バカボンド28巻の中で、70人を斬った武蔵に、

沢庵が何が見えたのか?今、何に祈るのかと問う場面がある。

その問いに、武蔵は「俺の歩いてきた道だ」と答える。

それに対して沢庵は「まだ・・・どこを切っても自分なのか」と持っていた湯飲みの水を武蔵にかける。

私は、この場面を読んで、この漫画はついにこんな境地にまで達したのかと鳥肌がたった。

そんなに漫画をたくさん読んでいるわけではないが、

画力とストーリーの両面で井上雄彦は今、漫画界のトップにいると思う。

漫画といえば、これまで語られるのは手塚治虫であった。

しかし、今後は井上雄彦が手塚に取って代わるかもしれない。

バカボンドはそんな可能性を感じさせてくれる。

まごころ 哲学者と随筆家の対話 / 鶴見俊輔/著 岡部伊都子/著


岡部さんのことは先日の訃報を聞くまで全く知らなかった。

世の中には、まだまだ優れた書き手が存在しているものだ。

岡部さんが、婚約者が戦争を否定して、自分は戦争に行きたくないと言った時に、

自分だったら喜んで死にに行くと答えて、戦争に送り出してしまったことを、一生の傷として持ち続けるている。

当時の教育から考えれば、岡部さんのしたことは致し方ないことであり、多くの人が経験したことだろう。

しかし、それを自らの罪として持ち続けている人は少ない。

自分が戦争に加担したんだという当事者意識、これを持っている人間がどれだけいるだろうか。

多くの人は、自分は巻き込まれた被害者だという意識を持っているだろう。

しかし、それでは過ちは防げない。そんなことでは、この国も、我々も何度でも繰り返すことだろう。

当事者意識、これこそが最も大切なのだ。だが、難しい。

だから、繰り返してしまうのだ、何度でも。





獄窓記の続編。前回よりも赤裸々に自らの出所後について語っている。

出所者コンプレックスの話は、もちろん私には想像もできないが、

山本さんがいかに苦しんだか伝わってくる。

日本という国が、出所者に冷たいのもよく分かった。

そんな中、本の出版が彼の救いになり、

獄中で感じた問題意識を少しづつ形にしていく様子は感動を覚える。

本当は、今の山本さんこそ、政治家としてこの国を変えていって欲しいところだ。

麦の穂をゆらす風




イギリスによる圧政からの解放と独立を目指すアイルランドの若者たちの闘争の物語。


それにしても、革命や開放を目指す組織というものは、


内部から壊れていくのが必然だとでも言うのか


結局最終的に仲間同士で殺しあう姿を見るとそう思わざる得ない。


彼らが苦労して手に入れようとしたものは、あんなものだったのだろうか。


抑圧する者達、狡猾な策士達への憤りの気持ちで一杯になる。


本作は、1920年代の話である。


しかし、形を変えてそれらは現代社会にも存在しているのかもしれない。





惑星の思考―〈9・11〉以後を生きる


作家には2種類いる。

ブログなどの媒体を通じて自分の考えを表明する者と、その全て作品に込める者。

私はどちらかと言えば後者が好きなのだが、

作家の側が、そうした日記のようなもので、自分の想いを発表したいという気持ちは分からぬでもない。

小説が必ずしも政治性や時代性を帯びる必要はないが、

特に純文学を志すのであれば避けて通れないのも事実だ。

一つの小説が世に出るまでには1年以上もしかしたら2年3年かかるのかもしれない。

その間、その小説家の想いはどうなるのか、社会に対する問題意識はどうすればいいのか?

日記を公開する純文学の作家の中にはそうしたやむにやまれぬ事情があるのではいかと、私は信じている。

本作(宮内氏の日記)には、宮内氏の優しさが良く現れている。

彼は、世の中で起こる人間の業が引き起こす様々な事柄に日々心を痛めている。

そして、社会にコミットしようとし右往左往している。

彼のその苦悩が、日々の文章に表れている。

時にナイーブとも取れる彼の振る舞いがどんな作品を生み出すのか、

小説もぜひ読んでみたいと思う。





サッド ヴァケイション

ユリイカの続編という位置付けは果たして必要だったのだろうか?

この設定が、ただでさえわかりにくい作品を余計と分かりにくいものにしてしまっていた。

冒頭20分くらいは全くもって退屈で、

役者の大半がぼそぼそと喋り聞き取り辛いことも重なって、眠気におそわれた。

それでも我慢して見ていると、

主人公が自分を捨てた母親に再開したあたりからようやく物語らしくなってきた。

前半部分も後半何らかの意味を持ってくるのかと期待したが、

監督自身にはあったのかもしれないが見ている側からしたら、

何の意味もない全く無駄な時間としか思えなかった。

この作品には無駄が多すぎた。

宮崎あおいの役は全くもって必要なく、

前作の続編と言いたいがために登場しているようにしか思えなかった。

意味深なシーンが多いかったが結局どこまで物語全体のなかで吸収できていたか疑問が残る。

AERA(アエラ)(朝日新聞出版.)













遅ればせながらAERA4月28日号の安田弁護士の記事を読んだ。

多くの人にとって被告側の突然の供述変更は、

その内容の突飛さも手伝って裁判所の言葉を借りるなら荒唐無稽に映ったことだろう。

おまけに安田弁護士が死刑制度反対派の急先鋒というイメージも手伝って、

多くの人が死刑を逃れるための戯れ言と解釈したことであろう。

しかし、AERAのインタビュー記事を読むと安田氏の本当の願いが見えてくる。

安田氏は遺族との関係について「時間はかかるがいつか出会うと思う」と述べている。

私はこの「いつか出会う」という表現が凄くいいなと思った。

二人は全く対局に位置している。

だが、彼らの目指すところは同じであると私もまた信じる。

両者はともに加害少年を自分の罪と向き合わせたい願う同志なのだから。

ノーカントリー


1980年代のテキサスを舞台に、麻薬密売に絡んだ大金を手にした男が

非情な殺し屋に追われるサスペンス。

まず殺し屋が非常に狂気であり、恐ろしい。

ただ、まったく不条理かと思うと、彼なりの殺しの哲学を持っているようなのである。

コインの場面にそれが象徴的に現れている。

それは二度登場し、一度はガソリンスタンドの買い物の場面。

もう一度は、偶然大金を手にしたが故に、

殺し屋に追われることになった男の妻に対して。

それはまるで人の生き死にを弄ぶというか、左右しているとでも思っているかのようであり、

彼はまるで生きる死神かのようだ。

この映画の大きなテーマは神の不在ではないかと勝手に思っている。

老保安官二人が、世の中は変わったと語っている場面にそれが良く現れているように思う。

80年代以降、そして現在にいたるまで、

世界は、本当にこれが神が望んだ世界なのかというような悲惨な様相を呈している。

もはや、人間は自分のためのみに生き、

他人を虐げることに少しの良心の呵責も感じてはいないように思える。

これはもう神なんかいないと思わなければ、説明がつかない事態ではないか。

本作はシガーという狂気の殺人鬼を通して、神なき世界でどう生きればいいのか、

未だに答えの出せない我々人類へ警告を発しているように私には思える。

ところで、映画の最後にコインを投げようとする殺し屋に対して、

逃亡者の妻は、それを拒否し、逆に自分で選べと彼に突きつける。

その後、殺し屋が彼女を実際に殺したかどうかは作中には描かれていない。

これこそが、この映画の唯一の希望であり、同時にこの映画の限界でもある。


極私的コラム更新中


悲しみの歌 (新潮文庫)


本作は「海と毒薬」 の続編に位置づけられているらしい。

確かに、共通する勝呂という人物、勝呂の抱える罪の意識など共通する部分は多い。

本作には、人体実験にかかわった若き医者のその後の人生が書かれている。

そこには、前作では書かれることがなかった罰について触れられている。

しかし、本作は「海と毒薬」の続編であって、続編ではない。

この作品を通じて遠藤氏は生きる悲しみを丹念に描いている。

作中では、新聞記者である折戸が勝呂の過去を知り、それを悪として追求していく。

その記事によって彼は社内外から評価され、有頂天になる。

そこには迷いや、葛藤は一ミリもないのである。



例の飲み屋で彼は氷の音のカラカラと鳴るオンザロックをもらい、

その音をたのしみながら自分のために一人、祝杯をあげた。

自分はこれからも部長やデスクをアッといわせる記事を書いていこう。

そして社会の不正と闘うのだ。

あのスチュワーデスと交際して、もし二人が理解しあえたら結婚したい。

折戸の人生には何の迷いもなかった。

それはハイウエイのように一直線に真直ぐにのびていた。

彼には人間の悲しみなどは一向にわからなかった。うすよごれた人間の悲しみ。

ごみ箱で野良猫が食べものをあさり、病室ではまた老人が痛みにたえかねて声をあげ、

勝呂がそれを慰めながら、モルヒネしか打てぬ苦しさを噛みしめているような、

人間の悲しみを彼は知らなかった。



彼の悲しみを理解するのは、無類のお人よしであるおかしな外国人ガストンだけなのである。

遠藤氏は彼の中に、神のような人間を創り出したかったのかもしれない。

ただ、小説の中に出てくる神の様な人間は常に純真無垢で弱々しい。

この薄汚れた人間社会で、神なるものとはそこまで弱々しく頼りなきものということなのかもしれない。



勝呂は二本目のアンプルを切って注射針をその中に入れた。

貧しい、あわれな病人たちを救うために彼は、医者になった筈だった。

しかし、その彼が今日までしたことのなかには、

生まれたばかりの生命を消すことも含まれていた。

それだけではなく、彼は生きた捕虜を手術室で殺す手伝いさえしたのだった・・・・



なぜか知らぬが、嗤いが咽喉からこみあげてきた。

自分の殺した死体と二人っきりで、祭りの日曜日、

この医院のなかでじっと腰かけている。

五十数年の人生のあと、自分がたどりついたものは、結局、

これだったのだと勝呂は可笑しかったのだ。

海と毒薬 (新潮文庫)

解説によると本作は日本人にとっての罪と罰を描こうとしたということだが、

そう定義すると、どうしても本作は未完であるような気がしてしまう。

なるほど本作はアメリカ人捕虜の人体実験という史実に着想を得て人間の罪を描きだしている。

特に印象深いのは二人の研修医に生体解剖実験への参加が打診され、

断ることも可能であったにもかかわらず、二人とも参加してしまう場面。

勝呂の理由である、得体の知れない何かに押し流されるようにしてしてという理由も興味深いが、

それ以上に戸田の、良心の呵責を感じたくてという理由が、

人間の奥底に潜む、ぞっとするような冷酷さをよく炙りだしている。

戸田の過去の告白を読んだ読者は、戸田の持つ冷酷さが、

程度の差こそあれ、決して彼特有の感情ではないことに気がつくだろう。

むしろ罪の意識を持ちたいと足掻く戸田の方が、

気づかぬふりをする我々よりも幾分かましなのかもしれない。

だとしたら人間が潜在的に持っているそうした罪にはどんな罰が下されるのか?

償う術はあるのか?克服する術はあるのか?

読者はその先を求めずにはいられない。