神戸を歩く-長田区(鷹取コミュニティセンター)。 | 『声』の残し方-いつかの、だれかに…

神戸を歩く-長田区(鷹取コミュニティセンター)。

6月18日、雨のなか、神戸の長田区を訪問。


鷹取コミュニティセンターでは、このセンターやFMわいわい設立の経緯について話を伺い、そのスタジオを見せてもらった。鷹取教会にも入ることが出来た。2009年に南投県のペーパードームを訪れた時 のことが、思い出された。


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鷹取教会との交流の様子が展示され、八八水災の時の支援活動の様子も展示されていた。


この長田区は、震災前はどんな街だったのだろうか。今の長田区の象徴?とも言えそうな「鉄人28号」はもちろんなかっただろう。商店街もきっと私が見た「商店街」とは様子が違ったはずだ。



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これがその「鉄人28号」。


震災後の長田や神戸の「街づくり」について、小田実は、「政・官・財」が癒着した形で進められた、と述べている。


こうした癒着構造は、70年代の「ニュータウン」計画、80年代の人工島「海上都市」建設、90年代には「インターナショナル」計画に、すでに見られたという。特に「インターナショナル」計画の時には、「二十一世紀のハイカラの街」を建設すべく、多くの零細企業が密集する長田を区画整備する話が持ち上がる。この計画に対して反対運動が起こるが、その矢先に震災が発生し、これを千載一遇のチャンスと見たのか、神戸市は一週間を経たずして、「学識経験者」と「土木建築関係者」のチームを組織し「復興」に乗り出す。生き埋めにされた人びとがまだ土中にいる状況において、避難所で毛布一枚で寒さに耐える被災者がいる状況においてもなお、被災者よりも街づくりが優先された。(52-53頁)


今学期、華僑や移民、神戸港、震災、ファッションといったテーマから、歴史的に神戸について考えてきた。だが、小田が指摘するような、震災前後の神戸の「街づくり」を「政・官・財」から見てみると、神戸の街一つ考えるのも複雑で、しかし、いたって単純だ。複雑で単純。だからこそ、見えにくい。

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JR長田駅を出たところにある地図。街が変われば生活スタイルも変わる。「政・官・財」癒着構造が作りだした長田の街は、本当に「笑顔がいっぱい?」。「笑顔」になっているのは、ごく一部の人びとではないのか…?


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長田の街と産業を紹介するパネルがかかっていた。長田は昔から零細企業が密集する地域だった。とくに「ケミカルシューズ」の工場が多かったと聞く。そして、中国やベトナム、在日朝鮮・韓国の人びとが暮らす町でもある。


震災後の主な情報は「日本語」だった。しかし、長田には、先述のように、さまざまな出自と言葉で暮らす人びとが生活をしている。彼・彼女たちは、震災前から、震災後も、情報弱者だった。


鷹取コミュニティセンター内に事務所を構えるFMわいわい は、震災後、ハングルで放送を行ったFMヨボセヨと、ベトナム語の放送をしていたFMユーメンが連携して開局された。その役割は、①情報提供、そして、②「在日外国人」が自身を持て生活できる場を作ることだった。だが、その道のりは決して平坦なものではなく、閉局の危機に立たされたこともあった。


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FMわいわいのスタジオ。実際に中に入ることができた。


自分たちの役割を見失う時期があり、「開局したが時計の針は止まったままだった」。そこで、今一度、自分たちの役割を再確認し、風通しのよいラジオ局を目指し、再建に立ち上がった。


組織の内部に端を発し、それについて話し合い、再建していくことは、人間関係もギクシャクするだろうし、デリケートなことに触れざるを得ない局面もあったろう。それを議論し、再建に繋げていくことは、想像をはるかに超えて、困難なことだったのではないかと思う。


鷹取コミュニティーセンターには、FMわいわいの他にも、様々な組織が事務所を持っている。ここもまた、「政・官・財」とは違った意味で、長田の街づくりを支えてきた。


帰り際、ベトナム料理屋でこの日の感想をして、解散。

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