Noodle Soup(=ラーメン)
「ヘンテコ音楽人生」の方はちょっと中休み。
(続きを今か今かとお待ちのみなさん、すみません)
昨日は、ワシントンDC郊外の日本食材店(まるいち、ひなた)に食料を買い出しに
行ってきた。
シャーロッツビルで揃わないものは、大体フェアファックスにあるHマート という
韓国系スーパーで揃うのであるが、そこでも揃わないものがいくつか見つかった。
(下はDC郊外ロックビルにある「まるいち」の店内)
・鶏ガラスープの素 (中国系のスーパーにありそうなものなのに・・・)
・福神漬け (これがないと私はカレーライスやハヤシライスを食べた気がしない・・・)
・塩昆布(ふじっ子!)
・ちゃんこ鍋のスープ
・インスタント焼きそば(エースコック大盛りいか焼きそば)
など。
実は一番うれしかったのは、なにをかくそう
普通の、日本で売っている「日清カップヌードル」!
そうなんです。。。
アメリカで売っているカップヌードルは、味も具も日本のものは違うのである!!
・具は、えびは同じだが、卵と四角いミートボールのようなものが入っていない。
その代わりに(?)グリンピースが入っている。
・味はと言えば、(アメリカで売っている日本のインスタントラーメンはほとんどそう
だが)出汁が薄くて、何か変な味。。。
総じて、アメリカ人は魚系の出汁が濃いのを受け付けないようで、
アメリカではレストランで出る味噌汁も出汁が薄くて、バランスが悪い。
(在米生活の長い日本人の中には、日本の「ほんだし」を常に持ち歩いて、
レストランで味噌汁が出たらその中に入れる、という人もいる。インスタント麺も
鶏ガラスープやほんだしをちょっと入れただけで、ずいぶんおいしくなるようだ)
というわけで、
アメリカに来てはじめて、まともなカップヌードルに出会った(!)という感じであった。
(今朝さっそくいただいたのは言うまでもない)
さて、今日の本題は、実はラーメンである。
といってもインスタント麺ではなく、お店で出る ちゃんとしたラーメン。
アメリカでこれを食べるのは至難の業だ。。。
大都市に行くと、ラーメン店らしきものもあるらしいが、大体において上記の
アメリカ人の好みのせいで、出汁が薄く日本人には「?」というようなものが
多いようだ。
それなら、中華料理店は? と思う人は多いのではないだろうか?
この際、中華料理店のラーメンはラーメンではない、などと難しいことを言う
なかれ。日本人にとっては、スープと中華そばの組み合わせは、基本的に
「ラーメン」なのだから。
大衆的な店から高級店まで、日本の中華料理店では、中華そば、五目そば、
チャンポン、担々麺のようなメニューが一切ない、ということはほとんどあり
得ないのであるが、アメリカではそうではない。
メニューにある麺類と言えばほとんどRou Mein、
つまり焼きそばしかないのである。。。
ところが先日、
このシャーロッツビルで、汁のついた中華麺が食べられる!
という情報をいただいた。
情報の主は、時々このブログにも通りすがってコメントを残していただいている
ぜのばすさん である。
昨夜、さっそくそのお店に行ってみた。
Flaming Wok という「鉄板焼きと中華料理と寿司!」という(この話を
聞いていなければ絶対に入らないであろうような)お店。
で、問題のメニューは・・・・・・と探すと、
あ、ありました! House Special Noodle Soup !
ぜのばすさんは「チャンポン」に近いようなもの、とおっしゃっていたが、
まさにその通りのものが出てきた。
お味は、very good !!
想像していた以上に感激してしまいました!
ワシントンDCへの行き帰り、何回も道が渋滞し、思いっきり疲れていたので、
このチャンポンにはすっかり癒されました。
(ぜのばすさん、有難うございました)
ちなみにこのお店、よく流行っており、(鉄板焼きや寿司はどうかわからないが)
私たちが食べた他の中華メニュー(やきめし、ホタテのガーリックソース)も
なかなか味は良かったですよ。
ヘンテコ音楽人生(その2)
ヤマハ音楽教室でオルガンを習ったのがどのぐらいの期間であったのか、記憶にない。
たぶん数ヶ月だろうと思う。
上達は早かった。絶対音感らしきものがあることもわかったので、先生はぜひピアノに
進むように両親に進言した。それで小学校入学とほぼ同時にピアノを習いだした。
はじめは順調だった。
そう熱心に練習したという記憶はないし、音楽そのものの本当の楽しさを知るというまで
にはいかなかったが、レッスンは少なくとも苦痛ではなかったし、少しずつ上達して
いろんな曲が弾けるようになっていくのは楽しかった。
小学校3年になる時までは。。。
その時、いろんなことが重なった。
・ピアノのテクニックという意味では、ちょうど一つの壁に当たる時期だった。
(ソナチネアルバムとチェルニーの30番の途中)
・体育の時間の走り幅跳びで、着地の際に左手を後ろについてしまい、手首を骨折。
3ヶ月ほど、ピアノから遠ざかった。
骨折が治った後も、ピアノにさわるのが億劫でほとんど練習しなかったため、
上達が止まっただけでなく、前に弾けていたものすら怪しくなった。
そうなると指の練習ばかりやらされたり、難度の低い曲(このレベルでは
ほとんどイコール音楽的につまらない曲)に逆戻りしたりするので、レッスンに行く
のが苦痛になってきた。。。
・3年の時に小学校を転校し、特定の生徒と言うよりはクラス全体からのいじめ
を受けた(運の悪いことに、このクラスは2年からの持ち上がりのクラスであり、
メンバーが同じなので、転校生、しかも私のようにおとなしくしていられないような
目立った子どもは徹底的に異質な「よそ者」として即刻排除の対象となった)。
そのため、人間不信に陥っただけでなく、自分の意見を言ったり、好き嫌いを
表したり、ある種の自己表現を行うことは(少なくとも学校では)すべて抑える、
という習性が身についてしまった。
「こいつ、男のくせに、ピアノなんか習ってやんの」という言葉も何度
となく投げつけられた。
そういうわけで、この時期、ピアノを弾くということに喜びが見いだせなかった
だけでなく、それは何か「普通の」存在としてまわりに自分を受け入れてもらう
には邪魔なもの、できれば隠しておきたいものになってしまった。
ピアノをやめたいと思ったのも一度ではないが、はっきりやめたいとは言わない
までも消極的な抵抗(レッスンの時間に外をほっつき歩いているとか)を示した
私に対して、「ここまでやったのだから、今やめたら後できっと後悔するよ」と
辛抱強く説得してくれた両親のおかげで、何とかレッスンは続けた。
ところが、小学校5、6年になると、私はいろんなところでピアノを
「弾かされる」ことになる。
・クラブは科学部に入ったのに、音楽部の先生から目をつけられ、
(音楽部にいた女の子よりこいつの方がうまそうだとのことで)
県の合奏のコンクールに出てピアノを弾かされることになった。
・クラス(5、6年は担任も同じで持ち上がりだった)でも、事あるごとに
オルガンやピアノを弾かされた。
特にいやだったのは、担任のT先生が作った替え歌(クラスの生徒を
一言ずつ紹介していく歌)を毎週のようにオルガンで伴奏させられた
ことである。
私としてはすべて「嫌々」だったのではあるが(かと言って、教師という
学校社会の絶対権力者に対して「イヤ」と言うことはもはやできなくなって
いた・・・)、教師たちはそんなことは知らず、「活躍の場を与えてやった」
ぐらいに思っていたのかもしれないし、少なくとも「ピアノが弾ける男の子」
という存在は学校や学級の宣伝のために「重宝」なものであったことは
間違いない。
もちろん、周り(特に大人)がいくら褒めてくれようが、それは私にとっては
ちっとも誇らしいものではなかった。
通信簿には「ピアノで活躍した」「クラスを盛り上げた」と書かれ、
街で校長先生に会うと「あのピアノの上手なA君のお母さん」と向こうから
声をかけられるぐらいだったので、両親もまた私のこういう「活躍」を誇りに
していた。それもまた私にとっては悲しいとしか言いようがなかった。
もう一つ、音楽に関して嫌々やらされていたことがある。
ピアノの上達がほとんど止まっていたころ、子ども向けの作曲家の伝記
のようなものを読んだ私は「作曲家」にあこがれ、「作曲」に興味をもった。
実際、自分でも少し楽典(楽曲の形式とか和声とか)の本をかじって、
いくつかの曲を作ってみたりもした(今はまったく楽譜も残っていないし、
どんな曲を作ったのか覚えてもいない)。
その時、母親が一つの詩のようなものをつくって、それに曲をつけてみるよう勧めた。
言葉はあまり覚えていないが、要するにたわいもない「家族自慢の歌」のようなものだ。
メロディーも今となってはまったく忘れてしまったが、曲はうまくつけられた。
両親はそれをいたく気に入り、事あるごとに私に弾かせ、歌わせた。
これも私には相当な苦痛だった。
学校で伴奏されていた替え歌と同じく、まったく自分では歌う気のしない内容のもの
を弾かされ、歌わされ、それをまわりがなぜか喜んでいる・・・という光景。
これは私にとって一種のトラウマになった。。。
私が歌を歌わせると音痴なのも(不思議に思う人がいるかもしれないが、プロの
演奏家でも音痴の人はいる)、クラシック音楽でも声楽の入った曲は今でも
何かしら苦手なのは、そのせいかもしれない。
(今日は、私の音楽人生のなかで一番暗い時期の話だったので、
書きにくかったです・・・)
続きはまた。
ヘンテコ音楽人生(その1)
すこし前に、私のヘンテコな読書人生 のことを書いたところ、ずいぶん反響があった。
その時に、「音楽との出会い」についても書いてほしいというリクエストをいただいた。
こうやって異国の地で生活していると、自分のアイデンティティが揺らぐせいか、
やたら(今まで忘れていた)昔のことが思い出されてくるから不思議である。
(夢などにも、ずっと忘れていた人物や風景が出てきたりする)
先日も、私たちのコンサートに来てくださった3人の研究仲間たちとの話のなかで
「私がなぜピアノを習い始めたか」という話になったので、この際(何回になるかは
わからないが)、私の奇妙な音楽人生(?)について語っておくことにしよう。
音楽の中でも、とくにクラシック音楽の場合、人生初期の環境がかなり決定的である。
クラシック音楽を聴いて楽しむだけならいつでも出会いのチャンスはあるが、楽器の演奏
などでプロになったり、たとえアマチュアでもある程度以上のレベルに達するためには、
早期から音楽や楽器に触れていないとかなり難しい。
(管楽器や打楽器、声楽の場合は、高校生・大学生になってから始めた人でも十分
うまくなりえるが、ピアノや弦楽器では、小学校を卒業するぐらいまでにある程度
基礎的なテクニックを習得しておかないと、そのレベルに達するのはまず無理である)
あるいは、小さい頃から常に家でクラシック音楽が流れているような環境(たとえば
お父さんがクラシックマニアでしょっちゅうレコードを聴いていたり、お母さんが家で
ピアノを教えていたり)に育った子どもは、たとえその時は特に音楽に興味がなかっ
たり、楽器を習ったりしていなくても、将来そうなったときにかなり有利であることは
間違いない。
で、私はどうだったか?
私は一人っ子で、祖父母(母親の両親)と父母との5人家族で育ったのだが、
家の中に、とくにクラシック音楽に詳しかったり、楽器を演奏できた人がいた
わけではない。
ただ、(自分では記憶がないが)赤ん坊のころに、蓄音機でクラシック音楽のSP
レコードをかけると、機嫌良くすやすやと眠った、ということを後で親に聞かされた
ので、クラシック音楽のレコードが家に何枚かはある、という程度の環境(これだけ
でも全然ないのとは大違いだろう)ではあったようだ。
もっとも、「クラシック」とは関係ないものの、わが家は「音楽」にはあふれていた。
祖父は三味線と長唄をやっていたし、祖母と母は謡曲と仕舞の師匠だったので、
家には毎日のようにお弟子さん達が稽古に来ていたからである。
まあ、そんな家に育ったのだが、両親は私が「音楽が好きそうだ」ということは
なんとなく感じていたものの、男の子でもあるし、ごく普通のサラリーマンの家庭
で金持ちでもないので、ピアノやヴァイオリンを習わせたい、などとはまったく
考えなかったようだ。
そんな私が、5歳でオルガン、6歳でピアノを習うようになったのは、
幼稚園のO先生の助言があったからである。
くわしく話をすると長くなるので、大筋だけを言うと、
私は幼稚園で、まったくの不適応児だった。
もともと一人っ子で、かなり過保護に育てられた(とりわけ祖父母に)ので、
幼稚園入園まであまり同年代の子どもたちと遊んだことがなく、そもそも
社会性に欠けているというか、集団行動がまったくできなかったのである。
(今でも集団行動は大の苦手である・・・)
しかも、(別に自慢するわけではないが)知的な部分の発達だけは異常に早い
子どもだったので、小学校にあがる前に九九もできたし、漢字もかなり書けた
のに対し、運動は全然ダメ(後の経験からすると運動神経自体は中の下ぐらい
でそうひどくはないのだが、小さい頃に外で遊んでいないので、まったく何も
できなかった)、手先は思いっきり不器用(これは今でもそう・・・)、感情のコント
ロールが効かず「情緒不安定」。。。というわけで、とにかく知的な部分とそれ
以外の部分の発達がどうしようもなくアンバランスな子どもだったのである。
こういう子どもが、いきなり幼稚園で同年代の子どもたちの集団のなかに
入れられたのであるから、どうなるかは容易に想像できるだろう。
とにかく、毎日、
何だかんだとわめいているか(昔から声は人一倍デカイ!)、泣いているか、
ほかの子どもを泣かせているか、授業を妨害しているか、のどれかである!!
(にもかかわらず、朝「幼稚園に行きたくない」と言ったことは一度もなかった、
と両親が言っていた。根は繊細なのだが、どこかに思いっきり図太いところが
あるのだろう・・・)
そんな私に、幼稚園の先生も
「こんな子どもは見たことがない。。。」と
扱いに困り果てていたようだ。
実は、私は最初に通ったこの幼稚園をやめ、他の幼稚園に転園になっている。
詳しいことは自分ではよく知らないのだが、どうも幼稚園の先生が完全に
「お手上げ」になり、「これ以上は面倒を見切れない(→他の子どもにも迷惑が
かかる)」と両親に退園をすすめたようだ。
つまりこの問題児は幼稚園を「退園」させられたわけである。
その「退園勧告?」の面談の中で、担任だったO先生が
ちらっと口にした一言が、その後の私の人生を変えることになる。
「この子、なんだか音楽の才能があるようなんです。あんなに何をやらせても
不器用なのに、木琴だけは一回聴いただけで完璧にできるんです。こんな子は
今まで見たことがありません。木琴を叩いている時は、楽しそうにおだやかな
表情をしてますし、男の子ですけど、どこか音楽教室のようなところに通わせて
みてはいかがでしょうか? そうしたらちょっとはこの子の情緒も安定するかも
しれません」と。
両親からすれば、「ちょっとでもこの子がまともになってくれるなら・・・」と
藁にもすがる思いだったのだろうが、そんなわけで私は「情緒安定効果」を
期待されて、近くにあったヤマハの音楽教室でオルガンを習い始めること
になったのである。
続きはまた。
スプリングコンサート
昨日は、International Women's Group主催のスプリングコンサートの本番!
会場は、Meadows Presbyterian Churchという長老派(英国のカルヴァン派をそう呼ぶ)
の教会である。
木曜日は隔週でInternatinal Women's Groupのミーティングの日なのだが、
この日は「コンサート目当て」にいつもとは比べものにならないぐらい
人が集まったようで、想像していたより聴衆が多いのにビックリ! (→緊張。。。)
最初が、Rosalika Kieslerさん(ドイツ人の夫をもったインド女性)によるサンスクリット語の詠唱。
(写真上左)
Rosalikaさんの隣に日本人らしき男性があいの手を入れているのが写っているが、
これは経済学者で、ジャズギタリストとしても活躍しているSN先生(後述)。
会場に(私のピアノを)聴きにきていたところ、聴衆から「公募」した詠唱のあいの手(リズム楽器)
の演奏を引き受けてくださり、こうやって舞台にも立つことに。
次に、ナンシーさんのフルートとユミコさんのピアノで2曲(写真左右)。
川崎優(有名な作曲家で後述K氏のお父様)の、祈りの曲第5番「朝の祈り」
およびプーランクのフルートソナタ(私の大好きな曲の一つ)の第1楽章。
続いて、モンティチェロ・クィンテット(メンバーは、クリスマスコンサートの記事 参照)
によるビゼーの「カルメン」組曲からの抜粋(写真下左)。
そして、最後が私たちによるモーツァルトのピアノと管楽のための五重奏曲(全曲)
である(写真下右)。
コンサートにはつきものの(?)演奏中のちょっとしたアクシデントはあったものの、
演奏はとても評判がよかったので、嬉しいの一言。
下左の写真でビデオカメラを構えている男性が写っているが、この人、
このブログたびたびご登場いただいている(またもや記録更新)K氏である。
そのK氏が撮った私たちの演奏の一部(ピアノ五重奏曲の第3楽章の冒頭2分弱)
がYouTubeにアップされているので、よろしければお聴きください。
http://www.youtube.com/watch?v=CQdt760UvJ4
たまたま、この日は、
BE研(バイオテクノロジー研究会)という私も参加している研究会のメンバー3人が
アメリカに調査旅行に来ており、私のボスであるチルドレス先生がホストを引き受けて
くださった関係で、シャーロッツビルに滞在中であったため、そろって演奏会を聴きに
きてくださった。
左から、経済学者のSNさん(サンスクリット詠唱の助っ人をしていただいた方)。
同じく経済学者のSさん(前にブログに書いた、私と同じ誕生日 で、干支も血液型も
一緒という「S先生」とは彼のことである)。
一番右が脳科学者で医療社会学の分野でも活躍しているMさん。
別にこのコンサートの日に合わせて、こうした私の研究仲間がアメリカ出張の日を
決めたわけではないので、こういうのもまたまた確率の低い遭遇としか
言いようがない。
(3.2.後記)
FK大学のSN先生のブログにも、私たちのコンサートのことが書かれています。
http://blogs.dion.ne.jp/dakine/archives/5184350.html#more
【問題】
この上の方の写真で、ピアノを弾く私が(他の写真と違って)上着を着ている
のはなぜでしょう?
(さらに後記)
教会で弾いたピアノはPetroffという見たことも聞いたこともないメーカーのもの
だったのですが、なかなか良い音のするピアノでした。
ペトロフという名前から最初ロシア製かと思っていたのですが、長年、日本の
わが家のピアノを調律していただいている調律師のOさんからのメールで、
「チェコ製」だということがわかりました。日本にも輸入されており、質のわりに
値段が安いので徐々に人気が出つつあるようです。
http://www.pianoplaza.tv/column3/petrof.htm
遭遇
アメリカの長いなが~~~~い貨物列車のことについては、前に書いた。
今日は、こちらに来て初めて、一番運の悪い遭遇の仕方をしてしまった。
車で踏切の近くまで来たときに、ちょうど踏切の遮断機がおりたのである!
今まで何回か踏切で貨物列車の通過を見たが(旅客列車はただの一度もない!)、
いずれもすでに遮断機がおり、貨物列車が通過している最中であったので、
列車が先頭から最後尾まで通過するのを延々と待ち続けたのは、
今回が初めてである!
ちゃんと時間をはかった。
なんと、その間、9分弱!!
日本のみなさん、信じられますか? この長さ!
コンテナが何両連結されていたかは、途中で写真をとったりしたために
数え損なったが、前にシャーロッツビル駅でワシントンDC行きの列車を
待っていたときに別のプラットホームを通過した貨物列車の両数を数えた
時には、89両だった。
たぶん今回も100両近く(!)あったのではないかと思う。
まあ、これだけ長い貨物列車がトロトロと走る(当たり前か。速く走ったり
したらたちまち脱線するわな・・・)のだから、遭遇した場合、こうして
「長い間楽しめる?」というとはたしかだ。
前に一度、こんな体験をした。
私の家からヴァージニア大学のメインキャンパスの方を回ってオフィスの
ある実践倫理研究所(メインキャンパスからは車で5分以上かかる)に
行こうとする場合、途中で2度アムトラック(鉄道)の高架下をくぐること
になるのだが、高架下をくぐるこの二つの地点の間は、(距離はわから
ないが)車で約5分ぐらいかかる。
・その日、最初の高架下(「コーナー」と呼ばれるところ)をくぐった時に
まず、貨物列車と遭遇(1回目)。
・それから4~5分走り、もう一つの高架下の少し手前にある
Food of All Nationsという輸入食品スーパーの駐車場に車を駐めた際、
その駐車場の裏側を走っている貨物列車と遭遇(2回目)。
・スーパーで簡単な買い物(2~3品)を済ませ、車に戻った際に、
またもや貨物列車と遭遇(3回目)。
・再び車に乗って研究所へ向けて走り出し、二つ目の高架下をくぐった際にも、
しっかり貨物列車と遭遇(4回目)
貨物列車の長さがしっかり頭に入っていれば容易にご想像できるように、
これ、ぜ~んぶおんなじ列車!! なんですね。。。
いやー、こういうのがまさに「つくづくアメリカ・・・」ですわ(^^;)。
話変わって、今日はもう一つ珍しいことに遭遇。
これも前に書いたように、私は時々ヴァージニア大学の音楽学部にある
音楽練習室(モジュール)のピアノを弾きに行っている。
三日後にコンサート本番と言うこともあり、今日の夕方も練習室を借りに行った。
全部で11の練習室があるのだが、今まで使ったことがあるのは4つ。
(ちなみにこの中では2番の練習室のピアノというのがとてつもなくヒドイので、
受付で2番のキーを渡されたら、「他の部屋に変えてくれ」というのが正解)
今日はこれまでに入ったことのない番号の練習室だった。
そこにあったのは、ヤマハのピアノ!
これまでに入ったことのある4つの練習室はいずれも「カワイのピアノ」
だったので、これは初体験である。
(アメリカでどの程度日本のピアノメーカーのシェアがあるのかは寡聞にして
知らない。ただ、日本に比べると「ヤマハ」よりも「カワイ」のピアノが多いこと
はたしかである。←慶長さんのブログ にこれに関して記事が載っている)
で、久しぶりに弾くヤマハのピアノはどうだったかって?
ピアノ自体の音はマアマアでしたが、
ダンパー(ペダル)を踏むたびにギコギコとすごい音がして
(たぶん油をさしていないからだろう)、とてもじゃないが音楽に集中でき
ませんでした。。。
音楽学部の学生たちがよくこんなピアノを我慢して弾いているものだ。。。
音楽練習用の部屋なのだから、ピアノの最低限の手入れぐらいしてくれよな・・・
という感じだが、
まあ、「これもアメリカ・・・」 なんでしょうね(笑)。
ラストリハーサル
前に、クリスマスコンサートの記事 の中で、シャーロッツビルにおける私の音楽仲間たちを
紹介したが、来週の木曜日(3月1日)に再び一緒にコンサートで演奏することになった。
今回は、International Women's Group(外国からアメリカにやってきた女性を支援する会)が主催する
スプリングコンサートで、同じモーツァルトの「ピアノと管楽のための五重奏曲」の全曲(1~3楽章)を
演奏する。
今日がそのための最後の練習日。
練習は、通常月に2回、ホルンのクララさん(上左の写真で背中向け、上右の写真で右端の人)
のお宅で行っている。
もともとは、フルート・オーボエ・クラリネット・ファゴット・ホルンの5人(上左の写真)による
管楽五重奏のグループ(シャーロッツビル郊外にあるトマス・ジェファーソンの晩年の家と
農場の名をとって「モンティチェロ・クインテット」という)なのであるが、
そこに私がピアニストとして誘っていただいたわけである。
クラシック音楽のレパートリーとして、左のメンバーでの管楽五重奏というのは、わりあい
たくさんの曲があるのだが、これにピアノが加わって、「ピアノと管楽のための六重奏」
となると、ほとんど曲がなくなる。。。
(そこそこ有名な作曲家としてはかろうじてプーランクの曲があるのだが、この曲は技術的に
相当難しいし、あとは聴衆にはなじみのない現代曲のようなものしかない)
ピアノと管楽による室内楽となると、上左のメンバーからフルートを抜いて、
ピアノ・オーボエ・クラリネット・ファゴット・ホルンという五重奏(写真上右のメンバー)
の方が曲が多い。
上記のモーツァルトの名曲もそうだし、この曲に影響されたのか、
ベートーヴェンにも同じ編成で調性や構造までそっくりな五重奏曲がある。
そういうわけで、私がこの仲間に混ぜてもらおうとすると、どうしてもフルートのナンシー
さんの出番がそのぶん少なくなってしまうのがちょっと気の毒なのであるが、どうせ私が
日本に帰国するまでのことでもあり、まあナンシーさんには少しのあいだ我慢いただく
しかないかと思う。
それにしても、たった一年間のアメリカ滞在のなかでこのような音楽仲間に恵まれ、
しかも演奏会にまで出演できるチャンスがあろうなどとは、渡米の計画を立てた際
には夢にも思っていなかったことであり、私にとっては
まさに奇跡だとしか言いようがない。
倫理学情報共有プロジェクト
おととい、チルドレス先生に誘われ、
EthicsShare というプロジェクトの会議に参加してきた。
EthicsShare とはそのまま訳すと「倫理学共有」となるのでわけがわからないが、
内容としては、「倫理学におけるさまざまな(学術的に意味のある)情報を共有する」
という感じである。
つまり、生命倫理や医療倫理を中心に、環境倫理・工学倫理・ビジネス倫理など
いわゆる「応用倫理」と呼ばれる倫理学の領域における研究や教育のために、
そこでみなが共通に利用でき、それをもとに議論をより発展させることのできる
さまざまな情報を、インターネットを通じて共有しようという計画である。
このプロジェクトは、ミネソタ大学、ジョージタウン大学、インディアナ大学、および
ヴァージニア大学の4つの大学にあるバイオエシックスないし実践(応用)倫理
研究所のメンバーとそれぞれの図書館のライブラリアンの協同によって昨年はじ
まったもので、将来的にはもっと国際的なプロジェクトへと展開していく可能性が
高い、ということもあって、直接このプロジェクトのメンバーではない私も会議に
誘っていただいたようだ。
以下、あまり専門的な内容には深く立ち入らずに話をするが、
この種の情報の共有は、とりわけ応用倫理の教育や研究にとって大いに意義がある。
もちろん、現在の段階でもインターネットを通じて、さまざまな学術情報を検索すること
ができるし、学術論文などのデータベースはいろんな形で整えられている。
しかし、応用倫理という領域にかぎって見た場合、
一番大きな問題は、
共有すべき学術情報の種類というのがあまりにも多様
であるということだ。
たとえば、いわゆる自然科学系の学問であれば、共有すべき学術情報というのは
ほぼ「学会誌をはじめとするそれぞれの学問分野の専門誌」に掲載された論文、
に尽きるので、そのデータベースを構築するだけでほぼ事が足りる。
(既にそうしたデータベースはほぼ完備されていると言ってよい)
ところが、応用倫理の場合、専門誌の学術論文以外にも研究・教育に欠くことの
できない多くの学術情報が存在する。
たとえば、
・単行本やそれらの本の各章
(この分野では、各章が別々の著者による論文で構成されている共著がきわめて多く、
それぞれの章の論文は、学会誌の論文よりも長めで、それだけ十分に論旨が展開
できるため、学会誌の論文よりも学術的により重要なものが少なくない)
・一般雑誌や新聞に掲載された研究者の論説、対談録など
・国連・ユネスコ・WHOなどの国際機関の宣言文、報告書など
・各国の政府等による公的な審議会・委員会の報告書や議事録、省庁指針など
・それぞれの問題をめぐる各国の法規制の比較などの資料
・各種裁判の記録、判決文や、症例記録など
・各種世論調査や公開シンポジウムなどの記録
・この種の問題を扱ったTVドキュメンタリーやその中におけるインタビューなどの
映像記録
まだまだあるだろうが、こういった類のものが、応用倫理においてはたいへん重要なのである。
さらに、
自然科学の場合は、いわゆる「専門家」と「素人」の間の距離が歴然としており、
素人の議論のもつ学術的な意味などというものはほとんどないに等しい。
これに対して、応用倫理の領域では、ある意味「誰もが評論家になれる」というような所があり、
専門家と素人の距離が小さい、というか
専門家の議論と素人の議論が
(レベルの違いはあれ)連続的につながっている
という面がある。
たとえば、「積極的安楽死(患者を苦痛から解放させるため、医師が致死薬を注射したりして
患者を死なせること)」の是非について論じる、といった場合、少なくとも終末期医療の現状に
関する一定の基礎知識さえあれば、素人でもかなり深いレベルの議論が可能である。
このように考えると、現在のインターネットにおける情報共有のシステムには、
応用倫理の議論に必要とされる情報共有という観点からは、いくつかの根本的欠陥が
あると言える。
たとえば、学術論文のデータベースでは単行本の一つの章になっているような論文
は検索に引っかからない。
amazonのような単行本の検索、購入ができるサイトでは、読者による評価やコメントを
参照できるのに対し、学術論文の場合は引用数(自然科学の場合に比べると、あまり
意味がない)ぐらいしか評価基準が提供されない。
YouTubeなど完全にユーザーの自主的提供によって運営されているサイトには豊富な
映像情報があるが、著作権問題なども含め、情報の確保が非常に不安定である。
などというように、違ったタイプの情報に対してはそれぞれの情報のありかも、それぞれ
へのアクセス権やアクセス仕方、編集可能性などがバラバラなのである。
この「倫理学情報共有プロジェクト」の主たる狙いは、そういう既存のデータベースや
情報共有のあり方の難点を克服し、研究や教育にもっと活用できるような、より包括的
な情報共有のシステムを構築しよう、ということにある。
(現在でも、大学などの研究室のHPや個人運営のUPにおいて、小規模な形では
こうした方向を意識した情報提供を試みているところがある)
著作権の問題はもちろん、(症例研究などだと)プライバシー権の問題もあるし、
情報の網を広げれば広げるほど、「信頼できる情報」と「そうでない情報」の区分け
が難しくなる、
などいくつもの困難が予想されるわけだが、はたして今後どのような展開になるか
が興味深いプロジェクトではある。
私自身としては、このプロジェクトが将来もっと国際的なものに発展した場合、
生命倫理等の研究や議論における日本と国外の壁を、
従来「そうあるべき」とされてきたのとは違う形で低くする
ことにずいぶん役立つのではないか、という印象を抱いたが、この話をし出すと、
思いっきり長くなりそうなので、いずれまた改めて書いてみたい。
アメリカのホテル選び
アメリカに来てから何度かホテルに宿泊した。
私の場合、昨年こちらに来るまではアメリカの地に足を踏み入れたことが一度もない。
したがって、アメリカのホテルに泊まるという経験もその数回に限られるため、経験した事例には
偏りがあるかもしれず、以下の話については、それをあまり一般化せずにお読みいただきたい。
アメリカのホテルで、日本と違うところは、
・基本的に(日本のビジネスホテルのような)シングルの部屋というのはないということ。
1人で泊まる場合でも、部屋はキングサイズベッド一つ(日本ではダブルの部屋に相当)か
クィーンサイズベッド二つ(日本ではツインの部屋に相当)かのどちらかである。
(スイートの場合は、もちろんベッド以外の応接部分が別個に広くついている)
料金は1部屋あたりの料金なので、1人で泊まるよりは2人で泊まる方が得である。
(普通、3人までは泊まれる)
ということぐらいである。
細かい点では、
・チェックインの時間よりかなり前に着いても、たいていの場合は部屋に入れてくれる、
という非常に有難いところと、
・歯ブラシや歯磨きは部屋にはまずついていない、という不便なところがある。
さて、
私たちがアメリカで最初にホテルに宿泊したのは、
オレゴン州ポートランド、この時は学会と観光を兼ねて十分に余裕のある旅程にしたので、
同じホテルに4泊した。
4泊もするのでできるだけ経費を節約しようと、1泊90ドル(2人)のビジネス客向け
チェーンホテル「D」に泊まることにした。
フロントでチェックインしてカードキーをもらい、部屋に。
・・・
「あれっ・・・?」
キーを差し込んでも、ドアは開かない。何度やっても同じ。
ポートランドまで計7時間も飛行機に乗ってきて、晩メシも食べていないので
これだけで「もー~~~」というところ。
フロントに引き返し、「このキーではドアが開かないぞ」 と文句を言う。
フロントのおっさんは、「Just a minite」と係員に電話。
でも、係員がやってきたのは5分後(その間、イライラ・・・)。
係員とともにもう一度部屋の前に行き、
鍵が開かないのは、私たちが差し込み方を間違っているせいではなく、
カードキー自体が合っていないからだということを確認して、再びフロントに。
結局、フロントのおじさんが、カードキーを登録する際、部屋番号を間違って入力していた
せいだとわかる。
チェックインの際にも時間がかかり、どうもこのオッサンは仕事がトロそうなので、
「用心のため」に、彼が再度部屋番号を入力しているのをカウンター越しにのぞき込んで
監視していたところ、
またもや違った番号を入力しているではないか!!
「It's wrong! The correct room number is ○○○!」
と思わず怒鳴る。(発音は悪くても、もともと声はでかい)
最後にようやく向こうも「Sorry」が出たが、ホテルの玄関を
入ってから部屋に入るまでに約20分・・・
これで話は済まない。
着いてから3日目の夜、ホテルに戻ってみるとまた部屋のドアが開かない。。。
どうせまたあのオッサンが、チェックアウトの日を間違えて
入力したに違いない、と思い、またフロントに。
この時いたのは別の(もうちょっと若い)おじさん。
「あっ、そう」てな感じでさっと別のキーを渡してくれたが、
sorryも何もなし(まあ、あんたのミスじゃないけど・・・)。
部屋のおそうじもしかり。
外出後、部屋に帰ってくると、
3日目にはバスマットがない。。。
4日目には石鹸がない。。。
(部屋をそうじに来た際、バスルームにあった古いものを持ち去っただけで、
新しいのを置き忘れて帰ってしまったのだろう)
石鹸は到着以来常に(同じものが)2つ置いてあったのだが、2つともないのだ。
またフロントに行き、(今度は若い女性に)苦情。
すぐにカウンターの下から石鹸を出してくれたが、
なんと洗顔用のものとバスルーム用(ちょっと大きめ)の
ものとが一つずつ。
今までの客室係は、バスルーム用のを置かず、ずっと
洗顔用だけを二つ置いていたのだということがこれで判明。
まあ、万事がこんな調子。
この程度のクラスのホテルならこんなものなのか、このホテル(あるいは
このホテルチェーン)が特にいいかげんなのかはよくわからなかったが、
日本ではちょっとあり得ないいいかげんさである。。。
というわけで、これで懲りたため、それ以降は
もう少しグレードの高いホテルを選ぶようにしており、今のところ大体成功している。
できるだけ安く、満足できるホテルに泊まるためには、
事前の情報収集が一番大切だということは、どこでも同じ。
・週末は平日より相当安く泊まれることが多いので狙い目。
一流ホテルの場合、ふだんの日の3分の1ぐらいの値段で泊まれることがある。
・インターネットのホテル予約サイトがいくつかあるが、相互比較が大切。
特定のサイトでだけ格安に泊まれるホテルというのがある。
・日本のインターネット予約サイトと同じく、「利用客の声」や「評点」は非常に
参考になる。
ホテルなんて、「安ければよい」「ただ寝るだけ」という人も中にはいるようだが、
良いホテルは旅行や出張の思い出になるだけでなく、特にある程度歳をとってくると、
快適なホテルに泊まるのとそうでないのとでは、肉体的にも精神的にも疲れ方
がまるで違ってくる。
各自の財布の許す範囲で、できるだけ慎重に選ぶに越したことはない。
ちなみに、
今までアメリカで泊まったホテルで一番良かったのは、
ワシントンDCにある Henley Park Hotel (部屋は下の写真)。
ここは、平日だと1泊200~350ドルするが、週末は100ドルちょっとで泊まれる
ことが多い。
豪華ではないが、英国調の落ち着いてこじんまりしたホテルで、
朝食もおいしいのでオススメである。
『生命倫理百科事典』日本語版刊行
今日はめずらしく仕事の話でもしよう。
先月(2007年1月)末に丸善から翻訳・刊行された
『生命倫理百科事典』日本語版・全5巻(写真下左)のことである。
原書は、Encyclopedia of Bioethics 3rd Edition (写真上右、同じく全5巻)である。
アメリカで、「バイオエシックス(生命倫理)」なる学問が形成されたのが、
大体1960年代~70年代のこと。
一つの学問領域としてのバイオエシックスの確立を記念する出来事の一つが、
原書の初版(1978年)の刊行であった、と言ってよい。
なにせ、この領域の難しいところは、人間の生や死、医療などをめぐるそうした倫理的問題を次々と
呼び起こす新しい生命科学や医療技術の進展がたいへん急速なことである。そのため、つい数年前
に口角泡を飛ばして議論されていた問題の様相そのものが、新しい技術の進展によって、根本的に
様変わりすることも珍しいことではない(もっとも、マスコミや一部の学者がその時々の「流行のテーマ」
に踊らされているわりには、そこで何が問題になっているかという原理的な事柄については、あまり
大きな変化はないのではあるが・・・)。
そういうわけで、原書も
・1995年(初版刊行から17年後)に第2版が刊行され、
・2003年(第2版刊行から8年後)に第3版が刊行され、
・おそらく来年か再来年(第3版刊行から5~6年後)に第4版が刊行されるのではないか、
と言われているように、版を重ねるごとに内容そのものが大きく変更・改訂されており、
しかもそのスピードが毎回(ほぼ倍近いペースで)速くなっている!
これは、すごいことである!!!
なにせ、全体の量が量である。。。。。
上の写真だけではおわかりにならないかもしれないが、
1巻1巻の大きさとしては、ほぼ普通の「百科事典」を思い浮かべていただければよい
のではないかと思う。
それが、
・全5巻で、約3000頁。
・各項目の執筆者(著者)数は、約460人。
という量である!!
ちなみに、1頁あたりの文字量も、左の
写真を見ていただければおわかりの
ように、普通の本に比べると倍以上。
つまり、実際の分量からすると7000頁、
いわば200頁ぐらいの本が「35冊分」
ある、と思っていただければいいだろう。
これを日本語に翻訳する、というのが一体どのくらいの大事業である
かは、ちょっとでも翻訳というものに携わった経験をお持ちの方なら容易に想像
できるだろうと思う。
今回の日本語版刊行のための翻訳の仕事に携わった人は、
編集委員(各分野ごとの監訳者、責任者)が 41人!
(私もその一人である)
翻訳者が全部で 約290人! である。
百科事典の概要は、
http://pub.maruzen.co.jp/book_magazine/seimeirinri_hyakka/
翻訳に携わったメンバーは、
http://pub.maruzen.co.jp/book_magazine/seimeirinri_hyakka/kumi.html
大体、一人一人の編集委員が、ほぼ薄めの本を1冊分、担当していることになる。
(ちなみに、私が担当したのは、「宗教と生命倫理」に関する項目のうち、キリスト教
と東洋宗教(仏教・ヒンドゥー教・儒教など)を除く他の宗教(ユダヤ教・イスラーム・
モルモン教・エホバの証人など)および、宗教一般に関する部分その他である)
こんな厖大な事業が、ほぼ2年弱の作業で、
よく刊行にまでこぎつけられたものだとつくづく思う。
以下、やや手前味噌になってしまうが、
私にとっては、この大事典の日本語訳の刊行を「アメリカの地で」
迎えられた、ということには格別の思いがある。
実は、昨年末(アメリカではとっくにクリスマス休暇に入っている頃)に
日本から頼まれた「急ぎの仕事」の一つが、この大事典の最終チェック作業に
関係するものだった。
それは、原書の各項目の著者名、および各項目の記述の中に出てくる何千もの
人名の「読み」を確定するという作業である。
日本でもよく知られているような有名な学者や、アメリカ人によくある姓名であれば、
それを発音し、カタカナに直すのはそう難しいことではないが、なにせアメリカは
移民大国であるから、学者にもいろいろな国や民族の出身の人がいるわけで、
その中には名前の綴りを見ただけではどのように発音するのか、あるいはそれを
カタカナに直す場合に一番近い表記は何なのか、についてまるで見当がつかなか
ったり、確信がもてなかったりする名前というのがごろごろあるのだ。。。
そこで、アメリカにいる私に
年末に日本の大司令部から以下のような密命が下された。
「日本側の研究者たちの知恵を集めてもどうしてもわからない人名の読み方
について、アメリカの研究者に尋ね、可能な限りカタカナ表記を確定せよ」
という指令である。
簡単なことのように思う人がいるかもしれないが、実はこれ、「だれに尋ねるか」を
よほど厳選しないと、まず無理な相談である。
(学問や文化の「輸入」にかけては超一流である日本の学者達にも読み方が
わからないような人名というのは、普通のアメリカ人の学者にはまずわからない、
と考えてよい)
幸い、私のいるヴァージニア大学には、すばらしい研究者が揃っている。
・私のいる実践倫理研究所の所長のジェイムズ・チルドレス先生は、
いわば「バイオエシックスの大御所」の一人であり、この大事典の
原著者の多くとも面識がある。
・宗教学科長のポール・グローナー先生は、専門が中国および日本の
中世仏教ということもあり、東洋宗教関係が専門の研究者や出身が
アジア系の研究者をたくさんご存じである。
・同じく宗教学科におられるアブドゥルアジズ・サチェディーナ先生は、
イスラーム生命倫理が専門で、インド系タンザニア人という出自から
アラブ系その他、日本にはあまりなじみのない人名についてご存じ
である。
というわけで、この3人の先生を通じて、ほとんどの人名の読みを
確定することができた、というわけだ。
(とりわけ、年末の休暇中に、わざわざ時間をとって人名のチェックに
付き合っていただいたチルドレス先生とその奥さんのマーシャさんには
いくら感謝しても足らないぐらいである)
上に挙げた方々の中で、チルドレス先生、サチェディーナ先生は
原書の項目における著者の一人でもある。
このお二人を含め、私はこれまでアメリカで、この大事典の何人かの
原著者にお会いする機会があったが、
私が「Encyclopedia of Bioethicsの日本語訳がもうすぐ出版される」
ということをお伝えすると、
みなが一様に、
「えっ! ほんとうにあの事典を全部翻訳したのか・・・・!!」
と驚嘆し、
何回も「おめでとう!!」と祝福してくださった。
こんな時にたまたまアメリカにいたのは、運が良かったという他ない。
(付記)
ちなみに、この大事典、英語の原書は日本円で9万円ぐらいで買えるが、
日本語版はなんと 21万円 である!!
(どうしても翻訳書というのは、版権の問題で原書より高くなるのは仕方ないが
ここまで高いのは・・・・と思われる方もいるかもしれない。
ただ、実際に原書を長年使っている研究者の一人として言わせていただくと、
原書の装丁と紙質は、それはそれはヒドイものである。そのため、頁の中に
線を引いたり、書き込みをしたのを消したり、また書き込んだりすると文字の
一部が薄くなったりするし、コピーなどを数回とると背表紙がはがれて各頁が
バラバラになったりして大変である。。。よく使っている人の原書はおそらく
「満身創痍」状態なのではないかと思う。この点、日本語版の方は、装丁も
紙質も数段上であり、安心して使える。こういうところも、値段に反映されて
いるので、安ければよい、というものではないのです)
最後に、この大事典の翻訳刊行は、日本生命倫理学会の事業であるため、
印税はすべて学会に寄附、編集委員も翻訳者も全員タダ働き(印税、原稿料
など一切ゼロ)です。
ハンドルネイムは「uva」?
先日、キンツマさんにお会いした際、
彼女が私のことを 「うばさん」 と呼ぶのが可笑しかった。
このブログにコメント下さる方々の中にも(私と直接面識のない方は)
「uvaさん」と書いておられる方がいらっしゃるので、彼らはこれを
どのように発音しているのだろうか・・・と(笑)。
もちろん、uvaはヴァージニア大学の略称(ヴァージニア州の略称がVAなので、
University of VirginiaでUVA)だが、最初、このブログを作った際、ヴァージニア
大学に一年間いる間の日記だから、とameblo.jpの後を単純に「uva2006-7」に
してしまったのであるが、実はこの部分が自分のハンドルネイムのようなものと
して使われる、ということをまったく意識していなかったのである・・・・。
この「uva」という語、渡米前に何度かチルドレス先生その他の方々のメール
の中で目にしたのであるが、私も最初、どういう風に発音するのかわからなか
った。
なので、こちらに来てはじめてチルドレス先生にお会いした時に、
「この、ヴァージニア大学の略称は、どのように発音するのでしょうか?
"ユーヴァ"でしょうか? それとも "ウーヴァ"でしょうか?」
と尋ねてみた。
答えは、「ユー・ヴィー・エイ」!
何のことはない。ただアルファベットをそのまま読めばよいのだ。
(そういえば、UCLAだって「ユー・スィー・エル・エイ」だしな)
しかし、これをハンドルネイムとして読んだ場合、
「ユーヴィーエイさん」(!)というのはいかにも変なので、
まあ、 「ウヴァ(ウバ)さん」か「ユヴァ(ユバ)さん」,
ということになるでしょうね。
でも、
(1) ウヴァ(うば)さん の場合
1-1、 乳母さん ← わたしゃ男でっせ!
か
1-2、 ウバ(ウヴァ)さん (有名な高級紅茶の葉っぱの名前)
か、に聞こえるだろうし、
(2) ユヴァ(ゆば)さん だと、
2-1、 湯葉さん という京情緒あふれるおいしそうでまったりした
ハンドルネイムになるか、
2-2、 弓場さん という本名っぽい名前になるか
(私の日本での家のそばに「弓場医院」という
のが実際にある)
のどちらかであろう。
どちらにしても、実際にそう呼ばれてみると、な~んか妙な感じ・・・である(笑)。
(ネット上でやりとりしている場合は、「uvaさん」でまったく何の問題もないのであるが・・・)
今さらURLを変えるわけにはいかないし・・・