想像力が、人をシアワセにする | 雨留乃助、和而不同 -今日を生き、今日又反省-

想像力が、人をシアワセにする

瀬戸内寂聴さんの最後の青空説法が、先日6月10日にあったそうだ。
朝、最後を迎えるにあたり、寂聴さんに意気込みを聞く、ライブ中継をテレビで放映していた。
 
blogの原稿を書きながら、耳を傾けていたのだが
 
「人の痛みを理解しようとする、想像力」
 
という一節に、自分はココロが動いた。
 
 
自分の仕事はまさにそうだ。
このサービスに特化した部分での、人の不安や疑問を解決する仕事だ。
 ※ 「特化した」以外にも、もちろんあるが
 
しかし、この仕事。
電話やメールで来る問い合わせを「額面どおり」受け取ることだけでは解決は生まない。
 
問い合わせをされた「人」に対する、最適な解決をご用意するには、
受話器から伝わってくる息づかいや、メールの文字の行間を読む。
脳の中に、侵入する でもお伝えした通り。
 
「・・・だろうか?」と相手の状況や思考回路を想定・想像することが、
相手の不安や疑問、ひいてはその人となりへの理解を深め、
解決への回路を見い出し、解決を生む。
 
寂聴さんのコトバに「響いた」部分は、他にもあった。
 
 
正直なところ。
自分が回していた業務の「積載量」はいっぱいいっぱいだった。
 
「いっぱいいっぱいです」を伝えることしか出来ない有り様だった。
 
業務構成としての、多少の未熟さは、切り出しが決まってから
精査するにしても、どれかひとつでも、アウトソースや、
別部署との統合をして欲しかった。
 
それくらい、精査にも、時間が欲しかった。
 
 ※ しかし、「座右のダンテ」のハナシのように考えることも出来たのだが。
   だが、その物質的時間もなかった。それも事実だ。
 
 
それを社長に伝えたところ。
 
「そりゃぁ大変だろうよ、でもわかんないもん」
 
 
一日のうちに何回、コールセンターの電話を取るのか。
 
その時間は一件につき、どれ位のものなのか。処理に時間がかかるのか。
 
一日のうちに何通、お客さんからのメールを受け取るのか。
 
その時間は一件につき、どれ位のものなのか。処理に時間がかかるのか。
 
一週間のうち何時間、商品交換の為の、時間がかかっているのか。
 
それは何件の交換依頼を受けて、その処理時間がかかっているのか。
 
そうに言ってくれないと、「いっぱいいっぱい」って言われてもわからない。
 
ということだ。
 
 
まぁ、わからないわけではない。
 
しかし、精査している間にも、お客様は問い合わせの電話をかけてくる。
メールはボックスに落ちてくる。商品を交換している。
とてもじゃないが、追いつかない。
 
それだけではない。
「はい、株式会社○○○○です」と、代表電話に積極的に出る。
 
来客が来たら出ていって対応する。
 
お茶を出す、なくなったお茶を補充する。
 
 
企画を立てながら、電話が鳴れば「はい、株式会社○○○○です」
 
お客様からのメールを打ちながら、受付からの電話が鳴れば出てゆく。
 
仕様書を書いていても「雨留乃助さん、お茶」で、お茶を出しにいく。
 
トイレから出てきて気がついた、シンクに積まれた、お茶碗やグラス、灰皿を洗う。
 
 
この状況で、自分の業務と、会社共有の業務をどう切り出せ、というのだ。
 
 
直接の上司にあたる人間にも言った。
 
その時は「そりゃそうだ」といったが、社長に話したところ
「そんなの当たり前だろ、っていう対応で」の後、彼は高圧派に変わった。
「自分で業務の精度をあげる努力してんのか」というふうに。
 
閑話休題。
 
 
 
想像力があれば。
 
例えば。
自分のメールもいっぱいくる。
でも、雨留乃助さんのところには、「会社間」ではない「お客様からくる」メールボックスがもうひとつあって、それを「確認」し、「返信」する作業がある。
 
と想像できなくは、ない。
 
 
そうしたら、自分のメールへの返信が遅いのも、少し待ってみようか、
という「理解」が生まれる、と思う。
 
 
 
例えば。
雨留乃助さんが「はい、株式会社○○○○です」と電話に出る。
一時間に20回はでているか。
そうしたら、彼女は一回1分にしたとして、(んなこともないが)
20分は電話に出ているいことになる。
 
彼女も自分たちと、同じような仕事をしている。
 
彼女は自分の作業時間から「20分」、切り出している。
9時30分から、18時30分の就業時間内、2時間40分は電話に取られていることになる。
電話に出ない自分たちより、自分の業務に没頭できるのが2時間40分以上、削られているんだ。
 
と、想像できなくは、ない。
 
 
そうしたら、何も「女の子が電話に出たほうがいい」なんて考えではなく
自分たちに掛かってくることの多い電話なら、自分で出てゆこう、
という「理解」が生まれる、と思う。
 
 
もしくは、その分だけ業務の時間を削られている。
同じ業務量にしたって、彼女のほうが分が悪い。
少し業務の配分を考えよう、という「理解」が生まれる、と思う。
 
 
そういった「想像」の延長と、集積で
人の業務への理解って、出来ないものだろうか。
 
 
自分の業務を、ツリー型に箇条書きにして提示したことはあった。
 
この範囲のことを全てやっております。と。
 
先日の会議でも、自分のやっている仕事の「ひとつの」流れを説明するのに、3時間程を要した。
 
しかし、どの時でも「これを一人でやっているのは、大変だ」の科白はなかった。
 
 
伝える側にも、伝達手段の誤りはあるだろうが、此処まで来るともう、
「理解」という想像力の欠如として諦めざるを得ないのか、と思った。
 
 
確かに、自分も、一緒のプロジェクトに携わる人たちの業務に対し
「想像力」たくましくできたか、というと、今にしても足りないことしきりだと反省する。
 
この失敗は失敗として、真摯に受け止め、次に活かしてゆくことにする。
 
 
でもさ。
 
想像してごらんよ。
 
 
家族が殺されたら、辛いよな。
 
自分の愛する人が殺されたら、堪えられないよな。
 
だから、戦争はよくないよね。
 
って、「想像」できたら、戦争なくならないのかな。
 
 
 
もっと想像力が豊かな世の中になったら、
みんながもっとシアワセな世界になるのかな。
 
そう、思うのでした。