ドキュメント死刑囚 / 篠田博之/著


期待していた内容とは若干違った。

帯には「処刑すれば償いになるのか?」とあり、

表紙にも「死刑だけが最も重い処罰なのだという思い込みで現実に対処するのは思考停止ではないか」

とあり、「償い」とは何か?ということが本書のテーマなのかと思っていたが、

内容は「創」の編集長である篠田氏が手紙のやりとりなどを通じて関係のあった、

3人(宮崎・小林・宅間)について事件の概要や、裁判の様子を紹介するというものであった。

正直、それぞれの人物ひとりひとりについてだったら、もっと秀逸な著作が存在することもあり、

少し物足りない内容でもあった。本書を読んでいて感じるのは、

宮崎勤や宅間守といった通常では考えられないような凶悪犯罪を犯す人物は、

特異な考えたに固執している場合が多いということだ。

よく凶悪な事件を起こした人間の死刑判決に際して、

この判決により事件の真相を解明する機会が永久に失われたという意見を述べるものが必ずいるが、

その後、何十ヶ月、何十年かけようが、彼らの犯行当時の心情や動機を理解できるとは思えない。

凶悪犯罪を犯す人間は、家庭に何らかの問題を抱えている場合が多いようだ。

今回の3人も特に父親との関係が崩壊しており、それが彼らの性格形成にも重大な影響を与えたようだ。

幼い子にとって父親とは社会そのものであり、父親との関係の崩壊は、

そのまま社会との関係性の崩壊を意味するのも理解できる。

しかし、どのような過程を経たのであれ、

我々が共有している価値観(そうしたものがもしあるとするならばだが)

とは別の価値観を持つ者を、裁くことなど果たしてできるのだろうか?

彼らの量刑が、死刑になろうが無期になろうが、

全く価値観の違う人間の贖罪をひきだすことなどできるのであろうか。

裁判員制度が始まれば、我々一人ひとりがその裁くという行為に加担することになる。

人を殺すことを罪悪と考えないものに、こちら側の基準で死刑判決を下すことにどれ程の意味があるのか?

制度上とはいえ殺人に加担するという重荷だけを背負うことになりはしないか?

どちらにしろ償わせることは簡単ではない。

社会から大多数が常識と考える枠の外へとこぼれ落ちる人たちをどうやって救うのか?

死刑か終身刑か云々よりもそのことを考えないといけない。






メメント / 森達也/著


何度も繰り返し、述べているのだが森達也氏が机に向かって書いたものはつまらない。

それなら何故、新刊が出るたびにチェックするのかといえば、彼の考え方が好きだからだ。

もう少し、具体的に言うと、私は彼の対象に向けるまなざしが好きなのだ。

だから、彼が対象に向き合っていない、頭の中だけで考えられた文章はどこか物足りなくつまらない。

読み終わって感じたのは、やはり今回も机の前で書かれたのであろうということだ。

おまけに題材の半分近くがペットの犬の話とは、ちょっと手を抜きすぎではないか。

現在連載を9本抱え、週二回程度は自作の上映会があるそうだが、

その忙しさにかまけて作品の質が低下していては意味がない。

私は、彼が忙しさのために対象に向き合えなくなってるのだとしたら、

彼にはそこまでして文章を書いて欲しくなどない。

これも繰り返し述べているが、森さんにはつまらない評論家などにはなって欲しくない。

本人もそれを認識していると、私は信じたい。


その抗う手法と角度についていえば、ここ数年の僕は直接話法が多くなっている。

本当は間接話法にしたいのだ。メタファーを紡ぎたい。

意味を訊ねられたならば、會川のようにとぼけたい。なぜならそのほうが人の心に届く。

そんなことを考えながら、僕は新幹線に乗った。そろそろ区切りの時期かな。


本の中で紹介されていた詩が心に残ったので、その日本語訳をここにも記しておきたい。


最初に彼らが共産主義者を標的にしたとき、私は抗議の声をあげなかった。

なぜなら私は共産主義者ではなかったから。

次に彼らが社会主義者や労働組合員を標的にしたとき、私は抗議の声をあげなかった。

なぜなら私はそのどちらでもなかったから。

それから彼らはユダヤ人を標的にした。でも私は声をあげなかった。

なぜなら私はユダヤ人ではなかったから。

そして彼らが私を標的にしたとき、私のために声をあげる者は、一人として残っていなかった。

(マルティン・ニーメラー 「First they came for the Communists」)



「雨ニモマケズ」を知らない人はいなくても、

この詩がどんな心情から生まれたのか知らない人は多いのではないだろうか。

作家としてというよりもセールスマンとして、その短い生涯を終えた賢治。

私は、この本を読んで、より親しみを感じたし、改めて彼の作品を読んでみたいと思った。




生前に原稿料を受け取ったのは、わずかに一回。

「愛国婦人」に掲載された「雪渡り」に対して支払われた五円のみ。

原稿の売込みなど、職業作家になるための努力は惜しまなかったのだが、

ついに職業作家にはなれなかった。

資産家の家系に生まれた賢治の生涯を顧みると、

転職を見つけるための闘いだったように思われる。


教職という恵まれた職を辞し、羅須地人協会を創設して挫折。

病気になり、最後に挑戦した東北砕石工場の技師兼セールスマンの仕事も

中途でやめざるを得なかった。

「自分の築いてゐた蜃気楼の消える」のを見続けたのが賢治の生涯だった、と言えなくもない。

理想を抱き、現実に立ち向かっては、次々に打ち砕かれていく。

そんな賢治の姿に、痛々しささえ覚える。

だが、そんな賢治だからこそ、作品が人の心を打つのではないか。

おくりびと

(C) 2008 映画「おくりびと」製作委員会

脚本の練りこまれた非常に良い映画だった。

最後の父親のくだりは若干できすぎではあったが、

それも含めてみる人を感動させる心あたたまる映画であった。

最も感動したのは、最初、夫の納棺師という職業を嫌っていた、

広末涼子演じる妻が、夫の仕事を目の当たりにし、

最後には「夫の仕事は納棺師なんです」と述べる場面である。

死体で商売しているという負の思いが、実際の儀式を体験することにより、

その神聖さ美しさに意識が変化していく過程がよく描かれていた。

死があるから生があるのだという当たり前のことを実感させられる物語であった。

生きものの記録


現在、NHKBSで黒澤明没後10年ということで全30作品を放送している。

確認してみるとこれまでに9作品を観たことがあった。

この「生きものの記録」が10作品目ということになる。

本作は、原水爆の恐怖に怯えた主人公が、

資産を売却し家族全員でのブラジルの移住を目指すという話である。

しかしながら、彼のその想いは家族にも裁判所にも伝わらず、

最終的に彼は、ブラジル移住のために自らの鉄工所に火をつけ、

精神病院に入れられてしまう。

なぜ、彼の想いとまわりの考えは乖離したままなのか?彼の考えは全くの被害妄想なのか?

精神病院の医者が、本当に狂気なのは彼なのか、こんな時代に平然としていられる我々の方なのか、

と述べているが、こここそが私たちの考えないといけない点であろう。

今、核兵器という言葉を我々はいとも簡単に使ってはいないだろうか?

時にシニカルに時に笑いながら、まるでコンビニに売っている商品の一つでもあるかのように。

本当はもっと恐ろしいものであるはずなのに、我々はなぜ平然としていられるのだろうか。


ターミナル


政治的理由により、空港内に閉じ込められた男の物語。

といってもまったくもって政治的な映画ではない。

深読みすれば色々意味を考えられなくもないが、

それは見る側に期待しすぎだろう。


ホテル・ルワンダ


実話に基づいた物語ということで、作品に力がある。

作中でも語られている通り、ツチ族とフツ族と言ってもほとんど見た目の違いはない。

にもかかわらず、あれ程の大虐殺が起こってしまうとは、何とも信じがたいものがある。

もちろんこれは欧米の植民地支配に起因していることは言うまでもない。

私は今でも欧米が、人権だ何だと偉そうに言うたびに何とも煮え切らない気持ちになる。

映画の中でも、欧米の冷淡さ、無関心さが良く描き出されている。

白人は救っても大虐殺をとめようとはしないのである。

私は、現在でも白人の中には黒人への潜在的な優越感が存在していると確信している。

全くの余談だが、アメリカの今度の大統領選挙の結果はどうなるだろうか?

私は、意外な程大差でマケイン氏が勝利するのではないかと予想している。

潜在意識は簡単には拭い去れないだろう。

切れた鎖 / 田中慎弥/著


三島賞と川端賞のダブル受賞で話題になった田中氏だが、

私が興味を抱いたのは、一切の職業経験を持たずに、

まるで引きこもりのようにしてただただ小説だけを書いてきたという彼の経歴である。

内へ内へと溜め込まれた感情が、どういった形で小説の中に紡ぎだされているのか?

読む前から非常に期待し、楽しみにしていた。

読後の印象は作品が田中氏そのものであるということだ。

収録された3作品すべてに共通のモチーフとして

父親の不在、性行為などの肉体的交わりへの忌避、強迫観念にも似た呪縛がある。

特に「蛹」は田中氏がどんな経歴の持ち主か知らずに読むと衝撃を受けるだろうと思う。

しかし、その経歴を知ったうえで読むとさもありなんだという気がする。

書くべきモチーフを持っているという意味では今後の作品が楽しみな作家であると同時に、

今の場所に留まり続けていては、いずれ何も生み出せなくなるような気もする。

ただ、近年、こういった作家は大変珍しいのではないだろうか。

今後の田中氏の作品に期待したい。

時が滲む朝 / 楊逸/著



全共闘や団塊の世代が、昔を懐かしむために読む、そんな小説だ。
民主化運動の波にさらされ結果的に挫折した若者の群像は読んでいて,、

中国特有というよりも学生運動を体験した日本の老作家達が書いたものの

劣化したコピーという印象しか受けず、
中国人が書いたという冠を外すと手垢のついた時代遅れの物語という感じがする。
なんだか知っていることと、想像だけで書いたという感じがして、
本来彼女の最大の武器であるはずの「自分自身」というものを、
残念ながらこの小説からは感じることはできなかった。

反貧困 「すべり台社会」からの脱出 / 湯浅誠/著


問題は格差ではなく貧困なのだ。本書を読むとそれがよくわかる。

先日、朝日新聞で鷲田清一氏が貧困問題と孤独の関連性について指摘していたが、

本書からも、貧困問題が、孤独により増幅していることがわかる。

そういう意味では、湯浅氏らのネットワークを構築していこうという試みは、正しい選択だと思う。

しかし、政府が動かなければ、貧困問題の根本的な解決はあり得ない。

現在に至るまで、この国は貧困問題の存在を認めていないというのは異常な事態だと思う。

それによって守られている者は何なのであろうか?

声をあげていくしかないのだと思う。