神戸を歩く-南京町。 | 『声』の残し方-いつかの、だれかに…

神戸を歩く-南京町。

昨日(21日)神戸に行ってきた。

1868年の開港を契機に発展した港湾都市・神戸は、今でも多くの華僑が暮す街であり、1971年までブラジル移民を送り出していた街でもある。六甲山の麓には異人館街もあり、神戸にはさまざまな出自と歴史を持つ人びとが暮す。異国的情緒溢れる街・神戸といわれる由縁である。だが、そんな神戸を支えてきたのが、三菱や川崎の造船所や荷役などをしていた港湾労働者であろう。

華僑も移民も労働者も神戸を生きた。しかし、どんな神戸を生きたのか。それぞれの歴史経験が照らし出す神戸の風景。

とはいっても、自分は、そんな神戸に、地名以上の意味を見出せないでいた。そんな神戸を、自分の足で歩き、自分の目で見て、自分で感じながら、自分に少しでも手繰り寄せたいと思った。

神戸は、海と山の間が狭い。その間に、阪急や阪神、JRなどが東西に走る。阪急三宮駅で下車、JR元町駅まで歩き、そこからほど近い南京町と華僑歴史博物館を目指す。

神戸港が開港されると、西洋人の使用人、召使として中国人が神戸にやってくるようになった。当時、清と日本は国交を結んでおらず、彼らは「無条約国民」として扱われ、外国人居留地ではなく、その西側に、日本人と雑居する形で生活していた。その一角が、現在の南京町になっていく。

そんな南京町の歴史を紐解くと、神戸大空襲と外国人相手の「歓楽街」としての南京街が見えてくる。

1945年、神戸では大規模な空襲があった(神戸大空襲)。神戸市はこの空襲で大きな被害を受けたが、南京町も、一軒を残して、あとは全て焼かれたという。それから間もなくして、日本は敗戦を迎え、神戸港はアメリカに接収される。壊滅状態にあった南京町は、外国人相手の歓楽街として、戦後を歩み始める。

南京町は、空襲による壊滅と、歓楽街としての復興を経て、1980年代に観光地化が進み、今に至る。

今の南京町は、長安門から西安門にかけて、肉まんやゴマ団子、北京ダック、麺などを売るお店が軒を連ねる。だが、横浜中華街に比べると規模は小さく、裏道を歩いてみると、人通りは少なく、閑散としていた。お店を経営する華僑たちは、近くにマンションを借り生活をしていると聞いた。南京町の歴史の変遷が、華僑の生活のあり方をどう変えていったのか、気になるところ。

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元町駅の目の前にある、ブラジル風交番と「From Kobe to the World」と書かれたモニュメント。ブラジル移民の歴史と関係あり。ここから南に進むと右手に長安門が見えてくる。

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その長安門のすぐ脇に設置されていた自動販売機。「可口可楽」(コカ・コーラ)とパンダが目に入った。

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台湾のウーロン茶を売るお店も。

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長安門から少し入った所に中央広場。「加油!東日本!」と書かれた幕も。

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神戸大空襲で唯一残ったという「民生」。一通り神戸を回った後で夕食は「民生」で!と思っていたが、財布と相談した結果、断念。また今度ね。

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で、買ったのが「生煎包」。台湾時代にはあまり買わなかったけれど、なんだか懐かしくなって。

三月に元町駅から神戸駅まで、戦後闇市だった高架下を歩いた。昼間でもシャッターが下りていて、南京町や元町駅付近の賑わいからは想像できないほど静かだったことを思い出した。