厳寒のワシントン1泊旅行
月曜日(12日)~火曜日(13日)にかけて、
夫婦でワシントンDCへ1泊2日の小旅行をしてきました。
行きにはデジカメを忘れたり(そのため、写真がほとんどありません・・・)、
帰りには、列車が2時間遅れた上に、雪と寒さでシャーロッツビル駅に駐めてあった
車が出せず(結局、40分以上タクシーを待つハメに)、家に着いたら深夜0時前・・・
とハプニング続きであったが、これも「いい思い出のうち」ということで。
今回の主目的は、美術館・博物館めぐり!
前回(11月)に行ったときは、私も学会があったし、美術館の規模も把握しそこねて
いたので、ナショナルギャラリーの西館の一部を見ただけで文字通りギブアップして
しまったが、今回はちゃんと計画を練ってから出かけた。
第1日目は国立アメリカ・インディアン(ネイティヴ・アメリカン)博物館へ。
お昼前、私たち夫婦揃ってのブログ友達であるキンツマさん と感動の初対面!
3人で、博物館のカフェに行き、アメリカ・インディアンの伝統料理でランチ!
1枚だけ撮った私のプレートの写真。
お肉はバッファローのステーキ。
あとは大盛りの豆とポテト、ネイティヴ・アメ
リカン風のチリビーンズ。
おすすめは(写真には写っていないが)
女房が食べた黒いお米(ワイルドライス)
のサラダかな。
キンツマさんは、愛読しているブログで想像していた通りの方で、
「はじめて会った人」という気がまったくせず、
長年の友人と久しぶりに再会した という感じ。
3人で楽しくおしゃべりしていると、2時間がアッという間でした。
午後は、アメリカ・インディアン博物館の見学。
うーん、情報量が多すぎて、展示の方向性が拡散してしまっている感じ。。。
一番大切な情報、つまり「その展示が何族についてのもので、その部族が
北アメリカのどこに住んでいる(いた)のか」ということがパッと目に飛び込んで
来ないのが難。
翌日は、午前中にナショナル・ギャラリー西館で前回(11月)見残した部分
を観賞。午後は、東館(20世紀美術・現代美術)に。
展示作品自体の充実度はもちろんどこもすばらしいのだが、
一番落ち着いて見られるのはナショナル・ギャラリーの東館。
現代美術には巨大な作品も多いので、空間に余裕をとってあるせいだろうと
思う。改めて、「美術作品を展示するとはどういうことか?」について考え
させられるところがある。
最後はグルメ編。
月曜日の夜に行った、デュポンサークルのBistrot Du Coin
は大変おすすめ。
上の写真ではわからないと思うが、店内は相当広く、天井も高いので、
フレンチビストロというよりは、浅草のビアホール(?)のような感じ。
サービスはカジュアルで値段も安いが、料理はきちんとしたフレンチ。
フォアグラの焼き具合も、オニオングラタンの甘さも、ウサギのシチューの
濃厚さも、それぞれ最高だった。
ワインも各地方ごとに安めで質の良いものを揃えてあるので、
小腹が空いたときに気軽にフラッと入って、「グラスワインと1品」、
みたいな使い方もできる店かも。
同じ誕生日の人たち
3日前にこのブログで私の誕生日のことを書いたところ、
いろんな方からコメント、メールなどを通して、
「おめでとう!」のメッセージをいただいた。
改めて、どうもありがとうございます。
さて、2、3年前のことだったと思うが、
「同じ誕生日の有名人(歴史的人物も含む)」の一覧が載っているサイトを偶然見つけ、
同じ「2月8日生まれ」にはどのような人がいるのか調べてみたことがある。
それによると、私と同じ誕生日には、たとえば次のような人々がいた。
・メンデレーエフ(「元素の周期表」を作成したロシアの化学者)
・ジュール・ヴェルヌ(「SFの父」とも呼ばれる冒険小説家)
・ジェームズ・ディーン
・ジャック・レモン といった美男俳優
・オノ・ヨーコ(ご存じジョン・レノンの奥さんだが、本当にこれが一人の人物なのか(?)と
思うぐらい、さまざまなジャンルの芸術活動を行ってきた人)
・山本寛斎(ファッション・デザイナー)
・山田詠美(『ベッド・タイム・アイズ』でデビューした小説家)
といった具合だ。
サンプルが有名人ばかりだから、どの人も個性的で強い印象を呼び起こすのは
当たり前であって、たぶん他の誕生日の人を探しても同じなのかもしれないが、
なにかしらどこかに共通性を感じる人々ではある。
(自分に何か似たところがある人だけが目につく、というところもあるだろうが・・・)
さて、私が記憶している限り、今までに自分が直接に知り合った人の中で、
同じ2月8日が誕生日、という方はお二人である。
お一人は、中学生の時に、1年間ほどピアノを習っていたY先生。
私がそれまで7年ほど通っていたヤマハのピアノ教室のN先生が教室をやめ、
ご自宅でのレッスンに集中されることになったが、私はこのN先生とどうも相性が
よくなかったので、わざわざ電車に乗ってご自宅にレッスンに通うなどという気は
さらさらなく、その後任として教室に来られたY先生に習うことになった、
と記憶している。
このY先生、当時音大を出られたばかりだったと思うので、たぶん23~4歳
ぐらいであったろうが、
とにかく、すごい美人(!) であった。
前にも書いたように、私が音楽に目覚めたのは高校生になってからのこと
なので、この時にY先生が目覚めさせてくれたというわけではないのだが、
先生がY先生に代わってから、いやでいやでたまらなかったレッスンの日が
ずいぶん楽しくなり、ピアノを少しはまともに練習するようになったということ
はたしかである(男の子というのは実に単純なものだ)。
しかもこのY先生、なかなか「褒め上手」でもあったので、ますます練習する
気にもなるというものだ。
たった1年間であったとは言え、(今から思えば)この間にピアノのテクニック
としては「一つの壁を越えられた」というところがあり、後に「音楽に目覚めて」
から自分でピアノを勉強したり楽しんだりする基礎が身についたのは、
Y先生のおかげかもしれない。
もうお一人は、経済学者のS先生である。
S先生とは、彼が主催されているバイオテクノロジーについての研究会に
知人を介してお誘いいただいたのがきっかけで、交流が始まった。
(この研究会は、経済学者を中心に、哲学・倫理学・宗教学・文化人類学など
のさまざまな分野の研究者が参加している学際的なもので、そこでの議論を
もとにした本がもうすぐ出版される予定。『バイオテクノロジーの経済倫理学』
(ナカニシヤ出版、近刊)。私の論考も載っているので、ご興味のある方は
ぜひ読んでくださいね)
さて、このS先生、
誕生日ばかりでなく、ちょうど私より12歳年上なので、
干支まで一緒(丑年)である。
(妙に私と気が合う彼の性格からして、血液型も一緒なのでは・・・と推察している)
→(この場をお借りして私的な連絡)
S先生、もしこのブログを読んでらしたら、早めにアメリカでの日程、
ご連絡くださいね。
今日のオチは、同じ2月8日生まれである、次の人物。
JRA(日本中央競馬会)の騎手、江田照男氏である(写真下)。
江田騎手と言えば、あまり派手な存在ではないが、その高度な騎乗技術を
もってときどき「大穴」を開けてくれるジョッキーとして、競馬の玄人筋では
評価の高い人である。
私は、(たまに)予想に迷った時には、自分の誕生日にひっかけて2-8
の馬券を買うことがあるが、それで当たったことはあるものの、大穴を
当てたという記憶はない。
もし、(江田騎手の誕生日が2月8日であることを知る以前に)
これも何かの縁とばかり江田騎手の乗る馬を買っていれば、、、、
とれたであろう大穴馬券がいくつかあったのではないか、
と思うとちょっぴり悔しい・・・・・
(2.14.追加)
このブログを読んでくれた知人によると、
その人の知人のなかに、両方が2月8日生まれというご夫婦
(しかも、誕生日が同じという縁から職場結婚されたお二人)が
おられるそうです!!
焼きそばとそばめしをめぐる哲学的考察

上の写真の通り、今日のわが家の昼ごはんは焼きそばであった。
(この焼きそば自体には種も仕掛けもありません)
朝、うちの女房が、
「今日のお昼、焼きそばとそばめしとどっちがいい?」
と聞いてきた。
そんなもの、聞かなくても私の答えは決まっている。
当然、「焼きそば」である。
そもそも「そばめし」というのは、その由来(ご存じ?)から言っても、
焼きそばが作りたいけど(その場で必要とされる量は)作れない時の
「間に合わせ(代用品)」として生み出された料理であって、けっして
焼きそばのようなauthenticな(本物の・真正な)料理ではない。
そばめしは好きではあるものの、何事にもauthenticityを重視する私
としては、「焼きそばを作ることができるにもかかわらず、そばめしを
作る」ということは選択肢としてありえないのである。
(ちなみに、うちの女房はそばめしが大好きである。私が出張でいない
時などは、そばめしを大量に作って、それを3回に分けて一人で食べて
いるぐらいである!)
私たち夫婦は二人ともほとんど好き嫌いがないし、いつもほとんど同じもの
を食べている(アメリカに来てからは特に)ので、大体その時に「食べたい
もの」というのはほぼ一致する傾向がある。
「焼きそばかそばめしか?」というのは、そうした一致・共感(?)の中での
微妙な嗜好の差によるもので、こういう違いというのは、人間というものの
個性を考える上で実に重要なものだ、というのが今日のテーマである。
(けっして、焼きそばの話ではないのです)
学者や研究者と呼ばれる人たちの中には、こういう「焼きそばかそばめしか」
という大問題に対するセンスの欠けた人もまま見受けられるのであるが、
とりわけ人文系、あるいは哲学・思想系の研究者にとって、こういう事柄こそ
実は本質的なものなのである。
たとえば、
私自身も大いに関心をもっている、あるテーマについて書かれた論文を
自分が読んだとする。
なかなか優れた論文であり、共感できるところも多い。
が、しかし、
どこかで引っかかる、というか 腑に落ちない ところがある・・・
それは何なのだろう? ・・・・と考える。
ふと、「?」マークをつけたある文章が目に入る。
あ、そうか! この人(著者)って、「そばめし」が好きなんだ!!
とわかる。
(もちろん「そばめし」というのはたとえで、実際には思考のパターン
とか文体とか、引証の仕方とかいったその論文において表れている
ような著者の個性に関する部分である)
こういうところが、私の思索の出発点になる。
つまり、
私は断然、「そばめし」より「焼きそば」である!
したがって、この(同じ)テーマに対して、私が自分なりのアプローチを
するとどうなるのか、と想像してみる。
この著者が「そばめし」的に考えていることを
「焼きそば」的に考えるとどのようになるか、ということだ。
(少なくとも私の場合、)こうした考えを煮詰めて行くことによって、
自分の新しい論文の核になるものが出来上がることが多い。
なぜかと言うと、
「そばめし」的に考えられている事柄を「焼きそば」的に考え直してみよう
とすれば、そこでは、
・なぜわざわざそれを「焼きそば」的に考え直すことに意味があるのか?
・その問題を「そばめし」的に考えることで、何が考察から抜け落ちてしまうのか、
(あるいは)どういう落とし穴があるのか?
ということを考えざるを得なくなるからである。
これは、とりもなおさず、私がこれからわざわざ新しい論文を書く意義というか、
その存在価値を自ら発見していくということに他ならない。
もう一つ大切なことがある。
ある論文を読んで、「何か腑に落ちない」と感覚的に分かる、ことはたしかに
すごく重要なことだ。
ただ、この点では、実は専門的な研究者より、素人の方が感覚的にすぐれている
ことがままある。
(なので、私は自分の講義や講演の後で、学生や素人の聴衆が口にしたり、
レポートに書いてくる「あまり論理的にははっきり表されていない」違和感や
批判を非常に大切にしている)
しかし、こうした「何か腑に落ちない」という感覚的な部分を、時間をかけて深く
考え抜くことによって、それをどれだけ理論的な言葉に直せるか、という所で
専門家としての力量が問われる、というのもまたたしかなことだ。
(これはそう一朝一夕に身につく力ではない。なので研究者を目指す若い諸君
は日々精進を重ねてもらいたい)
もっとも、哲学・思想系の研究者になろうとする人にとって何よりも必要なのは、
こういう「焼きそば」と「そばめし」の違いにとことんこだわることのできるような
「ひまさ」 と 「物好きさ」 なのであるが・・・(^^;)
(付記)
「間に合わせ(代用品)」として生み出されたものが、その後 authenticityを獲得
するということがないわけではない。(たしか中学校の英語の教科書に載っていた
話だと思うが)sandwich君の発明した「サンドイッチ」がその典型である。
「そばめし」は果たして今後どういった道を歩むのであろうか?
バースデイ in the USA
今日2月8日は、私の46回目の誕生日である。
(日本ではもう9日なので、ブログの日付とずれてしまいますが・・・)
なんの根拠もないが、自分では「92歳まで生きる」と勝手に決めているので、
もしこれが本当だと仮定した場合、単に物理的な時間の長さだけからいえば
ほぼ半分、これから人生の後半に突入するということになる。
幸いなことに、いつも誕生日は誰かに何らかの形で祝ってもらっているはずだが、
「○歳の誕生日というのは、こういう日であった!」としっかり記憶に残っている
のは残念ながら1回しかない。
(30年前のことだが、この日の場合、その日に経験した出来事が印象深いので
あって、それがたまたま自分の誕生日に重なっていたことを覚えているだけなので、
その誕生日自体が何か特別に印象深かったわけではない)
しかし、
この46歳の誕生日は、私にとっておそらく後々まで記憶に残る日となる気がする。
・ちょうどこれで自分の人生は半分だ、と感じたこと。
・アメリカという異国の地で誕生日を迎えたこと。
・はじめて就職して社会人になったのが26歳の時、(このまま行くと)おそらく
65歳で定年になるので、職業的な人生という意味でもこれでちょうど半分
が終わったかな、と感じていること。
・アメリカに来てから、5ヶ月と10日。
これもほぼ滞在予定期間の半分近くまできたので、なおさら感慨深い。
というようなわけである。
半分、というと、
よく引き合いに出される「コップに水が半分入っている」という場合と同じで、
これで
「もう人生は半分も終わってしまった」 と見るのか
あるいは
「まだ人生は半分も残っている」 と見るのか
ということになるかもしれないが、そのどちらを考えても
なんだか不思議なような、有難いような感じがする。
さて、今日の夕食は私の誕生祝いということで、
心温まる日本食!
メニューは、お刺身(はまち、ひらめ)、すずき(?)のあら煮、
蓮根のきんぴら、だし巻き卵。(写真下左)
お酒は、私の大好きな秋田の酒、
「天の戸・美稲(あまのと・うましね)」である(写真下右)。
最後は、女房からのプレゼント。
シャーロッツビルと言ったらコレ!
ギアハートのチョコレートである。
日本人のファーストネイム
私の名前(ファーストネイム)は「やすのり」である。
(漢字からはなかなか正しく「やすのり」とは読んでもらえないが・・・)
日本で、いわゆる「姓・名」という形で西洋のfamily nameとfirst nameに
当たるもの(順番は逆だが)によって個人の名前が構成されるように
なったのは、明治以降のことだが、姓においても名においても日本は
その数がものすごく多い(ますます多様化している)ということはたしか
のようだ。
日本人の名前を西洋人が発音する場合、
発音しやすい名前 と 発音しにくい名前 がある。
どちらかと言うと、
男性の名前の方が、女性の名前より発音しにくい
ことが多いようである。
なぜかと言うと、大体、現在の日本人の男性の名前は、
「漢字2文字、それぞれカナにすると2文字で、カナが4文字」
で構成されていることが多い。
たとえば、敏明(としあき)、雅和(まさかず)、博文(ひろぶみ)
のような名前である。
この方が、漢字で見たときの構えも、発音した場合もなにか
「男性らしい」「がっしりした」イメージになるからなのかもしれない。
それに比べて女性は、カナにして2文字か3文字の名前が多く、
むかしは最後に「子」がつく名前が普通だったため、漢字2、3文字、
カナでも3文字というのが多かったが、最近では漢字2文字
カナでも2文字(たとえば、佳奈・里香・美穂など)という名前が
特に多くなっているように思う。
で、なぜ日本人男性の名前が西洋人に発音しにくいかというと、
日本語の場合、(「ん」を除くと)各々のカナにはすべて母音が
含まれているため、文字数が多くなれば多くなるほど、音節
が増えてしまうからである。
たとえば、私の名前、「やすのり」は、
日本人ならば4つのカナの音を均等に、しかも高さをそう変化させずに
「や-す-の-り」と発音することができる。
(私は、親からはそのように呼ばれて育った)
しかし、西洋人はかならず母音のある音節のどこかにアクセントを
つけないと、名前を読むことができない。
したがって、私の名前の場合、
カタカナを用いて極端に表記すると、どこにアクセントを置くかで
1. やあすのり
2. やすうのり
3. やすのおり
のどれかの形で、発音されることが多い。
(厳密には1.だと、「やあすのー」、2.だと「やすうのー」に近い発音に
なる。「り」にアクセントを置いて、「やすのりい」というのは、その前の
「やすの」を一気には発音しにくいので、まずありえない)
もっとも日本人でも、2.に近いような形で私の名前を発音する人は
いないわけではないが、「す」につけるアクセントは西洋人の場合より
は弱い。
やはり一番多いのは、3.である。
こう呼ばれると、日本語の感覚としては「やす」が「のり」にくっついて、
それを形容しているような感じになるため、私としてはなんだか
「やすいのり(=安物の海苔)」と呼ばれているようで、
なんかしっくりこないのであるが・・・
省略して「やす」と呼んでもらってもいいのだが、
故レーガン元大統領と「ロン-ヤス」の関係と言われた
某元総理大臣みたいになる・・・
なので、これから子どもをつくられる人で、
子どもが海外に出ても発音してもらいやすい名前をつけよう
と思えば、一番いいのは、
漢字1文字で、それを音読みするような名前であろう。
(たとえば、純(Jun)、翔(Shou)、健(Ken)、藍(Ai)など)
この「漢字1文字タイプ」というのは、男の子でも女の子でも
大丈夫な名前がけっこうあるので、性別がわかる前から
決めておくことができるのも便利である。
こういう名前、けっこう最近増えている気もするのだが、
実際どうなのだろうか?
遅咲きの本狂い(パート3)
昨日は節分の日。
さすがにアメリカでは節分の豆は手に入らなったが、鬼が入ってきては困るので、
ピーナッツで代用して、「鬼は~外、福は~内」をやっておきました。
(以下、昔話の続き。本に関してはこれが最終完結編です)
さて、そんな私が大学の文学部に入学した。
これでもう受験勉強をする必要はないわけだし、高校と違ってつまらん授業はいくらでも
サボればいいので(昔はそうだった)、好きなだけ本を読む時間ができた、というわけだ。
しかし、周りは(一応、伝統ある有名大学の)文学部の学生達である。
私のように、本などというものを読み始めて2年、などというにわか仕込みの
哲学・文学青年気取りなどとは違い、相当な読書歴、読書量をもった学生が多い。
そもそも私のそれまでの読書など、ほとんどが自分の読書力では歯が立たないような
難解な本をただ「読んでるつもり」になっているだけのむちゃくちゃなもので、
ジャンルだって偏りまくっている。
(大学に入るまで、日本の小説など両手の指で足りるぐらいしか読んだことがなかった
ばかりか、岩波新書や中公新書などの教養書・入門書も、読んでいたのはほんの数冊
だった)
そんなわけで、あせったのなんの・・・
いっぱしにプライドだけは高かったので(^^;)、
他人に「お前はこんな本も読んだことないのか・・・」とバカにされるのが、
一番こわかったからである。
とにかく、大学に入ってから大学院を終えるぐらいまでの間、
いつも「自分はみんなに遅れている。なんとか(知られないうちに)この遅れを取り戻し、
抜いてしまわねばならない」という強迫観念のようなものに苛まれながら、
本を読み続けた、と言ってもよい。
(なので、本をほんとうに「楽しんで」読めるようになったのは、私の場合30前になって
からのことだ)
今になって考えてみると、若いときに本とのこういう変なつき合い方をしたことで
かえって身についたことも少なくはないように思う。
・少々読んでわからない本についても、そこであきらめて投げ出さずに
我慢して読み続ける根気が養われた。
(哲学・思想系の研究者には重要なことである。20代ぐらいまでなら、
そうやって我慢して読み続けることで、おぼろげにわかってくるものの
中に大切なことが含まれている場合が多い)
・とにかく、多くのジャンルにまたがって、たくさんの本を実際に読んだ。
・実際には読んでいない本についても、さも読んだかのようなフリをする
テクニックが身についた。
(これは案外、人文・社会系の研究者になろうとする人にとっては重要な
テクニックである。ただし、誤解してはいけない。「フリをする」と言っても、
それを読んでいないことが周りにすぐバレてしまうような「フリ」ではいけ
ないのだ。バレてしまわないためには、その本の内容に関して、別の
ソースからきちんとした情報を得ている必要があるし、なによりもそれが
自分自身の考えていることや文章の内容と釣り合っていなければなら
ない)
そう言えば、5年ほど前に、面白い本を読んだ。
『本を読む本』という、読書指導のあり方についての本である。
簡単に言うと、子どもに本に親しませ、楽しみながら「読む本のレベル」も、
それに応じて本の「読み方・楽しみ方のレベル」も少しずつ上げていく
ためには、どのようなことが必要か、ということを理論的に考察した本だ。
・この本からすると、いかに自分はむちゃくちゃな読書人生を歩んできたか、
ということ。この本に書かれているように小さい頃から自分のレベルに合わせて
一段一段読書に親しんでいったならば、自分はこんなに苦労せずに済んだ
だろうということ。
・にもかかわらず、この本に書かれてある内容のほとんどを、自分は実感的に
わかる(我流でわけもわからずに突き進み、回り道をしながらも、結局は
本を読む、ということについてのまともな態度をそれなりに身につけることが
できたのだなあ・・・)ということだった。
不思議なもので、自分の昔話など書き出すと、いろんなことが次から次へと
思い出されてくる。
(「自分史」のようなものを書く人の気持ちがだいぶわかった気がする)
本についても、まだまだ書きたいことが山ほどある。
でもまあ、そういうのは
定年後の楽しみ(まだ20年ある? もう20年しかない?)
にとっておくのがいいかもね。
(完)
遅咲きの本狂い(パート2)
さて、そんな私がなぜいきなり「本の虫」になっちゃったのか?
(ちなみに、「本の虫」は英語に直訳して bookworm と言っても通じます)
いろいろきっかけはあるのだが、
・高校に入って、まあこのS高校(公立)というのは学区で一番の進学校だったと
いうこともあり、まわりに本をいっぱい読んでいる友達というのは、何人かいたわけ。
それで、何となくそういう友達の方が、精神的に大人びていて「かっこよく」見えた
せいで、私も(それまでの「お笑い系」?から脱皮して)
「知性派」にイメチェンをはかろうとした、ということが一つ。
・もう一つには、高校2年の時に「倫社(倫理・社会)」を習ったK先生の授業という
のに強烈な影響を受けた、ということがある。
(K先生は当時H大学の哲学科を出たばかりの新人教師で、受験などとはまるで
無縁なきわめてマニアックな授業をされたのがすごく新鮮だったし、その「ちょっと
ハスに構えて世の中を見下したような」超俗的なところが、けっこうかっこよかった
というわけだ。
そんないきさつのせいで、
私がはじめて自分から買って読み出した本というのは、
なんと 哲学書(岩波文庫とか新潮文庫で出ている西洋の哲学書の翻訳)
の類だったのである!!
カント・ヘーゲル・デカルト・プラトン・アリストテレス・ニーチェ・キルケゴール・・・
まあ新書本程度の西洋哲学史の知識もなにもないままにこういう哲学者の
本の日本語訳を片っ端から読んだのであるから、そもそも理解などできるわけ
はない(^^;)。
(ある程度わかったのはカントの『プロレゴメナ』と、デカルトの『方法序説』と
プラトンの対話篇のいくつか、ぐらいである。
まあ、ニーチェやキルケゴールは、時々ノートに写したくなるようなかっこいい
格言のような言葉が出てくるので、なんとなくわかったような気にはなった
のだが)
まあ、理解できようができようまいが、こういう「他の人が読んでいない本
(読もうともしないような本)」を読んでいると、それだけでなんか優越感を
感じるというか、ちょっぴり自分が「精神的な貴族」になったような気がした、
というのが実際のところだ。
哲学書の次によく読んだのは、同じように岩波文庫や新潮文庫で出ていた
ヨーロッパの古典小説。
最初に読んだのはカミュだったと思うが、フローベール、サルトル、ゲーテ、
ヘッセ、モーパッサンなどなど、別に特に何の傾向もなく、あたりかまわず
に読んだ(長すぎるからか、ドストエフスキーやトルストイのようなロシアもの
を読んだのは大学に入ってからのことだったが)。
まあ、そんなわけで、最初に本なるものを読み出してからものの一年も
しないうちに自分の意識の上では、いっぱしの哲学青年・文学青年
を気取っていたのである。
時刻表と競馬新聞ばかり読んでいた私が、いきなり西洋の古典哲学書や
文学書を読み出したのだから、親も最初は「シメシメ」と思ったに違いない。
(少なくとも、「本を買いに行く」と言えば、なにも言わずにおこづかいを
もらえた)
しかし、かのようなマニアックな少年が、その「執着対象」を変えたからと
言って、まともな人間に少しは近づいた(?)、などと考えたのだとしたら、
それは甘かった、といえる。
たとえば、高校3年生の時の母との対話はおおむねこんなふうであった。
母 「本ばっかり読んでんと、勉強しいや。大学行けへんで。」
私 「・・・・・・・・・・・(無視)」
母 「何読んでんねん?」
私 「もう~ウルサイなあ。。。これやがな!(題を見せる)」
母 「えっ、『死に至る病』?? ガンの本か?」
私 「もう・・・・これはキルケゴールやで! ガンのわけないやろ!
絶望やがな、絶望!!」
母 「・・・・・・・?? 絶望して自殺する話か?」
私 「もう~~~~~~~・・・・
それやから母さんはあかんねん。
そういう、言葉の表面的な意味しかとられへんような人を
絶望的 って言うんやがな」
母 「・・・・・・・・・・・・・・・・なんや、サッパリわからん(ブツブツ)・・・」
というような高校生になってしまったわけである。
もっぱら哲学書や文学書に熱中するようになってからは、将来の
進路についてのイメージも変わってきた。
最初は(数学が一番好きで得意だということもあって)理学部志望で、
素粒子論などの理論物理か宇宙物理の方に行きたいなと思っていた
のだが、3年になって志望変更。
別に理科系か文科系かは問題ではなかったが、やはり直接人間
(の精神)に関わる学問がしてみたくなったのである。
それで、医学部に行って精神科医になるか、文学部に行って哲学者に
なるか迷ったが、前者は二つ大きな問題があり、結局後者になった。
(一つは、近隣にここなら行ってもいいなと自分が思える大学で、かつ
私に現役で入れそうな医学部がなかったということ、もう一つはいくら
精神科志望でも解剖とかをやらないといけないし、他の科の実習も
しなければならないと聞いたので、それがイヤだったのである・・・)
前に書いたように、高校に入って「音楽」にも目覚めたので、
音楽の道に進むことも、まったく考えないわけではなかったが、
「他の道に進んでも音楽は趣味で続けることができる。音楽を仕事に
してしまうと、他のことを勉強するのはむずかしい」と思ったので、
それはヤメにした。
音楽を専門にしつつ、他のことにも深い造詣をもっておられる人が
少なくないということは知っているものの、
自分の場合には少なくとも、これが正解だった と思っている。
遅咲きの本狂い(パート1)
私はいっぱい本を持っている。
引っ越しとかの時には一苦労だ。
今回、アメリカに来るときも
仕事関係の本だけで、厳選に厳選を重ねても段ボール12箱、
送料は30万近くかかった。
(大学の校費を使わせていただいたので助かったが・・・)
まあ、人によるだろうが、一般に
私のような人文・社会科学系の研究者は本をたくさん持っている人が多い。
もちろん専門書など研究に直接必要な本も多いが、基本的に人間や社会のこと
(特に現代のこと)を研究しようと思ったら、専門分野以外の雑多な本もけっこう読んで
いないと、いろんな意味で幅が狭くなる。
出身は文学部。
大学生のころから、部屋には本があふれ、電車の中であろうが喫茶店であろうが、
トイレの中であろうが、他人としゃべっていない時のほとんどは本を読んでいた、
といっても言い過ぎではない。
そういうわけだから、
学生時代、家庭教師のアルバイト先の小中学生のお母さんなどからはよく、
「センセイって、小さいころから本がお好きだったんでしょうねえ」
とか、
「うちの子は全然本を読まなくて困ってるんですよ。
なにか本が好きになる秘訣ってないんでしょうか?」
と言われたのを思い出す。
(ちなみに、まだテレビゲームなどない時代のことである。いくら本を読まない
子どもといっても、漫画ぐらいは読んでいたのであろう)
しかし、実は、こう言われても(まじめに答えようとすればするほど)
私には 返す言葉がない のである。
そもそも、
私が本を読み出した(本に目覚めた)のはずいぶん遅くて、
高校2年生になってからである。
それまでは(学校の読書感想文のために強制的に読まされる本とか以外は)
ほとんど本など読んだことがなかったのだ!
実は、漫画もまったく読んだことがない。
TVのアニメはある程度観ているが、漫画は朝日新聞に連載されていた
4コマ漫画「フジ三太郎」以外は、ほとんどゼロに近い。
で、何も読んでいなかったのか、というとそうではなく、
子どものころから熱心に読んでいた活字出版物が二つある。
時刻表 と 競馬新聞 である。
私は4~5歳ぐらいから電車が大好きだったので、「鉄道少年」になるのは
まあ時間の問題だった。鉄道少年もいろんなタイプがあり、「模型」にはしる
少年もいれば、「図鑑」にはしる少年もいれば、「写真」や「旅行」の方にいく
場合もあるのだが、私の場合は「時刻表」オンリーだった。
あまりに時刻表ばっかり読んでいるので、「そんな細かい字ばかり読んで
ると目が悪くなる」と親に時刻表を取り上げられたこともしばしばだったが、
その度ごとに粘り強く交渉(?)して、「日に1時間しか読まないから」などと
約束して返してもらった。(そんな約束は一週間もしないうちに破られたこと
はいうまでもない)
で、それと平行して、一時期「天文図鑑」にはまり、「天文少年」になりかけ
た(小学校3年ぐらいの時)のであるが、これは長続きしなかった。
その1年後、時刻表を読む時間がグンと減るぐらい面白いもの、
つまり、「競馬新聞」に出会ったからである。
競馬との出会いを書き出すと、本1冊ぐらい書けそうなのであるが(^^;)、
私に競馬新聞の読み方の手ほどきをしてくれたのは、当時いつも一緒に
遊んでいた友人のT君のお父さんである。
(小学校4年の子どもにわざわざ競馬新聞のことなど教える大人はいない
だろうから、どうせ私が、向こうがが根負けするぐらいしつこくせがんだに
違いない)
で、これがなんともいえず 面白い!!
競馬のレースそのもの(TVの中継)ももちろん面白いのであるが、
そんなのは土日にしかやっていない。(今みたいにビデオなどはない)
しかし、競馬新聞は捨てさえしなければ昔のものも見られるし、
いつだって読めるのである!
最初、T君の家でしか競馬新聞を読んでいなかったので、
うちの親は、息子が競馬新聞にはまっている、などということは
知らなかったようであるが、ちょうどそのころ、私の父が競馬を
始め、家にも競馬新聞が存在するようになった。
それで、父親の買ってきた競馬新聞を熱心に読み出したところ、
彼に「そんなもんはお前の読むもんと違う」と取り上げられた。
しかし、すぐに私の持っている競馬の知識が自分よりもすでに上
であるということが父にもわかったようで、それからはいっしょに
TVで競馬を見たり、予想をするようになった。
(今から考えれば、エライ父親だったと思う)
自宅は大阪の京阪沿線にあったので、淀にある京都競馬場にも
連れて行ってもらい、はじめて生で見る競走馬の美しさに心底
感動した。
もう、それからは競馬少年一筋である。
えっ、ピアノは? という声がどこからか聞こえてきそうだが、
ピアノはたしかに習っていたのだが、仕方なく教室に行っていた
というぐらいで、この時はまだ「音楽」に目覚めてはいなかった。
(目覚めたのは、これも高校生になってからである)
というわけで、
高校2年生になるまで、私は「本」という世界にはまるで無縁な、
とは言え奇妙な「活字文書」をこよなく愛するという、
ヘンテコな趣味人生(?)を送っていたのであった。
ここまででずいぶん長くなったので、この続きは明日。
口内炎物語
ここ2,3日、口内炎が痛くて、ものを食べるのにも一苦労である。。。
しかも、できた位置が舌の右奥の裏側で、口を動かしただけで奥歯に当たってしまう
部分なので、何もしていない時でも痛かったりするし、上の写真の口内炎薬を
塗るにもうまく塗れないような位置。
ほんとトホホ・・・状態である。
(ちなみに、「口内炎」は英語で canker sore =口腔潰瘍性炎症? という)
小さい時から、口内炎のできやすい体質だったので、口内炎にはずいぶん
悩まされてきた。
今は音楽活動がピアノ一本になったので支障はなくなったが、オーケストラで
ホルンを吹いていた時などは、演奏会の前になると口内炎ができないように
いろいろ気を遣ったものだ(色の濃い野菜をいっぱい食べる、食べながらしゃべ
らない=うっかり舌や唇を噛んでしまわないようにするため、熱い食べ物を
一気に口に入れない など)。
今日、アレックスくんとの英会話レッスンの中で、口内炎の話をしていたら、
大学2年の時に経験した最悪の口内炎のことを
思い出したので、ここでも披露しておく。
この時は、最初唇や舌に3つの口内炎があったのだが、それがなんと
喉に飛び火して、一切ものが食べられなくなってしまった。
せいぜい2,3日の間とは言え、当時は「やせの大食い」(本当ですよ!)
だった私にはとてつもなくつらい日々だった。
他にどこが悪いわけではなかったので、
なにせ、お腹が減る(ひだるい=ひもじい)。。。
水ぐらいしか飲めないのであるが、そんなものいくら飲んでも
お腹はいっぱいにはならない、かえって気持ち悪くなるだけ
である・・・
ここで 妙案!
そうだ! あれだ!! あれがあった!
ビール である。
ビールなら腹もふくれる。
(いくら酒の強い私でも)大量に飲めば気持ちもよくなり、眠れる。
水と違って栄養もあるし、おまけに殺菌作用もある!
もう、それまでなんで思いつかなかったんだろう、というわけで。
その日は昼からビールonly(^^;)。
そんな時の夕方、友人のI君にばったり出会った。
このときI君には借りがあって、「今度会ったらメシをおごる」と
約束していたのを思い出した。
I君は私の口内炎のことなど知らず、
意気揚々と、「お~い、例のやつ、これから行こうや!」
ま、しょうがないか。。。
というわけで、京都三条大橋近くの大衆中華料理屋Mに。
二人で店に入る。
「まあ、何でも好きなもん食えや」(当時はやせていたものの、気は太っ腹である)
←この店は安いので、財布は安心。
「おれはビールだけしか飲まんから、お前が全部食うんだぞ」
こう言えば、せいぜい二皿ぐらいしか頼まんだろうと思っていたのだが、
甘かった。
このI君、私を上回る大食いである。
結局、(何だったか忘れたが)三皿プラス餃子を頼み、
しかも最後に焼きそばまで食べやがった・・・・・・・・・・・・
その間、私はI君の食べっぷりの良さに驚嘆しつつ、
食べられない悔しさに悶々としつつ、延々ビールを飲み続けた。
一人で五皿も食べている男と何も食べずにビールばかり飲んでいる男
の奇妙な光景をウェイターだけでなく、他のお客さんも不思議そうに
ながめていた。
私がビールを何本飲んだかは忘れたが、
払ったお金は、5000円も行かなかったように記憶している。
26年前のお話でした。
返品という名の文化
アメリカに来る前、ある人からアドバイスを受けた。
「とにかく物を買ったときに、レシートは捨てるな。
アメリカの製品は不良品がやたら多いから。
レシートさえ持ってれば、(少々使った後でも)サービスカウンターに持って行けば
必ず返品・交換してくれるから」と。
こちらに来て1ヶ月ほどしたある日、はじめてそのチャンス(?)が訪れた。
買ったのは、上の写真にある電気スタンド。
家に帰って組み立てようとしたところ、部品が一つ足らないのに気づいた。
(わかりにくいかもしれないが)写真で矢印をした部分、つまりスタンドの
フードになっている部分の右端がキャップになっていてカチンとはめる
形になるのだが、このキャップの部分が箱に入っていなかったのである。。。
いくら探してもその部品がないので(そんなに小さなものではないし)、
これは交換してもらうしかないと思った瞬間、製品の箱の中に小さな紙切れが
入っているのを発見!
それは、1ヶ月ほど前のレシート であった・・・・・
そう言えば、新品なのにもかかわらず、箱がやたらボロボロで、
どこかの国の名探偵のような灰色の脳細胞を駆使するまでもなく、
これはもしかして・・・・・と想像がついた。
さっそく、買ったお店に出かけて行き、サービスカウンターで
「さっきこれを買ったばかりだが、部品が一つ欠けていているのが
わかったので、交換してくれないか」
と(車の中で一生懸命考えた英語で)伝える。
向こうが何か言ってきた時のために対応する言葉も車の中で
準備していたのであるが、
意外やあっさり、OK! Sure ! ということで
新しいのに換えてもらった。
ビックリしたのは、「部品が一つ足らない」という私のクレームに
対して、何の確認もせずに(つまり箱の中を調べもせずに)交換
してくれたことである。
ということは・・・・・
・少なくとも箱に入っていたレシートの日時にこれを買って、同じように
返品・交換してもらった人がいる。
・箱のボロさから推測して、そういう人が他にも何人かいる可能性が高い。
・その度ごとに、店員は何の確認もせずに商品を交換し、
(部品の一つ足らない)欠陥商品をそのまま棚に戻し、
また別の人がそれを買って、返品して・・・・・・・・・・・・・
ということが繰り返されたに違いない。
・私が返品したものも同じように棚に戻され、また同じサイクルが
繰り返されるであろう。
(少なくとも、箱が破けてでもしまわない限り・・・)
まあとにかく、
アメリカのスーパーや各種ショップのサービスカウンターは、
いつも大勢の人でにぎわって(?)おり、
返品の山(それが全部「不良品」なのかどうかは謎)である。
こういうのも、(多くの人が不平不満を言いつつも)何も変わらないまま
そういうシステムでずっと社会が安定して回っているのであるから、
(誇れるものではないとは言え)
りっぱにアメリカ文化!の一部だと言えるだろう。