『至誠の咆哮』「人を知る法」第36条「完全慾」
「人を知る法」第36条「完全慾」 いろいろな欲はあっても、心ゆくまで満足させられると言う事は先ずあり得ない。そこで我々は小さい欲望でも、これを完全に満たしたいと思う。例えば、帳面一つつけるのにも最後まできれいに使いたい、間違いなしに書きたいと思って何枚も何枚も破り捨てて書き直す。人に頼まれた事は、すみからすみまで落ち度なく果したいと努力する。それが出来た時に我々は非常に満足感を味わう。こういう様に欲望を拡げるよりも完全にも満たしたいと思う人はしっかり仕事をやる人間だ。 先日、仙台で「伊藤若冲展」に行った。その格調の高さ、その精緻さ・・・全てに圧倒され、感動した。ここまで精緻に書けるものかと人間の仕業ではなく神の手のなせる技に違いないとも思えた。 これぞ完全慾の1つであろう。これは絵画だけではない、書道しかり、音楽しかり。「王羲之展」でもそんな感動を覚えたし、ミュージカル「ノートルダム」でも同様だった。いや、更には、ジャック・ニクラスやトム・ワトソンのスイングもかって目の前で見た。私の愛するバスケットボールでは、マイケル・ジョーダンのプレーは正に神様だ。イチローや松井秀喜もそうであろう。 世の天才達の「完全慾」追及の結果が、凡人の目を楽しませ、感動させるのである。 しかし、「完全慾」は天才達だけの特権ではなかろう。凡人でも「完全慾」は追及できるはずだ。全うできるに違いない。だから、自分なりに懸命に、全身全霊を込めて為したもの、物、事、者には何か、他に影響力を持ち、時に感動を与えることができるのであろう。 我々は、自らの完全慾追及を図ること、それが幸せへの道であろう。ヒルティの『幸福論』の第一ページの最初の行に「仕事の上手な仕方は、あらゆる技術のなかでももっとも大切な技術である」とある。そして、「我を忘れて自分の仕事に完全に没頭することのできる働きびとは、最も幸福である。例えば、ある題材を得てこれを表現しようとする時、全精神をその対象に打ち込まずにはいられない芸術家や、自分の専門以外はほとんど何物も目に入らない学者や、いな、ときには最も狭い活動範囲に自己の小天地を築き上げている、いろんな種類の「変わり者」でさえ、この上なく幸福なのである」という。私はこれを信じる。