和ノ道プロジェクト公式ブログ
和道プロジェクト - PLANETARY WORK

人のカラダは宇宙そのもの。 そして人のカラダは神聖な魂が宿る神社そのもの。
新世紀の「神社」認識とは、その土地に存在する神社だけを指すのではなく、人そのものが神社、すなわち 「 動くパワースポット 」。 その大切な社(やしろ)である肉体、そして人の思考や行動が調和で満たされることにより、関わる全てが明らかなる変容を遂げます。 自らの心身を健やかに保ち自己実現することこそ、関わるすべての人・場所・物の保持する磁場が健やかに保たれることとなり、それすなわち地域が、日本が、そして地球が、太陽系が、そして宇宙にまで、その調和波動が遍く届いてゆくこととなります。
「共生・協調・調和」 をメインコンセプトに、 神職介添えのもと『 社(やしろ)』そのものである“ 人・場所・物 ”に神道的アプローチにより働きかけ、それに連なる地域→日本→世界→地球→宇宙の調和が図られる、というのが Planetary Work の種子。 一人一人小宇宙である実体を、神社などの縁ある土地に運ばせていただき、相互交流させていただくことにより、つつみ気枯れが祓われ、人も土地も物もすべてが本来の輝きを放つ、というのが神社おそうじ隊の種子。 すべての意と土地と人とを、神職が那珂執り持ちさせていただいています。
現在日本全国各所に鋭意見参中。 清祓ワーク、及び清祓ノ儀での御玉串料、およびワーク代は、プラネタリーワーク活動支援費として運用させていただいており、その一部は神社おそうじ隊が活動する中で、全国の地域・神社に納めさせていただいております。
  • 12Dec
    • 2018.11.5〜8  『神社おそうじ隊、対馬見参!』その8

      失われたと思っていたデータが復旧まだまだこれからテクを磨いていかないと…という感じの動画ですが、対馬の神社の雰囲気は感じられると思うので、アップしておきます音楽は(いまのところ)あまり種類がないので、あしからず。まずは、「和多津美神社」を。いわゆる「手つかずの自然」。そして、古より崇敬され続ける神社の風格を、感じていただけたら幸いです

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  • 04Dec
    • 2018.11.5〜8  『神社おそうじ隊、対馬見参!』その7

      『銀山神社』日本書紀において、対馬は最初に銀が発掘された地とされている。ここで祀られるモロクロ(諸黒)神は対馬固有の神。ここからほど近い地に、『銀山上神社』「延喜式神名帳」では「銀山」を「カナヤマ」「銀山上」を「シロカネ」と傍訓があるらしい。現在の「ぎんざん」「ぎんざんじょう」という呼称は、明治初期に定められたもの。「カナヤマ」とは、金・銀・銅・鉄などの金属を採掘できる山のこと。「カナ」は本来的には「金」のことを指す言葉だが、対馬においては銀が主であり、銀山を「カナヤマ」と呼ぶ習わしは自然にできたと思われる。『雷(いかづち)神社』「古代において、作物の豊凶や天変地異、病気の蔓延などは、統治者の重要な関心事でした。場合によっては、統治者がその責任を負い、処刑されることもあったのです。」(対馬神社ガイドより)「対馬・壱岐・伊豆の三国の卜部は対馬が本流だとする説が有力で、また鹿卜を主とした東国卜部は対馬・壱岐の卜部より亀術を習ったとする説もある」(「海神と天神」より)対馬では、明治四年の廃藩置県まで亀卜が行われていた。

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  • 30Nov
    • 2018.11.5〜8  『神社おそうじ隊、対馬見参!』その6

      『太祝詞(ふとのりと)神社』式内社(名神大社)現在の祭神は、大詔刀(ふとのりと)神一座。境内に雷大臣(いかつおみ)命一座の祠がある。雷大臣命は、対馬の亀卜の祖とされ、太祝詞神社と雷命神社はその縁故の地と称しているという。また、大詔刀は亀卜と関係のある名称。「太祝詞神社」は「太祝詞の神を斎く社」、つまり「卜部の祭る処」なのだろう中世・近世には「賀志大明神」と称していた。「大和国添上郡の太祝詞神社、京の二条に坐す太詔刀神社は明らかに対馬と関係があり、同じく二条に坐す久慈真智命神と大和国十市郡の天香山坐櫛真(智)命神社も本来対馬と関係があったのではないかと思われる。すなわち、対馬の卜部が上京して宮廷の卜部が成立したという事情から考えて、対馬にあった卜事関係の神々が大和国に勧請され、後に都が山城国に遷った時、さらに京都にも勧請されたものと考察される。」(「海神と天神」より)『小茂田浜神社』「蒙古(元)が中国を統一して日本の朝貢を勧告してきたが、日本がこれをはねつけたため、文永11年(1274)10月総兵力2万5千人、900艘の大船団をもって対馬を侵略した。宗家初代当主宗資(助)国はわずか80余騎で勇躍これを迎えうち、小茂田浜で奮死した(文永の役)。壮絶な死を遂げた資国公の墓所は、700年を経た今日、お胴塚、お首塚として、それぞれ別のところに伝承されている」(「つしま百科」より)ここでは2万5千となっているが、高麗の兵も混えると4万の兵ともいわれている。いまも対馬の津々浦々では蒙古塚の伝説が遺っている。「しかしながら数々の古い記録に遺されているような『島民が全滅した』というのは誇張表現である。本作の舞台も島全域でなく、厳原から金田城にかけた島南部の戦いである。対馬は大きく、なんと東京23区よりも広い。一週間余りで全滅させるなど物理的に不可能だ。それに古代からの信仰も脈々と受け継がれている。難を逃れ生き残った人々が再び明日の対馬を築いたに違いないのである。」(「アンゴルモア」第10巻 あとがきより)

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  • 22Nov
    • 2018.11.5〜8  『神社おそうじ隊、対馬見参!』その5

      『厳原八幡宮』対馬の海の玄関口・厳原のすぐ近く。周辺は対馬の繁華街となっており、歴代藩主の崇敬も集めたという気配を濃く感じる。もともとは「和多津美神社」だったようだが、国防意識の高まりと共に武神である神功皇后を祭神とした、と説明されている。同所は、繁華街中心部であることもあり、パーキング施設などが広くとられている場所。そこには、同じ境内、というわけではないが、『宇努刀神社』並びに、『天神神社・今宮若宮神社』これらの神社が鎮座されている。次いで、海の中に浮かぶ『志賀島神社』に参拝。「延喜式」の「敷島/敷嶋神社」に比定される論社。御祭神は磯良命。神功皇后の逸話も伝わるらしい。そして、この場所から車で数分。『都々地(つつち)神社』「つつ」は、古語では「蛇」(=雷)を意味するという。「ち」もまた蛇である。海中鳥居で知られるこの神社は、式内社「都都智神社」の論社の一つ。

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  • 19Nov
    • 2018.11.5〜8  『神社おそうじ隊、対馬見参!』その4

      『天神多久津魂神社』対馬の北部を上県、南部を下県という。(「県」は「あがた」と読む)律令制の国・地名においては京の都に近い方が上、遠い方が下となっている。しかしこれも東海道の話で、西海道の、筑前/筑後、肥前/肥後、豊前/豊後はいづれも太宰府を中心に決まっているという。対馬では、太宰府に近い方が下県、遠い方が上県。これについては諸説あるが、こうした地名の決定過程一つをとっても、対馬史の複雑さを感じる。この『天神多久津魂神社』は、上県の佐護にある。下県の豆酘(つつ)に、対馬に古くから伝わる天道信仰の中心と目される『多久津魂神社』がある。佐護の『天神多久津魂神社』は社(やしろ)はなく、背後に聳える天道山を遥拝する祭祀場として古来よりの信仰を伝えている。天道山の南、雄嶽の八合目辺りに磯石を敷いた場所があり、そこが古い磐座、天神を祀った霊地と目されている。天道(テンドウ)というのは日神とその童子のことで、天道と名付けられた童子は、僧となり一旦は上洛した。霊亀2年(716)に時の天皇の病を治し、その褒美として対馬の年貢を許されたという。行基上人を誘い対馬へ戻り、商人は現在も対馬に残る6体の観音像を刻んだ。天道法師は豆酘の隣、浅藻の卒土山に入り、ここで入定したという。それが、天道信仰の聖地、八丁郭にあたる。(参考・「美術手帳」)八丁郭には、8日早朝に拝することができたのだが…それはまた別記事にて。こうした石塔が2基ほど築かれていた。神を迎える門としての意味が考えられる。そして、多数のリクエストにより『対馬野生生物保護センター』へ。職員の方の丁寧な解説をいただき、おやすみ中とはいえ、絶滅の危機に瀕している「ツシマヤマネコ」に会えました再び巡拝を再開し、『神御魂(かんむすび)神社』豆酘の『高御魂神社』と対として語られる神社。祀られているのは「女房神」。「天地の初発の時、高天原の成りませる神の名は天之御中主神、次に高御産巣日神、次に神産巣日神…」「古事記」冒頭にこう記され、事実上の高天原の主神ともいえる二神。中世以降、習合して本来の神名が不明となった神社は対馬には多いが、この二神においてはそのまま遺っている。宮中に祀られる御巫等祭神三十三座の上に、この二神の座があるという。「皇室の最初の祖神が高御産霊尊で、次いで天照大神となり、天皇が天津日嗣と称されることは、 対馬直の神系譜と全くよく似ている。 対馬直、壱岐直の一族が宮廷の卜部となったのは、朝廷の儀礼を整えるにあたってその神と祭りが 必要になったからではないだろうか。 大王(おおきみ)といい、のちに天皇と称した最高の祭司が、従う卜部官を対馬・壱岐・伊豆の三国 より選んだのは、他に政治上の理由もあったであろうが、まずは祭祀上の理由があったと考えられる」(「海神と天神」より)そして、『和多津美御子(わたつみみこ)神社』元は天神宮。「前にも触れたように、中世の神仏習合時に多くの古社が本名を失し、固有の祭神を 忘れた時も仁位の和多津美神社を「和多津美宮」「わたつみのみや」「渡海宮」と した確かな史料が残っている。 しかし、和多津美の御子神の名を遺した史料はどこにもない。 しかるに、神道復古を図った神官らは、廃れた古名を復活した時、まず仁位の渡海宮 を和多津美御子神社に比定し、次いで仁位の天神宮を同社に比定して、渡海宮を別の 式内社大島神社にあてた」(「海神と天神」より)こちらでは、こうした素敵な出会いもありましたこの方のオススメをいただいのが、『濱殿神社』豊玉「ヒコ」を祀る神社。そして、この日最終見参社は、『住吉神社』対馬においては、「和多津美」と「住吉」の区別は曖昧である。「和多津美」系で少童(わたつみ)神でなく豊玉姫と鵜茅葺不合尊を祀り、「住吉」系でも同様に祀る。共通しているのは、どちらも神功皇后伝説を伴っているということ。対馬には、神功皇后と関係した由緒を伝える神社は多い。「そもそも神功皇后に、新羅を征伐して胎中の皇子(応神天皇)に治めさせよと託宣したのは、 伊勢の五十鈴宮の媛神と筑紫の日向の橘の小門の底筒男・中筒男・表筒男の神たちであった。 『古事記』と『日本書紀』がこのことを特記しているのは、畿内の朝廷と密接な関係にあった 伊勢の天照大神と、摂津の墨江を本拠として瀬戸内から北九州・壱岐・対馬に発展した住吉大神 の真意を強調したもので、それはこの両神が特別に皇室の崇敬を受けるようになった時代の反映 とみられる」(「海神と天神」より)夜は、宿よりほど近い「汐路」にて、対馬の家庭的な料理をいただきました

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  • 17Nov
    • 2018.11.5〜8  『神社おそうじ隊、対馬見参!』 その3

      『島大國魂神社・那祖師神社・若宮神社』(三社合祀)式内社「そもそも島大國魂とは、対馬国の国魂神のことであろう。 したがって、島大国魂神社が祭神を素戔嗚尊とし、この祭神に付会した説話を 由緒としていることは不可解である」(「海神と天神」より)次に、『能理刀神社』式内社の「能理刀神社」の論社は、この他に数社あるという。中世以前の古名を検証する史料がないため、このような混乱が生じる。こちらの、西泊の神社は有力視されている神社。旧名・熊野権現。「延喜式」所載の神社名で、他国には「能理刀」という社名はないという。対馬は、日本における卜部の本拠地であり、そのルーツは朝鮮、そして中国。高台になっています。そして、『嶋大国魂御子神社』式内社。以前は「日吉権現」と称していた。夫婦杉はじめ、巨木がとても印象的。ここから近隣の「対州そば』のお店に。

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  • 14Nov
    • 2018.11.5〜8『神社おそうじ隊、対馬見参!』 その2

      『阿麻氐留(アマテル)神社』式内社。日神・天日神命(アマノヒノミタマノミコト)を祀る古社。対馬の古族、県直(あがたのあたい)らの祖神とされる。「阿麻氐留という神は、まさに天照る神に違いない。 それは原始的な日ノ神信仰によるもので、照日の神とも称したのであろう。 中世から近世の頃、当社が照日権現と呼ばれたのは、照日という神名があったから だとみられるが、この古い名をとどめた伝説は他にもある。 対馬には俗神「オヒデリサマ」がある。 この神は神社の形式から外れていて、祭りも絶えたところが多く、名称も廃れかけているが、 古い習俗をよく伝えてきた村もある。 これはその名のごとく日照りの神で、禁忌に触れると祟りがきびしいという。 神威の高い神だったに違いない。 この日照りの神と、天照る神と、照日の神は、もともと同じ神ではないかと思われる。 それなのに天照神のみが官社となり、お日照りサマは俗神として神社の列にさえ入らず、 また、照日の名は伝説の中に埋もれてしまった」(「海神と天神」より)『対馬見参!』。最初に式内社でもあり、上記のように「天照」という神ともいわく縁あると思われる神社に。ここから、『和多津美(わたつみ)神社』名神大社。対馬にはある式内社29社のうち、上県郡16座の筆頭に置かれている神社。他に、対馬には「和多津美」と冠する神社は10箇所ある。しかし、由緒を語っていたり、豊玉姫を祭神とする神社は数多く、それらを含めれば77社になるという。ここから、対馬は「ワタツミノクニ」ともいわれる。社叢は原生林として天然記念物に指定されていて、森中には豊玉姫の墓とされる御陵がある。そして、対馬国一宮である『海神神社』国幣中社。上津八幡宮から明治4年に改称。もとは和多津美神社だったという説がある。この神社の鎮座する木坂には、豊玉姫の故事を語る産屋の習俗が明治初期まで遺っていたという。現在の祭神は、彦火火出見、豊玉姫、鵜茅葺不合。しかし本体の主神は豊玉姫と磯良(いそら)だろうと、伝承からは推察される。「磯良」とは、神功皇后の水先案内として活躍し、潜水を得意とする海人とされているが…これについてはまた別記事にて。ここから、長い石段が…そして、夕食は『あなご亭』  あなごの刺身他、そこにいる誰もが「美味しい」と舌鼓を打った絶品あなご長崎県対馬市西沖の韓国との国境付近で獲れる「対洲黄金あなご」を食せます。まずは初日。ありがとうございました

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  • 09Nov
    • 2018.11.5〜8『神社おそうじ隊、対馬見参!』 その1

      南北約82㎞、東西に約18㎞、面積は隣の壱岐の約5倍。東に日本海、西に東シナ海、南には日本列島、北に朝鮮半島という東西と南北の軸が交差する場所に、対馬はあります。平安時代に編纂された「延喜式神名帳」という法典があります。ここに登載された神社は当時の朝廷に認められた神社であることを意味し「式内社」と呼ばれます。西海道(九州)全体で98社107座を数える式内社の中で、対馬では29社もの式内社を擁しています。隣の壱岐の24社を加えると九州全体の約半数を占める…つまり、それだけ対馬と壱岐は当時の朝廷においても重要視されていたということになるでしょう。これらの神々は、大別して海神(和多都美ーわたつみ)系と天神(天津神ーあまつかみ)系に分類されます。海神系は『和多都美神社』天神系は、『高御魂神社』に、それぞれ代表されます。対馬において、今回3泊4日という日時を、総勢13名で過ごさせていただきました。その行程は、ある程度予想されたことではありましたが、見過ごされてきた日本の歴史の側面を改めて認識する行程でもありました。対馬観光物産協会・「対馬歴史観光ガイドブック」によると、対馬は、「3世紀、『魏志倭人伝』に最初に登場する倭国(クニ)として描かれ、古くから日本と大陸を結ぶ海上交通の要衝であった」といいます。『古事記』においては、国生みで最初に創造される大八島国の一つとして描かれるこの島は、朝鮮半島まで49.5㎞、まさに「国境の島」という位置関係にあります。初めて訪れる島なのに、どこか懐かしい…参加者の方々から、このような感想が聞かれましたが、私も同様です。ある意味での日本の原郷、手つかずの自然がそのまま残る対馬を、今回は見参!してきました。

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  • 12Oct
    • 2018.9.9〜11 『神社おそうじ隊、岡崎見参!』 その4

      『六所神社』御祭神 塩土老翁命 猿田彦命 衝立船戸命 太田命 興玉命 事勝国勝長狭命徳川家康公誕生の折、産土神としてご拝礼になったとされる神社。この「六」という数字が、今回の「岡崎見参!」のキモだった。なぜなら、岡崎市には「六」と付く地名が、南西から北東に一直線に配置されているという事実があるからだ。これが、ただ並んでいるだけならば、「そういうこともあるよね〜」で済んでしまうものだが、ここ岡崎においては、それで済ますことのできない意味が推測される。この一直線のラインを、海越えすると伊勢神宮に到達する。伊勢神宮を基点として考えた場合の、岡崎の役割というのは「鬼門」であるということ。そして、このラインの上には「六」という、陰陽思想の香り漂う数字が並ぶ…。岡崎という地には、一種独特の気が流れている。流れている、というよりは、そこに「ドンッ」と何かが置いてあるような…その独特さの底流のひとつには、陰陽思想による街づくり、があるのかもしれない。続いて、神社ではないものの、地元民の方に「是非」とオススメされたお寺に。『大樹寺』松平家 徳川将軍家菩提寺宝物を拝観すると、将軍御成りの間や徳川歴代将軍の位牌すべてを観ることができる。このあと、味噌煮込みうどんを食し…そして、雨も強まるなか…『岩津天満宮』御祭神 菅原道真公「六十を越える古墳に眠る古人の慰霊の祭祀を行ってきた場所」・天神山に鎮座。熱田神宮と三河国一宮である砥鹿神社の奥宮を結ぶ線上に位置する。こちらでは、コーヒータイム。境内にある「余香殿なおらひ」へ。やっぱり、三河なので小倉トーストそして、『村社・七所神社』創建は飛鳥時代と推測される神社。この地を治めていた物部氏と関連が深いらしい。「六所」があり、「八丁」があるなら「七」はあるはずだ…という意識でいたら、行き当たったという経緯がある。。。そして、帰りの都合上ここで岡崎からは離れ名古屋へ向かう。最後に、名古屋駅近く…『白龍神社』にて、ご挨拶をさせていただき終了 日本というのは、歴史上何度も危機的な状況に陥りながらも、神風が吹くような、奇跡的な現象により国のカタチ自体変わることなく連綿と続いてきています。その目には見えない日本の根底で、神社というシステムが実際はどれほど活動しているのか…今回の「岡崎見参!』では、改めて想いを馳せることになりました。生かされて生きている。ご参加いただいたみなさま、本当にありがとうございました次回は、すでに締め切っていますが『神社おそうじ隊 対馬見参!』になります。…その前に、この翌日の「番外編」と、「岡崎見参」初日、熱田神宮参拝を記事にいたします

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  • 27Sep
    • 2018.9.9〜11 『神社おそうじ隊、岡崎見参!』 その3

      『菅生神社』岡崎最古の神社といわれる。御祭神 天照皇大神 豊受姫命 須佐之男命合殿御祭神 菅原道眞公 徳川家康公社記によれば、第12代景行天皇(西暦110年)の御代に、日本武尊が東国平定のためのこの地を通過した時に矢を作らせた。神風でその矢が小川に吹き流されたため、その矢を「御霊代(みたましろ)」と仰ぎ、伊勢大神を祀る神社を建立した(吹矢大明神)という。古くは乙川(神社正面を流れる川)を挟んで南東と北西に二社一宮として位置していたという。南東側の御祭神に天照皇大神、北西側に豊受姫命が祀られていたというのは、伊勢神宮の内宮・外宮の配置関係であったということになる。ことほどさように伊勢と関係の深い地。それが、今回の見参地、岡崎です。  「菅生神社」のすぐ近くに、『浄瑠璃姫』の墓とされる場所がある。「浄瑠璃」とは、「東方浄瑠璃浄土」にちなむ言葉。東方は仏教において、薬師如来の世界といわれる「浄」とは清らかな、「瑠璃」とはサンスクリット語でパイドゥーリヤ、青い宝石を意味している。梵字の刻まれたストゥーパが建てられていた。薬師如来と日本の神道は、歴史的に実は関係が深い。その昔の本地垂迹説(日本の神々は仏の化身としていた説)の頃には、熊野速玉大神、東照大権現などは薬師如来の化身とされていた。「浄瑠璃姫」は、「浄瑠璃御前物語」という、「浄瑠璃」が伝統芸能の一つに数えられるようになる契機となった語り物のヒロインであり、その姫の生誕地が岡崎であることから、ここに墓があるようだ。ここから、雨ということもあり、またご参加いただいた皆様のご要望もあり、岡崎といえば、八丁味噌。ということで、江戸時代初期より現在まで十九代続く「カクキュー」の味噌工場見学に。こちらは、2006年上半期のNHK朝の連続テレビ小説、宮崎あおいさん主演の「純情きらり」のロケ地となった場所。    「八丁味噌は、岡崎城より西へ八丁(約870m)の距離にある八帖町(旧八丁村)の2社で江戸時代初期から造られる味噌の銘柄です」(「カクキュー」パンフレットより)味噌アイスは絶品です見学された際には、是非ご賞味あれ。

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  • 24Sep
    • 2018.9.9〜11 『神社おそうじ隊、岡崎見参!』 その2

      『龍城(たつき)神社』御祭神 徳川家康公 本多忠勝朝臣 天神地祇 護国英霊岡崎市内中心部、岡崎城の隣に鎮座する神社。岡崎といえば、徳川家康公生誕の地として知られている。家康公生誕の折、城の上に風雲を喚ぶ金の龍が現れ、昇天したという伝説が残っている。 かつては、天体の動向を知ることはとても重要な技術だった。それは民の生活に直結した農耕のタイミングを知ることであり、暦を運用することでもあったからだった。飢饉、天災、豊作か凶作か…民にとって、これらはそのまま自分たちの生死にかかわる。支配層が支配層でいるためには、必須の技術であったといっていいだろう。徳川家康生誕の地である岡崎は、かつて天神山と称され、伊勢神領に属していたという。徳川家から格別に重宝されたといわれるこの地には、徳川以前からの秘密が厳然とあるように思う。『郷社・村積神社』(下社)かつて、老齢の持統天皇がわざわざ訪れたという村積山。その麓付近にある神社。この神社の奥宮には、かつては「剣」が収蔵されていたという。詳細は不明だが、時の天皇がわざわざ訪れるほどの…という推測もできる。『村社・八所神社』祭神 五男三女神 大物主神 須佐之男神 加具土神(白山比咩命)岡崎市真福寺町、寺に隣接する。真福寺が建立される以前に既にこの地に祠が設けられていたという古い歴史を持っている。ちなみに、真福寺の正式名称は「霊鷲山降劒院真福寺」といい、この奥宮には、「劔」が収蔵されていたという。この「劔」が、村積神社奥宮に遷され、現在は岡崎市の所蔵になっている。『八所神社』参道には竜王も。『式内 稲前(いなくま)神社』ご祭神 天照大神 天児屋根命 應神天皇その年に取れた一番の稲をまずこの神社の神倉に運び、そののち伊勢神宮に送っていたという。稲前神社は、伊勢神宮の鬼門に位置する。そして、それはこの稲前神社だけではない。夜。東岡崎駅近く「バードスペース」で直会お疲れ様といいつつ、翌日のパワーを養う大切な時間

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  • 13Sep
    • 2018.9.9〜11 『神社おそうじ隊、岡崎見参!』 その1

      『神社おそうじ隊 見参!』では、2011年の開始当初から、一般に知られる有名な神社だけではなく、小さな神社であってもその地域に根づき、「〇〇さん」のような呼び名で親しまれ、ずっと崇敬され続けている神社に参拝してきました。たとえば、「秦野」。たとえば、「福島」。たとえば、「千葉」。などなど…。その地域において崇敬され続ける神社には、当然ながら由緒があり、系統があります。八幡、稲荷、天神…日本の神は実に多様で、その祀られる場所や地域性によって自在に変化(へんげ)し、独特の「神」として鎮座していたりします。そして、その土地、その地域、その神社に実際に身を置くことで初めて気づくこともまた多くあります。日本という国への認識は、『神社おそうじ隊 見参!』という活動を続けてきたことで、随分と変わりました。「日本」というと、何かそれだけでひとまとまりの単位のような気がしますが、実際は全くそうではない。多くの「國」が、「日本」という象徴の元に集っているということを、肌感覚で知ることになりました。さて、今回の「岡崎見参!」。「八丁味噌」で知られる岡崎市は、中心部に岡崎城がある城下町でもあります。一般には、徳川家康公の生誕地として知られているかと思います。岡崎市は、旧三河國の中央に位置します。(画像の濃いピンク部分。紫の部分が現在の政令指定都市・名古屋)そして、神社という括りでいえば、岡崎市は伊勢神宮の鬼門に位置します。鬼門については諸説様々ありますが、伊勢神宮の立場からみた場合には、守護的な意味合いだと思えばいいでしょう日本を代表するshrineである伊勢神宮。そこには、目に見える見えない、その両面での様々な「仕掛け」が施されています。そして、そうした見地から岡崎市を捉えると、実に興味深いのです。さて、どういった「仕掛け」が施されていたのか…。何回かに分けて、ご報告させていただきます

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  • 02Jun
    • 2018.4.21〜 23 『神社おそうじ隊、熊野見参』その5

      『熊野速玉大社』前回の参拝は折しも「例大祭」の神馬渡御式の最中。御神霊が神馬に遷されるまさにその瞬間、私はそのすぐそばにいたことを思い出す。熊野三社の中でも、とりわけ重要とされる速玉大社。主祭神は第一殿に夫須美(フスミ)大神、第二殿に速玉大神を祀る。それぞれ、イザナミノミコト、イザナギノミコトに現在は比定されている。しかし、速玉大神にはイザナギノミコトの唾から生まれたとの伝承も残っているように、はっきりとしたことはわかっていない。今回は、こちらで昇殿参拝をさせていただいた。昇殿参拝時に吹く風。その清々しさと、祝詞の波。心の奥深くに響きわたるそれらのうねりは、意識を悠久の彼方にいざなった。熊野三所権現が最初に降り立ったのは、「神倉山」だという。速玉大社摂社・『神倉神社』御祭神・高倉下命「天上から近隣にある神倉山に降臨した後、阿須賀神社のある蓬莱山に移り、熊野川を遡上して《御舟島》に着き、《御旅所》を経て速玉大社に鎮座した。」という来臨伝説が残る。ここ「神倉神社」と「速玉大社」は、物理的な距離も近い。速玉大社の例大祭は、この伝承を再現する祭り。急勾配な、公称538段といわれるこの石段。石段の行き着いた先に、社殿、そして通称ゴトビキ岩といわれる御神体の磐座がある。高さ約12m、幅約10m。この脇というか裏側にあたる場所には、古代の祭祀場と思われる形跡が残されている。荒々しい火祭りで知られる「神倉神社」のお燈祭。この急勾配な石段を、聖なる火を掲げ、まさに飛ぶように一気に駆け下りる。その祭りに何度か参加している方に、今回は導いていただいた。感謝。『出雲大社新宮教会』やはり、熊野と出雲は様々に繋がりが深い。夜は、那智勝浦のホテルに宿泊。前回に引き続き、「海ほたる」にて、この地ならではの食材と美酒に舌鼓ありがとうございました

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  • 25May
    • 2018.4.21〜 23 『神社おそうじ隊、熊野見参』その4

      『鬼ヶ城』「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として、ユネスコの世界遺産に登録された鬼ヶ城。数度にわたる急激な地盤の隆起と風・海蝕によって造り出された奇岩地帯。古くは「鬼岩屋(おにのいわや)」と呼ばれ、有馬氏が山頂に城を築いたのちに現在の「鬼ヶ城」と呼ばれるようになったという。坂上田村麻呂が桓武天皇の命を受けて、鬼と恐れられこの地を荒らし廻っていた海賊・多娥丸(たがまる)を征伐したという伝説も残っている。切り立った、群れをなす岩と海とのコントラスト。圧巻でした。『花の窟(いわや)神社』720年(奈良時代)に記された日本最初の歴史書である『日本書紀』の神代第一で「国産みの舞台」として登場する日本最古と伝承の残る神社。社殿はなく、高さ45mの窟をそのまま御神体としている。世界遺産。 花の窟から掛けられたお綱に吊るされた、縄で編んだ3本の幡(はた)のことを「三流(みながれ)の幡」といい、かつて、毎年花の窟の祭りの日に、朝廷から「錦(にしき)の幡」が献上されていたものが、ある年、熊野川の洪水によって流されて以来途絶えてしまい、土地の人がその代わりに縄で編んだ「三流の幡」を飾るようになったという。「錦の御幡」神事。『産田神社』「花の窟」がイザナミノミコトの御陵。産田神社は、火神を産んだがために神去った場所として対となる神社。「神籬(ひもろぎ)」とは、古代よりみられるもので、臨時に設けられる祭祀の施設、いわゆる「依り代」のこと。「産田神社」の社殿を囲む瑞垣の両脇にある「神籬」は、日本に二箇所しかないという。お昼は、「道の駅ウミガメ公園」にて。鷹もいました。

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  • 22May
    • 2018.4.21〜 23 『神社おそうじ隊、熊野見参』その3

      『玉置神社』大峰山脈南端、標高1076メートルの玉置山の山頂付近に鎮座。神武天皇御東征の際、熊野上陸後に、八咫烏の先導にてこの地で十種神宝を鎮め武運を祈願された、と伝えられる。熊野三山、その奥宮ともいわれる。最初に、まず導き。「ここの参拝の仕方は…」という講釈を頂き、いざ山頂〜本殿に   講釈された道のりは、比較的なだらかな登り坂。山頂参拝後の下りは、一気に下れ、といわんばかりの急な坂道。『玉石社』(末社)御祭神・大己貴命「古代、神武東征以前から熊野磐座信仰の一つとして崇められてきた玉石は、 玉置神社本殿と玉置山頂上中程に鎮座します。社殿がなくご神体の玉石に礼拝する古代の信仰様式を残しています。玉置神社の基となったのが、この玉石社と伝えられ、玉石に宝珠や神宝を 鎮めて祈願したと伝わっています。」(「玉置神社」ウェブサイトより抜粋)『出雲大社玉置教会』御祭神 大国主命明治の廃仏毀釈により、近隣の寺は全て廃寺となった。行き詰まった村民たちにより、葬礼などの行事を出雲大社教に求めたという。摂社・『三柱神社』玉置山の地主明神。『本殿』御祭神  国常立尊(くにとこたちのみこと) 伊弉諾尊(いざなぎのみこと) 伊弉冊尊(いざなみのみこと) 天照大御神(あまてらすおおみかみ) 神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)ここから、本日の宿泊先に向かう途中で、 「野猿(やえん)」を体験こんな感じで、川の上に宙吊りになれます初日、無事終了お疲れ様でした

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  • 02May
    • 2018.4.21〜 23 『神社おそうじ隊、熊野見参』その2

      『熊野本宮大社』主祭神 家津御子(けつみこ)大神は、スサノオノミコトにあてはめられている。しかし、その主祭神を祀っているはずの社殿の千木(ちぎ)は内削ぎになっている。神社の社殿建築には様々な特徴がある。そのうち、その神社がお祀りしている神様は男神か女神かを示す指標となるのが「千木」そして「鰹木(かつおぎ)」と呼ばれる屋根に設けられている部材。「千木」というのは、屋根両端で交叉させた形になっている部材のことであり、「鰹木」は棟に直角になるように平行に何本か並べられた部材のこと。男神は、「千木」が外削ぎで「鰹木」が奇数。女神は、「千木」が内削ぎで「鰹木」が偶数。この写真真ん中の社殿に家津御子大神→スサノオノミコト(男神)は祀られている。ならば、「千木」は外削ぎでなければおかしいのだが…。前回の「熊野見参!」に引き続き、今回も権禰宜・岡崎さんに社史や社伝をご案内いただいた。ありがとうございました! 『熊野坐神社 旧社 (大斎原)』明治22年(1889)の水害まで、熊野本宮大社は熊野川、音無川、岩田川の3つの川の合流点である「大斎原(おおゆのはら)」と呼ばれる中洲が所在地であった。その当時、1万1千坪の広大な境内に、五棟十二社の社殿が立ち並んでいたという。上記水害(洪水)により、上、中、下各四社のうち、上四社を除く中下社の八社殿二棟が甚大なる被害を蒙った。これにより現在の熊野本宮大社に上四社のみ御遷座(移転)ということになった。ちなみに、現在中四社、下四社は写真右側にある石祠にお祀りしている。

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  • 24Apr
    • 2018.4.21〜 23 『神社おそうじ隊、熊野見参』その1

      『熊野本宮大社』2012年10月に見参させいただいて以来、2度目の『熊野見参!』(その時の様子はこちらに)前回は秋でしたが、今回は晩春。しかし気温30度近くの快晴が続き、もはや夏かと思えるほど。とはいえ、3日間ずっと快晴が続いたことはとてもありがたく。なんといっても熊野を巡拝するということは、ひたすら「歩く」ことでもあるからです。。。「熊野」とは、紀伊半島の南部、熊野灘に面する一帯そして熊野川流域一帯を指します。この地には、俗に「熊野三山」と呼ばれる有名な神社があり、「熊野本宮大社」「熊野速玉大社」「熊野那智大社」の三社がそれにあたります。「伊勢に七度、熊野に三度〜」といいますが、中世から近世にかけて、庶民の念願の一つであったという熊野詣。熊野に参詣するためには、伊勢から紀伊半島東岸を海岸線に沿って抜けていく「伊勢路」、そしてもう一つは京都・大阪から紀伊田辺までの西岸を抜けていく「紀伊路」とがありました。その「紀伊路」の紀伊田辺から紀伊半島の海岸線沿いに新宮・那智に抜けていく「大辺路」、紀伊半島を横切る形で本宮へ直接向かう「中辺路」、高野山から本宮へ向かう「小辺路」、本宮から吉野に向かう「大峯奥駆道」、大辺路から那智経由で本宮へと通じる「小雲取越・大雲取越」とあり、これらを総称して「熊野古道」といい、その多くは「熊野参詣道」として世界遺産となりました。平安時代より始まる熊野詣。浄土への往生を願う人々は、熊野を目指したのです。今回の『神社おそうじ隊、熊野見参』は、ひたすら歩きました。そして、歩くことによって、この「熊野」の地において紡がれてきた歴史や人々の想いを、知識としての認識ではなく、体認することができたように思います。今回は、「熊野本宮大社」からのスタートでした。

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  • 02Apr
    • 2018.3.20〜21 『神社おそうじ隊 富士見参!』 その3

      『富士山 忍野八海 浅間神社』大雪。この日、「忍野八海」に行く予定であったものの散策はとても無理。ということで、忍野八海の守護神として鎮座するこちらの神社に。こじんまりとしながらも、境内は整備されている様子が伺えた。主祭神 コノハナサクヤヒメノミコト相殿神  アマツヒコヒコホノニニギノミコト オオヤマツミノミコト国指定重要文化財として「三神像」が置かれているらしい。この日は、神職の方も不在で見ることはできなかった。   『河口浅間神社』延喜式内明神大社御祭神 コノハナサクヤヒメノミコト富士山世界文化遺産の構成資産の一つ。864年(貞観6年)に大噴火を起こした富士の鎮めのため、勅命により翌865年建立。かつては、富士を目指す誰もが参拝に訪れた古社だという。ひいら石。浅間明神を祀った古代祭祀の残欠。 いづれ、再度の参拝に。そしてランチ。河口浅間神社に近隣に絶品カフェがあるという情報だったものの、どうやらこの日は別の場所に出店していたらしく、断念せざるを得なかった…。ということで、その近くで温かいほうとうをいただいた。そして、『山宮浅間神社』富士山世界文化遺産構成資産の一つ。こちらでは、案内のボランティアの方にご案内いただけた。山宮浅間神社は富士山本宮浅間大社の前身であるとされ、古代祭祀の形跡を今に留めている。 晴れていればここから富士山を眼前に遥拝できる。見えていなくても、心眼に写して…。そして、この日の最終、鳥居前で参拝させていただきました。『村山浅間神社』いづれ、改めてキチンと参拝させていただきます。今回、ピンポイントで降った大雪。そういえば、2017年末の「丹後見参」でも、地元の方ですらこの時期にあり得ないというほど時期の外れた雪でした。。。とはいえ、何事もなく「富士見参!」、完了となりましたご参加いただいた皆様、ありがとうございました次回はいよいよ2012年以来、2度目となる「熊野」。どのような道行となるか、楽しみです。

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  • 30Mar
    • 2018.3.20〜21 『神社おそうじ隊 富士見参!』 その2

      『魔王天神社』本殿はなく、社殿のある山自体を御神体として拝する。地域では魔王大六天(オダイローサマ)と親しみ、台風などで農産物に風の被害が予想されるときには風の神に無事を祈ったといい、戦時中には近郷近在より武運長久祈願賑わったという。風の神、疱瘡神、小御岳本宮などの社もある。「溶岩樹型」…樹木が溶岩流に飲まれ、燃え尽きた時に出来る空洞らしい。天候から深くは散策できなかったが、国の特別天然記念物指定になっている。このあとランチに。国内よりは海外で知られる、クラフトビールの世界では有名な「富士桜高原ビール」。その直営レストランにてそれから、知る人ぞ知る…『新屋山神社』主祭神 大山祗命(オオヤマツミノミコト)祭神  天照皇大神、木花開耶姫命「伊耶那岐命、伊邪那美命(イザナギ、イザナミ)の「国生み」の後に生まれた神でオオヤマツミは大いなる山の神の意味をもっており、地を治める国津神の一柱で山を治める神様です。野の神である鹿屋野比売命との間に国土を守る八柱の神をお産みになっている事から、国土全体の神様とも言われています。又、別名を和多志大神とも言い、海の神の側面もあり、山-海 両方を司る神様でもあります。さらには娘神の出産を祝って酒を作ったとの故事より、酒造の神としても信仰されています。全国多くで祀られており、著名な神社には、愛媛県今治市の”大山祇神社”、静岡県三島市の”三島大社”、があります。」(新屋山神社公式サイトより引用)通称「日本一の金運神社」。そして、富士の神社としては本宮、そしておそらくはこちらの神社が最も知られています。『北口本宮富士浅間神社』1900年の由緒があり、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東方への遠征の折にこの地にて富士山の神霊を遥拝し「富士の神山は北方から拝せよ」と仰せになり、祠を建てて祀ったのが始まりとされています。木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)彦火瓊々杵命(ひこほのににぎのみこと)大山祗神(おおやまづみのかみ)を祀る。   今回、この北口本宮浅間神社にて昇殿参拝をさせていただきました御本殿を前に座ると、静かながら、荘厳さに満ちた境内同様のパワフルさに包まれる感覚。やはり、実際に身をその「場」に置かないと、わからないものです。。浅間神社境内にある『諏訪神社』。富士山の噴火を鎮める祭りとして知られる「吉田の火祭り」は、元来諏訪神社のもの。長野県の諏訪大社では諏訪明神が蛇体(じゃたい)となって現れるとされますが、上吉田でも蛇に関する伝承があり、祭の神輿は神社を発つ、このとき神輿とともに白い蛇神(へびがみ)や竜が上吉田の街を上から下へと下って行くといわれている。御師(おし)家では、火祭当日の朝に、屋敷地内に流れる川を清掃し、蛇神の通りを迎える。これを「白蛇様(しろへびさま)のお下り」といっている。「祭り」とは、神事。このシンプルな事実を、忘れてはならない。雨も本降り。この日はここまで。「御殿場高原時之栖」にて、温泉と御殿場高原ビールをゆっくりいただきつつ、翌日の鋭気を養う…。。。しかし、翌日は…

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  • 22Mar
    • 2018.3.20〜21 『神社おそうじ隊 富士見参!』 その1

      『富士山本宮浅間大社』主祭神 木花之佐久夜毘賣命相殿神 大山祇神・瓊々杵尊「富士山本宮浅間大社」には、「本宮」「奥宮」「山宮」と三つの宮があります。そのうち、この「本宮」が歴史的には最も新しく、それ以前は「山宮」が本宮でした。この「山宮」で祀られてきたのが浅間大神、つまり富士大神です。しかし、この「富士大神」が、実はけっこう謎なのです。一昨年5月以来、二度目の「富士見参!」となる今回。その時日本一の霊峰・富士はなかなかその姿を見せず、最後の最後にほんの少しだけ現れました。そして、今回。初日は雨、二日目は雪ピンポイントでやってくる祝福の降雪のなか、道中の神社それぞれをゆっくり拝してきました。富士山の御姿そのものは見えない、しかしそこにないわけではない。いや、見えないし確認できないのだからそもそもそこにはないのだ、確認した時にはじめて現れる…というような、量子論(?)的な解釈も飛び交う中での二日間。「富士大神」とは?たとえば、前回のこの記事にもあるように、主祭神は女神・コノハナサクヤヒメとされながら、神社建築における原則の一つ、千木・鰹木は本宮浅間大社のそれは、男神のもの。コノハナサクヤヒメが富士山の女神とされたのは室町時代とされますが、神社はそれ以前に存在していました。また、気象庁・火山噴火予知連絡会によると、富士山は国内に110ある活火山のうちのひとつ。この300年間噴火こそしていないものの、いつそれが起きてもおかしくはない状態とされています。富士山の周囲を取り囲むように浅間神社は、鎮座しています。古代から続く噴火活動のなか、大いなる荒ぶる神として畏怖されたであろう「フジ」。その全容は、いかなるものなのでしょうか…。

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