神戸を歩く‐神戸ファッション美術館、神戸ゆかりの美術館。 | 『声』の残し方-いつかの、だれかに…

神戸を歩く‐神戸ファッション美術館、神戸ゆかりの美術館。

5月29日(日曜日)、神戸ファッション美術館、神戸ゆかりの美術館に行ってきた。その時の感想を少しだけ。


ファッション美術館。


洋服を中心とした展示が気になる。着物やチマチョゴリといった服は、「素材」「構図」といったテーマにのみの展示されていた。歴史を展示する博物館などでよく見られる「進歩史観」を思い出す。展示で使い分けられる木目調のマネキンと白のマネキンをみると、余計そう思えてくる。


神戸ゆかりの美術館。


柔らかい照明にどこかホッとする。まず、目を引かれたのが、長尾和「工事場風景」(1952)だ。赤が多く使われたその絵は力強い。それでいて、ぐっと人を引き寄せる優しさがある。ゆかりの美術館では2010年に「長尾和展」が開かれた。そのテーマは「風土、働く人々への賛歌」だ。一緒に行ったメンバーと解散した後、この時の図録を見せてもらった。長尾が書いたのは、瀬戸内海や九州の漁村、そこの漁民たち、特に女性が多く描かれていた。そこに「賛歌」を送る長尾が描いた絵を、生で見てみたいと思った。


松本宏の企画展は、見たいと思っていた。大学内や駅の構内に企画展のポスターが貼られていたからだ。「リゴレット」(1961)は、不思議な感覚を覚えさせる絵だ。濃淡異なる青と黒を基調に重ね塗りされたキャンパスに書かれたのは、償い切れない過去を後悔するような一人の「王子」に見える。コラージュを用いて描かれたこの「王子」と対照的な描かれ方をしているのが「ひとり」(1960)である。ところどころ濃い青が見えるが、黒を基調としたキャンパスに描かれたのは、細い四肢と四角い胴体を持ち、性別もはっきりとしない、口を大きく開けた「人」(いや、人なのだろうか?)だった。この「人」も、「王子」と同じように、取り戻せない過去を嘆いているように、私には見える。キャプションを見ると、どちらも「松本」本人だという。松本は、何をこの絵で表現したかったのだろう。

『声』の残し方-いつかの、だれかに…
「リゴレット」



『声』の残し方-いつかの、だれかに…



「ひとり」


当日、華僑が描かれた絵を探していたが、見当たらなかった(ある図録で「南京町」を描いた絵は見た)。もちろん、華僑が描かれていればいい、と言いたいのではない。神戸にゆかりのある画家たちが、おそらく、自分の暮らす町で幾度となくその存在を目にし、あるいは、画家たちも知っていたに違いない華僑たちが描かれなかったことは、神戸美術(史)において、何を意味しているのであろうか。絵や写真を見るとき、どう描かれているのか、が重要視される。しかし、華僑と神戸美術(史)の関係性は、この問いかけ以前の、顕現されない領域として、残されている。