どっちだ!
実は。
斯なる
、斯様なる
、重ね
重ね
ありまして。
このひと月で。
さすがに堪えがたくあり「ここは日本だ!」ということもあり
サービス残業及び、休日出社分の請求をすることにした。
あまり物証がないのが痛いところだが。
というわけで
「拒否権のなかった残業及び、システムの導入が伴わなかった為の休日出勤
及び、リフレッシュ休暇取得の拒否 等より
残業及び休日出勤分の在籍及び、給与の保証
もしくは、来月の給与算出〆日での精算のいずれかをお願いします」
と、メールで送信。
返信は
「算出がされていないので、除外してほしい
給与算出〆日付を退職日として、退職願を出してほしい」
※ 算出がされていない、といった時点で「あった」事実は認めた、ということになりますかね。
想定の範囲内なので
「納得のゆくご返信が頂けず残念です。
(中略;
概要 休日出勤も事実、休日申請もままならなかったも事実
業務状況の改善を進言したが、なし
わかっていて、何もしなかったのも認めましたね?)
把握している休日日数の算出と、ご提示
及び、所定の公的機関への相談をさせて頂きます。
ご再考頂ければ幸いです。」
と、返信。
これの返信が
「雨留乃助さんメールの書き方がきつすぎます。
そんな気が仮になくても相手に悪く伝わりますよ」
の書き出しではじまっている。
お互いの主張に乖離があるのだろうが、自分は逃げるつもりはない。
話し合いましょう。
折角出会ったのだから、いやな別れ方はしたくない。
あなたの次に働くという店で、飲みましょう。
・・・・・・・。
感情的はどっちや!
私は「除外」を求めた雇用主に対し、
実存した「労働対価を払ってくれ」といっているわけで。
「嫌な別れ方」も何も、それ以前に「拒否権のない労働量」を
ある種「強いられて」も、「対価」が「法的」にも保証されていると思っていましたし。
払って頂けないほうが、こっちとしちゃぁ「嫌」だ。
「悪く伝わる」も何も、「除外する」っていうのだから
「しかるべき公的機関に相談」したって、それは「感情的?」
オハナシにならないから「相談」にいくのでしょうが??
なんか、間違ってます???
誰か、何が「感情的じゃない」か、教えて頂けませんかね?
追記:
こういう「感情論」で口説き落とす人への対応策持っている人、求む
ヤメル勇気
先日のプロジェクト会議でのこと。
毎月刷っているサービスチラシの、表記の形式についての話になった。
現在「カレンダー形式」で、毎日交換できる商品があるように見せているが、
何せ、サービス母数に対して、商品の供給できる量が少なく、逆に「煽る」
こととなり、お客様たちからの「不信感」が、累積していた。
このまま継続は、サービスの信頼にも関わる。
協力会社や、導入店舗からの信頼にも影響を及ぼしつつある。
さあ、どうしよう。
という話になった。
経営上、これ以上の金額の投入を望めない、ということであれば
商品の「提供方法」を変えて、「カレンダー形式」を続けよう、というのが上の判断だった。
それが話の主流となり、流れてゆこうとしていた。
しかし、カスタマーサポートセンターを運営している自分が、
お客様と接触し、お客様のサービスへの理解や、顧客の理解程度を「想像」した時、
「小手先でもう、どうにかなるレベルではない」と自分は判断。
「人気のある」「カレンダー形式」を辞めることを提案した。
カレンダー形式に固執する社長は大反対。
新しい事を始めるにあたって、理解がなかなかできないグループリーダーもちんぷんかんぷん。
そこでまず社長へは、
「更なる成長の為の一時休止」を提案。
現状の運営状況での、カレンダー形式に問題があることは、明白。
であれば、お客様へは、ひと月、カレンダー形式を「休む」ことで、
現状、お客様が抱く不満を、少しでも解消した「カレンダー形式」にして
「再開」する為、と明言する。導入店舗や、提携会社への説明も同様。
そしてグループリーダーを説得。
まず「概念」を壊す。
「人気のある」「カレンダー形式」は本当に、「人気のある」「カレンダー形式」か。
検証してみましょう、と。
「人気のある」のは、「カレンダー形式」であることは明確ではない。
「人気のある」のは、そこに掲載されている商品の魅力かもしれない。
「カレンダー形式」だ、と言っているお客様はいるにはいるが「全て」ではない。
最近、顧客の満足度調査をやっていたこともあったので
「そのデータから、それを立証できるデータはありますか?」と
チームリーダーの手元にある「持ち駒」の確認も促す。
※ その質問内容からではデータの抽出は出来ないことも「想定の範囲内」
そして、カスタマーサポートセンターの「地の利」を活かし
最近寄せられる、お客様の「サービス内容に対する、理解度の低下」を挙げ
商品の交換方法がわからないお客様や、商品の種類のわからないお客様
それすら解らず「声」も挙げられないお客様へ手を差し伸べる為の、
「商品交換理解推進」の為に使うことを提案。
導入店舗のスタッフから、お客様の質問攻めにあっている「辛さ」を
聞いている、同僚の○島にも関わってくることになるので、
○島も上手く「援護射撃」してくれる。
説得に要した時間、午後いっぱい。
相変わらず消耗戦になりかけそうにもなったが、根気よく説得。
「あとがない」という意識の共有は出来ていたので、
中途半端な思い入れや体裁は、早いうちに捩伏せられ、
具体的な掲載内容や、構成の話まで、持ち込むことが出来た。
何処かへの「到達点」を想った時、その道は最短直線距離得で出来上がってはいない、と思う。
15度ずれてしまったり、右に曲がるところを左に曲がってしまったり。
40キロでゆくところを、勢いついて80キロで跳んじゃったり。
「到達点」から起動が、ずれていってしまう。
変化は、怖い。
今迄見えてきたことと、違う眺めや、肌感と接触することだから。
今迄やってきたことや、自分が信念を持ってやってきたことほど、
「変更する」「辞める」には、勇気がいる。
でも、変わらないと余計「到達点」から遠ざかってしまう。
「失敗」はいつでもある。
だから、「変化」や「ヤメ」は常に、必定。
だけど、その「ヤメル」勇気は、確固たる目標や、目指すところを見失うと、繰り返す「失敗」にしかならない。
もう一度、自分にも問うてみる。
想像力、その後
気がつけば、昼過ぎ、いきなり女の子に料理をつくらせる「やってTRY」をやっていた。
今日は麻婆豆腐。
いつもなら「あはははは」、と笑って終わるところなのだが。
最初の女の子はイベントコンパニオン。
「昨日も食べたのでばっちりです」
と、熱した油を回さない中華鍋に挽肉を入れ
早速挽肉を焦げつかす。
「焦げちゃいましたね」と水を注ぎ
「昨日のは甘かったので、その反省点として」
と、一味唐辛子を「おたま」二杯入れていた。
まぁ、どのようなものが出来たかは、ご想像の通り、なのだが。
その後出てきた女の子。
「麻婆豆腐!大嫌い。あの味がだめ」
という面白いケースが出てきた。
食えない奴がつくる「失敗」麻婆豆腐、ちょっと期待する。
しかし。
「こんなかんじかな」とにんにくと生姜を刻み
油をまわしたフライパンに投入。
挽肉を入れ、そこに「これ、だよね」と豆板醤。
よく知ってんなぁ、豆板醤炒めないと香りでないんだよ。
「うん、これでいいような気がしてきた。」
と、豆腐を投入。
「お母さんが、こんな感じでやっていたのを思い出す」
と、水溶き片栗粉を円を描くように入れ、適度なトロ味を出す。
できてんじゃんよ。
カメラマンが「折角、自分でつくったんだから食べてみたら?」
と促し、「あの味がだめ!」な彼女は14年振りに麻婆豆腐を食べる。
なんかちょっとびっくりした。
昨日食べて「経験」のあった人のほうが、
14年間前の「経験」しかなかった人より
「経験」からの「想像力」が働くだろ?と、思った。
しかし、そういうものでもないらしい。
想像力が「活きる」時というのが、あるようだ。
ひとつは、その「想像力」を駆使して「自分でどうにかしよう」とする、意思。
自主性が、重要な要素なのかな、と思う。
前者と後者の大きな違いは、「自分で食べるものをつくらなければならない」
という意思の働き方が違った、考えられる。
前者は、これは想像だが、テレビカメラが回っている状況での
「エンターテインメント」の「甘さ」がなかっただろうか。
違う言い方をしたら「今、自分が食べるメシがこれだ」という緊張感、
もしくは、「出来なくとも「テレビ」なのだから」という弛緩がなかっただろうか。
後者には、これもあくまで想像だが、「つくったことも食べたこともない」状況で
「自分でどうにかして、麻婆豆腐をつくらなければならない」という意思を持った。
「想像」し、それを「自分でなんとか、どうにかしたい、しなければ」という
自主性が働いた時、その「想像力」は翼を持つのだろう。
もうひとつは、たくさんの経験を繋げてゆく「シナプス」的想像力の連鎖、
或いは応用力、なのかな、と思う。
後者の女の子を例の取ってみよう。
「麻婆豆腐」という、自分の「経験」にないもの。
それを構築するにあたり、彼女の数少ない経験の中から
「麻婆豆腐」を「想像」。
豆腐があり、辛くて、赤くて・・・。
その情報から、例えば学校の調理実習でのことや、
テレビや雑誌でみた中華鍋を振るう料理人の映像、
そして「お母さんが」やっていたようなこと 等。
彼女の「記憶」と「経験」をシナプスのように繋げてゆき、
一見、関連性のなさそうな「記憶」と「経験」を連鎖させ
彼女は「麻婆豆腐」をつくっていったのだろう。
今、「めざにゅ~」とかいうバラエティ番組を身ながら思うよ。
子供の砂遊びか、粘土遊びじゃないんだから、粘性のある半固形物を
ヘタだけとったピーマンの口から、あちこちぺこぺこ付けながら
詰め込むなんてナンセンスだろ?半分にきって詰めればいいじゃないか。
しかし、どちらも、単発では働かない、と思う。
シナプスを繋げてゆくには「どうしようか?」という自主性がなければ、繋がってゆかないだろう。
自主性を持ったところで、経験を繋げてゆけるシナプスが働かなければ、想像力は半減するだろう。
両輪が周り、「想像力」の翼ははじめて、羽ばたくのではないか、と思った。
想像力が、人をシアワセにする
朝、最後を迎えるにあたり、寂聴さんに意気込みを聞く、ライブ中継をテレビで放映していた。
blogの原稿を書きながら、耳を傾けていたのだが
「人の痛みを理解しようとする、想像力」
という一節に、自分はココロが動いた。
自分の仕事はまさにそうだ。
このサービスに特化した部分での、人の不安や疑問を解決する仕事だ。
※ 「特化した」以外にも、もちろんあるが
しかし、この仕事。
電話やメールで来る問い合わせを「額面どおり」受け取ることだけでは解決は生まない。
問い合わせをされた「人」に対する、最適な解決をご用意するには、
受話器から伝わってくる息づかいや、メールの文字の行間を読む。
脳の中に、侵入する でもお伝えした通り。
「・・・だろうか?」と相手の状況や思考回路を想定・想像することが、
相手の不安や疑問、ひいてはその人となりへの理解を深め、
解決への回路を見い出し、解決を生む。
寂聴さんのコトバに「響いた」部分は、他にもあった。
正直なところ。
自分が回していた業務の「積載量」はいっぱいいっぱいだった。
「いっぱいいっぱいです」を伝えることしか出来ない有り様だった。
業務構成としての、多少の未熟さは、切り出しが決まってから
精査するにしても、どれかひとつでも、アウトソースや、
別部署との統合をして欲しかった。
それくらい、精査にも、時間が欲しかった。
※ しかし、「座右のダンテ」のハナシのように考えることも出来たのだが。
だが、その物質的時間もなかった。それも事実だ。
それを社長に伝えたところ。
「そりゃぁ大変だろうよ、でもわかんないもん」
一日のうちに何回、コールセンターの電話を取るのか。
その時間は一件につき、どれ位のものなのか。処理に時間がかかるのか。
一日のうちに何通、お客さんからのメールを受け取るのか。
その時間は一件につき、どれ位のものなのか。処理に時間がかかるのか。
一週間のうち何時間、商品交換の為の、時間がかかっているのか。
それは何件の交換依頼を受けて、その処理時間がかかっているのか。
そうに言ってくれないと、「いっぱいいっぱい」って言われてもわからない。
ということだ。
まぁ、わからないわけではない。
しかし、精査している間にも、お客様は問い合わせの電話をかけてくる。
メールはボックスに落ちてくる。商品を交換している。
とてもじゃないが、追いつかない。
それだけではない。
「はい、株式会社○○○○です」と、代表電話に積極的に出る。
来客が来たら出ていって対応する。
お茶を出す、なくなったお茶を補充する。
企画を立てながら、電話が鳴れば「はい、株式会社○○○○です」
お客様からのメールを打ちながら、受付からの電話が鳴れば出てゆく。
仕様書を書いていても「雨留乃助さん、お茶」で、お茶を出しにいく。
トイレから出てきて気がついた、シンクに積まれた、お茶碗やグラス、灰皿を洗う。
この状況で、自分の業務と、会社共有の業務をどう切り出せ、というのだ。
直接の上司にあたる人間にも言った。
その時は「そりゃそうだ」といったが、社長に話したところ
「そんなの当たり前だろ、っていう対応で」の後、彼は高圧派に変わった。
「自分で業務の精度をあげる努力してんのか」というふうに。
閑話休題。
想像力があれば。
例えば。
自分のメールもいっぱいくる。
でも、雨留乃助さんのところには、「会社間」ではない「お客様からくる」メールボックスがもうひとつあって、それを「確認」し、「返信」する作業がある。
と想像できなくは、ない。
そうしたら、自分のメールへの返信が遅いのも、少し待ってみようか、
という「理解」が生まれる、と思う。
例えば。
雨留乃助さんが「はい、株式会社○○○○です」と電話に出る。
一時間に20回はでているか。
そうしたら、彼女は一回1分にしたとして、(んなこともないが)
20分は電話に出ているいことになる。
彼女も自分たちと、同じような仕事をしている。
彼女は自分の作業時間から「20分」、切り出している。
9時30分から、18時30分の就業時間内、2時間40分は電話に取られていることになる。
電話に出ない自分たちより、自分の業務に没頭できるのが2時間40分以上、削られているんだ。
と、想像できなくは、ない。
そうしたら、何も「女の子が電話に出たほうがいい」なんて考えではなく
自分たちに掛かってくることの多い電話なら、自分で出てゆこう、
という「理解」が生まれる、と思う。
もしくは、その分だけ業務の時間を削られている。
同じ業務量にしたって、彼女のほうが分が悪い。
少し業務の配分を考えよう、という「理解」が生まれる、と思う。
そういった「想像」の延長と、集積で
人の業務への理解って、出来ないものだろうか。
自分の業務を、ツリー型に箇条書きにして提示したことはあった。
この範囲のことを全てやっております。と。
先日の会議でも、自分のやっている仕事の「ひとつの」流れを説明するのに、3時間程を要した。
しかし、どの時でも「これを一人でやっているのは、大変だ」の科白はなかった。
伝える側にも、伝達手段の誤りはあるだろうが、此処まで来るともう、
「理解」という想像力の欠如として諦めざるを得ないのか、と思った。
確かに、自分も、一緒のプロジェクトに携わる人たちの業務に対し
「想像力」たくましくできたか、というと、今にしても足りないことしきりだと反省する。
この失敗は失敗として、真摯に受け止め、次に活かしてゆくことにする。
でもさ。
想像してごらんよ。
家族が殺されたら、辛いよな。
自分の愛する人が殺されたら、堪えられないよな。
だから、戦争はよくないよね。
って、「想像」できたら、戦争なくならないのかな。
もっと想像力が豊かな世の中になったら、
みんながもっとシアワセな世界になるのかな。
そう、思うのでした。
