洋介 様  サンディエゴの異国の地で、母・可奈子と一緒に、お元気でお暮らし
のことと思います。  結婚式の披露宴からの御無沙汰をお許し下さい。  さて、
突然のお手紙で驚かれたことと思いますが、今の私の気持ちをぜひ知っておいていた
だきたいと思い、乱筆乱文ではありますが、この手紙を認(したた)めさせてもらい
ました。  私の出生のこと、  そして身の回りに起こったいろいろな出来事、  
パパ・啓太から聞きました。  正直申しまして、随分と恨んだり、悲しんだりも致
しました。  そんな悶々とした日々の中で、子供の真帆を神様から授かりまし
た。  そして、その真帆も二歳となりました。  二歳、それは私を初めて、そし
て最後に  洋介様に抱き締めていただいた歳だと母から聞きました。  それ以
降、母の願いを聞き入れて、  ずっとお一人だけで暮らしてこられたとも聞いてお
ります。  最近、私の夫・健一が真帆を可愛がる姿を見て、  洋介様の生涯がど
れほど辛いものであったのか、今、私はやっとわかるような気がしております。  
もうなんの恨みもわだかまりもありません。  これからは、お父様と呼ばせて下さ
い。 お父様  今までずっと支えていただいて、本当にありがとうございまし
た。  余談になりますが、  最近、パパ・啓太が、よくお父様の話しを寂しそう
にしております。  だから一度、会いに来てやって下さい。  お願いします。
                    かしこ               
           優香より  そばにいた可奈子。こんな手紙を読み、急に
そわそわし出した洋介を見て、一言呟くのだった。 「愛と苦しみの果てに……、  
男の友情は、やっと本物になりそうだわ。……、良かったわ」          
                おわり
 外は冷たい晩秋の雨。  そんな中を、啓太が傘も差さずに、一人歩いて去って
行くのが見える。そして、その背中を大きく震わせているのがわかる。  多分、男
泣きに泣いているのだろう。  啓太は男として苦渋の決断を下した。  洋介には、
啓太の背中からそれが痛いほどわかるのだ。  こんな出来事があって、それからす
ぐに洋介はサンディエゴへと戻った。そして、またしばらくの月日が流れ、可奈子が
ボストンバック一つ抱えてやってきてくれた。  洋介と可奈子、キラキラと眩しい
陽光のこの町で、二人の人生のやり直しだ。  ただ二人は結婚はしないことにし
た。   それは啓太にも優香にも、大変失礼なことだと思えたからだ。  ただ自由
に、一人の男と一人の女、どこにでもいる普通の恋人同士のように暮らし始めたの
だ。  そんな平和な暮らしの中で、いつの間にかまた三年の歳月が流れてしまっ
た。洋介はもう還暦に手が届きそうな歳にもなった。  そんな平和なある日、娘の
優香から洋介に一通の手紙が送られてきた。洋介への初めての手紙だ。  洋介はそ
れを胸を高鳴らせて読んだ。そして居ても立ってもいられなくなった。  洋介は今
すぐにでも優香に会いたい。そしてそれ以上に、親友・啓太に会いたい。  もう一
度、昔のように二人で飲み明かし、男の友情を暖めたいと思うのだった。  優香か
ら届いた一通の手紙。そこにはこんなことが書かれてあったのだ。
 こんな事実を吐いてしまった啓太、後は晴れ晴れとした表情となり、微動だにせ
ず洋介の前に突っ立っている。 「そうだったのか」  洋介はぽつりと呟くだけだっ
た。  しかし啓太は、さらに「若かった可奈子は洋介にふられたと思い、弾みと当
て付けで、俺と一緒になってしまったんだよ」と。  啓太は大きく息を吸い込ん
だ。 「すべてのことは俺の嘘から始まり、結局俺は、可奈子も優香も、お前から奪
ってしまった」と言葉を絞り出す。そして、その罰を受けるかのように重く告白す
る。 「だから、今日……、可奈子と離婚した」 「離婚?」  洋介は驚いた。 「そ
れで、一人となる可奈子さんはどうするんだよ?」  洋介のこの質問に対し、啓太
は今度はあっさりとしたものだ。 「それは二人で考えてくれ。ただ優香の育ての親
の名誉だけは、残しておいて欲しいのだが」   啓太は昔からそうだった。一旦自
分で決断してしまうと、頑として動かない。洋介はもうこれ以上何も言えなかっ
た。 「俺は、今からピチピチギャルでも探して、出直すよ」  啓太はこんな軽いこ
とまで言って、一人で笑っている。  今日、可奈子と離婚した、啓太はそう告げて
きた。これは啓太と可奈子がそう選択したこと、洋介にはどうすることもできな
い。  しかし、洋介には一つ確認しておきたいことがある。 「我々のこのこと、優
香は知っているのか?」  啓太は、それは当然の質問だと受け取ったようだ。 「優
香はまだ知らない。だけど、新婚旅行から帰ってきたら、俺から今までのすべてのこ
とを話すつもりだよ。心配するな、優香は優しい子だから」 「啓太、ありがとう」
 洋介の口から自然と言葉が出た。  啓太はこれでもうすべての用が済んだよう
だ。「じゃあ、またな」と言い、足早に洋介の前から立ち去って行った。  そし
て、いつの間にか洋介の横には、可奈子が寄り添ってきている。 「洋介さん、ごめ
んなさい、こんな結末になってしまったわ」  可奈子が少し震えているようにも見
える。 「いいんだよ、みんなそれぞれが、何が一番大事かと迷い、選択してきた道
だから」  洋介は穏やかに返した。そして可奈子の震える手を、愛情を込めてそっ
と握る。可奈子はそれに応え、ぎゅっと握り返してくる。
 披露宴は無事に終わり、招待客が三々五々引き上げて行った。  外は冷たい雨
が降ってきたようだ。洋介はそんな雨を眺めながら、ずっと放心したように窓際に立
っている。 「もうすぐ冬がやって来るのかなあ。さあアメリカに帰って、また一人
暮らしに戻ろうか」  そんなことをボソボソと呟いた時に、背後から肩をポンと叩
かれた。 「ヨッ、洋介、今日はありがとう」  啓太が声を掛けてきてくれたの
だ。 「いや、こちらこそ、呼んでもらって嬉しかったよ」  洋介は懐かしさを滲ま
せながら答えた。 「なあ洋介、娘の優香も伴侶を見付けた、そして今日巣立ってし
まった。だから、もう何もかも……、いいことにしないか?」  突然啓太がそんなこ
とを言い出した。 「啓太、俺は……、まことに申し訳なかった。お前にも優香にも、
まだ何も償えていない」  洋介は深々と頭を下げた。 「確かにな、可奈子とは今日
までいろいろ揉めたよ。だけど、お前が優香を我々に託してくれたからこそ、ここま
で来れたんだよ」  啓太はいろいろな出来事を振り返っているようだ。 「だけど俺
は、すべてからずっと逃げてきたことになる」  そんな沈み込んだことを吐く洋
介。それに啓太が心を響かせてくれる。 「洋介、お前は何も行動を起こさずに、
我々の前から消えてしまった。それは男にとって、一番辛い選択だったのかも知れな
いなあ」   洋介はそんな啓太の言葉を噛み締め、胸が熱くなる。  洋介と啓
太、二人が男の会話をするのは久し振りだった。堰を切ったようにそれは続いてい
く。 「洋介なあ、憶えているか、いつぞや二人で居酒屋で飲んだだろう。その時
俺、可奈子と結婚すると明かしただろう」   啓太が突然昔のことを蘇らせる。も
ちろん洋介はしっかりと憶えている。  洋介は可奈子をデートに誘い、プロポーズ
をする予定だった。しかし親友の啓太が、その前に可奈子と結婚すると言った。それ
を聞いて洋介は、親友・啓太のことを思い、可奈子から身を引いてしまった。 「あ
あ、憶えてるよ」  洋介はさらりと答えた。すると啓太が突然に頭を下げる。 「実
はあれ……、嘘だったんだよ」 「嘘って、どういうことなんだよ?」と、洋介は啓太
の顔をのぞき込む。 「あれは、洋介を可奈子から遠ざけるための嘘だったんだよ」
「それで?」と、洋介はよく理解できない。 「その後、洋介は可奈子に声も掛けな
くなった。それで俺は、落ち込んだ可奈子を一所懸命面倒みて……、お前から可奈子を
奪ったんだよ」  後は「すまなかった」と、啓太が深々と頭を下げる。そして頭を
上げ、さらに「俺、知ってたんだよ、お前が可奈子のことが好きだったこと。だから
すべてのことは、俺のあの時の嘘から始まったんだよ」と。
 洋介にとって、優香を抱き上げた時から、可奈子とのあの夜の出来事は確実に過
ちから罪になったのだ。  そして洋介は母親・可奈子の三つの望みを聞き入れた。
しかしそれは結果として、娘を捨ててしまったことになった。  親友・啓太への裏
切り。そしてその後、我が子・優香を放棄。それらの罪に対しての償いは、未だでき
ていない。  洋介は行くべきかどうか迷った。しかし、成長した優香を一目だけで
も。とにかく一目だけでも良いから……、遠くからでも会ってみたい。  そして、も
しできるならば、一言だけで良い。優香に「おめでとう」と声を掛け、祝ってやりた
い。  思案の末に、洋介は決心する。とにかく行ってみようと。  秋も深まる時
節、新郎・健一と新婦・優香の挙式は執り行われた。そして今、その披露宴が開催さ
れようとしている。  洋介は、新婦の父親の友人と言う立場で出席させてもらっ
た。一番端の目立たない席に座らせてもらっている。  新郎新婦入場のアナウンス
とともに、優香が会場に入ってきた。優香が純白のウェディング・ドレスに身を包ん
でいる。  美しい。  洋介はその感動でもう言葉がない。  しかし、ハッとす
る。誰も気付くはずはないが、どことはなく洋介自身の面影を持っている。  その
時点から、洋介は泣けて泣けて涙が止まらない。優香は、可奈子との愛の過ちで出来
た子。しかし、娘は娘。  父として、優香に何一つしてやれなかった。  自責の念
と、優香が幸せになって欲しいと願う気持ちが入り乱れる。そんな複雑な涙が止まら
ない。  キャンドル・サービスで、優香が洋介のテーブルにやってきた。その時
に、洋介は「幸せに」と小声ながら囁いてみた。それを優香は受け止めたのか、「は
い」と頷いてくれた。洋介はとにかく嬉しかった。  優香のために、これから何を
してやれば良いのだろうか?  一所懸命考えてみる。しかし、今日も……いつもと同
じ答えになる。  優香が幸せに生きて行くためには、その邪魔をしないこと。それ
が一番だと、辛いが、あらためてそう思うのだった。
 洋介は日本への出張からアメリカ駐在員の仕事へと戻った。だが今回、啓太には
内緒で、妻の可奈子に会った。そして可奈子は幼子の優香を引き合わせてくれた。
 優香は洋介の子だと言う。それは確かなことだろう。そして、可奈子から三つのこ
とを懇願された。  一つ目は、この件は可奈子に任せて欲しい。  そして二つ目
は、目の前から消えて欲しい。  さらに三つ目は、優香をいただきたいと。  そ
れらは母親として考えた挙げ句の必死のお願いだったのだろう。洋介にはそう思え
た。  しかし、悩んだ。  壮行会の夜、可奈子との間で起こった過ちがこんなこと
になろうとは。もうこれは罪だと思った。  しかし現実には、優香という可愛い自
分の娘がこの世に生を受けた。  洋介は親友・啓太のことを思い、また可奈子のこ
とを考えた。そして、やはり優香のこれからの幸せを優先させ、いろいろと思考を巡
らせた。  今すぐにでも日本へ飛んで行きたい。そして啓太から、可奈子と優香を
奪い去りたい。少なくとも我が子・優香を、自分の手元に置いて育てるべきかと思い
悩む日々が続いた。  だが、できなかった。  現在の何もかもを壊して、果たして
それで優香は幸せになれるのだろうか。やはり母親の可奈子が望むようにすること
が、優香にとっても一番良いことだと思うようになった。  結果、洋介は彼らの目
の前から自分を消すために、会社を辞めた。そして日本を捨て、アメリカで暮らして
行こうと決心した。  また万が一の時に、いつでも優香を引き取れるように、自分
は一生結婚をせず、家族を持たないと誓った。洋介にとって、それらは辛い決断だっ
た。洋介はこのような自らの責めを負ったのだ。  洋介は会社を辞めてからサンデ
ィエゴへと移り住んだ。そして、現地会社に二十三年間勤めてきた。  その間ずっ
と音信不通だった啓太から、娘の結婚披露宴への招待状が届いた。今、洋介はそれを
握り締めている。   そして海岸沿いの歩道を、その戸惑いを冷ますかのようにウ
ォーキングをしている。  二歳の優香を、可奈子に勧められて恐る恐る抱き上げ
た。あれからもうすでに二十三年の春秋が流れ去った。  しかし洋介の身体には、
まだしっかりと我が子の感覚が残っている。幼子(おさなご)の香り、そして肌の感
触と生命の熱さがそこにはあった。
「啓太と二人で、優香を立派に育て上げるから」  可奈子はこんなことまで口に
する。  洋介は下を向いたまま、黙り込んでしまう。こういう洋介の状態を、きっ
と茫然自失というのだろう。  私たち夫婦に、優香をいただきたいの、可奈子は確
かにそう言った。  なぜ俺と育てようと言ってくれないのだ。  戸籍では、行き
掛かり上、親友の長女となってしまっている。  親友の啓太はあの夜の出来事も、
そして優香のことも、未だすべてを知らない。  いろんなことが、洋介の頭の中を
狂ったように過(よ)ぎっていく。洋介は今にも気が遠くなりそうだ。  そんな洋
介を見て、可奈子が気を利かす。 「ねえ洋介さん、お願い。一度優香を抱いてやっ
てくれない」   洋介は話題が変わり、ぱっと目を見開く。しかし、抱いてやって
と請われても、今まで幼児を抱いたことがない。まったく扱い方がわからない。だ
が、可奈子が一所懸命手を貸してくれた。  恐々(こわごわ)だった。しかし、優
香を抱くことができた。  それにしても優香はなぜか機嫌が良い。 「優香」  洋
介は思わず呼んでみた。だが優香は知らんぷりをしている。  しかし、あまりにも
可愛い。  洋介はたまらず頬ずりをする。幼い子の柔らかい香りがする。  肌はつ
るんつるん。その上に、プルンプルンとして柔らかい。  その強い生命力の熱い体
温が伝わってくる。  優香は、憶え立ての言葉なのだろう、「ママ、ママ」と言葉
を発している。  抱けるものならずっと抱きしめていたい。しかし優香をそっと母
親に渡す。  洋介は、その場では何も答が出せなかった。   優香が愛おし過ぎ
る。アメリカへ連れて帰りたい。しかし、それは今できることではない。  洋介は
辛くて、居たたまれなくなってきた。こうして長居ができず、可奈子と優香に別れを
告げた。  しかし、我が子・優香の香りと肌の感触、そして命の温もりだけは、し
っかりと洋介の心と身体に刻み込まれてしまったのだった。
 洋介は悶絶した。しかし、かろうじて「俺の子?」と確認する。それ以外の言葉
が出ない。ただテーブルにあるコーヒーをごくごくと飲み干す。  可奈子はそれに
静かに話す。 「ぜひ、洋介さんには知っておいて欲しかったの。この子はね、あの
時の子なのよ。私も最初わからなかったわ、だけど後で、病院で詳しく調べてもらっ
たら……、洋介さんの娘だったのよ」  そんな会話の間でも、優香は可奈子の膝の上
で無邪気に遊んでいる。洋介はただそれをじっと見つめているしかできなかった。
「優香はね、洋介さんの娘なのよ」と可奈子が断言した。だから、間違いなくそうな
んだろうと洋介は信じた。  さらに可奈子は、まるでこの事態を再確認するかのよ
うに、「この事、まだ啓太は知らないわ。だけど、いずれわかるでしょう」と言う。
  「啓太は……、いずれね」  洋介もその通りだと思い、さらに「啓太には嘘を付け
ないからなあ」とぶつぶつと呟く。  こんな覚悟をしたような返事をしたものの、
洋介にはどうしたら良いものかがわからない。そんな不安そうな洋介に、可奈子は「
心配しないで、洋介さんに迷惑を掛けるつもりはないから」と。  そして心の奥底
に眠る真実を絞り出す。 「だって、優香は……、私が一番好きだった人に抱かれて出
来た子だから、嬉しいのよ」  可奈子にはもう涙はない。いつの間にか、母親とし
ての強い顔になっている。 「洋介さんにとって、とても辛いことだと思うけど、聞
いて欲しいことが、三つあるの、いい?」  可奈子は多分考え尽くした挙げ句に意
を決し、洋介に会いに来たのだろう。その話しぶりに母親の力が感じられる。 「そ
の三つを、話してみて」と洋介は返した。可奈子はそれを受け、洋介の目を見つめ、
しっかりとした口調で語る。 「一つはね、洋介さんはこの件で動かないで欲しい
の。すべて私に任せて」   洋介は「そうかもな」と小さく頷いた。  可奈子は
大きく息を吸い込み、母親の顔で、「二つ目はね、洋介さんは、しばらく私たちの前
から消えて欲しいの」と。  洋介はあまりにも唐突の話しで考えがまとまらな
い。  今、無邪気に遊んでいる優香は、あの夜の過ちで親友の妻との間に出来た
子。洋介は、その要望がそうわからない話しでもないなあとぼんやりと思う。それか
ら洋介は最後まで聞くことが先かと思い、「それで、三つ目は?」と次の言葉を待っ
た。  可奈子は背筋を伸ばし、姿勢を正す。そしておもむろに、「三つ目は、辛い
と思うけど聞いてちょうだいね。戸籍上は、この子は今、啓太の子よ」と。  可奈
子は少し緊張しているのか、息を詰まらせる。洋介は「ゆっくりで、良いよ」となだ
めると、可奈子は「うん」と一つ頷き、非常に重たい言葉を発するのだった。  「
だから、私たち夫婦に……、優香をいただきたいの」   洋介はもう考えが混乱して
しまった。返す言葉が見つからない。
 清々しい秋晴れの昼下がりに、駅前の噴水の前で可奈子と待ち合わをした。  
約束の時間を五分ほど遅れて、可奈子が現れた。歩く姿は以前とまったく変わってい
ない。秋風を背に受け、色付く並木道の向こうから颯爽と歩いてくる。  しかし、
ただ一つだけ以前とは違っていた。  それはベビーカーを押していたのだ。 「お久
し振りです、洋介さん」  可奈子が会釈しながら声を掛けてきた。 「お元気そう
で、何よりです」と洋介は懐かしく、微笑み返した。そして可奈子はすでに予定を組
んでいるかのように誘う。 「ここでは何ですから、近くの静かなお店に行きません
か?」 「いいですよ」  洋介は簡単に答え、可奈子と一緒にパーラーに入った。
 洋介と可奈子、今テーブルに置かれたコーヒーを挟み、向かい合って座ってい
る。  可奈子の膝の上では、幼い女の子が小忙(こぜわ)しく遊んでいる。コー
ヒーの穏やかな香りが立ち込め、二人の緊張が少し和らぐ。  通り一遍の挨拶と会
話を交わし、洋介は訊く。 「娘さん、生まれたんだね、何ていうお名前なの?」  
可奈子はその質問を噛み締めるかのように、一瞬の間を置く。 「優香よ、今二歳な
の……、可愛いでしょ」  そう告げただけで、その後可奈子は黙ってしまった。 「優
香ちゃん、可愛いね、ママそっくりだね」  洋介は場を持たすように、幼い女の子
に話し掛ける。  こんな振る舞いを見ていた可奈子、突然大粒の涙をハラハラと落
とし始めた。洋介はこれには慌てた。 「可奈子さん、大丈夫ですか?」  洋介の
心配を無視し、可奈子はバッグからハンカチを取り出し、涙を拭く。それから洋介を
真正面に見据えて、「洋介さん、まだわからないの」と睨み付けきた。  洋介は「
えっ、何が?」と小首を傾げた。そんなリアクションを見て取って、可奈子は低い声
で、まことに重い言葉を口にしたのだ。 「優香はね、洋介さんの……娘なのよ」
「ああ、好きだったよ。今も、これからも……、ずっと好きだよ」   洋介は親友
の妻に、ついに本心を明かしてしまった。 「そうなの、嬉しいわ。いつか一緒に暮
らしたいわ」   可奈子の熱い涙が洋介の胸を濡らす。  しかし洋介は、このまま
ここに泊まることはできない。可奈子を残し、その過ちから走り逃げるかのように夜
の町へと飛び出した。  いくつものぼんやりとした街灯が点々と青く灯っている。
 そんな青さに溶け込むように、洋介は今、男の涙をポロポロと落しながら歩いてい
る。冷えた夜風が洋介の肩に重くのし掛かるように吹ききて、そして去って行く。
 洋介と可奈子、二人が犯してしまった過ち。辛くも悲しい橋を、二人は渡ってしま
った。 「今も、これからも、ずっと好きだよ」  洋介は本心を親友の妻・可奈子に
伝えてしまった。そして可奈子は洋介の胸の中で涙ながらに答えた。「いつか一緒に
暮らしたいわ」と。  可奈子とのそんな出来事を胸にしまい込み、洋介は駐在員と
して米国へ赴任した。そして歳月は流れ、多忙の中で三年が過ぎ去ってしまった。
 秋風がもう吹き始める。そんな頃に、洋介は出張で日本に戻ってきた。  今回は
いつものトンボ返りではない。骨休みにと少し休暇も取った。  久し振りの日本。
洋介は美味しいものを食べ、ゆったりと過ごしていた。  そんな日の午後、突然可
奈子から電話が掛かってきたのだ。洋介は驚きと懐かしさで、可奈子の声を聞い
た。  あの壮行会の後の可奈子との出来事。あれは魔が差しただけ。そんな過ちの
記憶は、三年の時間の流れの中で徐々に薄れて行っていた。  あれ以来、洋介はも
う可奈子とは会わないでおこうと誓っていた。しかし可奈子はぜひ会って欲しいと訴
える。洋介は休暇でもあり、正直時間は取れる。 「どうしてもと仰られるならば、
お逢いしましょう」  洋介は折れた。