私がモヤモヤすることの一つに「仕える」の使い方がある。
日本人クリスチャンの人たちが、よく「牧師に仕える」「教会に仕える」「人に仕える」と使います。これを聞くたびに、私は「私のマスターは神さまだから、私が仕える先は神さまであって、牧師は私の主ではないし、私は教会の奴隷でもないのになあ。」と違和感を覚えてしまうんです。
でも、クリスチャンにそれを言うと、「え、何を言っているの。そんな意味で使ってるんじゃないよ。」「そんな風に思うのはあなただけよ。」「人に仕えられなければどうやって主に仕えることができるか」「牧師に仕えるのは当たり前」と返されます。
日本人クリスチャンの人たちは、「仕える」を、英語の"serve"という言葉の意味として使っているんだな、と言うことが分かりました。
serve:
食事や飲み物を給仕する、誰かに何か必要/ヘルプを提供する
(serve under~)~の下で働く、(serve in/on~)~で働く
でも、私は「仕える」と日本語で聞くと、このserveという英単語の意味ではなく、日本語の「仕える」の意味の方をイメージします。
仕える:
目上の人のそばに居て、その用をする。その人を主君・主人・長上として、その人のために働く。
イメージとしては、下僕が君主に、女中が殿さまに、執事が主人に、というイメージ。
使い方が、意味の認識が、違うんだ、と分かったところでスッキリしないでまだモヤモヤしているのには、理由があるんです。
理由1)
気づかないうちに不健康な考え、視点になっている恐れがあるー牧師崇拝、教会崇拝。
フォーカスが神さまじゃなくて人や教会になってしまっている
理由2)
聞く人に間違ったクリスチャニティへの理解を与えがち。
(日本人のノンクリ友の10人に聞いたところ、「~に仕える」と聞いてふと思いついた意味は、日本語の「仕える」の方であって、英語の方ではない。)
私の願いとしては、日本人クリスチャンに「人に仕える」という意味が日本の一般社会で使われているものと違うという自覚を持って、話すとき意識をして言葉を選んでほしい。
日本のクリスチャン人口は1%から増えないと嘆かれることが多いですが、クリスチャンが日常的に使っている単語や表現から、「キリスト教という宗教」の誤った理解や印象を与えているという現状もあるんじゃないかなー?と思うのです。
April 25, 2024補記ー
「仕える相手は神さま」というのが、「そうだよ」って言ってくれてるんかなーって思う聖書箇所を最近2つ与えられました。
1コリント人への手紙12章5節(新改訳2017版)
奉仕はいろいろありますが、使える相手は同じ主です。
エペソ人への手紙4章12節(リビングバイブル)
なぜこのように、それぞれに賜物が与えられたのでしょうか。それは、神の民となった人々が、神のためによりよく働けるよう整え、キリストの体である教会を、力にあふれた、完成した状態へと建て上げるためです。
エペソのほうは、最初新改訳を読んだときは「奉仕の働きをさせ」とあって、なんだか良く分からなかったんですが、リビングバイブルや英語のいくつかの訳にServe Himってあって、そういうことか!と思いました。