~西へ~(435) 81日目③ 乃木神社(東京都港区赤坂)Ⅰ | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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「野宿でもお腹に肉のつく身哉」

日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
大好きなラーメンを食べ、100名城を中心にした城めぐりや
神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。

     
                    近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら

                        (小さい画像はクリックで拡大します)


近代日本の偉人・東郷平八郎海軍元帥をお祀りする神社「東郷神社」から、
同じく近代日本の偉人・乃木希典陸軍大将を御祭神とします「乃木神社」に。

     

 乃木神社案内記
◆本社
祭神 乃木希典命 大正元年九月十三日明治天皇に殉死
   乃木静子命 同月同日乃木希典命に殉ず
創立 大正十一年十一月一日・昭和二十年五月二十五日繊細にて焼失
   繊細復興完成昭和三十七年九月十三日
◆摂社 正松神社
祭神 玉木文之進正韞(たまき ぶんのしんまさかぬ)命
   乃木希典命の青年時代の恩師
   吉田矩方松陰命
   玉木文之進正韞命の甥にして其の教育を授く有名松下村塾を玉木先生が
   創立し松陰先生が之を継承せられたものである
創立 本社の戦災復興完成の翌昭和三十八年一月二十二日鎮座
 -案内板より



乃木希典陸軍大将をお祀りする神社は、全国に八社ございます。
・ここ、東京都港区赤坂(乃木夫妻が自刃した邸宅の隣地)
・栃木県那須塩原市(日清戦争後に乃木が閑居した別邸の敷地内)
参拝時の拙ブログは→こちら
・京都市伏見区(明治天皇陵の麓)
参拝時の拙ブログは→こちら
・山口県下関市(乃木の郷里)
参拝時の拙ブログは→こちら
・北海道函館市乃木町 
(函館乃木神社として創建、現在は東京の乃木神社の分社)
参拝時の拙ブログは→こちら
・香川縣護國神社ない 乃木神社
参拝時の拙ブログは→こちら
・御傘山神社(北海道室蘭市)ない 乃木神社
参拝時の拙ブログは→こちら
・秩父御嶽神社(埼玉県飯能市)ない 乃木神社
参拝時の拙ブログは→こちら

     
社頭、鳥居前の招魂社系狛犬



 由緒
明治四十五年(一九一二)七月三○日に明治天皇が崩御せられて、御大葬の日と決まった大正元年九月十三日。御霊轜(棺を乗せた車)が宮城を出発する号砲が打たれた午後八時過ぎに、ご祭神と静子夫人は先帝に殉じて自刃を遂げられました。御夫妻の忠誠心に感激した国民はこぞって乃木邸を訪れ、その数は日を追って増していきました。ご祭神の葬儀と同時に幽霊坂と呼ばれていた坂の名前が“乃木坂”と改められることとなりました。時の東京市市長・阪谷芳郎男爵は先頭に立って広く同志を集め、中央乃木会を組織し、乃木邸内の小社に御夫妻の御霊をお祀りしました。また、毎年九月十三日にはその御前に祭儀を斎行するとともに青少年への研修会を開催するなど、御夫妻の精神を永世に伝えようという活動が活発に続けられていきました。大正八年(一九一九)には乃木神社創立の許可が下り、明治神宮創建の後に御造営の事業がおこされ、大正十二年(一九二三)十一月一日に鎮座祭が斎行されました。昭和二十年(一九四五)五月二十五日、未明の空襲により本殿以下社殿をことごとく消失しましたが、戦後全国の崇敬者の熱意により、昭和三十七年(一九六二)九月十三日、ご祭神五十年祭に併せて本殿・幣殿・拝殿が復興されました。
-乃木神社公式Webより


     
玉垣、鳥居前の狛犬


 拝殿と瑞垣



拝礼を終え、宝物殿を拝見しました。


御祭神の石膏像、ご殉死の刀をはじめ、遺言の條々、勲章、漢詩など、
多くの貴重な品々が公開されておりました。その中の一部を載せます。

      
     乃木希典陸軍大将の座像




   
 殉死の際に敷かれていた由多加織の絨毯


 御殉死の朝 乃木邸応接間で写真師の求めに応じて写されたもの


        
           乃木神社 御朱印


  ご祭神(乃木陸軍大将)事績(其の壱)
 少年時のきびしい教育
乃木希典、幼名・無人は、江戸時代末期の嘉永2年(1849年)11月11日に長府藩に三男として生まれます。生まれつき体があまり丈夫ではなく、泣き虫な少年でした。
無人(なきと)という名前は、上の兄2人がすでに若くして亡くなっていたため、強く健康に成長してほしいという願いが込められていました。
妹のキネが風邪で寝ている時枕元にそっとお土産を買ってくるような優しさを持った少年でしたが、父母は体の強い立派な武士に育てようとあえて厳しく無人を鍛えていきました。
無人は父母の厳しい愛の中で成長していきます。

 学問との出会い
15歳で元服し、学問への道を志していた源三(元服した時の名)は、武士になって欲しいという父と意見が合わず、悩みぬいた末に、吉田松陰の叔父にあたる松下村塾の創始者・玉木文之進の下へ出奔しました。
玉木家は乃木家から別れた家柄であり、両家の関係は深いものでしたが、玉木先生は父の許しを得ずに訪れたことを責め、長府から萩まで70km以上の道のりを歩いてきた源三を追い返そうとします。
この時、玉木先生の辰子夫人が引き止めてくれたので何とか玉木家でお世話になることが出来たのです。
しかし、はじめは玉木先生から学問の教えを受けることは出来ず、昼は農作業で汗を流し、夜は辰子夫人に教えを受けるという日々が続きました。根が真面目な性格な源三は1年が過ぎる頃には、ひ弱だった身体が別人のようにたくましく成長し、玉木先生も少しずつ学問を教えてくれるようになりました。

青年将校時代、結婚

 萩の乱

 少佐時代
源三は名を文蔵と改め、学問だけではなく武芸にも優れた青年として、その名を高めていきました。18歳の時に第二次長州征伐で長府藩報国隊として初陣を果たし、左足を負傷しつつも、見事幕府軍を打ち破ります。
明治維新を迎えた明治4年、文蔵は23歳の若さで明治政府の陸軍少佐となり、名前も希典と改めて青年将校の道を歩み始めました。
しかし、明治政府の矢継ぎ早の政策は、地方の古い武士層の不満を高め、各地で反乱が頻発していました。
希典の恩師玉木先生やその養子となった実弟・正誼(まさよし)の住んでいる萩においても反乱が起こり、政府軍を指揮する兄と反乱軍を指導する弟が敵同士となる事態に陥ってしまいました。

 西南戦争・・・軍旗喪失事件
萩の乱での弟の戦死、玉木先生の自決(多くの教え子が乱に参加した責任をとった)を悲しむ間もなく、西南戦争がはじまります。
西南戦争にて連隊を率いていた乃木は、熊本県植木の戦いにおいて混乱の中で明治天皇から賜った軍旗を敵兵に奪われることになってしまいます。
乃木はこの軍旗喪失を軍人としてこの上なく恥じ、処罰を求めましたが不問に処されます。しかし、自らを許せなかった乃木は自害を図ったり、重傷なのにもかかわらず野戦病院から抜け出して戦地に赴くなど、自らを罰するように戦いに向かっていきました。

 静子夫人との結婚
西南戦争の後も軍旗喪失に対して自責の念が絶えず、戦地に赴いては死処を求めているような乃木は、大酒を飲んで豪遊し気を紛らわすという日々を送っていました。
周りの人々は荒れている乃木のことを案じ、「奥さんをもらったら少し落ち着くのでは」と考え、明治11年(1878)薩摩藩士・湯地定之の四女・静子と結婚しました。
希典30歳、静子20歳でした。
翌年、明治12年(1879)に長男・勝典が、14年(1881)に次男・保典が誕生しました。

留学、日清戦争

 ドイツ留学
大佐、少将と昇進した乃木は明治19年(1886)に陸軍制度の研究視察のためドイツ留学を命ぜられます。
ドイツでは任務を果たす傍ら、自国の伝統を大切にする質実な国柄と騎士道精神に触れ、自分の武士道精神をもう一度開眼させるという、今後の人生に大きな影響を与えるきっかけともなりました。
ここに軍旗喪失後の自分の生き方に一つの区切りをつけたのです。
軍の同僚や友人、知人は「さぞや乃木は西欧流のハイカラになって帰ってくるだろう」と思っていましたが、帰国した乃木は、ハイカラどころか、家でも外でもどこに行くにもキリリとした軍服姿で通すほどの合理主義者に変わっていました。
それまでと全く違った生活をする乃木の徹底ぶりは、普段の食事を稗にし、そばをごちそうとするほど無駄を削いだものでした。
乃木は、「日本の軍隊は精神や士気がまだまだ十分なものではなく、部下の模範になるべき幹部将校の心も緩んでいるので、軍人精神を高める努力を進めるべきである」と主張しましたが、近代化を急ぐ軍部の首脳によってこの精神論は退けられ、初めての左遷を味わうことになってしまいました。

 日清戦争出征
一時軍を休職し、栃木県の那須野において農耕生活を営んでいましたが、乃木の意見は少しずつ軍の中にも広がっていき、その理解者の一人に明治天皇がいらっしゃいました。天皇は乃木の人となりをよく見ておられ、深い信頼を寄せられるようになりました。
しばらくして歩兵第一旅団長として復帰した乃木は、明治27年(1894)、勃発した日清戦争へ出征しました。
乃木の率いる部隊は各地で戦勝をおさめ、包囲された部隊を救うなど「名将乃木」の勇名を一段と高め、中将への昇進につながります。

 台湾総督
日清戦争の終結後、新しく日本の領土となった台湾の総督に任命された乃木は一家をあげて台湾へと赴任します。乃木、47歳のことでした。
母・寿子はその2ヵ月後、台湾の地で亡くなることとなります。
乃木は台湾島民の治安維持と民生の安定のために全力を尽くしました。自らが模範となり役人に清廉潔白、質素倹約な生活を求め、日本と台湾の役人が心を一つにして、現地の生活習慣を大切にした徳のある政治を行えるよう目指しました。
しかし、官僚達の反対に阻まれ、明治30年(1897)2月、無念のうちに東京に引き揚げざるをえなかったのでした。
しかし、乃木が徳によって治めようとした姿勢は、後の総督にも影響を与え、台湾の日本人のイメージにつながっていきました。

 辞任、そして善通寺赴任(第11師団師団長)
台湾総督辞任後、乃木は再び軍を離れ、時おり那須の別邸に出掛けては自然相手に晴耕雨読の生活を送っていました。
しかし、明治天皇は乃木中将の様子を心に懸けられ、香川県の善通寺に新設された第11師団の師団長をお任せになりました。
乃木はこの直々の心配りに感激し、来るロシアとの戦争にそなえて、全軍の規範となる師団を作るべく善通寺まで単身で赴任し、兵士と寝食を共にして部隊を見事に作り上げました。

 日露戦争
日清戦争の後、欧米列強によるアジアの植民地化が進んでいました。
大国ロシアは清国東北部に進駐し、朝鮮半島にも勢力を伸ばそうとして来ました。日本はそれを阻止すべく明治37年(1904)、ついにロシアと戦火を交えることとなります。
日露戦争のはじまりでした。
乃木は旅順要塞の攻略のために編成された第三軍の司令官として出陣することになりました。
それより前に長男・勝典、次男・保典も出征していたので、静子夫人に「父子3人が戦争に行くのだから、誰が先に死んでも棺桶が3つ揃うまでは葬式は出さないように」と別れの言葉を残して戦地に赴いたのでした。
長男・勝典(26歳)戦死の報が届いたのは、青葉が茂る5月、出征を目前に控えた広島でした。乃木は日記にただ一言「他言せず」と記し、戦地に急ぎました。
戦地に上陸したその日に乃木は大将に昇進しました。
目指すロシア軍の旅順要塞は、事前の情報の3倍の兵力と火砲を備えた、近代戦至上もっとも堅固なものでした。
3度の総攻撃を行なっても旅順要塞を落とす事ができず、多くの人命を失い、武器弾薬が底をつき、国内では動揺と批判が高まっていきます。
決戦となった203高地の攻撃では、次男・保典(24歳)が戦死しました。それでも乃木率いる第三軍はひるむことなく敵陣を目指し、一進一退が続く激戦の末、翌年1月1日、凍える寒さの中、旅順要塞は遂に陥落しました。
いざ戦いが終わってみると、疲れきった兵士達は両軍入り乱れてお互い国のために尽くした健闘を称え合ったといいます。乃木は昨日まで敵であったロシアのステッセル将軍の元へ十分な葡萄酒や鶏、野菜を届けさせます。共に苛烈な戦闘を戦いぬいた兵士としてロシア兵をも労りました。

 水師営の会見 ~ 乃木大将とステッセル将軍
1月5日、水師営という村にて乃木とステッセル将軍が会見する際、明治天皇は敗軍の将であるステッセル将軍の名誉を重んじるように伝えられ、乃木大将はその心を戴して会見に臨まれました。
世界に発信する写真を撮るべく集まった多くの報道陣に対し、乃木大将は国を挙げて戦ったステッセル将軍の武勇を称える写真1枚の撮影のみを許しました。

  
  中列左より レイス少将、乃木大将、ステッセル中将、伊地知少将(乃木神社公式Webより転載)

ステッセル将軍以下ロシア側の将校は軍装に勲章をつけ帯剣しています。降伏の将は帯剣は決して許されませんが、乃木は先の明治天皇の命をうけてこれを許していたのです。
2人の将軍は近づいて心からの握手をしました。会見の途中ステッセル将軍が2人の息子を失ったことに対して同情すると、乃木は「私の家はサムライの家なので2人の息子も晴れの死に場所を得て喜んでいるはずです。」と静かに笑って答え、ステッセル将軍を「日本の将兵の勇敢なことが今やっとわかりました。閣下のような名将がいればこそです」と驚かせました。会見は終始友好的に進み、最後にステッセル将軍からアラビア産の白馬(後に壽号と命名)が贈られました。
昭和初期の小学校の国語教科書には文部省唱歌「水師営の会見」が載せられていました。これは国文学者・佐々木信綱が直接乃木に確かめてその当時のあり様をうたったものです。

1月13日旅順への入城式が行なわれ、翌14日戦病死者大弔魂祭(慰霊祭)が斎行されました。
乃木司令官が自ら書いた弔辞を涙ながらに読む姿には、ヒゲ面の戦士達も涙を流さずにはおられませんでした。
これには日本語の分からない従軍記者らをも感涙せしめ、弔辞の翻訳が求められました。
その後、乃木率いる第三軍は北上し、3月に陸軍最大の決戦である奉天会戦に参加します。
旅順を陥落させたと恐れられていた第三軍は、クロパトキン将軍率いるロシア軍の執拗な攻撃を受け苦戦を強いられましたが、勇敢に戦い抜き、日本の勝利に貢献しました。
-乃木神社公式Webより





                              つづく






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