ヴァージニア日記 ~初体験オジサンの日常~ -8ページ目

倫理学の本はよく紛失する?

ある本が必要になり、事前に図書館のウエブサイトで所蔵を確認し

貸出中でもないことを確認してから、万全を期して本を借りに行った

にもかかわらず、当の本は紛失していて借りられなかった、

というような経験をお持ちの方はいらっしゃいませんか?


実は、私はこちらに来てから2回もそういう経験をしました。

いずれも、生命倫理学の本です。


そんな私の目をくぎ付けにしたのが下のブログ記事(英語)。

http://schwitzsplinters.blogspot.com/2007/01/still-more-data-on-theft-of-ethics.html


Eric Schwitzgebel(エリック・シュヴィッツゲーベル、ドイツ系の人かな)という

カリフォルニア大学の哲学の先生のブログなのだが、

大学図書館の本で、倫理学の本は、他の哲学関係の本より

紛失率が有意に高い、というのだ。


このシュヴィッツゲーベル氏もヒマというか物好きというか(似たような嗜好をもつ

哲学のセンセイは日本にもいっぱいいるが)、統計を使ってこの原因をつきとめ

ようとなさった模様。


簡単にまとめると、彼は「倫理学者や倫理学専攻の(?)学生が多く図書館の

本をネコババしている」という(彼の想定した?)仮説を論証するために、

他にこの現象の原因として考えられる仮説を、ことごとく反証していくのである。


彼が反証した三つの仮説は、


1)倫理学には古い本が多いので、紛失率も高い

2)倫理学の本はよく借り出されるため、紛失率が高い(ように見える)

3)法学の学生が、倫理学の本をネコババしているのだろう


詳細は省略するが、それぞれの仮説がもし正しかったとしたら、

統計の数字が大きく変わるような操作を全データに対して施して

(具体的にはある特定の本のグループのデータを除外して)、

もう一度「倫理学の本の紛失率」と「倫理学以外の哲学関係の

本の紛失率」を比べる、という方法だ。


しかし、どの結果も、紛失率の差はほとんど変わらず、

上記の1)~3)の仮説はみな反証された、というわけ。


つまり、

この現象は、倫理学の本を借りている(法学以外の)学生や倫理学者

がたくさん本をネコババしているせいだ、ということに落ち着くわけである。



それは倫理学専攻の学生や倫理学者のモラルが低いせいなのか、

あるいは彼らの記憶力が悪いせいなのか(←借りたことを忘れてしまう)、

あるいは他の原因なのか、

さらなる調査 が待たれるところだ!



(付記)

ちなみに、私が当のブログ記事を見つけたわけではなく、

bioethics blogという別のブログ(The American Journal of Bioethicsという

アメリカの生命倫理学雑誌の編集者たちで作っているブログ)に

このシュヴィッツゲーベル氏の記事のことがほとんどそのまま引用

されていたのを見たのです。

bioethics blogの方も、たまたま仕事で調べ物をしていた時に

検索で引っかかったもの。

こういうのを読んでるから仕事が進まないんだよね(笑)。


今夜はお鍋

正月明けにひいた風邪がどうも抜け切らなくて身体が重い。

仕事も一向にはかどらない・・・・・・


ま、こういう時はあったかいものでも食べて、早く寝るに限る。


そこで、日本の冬 (たとえ周りはアメリカでも家に帰れば日本です!!)

には、当然、お鍋! ですね。


たまたまMain Street Marketにある魚屋さんにアンコウが入っていた

ので、オーガニックの鶏とアンコウ、エビ、マロニー、エリンギ茸、白菜

を入れた鍋にし、ポン酢でいただく。
鶏&アンコウ鍋1  鶏&アンコウ鍋2

あ~~最高っ!!


お酒は栃木の酒、開華の純米吟醸「風の一輪」。

ちょっとイメージ的にこの季節には合わないが、味はグッド。


風の一輪

最後は、当然、雑炊でシメ!  

あ~、日本人でよかった。



ところで、

アンコウは英語では monk fish(僧魚?) と言う。

あのお顔が修行中の僧に似ているからかな?


それじゃ、今日はもう寝ます。

おやすみなさ~い。

シャーロッツビルにも初雪

今日、シャーロッツビルにもついに初雪が降りました。


ずっと暖冬で、このまま行くとどうなっちゃうのかな・・・という心配すら

したものの、ここのところ結構冷え込んでいて、ようやく冬らしくなった

感じ。


初雪
 左の写真は、わが家から見た

 今日の昼前の風景。


 この後、もっと積もるかと思ったものの、

 そのまま。

 明日は曇り時々晴れの予報なので、

 雪かきまでは必要なさそう。




 私の誕生日は40ウン年前の2月8日。
 生まれたのは大阪だが、その日は

 大雪だったそうである。
 

 (小さい頃は雪が降るとよく雪だるまを

 作ったりして遊んだ。温暖化の影響で

今や、大阪の平野部で雪が積もるなんてことはまずないだろう)


物心ついたころから両親や祖父母に、

「おまえの生まれたのは大雪の日やった」

と言われ続けて育ったせいか、

私はどちらかと言えば冬が好きである。



そう言えば、ここ数日、

外に出て知り合いのアメリカ人に会うたびに、

「寒い気候は好きか?」と聞かれる。

(私がどういう気候のところからやってきたかがわからないので、

みんな挨拶代わりにそう言うのだろう)


その度ごとに、まじめに(?)

「夏の暑いのよりはずっと好きなんだ。

特に日本のあの蒸し暑い夏よりはね」

と答えてきたが、いいかげん飽きてきた・・・・・。


(どこに行っても毎度毎度人に同じ事を聞かれるであろう有名人の

気持ちがちょっとわかった気がする)


今度同じ事を聞かれたら、ちょっとパターンを変えて

嘘をついてみるというのも、英会話の練習になっていいかも?


ピアノという生き物

喜ぶ、怒る、哀しむ、楽しむ、

ビクビクする、ためらう、とまどう、甘える、すねる・・・


これらはみな、私がピアノを弾いている時に、

ピアノから伝わってくるものである。


こういった「感情をともなったリアクション」が

人間とコミュニケーション可能な生き物の資質だとしたら、

間違いなく ピアノは生き物 なのである。


シャーロッツビルのわが家に思いがけず置かれていたピアノ、

K氏の調律のおかげでその眠りからよみがえったピアノ、

そのピアノとの間の付き合いも5ヶ月近くになろうとしている。


最初は、眠りをさまされ、いきなり外界に出されたことによる

とまどいと恐れしか伝わってこなかった。

・・・・・・・

そのうち、自分を外界に引っ張り出してくれたことへの喜び

を奏でるようになり、とまどいは残りながらも、恐れは徐々に

消えていった。それと同時に、ある種の甘えのような、何か

こちらにまとわりついてくるような情感も伝わってくるように

なった。

・・・・・・・

しかし最近では、「もうこれが限界なんだよ・・・・ゴメンね」とでも

言うかのような、哀しげな表情が浮かぶことが多くなった。。。


たぶん、それは

私がクリスマスコンサートで久しぶりにまともなグランドピアノ

を弾いたこと、それによって私のなかに「このピアノでは絶対

表現できないもの」に対するいらだちが強くなったことへの

反応のような気がする。


音楽学部の練習室のピアノもこれよりはマシとは言え、

やはりちゃんとしたグランドピアノに比べると雲泥の差がある。。。


というわけで、グランドピアノへの思いを断ちがたい私の前に、

またもや救いの手が差し伸べられた。

(このブログに何回も登場いただいている)

Kさん宅にあるスタインウェイのグランドピアノを、週に一度

(2時間)弾かせていただくことになったのである!!


Kさん宅のスタインウェイ


今のところ、このピアノを弾かせていただいたのは2回なので、

その潜在的な能力のすばらしさはわかっても、正直これがどのように

鳴るようになるのか、私との間でどのような折り合いがつくのかは、

まだつかみ切れないでいる。


たぶんこのピアノを数ヶ月弾き続けたら、

私が弾くピアノのなかの何かが変わる・・・という予感がするが、

それまでにはシャーロッツビルを去らねばならないことを思うと、ちょっと複雑だ。。。



K夫人から聞いた話では、

このピアノには、長い物語がある。


この、1920年代製のスタインウェイの前の持ち主は、とある女性ピアニストで、

その方が夫の大学教授とともに飛行機事故で亡くなられた後、家に3台あった

ピアノのうちの1台を、その教授と知り合いであったK氏が買われた、とのこと

であった。(メインの1台は、ご夫婦の娘さんが引き取られたそうだ)


人との付き合いと同じで、相手のそういう「過去を知ってしまう」と、

同じピアノがまた違った表情を見せるようになる・・・・・

というのも不思議なものだ。


このブログへたどり着くには(パート2)

検索ワード2

書くことがない時には、常に「二番煎じ」という手がある。

前にここに書いた、どういうキーワードで検索して当ブログにたどり着いたか、

ということを調べるアメーバのページ。


久しぶりに覗いてみたら、

検索ワードの様子がずいぶん変わっていた!

(たぶん一週間単位ぐらいで前のはリセットされるのだろう・・・)


今回のトップは「のだめ・中国」で3人。

おそらく例のYouTubeの海賊版(?)のだめを探そうと検索をかけたものらしい。

実は、あの「交響情人夢」、著作権問題であの後配信停止になったもよう。

結局、最終回は日本語のサイトで観られたものの、

最後から2回目(第10話)だけは観ることができなかった・・・・・・

のだめのコンクールシーンのあるところ。

(もし日本でビデオやDVDに録画している方がおられたら、

帰国後に観せてください。よろしく~!)


これに匹敵するのが、「DJOZUMA」!

「DJOZUMA 謝罪」で2人、「DZOZUMA 紅白」で1人なので、合わせたら3人、

のだめに並ぶ勢い!


うーん、、、こんなのはブログでわざわざ検索かけなくても

(時の話題である内は)そこら中に載ってるはずだけど。。。


「十六島海苔」で検索した人はえらい!

期せずしてかもじ海苔(=女房言葉)についての私の「講義」が読めたはずだ。



一番気になるのは、

「ハワイ 鬱が治る」で検索された方。。。


ブログを読んでくださっている皆様は、よほど丹念に読んでくださっている方

以外は、上記ワードで検索してなぜこのブログが引っかかるかはわからない

と思うが、作者の私にはすぐにピーンと来てしまう・・・


しかし、上記ワードで検索した方がどんなお気持ちでそうされたのかを思うと、

お笑いネタにはとてもできず・・・複雑です。。。


ヴァージニア大学の慣習

前回、「先生」なる呼称がいかに便利かという話をしたが、

この呼称、もちろん「○○先生」と名字をつけて呼ぶ場合だけでなく、

「先生」だけで十分呼びかけになるところも便利だ。


「先生、今晩空いてる~? そこらでちょっと一杯やって行かん?」

といった気安い会話でも何の違和感もなく使えるのだ。


会社などでも役職名だけで人を呼ぶことはあるが、

(「社長」は別として)自分の部下とか取引先関係の人からではなく、

まったく関係のない人に「課長」などと呼ばれたら、あまりいい感じは

しないのではないだろうか?


(「先生」という呼称は「その上に想定されているものがない」というのが

一つの大きな利点なのだ)


これに関して、一つ思い出がある。

私が小学校2~3年のころであろうか・・・・・

父といっしょに金魚屋に行ったとき、そこのおかみさんが父のことを

「社長、社長」と呼ぶので、ビックリしてしまった。


おとうちゃんは課長やったはずやのに、

いったいいつから社長になったんか・・・!!

と。


全身をクエスチョンマークにしていた私に対する父の答えは、

「あの人は誰に対しても"社長"と言うんや」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

こども心に、ますます混乱するのみであった。。。

(家に帰ってから、母にしつこく問いただし、もう少し詳しい

説明をしてもらって、やっと少し納得したことを覚えている)


今もまだ日本でこういう言い方が残っているのかどうかはよく

知らないが、むかし、(少なくとも関西では)商店などの店員が

ある程度以上の歳の男性客に対しては「社長!」と呼びかける

という習慣があったのである。



あ、そうそう。

「上がない」と言えば、前回書き忘れたことが一つあった。


Minor Hall Halsey Hall
(写真左はヴァージニア大学のMinor Hall、右は宗教学の中で、東洋宗教やイスラーム

関係の研究室が集まっているHalsey Hall)


実は、私のいるヴァージニア大学に特有の慣習 というのがあり、

学内では普通、教員スタッフのことを「教授(professor)」や「博士(doctor)」と

呼ばず、「ミスター(Mr.)」や「ミズ(Ms.)」を使うのだ。


これは、創始者であるトマス・ジェファーソンが

自らを「ミスター・ジェファーソン」と呼ばれることを好み、

ずっとその呼称で親しまれてきた、ということに由来するらしい。


「教授」や「博士」だと、「ミスター」よりも敬意が強くなってしまうため、

ヴァージニア大学では、誰もジェファーソンより「エラく」はない、

ということを示すためにそういう呼称を使わない、ということである。


まあ、ジェファーソンはこの大学の創始者であるばかりか建築設計者

でもあり、シャーロッツビルという街の象徴でもあるので、

大学にとっては、永遠の名誉学長のような存在なのだろう。


「先生」という便利な呼称

仕事柄、「先生」と呼ばれることが多い。


学生や同僚などはともかくとして、別に私の仕事と関係のない人(特に年上の人)から

「先生」などと呼ばれると、何だかこそばゆいような気持ちになることがある。

そういう場合、自分から「私はあなたの先生ではないので、「さん」づけで呼んでください」

と言うこともないわけではないが、親しくなると向こうが自然に「さん」づけに変えてくれる

こともあるので、大抵はそのままにしている。


しかし、よく考えてみると

日本は 「先生」だらけ の国である。


学校の先生のみならず、塾であれ、カルチャーセンターであれ、自動車教習所であれ、

人になにかを教えている人はみな「先生」だし、医師、弁護士、政治家、作家、宗教家

などの社会的権威をもった職業についている人々も「先生」。

さらに職人(料理人・工芸家・美容師など)の場合でも、一人前になり指導的な役割を

果たしている人々であれば「先生」と呼ばれることが多い。


一応、言葉の表面上ではこちらに「敬意」を示している語なので、「先生」と呼ばれて

いい気分になるかどうかはともかく、(多少きまりの悪い思いをする場合はあれ

少なくとも嫌悪感を感じたり、相手を悪く思ったりすることはないのではないだろうか。


そういう意味で、「先生」というのは実に便利な言葉なのだ!




かつて、日本に留学した経験のあるアメリカ人の友人が、次のように話してくれた

ことがある。

「英語にも、日本語の「先生」とか中国語の「老師」に当たるような言葉があったら

どんなにいいかなあ、と時々思うんだけどねえ・・・・。私には「教授(professor)」

や「博士(doctor)」に比べて、「センセイ」という言葉はずっと暖かくて、個人的な

親しみをこめた言葉のように感じる」

と。


この友人の言葉を私が実感したのは、アメリカに来てからである。

日本だと、「先生」と呼ばれる人が多いせいかもしれないが、相手を「先生」と呼んでも、

そう「堅苦しい」感じはしない。

また、「先生」と呼んでもおかしくない人を「先生」と呼ばずにもう少しくだけたつき合い

をしようと思ったら、「○○さん」と名字で呼べば済むことである。


友人同士だと相手を名前(ファーストネーム)で呼んだり、姓名の一部を使った愛称

(「吉村」→「ヨッシー」、「哲男」→「てっちゃん」など)で呼んだりすることも

(特に同級生とか学生時代からの友人の場合は)多いとは言え、

「○○さん」「○○くん」と名字で呼ぶ場合も少なくはない。


つまり、日本語の場合、

相手の呼び方における「フォーマル→カジュアル」の間に何通りもの段階があって、

その間に大きな断絶がないのだ。


ところが、英語の場合、これがけっこうたいへんである。

上に書いた友人の言う通り、大学の先生などに対して「professor」や「doctor」

をつけるのは一般的だが、ある程度親しくなってからもそのままでいると、

かえって「よそよそしい」感じになってしまう。


「ミスター」や「ミズ」も、日本の「さん」づけよりは、ずいぶんフォーマルな感じ

がする(少なくとも友人にはまず使わない)。


とすると、「professor」や「doctor」というのをやめて、より親しい呼称を使おう

とすると、いきなり「デイヴィッド」とか「ナンシー」とかいうファーストネームや

「ビル(←ウィリアム)」「ジム(←ジェイムズ)」などその省略形で呼ぶ、

しかなくなってしまうのだ。


つまり、英語では、相手との距離感の微妙な差のそれぞれにちょうどふさわしい

呼び方、というのがないのである。


日本人の感覚からすると(少なくとも私の感覚からすると)、自分より年上の、

それも自分の上司や社会的地位の高い人に対して、ファーストネームで呼びかける

というのには相当抵抗がある。。。


相手から失礼に思われないだろうか・・・ということが一番気になるわけだが、

そこがものすごく気になるということ自体がそもそも「日本的」なのでしょうね。


今日は奮発して

新年は好スタートを切ったものの、ここのところブログの更新がとだえていて

すみません。

日本からの仕事の締め切りがあったりして、いろいろ忙しかったのです。


今日は、わが女房の○○回目の誕生日


ということで 大奮発して 高級レストランに行ってきました!!

大晦日のブログで「自腹では行けない・・・」と書いたTという日本食レストラン。

その時は、チルドレス先生ご夫妻に招待していただいたのだが、

実は女房は持病の喘息のために咳がちょっとひどくて、行けなかったのである。


帰ってきてから私が「こんな料理を食べた」「これがおいしかった」などと

言うものだから(黙ってはおれない性格・・・)、

くやしがる女房。。。


というわけで、まあ、誕生日だし、、、ということで

エイッ と気合いを入れて(?)、行っちゃいました。



Tのsushi

料理は、大満足!!

食材も揃わず、好みも違うアメリカで食べる日本食としては、

かなりのレベルの店だと思う。


お酒も、私の大好きな山口の酒「獺祭(だっさい)」のにごり酒など

が置いてあり、たいへん楽しめた。



で、お値段は・・・・・


みんなが「高い、高い」というので

覚悟していた・・・・・・・・ほどではなく、ホッとしました(^^;)。

チキンラーメン賛歌

今、こちらは1月6日の朝。

3日から仕事を始めるつもりだったのだが、風邪を引いてしまったため

ぐずぐずと寝正月が伸び・・・結局仕事を始めたのは昨日(5日)。


そんなわけでブログの内容も、「どこがヴァージニア日記??」「どこがアメリカ??」

というものばかり続きますがご勘弁を。


元旦以来ほとんど外に出ていない、というのもあるが、

人間、身体が弱ると気が弱る・・・のがふつう・・・

      (逆に、身体の病気にかかったとたん鬱病が治る人もいるらしいが)

なので、やたら日本をなつかしんだり、言ってもどうしようもない愚痴をこぼしたり、

小さいことに大喜びしたりするようになる(笑)、

というわけです。


さて、今日の話は、

日本でもまさに時の話題になっている、かの偉大な 日清のチキンラーメン


日清チキンラーメン 言わずと知れた、世界ではじめての

 インスタントラーメンで、私が生まれる

 3年近く前に世に生み出された。


 その生みの親である日清製粉会長が

 先日亡くなられたため、さまざまな

 ブログやSSNなどでもこの話題で

 持ちきりだ。





ちなみに、この偉大なる発明家・創業者、

名字が私と同じ(but 親戚ではありません)、名前は私より百倍幸福、

というより私の百倍どころか、百万倍ぐらいの人に幸せをもたらしたお方であり、

NHKの朝ドラ「てるてる家族」で、中村梅雀が演じた「安西千吉」なる人物の

実在のモデルでもある。


で、

(新しい製品が出るととにかく試してみる)隠れインスタントラーメン通の私が、

もしこれまでに出たインスタントラーメンの番付表をつくるとしたなら、


東の(一人)横綱が、日清チキンラーメン!!


・かろうじて大関に、エースコックのワンタンメン


・他のものは関脇以下・・・


となるであろう。


なにせ、キャラクターグッズから専用鍋、おいしい食べ方のレシピ集から

博物館まであるという、これぞ「ラーメンのなかのラーメン」なのだ!



しかし、悲しいことに

アメリカに来てから、出前一丁、チャルメラ、サッポロ一番などは目にする

ものの、チキンラーメンを見たことはない。

(たぶんどこか他の都市には売っているのであろうが・・・)


こうやって書いてくると、

あの味がなつかしくてたまらない。


あ~~、食べたい。。。。。


(付記)

これからシャーロッツビルのわが家に訪ねて来られる予定の方は、

チキンラーメン2袋、おみやげに持ってきてください。よろしく~。



「かもじ海苔」の由来

元旦に山陰名物「かもじ海苔」を使ったお雑煮の写真を載せたところ、数人の方から

こんな海苔があるのを今まで知らなかった、というお言葉をいただいた。


なので、今日はグルメ教養講座ということにしましょう。

(教養はちょっとつくかもしれませんが、お腹はいっぱいになりませんので悪しからず)



かもじ海苔(十六島海苔)  左がお店に売っているかもじ海苔。

 別名(本名)「十六島(うっぷるい)海苔」

 と言い、島根県出雲市(旧平田市)近く

 の十六島周辺で採れる岩海苔である。

 (生物学的には、アサクサノリの仲間

 らしい)

 

 今ネット通販でお値段を調べてみたが、

 15gで1365円(!)と、かなりの高級

 海苔である。



 問題は、なぜこの海苔が「かもじ海苔」

 と呼ばれるようになったか、という言葉

 の由来なのであるが、

 実はこの「かもじ」とは「髪の毛」のこと

 で、こののりの形状が髪の毛に似てい

 ることからつけられた名称のようだ。





そう言っただけでピンと来る方もたぶん何人かおられることと思います。


そう!  この 「かもじ」という言葉 いわゆる「女房言葉」 なのです。


「女房言葉」とは、

室町時代ごろから宮中に仕える女房たちによって使われた独特の隠語で、

主として衣食住に直接かかわるような単語をそのまま使うのは「下品」とされた

ため、それに「お」をつけて上品にしたり(おでん、おかか、おにぎりなど)、

あるいは元の単語の一番はじめの文字を使って「○もじ」(つまり「あの、○のつく文字」と

いうように)婉曲に表現するのが特徴だ。


たとえば、「ひもじい」という語、これはもとは「ひだるい」という語だったのであるが、

「ひだるい=おなかがへった」と直接言うと「下品」なので、

「あの、「ひ」のつく言葉ね」という具合に、「ひ文字い(ひもじい)」という語でもって

表現したわけである。


髪の毛も、直接に「髪」とか言うと下品なので、

たぶん「あら、そなたも「かもじ」が伸びたわねえ」などと言ったのだろう。


現代では、

「俺、あいつに「ホの字」なんだ」(=惚れている)というような表現が

わりとこれに近いのではないかと思う。



というわけで、

大学教師の本能がうずき(?)、久しぶりに「講義」をさせていただきました(^^;)。