『太祝詞(ふとのりと)神社』

式内社(名神大社)

 

現在の祭神は、大詔刀(ふとのりと)神一座。

境内に雷大臣(いかつおみ)命一座の祠がある。

雷大臣命は、対馬の亀卜の祖とされ、太祝詞神社と雷命神社はその縁故の地と称しているという。

また、大詔刀は亀卜と関係のある名称。

「太祝詞神社」は「太祝詞の神を斎く社」、つまり「卜部の祭る処」なのだろう

 

中世・近世には「賀志大明神」と称していた。

 

 

「大和国添上郡の太祝詞神社、京の二条に坐す太詔刀神社は明らかに対馬と関係があり、同じく二条に坐す久慈真智命神と大和国十市郡の天香山坐櫛真(智)命神社も本来対馬と関係があったのではないかと思われる。すなわち、対馬の卜部が上京して宮廷の卜部が成立したという事情から考えて、対馬にあった卜事関係の神々が大和国に勧請され、後に都が山城国に遷った時、さらに京都にも勧請されたものと考察される。」(「海神と天神」より)

 

 

 

『小茂田浜神社』

 

「蒙古(元)が中国を統一して日本の朝貢を勧告してきたが、日本がこれをはねつけたため、文永11年(1274)10月総兵力2万5千人、900艘の大船団をもって対馬を侵略した。宗家初代当主宗資(助)国はわずか80余騎で勇躍これを迎えうち、小茂田浜で奮死した(文永の役)。壮絶な死を遂げた資国公の墓所は、700年を経た今日、お胴塚、お首塚として、それぞれ別のところに伝承されている」(「つしま百科」より)

 

ここでは2万5千となっているが、高麗の兵も混えると4万の兵ともいわれている。

いまも対馬の津々浦々では蒙古塚の伝説が遺っている。

 

「しかしながら数々の古い記録に遺されているような『島民が全滅した』というのは誇張表現である。本作の舞台も島全域でなく、厳原から金田城にかけた島南部の戦いである。対馬は大きく、なんと東京23区よりも広い。一週間余りで全滅させるなど物理的に不可能だ。それに古代からの信仰も脈々と受け継がれている。難を逃れ生き残った人々が再び明日の対馬を築いたに違いないのである。」(「アンゴルモア」第10巻 あとがきより)