合格通知?や請求書などが入っています。
とりあえず目を通してみたところ、「変更などあったらここに載せてアップデートするからチェックしてね」って書いてあるウェブサイトのパスワードが違ってたりとか(通常のプログラムのページには入れるけど、LLM用プログラムのページには入れない)、事前に授業料とかの支払は到着後でいいってメールで言ってたのに"PAYMENT DUE NOW"ってなってたりとか、ツッコミどころ満載です。
中でも、請求金額は寮の部屋の種類、食事のプラン、健康保険の要否等により人それぞれ違うはずなのですが、請求書には申込書に書いた選択を無視した(おそらく全員一律の)金額が書かれており、別の紙(これがクセモノ)には「とりあえずここに書いてある金額を満額払え。違ってたら到着後に調整するから」みたいなことが書いてあります。

ハァ~~~?と思ってしまう私が、まだアメリカを理解していないのでしょうか?

昨日の朝東日本を襲った寒冷低気圧は、すごかったですね!ずぶ濡れになるわ、電車はとまるわ。

このところの渡米準備のドタバタで疲れた体には負担が大きかったらしく、おかげで体調を崩してしまいました。今週後半は西日本にも来るようなので、くれぐれもお気をつけください。

あ、このブログは体調崩したって書いてることが多いけど、それは体調崩してごろごろしてるときぐらいしか書くヒマがないからであって、私が特別体が弱いとかいうわけではありませんのでご心配なく。まぁ、トシの影響は感じないでもないですが。。。


さて、その渡米準備のほうは、なかなか進まず、ちょっとアセリ気味です。

まず、もっとも重要なI-20(ビザ申請に必要な学校が発行する書類)が来ない!先週電話で催促したけど、ずいぶんのんびりしてたからメールでも催促しておかなければ。

サマースクールは6月10日からで、生活立ち上げのため6月早々には渡米したいのですが、申請書を提出し、大使館で面接し、ビザを発給してもらうのが間に合うかどうか、今いちばん気をもんでいるところです。、


先週は、懸案だった人事との打合せも終わらせ、ちょっと途方に暮れるくらい大量の資料やら提出書類やらを渡されました。自分で入手したのも含めると今机の片隅に模範六法ぐらいの厚みの書類が乗っかってますが、これも一件一件片づけなくてはいけません。

人事との打合せは、事前に聞いていたほどには問題になりそうなことはなく、まだ細かい点をいくつかつめなければまりませんが、とりあえずは少し安心しました。


会社用のパソコンも、購入申請しておきました。留学期間中も引き続き日本の本社の社員なので(いちおう。。。)、会社のメールやシステムを使うことがあります。そして、今使ってるパソコンは古くかつリースなので、新規に購入する必要があります。

会社用、と書いたのは、スペック的、セキュリティー的にこれを学校でも使うのは不可能と思われるからで、学校用のパソコンは現地で買います。


その他、引越、銀行口座、子どもの学校、健康診断、予防接種など、至急やらなきゃいけないことが目白押しです(アメリカ法の予習もしたい。。。)。

昨日はマニアックな行政法規の調査(ふだんそういう仕事は受けないんだけど、この件はちょいとワケありで受けざるをえなくなった)を途中でやめて帰ってきちゃったけど、これ早く終わらせて出しちゃいたいし、しかたない、午後から会社行きますか。

インド報告最終回は、今回の旅の一番の目的、結婚式です。



儀式は、数日前から始まります。

自宅のベランダみたいなところに竹で櫓を組み、これを家と見立てて、これを中心として儀式を行います。

左側の白い服を着た僧侶の指示で、米やハーブのようなものを、祈りを捧げながら新郎や家族の体にかけていきます。これをなんどもなんどもくりかえします。



新郎のランジット君。ターメリックをなんども塗られ、なんどもマッサージをされます。このくりかえしによって、清められかつ丈夫になるのだとか。当日の朝まで、洗い流してはいけません。


本格的な式は、日が暮れてから始まります。正装し、4頭立ての立派な馬車で、会場までパレードします。馬車には親族の子どもも乗せてもらえるのですが、息子も乗せてもらいました(娘は出発してすぐに沈没。いっぱいお昼寝させたのに。。。)。



この馬車の周りが、エライことになっていました。楽隊(打楽器&金管楽器&ファルセットのボーカル(インドの耳慣れたあのなんとも言えないエスニックな音楽って、男性が歌ってるんだって、初めて知りました。。。)がフルボリュームで演奏する中、照明隊(発電機を台車に乗せて運んでいる)に囲まれたスペースでは街の人たちが踊り狂い、さながら屋外ディスコの様相。パレードはほとんど前に進まず、後ろではクルマが大渋滞。もちろん公道の使用許可とか交通整理とかいう概念は、ありません。ここはインドですから。



ようやく会場に到着し、いよいよ新郎新婦が初めてご対面!そう、初めてなんです。インドでは、結婚式当日まで新郎新婦は顔を合せたことがないのが通常だとか。新郎ランジット君はまさにドキドキですが、そんなことはまったくおかまいなく、またもやとなりに座らせてもらうわが息子。

残念ながら、ここで式の写真はおしまいです。なぜなら、私はこの式のビデオ撮影係として任命されていたので。

式は、このあと午前2時から本格的に始まり、夜明けとともに終わりました(しかも、飲食が振る舞われる披露宴ではなく、あくまで宗教的な「式」)。インドの結婚式は日暮れから夜明けまで。2次会とか考える余裕はありません。



一夜明けて(といっても、明け方まで式だったのでみんなそうとう眠い)、奥様を新郎宅でお披露目。新婦の親戚もいます。このあと、新婦のホームタウンへ行くのだとか。

お幸せに!

若干ブログの趣旨が変わりつつある今日この頃ですが、気にせずインド報告の続き行きたいと思います。



対照的な建物2つ。右側は店舗兼住宅でしょうか。このあたりの建物には、3パターンくらいあるように思います。木で骨組を組んで、屋根は藁を葺いたのもの。屋根は藁だが、壁は煉瓦を積み上げたり、それに漆喰を塗ったりしてあるもの。そして、コンクリートのもの(と言っても、中身は煉瓦だったり、鉄筋が入っていたり、いろいろ)。



キッチン。基本的にいつも薄暗いが、この時は停電だったかも。ふだんから電力不足で1日何時間も停電がありますが、私の行った時ちょうど変電所が火事になり、3日ぐらい停電していました。火事の原因は、クリケットの国際試合でインド代表が勝利して、みんなテレビにかじりついて電力消費量が激増したからだとも、興奮しただれかが打ち上げた花火が変電所に落ちたからだとも、言われてました。とにかくクリケットの勝利に関係あったようです。停電はじきに慣れましたが、それに伴って水道が止まるのは困りました。飲み水はミネラルウォーターのでっかいボトルがあるからよいのですが、問題は洗たく、シャワー、トイレ(インドのトイレは手で水をすくっておしりを洗う)などです。食器は、砂で磨いていました(雑菌が、とか言っていてはインドでは生きていけない)。野生のカンで、充電の必要なデジカメではなくフィルムカメラを持って行って、大正解でした。



キッチンに隣接して、こんな感じの土間があります。洗いものは、ここで。



屋外でも、料理しています。上3つの写真は友人宅ですが、このときは結婚式を前にして我々も含めいろんな客人が出入りしていたので、臨時にコックさんを雇っていました。



友人宅の庭兼飼牛の運動場。今は結婚式の飾り付けがされ、牛より何倍も騒がしいウチの子たちが遊んでいます。子どもたちは、あっという間に友人宅の子どもたちと遊ぶようになり、1週間ぐらいでなにやらヒンズー語の単語を発していました。。。えーと、この写真はクルマとバイクを撮りたかったのですが、クルマは2台とも一番よく見かけるマルチスズキですね。日本の軽自動車そのものの車体に、日本の定員の倍くらいの人が乗るのが基本です。前に3人乗るときは、真ん中の人はシフトレバーをまたいで座り、運転手は真ん中の人の太ももごしにシフトチェンジしており、生活の知恵に感心しました。クルマは、他にはタタもよく見かけました。バイクは、バジャジカワサキ。バジャジは現在ではカワサキとの提携を解消していると思います。数は、ヒーローホンダのほうが圧倒的に多かったです。ヒーローホンダをちょっと貸してもらったのですが、未舗装路を荷物や人(ふたりとは限らない)を乗せて低中速で走るシーンを想定してあるのか、トルクフルとまではいかないまでも非常に粘りのあるエンジンで、大昔乗ったホンダのVT250を思い出しました。また、シフトパターンは普通のバイクと違い、一番下がニュートラルで、1速、2速、3速と上に蹴り上げていくようになっていました。



これはターンシグナルのガード(?)がおもしろいなと思って撮りました。トラ柄のシートカバーもぜったいナイキじゃないし。そして、インドのバイクは右側だけケースを付けてあるものが多いです。これは、女性が後ろに乗るときはシートをまたがずに横座りし、かつ歩道側である左側から乗り降りするからと思われます。

油断してたら、前回の記事からえらい時間が経ってしまいました。日本は忙しいですね、ふー。

そして、その間に、中国領チベットでは、たいへんなことになっています。どのような理由があるにせよ、人々が傷つき殺されるのを見るのは耐え難いことであり、心を痛めるばかりです。


今回私が行ったインド北東部のブッダガヤという街も、地理的に、そしてなにより仏教の聖地として、チベットと深い結びつきがある場所でした。今から2500年ほど前、この街の菩提樹の下で、ブッダが悟りを開いたのです。



その菩提樹のそばには7世紀ごろ大きな塔(マハーボーディ寺院)が建てられました。現在は世界遺産となっており、周辺も整備されていますが、インド人の友人の言うには、子供のころはそばにふつうに家があり彼も住んでいたそうです。


そして、これがその菩提樹です。

寺院の周りは土足禁止で、ネパール、タイ、台湾などから来たと思われる巡礼者が、熱心に祈りを捧げています。

ここで、なんとも衝撃的な話を聞きました。

この菩提樹の根元にブッダが座禅を組んだ場所があり、もちろん極めて神聖な場所な場所とされており、現在はご覧のとおり頑丈な柵に覆われています。

しかし、10年ほど前まではこの柵はなかったそうです。そして、柵ができた理由というのが、なんと例の日本の某有名カルト指導者かつテロリストが、その場所に入り込んで座禅を組み写真を撮らせたから、ということでした。

しかも、カルト指導者かつテロリストは、すぐに警備員に制止されましたが、「盲目だからわからずに座ってしまった。」と弁解したそうです。

最悪です。

後日たまたま寺院の警備員の人と夕食を食べる機会があり、その席で「奴は実は盲目ではなかった。」という話をしたら、その事実はブッダガヤまでは伝わってなかったらしく、本気で怒っていました。話さなきゃよかったかも。。。



これは、寺院の横にある、ブッダが沐浴をした池。インド人の友人が子どものころは、この池で泳いでいたそうです。



ブッダガヤの街中には、まるで大使館のような感じで、各仏教国の寺院もあります。これは、早朝の中国(台湾?)寺。黒人や白人の方もいます。



日本寺もあります。各宗派が共同で設立、運営しているそうです。ちょっと見にくいけど、右側の柱に「印度山日本寺」と書いてあります。



ブッダガヤからこの橋を渡り、王女がブッダに乳粥を捧げたと言い伝えられる、スジャータ村(日本人にはなじみ深い名前ですね)に向かいます。川は完全に干上がっており、歩いても渡れます。



渡ると、こんな感じ。ふだん田舎暮らしの私、田舎は落ち着きます。



これが言い伝えに残る場所、スジャータ村の寺院です。ブッダガヤから距離は近いのですが、狭く荒れた未舗装路を進まねばならず看板などもないので、ここまで来るのはけっこうたいへんです。徒歩は、やめた方がいいと思う。リキシャも、ムリ。道中店などもないので、行かれる方は必ず十分な水を確保してください。



寺院のわきで、小学校をやっていました(フィルムの状態が悪く残念)。ご覧のとおり、ありました、というより、やっていました、という感じです。設備とは裏腹にやっていることはかなり高度で、低学年ですが4ケタの足し算、引き算をやっています。

今回、小学校から大学までいくつか学校を見学する機会があったのですが、やはり考えさせられるものがありました。ひとつだけ、現地の先生などが言っていたことをご紹介したいと思います。インドでは、観光地でも街中でも、見るからに貧しい身なりの子ども(大人もだが)が物乞いにやっくる。彼らは実際貧しいのだが、だからといって安易にお金をあげてしまうと、学校に来ずに一日中物乞いをやるようになる。学校に来ないと、彼らの将来はなく、一生物乞いとして生きるしかなくなる。だから、かわいそうだと思っても安易にお金をあげないでほしい。気をつけなければいけないと思います。

たいへん長らくごぶさたしましたが、しばらくインドへ行っていました。

なぜインド?と言うといろいろあるのですが、アメロー的には、海外経験の少ない妻とまったくない子どもたちもインドでやっていければアメリカでもやっていく自信がつくだろう、といったような狙いがありまして(笑)。ま、直接はインド人の友人の結婚式に招待されたのがきっかけでした。

今日から、数回に分けて写真とともに旅の模様を書いていきたいと思います。



いきなり看板に偽りがあるのですが、実は今回はそんなに放浪はしてません。愛読書が「深夜特急」な私が、「放浪」という言葉を使ってみたかっただけです。スミマセン。

今回行ったのは、インド北東部で、中でもブッダガヤという街に、ほとんど滞在していました。

ブッダガヤはガヤという駅のある大きな街からクルマで1~2時間くらいのところにある仏教の聖地で、両者の中間にガヤ空港があります。

小さな空港なので、飛行機を降りるとCIQまでみんなでぞろぞろ歩いて行きます。もちろん日本からの直行便はなく、タイ航空をバンコクで乗り継いで行きました。



空港の前の幹線道路をしばらく走って左に曲がり、このゲートをくぐると、いよいよブッダガヤです。

インドは日本と同じ右ハンドル・左側通行で、前のトラックはセンターラインはみ出し気味、前方からは馬車が向かって来ていますが、私の乗っていたクルマはこの後当然のようにトラックと馬車のあいだのスペースに突っ込んでいきました(汗)。



ブッダガヤの一番にぎやかな通りは、こんな感じ。基本的に田舎です。



通りではノラ牛?がゴミ捨て場をあさり、ニューデリーなどの大都市ではすっかり見かけなくなったというリキシャ(人力車)が行きかいます。ブッダガヤの公共交通機関?は、馬車とリキシャ、それに、いい写真がないのですが、オートリキシャことオート三輪(タイでトゥクトゥクと呼ばれるやつです)の三者が中心です。この通りは寺院の近くなので、観光バスが停まっています。



スパイス屋さん。


インドと言えばやはりこれ、ヘビつかい。

生まれて初めてコブラとガラス越しでなく対面しました。

先週Cornellは取下げると書いたところですが、忙しさにかまけて連絡を怠っているうちに、行き違いでCornellからウェイトリスト入りの知らせが郵便で来てしまいました。

手紙には、出願書類をアップデートしたほうがよい、3週間連絡が無ければ取下げたものと判断する、というようなことが書いてあります。わかりやすくてよいと思います。

インプレッサオーナー(まさにこの色、WR BLUE MICA)であり、レッツノートオーナー(MacBookも持ってますが)でもある私に、かつてこれほどまでにピンポイントで訴えかける商品 があったでしょうか?!

同色5連星マーク入りマウスなどがついてくるそうです。これでホイールがゴールドだったら、完璧だったのに(笑)。

今使ってるレッツノートを買うとき、川井ちゃんがG1GPニュースで広げているフェラーリPC(同じじゃないかもしれないが、エイサーから出てる)などもかなり真剣に検討したのですが、あの時出てればなぁ。。。

諸般の事情でそろそろ学校を決めなければならず、マーティン・ルーサー・キング、ネルソン・マンデラ、F1ジャーナリストの川井ちゃん ボストン・バッグ などを生んだ、Boston Universityにお世話になることにしました(ちなみに、m-floのVERBALもBUという情報 がありますが、ウィキペディア だとBoston Collegeになっています)。


合格通知をくれた他の2校、VanderbiltとGeorge Washingtonも私にとっては十分以上であり、それだけにひじょうに悩みました。

Vanderbiltが素晴しい学校であることは、疑いの余地がありません。合格通知とともにスクールTシャツが入っていましたし(めちゃくちゃアメリカンサイズでしたが。。。)、合格後すぐに日本人卒業生の方々から「なんでも聞いてください」という暖かいメールをいただきました。

George Washingtonは、事務方があまり親切でないというのは残念ながら本当のようですが、それが本質ではないとも思いますので、悩みました。先日書いたばかりですが、知財の教授陣ワシントンという場所に、おおいに心を動かされました。


じゃぁなんで行かないの?と言うと、家族のこととかいろいろありますが、一番大きな理由は、私がボストンに住みたかったから、ということになるでしょうか。

小学生のころに小澤征爾のドキュメンタリーを観て以来、ボストンという街に一種のあこがれを持ってきましたが、今の勤め先はボストンとはほとんどなんのつながりもないし、こんなことでもなければ未来永劫住むことはなかろうと思うと、無性に住んでみたくなりました。


まだ連絡が来てないUC Berkeley、Cornell、Pennの3校は、出願を取下げます。

PennことUniversity of Pennsylvaniaからメールが来ました。初のウェイトリスト行き(合否判定暫時保留の意)になってしまいました。

Pennは、"cross-disciplinary approach"と称するビジネススクールなどとの連携が魅力的ですが、かといってLLMとMBAとのジョイントなどという大それたことをするつもりまではないので、私にとっては決定打に欠けるうらみがあります。出願書類にも、そのへんのことが出てしまったのでしょう。