ヘンテコ音楽人生(その2)
ヤマハ音楽教室でオルガンを習ったのがどのぐらいの期間であったのか、記憶にない。
たぶん数ヶ月だろうと思う。
上達は早かった。絶対音感らしきものがあることもわかったので、先生はぜひピアノに
進むように両親に進言した。それで小学校入学とほぼ同時にピアノを習いだした。
はじめは順調だった。
そう熱心に練習したという記憶はないし、音楽そのものの本当の楽しさを知るというまで
にはいかなかったが、レッスンは少なくとも苦痛ではなかったし、少しずつ上達して
いろんな曲が弾けるようになっていくのは楽しかった。
小学校3年になる時までは。。。
その時、いろんなことが重なった。
・ピアノのテクニックという意味では、ちょうど一つの壁に当たる時期だった。
(ソナチネアルバムとチェルニーの30番の途中)
・体育の時間の走り幅跳びで、着地の際に左手を後ろについてしまい、手首を骨折。
3ヶ月ほど、ピアノから遠ざかった。
骨折が治った後も、ピアノにさわるのが億劫でほとんど練習しなかったため、
上達が止まっただけでなく、前に弾けていたものすら怪しくなった。
そうなると指の練習ばかりやらされたり、難度の低い曲(このレベルでは
ほとんどイコール音楽的につまらない曲)に逆戻りしたりするので、レッスンに行く
のが苦痛になってきた。。。
・3年の時に小学校を転校し、特定の生徒と言うよりはクラス全体からのいじめ
を受けた(運の悪いことに、このクラスは2年からの持ち上がりのクラスであり、
メンバーが同じなので、転校生、しかも私のようにおとなしくしていられないような
目立った子どもは徹底的に異質な「よそ者」として即刻排除の対象となった)。
そのため、人間不信に陥っただけでなく、自分の意見を言ったり、好き嫌いを
表したり、ある種の自己表現を行うことは(少なくとも学校では)すべて抑える、
という習性が身についてしまった。
「こいつ、男のくせに、ピアノなんか習ってやんの」という言葉も何度
となく投げつけられた。
そういうわけで、この時期、ピアノを弾くということに喜びが見いだせなかった
だけでなく、それは何か「普通の」存在としてまわりに自分を受け入れてもらう
には邪魔なもの、できれば隠しておきたいものになってしまった。
ピアノをやめたいと思ったのも一度ではないが、はっきりやめたいとは言わない
までも消極的な抵抗(レッスンの時間に外をほっつき歩いているとか)を示した
私に対して、「ここまでやったのだから、今やめたら後できっと後悔するよ」と
辛抱強く説得してくれた両親のおかげで、何とかレッスンは続けた。
ところが、小学校5、6年になると、私はいろんなところでピアノを
「弾かされる」ことになる。
・クラブは科学部に入ったのに、音楽部の先生から目をつけられ、
(音楽部にいた女の子よりこいつの方がうまそうだとのことで)
県の合奏のコンクールに出てピアノを弾かされることになった。
・クラス(5、6年は担任も同じで持ち上がりだった)でも、事あるごとに
オルガンやピアノを弾かされた。
特にいやだったのは、担任のT先生が作った替え歌(クラスの生徒を
一言ずつ紹介していく歌)を毎週のようにオルガンで伴奏させられた
ことである。
私としてはすべて「嫌々」だったのではあるが(かと言って、教師という
学校社会の絶対権力者に対して「イヤ」と言うことはもはやできなくなって
いた・・・)、教師たちはそんなことは知らず、「活躍の場を与えてやった」
ぐらいに思っていたのかもしれないし、少なくとも「ピアノが弾ける男の子」
という存在は学校や学級の宣伝のために「重宝」なものであったことは
間違いない。
もちろん、周り(特に大人)がいくら褒めてくれようが、それは私にとっては
ちっとも誇らしいものではなかった。
通信簿には「ピアノで活躍した」「クラスを盛り上げた」と書かれ、
街で校長先生に会うと「あのピアノの上手なA君のお母さん」と向こうから
声をかけられるぐらいだったので、両親もまた私のこういう「活躍」を誇りに
していた。それもまた私にとっては悲しいとしか言いようがなかった。
もう一つ、音楽に関して嫌々やらされていたことがある。
ピアノの上達がほとんど止まっていたころ、子ども向けの作曲家の伝記
のようなものを読んだ私は「作曲家」にあこがれ、「作曲」に興味をもった。
実際、自分でも少し楽典(楽曲の形式とか和声とか)の本をかじって、
いくつかの曲を作ってみたりもした(今はまったく楽譜も残っていないし、
どんな曲を作ったのか覚えてもいない)。
その時、母親が一つの詩のようなものをつくって、それに曲をつけてみるよう勧めた。
言葉はあまり覚えていないが、要するにたわいもない「家族自慢の歌」のようなものだ。
メロディーも今となってはまったく忘れてしまったが、曲はうまくつけられた。
両親はそれをいたく気に入り、事あるごとに私に弾かせ、歌わせた。
これも私には相当な苦痛だった。
学校で伴奏されていた替え歌と同じく、まったく自分では歌う気のしない内容のもの
を弾かされ、歌わされ、それをまわりがなぜか喜んでいる・・・という光景。
これは私にとって一種のトラウマになった。。。
私が歌を歌わせると音痴なのも(不思議に思う人がいるかもしれないが、プロの
演奏家でも音痴の人はいる)、クラシック音楽でも声楽の入った曲は今でも
何かしら苦手なのは、そのせいかもしれない。
(今日は、私の音楽人生のなかで一番暗い時期の話だったので、
書きにくかったです・・・)
続きはまた。