最近のexploration。
私が大人になって初めて参列した結婚式の披露宴で、新婦のお父さまがシェアしてくださったスピーチで、この詩を使って話されていました。もう昔のこと過ぎて、はっきり言葉は覚えていないのですが、内容としてはこんなような感じ:
「どちらかがやわらかければ、ぶつかっても壊れることはありません。でも、柔らかい方は、ぶつかられて、痛みを感じます。その衝撃をそのやわらかさで吸収するわけです、つまり、痛いんです。だから、どちらも両方が、柔らかい心を持って、互いが互いを大切にしてください。」
もう25年以上?も前のことだけど、すごく印象深くて、未だに心に残っている。そして、人生を歩む中で、ときどきこれを思い出す。
今朝、またふとこれを思い出した。
セトモノは焼いて硬く頑丈になっている。
「そういう私は、いつもセトモノ。」
でも、神さまは私たちにこう語られている;
Yet you, Lord, are our Father.
We are the clay, you are the potter;
we are all the work of your hand.
Isaiah64:8
わたしたちは、陶器師によって形作られるために、やわらかくいる必要があるってことだなぁと。この、聖書箇所を思い出した。
Whoever wants to be my disciple must deny themselves and take up their cross daily and follow me. Luke 9:23
自分の力で、自分の価値観で、自分の立てたプランで(プラス親や社会からの期待やプレッシャーによって)焼きあがってカチコチに頑なになってる私たちの心を、まず粉々に砕いて、また粘土に混ぜ込んでやわらかくしてもらう必要があるっていうことかぁ、そうしたら、陶器師である神さまに、自由に形作ってもらえる、てことかぁと思った。
最近「日々自分に死ぬdeny yourselves and take up their cross daily」てことについて考える機会があって、それが「自分に死ぬ」ってことなのかなーって。そしたら、この聖句がまた思い出された。最近よくでてくる。
For I know the plans I have for you,” declares the Lord, “plans to prosper you and not to harm you, plans to give you hope and a future. Jeremiah 29:11
神さまは私たちに希望と将来を与えてくれるプランをもう持って、待っていてくれてて、私たちが柔らかい粘土となるとき、主がそのように私たちを作り変えてくれるってことかぁ、と。
「こっぱみじん」ーて言葉は、夢も希望もない、砕かれて再起不能、みたいな時にこの世では使われるけど、実は夢と希望を与えてくれる第1歩なんだなぁ。
そして、この聖句に続いていたのがこれ:
Then you will call on me and come and pray to me, and I will listen to you. You will seek me and find me when you seek me with all your heart. Jeremiah 29:12-13
神さまは、「ちゃんと聞いてるよ。だから、心を尽くして、私に祈り続けなさい。心いっぱいで、私を求め続けなさい。」て、言ってくれてるのかぁ、と。
神さま、信じます。不信仰な私をお助けください。