令和7年(2025年)1月15日㈬


「令和7年1月中旬の旅」1日目は大分から豊肥本線に乗り豊後竹田に来ました。


4432D   大分1054発 豊後竹田行き 

は終点の豊後竹田1207着

※この記事の続きです


武家屋敷風の豊後竹田駅舎

豊後竹田駅から1.5km先の岡城跡へ向かいます。
駅前には田能村 竹田(たのむら ちくでん)の座像。

田能村 竹田(1777 - 1835)は、江戸時代後期の南画(文人画)家。豊後国岡藩出身。




豊後竹田駅前、稲葉川に架かる竹田橋を渡り

曇り空、寒い

城下町を歩き







トンネルの横には広瀬神社

広瀬神社は竹田市出身で「軍神」と呼ばれた海軍中佐の広瀬武夫命を主祭神とする。

鳥居前には広瀬中佐の像
トンネルを潜り



ちょっと心細い道



岡城入口なるバス停がありましたが

残念ながら本数は少ない

午後は利用できません。


バス停の先にもトンネル、その横にも坂道がありますが

トンネルを潜ると

まだ岡城入口につかない

道を間違えたか?



左上に見える石垣、ここからは城跡には入れなそう。
どうやら道を間違えました。

再び先ほどのトンネルを潜り

トンネル横の坂道を上がり



心細い道



素掘りのトンネルが

「落石注意」の看板



このようなトンネルを潜り



ようやく岡城跡が見えてきました。










岡城跡駐車場

画像中央、左の建物はトイレ、右は岡城料金所




岡城料金所に設置されている

続日本100名城スタンプ

を押して

御城印を購入

岡城跡で撮影した画像はコチラ



帰路は広瀬神社にお参り































再び豊後竹田駅へ



大分駅に来たのは一昨年6月以来

※2023年6月の旅で訪れた大分

券売機にて

大分→豊後竹田 60.0km   の乗車券を購入、1,310円



改札内へ

ホーム上にある旧喫煙スペースはアートコーナに

自転車が動いています。
アートらしいです。





乗車するのは上り豊肥本線

4432D   大分1054発 豊後竹田行き 

キハ220の2両編成

大分← キハ220‐1504+キハ220‐1502  →豊後竹田

車内はオールロングシート

乗客も多いので、大分発車後しばらくは車窓撮影を控えました。

大分から豊肥本線に乗るのは3年ぶり

※2022年11月、豊肥本線に乗車
中判田(1011発)から先は空いてきました。

竹中(1017発)

下り列車と交換



犬飼(1124発)



菅尾(1132発)

三重町(1141発)

下り特急 九州横断特急81号と交換




豊後清川(1148発)

緒方(1153発)



緒方から先の車内はこのように

朝地(1200発)



終点の豊後竹田1207着



ここは大分県竹田市

※豊後竹田駅

大分県竹田市大字会々にある、JR九州豊肥本線の駅である。
竹田市の代表駅で全列車が停車し、竹田市の表玄関にもなっている。普通列車は主に当駅で運行系統が分断され、大分方面と熊本方面への列車は当駅で乗り換えとなる。大分方面の列車は比較的多いが、熊本方面の普通列車は少ない。
築堤上に島式ホーム1面2線を有する地上駅である。ホームの脇には夜間滞泊に使用される、車両留置用の側線が並んでいる。駅舎とは地下通路で連絡している[1]。 駅舎は、瀧廉太郎作曲の歌曲「荒城の月」で有名な岡城にちなみ武家屋敷風にしたものとなっている[。直営駅でみどりの窓口がある。 2024年(令和6年)1月から3月にかけての改修工事で竹田市によって駅構内の待合室と竹田市観光ツーリズム協会の観光案内所がリニューアルされた。


武家屋敷風の駅舎を出て




豊後竹田駅から1.5km

岡城跡へ向かいます。



岡城跡


大分県竹田市


令和7年(2025年)1月15日㈬ 撮影



※この記事の続きです。




※岡城 (豊後国) 

大分県竹田市大字竹田(豊後国直入郡竹田)にあった城(山城)。臥牛城(がぎゅうじょう)・豊後竹田城(ぶんごたけたじょう)とも呼ばれる。日本百名城の一つ。雲海に浮かぶ城だが、「天空の城」の火付け役の竹田城とは、「たけだ」と「たけた」と読み方は異なる。

岡城の築かれた天神山は標高325メートル、比高95メートル、城域は、東西2500メートル、南北362メートル、総面積は23万4千平方メートルに及んだ。 伝承では、文治元年(1185年)に緒方惟義が源頼朝に追われた源義経を迎えるために築城したことが始まりであるという。その山城は、南北朝時代の建武元年(1334年)に後醍醐天皇の指示を受けた大友氏一族の志賀貞朝によって拡張され、岡城と名付けられたとされている。


天正14年(1586年)、先に耳川の戦いで敗れ衰退した大友氏を下すべく、薩摩の島津氏が豊後府内に迫る快進撃を見せていた中、岡城のみは志賀親次の指揮のもと再三にわたり島津軍を撃退し(豊薩合戦)、親次はその功績から豊臣秀吉より天正15年正月3日付けの褒状を受けている

 豊臣秀吉の時代の文禄2年(1593年)文禄の役で大友吉統が秀吉から鳳山撤退を責められ所領を没収されると、大友氏重臣の親次も岡城を去ることとなった。翌、文禄3年(1594年)播磨国三木から中川秀]が移封され、入城後に3年がかりで大規模な修築を施した。

この修築では、志賀氏時代の城域の西側天神山に本丸・二の丸・三の丸御殿・櫓を造営し、城の西側を拡張、重臣屋敷群を設けた。本丸に御三階櫓を設け、城門は志賀氏時代の大手口であった下原門に加えて近戸門を開き大手門を東向きの下原門から現在見られる西向きの位置に改め、3口とした。また、城下町は志賀氏時代の挟田に加えて西方に竹田町が整備された。 

豊後竹田7万石の中川氏は、関ケ原で東軍に属したため所領を安堵。岡藩(竹田藩)2代久盛の代には清水門が整備され、3代久清の時に西側の重臣団屋敷を接収して西の丸を築き御殿を造営している。岩盤の台地の上に築かれたため、台風や地震、火事などの被害を多く受け、特に8代中川久貞の明和8年(1771年)には本丸、西ノ丸、御廟など城の大半を焼く大火が起きている。 明治維新後、廃城令によって廃城とされ、明治4年(1871年)から翌年にかけて城内の建造物は全て破却され、現在残っているのは高く積み上げられた石垣のみである。

 昭和11年(1936年)、「岡城址」として国の史跡に指定され、平成18年(2006年)、日本100名城(95番)に選定された。


wikipediaより引用











貫木門跡











太鼓櫓跡









三の丸跡











本丸跡

御三階櫓跡







本丸跡に鎮座する

岡城天満神社








賽銭箱の前には書き置きの御朱印、「セルフ御城」 でした。 


クリア御朱印を頂きました。











上屋のある階段





階段を下りると

二の丸休憩所、ピアノが設置







二の丸休憩所






二ノ丸跡に建つ瀧廉太郎像



瀧廉太郎 (1879-1903) 

音楽家・ピアニスト・作曲家。 明治期における西洋音楽黎明期の代表的な音楽家の一人で、歌唱共通教材として「荒城の月」が知られている。


























再び駐車場へ

豊後竹田駅まで歩きます。