『声』の残し方-いつかの、だれかに… -4ページ目

反移民・反多文化主義。

今日の朝日新聞から。


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移民・イスラムに敵意 ノルウェー、テロ容疑者大量声明


文書(註:1518ページに及ぶ声明文書のこと)で容疑者が敵意をむきだしにするのがイスラムと多文化主義だ。イスラム教徒を移民や難民として大量に送り込み、欧州のキリスト教文明の征服をたくらんでいると警告。多民族・多宗教の共生を目指す考え方や政策を「文化的マルクス主義」と勝手に名付けて批判した。「現代のテンプル騎士団」を自称して宣戦を布告している。


一見、荒唐無稽な主張だが、移民の大量流入が欧州独自のアイデンティティーを損なうとして、「寛容な政策」からの転換を掲げる点では、欧州各国で勢力を広げる右派政党の主張と相通じる。ブレイビク容疑者もかつてノルウェーの右派・進歩党に所属。反イスラムのトーンを弱めるなど穏健路線で、選挙による勢力拡大を目指す右派政党に飽き足らない過激派が増えている可能性がある。


ユダヤ人など少数者社会を攻撃してきたネオナチと違い、こうした右翼過激派が政府や与党を攻撃対象にしたこと、大組織に入らず個人で活動するため動きが把握しにくいことに各国は懸念を深めている。


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特に真新しい主張でもないだろう、という印象。移民を「脅威」と見なすのは、何もノルウェーや欧州だけではないはずだ。それよりも、今回の事件の反動が移民たちにどう影響するのかが、気になる。(「ノルウェー連続テロ、容疑者主張に動揺する移民」 :読売新聞2011年7月27日)


人口の5%が移民だと言われる台湾では、今回の事件が「反移民」「多文化主義」が根っこにあるだけに、今一度自分たちの社会を見なす必要性が提起された。(「挪威屠殺行動 衝擊多元文化社會」:聯合新聞網2011年7月27日) こうした動きは評価されてもいいと思う。


しかし、多文化主義というのは、難しい。例えば、オーストラリアでは、文化的な多様性を尊重します、といっても、エスノセントリズムや社会的不公平を隠蔽している、という主張もある。このような「多文化主義のレトリック」は台湾では、どうだろう?


さて。別の記事 によれば、声明文章中、「理想国は日本・台湾・韓国だ」と書かれていた。台湾でのことは先に書いたけど、日本や韓国ではこの事件をどう受け止めるのだろうか。


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いずれも「多文化主義を完全に否定」し、「自分たちの単一文化の維持、保護に努めている」という解釈だ。欧米から教育や科学、テクノロジー、経済のメカニズムを学びとる一方で「固有の文化だけは譲らない姿勢」と分析、共感を寄せた。


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全くもって正しい!とは言わないが、完全に間違った見方だ!とも言えない(笑)しかし、こうした見方が今でも主流なのかも、とは思う。

あっちの時間。

5時ごろに眼が覚めて、しばらく布団のなかでごろごろするも、寝付けそうにないので、普段より2時間早い6時に起床。


布団のなかで、先日ある人が言っていった「こっちの時間で考えるより、あっちの時間でやらないと…」という言葉が、ふと頭を過ぎる。


沖縄集団自決訴訟、勝訴。その関係者が久しぶりに集まったが、幾人かの人に、結果を報告することができなかった。時間は待ってくれない。「あっちの時間で…」とその人が言ったのは、こうした背景があってのことだった。


それから、布団のなかで、このことが、何回も、反復された。


台風が接近している。雨は降っていないけど、風が強い。


天候のせいでもあるのか、焦燥感に駆られる朝だ。

神戸を歩く-長田区(鷹取コミュニティセンター)。

6月18日、雨のなか、神戸の長田区を訪問。


鷹取コミュニティセンターでは、このセンターやFMわいわい設立の経緯について話を伺い、そのスタジオを見せてもらった。鷹取教会にも入ることが出来た。2009年に南投県のペーパードームを訪れた時 のことが、思い出された。


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鷹取教会との交流の様子が展示され、八八水災の時の支援活動の様子も展示されていた。


この長田区は、震災前はどんな街だったのだろうか。今の長田区の象徴?とも言えそうな「鉄人28号」はもちろんなかっただろう。商店街もきっと私が見た「商店街」とは様子が違ったはずだ。



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これがその「鉄人28号」。


震災後の長田や神戸の「街づくり」について、小田実は、「政・官・財」が癒着した形で進められた、と述べている。


こうした癒着構造は、70年代の「ニュータウン」計画、80年代の人工島「海上都市」建設、90年代には「インターナショナル」計画に、すでに見られたという。特に「インターナショナル」計画の時には、「二十一世紀のハイカラの街」を建設すべく、多くの零細企業が密集する長田を区画整備する話が持ち上がる。この計画に対して反対運動が起こるが、その矢先に震災が発生し、これを千載一遇のチャンスと見たのか、神戸市は一週間を経たずして、「学識経験者」と「土木建築関係者」のチームを組織し「復興」に乗り出す。生き埋めにされた人びとがまだ土中にいる状況において、避難所で毛布一枚で寒さに耐える被災者がいる状況においてもなお、被災者よりも街づくりが優先された。(52-53頁)


今学期、華僑や移民、神戸港、震災、ファッションといったテーマから、歴史的に神戸について考えてきた。だが、小田が指摘するような、震災前後の神戸の「街づくり」を「政・官・財」から見てみると、神戸の街一つ考えるのも複雑で、しかし、いたって単純だ。複雑で単純。だからこそ、見えにくい。

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JR長田駅を出たところにある地図。街が変われば生活スタイルも変わる。「政・官・財」癒着構造が作りだした長田の街は、本当に「笑顔がいっぱい?」。「笑顔」になっているのは、ごく一部の人びとではないのか…?


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長田の街と産業を紹介するパネルがかかっていた。長田は昔から零細企業が密集する地域だった。とくに「ケミカルシューズ」の工場が多かったと聞く。そして、中国やベトナム、在日朝鮮・韓国の人びとが暮らす町でもある。


震災後の主な情報は「日本語」だった。しかし、長田には、先述のように、さまざまな出自と言葉で暮らす人びとが生活をしている。彼・彼女たちは、震災前から、震災後も、情報弱者だった。


鷹取コミュニティセンター内に事務所を構えるFMわいわい は、震災後、ハングルで放送を行ったFMヨボセヨと、ベトナム語の放送をしていたFMユーメンが連携して開局された。その役割は、①情報提供、そして、②「在日外国人」が自身を持て生活できる場を作ることだった。だが、その道のりは決して平坦なものではなく、閉局の危機に立たされたこともあった。


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FMわいわいのスタジオ。実際に中に入ることができた。


自分たちの役割を見失う時期があり、「開局したが時計の針は止まったままだった」。そこで、今一度、自分たちの役割を再確認し、風通しのよいラジオ局を目指し、再建に立ち上がった。


組織の内部に端を発し、それについて話し合い、再建していくことは、人間関係もギクシャクするだろうし、デリケートなことに触れざるを得ない局面もあったろう。それを議論し、再建に繋げていくことは、想像をはるかに超えて、困難なことだったのではないかと思う。


鷹取コミュニティーセンターには、FMわいわいの他にも、様々な組織が事務所を持っている。ここもまた、「政・官・財」とは違った意味で、長田の街づくりを支えてきた。


帰り際、ベトナム料理屋でこの日の感想をして、解散。

被災の思想 難死の思想/小田 実
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神戸を歩く‐神戸ファッション美術館、神戸ゆかりの美術館。

5月29日(日曜日)、神戸ファッション美術館、神戸ゆかりの美術館に行ってきた。その時の感想を少しだけ。


ファッション美術館。


洋服を中心とした展示が気になる。着物やチマチョゴリといった服は、「素材」「構図」といったテーマにのみの展示されていた。歴史を展示する博物館などでよく見られる「進歩史観」を思い出す。展示で使い分けられる木目調のマネキンと白のマネキンをみると、余計そう思えてくる。


神戸ゆかりの美術館。


柔らかい照明にどこかホッとする。まず、目を引かれたのが、長尾和「工事場風景」(1952)だ。赤が多く使われたその絵は力強い。それでいて、ぐっと人を引き寄せる優しさがある。ゆかりの美術館では2010年に「長尾和展」が開かれた。そのテーマは「風土、働く人々への賛歌」だ。一緒に行ったメンバーと解散した後、この時の図録を見せてもらった。長尾が書いたのは、瀬戸内海や九州の漁村、そこの漁民たち、特に女性が多く描かれていた。そこに「賛歌」を送る長尾が描いた絵を、生で見てみたいと思った。


松本宏の企画展は、見たいと思っていた。大学内や駅の構内に企画展のポスターが貼られていたからだ。「リゴレット」(1961)は、不思議な感覚を覚えさせる絵だ。濃淡異なる青と黒を基調に重ね塗りされたキャンパスに書かれたのは、償い切れない過去を後悔するような一人の「王子」に見える。コラージュを用いて描かれたこの「王子」と対照的な描かれ方をしているのが「ひとり」(1960)である。ところどころ濃い青が見えるが、黒を基調としたキャンパスに描かれたのは、細い四肢と四角い胴体を持ち、性別もはっきりとしない、口を大きく開けた「人」(いや、人なのだろうか?)だった。この「人」も、「王子」と同じように、取り戻せない過去を嘆いているように、私には見える。キャプションを見ると、どちらも「松本」本人だという。松本は、何をこの絵で表現したかったのだろう。

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「リゴレット」



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「ひとり」


当日、華僑が描かれた絵を探していたが、見当たらなかった(ある図録で「南京町」を描いた絵は見た)。もちろん、華僑が描かれていればいい、と言いたいのではない。神戸にゆかりのある画家たちが、おそらく、自分の暮らす町で幾度となくその存在を目にし、あるいは、画家たちも知っていたに違いない華僑たちが描かれなかったことは、神戸美術(史)において、何を意味しているのであろうか。絵や写真を見るとき、どう描かれているのか、が重要視される。しかし、華僑と神戸美術(史)の関係性は、この問いかけ以前の、顕現されない領域として、残されている。

神戸を歩く-神戸華僑歴史博物館。

「指紋を取るもとらないも、ここにいるために仕方がないから。」

南京町をあとにして向かった神戸華僑歴史博物館で、華僑の陳さん(仮名)が、昔の外国人登録証の話をしてくれた。

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指紋はちょうど右下に貼られた丸いシールに隠されるように取られた。「黒いインクでこのようにね…」とその時の様子をやって見せてくれた。

華僑の「僑」は、仮住まいをする人、という意味。だから、華僑は、日本に仮住まいをしている身分と見なされ、外国人登録証を常に携帯しなければならず、指紋は2000年まで取られたという(一方、華人は、その国に帰化した人を指す)。

陳さんのお父さんは、1930年代に台北から神戸にやってきた。50年代に神戸で生まれた陳さんは、老華僑に含まれる。老華僑とは、鄧小平の「改革と解放」政策前に日本にやってきた華僑を指し、その後にやってきた華僑は新華僑と呼ぶ。

そんな陳さんが歴史博物館を案内してくれた。時間の関係で展示一つひとつをゆっくり見ることは出来なかったが、クイズ形式で楽しく進む陳さんの説明のおかげで、充実した時間を過ごすことができた。

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歴史博物館内の様子。展示スペースは広くないが、貴重な資料が展示されている。

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孫文直筆の「博愛」の文字。ハワイで医学を勉強した孫文は、キリスト教の博愛精神に強い感銘を受けたという。

歴史博物館のパンフレットに、孫文と神戸華僑の関係について、

「1911年に中国では辛亥革命が起こり、清王朝が倒れ、中華民国臨時政府誕生しました。
 神戸の華僑はこの革命を積極的に支持していました。1914年7月には日本亡命中の孫文らによって東京で中華革命党が結成され、その神戸大阪支部長には華僑の王敬祥が任命されました。」

と書かれている。

辛亥革命が起こると、神戸華僑のなかで革命を支持する気運が高まった。そんな中、中華民国僑商統一聯合会が結成され、その会長を務めたのが王敬祥だった。この聯合会は、義捐金の提供、義勇隊の結成、日本各地の華僑と協力して、全国的な革命支持団体の結成を呼びかけた。

革命後、袁世凱が大統領就任すると、日本政府は袁との関係を重視し、また、宋教仁暗殺事件を契機にした第二革命の失敗などによって、孫文への風当たりは強くなっていった。そんななか結成されたのが中華革命党であり、王はその支部長に任命され、孫文を支持し続けた。(ちなみに、王敬祥は、陳さんの曾祖父にあたる。)

その他にも、神戸中華同文学校の変遷、手書きの教科書、実際に使われていた「三把刀」(包丁、はさみ、かみそり。簡単な言葉で仕事ができることから多くの華僑が料理、洋服の仕立て、理髪に従事した)などが展示されている。

陳さんから貴重な資料もたくさん頂いた。ありがとうございました。そして、台中に住んでいたんです、と話すと、ああ、じゃあ…と見せてくれたのが、これ。

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ああ、こんなところでお目にかかるとは。この時私も勉強会にお邪魔させてもらいました。みなさん、如何お過ごしでしょうか?今年は神戸にいらっしゃいますか…?

神戸を歩く-南京町。

昨日(21日)神戸に行ってきた。

1868年の開港を契機に発展した港湾都市・神戸は、今でも多くの華僑が暮す街であり、1971年までブラジル移民を送り出していた街でもある。六甲山の麓には異人館街もあり、神戸にはさまざまな出自と歴史を持つ人びとが暮す。異国的情緒溢れる街・神戸といわれる由縁である。だが、そんな神戸を支えてきたのが、三菱や川崎の造船所や荷役などをしていた港湾労働者であろう。

華僑も移民も労働者も神戸を生きた。しかし、どんな神戸を生きたのか。それぞれの歴史経験が照らし出す神戸の風景。

とはいっても、自分は、そんな神戸に、地名以上の意味を見出せないでいた。そんな神戸を、自分の足で歩き、自分の目で見て、自分で感じながら、自分に少しでも手繰り寄せたいと思った。

神戸は、海と山の間が狭い。その間に、阪急や阪神、JRなどが東西に走る。阪急三宮駅で下車、JR元町駅まで歩き、そこからほど近い南京町と華僑歴史博物館を目指す。

神戸港が開港されると、西洋人の使用人、召使として中国人が神戸にやってくるようになった。当時、清と日本は国交を結んでおらず、彼らは「無条約国民」として扱われ、外国人居留地ではなく、その西側に、日本人と雑居する形で生活していた。その一角が、現在の南京町になっていく。

そんな南京町の歴史を紐解くと、神戸大空襲と外国人相手の「歓楽街」としての南京街が見えてくる。

1945年、神戸では大規模な空襲があった(神戸大空襲)。神戸市はこの空襲で大きな被害を受けたが、南京町も、一軒を残して、あとは全て焼かれたという。それから間もなくして、日本は敗戦を迎え、神戸港はアメリカに接収される。壊滅状態にあった南京町は、外国人相手の歓楽街として、戦後を歩み始める。

南京町は、空襲による壊滅と、歓楽街としての復興を経て、1980年代に観光地化が進み、今に至る。

今の南京町は、長安門から西安門にかけて、肉まんやゴマ団子、北京ダック、麺などを売るお店が軒を連ねる。だが、横浜中華街に比べると規模は小さく、裏道を歩いてみると、人通りは少なく、閑散としていた。お店を経営する華僑たちは、近くにマンションを借り生活をしていると聞いた。南京町の歴史の変遷が、華僑の生活のあり方をどう変えていったのか、気になるところ。

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元町駅の目の前にある、ブラジル風交番と「From Kobe to the World」と書かれたモニュメント。ブラジル移民の歴史と関係あり。ここから南に進むと右手に長安門が見えてくる。

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その長安門のすぐ脇に設置されていた自動販売機。「可口可楽」(コカ・コーラ)とパンダが目に入った。

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台湾のウーロン茶を売るお店も。

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長安門から少し入った所に中央広場。「加油!東日本!」と書かれた幕も。

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神戸大空襲で唯一残ったという「民生」。一通り神戸を回った後で夕食は「民生」で!と思っていたが、財布と相談した結果、断念。また今度ね。

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で、買ったのが「生煎包」。台湾時代にはあまり買わなかったけれど、なんだか懐かしくなって。

三月に元町駅から神戸駅まで、戦後闇市だった高架下を歩いた。昼間でもシャッターが下りていて、南京町や元町駅付近の賑わいからは想像できないほど静かだったことを思い出した。

意味する側と意味される側の関係。

黄金週(ゴールデンウィーク)に一週間ほど帰省した。東京で、友人の結婚式があったからだ。そのついでに「シュルレアリスム展」と「ヘンリー・ダーガー展」を見に行った。残りの時間は、書類書きに。

ヘンリー・ダーガーという人を初めて知った。掃除の仕事をしながら、小説と挿絵を織り交ぜ、約60年間かけて、自分の世界を作り上げた。それが『非現実の王国』だ。世界一長いと言われるその小説は、1万5千ページ、300枚を超える挿絵で構成され、子供奴隷制を敷く「グランデリニア」王国と、それを打倒しようとする「アビエニラ」との戦争を、書いた。

美術のこと(だけじゃないけど)は全くの門外漢だが、ダーガーの作品は「アウトサイダー・アート」に位置づけられるらしい。outsiderを辞書で引いてみると、よそ者、部外者、(社会の)のけ者、異端者、第三者、とある。どんな時代的コンテクストの背景からそう呼ばれるようになったのかよく分からないが、主流アートに包摂された周辺的アート、という印象を持つ。(その一方で「オルタナティブ・アート」という言葉もあるようだ。主流に包摂されるのではなく、うまく距離を取りながら作り出すもう一つのアート、と暫定的に解釈しておこう。)

とにかく、ダーガーは「これはアートだ」と思って絵を書いていたのではないだろう(私にはそう思えた)。歴史もそうだ。いま自分は歴史を刻んでいる、歴史してる、と思って生活している人は、そういないのではなか。それを、アートだ歴史だ、と解釈するのは、多くの場合、そう意味づける側の人であって、意味づけられる側の人ではない。

かといって、「これはアートだ」と思って創作していても、そう意味づけしてもらえないがゆえに、忘れられていく「アート」もある。

意味する側と意味される側の関係。そんなことを、ダーガー展のことを振り返りながら、考えた。

海を見ながら。

ここ何日か、自分のなかで、いろいろなことがあった。そんなとき、ある人の死を、知った。

在台湾朝鮮人2世にあたるその人は、日本植民地下の台湾で生まれ、そのまま朝鮮半島には帰らず、台湾で育ち、台湾で最期を遂げた。

あまり笑わない人だった。それでも、たまに見せる笑顔が素敵だった。教会の仕事に熱心で、時間があれば植木に水をやり、掃除をしていた。

去年最後に会ったとき、ご飯も一人では食べられない、もう大変だよ、と話していた。一人で教会に行くこともままならなかったが、おんぶされて教会に通い、ミサの間は後ろの席にポツンと一人、静かに座っていた。

雨が降り、風も強く、とても寒い基隆の町を歩いていた時だった。白い息を吐きながらキムチを漬ける夫婦が眼に入った。台湾ではあまり見慣れない光景に、私は思わず声をかけた。今から4年前の2月だった。私の基隆は、この時に始まった。

それから4年後の今年2月、苦しい闘病生活の末、息をひきとった。遺骨は、生まれ育った台湾ではなく、韓国に埋葬されることになった。

生前にちゃんと話が出来なかったことを、今になって後悔する。いつかはいつかは…と、そうやって機会を先延ばしにしてきた。

いつだったか、教会の前の海を見ながら、海の話をしてくれた。立ち話の、短い会話だったが、それがなんだか、とっても印象に残っている。

いつかまた、その海を見に行きたいと思う。

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デモで考えたこと。

「4月16日「原発いらん!関西行動」」に参加してきた。

日本では、初めて、デモに参加した。中ノ島から難波まで行進はした。けれど、シュプレヒコールがどうも苦手で、なんだか自分が「傍観者」のように感じられた。そういう意味で居心地が悪かった。私は声が人より大きい?ので、シュプレヒコールで声が出せれば、と思うんだけど。

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子どもから年配まで、約3500人という、幅広い世代が集まった。これが多いのか少ないのか、よく分からないけど、こんなに人が集まるもんか、と感じた。

デモ行進のとき、私の前を歩く一人の年配女性が、道行く人たちに「原発について考えましょう」と呼びかけていた姿が印象に残る。

「日本では1956年に原子力政策の策定・実施体制(原子力体制)が確立した」(*1)。日本の原発は、半世紀以上の歴史を経て、今に至った。

デモでは、原発のこれから、日本のこれから、をどう考えるのかが強く叫ばれた。しかし、原発のこれまで、日本のこれまでをどう考えるのか、という、重く深い問題とも、同時に向き合っていかなければならないのではないか。

原発の歴史と向き合う、とは、戦後の日本を丸ごと問い直す、ことなのかもしれない。原発と米軍基地は同じ問題だ、と話してくれた高江の運動家の言葉が、脳裏を過ぎる。

$『声』の残し方-いつかの、だれかに…

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アジアの中にあって外にある、日本。戦争責任の問題を含め、これまで棚上げしてきた問題を、棚から下ろしてみる時期を、今迎えているのかもしれない。

事後的今を生きる‐The Shock Doctrine。

2011年3月31日に「原発輸出政策法案」なるものが参議院を通過した。恥ずかしながら、そんな法案が通過していたことを、今日まで私は知らなかったが、驚くなかれ、賛成票が圧倒的に多いのだ。

「投票総数241、賛成票230、反対票11」

日本の政治家たちは一体何を考えているのだろうか、開いた口が塞がらない。しかし、今のこの社会状況において、こんな法案が多くの賛成票を集め通過してしまったのは、なんでだろうか。政治家たちがただ「無能」なだけなのか、それとも…。

『ブランドなんかいらない』で知られるナオミ・クラインさんの著書に『The Shock Doctrine: The Rise of Disaster Capitalism』がある。クラインさんは、シカゴ学派の経済学者ミルトン・フリードマンの「真の変革は、危機状況によってのみ可能となる」という主張を「ショック・ドクトリン」と呼ぶ。

「ケインズ主義に反対して徹底した自由市場主義を主張したシカゴ学派の経済学者ミルトン・フリードマンは、「真の変革は、危機状況によってのみ可能となる」と述べました。この主張をクラインは「ショック・ドクトリン」と呼び現代の最も危険な思想とみなします。」

これは「Democracy Now」からの引用だが、これに続く以下の文章が重要。

「近年の悪名高い人権侵害は、とかく反民主主義的な体制によるサディスト的な残虐行為と見られがちですが、実は民衆を震え上がらせて抵抗力を奪うために綿密に計画されたものであり、進的な市場主義改革を強行するために利用されてきたのだ、とクラインは主張します。」

ここで述べられる「近年の悪名高き人権侵害」とは、「1973年のピノチェト将軍によるチリのクーデター、天安門事件、ソ連崩壊、米国同時多発テロ事件、イラク戦争」だが、「アジアの津波被害、ハリケーン・カトリーナ」といった自然災害も含まれる。自然災害も「急進的な市場主義改革を強行するために利用されてきたのだ」(「Democracy Now」で動画が見られますので、是非ご覧ください)。

今回の311大地震は、特に東北地方の東海岸の地域や人びとに大きな被害をもたらした。しかも、原発という「人災」が拍車をかけている。しかし、こうした状況に乗じて、米軍基地の正当性が主張され、原発輸出政策法案が通過し、(知人から教えてもらったことですが)一時は見送られたはずの埼玉朝鮮人学校への補助金の不支給が決定された。色々なことが連鎖的に起き、決まっていく。そして、これから様々な構造政策が行われるのではないか。

だが、こうした動きを全て地震と関連付けることも出来ない。が、「真の変革は、危機状況によってのみ可能となる」というフリードマンの言葉を思い起こせば、震災後の今の状況のなかで決まっていく政策は、今の日本社会をどこに向かわせようとしているのだろうか、と考えずにはいられない。311以後の日本は、今まさに、どこに舵を切ろうとしているのか。

しかし、私(たち)は事後的にしか今起きていることを把握できない(しにくい)。かといって、未来を予測することもまた、天気予報のようには上手くいかないだろう。

そんな事後的今を、どう生きていくのか、と問われているように思える。

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