~西へ~(436) 81日目④ 乃木神社(東京都港区赤坂)Ⅱ(乃木夫妻邸宅跡) | どちて坊やが隠居をしたら~日本国でも毎日が徒然~

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「野宿でもお腹に肉のつく身哉」

日本一周・全県に足跡を目標に、車中泊やキャンプをしながら、
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神社仏閣に参拝し御朱印を頂く、旅の絵(写真)日記です。

     
                    近畿・四国・九州・山陰 編 ~西へ~(1)1日目①は、→こちら

                        (小さい画像はクリックで拡大します)


乃木神社にて感謝の参拝をし、隣接する「舊(旧)乃木邸」を見学します。



門を入ると正面に母屋(本館)左手に御供侍所、右手に馬小屋がございます。


 御供侍所

      

 御供侍所ないの説明板
 乃木将軍はいうまでもなく日清日露の両役に武功輝き又高風正接徳望高き人格者として一世の崇敬を受けた。陸軍大将従二位勲一等功一級伯爵に叙せられ晩年明治天皇の思召によって学習院長に任ぜられ専ら華胄(名門、貴族のこと)子弟の薫育に蓋したが大正元年9月13日明治天皇御大葬の当日64才を一期として殉死し静子夫人も共に自刃した。
 将軍の殉死せらるるや遺言して自邸を東京市に寄附せられた。時の東京市長男爵阪谷芳郎は中央乃木会を設立してその旧邸を保存し、また隣接に乃木神社も建立した。
 将軍は嘉永2年11月11日麻布日ヶ窪の長府藩主毛利候邸に於て生れ「少年乃木無人所載年譜」安政5年11月将軍10才の砌り一家と共に長門国長府に移った。幼名を無人とよび慶応2年6月18才の折文蔵と改名した。
 明治2年11月21才の時藩命により佛式練兵教習のため伏見御親兵営に入隊しその後京都市河東練兵場御親兵練武掛を命ぜられ又豊浦藩陸軍練兵教官として鎮台兵の教育に盡したが明治4年11月23才の時に陸軍少佐に任ぜられ名を希典と改めた。
 明治8年27才の時熊本鎮台歩兵第14連隊長心得となり同10年には西南の役に従軍4月22日中佐に任ぜられた。
 将軍の父希次は、同年10月東京に於て病没した。
 翌年11年1月26日熊本鎮台参謀を免ぜられて歩兵第1連隊長となり、8月27日薩摩藩士湯地定之の四女静子と結婚したが夫人は時に20才であった。当時将軍は、芝桜川町に住んでいた。「山路愛山著乃木将軍」翌明治12年8月28日長男勝典が生れ11月に新坂町55番地に初めて邸宅を設けたのである。同13年4月大佐に進み翌14年12月次男保典が出生した。
 その後ドイツ留学、日清、日露両役に従軍、英国皇帝の戴冠式参列等の事があり、その間、那須別邸に自適されたこともあったが本邸は依然として此地に在り、明治12年以来34年間に及んだ。本邸は、素朴高潔であった。将軍の日常を偲ぶのに最も良き記念物である。
因みに長男勝典中尉は、明治37年南山総攻撃に於て戦死し、次男保典中尉は、同年11月30日歪頭山に於て戦死した。時に長男26才、次男は、24才であった。大将夫妻、及び両息子の墓はともに青山墓地にある。
-案内板より


 愛馬の由来
正馬壽号は「ステッセル」将軍の愛用した「アラビヤ」産の牝馬で、明治38年(1905)1月5日出師営会見の際に乃木大将に贈らんとしたが、大将はその志を謝し直ちにこれを受け取ることは軍規の許さない事なので後日約してこれを「壽」号と名づけて戦役中乗用し凱旋後払い下げを受け自分の馬として愛用した。
 大将は壽号を明治39年(1906)末に種馬として鳥取県赤崎町佐伯友文氏に贈られた。後大正4年(1915)5月同氏により島根県隠岐島村上寿夫氏に贈られ海士村渡辺淳三氏方で飼育中、大正8年(1919)5月27日に終命した。馬齢23歳でその仔馬は20余頭に及んでいる。副馬「璞」号は去勢馬で仔馬なし。 
-案内板より



 馬小屋



馬小屋は、平屋建、日本瓦葺で、邸宅が新築された以前、明治22年(1889)に建てられました。間口約12.5m、奥行約4.5mの細長い建物には、4つに区画された馬房や、馬糧庫等があります。住居が木造であるのに対し、馬小屋が煉瓦造で立派だ。という評判のあったもので、馬をかわいがり大切にした大将の人柄が偲ばれます。
-案内板より



 乃木邸(正面玄関側)

     

旧乃木邸は、日清・日露の両戦役に従事し、明治天皇崩御と共に殉死された陸軍大将乃木希典の邸宅です。この邸宅は、フランス軍隊の建物を模して自ら設計したものと言われており、明治35年(1902年)に新築されたものです。
本館は、木造の日本瓦葺で、正面玄関から見ると全体が二階建てに見えますが、傾斜した地形を巧みに利用され、実際は半地下も含め三階建ての構造となっています。
総面積が168平方メートルの建物です。
半地下には 台所・茶の間・納戸・書生部屋・女中部屋があり、1階には 応接室・客室・次室・来賓室・大将居室・婦人居室があります。屋根裏には2人の令息の居室と物置・書庫が造られています。 
旧乃木邸と馬小屋は 大正元年( 1912 )9月13日 乃木夫妻殉死後、遺言で東京市に寄附され、現在は港区が管理しています。
又夫妻の命日に合わせて 毎年9月12日・13日に邸内を一般公開しています。
-案内板より


     

 乃木邸の由来
乃木邸は明治12年に買い求め、明治35年に改築されたものです。
(此の建物は明治19年にドイツ留学中、フランスの陸軍訪問の折にスケッチした聯隊本部を参考に建てられています。)
-案内板より




 旧乃木邸の煙突 
この煙突は、実際に旧乃木邸の屋根に設置されていた煙突の実物です。
平成23年の東日本大震災の影響により被災したため、撤去しました。
現在、旧乃木邸の屋根にある煙突は、レプリカです。
-案内板より




      

 乃木大将と辻占売少年像
今に伝えられる「乃木大将と辻占売りの少年」の話は、明治24年(1891)、乃木希典が陸軍少将の時代、用務で金沢を訪れた折りのことです。希典は金沢で偶然、当時8歳の今越清三郎少年に出会います。今越少年は、辻占売りを営みながら一家の生計を支えていました。この姿に感銘を受けた希典は、少年を励まし、金弐円を手渡しました。今越少年はこの恩を忘れることなく、努力を重ね、金箔業の世界では大きな実績を積み上げました。
この銅像は、こうした乃木希典の人となりを伝えるものとして、昭和43年(1968)に旧ニッカ池(六本木六丁目)の縁に造立されましたが、このたび旧ニッカ池周辺が整備されることとなり、希典所縁のこの地に移建されました。
-案内板より




 東京都港区指定文化財 有形文化財 旧乃木邸及び馬小屋
旧乃木邸は、明治35年(1902)に新築されたもので、乃木希典大将夫妻が大正元年(1912)9月13日、明治天皇御大葬の日、明治天皇に従って殉死するまでここに住んでいた。将軍が、ドイツ留学中に見たフランス軍隊の建物を模範にして建てたというもので、明治期の洋風建築が接客を目的とする豪華な建物か、和風住宅に洋風の応接室を付属させたものが多いのに比べこの邸宅は、軍人の家らしく、飾り気がなく簡素で合理的に作られている。建坪は168㎡、木造平家建、日本瓦葺で、傾斜地を巧みに利用し、建物全体に半地下構造をもつ。
馬小屋は、平家建、日本瓦葺で、邸宅が新築される以前、明治22年(1889)に建てられた。間口約12.5m、奥行約4.5mの細長い建物には、4つに区画された馬房や、馬糧庫等がある。住居が木造であるのに対し、馬小屋が煉瓦造で立派だ、という評判があったもので、馬をかわいがり大切にした大将の人柄が偲ばれる。
   昭和62年10月28日 東京都港区教育委員会
-案内板より




公開日ではなかったので残念ながら邸宅の内部は見学できませんでした。


 乃木邸裏門(乃木神社側)


  ご祭神(乃木陸軍大将)事績(其の弐)

日露戦争 

 戦後
日本国民は乃木を「英雄」「凱旋将軍」として迎えました。
出迎えた人々の多くは旅順や奉天の戦いで肉親を失っていましたが、日露戦争が終わってから旅順と奉天の戦いがいかに困難なものであったかを皆知っていました。
また、2人の息子を失った乃木に対しての思いもありました。
しかし、乃木自身は多くの部下を戦死させてしまったという自責の念に満ちていました。
乃木は明治天皇の御前にて復命書を奉読した後、涙を流しながら「自分が至らず陛下の忠良なる将校、兵士に多くの死傷者を出してしまった。この上はただ割腹して陛下に謝罪したい」と言って退出しようとしました。
これに対して明治天皇は「乃木のつらい気持ちは理解したが、いまは死ぬべきときではない。どうしても死のうというのならば私が世を去ったのちにせよ」と言う意味の御沙汰で乃木を引きとめたといいます。

 全国へ行脚
乃木は一人黙々と全国の遺族と傷病兵のお見舞いに回りました。
忠魂碑や戦没者の墓碑銘を依頼されると自らの責任として進んでしたため、傷病者のための病院を自費で造ったり、自ら“乃木式義手”を考案・改良にも取り掛かっています。
その他、国からの恩賞金で金時計を作り部下の将校一人ひとりを労って手渡したり、下士官や兵士に見舞い金を分配もしました。
ことに巣鴨にあった廃兵院(戦争によって負傷、障害を持った人を収容した施設)には毎月1、2度は訪れ、各部屋ごと一人一人を見舞い、いつも何か手土産を絶やしませんでした。
皇室からの御下賜品などをいただいたら真っ先に廃兵院に届けました。
廃兵達はこの乃木の厚い情に感涙し、来院を心待ちにしていたといいます。

 学習院長
明治天皇は息子二人を亡くした乃木の心を察し、
「乃木も2人の息子を亡くして寂しかろうから沢山の子供を預けよう」と、明治40年(1907)に学習院長をお任せになりました。
この時乃木、59歳。
乃木院長は将来この国を背負っていく子供たちが、贅沢や我儘をしている風潮を心配されている明治天皇の御心をよく理解し、質実剛健(しつじつごうけん)をモットーとした体当たりの教育を行いました。
乃木院長時代には昭和天皇をはじめ多くの皇族の方々が在学されていました。
殊に幼い昭和天皇は乃木のことを「院長閣下」と呼び敬愛されていたといいます。

 院長としての日々
乃木院長の一日は生徒や職員と共に、朝は生徒よりも早く4時半頃に起床、塩で歯を磨き、顔、手足、体を洗う。
軍人としての心掛けから、余分な水は決して使わない。それが済むと、寄宿舎6寮の巡視。雨が降っても雪が降っても一日も欠かすことがない。初夏から晩秋には、それに草刈が加わる。
終わって自室に戻り読書(音読)。
午前7時に生徒と共に朝食。親しく声を掛け、姿勢の悪い者には注意を与える。
7時半登校、8時の授業開始後は公務のかたわら各教室を巡視。一教室につき、始めから終わりまでの約1時間、後ろに厳然と立って授業を傍聴し、生徒の勉強ぶりを観察する。
昼食は職員と共に職員食堂でとる。午後には武課、体操が行われ、運動場に立って生徒を注視する。
放課後には剣道が行われ、これは何よりも楽しみとして自ら生徒に稽古をつける。
5時に生徒と共に夕食。6時から10時までの生徒の自習時間に自室で読書(音読)。10時の消灯ラッパと共に生徒と同じく床に就く。
以上が乃木学習院長の一日の生活です。

乃木は、明治40年から大正元年までの5年間半、学習院院長を務めました。
その間、教育者として実践躬行の範を示し続けられたのです。院長就任の翌明治41年秋、東京の目白に新校舎が建てられ、乃木は、立派な院長官舎には入らず、中等科・高等科の全生徒と共に寄宿舎に入り、彼らと起居を共にしました。
酒豪かつ愛煙家であった院長は、一日の務めを終えてから自室で軽く一杯やっても構わないのですが、寮生活中は自制して禁酒禁煙を守り続けました。
院長が教室で直接生徒を指導することはほとんどないからこそ、寮に住み込み、生徒に接する時間をできる限り多くして、顔と氏名を一人残らず覚えるのみならず、一人ひとりの性格や気質を知ることにもつとめました。
また、剣道、水泳合宿、遠足等いつも生徒と行動を共にしました。
四谷には初等科、赤坂には女子部があって、週に何度かそちらに出向いて公務を統率し、赤坂の自宅に帰るのは月に1、2度。
この生活が殉死の時まで続いたのです。
乃木のこうした日常が、年少多感な生徒に多大な感化を及ぼさずにはおきません。
学習院の生徒は当時、華族の子弟が大半でしたから、贅沢に甘やかされて育った者が少なくありませんでした。
寮生活を不自由・不便に思う者もいましたが、明治天皇の信任も厚い天下の老名将が生徒と同じ生活をしているので、不平不満を言い様もなく、在任1ヶ月もたたないうちに生徒は乃木院長を慈父のように慕い敬い、皆「うちのおやじ」といい合うようになりました。
乃木は、郷里の友人に宛てた手紙の中でこう詠んでいます。
“寄宿舎で 楽しきことを数ふれば 撃剣 音読 朝飯の味”

殉死

 明治天皇崩御
明治天皇が重い病気であると発表されたのは明治45年(1912)7月。国民は毎日のように皇居の前に足を運び、早く元気になられるように祈りました。乃木は1時間ほどお祈りをしてから、天皇のおそばに仕える侍従武官にその日の御容体を詳しく聞いて帰る日々を送ります。
たびたびお見舞いに来るので、天皇はその足音を聞かれただけで「また乃木が来た」とおわかりになるほどでした。国民の祈りも空しく天皇のご病気は快復に向かわず、7月30日61歳で崩御されました。
明治天皇を心の支えとして生きてきた乃木の悲しみは、計り知れないものでした。

 殉死
大正元年(1912)9月13日、この日は国民が明治天皇と最後のお別れをする御大葬の日です。
午前8時、乃木と静子夫人は自宅にて写真を撮り、午前9時宮中に参内。
午後は自宅で地方から来た多くの客と過ごしました。
また昭和天皇に対して、山鹿素行の『中朝事実』と三宅観瀾の『中興鑑言』を渡し、熟読するよう伝えました。乃木がいつもと違うことを感じられた昭和天皇は「閣下はどこかへ行かれるのですか」と聞かれたといいます。
そして午後8時、桜田門外の近衛砲兵隊の弔砲を合図に寺の鐘が一斉に鳴り響きました。
この時、乃木御夫妻は明治天皇の跡を追ったのです。乃木64歳、静子夫人54歳でした。
御夫妻が亡くなった2階の部屋のテーブルには9月12日付で、乃木が次の人々に宛てた遺言書が置かれていました。
湯地定基(静子夫人の兄)殿、大館集作(乃木の末弟)殿、玉木正之(乃木の次弟・正誼の子)殿、そして「静子どの」・・・。

 お別れ
9月18日、乃木夫妻の葬儀は、約20万の人々が見守る中で行われました。
日露戦争後、戦勝気分に浮かれ、白樺派や大正浪漫が芽生えるなど明治から大正へと時代が切り替わっていく中で、乃木が若い頃に軍旗を奪われた負い目を30数年間背負い続けこのような最期を遂げられた事は、多くの国民の心に強い感情を起こしたのでした。

乃木の殉死に対して海外のメディアも驚きと敬意をもって報道しました。
アメリカ・イギリスでは新聞で次のように書いています。
「…我が同盟国日本がその偉大さを負っている精神が、依然として生き続けていることの驚嘆すべきしるしである。…西欧世界は、仮にその意味を残りなく汲み尽せぬまでも、静かに頭を垂れて敬意を表さねばならない。故乃木伯爵のような人々が明治の時代をつくったのであり、この時代は、乃木伯爵がその身を献じた大帝(明治天皇)の崩御とともに、名実ともに過ぎ去ったのかもしれないのである。…」
乃木家には戦死した長男、次男の他に長女、三男がいましたが、その二人ともが幼くして夭折しており、長男・次男の戦死後は跡取りがいませんでした。遺言書にて乃木は、軍旗喪失の折りに明治天皇がお許し下さったことを最初にあげ、乃木家は自らの代で終わらせる旨を記していました。
水師営の会見の際、乃木の副官である兼松が記念に持ち帰った棗(なつめ)は、帰国後乃木邸に植えられました。
棗(なつめ)は株分けされ、春には全国で花を咲かせています。
乃木邸の棗(なつめ)の樹は3代目となり、今も庭に青々とした葉を茂らせています。
-乃木神社公式Webより





                              つづく






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