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O Happy Day

仏教と神道の文化・習慣・価値観の中で生まれ育ったみーが、カナダでキリスト教について学んだこと、思ったことを綴っていきます。

8月から12月初めまでの、ある日本人女性と神さまとのjourneyを振り返りをしてた。

 

そしたら急に"Remain in Me"て言うフレーズがフッと思いに来た。そのフレーズの聖句はどういうやつだったっけ?て思って検索したら、私がいつもひっかかるやつの一つだった。

 

4 Remain in me, and I will remain in you. No branch can produce fruit alone. It must remain in the vine. It is the same with you. You cannot produce fruit alone. You must remain in me. John 15:4

 

この箇所を読む度に、どうしてIf you remain in Me, you will produce fruit richlyみたいにポジティブな言い方できなかったんだろう。なんでこんな冷たい厳しい言い方しないとけないんだろう。神さまのこと知らないor知ったばっかりの人が聴いたら「コワッ」「心せまっ!」て思われちゃうようないい方しなくていいのに」て思う箇所だった。

 

今回も、例外なく同じことを想った。

 

「この聖句読んだら彼女は「神さまって冷たい」「心狭い~」て思うんじゃない?」って。若干神さまに文句言いつつ^^;続きを読むと

 

5 I am the vine, and you are the branches. If a person remains in me and I remain in him, then he produces much fruit. But without me he can do nothing. 6 If anyone does not remain in me, then he is like a branch that is thrown away. That branch dies. People pick up dead branches, throw them into the fire, and burn them.

 

てあって、ますます「そんなヒドイいい方しなくても」ていつも通り思った。でも次の瞬間「それだけあなたにとって大事なんだよ」「あなたを守りたいから、だからオブラートに包んだり優しく柔らかく聞こえるようにするんじゃなくて、ストレートに、バシッと、キビしく聞こえても、大事なことだから、しっかり言うの。そして何度も、表現をかえて、言うんだよ」って言われた気がした。

 

そう思えた瞬間、Jesusの愛が胸にぐわぁーっと押し寄せてきて、「そっかぁ、愛からくるこの厳しさなのかぁ」という新しい理解を貰った気がした。Remain in Meすることが、それだけ私たちにとってすごい大事なこと、criticalなことなんだなあ、って。親である私が娘に「これはあなたを守るために、大事だから」て思ったら、確かにそれだけ大事なんだって分かるように、伝えるよなあ、きっと目を見て、真剣に、それに、何度も繰り返しいって、分かってもらおうって思うよなあ、って。

 

しかも、remain in Meしたらあなたたちはこうなるよっていうイメージていうのかな?もちゃんと言ってくれてるんだよね。7 Remain in me and follow my teachings. If you do this, then you can ask for anything you want, and it will be given to you. 8 You should produce much fruit and show that you are my followers. This brings glory to my Father. こないだうち言われてたExchange thoughts- May Your thoughts become my thoughtsていうのが、remain in Me and follow My teachingsしたら、叶うことだよ。そして、そうなると、豊かに実がなっていき、父なる天の神さまの栄光があらわれるんだーって!愛なんだなぁーて感動して、ちょっと興奮気味に続きに目をやると、なんと

 

9 I loved you as the Father loved me. Now remain in my love. 10 I have obeyed my Fathers commands, and I remain in his love. In the same way, if you obey my commands, you will remain in my love. 11 I have told you these things so that you can have the same joy I have. I want your joy to be the fullest joy.

 

こうきた。ほら、もうここにそうやって書いてあるでしょう?愛してるからだよ。愛だよ。って、言われた気がした。

 

ちょうど、こないだの日曜の礼拝メッセージで「Following the Light is surprisingly revealing」ていうのが気になって、でもメッセージではその部分の説明がイマイチ分からないまま終わったから、神さまに聞いてた。その答えとしても、この語りかけがあるんだなー。とも思った。

 

神さま、何度かこの箇所読み直してます。それ以外に、今することはありますか?

あったら、教えてください。

 

ここ数年ですごく思わされることがあります。

 

それは、「日本人が信じる「キリスト教」に不健康さを感じることが多い」ということです。

(もちろん、すべての日本人がそうだ、ということではありません^^!)

 

例えば:

 

ー洗礼を受けないとクリスチャンじゃない、という誤った考えが普及しているみたい

ー教会に行かない=ダメ!

ー牧師の言うことが絶対、牧師はいつも正しい、みたいな牧師崇拝を導いてる感じがする

ーChristianityの一番大事な部分”Love relationship with God"を感じない

ーそれより「神さまのために生きるべき」みたいなルールというか規律というか義務というか、そういうのが真ん中に来ちゃってる感じがする

ー神様を聖書という紙やディバイスの中に書かれたことばの中だけに閉じ込めてしまってる感じがする

ー神様が遠ぉ~い存在そうな感じがする(love relationshipが大事にされないからなのかな)

ー祈り方が「ご利益主義」のままで、苦しそう

ー教会や牧師が信者を囲い込もうとする(ほかの教会に足を運ぶことを罪扱いする)

ー神様を喜び楽しむ、という部分が欠落している感じがする

ーイエスさまを信じます、と信仰告白をすると本人がreadyかnot readyかに関わらずすぐ洗礼受けなさいというプレッシャーをかける

ー礼拝は大人のものであり、一緒に連れて行く子供は親の礼拝の邪魔をしないようにするものだ、という認識という感じがする(子供を神さまのもとに連れて行く、神さまを賛美礼拝する喜びや楽しみを分かち合う、一緒にそれを味わう、ではなくて、大人の邪魔をしないように子供たちを別室で面倒見ておく、という感覚?)

 

今思いついただけババっと書いてみました。他にもいろいろあると思います。

今日はそれぞれについて詳しく書くのはやめてリストするだけにします。また機会があったらそれぞれについて書きたいなと思います。

 

もちろん、私も人間なので、私も間違っている部分、いっぱいあると思います。

 

この数年で日本人のChristianityに触れる機会をもらって、胸がムカムカしたり悲しいなあって思うことがいっぱいありました。とっても残念だなあっとも思いました。そして、ネットや巷にあまりにも「それは違うよぉー!!!」ていう情報が実しやかにあふれているのを見て、いつか家族やOhanaや友達がChristianityに興味や疑問をもって検索した時に、それを「キリスト教ってそうなんだ-_-;」て思ってもらいたくなくて、アップしました。

 

神さまー!あなたはすべてご存じです。何があなたが喜んでくれてることで、何があなたが喜んでないのか、私たち一人一人が、もっと知ることができますように、そして、あなたが喜んでくれるような私たちへと、もっともっと変えられて行けますようにー!

 

感謝して。

In Jesus' name.

最近のexploration。

200621 新・相田みつをワールド 5 セトモノとセトモノ | 筆山のブログ
私が大人になって初めて参列した結婚式の披露宴で、新婦のお父さまがシェアしてくださったスピーチで、この詩を使って話されていました。もう昔のこと過ぎて、はっきり言葉は覚えていないのですが、内容としてはこんなような感じ:

「どちらかがやわらかければ、ぶつかっても壊れることはありません。でも、柔らかい方は、ぶつかられて、痛みを感じます。その衝撃をそのやわらかさで吸収するわけです、つまり、痛いんです。だから、どちらも両方が、柔らかい心を持って、互いが互いを大切にしてください。」


もう25年以上?も前のことだけど、すごく印象深くて、未だに心に残っている。そして、人生を歩む中で、ときどきこれを思い出す。

今朝、またふとこれを思い出した。


セトモノは焼いて硬く頑丈になっている。

「そういう私は、いつもセトモノ。」

 

でも、神さまは私たちにこう語られている;
Yet you, Lord, are our Father.
We are the clay, you are the potter;
we are all the work of your hand.
Isaiah64:8

わたしたちは、陶器師によって形作られるために、やわらかくいる必要があるってことだなぁと。この、聖書箇所を思い出した。

Whoever wants to be my disciple must deny themselves and take up their cross daily and follow me. Luke 9:23

自分の力で、自分の価値観で、自分の立てたプランで(プラス親や社会からの期待やプレッシャーによって)焼きあがってカチコチに頑なになってる私たちの心を、まず粉々に砕いて、また粘土に混ぜ込んでやわらかくしてもらう必要があるっていうことかぁ、そうしたら、陶器師である神さまに、自由に形作ってもらえる、てことかぁと思った。

 

最近「日々自分に死ぬdeny yourselves and take up their cross daily」てことについて考える機会があって、それが「自分に死ぬ」ってことなのかなーって。そしたら、この聖句がまた思い出された。最近よくでてくる。

For I know the plans I have for you,” declares the Lord, “plans to prosper you and not to harm you, plans to give you hope and a future. Jeremiah 29:11

神さまは私たちに希望と将来を与えてくれるプランをもう持って、待っていてくれてて、私たちが柔らかい粘土となるとき、主がそのように私たちを作り変えてくれるってことかぁ、と。

 

「こっぱみじん」ーて言葉は、夢も希望もない、砕かれて再起不能、みたいな時にこの世では使われるけど、実は夢と希望を与えてくれる第1歩なんだなぁ。

 

そして、この聖句に続いていたのがこれ:

Then you will call on me and come and pray to me, and I will listen to you. You will seek me and find me when you seek me with all your heart. Jeremiah 29:12-13

神さまは、「ちゃんと聞いてるよ。だから、心を尽くして、私に祈り続けなさい。心いっぱいで、私を求め続けなさい。」て、言ってくれてるのかぁ、と。

神さま、信じます。不信仰な私をお助けください。 

 

先日、衝撃的な気づきがありました。

 

それは、神さまは人を変えられるんだ、ていう話を、今Homestayしてくれている子としていたときのこと。

 

わたくし、小、中、高というシーズンのさまざまな体験を通して、「友達には期待してはいけない」「他人が言うことを信用してはいけない」「他人は信頼できない」「友達はどうせ離れていく」ていう、とっても不健康な考えを確立しました。

 

はい、とってもひねくれた者でした。

 

そして、大学に入学して、ある女性に出会います。

 

「この子はなんて素直でピュアで、人が言うことを信じるんだろう」って、驚いたし、そのピュアな心がきっと現実を知って傷つけられるって思って、その前に教えてあげなきゃ、なんて思って、「何信用してるの、あんなのただの社交辞令で、本気じゃないよ」とかすごく冷ややかに話していたの、今でも覚えている。時には、そのピュアさにイラっときて、それを思いっきりその子にぶつけていた。

 

そのまっすぐな、ひたむきな、いつも全力で人を信じてそして応答する真摯な姿勢に、ピュアな心に、私は、ひん曲がってしまったひねくれた心で、いつも返していた。

 

大好きだったその子。ひどい返しばっかりする私に、いつも「なんでそんなこと言うの」て言いながらも、見放さずいつも私のことを大切にしてくれた。いつもそばにいてくれて、助けてくれた。一緒に笑ってくれた。一緒に悩んだり考えたり、ふざけたりしてくれた。励ましてくれた。慰めてくれた。応援してくれた。ケアしてくれた。マッサージもしてくれた。テーピングも巻いてくれた。いつも一緒にいてくれた。

 

あんまりひどい扱いをする私に、後輩すら「すずさんは〇さんにひどすぎます!」て本気で怒られたことある^^;。でも、それに対して私は「あんたに〇と私の何がわかるの?」って返す、何とも失礼極まりない返しで突っぱねたの、覚えている。(つくづく、なんてヒドイ性格だったんでしょう、わたし^^;)

 

いつも、大学時代のその友のことを思い出すとき、「本当に感謝だなあ、あんなに辛抱強く、見捨てず大事にしてくれた」って思って感謝だなあ、て思ってたし、夫にもよく「本当に感謝しなきゃ、だよ!大切にしなさい。」て言われてました。

 

けど、今回はそれだけじゃなくて、新しい気づきがあった。

 

神さまが、その子を用いて、通して、私のひん曲がって確立してしまった、「友」との人間関係を、「友」が何なのかを、その愛を、その喜びを、教えてくれたんだなー!て。信用できない私を、変えようとしてくれてたんだなーって。心に深くあった傷を癒し、とげを取り去ってくれたんだなあーって。

 

信頼し合える友。見放すことなく、大切にし合える友。助け合える友。一緒に楽しんだり、喜んだり、わらったりできる友。いろんなことを共有できる友。励ましたり、刺激し合ったり、応援し合ったり、支え合ったりできる友。そういう友が、いるんだよ。って。そういう関係が、あるんだよ、って。私がこの私の大切な娘を送ったから、この子から、それを知りなさいって。愛し合うってことを、学びなさいって。

 

本当に、ありがとう!!!!!!!!沢山の愛を、ありがとうーーーー!!!!そしてあの時私を救ってくれて、変えてくれて、ありがとうーーーーー!!!あの時、あんなにヒドイ私で、いっぱい傷つけて、ごめんね。それでもあきらめずに大切にしてくれて、本当にありがとう!

 

神さまは、私たちが神さまのことすら知らないときに、神さまのことを信じていない人も使って、こんな風に、私たちを癒し、守り、慰め、赦し、愛し、そして変えてくれるんだなあーって。祝福を送ってくれるんだなあーって。神さまー、本当に、ありがとうー。

 

そのかけがえのない友、あなたの大切な愛娘に、あなたの愛が、守りが、癒しが、赦しが、喜びが、平安が、あなたが降り注いでくれるすべての良いものが、届きますように💕!!!

最近、神さまに、「待ちなさい。私が先に行って働いているのがどこなのかを、

少し離れて見定めてから、動きなさい、」と、言われている気がします。

何度も何度も、繰り返し、色んな所でそれを聞いたり見たりするからです。

 

神さまのタイミングを、待つ。

 

この話を以前うちにホームステイしてくれてた大事な家族にシェアしたら、

タイミングを待つってどうやるの?

って、質問をぶつけてくれた^^/。

 

そして、その質問は、きっとただ偶然ではなく、聞くべきして聞いた質問なんだ、

と思わされた。待つ、とは、何か、神さまに、聞きつつ、今の自分の理解を、

恐ろしく長々と、ツラツラと、書き出してみた 笑。

 

相変わらず、バシッと、短い文で、クリアに説明する能力に欠けている自分^^;

 

自分のタイミングで何かが起こってほしい時、何かをしたい、て思いがある時、

この世の流れでDeadlineがある時にね、まず立ち止まって、

それが神さまが今しなさいって言ってることなのか、神さまが導いてくれてることなのか、

神さまが今自分にしなさいって言ってることは何なのか、

何にfocusしなさいって言ってるのか、を聞く。分からないうちは、動かない。聞き続ける。

 

と、同時に、今日、今この瞬間に、神さまが私に語ろうとしてくれてることを

聞けるように、「神さまが私に言おうとしてくれてることを聞きたいです。

聞けるように助けてください。聞かせてください。」て

神さまに聞いたりお願いしたりする。

 

自分が聞きたいことは「私がしたいこと、決断しないといけないこと」や、

deadlineが迫ってること」だけど、でも神さまが今自分に語り掛けようと

してくれていることは、何か別のことかもしれない

(そしてそれは自分の目から、考えから、状況からしたら、

「え、今それ?!」てことが多いかもしれない)。

 

一般的な考えからするとね、「神さま、今私が聞きたいのはそれじゃありませんよ?

違うこと聞いてるんですよ?なんで答えてくれないの?」てなる。

 

そう神さまにぶつけるときある!笑 

 

でも、神さまがその時その瞬間に語ってくれることがあるとすれば、それは、

その時に聞くことが一番besttiming。自分にはその時にはまだ分からないことが多い。

 

神さまは昔も今も未来も全部見えて治めているお方。

神さまのなさることは、すべて時にかなって美しい。

 

その時に本当に聞く必要があることを、神さまは語ってくれる。

自分がその時知りたいこととは違うこともある。だから、自分が知りたいこと、

聞きたいことを目いっぱい神さまにぶつけて聞くことと同時に、

神さまがその時その時語ってくれようとしてることをちゃんと聞き逃さないように

キャッチしたい、て思う。

 

あと、次にMove onすること(進路?)を何か聞いてるときは、

答えが来るまでの間は、最後に「今これをしなさい」「これにfocusしなさい」て

言われたことを、し続ける。

神さまに「もう今はそれじゃないよ、これだよ」て言われるまでは。

 

また、今回言われてる気がするのは、

神さまは私たちの先に行って、道をつくり整えてくださる。だから、

物事が動いても、決断を迫られても、何かあってもすぐそれにreactしないで、

一歩引いてまず前方で働いてくれてる神さまの動きをよく見る、見えたら、それに従う。

 

よく、「行く道は自分で切り開いていかないと」とか言いますよね。

でも、本当は、自分で切り開くんじゃないんです。

 

神さまが切り開いてくれる道を、私たちは行く。

 

自分で勇気を出して決断して道を切り開いて努力していく。って、

一見すごいいいことみたいですよね?

 

一見、それが狭い門、狭い道を行くことな気がするじゃない?

(狭い門、狭い道を行く、ていうのは、神さまが招いてくれる&導いてくれている&

自分にとって一番いい道を行く、ていうこと。聖書の言葉から。)

 

誤解しがちですよね、これ。門も道も、神さまが先に用意してくれてる、

だから自分たちはそれがどの道かを見極めて、その道を行く。

見極めるためには、神さまとのlove relationshipを持ち続け、深め続けることで、

神さまが指し示してくれてるとき、それが聞けるように、分かるようになっていく。

 

門をくぐるタイミングも、道を歩くペースも、神さまが教えてくれる。

 

道やタイミングを間違えることがあっても、神さまが行く道を行きたいって望んでて、

従いたいっていう思いを持っていたら、

神さまがその間違えた地点から改めて導いて行ってくれる。

 

「そんな待ってるだけとか、したがって敷かれたレールを行くだけって、

つまらないし、他力本願だし、なんか物足りない」て

きっと世間一般には思われるようなことですよね。

 

「自分の人生は自分が生きたいように、自分の意志で決めて、

自力で切り開いていかなくちゃ」て。

 

たしかに、人間が作ったレールを行くだけだったら、確かにつまらないだろうし、

誤った依存が生まれたり、傷ついたり、ストレスやPressureに押しつぶされそうに

なったりもします。

 

でも、神さまが作ってくれたレールを行くのは、

最高に自分が活きる、最高に喜びや楽しみや平安に満ち溢れたもの。

 

もちろん平坦な楽な道じゃない、苦難もいっぱいあると思う。

病気にもなると思う。そして周りにはきっと理解されない。

 

でも、神さまを信じて、神さまの道を選択して一歩進み始める時、

(ハーベストタイムの中川さんは確かそれを能動的受け身って言ってた!)

そこには神さまの守りと祝福がある。希望がある。平安がある。

「満たされる」ことができる。喜びが、ある。

 

一時的な移ろいゆくものじゃなく、ずっと変わらない、

安定しててずっと続く「満たされる」serenityがね^^。

 

と、ぶわーーーーーと打ったけど、

うちながら、自分に言い聞かせ、神さまに泣きつき、という今の自分です^^。

ひょっとしたら、1年後、5年後、10年後にこれを見返したら、

「こんなこと思ってたのー?笑」てなったりするのかな。