可奈子はこんな過激なことを言い放った。それから身に纏っている服をさっさと
脱ぎ始める。洋介が目をパチクリしてる間に、目の前には妖艶な女体がさらけ出され
てしまったのだ。  可奈子はさらに洋介との一度だけで、啓太をもっと愛せるよう
になると訴えてきた。  洋介も可奈子のことが好きだった。確かに今でも、可奈子
への恋心を引きずっている。  しかし今回、新天地・アメリカへと向かう。洋介も
過去の恋心にケリを付けてしまいたい。  そして今目の前に、透き通るような白い
肌の可奈子の肉体が……。髪から首筋、そして乳房も腰も足も、全部が美しい。  こ
んなことはあってはならないこと。しかし、心の底からか、「一度だけでいいの、私
を抱いて」と可奈子にねだられる。  可奈子は確実に酔っ払っている。しかし、洋
介はそれ以上に酔ってしまっていたのかも知れない。  多分、これは魔が差したと
いうことだろうか。洋介は妖しげで妖艶な女体を目の前にして、異常な興奮を覚え
る。禁断の果実を目の前にして、理性は完全に壊れてしまったのだ。  洋介はベッ
ドの上に転がる妖女に飛び掛かった。そして妖女は、微笑みを持って洋介の身体全部
を受け入れた。  洋介も可奈子も気が狂ったように貪(むさぼ)り燃えた。そし
て、この世の果てにある絶頂の山に、激しい嗚咽とともに……、二人一緒に昇り詰め
た。  その瞬間に、洋介は親友の妻を抱き、可奈子は夫の友人に抱かれ、二人は共
に至福の中で果てて行ったのだ。  しかし、その感動も喜びも束の間だった。  
そこから二人は地獄の底に、瞬く間に突き落とされてしまう。  これは確かに過
(あやま)ちだ。そして今、可奈子は……それはそれは悲しそうにすすり泣いている。
洋介も自責の念で涙が止まらない。  そんな辛くも悲しい橋を、二人は渡ってしま
ったのだ。 「洋介さん、後悔しないで」   可奈子が泣きながら訴える。 「後悔
すれば、私、もっと悲しくなるから」  可奈子は涙顔を洋介の胸に埋める。 「う
ん、後悔しないよ。これで、可奈子がもっと啓太を愛せるなら」  洋介はそう言っ
て、可奈子の涙をそっと拭いてやる。 「私、そうするわ。だから今夜のことは、二
人だけの秘密にしてね」  可奈子は甘えるように指で洋介の身体を突っつく。洋介
はそんな可奈子の長い髪を愛おしく撫でるだけだった。 「そうしよう、今夜のこと
は墓場まで持って行くから」  可奈子はその端正な顔を持ち上げる。そして、その
熱い唇を洋介の頬にぴたりと張り付ける。 「私のこと……、好きだった?」  ねち
っこい眼差しで聞いてくる。
 エリート社員・洋介のアメリカへの門出。壮行会は盛り上がった。  洋介は「
これでしばらく、日本からもオサラバか」としみじみともなり、かなり酒を呷(あお
)った。そして可奈子を見れば、可奈子もなぜか酔っ払ってる。  時間は経過し、
会は盛り上がり中で終了した。   その後、有志で二次会のカラオケへと。そして
すべてがお開きとなったのが、終電車前。 「アメリカで、頑張れよ!」  みんなが
洋介に声を掛け、さあっと引き上げて行った。  最後に残されたのは、洋介と可奈
子だけ。どちらも酔っ払っている。  だが洋介は、可奈子を家まで送り届けると啓
太に約束していた。可奈子の手を強く引っ張って、タクシーへと乗り込んだ。   
洋介はタクシーから降り、酔った可奈子を抱えるようにして家に入った。洋介も足下
がふらついている。  一方可奈子は少し乱れている。可奈子は親友の大事な妻、放
っておけない。  なんとかしてベッドに寝かし付けた。さあ帰ろうかと洋介が部屋
から出ようとした時、可奈子が声を掛けてくる。 「ねっ洋介さん、もうアメリカへ
行ってしまうんだね。もう一生逢えなくなってしまうかも……、だから一つだけ教えて
」 「何を?」  洋介は聞き返した。 「洋介さんは、私のこと……、好きだった?」
 可奈子が寂しそうに見つめてくる。しかし、洋介はこれにどう返事をして良いのか
わからない。親友の妻に、好きだったなんて告白できないし……。 「もういいんじゃ
ない。可奈子さんには啓太がいるから」   洋介は酔っているせいか、少し僻(ひ
が)みっぽく返してしまった。  可奈子と一緒になれなかった無念さが言葉に滲み
出している。洋介は、そんな自分がちょっとまずいかなと思いながらも、可奈子に尋
ねる。 「啓太を、愛してるんだろ?」 「もちろん……、愛したいわよ。だから、ケリ
を付けたいことがあるの」  可奈子はそんなことを言い出した。 「ケリって?」
 洋介は問い返した。可奈子は後は泣き顔となり、「洋介さんよ、私を、洋介さんか
ら解放してちょうだい。そのために一度だけでいいの」と小さく呟く。そして、しば
らくの沈黙の後続ける。 「だから一度だけ……、私を抱いて」
 それから一年が過ぎた。啓太と可奈子の結婚の日取りが決まり、二人の結婚が迫
っていた。   そんな折、可奈子が洋介のそばに寄ってきた。そして寂しいそうに
呟く。 「私、きっと洋介さんに振られてしまったんだね。だから……、待てなかった
の」  それは可奈子の未練のようにも聞こえた。しかし洋介は、それがどういう意
味なのかよくわからなかった。  啓太と可奈子が結婚して、一ヶ月も経たない内に
米国駐在員の欠員が出た。  会社の規定では、独身者に海外赴任の辞令を出すこと
はない。なぜなら、独身者の海外生活は自由奔放となり過ぎて、種々問題が起こり易
い。そのためどうしても妻帯者となる。  その流れで、若くて既婚の啓太が本命と
なった。しかし、啓太夫婦は新婚のの暮らしをスタートさせたばかり。まずは生活を
固めていく必要がある。 「洋介、俺、今回は海外赴任……、パスしたいんだよなあ」
 啓太が昼食時に弱気なことを漏らした。  その点、洋介は独身で身軽。そして可
奈子の件がなぜか心に尾を引いていて、日本を離れたい。だが、会社の規定から外れ
る。 「会社のために貢献したいのです。だから今回の海外勤務、私に行かせて下さ
い」  洋介は部長に願い出た。  確かにそれは会社のために一働きしたいという純
粋な気持ちだった。しかし、親友の生活を守るための懇願でもあったし、日本から逃
れたい気持ちもあったことは事実だ。  幸いにも会社は、洋介の仕事への熱い情熱
としてその願いを聞き入れてくれた。そして特例ではあったが、洋介は米国駐在の辞
令を受け取ったのだった。  洋介が米国へ旅立つ二日前に部内で壮行会が催され
た。残念ながら、親友の啓太は九州へ出張中。 「洋介、仕事の関係で、どうしても
出席できない、スマナイ」  啓太から謝りの電話が入った。 「啓太、構わないよ、
俺らは生涯一蓮托生、今日明日の友じゃないぜ」  二人の友情はこんなことくらい
で揺らぐものではないと信じていた。  しかし、啓太は余程申し訳ないと思ったの
だろう、「俺の代わりに、可奈子を出席させるよ」と言い出した。洋介に断る理由は
ない。 「ああ、ありがとう。可奈子さんを家までちゃんと送り届けるから」  洋介
はそう約束した。
 新しいプロジェクトの立ち上げで、洋介は忙しい日々が続いていた。しかしあと
二週間もすれば、仕事も一段落し、時間にも余裕ができる。  その時になれば、可
奈子をデートに誘ってみようと思っていた。そして、結婚を前提としたまじめなお付
き合いをさせて欲しい、とプロポーズをするつもりだった。  そんなある日、洋介
は気晴らしに一杯でも飲もうかと啓太に誘われた。   会社帰り、遅くから二人は
居酒屋で飲み始めた。そして酔いも回ってきた頃に、啓太は洋介に漏らすのだ。 「
なあ洋介、俺、今度結婚するんだよ」  啓太は真剣そう。そして洋介は、あまりに
も唐突な話しにびっくりした。  しかし、結婚はいずれ二人には起こること、「お
めでとう。そうか、啓太は先に身を固めるのか、まあ幸せになれよ」と祝した。そし
て洋介は興味もあり、「お相手は?」と軽く聞き返した。啓太はぐいとビールを一飲
みし、はっきりと言い切った。 「可奈子だよ」  洋介は啓太の結婚相手が可奈子
と聞き、とにかく驚いた。だが顔には出せない。  一瞬ではあるが、「あれ、可奈
子って? 俺じゃなかったのか?」と訝ったが、啓太は可奈子と結婚すると断言し
た。  もう結婚すると決まっているのならば、親友の啓太を祝福してやらねばなら
ない、洋介は殊勝にそう思った。 「いい人と結婚するんだね。可奈子さんなら啓太
も幸せになれるよ、応援するぜ」  洋介は悔しさを隠し、そう答えてしまった。き
っと縁がなかったのだろう、洋介は可奈子とデートすることも、プロポーズすること
も諦めてしまった。  それ以降、オフィス内でも啓太のことを思いやり、可奈子と
の距離を置くようにした。  時々、可奈子が洋介の所へ話しにくる。しかし、洋介
は本当の気持ちとは裏腹に、軽く会釈するくらいで留めた。  洋介は完全に可奈子
から身を引いたのだった。
 外へ出てみると、そこには南カリフォルニアの明るい陽光が溢れている。その煌
(きら)めきが、洋介の涙目にいきなり射し込み、痛い。   太平洋に面し、気候
温暖なサンディエゴ。美しい港町で、アメリカ人の間でも人気の高い町だ。  いつ
も町全体がキラキラと光り輝いている。そして、国境を越えて入ってくるメキシコ文
化の影響なのだろうか、人々は陽気。人の笑いが絶えることはない。そんな町なの
だ。  しかし、洋介の心はいつも雲っていた。  洋介は、かって日系一流企業の
米国駐在員として、北のケンタッキー州で働いていた。しかし、二十三年前に会社を
辞めた。   その時、気持ちを紛らわすためにも、この明るいサンディエゴに移り
住んだ。それからずっとこの地で、たった一人で暮らしてきた。   そこまでさせ
たもの、それは幼子(おさなご)の優香だった。  洋介はオフィスを飛び出し、眩
しい光を全身に浴びながら、今ふらふらと歩いている。そして思うのだ。 「あの過
ち……、俺はまだ、その罪の償いができていないなあ」と。   当時、洋介も友人の
啓太も若かった。  二人ともエリート社員。厳しい競争社会の中にあったが、それ
でも同期の二人は気が合い、同じ釜の飯を食う親友だった。 「なあ洋介、俺が社長
でお前が重役、これでこの会社を乗っ取ってしまおうぜ」 「バカ言うなよ。俺が社
長、啓太は木っ端、これで行くしかないか」 「ヨッシャー、それでも良い、俺たち
は死ぬも生きるも一蓮托生だ。互いに裏切らないでおこうぞ!」   二人はこんな
会話をしながら、よく飲み明かしたものだ。  しかしある日、そんな二人の前に一
人の女性が現れた。それは中途採用で入社してきた可奈子。端正な目鼻立ちで、理知
な雰囲気。だがそこには冷たさはなく、爽やかな笑顔が魅力的だった。  オフィス
内ではいつも長い髪をポニーテールにまとめ、それを揺らしながらオフィス内を颯爽
(さっそう)と闊歩していた。 「可奈子さん、助けて。ちょっとこれどうしたら良
いの?」  洋介が資料作成に行き詰まる。パソコンのエキスパートの可奈子に聞く
と、パソコンの前に座り、チャカチャカと処理してしまう。 「洋介さん、お酒ばっ
かり飲んでないで、ちょっとはパソの勉強もしなさいよ」  こんな勢いの良い女性
でもあった。 「じゃあ可奈子さんに、特訓……お願いしてみようかなあ」  洋介が軽
くからかう。  「月謝高いわよ。そうね、私、お寿司が好きなんだけど」   可奈
子は反応良く返してきた。  そんな響きの良い可奈子。洋介は徐々に彼女の虜とな
り、思いが募っていく。そして密かに、熱い恋心を寄せるようになってしまったの
だ。
 洋介は今一通の招待状を読み、胸を熱くしている。  それは啓太から突然に送
られてきたもの。  啓太の二十五歳になる娘・優香が結婚すると言う。   だか
ら、その披露宴に出席して欲しいとのこと。  二歳となった幼い優香を、そっと抱
いたのは二十三年前のことだった。  あれから現在に至るまで、啓太夫妻とは音信
不通だった。それは、洋介自らがあらゆる関わりと連絡を絶ってきたからだ。  
今、その長い歳月の流れの後に、一通の招待状が洋介の手元に届いた。洋介はそれを
ぎゅっと握りしめている。   そして、あの過(あやま)ちから始まった愛と苦し
みの日々が走馬燈のように蘇ってくるのだった。  招待状には、ぜひ優香の花嫁姿
を見てやって欲しいと書かれてある。洋介はもう涙が止まらない。 「Yosuke, are
you all right ?  Are you crying, now ?」 (ヨースケ、大丈夫ですか? 今、泣
いているのですか?)  秘書のスザンヌが心配そうに聞いてきた。 「I am OK. 
I should go for a walk.   I will be back soon.」 (大丈夫、ちょっと、散歩に
出掛けてきます、すぐ戻ってくるから)  洋介は秘書にそう伝え、海岸沿いにある
オフィスを飛び出した。
後書きという名のあがき はじめましての方も、何度かご覧頂いてい
る方も。 作者です。 ここまでお付き合いくださいまして、本当にありがとうござ
いました。 これは、投稿サイトで一番最初に投稿しました 「秋良の恋 慎一郎の
愛」の主人公、 慎一郎の兄・政と、ここでは恋人の加奈江の物語です。 「マツリ
カの花」を投稿サイトに掲載した折、 コメントを頂いた読者様より、 聡明な女性と
言って頂いた加奈江を、 そうかな、そーいう女性に見えるのかな、と思ったのが 執
筆のきっかけでした。 時は6月、 スーパー店頭には生らっきょが並び、 勤務先で
ある新宿の大ガード下スペースでは デイケア参加者による書道展が開催されてまし
た。 作品を書いていると、 自分のリアルな生活がどこかに入り込むものなんです
が、 今回は見事に反映されまくりました。 このふたりの物語は本作でおしまいの
はずでした。  次用に、評判が宜しくない彼らの父、  慎の話を上梓する予定
で、すでに書きためてるんですが、  本作にとりかかって中断してます。 です
が、複数の投稿サイトで同時に掲載させて頂いていると その先々でリアクションを
頂戴します。 そこから着想を頂いたり、 ああ、そうなのか、と気づきを頂いた
り。 そんなこんなで、 先に出した2作の埋め草として、 政と加奈江の物語がうま
くかみ合うのでは、と思い、 今回発表したものに若干の軌道修正を加えたら、 もう
少し続きを書いてみたいなと。 ですので、次は、 政と加奈江の勝手にやってろ・
新婚いちゃいちゃ話になります。 ふたりの会話を一旦書き出したら 作者が異様に
はまってしまいましたので、 困ったことに、大変長くなる可能性が出て参りまし
た。 茉莉花さんや慎パパ、 慎の正妻さんのエピソードとか、 慎一郎君との軋轢と
か、 秋良の絡みとか考えちゃったらもう。 終わんないんです。 ですので、完結待
ってるといつ脱稿できるかわかんないので。 1章単位でできあがり次第アップする形
態でいってみようかな、と。 もし、宜しかったら読んでやって下さい。 作者、小
躍りして喜びます。 簡単にキャラクター雑感を書いてみますね。 まず、主人公格
の加奈江さん。 しらっとしてるけど結構大胆。 末っ子の気ままさ全開で生きて
る、 実は親が百貨店の外商を家に呼べるクラスの お嬢様だったりするという女性で
す。 セーラー服を着ていた頃を思い出して、 大層懐かしい思いにひたりました。
一見するとよさげな制服ではありますが、 車ひだを維持するためのプレス作業はひ
たすら面倒。 夏は暑く、冬はすーすーして寒く、 襟カバー(私の学校の制服は襟を
保護するカバーがついてました)を 毎日洗ってつけては面倒でした。 夢十夜で木
の中に仏像が云々は、 当方が高校の時に現国の時間でやらかした実話が元になって
ます。 クラスの中でほぼ全員を向こうに回して 木の中に仏像はいないんだ!と言い
張り、 授業の関係でマイノリティな意見として却下されたわけですが、 その時の現
国の先生は「それも一興だ」と否定はなさらず、 その後何かと気にかけて下さった
おかげで、 国語が、文章書きが好きになったわけで…。 今となっては若気の至りで
懐かしい思い出です。 当時の先生にはホントに感謝したい。 作中のワンシーンを
絵にしましょう、は 夏目漱石ではやってませんけど(これは創作) 源氏物語では描
かされました、若紫の章のワンシーン。 便覧見ながら小柴垣とか描きましたで
す。 シリーズ全編を通して、 一途な女性ってのがどうやらテーマになってまし
て。 彼女も初恋一直線ですが。 政君で良かったのか? 加奈江ちゃん。 という
わけで、次は相方の政君。 口癖は「うん」。 加奈江さんと政君との付き合い
は、 個人的には大変長く、 当方が高校の頃にすでにできあがってるキャラでし
た。 政と書いて「まさ」だと任侠になっちゃうし。 良い読み仮名はないかな、と
探しまして、「つかさ」に落ちつきました。 彼の設定は…ごめん、不遇な人になっ
てます。 親は不仲だし、腹違いの弟はいるし 幼少時の境遇は最悪。 けど、まあ。
カナちゃんがいるからいいってことにしておこう。 書道家という設定ではあります
が、 書の世界はまったく明るくありません。 あまりボロがでないうちに手を引きた
い職種です、 突っ込みはどうかご容赦ください。 ただ、この小説の下書きにあた
る作品を かなーり昔に書いた時にですね、 勤務先に書道を習っている人がいまし
て。 その先生が良い水を求めて都内から郊外・地方へ 転居したという話を聞き及び
ましたので、 芸術家クラスの人だと感性が赴くままに動けるんだ、と ほーっと思っ
たことがありました。 政と加奈江の居住地が奥多摩になったのはこーいったわけで
す。 性格は…過去に公開してる作品では わりと激しいというか、がらっぱちみたい
な 荒っぽい感じにしちゃってますが、 若い頃はそうでもないんだよ、というか。
人に求められる顔を演じられる機転が働くタイプとして書いてます。 そして、書き
進めている内に、 「こいつ、悪くないかも…」と思う自分がいます。 けど、弟は、
女に逃げられそうになって 慌てて奪取にダッシュするわ、投げ飛ばされるわ。 兄は
及び腰の中押し倒されるわ。 しかも弟も兄も、 嫁の姉や母(同一人物)にいじられ
まくって二の句がつけない。 水流添家の女性達にいいようにされて、まあ、 情けな
い尾上家の兄弟です。 しかも父は女にだらしないヘタレ。 が、がんばれ。ともか
く、がんばれ。 加奈江と対になるような形で 政は異性には奥手だけど一途で誠
実。 ここんところに書き手の理想の男性像が入っているなと 読み返して気付かされ
ました。 見てくれは二の次で、 相性も大切ではあるけれど、 お互いに誠実であり
続けられる人とつがいになれるのが一番です。 初志貫徹できて結ばれたその後は…が
次作のテーマ。 基本はハッピーエンドだけれど、 紆余曲折あるけど普通の生活が一
番よ、的な 夫婦話なんて…だれも読みたがらないかなあ。 でも、作者が書きたいの
でこれでいきます。 ここまでの御拝読、ありがとうございました。 少しでも皆様
の時間つぶし以上のものになっていれば幸いです。 そして、 ここまでのお付き合
い、本当にありがとうございました。 また、どこかでお会いできましたら幸いで
す。 次作は、あまりお待たせしないで公開できると思います。 作者 拝
2012年の風景 通称・新宿ガード下には、街角ギャラリーがある。
靖国通り沿いにJR線に沿う形で続くここは、少し前まではただ暗い、薄汚い通路だ
ったのに、壁にガラス張りのショーケースが作られた。 以来、日を空かずに様々な
団体や個人が入れ替わり立ち替わり作品展示をするようになって、様変わりした。
汚らしさがなくなり、明るくなり、テーマごとに人の目を楽しませる草の根ギャラ
リーとなった。通勤時に横目で見ながら通り過ぎる勤め人たちの中には、次は何が展
示されるのかと楽しみにしている者も少なくないと聞く。 そのギャラリーで書道展
が開催されたのは、春をすっ飛ばして夏に近い陽気と雨に見舞われた梅雨真っ盛りの
頃だった。 展示品はどれもこれも高齢者の手で書かれたもので、中には百歳に手が
届こうという参加者もいる。 各々が心に浮かんだひとこと、ふたこと、短文を半紙
の上に書き、綴るっているその一作ごとに、コメントがひとりの筆跡で丹念に書き添
えられていた。 主催しているのは近隣のデイケア団体。人生の先輩達への支援・監
修を行っているのは、書道家の尾上政だ。 彼が福祉施設へ出入りするようになって
もう何年になるのか、中には自分の親より高齢の年長者もいる中に、指導をするとい
うより教えを請うように寄り添っている。 今日もスタッフへ搬入の指示をしなが
ら、目尻に蓄えた皺を隠そうともせず下げまくって一点一点を見つめる目は優しく、
少年のように輝いている。 おや、まあ、と手を止め、彼の後ろでアシストをする、
マネージャー兼助手の妻である加奈江は思う。 この人は、何を見ても、全てが面白
くて素晴らしくてたまらないという目をするのね。 若い頃も好奇心旺盛だったけれ
ど、中年以降、年を重ねるごとに感受性は研ぎ澄まされ、貪欲に飲み込み、吸収し、
学ぼうとする姿勢は止むことがない。 特に、デイケア施設へ出入りするようになっ
て、政は変わった。 最初の頃は気乗りしなさそうだったのに、高校時代の先輩に是
非にと乞われて行った施設へ一日行っただけで彼の態度は一変した。 元から褒め上
手ではあったけれど、生徒たちへ寄せる言葉は、お世辞ではなく心底、真心をこめた
もの。 そして、自宅へ持ち帰り、彼らの書を並べて、うんうん唸り、「良いなあ、
良いだろう? 素晴らしいだろう?」と言う姿はまるで我が子を愛でるようだ。 銀
婚式をとうの昔に迎えた私たち、お互いの顔に刻まれた皺の数だけ、ふたりの間には
積もった歴史がある。 私たちは、川に水が流れていくように、ゆるやかに年月を積
み重ねてきた。 人を見送った、看取った、亡くして初めて、わかった心があっ
た。 川も時には石にぶつかり、皆もがざわめき、流れが別れる時もある。 小さく
はない軋轢も、ふたりの間にはあった。 けれど、人生上での挫折や夫婦の危機とい
ってもいい衝突、小さい息子の死を、ふたりは寄り添い、支え合うことで乗り越え、
ここまで来た。 必要とし、されるだけで、生きている甲斐のある人と出会えた。
それだけで充分ではないか。 「母さん」 夫は、後を振り返らず、言う。 「は
い?」 「今回の展示は、どう思う?」 言わずもがな。 どれも見過ごせない言葉
たちばかりだ。 頼まれて書けるものではない書には、家族や仲間への感謝、決意、
愛が満ちあふれている。 「見る人が皆、勇気をもらえて、幸せになれるものばかり
」 左右を見渡して彼女は言った。 「良い展示会になりそうね」 「うん」 満足
そうに腕組みする夫より、一歩下がったところに加奈江は立つ。 彼は言った、「カ
ナ」と。 彼女は応える、「はい?」と。 ただ、呼んでみただけなのはわかってい
る。 けれど、彼が彼女への呼びかけるのを止めることはない。 存在を愛おしむよ
うに名を呼び、伝えるのだ、自分にはお前が必要だと。 ええ、あなた。 わかって
いるわ。 わたしにもあなたが必要。 だから何度でも呼んで。 何度でも応えるか
ら。 あなたに何があっても、私だけは離れませんから。 あなたは、齢を重ね、
人々との輪を拡げるにつれて、豊かな人間性が備わって、深くなっていくわ。 純な
部分が際立って光って。 そして心は、まっすぐ、どこまでも伸びる。 翼をはため
かせて、重荷をそぎ落とし、高みへと向かう鳥のように。 飛んでいく、どこまで
も。 私も、ついていくわ。 今まで見たことがない風景をたくさん見ましょう、
ふたりで。 あなたのそばにいられて、私も幸せなのですから。 人の往来と車
の絶えない流れ、周りは変わっていくけれど、変わらないふたりがここにいる。 見
ると、後ろ手に、伸ばされる夫の手の平。 彼女は彼の手を握った。 握り返す手の
変わらぬあたたかさをうれしく思いながら。
約束と道標 四年の最終学期ともなると、大概の学生は就職活動や卒論に追われ
る。 「加奈江はいいわね」 と、大学での数少ない友人に言われた。 しみじみと
した口調には、あるいは若干のやっかみも混じっている。加奈江は『永久就職』する
からだ。 それはそうだけど。加奈江は思う。 「けれど、お先はあまり明るくない
のよ」と言うと、「ごちそうさま」と返ってきた。 政は今ではほとんど大学へ出て
こない。彼なりの要領の良さで必要な単位はすでに取得していたからだ。 卒論は書
かず、単位満了での卒業の内定をもらっていると言った。彼なりの『特技』も役に立
ったという。 彼も加奈江もそれなりに成績は良かった。彼らにとって人生の一大イ
ベントで時間を取られることになっても何とか時間は作れた。しかし、加奈江は他の
学生と同様、卒論は免れない。 「芸術学部でもないのに、応接室用に書いた作品の
提出で卒論免除なんてずるいわ」と山ほどの資料に囲まれて加奈江は口を尖らせた。
政は涼しい顔をして、「日頃の人徳」とうそぶいた。 口では「ずるい」と言うけれ
ど、人より早く実社会へ出ている政、加奈江にはよくわかっている。 何も今のうち
に働かなくてもいいのに。創作活動に振り向けたい時間が山ほどあるだろうに。 彼
も生計を立てるためにがんばっているのだから。ふたりの生活のために。 大丈夫、
卒論もこれからも何とかなるわ、と加奈江は思った。 それに、新居は遠く、都心に
ある大学へはかなりの時間を要する。通学する回数が減っても差し支えはない四年生
の身分はありがたかった。 身体のあちこちを刃物で切ったら文字や資料がぽろぽろ
落ちてきそうな頃、結婚式を間近に控えた週末に、加奈江は政の元を訪ねた。彼はす
でに新居へ越してきていて、そこで普通に生活をしていた。 蝉がじわじわと鳴く裏
山からは涼しい風が吹いてくる。 日中は暑いけれど朝夕は過ごしやすいと政は言
う。 ひんやりとした屋内へ一歩足を踏み入れて、加奈江はがっくりと肩を落とし
た。 あーあ、男の人のひとり住まいだわ。 居間には脱ぎっぱなしの服に食器、雑
誌やら日用雑貨が散乱している。 書道用の部屋の整頓された様子と比べると雲泥の
差。 あの整理整頓能力が、なぜ普段の生活で活かされないのかと、苦笑してしまい
たくなるような有様だ。 しかも、訪れた当初はそれなりに片付き、自炊もしている
ようだった政の家事能力は、加奈江が甲斐甲斐しく世話を焼きすぎたのか、それとも
地が出たのか。どんどん落ちている気がしてならない。この前来た時はもう少しマシ
だったのに。 けれど。いいわ。 さあ、お片付け、と居間に入った時、縁側にいた
政が彼女を手招きした。「何?」とほうき片手に聞くと、しっと人差し指を口の前に
立てて庭先を指す。 そこには、何かの足しになればと、前回来た時に彼と庭を耕し
た小さな家庭菜園がある。種を蒔いた辺りを、雀がほじくって、ばたばたと砂浴びし
ていた。 雀! なんてことしてくれるの! 加奈江は、あああーっと声にならない
嘆きを上げる。 政も、「やられたな」と苦笑する。 家庭菜園計画は失敗? いえ
いえ、負けない。けど、相手は雀だ、翼を持つ小鳥だ……。 「次、どうするか考える
わ」 彼女は、うん、と腕組みをした。 幌をかける? ビニールハウスみたいに何
かで覆う? あれこれ考えている彼女を、その腕ごと政の手はとらえて、背後から包
むように抱いた。 初めて、後から抱かれたのはプロポーズを受けた時。 ふわり
と、彼のにおいに包まれて、気づいた。 向き合うより、背中から腕を回された方
が、彼の温かさがよくわかる。 ぴたりと身を寄せ合う、包まれている安らぎが嬉し
かった。 以来、ねだるように、わざとスキを作って、彼の腕が伸ばされるのを待っ
ていた。 政の腕の温もりがうれしくて、加奈江は頬をすり寄せた。 耳元に彼の吐
息がかかると、胸の奥が熱くなる。 そしてふたりは、いつものように、手を、腕
を、足を絡めて床の上で抱き合い、忍び笑いをし、じゃれ合うのだ、恋人同士だから
許されるぬくもりをいつまでも感じていたいから。 18歳の日の誓いを律儀に守る
彼は、「あの頃の自分を恨む!」と言いつつも決して一線を越えようとしない。 だ
から、加奈江も彼に身を任せられる。 「まだ、だめ」と言える。 それ以上を望ん
でこないのがわかっていたから。 髪を、彼の指で撫でられるのが好きだ。服の上か
ら身体を触られるのも。長く戯れるように交わす口付けも。 心のどこかで物足りな
く思いながら……。 今日も、誘われるまま、腕の中に身を預けた。 けれど。少し違
う。 キスをしながら畳敷きの上にふたりで転がった時、膝頭が上がり、スカートか
ら太腿が露わになる。 あ、と彼女は思う。 これは、まずい、と。 スカートが短
すぎたんだわ。 でも、自分から裾を直すことが何故かできない。 誘うつもりはな
いのに、もっと触ってと訴えているようだ。 今日、もし彼に求められたら……私、い
つものように言えるかしら、「今はだめ、約束は守ってね」と。 どうしよう。 彼
の指先が足に触れ、手の平が太腿を被うようになでる。 ぞくりと、かつて感じたこ
とのない感覚が加奈江に訪れる。ぞくぞくするような快感に、彼女は頬を染めた。
もし、この指先が、足の内側に伸びたら。きっと拒めない。 彼の肩に回した手や身
体に力が入っていたのだろう、政は小さく笑い、めくれたスカートを膝頭まで戻して
直した。 そうだ、この人は待つ人だ。 夢十夜に出てくる男のように、あてになら
ない口約束を、会いに来るから百年待って下さいという言葉だけで信じ、貝で穴を掘
り、星の道標を置いて待つ程の。 愚直で不器用で真面目な彼だから、私は愛し
た。 「つかさ、大好き。愛してる」 加奈江は手を伸ばして、彼の首に抱きつい
た。 あなたに会えて、本当に良かった。 夫があなたで。 彼女をあやすように抱
きとめ、政は大きくため息をついた。 「妙な誓いをするのじゃなかったよ」と、い
つものように。 「そうね、本当にね」耳元でささやくのもいつものこと。 「あと
少しだから……。もうちょっとだけ待って」 その時、私はあなたに抱かれる。 あな
たしか知らない私を、あげるから。 「もちろんだとも」 彼は、妻になる女に頬を
寄せ、固く、抱きしめた。