和道プロジェクト - PLANETARY WORK

人のカラダは宇宙そのもの。 そして人のカラダは神聖な魂が宿る神社そのもの。
新世紀の「神社」認識とは、その土地に存在する神社だけを指すのではなく、人そのものが神社、すなわち 「 動くパワースポット 」。 その大切な社(やしろ)である肉体、そして人の思考や行動が調和で満たされることにより、関わる全てが明らかなる変容を遂げます。 自らの心身を健やかに保ち自己実現することこそ、関わるすべての人・場所・物の保持する磁場が健やかに保たれることとなり、それすなわち地域が、日本が、そして地球が、太陽系が、そして宇宙にまで、その調和波動が遍く届いてゆくこととなります。
「共生・協調・調和」 をメインコンセプトに、 神職介添えのもと『 社(やしろ)』そのものである“ 人・場所・物 ”に神道的アプローチにより働きかけ、それに連なる地域→日本→世界→地球→宇宙の調和が図られる、というのが Planetary Work の種子。 一人一人小宇宙である実体を、神社などの縁ある土地に運ばせていただき、相互交流させていただくことにより、つつみ気枯れが祓われ、人も土地も物もすべてが本来の輝きを放つ、というのが神社おそうじ隊の種子。 すべての意と土地と人とを、神職が那珂執り持ちさせていただいています。
現在日本全国各所に鋭意見参中。 清祓ワーク、及び清祓ノ儀での御玉串料、およびワーク代は、プラネタリーワーク活動支援費として運用させていただいており、その一部は神社おそうじ隊が活動する中で、全国の地域・神社に納めさせていただいております。
  • 24Apr
    • 2018.4.21〜 23 『神社おそうじ隊、熊野見参』その1

      『熊野本宮大社』2012年10月に見参させいただいて以来、2度目の『熊野見参!』(その時の様子はこちらに)前回は秋でしたが、今回は晩春。しかし気温30度近くの快晴が続き、もはや夏かと思えるほど。とはいえ、3日間ずっと快晴が続いたことはとてもありがたく。なんといっても熊野を巡拝するということは、ひたすら「歩く」ことでもあるからです。。。「熊野」とは、紀伊半島の南部、熊野灘に面する一帯そして熊野川流域一帯を指します。この地には、俗に「熊野三山」と呼ばれる有名な神社があり、「熊野本宮大社」「熊野速玉大社」「熊野那智大社」の三社がそれにあたります。「伊勢に七度、熊野に三度〜」といいますが、中世から近世にかけて、庶民の念願の一つであったという熊野詣。熊野に参詣するためには、伊勢から紀伊半島東岸を海岸線に沿って抜けていく「伊勢路」、そしてもう一つは京都・大阪から紀伊田辺までの西岸を抜けていく「紀伊路」とがありました。その「紀伊路」の紀伊田辺から紀伊半島の海岸線沿いに新宮・那智に抜けていく「大辺路」、紀伊半島を横切る形で本宮へ直接向かう「中辺路」、高野山から本宮へ向かう「小辺路」、本宮から吉野に向かう「大峯奥駆道」、大辺路から那智経由で本宮へと通じる「小雲取越・大雲取越」とあり、これらを総称して「熊野古道」といい、その多くは「熊野参詣道」として世界遺産となりました。平安時代より始まる熊野詣。浄土への往生を願う人々は、熊野を目指したのです。今回の『神社おそうじ隊、熊野見参』は、ひたすら歩きました。そして、歩くことによって、この「熊野」の地において紡がれてきた歴史や人々の想いを、知識としての認識ではなく、体認することができたように思います。今回は、「熊野本宮大社」からのスタートでした。

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  • 02Apr
    • 2018.3.20〜21 『神社おそうじ隊 富士見参!』 その3

      『富士山 忍野八海 浅間神社』大雪。この日、「忍野八海」に行く予定であったものの散策はとても無理。ということで、忍野八海の守護神として鎮座するこちらの神社に。こじんまりとしながらも、境内は整備されている様子が伺えた。主祭神 コノハナサクヤヒメノミコト相殿神  アマツヒコヒコホノニニギノミコト オオヤマツミノミコト国指定重要文化財として「三神像」が置かれているらしい。この日は、神職の方も不在で見ることはできなかった。   『河口浅間神社』延喜式内明神大社御祭神 コノハナサクヤヒメノミコト富士山世界文化遺産の構成資産の一つ。864年(貞観6年)に大噴火を起こした富士の鎮めのため、勅命により翌865年建立。かつては、富士を目指す誰もが参拝に訪れた古社だという。ひいら石。浅間明神を祀った古代祭祀の残欠。 いづれ、再度の参拝に。そしてランチ。河口浅間神社に近隣に絶品カフェがあるという情報だったものの、どうやらこの日は別の場所に出店していたらしく、断念せざるを得なかった…。ということで、その近くで温かいほうとうをいただいた。そして、『山宮浅間神社』富士山世界文化遺産構成資産の一つ。こちらでは、案内のボランティアの方にご案内いただけた。山宮浅間神社は富士山本宮浅間大社の前身であるとされ、古代祭祀の形跡を今に留めている。 晴れていればここから富士山を眼前に遥拝できる。見えていなくても、心眼に写して…。そして、この日の最終、鳥居前で参拝させていただきました。『村山浅間神社』いづれ、改めてキチンと参拝させていただきます。今回、ピンポイントで降った大雪。そういえば、2017年末の「丹後見参」でも、地元の方ですらこの時期にあり得ないというほど時期の外れた雪でした。。。とはいえ、何事もなく「富士見参!」、完了となりましたご参加いただいた皆様、ありがとうございました次回はいよいよ2012年以来、2度目となる「熊野」。どのような道行となるか、楽しみです。

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  • 30Mar
    • 2018.3.20〜21 『神社おそうじ隊 富士見参!』 その2

      『魔王天神社』本殿はなく、社殿のある山自体を御神体として拝する。地域では魔王大六天(オダイローサマ)と親しみ、台風などで農産物に風の被害が予想されるときには風の神に無事を祈ったといい、戦時中には近郷近在より武運長久祈願賑わったという。風の神、疱瘡神、小御岳本宮などの社もある。「溶岩樹型」…樹木が溶岩流に飲まれ、燃え尽きた時に出来る空洞らしい。天候から深くは散策できなかったが、国の特別天然記念物指定になっている。このあとランチに。国内よりは海外で知られる、クラフトビールの世界では有名な「富士桜高原ビール」。その直営レストランにてそれから、知る人ぞ知る…『新屋山神社』主祭神 大山祗命(オオヤマツミノミコト)祭神  天照皇大神、木花開耶姫命「伊耶那岐命、伊邪那美命(イザナギ、イザナミ)の「国生み」の後に生まれた神でオオヤマツミは大いなる山の神の意味をもっており、地を治める国津神の一柱で山を治める神様です。野の神である鹿屋野比売命との間に国土を守る八柱の神をお産みになっている事から、国土全体の神様とも言われています。又、別名を和多志大神とも言い、海の神の側面もあり、山-海 両方を司る神様でもあります。さらには娘神の出産を祝って酒を作ったとの故事より、酒造の神としても信仰されています。全国多くで祀られており、著名な神社には、愛媛県今治市の”大山祇神社”、静岡県三島市の”三島大社”、があります。」(新屋山神社公式サイトより引用)通称「日本一の金運神社」。そして、富士の神社としては本宮、そしておそらくはこちらの神社が最も知られています。『北口本宮富士浅間神社』1900年の由緒があり、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東方への遠征の折にこの地にて富士山の神霊を遥拝し「富士の神山は北方から拝せよ」と仰せになり、祠を建てて祀ったのが始まりとされています。木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)彦火瓊々杵命(ひこほのににぎのみこと)大山祗神(おおやまづみのかみ)を祀る。   今回、この北口本宮浅間神社にて昇殿参拝をさせていただきました御本殿を前に座ると、静かながら、荘厳さに満ちた境内同様のパワフルさに包まれる感覚。やはり、実際に身をその「場」に置かないと、わからないものです。。浅間神社境内にある『諏訪神社』。富士山の噴火を鎮める祭りとして知られる「吉田の火祭り」は、元来諏訪神社のもの。長野県の諏訪大社では諏訪明神が蛇体(じゃたい)となって現れるとされますが、上吉田でも蛇に関する伝承があり、祭の神輿は神社を発つ、このとき神輿とともに白い蛇神(へびがみ)や竜が上吉田の街を上から下へと下って行くといわれている。御師(おし)家では、火祭当日の朝に、屋敷地内に流れる川を清掃し、蛇神の通りを迎える。これを「白蛇様(しろへびさま)のお下り」といっている。「祭り」とは、神事。このシンプルな事実を、忘れてはならない。雨も本降り。この日はここまで。「御殿場高原時之栖」にて、温泉と御殿場高原ビールをゆっくりいただきつつ、翌日の鋭気を養う…。。。しかし、翌日は…

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  • 22Mar
    • 2018.3.20〜21 『神社おそうじ隊 富士見参!』 その1

      『富士山本宮浅間大社』主祭神 木花之佐久夜毘賣命相殿神 大山祇神・瓊々杵尊「富士山本宮浅間大社」には、「本宮」「奥宮」「山宮」と三つの宮があります。そのうち、この「本宮」が歴史的には最も新しく、それ以前は「山宮」が本宮でした。この「山宮」で祀られてきたのが浅間大神、つまり富士大神です。しかし、この「富士大神」が、実はけっこう謎なのです。一昨年5月以来、二度目の「富士見参!」となる今回。その時日本一の霊峰・富士はなかなかその姿を見せず、最後の最後にほんの少しだけ現れました。そして、今回。初日は雨、二日目は雪ピンポイントでやってくる祝福の降雪のなか、道中の神社それぞれをゆっくり拝してきました。富士山の御姿そのものは見えない、しかしそこにないわけではない。いや、見えないし確認できないのだからそもそもそこにはないのだ、確認した時にはじめて現れる…というような、量子論(?)的な解釈も飛び交う中での二日間。「富士大神」とは?たとえば、前回のこの記事にもあるように、主祭神は女神・コノハナサクヤヒメとされながら、神社建築における原則の一つ、千木・鰹木は本宮浅間大社のそれは、男神のもの。コノハナサクヤヒメが富士山の女神とされたのは室町時代とされますが、神社はそれ以前に存在していました。また、気象庁・火山噴火予知連絡会によると、富士山は国内に110ある活火山のうちのひとつ。この300年間噴火こそしていないものの、いつそれが起きてもおかしくはない状態とされています。富士山の周囲を取り囲むように浅間神社は、鎮座しています。古代から続く噴火活動のなか、大いなる荒ぶる神として畏怖されたであろう「フジ」。その全容は、いかなるものなのでしょうか…。

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  • 09Mar
    • 2018.2.16『神社おそうじ隊 東国三社見参! 』 その2

      『息栖神社』御祭神 主神・久那戸(岐)神(くなどのかみ) 相殿 天鳥船 住吉三神「久那戸大神は古く国史にも見え、鹿島、香取の神々と共に東国三社の一つと称され、上下の信仰の厚い神社であります。久那戸神は、路の神であり除厄招福の神であり、井戸の神でもあります。天鳥船神は交通守護に、住吉三神は海上守護の神として御神徳が顕著で、神前に祈念する者にその限りない御思頼を垂れさせられ御守護下さるものであります。」(御由緒書より)息栖神社には、日本三霊泉と讃えられる井戸があります。利根川沿いの大鳥居(一の鳥居)。この両脇に設けられた二つの四角い井戸、それが「忍潮井(おしおい)」。伊勢の明星井、山城の直井と並び、日本三所の霊水とされていました。かつては松尾芭蕉始め、多くの文人・墨客が参拝に訪れたようです。そして、この日の最終参拝地に。『下総国一ノ宮・香取神宮』檜皮葺(ひわだぶき)の屋根、黒漆塗で上部に彩色を施した美しい拝殿。旧社格・官幣大社。関東を中心に全国にある香取神社の総本社。御祭神は国譲り神話に登場する経津主(ふつぬし)大神。明治以前、「神宮」の称号を与えられていたのは、伊勢、鹿島、そして香取神宮のみであった。また、宮中の四方拝で遥拝される神社の一つ。「四方拝」とは、正月元旦に天皇陛下により行われる祭祀。元旦の早朝、黄色の束帯を着用され出御。伊勢内宮と外宮に拝礼ののち、四方諸神を拝するといいます。この時に天皇陛下が拝するのは、伊勢神宮 天神地祇神武天皇陵先帝三代の陵氷川神社賀茂神社石清水八幡宮熱田神宮鹿島神宮香取神宮となっています。要石。鹿島・香取両宮にあり、地震を起こす大鯰(オオナマズ)を抑えるために地中深くまで差し込んでいるとされています。その頭頂部がわずかに露出していて、香取で凸形、鹿島では凹形となっている、とされます。「中央構造線」という日本最大級の断層があります。茨城・千葉県の境目と熊本・鹿児島県の境目を結ぶこのライン上には、多くの古社、それも「一宮」が鎮座していることで知られています。これらの神社は、およそ2000年以上の間、天変地異の影響をほぼ受けることなく鎮座し続けてきました。さて、今回巡拝させていただいた鹿島神宮や香取神宮は、このラインの先頭部に位置する神社です。また、鹿島・香取を先頭部とした場合に、その終点部に位置するのは、熊本・阿蘇神社や鹿児島・新田神社(どちらも一宮)となります。2011年3月11日、東日本大震災により鹿島神宮の大鳥居倒壊。2016年4月16日、熊本地震で阿蘇神社の楼門の倒壊。この事象が、どれほどの、そしてどのような意味を持つのか…。少なくとも約2000年、こういったことはなかったことは歴史的に明らかなことです。そして、日本列島を東西に分かつ巨大断層・フォッサマグナ。北は糸魚川、南は富士川。この巨大断層と中央構造線のおおよその交点に、諏訪湖があります。そして、3月春分。このフォッサマグナの、地理的には心臓部に当たる「富士」に、見参致します。ちなみに、「富士」を祀る「浅間神社」の「浅間(センゲン、アサマ)」は火山の古語。「阿蘇(アソ)」もそうですが、歴史的には「阿蘇(アソ)」の方が遥かに古いので、こちらが語源になるのでしょう。何はともあれ、「富士見参」、それはもうすぐです

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  • 01Mar
    • 2018.2.16『神社おそうじ隊 東国三社見参! 』 その1

      『常陸国一之宮 鹿島神宮』西暦2018年2月16日。この日は、ちょうど新月でもあり、旧暦元旦でもありました。元旦とは、一年のはじめ(元始)のあさ(旦)をいいます。この“旦”とは、地平線から昇る朝日の象形。「東国三社」とは、『鹿島神宮』『香取神宮』『息栖神社』のこと。記紀の国譲り神話に由来し、ヤマトの東国における拠点ともなったとされるこの三社に、今回は見参させていただきました。まず最初に参拝させていただいたのは、『大生(おおう)神社』鹿島神宮の本宮(ほんぐう)ともいわれ、ヤマトの「飯富(おふ)族」の常陸移住の際にお祀りされたと推測される古社。御祭神は、建御雷之男神(タケミカヅチノカミ)。奈良・春日大社の創建にも関与したといわれています。ここから『鹿島神宮』へ。まずは、   「摂社 沼尾神社・坂戸神社遥拝所」および「末社 須賀社・熊野社・津東西社・祝詞社」へ。ここで地元のボランティアの方に遭遇。しばしお話を聞く。拝殿拝殿からさらに進むと、このような案内板が。「鹿島七不思議」など、わりと丁寧天然記念物指定・鹿島の森。20万坪に及ぶ禁足の地。奥宮徳川家康公の奉納による。かつての本殿は、元和5年(1619)に現在地に移され、奥宮となったといいます。御手洗池古くからの禊の場。1日400kl以上の湧き水が湧出しています。要石地底の大鯰(おおなまず)を押さえる霊石。イメージとしては…こういう感じでしょうか。要石に向かう道すがらにある石像。ランチは、鹿島神宮の御神水を仕込み水に使うビアレストラン「Pradice Beer Factory」に。はっきり言って、相当美味しかった

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  • 30Jan
    • 2018.1.22 『神社おそうじ隊 浅草見参!』 その2

      『今戸神社』御祭神  應神天皇(おうじんてんのう)     伊弉諾尊(いざなぎのみこと)     伊弉冉尊(いざなみのみこと)     福禄寿(ふくろくじゅ)七福神の内の一神、福禄寿が御祭神なのは、今戸神社が「浅草七福神」のうちの一社であるから。前回の「浅草神社」「待乳山聖天」も同様に七福神を祀っています。「…昭和十二年一月から同年十六年頃まで七福神巡拝が行われておりましたが、戦時下となり一時中止され、昭和五十二年一月より復活されました。浅草は江戸文化発祥の地といわれ、七福神巡りの流行したのはその江戸時代からと伝えられております。福禄寿は白髪童顔の温和な容姿で、年齢は数千年といわれ、福(幸福)と禄(生活・経済の安定)と寿(健康にして長命)との三つの福徳を授ける福の神として、古くから人びとの尊信を集めています。」(今戸神社公式サイトより抜粋)今戸地区は招き猫発祥の地とされ、この神社にはたくさんの招き猫がそこかしこにいる。社殿の中でも、このように招いてましたそして、それだけでなく…全員で参拝、というまさにそのタイミングに現れたリアルなネコこのネコが実にアジがあって、「パンパン…」と参拝し終えたら、スクッと立ち上がり…「次はここだよ〜」という感じで、引率してもらいました。そして、役目を終えたらその場からいなくなる…。招き猫発祥の地のネコは、おもしろい雪が本格的に降り出すなか、徒歩で次なる神社へ。『吉原神社』かつて吉原遊郭にお祀りされていた五つの稲荷神社と遊郭に隣接する吉原弁財天を合祀した神社。五つの稲荷神社とは玄徳(よしとく)稲荷社、明石(あかし)稲荷社、開運(かいうん)稲荷社、榎本(えのもと)稲荷社、九郎助(くろすけ)稲荷社の五社。御祭神は倉稲魂命(うがのみたまのみこと)。吉原弁財天の御祭神は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)。(参考・吉原神社ホームページ)『吉原弁財天』は、すぐ近く。「…当社は吉原遊郭とともに歩んできた神社です。吉原遊郭は元和3年(1617)、幕府の許可を得て庄司甚右衛門が江戸市中に散在していた遊女屋を日本橋葺屋町(ふきやちょう)の東隣(現在の日本橋人形町周辺)に集めたことにはじまります。この地には葦(よし)が生い茂っており、そこから「葦原」、転じて「吉原」と命名されました。しかし次第に吉原が江戸の中心地になってしまったため、明暦3年(1655)に現在地である千束村へ移転となりました。以後、日本橋葺屋町付近にあった頃の吉原を「元吉原」、移転後の吉原を「新吉原」といいます。」(ホームページより抜粋)明暦3年(1657)1月18日、のちの関東大震災や東京大空襲などと並ぶ日本史上最大規模の災害が起きました。江戸の3分の2、江戸城天守閣までも炎に包んだその火災は、当時にして約10万人を死に至らしめたといいます。本郷の本妙寺から出た炎は、風に乗って湯島、神田、日本橋と次々に焼き尽くしていきました。浅草周辺だけで約2万人が落命したと伝わります。この大火災は、今にしてなお日本史上のミステリーたとえば、出火原因とされるのは、上記本妙寺で、亡くなった若い女性の供養のために振袖を燃やしたところ火が広まった、ということですが…そもそも、風の強い日にわざわざ火がうつりやすい場所で燃やすというのは、考えにくいまた、そのお寺は、出火元といわれているにも関わらず、この大火後に厚遇されていたそうです。一説にはこの大火災には幕府が関与していた、遊郭吉原の移転など、江戸全体を改造したかったのだ…という話もあるとかないとか…。『吉原弁財天』から数分。『鷲神社』御祭神 天日鷲命(あめのひわしのみこと)    日本武尊(やまとたけるのみこと)江戸時代から鷲(おおとり)神社は「鳥の社」「御鳥(おとり)」といわれていて、現在でも一般に「おとりさま」と呼ばれ、親しまれているようです。ちなみに「酉の市」とは、かつて「酉の祭(とりのまち)」と呼ばれ、鷲神社御祭神の御神慮を伺い、御神恩に感謝して、来る年の開運、授福、殖産、除災、商売繁昌をお祈りする祭のこと。「酉の市」といえば熊手。一般に「かっこめ」「はっこめ」といわれる神様の御分霊とされています。降る雪の勢い増すばかり…。ここで、ようやくランチに行くことに。浅草といえば、まずはやっぱり「神谷バー」。1912年、日本で初めて営業を始めたバーとして知られます。2階がレストラン仕様になっているので、今回はそこに「デンキブラン」は、神谷バー特製のカクテルで、ブランデーベースに、ジン、ワインなどが配合されている。度数は30度、「オールド」になると40度生ビールをチェイサーにいただきます降り続く雪の中、最後に参拝させていただいたのは…『矢先稲荷神社』京都の三十三間堂にならって建立された浅草の三十三間堂の守護神として稲荷大明神を勧請。その場所がちょうど的の先にあたっていたので「矢先稲荷」と名づけられたそうです。御祭神は、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)。雪の激しさに、境内写真などはありませんが、深々と降る雪に、社殿が静かに映えていました。この日はここまで。浅草という地はいわゆる観光都市として有名ですが、裏道を歩けばこそ見えてくる景色もあります。『神社おそうじ隊 見参!』では、いつもそうですが裏も表も関係なく、先入観をなるべく持たない状態で、まずその地(場)に身を運びます。自分が見たいモノを見たいように、というのではなく、見える「もの」を「見える」ままに。清らかで気持ちのいい場所ばかりでは、この世界は成り立たない。それを見ているのは誰か、自らがそれを体感すれば、いいも悪いも関係ないことはわかります。今回ご参加いただいたみなさま、雪の中本当にありがとうございました『神社おそうじ隊 見参!』、次回は2月16日、東国三社(鹿島・香取・息栖)巡拝。よろしければご参加ください。

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  • 26Jan
    • 2018.1.22 『神社おそうじ隊 浅草見参!』 その1

      2018年最初の『神社おそうじ隊 見参!』は、東京・浅草浅草寺・風雷神門(通称・雷門)の提灯の底には龍が施されています。毎年1月は例年、東京の主要な神社を、主に徒歩で巡拝するスタイルで敢行してきました。(「皇居見参」など。昨年はブログ記事にはなっていませんが六本木や麻布十番周辺を巡拝)浅草・仲見世通りから撮影したスカイツリー。この日は、東京で大雪警報が発表された日。このスカイツリーが・・・下記『浅草神社』参拝後には、雪でツリーもほぼ見えなくなりました。上の写真から30分程度の出来事。浅草独特の雰囲気もあって、なんとなく江戸時代にタイムスリップしたかのような感覚に…。雪にも関わらず混雑する浅草寺で手を合わせたあと、隣接する『浅草神社』に。御祭神 土師真中知命(はじのあたいなかとものみこと)    檜前浜成命(ひのくまはまなりのみこと)    檜前武成命(ひのまえたけなりのみこと)三氏とも、浅草神社創建に関わっており、「三社祭」の三社とは、この三柱の御祭神のこと。氏子の方々は、今でも親しみをこめ「三社様」と呼んでいるそうです。『待乳(まつち)山聖天・本龍院』奈良の生駒聖天、熊谷の妻沼聖天と共に日本三大聖天とされる。御本尊は十一面観音を本地(本来の姿)仏とする大聖歓喜天。現在は浅草寺一山支院のひとつ。寺院でありながら、本堂には「聖天宮」の扁額があり、現在においても神仏習合的な気配は濃厚。 境内の随所に見られる二股大根と巾着。寺院によると、大根は深い迷いの心、瞋(怒り)の毒を表し、大根をお供えすることで聖天さまがその毒を鎮めてくれる…巾着は財宝を表し、商売繁盛や事業繁栄のご利益を示す……と、概ねこのような説明をされますが、『神社おそうじ隊 見参!』的見地からは、そんなワケないだろう大根は毒出し=悪いものを出す…ふーむ、それでなぜ二股?巾着は財宝…いやいや、全く違うものの象徴だし。聖天は 娘のおがむ 神でなし…有名な江戸の川柳。かつては吉原の入り口にあたり、旦那衆をここで今宵の願掛けをしていったといいます。駐車場から本堂へ上がる「さくらレール」というスロープカーがありました。揺れも少なく、ゆっくりと登るので、安心感も高いのではないでしょうか。

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  • 28Dec
    • 2017.12.11〜13 『神社おそうじ隊  丹後見参!』その6

      『出雲大神宮』昨年に続き、今回も見参。  そして、『愛宕神社』旧称は「阿多古神社」。式内社で、旧社格は村社。 社伝では愛宕山の愛宕神社(京都府京都市)は当社からの勧請とし、そのため「元愛宕」や「愛宕の本宮」とも称される。御祭神 火産霊神(軻遇突智神) 伊邪那美神  大国主神  今回の『丹後見参!』は、大本二大聖地に始まり、元伊勢、「鬼」、産屋、最古の天満宮、そして再びの亀岡にて丹後一宮と元愛宕…終わってみれば、今回も濃厚な道行きでした。丹後は、かつて強大な王国であったと伝えられます。弥生時代以来、丹後半島にはガラス細工や製鉄など、きわめて高度な技術をもつ集団が存在し、ヤマト王権に対しても容易には屈服しなかったといわれ、これを「丹後王国」とする説もあります。その「王国」は、4世紀中頃〜4世紀末・5世紀にかけて最盛期であり、6世紀中頃にヤマト王権による出雲攻撃に伴い、ヤマト王権の支配下に入っていったとされるようです。いづれ、もう一度見参できれば、と思います今回ご参加頂いたみなさま、本当にありがとうございました長崎から連続参加の方も複数いましたし、京都在住で初日と三日目にご参加頂いた方もまた、ご一緒できますこと、心より楽しみにしております2018年最初の『神社おそうじ隊 見参!』は、東京です2月以降も、ただいま検討中

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  • 27Dec
    • 2017.12.11〜13 『神社おそうじ隊  丹後見参!』その5

      『一宮神社(いっきゅうじんじゃ)』御祭神 大己貴神慶雲四年(西暦707年)麿子親王の創建とされる古社。丹波・丹後の国境の守護神として崇敬され、福知山城築城後は、城の鎮守神として崇敬される。地元で「いっきゅうさん」として親しまれる神社。  『大原神社』御祭神 伊弉冉尊    天照大神    月弓尊(つきよみのみこと)「大原神社は安産の神として広く信仰を集めています。創建は『丹波誌』によると仁寿二年(852年)3月23日、桑田郡野々村(現南丹市美山町字樫原)に鎮座、 弘安2年(1279年)9月28日に大原へ遷座、応永4年(1379年)10月13日に社殿が整ったとされています。しかし社伝によると創建は仁寿二年と伝えられ、元宮の大原神社(美山町鎮座)は大化元年(645年)の創建と言い伝えられています。大原神社には『大原神社本紀』という大原神社の縁起を書き綴ったものが5点残されており、大原神社が安産の神として信仰を集める所以として、 「邪那岐と伊邪那美の神は天下万民を生み出した父母であるのだから、天下太平・国土安隠・宝祚長久・五穀能成・万民豊饒を守護すること、 他所の神社に勝り、天下万民を生み出した神なので、ことに婦人の安産を守る神なのである」と記されています。」(大原うぶやの里ホームページより抜粋)大原神社は、古くから安産・万物生産の神として崇敬され古事記や日本書紀にも記載のある神社で、「産屋」というお産をする場所が残っているところです。   「産屋」は、この神社境内より見ることもでき、徒歩で数分の場所にあります。 そして、『生身(いきみ)天満宮』約一万二千社ある天満宮の中で、御祭神・菅原道真公ご存命時から唯一お祀りしていたとされる神社です。歌舞伎「菅原伝授手習鑑」に登場する武部源蔵は、生身天満宮初代宮司で、現在の宮司で28代目になるそうです。延喜元年(901)、道真公は太宰府に左遷を命ぜられます。当時、京都・園部の役人であった源蔵は、菅公から八男の慶能君を匿い育てるように頼まれました。源蔵は密かに祠を建立し、自ら彫った菅公の御木像を生祠(いきほこら)としてお祀りし、日夜御安泰を祈っていたそうです。しかし、その2年後菅公はお亡くなりになります。それから源蔵は、この生祠を霊廊として礼拝、のちに神社と改め「生身天満宮」と称したそうです。(生身天満宮資料より)   

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  • 24Dec
    • 2017.12.11〜13 『神社おそうじ隊  丹後見参!』その4

      『鬼の交流博物館』「大江山の鬼伝説の紹介をはじめ、全国各地の鬼にまつわる伝統芸能、世界の鬼面などが展示され「鬼とは何者なのか」について考えることができます。」(博物館ホームページより抜粋)「…福知山の北にそびえる大江山、そして三岳山周辺などには酒呑童子の物語を今に伝える伝説が数多く残っている。その多くは、ひっそりと伝わるものであり、決して有名なものではない。しかし、地域の伝説として大切に語り継がれてきたその背景には、先人たちの精神文化の歩みが確かに刻み込まれている。」(「福知山の酒呑童子伝説」より抜粋)大江山は、前回の「裏出雲見参!」の時は通過しただけでした。今回は、ある意味で主要な見参地として考えていました。「鬼」は、「神社」を知るうえで重要な要素の一つです。多種多様な鬼瓦や面の数々。「鬼」とは、いったい何なのか・・・全ての展示は、それを見る者に考えさせます。「鬼」とは、端的にいえば権力に屈しない者のことです。大江山には、鬼伝説が3つ残っています。まず一つは、日本国成立の頃、陸耳御笠(くがみみのみかさ)が日子坐王(ひこいますのかみ)によって退治された話。次に、聖徳太子の弟にあたる麻呂子親王が、三上ヶ嶽(大江山の古名)で英胡・軽足・土熊などを討った話。そして、3つ目に酒呑童子の話。前の2つの伝説の背後には、古代丹後勢力のヤマト王権への屈服という史実があったのではないか…そして、酒呑童子の話。酒呑童子は平安王権に抗い、討たれた鬼の首領でした。日本史上最強の鬼として知られる酒呑童子が言ったとされる言葉に、「鬼」と呼ばれた者たちの真実が含まれています。「鬼に横道(おうどう)なきものを」横道とは、不正なこと、悪いことと知りつつ悪事を働くことですが、この言葉の奥にある耐え難いほどの無念が、ズンと心に響いてきます。車で下山中に見つけた神社『平神社』に参拝。そして、夕暮れ近い頃に『元伊勢内宮 皇大神社』前回の「裏出雲」に続いての参拝。まだ16時台でしたが、神職の方々は誰もおらず、寒々としていました。ここからこの日の宿泊先へ。そして直会。 鴨すき。いや、うまかったですそして、お店のすぐそばにある…『御霊神社』御祭神は宇賀御霊大神。しかし、この神社を「御霊神社」と云うのは、明智光秀公を祀ったことに由来しています。光秀公は丹波において、諸豪が所々に割拠していたものを平定しました。そして、その拠点として福知山城を修造し、由良川に長い堤防を構築してその流路を転じて氾濫を防ぎ、ここに城下町を建築するにあたっては地子を命ずるなど、種々善政を施したのだそうです。「御霊社」とは、生前、人々に慕われていたものが冤罪(エンザイ)を蒙った様な場合に、その御霊を鎮めようとする神社のこと。御霊社は、各地に存在する。この日はここまで

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  • 23Dec
    • 2017.12.11〜13 『神社おそうじ隊  丹後見参!』その3

      『飯尾醸造』全国唯一といわれる、純米酒から手作りで酢の醸造を行なっているこちらの蔵見学が、この日最初の見参地。原料となるお米は無農薬で、その段階から自分たちで一切の手抜きなく酢を造られています。写真にもあるように、この日は積雪宿泊先のホテルの方も、「例年は年が明けてから降るのですが・・・この時期の雪は珍しい」と言われていましたが、天橋立を見下ろす位置にあるのこのホテル。なかなか見れない光景に、出会うことができました。  「静置発酵」の仕組みや、季節による発酵期間の違いなど、興味深い話が続々と。 蔵見学のあと、すぐ近くに鎮座されている『久理陀神社』与謝郡式内社20座(大3・小17)のなかの小社。(この神社が式内社であるかどうかは説がいろいろあるらしい)現在地には昭和六十二年(一九八七)に移転したらしい。以前は日比ひい大明神、日比宮と呼ばれていた。現在の社殿は、寛政三年(一七九一)の建立である。 そして、ランチは「こんぴら」にてうどん富士酢を使った黒酢あんかけうどんは絶品でしたそして、『真名井神社』「神社」に多少なりとも興味のある方なら、知らない人はいないであろう元伊勢・籠神社の奥宮。別称として、 豊受大神宮・比沼真名井(ひぬまない)・外宮元宮・元伊勢大元宮。古称として、匏宮(よさのみや)・吉佐宮(よさのみや)・与謝宮(よさのみや)・久志濱宮(くしはまのみや)など、数多くの呼び名で知られる。御祭神は、豊受大神を主祭神とし、天照大神・伊射奈岐大神(いざなぎおおかみ)・伊射奈美大神(いざなみおおかみ)・罔象女命(みづはのめのみこと)・彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)・神代五代神(かみよいつつよのかみ)神社の説明では、「豊受大神は別名を天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)・国常立尊(くにとこたちのみこと)・御饌津神(みけつかみ)とも云い、その御顕現の神を豊宇気毘女神・豊受比売とも云います」『籠神社』丹後一宮・元伊勢。「籠神社は第四代懿徳(いとく)天皇の御代(紀元前507年)に始まった「藤祭」を第二十九代欽明(きんめい)天皇(539~571年)の御代に「葵祭」と改称し、2500年以上その祭祀を継承しています。」【別称】 籠宮大社(このみやたいしゃ)・元伊勢大神宮・伊勢根本丹後一宮・一の宮大神宮【旧社格】 延喜式内・名神大社・月次・新嘗・案上之官幣大社・山陰道一之大社御祭神 彦火明命(ひこほあかりのみこと)亦名・穂赤命(ほあかのみこと)・天火明命(あめのほあかりのみこと)・天照御魂神(あまてるみたまのかみ)・天照国照彦火明命(あまてるくにてるひこほあかりのみこと)社伝では、彦火明命は上賀茂神社の賀茂別雷神(かもわけいかづちのかみ)と異名同神であるといい、その御祖の大神(下鴨)も併せ祀られていると伝えられる。また、饒速日命(にぎはやひのみこと)ともいわれる。また古伝によると、十種神宝(とくさのかんだから)を持って来られた天照国照彦天火明櫛玉饒速日命(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)また、大汝命(大国主命)の御子神、火明命(彦火火出見命の御弟)、丹波道主王とも云われています。ちなみに、「元伊勢」とは・・・『「元伊勢」とは、天照大神が宮中を出られてから伊勢の五十鈴川の河上に御鎮座されるまで皇女が天照大神の籠もられた御神鏡をお持ちになって各地を御巡幸になり、一時的に天照大神をお祀りした二十数カ所の宮々のことを云います。また、それとは別に雄略天皇の御代に天照大神のお告げによって丹波国(現在の丹後)の与佐(よさ)の小見(おみ)の比沼(ひぬ)の魚井原(まないはら)にいる丹波道主(たにわのみちぬし)の娘・八乎止女(やおとめ)のお祀りする豊受大神が天照大神の食事を司る神として伊勢に迎えられました。この丹波の魚井原で豊受大神をお祀りしていたお宮のことも「元伊勢」と云います。』(以上、「籠神社」ウエブサイト参考および抜粋)「神社」というのは、縁結び・家内安全・恋愛成就…などなどのご利益や、聖地とか聖なる〇〇といったパワースポット的視点から見ていては、決してわからないことがあります。「お祀りする」…この一言に、神社の本質は、よく現れていると私は思います。いったい、何(誰)が何(誰)を「お祀り」するのか…歴史はいつも錯綜し、起きたとされる事実はうやむやなまま、いつしかその時代時代で新たな「事実」が形成されるのが常。今日の事実が明日の事実とは限らない…歴史はそうやって紡がれてきました。丹後は、「裏日本」ともいわれます。古代において、この地がどれほど重要な地であったか。。。籠神社の存在は、それを示しているように思います。

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  • 21Dec
    • 2017.12.11〜13 『神社おそうじ隊  丹後見参!』その2

      『熊野新宮神社』出口家の氏神さま。大本二大聖地の一つ、梅松苑のすぐ北側に位置する神社。平安時代末期、丹波の国守だった平重盛(1138~1179)が紀州・熊野速玉神社より勧請したとされています。しかし、出口王仁三郎は、熊野三山よりも古い時代に創建された神社、といっています。素盞嗚尊が出雲から出て来られた時に、本宮山の上に母神である伊弉那美尊をお祀りになられ、そこに熊野神社と名付けられ、それから紀州に向かわれたのだ、と。この神社は、実際に以前は本宮山の中腹にあったそうです。この後に向かったのが、「梅松苑」でした。ニューヨーク・聖ヨハネ大聖堂の献石。元屋敷。大本発祥の地とある。『弥勒殿』長生殿が建設されるまでの約40年間は、梅松苑の中心神殿であったそうです。ご祭神 おほもとすめおほみかみ現在は祖霊社と万霊社が設けられている。ここで参拝していると、大本の方から「これから長生殿で夕拝を行います。いかがですか?」とお声がけをいただき、参加させていただきました。『長生殿』宇宙の主神、天地の主宰神をまつる神殿。向かって右に歴代教主・教主補の神霊をまつる老松殿、左に会議・集会・茶席などに利用される白梅殿、さらに前殿の鶴亀殿と四棟からなり、これらを総称して長生殿というそうです。職員の方から一般の信徒の方まで、大変に物腰の柔らかな対応をしていただきました。夕拝も、凛とした空気が満ち、清々しいものでした。「野に山に 神の恵みは 満ちぬれど 心なければ 目にも止まらず」(出口王仁三郎 「大本案内」より抜粋)この後、今晩の宿泊先に向かいました。その途中で、『菊姫稲荷』こちらの神社に参拝。そして、少し早い雪の降る中、お宿に到着。 初日、無事終了となりました

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  • 20Dec
    • 2017.12.11〜13 『神社おそうじ隊  丹後見参!』その1

      『天恩郷・月宮宝座』「天恩郷」は、大本二大聖地の一つ。京都府亀岡市にあります。戦国時代の名将・明智光秀公の居城であった旧亀山城址の敷地。「月宮宝座」は、出口王仁三郎が高熊山修行中に見せられた天界の宮殿を模写したもの。「教学碑」天恩郷における拝殿「万祥殿」の前にて。二度に及ぶ弾圧の刻印を残す。「月の輪台」満月を型取って円形に造られた。神は瑞の御霊大神(みづのみたまのおほかみ)。第二次事件が解決し、天恩郷の再建が始まると、出口王仁三郎はやはり月の輪台の築造から始めたといいます。 出口王仁三郎による書や碗、記録ビデオなども視聴できます。ここからランチに。地元で大人気のこのお店に。混雑してましたが、親切に対応いただきました

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  • 19Dec
    • 2017.11.21〜23 『神社おそうじ隊 長崎見参!』その7

      『田平天主堂』大正4年から3年の歳月をかけて、信者達の手によって建設されたロマネスク様式の荘厳な赤レンガづくりの教会。瀬戸山天主堂とも呼ばれている。教会建築の第一人者、鉄川与助の設計により、彼の最後の煉瓦造教会として知られる。この日、最後の教会となったのは・・・『平戸ザビエル記念教会』この地区は禁教令が解け信徒が住むようになり、明治43年には仮聖堂があったといいます。1931年、大天使聖ミカエルに捧げた教会が建てられ、献堂40年(1971年)にザビエルの三度の平戸訪問を記念してザビエル像を建て、「平戸ザビエル記念聖堂」とよばれるようになったそうです。そして、神社に。『平戸護国神社』そして『亀岡神社』平戸城内にある松浦藩主を祀る神社。秋の大祭「平戸おくんち」で知られる。「宝永五年(1708)に第三十代松浦棟氏が建立した松浦家の祖廟霊椿山神社が、居城亀岡の低湿の位置(現在の護国神社付近)にあり、年々破損が大きくなることを深く憂い、平戸藩最後の藩主、松浦家第三十七代松浦詮氏は、新築遷座の計画を立てた。時あたかも郷社七郎神社、乙宮神社、八幡神社は一応に老朽化が進んでいた。それぞれの建て替えには莫大な経費を要するため、氏子たちの財力だけでは達成不能であった。氏子たちのたっての願いにより四社を合祀し、二の丸跡の高台の地に神社を新築遷座することにした。」(亀岡神社ホームページより抜粋)・・・と、ここでタイムオーバー。今回の「長崎見参」というのは、いわゆる日本的な「神社」はもちろん、「教会」に多数見参させていただきました。この地は、日本のカトリックの方々にとって「信仰のふるさと」と呼ばれ、長崎市内だけで22、長崎県全体では137の教会があるそうです。小説、そして映画にもなった「沈黙」でも扱われているように、苛烈なキリシタン弾圧のあったこの地では、巡拝(巡礼)を重ねていくにつれ、迫害を受けてなお祈りを捧げてきたかつての信徒の方々の深い静寂が、ハートにずっと、響いていました。「神社」とは、神宿る社(やしろ)。では、神宿る社とは、一体何なのでしょう。その原点に意識を向けた時、信仰のスタイルや概念の違いは関係ない。本質において、神から分け放たれたものなど、存在しえないのだから。それは、何かを信仰しているとかしていないとか、そういうことは関係なく、ですね。ともあれ、今回の「長崎見参」にご参加いただいたみなさま、本当にお疲れ様でした!同じ九州とはいえ、距離的には離れている大分や熊本から車でご参加いただき、3日間運転していただいた皆さまのおかげで、恙無く今回を終えることができましたまた、島根や鳥取、そして我々と同じく横浜から九州入りしたみなさまも、今回の道行きは、様々な想いが巡られたのではないでしょうかまた、みなさまと共に巡拝する機会を、私としても楽しみにしております本当にありがとうございました「神社おそうじ隊 見参!」は、この後、海の京都を目指します

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  • 17Dec
    • 2017.11.21〜23 『神社おそうじ隊 長崎見参!』その6

      『カトリック紐差教会』東洋でも屈指のロマネスク様式の教会といわれています。旧浦上天主堂が原爆によって倒壊した後は、日本最大の天主堂といわれたそうです。読み方は「ひもさし」です。この教会のすぐ下には、『素戔嗚神社』拝殿の中では祭祀が執り行われていました。地域での崇敬篤い神社。『淀姫神社』壱岐・対馬を除き、日本でもっとも西に位置する神社。豊玉姫命を祀る、この地域(西浜・堤・猪渡谷)の氏神とされています。そして『根獅子浜』かつて多くの殉教者を生んだ浜。その渚に横たわる「昇天石」は、多くのキリシタンが処刑されたと伝えられる。写真にその詳細あり(写真をクリックすると拡大します)。『八幡神社』禁教令のもと、キリシタン取締りが厳しさを増す中、この神社裏の大石の隙間に信者は隠れていたといいます。このすぐ近くにあるのが、『平戸市切支丹資料館』多くの殉教者を出した根獅子の浜や、その殉教者たちを祀るおろくにん様などに取り囲まれる位置にある。密かに守り抜かれた信仰の歴史を伝える資料館。この資料館のだいたい背後に位置する場に、『ウシワキの森』「ある夫婦と女の子三姉妹の前に、一人の男の子が現れました。家族はその働きぶりに感心、長女の婿に迎えました。子をなし、もう大丈夫と思って一家がキリシタンと告白した翌日に男は姿を消し、キリシタン取締りの役人に、一家は捕らえられてしまいました。一家は両親はじめ、長女のお腹の子を含め6人が(おろくにん様)、根獅子の浜昇天石で処刑されました。遺体は海に捨てられたが、村人達は遺体を拾いこの森に手厚く埋葬、一帯を千人塚と称し聖地として敬いました。」(平戸市切支丹資料館ホームページより)また、根獅子の浜からほど近い場に『ルルドのマリア』ここからランチに 「平戸瀬戸市場」のレストランにて。うちわ海老のみそ汁を満喫

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  • 15Dec
    • 2017.11.21〜23 『神社おそうじ隊 長崎見参!』その5

      『枯松神社』慶長19年(1614)の禁教令が出され、以降キリスト教信者への取り締まりはいっそう厳しさを増したが、その中にあって、外海地方の多くの信徒たちは潜伏して信仰を保ち続けた。黒崎地方の潜伏キリシタンたちは、枯松の山頂にひそかに集まってオラショを伝承してきた。明治時代に入ると、この地に神社を建立し、日本人指導者バスチャンの師であるサン・ジワンをここにまつった。また、神社周辺には、板石を伏せて置くキリシタン墓が残っている。(長崎市ホームページより) 小雨降るなかの参拝。日本でも珍しいキリシタン神社とされるこの神社では、宗派を越えた祈りが捧げられている。『黒崎カトリック教会』長崎県長崎市外海(そとめ)町は、五島列島や生月島とともに隠れキリシタンの里として知られる。作家・遠藤周作はこの地を第二の故郷とこよなく愛し、代表作の一つである「沈黙」ではこの地を「トモギ村」として描いている。こちらの教会は「沈黙」に登場する教会。ロマネスク様式、赤レンガ造りの美しい教会でした。1920年完成。出津(しつ)町へ赴任してきたフランス人宣教師、ド・ロ神父による設計。 教会のすぐ下にあるのが、『外海潜伏キリシタン文化資料館』。  「外海地区の住民らでつくる「外海文化愛好会」により、外海地区とその周辺地域における潜伏キリシタンの歴史とその文化的伝統について調査研究した成果を公開するための施設として平成29年3月19日に開館しました」(ながさき旅ネットより)『出津教会堂』1879年に潜伏キリシタンが多かった外海の出津・黒崎地区に赴任し生涯を外海に捧げたド・ロ神父が、風の強い斜面の台地に、1882年、私財を投じて建てた質実剛健な教会。(ながさき旅ネットより) 内部は撮影禁止。『大野教会堂』1893(明治26)年、ド・ロ神父は私財を投じ、自らの設計施工によって出津教会の巡回教会として建てられた教会。ひっそりと素朴な、しかし祈りの場としての厳かさと神聖さが感じられる教会でした。大野は潜伏キリシタンの集落。彼らは集落内の神社の氏子となり、神社に信仰対象を密かに祀り信仰していたといいます。  この日はここまで。この後、本日の宿泊場所となる平戸に直行しました

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  • 08Dec
    • 2017.11.21〜23 『神社おそうじ隊 長崎見参!』その4

      『金刀比羅神社』御祭神 大物主神。雨の中、朝一番はちょっとした登山をしての参拝でした。次に向かったのは、『滑石太神宮』『長崎市指定無形民俗文化財 滑石竜踊』「長崎本籠町籠踊の古典的伝統を伝承する竜踊で、その始まりは明治10年、雨乞いと五穀豊穣を祈願するため、滑石太神宮の氏子が本籠町の指導を仰ぎ太神宮に奉納したのが始まりである。その後、昭和10年に長崎くんちで大井手町の奉納踊として出演してから長崎竜踊の風格をそなえた。毎年、県内外の要請に応えて諸行事に出演している。」(長崎市ホームページより)「長崎の龍踊りは、もともと中国から移入されたもので、享保年間(約250年前)既に諏訪神社のお宮日に参加した記録があります。龍踊りは中国で五穀豊饒を祈る雨乞い神事に始まったものといわれており、中国の年中行事や記念祭などには欠くことの出来ない催物となっておりました。当時、唐人屋敷と隣接し密接な関係にあった長崎市本籠町の町民が、唐人達の指導を受け、三百余年の間にその踊り方は非常に巧みになり、日本独特の巧妙な演技を見せるに至ったのであります。龍踊りの踊り方は、唐人服装をした「玉使い」が一人、「龍衆」が十人で玉使い、玉隠し、胴くぐりからなっており、ドラ、タイコ、龍声ラッパ等の独特な拍子に合せて長さ20メートルに渉る龍がさながら生物のように踊るさまは、実に壮観であります。」(長崎国際観光コンベンション協会ホームページより抜粋)もともと「くんち」とは、九州北部における秋祭の呼称。長崎、佐賀の唐津、そして博多のくんちを指して「三大くんち」といったりします。共通しているのは、神社から御旅所まで神輿による御神幸が行われることだそうで、そこにいわゆる大名行列などが加わったり、様々な形態をとるようです。イベント色が強く神事としての色合いが薄まった、という意見もあるようですが、そこに神事としての意識があれば、たとえ何が失われたとしても間違いなく「神事」です。また、こちらの神宮は原爆が投下された際の救護所として機能した神社でもあります。拝殿および本殿この神社のすぐ近く『滑石カトリック教会』新しく、綺麗な聖堂でした。ここからランチに。「向日葵亭」長崎のソウルフード(?)トルコライス。なぜトルコライスというのかは諸説あるようです。でも、個人的には「あり」ですここから、平戸方面に向かいました。

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  • 04Dec
    • 2017.11.21〜23 『神社おそうじ隊 長崎見参!』その3

      『国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館』『長崎原爆資料館』「昭和20年(1945年)8月9日午前11時2分、長崎市に投下された原子爆弾は、一瞬にして都市を壊滅させ、幾多の尊い生命を奪った。たとえ一命をとりとめた被爆者にも、生涯いやすことのできない心と体の傷跡や放射線に起因する健康障害を残した。これらの犠牲と苦痛を重く受け止め、心から追悼の誠を捧げる。原子爆弾による被害の実相を広く国の内外に伝え、永く後代まで語り継ぐとともに、歴史に学んで、核兵器のない恒久平和の世界を築くことを誓う。」「長崎原爆資料館は、長崎市の原爆被曝50周年記念事業の一つとして、1996(平成8)年4月に開館しました。被曝資料や被曝の惨状を示す写真などの展示をはじめ、原爆が投下されるに至った経過、核兵器開発の歴史、平和希求などのストーリー性のある展示を行なっています。」(平和祈念館パンフレットより引用)この2つの施設は隣接していて、通路で互いの施設を行き来できるようになっていました。平和祈念館の施設の上部は上の写真のようになっていて、これは、原爆死没者の方々が求めた「水」をたたえる水盤なのだそうです。夜になると、光ファイバーによって約7万個の追悼の灯がこの水盤に燈ります。(7万という数字は、1945年12月までの推計原爆死没者数)追悼空間。正面は、原爆死没者の氏名を記載した名簿棚になっています。原爆落下中心地が、この名簿棚の方向となるそうです。ここでも、おそらくは修学旅行の子供達に遭遇。施設の職員の方による解説を、私たちも一緒に聞かせていただきました。そして、「原爆資料館」。    2013年に広島の平和祈念資料館に訪れました。そして、今回の長崎です。原爆といっても、広島と長崎では使われた爆弾は違う種類のものでした。広島型原爆は、コードネームをリトルボーイと言います。そこで使われた燃料はウラン235(ウラニウム235)。長崎型原爆は、コードネームをファットボーイ。使われた燃料は、プルトニウム239です。これら使用するにあたり、投下側には様々な意図がありました。有名なマンハッタン計画やポツダム宣言そのほか政治的な思惑・・・原爆投下後のデータ採集・・・種類や威力の異なる爆弾を使って、彼らは一体何を実験したかったのでしょう。『浦上天主堂』神よ わたしをあなたの平和のために用いてください  憎しみのあるところに 愛を  争いのあるところに  赦しを  分裂のあるところに  一致を  疑いのあるところに  真実を  絶望のあるところに  希望を  悲しみのあるところに よろこびを  暗闇あるところに  光をもたらすことができますように  助け導いてください神よ わたしたちに  慰められることよりも 慰めることを  理解されることよりも 理解することを  愛されることよりも  愛することを望ませてください  わたしたちは  与えることによって 与えられ  すすんでゆるすことによって ゆるされ  人のために死ぬことによって  永遠に生きることができるからです アーメン(アシジの聖フランシスコの祈り・・・浦上天主堂パンフレット裏面に記載)「浦上では、1567年以降、キリスト教信者が多くなりましたが、特にイエズス会領となった1584年から3年間は、長崎におけるキリスト教の一つの中心となりました。 キリスト教が禁止されると、浦上の信徒たちは潜伏して信仰を続けました。厳しい弾圧が繰り返されましたが、『信徒発見』の後に行われた1867年の浦上四番崩れ(キリシタン検挙事件)は最大で、実に約3400人が各地に流配されました。」『日本二十六聖人記念聖堂』『聖フィリッポ西坂教会』1597年2月5日(慶長元年12月19日)に6人の外国人宣教師と20人の日本人信徒、二十六聖人が殉教した地・西坂の丘に建つ資料館。隣接する西坂教会とともに、建築家・今井兼次氏によるもので、建築をもって殉教者の心を伝えようとしたといいます。教会の双塔は、高さ16メートル。向かって右の塔は、天からのお恵みが降りてくる塔で、精霊の賜物を象徴しています。向かって左の塔は、祈りと賛美の塔であり、聖母マリアの象徴を表しています。そして、記念聖堂の中に入って正面。中央にΑ(アルファ)とΩ(オメガ)。始まりと終わり、すなわち「永遠の神」を示す周囲を二十六の十字架が取り囲んでいます。聖堂では、潜伏キリシタンの密かな祈りの対象であった《雪のサンタ・マリア》など貴重な物が多く展示されていました。  ここでは教会内にも入ることができました。この日はここまで。この後夕食、そして1日目の直会へと・・・

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  • 28Nov
    • 2017.11.21〜23 『神社おそうじ隊 長崎見参!』その2

      『鎮西大社・諏訪神社』旧国幣中社。鎮西大社と称えられる長崎の総氏神。諏訪・森崎・住吉の三社がおまつりされ、 厄除け・縁結び・海上守護の神社として崇敬される。御祭神諏訪神社 建御名方神 八坂刀売神森崎神社 伊邪那岐神 伊邪那美神住吉神社 表筒之男神 中筒之男神 底筒之男神10月7日〜9日に執り行われる例祭「長崎くんち」は、国の重要無形民俗文化財に指定。『・・・「くんち」という名称は、九月九日の重陽の節句よりきており、大陸との関わりの深かった長崎独特の名前と言えます。寛永11年(1634年)遊女町の音羽と高尾の二人が神前で舞い始めたことが始めといわれています。かつて長崎はキリスト教の知行地(いわゆる支配地)で、それまで祀られていた神社・仏は見るも無残に焼かれ・壊されてしまいました。その後、豊臣・徳川の政権下で再三にわたりキリスト教禁教令が出され、教会に変わって幕府は神社・寺院の建立、積極的に布教を積極的に推進したので、これに漸く社寺の建立が盛んに行われる時期でした。』(御由緒書より引用)この石段を登りきった処が境内。拝殿『玉園稲荷神社』と「抱き大楠」諏訪神社境内社。境内最奥部に鎮座。また、    さまざまな神徳を受け持つ「狛犬」が続々と登場こちらのページでも特集されているので、気になる方はチェックしてみてくださいそして、ランチ。長崎といえば…外せないのがちゃんぽんと皿うどん「四海樓」長崎ちゃんぽん、皿うどん発祥の店として知られる中華料理店。諏訪神社で地元の方にリサーチしたところ、「まずはここ美味しいです」と教えていただき、一同全員一致(❓)で決まりました港も一望。もちろん、味もGOODランチ後は、『山王日吉神社・浦上皇大神宮』「一本足鳥居」で知られる神社。『・・・山王神社の参道には、一の鳥居から四の鳥居までありましたが、1945年(昭和20年)8月9日の原爆投下により、爆風に対して並行に建っていた一の鳥居と二の鳥居を残し、あとはすべて倒壊してしまいました。一の鳥居はほぼ原型のまま、二の鳥居は爆風で笠石がねじまげられ、爆心側の左半分が吹き飛ばされたものの奇跡的に右半分だけの一本柱の状態で残りました。しかし戦後の昭和37年、一の鳥居は交通事故により倒壊したため現在も当時のままの姿で立っているのは、二の鳥居だけとなりました。』「二の鳥居の吹き飛ばされた左半分」は、近くにこのような形で展示物として残っています。「被曝クスノキ」原爆被災の貴重な遺構として、長崎市指定天然記念物に指定されています。山王神社の境内入口にそびえる2本のクスノキは、樹齢約5~600年、胸高幹囲がそれぞれ8メートルと6メートルで、長崎市内にあるクスノキの巨樹の一つです。共に昭和20年の原爆で主幹の3分の1以上を失ったため、 樹高は10メートル内外ですが、四方に張った枝は交錯して一体となり、東西40メートル、南北25メートルの大樹冠を形成しています。原爆被災により一時落葉し枯れ木同然になったにも係わらず、2年程度の後、奇跡的に再び新芽を芽吹き、次第に樹勢を盛り返し今日に至っています。また、蘇った大楠に直接手を触れ、その生命力にあやかろうと毎日多くの参拝者の方が訪れています。(山王神社ウェブサイトより抜粋)近隣なのか、はたまた遠方から修学旅行か何かで来たのか、小学生が大勢、このクスノキに触れ、絵を描き、あるいは木の中に入ったり登ったり…また、彼らは皆元気よく私たちに「こんにちわ」と声をかけてくれたことが印象的でした。こういった子供達、あるいはこのクスノキを保存する為に心を砕いてきた方々のそのエネルギーによって、このクスノキも樹勢を取り戻したように、私には思えます。果たして、東京の大木が同じような状況にあったとしたら、このように残すのだろうか…また、子供達に触れさせたりするのだろうか…「被曝」というだけで寛容さを欠く方々も多い昨今、このようなことを思いつつ、全員で参拝させていただきました。(ちなみに、写真はクリックすると拡大します)

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