 
 
その有様(生き方)が
 
「自他の神聖なエネルギー」を尊重敬愛する人間にとって
 
どれほど苦痛でおぞましいことなのか
 
理解しようとすら思わずに
 
 
一方的に自利のある「ワンネス」を押し付けるから
 
肉食獣のような波動になるのですよ。
 
 
 
 
 
「相手のエネルギーを食べてお腹いっぱいになれて、お互いに一つになれて幸せ」と
 
食べる側は感じるのかもしれませんが
 
 
食べられる方にとっては
 
全く幸せじゃありません。
 
 
 
  
でも
 
自身の聖域を大切にして
他者の聖域も尊重する人間が
 
 
その「捕食される」恐怖や不快感に基づいた感覚を
 
正直に表に出すと
 
 
大抵まともな社会生活が送れませんので
 
 
(性エネルギーの境界があやふやな方々から、嫉妬されたり攻撃されたり村八分にされたりします)
 
 
 
きれいな性エネルギーの方は
 
穢れた性エネルギーの方と関わって不快な思いをしても
 
 
黙ってその不快感や恐怖に耐えていることが多いのですよ。
 
 
 
 
もしくは自分の感性をころして付き合っています。
 
 
 
 
 
 
そのように
 
 
性エネルギーの穢れにより
 
「自他のエネルギーの境界線を護らなくなった人間」は
 
 
 
神社に行って
 
ろくに賽銭も入れず
神に感謝もせずに
 
「神の力」をつかいたがる人達にも多いですね。
 
 
 
 
 
 
神意識の領域と
人間意識の領域の
 
区別もつけずに
 
 
低い波動の意識で
何をやっても構わないと
 
自覚できることもなく 
当たり前にそう感じているからです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
わたしも
 
似たような時期が過去にありまして
 
 
 
 
 
 
 
 
わたしは
 
 
過去の経験の蓄積による
性エネルギーの穢れに気づかずに
 
 
 
他者の領域も
自分の領域も
「都合よく」あやふやにして
 
 
「なんちゃってワンネス」に浸りきって生きていたことが
 
過去にございましたが
 
 
 
 
(当時のわたしは「わかりあえばみんな友達になれるよ」とか「すべての人間の魂の大本は一つで本質的には皆同じだから良い人も悪い人もいない」とか「魂視点から見れば善悪は存在しないから皆同じだ」とか、その言葉を【実際に現実世界で体現することの難しさ】を理解することもせずに、平気で口にしていましたね。)
 
 
 
 
 
「己の領域を聖域化して、自他そして神に敬意を払い、 神意識のみに従いスピリチュアルな力をつかっていらっしゃるスピリチュアリストの方々」
 
からしてみたら
 
 
 
その時代のわたしは
 
さぞかし狡くて不躾で図々しくみえたことだろうと
 
今は思います。
 
 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
どのような存在にも
 
 
「誰も穢してはいけないその人(神)の神聖な波動を護る聖域」があります。
 
 
 
 
 
 
 
その「聖域」に対して
 
 
【独自の感性】というあやふやな物差しで正否をはかり
 
我欲を充たすためだけに突破侵入することは
 
 
「ゆるされざる行為」です。
 
 
 
 
 
 
もちろん
 
 
スピリチュアル的な感覚からワンネスの視点をもちいれば
 
 
 
 
 
 
「ゆるされざる行為」というものも
 
本質的には無いということにもなりますが
 
 
 
 
 
「それなら自分がしたことと全く同じことをされても文句は言うなよ」
 
 
というのが
 
 
 
【人間意識のつくりだす世界を統治する高次意識の答え】になります。
 
 
 
 

 

 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ドレスコードのある美しく煌びやかな社交場(神の世界)に
 
泥まみれの服(穢れを肯定する肉体)で参加することを
 
「ワンネス」とは言いません。
 
 
 
 
 
「わたしは今は泥まみれなのですが、どうしても社交場に参加したいのです。どうしたら宜しいでしょうか?」
 
と入り口で伺えるのならまだしも
 
 
 
「泥まみれだからって入れてくれないなんて酷い!差別だ!」
 
などと扉の前で文句を言うのなら
 
 
 
それはただの「馬鹿」です。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
みんな、泥(穢れ)を祓って
 
その扉の前に立っているのです。
 
 
 
 
 
 
 
何故ならその社交場は
 
 
「美しいものが好き」な方が集いし場であり
 
 
共に美しい世界を愛する努力を厭わない方々の集いし場だからです。
 
 
 
 
 
 
泥にまみれたいのなら
 
 
「泥団子を作る集会」とか
 
「泥遊び大好き集会」に参加すればいいのですよ。
 
 
 
 
泥を愛する世界は沢山あるのだから
 
泥を忌み嫌う世界に入らなければいいのです。
 
 
 
 
 
地獄を愛する人間が天国の扉の前までわざわざ来て、入れないからって文句を言うな」
 
 
 
ドレスコードを要求する扉の万人は言っているだけです。
 
 
 
 
 
 
それでも
 
天国に入りたいのなら
 
 
「わたしは天国に入りたいのですがどうすればよいのか」を
 
素直に天国にいる方に訊けばいいのです。
 
 
 
 
 
もちろん
 
その潔癖で美しい世界を
 
あなたが「天国」だと感じているのならね。
 
 
 
 
別に泥(穢れ)まみれの世界が「天国」だっていいんですよ。
 
 
 
あなたが泥が好きならば
 
泥まみれでもそこは「あなたの天国」ですから。
 
 
 
 
 
天国の住人から見たら
 
「泥」は「穢れ」に見えますが
 
 
 
「泥まみれの世界」を愛する方々から見れば
 
ドレスコードのある「泥が一切無い世界」は
 
きっと地獄に見えることでしょう。
 
 
 
 
むしろそのドレスコード自体が
「穢れ」に見えるのかもしれません。
 
 
 
それならそれで良いんですよ。
 
 
 
 
泥まみれの世界で生きてください。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
わたしは
 
「泥(穢れ)が大好きなあなた」と違って
 
 
 
「泥(穢れ)」を過去に経験して
 
「恐怖と生理的嫌悪感と苦痛しか感じなかった」(※これはわたしの主観です)ので
 
 
 
 
泥を祓い
 
天国の扉を叩き
 
中に入れてもらいたいだけです。
 
 
 
 
 
 
二度と泥を体験したくないわけです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
だからこそ
 
 
 
泥(穢れ)を祓いもせず、
 
天国の扉を乱暴にぶち破り、
 
そこにある神性な力を奪い私利私欲でつかい、
 
 
さらにその罪悪感を有耶無耶にしようとして
 
天国に泥を塗りたくるような真似をする人間には
 
 
 
 
迷わず
 
 
「クズ!」
「いらない!」
「二度と関わるな!」
 
 
ぐらい言います。
 
 
 
 
 
 
面と向かって口にはもちろんしませんけれど
 
エネルギー的にそういいます。
 
 
 
 
 
そう言わないと切り離せませんから。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
学ばない人間は
 
 
何度も何度も同じことをしますから。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
わたしは
 
「泥(穢れ)まみれの姿」が
 
嫌なのではなく
 
 
 
「泥(穢れ)を愛することにより自身の心の醜さをごまかそうとして、さらにその己の醜さを周囲に拡散することで光(完全美)への渇望や劣等意識を帳消しにしようとしている生き方(意図)」と

「さらに相手に泥を擦り付けることで自身の罪悪感から目を逸らすやり方(意図)」に
 
 
嫌悪感を感じるだけです。
 
 
           
 
 
 
 
わたしは
 
 
姿や行為や言動そのものではなく
 
 
いつも「奥にあるエネルギー(意図)」をみています。
 
 
 

 

 

 

 

 

 
 
 
意図を読んだ上での「嫌悪感」です。
 
 
 
 
 
 
 
 
 「そのくらいの泥(穢れ)があっても、ツインレイは自分自身なのだから、それもすべて受け入れて赦して愛せよ」
 
 
と仰る方へ。
 
 
 
それはそうだと思いますが
 
 
 
「わたしと全く同じ体験」をしてから
 
それを仰ってくださいね。
 
 
 
 
 
 
というか
 
 
今まで有り得ないくらい
 
わたしはすべてを赦して愛して受け入れてきたのですよね。
 
 
 
 
 
 
 
わたしと全く同じ目にあったうえで
 
 
わたし以上に「すべてを赦して受け入れられた」人間は
 
 
恐らくいません。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
どういう過程があり
どういう内意識の疎通を経て
 
わたしが彼のことを
「クズ」と言うようになったのか
 
 
 
そこまで説明するのは
 
もう難しいです。
 
 
 
 
 
 
 
わかる方だけにわかればいい
 
と思って
 
書いておりますし
 
 
 
 
 
 
 
わからない方に話したい気持ちもありません。