(18)IT会社を辞めて、塩の会社を起業した理由  | 橋本三奈子のSalt Revolution(わじまの塩に魅せられて)

(18)IT会社を辞めて、塩の会社を起業した理由 

私が、IT企業を辞めて、塩の会社を起業した理由をご紹介しています。


(1)  (2)  (3)  (4) (5)   (6) は、父が肝硬変で入院し、その病院で、「病気にならない生き方」と「食品の裏側」を読み、娘の未来の子供達の健康は、娘たちの食事を作る私に責任があるのだと思った。今の会社の顧問・瀬川昌威と出会い、輪島の塩と出会い、ミネラルの重要さを知り、化学で作られたサプリメントの怖さを知り、輪島の塩のユーザになったという話。


(7)  (8) (9) (10) (11) は、リンゴの変色実験をしたことから、乳酸菌の育成実験にいたり、人間の血液の比率によく似ている輪島の塩は、精製塩や岩塩よりも、乳酸菌の育成量が多かったこと。発酵食品の決め手となる乳酸菌発酵には、ナトリウムとマグネシウムの微妙なバランスが関係していること。この発酵を促すミネラルバランスの塩は、輪島特有のものだろうと思った。また、マグネシウムが酵素を活性化し、たんぱく質を分解して、うま味を出し、かつ、消化を助けることがわかったという話。


(12)  (13)  (14)  (15) (16) は、輪島の塩にはまっていき、輪島に旅行に行くことになり、そこから、瀬川から紹介してもらった三國清三シェフに世界料理オリンピック大会のジュニア部門で輪島塗の台や器を使いたいと頼まれ、東京と輪島の仲介役を果たし、輪島合宿を実施した話。


(17) は、当時の輪島の塩を作っていた社長さんが脳腫瘍で塩作りを継続できないことになってしまった、という話でした。続きます。


そのころ、その塩の製塩所を作った中道肇は、輪島市の海士町に頼まれて、水産庁の離島の事業助成金を使って、輪島から50km沖にある舳倉島(へぐらじま)に新しい製塩所を作り、そこで塩を作っていることがわかりました。


塩作りの方法は、さらにレベルが上がっていました。フランスのゲランドの塩田を参考に、室内で再現したというものでした。


海水を運んで、室内の浴槽の中に入れ、その海水の上からランプで熱を当て、40℃未満の低温で海水を蒸発させ、結晶させる方法です。10日間かかりますが、雨を気にすることもなく、季節を問わず、1年中作れます。


エネルギーは、焚き木でも石油でもなく、電気。エコでもあり、生産性も上がっていました。生産量を増やすなら、浴槽とランプのセットを増やせばいい、ということでした。


この製塩所は、中道肇が一人で設計したということ。


その舳倉島の塩も、祈るような気持ちで成分表を調べたところ、ナトリウムとマグネシウムの比率が、人の血液とほぼ同じというものでした。


2008年4月から、舳倉島のお土産品として、販売開始されていたそうでしたが、まだ広くは売られていないものでした。そこで、その舳倉島の塩を後継商品にしようということになりました。


ところが、東京でプロモーションしていた瀬川も、一緒にやってきた社長さんが辞めるのであれば、自分も高齢であるし、この機会に販売事業を辞めて、塩の啓蒙活動に専念する、とおっしゃったのです。


瀬川は、何人かの方に、引き継いでもらえないかと頼みましたが、「販売は引きうけるけれど、塩なんていう儲からない事業に専念することはできない」と断られてしまいました。


次回、とうとう、最終回です。

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