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本日二社目に参拝にあがったのは、東郷神社です。

西(裏)参道の鳥居

明治の偉人・東郷平八郎命を祭神としてお祀りする神社は、全国に三社で、
ここ東京都渋谷区と福岡県福津市、埼玉県飯能市にございます。
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東郷神社
御鎮座地 東京都渋谷区神宮前一丁目五番地三号
祭神 東郷平八郎 命
例祭日 五月二十八日
御社殿:神明造り76坪
境内地:8400余坪(27,720㎡)
由緒沿革
東郷平八郎命は弘化4年(1847年)薩摩藩士東郷吉右衛門の四子として鹿児島市加治屋町で生まれ、昭和9年(1934年)5月30日88歳で東京麹町三番町で薨去されました。明治4年(1871年)24歳のときに英国留学7年間海軍士官としての修業をつまれました。以来軍務に精励し同37、8年(1904、5年)の日露戦役に連合艦隊司令長官として艦隊を指揮し、特に同38年5月27、8日の日本海海戦で露国のバルチック艦隊を迎えて旗艦三笠にZ旗を掲げてこれを打ち破り世界海戦史上名高い完全勝利をなし遂げ国難を救ったことは有名であります。大正3年(1914年)東宮御学問所総裁として時の皇太子天皇教育の重大な責任を果され明治、大正、昭和と三朝に至誠一貫臣節を全うされました。その功績に対し元帥海軍大将従一位大勲位功一級侯爵の栄誉が贈られ、高い人格と陰影なきまごころの人として日本だけでなく世界の人々からも「アドミラル大東郷」として尊敬されるようになりました。昭和9年9月財団法人東郷元帥記念会が設立され、全国民崇敬者の協賛により同15年5月(1940年)創建鎮座祭を執行し府社となり、別格官幣社列格寸前の同20年(1945年)5月戦災により一切炎上しました。戦後は仮殿に奉斎。同39年(1964年)の祭神30年祭を目標として同33年5月復興奉賛会の設立となり、全国崇敬者の絶大なる協賛を得て御社殿復興。同39年5月27日御遷座祭を執行し28日竣工。奉祝祭並に30年祭が盛大に斎行されました。同59年(1984年)は祭神の50年祭並に復興20年記念祭に相当するので数年を費して神符授与所、透塀、西参道灯籠4基、北参道鳥居再建、池の改修井戸新さく、旧東郷邸より移築の土蔵の再建等境内整備を進め同59年5月に50年式年例大祭・次いで命日祭・50年墓前祭(於多磨霊園)が厳修されました。平成2年(1990年)には御鎮座50年記念に当り、崇敬者各位の據金によって御鎮座50年記念事業として御社殿改修、神池の整備、社務所・和楽殿の改修・新築、記念出版等を完遂しました。
-案内板より


Z旗について
明治三十八(一九〇五)年五月二十七日、対馬沖で日露戦争勝敗の帰趨が決した日本海海戦が行われました。日露両艦隊がまさに決戦の火ぶたが切ろうとする直前、旗艦「三笠」のマストに揚がったのが「Z」旗一流です。これは受信した聯合艦隊の各艦も旗艦に倣い「Z」旗を揚げました。聯合艦隊は事前に特約信号として「Z」旗の意味を「皇国の興廃この一戦に在り各員一層奮励努力せよ」と示していました。各艦、各員はマストに翻った「Z」旗の下、奮励努力し、海戦は聯合艦隊の一方的勝利に終わり、日露講話条約の締結に結びつきました。この完全なる勝利の願いを込めた史実に基づき、「Z」が用いられるようになり、東郷神社の「勝守」にも用いられています。
-案内板より

神門から眺める拝殿


拝殿前の狛犬

御祭神の東郷平八郎命は、弘化4年(1847)12月22日薩摩藩士東郷吉左衛門の4男として鹿児島市加治屋町でご誕生、昭和9年(1934)5月30日午前7時、88歳で東京都麹町三番町で薨去されました。
御祭神は、幕末19歳で薩摩藩の海軍に入り明治維新前後の海戦に従事、明治4年(1871)24歳の時にイギリスに留学してウースター号等で7年間厳しい訓練に耐え、船乗りとしての知識と技術を修め、海軍魂を培って帰国し立派な日本海軍士官となりました。
以来戦略や国際法の勉強にも励まれ、巡洋艦浪速の艦長としてハワイがアメリカ合衆国に併合された際(1893)や日清戦争中(1894~1895)の難しい国際問題等を処理し東郷の名は世界的に有名になりました。
さらに、日露戦争(1904~1905)では聯合艦隊司令長官として三笠艦上に「皇国の興廃此の一戦に在り、各員一層奮励努力せよ」とのZ旗を掲げ、露国のバルチック艦隊を日本海において撃滅して世界の海戦史上空前絶後の完全な勝利を成し遂げられました。
この大勝は、わが国を国難から救っただけではなく、当時ロシア等大国の植民地政策の圧力下にあった国々に、大きな喜びと希望を与えました。
大正の始めに元帥府に列せられ、大正3年(1914)から7年間東宮御学問所総裁として昭和天皇の御教育の大役を果たし、明治、大正、昭和の三朝に至誠一貫奉仕、国家の重鎮、まごころの人として、日本だけでなく世界の人々からも英雄「大東郷」と尊敬されるようになりました。
昭和9年日本の偉大な世界的英雄が天寿を全うされるや「至誠(まごころ)は神に通じる」とその一生を貫かれた御徳を長く後世に伝えて顕彰するため、神社にお祀りしてほしいとの要望と献金が全国各地から海軍省に届き、この熱意に応えて時の大角海軍大臣は各界の識者にはかり、財団法人東郷元帥記念会を設立、全国民に呼びかけて国民からの浄財によって神社を創建することになりました。
御鎮座地は、明治神宮に近い元鳥取藩主池田侯爵邸を選び、昭和12年9月に地鎮祭、同15年5月27日(日本海海戦で完勝した日・当時海軍記念日)に御鎮座祭が行なわれ、欅と檜素木、神明造檜皮葺の東郷神社が完成しました。
しかし、東郷神社は昭和19年11月27日と同20年5月25日に米機の爆撃を受け、第二回目の被爆で社殿が焼失しました。現在の社殿が完成したのは昭和39年5月で、神明造りを基調とした近代設計、鉄筋コンクリート平屋建てです。
東郷神社では、御祭神が日露戦争を勝利に導くことによって日本を救った歴史を伝えるとともに、常に現代、現世の人々の安寧を願い、数多の御霊をお護りしております。
-東郷神社公式Webより

海の宮(昭和47年創建)境内霊社
御祭神:海軍・海事・水産関係者・祟敬者の諸霊を合祀奉斎


潜水艦殉國の碑
狛犬一対は、表参道(明治通り側)の狛犬一対と共に、かつて築地の海軍大学前にあった有栖川宮威仁親王の銅像を守っていたといいます。


潜水艦殉國の碑々文 潜水艦勇士に捧ぐ
太平洋戦争中 百二十余隻の潜水艦と共に戦歿された一万餘人の乗員諸君 特殊潜航艇及び回天決死隊諸君 また諸公試 演練に殉難された諸君 諸君の遺骨は海底深く沈んで之を回収する途がない しかしそれは国難に赴いた諸君の忠誠が そのまま其戦場に在ることを意味する 民族の急を救うべく戦った犠牲の精神は永久に其処に活きている 残された潜水艦関係の吾等は個人と法人と併せて幾千常に諸君の英霊の坐する海底を見つめている 願わくは日本国民の全部もありし日の諸君の勇姿を奮戦激闘の光景と護国の屍となった戦場を緬想して敬弔の誠を伸ぶると共に 祖国再興の心の糧とすることを祈願して已まない 茲に曽ての戦友潜水艦建造関係者外有志一同相計り小碑を東郷神社の霊域に建立して諸君不滅の忠魂に捧ぐ
昭和三十三年五月二十五日


海軍特年兵之碑
香淳皇后御歌(表側の碑文)
やすらかに ねむれとぞ思ふ 君のためいのちささげ志 ますらをのとも

海軍特年兵(裏側の碑文)
あゝ14才 大日本帝国海軍史上 最年少の勇士である 少年兵より更に2才も若く しかも特例に基ずいたものであったため特別年少兵 特例年令兵の名があり 特年兵と略称された 昭和16年 帝国海軍はその基幹となるべき中堅幹部の養成を目的にこれを創設した 太平洋戦争の時局下に純真無垢の児童らが一途な愛国心に燃えて祖国の急に馳せ参じた その数は17年の1期生3千2百名をはじめ 2期生4千名 3、4期生各5千名 終戦の20年まで約1万7千2百名におよんだ 横須賀 呉 佐世保 舞鶴の四鎮守府に配属されて活躍した 戦場での健気な勇戦奮闘ぶりは 昭和の白虎隊と評価された だが反面幼いだけに犠牲者も多く 5千余名が 南溟に或は北辺の海に短い生命を散らした しかし特年兵の存在は戦後歴史から忘れられていたため 長い間 幻の白虎隊という数奇な運命をたどっていた このままでは幼くして散った還らぬ友が余りにも可哀想であり その救国の赤誠と犠牲的精神は日本国民の心に永遠に留め讃えねばならない 英霊の声に呼び覚まされたかの如く 25回目の終戦記念日を迎えた45年 俄に特年兵戦没者慰霊碑建立運動が高まった 戦火は消えて 26年の長い歳月の後に 多くの人たちのご協力によって碑が こゝ東郷神社の聖域に建立されるに至った そして幻の特年兵はようやく蘇った そのうえ 特年兵たちが国の母と崇めた皇后陛下の御歌を碑に賜わり 母と子の対面の象徴として表わしこゝに刻む 除幕式には 特年兵ともゆかりの深い高松宮両殿下の御台臨を仰ぐ栄誉に浴した また 全国の生存者が亡き友の冥福を祈るため それぞれ各県の石47個を持ち寄り碑の礎に散りばめた 吾々は 今は還らぬ幼い戦友の霊を慰め 永遠に安らぎ鎮まらむことを願うと共に 特年兵を顕彰し その真心と功績を後世に伝え祖国繁栄世界平和を祈願しながら尽力することをこゝに誓う


表参道(明治通り側)の狛犬


東郷神社 御朱印
つづく
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